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2011年02月27日 (日) | Edit |
だいぶ時間が経ってしまって恐縮ですが、何となく違和感がありながら放置していた前々回のエントリの誤りに気がつきましたので、訂正と補足です。

愛知県、名古屋市ともに今年度は交付団体(どちらも交付団体と不交付団体を行ったり来たりしていますが)となっていますから、ただでさえ借金して賄っている地方交付税を受け取りながら、自分のところの自主財源である地方税は減額しようとしているわけです。その地方分国負担分の債務を償還するのは愛知県民と名古屋市民だけではなく、将来世代を含む日本の全国民なんですけれども、まあ、それがチホーブンケン教によるチーキシュケン改革の実態なのでしょう。

体系の人(2011年02月07日 (月))


誤りというのは上記の引用部分の見え消し部分でして、実をいうと全くの誤りというわけではない(と思う)んですが、以下その理由を書いてみます。ただし、私自身もそれほど詳しくありませんし、さらなる誤りが含まれていないとも限りませんので、まあ参考程度と割り引いていただきたいと思います。

地方財政制度というのはとにかく複雑でややこしいんですが、国の財政と地方財政は、交付税及び譲与税配付金特別会計(交付税特会)を通じて交付される地方交付税を中心につながっています。国の政府予算原案を受けて策定される地方財政計画において、地方の基準財政需要額と基準財政収入額の差額として地方交付税が算定されるものの、ちょっと考えれば想像がつくとおり、交付税特会の入口(国税5税の一定割合)と出口(基準財政需要額と基準財政収入額の差額)がイコールになるはずがありません。以前はこの入口ベースと出口ベースの乖離を交付税特会の借入金で埋め合わせていましたが、平成13年度からはこの借入金をやめて、国と地方が折半することとなっています。

具体的には、国からは国税収入(一般会計歳入)→交付税繰り出し(一般会計歳出)→一般会計繰り入れ(交付税特会歳入)→地方交付税(交付税特会歳出)という流れを経てはじめて地方に対して交付されるわけですが、一般会計歳出の段階で、歳出額そのものを大きくする(特例加算)方法とそのための国債を発行する(臨時財政対策債発行)方法を組み合わせることによって、交付税特会の歳入を膨らませることになります。もちろん、これは国の財政上の歳出となりますので、その財源は将来世代を含む日本国民全体で負担することになるわけです。
国の予算と地方財政計画との関係(平成22年度)
国の予算と地方財政計画との関係(平成22年度当初)(PDF 59K)
一方、地方の側は、それぞれが地方債を発行することによって、原資の不足分を補っています。つまり、地方財政の不足分の半分は国民全体で負担しましょうということになっているわけで、上記で誤りを訂正したのはその点がむしろ逆の書き方になっていたということですね。大変失礼しました。

ただし、話はこれだけで終わらないのが地方財政のややこしいところで、交付税算定の一方の基礎となる基準財政収入額では、地方税の課税ベースの数量が算定基礎となる税目と課税実績が算定基礎となる税目が混在しています。したがって、たとえば愛知県や名古屋市が課税ベースの数量が算定基礎の税目を減税しても、基準財政収入額には響かないのですが、課税実績が算定基礎となる税目を減税すると、その分の基準財政収入額が減額されて、その留保財源分を除いた分の交付税が増えてしまうわけです。さらにいえば、基準財政需要額の中には公債費という地方債償還分の費用が算入されているので、地方債償還の原資の大部分も、国が繰り出す地方交付税=国の財政上の支出で賄われているわけで、自分のところの税収を減らしても交付税の配分を減らさず、地方債の償還も交付税で面倒を見てもらうということが理論上は可能ということになります。まあ、実務上それが可能かどうかは、実際にそうなってみないとわかりませんが。

スピルオーバーにフリーライドする、その名も「減税日本」の方々がどのような戦略をとってくるか不明ですが、チホーブンケンやらチーキシュケンを掲げて日本全国民にツケを回すというのは、この国のいびつなところと醒めた目で見るしかなさそうです。

というわけで、hamachan先生のこのエントリには釣られなければなりませんね。

かなり率直に事態を批判しているのでしょうが、敢えて言えば、「地方分権」というなら、いやむしろ「地域主権」というなら、「なぜ自分たちが稼いだものをよそへ回さなければならないのか」という考え方は必ずしも「いびつ」ではなく、むしろまっとうなのではないでしょうか。怠け者のギリシャ人に俺たちが稼いだものを・・・というドイツ人の感情は、「EU中央集権」に対するナショナルな「ドイツ主権」の感情であって、90年代以来の大前研一氏らの議論の底流を流れているグローバルに稼いでいると自認するトーキョー人たちの金食い虫の「かっぺ」に対する感情と実はパラレルなのではないでしょうか。それは、価値判断としては「いびつ」だと私も感じますが、論理的には「地域主権」からもたらされる自然な帰結のように思われます。もしそれが「いびつ」であるとしたら、それは「地域主権」自体が「いびつ」だからなのでしょう。

チホー分権の反省(2011年2月26日 (土))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
※ 強調は引用者による。


チホーブンケン教の方々は結構早い段階から馬脚を露わしていたと思うのですが、拙ブログでいえば(若干不穏当な書きぶりも混じっていますが)このエントリとか。

浅野史郎という方は厚生省で障害者福祉に携わっているうちに脳内が左派思想に染まってしまったらしく、弱者が救われればその他がどうなっても知ったこっちゃないということを正義のオブラートで包んで発言してしまう。この場合の弱者は地方で、弱者以外の強者は東京とかの大都市なんだけど、
「宮城県の住民が払った税金は宮城県のために使うというのが民主主義の基本であり、地方分権は民主主義の先進国家になるための絶対条件だ」
って本気ですか? 民主主義の基本とまでおっしゃるなら東京都の住民がそれを主張してもいいんですな。大都市の財源を地方に配分する仕組みである地方交付税の根幹を否定されるとはなかなか大胆なご提案です。

