2011年09月26日 (月) | Edit |
前回エントリで批判的に取り上げた海老原さんの著書ですが、もちろん本書の全体的な流れについては賛同するところが多く、特に厚労省の政策に的外れだったり使い勝手の悪いものが多いという点にも同意するところです。

前回エントリを補足しておくと、本書で批判の対象となっているのは「行政(特に厚労省)」なのですが、ここ数年の厚労大臣、というか舛添要一氏と長妻昭氏のお二人が政治主導的に進めた政策が多いのではないかというのが私の印象です。麻生政権時にリーマン・ショックに対応した緊急雇用対策とか民主党政権下の派遣法改正法案を巡るゴタゴタがその典型でして、海老原さんが本書で批判されているのは主に自公連立による麻生政権下、すなわち舛添厚労大臣のときの政策なわけで、その点について言及があれば少し違う展開になったように思います。

ということで、今回の著書の中の賛同できる部分で印象に残ったのが、「そこそこ」というキーワードです。

 そこそこの習熟度合いで、そこそこ横移動ができる、という転職市場をきれいに整えるべきだろう。前述の「個人営業」などはその典型だし、法人営業でも固定商品のパッケージセールスは比較的習熟が少なく、営業力という人間力一本で横移動が可能だ。事務なども、ある程度の判断・処理業務までは、業界特性や企業風土と関係なく、横移動ができる。エンジニアでも、プログラマーやCADオペレーターなどは同様だろう。要は、かなり固定的な仕事であり、しかも、組織の末端か、もしくは個人で行う仕事というのは、企業に拘束されず、腕一本で生きていける可能性が高い
 ただし、事例で引いた外資生保のフルコミッション営業などを除けば、賃金は「そこそこ」レベルで終わる。そして、若年時も熟年時も仕事の深みはあまり変わらず、部下やチームを持たないため、成長した実感は湧かない。こんなマイナス要素をトレードオフで、自由に生きていく、という人生を手に入れることは可能だろう。
pp.108-109

就職、絶望期―「若者はかわいそう」論の失敗 (扶桑社新書 99)就職、絶望期―「若者はかわいそう」論の失敗 (扶桑社新書 99)
(2011/09/01)
海老原 嗣生

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※ 以下、強調は引用者による。


「正社員枠に押し込める」ことを目的としたキャリア教育に顕著ですが、正社員になって過労死ぎりぎりまで働くか、そうでなければ「そこそこ」はおろか、生活保護より低い最低賃金ぎりぎりの待遇の非正規しかないような二極化した労働市場を前提とした議論では、なかなかこういう話は出てきません。

私の周りの男性の友人にも何人かいるのですが、これといったスキルもなくすでに中年にさしかかっているのに職を転々としている人がいます。彼らは、見た目がそこそこでや話術もそこそこできるので簡単な個人営業ができたりするんですね。そういう人を正社員で長期的に雇用しようという会社はなかなかないんですが、逆にいえば、短期的な営業力を必要とする会社では積極的に採用されたりします。全国展開している会社が支店を出そうとしてたり、営業先がアレで雇っても雇っても辞めてしまうとか、転職を繰り返す人はなぜかそういうところを見つけてすんなり就職してしまうわけです。

このほか、転職エージェントを通じて一本釣りで転職していく人もいますし、実をいえば、二極化されているといいながらも転職市場はそれなりに機能しているといえそうです。ただし、海老原さんもご指摘のとおり転職市場は非正規の待遇に限りなく近いわけで、とても「そこそこの待遇」といえるものではない仕事もごろごろしています。そうではない仕組みを労働市場だけではなく会社の中にも作っていく必要があるわけで、「転職市場をきれいに整えるべき」と指摘はそうした趣旨を含んでいるのだろうと思います。

その一方で、正社員の方も成果主義だのフラット化だのというスローガンの下で、賃金カットやリストラのリスクが高まっているわけで、必ずしも安泰というわけではありません。ここで、経済学方面からみれば、そうしたリスクが高まれば正社員の魅力が下がって労働供給(応募者)が減るから、リスクプレミアムを含んで賃金がアップするという意見もありそうです。

