2011年07月25日 (月) | Edit |
先日政府の東日本大震災復興対策本部で「東日本大震災からの復興の基本方針骨子」が決定されたとのことで、ざっと内容を確認してみました。とりあえず、雇用関係については「5 復興施策」の「(2) 地域における暮らしの再生」に記載されていましたが、

5 復興施策
国は、以下の復興施策を推進。各府省は、被災地方公共団体の意向等を踏まえつつ、所管の復興施策についての当面の事業計画を、可能な限り速やかに策定し、公表。東日本大震災復興対策本部は、各府省が公表したものについて、その一覧性を確保するため、取りまとめを実施。また、事業の進度にあわせて、これを改定。

(2) 地域における暮らしの再生
(雇用対策)
() 仕事を通じて、生活の安定を図るとともに、被災地の復興を支えることが重要。このため、復旧事業等による確実な雇用創出、被災した方々の新たな就職に向けた支援、雇用の維持・生活の安定を政府を挙げて進める「「日本はひとつ」しごとプロジェクト」の推進、雇用創出基金の活用、被災地域におけるハローワーク等の機能・体制の強化等を行うとともに、産業政策と一体となった雇用面での支援を実施。また、当面の復旧ニーズや震災後の産業構造を踏まえた職業訓練、新産業創出を担う人材の育成等を実施。
() 被災地域において、人口減少、少子高齢化に対応して第一次産業等の生涯現役の雇用システムを活用した全員参加型、世代継承型の雇用復興、兼業による安定的な就労と所得機会の確保等を支援。若者・女性・高齢者・障害者を含む雇用を被災地域で確保。

東日本大震災からの復興の基本方針骨子 (平成23年7月21日(木))注:PDFファイルです」(東日本大震災復興対策本部


なんとなく、1か月前に「いまさら?」と疑問を呈していた復興構想会議の提言よりも後退してしまっている感があるのは気のせいでしょうか。。。まあ「調整中(「復興に関する財政フレーム検討閣僚級会合」関連。)」とされている部分があちこちにありますし、骨子案とはいえ、参考資料を除いても提言の半分以下のページ数ということで、現時点では雇用に関してはほとんど内容がないといってもよさそうです。その他、「復興特区制度」や「使い勝手のよい交付金」、「新しい公共」など拙ブログで疑問を呈しているキーワードがてんこ盛りで、読んでいてゲンナリしてしまいました。

ところで、「「復興に関する財政フレーム検討閣僚級会合」関連」でググっても政府のサイトがヒットしないので、この会合は閣僚級の非公開会議のようです。経済財政諮問会議が機能していたころに比べて情報の開示も後退しているように見えますが、現政権には自公政権時よりも表に出せない話が多いのかな?と邪推してしまいますね。まあ、現政権は謝罪がマイブームらしいので、「いかに謝るか」を相談しているのかもしれません。

さて、復興構想会議の提言でも、今回の骨子案でも一つよく分からないことがあります。いずれの題名も「復興」という言葉がメインとなっているのですが、「復興」とはどういう状態を示すのでしょうか。拙ブログでも、3月の時点で

上記1、2で指摘したことは、いずれも財政負担を伴うものです。私が現時点で最も危惧するのは、自分の負担が増えることについての拒否反応と過疎地への再分配への拒否反応です。現在のところ、マスコミでもまだ被災者の苦しい避難所生活を強調したり、今後の生活再建への不安を駆り立てるような報道がなされ、それに対する支援の輪が広がっていく循環ができているように思いますが、ある程度生活再建が現実の課題として認識される段階になれば、「そんな津波で流されるところにわざわざ町を再建する必要はない」「もともと過疎の町だったんだから、この機会に全員移住させてしまえばいい」「津波に強い町にするためなんていいながらムダな公共事業なんかに税金を使わせてなるものか」という議論が起こることは十分に想定されます。

※ 強調は引用時。
復旧・復興に向けてのいくつかの論点(2011年03月27日 (日))


