2010年12月26日 (日) | Edit |
昨日12月25日の「日本の、これから」のテーマは「就職難をぶっとばせ」でしたが、拙ブログでいつも取り上げさせていただいている海老原さんはさすがの存在感でした。やはり動いている海老原さんは文面から伝わる迫力以上のものがあります。海老原さんのプレゼンでは「切れば血が出るような現実」を実例を挙げて紹介されていたので、会場にいた誰も反論できない雰囲気でしたからね。

海老原さんが番組の中で主張されていた「ねらえ!中小・中堅企業」ということ自体は、『「若者はかわいそう」論のウソ』などの著書で示されていたことなので、著書を拝読している者からすれば目新しいことではないのですが、これに対して文部科学副大臣が経済産業省のホームページを紹介していたことにいい知れない違和感を感じました。就職難という問題を討論する場に文部科学省が出てくるからには、就職難の責任の一端は教育にあるという認識があるんでしょうが、出演している文部科学副大臣が紹介したのが経産省の事業だったわけで、結局のところ文部科学省としては主体的にこの問題に取り組むつもりはないとしか見えなかったのです。

番組の中でも、「大学はアカデミズムの場であって就職予備校ではない」という大学教員の声があるとの発言が石渡氏からありましたが、それが本田由紀先生が「職業的レリバンスの欠如」と指摘する問題なわけです。番組の中で宮本みち子先生が主張されていましたが、若年者雇用を考えるときに「若者に職業教育を!」というヨーロッパでは当然に取り組まれていることをことさら強調しなければならないのも、現行の「学校教育」に問題があるからですね。その「学校教育」の行政を司る文部科学省から、経産省の事業を紹介して「政府として取り組んでいます(キリッ」といわれてもねえという気がします。何より、番組の後半で「小学校にOBの社会人を呼んで話を聞かせることを義務化しろ」という勝間氏のムチャぶりに象徴されるように、社会に接続するシステムとしての「教育システム」の議論をすっ飛ばすと、単に社会人の話を聞くというイベントに議論が矮小化されてしまいます。社会に接続しない「教育」の存在意義ってものが問われているんですけどね。

とまあ、意図的かどうかはわかりませんが、海老原さんが徹頭徹尾プラグマティックに議論されていたことが、文部科学省が所管する「学校教育」の機能不全をあぶり出して、後の宮本みち子先生の「若者に職業教育を!」という主張にうまく連携されていたように思いました。ロバート・キャンベル教授とか勝間和代氏がいくら「資格じゃなくて人間力だ*1」「仮説検定する能力だ」なんて騒いでみたところで、実務に耐えうるそんな能力を今の大学教育で身につけられるのは、一流大学に入学できるような優秀な学生に限られます。就職が困難になるのは、何の目的もなく、高校を卒業してなんとなく大学に入った学生であって、一昔前なら高卒で就職していたような層です。勉強や能力で劣るんだからその境遇を受け入れろという新自由主義的社会ダーウィニズムに凝り固まった勝間氏のようなエリートの方に、そうした層の境遇を慮る視点を求めるのは酷というものでしょう。いやまあ、勝間氏に求めてはいけないものが多すぎて大変です。

念のため議論を整理しておくと、就職難という問題を考えるためには二つの側面を考える必要があって、一つは高校・大学レベルの教育機関のうち、特に実業系以外の普通科や人文系学部が職業に接続していないことと、二つ目は、高校・大学という高等教育に進学する割合が高くなったために、卒後の進路がいわゆる高度なホワイトカラーや研究者以外に、ブルーワーカーや単純労務にまで広まっていることです。この二つを混同すると、キャンベル教授や勝間氏のように、大学で勉強すればそれが社会に出ても役に立つという、普段ご自身が相手にしている超エリートにしか通用しない議論をしてしまうのだろうと思います。宮本みち子先生や海老原さんが主張されていたのは、そういうアカデミックなトレーニングすら十分にこなせない若年者が高校や大学を卒業しても、社会に出て通用する武器を何ら身につけることができないという現実だったはずです。その武器になり得るものとして、宮本みち子先生は職業教育の、海老原さんは「営業大学」の必要性を主張していたのですから。

実は、そういう現実を認識していない企業の人事担当者というのも相当数います。となると話がややこしくなるわけでして、番組でも企業の人事担当者から、「会社が求めている能力は、会社の中で実務を通じて身につけられるものだ」という、これまた新卒ですんなり採用される高校・大学生の優等生のキャリアコースを前提とした発言がなされていましたね。これには宮本みち子先生もさすがに、「それは矛盾した言い方だ。会社の中で能力を身につける機会すらない学卒無業者が400万人いる中では、職業教育しなければ彼らは職業能力を身につけることはできない」と即座に反論されていましたし、さらに宮本先生は、討論の終盤で、「私がいう職業教育は、必ずしも資格や技能を身につけるためのものではなく、たとえば車体を整備することで実社会とつながることを学ぶことであり、それを職業能力として社会が認めることが重要だ」と付け加えられていました。「人間力」とか熱く語る暇があったら、こういう職業能力が認められない社会的な認識が何に由来しているのかというところを深掘りした方が、実りの多い議論になったのではないかと思います。

