2012年09月17日 (月) | Edit |
NHKスペシャルで放送された「シリーズ東日本大震災 追跡 復興予算 19兆円」について、ネット界隈ではいろいろな反響があるようでして、「諸悪の根源は官僚」とか「官僚というエリートが日本を食いつぶしていく」という常套句があちらこちらで見られるようです。

↓この件のTogetterはこちら
NHK 追跡 復興予算19兆円 2012年9月9日 視聴メモ - Togetter

霞ヶ関内部のいろいろな事情をご存じない方からすれば、「なんでこうなるんだ?」→「官僚が好き勝手してるからだ!」→「官僚師ね」ということになるのですが、言うまでもなく国会で政策を決めるのは国会議員の方々ですし、議院内閣制の下で内閣総理大臣とともに内閣を構成する国務大臣かつ行政大臣の下で各省の官僚が策定したものが政策となるわけですから、「官僚師ね」ということであれば「与党の国会議員師ね」も同時に言わないと矛盾します。まあ、政治家を批判すれば、その政治家を選挙で選んだ有権者の方々ブーメランが返ってくるわけですから、おいそれとそんな批判をする有権者の方はそれほどいませんけれども。

まあ、もちろんこれは制度上の建前を述べたに過ぎませんので、実際に霞ヶ関内部で起きているいろいろな事情というのは、これとは様相が異なるものとなります。つまりは、「官僚内閣制」とか「省庁代表制」と呼ばれるような利害関係調整のシステムが霞ヶ関に組み込まれていて、官僚が好き勝手に決めているのではなく、各省庁の背後にある関係団体の力関係が調整されて政策決定ににじみ出ていくというのが、政権交代前の霞ヶ関の意思決定システムだったはずです。その関係団体からの意図を官僚の政策立案に反映させる政治家集団が「族議員」と呼ばれたりもしましたが、「しがらみのない」政治を掲げて政権交代を果たした現政権では、そうした関係団体の力関係を調整する機能が著しく低下したようには思います。これもあくまで霞ヶ関の外から伺い知ることができる範囲での印象論ですが。

となると、そうした利害関係を調整しないまま各省庁が要求する復興関連予算は、そのまま財務省の査定に晒されることになるわけで、財務省の査定は「復興予算に上限は儲けない」という内閣の国務大臣の意図を反映して膨らんでいくことになるわけです。

復興予算 13年度も上限なし(東京新聞 2012年7月29日)
 財務省は二十八日、八月に各省庁から二〇一三年度予算の政策経費要求を受け付ける際、前年度に続き東日本大震災の復興予算には上限を設けない方向で検討に入った。一般経費は頭打ちとするが復興では予算編成の制約を取り払う。被災地に必要な資金を十分に確保し、遅れが指摘される復旧、復興を加速させるのが狙いだ。
 財務省は、被災地の集落の高台移転や被災者の就職支援、原発事故で深刻な被害を受けた福島県内の放射性物質除染などに追加費用が必要になるとみており、予算面での後押しを継続する。
 一三年度予算編成では、各省庁が政策の実行に必要とみられる経費の見積もりを示し、概算額を例年通り八月末までに財務省に要求する予定。財務省は経費圧縮のため、この段階で各省庁に削減を求めるが、復興予算は別枠扱いとして各省庁が必要と判断した額の要求を認める。
 政府は一一年度からの五年間に必要な復興予算を十九兆円程度と見込み、所得税の臨時増税などで財源を確保した。一一、一二年度ですでに約十八兆円を計上しており、一三年度予算の要求額を加えると十九兆円の復興予算枠を突破する公算が大きい。財務省は予算枠を二十兆円以上に拡大する検討を近く始める考えだ。
 必要となる財源に関しては、追加増税や公共事業に充てる建設国債の発行には頼らない方針。一一年度予算の使い残しの活用に加え、国有地の売却益や、自治体などに資金を貸し付ける財政投融資特別会計の剰余金の活用などを検討する。
 一方で、一一年度予算に計上した約十五兆円の復興費の約四割が一一年度内に使われず、多くが一二年度に繰り越されており、政策の着実な実行が課題となっている。


