--年--月--日 (--) | Edit |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


2010年03月22日 (月) | Edit |
前回エントリのすり替え現象に関連しますが、以前roumuyaさんの書評を引用させていただいた八代先生の『労働市場改革の経済学』は、大変的確な現状認識に基づく改革案が提示されているとは思うものの、後半に進むにつれ、特に第9章はあらぬ方向に議論が進んで行ってしまっている感が否めません。実はその第9章でも同じようなすり替えが行われています。

◆労使の利害調整だけでは問題は解決できない
 非正社員の利益を守る手段は、労働組合が唯一の手段であるわけではない。「消費者の利益は、政府の規制よりも企業間の活発な競争を通じて、よりよく守られる」というフリードマンの言葉は、「消費者」を「労働者」に置き換えても同じである。
 政府が総需要の適切な管理を行う前提の下で、企業の外の労働市場が発達し、より高い賃金や労働条件の企業が質の高い労働者を集めるメカニズムが保障されれば、そうでない企業が淘汰されることで、労働市場の条件が底上げされる。正社員は労働組合の交渉力を活用する一方で、非正社員は市場競争の力(条件の悪い企業からの労働者の退出)で、おのおの賃金や労働条件の改善を図るという役割分担がある
これを支援するためには、よりよい就職先を斡旋する職業紹介や労働者派遣に携わる事業者を、規制で抑制するのではなく、むしろ優良な事業者に育成する政策が必要である。そうなれば、非正社員のみならず、正社員もそうした事業者を活用し、「昇級が認められなければ会社を辞める」という形で、労働組合に依存しなくとも、企業との交渉力を高められる。
pp.267-268

労働市場改革の経済学労働市場改革の経済学
(2009/11/20)
八代 尚宏

商品詳細を見る

※ 以下、強調は引用者による。


雇用の流動化を経済成長や雇用情勢改善の切り札的に考える方であれば、おそらくこういう考え方に何の疑問も持たないのではないでしょうか。確かに、労働者と使用者が対等の関係で雇用契約を結び、おのおのの労働者が自らの労働条件の向上について交渉力を持つことが保障されるなら、それが理想的な姿であることはいうまでもありません。

ところが、奇しくも八代先生が「正社員は労働組合の交渉力を活用する一方で、非正社員は市場競争の力(条件の悪い企業からの労働者の退出)で、おのおの賃金や労働条件の改善を図る」と指摘されている構図こそが、ここ数十年に渡って形成されてきた日本型雇用慣行の姿であって、そのことは八代先生が「労労対立」として本書で強調されていたことでもあります。そういった現状を踏まえて考えたとき、すでに雇用が流動化している非正規労働者ですら交渉力を持ち得なかったのに、さらに雇用の流動化を進めることによって「労働組合に依存しなくとも、企業との交渉力を高められる」かどうかは大いに疑問が残るところです。

日本の集団的労使関係が本来の機能を果たしていないという点については繰り返しませんが、ごく大雑把にいってしまえば、機能していないからそんなもの潰してしまえと考えるのか、本来の機能を取り戻すよう制度改正を図ろうとするのかが、供給者と需要者をすり替えてしまうかどうかの分かれ目になるのだろうと思います。特に、この前者の考え方はコーゾーカイカクやらチホーブンケンと軌を一にするものであって、そのことが経済学に関心のある方々の間で所得再分配政策や雇用政策についての議論があらぬ方向に進みがちな理由ではないでしょうか。たとえば、「リフレ派」の方々の中にも、小泉・竹中の構造改革路線には批判的でありながら、そのブレーンであった高橋洋一氏のコーゾーカイカク論には諸手を挙げて賛成する方が多いのがその現れなのかもしれません。

