2011年10月12日 (水) | Edit |
今日で震災から7か月が経過しました(エントリをアップするころには昨日になってしまいそうですが)。ここしばらく新刊ラッシュのため震災とは関係ないエントリとなっておりましたが、節目ということで永松先生の『キャッシュ・フォー・ワーク』を取り上げたいと思います。
キャッシュ・フォー・ワーク――震災復興の新しいしくみ (岩波ブックレット)キャッシュ・フォー・ワーク――震災復興の新しいしくみ (岩波ブックレット)
(2011/09/08)
永松 伸吾

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本書は、キャッシュ・フォー・ワーク(CFW)の由来やそれが適切に機能する条件を整理しながら、阪神・淡路大震災や新潟県中越地震で取り組まれた事例を紹介した上で、今現在岩手、宮城、福島の各県で取り組まれている事例を紹介し、最後にこれからのCFWの取組について考察を加えています。

私自身、CFWの取組に一部関わっていることもあって、永松先生に冊子としてまとめていただいたことでCFWについての考え方が整理しやすくなったと感じています。本書の導入部から引用すれば、CFWの起源はエチオピアの干ばつに対応するため、農地を改良して食料を自力で生産できるようにする公共事業としてのフード・フォー・ワーク(FFW)であり、ケインズ経済学的な穴を掘って埋めるような失業対策事業とは違う点を指摘した上で、

失業対策事業が世界的に広まった背景には、ケインズの経済理論があることは言うまでもありませんが、ケインズ自身の言葉を借りれば、穴を掘って埋めるような公共事業であっても雇用が生まれるだけ良い、という考え方が失業対策事業には少なからずあったように思います。
 これに対して、CFWの本質は、FFWがそうであるように、被災者自身が被災地をより良くするための活動に関与するためのしくみを構築することにあります。どのようなしごとでも良いというわけではありません。被災地を復興させ、よりよい将来を構築するということが、被災者の雇用を維持することと少なくとも同等に重要視されるのです。

永松『前掲書』p.11
※ 以下、強調は引用者による。

と主張します。つまり、被災地の復興そのものを被災者が自らの仕事として実行していくということが、CFWの本質となります。この後、2004年のスマトラ島沖地震や2008年のミャンマーでのナルギス台風などでCFWが活用された事例が紹介されますが、個人的に興味深かったのは2005年のハリケーン・カトリーナ災害の事例です。米国連邦危機管理庁(FEMA)が実施した地域雇用プログラム(local hire program)として実施されたとのことですが、

 ルイジアナ州の州都であるバトン・ルージュにはFEMAによる現地調整本部が設置され、最大で約3000人のスタッフが勤務していました。
(略)
 採用された被災者は約一ヶ月の研修を受け、ワードやエクセルなどの基本的な職業訓練を受けます。その後三ヶ月程度、FEMAの災害対応業務補助として勤務します。例えば、被災者からの相談を受けるコールセンターのオペレーター業務はそのひとつです。
 地域雇用プログラムはわずか三ヶ月の雇用ですが、採用に当たって職業訓練を行うため、契約が切れた後はそれまでよりも職を見つけやすくなることが期待されています。またFEMAの正規職員として採用されることもあります。基本的には、これはFEMAの現地での業務を円滑に実施するために必要な労働力を現地で調達するしくみですが、被災者の就労支援としての性格も有したプログラムになっています。

永松『前掲書』pp.24-25

採用に当たって職業訓練を行うというのもさることながら、正規職員として採用されるという点については、ただでさえコームインが多すぎると批判される日本のCFWでは考えられないことだと思います。職業訓練についても、「とにかくスピードが第一だ」といわれてしまうと、現地で被災された方に職業訓練を受けてもらって業務を担ってもらうよりも、「とにかく行政が雇用を作りだして被災者を雇え」という緊急雇用創出事業(正確には重点分野雇用創造事業のうちの重点分野雇用創出事業と震災対応事業)ばかりが先走ってしまいます。特に、被災して職員を失った自治体においては、通常業務に加えて復旧・復興業務を担う必要があるわけで、被災前よりも大幅な人員増をしなければならない状態にあります。にもかかわらず、被災者を公務員として採用して復旧・復興事業を担ってもらうという議論が全くといっていいほどされていないのが実情です。

まあ、こんな話をすれば「民間企業が復活すればすぐに働き口ができるんだから、コームインなんかになってられるか」という声も聞こえてきそうですが、その肝心の民間企業が防波堤・防潮堤や道路などの社会インフラの構築、消費者の物流を支える小売店の立地を決める都市計画の策定、各種手続を円滑に進めるための事務作業などを前提としているものである以上、少なくとも公共部門の再構築も同時並行で行わなければなりません。政府の復興計画が遅いとか地元市町村の復興計画が中身がないとか批判されている一方で、その作業を担う人員を増やすべきという議論は相手にされないわけで、それでは公共部門の手続が進まないのも当然ではありますが、そうした事情を理解している方がどれだけいるのでしょうか。その理解がないままチーキシュケンなどと復興計画の策定だけが先走ってしまえば、そのツケを払うのは地元住民になるのではないかと懸念されてなりません。

もう一点気になったことといえば、被災地での現状を踏まえて見直しが必要と永松先生が考えているCFWの賃金水準です。もともとCFWでは

4.CFWで支払われる賃金について

  1. CFWの主要な目的は地域経済活動の自立的復興を促進することにあり、CFWが既存の産業と労働市場において競合することがあってはならない。
  2. このため、CFWで支払われる賃金は、市場で支払われる賃金より低めに設定されるか、少なくとも上回ってはならない。 なお、途上国の事例ではおおよそ20%から30%程度低めに設定されることが一般的である。
  3. 賃金水準が通常の経済活動よりも低く抑えられることによって、CFW以外に生計手段を持たない人だけが参加を希望することになる。これは、本当に雇用を必要とする人にCFWによる雇用機会を確実に提供する上でも重要である。

