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2011年01月10日 (月) | Edit |
前回エントリの現場主義の話の続きになりますが、一昔前に流行った「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」という大ヒット映画『踊る大捜査線』の台詞があります。この映画が公開されたのが1998年ですから、世は1997年のアジア通貨危機後の景気低迷が続いていたころですね。すでに自民党は橋本総理の下で政権に返り咲いてはいましたものの、バブル崩壊後の規制緩和をメインテーマとしたカイカク路線を継承しなければ世論の支持は得られなかったわけで、世の中全体が「腐敗した官僚の既得権益をぶっ壊してカイカクしなければ!」と叫んでいたころだったと記憶しております。

いやまあ、ご多分に漏れず、当時コームインになり立ての私も『踊る大捜査線』のテレビシリーズや映画は見ていましたし、もちろん青島巡査部長に感情移入して「霞ヶ関の中央官僚なんかに俺の現場がわかるか」なんてことも思って、「現場にこそ真理がある」とか粋がっていたころもありました(遠い目)。

ところがよく考えてみると、「現場」というのはただそこにある場を指す言葉であって、何か活動があったり人がいたりものが動いている場があればどこだって、つまり会議だって「現場」であることに違いはないわけです。となると、「事件は会議室で起きているんじゃない」というのは、一方の現場にいる青島巡査部長からの一方的な言い分のように思えてきます。会議室にいる室井管理官にとっては、その会議室こそが現場であって、「事件は現場で起きているんだ」というなら、会議室でも事件は起きるのです。

もちろん、会議というのは時間と場所と出席者と議題があらかじめ決まっていることが多いので、何が起きるかはある程度は事前に想定することが可能です。そもそも、会議というのは何かものごとを決めたり意思疎通を図ったりする場であって、その目的に向かって参加者の思惑や利害関係を調整しながら、参加者の意思を統一する(すくなくとも意思を確認する)作業を進めるための現場です。したがって、そこで起きる事件というのは、参加者の意思統一が図られなくなるような突発的な出来事だったり、事前に想定した議事の流れとは違う方向へ議論が進んでしまって収拾が付かなくなるような事態を意味することになります。

このように、事前にその議題について十分な調整が行われて、会議が開催される段階では最終的な意思確認やオーソライズするというのが「会議室の現場」であって、そこで事件が起こると会議の目的は達成されませんが、それに対してリアルタイムで動いている「事件の現場」から不満がぶちまけられるというのはどのように理解すればいいのでしょうか。たとえば、医療看護の分野でもこういう指摘があったりしますが、

 ふだんの所轄業務とちがい,特捜本部の指揮下では,巨大な官僚機構の下で,現場に与えられた「権力」や「権限」の小ささが痛いほど実感される瞬間である。こうして,中央集権的でピラミッド型の組織になればなるほど,トップ(本部)からボトム(現場)までの距離は遠く隔たり,意思疎通に時間がかかる。事態の緊急性や例外性が高ければ高いほど,トップは判断に慎重になって現場に権限を委譲しきれず,現場を遠隔で監視しようとする傾向が強まり,「情報なき本部」と「権限なき現場」に「意思疎通の壁」が立ちはだかる。さらに,かつては現場を走り回っていた優秀な社員がひとたび現場を離れて本部に入れば,次第に現場感覚は失われ官僚的になっていくという。
 さらに,『踊る大捜査線』ではこうも指摘している。「しかし,“現場主義の経営”とはトップがただ現場を回ればすむというほど簡単ではない」と。リスクマネジメントを成功させるには,しかしながら,院長が現場を歩き回り,リスクマネジャーが組織再生に向けて真に機能するしくみを作るための“権力”を発揮しなければならない。

井部俊子聖路加看護大学学長「看護のアジェンダ 〈第34回〉事件は現場で起きているんだ」(週刊医学界新聞 第2753号 2007年10月22日)
※ 強調は引用者による。


