2010年06月28日 (月) | Edit |
前回エントリまで数回にわたって、山形さんの官僚評を引用させていただきながら官僚叩きの無内容ぶりを考えてみたわけですが、当の官僚はどう考えているかというと、『エンゼルバンク』で恒例となっているコラムに現役官僚の匿名コラムが掲載されています。下っ端のチホーコームインとしては異論がないわけではありませんが、この現役官僚氏のおっしゃることはおおむね妥当ではないかと思うところです。

ただし、最後の最後にちょっと危ない匂いをかぎつけてしまったのがこの部分です。

お任せ民主主義との決別を!
「官僚たちの夏」のような古き良き時代には、政治家やマスコミではなく、官僚自身が考える国益を信じて行動することが許されていました。しかし官僚に対する信頼が崩壊した今では、政治家の「民意」やマスコミの「世論」に反対する官僚は「抵抗勢力」とみなされます。だから、最近の官僚の多くは、選挙やマスコミ報道に、民意や世論は表明されていると考え、行動の指針としています。

官僚の行動に影響を与える方法。それは、政治家の言動やマスコミの主張が、本当にみなさんの気持ちを代弁しているのかチェックすることです。そして、もし違ったら、ブログやツイッターで、政治家やマスコミに異を唱えるのです。

国民が政治に関心をもち、自らの利益のみならず日本の将来を考える。それを政治家が受け止め、あるいは国民に方針を示して説得し、官僚がそれを具体化する。その政府の活動を、マスコミがジャーナリズムを発揮し、国民の監視に役立つように報道する。それが美しい民主主義国家です。そして、民主主義国家においては、国民の一人一人の意識が要です。今の日本の有り様は、政治家のせいでもなく、官僚のせいでもなく、マスコミのせいでもなく、国民一人一人が決めてきた(あるいはしっかりと考えてこなかった)結果です。

元米財務長官ウィリアム・サイモンは「悪い政治家をワシントンへ送り出すのは、投票しない善良な市民たちだ」という言葉を残しました。よい官僚、よい政治家、よいマスコミ、いずれも与えられるものではありません。みなさん一人一人が、日本の将来のことを考えて行動した分だけしか手に入らないのです。政権交代が起きた今こそ、「お任せ民主主義」と決別し、自覚と責任感をもった市民による「成熟した民主主義」を確立しましょう。それは、国民のみなさん一人一人にかかっています

第5回「私はセミにはならない!」5月20日(木)配信」(MORNINGMNGA.COM「5週連続Web連載!!官僚の言い分 中央官庁で働く現役官僚が熱く語る」

※ 太字大文字強調は原文、太字下線強調は引用者による。


「国民が政治に関心をもち、自らの利益のみならず日本の将来を考え」るべきであって、「それは、国民のみなさん一人一人にかかって」いるというのが「政治主導」を正当化する理屈だというのはこの現役官僚氏も十分に認識されているとは思います。しかし、そのことに依存した「政治主導」こそがカイカク病の猖獗を招いてしまったことに対する警戒心はないのだろうかと心配になってしまいます。

拙ブログでは繰り返し指摘していることですが、各種団体、特に労働者を代表する労働組合といった中間組織が政策に対する圧力団体として適切に自らの利害関係を代表することなしに、間接民主主義が機能することはないのではないでしょうか。中央官庁にいながらそうした利害関係の調整過程を軽視する姿勢は、なんとも危ないものを感じます。そういった調整の果てにやっとたどり着く漸進的な改善を軽視することは、結局は、不幸にもカイカク病に罹患された方々の症状をさらに重くこそすれ、カイカク病によって大胆に削減された所得再分配機能を回復することにはつながらないように思います。

ちょっと話が飛びますが、江戸時代の「お上」は、庶民にとっては確かに不可侵で遠い雲の上の存在だったでしょう。その遠い存在ぶりは、士農工商という厳格な身分制はもちろん、政策決定への関与は望むべくもないという点で、憲法で国民主権がうたわれる現在の日本とは比べものにならないほどの制度上の高い壁があったことからも明らかです。

そんな中で享保の改革で徳川吉宗が採用したのが目安箱(Wikipedia:目安箱)という制度でしたが、Wikipediaによると、これは下層民対策として取り入れられたということもできるようです。目安箱の成果として必ず取り上げられるのが、「赤ひげ」で有名な小石川養生所ですが、目安箱そのものが下層民対策として設置されたのであれば、もしかすると小石川養生所の開設は既定路線だったのかもなどと邪推してしまいますね。

この下層民対策としての面も持ち合わせていた(と思われる)目安箱は、その後明治政府初期まで存続したようですので、明治維新当時でさえも、目安箱によって「お上」にものを申して、それによって「お上」に対応してもらうというのが、庶民にとっての政治参加だったのだろうと思います。逆にいえば、そうした「目安箱による政治参加」から、立憲君主制による間接民主主義への移行が明治政府の大目標の1つであったともいえそうです。しかし、天皇に大きな権限を与えていた明治憲法下では国民の政治参加は大きく制限されていたわけで、結局のところは「目安箱による政治参加」から移行したというよりも、その仕組みは維持したまま、御前会議でいかに天皇の了承を得るかという手続きを整備したに過ぎないのかもしれません。

まあ、この辺の歴史的経緯はあまりよく調べたことがないので、以上は印象論の域を出ないのですが、「目安箱」でググると現在でも多くの政策提言系のサイトがヒットすることからすると、日本の国民にとっての政治参加のイメージは「目安箱による政治参加」の枠を超えていないような気もするところです。もちろん、困ったことがあればそれを声に出して訴えることは民意の発露として最大限尊重しなければなりませんが、それに対する処方箋を考えることはある程度のリテラシーやスキルを要する作業になります。たとえば、おなかが痛いと訴えるのは患者の役目ですが、その痛みの原因を探って適切な処方箋を施すのは資格を持った医者の役目であることに異論はないでしょう。

ところが、「目安箱による政治参加」のイメージを持った国民にすれば、声を上げることとそれに対する処方箋を求めることはセットでなければなりません。「現場を知らない官僚なんかにこの現実が分かるもんか! 俺のほうがよく分かっているんだから、俺の要求するとおりにしろ!」といえてしまうわけです。それが「政治主導」と結びついた結果が、バブル崩壊後のカイカク病の猖獗ではないかと愚考するところです。

という観点からすると、上記で引用した現役官僚氏の呼びかけは、その意に反して、「政治主導」によって自らの立場に対する信頼を失わせるという流れに棹さすことはあっても、冷静な政策議論を呼び起こしてそのために必要な官僚のリテラシーやスキルを生かそうという流れを作ることはなさそうに思います。まあ、現在の参院選で示されている各党のマニフェストなるウィッシュリストを見ていると、そんな流れができる気もしないわけですが・・・

このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーサイト

2010年06月26日 (土) | Edit |
参院選が始まって争点が消費税増税になっているらしいですが、そのブレーンとされる小野善康先生を巡る議論も盛り上がっているようです。それはそれとして、山形さんの小野先生批判と官僚評を比較して拝見してみると、一部のリフレ派の方々との微妙な距離が見えてきておもしろいですね。

1. 小野善康の論理構造


 というわけでまず、小野善康の景気回復論は、二部構成になっています。
  1. 失業があるのは無駄。だからなにもしないよりは無駄でも公共投資をばんばんして、そいつらを使ってなんかしらさせよう。
  2. でも現在の俗流ケインズ的なばらまき公共投資は無駄だからダメ。だから需要をつくる役に立つ公共投資をしよう。
 まず (1)は、みんなの考えている景気対策ではありません。みんな、俗流ケインズ式公共投資がまともな景気対策だと考えることに、いつの間にかなれてしまっています。でも、そうではないのは小野さんも幾度も指摘なさっているとおりだし、クルーグマンが「十字の時:公共投資で日本は救えるか」でも述べているとおり。不自然な公共投資の前倒しなしでも、ちゃんと需給がマッチして完全雇用に近いものが達成されるにはどうしたらいいか、というのがみんなの考える景気対策ですね。したがって、(1) が景気対策として成立するには、(2) が必須です。

しかし一方では、(1) と (2) は、よく考えると矛盾しています。(1) では、失業者を遊ばせておくくらいなら、無駄でもいいから公共投資をしろと言う。しかし(2) では、無駄な公共投資はダメだという。どっちなんでしょうか。これについてはまた後で。
(略)


2. 「よい」公共投資とは言うけれど……


(略)
 つまりアイデアを出せというなら(役人に対してであれ民間に対してであれ)、アイデアを出しやすくする仕掛けというのが必須ですが、それについて小野善康はなにも述べていません。これについても特に案はないということでよろしいですね。

 もちろん、山形としても、どういうアイデアで景気が回復するのかはわかりません(が、ぼくの立場については後述)。ただここで大事なのは、民間が信用できようとできまいと、小野さんがぼくの揚げ足取りについてなにを言おうとも、小野さんとしては需要を創造する投資がどんなものであるかについてはまったく見当がついていないし、さらには、そういうアイデアを(民間側でも公共側でも)出やすくするためのインセンティブや方策づくりについても、まったく無策である、ということです。

 つまり上の (2) の議論は、政策的には実在しないのです。(2) は政策提案ではなく、「みんながんばろう」式のかけ声でしかありません。
(略)


3. なにもしないよりまし……?


(略)
 失業保険を出すのと、失業者を使ってゴミ処理場をつくるのとどっちがいいか? これも小野さんのよく使う論法です。小野さんはゴミ処理場が圧倒的に「明白に」いいとお考えのようですね。

 つまりこれは、(2) をやれ、というのを弱い形で言い換えただけです。携帯電話みたいな需要をばんばん作るものではないにしても、 (2) は明白にできるんだ、素人判断でもわかる無駄でない投資はたくさんあるぞ、という主張です。

 がぁ、これはコスト便益分析して考えてみないとはっきり言えないんじゃないでしょうか。ゴミ処理とかダイオキシン処理とか、いかにも聞こえのいいものをあげて、湾岸戦争支援とか悪そうなものをスケープゴートにすることで、公共にできる明らかによいことがいくらもある、という印象を小野さんは作り上げます。でも、本当にそうなんでしょうか。もしそうなら、なぜこれだけ公共工事が前倒しされる中で、そうしたものに手がつかないんでしょう。
(略)


4. じゃあ山形、おまえはどうなのよ。


 さて、じゃあえらそうなこと言ってる山形はどうなのよ、ということなんですが、はい、ぼくは実はどっちでもいいのです。公共に金やるからアイデア出してよ、という話になったら、そのアイデアの弾出しの仕事がかなりぼくの勤め先に落ちてきます。減税だと、まあちったぁ金が戻ってくるでしょう(それに、リストラの噂も多少は軽減されるかも……)というわけで、どっちに転んでもあんまり実害はないんです。

 がぁ、どっちかと言われれば後者のほうがいいなぁ、とは思います。いまだって役人は、ない知恵しぼってるんだし、われわれだってその下請けでかなりしぼられているのです。もっと良い案考えろということは、すでに過労の役人を、さらに苦境に追いやるだけです。そしてそのしわよせは、かなりぼくんとこにも波及したりするのです。たとえば、アイデアを出すだけでなく、役人の考えた、あまりよいとは思えないばらまき公共投資のアイデアをよく見せるために、いろいろ余計な検討をさせられたり。
 ああそうだ、ちなみに「需要創造型の公共投資」というせりふは、どうたたいても需要見込みや波及効果が出てこないようなだめなプロジェクトを是が非でも正当化しなくてはならないときの、コンサルどもの最後の必殺奥義です。徹夜のあげくに、最後の瞬間に良心のうずきを眠気で押さえ込みつつ、この一言を報告書に涙を流しつつ書いたことが多々ありました。苦い涙と敗北感の切ない味わいを持つ一言なのです。ぼくが小野さんの議論に反発したくなるのは、それが根底にあるのかもしれませんね。が、閑話休題。
(略)


5. そもそも経済政策とはどんなものか。


(略)
 インフレ期待をつくりましょう、というのは、政策提案です。増税アナウンスしましょう、というのも政策です。PFIのようなスキームで、民間のアイデアをインフラ投資に活用しましょう、というのも政策です。減税しましょう、というのも政策です。国民に消費ノルマを課して、ためこんでるヤツをお互いに密告しあってラオガイ送りにするシステムをつくろう、というのも政策です。

 でも、みんなでいいアイデアを出しましょう、というのは政策でもなんでもありません。「それじゃダメだと言っている」でもダメなのです。なにがいいのか、だれが、なにをするべきかを、おおまかな枠組みでもいいから提示しないと。

小野善康さん、それってちょっと……」(YAMAGATA Hiroo: The Official Page
※ 以下、強調は引用者による。


山形さんの小野先生批判のポイントは、「いいアイディアがあれば、ムダな公共投資をしなくても、そちらに政府支出を集中することで景気回復が可能だ」という誠に当たり前の議論でありながら、だからこそ具体的な政策になっていないという点にあるのだと思います。以前取り上げた海老原さんの著書で、玄田先生の「中高年の多い企業では新採用は少なくなる」とう当たり前の議論では意味がないという現場感覚に根ざした批判がありましたが、小野先生の議論も同じように現場の具体的な政策を無視した失態を犯しているわけです。そして、そういった具体的な政策に落とし込まれない正論というのは結局、役人(とその下請けのコンサル)が徹夜しながら具体化していかなければならないわけですね。一部のリフレ派の方々が山形さんのこの記事を援用して小野先生を批判されていますが、山形さんはリフレーション政策とは別の論点から小野先生を批判されているように思います。