と懸念しておりましたが、やはり次のような反応が今後広まっていくのかもしれません。

 
 このまま行くと、人口が今後とも減っていく東北地方のために多額の税金を無駄に使われることになるかもしれない。そして被害額以上の税金がつぎ込まれ、今までの東北にあった国富のプラスαが作られることになる。しかも税金で被災者のために新築まで作るのだ。こんな馬鹿げたことのために税金を上げるとなると、今後は何か災害が起きても寄付する人は消えていなくなるだろう。はっきり言って、被災地のために増税されることがわかっていたら寄付することほどバカバカしいものはない!
 しかもコミュニティを壊さない復興をしろとか住民がワガママを言っているようだし、辞任した松本復興担当大臣じゃないけど「ちゃんとやれ!」と言いたくもなる。もし23兆~25兆円もの復興資金がつぎ込まれるのなら、もはや被災者は弱者でもなんでもない。あれこそ究極のモンスターだ!
 こんなに復興資金をジャブジャブつぎ込んだら被災地域は焼け太りになるだけであり、想像を絶するほどの無駄な公共事業を増税でやられることになる。人口が減っていく地域だからこその復旧があるはずで、その費用は土地の造成費用と生活道路と地域をつなぐ道路と漁港の復旧で十分だろう。その他プラスαがあると仮定しても、5兆円もあれば十二分に復旧は可能なはずである。間違っても被災者のために新築住宅まで税金でプレゼントしてはならない。
 年金で生活している被災者はいくらか引っ越し費用などをあげて、病院に近い都会の集合住宅にでも移住させればいい。仕事のない人も都会の仕事を探してあげて移住させればいい。地元に仕事が残った人を中心に造成地を作るだけですめば、復旧費用はもっと少なくても大丈夫だろう。

増税で復興事業を22兆~25兆円という暴挙!(2011年07月22日00:00)」(日本経済をボロボロにする人々
※ 強調は引用者による。


こうした意見が出てくるのも、肝心の「何をもって復興とするか」という点についてのコンセンサスが得られていないからではないかと思います。復興構想会議の提言でも今回の骨子案でも、どのような状態になれば「復興した」というのかは明記されていません。「2 復興期間」が調整中なのが象徴的ですが、これでは、復興に要する期間や費用の見積もりに異論が出るのも無理はないでしょう。

実をいえば、私自身も一面が流されてしまった被災地に行くたびに「ここがどうなれば『復興』したといえるのだろうか?」と思い悩んでいます。物理的に地盤が沈下したり、防波堤・防潮堤などが破損しているので、元の町並みを再現することは現実的ではありません。しかし、復興が遅れている今この時点でも、働いて生活する場を求めて人口は流出しています。被災地に残っているのは、地場産業の水産業のほか、復興需要が見込める建設・住宅関係の会社や商店街の店主などですが、復興需要は一時的なものとなるでしょう。

とはいっても、被害に遭った臨海部は、むしろ漁港や港湾を拠点とする漁業や水産加工業をはじめ、精密機械などの製造業といった産業があるので、まだマシといえます。それより問題なのは、これといった産業もなく、特に高齢化の進んだ農家しかないような中山間地域の集落です。農家の方々は土地を資本として農業を営んでいる以上、土地がない限りは引っ越して仕事=農業を続けることができません。農作物の出来不出来は気候や土壌に大きく左右されるので、例えば内陸の耕作放棄地に引っ越したとしても、沿岸の高齢化した農家がこれまで培ったノウハウを生かせるかどうかは未知数です。そもそも、農業がペイしないから高齢化が進んで耕作放棄地になっているわけで、高齢化した農家が内陸の耕作放棄地に引っ越して農業をするということは、現実的に難しいと思われます。

極端に言えば、そうした過疎地域の農業までが「復興」の対象となるのでしょうか。あるいは、「復興した」リアス式海岸部を全国の方が「是非住みたい」という地域にして人口増加を目指すのでしょうか。もしかすると、引用したブログ主が主張されるように、「その費用は土地の造成費用と生活道路と地域をつなぐ道路と漁港の復旧で十分」というのも一つの考え方かもしれません。まあ、このブログ主はストックとフローの切り分けができていないようですし、したがってフローによる所得再分配という概念自体も持ち合わせていないようですので、「トンデモ」認定しておけば無害です。といっても、経済学者の中にも堂々とこういう議論をされる方がいるので油断はできませんが。

話を戻すと、私自身は上記のとおり現時点で「何が復興か?」に対する回答はありません。ただ、一つの目安となるのは、外部から支援に入っている各機関や団体が撤退する時期が一つの区切りとなるのではないかと考えています。たとえば、岩手県では今週中にも自衛隊が撤収することになるようです。

