2010年02月28日 (日) | Edit |
前回エントリのはてブでいただいたコメントですが、

gruza03 行政, NPO オンブズマンの遣っている事はネオリベ=リベサヨなんだよな。「小さな政府」「地方分権」「ムダを無くせ」「バラマキ批判」を促進した印象があるもの。自分は格差拡大の主犯の一つだと思ってますよ。 2010/02/23

http://b.hatena.ne.jp/entry/sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-376.html


まあ、おっしゃるとおりだと思います。オンブズマンの存在意義を否定するつもりはありませんが、個人的に日本で活動的なオンブズマンの方々の主張に感じる違和感というのは、社会保障の拡充や労働者の待遇改善を求めるはずの左派の方々が多いにもかかわらず、「ムダをなくせ!」というまことにもっともな論理でもって、特に社会保障の現物支給(介護や保育、相談業務など)を行う労働者の待遇切り下げを主張するところですね。まるで「カイカク」という言葉には経費削減という意味しかないといわんばかりで、充実した効率的な社会保障の支給の仕組みを作るために財源と人件費を拡充するという発想がはじめから否定されているわけです。

ところが、個人的な経験では、身の回りでこういう話をしたときに「そんなの当たり前だろう」という反応をする割合が最も高いのが、実はコームインだったりします。民間の方々からは「もっと予算を増やして安心して生活ができるようにしてほしい」という意見も根強い(もっともその財源調達はあまり意識されてませんが)ように思いますが、その予算を執行する当のコームインは「自分の担当の予算なんか増やしたくない」というのが本音なんですね。

というのも、前回エントリで指摘したように、自分を含めたコームインは会計検査院やオンブズマンが創りあげた素晴らしき世界の住人であり、かつ民意の忠実な僕ですから、他人に支払うコストはできるだけ削ることが行動原理になるからです。この辺りは未だに誤解を受けているように思いますが、過大計上した要求で予算を取ってきて、予算使い切りとか随意契約でムダな予算を使いまくっているのが優秀なコームインだなんて発想はもはや過去の遺物といっていいでしょう。むしろ実態はまったく逆で、いま最新の流行は、要求する予算額を対前年度比でマイナスになるようどんどん切り込んで削減し、動いている現年度予算はできるだけ残すよう経費をけちり、少しでも賃金の高そうな職員は非正規職員に転換させるのが優秀なコームインとされています。これも会計検査院やオンブズマン、ひいては彼らの行動を最大の好意を持って受け止めるマスコミの方々のおかげですね。

いやもちろん、そういった「優秀なコームイン」は皆さんとてもまじめです。まじめだからこそ、ミッションオリエンテッドな姿勢を貫いて経費削減に取り組むわけです。そして、「民間の企業がこれだけ切り詰めているんだから、われわれ公務員も率先して給料を下げなければならない」ということを自ら申し出るわけです。まあ、実際は「大企業の給与水準を元に決められる人事院勧告とか人事委員会勧告がけしからん!」という民意に忠実に従っただけという側面もありますが、いずれにしても、特に人件費を増額するなんてことは、今後景気がよくなろうと期待できそうにありません。

より深刻な問題は、そういう価値観を持ったコームインの作る政策が所得再分配機能を持つことも期待できないということです。景気回復のためにリフレ政策を実行することも大事でしょうけど、その流動性を誰に配分するかという議論を、本来的に所得再分配機能の弱い地方自治体のコームインに任せてはいけないように思います。拙ブログでチホーブンケンやらチーキシュケンの問題点を指摘しているのもほぼこの点に尽きるといってもいいんですが、かといって政治主導はもっとアブナイところが絶望的なわけで...

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2010年02月22日 (月) | Edit |
黒川滋さんのブログで、赤木智弘さんのtwitterコメントを引用したさらに秀逸なエントリがあったので、全文引用させていただきます。

赤木智弘さんのtwitter、時々コメントが秀逸で笑う。シーシェパードの事件を受けて、

どうも環境保護団体って、金持ちが道楽でやってて、貧困問題とか鼻で笑いそうなイメージがあるんだよな。


環境運動だけならまだいいんだが、これに行政オンブズマン市民運動がくっつくと、貧困問題に対して、ほんとうに暴力的になってくるから怖い。自治体の非常勤職員に、彼らは、「試験も通っていない人がボーナスもらっている」などと優勝劣敗の自然淘汰の価値観を丸出しにし、憲法違反とも言いたくなるような法体系を持ち出して行政訴訟を起こす。そのために貧困にあえいでいると言ってよい。