地方分権劇場(2008年04月20日 (日))


地方分権でより効果的な政策効果を実現できるような個別の分野とか事業があることは否定しませんが、地方分権そのものが目的化してしまうと、上記のように価値判断としてはいびつでありながら地方分権の帰結としてはまことに自然な状態がもたらされてしまいます。誰も反論できない地方分権という正論が、まさに地域に密着した議論ではその虚実を捉えきれない理由がここにあるわけで、合理的無知につけ込んだ政権交代選挙の際に錦の御旗とされたマニフェストが、その見直しもやむなしと政権与党内で議論されているにもかかわらず、チホーブンケンとかチーキシュケンだけは無傷でいられるのも、そうした理由によるものと思われます。しかも、タイミングの悪いことに、統一地方選がそのマジックワードにさらに力を与えてしまっているようにもみえるわけで、この状況は打開できそうにありませんねえ。。。

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2011年02月20日 (日) | Edit |
故あって職業能力開発関連の文献をいろいろとサルベージ中なのですが、ふと手にした広田先生の近著がとてつもなくおもしろいので感想など。
教育論議の作法―教育の日常を懐疑的に読み解く教育論議の作法―教育の日常を懐疑的に読み解く
(2011/01)
広田 照幸

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まあ、もちろん、hamachan先生のところで「まことに「まっとう」な本」とご紹介されていたり、黒川さんのところで「痛快」と評されていたりというのを拝見していたから手に取ったわけですが、チホーブンケンやらチーキシュケンに疑問を呈し続けている拙ブログの立場からしても「まっとう」かつ「痛快」な書ですね。

というような立場から本書のポイントをピックアップすれば、PCDAサイクルと地方分権の2点についての指摘がとても共感できる内容となっていると思います。これらに共通する特徴というのが「誰も反論できない正論でありながら、その内実があまりにも空虚」ということになると思います。拙ブログでは、チホーブンケン絡みのおかしな議論はカテゴリを置いてクドクドとぼやいておりますが、PCDAサイクルについてあまり取り上げたことがありませんでした。ただ単に私が事業評価系の議論に疎いというのがその理由なんですが、というのも、事業評価とか政策評価の分野ってまともな文献がないんですね。費用便益分析の具体的な手法としてなら、ボードマンの有名な古典(?)があったりしますが、
費用・便益分析―公共プロジェクトの評価手法の理論と実践費用・便益分析―公共プロジェクトの評価手法の理論と実践
(2004/12)
アンソニー・E. ボードマン、アイダン・R. ヴァイニング 他

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その計量経済学を用いた手法なんぞが地方自治体レベルの事業評価で顧みられることがあるはずもなく(というより、この大学1年生レベルの訳出はなんとかならんものか)、現場レベルでは大手コンサル(とそのスピンアウト組)によるハンドブック系が幅をきかせる分野となっておりまして、まあ、有り体にいえばコンサルの商売道具なわけです。

というしだいで、詠み人知らずのこちらのサイトの指摘くらいしか、納得のいく議論が見当たらないように個人的には思います。

 コミュニケーション・ツールとなるには、各参加者(現場)が納得する、あるいは、少なくとも納得できる合理性が必要ですが、導入が以上のように急がれると、「合理性」を構築するための手順・時間が省かれがちです。ここで必要な「合理性」は、理論的な一貫性や科学的な権威付けではなしに、当事者双方のコミュニケーションによって、新たにつくりあげられるものです。多くの場合、これは得られませんから、かえってリクツぽさや理論武装が、その欠けた部分を埋めようという話になります。「現場」からはまた、「理論先行」だの「リクツどおりいくもんじゃない」などの反発が生じます。

 しかし、岡目八目的に事態をながめれば、欠けているのは、事態を客観視できるような視点です。上のような話は、すこしでも「組織論」をかじった人であるならば、容易に予想がつくことでしょう。悲劇は、組織の社会心理的な側面をてんでわかってない人たちが「マネジメント」をやっきになって導入しようとしている(しなければならない)ことにあります

事務事業評価は何故うまくいかないのか?」(お役所に関わらなきゃならないすべてのひとのために 公務員の(ための?)社会学

※ 以下、強調は引用者による。

前回エントリとも関連しますが、成果主義とか事業評価をリクツや理論先行で導入してしまうと、それとは違う行動原理でなければ動かない利害関係者やそれに組織で対処してきた現場の労働者に、多大なしわ寄せを生む結果となってしまいます。

3 社会的プレッシャーや組織的慣性が与えるバイアス

(1)バイアス=too highな評価

 組織では無能者であることは耐え難い。事業を自らの手でつぶすことは、その危険がある。当然、各セクションの責任者は、自ら関わる事業の評価を、too highに評価する傾向がある。これは先に述べたように、「評価者」が評価を「割り引く」ことを常態化させる。これは「評価」への信頼を提言(ママ)させる。自然な評価への態度が引き金となって、評価システムへの腐食的な信頼低下が悪循環的に進行する。

(2)押しつけとコミットメント欠如の悪循環

 リクツ・理論先行との反応が広範に起こっている。リクツ+財政状況+権力で、押しつぶさざるを得ない。評価システムや評価によるマネジメントへのコミットメントはそのためにあまり期待できない。すると、ますます権力的なトップダウンが必要となり、これは麻薬的悪循環に陥っている。 当初は「評価」そのものへの抵抗があり、それを抑えても抵抗はより潜在化する(そして予想がより難しいものになる)。