つまりは、役人のやっていることはムダな公共投資だといいながら、それを解決する処方箋はと問われると役人が何とかしろといっているに過ぎないわけでして、小野先生に対する山形さんの批判は結局、それを押しつけられて何とかしても、最後にはやり玉に挙げられてしまう役人(とその下請けのコンサル)の立場からの反論でもあるのだろうと思います。そしてそれは、チーキシュケンとかいわれながらも、その事務方にいて税金泥棒と日々罵倒されるチホーコームインとして大いに共感するところでもあります。

ここで、「地域主権が徹底すれば、住民が自ら参加して決定するので、役人に任せる必要はない」という反論が聞こえてきそうですが、私もその可能性がある分野があるだろうことは否定しません。回りくどい言い方ですが、下っ端公務員の経験上の個人的な観測ではありますが、それはごく一部の成功例を残す以外はほとんどうまくいかないだろうと考えています。端的に言えば、「自ら参加できる住民」といっても、退職後の高齢者か自営業か子育ての終わった専業主婦に限られてしまって(実際に地方議会議員はほとんどこの方々で占められています)、その方々が住民全体の利益を代表できるとは到底考えられないというのがその理由です。拙ブログでしつこく集団的労使関係の再構築と労働組合の本来の役割強化の必要性を指摘しているのは、大多数の現役で働く労働者の利害集約のチャンネルはそれしか存在しないと考えるからですが、まあその話は繰り返しません。

ついでに、拙ブログでも映画『県庁さん』になぞらえて天下りの効用を指摘したことがありますが、山形さんが指摘する天下りの効用も必読です。

 ですからちゃんと料金上げましょうね、というのが当然の答えではあるんだが……これに対して必ず出てくるのが「いや料金を上げたら人々の生活が圧迫される、けしからん」という話だ。貧しい人々はそんな金は払えない、絶対反対、電力会社が負担しろ、という話になる。そして救われないことに、政府や政治家たちが(特に選挙前になると)まさにそういうことを言い出して人気取りをしようとする。さらにはちょっとした汚職や業務上のまちがいを見つけて鬼の首をとったように騒ぎ、電力料金を上げるよりも電力会社が無駄をなくせばいいのだ、なんて議論が得意げに展開される。日本でもよく聞かれる議論だ。

 もちろん汚職も無駄もあるにはある。でも全体から見れば微々たるもの。発電コストの八割を燃料費が占め、それ以外も設備投資の占める部分が多い事業では、多少の「無駄」をなくしたところで、費用が半減したりするわけじゃない。そして電力会社はそれをちゃんと主張して料金引き上げを実現しないと先がないんだが……
(略)
 さてぼくは、以前に官僚の天下りも悪いことばかりじゃないという話をしている。それは官僚のやる気を出させるインセンティブとして、それなりに有効なんじゃないか。と。だが途上国の電力業界の状況を見ると、天下りには別のメリットがあることがわかる。もし電力会社がエネルギー省の天下り先になっていたら? エネルギー省の現職の役人たちは、天下り先OBたちに対してそんなに強いことは言えない。またOBたちのほうも、官僚たちに対してはっきり意見も言いやすくなる。現役の官僚たちも、天下り先がまるっきり経営のなりたたない赤字付け企業になって、解体とか民営化とかいう話が取りざたされるようになっては困るはずだ(もちろん旧国鉄のような例はあるので鉄壁ではないけれど)。安定した天下り先は確保したいと思うだろう。するとそんなに無茶はいわなくなるはずだ。必要な料金引き上げを認めるのも、今よりはやりやすくなるはずだ。

 それを見て国民はもちろん文句を言うだろう。佐高信みたいなやつが出てきて、官僚と天下り先が癒着して国民の生活を圧迫しているとかなんとか、ケチをつけることだろう。でも、いったい社会全体のためによいのはどっちなのかな

山形道場 第 103 段 今月の断想:天下りの別の効用 (『CYZO』2008 年 01 月)」(YAMAGATA Hiroo: The Official Page


法治国家である以上、民間企業であっても一定程度は政府の規制下にあるわけで、役所対策が必要な場面は必ず出てきます。そのときに役所の中で役所の仕事をしてきた役人が力を発揮することは自然の理であって、その比重が大きくなるのが、天下り先として批判の矢面に立たされる公益法人や社会的インフラを提供する企業(電力、銀行など)なわけです。カイカク好きな方々が主張されるような「天下りを根絶」してその効用をそぎ落とすのもまた民意でしょうけど、社会全体がその効用を失う可能性についても参院選の争点になればいいですね。(棒読み)

このエントリーをはてなブックマークに追加

2010年06月22日 (火) | Edit |
麻生政権と鳩山政権の影の目玉政策といえるのが緊急雇用創出事業という、政府が緊急的な仕事を作り出して失業者を雇う政策ですね。特に、政権交代後は「コンクリートから人へ」というスローガンもあって、補正予算で大幅に拡充されて各地方自治体に配分されています。

このような基金によって財源措置する方法は、三位一体の改革で地方に対する国庫補助金が一括交付金化される中で活用されるようになったわけですが、その触れ込みは「地方が自由に活用できる財源を増やすことによって、地方の実情にあった効率的な事業を実施できる」というものでした。経済学の2財モデルで考えれば、一方の財に対する価格補助(特定補助金)では、相対価格の変化によって代替効果と所得効果の両方が生じるため、これによる歪みによって社会的余剰に非効率(死加重)が発生するのに対し、所得補助(一括補助金)であれば相対価格が変化しないので所得効果のみが生じることとなり、歪みによる死加重は発生しないという理屈ですね。

ところが、そうした緊急雇用創出事業によって生み出されるのは短期雇用だけであって、たとえば地方自治体が自ら行うべき事業を委託したとしても、それによって既存の正規職員の仕事がなくなるわけではありません。というより、短期雇用という巧妙な仕組みを活用しながら、既存の正規職員に求められる仕事上のハードルを維持して、長期的な業務経験によって培われるスキルを擁する正規職員の仕事を守るのが緊急雇用創出事業ということもできるでしょう。

そして、このような緊急雇用創出事業の仕組みを知らずに、「役所の仕事だから社会の役に立てる」と考えてこの短期雇用で雇用された方には、年度が変わったら仕事がなくなるという不安定この上ない処遇が待っています。

自分の目指す職業を改めて振り返り、「地域、子ども、教育」という分野での就職活動を再開した。卒業後の4月から、最初は自治体が設置する小学生を対象とする学童保育の指導員の非常勤職員として採用されたが、月に16日の勤務で月給は手取り14万円という待遇だった。そのうち、社会教育指導員の空きが出たことを知り、試験を受けて合格して、教育委員会に転職。地域に向けて社会問題について提起するようなシンポジウムなどの企画運営を任されることになった。



「あなたが企画するから参加する」

 ところが、採用当初、「1年更新の非常勤職員で契約更新は4回まで」という条件での雇用だった。つまり、5年を上限に退職することが初めから決められていたのだ。月に120時間勤務。月給は額面が20万円に満たないため、手取りで17万円となり、ボーナスはない。5年経っても正職員になれないばかりか、職を失う。それでも久美さんは「就職氷河期に贅沢は言えない。好きな仕事ができるのだから、ここでできる限りを吸収して、次へのステップにしよう」と割り切った。