自衛隊に撤収要請…岩手県知事、26日にも

 岩手県の達増拓也知事は20日、県内で災害支援活動を行っている自衛隊に対し、26日にも撤収を要請する考えを明らかにした。

 東日本大震災で大きな被害を受けた東北3県での撤収要請は初めて。

 達増知事は20日開かれた県災害対策本部会議で、「自衛隊は24日に県内での支援活動をすべて終了する予定だ。順調なら撤収要請を26日に行う方向で考えたい」と述べた。

 陸上自衛隊第9師団司令部指揮所広報によると、岩手県内では19日現在、陸自隊員ら約4900人が生活支援活動などをしている。防衛省によると、震災で7道県から自衛隊の派遣要請があり、このうち青森、千葉、北海道、茨城の4道県では撤収している。

(2011年7月20日13時21分 読売新聞)


まずは、これまで災害発生直後は警察や消防でも手に終えないような生存者の救助、道路や橋梁の復旧に当たり、その後は遺体の捜索のほか、風呂の提供、炊き出し、物資の運搬・配給といった社会生活に必要な支援に当たってきた自衛隊に対し、心からお礼を申し上げます。そして、自衛隊に提供していただいていたこれらの支援は、これから地元自治体や民間団体が担うことになります。このとき、上記のブログ主なら、「税金でやるのはけしからん」というのかもしれませんが、施設や物資はもちろん、それを提供する人員の人件費など多額の費用が必要となりますので、皆様にはご理解とご協力を心からお願い申し上げます。

さらに、民間団体の中では海外のNGO団体にも撤収の動きが出ています。海外のNGO団体からすれば、日本という世界トップクラスの行政サービスを有する国で起きていることは、まともな行政機構もスタッフもいない途上国の状況に比べればまだまだマシでしょうから、ある程度まで行政機能が回復すれば、日本より途上国の支援にリソースを回すのが合理的です。その意味で、海外のNPOが撤収した時点では、少なくとも支援するために必要なリソースを日本という国が用意できたと判断したことになると思います。そしてこのときも、我々地方公務員は住民の方々と接する中で「何が復興か?」を問い続けながら、この地で引き続き社会生活の支援をし、さらに充実させていかなければなりません。

正直なところ、海外のNGO団体の判断基準が途上国であれば、地元の行政機能が十分に回復する前に手を引いてしまいそうな気がしますし、現政権は「復興特区」と「使い勝手のよい交付金」を渡して「後は地方分権で」と手を切りそうな気もします。しかし、この地域が「復興」のために必要としているのは、財源や物資だけではありませんし、ましてやそれを獲得して配分する権限でもありません。この地元の住民として生活をしながら仕事をし、家族や友だち、周囲の住民と一緒に活動し、必要であれば互いの生活を支援し合い、その成果を分かち合う「人」が必要です。生活する場や仕事を求めて一時的に地元を離れた「人」がいても、いつかは「人」がその土地に戻ること。「復興」はおそらくその先にあるのだろうと思います。
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2011年07月19日 (火) | Edit |
震災から1か月程度を経過したころからでしょうか、多くの有名人やアーティスト、伝統芸能などの方々が現地に入って、炊き出しをしたり歌などのパフォーマンスをしたりしています。全国の皆さんの善意とご厚意には心から感謝を申し上げる次第です。私自身も、気分が落ち込んだときに聴く曲が決まっていたり、ある曲を聴けばその当時の想い出が鮮明によみがえるということがあります。第一線で活躍されるアーティストのパフォーマンスを間近で見ることで、被災された方々にも大きな感動と勇気がわいてくることを願ってやみません。

そして、こうしたアーティストと並べるのは無理があるかもしれませんが、今日のなでしこジャパンの女子サッカー世界一というニュースには、私も朝から涙が出るほど感動してしまいました(といいながら、私もご多分に漏れず選手名も知らない「にわかファン」ではありますが)。もちろん、世界一ということそのものが嬉しいのはいうまでもありませんが、震災後の落ち込んだ状況の中で日本人が失いかけていた誇りと希望を、被災された方のみならず、全国の皆さんが取り戻すきっかけになればいいなと思います。