CFW提案書」(Cash for Work-Japan


と、賃金水準を最低賃金かそれ以下にまで抑えるべきということが指摘されていました。これは経済学で言うところの「価格差別」によって、その賃金水準で効用を得る人にだけ仕事を与えようとするものと考えられます。しかし、本書では、

CFW-japan提案書の中では、賃金水準を低めに設定することによって、平常の経済活動への移行を促すことを推奨していましたが、その後様々な実例を観察する中で、賃金水準を低く抑えることが必ずしも問題解決につながらないように思うようになりました。
 もちろん、市場の賃金水準よりもCFWでのそれが高ければ、平常の経済活動が阻害されることは目に見えています。しかし、同程度の賃金であれば、必ずしも経済復興が阻害されるとはいえないように思います。なぜなら、CFWにおけるしごとは、一時的で、その後の失業リスクがより高いからです。
 また、CFWによる賃金を低く抑えれば、CFWの早期解消に役立つかといえば、それは極めて疑問です。賃金を低く抑えることで、CFWから離れようと思う人は、あくまで平時の労働市場で就業機会を獲得できる人だけです。そもそもそこで排除されている人々は、CFWでの賃金水準が低かったとしても、それを甘んじて受けるより他はありません。CFWの縮小と撤退は、もう少し広い視点から考え直す必要があるように思います。

永松『前掲書』pp.77-78

と、もともと雇用情勢の厳しい被災地において、CFWよりも高い賃金の仕事がそうそうあるわけでもない実情が意識されています。これにぶっちゃけた話を追加すれば、雇用保険の失業等給付で失業前の賃金の8割程度を支給されている被災者にとって、それより低い賃金のCFWの仕事は、短期に失業するリスクを考え合わせると、就業する際の選択肢となりにくいという現実もあります。実際に、自治体の臨時職員の最低賃金すれすれの時給での求人にはほとんど応募がないのに、時給1,000円程度(それでも都市部のコンビニバイト程度ですが)の求人はすぐに埋まってしまいます。

被災者自らが復旧・復興に携わるというCFWの本質を踏まえるならば、少なくとも雇用保険の失業等給付で働かずに生活するよりも、高い賃金で収入を得て、地域経済に還流させていく方が望ましいと考えます。もちろん、出口の戦略は適切な時点で明確に打ち出す必要がありますが、この10月からさらに90日支給が延長された被災地域では、CFWまでもが低賃金に抑えられることによって地域の経済活動が縮小していくことが懸念されるところです。

その点からも、本書で上記引用部の直後で示されている「つなぐ」CFW(労働市場を一時的に代替するp.78)と「みたす」CFW(通常の労働市場では評価されない労働に対し、CFWの手法を用いて雇用を創出(p.80))のうち、特に後者の取組が重要ではないかと思います。それはいわゆる公共財であって、冒頭で引用したような公共部門での正規職員を増強することによって「みたされる」雇用でもあります。正規職員となればCFWの範疇を超えてしまいますが、CFWの出口戦略としてそれを実現させる(要は、役所のコームインを増やす)ことは十分に検討に値するのではないでしょうか。

なお、余談ではありますが、臨時的かつ短期的に低い賃金で就労する場は震災前からすでにあります。それがシルバー人材センターでして、請負により会員に支払われる配分金は賃金に該当しませんので、最低賃金の縛りを受けません。まあ、シルバー人材センターのそもそもの出自が国に対して団交申し入れまで行われた失業対策事業であったことを考えれば、失業対策事業ではないというCFWがシルバー人材センターの就労形態と類似するのは必然なのかも知れません(現全国シルバー人材センター事業協会の初代会長が大河内一男先生で、2代目が氏原正治郎先生ですし)。それはともかく、実際に被災地のシルバー人材センターの会員の方々は、自らが被災しながら、被災した家屋内の泥の除去や障子貼りなどで活躍されています。これもCFWの出口戦略の一つと位置づけることが可能ではないかと思うところです。
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2011年10月10日 (月) | Edit |
相変わらず風邪が長引いていますが、布団の中で熱にうなされながらhamachan先生と水町先生の新刊を拝読しました。
日本の雇用と労働法 (日経文庫)日本の雇用と労働法 (日経文庫)
(2011/09/16)
濱口 桂一郎

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労働法入門 (岩波新書)労働法入門 (岩波新書)
(2011/09/22)
水町 勇一郎

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いやもちろん、熱にうなされただけではなくて両書の内容に唸らされていたわけでして、どちらも同じ日本の労働法について論じているのですが、印象としてはhamachan先生本が金属を写実主義的に切り出したオブジェのような重量感があるのに対して、水町先生本はラフなスケッチという感じでこんがらがった頭を整理するのに重宝するような感じがしました。

全体的な書評については各方面から寄せられているようですので、拙ブログとしてはやはり集団的労使関係についての両書の指摘を比較してみたくなるところです。その前提としての日本の労働法制の位置づけについて、hamachan先生本から引用すると、

 今日においても、日本国の労働法制の基本枠組みは労働基準法と労働組合法であり、それらが想定している労働者とは企業のメンバーシップに基づいて働いているのではなく、指揮命令を受けながら個々の労務を供給するという取引関係に基づいて働いている人々です。つまり、現行労働法制は基本的にはジョブ型であり、日本以外の社会と何ら変わりはありません。
(略)
そして、これら判例法理が積み重なり、確立するにつれ、日本の労働社会を規律する原則は、六法全書に書かれたジョブ型雇用契約の原則ではなく、個々の判決文に書かれたメンバーシップ型雇用契約の原則となっていきました。そして、こうした判例法理が確立することが逆に現実の社会に対する法規範として作用し、それまで必ずしもメンバーシップ方ではなかった中小企業など社会のさまざまな分野に対して、メンバーシップ型雇用契約を規範化する役割を果たしていきました。