ところが、ここにも「正社員枠に押し込める」というキャリア教育の影響が現れていると思うのですが、たとえば大学を出たからには正社員でなければ世間体が悪いというような意識を埋め込まれてしまった学生や求職者は、仕事や待遇の中身よりも正社員という枠に魅力を感じてしまいます。その結果、リスクの高まった正社員(いわゆるブラック企業の正社員も含まれます)で、しかも決して高いとはいえない賃金であっても応募者は減りませんし、その会社にリスクの高い正社員として採用されてしまえば、あとは雇用保障のある正社員と同様に「会社と会社の顧客に対する責任」を一身に背負って過労死ぎりぎりまで働くことになってしまいます。

そこで、本書で海老原さんは「“そこそこ”の働き方を制度化せよ」(p.250以下)として職務や地域を限定した職を増やすことを提言されています。古くは日経連(現経団連)が提唱した「雇用ボートフォリオ」とかhamachan先生の主張される「ジョブ型社員」にも通じる提言だと思いますので、議論は収斂していくのだろうと思いますが、個人的にはhamachan先生の指摘される視点が重要だと考えています。

 正社員のワークライフバランスの回復と非正規労働者の低い賃金・労働条件の改善とは、とりわけ男性社員に当然の前提として課されている過重な拘束をいかに見直していくかという問題の楯の側面でもあるのです。その将来像として、今までの女性正社員の働き方を男女労働者共通のデフォルトルールとし、本人が希望して初めてそこから個別にオプトアウトできる仕組みとすることで、次章で見る非正規労働者との均等待遇問題に新たな視野が開けてくるように思われます。
p.48

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)
(2009/07/22)
濱口 桂一郎

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まあ、今それをやろうとすると「一般職に、男ですよ」ということを言われてしまうわけで、男性正社員は幹部候補生でなければけしからんという「建前」が男性のみならず女性の過重労働をも正当化してしまいます。「そこそこの働き方」が実現するためには、「幹部候補生でなくてもいい」という「本音」で採用された女性だけが「一般職」にふさわしいという人事のルールを180度変えなければならないのだろうと思います。

その意味では、女性がもっと「こんな働き方はおかしい」という声を上げることが重要だと思うのですが、男性社員が幹部候補生として大きな顔をしている限り「そんなことを言う方がおかしい」と言われてしまうわけでして、何とも難しいジレンマですね。。。
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2011年09月25日 (日) | Edit |
震災から半年が経過して特に書くことがなくなったというようなことを書いておりましたが、仕事の関係でちょっとばかり違う分野の本を読み進めていたこともあって、震災とか労働とかの話題にまで手を広げられませんでした。というわけで、そちらが一段落したところで本屋に行ってみると、雇用・労働関係の新刊が多くてどれから手を付けようかという状態でしたが、とりあえずいつものとおり(?)海老原さんの新著を拝読してみました。
就職、絶望期―「若者はかわいそう」論の失敗 (扶桑社新書 99)就職、絶望期―「若者はかわいそう」論の失敗 (扶桑社新書 99)
(2011/09/01)
海老原 嗣生

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・・・これはなかなかの問題作ですね。

というのも、これまでの海老原さんの著作と同じく、一見突拍子もないようなことを主張されていながら、読み進めていけば自分の実体験と照らし合わせて腑に落ちる説明となっているのですが、地方公務員としてはやはり「第3章 なぜ行政は失策を重ねるのか」の論調にはにわかには同意しがたいものがあります。というわけで、第3章については最後に回して、今回の著作で海老原さんが主張されている「一見突拍子もない」ことの導入部をざっくりとまとめてみると
  1. 日本型雇用慣行の弊害として指摘される新卒一括採用を厳格に運用しているのは大手に限られる(ただし、大手でも第二新卒採用はある)ので、卒後3年以内を新卒扱いしても、大手に採用されるような(超)一流大学以外に効果はない。
  2. むしろ、大手が卒後3年以内を新卒枠と競合させてしまうと、新卒者や(超)一流大学以外の就職浪人生には大手はさらに狭き門となる可能性が高い。
  3. それよりは、新規大卒者の5人に4人が就職する中小企業に目を向かせて、多様な働き方があることを示す方が実現性も効果も高い。
という3点になるのではないかと思います。

