2012年01月22日 (日) | Edit |
前回エントリに引き続き、自分向けのメモです。所得再分配がなぜ必要かという議論は実はこれまで意識的にしていませんでしたが、最近は「社会全体の消費性向を向上させるため」という権丈先生の受け売りで考えておりますが、もう少し社会全体の視点から考えてみたときに参考になるのが太田『年金50問50答』の問答6です。

 厚生年金の損得論を続ける前に、ちょっと寄り道して、狩猟を主な生活の糧とする原始的な集団のことを考えてみましょう。
 話が飛びすぎる、と思われるかもしれませんが、人間が分業を営み、共同生活する限り避けられない「分配のルール」の問題を、ここで扱っておきたいのです。
 ちなみに公的年金をはじめ、医療、介護、福祉などの社会保障制度は別名「再分配」と呼ばれます。公的年金をどう考えるか、という問題は、「社会全体で生産したものをメンバー間でどう分配するのか」という普遍的な問題と直結しています。
(略)
 おおざっぱな言い方をすれば、前者の分配方法を「究極の自己責任・成果主義」、後者の方法を「究極の平等主義」と言えるでしょう。だが、いずれの分配方法も、集団を安定的に維持するためには適切ではありません
 ここでメンバーの中に知恵者がいて、次のような提案をします。
「みんながある程度腹を満たし、しかも次の狩りで十分に実力を発揮できるように、捕った獲物の数にかかわらず1人5頭は無条件でもらえるようにしよう。その残りについては、取った数に応じて分配すればいい」
(略)
ですが、集団全体でみれば「全員がある程度の数の獲物を得ることができる」「多く成果を挙げた者ほど、多くの獲物を受け取ることができる」という二つの目的を同時に達成できます。メンバー全員を生き延びさせつつ、次の仕事へのモチベーションも保つことができるわけです。
pp.69-70

いま、知らないと絶対損する年金50問50答 (文春新書)いま、知らないと絶対損する年金50問50答 (文春新書)
(2011/04/19)
太田 啓之

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※ 以下、強調は引用者による。

引用が長くなるので途中端折りましたが、「究極の自己責任・成果主義」も「究極の平等主義」も集団を安定的に維持することができないということを、人類が悲惨な歴史の中で学んできたわけで、その積み重ねが現代の先進国の社会保障の形に直結しているといえるでしょう。それが「単に生物学的に進化して形成された昆虫の社会と、心情を知性で裏付けながら制度設計を積み重ねてきた人間の社会の違い」なのだろうと考えます。再度の引用となりますが、

最近企業は、非正規雇用労働者を増やしたり賃金の上昇率を抑えたりすることで労働生産性をあげることに邁進していますが、こうした対処が労働者の生活基盤を悪化させ、それが一因となって社会全体の消費意欲がさがっています。企業は商品を多く売ることで利益を出し、会社を存続させるのですから、こういう状況が企業の存続に有利なわけはないでしょう。まあ、多国籍企業になったり、労賃の安い海外に工場をつくったり、海外に商品を売ったりして儲ければ、という考え方もありますが、そうすると今度は国内の産業基盤が弱くなり、国が長期的に存続するかどうかが問題になるでしょう。
p.168

働かないアリに意義がある (メディアファクトリー新書)働かないアリに意義がある (メディアファクトリー新書)
(2010/12/21)
長谷川 英祐

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と、社会性昆虫を研究している長谷川氏がいみじくも指摘しているように、集団を安定的に維持するということは単純な自己責任・成果主義では達成できないものであって、それを基本的人権という概念で保障する制度を積み重ねてきたのがより高度なヒトの社会ではあるはずですが、それを否定したい方というのもいらっしゃるわけです。

3 所得や富の再分配の拒否:リバタリアンの権利理論は、富の再分配のための課税を含め、いかなるものであろうと、他人を助けることをある人びとに要求する法律を拒否する。富める者が貧しい者を支える--医療、住宅、教育などを補助金を出して支える--ことは望ましいだろうが、そうした援助は政府が命じるのではなく、個人の意向に任せられるべきだ。リバタリアンによれば、再分配のための課税は一つの形の強要であり、さらに言えば盗みである。国家には富裕な納税者に貧者のための社会プロクラムを支えるよう強制する権限はない。それは、義賊が富める者から金を盗み、ホームレスに与える権利を持たないのと同じである。
 リバタリアンの哲学は政治勢力図の上にきちんとした位置を持っていない。
p.81

