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2012年06月30日 (土) | Edit |
気がついたら6月のエントリが2回でしたので小ネタでお茶を濁してしまうのですが、先日ちょっと早く帰る日があって、といってもNHKのニュースウオッチ9を途中から見るぐらいの時間だったのですが、オウム真理教の指名手配犯で最後に逮捕された高橋容疑者のニュースがありまして、高橋容疑者はまだ麻原彰晃のマインドコントロールの状態にあるんだそうです。

逮捕から1週間オウム信仰、今も 2012.6.22 00:33 [オウム事件]

 オウム真理教元信者、高橋克也容疑者(54)の逮捕から22日で1週間。17年に及んだ逃亡の足取りが徐々に判明する一方、教団への信仰を今も強く抱いていることが明らかに。

 「尊師を今でも信じている」。警視庁赤坂署の取調室で捜査員と向き合う高橋容疑者は、麻原彰晃死刑囚(57)を慕う言葉を口にし、教団崇拝の姿勢は変えていない

 雑談では冗舌になる場面も。オウムの修行の効果を強調して「パワーがみなぎる」と語り、留置施設では修行に取り入れられた「蓮華座」という座り方で本を読むこともある。

 川崎市の建設会社社員寮から逃走した際には、部屋にあった松本死刑囚の写真、説法テープ、著作をキャリーバッグに詰め込んだ。5枚あった写真のうち1枚は、松本死刑囚が高橋容疑者の頭に手を乗せる様子が写っていた。警視庁幹部は「教団のマインドコントロールから抜け出せれば、事件の真相が明らかになるはずだ」としている。

で、その直後に民主党内で消費増税法案を巡って対立しているというニュースが流れたわけです。

マインドコントロールという言葉を使うと特殊な状況に思われますが、「麻原彰晃」を鳩山とか菅とか小沢とかの名前に置き換えたり、「オウムの修行」を「マニフェスト」とか置き換えたりしてみると、民主党というのも「政権交代」とか「政治主導」とかというマインドコントロールに取り憑かれた方々の集まりだったのだろうなあと、ニュースを聞きながらぼんやり思いましたとさ。
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2012年06月26日 (火) | Edit |
世の中は消費税率引き上げを巡る政局が関心を集めているようですが、少し前に書きかけだったエントリを片づけてしまいます。昨年11月に大阪府知事から大阪市長に華麗に転身された橋下氏ですが、最新号の『POSSE vol.15』で「橋下改革をジャッジせよ!」という特集が組まれていました。取り上げるタイミングが遅れまくりですし、すでにhamachan先生が偏頗な紹介をされていて、世間的には小熊英二氏の論説の評判が高いとのことですが、集団的労使関係の再構築が重要だと考えている立場からすると、

 『世界』2012年3月号の論文も含め、湯浅さんが書かれていることは、気持ちはわかります。しかし私は、誰にむかって、どういう効果を期待して書いているのか、わかりませんでした。
 良いか悪いかは別にして、「調整に参加してください」と書いて、喜ぶのは官僚です。しかし、では調整に参加するという気持ちで、批判や主張を和らげたら、行政からは「主張が10から7に落ちました。ではあなたに配分するのは7でいいですね、場合によっては5でいいですね」という話にしか、おそらく現状の政治構造ではなっていかない。
 それが予想できるから、これまで野党や圧力団体は、裏では妥協点を意識していたとしても、表では戦闘的にいってきたわけです。本当に現実的な政治参画を考えるのであれば、つねに戦略と効果を考えて発言したほうがいいのではないでしょうか。ああいうものを書いたら、運動のなかで分裂と対立がおきやすいことも、容易に想像がつくことです。

小熊英二「「橋下徹」はグーグルである」p.38

POSSE vol.15: 橋下改革をジャッジせよ!POSSE vol.15: 橋下改革をジャッジせよ!
(2012/06/05)
NPO法人POSSE、宇野常寛 他