もう一点、番組で気になったことですが、勝間氏が提案した解雇規制緩和の議論の際に、キャンベル教授が「解雇という言葉が悪いので、転職とか、自主的に会社を出て行く制度を考えるべき」という、いかにも現実を見ない大学教育者らしい発言をされていました。これも整理しておきますと、少なくとも法実務上は使用者側から雇用契約を解約するのが「解雇」で、労働者側から雇用契約を解約するのが「退職」ということになりますので、キャンベル教授の用語法に基づいて「解雇規制」を言い換えるなら「退職規制」となってしまいます。労働者側からの発意に基づく退職が規制されてしまうと、私なんかは強制労働を連想してしまって悪い冗談かとも思ってしまうのですが、それを聞いてうんうんと強く頷く勝間氏の姿が映し出されていて、ああこの人は雇用問題を語る割に労務管理の実務を何にも勉強していないんだなあと改めて認識いたしました。

ちなみに、明治時代の工業化の過程で、地方在住の若い女性を人身売買さながらの雇用契約で女工として就労させていた実態を規制するために、現在の労基法の前身である工場法が制定されたわけですが、その名残が労基法16条の賠償予定の禁止とか17条の前借金相殺の禁止とか18条の強制貯金に対する厳格な規制です。つまり、「お前は○年間働くためにうちの工場に住み込みさせてやるんだから、その○年間の前に辞めたら一族郎党から×円の違約金を取り立てるぞ」とか「前金を払ってやるからそれの分働くまで辞めさせないぞ」とか「会社でお前の給料を貯金してやるから、○年間働くまでその貯金は会社で預からせてもらう」いう形で、労働者側が辞めたいと思っても辞められない状況に追い込むのが当時の労務管理であって、その弊害で憔悴しきるまで働き詰めて機械に巻き込まれて死んでしまうとか、病気で死んでしまうという事態が社会問題化していたわけです。そういう歴史を踏まえてみれば、「退職規制」なんてことが許容されるわけないですし、キャンベル教授もそこまで考えて発言されたつもりではないでしょうけども、雇用契約の出口局面だけ考えて、その出口につながる雇用契約の入口を見ない議論の典型ではあります。

ただまあ確かに、雇用保険の実務上、同じ「退職」でありながらも、「自己都合退職」とか「事業主(会社)都合退職」という用語を使っているのも混乱の原因ではあるでしょう。雇用保険では「離職理由」によって給付制限がかけられたりする(自己都合退職なら最長3か月経過するまで失業等給付が支給されないとか)ので、「自己都合」か「事業主(会社)都合」かというのが問題になるわけですが、ここでいわゆる「事業主(会社)都合」というのは、倒産や解雇などによって離職した「特定受給資格者」や希望退職などによって離職した「特定理由離職者」を指すので、必ずしも「退職」ではありません。

さらに実務上厄介なのは、パワハラとか変更解約告知で自己都合退職に追い込む場合とか、懲戒権を逸脱して些細な問題を従業員の責任に帰して解雇してしまう場合のような、労働契約法第16条に規定する「解雇権の濫用にあたる解雇」が、特に中小・零細企業ではごく普通に行われているという実態があることです。雇用契約の終了というのは、雇用契約の当事者である使用者と労働者の間での解約理由のせめぎ合いを必然的に伴うものであって、勝間氏やキャンベル教授が思い描くような解雇権の濫用に当たらない(可能性のある)整理解雇というのは、そのうちで使用者側の解約理由に客観的合理性と社会的妥当性が認められる(余地のある)一事例に過ぎないわけです。勝間氏がモデルとして取り上げたデンマークでも、労使の合意により整理解雇が認められているに過ぎないのであって、「解雇権の濫用に当たる解雇」まで認めているわけではありません。

この辺の区別ができていない勝間氏が浅薄な正義感から「解雇規制の緩和を」とか主張してしまって、それがマスメディアの電波に乗ってしまうわけですから、この国の素人崇拝も筋金入りですね。ただし、同時に宮本みち子先生と海老原さんにもプレゼンの機会が与えられたことで、議論の後半になるにつれて勝間氏の存在感が薄れていったのを拝見するに、まともな議論を示す機会があればまともな議論が可能だという淡い期待は持てそうです。