ここまで読まれた方は、「それみろ!国が復興予算にかこつけてバラマキしているだけじゃないか!地方もそれに便乗してムダなカネを使っているんじゃないか!」と思われるでしょう。当然のことながら、そうした批判が出ることは地方公務員も(おそらく)霞ヶ関の官僚も重々わかっています。政治家の方からは「復興予算に上限を設けるな」といわれて査定する財務省、十分に調整できないまま予算を要求する各省庁、その予算を配分された被災地自体は、このような状況で目に見えている「震災にかこつけたバラマキだ!」という批判に応えるためにどうしたらいいでしょうか。

いろいろなやり方はあると思いますが、少なくとも政策決定の最上位に位置する内閣から「復興予算に上限を設けるな」と命じられている以上、予算額を維持しつつその要件を厳しくするのが一つの現実的なやり方となります。つまり、総額で必要となる予算額を確保した上で、その予算によって補助される案件や整備させる施設について、「いかに復興に貢献するか」という理屈づけをし、それに基づいて厳しく要件を設定するわけです。それがたとえば、番組内で批判的に取り上げられていた国内立地推進事業費補助金について、「被災地の経済活動を活性化させる効果がある」という要件を設定することであって、見事(?)それに適合した理屈づけができた被災地以外の企業がその補助金の交付決定を受けたのだろうと思います。

逆にグループ補助金で予算額が足りないというのは、その理屈を裏返しにすればわかりやすいかもしれません。番組で指摘されていたように、「震災からの復興に際し、地域経済の活性化に資する」というような要件を設定しておけば、その効果を説明できない企業(グループ)が補助金の交付決定を受けることはできません。いずれも、事後的になされる国会(議会)の場での「費用対効果」の観点からの成果の追求、会計検査院による会計上の効率性・理屈づけの観点からの追求、市民オンブズマンからの「不適切ではないか」との疑いの目による追求に対して、事前に理屈づけをするために必要な対応だったのではないかと思います。

こうした事情を度外視すれば、霞ヶ関や現場の対応を批判することは簡単です。しかし、番組後半でいみじくも取り上げられていたように、がれき処理の費用一つとっても事後的に批判することは可能になるわけで、そのための事前の理屈づけや準備にどれだけの労力が割かれているかまでは意識されません。東松島市のがれき処理の費用が低いことが好意的に取り上げられていましたが、低い費用の理由とされていた「がれきの事前分別」にどれだけの費用がかかっていたのかまで考慮しなければ公平な比較にはならないと思います。私も詳細は知らないので憶測に過ぎないのですが、もしかすると事前の分別に時間と費用がかかっていて、トータルのがれきの処理費用は東松島市と石巻市でそれほどの差がない可能性もあるかもしれません。要すれば、事業の一側面を捉えて「効率的でない」とか「ムダだ」というような議論はいくらでも可能ですが、それを現実の政策やそれに基づく事業に落とし込む作業というのは、トータルの効果を見据えなければ判断を誤る可能性があるということではないかと思います。

これも裏返してみれば、「グループ補助金」に対する自治体職員の思惑と被災地の企業の思惑のずれに見ることができます。この点については、当事者であるhahnela03さんが実感を持って綴られている言葉が如実に物語っています。

 地方自治体職員を批判はしますけどね、彼らの立場から見た補助金の実行とその後の議会対応や会計検査を鑑みれば、零細企業で補助金適用して復興できなくて認定の批判を考えればリスクの少ない大企業に補助金を付けるのは自然であります。共産党等の市民オンブズマンからの批判をかわすためにはそういうネオリベ的行政手法を取らざるを得ないのは理解できるのです。

津波被災の記録79(2012-09-12)」(hahnela03の日記

被災地で使われる予算に「震災からの復興に際し、地域経済の活性化に資する」というような要件が設けられたために、中小零細の事業所はその補助の対象から外れてしまうわけです。そして、もともと過疎が進む被災地ではそうした中小零細事業所が、対人折衝が得意でない方の社会活動への参画を含め、地域の経済活動のみならず社会の維持に大きな役割を果たしてきたとしても、そうした役割をもつ中小零細の事業所は「震災からの復興に際し、地域経済の活性化に資する」ものとは認められないというのが実務の世界の取扱いとなります。