本書では、この3点について、どうしてそういう議論になるのか、求められる改革の方向性は何か、その具体的な内容は何かというそれぞれの観点から議論が進められていきます。繰り返しになりますが、本書でも海老原さんの主張はちまたに繰り広げられる議論を否定しながらも、その内容は腑に落ちるものとなっていると感じます。特に、大学3年~4年に就活しているときの心情の移り変わり次のように指摘されていて、自分の学生時代を思い出してしまいました。

 夏休みにさしかかる6月と7月の間に、大きな変化が生まれている。
 それまでは、「過去の私生活」や「本人の志向」などが企業選びの大きな理由だったものが、この月を境に、「社内の人材」「説明会等の内容」へと変わる。そう、認知度やイメージ、周囲への見栄などから現実的に合格可能性の高い企業へと、志望がようやく変化するのだ。この就職活動生の変化を、同研究所(引用注:リクルートワークス研究所)で「転換イベント」と命名している。

「大企業病」から覚めるまで数か月

 就職や転職というものに明るくない人からすると、なぜ、こんなに時間がかかるのか、理解できないところだろう。だから、「キャリアカウンセリング」などの手法によって、しっかり採用相場を教育すれば、こんなリードタイムは不要になる、などと主張する人も出てきてしまう。しかし、これが難しいのだ。いくら市場相場をさまざまな手法で伝えても、学生たちは自分が真剣に「落ちる」までは、絶対に納得はしてくれない
 いや、学生に限ったことではない。転職エージェントに相談に来る社会人とて、まったく同じ状況なのだ。転職エージェントにエントリーしてから転職が決定するまでには、大体、5か月ほどかかっている。
海老原『同』pp.77-78

※ 以下、強調は引用者による。

私自身は、諸事情により大手企業の採用時期をそもそも逃してしまってから就職活動を始めたので、正確にはこのタイムスパンとは違ったのですが、実体験として「メジャー大手を諦める→マイナー大手の資料に目を向ける→マイナー大手も間に合わない→外資系、中小企業でもいいところがあるんじゃないかと探す→外資系はそれなりに情報があるけど、中小に目を向けようとしても情報がない→外資系にエントリーするも引っかからず、途方に暮れる」という経路をたどった者としては、「そうだよなあ」と苦笑いです。

まあ私自身は、そのときたまたま実施された試験に受かって地方公務員となってしまい、中小企業へ就職することはありませんでした。実は、取り上げる暇がなくて拙ブログではスルーした形になっていましたが、海老原さんが編著名義となっている『中小企業ミシュラン《2012年版》 ずっと働きたい「従業員300人以下」の会社選び』では、公務員への就職活動についての記事がありました。『「いっしょに働きたくなる人」の育て方』の著者である見舘先生の記事ですが、「意外な」公務員の仕事をイメージできると思います。

 このように「多様な人々と協働できる力」があって初めて、公務員という仕事を長く続けることができるのです。にもかかわらず、もともと対人志向が低い人が入職するため、こうした環境に耐えられずに休職してしまうことも少なくないと聞きました。それは教員でも同じでしょう。モンスターペアレンツやいじめ、不登校などに耐えられず退職するのと同じ問題といえます。
 逆に、民間企業を希望する学生も、公務員の仕事は魅力的ではないと思っている節があります。私の二年生向けの授業で、区役所の職員の方に仕事内容ややりがいなどをお話ししてもらったことがあります。内容は刺激的で、たとえば建設局用地課の仕事は、市が建設する道路・公園・河川などの用地取得の交渉です。土地については値段交渉、建物については他の場所に移転を補償する交渉をするのです。相手は千差万別。頬に傷がある人だっているのです。いずれにしろ、相手の立場を理解しながら、決してひるまず、毎日通って信頼を勝ち取りながら交渉することが大事だそうです。
 これを見る限り、公務員の仕事は民間企業のトップの営業担当者と大差ない力が必要に思えます。講演後、学生が書いたアンケートを読むと、「公務員の仕事のイメージが変わった」「刺激的で面白そうだと思った」「正義感を感じた」など、公務員に魅力を感じた学生が多くいました。
 このように、公務員は、公務員が向いていない学生が希望し、向いている学生は公務員を希望しないという、果てしないミスマッチが起きているのが現状です。
pp.160-161