これまで、拙ブログでは、主要な関心事の雇用を中心に被災地の状況と課題について書いてきましたが、震災後4か月以上が経過して、こうした精神面でのケアが重要な局面に入ってきていると感じています。特に、遅々として進まないがれき撤去のために、企業が被災地での再建を諦めて内陸部に移転したりと、復興しようにもその基盤となる土地の整備すらままならない現状では、企業のみならず雇用される側にも倦怠感が漂っているように思います。

震災当時は例年より長引く寒さに凍えていた被災地も、腐敗した水産加工物やヘドロのために蠅が大量発生していたり、例年より10日以上早く梅雨が明けてしまい、連日の真夏日で熱中症対策が課題になっていて、震災から4か月という時間の重みを感じてしまいます。それだけの期間が経過しながら、土地の整備はおろかがれきがほとんどそのまま残っていて、そのがれきを撤去する毎日では気が滅入るのも当然です。このことはhahnela03さんが4月の段階で指摘されていたことですが、

 ただ、市の対応が、新卒者や既卒者に「がれき撤去」の仕事があるからと引き留めている話があったことには、疑念がのこった。瓦礫撤去作業は精神的に辛いのだ。将来がある人たちを毎日あの現実に向き合わせ良いものなのだろうか。社員の中にも精神的ダメージを受けている話を聞くにつけ、震災前との業務と組み合わせることが必要なのだろう。平常の発注と停止していた業務を再開しないと、精神的軋轢の対立が現場でおきるだろう
 自分が今居るところは、震災前と変わらない風景で、震災があったことが本当かわからなくなることがある。それでも一週間に一度、帰宅するさいにみる手付かずのあの光景が目に入ると胸が締め付けられる

津波被災の記録18(2011-04-27)」(hahnela03の日記


私もこの3連休で被災地の現場(おそらくhahnela03さんの近辺も入っていると思いますが)を見る機会があったのですが、がれきの撤去が比較的進んでいるように見えるところでも、単にがれきを数メートルの高さの山にしただけだったり、がれきは撤去されているけど基礎はそのままというのが実態です。がれきの撤去が進まないところでは、道路のアスファルトがはがれたままだったり、側溝ふたが流されて脱輪しないように注意して通行しなければならないなど、がれきの撤去そのものの作業が危険と隣り合わせというところも多いようです。こうした状況からすれば、まずは公共事業によってがれきを撤去して社会的インフラを復旧することが先決だろうと思います。

一方で、このような状態であっても、日本型雇用慣行を前提とした貧弱な社会保障制度の下では生活の糧として仕事をしなければなりませんので、日本型雇用慣行では必ずしも社会保障制度の網がかからない非正規雇用(緊急雇用創出事業)で短期的に雇用をつなぐということになります。こうして、企業活動の基盤がないのに雇用を創出しなければならないという矛盾を押しつけられるのが被災自治体であって、それを支援している立場からすれば、現政権がマニフェストで掲げた「コンクリートから人へ」というスローガンが、もっとも「人」にとって酷なものなのではないかという違和感を禁じ得ないところです。

もう一つ、冒頭であんなことを書いておきながらではありますが、現地から離れたところで日常的に支援事業を担当している身からすると、有名人やアーティスト(と称する方)による炊き出しやパフォーマンスに何ともいえない違和感を覚えることもあります。テレビでしか見たことのないパフォーマンスを間近に見るという「非日常」の体験が、先行きの見えない日常に対する不安を緩和してくれることには異論がないのですが、率直に言ってパフォーマンスする側の自己満足ではないかというものも散見されます。自己満足といっても2種類あって、一つは「この俺(私)のパフォーマンスを見てほしい」という自己顕示欲のようなものと、もう一つは「俺(私)のやっていることは正しいor俺(私)がやりたいからやる」という「自己反省の欠如」とでもいうべきものです。

前者の典型は、聴いたこともないアーティストが避難所などに(言葉は不適切かもしれませんが実態として)押しかけて、誰も興味のないパフォーマンスを披露するようなパターンです。実は、このパターンは単なる「自己満足」で片付けられますので、実害は余りありません。無視すればいいだけです。

しかし、後者のパターンは多方面に実害を及ぼすことがあります。炊き出しが典型的ですが、震災直後の緊急時ならともかく、復旧・復興に本格的に取り組まなければならない現時点で、避難所や仮設住宅で炊き出しをしてしまうと、再建しようとしている小売店や飲食店の売り上げを奪ってしまいます。同じ理屈は物資の支援にもあてはまります。もちろん、収入や移動手段がなくて食料品や日常必需品を購入できない方に対する支給は継続しなければなりませんが、そのためには生活保護のようなミーンズテストを課さなければ「公平性」が保てなくなりますので、役所またはNPOなどの専門の機関が行うべきでしょう。