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※ 以下、強調は引用者による。


というのは、何十年前の話だろうなあと遠い目をしてしまいますね。この「湯浅さん」というのは元内閣府参与の湯浅誠氏を指していて、「『世界』2012年3月号の論文」は現物を読んでいませんが、確か「学術知と実務知の間にあるはずの長い距離の自覚と無自覚」で取り上げた内閣府参与退任の辞の元になった論文のはず。その湯浅氏が政府の内部組織の一員として目の当たりにしたのが「利害調整の現場」であって、内閣府参与退任の辞は、その外側にいて「ただ単に目の前の悲惨な事態への対処に専念して、たまにデモをしたりして外から批判することでしかなかった活動家」だったことへの反省でもあったのだろうと思います。

その湯浅氏の反省に対する批判が、「それが予想できるから、これまで野党や圧力団体は、裏では妥協点を意識していたとしても、表では戦闘的にいってきた」というような古き良きポツダム組合的団体交渉の正当化でしかないというのがなんとも時代錯誤な感じです。この後に出てくる「デモの意義は、量より質」という見出しも、「外から批判することでしかなかった」組合的発想からすればさもありなんというところでしょうか。

でまあ、この小熊氏の論説のタイトルである「「橋下徹」はグーグルである」についていえば、

 新自由主義的だとか、それなのに権威主義的・官僚主義的なのが矛盾しているとかいった批判があります。自力でたたきあげた人らしい、素朴な自助努力主義や既得権批判が、新自由主義的だといえば、そういえないことはない。「俺様のいうことを聞け」というところが、官僚主義的だとか、民主的でないといえばいえる。しかし橋下さんの発信の山に対して、論理的一貫性を見いだそうとしたり、論理的一貫性がないからだめだと批判することじたいが、的を射ていないと思いますね。
同p.35


という形で、批判すると何でも反論するところが検索すれば何かしら結果を表示するグーグルのようなものなので、批判するのではなく無視すればよいという趣旨のようです。橋下氏はグーグルと同じく「使われない」ことが弱点だということですね。

現象面を捉えると確かにそういう面はあると思うのですが、個人的には橋下氏の言動には論理一貫性があると考えております。というのも、弁護士という職業はクライアントに応じて同じ法律から正反対の結論を導き出す職業でして、橋下氏は弁護士として「クライアントに対立する批判があれば現行法令の枠内で何でも反論する」という技を磨いてきた職業人の1人に過ぎないからです。そのクライアントが、弁護士時代の原告・被告から「民意」に変わったとみると橋下氏の言動を理解しやすいと思います。

 ――橋下さんは、「決定できる政治」を唱えています。リーダーの独善になりませんか。
 「議論はし尽くすけれども、最後は決定しなければならない。多様な価値観を認めれば認めるほど決定する仕組みが必要になる。それが『決定できる民主主義』です。有権者が選んだ人間に決定権を与える。それが選挙だと思います」
 「弁護士は委任契約書に書いてあることだけしかやってはいけないけれど、政治家はそうじゃない。すべてをマニフェストに掲げて有権者に提起するのは無理です。あんなに政策を具体的に並べて政治家の裁量の範囲を狭くしたら、政治なんかできないですよ。選挙では国民に大きな方向性を示して訴える。ある種の白紙委任なんですよ
朝日新聞デジタル:〈橋下徹・大阪市長に聞く〉選挙、ある種の白紙委任(2012年2月18日03時00分)


朝日新聞の質問の仕方が的外れではありますが、橋下氏が「弁護士と政治家は違う」という言葉と裏腹に、「ある種の白紙委任」という言い方が端的にその契約論的な考え方を示していますね。弁護士がクライアントから「あいつのせいでひどい目に遭ったからなんとかしてくれ」と依頼を受ければ、その弁護士は要件事実を積み重ねながらあらゆる現行法令を駆使して、クライアントの「なんとかしてくれ」を「不法行為による損害について賠償しなければならない」という具体的な形で抗弁するわけでして、クライアントから抗弁の具体的な方法まで指示されているわけではないという点では、弁護士も「白紙委任」されているといえるでしょう。