濱口『前掲書』pp40-41


※ 以下、強調は引用者による。
という指摘があり、こうした歴史的経緯に立脚した立論がhamachan先生本を立体的なものとしているように思います。この点については、水町先生もhamachan先生の前著『新しい労働社会』を引用した直後で、

日本の労働者が、自分のことを示す言葉として、アメリカやフランスなどで一般に使われる「労働者(worker, travailleur)」や「被用者(employee, employe)」ではなく、会社のメンバーであることを意味する「会社員」という言葉を使うのも、日本の労働関係の共同体性格を示す一つの例といえよう。このことは、法的には、日本の労働契約の解釈において人間関係や信頼関係を重視する信義則による補充的・修正的解釈などの形で表れている

水町『前掲書』pp.45-46


と指摘されていますが、上記引用したhamachan先生の指摘に比べるとやや観念的な感じがしました。それがラフなスケッチという印象につながっているのだと思います。

個人的に興味深かったのは、hamachan先生本では、労働運動が挫折していった経緯が記載されているのですが、

 一方、民間部門の急進的な労働運動を抑制するため、1949年に労働組合法が改正され、組合の力を削ぐために、管理職の加入を認めず、在籍先住者への給与負担など会社からの利益供与も原則的に禁止する改正を行いました。これらは、従業員代表的性格に基づいて獲得していた組合の権限を、本来のジョブ型労働組合としてのあるべき姿を理由にして剥奪することにより、その勢力を削ぐという高等戦術であったといえます。特に効果があったのは、それまで期限が来ても自動延長されていた労働協約を自動延長できなくしたことで、これにより交渉が難航すると協約の期限切れで無協約状態になってしまうという事態になり、それまで組合側が勝ち取ってきた企業経営や雇用管理への介入権限が失われていったのです。

濱口『前掲書』pp.154-155

という指摘です。戦後直後の労働組合が管理職までを組合員としていたからこそ生産管理闘争が可能であって、それがメンバーシップ型労働組合としての強みであったところを、労働組合法本来のジョブ型に戻すことで勢力を削ぐことができたというわけですが、ではそれがなかったら今の労働組合はメンバーシップ型として機能していたのだろうかと考えると、それもよく分かりません。いずれにせよ、法改正のような政策決定は、目の前にある現実と法によって実現しようとする理想の姿とのせめぎ合いであって、現状追認ではなく法の趣旨を貫徹することが保護対象である労働組合を弱体化させたというのも、歴史の綾を感じるところです。
なお、細かい話ですが、労働協約が失効した後でも労働契約の内容として有効であるという余後効の考え方は、この後の労働委員会命令や判例で確立されていくことになると思うのですが、そうであっても従業員一律に適用される就業規則の方が事実上優先されるという指摘も宜なるかな。

そして、今後の労使関係について、hamachan先生本では、非正規労働者の取り扱いにおいて

 この問題は、理論的な解決と実践的な解決とがなかなか整合しにくい分野ですが、あえて論ずるなら、労働組合自体を自発的結社と捉えるだけではなく、ある種の公的な労働者代表機関と位置づけて、非正規労働者の加入を義務づけていくやり方もあるかも知れません。日本の企業別組合が実際には西欧の労働者代表機関と同様の機能を果たしていることを考えれば、理論的な矛盾はともかく、実態に即した方向性ではあります。

濱口『前掲書』pp.240-241

と最後の最後で指摘するに留まっています。これはhamachan先生の前著『新しい労働社会』の第4章で議論されているので、詳しくはそちらにというところなのではないかと思います。

これに対して水町本では、

 伝統的な労働法においては、この集団的な関係は、労働組合と会社の間の労使関係のなかで培われてきた。そして今後も、労働組合があるところでは、それが労働者の集団的な話し合いの重要な基盤となるだろう。しかし、それが正社員を中心とした内向きの性格をもっているとすれば、そこに外からの風を入れ、外にも目を向けて話し合いができる組織に変えていく必要がある。また、労働組合がないところでは、労使の自主的な努力によりこの集団的な話し合いの基盤が作り上げられることが望ましいが、当事者の自主的な努力のみでこれを広く作り上げていくことが難しいとすれば、政策的にそれを促すことも必要であろう。例えば、労働者が会社や職場で自分たちの代表を比例代表選挙によって選び出し使用者と話合いを行う労働者代表制度を法律上制度化し、そこで公正な話合いが行われることを政策的に促していくことが考えられる。
 このように、新しい社会状況のなかで、従来の集団的な労使関係に場合によっては透明性と開放性という新しい風を入れてその息を吹きかえさせ、また、法律によって新たな集団的制度を作り出していくことによって、国家と個人との間に立ち、両者の能力を補う集団的な基盤を作り上げていくことが、これからの日本の労働法の重要な課題となる。
 このような日本の労働法や労働法学の方向性は、「内省」を法的に取り込んで制度化しようとする世界の労働法や労働法学の潮流と、基本的に方向性を同じくするものである。

水町『前掲書』pp.222-223

と、集団的労使関係法制を重視する水町先生らしく、日本のみならず世界の労働法の潮流につなげてその重要性を指摘されています。その点では、拙ブログの問題意識とも一致しておりまして、方向性としては全面的に賛同するところですが、現状で存在する労働組合からの移行をどのように行うのかという実務的な問題が立ちはだかるのだろうと思います。この点については、2年前のhamachan先生の前著についての金子先生とのやりとりで議論させていただきましたが、個人的には箱物としての集団的労使関係制度というものを新たに構築することが必要ではないかと考えています。まあ、まさに言うは易し行うは難しなんですが。。。