端的に言えば、予算上設定された要件の上では、被災地でのグループ補助金よりも被災地以外への企業立地の方が経済効果が大きいと判断されたからそちらに予算が流れただけの話であって、その要件設定と補助金交付の理屈が当初の思惑通りであるなら、それは復興に資するのです。それが行政手法として問題がないというのであればその通りですし、そうではないというのであれば、問われるべきは、そうした復興に資する効果を経済的な観点でのみ計ることなのではないでしょうか。

hahnela03さんが「ネオリベ的行政手法」と呼ばれるこうした手法は、一昔前の「カイカク派」知事が事務事業評価とかマニフェストとかで取り入れた数値による政策評価に代表されるものですが、冒頭で引用したTogetterの方々が「復興予算は被災地のために使え」と批判されるのであれば、その行政手法を推し進めてきた「行政改革」とか「構造改革」を批判しなければ矛盾してしまいます。しかし、一方ではそうしたネオリベ的行政手法を推し進める日本維新の会が次の選挙で躍進しそうだというのがこの国の政治状況でもあります。

被災地のために復興予算を使うということは、経済的な効果のみならず社会を維持するために必要な社会的資本(ハード面だけではなく、社会保障の現物給付というソフト面からも)をその必要に応じて整備することであって、個人や法人に対する補助金もその範囲で予算化し、必要な方に行き渡るような要件を設定する必要があります。費用対効果で測っていてはいつまでたっても被災地に予算が使われることはないのです。

(追記)
hahnela03さんが本エントリとほぼ同時に同じ番組について取り上げられていました。

被災地に対する過分な予算配分と予算の執行の不適切さをイメージする内容という印象を受けました。被災地以外に居る皆様との「紐帯」を失わないために、予算が被災地だけに使われることはできません。むしろ「紐帯の断絶」を促す危険性の方が大きいと私は考えておりますから、いまだ「復旧」の状態が被災地の現状であり「復興」予算の消化はこれから本格的になる前にこのようなイメージを受けられては、被災地と共に「持続可能な社会」を形成することこそが「日本の復興」であるということを失うことが危惧されてなりません。

津波被災の記録80(2012-09-17)

私は正直ちょっとムカついて本エントリを書いてしまったのですが、hahnela03さんの冷静な受け止めには頭が下がります。hahnela03さんのような冷静な方は被災地ではそれほど多くはないのかもしれませんが、私も冷静さを欠かさないように自戒したいと思います。

被災地に行くと、地元の方々が生活していた家々や商店、工場などの跡地に草がぼうぼうに生えていて、現段階では復興はおろか、いかに以前の生活を取り戻す復旧を進めるかという段階にあると感じます。被災地で予算を使うことの限界については被災地にいる方自身が一番感じているのではないでしょうか。被災地のみならず日本全体が復興に向けて着実に取り組みを進めなければならない(去年の3月の時点で「4 経済活動を自粛しない」と書いたとおりです)はずであり、そのためには復興予算が被災地以外で使われることも「復興に資する」ものとされるわけで、それを「ムダなバラマキだ!」と叩くのは被災地の方の心情にも配慮できていない暴論のようにも思われます。hahnela03さんが垣間見た被災地の現状について、私のような被災地に隣接する内陸部の人間でもわからない事情が綴られていますので、ぜひご一読ください。
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2012年09月17日 (月) | Edit |
先週になってしまいましたが、9月11日で震災から18か月が経過しました。世の中は与党と野党第一党の党首選とか無責任な自治体の長による買い取り発言からこじれた中国問題が耳目を集めていますが、震災からの復旧・復興が被災地の眼前にある課題であることは変わりありません。前回エントリで取り上げた海老原さんの新著では、これまでも海老原さんが指摘されていたことではありますが、被災地の現状を見たときにとても示唆的な部分があると思いましたので、少し掘り下げてみたいと思います。

