2010年04月26日 (月) | Edit |
前回のエントリはとりあえずのメモではありますが、このメモの元ネタとなっているのがこの番組です。

創立1636年、アメリカ建国よりも古いハーバード大学の歴史上、履修学生の数が最高記録を更新した授業がある。政治哲学のマイケル・サンデル教授の授業「Justice(正義)」である。大学の劇場でもある大教室は、毎回1000人を超える学生がぎっしり埋まる。あまりの人気ぶりにハーバード大学では、授業非公開という原則を覆し、この授業の公開に踏み切った。ハーバード大学の授業が一般の目に触れるのは、史上初めてのことである。

ハーバード白熱教室」(NHKオンライン



個人的に政治学には懐疑的な思いがあるので、マイケル・サンデル教授の専門である政治哲学という分野もコミュニタリアンの第一人者であるという経歴もこの番組ではじめて知りましたが、ここでも所得再分配の是非についてまさに「白熱」した議論が展開されています。というのも、サンデル教授の講義が的確かつ簡潔であることはもちろんのこと、聴講している学生たちは常に手を挙げて発言しようとしていて、サンデル教授がさらに議論の要点を学生たちの発言の中から導き出していく過程がライブ感覚で伝わってきて、見ている側も思わずううむと唸ってしまいます。

前回の第3回放送と今日の第4回放送では、リバタリアニズムについてのノージックの「課税による所得再分配は奴隷制度と変わりがなく、自己の所有する資産を盗んでいるだけだ」との主張を取り上げながら、ベンサム、ミル、ロックといった功利主義の系譜の中で「自己の所有」をどう説明してきたかが議論されていました。意外だったのは、第3回放送でリバタリアニズムの立場から議論した「リバタリアンチーム」が、聴講生の中でも少数派だったということです。まあコミュニタリアンの第一人者の講義を履修している時点で、リバタリアニズムに反対の立場を取る学生が多いというセレクションバイアスはあるだろうと思いますが、議論が民主主義における多数決の原理との関係に及んだところで急激にリバタリアンチームの旗色が悪くなる辺りに、サンデル教授の巧みな講義運営を感じました。

さらに、講義の中でシェークスピアの映画(出典はわかりませんでした)と「Fear Factor」(スタント勝ち抜け、というより「お笑いウルトラクイズ」みたいな番組でした)と「シンプソンズ」の一場面を上映して、どれが好きかを学生に問います。これは、J.S.ミルが「高級な「喜び」と低級な「喜び」」のそれぞれを適切に評価することは、教育を受けた人間がそのどちらも経験することによって可能になるという議論についてどう考えるかという問いでもあったわけですが、多くの学生は、シェークスピアの映画の台詞が深い意味をもっていることは認めつつも、シンプソンズの「下らない」ジョークが好きだと答えてしまいます。ハーバード大学で講義を履修して鋭い議論を連発するような学生であっても「下らない」ジョークはおもしろいと思うわけで、それほど高等な教育を受けていない大多数の人々がどう判断するかは推して知るべしということなのでしょう。

というような番組を見てから権丈先生のサイトを拝見したら、ミルについての議論を交えた講演録がアップされていました(正確には昨年12月にアップされた講演録の再掲ですが)。

ところがジョン・スチュアート・ミルは、成人して、民主主義は本当に望ましいのか、多数決は本当に望ましいのだろうかという疑問を感じ始めます。
(略)
その頃の少数者とは、いったい誰だと思いますか。ミルが見た時の多数者に対する少数者とは、教育のある人なんですね。つまりは、ミルのような人たちです。教育のある人たちが圧倒的に少数派になってしまう。その人たちの意見をいかに代弁させるかという方法を考えていかないと、真の民主主義にはならないと、彼は言っているわけです。
(略)
ミルが何とか解決していかなければならないと思った問いかけは、おそらくどの社会、どの国でもいまだ解決できていないのではないかと思います。