(おそらく本エントリもhamachan先生に捕捉されてしまう(?)可能性が高いと思いますが、とりとめのない感想となってしまい恐縮です。)
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2011年10月09日 (日) | Edit |
最近風邪を引くと長引く傾向があって、ここ2週間ほど平熱より1℃以上高い熱が下がらず、咳も収まらないということで、この3連休は遠出もせず布団にくるまってることになりそうです。というわけで、寝ながら積ん読の整理をと思いましたが、アメリカで「ウォール街を占拠せよ」というデモが盛り上がっているとのことで、権丈先生のところで推奨されていた映画「インサイド・ジョブ」をiTunes Storeでレンタルして視聴してみました。

ハバードからミシュキン、フェルドシュタイン、ロゴフ、ルービニ、ラジャンなど錚々たる経済学者がインタビューに答えていて、教科書とかでしか知らない海外の経済学者が話す姿にちょっと感動してしまいました。内容とは関係ないんですが、顔を見ながら話を聞くと、字面だけでは分からない心の動きなんかが推察されてくるので、やっぱメールとか電話よりも話しているときの姿勢とか息づかいとかが見える対面の会話ってのは大事だなと思ったり。

で、内容について言えば、基本的な説明は以前NHKスペシャルでやっていた「シリーズ マネー資本主義」と大きな違いはなかったと思います。あくまでも個人的な印象レベルの話ですが、サブプライムローンの危機についてラジャンとかルービニが警告できたのは、彼らがいわゆるWASPじゃなかったからなのかなとか、そうはいってもミシュキンはユダヤ人だしWASPだけじゃないのかとか、そもそもWASPとユダヤ人の対立がアメリカの政府高官と投資銀行のせめぎ合いをもたらして、止めどない金融の規制緩和につながったのかも・・などなど想像がかき立てられます。

と考えていたら、その辺の実情の一端を指摘しているブログがありました。

それが随所で感じられたのが、『WASPとユダヤ人』の対比です。
そもそも、マーク・ザッカーバーグはユダヤ人であり(だから、映画の中でもユダヤ人のパーティである「カリビアン・ナイト」に行くシーンがあります)、そのマークを「アイデアを盗まれた(!?)」と言って、ハーバードの学長に訴え相手にされずに、最後は訴訟をした双子の兄弟君たちキェメロン&タイラー・ウィンクルボスは、典型的なWASPです。

(略)

双子君達の行動パターンは、映画では随所に皮肉が混じっていて、苦笑の連続です。

ハーバード学長に直訴するために、父親のコネを使ったり。ちなみに、この時のハーバードの学長は、クリントン政権で財務長官だったサマーズ氏、映画の中で、双子君たちを評して、「ブルックスブラザーズの営業マンのようだ」というセリフには、本当に受けました(汗)

マーク・ザッカーバーグが、さえないGAPのパーカーを着ていて、WASPのエリート双子君たちは、ブルックスブラザーズの営業マン(合格)

アメリカ社会の光と影~映画「ソーシャル・ネットワークの衝撃」~続編(2011-01-23)」(KAELUのブログ
※ 絵文字は( )内に変換されています。強調は引用者による。

引用したエントリは映画「ソーシャル・ネットワーク」(Wikipedia:ソーシャル・ネットワーク(映画))の感想がてら書かれたもので、マーク・ザッカーバーグとは言わずと知れたFacebookの創設者ですね。
フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)
(2011/01/13)
デビッド・カークパトリック

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ザッカーバーグ自身は、この本によると「ビジネスは目的を達成する手段に過ぎない」というスタンスを維持していて、フェイスブック社に対する度重なる買収提案をすべて断っているとのことで、当然のことながらユダヤ人だから投資に走るというわけではありませんが、何というか映画「インサイド・ジョブ」の登場人物を見ていると、金融業界の関係者というのは、人種は違っても同じような思考パターンになっていくのだなと感じたところです。

まあ、それが前回エントリで取り上げた企業のクレドみたいな形で共有されていくものであって、金融業界のそれを身につけたものだけが勝ち残っていくというのが、傍から見た金融業界の特質なのかもしれません。もちろん、コームインの世界にもクレドがあるでしょうし、民間でも建設業とか小売業とかそれぞれで違うクレドがあるのだと思います。問題は、莫大な利益を上げた金融業界では、それが行きすぎた成果主義的報酬体系に結びついていたことなのではないかと思います。

映画の中でインタビューに答えていたラジャンも、2005年の論文"Has Financial Development Made the World Riskier?"(注:pdfファイルです)ではアメリカの投資銀行の報酬体系によって、マネージャーが敢えてリスクを受け入れるように仕向けられていたことを指摘しています。映画「インサイド・ジョブ」の中で、ウォール・ストリートで診察している精神科医も指摘していましたが、リスクをとるときに反応する脳の部位は麻薬に反応する部位と同じだそうで、そうした感覚の麻痺が金銭欲を昂進させて、「回転ドア」(注:pdfファイルです)によって将来の報酬が約束される政府高官に金融業界に対する規制緩和を推進させたのかもしれません。

いやあ、民間感覚による政治主導ってほんとうにすばらしいですね(棒)
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2011年10月08日 (土) | Edit |
拙ブログは震災以降急激にアクセスを伸ばした関係もあって、それ以後アクセスされた方には震災ブログと位置づけられていそうでして、本来の関心領域の労働とか財政関係のエントリには反応がほとんどないのは寂しいというかというか気が楽というか。

で、最近仕事の関係で働くための姿勢みたいな話を聞く機会が増えていて、いわゆる人材マネジメントという分野の話ではないかと思うのですが、そこで必ずといって出てくるのが「軸」という言葉です。クレド(credo)といういい方をすることもありますが、いわく「人生に軸を持っていれば、どんなときもその軸を基準にやるべきこと、したいことがわかるようになって、人生を着実に歩むことができる」という説明が多いように思います。