「リフレ派」の方々の好きなティンバーゲンの定理とかマンデルの定理をミクロな政策についてもう少しブレークダウンしていけば、ベーシック・インカムや解雇規制の撤廃のような十把一絡げな政策では適切な政策の割り当てにならないという議論ができます。この点を考慮すれば、貧困の罠や労労対立に適切に対処するためにアクティベーションを軸としたワークフェアな雇用環境の整備に政府が介入し、職場単位での労働条件については産業民主主義により労使自治を確立していくという議論は、それぞれの問題に適切な政策を割り当てるためのきわめてまっとうな議論であるといえます。派遣法改正を巡る「政治主導」のあり方にhamachan先生roumuyaさんが同じような疑問を呈されるのも、こういった議論を踏まえて理解される必要があると思います。

確認のため、たびたび引用させていただいていますが、今やリフレ派の両巨頭となった(?)お二人による著書によれば、

 独立した複数の目的には,独立した複数の手段を

 経済政策を運営するときの定理の1つに,「独立した複数の目的を達成するためには,独立した複数の政策手段を必要とする」という定理があります.この定理はそれを最初に明らかにした経済学者の名をとって「ティンバーゲンの定理」と呼ばれます.
 経済政策の目的は大別すれば,効率的資源配分と公平な所得分配になります.所得分配の効率性基準としてどのような基準を採用するかにもよりますが,一般的にいって,これらの2つの目的は相互に独立しているため,独立した1つの政策手段では達成できません.ここに,これら2つの目的が独立しているとは,効率的資源配分という目的を達成すれば,公平な所得分配というもう1つの目的も同時に達成できるという関係は存在しないことを意味します.
 また,独立した政策手段とは,ある手段を採用するときに他の政策手段が影響を受けないことを意味します.
 ある政策手段を用いて効率的な資源配分を達成しようとすると,所得分配の公平性基準が満たされなくなるとしましょう.その場合には,所得分配には影響するが資源配分の効率性には影響しない,別の政策手段が必要となります.


 経済政策の割当問題

 しかし,実際には,所得分配の公平性の基準は満たすが資源配分の効率性には影響しない,という好都合な政策手段はほとんどありません.そこで,所得分配の公平という目的のためには,次善の政策として,所得分配に大きな影響を及ぼす政策の中から,資源配分の効率性に及ぼす影響のもっとも小さな政策手段を選ぶことが重要になります.
 この考え方から,「各政策手段は,それが総体的にもっとも効果のある政策目的に割り当てられるべきである」という,経済政策の割り当て定理が導かれます.これはこの定理を最初に提言した経済学者の名をとって,「マンデルの定理」と呼ばれます.
p.38

ゼミナール 経済政策入門ゼミナール 経済政策入門
(2006/03)
岩田 規久男飯田 泰之

商品詳細を見る


ということが示されているわけですから、労働者と使用者をすり替えることなく適切な政策を割り当てるための議論をすることが何より重要ではないかと思う次第です。

このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーサイト

2010年03月15日 (月) | Edit |
先ほどのエントリに関連して使用者と労働者の関係を書こうと思っていたら、ちょうど同じテーマでhamachan先生に拙エントリを取り上げていただきました。何という偶然。

たとえばここに現れているような「大変申し訳ありませんが、今度の金曜日にお休みをいただいてもよろしいでしょうかw?」という労働の供給者がえらく申し訳なさそうで、労働の消費者が大変偉そうな姿こそが、