講演抄録「転換期の社会保障・福祉政策」『月刊福祉』増刊号平成21年12月15日号(注:pdfファイルです)」(Kenjoh Seminar  Home Page 仕事のページ


この権丈先生の認識が権丈先生の静かな憤りの源泉となっているのではないかと思いますし、それについては私も大いに共感するところです。

また、第4回放送ではジョン・ロックの所有と多数派の同意(いわゆる社会契約論ですね)が議論されていますが、植民地の管理者であったロックがアメリカを想定して書いたのが『統治二論』であったというのは有名な話ですね。これについては以前読んだ稲葉先生の著書が参考になります。

無主の未開地が豊富にあるロックの自然状態では、人は他の誰にも割を食わせることなく、新しい土地を手に入れることができます。つまり他人からの社会的な承認なしに、所有権が形成されるのです。ロックの所有論といえば普通「労働による所有」論と紹介されることが多いのですが、「労働」ということばの響きにあまり惑わされないようにしましょう。ホッブズなどと比較した時のロックの所有論の肝は、「合意によらない・単独での所有」とでも言った方がよさそうです。
p.024

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(2005/09/06)
稲葉 振一郎

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番組は次回以降アメリカという国の成り立ちに立ち入って議論するそうですので、これからも目が離せませんね。

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2010年04月25日 (日) | Edit |
雑食気味にいろいろ書き散らしている拙ブログではありますが、最近のエントリがつながりそうでつながらないもどかしさがあるので、備忘録的にメモしておきたいと思います。

まず現在の経済政策を巡る議論については、チホーブンケンをはじめとする改革バカによる構造改革には、それがミクロの資源配分の効率化のみを目標としているものであって、同じくミクロの所得再分配に対する配慮が欠けている限りにおいて批判的にとらえています。したがって、所得再分配について考慮しない政策論議については、拙ブログでは、たとえそれがリフレーション的な政策であっても支持する気にはなりません。もちろん、経済情勢の現況を鑑みれば景気回復がまずは必要だという点について異論はありませんが、当然のことながら、ミクロレベルでの資源配分と所得再分配が機能不全に陥っていれば、景気回復によってもたらされた成果が、それを真に必要としている方々に届かないことが十分に想定されるわけで、景気回復と資源配分の効率化、所得再分配の公平性の確保は同時並行で進めなければならないものと考えます。

たとえとして適切ではないかもしれませんが、医者が足りないから医学部の定員を増員して医師免許取得者を増やすというのは、医療サービスの総供給を増やすためのマクロな政策として必要ではありますが、だからといって医師不足が深刻化している小児科や産科に人員が配置されるとは限らないわけで、小児科医や産科医の長時間勤務の実態を改善し、医療訴訟のリスクを分散するようなミクロの政策も同時に必要となります。これと同様に、(4/27訂正しました)デフレ不況を脱するために総需要を増やすのは景気回復の前提条件ではありますが、景気が回復したからといって正社員の長時間労働が常態化していたり、非正規労働者が不安定・低所得就労にとどまっているのであれば、その恩恵にあずかる層はごく一部に限られてしまいます。

これを所得再分配の公平性確保という観点から見れば、OECDでもきわめて低い国民負担率を維持したまま所得再分配機能を確保することが不可能であることは明白であって、ではどうやって長時間労働を強いられる正社員と不安定就労にとどまる非正規労働者に所得を再分配するかという点を考える必要があります。正社員が長時間労働を強いられるのは、企業特殊技能による年功賃金で生活給を保障されているためにホールドアップ問題に直面している面もありますし、非正規労働者が低所得で暮らしていけないのは社会保障が貧弱であることの裏返しでもあります。つまりは、どちらも社会保障による所得再分配機能が貧弱であることの帰結に過ぎないということもできます。