さらに、定期的に無償で食料が提供されることが予想されると、被災された方の「生活のために働く」というインセンティブが損なわれてしまう可能性があります。北欧などの高福祉国家で課題となっている「アクティベーション」の問題が被災地で発生してしまうわけですから、労働市場での移動を円滑にする「フレクシキュリティ」のシステムもない現状では、当面はそれを防ぐ必要があると思います。

そして、アーティストによるパフォーマンスや有名人による炊き出しは、被災者に「非日常」を強く意識させることで、かえって「日常」への不満を募らせるおそれもあります。中には、そうした「非日常」を体験することで「日常」のつらさを和らげられる方もいらっしゃるでしょうが、いくら有名人が現地に入ってパフォーマンスなどの活動をしても、仕事も収入もないという現実は変わりません。テレビで取り上げられるような「再建に向けて一心不乱に取り組んでいる」方はごく一部です。多くの方は目の前の「日常」に押しつぶされそうになりながら、それでも必死に生きているというのが実態だと思います。普通の生活では想像もつかないような「非日常」ではない中途半端な「非日常」は、そうした「日常」をより鮮明に浮き上がらせるという点で危ういものではないかと愚考するところです。

まあその典型が、被災地に頻繁に出入りする政府要人でもあるわけですが。。。
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2011年07月12日 (火) | Edit |
昨日で震災から4か月が経過しました。先月は震災から3か月目に震災とは直接関係ないエントリを書いておりましたが、震災から日が経つにつれてその対応について見解が分かれてきていて、正直なところ、どの対応が悪いとか遅れているという議論が個人的に整理し切れていなかったのがその理由です。現時点でも、整理しきれないままではありますが、それを並べるだけでも一定の議論ができるかもと思いましたので、以下思いつくまま挙げてみます。なお、重ねてのお願いですが、一地方公務員が見聞きした範囲での断面的な情報である点に十分留意してご覧いただくようお願いします。また、3月以降のエントリで書いたことのフォローアップも一部含まれていますので、過去ログなど参照していただけると幸いです。

1 地方分権の病

先日、国が市町村の要請に基づいてがれき撤去を直接行うという特例法が閣議決定されましたが、震災後4か月が経とうする時点まで法制化されなかったというのはあまりに遅いといわざるをえません。ただし、ここまで遅れたのは決して菅政権の対応が遅れたという単純な理由ではないように思います。

がれき特例法案 与野党で修正して成立を2011.7.9 03:01 (1/2ページ)

 東日本大震災から4カ月を迎えようという今ごろになってようやく、被災自治体に代わり国が直接、がれきを処理できるとする特例法案が閣議決定され、国会に提出された。遅きに失したばかりか、中身も被災地への配慮が十分とは言い難い問題法案である。

 まず、被災地で対応しきれないから特例法が必要なのに国は現地の要請を待って処理を代行するとしている点である。国直轄でやると明記すべきだろう。

 次に費用面の問題だ。市町村に一定の負担を求めているが、すでに3月末に、国が100%負担する方針を決め、現行の廃棄物処理法に基づく地元負担を交付金で補填(ほてん)するとしていたではないか。

(略)

 国の対応の遅れもあって、撤去できているがれきはまだ、全体のわずか3割だ。がれき処理は本来、市町村の担当ながら、被災地の行政機能は低下しており、仮置き場の確保さえ難しいのだ。

※ 強調は引用者による。


現地の要請を待って処理を代行するというような「地方自治は基礎自治体中心に行うべきだ」という考え方は、拙ブログでもよくやり玉に挙げる「補完性の原理」に代表されるものですが、実際のところその判断基準はかなり曖昧であって、スローガンとしては意味があるとしても、実務上は使い物になりません。結局、「小さな政府」とか「行政のムダ排除」が最優先されるこのご時世では、補完する立場にあるとされる都道府県や国は、基礎自治体に対して「自分でできるか」を厳しく問わなければなりませんので、生活保護で問題とされる水際作戦と同じことが起きてしまいます。つまり、「補完性の原理」を建前に、「お前のところの市町村はまだ自分でできるだろ。なんで都道府県や国がやらなきゃならないのかきちんと説明しろ」ということができてしまうわけで、つい最近辞任した「チームドラゴン」の方はこの流れに沿って発言したに過ぎないともいえそうです。