つまり、橋下氏が政治家になってやっているような違法すれすれの公務員労組攻撃とか公務員の良心の自由への介入という言動は、「投票行動」を一種の契約と見なして「大阪市民(以前は大阪府民でしたが)というクライアントからの白紙の委任契約に基づき、現行法令の枠内の真っ黒の一歩手前のグレーゾーンまで、そのクライアントの意向の実現を要求している」ものと考えることができます。この観点からすれば、橋下氏の言動は見事なまでに論理一貫性をもっていると思います。

ただし、弁護士と政治家の決定的な違いというのももちろんありまして、そのひとつが「クライアントの意向の実現を要求する」相手が、弁護士の場合は終局的には裁判所という司法であるのに対して、政治家の場合は立法や行政であるという点です。弁護士が現行法令の枠内でどんなに荒唐無稽な抗弁をしても最終的には専門機関である裁判所の法曹が判断しますが、政治家が荒唐無稽なマニフェストを主張して選挙で選ばれてしまうと、誰もその暴走を止めることはできません。「自分で決めたことに拘束される」というのが民主主義ですから、どんなに荒唐無稽な主張でも選挙の結果として受け入れるしかないわけで、こうした「民意」の強力な力に無自覚なまま「民意」ばかり叫んでいる政治家というのもまた荒唐無稽でしかないというループが生じます。いやあ、どこかで見えている風景ですね。

でまあ、政治家が要求する相手の政治が司る立法がこのループのなかで荒唐無稽さを深めていけば、通常はその政治手法が行き詰まるはずなんですが、残る相手の行政は、政治家が「せいじしゅどう」と唱えれば、それが効果のないものであっても効いたふりをしていうことを聞かなければならないとされているわけで、荒唐無稽さを深めた政策の要求が実現しなくても、行政にいる役人を既得権益として批判しておけば、その責任を行政に転嫁することができます。これもまた見事なループが成立していて、上述の公務員攻撃もその一環として行われていると考えると、皮肉でも何でもなくとても洗練された政治手法だと思います。バブル崩壊後に猖獗を極めたカイカク病のひとつの到達点が小泉構造改革であったわけですが、橋下氏の言動はその手法を忠実にかつより洗練させながら実践しているといえるのではないかと。

管見ではありますが、現行の民法が私的自治を尊重する契約論に立脚していることが「契約さえ成立すればなんでもできる」という法曹の意識を醸成してしまっているのではないかと思ってしまいます。それとは対極的に、実態論から法益を保護しようとするのが労働法でして、私的自治の典型契約である雇用契約については、労基法をはじめとする強行法規によってそれを下回る私的契約は無効とされています。まあ、こうした契約論が陥った幻想については、再びポラニーの的確な指摘を引用させていただきます。

 ファシズムにおける自由の完全な破棄は、実際のところ自由主義哲学の必然的な結果である。自由主義哲学は、権力とは悪であり、自由には人間社会における権力と強制の消滅が必要であると主張する。しかしこのようなことは不可能である。複合社会においてこれは明白となる。自由主義哲学のような立場をとれば、次の二つの選択肢しかなくなる。すなわち、幻想にすぎない自由の観念を固守して社会の現実を否定するか、あるいは社会の現実を受け入れて自由の観念を拒絶するかである。前者は自由主義者の結論であり、後者はファシストの結論であった。これ以外の選択肢はないように見える。
 必然的に、われわれは自由の可能性そのものが問題とされるのだという結論に達する。もしも規制が複合社会において自由を拡大し強化する唯一の手段であり、しかもそれを行使することが自由それ自体に反するというなら、そのような社会は自由であるはずがなくなってしまう。
 このディレンマの根本にあるのは、明らかに自由の意味それ自体をめぐる問題である。自由主義経済はわれわれの理想を誤った方向に導いた。それは、本質的にユートピア的な期待が実現できるかのように思わせたのである。しかしいかなる社会も、権力と強制がなければ存在できないし、力が威力を発揮しないような世界もありえない。人間の意思と希望だけで形成された社会を想定することは幻想であった。ところがこれが、経済を契約的関係と、そして契約的関係を自由と同一視した市場的な社会観の結果であった。こうした社会観から、人間社会において個人の自由意思から生み出されなかったものはなく、したがって再び個人の自由意思によって取り除けないものはないという、根本的な誤解が生じたのである。
p.464