これを貨幣現象であるデフレにつなげていえば、所得再分配機能が貧弱だからこそ個人は貯蓄によって不測の事態に備えなければならないわけで、一見消費性向が低下しているように見えるとしても、流動性選好の高まりによって貨幣需要が増加しているというよりは、将来不安により貯蓄性向が高まっているという方が適切なのかもしれません。バブル崩壊後の財政赤字の増大も投資-貯蓄恒等式(Wikipedia:投資-貯蓄恒等式)をバランスさせるための措置であったわけですから、マクロ経済運営に当たっては、投資と貯蓄、あるいは輸出と輸入をバランスさせることと同時に、政府支出と税収もバランスさせなければならなかったのではないかと思います。

しかし、90年代後半には非ケインズ効果が実証されてしまい、(4/27訂正しました)リベサヨな方々からは政府支出を増加させる議論がタブー視されるようになるとともに、「リフレ派」な方々から増税は景気後退を招くという理由のみを持って退けられています。こうして政府支出といえば公共事業しか念頭にないような議論が中心となり、政府支出の不透明さも相俟って、もともと貧弱であった所得再分配機能をさらに不安定化させるような年金改革や診療報酬引き下げが政局の争点とされる一方で、霞ヶ関が天下りして既得権益を握っているからムダが生じるのであって、チホーブンケンすればさらに政府支出を削ることができるという議論が「民意」の支持を得るようになりました。

・・・というような状況で、結局いつも書いていることの繰り返しにしかなりませんでしたが、つまりは、日本における働き方と社会保障による所得再分配機能は密接に関連していて、それは政府支出と税収(保険料収入も含む)のバランスのあり方を規定するものだろうと思います。この点を踏まえてみれば、増税=財政再建と短絡的に批判するのではなく、ストック面においては資産面も負債面も巨大でありながら、フロー面ではOECD各国と比較しても低すぎる政府支出と国民負担率で運営されているこの国で、現状の所得再分配機能をどこまで維持できるのか、さらには所得再分配機能を拡充することによって労働環境を改善することが可能ではないのかという視点からの議論が必要なのではないかと思うところです。

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2010年04月19日 (月) | Edit |
roumuyaさんのブログで、ご自身が参加されたRIETIシンポジウムの感想が掲載されていました。それにしても、これだけ内容の濃い各論者の発表を短期間にアップしてしまえる仕事の速さに脱帽です。。

一昨年秋の世界的な金融危機・経済危機の広がりを受けて日本経済も極めて大きな経済収縮を経験し、雇用情勢は昨年夏には失業率が既往ピークを更新するなど稀にみるスピードで悪化しました。最近の景気の持ち直しにより、更なるスパイラル的悪化には歯止めがかかりましたが、雇用情勢が依然として厳しい状況であることには変わりありません。こうした中で、現在も雇用の安定、セーフティネット充実を目指した緊急・応急的措置が策定・実施されているところですが、「危機後」を見通した雇用システムや労働市場の「かたち」は必ずしも明らかではありません。雇用・労働の分野における「出口戦略」の検討とともに、人口減少社会の到来、高齢化の急速な進展の下では、高齢者や女性を含めた労働参加の促進、産業構造の転換の中で生産性が高い分野への労働移動が大きな課題であります。

以上のような問題意識の下、本政策シンポジウムは、創造と活力溢れる日本を目指すために必要な雇用・労働システムの再構築について焦点を当てます。第一部では、雇用危機に対する短期的対応や労働市場の二極化問題を皮切りに、高齢化・健康と労働供給、労働再配分・雇用創出と経済成長、グローバル化と雇用などの関係などについて報告・議論を行います。第二部では、学界、企業、労働、民間シンクタンクを代表する有識者にお集まりいただき、足元、雇用情勢の現状、政策対応の評価とともに、中長期的な視点から雇用創出、人材育成、雇用・労働システムのあり方をテーマにパネルディスカッションを行います。