家族経営という逃げ場の消失が問題を生んでいないか

 ここで、「自営・家族経営の現象」についてもう少し話を進めてみたい。2章⑦で検証したとおり、生産年齢人口がほぼ同数である1984年と2008年を比べた場合、正社員の数は減っておらず、逆に108万人も増えている。一方この間に「自営+家族従業員」は653万人も減っている。再度書くが、この「自営+家族従業員」はあくまで個人事業主のみで、小規模法人は含まれていない。5名以下の家族経営法人まで含めると、「零細商工企業」の従業員がもっと減ったものと推測される。
 さらに論を進めよう。
 第1章検証④で書いたとおり、この20年間には農業と自営業が減少しただけでなく、ブルーカラーや建設業での就業も大幅に減少している。代わって増えたのは、ホワイトカラーと販売サービス業。
 そう、かつては、対人折衝が苦手な心優しき人たちが、自営業で家族の中で働けるだけでなく、建設現場や製造部門と行った対人折衝が少ない仕事を選ぶこともできた。ところが現在は、こうした第二次産業も衰退したため、結局、対人折衝主流の三次産業でしか働けない。それが、彼らの居場所を奪っているのではないか
pp.207-208
雇用の常識 決着版: 「本当に見えるウソ」 (ちくま文庫)雇用の常識 決着版: 「本当に見えるウソ」 (ちくま文庫)
(2012/08/08)
海老原 嗣生

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※ 漢数字はアラビア数字に、機種依存文字はそのまま記載しています。以下、強調は引用者による。

この現象の一部は「正社員枠に押し込める」ことを目的としたキャリア教育によるものでしょうし、鶏と卵ではないですが、ベティ=クラークの法則により第1次産業、第2次産業の労働生産性(付加価値労働生産性ではない!)が上昇し、余剰となった労働力が第3次産業に吸収されにくくなっているという産業構造の変化も大きな要因と考えられます。

これは前回エントリで、会社のメンバーとしてすべての責任を負わなければならないとする「メンバーシップ型雇用に由来する究極の従業員責任論」について書いたことでもありますが、これが社会全体を覆うようになった一つの要因を考える際に、「発達障害」への配慮が大きな示唆を与えるように思います。

大人の発達障害の特徴

10.クレーマーになる
 これは最悪の形態の一つである。あらかじめいえば、クレーマー全員が発達凸凹ではない。大きく分けると、発達凸凹系のクレーマーと虐待系のクレーマーに大別できると思う。もちろんこの両者が重なることがあって、そうなると最強のクレーマーができあがる。
 なぜこんなことが断言できるかというと、親子並行治療をおこなった親の側に、かつてクレーマーとして地域の学校などに名をはせていたお母さんが何人もいたからである。本に書いてあることを頭から信じ、行間にあるものを読まない。対人的な相互交流ができず、情緒的なやりとりができない。これまでの対人関係で被害的になっていて、実際にだまされたりしたことも多い。しかも正確無比な記憶をもっていて、ちょっとした言葉の違いや、相手が言った「子どものためにすべてをおこなうのが学校の役目」などとという言葉を真に受けしかも盾にする。世間的な常識は期待できない。これらが総合されると、恐るべきクレーマーに転ずることは了解いただけると思う。
 本人が正論と考えている常識的には無理なことを一方的にまくし立てれば、言われた側は引いてしまいその一部が実現する。するとこれがクレーマー側に誤学習の機会を与える。つまりこのような一方的な要求こそ、相手に通じると思い込むようになる
(略)

クレーマーへの対処法

 脱線に近いが、このタイプのクレーマーに対応するコツは、発達凸凹の子どもに対応するのと同じ方法でよい。つまり枠をしっかりと示すということだ。必ず複数で対応し、記録を取る。できること、できないことを明確にし、曖昧な口当たりの良い言葉でごまかさない。
 子ども本人の側も大体は迷惑をかけまくっているので、その点に関しての事実を正面からきちんと伝える。教育委員会に言いつける云々の言葉にたじろがない。
 学校の側が保護者を訴えた裁判があったが、筆者はそのような裁判はどんどんやるべきだと思う。保護者であればなにを言ってもよいということではないし、学校と保護者とが協力をしあって云々といった情緒的かつ相互的な交流が成立しない基盤がクレーマーの側にもあるからこそ、問題がこじれるのである
 もちろん学校側も、発達凸凹への柔軟な配慮が必要であることはこれまでにも述べてきたが、この点に問題があることと、クレーマーの問題とはまったく別ものである。
pp.235-236
発達障害のいま (講談社現代新書)発達障害のいま (講談社現代新書)
(2011/07/15)
杉山 登志郎

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著者の杉山医師の慎重な記述を損なわないため引用を長めにしましたが、クレーマーを「発達障害」あるいは「発達凸凹」があるとして偏見の目で見るということではなく、対人関係に困難さを持つ方がクレーマーになりやすいこと、その対処法として毅然として枠を示すことが本人にとっても有効であることが指摘されていて、個人的には普段の業務でも参考になると思います。