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
(2010/05/22)
マイケル・サンデル

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最近どこかでこんな主張をされる方がいらっしゃいましたが、そうした方々は自らの自由を信奉するあまり、他者の自由について考慮しなくなってしまい、自己責任論でコーティングした他者に対する侮蔑とか、他者を「既得権益」として攻撃して恥じないという行動をとってしまう傾向があるように思います。これは、行政の小ささを前提としてボランティアなどの個人の行動に任せればうまくいくという議論にも根拠を与えてしまいかねないわけで、経済学に限らず価値判断に中立であろうという融通無碍さには十分に注意が必要です。

開発経済学者のサックスもこの点を指摘されているようで、

ジェフリー・サックスが、リバタリアニズムに惹かれる若者に警告を発している

Libertarianism is the single-minded defense of liberty. Many young people flock to libertarianism out of the thrill of defending such a valiant cause. They also like the moral freedom that libertarianism seems to offer: it's okay to follow one's one desires, even to embrace selfishness and self-interest, as long as it doesn't directly harm someone else.
Yet the error of libertarianism lies not in championing liberty, but in championing liberty to the exclusion of all other values. Libertarians hold that individual liberty should never be sacrificed in the pursuit of other values or causes. Compassion, justice, civic responsibility, honesty, decency, humility, respect, and even survival of the poor, weak, and vulnerable -- all are to take a back seat.
(拙訳)
リバタリアニズムは自由の擁護に一意専心する。そうした価値ある大義を守ることへの喜びから、多くの若者がリバタリアニズムの下に参集している。彼らはまた、リバタリアニズムが提供するかに思われる道徳的自由も好んでいる。人が自らのある欲求に従うことは問題ないし、利己主義や自己の利益を追求することにさえ問題はない――それが他の誰かを直接傷つけることが無い限りにおいては。
リバタリアニズムの誤りは自由を支持することにあるのではなく、他のすべての価値観を排除して自由を支持することにある。リバタリアンは、個人の自由が他の価値や大義の追求のために犠牲になることは決してあってはならないと信じている。同情、正義、市民の責任、誠実、品位、謙虚さ、尊敬、そして貧しき者や弱き者や無防備な者の生存でさえ、すべて脇に追いやられるのだ。


リバタリアニズムの何が問題か?(2012-01-18)」(himaginaryの日記

リバタリアンの行動パターンは世界中どこでも同じなのかもしれません。
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2012年01月22日 (日) | Edit |
ちょっとしたゴタゴタに巻き込まれて更新がはかどりませんでしたが、だいぶ前の非国民通信さんのエントリを拝見して考えたことをメモ。あらかじめお断りしておきますが、私は非国民通信さんのご指摘には大方の部分でその通りだろうと考えていますが、消費税についてのみの議論であればその通りだとしても、所得税などの直接税や国際課税についての議論もなければバランスのとれた議論とならないのではないかということで、自分用にまとめたものです。

1.税の複雑化

公共経済学の租税論では一律のランプサム税(人頭税)がもっとも効率のよい税制となりますが、稼得能力や応益性を反映しないので垂直的公平、水平的公平を満たすために各種の控除制度で各個人の「状況」を勘案する必要があります。その点から言えば、「市場や公共サービスという社会を利用した額」を課税ベースとする付加価値税(Value Added Tax)であれば、各個人がその必要に応じて社会を利用した度合いをその個人が購入した付加価値で測って、これに一律の税率を貸すことで応益性についての公平性を担保できます。ただし、この議論を進めていくと、購入した都度その付加価値に課税するよりも、年収から貯蓄を引いた額を消費(C=I-S)と定義し、年に一回の所得調査と貯蓄調査を行い、その差額に課税するフラットタックスという議論になります。しかし、フラットタックスの利点は、キャピタルゲインとか利息収入とか贈与といった個別の所得に対する課税を一本化できることから、究極的に簡素な課税方式という点にあるわけですが、そもそも「年収(所得)」と「消費」をいつからいつまでで区切るか、どのようにしてその個人に帰属した財産から測るかという技術的な難問だ立ちはだかります。

