2012年03月18日 (日) | Edit |
標題はまんま権丈先生のパクリです。あらかじめお詫び申し上げます。

政策に密着した研究、そうした問題意識それ自体は悪いことではないと思うが、いつの頃からか、研究者が研究したら、それがすぐに政策に使えるものと勘違いする風潮が生まれてきているように――最近の、いわゆる自称経済学者さんたちの論をみていたりすると、そうした風潮が広まっているように思える次第。
(略)
医療行為の効果は将来にわたって出てくるわけだから、その際、将来の価値を現在価値に割り引くための割引率をどう設定するかという難問をはじめ――ある1人の患者に対して、ある手術の実施は、低い割引率だと容認され、高い割引率だと容認しないと判断されたりもする――、同じ医療行為でも、患者の年齢をどのように考慮するべきかという問や、次のようないくつもの問に答えを出さなければ、政策には使えないのである。
(略)
これは、第一に研究者養成段階での教育の問題がかなり大きいだろうと思う。そして、前向きにまじめに研究してみましたけど、結果は芳しくありませんでした、ということを許容するゆとりがこの社会からなくなってきていることも原因なのだろうと思っている。分かりきったことをやる研究など、形容矛盾であって、研究成果というものは不確実に決
まっていて、当然、ハズレがでることもあるし、むしろハズレの方が普通だろう。もう少し、研究と政策の間にあるはずの長い距離を自覚して、研究者というものは、政策提言には慎重であっていいと思うのだが――さてさて。。。

勿凝学問 380研究と政策の間にあるはずの長い距離の自覚と無自覚(2012 年 3 月 17 日慶應義塾大学 商学部教授 権丈善一)」(注:PDFファイルです)
※ 以下、太字下線強調は引用者による。


参考資料も必読です。

この専門家の市場支配力を牽制できるのは同等の情報をもつ専門家しかいないわけだから、専門家のマネジメントにはピア・レビュー(peer-review)という同僚審査が最も効く。しかし、ピア・レビューがないところでは、専門家は、消費者に対して圧倒的な市場支配力を乱用して、実のところ、やろうと思えばなんだってできる。だから、専門家には、強い倫理規制が要求されているのだし、その職業倫理が、教育システムのなかで伝承されていくということが、ある程度社会的に期待されている訳だ。

勿凝学問 25 混合診療論議を題材とした政治経済学っぽい遊び PartⅡ(2004年12月5日脱稿 慶應義塾大学商学部教授 権丈 善一)


権丈先生のこれらの議論では、拙ブログで「学術知」と「実務知」の対立という言葉で表現していた内容が的確に指摘されていまして(念のため、そう個人的に思っているだけで権丈先生も同じことを考えていらっしゃるという趣旨ではありません)、さすが実務屋には書けない専門家ならではの筆致です。学術知しかない者と実務知しかない者がお互いに批判し合ったところで、それは「ピア・レビュー(peer-review)という同僚審査」を経ないという点でただの場外乱闘でしかありません。特に、権丈先生が指摘されるように、「この専門家の市場支配力を牽制できるのは同等の情報をもつ専門家しかいない」状況では、専門家が論争の相手とすべきなのは専門家であって、決して政策の制度化や執行を担当する実務家ではないはずですが、ネットでの議論を見ていると、専門家が実務家の政策を批判し、それを専門家ではない(権丈先生の言葉を借りれば)「消費者」が支持するという不思議な光景が散見されます。

さらに悩ましいのが、批判された実務家のうち、消費者の支持がなければ職を維持することができない政治家は、消費者の批判に応える形で実務を実行しようとします。しかし、実務というのは批判されたからといってすぐには変えられない(インフルエンス活動による効用が低い)から実務なのであって、消費者の批判に応えるためだけの実務なんてものには政策実現性(フィージビリティ)がそもそも担保されてはいません。となれば、実務家のうち政策を制度化して執行しなければならない公務員は、実務の実効性を確保するために、フィージビリティのない実務については「それは実効性がありません」と知らせなければならない(実務的な取扱いでフィージビリティが確保されればもちろん不要です。為念)のですが、そんな公務員は「消費者の批判に応えられない既得権益」として糾弾されてしまい、世の中には専門家や政治家によってフィージビリティのない政策が喧伝されていくことになるわけです。