中小企業ミシュラン《2012年版》 ずっと働きたい「従業員300人以下」の会社選び中小企業ミシュラン《2012年版》 ずっと働きたい「従業員300人以下」の会社選び
(2011/07/20)
海老原 嗣生

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拙ブログでは常々、「公務員の仕事は利害調整だ」と言い続けているわけですが、利害調整するための必須条件が利害関係者との信頼関係でして、その意味で公務員には信頼性が求められるのだろうと考えています。つまりは、「民間企業のトップの営業担当者と大差ない力が必要」というのは、そうした信頼関係を築きながら粘り強く交渉の目的を達成することが求められるのだろうと思います。もちろん、行政には最終的な代執行という強制手段が与えられていたりするので必ずしも民間企業と同列に論じることはできませんが、代執行や行政訴訟にもコストがかかるわけで、そのコストを避けるためにもそうした「営業力」が求められることになります。

ところが、こうした公務員の仕事が「意外だ」と受け止められているからこそ、公務員を志望する学生にミスマッチが生じるのだろうとは思います。まあ、ことは就職の際のミスマッチにとどまらず、見当はずれな天下り批判とか私腹を肥やす官僚というイメージにもつながっていくのではないでしょうか。というところで、海老原さんの『就職、絶望期』に話を戻すと、私が冒頭で勝手に要約した3点からすると厚労省の施策が「格差の主因は非正規雇用」という都市伝説を利用していると指摘されます。

 要は、お役所の人たちは、こんな「都市伝説」がかなり大げさに作られた虚像だということをすべてわかっている。なのに、あえて反論しない。
 その理由を一言で言おう。こうした「都市伝説」により、予算がガッポガッポ増えていくから。私にはそうとしか思えないのだ
 たとえば、麻生政権の緊急景気対策として09年補正予算の中には、緊急人材育成・就職支援事業という名目、要は、騒がれていた「ワーキング・プア」問題を利用して、7000億円の予算が計上された。目的はこれにより「35万人の職業訓練や、その間の生活保障」などをすることだという。
 この予算はどう使われたか? 1年で使い切ることは難しいために、3年間の基金となり、「中央職業能力協会」の管理となる。ここから、職業能力開発という名の下、失業者の教育訓練給付関連にバラマキの連鎖が始まる。中央職業能力開発協会には訓練の機能がなく、入札の結果、「わたしの仕事館」で悪名高い「雇用・能力開発機構」が応札。しかし、ここも訓練実施機能はなく下請けに…。
 結局、厚労省が天下り先の「中央職業能力協会」「雇用・能力開発機構」に税金をバラ撒いただけ、と問題視した民主党政権は、予算の半分を凍結した。
 ところが、その民主党が政権を握った10年になって、厚労省の雇用・人材育成事業に3000億円超が補正予算で積み増しされた。一度握ったお金は、死んでも離さないという意気込みや良し!とでもいうべきか。
海老原『同』pp.120-121

…何というか、「厚労省が天下り先の「中央職業能力協会」「雇用・能力開発機構」に税金をバラ撒いただけ」というのも十分に「都市伝説」のような気がします。「雇用・能力開発機構」をはじめとして、都道府県所管の職業訓練校も内部労働市場を優先する日本型雇用慣行の中で弱体化されていて、その体制では1年で使い切ることが難しいような額の補正予算を「政治主導で」組んだ方にも問題があるのではないでしょうか。さらには、その弱体化された「雇用・能力開発機構」に訓練実施機能がないといっても、基金訓練として委託することは可能であって、その委託事業としての公共サービスを享受するのがスキルを求められる求職者であることを考えれば、「税金をバラ撒いただけ」という指摘は早計に過ぎるように思います。