たとえば、以前取り上げた見舘先生の著書では、

(6)「儀式」を通じてクレドを理解させる

 クレドとは心情。経営理念や行動指針、ミッションのことを指します。もちろんどの企業でも存在しますし、壁に貼っている企業(楽天など)や、印刷して持たせている企業(リッツカールトンなど)、毎朝唱和する企業も多いです(パナソニックなど)。しかし、アルバイトに対しても社員同様にじっくり時間をかけてクレドの理解を深める手間をかけているでしょうか。3社はみごとにそれを実践しています。そう、特別な儀式のように。

(略)

 スターバックスのGABカードとは、前述した通り、5つの価値観を体現したパートナーを賞賛するカードです。このカードのミソは、このカードを書くには、その精神を理解し、行動し、行動を観察し、さらに言葉にできなければ書けない点です。あるアパレル企業が、GABカードをまねて導入したそうですが、ほとんど浸透しなかったそうです。いくらカードを印刷して、アルバイトに書きなさいと言っても、そもそも行動指針の意味を理解できなければ書けないでしょう
pp.86-87
「いっしょに働きたくなる人」の育て方―マクドナルド、スターバックス、コールドストーンの人材研究 (ワークス人と組織選書)「いっしょに働きたくなる人」の育て方―マクドナルド、スターバックス、コールドストーンの人材研究 (ワークス人と組織選書)
(2010/05/17)
見舘 好隆

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※ 機種依存数字は括弧書きにしました。以下、強調は引用者による。

とまあ、企業レベルであってもクレドがきちんと確立されていないところも多いわけで、自分自身のことを振り返ってみても、個人としてこれが「軸(クレド)」だといえるものがあるかは微妙なところです。

実をいえば、それなりに社会人経験を積んでしまうと「いくら上司の命令とはいえ、さすがにそれはまずいだろ」というような自分なりの閾値ができてきて、それをクレドといえばいえそうな気もします。しかし、それはあくまでその組織内で培われた閾値であって、組織が違ったり業態が違ったりすれば閾値が変わってくるのも当然です。

結局のところ、その組織のクレドと個人がそれなりに培ってきたクレドというのがぶつかる瞬間が早晩訪れるわけで、それが頻繁に起きると組織はどんどんもろくなっていきます。経験上それを分かっているのは企業などの歴史のある組織であって、逆にいえば、特に新卒社員やアルバイト・パートはそんなこともわからないまま仕事の世界に入っていきます。となると、それを見越した企業からすれば、「自社に有利なクレド」を新入社員やアルバイトに早い内に刷り込んでしまうのが組織防衛の観点からは効率的になってしまいます。

こう考えてみると、ここ最近のエントリで取り上げているブラック企業というのは、実はこの自社に有利なクレドの刷り込みが早期に徹底している企業ということができそうです。たとえば「就活にはコミュニケーション能力が大事だ」という言説がもてはやされるほど、ブラック企業の側が「ウチの社風に合わない社員は戦力じゃない」とか「新入社員なんか利益を上げられないお荷物だ」というような「自社に有利なクレド」を受け入れやすい社員が作り出され、実際に入社した後はそのクレドを刷り込まれてしまって、馬車馬のように働かされても文句も言えなくなるのではないかと思います。

いやまあ、なんで最近のエントリでこんなブラック企業の話ばかりしているかというと、コームインが働く役所は「ブラック企業」であると結論している立場としては、なんでこんな仕事を続けなければならないのかという自問自答が収まらないからなんですね。そして同じことは、仕事でお付き合いしているNPOの方にも感じます。拙ブログの論調からするとNPOを目の敵にしているように思われていそうですが、同じ境遇に自ら飛び込んできているNPOの方々に自分と同じ葛藤を感じることが多いので、NPOを取り上げることでコームインの働く「役所」という職場がいかにブラックかが伝わればと考えています(成功してなさそうですが・・・)。

「公僕なんだから国民の代表である政治家には絶対服従しろ」とか「上司にたてつくヤツはクビだ」とかのあからさまに役人を目の敵にした話では関係ないと思われそうですが、「役所は「役に立つ所」と書くんだから、住民の意向を第一に考えなければならない」とか「役所はサービス業だから住民にサービスしなければならない」とかの一見それらしく見える話には、クレドの考え方がよくフィットします。「住民本位」とか「市民感覚」というような美辞麗句とクレドが結びつくと、「住民の意向に沿って働くことが役所のクレドであって、その役に立たない職員は要らない」とか「お役所仕事ではなくて民間感覚で成果を上げることがクレドだ」というように、拙ブログでいえば間接部門への侮蔑みたいな組織運営が「クレド」という言葉で正当化されてしまうわけです。

逆の視点から考えれば、組織に属さない個人が独自でクレドを持つということは、多くの人には難しいでしょう。しかし、そうであればこそ、見舘先生が指摘されるように、クレドを浸透させる企業に対してアルバイトや新入社員は自分に足りないものとしてそのクレドに理解を示し、そこで得たクレドがたとえ違う職場に行っても通用するだけの汎用性を持っていれば、そのことが労働市場において強みになるわけです。たとえば、「顧客との信頼関係を最重要視する」とか「職場の人間関係を明るく保つ」とか「上司と部下の間で意見交換することで仕事が改善できる」というクレドを身につけた労働者は、次の職場でもそれを自らのクレドとしてアピールでき、その企業のクレドと調和することで幸せなマッチングが可能となるかもしれません。そして、次に就職した企業がそのクレドを否定するような「自社に有利なクレド」を強要してきたら、「これはブラック企業だ」と判断する材料とすることもできそうです。要は、優良な組織に属してそのクレドを身につけることが、労働市場において有利なクレドを身につける近道になるといえるのではないでしょうか。

まあ今の私にそれがあるかと聞かれれば、ブラック企業たる役所に勤めている時点でなんともいえないわけでして。。
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2011年10月01日 (土) | Edit |
いやまあ新刊ラッシュでして、hamachan先生や水町先生の新著も控えているわけですので、備忘録的に手短なエントリとしたいと思います。