ついでに、博士号なりの学位を取るようなトレーニングを積んでいないとう意味でマクロ経済学の素人である勝間氏が、リフレーション政策による景気回復で労働需要を増やすべきという主張をされなかったのは、おそらくそうしたマクロの議論が番組サイドから封じられたからではないかと察するところですが、私自身は雇用労働政策を通じた資源配分の効率化と所得再分配の公平性という重要な政策を論じるためには、やむを得ない切り分けだったと考えております。この点については、一部のリフレ派が「マクロ経済政策としての金融政策を論じないヤツはアフォ」と勝間氏を見限るのか、「マクロ経済を取り上げないNHKはアフォ」と雇用労働政策に議論を集中させたNHKをdisるのか、どう反応されるのか興味深いところでもあります。




*1 資格なんて要らないといっていた勝間氏ご自身は、大学在学中に公認会計士試験に合格されていますけどね。

このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーサイト

2010年12月22日 (水) | Edit |
カイカク派の手にかかると、手段であるリフレーション政策とか地方分権とかが目的化していくっていうのは、多分「レンジでチン」的な感覚なんだろうと思ったのでメモ。

  1. 電子レンジって便利だよね。
  2. 昔ながらの鍋料理とかは手間がかかるし、手料理をする人の手間暇が非効率だから、「レンジでチン」すればオールオッケーだよな。
  3. 手料理に縛られて他のことができなくなってしまうなんてライフハックじゃないよね。
  4. 今どき「レンジでチン」できない料理なんて「時代の流れ」に取り残されているんだよ。手料理から人を解放してもっと生産的なことができるようにすることがライフハックだよな。
  5. 俺、料理のことよくわからないんだけど、料理はみんな「レンジでチン」でできるんじゃね? つーか、キャベツの千切りを手でやったら非効率だけど、キャベツを「レンジでチン」したら効率的にできるはずだお!
  6. できるかどうかやってみないとわからないお! とくにかくキャベツでも何でもいいから「レンジでチン」してよ!
  7. 何でもかんでも「レンジでチン」したって料理ができるはずがないだと? それは電子レンジの能力を信用していない手料理人の偏見だお! 手料理人は電子レンジを見下しているお! 「電子レンジ」感覚がわかってないお!
  8. ははーん、さてはお前も手料理人の仲間だな? 手料理人の作る料理を食べたいからって手料理人の屁理屈に取り込まれたアフォめ。お前も同じ既得権益だお!手料理人は電子レンジを見下しているお! 「電子レンジ」感覚がわかってないお!
  9. 「レンジでチン」を批判するヤツはみーんな手料理人の既得権益を守りたいだけだお!
  10. 手料理人とそいつらの仲間をぶっつぶせ!


※ 6と7と8を修正しました。(12/22)


なんとなく途中から「やる夫」口調になってしまいましたが、ポイントは「電子レンジは便利だよね」というスタートの命題は全くの正論なのに、それが素人考えで自己目的化されてしまうと、最後にはとんでもない命題が導かれてしまうというところでしょうか。「電子レンジ」って万能感ありますからね。

このエントリーをはてなブックマークに追加

2010年12月12日 (日) | Edit |
横やりを入れてしまうようで恐縮ではありますが、hamachan先生のところでなかなかに示唆的なやりとりがありましたので、これを題材にして地方分権のまとめをしてみたいと思います。

まずは、hamachan先生が朝日新聞の政治部的(匂いのぷんぷんする)社説を取り上げて、せっかく各論ではまともなことを書いていた社説が台無しになっていることを指摘されています。

http://www.asahi.com/paper/editorial20101210.html#Edit1(地域主権改革―大風呂敷をたたむな)

カイカク真理教、チホーブンケン真理教、シワケ真理教・・・、看板はいろいろですが、要するに政策の中身はまったく知らず、知ろうとせず、知ることを拒否し、ただただ「真理教」のお題目だけを唱え続ける、政治部記者の“躍如としてめ面目ない社説”ですな。

>民主党内の議論も解せない。自治体が強く求めるハローワークの移管を当初は容認しようとしながら、最後は国に残す方針に転換した。根っこには、まだ自治体には覚悟も能力も足りないという判断もあるのだろう。

つまり、政治部記者には、「労働政策の観点から」ものを考えるという脳みそが、ひとかけらもないということのようです。政治面を見ていくだけで、傘下に自治労があり、全労働はない連合が、組織的利害ではなく労働者の利益という立場からチホーブンケンに批判的であることはわかるはずですが、脳みそにそれを受信する部位が存在しなければ、何が書かれていても入らないのでしょう。

(略)

