2012年02月12日 (日) | Edit |
先日のエントリについて各方面で取り上げていただいておりましたが、若干言葉が足りなかったかもしれないと思う点がありましたので、補足させていただきたいと思います。

なんというか、しばらく前には「世間知」と「専門知」という対立で描かれる時期があったように思うのですが、それは本質的な対立ではなく、お互いに「俺の方が詳しい」と言い張る「学術知」と「実務知」が不毛に対立しているというのが実態のような気もするところです。ケインズが「知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかのトンデモ経済学者の奴隷です」と「実務知」と「学術知」を対比して取り上げていたのには、こうした洞察があったのかもしれません。

実務のない新世代(2012年02月05日 (日) )

これについて詳しく取り上げていただいたのがtonmanaanglerさんのところでしたので、コメントさせていただきました。

(追記2/9)

お互いに「俺の方が詳しい」と言い張る「学術知」と「実務知」が不毛に対立している

というのは「異なる価値観を持つAとBがお互いに自分が絶対に正しくお前が間違っているとして他者を見下している不毛な対立」という意味じゃなくて、「バカとバカがどっちも間違っているくせに正しいと言い張っている不毛な対立」という意味ですよね。「学術知」「実務知」と括弧付きで書いているのもそのためであって、「両者を見下している本当のことがわかっている自分」という立ち位置から書いているわけで、「トンデモ経済学者」なんて言葉が出てくるのもそのためであり、「正しい」ことを言えばそれでいいのかという問題提起じゃなくて、明らかにお前は間違っていると言っているわけですよね。それは前者の意味での「不毛な対立」に新たにCが加わっただけのように俺には見えますね。


ただ、ケインズの言う「実務屋」というのは文脈からみて政治家のことであって、すなわち小沢一郎が該当するわけで、政治家は飯田先生を含む浮世離れした(せざるえを得ない)専門家の影響を受けている、つまり「実務屋」は専門家の奴隷なんだという話をケインズはしているように思うわけで、それを踏まえるとマシナリ氏が何を言っていっているのか(現場で働く役人を実務屋としているように思われる)正直理解に苦しむところはある。

■グランドキャニオンには柵がない(2012-02-07)」(国家鮟鱇

コメント欄
マシナリ 2012/02/11 08:56
拙ブログを取り上げていただきありがとうございます。

私のエントリの最終パラグラフの趣旨は、(追記の2/9)で「バカとバカがどっちも間違っているくせに正しいと言い張っている不毛な対立」と指摘されているとおりではありますが、私の書き方が悪かったせいで、それを私が『「両者を見下している本当のことがわかっている自分」という立ち位置から書いている』と誤解されてしまったように思います。学者の先生方が専門的な知識に長けている代わりに実務に疎いことと、実務屋が実務ばっかりやっていて専門的な知識に欠けていることはお互いの立場からいえば当然のことで、それを批判する趣旨ではないということを書いたつもりでした。したがって、「実務知」しか知らない「バカ」には当然私も含んでおります。

先月のエントリで書いたことですが、http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-493.html「人によってその表現に巧拙があること自体は当然のこと」である以上はそれを批判しても不毛ではないかと感じているところでして、その点を書いたつもりが言葉足らずのために誤解を与えた形になってしまい恐縮です。

貴ブログの別エントリでのケインズの記述趣旨についての考察も大変興味深く拝見しております。私も別途ケインズの言葉について考えてみたいと思います。


先日のエントリでは、正直なところまとめきれずにあまり言葉の意味を考えずに書いてしまったところ(拙ブログでは結構ありますが)でして、tonmanaanglerさんがご指摘されている中では前半のパラグラフについてはコメントさせていただいたような状況です。後半についても私の言葉が足りなかったところですが、三権分立というのが理念的には整理できる概念だとしても実体的な分離というのは結構微妙なものであって、特に立法と行政は単純に組織を分離すれば分立するものではないと考えております。

長谷部恭男先生の言葉を借りれば「立法・行政・司法のうち、二つ以上の権力がすべて同一人ないし同一団体のものとなってはいけないというのが、権力分立論の眼目」であって、逆に言えば、それが容易には達成されないからこそ三権分立をわざわざ憲法典に書き込まなければならないのだろうと思います。つまり、私は政治家と役人が同一の組織によって運営されることを懸念する一方で、実態として政治家と役人は同じフィールドで仕事をする以上、ある程度の実務の重複は避けられないものと観念しているということになります。したがって、実務屋といって私が想定するのは、政治家であるとともにその意を受けて行動する役人でもあるわけです。tonmanaanglerさんに誤解を与えるような形になってしまったのは、私のエントリでこの点についての言及がなかったからではないかと思いますがいかがでしょうか。