>サービスを受ける消費者は「絶対善」であり、
サービスを提供する側は、そのコストとリスクをかぶる

のいい典型例じゃないか、と言う風に、素直に話が進まずに、なぜか労働供給者と労働消費者が入れ替わってしまって

>雇用であれば労働者が「善」、会社が「悪」。

なのがけしからんという論調に転調してしまうあたりが、mojix氏の不思議なところです。

労働の消費者は使用者です、もちろん。(2010年3月14日 (日) )」(EU 労働法政策雑記帳
※ 以下、強調は引用者による。


この次の部分で引用していただいた拙エントリのシチュエーションがまさにこのとおりでして、普段から「コンプライアンスなら俺に任せろ」と法令遵守には人一倍うるさいその上司がのたまったお言葉が、
「労働基準法さえ守っていればいいなんてオンブズマンにいえるか!」
というものでした。私は労働基準法で認められている扱いとして勤務時間に融通を利かせてほしいとお願いした(供給者がお願いするのがこの国の流儀ですからね)にもかかわらず、その上司からは「労働基準法をクリアしても、法律さえ守ればいいというのではオンブズマンは納得しない」という謎の論理で跳ね返されたわけです。



         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
         (.___,,,... -ァァフ|        あ…ありのまま
          |i i|    }! }} //|         今 起こった事を話すぜ!
         |l、{   j} /,,ィ//|     『労働基準法さえ守っていればいいなんて
        i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ        オンブズマンにいえるか!』
        |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |     な… 何を言ってるのか
       /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人         わからねーと思うが
     /'   ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ    おれも何をされたのかわからなかった
    ,゙  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉        頭がどうにかなりそうだった…
     |/_/  ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ    コンプライアンスだとか
    // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ      内部統制だとか
   /'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐  \   そんなチャチなもんじゃあ
   / //   广¨´  /'   /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ     断じてねえ
  ノ ' /  ノ:::::`ー-、___/::::://       ヽ  }  もっと恐ろしいものの
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::...       イ     片鱗を味わったぜ…



実は、私は一瞬、
「コンプライアンス大好きな上司のことだから、労働基準法第1条第2項の「この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、この基準を理由として労働条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない」という趣旨で、労働基準法以上の待遇を認めてくれるのかな」
と解釈してしまったんですが、もちろんそんなわけはなく、「労働基準法を超える労働条件を認めることはコンプライアンスに反するので、オンブズマンに申し開きが立たない」という意味だったんですね。

具体的な状況を書けないので何ともわかりにくいんですが、その上司のコンプライアンスとは結局、「法律で認められた以上の待遇は法律に違反する。違反といわないまでも、このご時世にそんなことしたら不適切だと指摘されかねないから認めない」というものだったわけです。労働者という労働サービスの供給者の権利を保護するために使用者という労働サービスの消費者の権利を規制する労働基準法が、いつの間にか労働者という労働サービスの供給者の権利を規制する法律にすり替えられてしまったんですね。

この上司は最後まですり替えをしてしまったことに自ら気がつくことはありませんでしたが、消費者独裁国家というのは、こうした「労働条件を向上させることは不適切だ」という論理が無自覚に正当化される国家体制のことなのでしょう。たとえば阿久根市で起きていることはその表象に過ぎないんであって、hamachan先生がおっしゃるように「消費者独裁国家」は「使用者独裁国家」と親和性が高いのだろうと思います(Amazonのカスタマーレビューでの評価が象徴的ですね)。それが拙ブログでいう「経営者目線によるカイカク」とほぼ同じものであることはいうまでもありませんが。

このエントリーをはてなブックマークに追加

2010年03月14日 (日) | Edit |
ここ最近のエントリをまとめてみようかと思いつつなかなか時間がとれなかったんですが、とりあえずのメモということで書いておきます。

チホーブンケンがナショナルミニマムの削減に直結するということはそちらこちらで認識され始めているように思いますが、先々週のナショナルミニマム研究会で湯浅誠氏がプレゼンをされたようで、(資料上の)4ページ目と5ページ目の対比がおもしろいですね。

住民により近い地方自治体のほうが、住民のニーズをきめ細かく把握している
・不要不急の規制が多すぎる
・規制は既得権益保持のための方便
・責任だけ押し付けられ、財源はついてこない
国(中央政府)は信頼できない ← 支持=不信感の裏返し