権丈先生の議論が他の経済学者に比べて信頼できるのは、そうした実務上のフィージビリティに対する配慮が専門知の領域でも必須であるという点を常に意識されているからだと考えております。同様の信頼感は、経済学の理論と現実問題の折り合いについて「われわれの租税制度に含まれている外見上の不平等の多くは、うまく定義されているように見える概念を租税法に必要とされる正確な言葉に直すことの本来的困難さの結果にすぎないのである」と指摘してしまうスティグリッツにも感じますし、以下のような認識をお持ちの大屋先生にも(細かい制度認識については異論がないわけではないにしても、少なくとも議論の前提となる学術に対する姿勢については)信頼感を感じるところです。

竹端氏の「何かを変える、と決めたのなら、「変えないための100の言い訳」を繰り出すよりも、「変えるための1つの方法論」を徹底的に考えるべきではないか。」というフレーズは極めて印象的であって、そうだよなと思う人は多かろうと思うのだが、他方「あるべき姿」として提示されたのがたとえば「そらをじゆうにとびたいな」だったとすればドラえもんでない我々としては「できねえよ」としか回答のしようはないわけである
(略)
しかし制度全体をガラガラポンしますというのは別の言い方をすれば現にある程度の人数が獲得している権利なり利益なりを剥奪しますということなのであって、いやまあ全体を考えればもちろんそうした方がいいのかもしれないわけだが当事者は不満を覚えるだろうし現実には訴訟起こすよね。一定条件を満たした場合に認められていた加算をやめます(本体は変わりありません)という程度でも違憲訴訟起こされるというのは生活保護の母子家庭加算廃止の際に示されたわけであるし、そもそも自立支援法違憲訴訟自体がそういう話である。念のために言えばどちらが規範的に正しいかということはここでは前提していなくて、問題提起した側の主張が正しい可能性も十分にあると言っておくが、しかし重要なのは「あるべき姿」の議論として何が正しいかという問題とは別に要するに当事者が不満なら訴訟に付き合わされるんだよと、そういうことであろう

あるべき姿とその実現(2012年2月21日 01:19)」(おおやにき

別の言い方をすると、いやこれが極めて冷酷に響くだろうことは承知の上でしかしそういうところを改善してがんばる方向に行ってくれたほうがいいと思っているから書くのだが、政治的決断があったところで喜んで帰っちゃったところでもう負けなんだよね。しかも厚労省側が「「政治セクター」の判断を全く反故にするような工作を、総合福祉部会の最初からとり続けてきた」と認識していたのであれば(その認識が正しいかはさておいて)、それに対抗して「あるべき姿」を現実化するための努力を続けるべきだったんじゃないかという話。もちろん法令の文言を起こすようなことは専門の官僚でないと難しいということもあるのだが、そのもとになる改正要綱や制度設計の絵図面のレベルではがんばったのだろうか。骨格提言に対応する「厚生労働省案」がひどいというなら、その代わりになるべき制度整備案はまとめたのかな

私の感覚では、官僚をはじめとする「役所のひと」が重視しているのは何よりも現実化可能性と説明可能性であり、言い換えれば「本当にそれはできるのか」ということと、「政治家とかマスコミとかにツッコまれたときに納得させられるか」ということである。

続・あるべき姿とその実現(前)(2012年2月28日 23:44)」(おおやにき

若者世代の雇用を拡大したり技能を養成したりする施策にカネを使うと、いやうまく行けばの話ではあるが経済が膨らんで納税額も増えて障害者に使うための予算も出てくる可能性がある。それに対し、障害者の待遇は改善されたが若者世代が不正規雇用・単純労働のまま行き詰まるとそのうち納税額もギリギリ下がって財政破綻して結局改善されたはずの制度も維持できなくなるおそれがある。それでもなお障害者なのか、と問う人を説得する根拠というのが必要であり、それには「現に苦しんでいる」というだけでは不十分である。