だったら最初から金銭所得に課税すればいいじゃないかという議論になるわけで、結局のところ、消費税と所得税は長期的には同等の課税方式であって、所得税はその都度の収入に課せられるので、老後に消費したいと考えている人にとっては不利な課税方式ということになります。ここでまた議論が振り出しに戻って、一律のランプサム税では個々人の状況を反映できないので、所得からその個々人の状況によって回避できない経費(医療や介護、保育、教育など)に要する経費を控除するということになって、現行の所得税はそういう構造になっているわけです。しかし、所得税そのものにも累進制が導入されているため、この控除と累進制の問題が複雑化していきます。現行の日本の所得税は、どちらかというと累進制は低いものの、所得税の課税最低限が高く、低い税率が適用される所得が低く、所得控除の項目が多いため、実態として大多数の勤労所得家計は最低限の所得税しか負担していません。

こうした現状を踏まえると、社会を利用した額に応じてその都度課税する消費税には一定の「簡素性」があると思います。

2.滞納を防ぐ

所得税には上記の通り所得を把握することの困難性というより、そもそも所得をどう定義するかということとその金銭的な評価をどう行うかという難問があります。滞納というのもその所得がそもそも把握できない中で、明確に定義できた税額に対しての滞納となりますので、各種税目において滞納の発生する率が同じと仮定すれば、徴税当局が公表する滞納額は課税額が明確になっている額が大きくなればなるほど大きくなります。滞納額が大きいからといって課税方法に穴があるというより、むしろ課税額が確定している額が大きいと理解することも可能です。逆に言えば、滞納額が小さいということはそもそも課税額がはっきりしないという側面もあると思います。現行の消費税はインボイス方式を導入していないため益税問題が指摘されていますが、インボイス方式の導入の前提となるのはマニフェスト(支払い明細書)の整備ですから、税制だけの問題ではなく流通などの商慣行の面でも同時に改善すべき点がありそうです。

3.負担者が曖昧

完全競争的な市場では、課税方式による帰着の問題は生じませんが、消費税のような従量税が購入者の支払う価格に転嫁されるか生産者の生産量が減少するかという点については、需要曲線と供給曲線の傾き(価格弾力性)によってその負担割合が変わるというのが経済学の議論です。もちろん、これは現実の独占的だったり寡占的だったりする市場では変わるわけで、特に後者の寡占的市場における転嫁については経済学では定説はないようです。

4.国際課税

輸出企業が輸出品の原材料について仕入れ控除を受けるとその分が益税となるという指摘もありますが、当然のことながら法人が支払う税金は消費税だけではありませんし、輸出先の国の法人が自らに課せられる税金を転嫁するためには輸入品(日本から見れば輸出品)の価格を引き下げることもあり得るわけで、日本企業が「そちらは輸出の時に非課税なんだからその分まけてよ」といわれることもあるのではないでしょうか。というより、そうした租税輸出が貿易障壁とかダンピングになっているという点についてはすでに議論し尽くされているわけで、付加価値税に限らず法人税などの国際課税の二重取りや租税輸出については、国際的な交渉が進められているところです。
国際課税に関する論点整理 (PDF形式:245KB)

5.逆進性の評価

社会を利用した額に応じて課せられるものが消費税と考えると、逆進性についての議論は、一面では消費税に常につきまとう議論ではありますが、社会を利用する額についての考え方によっても変わってくるものと思います。つまり、社会を利用する額の対象となるものが、そもそも回避できるものだったり奢侈品だったりすればそれを購入しなければいいということになりますが、市場で供給されるものであってその購入を回避できない食料品などの生活必需品はそうもいきません。それを現金で解決しようとすれば必需品に対する軽減税率となりますが、それでもなお医療、介護、保育、教育といった対人サービスによって供給される現物給付は市場の失敗により過小供給となり、結局お金のない人は利用できないことになります。給付付き税額控除はあくまで労働供給を喚起するためのアクティベーションとして実施されるものであって、低所得者に必要な対人サービスまでを保障するものではありません。その財源として社会を利用した額に応じて課せられる消費税を充てることによって、低所得者の社会を利用する権利を保障するとともに対人サービスに要する人件費を確保するということ自体は、それほど理屈の通らない議論ではないと思うわけです。
まあ、消費税を多く払う人=多く社会を利用する人であれば、消費税の税率アップが限界消費性向の高い人から限界消費性向の低い人への所得再分配となるかという点は微妙かもしれませんが、その財源が現物給付に当てられれば少なくとも現物給付を担う方々への労働需要を喚起しますので、それが内需となって社会全体の消費性向を向上させる効果は期待できると考えます。