RIETI政策シンポジウム「雇用・労働システムの再構築:創造と活力溢れる日本を目指して」(独立行政法人経済産業研究所


というわけで、いずれの方の発表内容も大変興味深いところではありますが、個人的には拙ブログでも取り上げさせていただいた水町先生とroumuyaさんとの直接対決(?)が気になるところでして、

東大の水町勇一郎先生(教授ご昇任おめでとうございます)は、競争戦略と労働法制、雇用システムと労働法制に関するオルタナティヴを整理されつつ、集団的労使関係による「国家-産業・地域-企業・事業場」の各レベルを包含した重層的な社会的ガバナンスの基盤整備を提唱されました。

その中で、水町先生はEUの労働法制を好意的に紹介されたのですが、EUの労働法制の最大の問題点は水町先生ご自身も率直に認めておられたように「それで結果的にうまくいっていない」ことにあるわけで、そこから得られる反省もふくめ、わが国の労働市場や人事労務管理に実態に合った形で生かしていくことが大切なのでしょう。当然ながらEUの労働法制は深い考察のもとに構想されているわけで、理念とか建前とか筋とかいった点では美しい体系になっているのでしょうが、理屈の美しさを現実の豊かさより優先させるのがいいとは思えないわけで、もちろん水町先生はそんなことはないと思いますが、世の中ではそうした議論を展開する向きもあるわけでして…。

RIETI政策シンポジウム「雇用・労働システムの再構築:創造と活力溢(2010-04-15)」(労務屋ブログ(旧「吐息の日々」)

※ 以下、強調は引用者による。


とのことで、以前もroumyaさんのブログで指摘されていたような「白亜の殿堂」に対する懸念を表明されています。

これについてはhamachan先生も連合の水谷さんのブログを引用して、

>水町先生のめざすのは白亜の大殿堂ではなく、焼け野原かもしれず、そこから再生が始まるのかもしれない。

もちろん、本来あるべき姿の集団的労使関係を構築するためには、いったん焼け野原にして『集団の再生』という白亜の大殿堂を築き上げるのが一番すっきりするわけですが。

水町先生のめざすのは白亜の大殿堂ではなく、焼け野原(2010年2月15日 (月))」(EU 労働法政策雑記帳


と、水町先生はさらに既存の労働組合に対して厳しい考え方をしているのではないかと指摘されていました。実をいうと、私自身も水町先生の議論にはそういった清算指向のようなものを感じるところはあるにはあります。しかし、私も既存の労働組合に対する期待度が低いということかもしれませんが、前掲の拙エントリのとおり水町先生の議論に共感を覚えてしまいます。

いやもちろん水町先生がそうだということではありませんが、そういった清算的な考え方に一度とらわれてしまうと、特に自分のなじみのない分野については「よくわからないからいったん全部壊してしまえ」という考えてしまいがちになるのが怖いところだと感じております。この点について、roumyaさんが玄田先生の言葉(正確には石橋湛山の言葉だそうですが)を引用されていたのをさらに引用させていただくと、

既得権益を排除し、新陳代謝が進むよう市場をきちんと機能させることです。時代の変化に応じて生産性が下がり、ビジネスモデルが合わなくなってきた分野から、新規の分野に人が移っていける仕組みを考え抜くべきで、その障害になっている規制を取り除き、不合理的な既得権益には逆に新たな規制を課していくのです。」ってのは、すでに十分すぎるくらい十分に「根本病」にはまっているように私には思えるのですが、どんなものなのでしょうか。

根本病by勝間和代氏(2010-03-16)」(労務屋ブログ(旧「吐息の日々」


というように、清算指向を持つ根本病のいちばん怖いところは、自分ではそれとは気がつかないうちに他人に対しては「根本的な解決」を求めてしまいがちなところなのだと思います。