 働き始めると、すぐに仕事に夢中になった。何度も会を重ねると、地域で顔見知りが次々と増えていき、個人的な話もするようになった。「こうやって、自治体職員が自ら人の輪を作っていけるんだ」ということを実感した。中には「久美さんが企画する会だから参加するんだ」と言ってくれる年配の人もいる。そんな言葉を聞くと、自分の存在が何か社会に役に立っている気がした。人とのつながりが着実に広がっていく。殺伐とした東京の中でも、昔ながらの人間関係を新しく作っていくことは十分できると感じた。

 ところが、夏の予算編成の時期になると、職場では「この事業、来年度はなくなるかもしれない」という声が聞こえてくる。その度に、自分の仕事がなくなる心配をした。そして、「地域で蓄積された人間関係が、職員が非常勤だからといって5年で自動的に『はい、さようなら』ということでいいのだろうか」という疑問を強く感じるようになった。

若者が「地域再生」を諦める時――。自治体非常勤職員の24歳女性のケース 1/3ページ(2010年6月14日(月))」(日経ビジネスオンライン

※ 以下、強調は引用者による。


最近の厳しい雇用情勢では、「雇用問題を何とかしろ!」という住民の方やその支持を受けた議員の方々がいろいろな雇用対策を要求されます。たとえば、一時期内定取り消しが問題になりましたが、「内定取り消しはけしからんが、そもそも新規学卒者に対する求人が少ないし、就職しても定着率が悪いから何とかしろ」とう要求があれば、それに応じて新規学卒者の就職を支援する非常勤職員を雇用することになります。上記の記事の山本さん(仮名)が採用された「社会教育指導員」なる肩書きからすると、この非常勤の職も緊急雇用創出事業で財源措置されたものではないかと推測いたします。

この緊急雇用創出事業というのは、国の緊急雇用対策の切り札として景気の後退期には繰り返し導入されているもので、戦後の失業対策事業が約半世紀にわたって失業者が滞留することとなった反省を踏まえて、とにかく「景気回復までのつなぎ雇用であって、あくまで短期雇用であること」が強調されていたりもしますが、今回の緊急雇用創出事業は平成23年度が終了年度となっています。まあ緊急雇用創出事業に限った話ではありませんが、特に緊急雇用創出事業のこうしたスケジュールを踏まえると、「夏の予算編成の時期になると、職場では「この事業、来年度はなくなるかもしれない」という声が聞こえてくる」という話も当然の成り行きではあります。

とはいえ、緊急雇用創出事業は初めから期間が明示的に限られている点ではまだマシかもしれません。それより深刻なのは、先進国でもトップクラスに公務員の少ないこの国で、さらに公務員削減を掲げる政策が与野党を問わず目玉政策として掲げられています。ということはつまり、この国では財政赤字や(誰にとってのムダか分かりませんが)「ムダの削減」が完結しない限り、正規職員を含めた公務員数は減っていくことになるわけで、それは実は正規職員についても「夏の予算編成の時期になると、職場では「この事業、来年度はなくなるかもしれない」という声が聞こえてくる」ということもあり得るということを意味します。

「身分が安定している公務員の仕事がなくなるのは民間感覚を肌身で感じるためにいいことだ」と考える方々もいらっしゃるかもしれませんが、拙ブログでは繰り返し指摘しているように、公務員は確かに身分は保障されているものの、業務が減ったことを理由として免職処分することができる「分限」処分が規定されていることから、雇用そのものは保障されていません。そして、その人員削減が本当に地域住民の望んだことなのかという点も、突き詰めて考えるとずいぶん怪しいものです。

 際立った産業もなく、農林水産業も衰退する地域だった。その地域の前地方議員は「役所は上(総務省)を見て、定員削減、人件費削減を達成しようと無理をしている。若い者がその犠牲になっていることを無視はできない」と憤る。そして、「収支報告の決算上では人件費が減ったように見せかけるために、給食事業なども民間委託したが、かえって自治体直営でやっていた頃より委託費が高くつく矛盾が起こっている」と指摘する。

(略)

 そもそも経営の効率化を求める委託では費用を抑えることが目的化される。一方、それまでと同じ業務を少ない予算で委託先が利益を確保するには人件費を抑制することになり、そこでは結果、ワーキングプアが生まれてしまう

 そして、自治体が住民も含め自ら必要だと真に判断したわけでなく、国の命令を気にしてやむなく民間委託の流れに乗るのであれば本末転倒。そこには行政からの委託に食いつく民間企業が集まり、新たな利権が生じる。公務員を削減していくということは、少ない人数でこれまでの業務をこなし過労に追い込むか、よほどの管理体制を整えない限りは委託が増えることによる不正が起きる可能性は否めないのだ。

若者が「地域再生」を諦める時――。自治体非常勤職員の24歳女性のケース 3/3ページ(2010年6月14日(月))」(日経ビジネスオンライン


中央政治の政治主導によって公務員削減は進められていますが、それが地域の雇用の受け皿を縮小させていることについては、地域の住民による「地域主権」なるものは認められていないわけです。まあ、「三倍自治」で自主財源以上の事務を担っている地方自治体が、「地域主権」というお題目を唱えれば突然自主財源だけで運営されるようになるはずもなく、「地域主権」を目指す理由なんてこれっぽっちもないともいえます。そう考えると、与野党問わず「地域主権」を相も変わらず主張し続けるこの国の政党は、いったい何を目指しているのかますますワケが分からなくなりますね。

このエントリーをはてなブックマークに追加

2010年06月18日 (金) | Edit |
再度HALTANさんのところで取り上げていただいておりました。(レスが遅くなりまして申し訳ございません)


山形さんは、以前は官僚叩いても何にもならないとい書いていましたが、
http://cruel.org/other/stupidburo.html


それは山形さんが直接に書いたものではなくて、菊池信輝さんが書かれたものですよね?