福祉関係の方には、まあ現に非常に苦しんでいる人に直面しているからという事情はあるのだろうが、このあたりの問題をすっとばしてとにかく当該対象領域は極めて優先順位の高いもので救済すべき人を多く抱えているということを前提にしてしまう人が散見され、しかしそれでは、特に分配のパイが縮小している状況において(つまり財源の行き先に皆がセンシティブになっている状況で)理解のない「正常人」の群れには勝てないんじゃないかなあと思う。だって結局そっちの方が圧倒的に大多数なんだからさ

政治家の自尊心をくすぐるための「メッセージ」とやらではなくて、理想を実現するための制度構想と・その導入が社会的に承認されるための正当化根拠の構築という地道な作業が、障害者が本当は必要としているものではないかと思うわけではあります。

続・あるべき姿とその実現(後)(2012年2月29日 23:50)」(おおやにき


引用だらけで恐縮なのですが、政府を通じた再分配を制度化するというのはことほど左様に難儀な作業であって、だれかがりーだーしっぷをはっきすればかいけつする問題なんかではないわけです。こうした多方面との調整に必要なのが客観的な政策実現性であり、それを遂行するだけの知的・体力的タフネスさであり、それこそが官僚とかの公務員に要求されるものでもあります。大屋先生はそれをご自身でも体験済みだからこその説得力なのだろうと思います。

気がついたら長々と引用だらけになってしまいましたので、ここまできたらついでに先日公表された湯浅誠氏の内閣府参与辞任のお知らせからも引用しておきます。なお、拙ブログでは湯浅誠氏には評価できるところできないところがあると認識しておりまして、もちろん一部には賛同できない記述もありますが、今回公表された湯浅氏の認識は大変まっとうなものと考えております。と思ったら、権丈先生ご自身が「2月のアメニティフォーラム初日夕食の時には、僕は、僕の本をかなり読みこなしてくれていた湯浅さんから、僕の政治との距離の置き方をはじめとして、いろいろと質問を受けていた次第」だったそうですから、拙ブログと同じような認識を持つのも宜なるかな。その権丈先生も引用されている部分を含みますが、

税と財政の規模について


(略)
混合診療の全面解禁については、アメリカの民間保険会社などが長らく主張しており、日本の財界もそれに呼応しています。国会議員の中にも、それを主張する人は少なくありません。よって「その連中が悪い」と言われることがありますが、だとしたら「そうならないように、医療費の負担と給付を増やそう」と主張しないと、筋が通りません。混合診療全面解禁は反対だが、医療費負担も反対というのでは、現実は私費負担割合が増えていく方向に進まざるを得ません。両方に反対していれば病気になる人が減る、というのでないかぎり、実際にかかる経費は変わらないからです。
そのため、混合診療全面解禁も反対だが、医療費負担増も反対だというとき、人々の矛先は「どこか(自分ではない)他のところにお金があるはずだ」というところに向かいます。それが企業だったり(法人税)、富裕層だったり(所得税・資産課税)、消費税だったり、政府(特別会計など)だったり、主張する人の意向によって矛先はまちまちです。現在のところ、多くの人たちが合致できる最大公約数が「政府に隠れたムダ金があるはずだ」という点にありますから、「まずは政府が身を削れ」という行革路線が強くなり、それを主張する分には、国会議員もマスコミも、あまり批判にさらされず安心、という状態になっています。