国(中央政府)よりも地方自治体(地方政府)のほうがマシという根拠はあるのか?
・必要な規制(ナショナルミニマム)と不必要な規制を選り分けるべき
・一定の規制は国民サービスを守るために必要
・国にだって、お金はない
国(中央政府)は人々のいのちと生活を守るために必要 ← どうせ痛い目に遭わないとわからない

ナショナルミニマムの“条件”~地方分権とナショナルミニマム~100304湯浅誠(注:PDFファイルです)」(ナショナルミニマム研究会(第6回)について
注:資料はベン図のような配置となっていますので、原典をご確認ください。以下、強調は引用者によります。


この会合があったのが3月4日で、その翌日に湯浅氏は内閣府参与を辞任されたわけですが、この辺のいろいろな経緯をうかがい知るのに興味深い番組がNHKで放送されていました。solidarnoscさんのまとめを引用させていただくと、

湯浅誠:(記者に対して)国ってもうちょっと力あると思ってました。国が旗振っても駄目なことってけっこうあるんだと。エネルギーの7割を自治体対策に使っている感じだよね。8割か。


何も知らないからこそ、思い切った活動ができる面もあるのでしょうが、想像以上に何も知らなかったようですね。生活保護にしろ、生活資金貸付にしろ、実施しているのは自治体です。実施だけでなく財源も負担しています。国が「もっとサービスを充実させましょう」と呼びかけたところで「何?国がお金くれますの?」「お金はないです! (キリッ」「そりゃ無理ですわ」で終わりです。湯浅さんは公務員のことを慈善事業者やボランティアだと勘違いをしてるのかもしれません。「困っている人がいたらいてもたってもいられない」みたいな。
湯浅誠 -権力の懐から飛び出した男-(2010-03-07)」(精一杯の○○○


まあ、湯浅氏が何も知らないのは周知の事実だろうとは思いますが、「民意」なるものが後押ししているうちはまだいいものの、「民意」のほとぼりが冷めたころに会計検査院とオンブズマンがマスコミを引き連れて「バラマキ」とか「税金の無駄遣い」としてやり玉に挙げにくることを我々コームインは経験上わかっていますから、おいそれと慈善事業的な業務なんかに手を出せないわけです。もう少し詳しくいえば、そういった緊急措置として業務を拡充するときは往々にして、不正を働く輩を排除する仕組みも整備できないうちに、むしろ何でもいいから事業化しろとのお達しが走り出してしまうので、事後的に見れば「不適正」とか「違法」とか指摘される余地が大きくなってしまうのですね。

結局のところ、「自分以外への資源配分はムダ」とする方々同士の利害調整にどう決着をつけるかといういつもの話に行き着くわけで、それが湯浅氏が知らなかった最も重要なことでもあります。この点については拙ブログでは単に「利害調整」という言葉でざっくりと表現していましたが、potato_gnocchiさんのこのご指摘のように企業における意志決定と比較してみると違いが鮮明になるものだなと思いました。比較については全文を参照していただきたいのですが、行政機関に特徴的な点として、

特に官庁の場合は、関係者が非常に多いです。どんな小さい施策でも、その影響を受ける人の数は桁違い。そして、ほかの事では非常にまともなことを言う有力者が、別のまともな施策では「そんなの止めちまえ」と叫ぶことも少なくないようです。関係者が多いとどうしてもそういう意見の散らばりが生じてしまう。そして全部を説得するには関係者が多すぎて時間と手間がかかりすぎるし、どうしても何を言われても絶対に反対、という人が偏差値70の彼方には存在する

(略)

行政機関ではそうは行きません。民主主義だからです。民主主義の下では、ストックホルダーとステークスホルダーは常に同じです。そういう中で、秘密主義を維持することは本来容易ではなく、常にオープン化の圧力がかかっています。昭和の時代においては、官僚だとか政治家というインナーサークルに対する信頼がある程度存在したがゆえに、委任された範囲で秘密裏に決めればよかったのでしょうが、ここのところ、「俺たちも一枚噛ませろ」という参画意識と、その裏腹のインナーサークルへの批判の高まりのため、秘密主義は批判されるべきものになっています。