いや、もちろん海老原さんもこうした「都市伝説」を虚像だとわかって書いていらっしゃるのだろうと(期待を込めて)考えています。それでもこういったセンセーショナルな書き方の方が売れるのでしょうし、巻末の城繁幸氏との対談でも海老原さんの発言は奥歯に物の挟まった感じがしますので、いろいろな民間同士のしがらみがあるのではないかと余計な詮索をしてしまうところですが、これも「都市伝説」なのでしょうか。。

(付記)
本エントリでは否定的に取り上げてしまいましたが、私自身は本書で指摘されている政策提言には賛同するものが多くあると考えています。厚労省の打ち出す施策が的外れではないかということについても、拙ブログでは緊急雇用創出事業への批判という形で指摘しているところです。本書で賛同できる点については、別エントリで取り上げておりますのでそちらも合わせてご覧ください。
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2011年09月20日 (火) | Edit |
市民活動が盛り上がりを見せているようですが、そういうときにこそそれが風評被害と紙一重であることを十分自覚して慎重に論を進める必要性があると思います。とはいっても、黒川さんのようにそういう姿勢を明確に示す方がどれだけいるのだろうかという疑問があります。

しかし運動に夢中になってくると、必ず原発をやめていく、という道筋を忘れて、より徹底した原発批判をした者が偉いということになりがちなところもある。脱原発が空回りすると、今日来た会場溢れるばかりの人たちはいつか脱原発の運動から離れていってしまうことにになるだろう。
やはり、確実な原発をやめていくロードマップを作らせていくことが本当はいちばん大事なのだと思う。「危険なものは使うな」という論理で物理的な面だけ考えれば急進的な廃止論もありなのだろうが、社会的にはそれでは通じない。また使う側の論理もなしに、供給だけ止めるというのも運動の矜持がなさすぎる。

会場でのプラカード、配られるビラなど、東電バッシングみたいなものが目立ったがこれには違和感があった。事故後の対応、補償金の支払い体制、未だに根強い原子力神話、不透明かつ下請け依存の事故処理など非難されるべきものはたくさんあるしそこは手厳しい批判は必要だと思うが、膨大な事故補償を東電従業員の賃金カットだけでやれといった暴論には私は与しない。東電の財務諸表を見れば、東電だけでそうしたことをするのは限界であり、東電を監督していた政府にも責任があれば、原子力行政を監督できなかった国民にも一定の責任があるように思う

事故が起こるまで真剣に原発が危ないと行動しなくとも批判した市民がどれだけいたのだろうか。原発を海外に売り込もうという政権を熱狂的に支持したのも国民である。ここで考えるべきは、やはり原発による被害を受けた人がいちはやく被害が復元されるか、あるいは被害をカバーできるだけの違う生活を確立できるか、ということが最優先で議論されなくてはならないことではないかと思う

9/19 とめよう原発1000万人集会に出る(2011.09.19)」(きょうも歩く

※ 強調は引用者による。

私自身は、現在の経済活動を維持するためには、「脱原発」を現時点で主張することは非現実的だろうという立場ですので、黒川さんが参加された市民活動そのものに与するわけではありませんが、強調した部分については全面的に同意するところです。特に強調部分の最後のところは、自らの正義感に酔ってしまって「脱原発」を強調するあまり、かえって被災地への差別的扱いを助長してしまうことを牽制するためにも、これからも言い続けていかなければならないと思います。

しばらく前にも陸前高田市の松を燃やすなというクレームで右往左往したことがありましたが、今度は花火だそうです。いろいろな報道がありますが、読売新聞で紹介されていた日進市長のコメントがこの問題の根深さを端的に示していると思います。

放射能心配…福島産花火、市民の抗議で使用せず

愛知県日進市で18日夜に行われた「にっしん夢まつり・夢花火」大会で東日本大震災の被災地応援のため予定されていた福島県産花火の打ち上げが、放射能を心配する市民の抗議で取りやめられたことがわかった。

 市などでつくる実行委員会などによると、大会では岩手、宮城、福島県産のスターマイン各1基を打ち上げる予定だったが、実行委は直前の17日、福島県産の1基分(80発)の不使用を決め、愛知県内の業者が製造した花火に替えた。「放射能をまき散らすな」といった電話やメールが相次ぎ、花火の放射線量の数値確認も間に合わなかったためだという。