というわけで、今回のエントリは引用ばかりになってしまいましたが、ここしばらく書こうと思っていたことがやっと形になった気がします。引用させていただいた皆様に感謝申し上げます。ついでに、この時期に本エントリがまとまった理由をもう一つ挙げるとしたら、二大政党制による政権交代とかいいながら、実際に政権交代が起きてみれば新党ばかり乱立するという最近の政治状況を目にしていろいろ考えさせられたということもあります。次は誰が「根本的なカイカクが足りない!」と言い出すのかと考えると憂鬱になりますねえ。。

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2010年04月13日 (火) | Edit |
「リフレ派」と呼ばれる方々とは一定の距離を置いている拙ブログですが、リフレ政策そのものは十分に有用性のある政策と考えております。そもそも経済学を思考ツールとして使うようになったのは、Hot Wiredでの稲葉先生の連載と野口旭先生の連載に触れて、リフレ政策をきちんと理解したいと考えたからですし、ブログ界隈での若田部昌澄先生、飯田泰之先生、田中秀臣先生などの諸先生やBewaadさんやすなふきんさんの議論に触発されてブログを始めた面もあります。

そうしたネットの議論を読み進めていくとき必ずキーとなるコメントをされていたのが、ドラエモンというHNの方でした。「ドラエモンブログ」とも言われた苺掲示板の議論はたまに覗くくらいでしたが、リフレ政策についての自分の理解度を測るために、ドラエモンさんのコメントが理解できるかどうかで確認することがよくありました(そういう意味では、リフレ政策をきちんと理解しているかといわれれば心許ないのですが)。

そのドラエモンさんが逝去されたことと、そのHNの主が岡田靖氏であったことを夕べ知って驚いています。拙ブログでは「数学と現実(2009年01月06日 (火))」であまり本質的でないコメントを取り上げたくらいの関わりしかありませんが、実は生前の岡田氏とまったくの偶然から言葉を交わしたことがあるのを思い出しました。だいぶ前なので記憶違いでなければ、言葉を交わしたといっても本当にただの日常会話をしただけで、当時はまさか岡田氏がドラエモンさんだとは思いもよらず、緊張のあまり具体的に何を話したのかは覚えていません。

結果的にネットの世界を通じた一方的な関わりだけでしたが、経済学的思考を鍛錬する機会を与えていただいたことに感謝申し上げるとともに、謹んで哀悼の意を表します。

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2010年04月11日 (日) | Edit |
ほかにも書いておこうと思うことがあるものの、なかなか時間がとれないので、とりあえず最近気になったブログエントリを拝見して思ったことをつらつらと。といっても、なんとなく以前の騒ぎを再燃しそうで怖いのですが・・・

世の中小企業のオヤジさんには、「ワシのかわいい社員たちは、心から喜んで夜中まで働いてくれとるんじゃ、強要なんてしとるはずなかろうが」と、心の底からそう思っていて、その「かわいい社員」が労働相談に駆け込んだりすると、信じられない裏切りにあったように感じる方もいるわけですが、その方の主観的真理がそのようであることは全く否定のしようがないからといって、それがその「かわいい社員」と寸分違わぬ共同主観性を構築しているかどうかは保証の限りではないわけです。
といいますか、指揮命令する側と指揮命令される側が寸分違わぬ共同主観を共有していれば、そもそも労使関係なるものをわざわざ言挙げする必要などというものは存在しないわけで、「ミヤタ」氏のご意見は、「べんちゃあ」な企業においては労使関係なんて野暮なものは存在しないという御主張なのでしょう。それは、多くの中小企業のオヤジさんの感覚と全く同じであるわけですが。
いずれにしても、問題は、
>ベンチャーの場合、そのような会社機能の整備にはあまり興味が無いという事になるのでしょうか。
と、そういう問題が存在することに無感覚になってしまうことにあるのでしょう。
この辺は、先日、わたくしが呼ばれた東京都の産業労働懇談会で、労働法教育の問題を取り上げて議論された際、労働者を使用する使用者が一番労働法を知っていなければならないのに、使用者になるのに何の資格も要らない云々と論じられた点でもありますね。