NPO法人POSSEには、その発足当時いかにも市民活動大好きな学生運動の匂いを感じていたのですが、『POSSE』にボランティアや新しい公共などに対する批判的な記事も載るようになって、かなり現実路線にシフトしてきたように思います(って、外野から勝手に決めつけているだけかもしれませんが)。で、hamachan先生のブログで「若者の若者による若者のための本」と紹介されていたのに興味を引かれて読んでみました。

ブラック企業に負けないブラック企業に負けない
(2011/09/26)
NPO法人 POSSE、今野 晴貴 他

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サービス残業や退職強要などに対する具体的な対処法が掲載されていて、実用性は高いと思いましたが、中小企業に対するスタンスなどが私が当初感じていた「市民活動大好きな学生運動」に逆戻りしているのではないかという印象です。

本書では明示されていませんが、

最近では就職活動が、学生の高望みのために中小企業やブラック企業に「マッチング」ができていないという議論が多く見られる。ほとんどの論者は、若者が中小企業をはじめから選べばよいと主張する。だが、実際にはこれまで見たような精神改造を経て、はじめて中小企業やブラック企業に入る「心構え」が叩き込まれるのだ。こうした就職活動はミスマッチなように見えて、実は人格競争の末に「マッチングしている14」のだ。これ「競争的再配置」と呼ぶのがふさわしい。こうした不効率・高コストの一方で、若い社員が違法行為すらも耐え抜いてしまうようになる仕組みがつくられているという意味では、働くものを犠牲にした、一部の違法企業にとってだけの「効率」が実現されているといってよいだろう。

14 本当であれば受容しないような労働条件であっても、若者がこれを我慢する理由は、自分が就職活動を失敗したからだ、という自責の念にある。だから、もし若者がはじめから低い労働条件の企業を受けたなら、とうてい納得できない可能性がある。これこそが「マッチング」の実態なのである。

今野・川村『同』p.45
※ 以下、強調は引用者による。


という部分は、海老原さんが前著まで一貫して主張されている「「中小企業=不安定で待遇が悪い」は誤解だ」という指摘に対しての反論ではないかと思います。

この点については、先日のエントリでも、「ところが、ここにも「正社員枠に押し込める」というキャリア教育の影響が現れていると思うのですが、たとえば大学を出たからには正社員でなければ世間体が悪いというような意識を埋め込まれてしまった学生や求職者は、仕事や待遇の中身よりも正社員という枠に魅力を感じてしまいます」と指摘しているとおり、「中小企業でもいいから正社員になるべき」という主張には危険な面があることはそのとおりだと思います。

しかし、両書を読み比べてみたとき意外に認識が一致しているなと思う部分があります。たとえば、海老原さんの著書では、先日のエントリで引用した部分で「「キャリアカウンセリング」などの手法によって、しっかり採用相場を教育すれば、こんなリードタイムは不要になる、などと主張する人も出てきてしまう」と指摘されていますが、そのキャリアカウンセリングによって採用相場を教育する現場では、

 最近流行のキャリア・カウンセラーもこうした流れに一役買っている10学生に「自分が悪い」ことを認めさせ、心理学的手法を用いて精神をコントロールする。「自分を見つめなおす」ことを通じて価値観や人格を「矯正」してゆくのだ。NHKが今年2月7日に放送した「就活なう」というドキュメンタリー作品においても、カウンセラーが学生に「自己分析」を高圧的な態度で迫る様子が鮮烈に描かれている。「お前たちは何も考えていない」という趣旨の物言いにたいし、学生たちが泣きながらその「説教」を聞き入る映像は印象的である。学生といえども、大の大人である。22、3歳にもなりながら、まったくの子ども扱いをされ、泣かされながら自己改革を求められる。

10 もちろんすべてのキャリア・カウンセラーがマイナスの影響を与えているというわけではないし、彼ら自身は悪意があって人格改造に荷担しているわけでもない。人格改造が、たとえブラック企業への入社や、会社での従属を生むことになったとしても、失業者非正規雇用ではない正社員としての就職へいたる道筋だと信じているのだ。

今野・川村『同』pp.42-43

ということが行われているわけです。その理由として考えられる点を海老原さんの前著から引用するなら、たとえば、

 学生が中小企業に就職したがらない理由は五つある。その理由を順に挙げながら、私なりに考えてみたマッチングの施策を紹介したい。
 まずは一つ目。学生が中小企業を避ける一番大きな理由は、「わからないから」だ。大企業ならば、消費者の一人としてその会社の製品を使ったことがあったり、テレビCMを見たことがあったりして、どんなビジネスをしているのか想像くらいはできる。また、採用人数も多いため、同じ大学の先輩が就職していたりするので、職場の様子などを聞くこともできる。一方中小企業はとにかく情報がない。どんなビジネスをしているかそうぞうもできない。大学のキャリアセンターの係員も、データがないので企業HPやハローワークの求人票に書いてあるような、あたりさわりのないことしか伝えられない。これではその会社に就職しようと努力する気が起こらないのは当然だ。
pp212-213

就職、絶望期―「若者はかわいそう」論の失敗 (扶桑社新書 99)就職、絶望期―「若者はかわいそう」論の失敗 (扶桑社新書 99)
(2011/09/01)
海老原 嗣生

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という点を挙げられると思います。

つまり、「市場相場に詳しくない駆け出しの大学付きのキャリアカウンセラーが、学生らを説き伏せて、リードタイムを短くすることなど、可能性は0に等しいだろう」(海老原『同』p.79)という状況にあるキャリアカウンセラーからしても、よくわからない中小企業の正社員に学生を押し込めるためには、それでもなお中小企業について詳細を調査するより、目の前の学生の精神をコントロールした方が確実に思えてしまうのではないでしょうか。