 花火を製造した福島県川俣町の「菅野煙火店」を営む菅野忠夫さん(77)は「本当に悲しくなった。この夏も各地の花火大会に出荷したが、放射能の話は一つも出なかった」と話した。

 萩野幸三市長は「福島の方々に申し訳ない。市民の不安にも応える必要があった」と釈明した。
(2011年9月20日00時11分  読売新聞)

チホーブンケンの世界で選良として生きる首長の皆さんからすれば、遠くの福島県なんぞより、有権者である日進市民の意向を優先することが合理的な行動となるのは理解できなくもありません。しかし、その行動は、単に地元市民の不安に応えるだけではなく、日本全国に「フクシマ」の花火は危険だというメッセージとなって、外部不経済として日進市の外部へ漏出してしまいます。「日進市では福島県の花火を危険だと判断した」という事実が一人歩きを始めてしまうわけです。ちょっと前には福岡県で福島県の物産展が中止になっていますし、これからも同じことは起きるのかもしれません。

というのも、私の個人的な印象ですが、こうした反応が広がっているのは、福島県を「フクシマ」などと記述して放射性物質の危険性を必要以上に煽りまくったマスコミや、それに乗じて自説を展開しようとする評論家や一部の学者連中が、被災地を「穢れ」たものとして認識する国民感情を醸成したからではないかと考えています。その点からいえば、「とめよう原発1000万人集会」がどういう国民感情を醸成するかということに関心があります。黒川さんが指摘されるように、「原発による被害を受けた人がいちはやく被害が復元されるか、あるいは被害をカバーできるだけの違う生活を確立できるか、ということが最優先で議論されなくてはならない」となればいいのですが・・・

もう一点気になったことというのが、現時点での「脱原発」に否定的な私が賛同できる黒川さんが「とめよう原発1000万人集会」という集会に出るということの意味です。もちろん、「脱原発を志向してかれこれ25年」という黒川さんご自身はこうした集会に出ることに矛盾はないと思うのですが、「とめよう原発」という集会である以上、黒川さんの認識とはかなりかけ離れた考えの方も参加しているだろうと思います。そうした方は得てして声も大きいでしょうから、そのような方々と共闘するのは黒川さんとしてもいろいろと苦労されているではないか、それが引用したエントリに込められた思いではないかと要らぬ老婆心を思ってしまいます。

実をいうと、労働組合やNPOといった自発的組織の方々と接していると、「しがらみ」というものを強く感じる場面が多くあります。ある程度話が進んだところで、「我々は○○と付き合いが長いから、支援するならそっちの方面からでないと・・・」とか「××は△△(別団体)と付き合いがあるから我々はちょっと・・・」となってしまって先に進まないということが少なくないという印象です。

まあ、もちろん印象レベルなので「うちは全方位でやっているよ」という団体もあるとは思うのですが、そこで「地方自治法により特定の事業主に発注することはできない」などと「お役所的」な理由でもってしがらみを断ち切れるのは、意外に役所の方なのかもと思うことがありますね。その点でも、「無党派でしがらみのない市民感覚を」という選良の方々の主張は眉につばして聞かなければならないと思うところです。
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2011年09月12日 (月) | Edit |
日付が変わってしまいましたが、昨日で震災発生から半年が経過しました。これまで毎月11日(前後)には何かしらエントリをアップしていましたし、実際にその時点で書いておかなければと思うことがあったのですが、意外なくらいに半年後の時点で書いておかなければならないことというのが思い浮かびません。いや、実際には山ほどあるのでしょうが、震災直後のように対応しなければならないことが次々と目の前に迫ってくるという段階から少し状況が変化して、現在実施している対応がこの次はどう展開するのかとか、これから顕在化していく問題に対してどう対応するかということを時間をかけて考えなければならなくなってきたという感じでしょうか。

