2012年01月22日 (日) | Edit |
前回エントリに引き続き、自分向けのメモです。所得再分配がなぜ必要かという議論は実はこれまで意識的にしていませんでしたが、最近は「社会全体の消費性向を向上させるため」という権丈先生の受け売りで考えておりますが、もう少し社会全体の視点から考えてみたときに参考になるのが太田『年金50問50答』の問答6です。

 厚生年金の損得論を続ける前に、ちょっと寄り道して、狩猟を主な生活の糧とする原始的な集団のことを考えてみましょう。
 話が飛びすぎる、と思われるかもしれませんが、人間が分業を営み、共同生活する限り避けられない「分配のルール」の問題を、ここで扱っておきたいのです。
 ちなみに公的年金をはじめ、医療、介護、福祉などの社会保障制度は別名「再分配」と呼ばれます。公的年金をどう考えるか、という問題は、「社会全体で生産したものをメンバー間でどう分配するのか」という普遍的な問題と直結しています。
(略)
 おおざっぱな言い方をすれば、前者の分配方法を「究極の自己責任・成果主義」、後者の方法を「究極の平等主義」と言えるでしょう。だが、いずれの分配方法も、集団を安定的に維持するためには適切ではありません
 ここでメンバーの中に知恵者がいて、次のような提案をします。
「みんながある程度腹を満たし、しかも次の狩りで十分に実力を発揮できるように、捕った獲物の数にかかわらず1人5頭は無条件でもらえるようにしよう。その残りについては、取った数に応じて分配すればいい」
(略)
ですが、集団全体でみれば「全員がある程度の数の獲物を得ることができる」「多く成果を挙げた者ほど、多くの獲物を受け取ることができる」という二つの目的を同時に達成できます。メンバー全員を生き延びさせつつ、次の仕事へのモチベーションも保つことができるわけです。
pp.69-70

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※ 以下、強調は引用者による。

引用が長くなるので途中端折りましたが、「究極の自己責任・成果主義」も「究極の平等主義」も集団を安定的に維持することができないということを、人類が悲惨な歴史の中で学んできたわけで、その積み重ねが現代の先進国の社会保障の形に直結しているといえるでしょう。それが「単に生物学的に進化して形成された昆虫の社会と、心情を知性で裏付けながら制度設計を積み重ねてきた人間の社会の違い」なのだろうと考えます。再度の引用となりますが、

最近企業は、非正規雇用労働者を増やしたり賃金の上昇率を抑えたりすることで労働生産性をあげることに邁進していますが、こうした対処が労働者の生活基盤を悪化させ、それが一因となって社会全体の消費意欲がさがっています。企業は商品を多く売ることで利益を出し、会社を存続させるのですから、こういう状況が企業の存続に有利なわけはないでしょう。まあ、多国籍企業になったり、労賃の安い海外に工場をつくったり、海外に商品を売ったりして儲ければ、という考え方もありますが、そうすると今度は国内の産業基盤が弱くなり、国が長期的に存続するかどうかが問題になるでしょう。
p.168

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と、社会性昆虫を研究している長谷川氏がいみじくも指摘しているように、集団を安定的に維持するということは単純な自己責任・成果主義では達成できないものであって、それを基本的人権という概念で保障する制度を積み重ねてきたのがより高度なヒトの社会ではあるはずですが、それを否定したい方というのもいらっしゃるわけです。

3 所得や富の再分配の拒否:リバタリアンの権利理論は、富の再分配のための課税を含め、いかなるものであろうと、他人を助けることをある人びとに要求する法律を拒否する。富める者が貧しい者を支える--医療、住宅、教育などを補助金を出して支える--ことは望ましいだろうが、そうした援助は政府が命じるのではなく、個人の意向に任せられるべきだ。リバタリアンによれば、再分配のための課税は一つの形の強要であり、さらに言えば盗みである。国家には富裕な納税者に貧者のための社会プロクラムを支えるよう強制する権限はない。それは、義賊が富める者から金を盗み、ホームレスに与える権利を持たないのと同じである。
 リバタリアンの哲学は政治勢力図の上にきちんとした位置を持っていない。
p.81

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最近どこかでこんな主張をされる方がいらっしゃいましたが、そうした方々は自らの自由を信奉するあまり、他者の自由について考慮しなくなってしまい、自己責任論でコーティングした他者に対する侮蔑とか、他者を「既得権益」として攻撃して恥じないという行動をとってしまう傾向があるように思います。これは、行政の小ささを前提としてボランティアなどの個人の行動に任せればうまくいくという議論にも根拠を与えてしまいかねないわけで、経済学に限らず価値判断に中立であろうという融通無碍さには十分に注意が必要です。