長らく日の目を見なかった地方分権論が、90年代の規制緩和とゼロ年代の自己責任論を背景に一気に加速したという経緯を考えれば、震災時であってもその文脈で地方分権が語られてしまうのはやむをえないのかもしれませんが、被災地の実態は地方分権を位置づけ直す必要性を示しているものと思います。

2 エアポケットとなる自宅避難者

避難所には行政が常駐したり定期的に支援団体が訪問したりしますし、仮設住宅についても設置・管理をする行政が一元的に責任を持って運営にあたりますが、自宅避難者(という定義があるかはわかりませんが)の方には義捐金も支払われず、行政の支援対象から外れてしまうのが実態です。特に、リソースが限られている被災市町村では、当面は津波の被害を受けた臨海部にリソースを集中せざるをえないため、市街地から離れた集落などでは未だにがれきの撤去も生活支援もままならないところがあります。となると、市街地から離れた集落で自宅が残っている方々は、ほとんど行政の支援を受けることができなくなってしまうという状況に陥ってしまいます。

こうした状況にある自宅避難者の方々で、元々の仕事場が市街地にあって被災で仕事がなくなってしまった方は、途端に収入がなくなってしまいます。当座の資金については、社会福祉協議会の生活福祉資金や震災後申し込みが急増した緊急小口貸付の制度がありますが、これも窓口で低所得や被災の条件が求められるのが実態で、申し込めば誰でも貸付を受けられるわけではありません。最後の手段である生活保護についても、従来から指摘されているように、そもそも水際作戦によりすべての生活手段が絶たれた状態が支給の前提とされますので、いったん生活保護に入ってしまってから仕事を再建するまでのつなぎという意識を維持できるかという難問があります。さらにいえば、被災地は元々高齢化が進んだ過疎地でもあるので、生活資金だけではなく医療や介護・福祉の支援も欠かせません。これらすべてを被災した地元市町村が担えるわけもなく、その点からも地方分権ではない取組が必要と感じるところです。

3 民間団体の支援の限界

行政の目の届かない自宅避難者に対しては、地元のNPOや海外のNGOが中心となって物資の支援や聞き取りなどを進めている事例もあります。ここで彼我の違いを見せつけられるのが海外のNGOでして、地元のNPOが年間数百万程度の資金で活動しているのに対して、海外のNGOは億円単位の設備や個人宅に必要な家電などの物資をさっさと準備してしまうだけの資金力を持っています。

ただし、それぞれの団体ごとに子供や高齢者など支援対象が決まっており、当然のことながら資金力にも限界があるので、ドネイションに対するアカウンタビリティ上からも自宅避難者をすべて網羅できるわけではありません。特に、医療・福祉サービスはハードな設備と同時に整備される必要があり、物資支援を中心とする民間団体の支援の範疇を超えてしまいます。さらに、地元で再起しつつある小売・飲食店からすると、被災者に対する物資支援は地元での売上を奪ってしまうことにもなりかねません。「民間にできることは民間に」というスローガンも、実務上はいろいろな問題を孕むものといえそうです。

4 必要なのは色のついた財源と人

こうした被災地の現状を間近で見ていると、「市町村の裁量の拡大」や「財源の移譲」ということが問題の解決につながるとは到底思えません。被災した市町村では、裁量を発揮しようにも目の前のがれき撤去、仮設住宅の管理、避難者への対応、現地視察と称して続々と訪れる政府要人や他市町村、都道府県への対応(これがロジを含めて大変な負担です)に追われていて、じっくりと事業を考える状態にはないのが実態です。いま現地で求められてるのは、ある程度使い道の決まった財源で事務を効率化しながらとそれを使って事業を実施できるマンパワーです。この点からいえば、 国や都道府県が予算化した事業を現地に入って自ら直接実施することが喫緊の対応として必要であることは明らかなのですが、「地方分権」の大義名分のために、被災市町村が「これ以上ムリです」というまで放っておいたというのが、冒頭で引用したのがれき撤去の対応が遅れた理由ではないかと思います。