ホリエモン氏が自分でそのように行動することを労働法は何ら規制していません。ただし・・・(2010年4月 7日 (水))」コメント欄 投稿: hamachan | 2010年4月 8日 (木) 08時12分(EU労働法政策雑記帳
※ 以下強調は引用者による。


ここでhamachan先生が論じられていることが実体験として理解されていないことが、日本の労働問題を考えるときに一番のネックなのではないかと思います。実際、このコメントに対して「さすが机の上の世界しか知らない人の集まりって感じですね。「現場」のことを知らない人らしい論じられ方です。公務員的っていうか。この公務員的な発想が今のぼろぼろの日本を創ってきたような気がします。」といようなコメントがついていますし。

確かに「東京都の産業労働懇談会」でググってもヒットしないので、この役所用語になじみのない方には「机の上の世界」に思えるのかもしれません。私もその内実を知らないのであくまで推測の域を出ませんが、行政用語的な「懇談会」というのは、関係団体や有識者が一堂に会して、結論を得るまでもなく率直な意見交換をする場という性格のものと思われます。「産業労働」という名目であればおそらく、連合とか経営者協会・商工会議所といった労使団体と、東京都といった公的機関が意見交換の場をもたれたのではないでしょうか。この推測が実態に近いという前提の下ではありますが、そういった現場に近い方々の話し合いの場を指して「机の上の世界」といえるかという点に、労働問題に対する距離感が表れるのかもしれません。

まあこれは枝葉末節の話で、行政用語的な「懇談会」の持ち方を知らない方のほうが一般的でしょうし、知っておく必要もないでしょう。それよりも、「中小企業のオヤジさん」の心情を引用したhamachan先生のコメントに対する反応をみると、それにはあまり言及されることもなく、六本木で働いていた元社長の個人的な見解のほうにシンパシーが集まっているという状況のほうが、より深刻な問題に思われます。

確かに、小さな会社では経営者も従業員も「家族のような」共同体となって日々の仕事に打ち込んでいるわけで、家族経営の自営業の場合は実際に従業員の中に家族がいたりましますが、それはあくまで「家族のような」ものであって、それぞれの従業員には現実の家族があります。端的に言えば、そうした経営者が従業員に「家族」であることを強要することはもちろんのこと、家族に配慮しない(長時間拘束することはもちろん、過労によって従業員の健康を害することも家族に対する配慮が欠ける行為です)ような勤務形態を「好きでやっているだけ」とか「家族同然の経営だから朝から晩まで働いているだけ」という理屈で、特に従業員の「自発的」な行為として正当化することが問題なわけです。

言うまでもなく長時間労働は身体に悪影響を及ぼしますし、過剰なノルマや無理のある納期のために強烈なストレスにさらされていれば、精神的な疾患に罹患する可能性も高くなります。それを「好きでやっているから」、「自発的にやっていることだから」といって片付けられるのかという問題が一方にあって、その一方でそれを認めてしまったとき、従業員の「自発的」な労働供給に頼れば低コスト経営ができることになるので、そういう事態が望ましいことなのかという問題にも向き合う必要があります。というか、実はこれが現在の日本の労働を取り巻く環境であって、だからこそ六本木で働いていた元社長の個別的な見解が当然のことと受け止められるのでしょう。

さらに、上のhamachan先生のコメントで「労働者を使用する使用者が一番労働法を知っていなければならないのに、使用者になるのに何の資格も要らない」という点についていえば、それなりに人事労務管理体制がしっかりした会社であれば、労務管理一筋の労働法のプロもいるかもしれませんが、そもそも「雇用契約」ではなく「行政処分」として公務員を任用している役所に労働法を知っている人は存在しません。「民間感覚を取り入れる」という公約でカイカク派首長になった方々が、だからといって民間と同様に適用される労働法規を遵守するどころか、むしろ「民間でも労働法の保護がないんだから文句言うな」というようなことをいってしまったりするわけです。「自発的」というそれだけをとらえれば「美しいリクツ」が波及していくと、結果として誰も救われない事態を招いてしまいかねないという好例ですね。