[無題]「リフレ派(ネットリフレ派)」は永遠の言うだけ番長か?(2010-06-14)」(HALTANの日記


大変失礼いたしました。山形さんのサイトで「官僚」を検索するといろいろヒットしますが、内容を確認せずにURLを張ってしまいました。山形さんによる官僚評は、以下がわかりやすいでしょうか。

 ぼくは東京大学を出ているので、知り合いのかなりの部分はいま評判の悪い官僚という仕事についている。確かにあれは変な職業で、こないだまでコンパで醜態をさらしていたあのXXが、いつの間にやらナントカ行政の専門家とかいうことになって、会社の先輩とかがそいつをさん付けで呼んでいて扱いに困るとか、あるいは院を出て就職して最初の仕事である県にいったら、同期のあのZZがそこの税務署長(しょしょしょ署長!)なんぞにおさまっているではないか! とかいう理不尽なことはいろいろあって、あいつらが官僚なら日本の将来真っ暗だぁワッハッハ、というのは同窓会の定番のネタではあったのだ。
 だから、最近はやりの官僚バッシングは、変だなと思いつつも、まあ納得できないわけじゃなかった。そもそもあんな連中に期待するのがまちがってるよぉ、だからそういじめてやるなよ、とは思ったけれど。たとえば小室直樹という人の『日本人のための経済原論』という本がある。ひどい本で、前半では経済学の勉強をしないとダメといいつつ、後半になると、日本はちゃんとした資本主義じゃないから、ふつうの市場を前提にした経済学は適用できないと平気でのたまう。だったら前半のご託はなんだったんだ! そしてじゃあなにがいけないのかというと、官僚がすべてわるい、官僚が腐敗してる、官僚を粛正しないと日本はたちなおれない、というような話をする
 だけれど、そうなんだろうか。

(略)

官僚バッシングって、なんか意味あるの? お手軽な悪者探しをして、わかりやすいスケープゴートに責任おっかぶせて、それで悦に入っているだけじゃん。いまの官僚がそんなに最高だとは言わない(だってしょせんはぼくの同級生どものなれの果てだぜ)。でも、かれらが腐敗したために日本の経済が停滞してるわけじゃあない。そもそも、きれいなだけで政治ができると思ってるの? 国がまわると思うの? だからぼくはかつての同級生や先輩後輩たちに、深く同情しているのだ。あんな安月給で、あんなひどい労働環境で、あんなに長時間こきつかわれて、それでなんでもかでも悪者扱いじゃあかなわないよなあ。

「第4回 官僚いじめもほどほどにね。 」(山形浩生の『ケイザイ2.0』)

※ 以下、強調は引用者による。


さらに以下の記事はより深く官僚の待遇を危惧されています。並のリフレ派がこういうことを書くと一部のリフレ派の方々に破門扱い(?)されてしまうかもしれませんけど、さすがに山形さんは別格なのでしょうね。あまりに深く憂慮されているので、ほぼ丸々転載してしまいます。

 また官僚の優劣は、確実に国の行政サービスの優劣にはねかえってくる。多くの人は海外出張から日本に帰ってきて、その各種制度やサービスの優秀さに涙したおぼえがあるだろう。その相当部分は、日本の官僚たちや役人たちが優秀で、それなりの仕事をしてくれているおかげでもある。

 官僚バッシングをする人は、それがどんなにありがたいことか理解しているだろうか。日本のそれなりに暮らしやすい環境を維持するためには、今後も優秀な人材が霞ヶ関その他にきてくれないと困るのがわかっているんだろうか。

 そしてかれらはそれにふさわしい待遇を受けているか? 霞ヶ関の役所をのぞいたことがある人なら知っているだろう。ゴミゴミした古い執務室の狭い机に資料を山ほど積んで、安い給料なのに残業まみれでかれらは働いている。もちろん、個別には恨みのある人も多いのだけれど、全体としての官僚にぼくは頭を下げざるを得ない。

 でも、最近の天下り禁止その他は、こうした人々をさらに締め付けるものだ。もちろん、天下りそのものの弊害はある。だがあれもダメ、これもダメ、給料も低いまま、執務環境は劣悪、残業も死ぬほど多くて、天下りもなし、接待も受けちゃダメ、人数は減らせ、仕事はもっと増やせ、しかもいい仕事をしてもろくに感謝もされず、ちょっとでもミスをしたら大バッシング――いったいだれがそんな職場にきたいと思うだろうか?

 いや、そんなに人はこなくていい、役人は多すぎるからもっと減らして小さな政府を目指すんだ、という議論もある。これを主張する人は、まず日本の役人が世界的に見てもそんなに多くないことをちゃんと調べていない。さらにそういう人が「小さい政府」というとき、それは行政サービスを減らせということではなかったりする。サービス水準は今のままで、人だけ減らせ――そりゃムチャだ

 それどころか、最近の報道の風潮を考えてみよう。薬害エイズが、狂牛病が、タミフルが、耐震偽装が云々。みんな、なぜそれをちゃんと規制できなかったのか、という話だ。もっと規制を厳しくし、その監視運用を厳重にしろ、という話だ。役人にもっと働けということだ。だったら、お金をかけるか、頭数を増やすか、優秀な人材を集めるか、そのどれかは必要になる。いや仕組みを工夫すれば、という人もいるけれど、それだって仕組みを考える人材がいるんだって。どうやってそれを担保する? いじめるだけでは人はどんどん逃げるばかりだろう。

 天下りを廃止したいならそれは結構。確かにそれは、変な利権や癒着で制度をゆがめる面はある。でもそれだけを見て天下りが持っていたよい機能まで殺すのは愚の骨頂だ。途上国でも警官や役人の汚職に対しては、取り締まりを厳しくするだけじゃだめだ。同時にかれらの給料をあげて、汚職に頼らず生活できるようにするのが重要だ。日本でも同じだろう。締め付けるばかりじゃなくて、待遇改善も考えないと。天下りがなくても後々よい生活が保証され、能力のある人がやる気を発揮してくれるような環境を作らないと(たとえば給料をうんと上げるとか)。つまらん官僚いじめで喜んでると、下手をすれば国が滅びますぞ

「連載 5 回 いじめるだけでは官僚は逃げる」(『Voice』2007 年 6 月 pp.114-5)


こうした指摘を拝見した後で、次のような記事を読むとゲンナリすること請け合いです。

地方公務員共済のホテル、赤字穴埋めに巨額公金(6月13日3時6分配信 読売新聞)

 総務省所管の「地方公務員共済組合」が経営するホテルの赤字を穴埋めするため、自治体が拠出した公費で不適切な補填(ほてん)を続けていることが、同省の調べでわかった。

 2004~08年度だけで総額193億円に上り、組合員の積立金からも同額を投入していた。補填は約40年間にわたり続いており、公費だけで700億円以上がつぎ込まれたと試算している。同省は、不採算ホテルの閉鎖など抜本的な改善を指導する方針だ。

 同省によると、組合が経営するホテルの赤字総額は04年度以降、毎年65億~97億円。08年度は91か所のホテルのうち、黒字は2施設。赤字穴埋めのため、公費35億円と職員の共済積立金35億円の計70億円が76施設に投入された。

 最高は、当時、37施設を所有していた、道府県職員が加入する「地方職員共済組合」の11億8200万円。

 補填は、人間ドック受診費用など組合員の健康増進のための資金を管理する経費や、組合員の住宅ローン資金を管理する経費から繰り入れ名目で行われた。いずれも自治体が拠出している公費と、組合員の積立金で折半して賄われている

 組合からホテルへの資金繰り入れについて、総務省は、割引料金で利用した組合員の宿泊費を補助する場合に認めているが、赤字穴埋めは対象外としている。同省は、補填は1960年代後半から行われているとしており、「公共のホテルであっても民間と同じように独立採算が原則。毎年赤字を垂れ流すような施設は廃止すべきだ」と指摘する。