(3)既存の組織文化からの乖離

 これはインフォーマルに/毛細血管的にひろがり、日常的な業務遂行及びスキル移転(トレーニング)などを支えていた、インフォーマルで普遍的な組織インフラを損ねるかもしれない。つまりこうした組織文化は、a)身につけることで「一人前」となり、b)それ故に身につけようとする意欲を未修得者にもわかせるものだった(だからこそ自動的に「学習」され、また未学習者のサンクションにより「学習」の機会と態度が強化され、組織の持続=再生産に寄与してきた。理論先行の、新しいマネジメント手法は、こうした組織文化へのリスペクトを低下させる(新しいマネジメント手法は組織変革を目的とするので、これは当然のことである)。しかし新しいマネジメント手法は、これら組織文化が果たしてきたものを、代替できる訳ではない。

同上

こうした現場の組織文化を破壊する強力な武器がPDCAサイクルというやつでして、広田先生はこう指摘されます。

チーム労働としての教職

 日本の教員の仕事は意外なほどチームで行われる労働です。教育以外の分野の研究者と議論して、なかなか理解してもらえないのは、この点です。政治学の専門家でも経済学の専門家でも、自分が受けてきた教育を思い出すとき、教壇に立つ授業中の先生の姿だけを思い浮かべているらしいのです。だから、個々の教員を単位とした評価・競争の徹底をやれば、教育の質が向上するはずだ、と思い込んでいます
 実は、教員の仕事の重要な部分は、教員集団のチーム労働や、メンバー相互の協力によって支えられてきています。現場にいる人には当たり前の話になってしまうのですが、ここでは、三つの側面を整理しておきたと思います。
 第一の「分業と協力」という側面です。日常の学校運営は、多種多様な仕事が組み合わさって成立しています。一見すると、クラス担任、学年主任、生活指導担当など、分業が徹底した組織の印象を与えるけれども、あくまで協力を基礎とした分業にほかなりません。
 学校に限らず、どの組織にも「使える人」ばかりではなく、「使えない人」が一定程度いるものです。会社にもいるし、大学の教員にもいます。「使えない人」を抱えながら、それでも学校運営に支障をきたさないのは、適切な協力を伴った分業によって、教員間でフォローし合ってやりくりしているからです。いざというときの協力体制は、教員間が相互に支え合う絆があるから可能になるのです。

広田前掲書、pp.72-73

有能でない職員を切って切って切りまくるキラのごとき有志の方々ですら、「個々の教員を単位とした評価・競争の徹底をやれば、教育の質が向上するはずだ、と思い込んでい」るようですので、現場にいてもそれはなかなか理解されないようですが。。。

ここで広田先生が指摘されている「職場の協力関係」が果たす役割は、特に現場の利害関係者が複雑に絡み合った労働関係の職場だったり、個々の住民を対象に生活全般をケアしなければならない福祉関係の職場にも当てはまることだと思います。しかし、職員の処遇制度としての成果主義とか事業評価では、このような組織の協力関係は評価されず、むしろPDCAサイクルと組み合わせられることによって、組織の協力関係とは無関係な評価軸が現場に導入されることになるわけです。

 PDCAサイクルの導入に関連して「事前規制から事後チェックへ」というスローガンが打ち出されたりしています。「今まで細かなルールをつくって個々の現場をしばっていた。もっと自由にやってもらって、結果のみを評価しますよ」という意味のようです。でも、実際には、それとは違うものになりそうです。「事前規制もプロセスの管理も事後チェックも」という感じです。「目標はこちら(教育行政)で立てます。チェックもやります。それを使ってダメな学校や教職員は、きびしく処遇します」というような仕組みです。

広田前掲書、p.116

本書の対象が教育というある程度個別の分野に限られているので、引用部では「教育行政」が主語になっていますが、行政の場合はそれが首長だったり議員さんだったりするわけで、事後検証可能な数値目標が掲げられた「マニフェスト」という選挙公約が、事実上の事業評価の目標となってしまうわけですね。「グランドキャニオンに柵はない」という政治家が掲げるマニフェストが、それ自体の中に政策目標なる事前規制を掲げるというトートロジー自家撞着(2/28修正)が繰り広げられてしまっているんですが、これも民意至上主義クオリティなのでしょう。ところが世の方々は、評価を徹底すれば競争が起きて、ムダが排除されて真に効果的な事業が残る・・・という物語を好むように仕向けられていますから、まずは政策目標に照らして評価しろという流れは、ここしばらくやみそうにありませんねえ。

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2011年02月12日 (土) | Edit |
拙ブログでは久々(?)になりますが、海老原さんの新著が発売されていたので早速拝読しました。
2社で迷ったらぜひ、5社落ちたら絶対読むべき就活本 ― 受ける「順序」を変えるだけで、内定率アップ!2社で迷ったらぜひ、5社落ちたら絶対読むべき就活本 ― 受ける「順序」を変えるだけで、内定率アップ!
(2011/01/21)
海老原 嗣生

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ちなみに、本書の第1章から第2章の途中までがネットで公開されています。
プレジデントロイター > キーワード「 2社で迷ったらぜひ、5社落ちたら絶対読むべき就活本 」の記事一覧


6回の連載で公開されているのがページ数でいうと本書のほぼ4分の1に当たる分量ですが、それでも公開に踏みきったというのは、残りの4分の3でも値段に見合う内容となっているという自負の表れではないかと思うところです。なんというか、海老原さんの採算度外視的な使命感に感じ入るところです。