その上で補足するなら、実務屋(に限らず専門家もそうかもしれませんが)というのは自分の仕事の範囲でしかまともな言説を繰り出すことはできないわけで、自分の仕事の範囲外のことに口を出せば誰でも「トンデモ」になってしまうのであれば、それをお互いに批判し合っても不毛だろうということを感じるところです。私も飯田先生をはじめその番組に出演していた方々にイチャモンをつけたところで、彼らの専門分野については私のほうが批判されなければならないわけで、そのこと自体にはあまり意味がないのではないかと考えるようになっています。

ケインズの言葉を引用したのは、そうした実務屋と専門家の間の関係についての一つの洞察ではないかと考えたからですが、たとえばライシュはケインズの言葉をこのように引用します。

かつて経済学者のジョン・メイナード・ケインズは「権力を握った狂人たちが『お告げ』を受けた、と主張して推し進める政策は、研究者が数年前に唱えていたことの二番煎じだ」と書いた(8)。しかし、ここでいう研究者が唱えていたこととは、18世紀にアダム・スミスが打ち出したものとほとんど変わっていなかった。彼らは、すでに起きていた変革をうまく説明できたということだけで、20世紀後半の数十年に米国をはじめ正解各国で突如として台頭してきたのである。彼らは変革を起こしたのではなく、言うなれば正当化しただけなのである。
p.15

(8) John Maynard Kaynes, The General Theory of Employment, Interest and Money (London: Longmans, Green, 1936),Chapter 12,p.134 <塩野谷祐一訳『雇用・利子及び貨幣の一般理論』(普及版)東洋経済新報社、1995年>

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ここで引用されているのは塩野谷訳ですが、

雇用・利子および貨幣の一般理論雇用・利子および貨幣の一般理論
(1995/03)
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参考までに間宮訳を引用しておくと、

誰の知的影響も受けていないと信じている実務家でさえ、誰かしら過去の経済学者の奴隷であるのが通例である。虚空の声を聞く権力の座の狂人も、数年前のある学者先生から〔自分に見合った〕狂気を抽き出している。既得権益の力は思想のもつじわじわとした浸透力に比べたらとてつもなく誇張されている、と私は思う。思想というものは、実際には、直ちに人を虜にするものではない、ある期間を経てはじめて人に浸透していくものである。たとえば、経済学と政治哲学の分野に限って言えば、25ないし30歳を超えた人で、新しい理論の影響を受ける人はそれほどいない。だから、役人や政治家、あるいは扇動家でさえも、彼らが眼前の出来事に適用する思想はおそらく最新のものではないだろう。だが〔最新の思想もやがて時を経る〕、早晩、良くも悪くも危険になるのは、既得権益ではなく、思想である。
p.194

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間宮訳のほうは間宮先生の〔 〕内の補足がちょっと紛らわしいのですが、ケインズは自身の理論が最新でなくなることも見据えた上で実務家というのは最新の理論には疎いものだと指摘しているのではないかと考えます。その「実務家」は原文では“Practical men”ですが、後半の例示では“civil servants and politicians and even agitators”が挙げられているので、まあ政治家も役人も一緒くたといっていいのではないかと。

これらの訳出から私なりに時間軸を整理してみると、間宮訳では多少の軽蔑を込めて「数年前のある学者先生」、山形訳ではさらに強烈に「数年前の駄文書き殴り学者」となっていることからすれば、ケインズの意図は、(ケインズが『一般理論』を著した当時の)ここ数年の論壇はたいしたことが議論がされていなかったということを指摘するもので、ライシュがその言葉を受けて、ケインズが切り捨てた議論の中身は「18世紀にアダム・スミスが打ち出したものとほとんど変わっていなかった」と評したのではないかと思います。

ややこしいのは、ケインズが「思想というものは、実際には、直ちに人を虜にするものではない、ある期間を経てはじめて人に浸透していくものである。」としている点で、これで「数年前」というスパンの解釈に幅が出てしまうのでしょう。もしかすると、ケインズの論敵であったピグーらの古典派経済学者らが数年前に唱えた議論が、ケインズの『一般理論』によってもはや時代遅れになったという勝利宣言みたいなものかもしれませんが、あまり訓詁学にハマってもきりがないのでこのくらいにします。

まあ、ケインズの時代には実務家と認識されていた政治家が、現代日本では絵空事のようなカイカクばかりを打ち出すことのほうが深刻な問題ではないかと思われます。
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2012年02月12日 (日) | Edit |
前回エントリに関連して、またもNHKの番組ですが「プロジェクトJAPAN 最終章 日本復興のために」という分かったような分からないようなタイトルの番組がありまして、これも何となく録画しておいて先日ざっと流し見してみました。概要はこんな感じです。