また、経済学の議論では、企業や家計の効用が変わりなければ財・サービスの選択は「無差別」といわれ、「色」が付いていない方が「歪み」がなく効率的とされるのですが、政府の財源は「無差別」ではありません。日本国憲法第25条第1項で「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とされているとおり、国が徴収した税・保険料はその使途を限定されているという点で「色」が付いています。むしろ、政府の予算編成というのは財源に「色」をつける作業であって、たとえば事業化して現場で事務を行う公務員が不足しているということは、そのために投入される「色」のついた財源が不足しているということの現れといえます。

もちろん、「色」の付き方にはグラデーションがあって、一般的な税金は特に使途が特定されないことから、一般会計(普通会計)で扱われて、国会(議会)の審議を経て決定されますので、「色」は薄くなります。一方、特定の目的のために使うことを約して徴する税金は「目的税」と呼ばれ、その多くは他の使途と区別するため特別会計で扱われます。もちろん、目的税の具体的な使途も国会の審議を経て決定されますが、使途がある程度特定されているという点で「色」が濃い財源といえます。これらの税金と比べると、社会保険料は拠出の義務に対して受給の権利が対応し、原則として国会の審議を経ずに個別の支給額が決まるため、もっとも「色」が濃い財源となります。権丈先生が社会保険料の財源調達力を重視するのも、社会保険料のこうした「色」の濃さ故でしょう。

ただし、財源に「色」をつけることはある程度事務的な手続で可能ですが、マンパワーに適切な行政事務を行うという「色」をつけるのは一朝一夕でできることではありません。そうした人材の養成を曲がりなりにも可能にしてきたのが、年功序列的な終身雇用に代表される日本型雇用慣行だったわけです。全国の自治体がこれを否定しながら新卒採用を絞りに絞ってしまっており、被災地はもちろんのこと、被災地を支援しようとする他の自治体にもマンパワーは余っていません。震災が起きてしまっては後の祭りですが、今さら軌道修正したところで適切な事務執行をこなせるようなマンパワーが育つのは相当先になりそうです。
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2011年07月03日 (日) | Edit |
だいぶ前の記事になってしまいましたが、dongfang99さんのエントリでなんとも形容しがたい記述がありまして、雇用とか労働をめぐる議論を象徴しているように思いましたので取り上げさせていただきます。

 要は自分は、貧困・過労・失業などの問題の解決に真剣に取り組んでくれる人であれば、手段が税だろうと金融だろうと何でも構わないのである。自分が増税にやや好意的なスタンスにあるとしたら、これらの問題に直接取り組む社会保障論者の多くがそういうスタンスであり、その説明の論理を説得力があるものとして共有しているから、という以上のものではない。自分は完全に「復興」の段階に入るまでは、税と社会保障の話は混乱を避けて先送りすべきだと考えるが*1、そこまで激怒すべき話かと言われると、やはり疑問である。

 今のデフレ不況・震災下で緊縮財政・規制緩和を言っている人たちは、増税派であれ反増税派であれ、その中に経済学的正論が含まれているかもしれないとしても、以上の問題に冷淡であると言わざるを得ないし、実際そういう無神経な発言を過去にしてきた人の顔が何人かいる。もともと「貧困の経済学」を考えていた人たちが、「反増税」という手段のみで、こういう人たちと躊躇なく手が組めるというのが正直理解できない。

(略)

 最後に、反増税派はより現実性・持続性のある財源論を提出することが、最低限の義務であるはずである。少なくとも、増税批判に興じてばかりいるのではなく、「財源がない」という圧力の下で暴力的に沈黙させられてきた、医療・介護・教育・労働の現場の人たちに、どのように財源が行き渡るのかを具体的に示してほしいと思う。

何でも構わない(2011-06-21)」(dongfang99の日記
※ 以下、強調は引用者による。注は省略しました。


一般的な語感としてもそうですし、雇用や労働をめぐる議論であっても、「労働者」という言葉が出てくると何となく遠い存在になってしまうのがとりもなおさず日本的雇用慣行の弊害なのかもしれないと思ったりすることが多いのですが、dongfang99さんのエントリで強調させていただいた箇所でも、「医療・介護・教育・労働の現場の人たち」という並びになっていて、うーむと頭を抱えてしまいます。いうまでもないことですが、医療・介護・教育に限らず、賃金を対価として得る作業をする人は「労働者」であって、「労働の現場の人たち」というなら、会社員から公務員(キャリア官僚から末端の役所の地方公務員、自衛隊員、警察官、公立病院の医師・看護婦、教師、学校の用務員等々)まで、およそ自営業者、経営者以外はそこに含まれるはずです。もちろん、農協や商工会議所のような団体職員、生協や政党職員、NPOで雇用関係にある職員も労働者です。