 北海道市町村職員共済組合は今年度から、赤字補填を取りやめた。経営していた二つのホテルの赤字は、毎年計1億2000万円前後。実際には赤字額を上回る資金を組合から繰り入れてきたが、「公費投入は住民の理解を得られない」と判断した。3月末で閉館した札幌市のホテルは、12年前に35億円を投じて建て替えたばかり。だが、売却額はその10分の1程度だった。

 土居丈朗・慶大教授(財政学)の話「赤字を公費で埋めるという考え方は不適切であり、非効率な経営につながる。公的な組織がホテルを持つ必要性も希薄で、事業自体を見直すべきだ」

 ◆地方公務員共済組合=地方公務員の年金や福利厚生の業務を行う共済組織。総務省所管は62法人あり、全都道府県と区市町村の職員約167万人が加入する。4月1日現在、和歌山、熊本、沖縄の各組合を除き、経営するホテルは84施設で、9割が赤字経営。

最終更新:6月13日3時6分


もちろん、「公務員の宿泊施設に公費が使われているからけしからん!」という意味でゲンナリするのではなく、労使折半で運営する福利厚生施設(とはいいながら、一般の方も少し割高ではありますが使えます)に使用者である国民が拠出することが「不適切」だと指摘されていることです。民間感覚でいうなら株主が出資した資本金をもとに経営されている会社が、自ら雇用する従業員の福利厚生費を負担するのは何ら不思議ではない、というより従業員のモチベーション維持や健康管理のために会社が金を出すのは当然と考える方が多いのではないでしょうか。ところが、「税金泥棒」ともいわれる公僕の話になると、「なんで公僕なんぞのために税金を使わなければならないんだ」という古代ギリシャの市民のような論理が支持を得てしまうわけです。

拙ブログでは、自らも労働者でありながら、周りの労働者に対して「サビ残に文句を言うやつなんか使えねーな」とか「仕事のために私生活を投げ出してこそ労働者の鏡」という経営者のようなことをいう方々を「経営者目線」という言葉で揶揄してきたりしましたが、そういった意味では、実際に労働者を雇うだけの負担とリスクを負ったことのない労働者自身が一番危険なのかもしれませんね。

このエントリーをはてなブックマークに追加

2010年06月09日 (水) | Edit |
前々回エントリで取り上げさせていただいた海老原さんの新著ですが、最終章に拙ブログでもおなじみの湯浅誠内閣府参与(再任)との対談が掲載されていて、ここでも印象的なやりとりがあります。

海老原 常用型は、結局、派遣会社の正社員じゃないですか。そうすると同じなんです。相当なレベルじゃないと派遣会社に雇ってもらえない。入口は狭まってしまいます。もうひとつ。常用型は本人もすぐ辞められないんですよ。派遣先に行って「この会社はイヤだ」と2日で辞めたら。派遣先で怒られなくても、派遣元つまり会社に戻って上司にこっぴどく怒鳴られます。そこは、やっぱり正社員なんだと思います。
湯浅 いや、私は基本的には常用型じゃないと困ると思っています。期間の定めがある登録型は、「例外」であるべきです。登録型だと、派遣先が中途解約して「6か月契約の派遣を3か月で切る」といった場合も、クライアントである企業のほうが強いですよね。派遣会社は派遣先には損害賠償請求ができずに、泣き寝入りする。そのツケは労働者に転嫁されて、給料が3か月分しかもらえずにクビ。海老原さんと私は見ている現実が違うと思うんだけど、ウチに相談に来る人は派遣でかなりひどい目に遭ってますよ。

pp.280-281
※ 太字下線強調は引用者による。

「若者はかわいそう」論のウソ (扶桑社新書)「若者はかわいそう」論のウソ (扶桑社新書)
(2010/06/01)
海老原 嗣生

商品詳細を見る


この部分は、「対人関係が苦手な人を救うのが『派遣』だ」という海老原さんと、「切られても泣き寝入りの登録型派遣は認められない」という湯浅氏の見解が対立している部分なんですが、個人的に「自分が見ている現実がこうだから、現実はこうだ」という主張は信用しづらいと考えています。以前、小島先生に対する批判を取り上げたときにも書きましたし、「敬うべきモデル」について取り上げたときに書いたことにも通じますが、目の前の現実だけに基づいて帰納的に世の中を理解しようとする姿勢は、なまじ自分の目で見ているだけに修正がきかないという点でかなり危険な態度といわざるを得ません。引用した部分でいえば、確かに派遣切りで酷い目にあった方はいらっしゃるでしょうが、それが登録型派遣に起因することかといえば必ずしもそうではないわけです。

というか、常用型派遣で雇用されている方というのは、まさに専門26業種業務といわれるような翻訳とかITプログラマといった、一芸に秀でた人材として短期プロジェクトで必要となる職種に限られているのが実態でしょう。すべての派遣が常用型でなければならないというのであれば、すべての派遣労働者が上記のような特別なスキルを持ってプロジェクトからプロジェクトへ渡り歩けるようにならなければなりません。そしてそれは、現に失業している方にとってはハードルが高くなることにしかならないわけです。

労働者派遣の本当の問題は、上記のような特別なスキルを持った労働者だけが対象だというフィクションを前提とした上で、そのことを理由として「通常業務に当たる正規労働者」の雇用を保護しているという点にあるので、専門26業種業務に限定するというフィクションがある限り、調整弁としての派遣労働者を保護するという発想に至らないということは、hamachan先生が常々指摘されていることですね(最近ではこのエントリとか)。海老原さんは、「正規労働者の中にも派遣労働者と同じようなストレスの少ない仕事を望む/せざるを得ない人がいる」という点を突破口として、派遣労働者として会社で働く経路から、そのまま正規労働者になるも、周辺的正規労働者になるも、それぞれの事情に応じて選択できる制度として「公的派遣」を提唱されているのだと思いますが、湯浅氏にはその点が伝わらなかったようです。こういう場合には、「見ている現実が違う」ということをいってしまった側がより狭い範囲の「現実」しか見ていないことが往々にしてあります。目の前の現実に入れ込みすぎてしまったために、自分の見ている現実以外に現実があることが想像できなくなっている状況といえそうです。

という観点から本書の冒頭で取り上げられている方々を拝見すると、意図的な(?)引用をしている門倉氏、あるいはデータのみを見ている(と思われる)玄田先生と比較して、一面的なとらえ方で極論ばかりを主張する城氏も、なまじ企業内の人事の現場にいたために、この「自分の見ている現実以外に現実があることが想像できなくなっている」状態に陥っている度合いが高そうです。本書でもよく見てみると、門倉氏、玄田先生に比べて城氏に対する批判のパートの紙幅が各段に多いですし、「城さん、あなたはこの構図もすべて理解している。だからあえて、眠れる1割を揺り動かすために、精力的に発表し、熱く語り続けるのではないか?」(p.89)という海老原さんの問いかけも、「あなたの見ている現実が歪んでいるからこそ、そうして熱く語れてしまうのではないか?」という問いかけにも思えてきます。