まあ、実際に私自身も、公開部分以降で「入社後のリアル」というものを示している点が本書の肝ではないかと思います。実は、本書の題名からすると就活する学生を対象としているように思ってしまいますが、現在仕事をしている社会人に対して自らのキャリアのもつ意味を問いかけるきっかけにもなっているんですね。特に、自分の立場で考えてまさに我が意を得たりと思ったのは、公開されているところではこの部分です。

 「たくさんの関係者がいて」「その多くの人を調整する」仕事は、必ず協調が必要となります。逆に、自分一人で大きな業績が残せる(逆に、ダメな人は全く業績が上がらない)タイプの仕事では、協調はそれほど必要ありません。だとすると、その会社のビジネスは、「関係者が多く調整業務が常につきまとうか、否か」を考えれば、簡単に答えが出ます。これがひとつ目の判断要素です。

 ただ、仕事内容から関係者の多い・少ないが見えない場合は、何を手掛かりにすればいいか。こちらもそれほどむずかしくはありません。関係者多数の中で調整をする仕事ならば、最初はその中の小さな歯車として下っ端仕事に従事することになります。ひとつのセクションで少し慣れてきても、関係する部署を多く経験しないと、仕事の全体像は見えてきません。こうして、小さな歯車を次々に経験しながら、だんだんとポジションを上げていく、という生活を送っているとどうなるでしょうか? 答えは簡単です。なかなか昇進はできない。つまり、「昇進スピードが遅く」なります。これが2つ目の判断要素。ただこれを、やりたい仕事がなかなかできないとマイナスにとらえず、奥深い仕事のため、長期熟練が必要、と前向きに受け止めるのもいいのではないでしょうか。

 そして、このタイプの仕事だと、最初はつまらない仕事の連続ではあるのですが、それほどプレッシャーもなく、そして、仕事の難易度も徐々に上がっていくので、比較的スムーズに能力蓄積が可能です。ということで、無理が少ないから、定着率がよい。これが3つ目の判断要素。

 これらの要素をすべて合わせると、非常に日本的な風土が透けて見えてきます。一言で表すなら、「年功序列的」といえるでしょう。これが4つ目の判断要素。

 志望企業が、「協調重視か、競争重視か」は、この4ポイントで見てください。

 (1)関係者が多く、調整業務が多いか(イエスなら「協調」、ノーなら「競争」)
 (2)昇進スピードが遅いか(イエスなら「協調」、ノーなら「競争」)
 (3)定着率がいいか(イエスなら「協調」、ノーなら「競争」)
 (4)年功序列的か(イエスなら「協調」、ノーなら「競争」)

5つの軸で受ける会社の「社風」を分析せよ(1)1ページ」(プレジデントロイター > 一流社員が読む本

※ 強調は引用者による。


拙ブログではさんざん強調しているとおり、公務員(特に行政職)の仕事は利害調整です。中でも公務員の携わる利害調整というのは、他の業種に比べても格段に広い範囲に及びます。通常の企業が相手にしないような貧困層はもちろんのこと、ある特定の思想を持った方々から、確信犯的な法律違反をしている方々、その筋とつながった方々、理想に燃えて地域活動に勤しむ方々・・・、こうした住民の皆さんそれぞれに対して公平かつ公正に対処することが行政の役割であり、その専門職としての公務員の仕事になるわけです。したがって、一部の民間の方々や民間の内実も見ないでそれに同調する有志の方々が主張するような、「公務員にも成果主義を徹底して、仕事のできる公務員は若くても抜擢して厚遇し、ろくに対外折衝もできないような内勤の公務員なんかクビにしてしまえ」という組織運営が、役所ではそもそも不可能なんですね。

本書の第3章以降では、銀行や大手メーカー、大手商社がこうした利害調整型の企業の例として挙げられて、「入社後のリアル」な仕事内容が人事異動のローテーションなどと絡めて説明されています。その銀行などの民間企業が成果主義の行き過ぎから従来の年功序列型に回帰している理由も、本書の説明を読めば納得できると思います。

ところが、公務員バッシング華やかな現在、相も変わらず公務員に対しては成果主義を徹底すべきだとか、年功序列から脱却して若手を抜擢するべきだとかの言説が、巷にはあふれています。本書で指摘されている仕事内容と人事労務管理の考え方の対応関係は、行政組織であろうが例外なくあてはまると考えますので、成果主義だとか年功序列からの脱却という人事労務管理手法については、それによっていかに望ましい仕事を達成できるかという観点からその適否を検討する必要があると思います。そして、ここ数年という短期間ではなく、一人の労働者がその組織に入って出ていくまでの数十年というスパンで考えなければ、一過性のブームに乗ってしまって組織自体を崩壊させてしまう危険性があるわけで、検討にあたってもその点に細心の注意を払わなければなりません。

ただ、こんなことを書いていて虚しくなるのは、民意なるものが絶大な力をもってしまっている現状では、公務員もまた自分の組織をその民意というメガネを通してしか見ることができなくなっているという現実があるんですよね。というのも、われわれ公務員の組織のトップはその民意で選ばれた選良の方々が立つことになっているわけで、そんな方々はほぼ間違いなく「民間感覚を採り入れて行政を刷新します」という公約を掲げていますから、実際の組織運営では「民間に負けないようにスピーディーな意思決定のために組織をフラット化すべき」とか「現場の声を反映するために、内部事務を担当する職員を減らして現場に出させる」とか「政策評価を徹底して、担当した業務でめざましい成果を上げた職員を抜擢する」ということが実際に行われてしまいます。