開発経済学者のサックスもこの点を指摘されているようで、

ジェフリー・サックスが、リバタリアニズムに惹かれる若者に警告を発している

Libertarianism is the single-minded defense of liberty. Many young people flock to libertarianism out of the thrill of defending such a valiant cause. They also like the moral freedom that libertarianism seems to offer: it's okay to follow one's one desires, even to embrace selfishness and self-interest, as long as it doesn't directly harm someone else.
Yet the error of libertarianism lies not in championing liberty, but in championing liberty to the exclusion of all other values. Libertarians hold that individual liberty should never be sacrificed in the pursuit of other values or causes. Compassion, justice, civic responsibility, honesty, decency, humility, respect, and even survival of the poor, weak, and vulnerable -- all are to take a back seat.
(拙訳)
リバタリアニズムは自由の擁護に一意専心する。そうした価値ある大義を守ることへの喜びから、多くの若者がリバタリアニズムの下に参集している。彼らはまた、リバタリアニズムが提供するかに思われる道徳的自由も好んでいる。人が自らのある欲求に従うことは問題ないし、利己主義や自己の利益を追求することにさえ問題はない――それが他の誰かを直接傷つけることが無い限りにおいては。
リバタリアニズムの誤りは自由を支持することにあるのではなく、他のすべての価値観を排除して自由を支持することにある。リバタリアンは、個人の自由が他の価値や大義の追求のために犠牲になることは決してあってはならないと信じている。同情、正義、市民の責任、誠実、品位、謙虚さ、尊敬、そして貧しき者や弱き者や無防備な者の生存でさえ、すべて脇に追いやられるのだ。


リバタリアニズムの何が問題か?(2012-01-18)」(himaginaryの日記

リバタリアンの行動パターンは世界中どこでも同じなのかもしれません。
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2012年01月22日 (日) | Edit |
ちょっとしたゴタゴタに巻き込まれて更新がはかどりませんでしたが、だいぶ前の非国民通信さんのエントリを拝見して考えたことをメモ。あらかじめお断りしておきますが、私は非国民通信さんのご指摘には大方の部分でその通りだろうと考えていますが、消費税についてのみの議論であればその通りだとしても、所得税などの直接税や国際課税についての議論もなければバランスのとれた議論とならないのではないかということで、自分用にまとめたものです。

1.税の複雑化

公共経済学の租税論では一律のランプサム税(人頭税)がもっとも効率のよい税制となりますが、稼得能力や応益性を反映しないので垂直的公平、水平的公平を満たすために各種の控除制度で各個人の「状況」を勘案する必要があります。その点から言えば、「市場や公共サービスという社会を利用した額」を課税ベースとする付加価値税(Value Added Tax)であれば、各個人がその必要に応じて社会を利用した度合いをその個人が購入した付加価値で測って、これに一律の税率を貸すことで応益性についての公平性を担保できます。ただし、この議論を進めていくと、購入した都度その付加価値に課税するよりも、年収から貯蓄を引いた額を消費(C=I-S)と定義し、年に一回の所得調査と貯蓄調査を行い、その差額に課税するフラットタックスという議論になります。しかし、フラットタックスの利点は、キャピタルゲインとか利息収入とか贈与といった個別の所得に対する課税を一本化できることから、究極的に簡素な課税方式という点にあるわけですが、そもそも「年収(所得)」と「消費」をいつからいつまでで区切るか、どのようにしてその個人に帰属した財産から測るかという技術的な難問だ立ちはだかります。

だったら最初から金銭所得に課税すればいいじゃないかという議論になるわけで、結局のところ、消費税と所得税は長期的には同等の課税方式であって、所得税はその都度の収入に課せられるので、老後に消費したいと考えている人にとっては不利な課税方式ということになります。ここでまた議論が振り出しに戻って、一律のランプサム税では個々人の状況を反映できないので、所得からその個々人の状況によって回避できない経費(医療や介護、保育、教育など)に要する経費を控除するということになって、現行の所得税はそういう構造になっているわけです。しかし、所得税そのものにも累進制が導入されているため、この控除と累進制の問題が複雑化していきます。現行の日本の所得税は、どちらかというと累進制は低いものの、所得税の課税最低限が高く、低い税率が適用される所得が低く、所得控除の項目が多いため、実態として大多数の勤労所得家計は最低限の所得税しか負担していません。

こうした現状を踏まえると、社会を利用した額に応じてその都度課税する消費税には一定の「簡素性」があると思います。

2.滞納を防ぐ

所得税には上記の通り所得を把握することの困難性というより、そもそも所得をどう定義するかということとその金銭的な評価をどう行うかという難問があります。滞納というのもその所得がそもそも把握できない中で、明確に定義できた税額に対しての滞納となりますので、各種税目において滞納の発生する率が同じと仮定すれば、徴税当局が公表する滞納額は課税額が明確になっている額が大きくなればなるほど大きくなります。滞納額が大きいからといって課税方法に穴があるというより、むしろ課税額が確定している額が大きいと理解することも可能です。逆に言えば、滞納額が小さいということはそもそも課税額がはっきりしないという側面もあると思います。現行の消費税はインボイス方式を導入していないため益税問題が指摘されていますが、インボイス方式の導入の前提となるのはマニフェスト(支払い明細書)の整備ですから、税制だけの問題ではなく流通などの商慣行の面でも同時に改善すべき点がありそうです。