この「発達凸凹」は杉山医師が提唱されている言い方で、「発達障害」が社会的な生活に深刻な支障が出るほどの困難さを持つ状態を指すとすれば、「発達凸凹」はそこまで深刻な支障は生じない状態を指します。「発達凸凹」が深刻な支障を来さないで社会的な生活を送ることができるのは、その「発達凸凹」への対処法(代償行為というそうですが)を経験によって無意識に身につけているからですが、ときにそれがうまく対処できないと常軌を逸した行動に見えてしまうわけです。私なりにごく乱暴にいえば、発達障害は特別の対処が必要なのに対して、発達凸凹は普通に接する中で「困った人とか変わった人といわれる人」というところでしょうか。

(補注)
念のため、支障を来さずに社会的な生活を送ることができている限りで、発達凸凹はマイナスだけではなくプラスにも働くことになります。本書で発達凸凹(自閉症スペクトラム)ではないかと例示されている方には、ニュートン、ゴッホ、アインシュタイン、ガウディ、ルイスキャロルなどの歴史上の人物に加え、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズも含まれており、社会的な成功を果たす方も多数いるとのことです。本エントリで私が発達凸凹を取り上げた趣旨は、発達凸凹(自閉症スペクトラム)があるから社会的にまともではないという趣旨ではありません(私自身本書の記述に思い当たるところがあるので一定程度は発達凸凹なのだと思います)ので、この点にはご留意ください。



これもごく乱暴にまとめれば、深刻な摂食障害など生命に関わる困難を伴う発達障害は別として、特に発達凸凹となるかどうかは、その社会で求められる社会的な生活のレベルによって変わってくると言えるのではないかと考えています。上記で引用した海老原さんのご指摘がそうした社会の変化を数字の上で明確に示しているものと思いますが、競争が激化して過剰なセールストークや熾烈な折衝が必要とされる業種が増えることで、そうした対人折衝に困難を持つ方の居場所が狭くなっていることは実感として感じるところです。

特に津波の被害が大きかった被災地は、これまで漁業や水産加工業など、海産物にまつわる仕事が他の地域よりも大きな割合を占めていて、その仕事をしているうちは対人折衝が得意ではない方も社会的な生活に困難を感じていなかったと思われます。しかし、震災によりそうした海産物の漁獲量が激減し、漁業や水産加工業で対人折衝に煩わされることなく生活を送っていた方々が仕事を失い、対人折衝が必要な販売・サービス業にかり出されることになっています。もともと社会的な生活に特に困難を感じていなかった方はすんなり他の職業に移ることができるとしても、そうした困難を持っていた方にとっては、単に職業的なスキルの問題だけではなく、対人折衝という高いハードルが就職するときのネックになっているように思います。付け加えれば、震災時の凄惨な状況とか家族やそれまでの暮らしを失ったことがトラウマとなってPTSDとなる方もいる中で、対人折衝をしなければ仕事にならないというのは過酷な状況だろうと思いますし、そうした方がクレーマーになり得る可能性も上記の杉山医師の著書からの引用では懸念されるところです。

実をいえば、同じ現象は地方公務員の世界にも起きていると思います。公務員の仕事の中心は利害調整ですが、特に地方自治体の仕事の現場はその利害調整の結果としての諸制度を黙々と執行することにあります。そこでは、対人折衝があまり得意でない方でも事務能力さえあれば何とかこなせる仕事が多くあり、それが「普通の公務員」の仕事だったわけです。

しかし、これまでは配分された予算や権限の中で自分の仕事を黙々とこなすことが求められていた職場でも、震災によって増大した業務の中では、被災地の状況に応じて被災された方のニーズを把握しなければなりません。口で言うのは簡単ですが、そんなことができる公務員なんてのは一握りの対人折衝が得意な「できる公務員」だけですし、もちろん、従来からの黙々とこなさなければならない仕事はそのまま残っています。結局は、一握りの「できる公務員」が現場のニーズの把握と調整の作業で追い詰められ、対人折衝がそれほど得意でない「普通の公務員」はそこで次々に打ち出される対応策を従来業務と並行して行わなければならないわけです。さらにいえば、人員削減のために「普通の公務員」が「できる公務員」の仕事をしなければならないことも珍しくありません。となれば、対人折衝に困難を持ちながらも黙々と仕事をしてきた「普通の公務員」が苦手な対人折衝に駆り出され、精神的に追い詰められることも生じます。