もちろん、数年のスパンでは、フラット化によって意思決定がスピーディーになったり、現場に出る職員が増えて役所のしきたりが変わったり、成果主義による昇給を目指してめざましい成果を上げる職員が出てくることもあるとは思います。しかし、たとえば、新しい政策でめざましい成果を上げた職員が、大幅に給料を上げた場合を考えてみましょう。新しい業務を実施するわけですから、この人員減の中では既存の業務を辞めるか手を抜く必要があります。通常は対外的な業務を止めたり手を抜くことができませんので、手を抜くのは内部事務とか面倒な利害調整となります。ところが、その厄介な事務を担当する職員は「現場重視」のかけ声の下に減らされているので、そうした厄介な事務の手抜きがフォローされなくなってしまいます。

その一方で、組織がフラット化しているので途中のチェック機能が十分に働かず、職員も成果主義の名の下で対外的なめざましい業務に精を出すので、厄介な事務はどんどんなおざりにされていきます。ところが、そんなことはお構いなく、オンブズマンや会計検査院は、民意の意向に沿って不適切な経理があればギリギリと行政の厄介な事務を糾弾してきます。オンブズマンや会計検査院は大抵その業務が行われた数年後にやってきますので、そのころには成果を上げた職員は給料も職も上がってその職場には残っていません。結局、そのとき在籍している職員が「不適切な処理」という看板を背負って地道に処理することになるわけで、そんな尻ぬぐいの業務なんかいくらやったところで、成果主義の下では評価されることはありません。こうして、内部事務や利害調整という行政の重要な機能が、成果主義、組織のフラット化、現場主義の名の下に衰退していくわけで、これが数年以上経った段階でその弊害が無視できなくなったころにやっと見直しの機運が出てくるという形で、無限ループが繰り返されているのが現状といえるのではないでしょうか。

結局のところ、利害関係者の質と量、インパクトがその組織のあり方を決めていくのであって、それに合わない人事労務管理は現場の労働者と利害関係者にムリを押しつける結果にしかなりません。もちろん自戒を込めてですが、安易に組織論を語りたがる風潮というのは、なかなかに危険なものだなあと改めて思った次第です。

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2011年02月07日 (月) | Edit |
昨日のエントリの予想どおりではありますが、中部地区の県とその県庁所在地で検証可能なばらまき型マニフェストを掲げたカイカク派が勝利したとの由。合理的無知の理論はおもしろいほどに的中しますね。いや、これからの地方財政を考えると全然おもしろくありませんが。

今回の愛知県や名古屋市のように、地方税などの自主財源で自らの歳出をほぼまかなえる自治体(後述するように、今年度はどちらも交付団体です)で、減税を掲げた首長が当選したということのインパクトは侮れないものがあります。でまあ、こうしたチホーブンケンやらチーキシュケンの動きにうかつにもつられてしまう過疎地域もあるものの、地方交付税に手をつけないという前提の元では、これらの自主財源の比較的豊富な地方自治体が減税することによって、日本という国の財政に影響が出ることになります。極端な話、もし日本で最大の税収を有する東京都が、「せっかく国が地方交付税をくれるなら、自分とこの税収は下げるよ」とか言い出して減税したら、自主財源で歳出を賄いきれない過疎地域の地方自治体の分け前が減ってしまうわけです。

地方交付税は国税5税の一定割合を原資として地方固有の財源として各地方自治体に配分されるものですから、地方自治体が減税したところで影響はないように見えるかもしれません。しかし、地方交付税は制度創設以来ほぼ一貫して歳入を越える歳出規模となっていて、昭和50年代からは国がその債務を負担する仕組みとなっています(Wikipedia:地方交付税)。愛知県、名古屋市ともに今年度は交付団体(どちらも交付団体と不交付団体を行ったり来たりしていますが)となっていますから、ただでさえ借金して賄っている地方交付税を受け取りながら、自分のところの自主財源である地方税は減額しようとしているわけです。その地方分の債務を償還するのは愛知県民と名古屋市民だけではなく、将来世代を含む日本の全国民なんですけれども、まあ、それがチホーブンケン教によるチーキシュケン改革の実態なのでしょう。

話は変わりますが、前々回エントリで取り上げたケインズが世に問うたものが手段としての経済学でしたが、古典派経済学が確立する前は、政治学も経済学も法学も一つの学問体系として認識されていたわけで、18世紀のアダム・スミスももちろん、経済学の書として『国富論』を書いたわけではありません。

 『道徳感情論』によって、秩序と繁栄を基礎づける人間の諸本性は何か、また、それらはどのように作用するかを解明したスミスは、次の段階として、秩序と繁栄を導く一般原理の具体的内容は何か、それは人類の歴史において、どのように作用し、また歪められてきたかを論じる計画をもっていた。
 『道徳感情論』の初版を出版した後、スミスはグラスゴー大学で、法学に関する講義を行なった。学生がとったノートによれば、スミスは、正義の諸法だけでなく、生活行政、高収入、軍備などについても講義した。スミスは、『道徳感情論』の最後で示した約束を果たそうと準備していたのだ。
p.137

アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)
(2008/03)
堂目 卓生

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※ 以下、強調は引用者による。注は省略。


スミスが生きたのは、スコットランドがイギリスに統合され、イギリスとフランスが7年戦争を戦い、アメリカ独立戦争へとつながる時代でしたが、スミスは諸国民の絆となるのが市場を通じた富の交換であり、分業であるとして、当時の重商主義貿易を批判することも『国富論』を書いた動機の一つだったようです。かといって、スミスは市場原理主義であらゆる規制を撤廃せよと叫ぶカイカク派を信頼してはいません。あらゆる利害関係を意図的に調整する仕組みとして「見えざる手」を重視したスミスの態度をこそ、改革を漸進的に進めるために想起すべきというのが、本書のメッセージではないかと個人的には思います。