まあこれは穿った見方かもしれませんが、自戒を込めて自分の目の前の現実を俯瞰する努力を怠らないようにしたいと思った次第です。

このエントリーをはてなブックマークに追加

2010年06月06日 (日) | Edit |
himaginaryさんのところで大変印象深い言葉があったので備忘録的に引用させていただきます。

一方、日本の経済学界では、逆に、リフレ派と反リフレ派がここ十年以上熾烈な論争を繰り広げてきた半面、日本経済の構造改革の必要性や市場主義の重視という点に関しては実は両派の差はそれほど無いように思われる。反リフレ派は、リフレ政策を構造改革を阻害するものとして攻撃するが、リフレ派には、むしろ構造改革の前提条件を整えるものとしてリフレ政策を推進する人が多いように思う*2。クルーグマンのように高い最低賃金や強力な労働組合や高水準の最高税率に郷愁を感じる人は、いわゆるリフレ派の中にはあまりおらず、むしろマル経の流れを汲む人に多いのではないだろうか。

(略)

あるいは、日本で景気回復が進めば、リフレ派対反リフレ派の論争は影を潜め、労働政策や所得再配分政策に関する論争が前面に出てくるのかもしれない。願わくば、早いところそうした状況を目撃する贅沢に浴したいものだが…。

*2:米国で日本のリフレ派に最も主張が近いサムナーも、上記の論争に見られるように構造改革論者という顔を併せ持っており、日本の問題はやはり構造問題、ということを最近時々言っている(cf. 上記論争の5/23エントリや、この4/3エントリ)。

※ 以下、強調は引用者による。
レーガノミックスは経済成長をもたらしたか?(2010-06-01)」(himaginaryの日記


「労働政策や所得再配分政策に関する論争が前面に出てくる」状況を目撃することは贅沢なことなんですね。拙ブログはそればかり書いているので、しばらくは前面に出ることなくひっそりと胸の内を書いておくことに専念できそうで、これでひと安心・・・とも言ってられないのがつらいところです。

これは常々疑問に思っていたことでもありますが、ティンバーゲンの定理でもマンデルの定理でもいいんですが、リフレーション政策はどのような所得再分配機能に割り当てられるのでしょうか(以前はヘリマネによる流動性供給がその機能かと思ってましたが違いそうですし)。むしろ、一部のリフレ派には根強いチホーブンケンやらキセーカンワやらの支持者がいるようですし、「次善の政策として,所得分配に大きな影響を及ぼす政策の中から,資源配分の効率性に及ぼす影響のもっとも小さな政策手段を選ぶ」とおっしゃるにしても、個々の家計の流動性制約を緩和できる政策は金融政策だけではないわけですから、特に現物給付による社会保障政策の拡充が必要ではないかと愚考するところです。

たとえば、リフレ派の先生はこういうこともおっしゃるようですが、

講義で分かったこと。

社会福祉とか社会保障って経済学の理論にうまく組み込めない。*1

*1:私注、経済理論上の特異点なの?ホーキングがビッグバン特異点を虚数時間と組み合わせて扱えるようにしたように、同様の操作が可能かなあ?

■[政治][経済][考察]シノドスセミナー出席しました(2009-11-08)」(WATERMANの外部記憶


個人的には、うまく組み込めないといって「だからリフレだ」と話をそらすのではなく、それをどうやって経済理論によって説明するかを考えている権丈先生に経済学者としての矜持を見る思いがします。

「平等・格差は問題だ、貧困問題は深刻だと言うくらいで、世の中動くもんじゃない。18 世紀の半ばに産業革命が起こってすぐから、深刻な貧困問題を訴える社会運動家は、ずっといた。だけどな、格差問題、貧困問題を解決するためには、所得の再分配が必要なわけで、その再分配政策が大規模に動きはじめるのは、高所得者から低所得者に所得を再分配するその事実が、成長や雇用の確保を保障するということを経済理論が説明することに成功したときからだ。現状の所得分配に対する固執はいつでもどこでもとてもおそろしく強く、格差は問題だ、貧困問題は深刻だと言うくらいで、所得分配のあり方が大きく動くほど、世の中は甘くないんだよ」

勿凝学問189 「乏しきを憂えず等しからざるを憂う」ようなできた人間じゃないよ、僕は 日本財政学会シンポジウムでのワンシーン(2008年10月29日)(注:pdfファイルです)」(Kenjoh Seminar Home Page


・・・こういう経済学者が増えるというのは、確かに贅沢かもしれませんね。




まったくの思い込みかもしれませんが、himaginaryさんの最近のエントリは、一部の「リフレ派」と「反リフレ派」のそれぞれが主張するコンセンサスが、実はその陣営の中にあってもそれほど盤石ではないのではないかとの問題提起をされているようにお見受けします。個人的には、一部の「リフレ派」の方が資源配分機能も所得再分配機能も一緒くたに論じてしまうのを拝見するたびに「それが経済学の標準的な議論なのだろうか」と感じていたところなので、その問題提起には大いに共感するところです(himaginaryさんにはドラエモンさんのエントリでご紹介いただいたということもありましたし)。

ただまあ、この共感自体が、

昨日のエントリに書いたように、経済学を巡る議論では、しばしば経済学者の「コンセンサス」や「標準的見解」をデウス・エクス・マキナよろしく持ち出して、それに反しているからお前は間違いだ、という形で決着を図ろうとする人が多い。しかも、良く聞いてみると、そのコンセンサスなるものの内容が人によって微妙に違っていたりする。

経済学者のコンセンサス(2010-06-05)」(himaginaryの日記


といわれてしまうのかもしれませんけれども。

このエントリーをはてなブックマークに追加

2010年06月05日 (土) | Edit |
海老原さんの新著を早速拝読しました。それにしても「ものすごい勢い」((c) hamachan先生)ですね。


「若者はかわいそう」論のウソ (扶桑社新書)「若者はかわいそう」論のウソ (扶桑社新書)
(2010/06/01)
海老原 嗣生

商品詳細を見る


今回は第1章で、門倉貴史氏、玄田先生、そして城繁幸氏が俎上に載せられて、それぞれデータ引用の(意図的な?)粗さ、妥当すぎる結論、一面的なとらえ方が批判されています。前2者はこれまでの著作でも批判されていましたが、いよいよ城氏も滅多斬りか・・・と思いきや、実は城氏については好意的な(というよりさらに親近感のある)トーンで書かれていて、城氏に対してroumuyaさんと同じ印象を持っている者としてはかなり意外な感じでした。

 日本型の就活には問題点が多い。それは、ネット型になって、さらに悪くなっている。日本型の年功序列システムには問題が多い(ただ、こちらは多少改善が進んだ)。
 ここまでは、城さんとほぼ同じ意見だ
 だから彼が、反貧困の見方をしたがる某エコノミストとネットでバトっていたりすると、「城に一票!」と言いたくなるときもある。