● 政府との関係、社会運動の立ち位置について


(略)
 私がこの2年間で発見したのは、官僚の中にも、私と同じような方向性を目指しながら働きかけを行っている人たちがたくさんいる、ということでした。その人たちはテレビや新聞で原則論をぶったりはしません。錯綜する利害関係の中で説明・説得・調整・妥協を繰り返しています。決定権をもたない組織の一員として、言いたいことを声高に言うことなく、しかし結論が「言いたいこと」になるべく近づくように奮闘しています。ところが、外側の私たちは、そうした内部の奮闘の結果として最後に出てきた結論が情報に接する最初になるので、そこから評価が始まり、交渉が始まります。批判の矛先が奮闘した当の本人に向くこともしばしばです。
 Aという担当者がいて、ある事柄をなんとかしたいと発案し、提起する。課内から局、局から省、省から政府と持ち上がる過程でさまざまな修正が入り、結論としての政策が出来上がる。しかし、もともと同じ方向性の主張を掲げていた人たちが、その結論を原則的な立場から頭ごなしに批判し、説明者でもある担当者をなじる。この過程が何度となく繰り返されていけば、少なくとも私だったらだんだんと気持ちが萎えていきます

【お知らせ】内閣府参与辞任について(19:30改訂、確定版)(2012年3月7日水曜日)」(湯浅誠からのお知らせ


というのは、湯浅氏が内閣府という霞ヶ関の意思決定システムの一部に入り込んだからこそ見えた光景でしょう。権丈先生も大屋先生も、こうした光景を目の当たりにして(少なくともそうした意思決定システムがあるという事実を踏まえて)政策論を考察しているからこその信頼感なのだと思います。ところが、上記で湯浅氏が指摘している通り、同じ霞ヶ関の中にも原理主義を貫く官僚というのは一定数いるもので、そのような方々が「カイカク派知事」とか「脱藩官僚」になってフィージビリティのない空疎な原則論をマスコミでぶつわけです。あるいは、財務省や日銀の実務家が国際標準の経済学も理解していないと批判する割に、学会で専門家同士で議論するのでも、国際的なジャーナルにアクセプトされる論文を書くのでもなく(私が知らないだけかもしれませんので、そのときはこの部分は削除します)、一般の素人やアイドルに専門知を振りかざしながら「消費者に対して圧倒的な市場支配力を乱用して」いく専門家もいらっしゃいます。

このような方々が少し黙っていてくれるだけで利害調整も少しは楽になるのですが、そんなことはお構いなしにご自身のシンパを増やすことに専念されるわけですから、利害調整に要する時間も人手も増えていっているように感じます(その手間を省くことが独裁なのですが、それすら一部では望まれているようで油断はできません)。まあ、黙っていてほしい方の典型例が、放射性物質の危険性について闇雲に恐怖心を煽り、いらぬ風評被害を引き起こしてがれき処理を遅らせ、風評被害対策とかがれき処理議連なんていうムダな行政経費をかけさせている一部の論者とか、破綻するはずもない年金制度に対する不安を喧伝して政権を奪取した現政権とかそのブレーンの経済学者なわけですが。
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2012年03月18日 (日) | Edit |
震災から1年経ち、それから1週間が過ぎました。帰宅が遅いので番組表でしかわかりませんが、1週間前まではあれほどしつこく放送されていた震災関連の番組が一気に減ったように思います。「あのときを忘れない」というのも繰り返し聞かれたフレーズですが、個人的にはこれらのCMを見ると、去年の今頃が例年にない寒さで、店頭には物資がなくて、それでも被災地のために送られてくる物資を何とか届けて、避難所に寝泊まりしたのもこの時期だったことを思い出します。これらのCMは初夏の陽気になるまで繰り返し放送されてはいましたが、思い出されるのはやっぱり去年のこの時期の記憶です。
あのときを忘れないためのトリガーです。

高画質 ACジャパン 新CM サッカー【岡崎 長友 内田】


AC CM EXILE HIRO VERBAL 日本の力を、信じてる。


AC CM SMAP トータス松本


[AC CM] あいさつの魔法。 (60sec.)