 序章で示したように、スミスが生きた時代は光と闇が交錯する時代であった。経済の発展、技術の革新、知識の進歩と不急という文明の光があふれる一方、その光は、格差と貧困、戦争と財政難という闇によって弱められていた。その中で、スミスは光に熱狂することなく、また、闇に絶望することなく、冷静に現実に取り組んだ。しかし、スミスの冷静な態度の背後には、人間の存続と繁栄を願う強い情熱が感じられる。スミスは、到達すべき理想を示しながら、今できることと、そうでないことを見きわめ、今できることの中に真の希望を見いだそうとした。
『同』p.279

そうした冷静な態度を貫いたスミスはまた、こんなことを指摘しているそうです。

 私たちは、スミスが「徐々に」(graduarally)、あるいは「しだいに」(by degrees)という言葉を用いていることに注意しなければならない。スミスにとって、自然的自由の体系を確立することは、社会の秩序と繁栄にとって望ましいことであり、あらゆる社会の為政者がめざすべき理想であった。しかしながら、現実が自然的自由の体系とは異なる状態にあるからといって、急激な改革を行なえば、植民地政策や外交政策における失敗と同様、多くの利害関係者に大きな損失をもたらし、彼らの不満を招くことになるであろう
『同』p.240

したがって、スミスがもっとも警戒しなければならないと指摘するのが、自らの掲げる理想に心酔してしまい、それに伴う利害調整を無視してしまうような「体系の人」(man of system)となります。

 しかしながら、統治者は、しばしば拙速に事を運ぼうとする。そしてこの傾向は、統治者が、自分の掲げる理想の美しさに陶酔すればするほど強くなる。スミスは、1789年頃に書いた『道徳感情論』第6版の追加部分において、「体系の人」(man of system)について論じた。体系の人とは、現実の人びとの感情を考慮することなく、自分が信じる理想の体系に向かって急激な社会改革を進めようとする統治者のことである。スミスは述べる。

 体系の人は、[中略]自分が非常に賢明であると思いやすく、しばしば、自分の理想的な統治計画の想像上の美しさに魅惑されるため、計画のどの部分からの小さな逸脱も我慢できない。彼は、その計画と対立するであろう大きな利害関係、あるいは強い偏見に対して何の注意も払わず、自分の計画を完全に、あらゆる細部において実現しようとする。
(略)
もし、それら二つの原理が一致し、同じ方向に働くならば、人間社会のゲームは調和的に進行し、社会は幸福で成功したものになるであろう。しかし、もし、二つの原理が対立し相違するならば、ゲームは悲惨な仕方で進行するであろうし、社会はつねに最高度の無秩序の中にあるにちがいない。(『道徳感情論』第6部2編2章)


『同』pp.242-243

誰も反論できない理想を掲げたチホーブンケンの原理主義者たちが主張する「抜本改革」というものの行方は、生暖かく見守っていくしかなさそうですね。

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2011年02月05日 (土) | Edit |
さて、うちの業界的にはこの4月に統一地方選を控えておりまして、あちらこちらから候補者が決まったとかいう噂が聞こえてくるようになりました。まあ、正直誰がなってもあまり変わりないなあという気もしないではありませんが、それより気になるのは、提唱者の北川氏が自ら「期待していない」と認めてしまったマニフェストとかいう選挙公約の内容です。役所の中にいるものからすると、外部の方がいきなり入ってきて、「これがマニフェストなり」といって有無をいわさずご自身の選挙公約の実行を求めてくることになりますからね。

上記で「マニフェストとかいう選挙公約」と書きましたので、マニフェスト好きな方からすれば、「マニフェストは選挙公約とは違う!」とお叱りを受けそうです。ところが、いくら「選挙公約」を「マニフェスト」と言い換えたって、被選挙者が有権者からの得票を極大化するためにセールスするという目的は一緒なわけですから、区別する実益はほとんどないんですよね。一応確認のために、北川氏が所長を務める早稲田大学マニフェスト研究所のWebサイトから引用しておきます。

今までの公約は「口約束」でしかありませんでした。つまり、事後検証できない口約ですから、公約の担保がないのです。だから、数字や金額を文字できちんと書いて、きちんと約束すると、選挙が終わって1年経つと、「あなたの約束したことは、これとこれとこれでしたね」という具合に検証が可能になります。また、2年目はこうでということになり、4年経つと、「あなたは4年間知事でしたが、約束を守ってないじゃないですか」、だから次は落選ですねということになるのです。

事後検証可能な公約、「政権公約」のことをマニフェストといいます。事後検証不可能なばらまき型のことを公約といいます。これまでは、あまりにも公約や約束が軽すぎたので、「どうせ政治家は公約を破るものだ」、「政治家は都合のいいときだけ」というように思ってきたということは、政治を信用していない、政治家が信用されていないということだったのだと思います。そこで、「まだ公務員のほうがましではないのか」ということで公務員が信用されていました。公務員は信用されていたものだから、立法府の仕事は政治家がやらなければいけないのに、ほとんど立法は行政がやってきました。これはやはり、原則に戻さなければいけません。なぜかと言えば、民主主義だからです。民が主役と書いて民主主義です。受験勉強をして試験を通った官が決めていくのだったら、選挙なんて関係ありません。民主主義ではないのです。官僚がすべて決めていく社会のことを社会主義国家といいます。このことを本当に今一度考え直しませんか。

マニフェスト Q&A? マニフェストって何ですか?」(早稲田大学マニフェスト研究所

※ 強調は引用者による。


・・・おそらく北川氏本人が直接キーボードを叩いて打った文章ではないかと思うのですが、この論点の定まらない「回答」からマニフェストなるものの定義を発見することはかなりの労力を要します。引用部分の前後にも、地方自治制度や公務員や既存の政治家に対する批判がダラダラ書き連ねられていて、私の読解力では心許ないのですが、定義らしいところを抜き出すとすれば、「事後検証可能な公約、「政権公約」のことをマニフェストといいます。事後検証不可能なばらまき型のことを公約といいます。」というところでしょうか。