ところが昨年来の貧困問題への関心の高まりとともに、彼らは「非正規労働の問題を適正化したい」などとふざけた言い訳をしているの。適正化のために失業したり、もらった給料を返さなくてはならなくなったりすることがどれだけ大変なことかわからないらしい。

彼らは富裕層で社会の寄生虫みたいな存在だったりするんだが。

2/17  貧困問題とか鼻で笑いそう」(きょうも歩く


確かに、自前で戦艦のような船舶を用意して遠洋まで捕鯨調査団を追いかけていって暴力行為を行うというのは、かなりの資産をお持ちの方にしかできない芸当ですね。そう考えてみると、日頃から自治体が行う活動を監視して怪しい処理があると見れば情報公開条例に基づいて資料を公開させ、住民代表として訴訟費用を持ち出しながら行政訴訟を提起していくというのも、生活に余裕のある方々ならではの行動だったんですね。

こういうことを書くとオンブズマンに酷い目に遭わされたから逆恨みしてるんだろうとか思われそうですが、幸いなこと(?)に今のところオンブズマンの方と関わりを持ったことはありません。むしろ、私がコームインになったころにはすでに、役所の中はオンブズマンの通った後で草木も生えていないというような状況でしたので、事務処理の内部チェックが「そこまでやるか」というほど厳しくなった状態しか知らないというところです。

内部チェックという作業については、国でいえば会計検査院、自治体では監査委員という部署が毎年度の会計処理を検査して全国を回るわけですが、おそらく真の意味で官僚主導ができるのはこの会計検査院という役所のみです。ここだけは内閣総理大臣の指揮が及びませんし、よっぽど酷い検査結果が出ない限り司法の判断に委ねられることもありません。そしてその会計検査院の行動原理は、「法律どおりの処理以外はすべて違法、不適正、不適切だと決めつける」というもので、これはそのままオンブズマンの行動原理と同じです。つまり、会計検査院とオンブズマンの手にかかれば、国だろうが地方自治体だろうが一切の裁量は認められなくなってしまうのです。

そんな会計検査院とオンブズマンに対する現場の対応としては、規定された手続きに従わなければ違法・不適正とされるわけですから、厳正な手続きを踏んでこれ以上経費を削れませんでしたという根拠となる書類を何枚も用意しなければなりません。さらに、公会計には発生主義という考え方がなく買掛・売掛という処理ができないので、つじつまの合う日付に書類を作り直す作業も常時発生することになります。そうして削られた経費とその処理に要した手間(労働時間、書類作成の経費)の比較こそが、たとえば事業仕分けで判断される必要があるだろうと思うわけですが、実際の事業仕分けは「とにかく経費を削れば、そのために要する労力やら手続き上の資源の浪費は問わない」というスタンスで進められているのは周知のとおり。極端に言えば、1円の経費を削減するためには、時給数千円になる職員が日夜書類作りに追われても構わないということになるんですね(もちろん、定められた手続きをないがしろにしていいという趣旨ではありません。その程度は、あくまで要するコストと得られるベネフィットの比較で決められるべきだと考えます。為念)。

という実態を踏まえて改めて黒川さんのご指摘をご覧いただくと、オンブズマンや会計検査院の指摘によって役所がブラック企業化していく状況が想像していただけるのではないかと思います。たとえば、だいぶ前に当時の上司と勤務時間を巡って口論になったことがありまして、こちらからは労基法の規定とか判例とかを持ち出して「そういうのって、法律や判例で認められた労働者の権利を一切認めないっていうことなんですかね」と聞いたところ、「お前になんて言われようと、俺はオンブズマンに申し開きの立たないことはしない! 訴えたいなら訴えろ!」といわれたことがあります。その上司曰く、「オンブズマンに訴えられたら自分の役人生命は終わりだが、部下からだったら訴えられても痛くも痒くもない」んだそうです。すばらしきブラック企業ですね。

もちろん、すべてのオンブズマンがそうだとは言いません。しかし、オンブズマンが非常勤職員の待遇を法律ぎりぎりの水準まで引き下げ、正職員には高コストなチェック体制を強要しながら極限まで働くことを要求し、その結果生じた社会的コストには目をつぶって目の前の削減されたコストだけを見て喜んでいるという状況は、この国ではそれほど珍しい風景ではないと思います。むしろ、それをもっと普遍化させたものがチホーブンケンやらチーキシュケンなわけで、マスコミが乗ってくればそれがあっという間に「民意」となるこの国で、この風景はさらに広がっていくのだろうなと遠い目をするほかありませんね。