・・・結論部分になんとなく違和感を覚えてしまいますね。「事態の緊急性や例外性が高ければ高いほど,トップは判断に慎重になって現場に権限を委譲しきれず,現場を遠隔で監視しようとする傾向が強ま」るというのは、まさに「事件の現場」で起きている事件と、「会議室の現場」出起きている事件がシンクロしていないからであって、そこに「意思疎通の壁」があるというのなら、「会議室の現場」にこそ問題があると考えるべきでしょう。「事件の現場」に権限がないから何もできないのではなく、「会議室の現場」が適切に機能していないから「事件の現場」が動かないのです。

引用した医療看護の場合、組織のトップたる院長が何より優先して行うべきことは、「会議室の現場」で事件が起きないように会議室の場をあらかじめ入念に準備し、「事件の現場」でどんな事態が起こってもそれに対処できるように、「事件の現場」との意思疎通を図る体制を「会議室の現場」に整えることであるはずです。まさに「“現場主義の経営”とはトップがただ現場を回ればすむというほど簡単ではない」のであって、「会議室の現場」を強化することが組織のトップに課せられた使命なのだろうと考えます。

さて、拙ブログでは自己目的化したチホーブンケンやらチーキシュケンをさんざん批判しているわけですが、これまで指摘してきた財政面の問題のほかにも、この点も大きな問題となります。国・地方を問わず、行政サービスには「制度を執行する現場」と「政策策定・決定の現場」の2つ(後者は、地方自治体でいえば本庁と議会、国でいえば霞ヶ関と永田町)があって、その2種類の現場をつないで個々の事件と政策決定の乖離を防ぎながら、適切な水準・規模の公共財を供給しなければなりません。ところが、自己目的化したチホーブンケンやらチーキシュケンが徹底されてしまえば、第1の現場と第2の現場との距離は縮められるどころかむしろ切り離されてしまうことになります。「現場主義の徹底」とか「現場の権限を強化する」とかいって地方分権して「事件の現場」ばかりを強化してしまうと、権限を奪われた「会議室の現場」が弱体化してしまって適切な状況把握も政策決定もできなくなり、結局は「事件の現場」までもが機能不全に陥ってしまうわけです。

大規模かつ中長期的に取り組んでいかなければならない政策分野では、「事件の現場」で起きる事件と同様に、「会議室の現場」で起きる事件についても、それを防ぐ手立てを講じなければなりませんし、万が一事件が起きてしまった場合は適切に対処しなければなりません。そのためにも、「会議室の現場」の体制は強化される必要があります。

もし「会議室の現場」が「事件の現場」と乖離してしまって、適切な政策が決定されない問題があるなら、「事件の現場」が適切に機能しているからこその乖離でしょうから、この場合まずは政策を決定する「会議室の現場」、すなわち霞ヶ関や地方自治体の本庁を強化することが先決です。その上で、個々の「事件の現場」は情報を的確に「会議室の現場」に伝え、「会議室の現場」ではそれらを過不足なく収集し、全体の「事件の現場」と整合性のある政策決定ができる体制を整備しなければなりません。

政策の決定から制度の執行までの段階を追っていくと、どの政策分野でもこのような「現場」相互のつながりの構造があります。つまり、行政サービスはどこまでいっても、「制度を執行する現場」と「政策を策定・決定する現場」のつながりの結果としてしか供給されないということになります。したがって、中央集権体制を通じたこのような「現場」相互のつながりが適切に機能しているかを個別の政策分野についてそれぞれ見極めることが、まずは重要となるのです。結論として地方分権ありきの議論では、このような構造を見直す契機すら失われてしまうわけで、なんというか総論で語ることの怖さを感じますね。

まあ現実問題として、そんな見極めもなく自己目的化したチホーブンケンやらチーキシュケンが進められているわけですから、このまま行けば全国各地で「現場」相互のつながりが切り離された「ミニ霞ヶ関」と「ミニ地方自治体」ができてしまいかねません。そうなればそうなったで、「市町村が多様化しているから県庁の中央集権では対応できない」とか「地域の特殊性や個性を発揮するために市役所の中央集権を解体して町内会に地方分権するべきだ」という新聞政治部的総論が繰り返されることが容易に想像できるだけに、自己目的化したチホーブンケンは国家解体論にしかならないよなあと再び遠い目をしてしまいますね。