ACジャパン CM こだまでしょうか 60秒版


ACジャパン 思いやりは誰にでも見える (60秒) 2011


ACジャパン デマに惑わされないようにしよう



2012年03月18日 (日) | Edit |
海老原さんに新著をご恵投いただきました。いつもながら場末のブログを気にかけていただきありがとうございます。

本書では、『学歴の耐えられない軽さ やばくないか、その大学、その会社、その常識』(2009)で取り上げられていた大学卒業者の就職状況について、より具体的なデータを交えて具体的に考察されています。個人的には、早稲田・慶応という二大私立大学の就職状況から「総合大の女子大化」へと論を進めていく過程が、とてもおもしろく感じました。学歴だけでなく、大学の内部でも学部や性別によって学生の志望状況や企業の採用傾向が変わるのというのは、学生が学校で体得してきた社会観や、企業の業務内容がさまざまであることを考えれば、ごく当たり前のことです。海老原さんの著書はそういった個々の事情を個別に検討していき、どの点をどのような方策で改善すべきかを提言されているので、私のような実務屋でも納得する部分が多いのだろうと思います。

逆に言えば、そうした実務の現場を考慮することなく、「大学を卒業しても就職できないのは不況のせいだ」とか「高校生の就職が厳しいのは新卒に偏重していることが諸悪の根源だ」とか、一面では正しいもののおおざっぱでしかない議論をされている方にこそ読まれるべき本だと思うのですが、そうした「一刀両断」的なワンフレーズを好む方がこうした地道な考察を理解すること自体が期待できないわけで、社会的な制度の改善というのはなかなか難儀なものです。

本書のメインテーマからは外れるのですが、海老原さんのそうした現場に根ざした問題意識が、図らずも上記のような難儀な社会状況を生んでしまうルートを示しているように見えたところが大変興味深いところです。

 ちなみに、東大・京大をはじめとする旧7帝大に総計、一橋、東工大を加えた超ブランド大学の入学者数は1学年当たり4万人を超える。人気100社の採用者数2.61万人という数字は、このブランド校に入るよりもよっぽど厳しいということが、数字からわかっていただけただろうか。

採用市場では、草野球がプロを目指してしまっている

 ただ、学生たちにこの厳しさをいくら伝えても、「はいわかりました」という人は少ない。そして、こんな返答をされることもわかっている。
「といったって、受けてみなければわからないじゃないですか。人気企業を受けるのに別にお金がかかるわけでもないんだから」
 そう、就職ということに関しては、まるで相場観がないのが普通の学生なのだ。
 ひるがって考えてほしい。少し野球がうまいからといって、「受けて見なければわからないから」とプロ野球選手を志望する学生はまずいないだろう。彼らは、リトルリーグで夢砕かれ、中高では名門校に入れずまた挫折し、名門校に進んでも甲子園には届かず…。そう、大学に入るまでに何度も砂を噛む思いをしている。だから、相場観が身についているのだ。
(略)
 こんな状態で、親やキャリアカウンセラーが、口を酸っぱくして「社会はそんな甘いもんじゃない」「多くの人が中堅中小企業で働いている」と説得しても、やはり学生は納得はしない
pp.48-49

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※ 以下、強調は引用者による。


そんな学生たちは、それでも就活を実践していく中で相場観を身につけていくことになります。その結果、

 ただ、人生の一大事である「仕事選び」に対して、20歳を過ぎた一時期に、思いっきり悩み苦しむのは、必要悪でもあるのではないか。
 その結果、キャリア教育などでは得られない、さまざまな現実を知ることができる
 企業の事業内容や職務内容、そして、人気企業は超狭き門で早稲田や慶応に入るよりも難しいという市場構造。必死に就活する半年で、みな驚くほど理解していく。