この情報不足という点がネックとなって、キャリア・カウンセラーが学生の人格改造に安易に荷担してしまうとすれば、中小企業の職場風土や労働条件を丹念にデータとして蓄積する仕組みが必要となるはずです。この仕組みについては海老原さんの前著で指摘されているところですので、そちらでご確認いただければと思うのですが、そこでは多様な中小企業の姿として、

  • 他社がすべて業態変更した中で、その会社のみが残ったような、古い技術や技能分野での残存企業。もう、他社での技能伝承が途絶えているため、業界は独占状態にあり、立場は逆に強くなり、事業は左うちわだが、後継者がいない。
  • とにかく仕事が楽。それほど儲けるつもりもない会社なので、残業はないし、休日は多い。ただし、給与が安い。
  • 仕事もそれなりにハードでその分、給与もそこそこ良い。ただ、一番の特色は、雰囲気が良いこと。みんな仲良し、家庭的で助け合い精神旺盛。村社会的共同体が好きな人に向く企業。
  • 安定的で長期勤務が売り。浮き沈みがないから、不安はないが、華やかな話もまったくない地味企業。
  • 女性登用が盛ん。採用難で人材不足なため、良い人材は絶対辞めさせない。ということで、ママさん社員もどんどん管理職になっている企業。
  • 若年から人気が薄いため、海外展開やインターネット事業など、「明日を切り開く」人材が薄い。そのため、若手でも早い段階で「海外」「マーケティング」などの仕事に就ける企業。
海老原『同』pp.223-224

という事例が挙げられています。こうした企業を探してくることこそがマッチングの本来の機能であって、そうした企業以外を淘汰することが市場経済だと思うのですが、そうであろうとなかろうと「中小企業をつぶすな!」というのが左派政党だったりするわけで、なかなか頭が痛いですね。

そのような観点で今野・川村書を読んでいくと、ブラック企業と中小企業を一緒くたにして論じている点が気になりました。ただし、今野・川村書でもその点についてのヒントは示されています。

新興産業でとくに激しい逸脱が行われている

 従来型の関係の変化がとくに顕著にみられるのは新興産業においてである。日本型雇用は製造業を中心に発展してきたが、1970年代以降急激にサービス産業化が進展し、そこでも社会化した雇用取引ルールは影響し、日本型雇用の拡大を促すこととなった。
 ところが、90年代に入り、小売・卸売りの展開は鈍り過当競争に入っていく。その結果、既存の人員への圧力が強まっていった。また、新しい業態であるコンビニエンスストアや近年参入した新興の外食チェーン店では、そもそも日本型雇用の規範意識を有していない場合もみられる。サービス産業化が進んでいくなかで、従来の規範にとらわれない新しい産業が登場しているというわけだ。
 さらに、同じく新興産業であるIT企業はこの傾向がより顕著である。IT労働者は「強い労働者」とされることが多いが、実際の労務管理でもアントレプレナーシップ(企業家精神)を要求される。これは労働者にも強く受容されており、企業に生活保障を求める文化は労使双方に乏しい。

今野・川村『同』pp92-93


この部分を読むだけでも、ブラック企業と海老原さんが例示された中小企業との違いが如実に読み取れると思います。結局のところ、キセーカンワやら新規形態の外食産業やらIT企業などのベンチャービジネスへの礼賛によってもたらされたのは、ブラック企業が易々と労働者を使い捨てることができるという現実だったのではないでしょうか。労務管理の体制をしっかりと構築し、人材の育成に力を入れているような中小企業が旧態依然としたものとして忌み嫌われる一方で、社員全員が「企業家精神」をもって生活なんか顧みないで働くことこそが21世紀型の働き方だと喧伝された結果といえそうです。拙ブログで以前使っていたことばで言えば「経営者目線」を強要されるということですね。

さらにいえば、ここに「新しい公共」たるNPOを加えることもできるように思います。役所のろくに働きもしないコームインなんぞより、民間の自由な発想で柔軟な公共サービスを提供するという美辞麗句の裏側には、コームインよりも安い給料で労務管理も適当にやっておけば、低コストで公共サービスを受けられるという安易な目論見があったことは事実でしょう。その意味では、単にブラック企業というだけではなく、その由来を含めて議論していく必要があるのではないかと愚考するところですね(全然手短にまとめられなかった・・・)。
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2011年10月01日 (土) | Edit |
というわけで、hamachan先生のところでフライング気味にコメントしましたが、海老原さんから新著『仕事をしたつもり』をご恵投いただきました。いつもながら場末のブログを気に掛けていただきありがとうございます。

仕事をしたつもり (星海社新書)仕事をしたつもり (星海社新書)
(2011/09/22)
海老原 嗣生

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hamachan先生のところでコメントしたとおり、本書の結論部分では「安全策」と「奇策」が対比されていて、それぞれに思い当たる節があって考えさせられたのですが、それは本書をお手にとってご確認いただくとして、個人的にツボだったのが「すぐに「みんなで考えよう」と言い出すバカ上司」という部分です。本書では過去の成功体験が本末転倒な「仕事」を作りだしていくというスタンスで論が進められていくのですが、ここでも、以前の日本の組織は上意下達で風通しが悪かっただけに「みんなで考えよう」ということは革新的で効果的な試みだったのが、すでに「みんなで考える」ことが当たり前になっている組織では効果が無いと指摘されています。

 ただ、その成功体験がいつしか鉄則となり、連綿と同じことがくり返されたら・・・。いったい、どうなるでしょうか?
・アイディアなんてそんなにあるわけじゃないから、みんなネタ枯れを起こしている。
・みんなで考えることを強要されるため、自由度がなくなり、かえって閉塞感が高まる。
 このような悪循環が生まれた状態で、「みんなで考えた案」を実行すれば、うまくいかないのは目に見えています
 で、失敗すると、「みんなで考えたことだから、しょうがないじゃないか」となる。
 やっていることは前任者と同じなのですが、今度は「みんなに責任転嫁する卑怯な上司だ」と受け止められかねません。