つまり、dongfang99さんが指摘されるような「労働の現場の人たち」についての議論は、大半の成人男性・女性が我がこととして考えなければならないのに、彼らの支持を得るのはコメンテーターやフリーアナウンサー、評論家のような自営業者の主張だという、なかなか理解しがたい状況があるように思います。また、本来は労働者のはずですが、学校の授業や学術研究をどれだけやっているのか不思議なほど多作で評論家と同じ行動をとる大学教員の中には、こちらに含めるべき方もいそうですね。

まあ、男性正社員が家計を支えているうちは社会保障なんぞ構う必要がないほど生活が保障されるというのが、日本型雇用慣行が有する世界的に特筆すべき優位性ではありますし、それが「男性正社員」と「労働者」を同一の概念でくくることを難しくしている側面はあるのでしょう。しかし、バブル崩壊後の景気動向の不透明さのために、企業がそうした生活保障的な雇用慣行を維持する対象を縮小していった結果が非正規労働者の増加やワーキングプアの増大だったわけで、その原因であったマクロ経済の停滞だけをやり玉に挙げたところで、生活保障的な雇用慣行が戻るとは限りません。さらにいえば、企業が生活を保障していたが故にサビ残やら過労死が当たり前になってしまったり、外部労働市場がパートやアルバイトのような家計補助労働者中心となったため、男性正社員の生活保障の見返りとして非正規労働者の雇用は保障されなかったわけで、生活保障的な雇用慣行に戻すべきかといえば、それも現実的に難しいでしょう。

こうした問題意識を持つ者としては、医療や介護などの現場での現物支給を中心とした社会保障制度を拡充することによって、直接的には現物支給を担う雇用を創出し、間接的には企業の負担を減らして*1企業の雇用を増やすという方策を検討することはあながち無意味ではないと思うのですが、一部のリフレ派の「金融緩和一筋・再分配はインフレ税で」な方々には、こうした方策は特に「無駄が多くてけしからん」政府を経由する分だけ邪道に映るようです。

まあこういう感覚は、東電が憎いから電気なんかなくても生活できるという幻想を振りまいて、エアコンがないと熱中症で死亡するかもしれない高齢者や、暗い夜道やエレベーターが止まったビルで移動が困難になっている障がい者などの方々に、特に大きな負担を強いてしまうのと同じものなのかもしれません。

この点については、黒川さんも

●何度も書いたが、消費税増税が庶民いじめというのは、会社が完全に従業員を抱え込み、その従業員が女房子どもを食べさせることができた時代の感覚である。その感覚からすれば、消費税を払うのは主に女房子どもであり、自分がよもや政府のお世話になっているなんて感覚がないからである。

社会保障と税の一体改革に抵抗して何になるんだ(2011.07.01)」(きょうも歩く


と指摘されていますが、この国の「労働者」の中で最も多数派で最も雇用を保障されている「男性正社員」が社会保障について議論しても、増税で確保された財源がなければ所得再分配を受けることができない(と思われる)ほどには低所得でない方々からすれば、そりゃ確かに増税は景気後退だと思えるでしょうから、自らの境遇を顧みない方々がこの点に気がつくことには望みが薄そうだなと思わざるをえませんね。。。




*1 念のため、生活保障的な賃金体系では、労働者に支払う名目賃金にその労働者の生活に要する費用を含めなければなりませんので、労働者1人を追加的に雇用するときの限界的賃金は高くなります。このとき、政府が生活に要する費用を現物支給し、その財源を企業が雇用人数に中立な税や社会保険料で支払うとすると、企業が労働者を追加的に雇用するときの限界的賃金は、現物支給の分だけ低下させることができます(もちろん労使の合意を要しますが)。なお、政府の現物支給と税や社会保険料の負担額が同額であれば企業の負担は中立となりますが、この場合税や社会保険料はサンクコストですので、合理的な企業であれば上記の行動に影響を与えないものと考えられます。
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