6.最後は価値判断

上記の議論はスティグリッツ『公共経済学 下』を私なりに解釈した議論ではありますが、ご存じの通りスティグリッツは経済効率性についてのワシントンコンセンサス的理解に対して厳しく批判している論者ですので、この議論もその影響を多分に受けていると思います。そのスティグリッツは、本書の中で「公正についての議論に対して経済学者の貢献できること」としてこう述べています。

 経済学者(または哲学者)は、公正を判断するための適切なベースの選択に関する基本的問題を解決してこなかったけれども、いえることはまだ多くある。たとえば、どのような税金であれ、その総効果を述べることができるということは重要であり、これらは、各個人が直接支払っている税金の量によって簡単に述べることはほとんどできない。(略)したがって、われわれの租税制度に含まれている外見上の不平等の多くは、うまく定義されているように見える概念を租税法に必要とされる正確な言葉に直すことの本来的困難さの結果にすぎないのである。
 他の場合には、税法のなかのいろいろ異なった条項やその条項の変化がさまざまなグループにどのような結果を与えるかを注意深く考慮することによって、なぜ、あるグループは一連の条項が不公平であると主張し、他のグループはそのような条項の変更を不公平であると主張するのか、について何らかの洞察を得ることができる。われわれは、「公正」という言葉があるグループの私利追求を隠ぺいするための言葉として用いられる場合と、個人の主張には何か合理的な倫理的または哲学的な考えがある場合とを区別することができるのである。
p.619

スティグリッツ 公共経済学〈下〉租税・地方財政・マクロ財政政策スティグリッツ 公共経済学〈下〉租税・地方財政・マクロ財政政策
(2004/01)
ジョセフ・E. スティグリッツ

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※ 強調は引用者による。

前回エントリのコメント欄でも指摘しましたが、経済学が価値判断に中立的であるというのはその実証的な分析手法についてのみであって、その結果については規範的に議論しなければなりません。むしろ、増税に対する忌避の隠れ蓑としてリフレーション政策を支持しているのか、リフレーション政策によって流動性供給を確保して、その流動性が適切に再分配されるべきと考えているのかを区別することも、経済学の重要な貢献ではないかと思うところです。
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2012年01月10日 (火) | Edit |
去年のエントリで再度取り上げるかもしれないとしていた『POSSEvol.13』ですが、取り上げたいと思っていたのが「反貧困・震災以降のNPO論 現場から語る行政・市場・ボランティア」という記事でした。というのも、たまたま中原『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』を読んでいたところで、両者で語られていることが微妙にすれ違っていたりしてなかなか興味深かったからです。

まあもちろん、すれ違っている部分というのは『POSSE』の記事が各団体の実務面の代表者による対話方式の記事であるために、各団体の思惑がそれぞれ違う方向を向いているという点から受けた印象なわけでして、『奇跡の~』では主にピースボートの活動ぶりを紹介しているので、その点ではあまり齟齬はありません。たとえば、『奇跡の~』では第6章に「災害ボランティアは企画力」という章立てがされていますが、『POSSE vol.13』でも一般社団法人パーソナルサポートセンターの事務局次長である菅野氏が、

菅野:ちょっと違う視点かもしれないのですけれども、最近思っているのは、NPOってどちらかというと社会における開発の部門を担っているということなのです。企業でいうとリサーチアンドディベロップの部門を社会の中で担っている組織かなと。その観点からするとNPOはあまり大きくならずに、途中で解体した方がいいのではないかというのを実は持論として持っています。
(略)
様々なスキルや想いを持った人が特定の問題領域に集まってくる。その中で、次のNPOの種になるものができる。場合によってはNPOではなく株式会社のような営利活動になるのかもしれないですが、次の社会問題の解決を担っていく種だと思うのです。
pp.48-49

POSSE vol.13 ダメな雇用創出が震災復興を妨げる?POSSE vol.13 ダメな雇用創出が震災復興を妨げる?
(2011/12/10)
POSSE、古市憲寿 他