なんにせよ、政策的思考のかけらもない政治部記者の「大風呂敷」につきあわされる国民が最大の被害者かも知れません。

政治部記者の空っぽな大風呂敷(2010年12月10日 (金))」(EU労働法政策雑記帳
※ 以下、強調は引用者による。


これに対して、コメント欄で哲学の味方さんからhamachan先生の地方分権に対する認識についての疑問が呈されます。

ただ、私の考えは違います。地方分権ないし地域主権の問題について、私が一番信頼しているのは、片山善博総務大臣の考え方です。
簡単に言って、二点が大切だと思います。一点は、国と地方のバランスと分担/協力のあり方の問題だということ、もう一点は、地方自治というのは自治体の権利の問題というよりも、最終的には住民としての国民の権利の問題だということ。
で、この二点が、きちん理解されていません。この朝日新聞の社説ももちろん、地方自治体の首長さん達にも、一般にも、理解されていないと思います。

投稿: 哲学の味方 | 2010年12月12日 (日) 05時51分
「政治部記者の空っぽな大風呂敷(2010年12月10日 (金)」コメント欄


このあと哲学の味方さんは、原理主義者である片山善博総務相の会見からの発言を引用されるのですが、ここで哲学の味方さんや片山総務相が語る地方分権の理念そのものはおそらくだれも反論のできない正論だとは思います。ただし、現実の制度をその思惑どおり帰着させるためには、制度の設計、立案、施行、執行の各段階で綿密なオペレーションが必要であって、そのような高邁な正論や原理原則論だけでいくら議論したところで、そのフィージビリティはいかほども保障されないという大問題があるのです。

たとえば、哲学の味方さんが引用されている片山総務相の会見では「霞が関に権限があるよりは、身近な自治体に権限があった方が、住民の皆さんのハンドリングが利く、住民の皆さんの影響が及びやすい。」というような発言がありますが、確かにそれだけを聞けば、住民のハンドリングが利いた方が「望ましい自治」がもたらされるだろうと思ってしまうのもムリはありません。しかし、ここで忘れてはならないのは、どんな制度でもその効果にはメリットとデメリットがあるということです。

地方分権ももちろんその例外ではないわけで、当然のことながら地方分権を進めることによってメリットだけではなくてデメリットももたらされますので、それらをきちんと比較衡量する議論がまず必要です。たとえば、応用ミクロ経済学の一分野である公共経済学の議論によれば、そもそも公共財は受益と負担の比較で過小供給される(自分の受ける便益よりも低い負担しかしない住民が大多数である)ということが指摘されています。また、正の外部性のある地方公共財(ある地域内に便益が限られる公共財)は、それを供給する地方政府が受けることのできる便益に見合う(割に合う)分だけしかその地方政府は費用を負担しませんので、全国レベルで見たときには過小供給になってしまいます。さらには、最近あちらこちらの自治体で制定されている「市民憲章」とか「自治基本条例」といった条例が、日本国民を規定している日本国憲法との関連において、地方自治体という行政区に便宜的に住民票を持つに過ぎない日本国民を、法令を飛び越えてその自治体の中でどう位置づけているのかという治外法権的な問題もあったりします。

過小供給は一般的な公共財すべてに該当しますが、外部性の問題に該当するのが教育や労働などの対人サービス(現物給付)に関わる行政分野です。教育の分野でいえば、ある地方自治体がいくら優秀な学生を育てても、その学生が首都圏に就職してしまえば、その学生に投資した経費は少なくともその地域にとっては割の合わないものとなります。また労働の分野でいえば、ある地方が労働基準法を要件緩和することによって、より低廉で長時間働かせられる労働者を供給することが可能になり、企業を誘致することも考えられます。現状を見れば明らかなとおり、労働法規を遵守することは企業の競争力が下がることにつながりますので、「地域主権改革によって地域間競争を促進してムダを排除する」というスローガンの裏側では、そのような労働条件の切り下げが行われる可能性が高いと考えられます。

実をいえば、地方分権によって労働条件が切り下げられる現象そのものは、総務省が経済財政諮問会議の命を受けて策定した「地方公共団体における行政改革の推進のための新たな指針」に基づいて、各自治体が「集中改革プラン」を策定することとされており、これを実行する中ですでに現実のものとなっています。全国知事会が誇らしげに語る「国を上回る地方の行革努力」(「地方財政の確立と地方交付税の復元・増額に関する提言」(PDF)p.19)という人減らしのために、地方公務員の世界では正職員を非正規職員へ置き換える動きが進んでおり、これがいわゆる「官製ワーキングプア」を生み出しているわけで、今後さらに「地域主権改革」なるものが進んでいけば、それが民間にも波及することは避けられないものと思われます。