この定義によると、「マニフェスト」は事後検証可能という一つの要件を満たせばいいらしいですが、「公約」の場合は、事後検証不可能なだけではなくばらまき型という要件も満たす必要があるようです。では、事後検証可能なばらまき型はマニフェストなのだろうかという疑問が即座に浮かぶわけで、そもそも「事後検証可能」とはどういう事態を指しているのか不明ですね。特に、検証が可能かどうかという点だけが要件とされてしまうと、その政策の実現可能性が問われなくなってしまうという点に注意が必要です。

たとえば「行政のムダをなくして税金をゼロにします」という政党/候補者が現れて当選したとしましょう。この場合、税金がゼロになっているかどうかで判断ができるので、確かにそのマニフェストは事後検証可能ではあります。しかし、政策そのものについてみれば、結果として税金がゼロにならなかった場合に、その政策がそもそも実現可能だったのかという点こそが問われなければ政策論としても政治過程論としても意味がありません。もし、実現不可能なことをわかっていてそんな公約を掲げたなら悪質な選挙活動ですし、実現可能性も何も検討していなかったのなら、そもそも政治家としての資質に欠けるというべきです。しかし、政治家は得票を極大化しなければ当選できないという職業ですので、政策の実現可能性と得票極大の可能性を天秤にかけるなら後者を優先せざるを得ません。つまり、どう転んでも、政治家になろうとする被選挙者は政策の実現可能性を重視するインセンティブを有しないわけです。北川氏が批判する「公約」の問題点は、公約それ自体に帰せられるものではなく、政治家という職業につきまとうそうしたインセンティブ構造に由来すると考えるべきでしょう。もちろんこれは権丈先生の受け売りですが。

もともと実現できる見込みもないのに「税金ゼロ」という公約を掲げて有権者の票を獲得するような政党/候補者のインセンティブ構造に問題があるとして、単に事後検証可能という要件のみを満たすマニフェストではそれを制御することが不可能であることは、以上から明らかです。結局は、実現可能という要件を満たさなければマニフェストがそれとして機能しないわけで、実現できる見込みもなく掲げられる「税金ゼロ」なんていうマニフェストこそ北川氏のいう「ばらまき型の公約」の典型でしょう。中部地区で繰り広げられている地方自治体の首長選挙で掲げられているマニフェスト(「減税日本 河村たかしマニフェスト」「大村秀章 日本一愛知の会マニフェスト(pdf)」)を拝見するに、北川氏がマニフェストに対置して批判する公約と内実においてなんの変わりもないことを如実に物語っている事例といえそうです。いやまあ、つくづく「地方自治は民主主義の学校」ですねえ。

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2011年02月01日 (火) | Edit |
気がついたら1月のエントリが実質2つだけで終わってしまいましたので、とりあえず近況報告的にメモなど。

前回エントリ以降の世間的な動きの中で、個人的に興味深かったのは与謝野馨氏の経済財政担当大臣としての入閣でした。個人的に与謝野氏の経済政策観には疑問符が付くものの、そのことと現時点で緊急の課題である社会保障の財源確保のどちらを取るかといわれれば、負担増を正面から議論するためには、一見財政再建主義者のように見える与謝野氏であっても、その政策を支持せざるを得ないというのが正直なところです。

拙ブログでは個人的なことは極力書かないようにしているんですが、私の立場を明確にするためにその禁を破るなら、私には障害を持つ家族がいるので、社会保障の財源確保は私自身の生活がかかっている問題です。もちろん、国レベルで経済成長の恩恵にあずかることができて、それによって税収や社会保険料が増えて社会保障が拡充されるのであればそれに越したことはありません。私がリフレーション政策を緩やかに支持するのも、そうした応能負担あるいは受益と負担の関係でいえば負担よりも受益が上回る立場にある者として、負担していただく他の国民の方々にもパレート最適な効用の改善が必要だろう、そうしないと負担増にコンセンサスが得られないだろうと考えていたからです。

ここで「考えていた」と過去形にしたのは、以前は所得再分配のための原資としてリフレーション政策による流動性の供給を期待していたものの、どうもそれではパレート最適なパイの拡大は望めないのではないかと考えるようになったからです。念のため、供給を受ける社会保障の拡充のためとはいえ、負担が増えれば差し引きのネットの余剰は減りかねないわけですから、私自身にとっても経済成長による財源調達の方が望ましいのはいうまでもありません。ところが、これだけ債務残高が積み上がってしまえば、デフォルトを避けるため債務償還を優先しなければならないわけで、その結果、社会保障などの政府支出への充当は後回しになってしまいます。

左派的な方々が批判するバラ撒きとかムダな政府支出が皆無ではないとはいえ、国民が負担した財源が政府に支出されるその先までが一律にムダなわけもなく、特に負担よりも受益が上回っている家計にとっては、政府支出の削減は単純な効用の縮小となります。実をいえば、毎年30兆円以上の公債を発行している現在の日本の財政状況からすれば、私のような特殊事情を持ち出すまでもなく、負担より受益が上回っている家計が大多数です。負担増を嫌って歳出削減ばかりを推し進めてしまうと、特に低所得層や稼得所得の低い層が自らが負担する分を越えて受益している公共財を、その層に限って減少させることになる可能性が高いということを理解する必要があると思います。