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※ 以下、強調は引用者による。

と指摘されています。つまりは、NPO・NGOが行政では発見できないことや考えつかないことを率先して実践し、それを一つの取組として作り上げたら、その時点でNPO・NGOは解散してしまうということのようです。いわんとすることは十分に理解できますし、そのようなノウハウがあれば行政としても積極的に連携していくべきと思うのですが、その背景にはおそらく資金面の継続性が確保できないという根本的な問題があるのだろうと思います。一方で、それってNPO・NGOで雇われている人にとってはかなり不安定な雇用形態を強いられることとなるように思いますが、労働問題に取り組んでいるPOSSEの今野代表がそこから経験値の蓄積とか人材育成に話を展開してしまっていて、あまり突っ込んだ議論とはなっていませんでした。まあそもそもボランティアがやれば雇用問題は起きないということかもしれませんけれども、生活者である労働者のための組合という生活協同組合で労働問題が発生していたりすることとか思い起こしてしまうのは私の認識が偏っているのでしょう。

また、個人的には『奇跡の~』で繰り返される「自己完結」とか「自己責任」とか「責任の所在」という言葉が妙に引っかかりました。

 山本は「石巻モデル」の成功の秘訣として、個々に集まるボランティアおよびNGOなど、団体間のもめごとが少ないことを挙げた。つまり、よい意味で団体間の協調性が保たれているのだ。
「これはNGOなどの団体の欠点でもあるのですが、誰かに『仕切られる』のを極端に嫌うのです。それは、災害支援という共通の目的があっても、その団体の設立の趣旨や経緯が違う以上、仕方がないことなのです」
 確かに「自己完結」の考え方ひとつとっても団体間の意識はバラバラだ
pp.93-94

 山本は「ニーズ調査」は大切なことだが、それをやるボランティアは、その後の解決までを責任として果たすべきだと語っている。逆説的に言うと、解決のできない、必要以上のニーズ調査はやるべきではないというのが山本の考えだ。
ボランティアは物事を具体的に解決する集団。当然、責任も生じる
 ボランティアが行政と連携し、本当の意味での災害時の「機能」となるためには、この具体的な解決能力が必要不可欠なのだ。そのためには、災対会議で負った責任を全うし、毎日の成果を具体的に「数字」で発表する必要があったのだ。
pp.195-196

奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」 (朝日新書)奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」 (朝日新書)
(2011/10/13)
中原一歩

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この「山本」氏という方は社団法人ピースボート災害ボランティアセンター代表理事とのことですが、ボランティアの一般的な機能説明として理解するのにはこの説明でいいのでしょうけれども、そもそも「自己完結」で自らの行動「責任を負う」組織が指揮命令系統もない(はずの)「ボランティア」によって構成されているというのはどう理解したらいいのでしょうか。NGOなどの組織が「仕切られる」ことを嫌うとしても、そこに雇用されている職員はその組織の指揮命令系統下にありますし、ボランティア自体もその組織の指示によって作業をしているはずです。「コーディネート」という言葉に惑わされそうですが、ボランティアとして応募してくる方々に「自己責任」とか「自己完結」を強調するのはどうにもブラック企業臭を感じてしまいます。いやもちろん、非常時に行うべき莫大な作業があって、それを担う人員が決定的に不足している状態だからこそ平時の雇用形態にとらわれない指揮命令系統が必要なのだろうとは思いますが。

しかし、それとは対照的に、被災者に対しては自己責任論がおとなしくなるという現象があったりもします。これについては前述の菅野氏が、

菅野:(略)
 逆に変化したところなのですが、被災地で何らかの事業を実施する分にはお金が付きやすくなったのではないかなと思っています。震災が起こると一応世論も味方につくし、自己責任論とか、今まで支援を邪魔していたものが全部なくなってしまう。その影響が行政との連携で特に出ています。とても普通の行政とは思えないぐらい動きが速い。

『POSSE vol.13』p.35

と指摘されています。まあ結局、自己責任論の広がりが行政による所得再分配などの社会保障的機能を阻害していたわけで、反貧困運動はそれに対する告発だったと理解することもできそうです。となると、結局のところ行政を縛っているのは自己責任論を振りかざす「民意」とそれに立脚する「セージシュドー」だったということになりそうな気もします。自己責任論が一方ではボランティアの働きを促進し、一方では公的セクターの動きを阻害するというのは大変興味深い現象ではありますが、この流れを突き詰めていくとNPO法人ほっとプラス代表理事の藤田氏が、