サービス産業化する社会というのは、多くの感情労働を必要とする社会でもあります。スティグリッツも指摘するようにサービス産業化が避けられないのであれば、その感情労働を緩和するような社会のあり方も考えなければならないのではないかと、被災地の状況から思うところです。

2012年09月09日 (日) | Edit |
海老原さんから新著をご恵投いただきました。毎度ではありますが、場末のブログを気にかけていただきありがとうございます。

すでにhamachan先生のところでも取り上げられている通り、3年前に刊行された書籍の文庫版ではありますが、これまでに海老原さんが出版された著書の論点を網羅した形になっていて、「決着版」という副題になっています。

 単行本の出版から雇用問題に対して世間に物申すようになり、そこに学歴・進学問題(そして両者の接点である就職問題)を交えて、この3年間、両分野での活動に力を入れてまいりました。
 これからも多少、雇用・進学の問題は発生すると思うのですが、それは、この3年間の著作の内容に、付け加えたり、更新したりする程度のものであり、今までのように単行本となるほどの紙幅をとりはしないと考えています。
 そこで、前作(『就職に強い大学・学部』)で一足先に学歴問題で筆をおくと書きましたが、今回は、雇用問題についても一区切りとさせていただこうと思いました。
 この関連著作の始まりと終わりを飾るのが、『雇用の常識「本当に見えるウソ」』となるのは、それだけ私の思いの強い本であったからに他なりません。
pp.288-289

雇用の常識 決着版: 「本当に見えるウソ」 (ちくま文庫)雇用の常識 決着版: 「本当に見えるウソ」 (ちくま文庫)
(2012/08/08)
海老原 嗣生

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海老原さんの「一瞬違和感を感じながらも腑に落ちる鋭い指摘」が雇用に関して書かれなくなるというのは寂しい気もしますが、今後はジェンダー関連や高齢者雇用などの発表も行いながら、さらには別分野へと歩を進めるとのことですので、こちらにも期待してしまうところです。

本書の内容に戻ると、拙ブログでは3年前にかなり斜めな方向からツッコミ気味に取り上げさせていただいたところですが、集団的労使関係についての記述は今回の「決着版」でも特にありませんでした。まあ、本書の最終章が「現実的な改良案」となっていますので、拙ブログで理想的なモデルとして取り上げている北欧のコーポラティズムの担い手になるような労働組合が存在しない現状の日本では、集団的労使関係の再構築による労働条件の向上とか同一価値労働同一賃金の実現は現実的ではないというご判断なのでしょう。というか私自身も現時点ではそう考えていますので、ツッコミしておきながらではありますが、極めて妥当な内容だと思います。

また、文庫化に当たって「就職氷河は、企業に責任転嫁された」「女性の社会進出は、着実に進んでいる?」「高齢者はオイシイとこどりの逃げ切り世代か?」「定年延長が若年雇用を圧迫する、か?」「年金問題をめぐるトリッキーな俗説」「ここまで来たか「若年の就業不安定」アジ」「新卒一括採用批判を再批判する」そして最終章の「現実的な改良案」が追加され、単行本の「女性の管理職は増えない」「「若者がかわいそう」=熟年悪者論」が割愛されています(本書の「文庫本あとがき」にある異同の一覧はちょっと違うような…)が割愛されているようです。ただ、割愛された部分も追加された部分にそれぞれアップデートした内容で盛り込まれていますので、現時点で手に取るなら文庫本の方がお得かもしれません。

特に、「現実的な改良案」で示されている「公設派遣」は、海老原さんのほか、当の請負・派遣事業者である出井さんも提唱されていて、十分に検討に値するものと思うのですが、「派遣切り」とか「日雇い派遣」とか「偽装請負」という負のレッテルを貼られた派遣事業者を活用した政策というのは、一部の左派政党からの受けが悪くて実現の見通しが立たないのが実情かと思います。実際に、緊急雇用創出事業で未就職の既卒者を派遣事業者が雇用して、派遣元のOff-JTと派遣先のOJTを組み合わせるという事業が、札幌市や広島県を皮切りに全国各地で取り組まれていましたが、特に当地では「役所が派遣するとは何事だ!」という某政党の抗議により、大々的に取り組まれることはなくなった(細々と事業はあるようですが)印象があります。あくまで印象論ですが。