たとえば、公共事業のような資源配分的な政府支出を削った場合が典型ですが、公共事業が削減されると同時にそれに従事する労働者の所得や雇用は安定しなくなります。公共事業という政策そのものは資源配分的であるとしても、その政府支出が一定の労働者の所得と雇用を確保して所得再分配的に機能していたということもまた事実だったわけです。したがって、それを補完する所得再分配政策がなければ、その一定の労働者は減少した所得と不安定な雇用に直面してしまいますし、それがひいては経済成長そのものを阻害することにもなりねません。もちろん、公共事業に特化した労働者はホールドアップ問題にも直面しますので、雇用を流動化させたところで簡単には次の職を見つけることはできません。ここでも職業訓練という所得再分配政策が必要となります。

結局のところ、いくら経済成長したところで、その裏で政府支出が削減されて所得が再分配されないのであれば、その恩恵は、市場での取引によって優位な立場にある主体(企業や富裕層などの資産を豊富に有する主体)が獲得することになり、結果的に経済成長そのものも限られたものとなってしまうと考えます。このため、所得再分配制度とその財源を整備することにトッププライオリティを置いて、リフレーション政策は緩やかに支持するに留めるというのが、現在の私の立場です。

実はいま、私淑している某先生に勧めていただいてケインズ関係の書籍を読んでいるところなのですが、ケインズ研究の第一人者である伊東光晴先生が指摘するケインズの問題意識からすると、ケインズが創始したマクロ経済学という分野がいかに変節してしまっているかが感じられます。

 ケインズはロビンズのように経済的効率を資源配分の問題として表現してはいない。しかし、配分論が目的とする経済的合理性ないし効率性を、追求すべき問題のひとつにしていたのは経済学者として当然だったのである。
(略)
 ケインズにあっては、経済問題と政治問題はつねに交叉し混ざり合っていた。現実の政策に関係し続けたかれにとって、それは当然のことである。したがって、経済問題としての経済効率と社会的公正と、後に述べる個人的自由の問題が、かれの追求すべき問題であった。問題はその位置づけであり、同時に三者の関係である。
pp.29-30

現代に生きるケインズ―モラル・サイエンスとしての経済理論 (岩波新書)現代に生きるケインズ―モラル・サイエンスとしての経済理論 (岩波新書)
(2006/05/19)
伊東 光晴

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※ 以下、強調は引用者による。


このような問題意識に基づくケインズは、したがって、

 道徳哲学を一方の轍とするならば、他方の轍は望ましい社会を作ろうとする道徳科学(moral science)―19世紀のそれとしてはベンサム=リカード体系、つまり政治学と経済学―であり、ケインズの意図したのは、その現代化であったが、同時に重要なことは政治学者バークから学んだその学問の特質であった。「政治学も経済学も手段の学問である」―これが若きケインズがバークから学んだものである。
(略)
 ケインズが保守的政治学者バークから学んだ重要なことは、ひとつであったと言ってよいであろう。バークの思想についても、それが求めた政治体制についても、ケインズは同調することはなかった。かれが学んだのは、政治あるいは政治学は、手段あるいは手段の学問であるということであり、政治理念が普遍的なものとして存在し、その実現のために政治があるというのではなく、普遍的目的は外から与えられ、その実現の手段として政治があるという考えである。
 ケインズはこの考えを引き継ぐ。経済も経済学も、それ自身の中に目的があるのではない。政治も政治学もしかり。ケインズにとって実現されるべき目的は、ムーアによって導かれた人間の生き方であり、それについては保守的政治学者バークからは何も学んでいなかった。
pp.31-33


として、経済的効率と社会的公正と個人的自由のいずれかを優先するのではなく、それらの関係を調整する手段として経済学の理論を構築したのだと思います。同書によれば、このうち個人的自由を追求していったのが、ハイエクやフリードマンらの後にシカゴ学派と呼ばれるアメリカ・ケインジアンの流れとなり、サミュエルソンの新古典派総合につながることになります。ケインズが否定した方法論的個人主義が採用されて、ミクロ的基礎に基づいたマクロ経済分析へとつながっていくというのも歴史の綾を感じますが、理論的な部分の論争については、浅学な私には判断できません。ただ、手段としての経済学の正しさ云々を議論するよりも、その経済政策によって実現される予想される社会のあり方の議論にこそ意味があるだろうとは思います。

そのような立場からすれば、与謝野氏の経済財政運営に全幅の信頼を寄せられるか疑問なしとしないとしても、少なくとも負担増による社会保障の財源確保を掲げて、社会保障を平等消費できる社会を目指そうとしている与謝野氏の政策までを否定できるものではありません。

この点の議論の混乱は、権丈先生の勿凝学問354を引用されているhamachan先生のコメントが的確だと思います。

権丈節健在。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare354.pdf

皮肉なのは、日本の揚げ塩風味「りふれは」というのは本家アメリカのリフレーション論者とは逆に公共サービスと社会保障を敵視するフリードマンの党派に成りはてているということでしょう。

>・・・まぁ宰相が「強い社会保障」なんてことを言ったとき、昔ながらの経済学者達が、一斉に経済学の教科書通りに、成長と社会保障が緊張関係にあることを、いたる媒体を使って批判していたシーンをみるのはなかなか楽しいものがあったわけだ。

>・・・2009年に、ケインジアン系の社会保障論が表に出てきたとき、条件反射的にフリードマン系の経済学で、懸命に批判している人たちをみて微笑ましいものがあった。

昔だったら、これを「ねじれ」と呼んだところですが、もはやねじれですらないというべきでしょうね。まあ、敵が明確になるというのは悪いことではありません。

要するに、社会保障をケインズが語るかフリードマンが語るかなんだよ@権丈節(2011年1月28日 (金))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)


いやまったく。

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