というように、教育と労働の分野だけでも、このような現実に基づいた各論の比較衡量を踏まえて議論することが必要であるのに、どの分野でどのような形で地方分権を進めるべきかという各論をすっ飛ばして、総論のみで「地域主権改革は一丁目一番地*1」などという手段を目的化したスローガンが堂々と語られることにそもそもの問題があります。hamachan先生が懸念されているのはおそらく、そのような議論が総論からだけ語られている結果として、「まず地方分権ありき」で現実を見ないカイカク派がのさばっていることについてではないかと思います。hamachan先生も地方分権が必要な分野があるとの認識は以前示されていたと記憶しておりますし、私自身も公共事業の箇所付けといった資源分配的な行政分野については地方分権する余地はあると考えています。

ただし、それもあくまで制度移行や執行に要するコストと、それによってもたらされる便益との比較衡量において判断されるものであって、「地方分権を検討したけど、現実問題としてコストが大きすぎるのでやっぱりムリです」という場合もあり得ます。というか、それがないということは結論ありきだったということにしかならないので、議論としてそもそも不適切でしょう。ハローワークの地方移管の問題はこの典型と考えるべきで、「ILO勧告との関係とか、雇用保険と職業紹介のリンケージとか、労働の移動の自由を保障する観点からするとやっぱりムリ」という判断を他でもない民意が選んだ民主党が判断したわけですし、労働政策審議会から再三反対声明が発せられていることからしても、民主党には珍しく(?)妥当な判断だろうと思います。

もう一点付け加えておけば、哲学の味方さんが重要だと考えられている二点からは、財政の問題が抜け落ちていると思います。上述したとおり対人サービス(現物給付)は正の外部性を持ちますので、その地域だけでは便益を回収しきれないため、容易に経費を削減されてしまいます。医療費や住宅費に補助がある自治体には貧困層が集中しますし、かといって現金給付である生活保護を拡充すると、むしろ充実していればいるほど生活保護率が上昇してしまうという現象は大阪市などで指摘されているところです。結局のところ、現物給付である行政サービスはその地域でないと供給できないのに、その水準が地域ごとにバラバラになってしまうと、本来必要なサービス水準に要する財源をその地域だけでは賄いきれません。それを全国レベルで確保する財政政策上の手段が補助金だったり法律による義務づけだったわけで、この点でも地方分権を進めることのコスト(所得再分配が公平性を欠くために生じる経済・社会生活上の諸々のコスト)は現在よりも大きくなることが考えられるのです。

労働とか社会保障といった現実と照らし合わせる必要のある各論については、まずは現在の制度が人々の行動にどのような影響を与えているのか、その制度が辿ってきた歴史的経緯やコスト負担の仕組みはどうなっているのか、という点を踏まえた議論が必要です。しかし、まず結論としてチホーブンケンだとかチーキシュケンだとかいってしまうと、その時点で「総論だけで議論しているカイカク派とそれが好きな政治部記者」の言説にいとも簡単に取り込まれてしまいます。今回のハローワークの地方移管はギリギリのところで踏みとどまることができましたが、マスコミが政治部記者的な報道に偏重している現状では、またぞろ政治部記者のような方々がカイカク派を持ち上げて総論だけの議論を盛り上げるということは繰り返されるのでしょう。いやまあ、「過去何度も繰り返された失敗の原因を検証することにこそ、日本再生のヒントがある」とは、つくづく名言ですねえ。




*1 民主党の「一丁目一番地」には、ムダの削減とか公務員制度改革とか年金改革とか後期高齢者医療制度の廃止とかいろいろひしめいているので、どれが本当の「一丁目一番地」かわかりませんけど。まあ、そのうち「一丁目一番地一号」とか整理するんでしょうか。

このエントリーをはてなブックマークに追加

2010年12月06日 (月) | Edit |
子供のころ流行っていた「いじわるクイズ」で、「大阪城を建てたのはだれ?」「豊臣秀吉!」「ブー。大工さんでした!」というのがありましたが、いまもあるんでしょうか。「大阪城と豊臣秀吉」以外にも、「法隆寺と聖徳太子」というバリエーションもありましたが、ときの権力者が作れといえば、技術者がかり出されて壮大な建築物やら制度が作られるというのは古今東西を問わず見られる現象ですね。その建築物やら制度の構築を指示した為政者が称えられることはあっても、その構築物とか制度を構築した技術者が称えられることはほとんどないのも洋の東西は問わなそうです。たとえば、大阪城や法隆寺が残っていなければ、当時の建築技術がたいしたことなかったといわれるでしょうし、現存しているからこそ、豊臣秀吉や聖徳太子の権勢が現在に伝えられることになるわけです。

というようなことを考えているとき、とりあえず録画しておきながら、また官僚バッシングだけなんだろうなあと思って見る気がしてませんでしたが、NHKスペシャル「862兆円 借金はこうして膨らんだ」を見てみました。まあ予想どおりではありましたが、一つの典型的なマスコミ論調ということで備忘録的に起こしておきます。とりあえずの聞き取りですし、聞き間違いやタイポもあると思いますがご容赦ください。なお、発言者名の次に(証言録)とあるのは、この番組で資料とした証言録からの引用、コロンがあるのはインタビューやVTRでの発言、そのうち(当時)とあるもの以外は現時点での発言です。