藤田:もう行政はだめだと思うんですよ(笑)。小さな政府になっていますし、公務員も減らすことしか考えてないのが大きな流れですので、行政にやれと言っても難しい。かといってあまり企業に求めてもしょうがないと思っているので、自前の市民が動きやすいようにお金の回りを作らないといけないと思っています。要は寄付してくれって話なんですよね。

『POSSE vol.13』p.54

とおっしゃるような話になってしまいます。震災後の行政機能の低下は小さな政府を推し進めた結果であることには異論はありませんが、このように公的セクターの機能不全を所与のものとしてしまうことは大変危険な議論だと思います。たとえば、中央政府がやらないから地方政府が所得再分配をやるべきだという地方自治体が、負担増を伴うことなく老人の医療費を無料化するという老人医療費支給制度を始めてしまい、それが全国に波及して保険財政が逼迫するという事態を招いたわけでして、その轍を踏んでしまいかねません。あるいは2世紀近く前のイギリスのスピーナムランド制度が同じような結末を迎えたことからも、適切な規模の政府を持たなければ所得の再分配は実現しないという歴史の教訓を学ぶ必要があると思います。

そういう点に注意していけば、『奇跡の~』は今回の震災においてどのような取組が功を奏したのかという一つの事例を知るためにとても有用だと思います。特に「受援力」という概念は、ボランティアやNPOなどの現地の活動を円滑に行うために全国の自治体関係者は理解しておくべきでしょう。その上で個人的に物足りなかったのは、石巻で医師を名乗って逮捕された容疑者についての記述が一切なかったことでして、「古い公共」との関係についてはもう少し丁寧な検証が必要かもしれません。
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2012年01月09日 (月) | Edit |
世の中では今日が成人式でした。寒冷地である当地では、雪深い1月ではなく8月に成人式を行う市町村が多いのですが、被災地である沿岸地域はそれほど雪が多くないこともあって、昨日成人式を行ったところが多いようです。報道を見ていると、被災地だけではなくそのほかの市町村でも式の中で黙とうしたところも多かったとのことで、東日本大震災が風化しつつある中でこうした節目に被災地に思いをはせることが重要だろうと思います。

実質的な今年初エントリで、このタイミングで取り上げるのも気が引けるところですが、がれきの受け入れを表明した市長に対して脅迫まがいの反対運動が行われた武雄市の成人式では、市長からこんな発言があったとのこと。

「被災地現状見てきて」 成人式で武雄市長 (asahi.com 2012年01月04日)

武雄市、多久市、有田町で3日、一足先に成人式があり、振り袖やスーツ姿の新成人が、家族や恩師らからお祝いを受けた。県教委社会教育・文化財課によると、今年の新成人は9477人。2009年から4年連続で1万人割れで、1966年の調査開始以来、2010年(9265人)に次いで2番目に少なかった。
 武雄市文化会館での成人式には、934人の新成人のうち約530人が参加。式の実行委員長で大学生の井上華奈さん(20)が「3・11では多くの命が奪われた。被災地の若い人たちは悲しみや困難に負けることなく前を向き、一生懸命です。この現実を大きく受け止めたい。大人の仲間入りをするにあたり、勇気や希望を持って一歩ずつ進み、社会に貢献できる人間になりましょう」とあいさつ、会場から拍手を受けた。
 祝辞を述べた樋渡啓祐市長は、「3月11日以降、日本は絆にあふれている。でも、私ががれき受け入れの意向を表明した途端、多くの反対の声が届けられた。中には脅迫もあった。こんな大人に、君たちはなって欲しくない。君たちは復旧・復興の大きな担い手だ。現地に出向いて現状を見てきてほしい」とも訴えた。
 新成人を代表して、今月24日に二十歳になる武雄市武内町のネイリスト吉岡恵さん(19)が「東日本大震災をきっかけに、絆の大切さを知りました。大人の仲間入りをした私たちは人と人との絆を持ち続けていきたい。ここまで育ててくれた親や先生、地域の人たちに感謝します」とあいさつ。式後には記念撮影があり、仲間たちとの久しぶりの再会を喜びあっていた。

※ 以下、強調は引用者による。

武雄市長の発言を見る限り、市長本人は苦情や脅迫に唯々諾々と従ったわけではなさそうですが、「民主主義の学校」といわれる地方自治体では、民意に反した時点で選挙に勝てる見込みがなくなるわけですから、選良としての嗅覚が民意に従うという判断を導いたのかもしれません。