仙台市で被災された小田中先生はいまフランスのモンペリエに滞在中とのことですが、半年後を遠い異国の地で迎えたときの

震災から半年。あの日を境に多くのことが変わり、そして、この半年でその一部が元に戻った。しかし、まだ戻らないことがあり、もう戻らないこともある・・・

■モンペリエ滞在20日目(2011-09-11)」(小田中直樹モンペリエ・ドタバタ記

というつぶやきが心にしみます。

復旧・復興というと、まずは「いつもの生活に戻りたい」という感情に突き動かされて、その時点では一生懸命に考えてとにかくできることをやるという行動につながりますが、半年経って振り返ってみるとやっぱり「まだ戻らないこと」があって、その中には「もう戻らないこと」もあることを実感します。

いまやらなければならないことは、「もう戻らないこと」を悲観的にばかり捉えるのではなく、そのうちのいくらかでも「新しい未来へ向かう」ようにしていくことなのだろうと思います。柄にもなくキレイ事を書いてしまいましたが、「もう戻らないこと」の中には、震災で亡くなった方や地盤が沈下したりという物理的に戻しようのないものや、被災された方の心情のように時間が解決するのを待つしかないものもあります。逆に「元にもどった」ように見えるものでも、どこか以前と違うというものもあります。いい意味でも悪い意味でも被災地での人間関係はそうかもしれません。そういった現実と正面から向き合っていくことが、被災地復興の原点だということを改めて心に刻みたいと思います。

拙ブログの関心領域でいえば、このほかには「戻ってはならないこと」もあって、過疎地域での医療や福祉などの現物給付を震災前の貧弱さに戻すことはあってはなりませんし、もしかすると日本型雇用慣行を「元に戻さない」という選択肢もあるかも知れません。いずれにせよ、各所で語られる「復興」という言葉が何を意図するものか?という点には、これからも考え抜いていかなければならないと思うところです。
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2011年09月07日 (水) | Edit |
匿名ブログなもので自分の身の回りで起きたことをダイレクトに書くことができないという制約がありまして、つい先日もそんなことがあったばかりですが、そういった事情をご理解いただければ幸いです。でまあ、探せばどこかに私と同じことを感じている方がいらっしゃるもので、こういうときにネットの威力というものを感じます。だいぶ前の記事になってしまいましたが、私とhahnela03さんが書いたのかと見まごうようなエントリがありました。いじめ・メンタルヘルス労働者支援センターという団体があるとのことで、全体のトーンとして私の見解とは相容れない部分もありそうですが、そちらの活動報告ブログに「お盆が過ぎて」というエントリがアップされています。

8月23日(火)

 夏休みは、被災地を開通した電車と自転車と徒歩で回りました。

 政府は当初、お盆までには避難所に入った被災者全員を仮設住宅に入居させると言っていましたが間に合いませんでした。政府の怠慢ということだけでなく、用地が確保できませんでした。
 1つには、各地方自治体に用地確保に優先して専念できるような体制・人的余裕がありませんでした。1人何役もこなす中での用地確保業務です。繰り返しますが「小さな政府」の犠牲です。8月8日の『産経新聞』によると、被災地に派遣されたある自治体職員の男性は、多忙な業務に追われ、鬱病を発症した末に自殺しました。
 2つ目には、土地があっても長い間過疎化が進んでいて、親族でも疎遠になっているなかで土地所有者の確認と承諾は困難を極めます。なおかつ電気、上下水道を設置できる条件のところは限られます。
 3つ目は、民間の空地は、地元以外の建設業者等がすでに賃貸契約を結んで使用しています。
 何とか建設した仮設住宅の中には、田圃の中にあって買い物ができる最短の店が1キロ離れていたりしているところもあります。お年寄りが生活をしていくには不便としか言いようがありません。だから空室も目立ちます。
 しかし洗濯物が干してある光景をみると、生活に少しは落ち着きができたかとほっとします。
 一方、被災者が避難所から仮設住宅に移ると、被災地域から本当に人影が亡くなります。ここをどう復興させるのだろうかと考えると正直気が遠くなります