〔37分ころ〕
 政界を離れ、神奈川県湯河原町で暮らす細川元総理。当時政権交代を実現し、国民から高い支持を得ていました。斎藤(注:平成5~7年当時の斎藤次郎事務次官)の消費税引き上げ案をどう受け止めたのでしょうか。

細川元総理
「とにかく食い逃げ(減税のみ実施)だけは絶対に困ると。ま、それは大蔵がいつも言うことですけど。だからもう、増減税一体論というものを譲らないという、そういうかなり頑なな姿勢でした。大蔵省だけ残ってね、内閣が潰れちゃうと、そんなことは、政権崩壊しちゃうと。そんなことはとても許せる話じゃないよと。そんな話は成り立たないということで、かなり強く言いましたね。」



大蔵省が残るということは、日本という国の財政が残っているということですから、コロコロと変わる内閣とか政権とかより遙かに大事ではないかと思うところですが、政治家の皆さんにとっては国の財政より政権の維持の方が大事なのでしょうね。
そんな細川総理に愛想を尽かした(?)斎藤事務次官(当時)は、連立政権内の実力者である小沢一郎氏から内々に承諾を得て国民福祉税の導入に動くわけで、この結果、周知のとおり実際に「政権崩壊」してしまいます。小沢氏が消費税引き上げに消極的になるのはこの経験も大きく影響しているのでしょう。

〔38分ころ〕
 このとき斎藤は、もう一つの問題「政治との関係」に直面します。証言録には、与党経験の浅かった細川政権に対する赤裸々な言葉が記されていました。

斎藤事務次官(証言録)
一番困惑したのは、政治の層の薄さと申しましょうか、いろいろなことがすぐに外に漏れてしまうことでした。自民党であれば、私どもが申し上げたことを、自分たちの考え方に練り上げた上で外に出すというプロセスがありました。しかし、その過程が全く無く、すべてがストレートに出てしまうことが多かったのです。」


政権交代によって与党の座についた元野党において政治の層が薄くなるというのは、17年前も現在も変わりはないようです。一連の情報漏洩もこうした現象の一環と考えるとわかりやすいのかもしれませんね。

〔40分ころ〕
 増税という、本来なら広く国民の理解を求めるべき問題。齊藤の行動はそれをおろそかにし、強行突破を図ろうとしたと、後に批判されます。

細川総理(1994年2月当時の会見)
「国民福祉税を創設をしまして、消費税を廃止をします。税率は7%ということでございます。」


 真夜中、唐突に発表された税率7%の増税構想。与党や国民の大きな反発を招き、一日で白紙撤回されました。その結果、減税だけが残ったのです。その減収分は結局、赤字国債の再開によって賄われることになりました。

細川元総理
「ま、大蔵のほうは、一つは内閣の支持率が高かったから、それでその勢いに乗って、この際消費税もという、そういう思惑もあったでしょう。無理心中でいけるところまでいくかという、そんな気持ちも若干はありましたけども・・・まあ、ちょっと、少し乱暴だったと思いますね。」


なぜ増税が必要なのか、国民の理解を得られず失敗した大蔵官僚たち。日本の借金は、その後も積み上がっていったのです。


うーむ、この辺は私の理解が及ばないところなんですが、国の財政よりも政権維持を優先した当時の内閣が減税だけを「食い逃げ」したわけで、大蔵省は財政再建のために税率をアップすることを画策していたのに、結局失敗したのは大蔵官僚だったと断定してしまうのは、どういう理屈なのでしょうね。

ここでスタジオに戻ってこんなやりとりが繰り広げられます。

〔42分ころ〕
首藤アナ
 税金は、私たちの生活に密接に関わっているものですから、私たち国民の理解がないと、成り立ちませんよね
城本解説委員
 そうですよね。だからこそ、税とは政治そのものであるといわれるわけですね。でも、大蔵省きってのエリートといわれた二人なんですけれども、借金体質から抜け出すためにはどうすればいいのか、そのことを真剣に考えていたことは間違いないと思うんですね。ただ、国民の理解を得るという点では、必ずしも十分とはいえなかったと思います。結果的に、このエリートたちの失敗が、国民の税に対するアレルギーを強くしてきたということもいえると思うんです。
首藤アナ
 でも、増税の前に、税金のムダ遣いをなくすべきかと思うんですけれども。
城本解説委員
 そうですね。いま「事業仕分け」に関心が集まっていますよね。これ、国民の間にはですね、行政がまず税金のムダ遣いをなくすべきだという声が高まっているからだと思うんですね。そうはいっても、関係者の利害がぶつかり合うために、何がムダかということを判断することは、難しい面があってですね、歳出を減らすというだけで財政を立て直すのは容易ではないというのも現実なんです。このため、大蔵省は増税にこだわり続けてきたというわけなんですね。