プロジェクトJAPAN 最終章 日本復興のために

新しい年を迎える東日本大震災の被災地。しかし、復興は遅々として進んでいない。高台移転など、住民の住居の整備。地場産業を中心にした産業復興と雇用の問題。そして、それらに必要な資金のきめ細かい分配の実現・・・。政府はようやく3次補正予算を決めたが、課題山積のまま被災地の苦悩は続いている。なぜ復興は進まないのか。そこには、日本が近代国家を作り上げてきた歴史の中で、大きな課題となってきた「中央と地方」のカネ、情報、人材、などのやりとりという根源的問題が存在している。どうすれば復興は進むのか。被災地に関わる識者たちが、被災地の現状を見つめ、それぞれの歴史研究や自らの体験などを交えながら、検証・提言していく。

「被災地に関わる識者」といって登場されるのが、御厨貴東大教授(政治史)、岡田和弘京大教授(地域経済)、増田寛也野村総研顧問となっておりまして、最後の方は前岩手県知事としての方が有名ですね。でまあ、このメンツから予想される通り、番組全体が「中央集権だからダメだ」「地方に財源と権限を!」というチホーブンケン教チックなトーンでまとめられていて、「この期に及んで「国だから中央集権だ」とか「自治体にやらせればチーキシュケンだ」という実務を無視した議論がまかり通ることに脱力せざるを得」ないわけですが、彼らにしてみれば、国というスケープゴートをあげつらうことで、自らの立場を正当化しつつさらにそれを強化できるまたとない機会でしょうから、特にマスコミにはこういう言説を防ぐ手段はないのだろうと諦めております。

番組の中で象徴的だったのが、増田前岩手県知事と岩手県宮古市長との対話で出てきた財源論ですね。

1時間13分ころ
増田:
例えば財政のあり方とするとね、今の財政構造だとやっぱり自主財源が三割を欠ける、二割なんぼの「二割自治」みたいなね。そういう形になっています。その部分っていうのは、相当自主財源比率を高めなきゃならないのは当然のことですけども。
宮古市長:
そうですね。自主財源を増やすためには、税率を上げたってですね、今のままの所得で税率を上げても全然苦しくなるだけですので、余計衰退して「ああ、ここには居れない」っていうことでほかのところ、要するに都会に出て行くということになると思うんですよ。ですからどうやっても、自分たちの産業を活発化して一人当たりの所得を上げないと、やっぱり自主財源は増えてこないと思うんですね。ですからもうどんなにがんばっても、産業をしっかり育てていってそこで収入が上がるようにしないと、なかなか難しいんじゃないでしょうかね。それをやるためには、外からお金を持ってきて中で回すと、外貨(テロップの説明:企業誘致・観光などによる収入)を稼いで中で回すというようにしないと絶対に上がるわけがないので、中でばっかり回したってどうしようもないのでですね、その辺の意識改革をしていかないとダメなんじゃないですかね。

※ 強調は引用者による。

まあ、チホーブンケン教のアキレス腱は財源論(財源論がアキレス腱となるのは最近の政権党とか地方自治体のカイカク派の動きを見ていると最近の流行なのかもしれませんが)なわけで、拙ブログでもしつこく強調していますが、「三割自治」ではなく「三倍自治」で基礎自治体に権限と財源が多く割り当てられているのが日本の地方自治の特質であって、既に日本は先進国の中でも有数の地方分権国家でもあります。同時に日本は先進国の中で国民負担率が低く、高齢化率もダントツで高い国ですから、地方分権国家であることとの合わせ技で、国による再分配機能が貧弱な国ということでもあります。

引用した増田氏と宮古市長の対話が何となくすれ違っているように感じましたが、「自主財源比率を高めるのが当然」と言い放つ増田氏に対して「意識改革をしていかないとダメ」と宮古市長が異議を唱えているように思えたのは私だけでしょうか。チホーブンケン教の方々が金科玉条の如く掲げる「補完性の原理」の基礎とあがめたてまつられているシャウプ勧告でも「天災は予知できず、緊急莫大の費用を必要とさせるものであるから、天災の勃発は罹災地方団体の財政を破綻させることになる。その結果、地方団体は、起債、非常予備金の設定、高率課税および経常費の節減を余儀なくされる。この問題は中央政府だけが満足に処理できるものである」とされているところでして、自主財源を増やせばよいとか外貨を獲得すれば自立できるとか、自己責任に落とし込むようなネオリベ言説を振り回すチホーブンケン教が「日本復興のために」とかいってるのって、悪いジョークだと思いたいです。
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