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2011年01月09日 (日) | Edit |
実質的に新年初のエントリとなりますが、ここ数日そこはかとなく考えたことをいくつか書き出してみます。

山登りは誰かに誘われれば行くくらいで、それも最低限の装備で日帰りできるくらいの山しか登ったことはありませんのでたいしたことはいえませんが、それでも一歩一歩自分の足で登って山頂にたどり着き、そこから周囲の景観を見ると爽快な気分になります。といっても最後に山に登ったのはかれこれ5年近く前になるわけでして、今よりも体力があった当時ですら、一日かけて山頂まで往復すれば膝が笑ったものでした。

確かに山に登るのはそれだけの労力を要しますが、山の地形とそれを登る労力そのものや、天候や季節の移り変わり、その地形に生息する動植物の生態系などは、実際に山に登ってはじめて自分の目で確かめて実感することができます。そうなると、自分で登った経験があるということで、たとえば、その山に登ったことがある人と「あの山の景色はいいよね」とか「登山ルートのあそこが大変だったな」という会話ができますし、相手がベテランなら「こんなルートもあるよ」とか「こっちから見る景色もまた格別だよ」なんて情報を聞き出すことができるかもしれません。他の人が登るという話になれば、自分の経験から「○時ころに出発すれば、ちょうど昼時に山頂に着くよ」とか「あそこに○○があるから××を持っていくと便利だよ」というアドバイスができることもあるでしょう。

もちろん、誰もが山登りが好きなわけではないので、こういう話をしていると、中には「山登りなんて面倒くさいだけだろ? 俺は忙しいからヘリコプターで一気に山頂に行ってしまうけどな」なんてことを冗談でいう方もいたりします。まあその気持ちはわからないではありません。そりゃ誰だってラクしたいですし、私もどっちかというとできることならそうしたい気持ちもあります。

ただし、ヘリで一気に山頂まで行ってしまうと、その山がどういう地形でどういう動植物が生息しているかということを自分の目で見ることができなくなります。もちろん、実際に登った人から話を聞いたり、写真とか動画でもあればそれを見てイメージすることはできるかもしれませんが、そんなイメージだけで「俺はあの山頂に行ったことがあるから、あの山のことなら何でもわかる」とはいわないでしょう。そんなことをいう人がいたとしても、実際に山に登った先人に対する敬意を欠く言動をした時点で、実際に登った人はもちろん、周囲の人からも信頼を失うことになるのが関の山です。

もし、どうしてもその山に登らなければならないという事情があって、財力はあるけど時間と体力がないのでやむを得ずヘリで山頂に行くという人がいるなら、実際に山に登った先人の言葉に素直に耳を傾けて必要な情報を聞き出し、想像力をフルに働かせてその山の景色や生態系、天候などを思い描けるような心の準備が必要となります。大きな組織のトップは往々にしてこういう場面に出くわすことがあるのですが、そのときに「現場主義の罠」に陥らないトップが、この「現場主義」がもてはやされるご時世でどれだけいるのかというのはかなり怪しいところではないでしょうか。

さらにいえば、こと政治とか経済政策という分野の話題になると、「誰にでもわかりやすく説明しろ」とか「俺が理解できないものは認めない」とか真顔でいう人がいたりするので厄介なんですよね。拙ブログでは毎度引用させていただいている権丈先生のサイト経由ですが、権丈先生が使用されている教材にこういうのがあるそうです。

 しかし、私は現段階での徴収年齢引き下げには反対だ。厚労省がこの問題を正面から問うことを避けてきたため、議論が生煮えだからだ。(略)私はその次の改革に向けて、年齢引き下げと統合がなぜ必要なのかを一から丁寧に説明することから始めるべきだと思う

(略)

 そもそも、厚労省は「保険料の徴収年齢を引き下げるべきだ」とも、「統合すべきだ」とも、公式には一度も表明していない。(略)
 厚労省幹部は「役所は選択肢を奪うな、と批判するのはマスコミの方じゃないか」と反論する。しかし、まずどうしたいのかを明言しないことには、国民に熱意も真意も伝わらない
 厚労省はこれまでの対応を改め、若者にも負担を拡大して年齢で区別しない「一般介護」へ転換することの意義をきちんと説明すべきだ。安易な財源対策との印象をぬぐえなければ、若者から保険料徴収といった思いきった改革に、いつまでたっても国民の理解は得られないだろう