新著から少し離れると、個人的には、『就職、絶望期』でも「そこそこの働き方」として提唱されていた「途中からノン・エリート」という第3の道が、実は一企業の内部だけではなく、社会全体として必要ではないかという思いを強くしております。前回エントリでも少し触れましたが、役所に対する苛烈な抗議が増えているというのは、世の中がサービス産業化していることと強く関連していると思います。有り体に言えば「お客様は神様です」ということでして、「サービスはタダ」という日本特有のサービス業に対する考え方の根底にあるのは、「(非正規に比べて)高給を得ながら仕事をさせてもらっている正社員は、会社のメンバーとして会社全体の責任を負わなければならず、したがってどんなクレームにも対応しなければならない」というメンバーシップ型雇用に由来する究極の従業員責任論であって、特に「日の丸親方」で日本型雇用慣行の権化と考えられている役所に対して抗議の際限がなくなっているのではないかと。

この究極の従業員責任論は特に役所に対して厳しいとはいえ、実はこの国全体を覆っているものなので、少し風向きが変わればその対象は東電になったりしますし、「モンスター○○」は学校現場でも小売業でも飲食業でも問題になっているところです。そうした現状では、「そこそこの働き方」なんてしていたらすぐに「給料泥棒」とか「税金泥棒」と叩かれるのが目に見えています。結局、だれもが必死になって働いて(いるふりをして)、その代わり自分が十分なサービスを受けてないと思えば「給料泥棒」とお互いに叩き合う「引き下げ民主主義」が蔓延していくというスパイラルが生じているのでしょう。以前なら、正社員を極限まで切り詰めて「バイトばっかりなんで勘弁してください」というところもありましたが、今ではバイトですら責任をとらされるブラックな企業も枚挙に暇がありません。そしてそれは等しく世の中の閉塞感につながっていき、そのはけ口として役所とか東電のような日本的雇用慣行の権化と思われる労働者が叩かれているわけです。

話があちこちに飛んでしまいますが、先日NHKで「BS特集「知の巨人・世界経済再生への提言」」という番組があって、拙ブログでも参考にしているクルーグマン、スティグリッツという両巨匠(?)が出演していたのですが、スティグリッツのインタビューの字幕が「サービス産業の強化も欠かせない」となっていたことが、日本では逆に捉えられてしまうのではないかと心配になりました。

こちらの動画では3分40秒くらいですが、スティグリッツの言葉では、
Another thing to stimulate your economy is strengthening your service sector.
となっていまして、「strengthening」をそのまま「強化」と訳しただけとはいえ、これをみたシバキあげ風味な方は「それみろ! 日本のサービス業は生産性が低いから、もっとコストカットして生産性を上げないと日本経済は成長しないぞ!」とかいいだしそうです。

いうまでもありませんが、物的労働生産性に生産価格を掛け合わせた価値生産性に、さらに付加価値率を掛け合わせた付加価値労働生産性は、生産額が低下したときだけではなく、付加価値額すなわち販売価格が高くなればなるほど上昇するものですが、物的労働生産性だけで議論してしまうと、「販売価格を切り下げるために人件費を切り下げて生産性を向上させる」という合成の誤謬が生じてしまうわけです。ケインズの一般性理論とは、有効重要を創出して販売価格を上昇させることによって付加価値生産性を高めることで、労働者の所得を増加させて社会全体の消費性向を上昇させ、経済全体が成長するというお話だったはずでして、スティグリッツもそうしたことをいいたかったのだろうと思うのですが、いかんせんこのインタビューだけではそこまで読み取れませんでした。

海老原さんの新著に話を戻すと、雇用や労働に関する議論が社会のあり方や経済成長にまでつながるからこそ、雇用に関していったん筆をおく海老原さんが次回以降ジェンダーや高齢者雇用といった雇用の枠から外れた問題に取り組もうとしているのだと思います。働き方の変革を通じて社会のあり方を考えるためにも、この「決着版」で頭を整理されることをおすすめします。