お盆が過ぎて(2011/08/23(Tue))」(いじめ・メンタルヘルス労働者支援センター活動報告
※ 以下、強調は引用者による。

「繰り返しますが「小さな政府」の犠牲です」というのは、拙ブログでいうと「緊急避難的な状況を脱した被災地で生じている現実は、震災前から進められていた「小さな政府」路線の帰結でもあります」という辺りと同じ認識のように見受けます。まあ、現地の役場に入って職員数の少なさを目の当たりにし、その中で震災以後間断なく寄せられる外部からの支援と地元住民からの苦情に翻弄される疲労感とか、目の前の被災者への救援策に手が回らない焦燥感に職員がさいなまれる様子を肌で感じても、なお「もっと小さな政府にすべきだ」とおっしゃる方がいれば、現地の役場職員と一緒にじっくりとお話を聞いてみたいものです。「ここをどう復興させるのだろうかと考えると正直気が遠くなります」というのも、現地に行くたびに「「復興」ってなに?」と考えてしまう私の認識と一緒のようです。

リンク先のエントリでは、この後hahnela03さんが指摘されるように、復興事業は実は大手企業が受注していて、その還流先は首都圏だったりすることが指摘されています。この辺も「小さな政府万歳」「民間でできることは民間に」路線の帰結ですが、それを「地方が独自に決めた自主的な復興計画」とか言ってしまう霞ヶ関の方もいらっしゃるところが頭の痛いところです。

再び冒頭のリンク先エントリに戻って、それが被災地でどのような現実を引き起こしているかというと、

 仮設住宅問題からは現在の政府の住宅政策も見えてきます。
 住宅建設のスピードは、阪神淡路大震災の時よりも原爆にあった広島、長崎の方が早かったです。現在と比べて資材の調達など困難さは比べものにならない状況でしたがそうでした。
 住宅を生活必需ととらえるか商品・ビジネスと捉えるかの違いです。住宅・建設業界にとって、被災者に「自己責任」で商品獲得に向かわせるには政府の過保護は迷惑なのです。

 かつて自民党政権時代に「小さな政府」を目指して行政改革が叫ばれて担当大臣に就任した石原伸晃は、具体的に何から始めるのかとの記者からの質問に「たとえば住宅金融公庫や雇用能力開発機構とか」と答えました。いずれも労働者の生活に影響を及ぼす部署。これらの部署の一部分が抱えていた問題点をクローズアップさせる裏で、労働者の住宅問題や職業訓練の問題の切り捨てが促進されていきました。同時期に論議を開始されたのが、かつて炭鉱閉鎖で大量に失業者が出た時に住居の保証のために建てられた雇用促進住宅の廃止問題でした。住宅問題を厚生労働省管轄から完全に切り離し、産業と位置付けて国土交通省の管轄に一本化しようとしました。
 しかし雇用促進住宅は“派遣村”がその必要性をあらためて問題にしました。
 労働者の衣食住の確保は「自己責任」でなければならないのでしょうか。だとしたら政府はいりません。
 住宅金融公庫は労働者が住宅を入手しようとする時、便宜を図るものでした。廃止後は、労働者が住宅を入手するには建設・不動産業界と金融業界に相当の金額を支払うことを強制されます。

お盆が過ぎて(2011/08/23(Tue))」(いじめ・メンタルヘルス労働者支援センター活動報告

「天下り」を目の敵にすることで、その「天下り」先が実施していた事業までも否定するという「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」論法が、必要な社会的支援を削減する方便となり、そこに「民間でできることは民間で」と利権獲得行動が引き起こされていくわけです。多少の「天下り」があったとしても必要な社会的支援が行き届く社会と、「天下り」を根絶するためにそうした社会的支援を削減する社会のどちらが望ましい社会なのか、このご時世では私にはよくわかりません。もちろん、私は公務員組織の人事労務管理上だけではなく、山形さんご指摘のように国策としても「天下り」の効用は大きいと考えておりますので、後者の社会を支持する理由が見あたらないというだけのことのですが。

そう考えるのも、被災地の間近にいるためにこの国の状況が端的に見えてしまうからではないかと思うところでして、大都市にいて「東北とか北関東はカワイソウダナー」とか「がんばれニッポン」とかおっしゃいながら、増税などで自分の負担が増えそうになると途端に「震災不況が来るぞ」などと危機を煽る方々には見えないのかもしれないななどと思ったりしています。
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