■[行政][経営]意思決定における秘密主義の由来と、秘密主義を補完するもの(2010-03-06)」(常夏島日記


という点が何をするにしても大きな制約となるのです。これを先ほどの会計検査院とオンブズマンの話に引きつけてみれば、「偏差値70の彼方に存在する」見識を疑うような批判があった場合、内閣の指揮権の及ばない会計検査院によるものであれば、我々コームインは否応なしにそれに従い、かつ処分を受けるという、「民意至上主義」的な観点からは矛盾に満ちた制度があります。さらに、これと正反対の回路を通じるものとして、「民意」そのものとして振る舞うオンブズマンの方による批判であれば、マスコミの方々はその指摘を絶対善として取り上げて援護射撃をしてくれますので、会計検査院の指摘と同様に従わざるを得ません。

つまりは、利害調整を怠ったりそれが不調でも構わず見切り発車したりすれば、会計検査院とオンブズマンの皆様が納得しないという理由で処分を受けるかもしれないリスクを負うことになるわけです。霞ヶ関の官僚の場合は、これにさらに「政治任用」という形で、時の政権に不利なことをすれば人事上の不利益取扱いが認められようとしているわけですが、いずれにしても多くの公務員が「役人の仕事なんて所詮調整だけだ」とか自虐的にいうのも、そこを踏み外せば取り返しのつかないことになるということが身にしみているからです。そういった役人の政策形成が、受益と負担を明示的に乖離させるというアクロバティックでリスキーな所得再分配を指向しなくなるのも自然なことだろうと思います。

まあこういった現状を踏まえて見てみれば、湯浅氏が会計検査院とオンブズマンとマスコミの方々が作り上げた世界にどっぷり漬かっていたとしても驚くには値しません。むしろより絶望的なのは、それを知った湯浅氏が「政権内野党」として行動するでもなくそこから立ち去ってしまったことです。つまるところ、彼が自認する「活動家」というのは、そういった複雑な利害関係の渦中に飛び込んで、自らそれを調整してより効果的な施策を作り上げるということではなく、ただ単に目の前の悲惨な事態への対処に専念して、たまにデモをしたりして外から批判することでしかなかったということなのでしょう。

このエントリーをはてなブックマークに追加

2010年03月07日 (日) | Edit |
すなふきんさんからトラバいただきまして(レスが遅くなりましてすみません)、公務員叩きが加速するのは不況下ではよくあることなのでそんなものだろうと思いますが、それよりすなふきんさんも指摘されているとおり、

一番まずい展開は、このままマクロ経済的に妥当な政策が採られないでずるずると悪循環にはまっていくケースだろう。地方分権や地域主権で個別ミクロ的な経済活性化や景気回復を目論んでもうまくいかず、むしろ中央に比較優位な再分配政策をスポイルする形で社会的混乱を招くだけという成り行きになりかねない。

■[経済][政治]政策の機能不全に気付かない人々(2010-02-28)」(すなふきんの雑感日記
※ 以下、強調は引用者による。


という事態がもっとも懸念されます。金融政策が適切に行われて景気が回復した場合であっても、その再分配の仕組みがうまく回らなくなってしまっていれば、結局のところ流動性制約が大きくて生活に困窮している層はその恩恵にあずかることはできません。ごく大雑把にまとめてしまえば、マクロでは日銀の金融政策が機能しなくなり、ミクロでは財政均衡主義とチホーブンケンにより所得再分配が機能しなくなる一方で、ただミクロの市場を通じた資源配分機能のみが強化されているのが、バブル崩壊後の構造改革政治の政策方針といえるのではないかと思います。そして、それを熱狂的に支持し続けているのが民意なわけですね。