こういう労働環境を踏まえてみるにつけ、いちチホーコームインとしては「自発的」にサービス残業をさせていただくしかないのだなと観念しております。たまにこういうおもしろ判決もありますが、

 まぁ残業していないのに残業代を請求するのも、残業させたのに残業代を支払わないのも共に問題があるわけですが、世間的には前者ばかりが問題にされそうな気がします。サービス残業/残業代の不払いが当たり前のように日常化している一方で、残業代の不当請求は僅か1万8千円程度ですら裁判沙汰になるようですから。仮に全面勝訴しても裁判費用の方が高く付きますけれど、それほど不当請求は重い罪なのでしょう。被告は公務員ということで市側のパフォーマンスもあったと思われますが(市職員に厳しい態度をとることで、市民の望みを満たしてやるわけです)、残業代の不払いがあるにもかかわらず雇用者をカラ残業の疑いで訴える、これこそ盗っ人猛々しいと言うものです。しかるに世間一般の感覚はどうでしょうか。残業代の不払いは「仕方がないこと」とばかりに納得してしまう一方で、カラ残業は許せない行為として糾弾したがるとしたら、たぶん世論とは経営者目線、雇用者目線に近いものなのかも知れません。

盗っ人猛々しい(2010-04-10 23:00:20)」(非国民通信


「ワシのかわいい公僕たちは、心から喜んで夜中まで働いてくれとるんじゃ、強要なんてしとるはずなかろうが」という「民意」がある限りは、いつの日かこの判決も否定されることになるのでしょうからね。

(追記)
「ワシのかわいい公僕」とかいう言い方が気に入らないという向きには、「うちの使い物にならない公僕でも、好きで人様のために仕事させてもろとるんじゃ、給料がもらえるだけありがたい思わな罰当たるで」と言い換えても構いませんが、その意図するところは本エントリで指摘していることと変わるところがないことにご留意ください。

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2010年04月04日 (日) | Edit |
年度初めからお詫びで恐縮ですが、年度末の忙しさにかまけてGmailのチェックをすっかり失念しており、Gmailでご連絡いただいた方々には、ご連絡が遅くなりまして大変申し訳ございませんでした。この場を借りてお詫び申し上げます。端末の設定を変えて随時確認するようにいたしましたので、今後はこのようなことがないよう注意していきたいと存じます。

さて、拙ブログでも取り上げさせていただきました『雇用の常識「本当に見えるウソ」』、『学歴の耐えられない軽さ やばくないか、その大学、その会社、その常識』に引き続き、海老原さんの新著を拝読してみました。率直な感想からいうと、前2作は雇用全体についての話が中心だっただけにマクロな視点で考えさせられましたが、今回は自分自身の仕事や職場環境の問題に正面から向き合うきっかけをいただいたように思います。

というのも、まず第1章で「10分前でも間に合う面接対策」で自分を知るための5つの性格軸という話が出てくるのですが、

 採用されるかされないかの大きなポイントとは何でしょうか? 能力、経験、知識。この3つを挙げる人は多いでしょう。しかし、もう一つ忘れがちなものがあります。そこを克服できれば、10分でアピール力を各段に上げることができます。
(略)
 「性格が合う」という言い方もできますが、より突き詰めて言うと、「仕事の進め方が適している」ということなのです。
 企業も同じです。「能力」「経験」「知識」だけを見ているわけではありません

 よく、キャリアの浅い人や、学生さん、スペシャリティというよりは人柄で仕事をしている人などは、面接で話すことがない、と心配することがあります。そうした場合、私が話すのは、企業は仕事の進め方も非常によく見ているということ。
pp.31-32