※ 以下、強調は引用者による。
海老原『同』pp.49-50


前掲のromuyaさんのリンク先でも取り上げられている城氏とモリタク氏の論争については、互いに「我こそが労働者の味方なり」といいたがる割に、相変わらず集団的労使関係に一切の言及がない辺りで、個人的にはどっちもどっちのような気がするところではあります。まあ、本書の玄田先生に対する批判の中にも「データ分析のみに重きを置くアメリカ流「レイバー・エコノミスト」」という言葉が出てきますし、企業内の人事の現場を知っている点においてはモリタク氏よりはマシということなのかもしれません。

そんなことはどうでもいい(?)んですが、みんなが分かっていながらマスコミでは誰も指摘しないポイントは、次の2点でしょう。

 大学が増え、大学生が増え、さすがに彼らも「大学を出たんだから、大企業でホワイトカラーを」と思いだす。すると、企業側の受け皿が不足し、若年未就業者が増える
 この状況を、なぜ、「企業側の人件費削減による正社員切り」とマスコミは報道するのか。
 決して大企業は採用を減らしてはいない。大学生が増えすぎたことが第1の問題であり、第2の問題は、中堅中小企業や販売・サービス業を志望しない、という嗜好の問題がある。そして、第3の問題。こちらは、「大学無試験化」により、小中学校の基礎知識さえ習得していない社会人不適格な大学生の増大。これでは大手の採用試験をパスできない。
 就職氷河期の内実は、こんなところだろう。

海老原『同』p.213


 ここでまた、反論を唱える人がいるだろう。
 「言うとおり、大学を作らず、大学進学率が低いままだったらどうなるか? 製造業、建設業、農林業、自営業・・・こうした受け皿がなくなった現在だと、高卒無業者が大量に発生するだけではないか? これじゃ、単なる問題のすり替えだろう」
 この反論はかなり正鵠を射ている。そう、就職問題は最終的にここに行き当たる。
 製造業、建設業、農林業、自営業、事務職正社員、こうした仕事が、極端に世の中から消えている。
 これらの職務に共通する要素がある。それは、「社外スタッフや顧客との折衝が少ない」仕事ということだ。さらに製造・建設・農林に限るともっとこの傾向は強くなり、「社内スタッフともそれほど折衝がない」仕事となる。
 どうだろう。こうした仕事がどんどんなくなった。その結果、社会で生きていくには「対人折衝」が必須となった。だから。
 そう、引きこもりやニートが増えた理由はここにもあるのではないか?

海老原『同』pp.116-117


学歴社会がけしからん!という世間の声に応えて「ゆとり教育」が取り入れられたものの、現実に起きたのは「大学の乱造」とそれによる「本来なら大学に入れない」層の大学進学率の上昇であったわけです。誤解を恐れずに厳しい言い方をすれば、以前は高卒で就職していた「本来なら大学に入れない」層が、名ばかりの「高学歴」を得てしまったために、本来なら自分が高卒の時点で受け入れられていた単純労務には、就活の最後の最後まで見向きもしなくなっています。それどころか、彼らは「高学歴」である以上大企業や人気企業にターゲットを絞った就活をするため、当然思わしくない結果が続くこととなり、内定がとれない中で自信を喪失していく大学生も増えてしまいます。

こうして、世の中が「高学歴」化するにつれて高卒を受け入れていた単純労務が、より学歴の高い新卒者に結果的に置き換えられる一方で、円高や低価格競争が進むにつれて製造業の職場そのものが海外へシフトしていくため、高卒を受け入れる技能工や事務職の職場がどんどん減ってしまいます。つまり、中小企業までスコープを広げればまだ就職口がある大学生に対して、そもそも働く場が失われてしまっている高卒者の方が遙かに深刻なわけです。

現在の就職難に際しても、当面の就職口がないからといって高卒なら専門学校とか短大へ進学したり、大卒なら院進学や留年して景気回復を待とういう動きもあるわけですが、それはよほどの技能を身につけない限り「本来なら大学(短大、院)に入れない」層の就職を先送りするだけにしかなりません。そして「よほどの技能」を身につけることは、「本来なら大学に入れない」層にとってはハードルの高いことであって、まあそれだけの技能なり資格を取得できるならはじめから就職できるよね?ということになってしまいます。

ということは、高卒に対する労働需要を作り出すとともに、中小企業を含めた就職口とのマッチングの仕組みを拡充することが雇用対策として求められるわけで、第4章でその対策が示されています。この諸施策については、本エントリの冒頭でリンクを張ったhamachan先生とほぼ同じ感想を持ったところです(主体性がなくて申し訳ございません)が、蛇足ながら、第1に提案されている「教育安保政策」で受け入れた外国人労働者の事務が地方分権されたら地方自治体は大変だろうなとか、第4の「公的派遣」も、公設民営となるとまたぞろ地方分権の議論に乗せようとされるのだろうなとか、余計な心配をしてしまいました。

まあ、ここで金融緩和によるマクロ政策がその大前提だという議論をすることも可能ですが、たとえばクルーグマンも増えた労働人口を吸収できるようなマクロ政策の重要性を強調しつつも、同時に政治サイドが職業訓練の旗振りをすることもあり得るという見解を示しています。

 でも大事なのは、アメリカではNAIRUは過去20年間かなり安定していて、どっちかといえば低下傾向にあるってこと。これは長期的に見て、失業率は増加傾向にはないってことだ―そしてこれは、アメリカ経済の適応力という点で、絶賛していいことなんだよね。前にも見たけど、同時期のヨーロッパでは、失業率はホントどうしようもないくらい上がっちゃってるんだから。アメリカだって、過去10年で労働市場に入ってきた大量の女性やベビーブーム世代に職を上げられなかった可能性は十分にある
 さらに生産性成長がこんなドツボ状態で大幅賃上げを要求したってよさそうなもんだ。でも実際は、アメリカの非常に競争的で柔軟な労働市場は新規参入をすべて吸収したし、賃上げ水準も、ぼくらの低い生産性成長と見合った率におさえたんだ。
 もちろん、5~6%はゼロじゃない。NAIRUを下げて4%以下の失業に持ってくようにはできないの? うーん、できるかも―でも、それを実現するにはどうしたらいいかについて、経済学者の間でもあんまし一致した見解はないのよ。
 政治家は、長期失業者に対して職業訓練を提供するとか、そういう旗振り的なことはやるかもしれない。でも確実にいえるのは、クリントン政権が失業を5%くらいのとどめておければ、だれにも文句は言われないってことなんだな。
p.66

クルーグマン教授の経済入門 (日経ビジネス人文庫)クルーグマン教授の経済入門 (日経ビジネス人文庫)
(2003/11)
ポール クルーグマン

商品詳細を見る


要はマクロとミクロの経済政策のポリシーミックスが重要ということだろうと思うわけですが、毎度ながら与野党ともに「雇用・能力開発機構なんかイラネ」というこの国の政治家が正しく舵を切るとは到底思えないところが何とも・・・

このエントリーをはてなブックマークに追加