目的の消失が、このタイプの「仕事をしたつもり」のはじまり

 どうして同じ「みんなで考える」が、こんなにも大きな差を生むのでしょうか?
 前者は、上意下達の風土を壊し、現場にたまった意見を集約する、という明確な目的があり、そのための手段として「みんなで考える」を利用しています。
 対して、後者には目的がないのです。強いて言えば、「みんなで考える」こと自体が目的となってしまっています。でも、みんなで考えたからといって、必ずしも成功はついてきません
 つまり、目的と手段の履き違え。まさに本末転倒です。

海老原『同』pp.110-111
※ 以下、太字強調は原文。太字下線強調は引用者による。


みんなでいいアイデアを出しましょう、というのは政策でもなんでもありません」というのは山形さんの名言ではありますが、政策レベルとはいわずとも、こうした組織レベルのミクロな世界でも「みんなで考える」というのは手段であって目的ではないわけです。結局は、「みんなで考える」という手段が有効な場合とそうでない場合があって、それぞれに応じて使い分けるという至極当たり前のことが、「みんなで考える」ことによる成功体験と、前向きなオーラがまとわりついているその言葉自体に惑わされてしまって、顧みられなくなるのだろうと思います。

ちょっと分野は違うのですが、以前読んだ会計の本でも同じように上司の勘違いが悲劇を生むことが題材とされていました。営業スタイルの違う課長同士がケンカしているのを上司である部長が諫めるというシーンですが、

俺は上司としての一番重要な仕事は、実践的な経験を通じて部下に営業テクニックを教えることだと思っている。それで、売上を伸ばす喜びを知れば、部下のモチベーションは上がるし、それについれて給料も増やすことができるはずだ。さらには、礼儀や常識を指導することで、人として大きく成長する手助けをすることも、上司の役目ではないのかな。今の二人のやっていることは、決して人の上に立つ人間としての模範となる行動じゃない・・・俺の言っている意味がわかるだろ?」
「・・・はい」
「今回の一件に関しては、始末書はいらん。すべて、俺の心の中にしまっておく。だから二人とも、今回のケンカのことは笑って水に流して、明日から大人の付き合いで、この第一営業部を支えていってくれよ」
 大塚がそう言うと、二人は「どうもすみませんでした」と言って、それぞれ帰り支度をして、オフィスから出て行った。二人のうしろ姿を見送ると、大塚は「ふぅー」と大きなため息をついて、背もたれに前身をあずけて、どっかりといすに座った。
週末にでも、あいつらと一回飲みに行って、仲直りの場を設けてやるか
 上司としてのひと仕事に納得したのか、ネクタイを緩めると、手をつけていなかった残業に取りかかり始めた。
pp.215-216


会計天国会計天国
(2009/04/21)
竹内 謙礼 青木 寿幸

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引用した部分だけではわかりにくいかもしれませんが、リベートを厚くした薄利多売の営業を得意とする課長と、地道な企画提案を得意とする課長がそれぞれのやり方に不満を持ってケンカし、それを仲裁した部長が実態を把握しようともせず「大人の付き合い」といって仲直りさせたつもりになり、一人悦に入っているという場面です。ここでも、この部長は部下であるそれぞれの課長の異なる意見に対して、「みんなそれぞれに考えているのだから、それでいいんじゃないの」と物わかりのいい顔をしているだけで、それぞれの営業スタイルが実際にどのような利益を上げているかを探ろうとしていません。この部長に対して主人公の経営コンサルタントが「あれは典型的なダメ上司だな」と指摘して物語は展開していくのですが、こうした「物わかりのいい顔」で部下の信頼を得ようというのも「みんなで考える」という手段を目的と履き違えた上司がよくやることですね。

海老原さんの新著に話を戻すと、同じように「みんなが考える」と誰も反論できないことの典型的なものとして、テレビ番組専用のウェブサイトが指摘されています。

「右へ倣え」発生のメカニズム

 なぜこんな無駄が、平気で日々生み出され続けているのか?
 こうした番組サイトを作ることが「普通」になってしまった今となっては、単に「それがあたりまえだから」「習慣だから」としか、制作している責任者も答えることができないのではないでしょうか
 テレビ局では、すでに番組の制作スタッフに加えて、専用のウェブサイトを作るスタッフが用意され、「番組を作る=サイトも作る」という仕組みができあがっています。
 こうなると、無駄を無駄だと疑う余地がありません。
 意味や効用など、考えるまでもないといえるでしょう。

海老原『同』pp.137-138


地方自治体でも「広報が弱い」とか「情報発信がへたくそだ」という指摘が多く寄せられるので、その対応について「みんなで考える」と、手っ取り早い対応として「ホームページを充実させて更新もきちんとしていこう」という提案がすぐに出てきます。しかし、そもそも自治体のホームページを見る人なんてどれだけいるのでしょうか。地道にアクセス数を稼ぐのは日常的に必要な手続を説明したページで、たまにマスコミで取り上げられた問題があるとその部署のアクセスが急激に伸びる程度で、普段から自治体のホームページをチェックしている人なんてほとんどいないはずです。

まあ、ロクな情報が載っていないからチェックしないんであって、役に立つ情報があれば見るぞという方もいらっしゃるでしょうが、役所で「役に立つ情報」というのは結婚とか引越とか事業を立ち上げたとか一大イベントでもない限りそれほどないわけです。それでも「我が課のホームページをリニューアルすればアクセス数が上がって住民が喜ぶはずだ」とかいう意見があれば誰も反論できず、「仕事をしたつもり」のウェブサイトがどんどん増えていくという悪循環が生まれているように思います。まあ、それがなかなかなくなるものではないということは海老原さんも指摘されているところで、折り合いをつけながら「仕事をしたふり」をしていくのが現実的なところなのかもしれません。
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