 訳知り顔で適当なことを語る大人たちが無知で無力な傍らで、就活を通り過ぎた若者たちのほうが、世の中の現実を理解していくという矛盾に皮肉なものを感じている。

海老原『同』p.195

という誠に皮肉な状況に至ってしまっています。話がここで終われば、就活で現実を知る機会があってよかったねでめでたしめでたしとなるのですが、実はそうして「就活で現実を知った若者」こそが「訳知り顔で適当なことを語る大人たち」の予備軍でもあるのではないかと思います。今の大人たちが、たとえばバブル期に接待漬けで採用された実体験を基に「ワカモノの就職を改善するために新卒一括採用を全廃すべきだ」と訳知り顔で適当なことを語っているのであれば、数年後、数十年後にも同じような光景が、そのときはまた違った形で繰り返されるのかもしれません。

ちょっと話が変わりますが、実を言えば、海老原さんが本書の「5章 大学の「就職率」は信じられるのか?」で批判されている行政(文科省、厚労省)の就職率に関するデータで、「就職状況調査」の就職率が異様に高いことは、雇用・労働行政に関わる者であれば周知の事実といえるのだろうと思います。その意味では、海老原さんが、

 大学も、痛くもない腹を探られたくないのなら、最低でも、進学・帰国以外の不明確な理由を「その他」でまとめず、浪人理由・無業理由・非希望理由を開示することを求めたい。そして、合格者と浪人の比率が明らかにおかしい(合格者がほとんどいないのに浪人が多数いてバランスが悪いような資格・進学)場合、文科省かもしくは消費者庁が、その大学に査察を行う仕組みにしてほしいものだ。

海老原『同』pp.158-159

とおっしゃる気持ちはよく理解できるのですが、かといって「その他」にまとめられている就職浪人や非希望理由での卒業者をすべて開示するとなると、またぞろ「訳知り顔で適当なことを語る大人たち」がわいて出てくることが予想されます。特に、最近では公的セクターに対するバッシングや謝罪要求がやむことはないでしょうから、「大学を民営化して競争にさらすべきだ」とか「文科省などという既得権益を破壊しろ」とか言い出す人がいそうです(まあ、大学はすでに独立行政法人化されて競争にさらされているからこそ異様に高い就職率が公表されてしまっているわけですけども)。

いやもちろん、現状を正確に把握できるデータをとりまとめて公表するということは公的セクターの重要な役割であって、その正確なデータを基に政策を積み上げていくという作業が必要だという点には全く異論はありませんし、批判が予想されたとしてもそれをやり通すのが公的セクターの責務だという点も異論はありません。その意味で文科省を擁護するつもりは全くありませんが、そうした事実に基づいた議論を正面からしにくい環境にあるのもまた現実であるわけでして、返す返すも社会的な制度の改善というのはなかなか難儀なものだなあと思った次第です。

 何年か前、サットンは二つの大きな学区のトップと話すことがあった。二人とも、社会的進級を廃止しようとしているさなかであった(両学区とも、過去に同じようなことを行って失敗している)。サットンは、自分たちが行おうとしていることが間違っている、という多くの証拠があることを知っているかを尋ねてみた。二人の答えはほぼ同じ「イエス」であった。彼らは過去の研究のことをよく知っており、政治家にも直談判した。しかし、あまりにも多くの有権者が賛成していることで、社会的進級廃止を変えさせることはできなかった。二人ともやるしかないところまで追い込まれた。しかし、彼らはできる限りゆっくりと、また部分的に実行を始めた。実際、彼らは半分自己弁護的、半分怒りの混じったトーンで、政治的圧力のない完璧な世界ならば、こんなことはしなくてもよいのだが、ダメージを最小化するには、こうするしかないのだと説明した。彼らのメッセージは、彼らがこうしなかったら、解雇されて、廃止論者がやってきてもっと大きなダメージを与えるだろうということだった。つまり、抵抗や遅れはいつもマイナスとは限らない。時には、事実に基づいた命令拒否が個人にとっても、組織にとっても良いときはある。
p.326

事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?
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ジェフリー フェファー、ロバート・I. サットン 他

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官僚叩きに精を出している方々が、実は自分の首をしめていると気がつくことはないでしょうから、この点は絶望的ではあります。

change and die(2009年07月04日 (土))