この点は、すなふきんさんが今日のエントリで指摘されていることとも関連しますが、

経済についての世間知的な誤解は人間の直感が根拠になっている以上なかなか修正できないところがある。大学で経済学や金融の基礎をしっかり勉強しても、社会に出ればあんなものは机上の空論と思いがちだ。それよりも自分の生活実感の方が優先されてしまう。世論を賢明と考える原理的民主主義モデルだけに依拠していては多分まともな経済政策は機能しないと思う。世論は誤解の塊なのだから。それを修正していくことも大事だが、それ以上に重要なのは結果責任を負わせた専門家による統治の機能なのだろう。

■[政治][経済]専門家の機能と結果責任について雑感(2010-03-06)」(すなふきんの雑感日記


というように「再分配政策をスポイルする形で社会的混乱を招」いているのが民意至上主義であって、会計検査院とオンブズマンによるすばらしき世界も同様に、民意至上主義によってその影響力を強めたように思います。拙ブログでは「敬うべきモデル」という言葉を引用しましたが、どんなに間違っていても民意に忠実であることを求められるのが、我々コームインとその直接の指揮命令者である政治家ですから、政治家はその民意に反しているとして役人をつるし上げ、それを回避する優秀なコームインは日夜中央集権を解体しながら予算を削減し、1円でも多く経費を削るために競争入札での低価格入札と膨大な資料提出を民間企業に課すことになるわけです。

もちろん、当の優秀なコームインが必ずしもそのことを認識しているわけではありませんので、前回エントリに中年さんからいただいたコメントのように、

コスト意識と再分配政策

コスト意識の高い地方公務員がなぜ所得再分配政策立案能力が低くなるのかついていけませんでした。何かの政策を実現するために無駄なコストを削ることと、その政策の内容自体は、特に関係がないのではないでしょうか?

2010/03/01(月) 00:32:00 | URL | 中年 #pV44ABmc[ 編集]


と思う割合は、特にチホーコームインでは圧倒的多数ではないかと思います。それが、優秀なコームインによる所得再分配政策が期待できない理由となります(なお、この場合の「優秀」とは、首長や民意のファンタジーをかなえるという意味での有能さを指しています)。

経済学では資源配分と所得再分配は一応区別して分析されますが、実態として両者を切り分けることはほとんど不可能であって、典型的なのが公共事業ですね。経済学の概念で公共事業が無駄かどうかを評価するためには、本来なら社会的インフラ整備をどのように配分すればパレート効率性が達成できるかが問題となるはずですが、実態を見ればインフラ整備の進んだ都市部からインフラ整備の遅れている地方への所得再分配の機能も有しているわけで、単純に効率性基準のみではなく(仮説的補償原理でいえばカルドア基準とかヒックス基準とかに基づいて)所得再分配後の状態まで評価する必要があります。

これに対して、現政権が「コンクリートから人へ」というように、公共事業に対置するものとして介護や生活保護を考えてみれば、労働力人口が多くて経済規模の大きな都市部から、高齢化率が高くて経済規模の小さな地方への所得再分配として機能しているということは理解しやすいかもしれません。それは端的に言えばナショナルミニマムなわけですが、そのような所得再分配機能までもがチホーブンケンという効率化によって削減されているのが現状です。ことほどさように「無駄なコストを削る」というときの「無駄なコスト」は、得てして再分配機能を有していることが多いわけです。

さらにいえば、より直接的に所得を決定する企業内での労働分配率についてさえ、それを交渉する労働組合が「既得権益を守る抵抗勢力」として批判されています。まあ、この点は拙ブログでも延々と指摘しているように、労働組合自体にそういう歪な行動をとるインセンティブが与えられていることにも原因はありますが、いずれにしても、こういった複雑に絡み合った問題をワンフレーズポリティクスで民意に委ねるのは大変危険だろうということは、常々感じるところですね。

このエントリーをはてなブックマークに追加

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。