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いくら政治手法として洗練されていても、根本的な誤解に基づいたものには変わりがないわけで、まあその点でも論理一貫していますよね。

2012年06月10日 (日) | Edit |
一日早いですが、明日で震災から15か月が経過します。個人的な状況としては、とある方面からご依頼をいただいた件でブログの更新が滞っていたり、5月のデスマーチは何とか乗り切ったものの、6月に入って24年度の事業に取りかかることができるようになると、これまで滞っていた分を取り返さなければならず、相変わらずのデスマーチになりつつあります。まあ、これが本来の仕事と言えばそうなんですが、いい加減サービス○業から解放されたいところではあります。

そんな中で、ここ最近も何回か被災地に行く機会がありまして、これまでも拙ブログで指摘しているように土地利用が決まらず企業が再開できない状態が続いていて、内陸部への移転が増えて土地不足が深刻になっていたり、しばらくは以前のような仕事は再開できないという諦観が地元に広がっているように感じます。仕事を探している方にお話を聞く機会もあったのですが、役所に対する文句はそれなりにありながらも、言う方も聞く方も同じ話で飽き飽きしているような微妙な間がありました。2月の時点で「失業問題に対して雇用対策を講じるというのは一側面からの見方であって、その地域においてどうやって生活していくかというトータルな視点が必要となっている」と感じたことが、現実の対応として必要となってきていると思います。

もちろん、飽き飽きしないよう着実に復旧・復興の取組を進めなければなりませんし、実際に進んでいる分野もあるのですが、同じ話が繰り返されていくと、これまでの取組では効果がなかったのではないかということで、震災後には慎重に制度設計されていた事業がどんどん要件緩和されていったりということが起きています。

たとえば、拙ブログで継続的に取り上げていたCFWの取組も、当初提唱されたスキームでは1年間の期間限定で最低賃金を下回る賃金で雇用するものでしたが、1年を超えた現在も被災地では「みたす」CFWが重要な役割を果たしています。しかし、行政が実施するCFWは緊急雇用創出事業によって実施されているものがほとんどで、「緊急に雇用を創出する」事業で「みたす」CFWを継続することは、事業としての矛盾をはらむものとなります。

ところが、2008年のリーマンショック後に創設された緊急雇用創出事業もすでに5年目に突入し、「緊急に雇用を創出する」事業としての位置づけではなく、「人を雇って実施する事業なら何でも緊急雇用創出事業でできる」という認識を持つ役所関係者が増えてきているようです。この点は、半年ほど前に「震災以降の緊急雇用創出事業をどう位置づけるかが、戦後の「労働行政に取り憑いた夢魔」((c)hamachan先生)とまで言われた失業対策事業(失対事業)と緊急雇用創出事業が違うものとなるかの分かれ目になるのではないか」と考えていたことではありますが、なんというかこの半年間は、24年度の事業に向けてより安易に緊急雇用創出事業が実施されるようになっていると思います。

まあ、正直に言えば、私自身が関わっている事業が緊急雇用創出事業だらけでして、安易に実施しているのは私自身(の課)でもあります。全体の事業までは分からないので上記はあくまでの私の印象論ですが、震災前に比べて数倍に膨れあがった緊急雇用創出事業で雇用された方々が、緊急雇用創出事業が終了するとともに仕事を失う状況にある中では、震災からの復旧・復興が途上にある現時点で緊急雇用創出事業を終了させるという選択肢は事実上ありません。この点では「失業対策事業の「夢魔」」は着実に現実のものとなりつつあるといえるでしょう。

というわけで、周りの役所関係者は「緊急雇用創出事業で○○人の雇用を創出した」と発表しては成果を誇示しているところでして、私自身は「こうした安易な緊急雇用創出事業の実施は将来的に別の問題をもたらすのではないか? 創出した雇用は緊急雇用創出事業が終わったらどうなるのか?」ということは一応指摘するのですが、聞く耳を持たれることはありません。「難しい問題には常に簡単な、しかし間違った答が存在する」というabz2010さんのブログタイトルが身に沁みますねえという愚痴でした。

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