さらにさっぱりワケがわかりませんが、「歳出を減らすというだけで財政を立て直すのは容易ではないというのも現実」であるのに、それを実現しようという大蔵省が失敗したんだということは、「増税の前に税金のムダ遣いをなくすべき」という現実を見ない「民意」には何の疑問も挟まれないのでしょうか。現実を見ない民意があって、それが選択した政権交代だったからこその財政再建の失敗だったのでしょうし、その後自民党が政権に返り咲いたのも、そうした民意が選択した結果である以上、財政再建が理解を得られないのも当然の成り行きではないかと。

番組はこの後、増税できなかったのは大蔵官僚の失敗だと断定した上で、橋本行革での財政再建路線が政治主導で進められたことが肯定的に描かれながら、大蔵官僚に「自分たちにも責任がある」と言わせたところで証言録は締めくくられます。

〔48分ころ〕
 大蔵官僚が将来の財政の姿を描くことができなくなった借金急増の時代。一体どのようにして陥っていったのでしょうか。
 その前の年、平成9年。借金が増え続ける中、政治が財政の建て直しに向き合おうとしていました。橋本内閣は、大幅な歳出のカットに乗り出しました。歴代の総理大臣らを中心とした会議を開き、その権威を借りて反対意見を押さえ込んだのです。
 当時、官房副長官としてこの会議を取り仕切った与謝野馨衆議院議員。財政再建を政治主導で進めることが狙いだったといいます。

与謝野馨元官房副長
「中曽根さんもいれば、竹下さんもいれば、宮沢さんもいれば、大蔵大臣もいれば、現職の総理大臣もいれば、というんで、次官や主計局長なんてのはまったく抵抗できない体制でやったわけです。官邸が主導でものごとをやった。日本の政治史の中でもっとも珍しい、というか画期的な会議だったと思っています。」


 この時期、大蔵省は目立った動きができなくなっていました。当時の事務次官、小村武は証言録でこう語っています。

小村事務次官(証言録)
「私は常に政治主導と叫んでおりました。大蔵省主導という印象を与えると、反発が強く、うまくいかない。われわれは黒子に徹しようと呼びかけました。」


(デモ隊の女性によるシュプレヒコール「大蔵官僚は恥を知れー」)

 当時、大蔵省に対する風当たりが強まっていました。天下り先への税金投入。過剰接待などの不祥事。大蔵省は国民の批判に晒され、このころから政治の影に隠れるようになったのです。橋本政権は、6年間で財政国際から脱却するという財政再建計画を決定。さらに、消費税を5%に引き上げました。
 政治主導で財政再建に道が開けるかに見えたこの時期。別の危機が差し迫っていることに、大蔵省は気付いていませんでした。

(山一証券社長会見(当時)「私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから!」)

 拓銀破綻、山一証券廃業。大蔵省が先送りしてきたバブルのつけ。不良債権問題が火を噴き、金融不安が拡大。日本は底なしの不況へと陥り、財政再建も頓挫します。金融機関を監督していた大蔵省。そのトップだった小村は、次のように振り返っています。

小村事務次官(証言録)
「よもや金融危機がこんなに発展するとは、予想もしていませんでした。拓銀の財務状況が悪くなっていましたが、そのときでも心の底では、まだ大丈夫、何とかなるのではないかと期待を持っていました」


 金融危機を防げなかった責任を問われた大蔵省。発言力が急速に低下していきます。
 平成10年、経済再生を掲げ、小渕内閣が発足しました。大蔵大臣の宮沢喜一は、過去最大の景気対策を矢継ぎ早に打ち出していきます。

宮沢喜一大蔵大臣(当時の会見)
「金融再生のトータルプラン。それからもう一つは減税。与えられた時間の中で、できるだけ早く仕事をしなければならない。」


 中でも大蔵省が懸念したのは、巨額の減税。「財政危機を決定的にする」と反対の声も上がりましたが、結局受け入れざるを得ませんでした。加藤治彦元主税局長は、当時の様子をこう振り返ります。

加藤元主税局長
まさに判断。政治判断でありますのでね、それを当時の私の立場では、それを尊重すべきものだと、尊重せざるを得ない当時の判断だと受けとめていましたけどね。それ以上でもそれ以外でもありません。」


 さらに、連立政権の時代に入ったことが、財政に影響をもたらしました。連立を組むために各党の主張が次々と採り入れられ、予算が拡大したのです。このころの証言録からは、大蔵省の無力感が伺えます。