面接の10分前、1日前、1週間前にやるべきこと - 会場に行く電車の中でも「挽回」できる!面接の10分前、1日前、1週間前にやるべきこと - 会場に行く電車の中でも「挽回」できる!
(2010/03/11)
海老原 嗣生

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※ 以下、青太字強調は原文。太字下線強調は引用者による。


という部分は、まさに普段の仕事の中で感じていたことでした。本書は面接がテーマとなっているので「企業はよく見ている」という言い方になっていますが、「仕事の進め方」をよく見ているのって普段の職場の中で職員がお互いにやっていることでもあるんですよね。

そう考えてみれば、本書で海老原さんがおっしゃるとおり「面接とは商取引の場」であるのと同様、「自分の「都合」より、相手の「利益」を」というのは、いかにお互いが気持ちよく協力し合えるかが仕事をする上での重要なポイントであることの裏返しであることに気がつきます。振り返ってみれば、いくら資格を持ってたり仕事ができる人であったりしても、自分の都合だけを優先して同じ職場の人を罵倒したり、足を引っ張ったりするような人材は百害あって一利なしなわけで、職場での愚痴もだいたいそういう方についての話題で持ちきりになるのではないかと思います。

ここでふと、いざ自分がどう見られているのか、実際にどういう振る舞いをしているのかと考えてみると、もしかしたら職場の同僚から「お前だってそういうことやってるじゃないか」と思われているんじゃないかとかいろいろ考えてしまいます。まあ、その辺が「仕事の進め方が適している」かどうかにもループバックしていくわけでもありますが、こうした仕事の進め方に対する評価というものが会社や職場単位で相互に違うということは人事労務管理の観点からも十分に認識されるべきことだろうと思います。

本書ではこのことが面接官の立場からも繰り返されています。

 まず、「日常のちょっとしたよいこと」は面接官の心を動かす、ということ。それは、相手も人間であり、「一緒に働きたい」と思う人を採用するからです。日常のちょっとしたよいことを、具体的に鮮明に語れるようにしておきましょう。
 そしてもう1つ。自分が「いいなと思うエピソードを語って、相手に嫌われるのもまたよし、ということ。たとえば、前出の彼女の場合、コンプライアンスがうるさい会社であれば、「会社のルールに従えない人は採用できないな」となるでしょう。ところが私は、彼女を評価し、前向きにとらえた。この差がすなわち社風の差です。

『同』p.55


この「前出の彼女の場合」がどういう話かは本書を手にとってご確認いただきたいのですが、よほどの専門職でない限り、こうした仕事の進め方とか社風とか、もっと有り体に言えば人間関係が仕事の満足度ややりがいを左右する大きな要因であって、言ってしまえば仕事そのものは二の次という方が多いのではないでしょうか。確かに私が話を聞く方の中で「仕事は嫌いじゃないけど、人間関係が我慢できないから辞めたい」とおおっぴらに言う方は、特に正社員ではあまりいませんが、「人間関係は最悪だけど、この仕事が好きで辞めたくないから我慢する」という方であっても、よくよく話を聞くと「生活のために仕事を辞められない」というのが実態だったりします。

しかし、正社員がそういう理由でいやいや仕事をしている会社が、どれだけ高い業績を上げられるものかということが次に問われなければなりません。というより、売上だけではなく労働市場での評価を含めて「業績」というものを考えたとき、社員が常に不満をためている社風の会社が業績を落としていくからこそ、社風を健全に保っていくためのインセンティブが働くのだろうと思います。終身雇用と(実態かどうかは別として)いわれる日本企業においても一定割合が転職市場の中で流動しているのは、そういった面での「健全な社風」を保つための工夫だと理解すれば合理的な行動といえるでしょう。

と考えてみたとき、自分自身の仕事や職場環境の問題に正面から向き合ってみると、(以下自重)

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