これまでは、こうした記事をチホーブンケン教とか揶揄しながら取り上げてきたのですが、実を言えばこうした取り上げ方に無力感を感じています。反原発運動の盛り上がりとかそれに荷担する形でまき散らされるヘイトスピーチは後を絶たないものの、かといってそれが必ずしも悪意によって引き起こされているわけではないことは、拙ブログでも指摘してきたところです。つまり、それぞれの立場で利害関係がある(と思い込んでいる)方々がいらっしゃり、それを表現する方法がヘイトスピーチだったりボランティアだったり反原発運動だったりするわけで、人によってその表現に巧拙があること自体は当然のことでしょう。私がブログという手段を用いて表現していること自体も、そうした「活動的」な方々からすれば「口先だけの机上論だろ」といわれそうですし。まあそれはともかく、一方では実務上どんなに無理筋であっても「既得権益を打破する」とか「権力者の陰謀を暴く」という威勢のいいカイカク派への郷愁が途絶えることはありません。

拙ブログではこれまで集団的労使関係の再構築の重要性を飽きもしないで指摘し続けているわけですが、その理由は、少なくとも職場内の日常生活の中で立場の異なる方々と連帯しながら、同時に立場の異なる方々と利害調整するというプロセスを各個人が直接経験するということで、こうしたカイカク派への郷愁を断ち切るよすがとすることができるのではないかと考えているからです。集団的労使関係については、労組法・労調法という法令はもちろん、これまでの労使関係の中で慣行上のルールも確立されており、主張を表現する手法のレベルをある程度担保することができます(ただし、戦後の労使関係を巡る法の運用がそのルールを歪めてしまったことは事実ですし、慣行上のルールの改善は必要です。為念)。対立する主張を持つ相手とであっても、話し合いを尽くすことによって自分の境遇を自らが変えることが可能であるという経験がなければ、自らが稼得した所得を他人へ配分するという公的な所得再分配政策についての合意を得て、その結果として各家計の所得が公的セクターを通じて消費や投資に回されて流動性供給が増加し、マクロの経済成長がもたらされるという事態にいたることはないだろうと考えます。

いうまでもないことですが、公的セクターを通じた所得の再分配という難儀な作業とそれによる経済成長は、職場レベルから一国レベルまでの利害調整の先にしか達成されません。そうである以上、いきなり政府レベルの利害調整に委ねるよりは、自らが直接関係する労使関係においてどうやって生活保障を確保するかということについて立場の違いを乗り越えて議論しながら地道に合意を取り付けていくことが、遠回りであっても着実な方法だと思います。その点こそが、省庁代表制によって利害関係が表に出てこない日本と、労使関係において取り決められた事項が政策に直接反映される(ネオ・)コーポラティズムが定着している北欧との違いであり、それが結果として社会保障の財源調達についての社会的合意の違いとなって現れているものと思われます。

ちょっと脱線してしまいましたが、話を武雄市長の発言に戻せば、私も自戒を込めて、主張の違う相手や自身の主張に異議を差し挟む相手に対して脅迫まがいの反対意見を述べてしまうような大人にはなるべきではないと思います。もちろん、目的のためには手段を選ばないような大人や、自身の主張の通りに進まない現実を陰謀論に落とし込んでしまうような大人にもなるべきではありません。立場の違いを乗り越えて話し合いをし、自分の利害関係と相反する利害関係を持つ相手との利害調整に主体的に参画できる大人が増えてほしいと切に願う次第です。
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2012年01月01日 (日) | Edit |
昨年中は多くの方々にTB、コメント、拍手、ぶくま等々いただきありがとうございました。
本年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。

というわけで初詣しておみくじ引いてみました。

【大吉】 (No.26712) モナー神社
願事 : 思い通りとなる しかし気をゆるしては破れる
待人 : 待てば来たる
失物 : 容易く出がたし
旅立 : 十分ならず 控えよ
商売 : 買うによし 利有り
学問 : 危うし 全力を尽くせ
争事 : 初めは危く後宜し
転居 : よし 早くすべし
病気 : 長引く 大切に養生すれば快癒すべし
縁談 : よし 早く取り決めて吉

おお、4年ぶりの大吉でした。前を向いて着実に歩みを進めていきたいと思います。