武藤敏郎事務次官(証言録)
「自由党が社会保障の税方式。公明党は児童手当。自民党も介護保険を徹底的に見直せとか、新幹線問題も一生懸命やられて、財政支出拡大の方向に競い合うようにして走りました。」


涌井主計局長(証言録)
「商品券を配りましょう。これは公約になっていたんです。連立の話が絡んでいたので、とにかく政治的なコストと考えてやってくれということでした。」


 証言録で当時の迷いを語った田波元事務次官。ここまで借金を膨張させてしまったことをどう考えているのでしょうか。

田波元事務次官
「これを回復するための努力が完全に力を発揮することができないまま、ずるずる来ていると」
インタビュアー
「ものすごいツケをそこで後世に残してしまった。その辺りについてはどういうふうに思いますか」
田波元事務次官
「そうですね。これはある意味でやはり、われわれを含めた責任があると思います」


 バブル崩壊から今日に至る日本経済の低迷。財政の番人、大蔵官僚たちは結果としてその責任を果たすことができませんでした
 借金膨張の時代に主税局長を務めた尾原榮夫。証言録の最後をこう締めくくっています。

尾原主税局長(証言録)
「どうすればよかったのか。悪夢のごとくよみがえるときがあります。」


それにしても、「拓銀破綻、山一証券廃業。大蔵省が先送りしてきたバブルのつけ。不良債権問題が火を噴き、金融不安が拡大。日本は底なしの不況へと陥り、財政再建も頓挫します。金融機関を監督していた大蔵省。」というのは、大蔵省の責任を強調するのにあまりある表現ですね。

なるほど、橋本内閣では政治主導で財政再建を進めようとしたのに、大蔵省が金融をきちんと管理しなかったから金融危機が発生して、そのせいで橋本内閣は減税だけを先行させる政治判断をして、連立を組んだ各党から財政拡大要求が出される羽目になったということでしょうか。・・・ん?1997年にはアジア通貨危機ってものあったんですが、これも大蔵省の責任だということなんでしょうね。というか、大蔵省がもっと強力に管理していれば金融不安は起きなかったとしても、「大蔵官僚は恥を知れ!」と叫んで大蔵省の権限縮小を求める民意があるのに、それを否定するような権限強化が政治的に可能なのかは大いに疑問ではありますが、NHKスペシャル的には大蔵省に責任があるといえばオールオッケーな感じです。

ところが、これだけ摩訶不思議な論理展開でまとめられたVTRを受けたにも関わらず、最後の締めくくりが至極まっとうな意見になっているのがさらに摩訶不思議なマスコミマジックです。

〔55分ころ〕
城本解説委員
 政治が迷走して、官僚も信頼を失うという中で、誰も責任を持って借金の拡大を止められなかったということがわかりますね
首藤アナ
 政治も大蔵省も、一体何をしていたのかといいたくなりますね。
城本解説委員
 ええ。実はこの後もですね、政権がコロコロ変わるといったような不安定な状況の中で、目の前の課題への対応ということに追われてですね、問題の先送りが繰り返されて、そして借金が膨れ上がる一方ということになっていったわけです。
 今回、私たちは50人以上の大蔵官僚に取材を申し込みました。この中には、「過去を振り返っても意味がない」と、「いまどうすべきかを考えることが先だ」という理由で応じなかった人もいました。しかし、本当にそうなのでしょうか。過去何度も繰り返された失敗の原因を検証することにこそ、日本再生のヒントがあるのではないかと思います。
首藤アナ
 過去に向き合う姿勢が大事だということですね。
城本解説委員
 そうなんですね。ただ、これは政治家と官僚だけの問題ではなくて、私たちにも必要なことだと思います。日本が借金をしてでも社会保障や公共事業の拡大を繰り返してきた背景には、国民の側がそれを望んだという面があることも否定できません。
 また、私たちメディアも官僚や政治の政策判断を十分にチェックしきれていなかったということにもなると思います。
 日本はいま、かつてない厳しい時代に入っています。人口減少や国際競争力の低下、そして雇用の悪化など、戦後日本の土台が崩れようとしているといっても言い過ぎではないと思います。今回の取材を通じて見えてきたのは、その場しのぎの借金をして将来に問題を先送りするのではなく、今こそこの国の形を真剣に考える必要があるということだと思います。


意味のない両論併記をすることによって、だれも反論のできない正論が創りあげられてしまうというマジックがある限り、たとえそれが「現実を見ない民意」をより加速するものであっても、マスコミは常に「正しい」ポジションを取ることができます。いやまさに「過去何度も繰り返された失敗の原因を検証することにこそ、日本再生のヒントがある」のですが・・・

このエントリーをはてなブックマークに追加