「毎日新聞[記者の目] 2004年の年末のこと
もっと介護負担を=野沢和弘氏 と 介護保険料徴収年齢引き下げ反対=吉田啓志氏(注:odfファイルです)」(仕事のページ(権丈善一先生Webサイト)


※ 強調は引用者による。


なるほど、国民が納得しないのは厚労省が熱意を持って説明しないからだと、今までよりも「丁寧な」説明をすることが必要だと、役人はいつまでも「示唆」するだけで説明しないと、総じて説明が足りないのは役人のせいだといいたいわけですね。「せいじしゅどう」という呪文を唱えて財源があると言い張った政党によって政権交代が実現するというこの国の政治環境の中で、そんな「官僚主導」で政策を打ち出したりなんかしたら真っ先に叩くのは彼らマスコミなはずですが、私の理解が間違っているんでしょうか。合理的無知の購読者・視聴者を意識するからそうなるとしても、まあ出口の見えない倒錯しきった状況ではありますね。

説明責任」という他力本願全開の便利な言葉が人口に膾炙するようになってから、説明が受ける側が「説明が足りない」主張しさえすれば、たとえ説明を受ける側がその説明に聞く耳をもたなくても、説明する方が無限定に責任を問われる仕組みができあがってしまったように思います。なるほど、引用したpdfファイルの1ページ目では、その説明をきちんと理解している立場からの論説も紹介されているので、マスコミの無責任な政治部的論調を見抜くための格好の教材となっていますね。

こういう自分で理解することを拒否する論調を見ていると、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」で昔やっていた「松本&黒子・挑戦シリーズ」を思い出しました。松本人志が2m50cmの走り高跳びや150キロの剛速球を打ち返すことに挑戦するという企画なんですが、いざ挑戦する段になると、松本自身は自分でも立てないくらいに脱力して挑戦する気力を一切見せません。しかたなく、黒子に扮した他の出演者が形だけでも成功できるようなんとか松本人志を奇抜なアイディアで支えながら挑戦しますが、当然のごとく失敗するわけで、すると松本が他の出演者に対してキレまくるという松本の不条理な行動がこの企画の見せ所です。最終的には、ごくオーソドックスな方法で記録をクリアする(走り高跳びのバーの上から松本を投げ落とす、松本を肩車した黒子が代わりに打つ等)のがこの企画のオチですね。

制度を知らず、歴史を知らず、現実に裏打ちされた各論を理解しようともせず、総論だけで「コーゾーカイカク」だとか「チーキシュケン」だとか声高に主張し、政府の審議会や諮問機関の報告書があっても「官僚の作文だ」と理解することすら拒否して、その限られた理解に基づいて推進する政策がうまくいかない現実を目の当たりにすると「既得権益の抵抗だ」「官僚の陰謀だ」と煽り立てるマスコミ政治部的論調(あるいは無責任な政治学的論調)の場合は、どこにオチがあるんでしょうか。

(松本&黒子挑戦シリーズの部分を修正しました)

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2011年01月01日 (土) | Edit |
昨年中は多くの方々にTB、コメント、拍手、ぶくま等々いただきありがとうございました。
本年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。

というわけで初詣しておみくじ引いてみました。

【吉】 (No.54139) モナー神社
願事 : 思い通りとなる しかし気をゆるしては破れる
待人 : 遅く来たる
失物 : 思わぬ所より現る
旅立 : あまり急ぐは宜しからず
商売 : 見込み確かなれば儲け有り
学問 : 労多いが成果有り
争事 : 心強く持ちて進めばよし
転居 : 急がず行えばよし
病気 : 重し 信心せよ
縁談 : 苦労するとも末は見込みあり 辛抱すべし

うーむ、3年連続の吉でした。とりあえず新年には希望を持って臨みたいと思います。

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