3.負担者が曖昧

完全競争的な市場では、課税方式による帰着の問題は生じませんが、消費税のような従量税が購入者の支払う価格に転嫁されるか生産者の生産量が減少するかという点については、需要曲線と供給曲線の傾き(価格弾力性)によってその負担割合が変わるというのが経済学の議論です。もちろん、これは現実の独占的だったり寡占的だったりする市場では変わるわけで、特に後者の寡占的市場における転嫁については経済学では定説はないようです。

4.国際課税

輸出企業が輸出品の原材料について仕入れ控除を受けるとその分が益税となるという指摘もありますが、当然のことながら法人が支払う税金は消費税だけではありませんし、輸出先の国の法人が自らに課せられる税金を転嫁するためには輸入品(日本から見れば輸出品)の価格を引き下げることもあり得るわけで、日本企業が「そちらは輸出の時に非課税なんだからその分まけてよ」といわれることもあるのではないでしょうか。というより、そうした租税輸出が貿易障壁とかダンピングになっているという点についてはすでに議論し尽くされているわけで、付加価値税に限らず法人税などの国際課税の二重取りや租税輸出については、国際的な交渉が進められているところです。
国際課税に関する論点整理 (PDF形式:245KB)

5.逆進性の評価

社会を利用した額に応じて課せられるものが消費税と考えると、逆進性についての議論は、一面では消費税に常につきまとう議論ではありますが、社会を利用する額についての考え方によっても変わってくるものと思います。つまり、社会を利用する額の対象となるものが、そもそも回避できるものだったり奢侈品だったりすればそれを購入しなければいいということになりますが、市場で供給されるものであってその購入を回避できない食料品などの生活必需品はそうもいきません。それを現金で解決しようとすれば必需品に対する軽減税率となりますが、それでもなお医療、介護、保育、教育といった対人サービスによって供給される現物給付は市場の失敗により過小供給となり、結局お金のない人は利用できないことになります。給付付き税額控除はあくまで労働供給を喚起するためのアクティベーションとして実施されるものであって、低所得者に必要な対人サービスまでを保障するものではありません。その財源として社会を利用した額に応じて課せられる消費税を充てることによって、低所得者の社会を利用する権利を保障するとともに対人サービスに要する人件費を確保するということ自体は、それほど理屈の通らない議論ではないと思うわけです。
まあ、消費税を多く払う人=多く社会を利用する人であれば、消費税の税率アップが限界消費性向の高い人から限界消費性向の低い人への所得再分配となるかという点は微妙かもしれませんが、その財源が現物給付に当てられれば少なくとも現物給付を担う方々への労働需要を喚起しますので、それが内需となって社会全体の消費性向を向上させる効果は期待できると考えます。

6.最後は価値判断

上記の議論はスティグリッツ『公共経済学 下』を私なりに解釈した議論ではありますが、ご存じの通りスティグリッツは経済効率性についてのワシントンコンセンサス的理解に対して厳しく批判している論者ですので、この議論もその影響を多分に受けていると思います。そのスティグリッツは、本書の中で「公正についての議論に対して経済学者の貢献できること」としてこう述べています。

 経済学者(または哲学者)は、公正を判断するための適切なベースの選択に関する基本的問題を解決してこなかったけれども、いえることはまだ多くある。たとえば、どのような税金であれ、その総効果を述べることができるということは重要であり、これらは、各個人が直接支払っている税金の量によって簡単に述べることはほとんどできない。(略)したがって、われわれの租税制度に含まれている外見上の不平等の多くは、うまく定義されているように見える概念を租税法に必要とされる正確な言葉に直すことの本来的困難さの結果にすぎないのである。
 他の場合には、税法のなかのいろいろ異なった条項やその条項の変化がさまざまなグループにどのような結果を与えるかを注意深く考慮することによって、なぜ、あるグループは一連の条項が不公平であると主張し、他のグループはそのような条項の変更を不公平であると主張するのか、について何らかの洞察を得ることができる。われわれは、「公正」という言葉があるグループの私利追求を隠ぺいするための言葉として用いられる場合と、個人の主張には何か合理的な倫理的または哲学的な考えがある場合とを区別することができるのである。
p.619

スティグリッツ 公共経済学〈下〉租税・地方財政・マクロ財政政策スティグリッツ 公共経済学〈下〉租税・地方財政・マクロ財政政策
(2004/01)
ジョセフ・E. スティグリッツ

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※ 強調は引用者による。

前回エントリのコメント欄でも指摘しましたが、経済学が価値判断に中立的であるというのはその実証的な分析手法についてのみであって、その結果については規範的に議論しなければなりません。むしろ、増税に対する忌避の隠れ蓑としてリフレーション政策を支持しているのか、リフレーション政策によって流動性供給を確保して、その流動性が適切に再分配されるべきと考えているのかを区別することも、経済学の重要な貢献ではないかと思うところです。
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