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2010年02月12日 (金) | Edit |
最近労働ブログの様相を呈している拙ブログですが、久しぶりにチホーブンケンネタなど書いてみます(といっても、だいぶ前のhamachan先生のエントリからの孫引きで、しかも国公一般という国家公務員の労働組合の方のブログなので、結局労働つながりではありますが)。今回登場していただくのは、拙ブログでもねちねちと取り上げさせていただいている湯浅誠内閣府参与です。

 しかし、いまナショナルミニマム(政府がすべての国民に保障する最低限度の生活水準)は、「地域主権」「地方分権」という流れの中で、軽視されています。最近では、地方自治体の仕事の内容や方法を国が定める「義務づけ」をはずすという流れの中で、保育所の最低基準を無くそうとする動きなどが出ています。

 民主党の政策の中で、いちばん違和感を持つのはこの「地域主権」「地方分権」です。「新自由主義」「自己責任論」が地方にも押しつけられて、地域間の格差が広がったという問題を是正しなければいけないのに、そこを十分ふまえずに「地方分権」をさらに進めていけば、ナショナルミニマムは一層壊され、国民の暮らしはたちゆかなくなります。たとえば就学援助は、小泉政権の「三位一体改革」で地方に財源移譲された結果、財政の厳しい自治体ではどんどん減らされてしまいました。そういうことが他のいろんな施策でも起こりかねません。

湯浅誠さん「厚労省の貧困・困窮者支援チームやナショナルミニマム研究会は政権内野党」(2010-01-30 17:11:34)」(すくらむ
※ 以下、強調は引用者による。


湯浅氏については、拙ブログでも評価できるところもあるし評価できないところもあると指摘しているところですが、一番評価するべきなのは、結構あっさりと問題点を認めてしまってそれをご自身の意見として主張できるところでしょうか。ある意味節操がないということもできますが、教条に凝り固まった頑迷な原理主義者よりよっぽど評価できます。

で、チホーブンケンについては、国家としての取組が必要な政策を進めるに当たって、ご自身がその立場に立ってようやくそれが弊害以外の何者でもないという当たり前のことを理解されたようですね。というと湯浅氏は否定するかもしれません。実は、湯浅氏は以前から、生活保護の財源が地方に移譲されたために水際作戦が強硬になって貧困が増えてしまったと主張されていたので、単純なチホーブンケン教とまではいえないんですね。しかし、官僚主導だからそんなことになったんだと的外れな厚労省批判を繰り広げてもいたわけで、政治主導・脱官僚を是とする点においてチホーブンケン教と向いている方向は一緒だろうと思います。

さて、次に湯浅氏に求められることは、そういったチホーブンケンとかチーキシュケンとか盛り上がっている方々に対して、

 この年末の対策として、ハローワークと自治体などの職員が1カ所に集まり職業訓練と生活支援の相談を受けるワンストップサービスを全国204カ所で実施しました。私はこの中で、生活保護の受付もできるようにしたいと思いましたが駄目でした。生活保護費は国が4分の3、地方自治体が4分の1を負担しています。ワンストップサービスで、生活保護の申請まで受け付けたら自治体の負担が増えてしまう。申請者の掘り起こしになって負担を増やしたくないから、ワンストップサービスで窓口を設けたくないというわけです。生活保護も受け付けるなら協力できないと地方自治体から言われた厚労省や政権側も、結局「地方分権」の流れの中で「国が自治体に命令できる時代ではない」として動こうとはしなかったのです。生活保護の受付はできませんでしたが、今回のワンストップサービスをハローワークで実施できたのは、全国にあるハローワークが国の行政サービスだったからではないでしょうか。

湯浅誠さん「厚労省の貧困・困窮者支援チームやナショナルミニマム研究会は政権内野党」(2010-01-30 17:11:34)」(すくらむ


という現実を突きつけることでしょう。拙ブログでも「シビルミニマム拡充論に名を借りたナショナルミニマム削減論」としてのチホーブンケンとかチーキシュケンには常々疑問を呈してきましたが、政府内から発言できる立場にある湯浅氏がこういった見解を示したことは重要な一歩となると思います。

いつもの繰り返しになりますが、自治体の規模が小さくなるにつれて「小さな権限と大きな裁量」を与えるという形で、国のナショナルサービスを確立しながら地方の資源配分機能を高めていくことが、本当の意味での地方分権であるはずです。ここまで議論を進めることができれば、貧困という所得再分配によってしか解決できない問題に深く関わってきた湯浅氏にとっても本望ではないでしょうか。

この点について、拙ブログでいつも引用させていただいている「三倍自治」という言葉のネタもとである小西先生の議論を引用するなら、

 地方交付税は考え方が悪いわけではなく、量的に大きくなりすぎたことでナショナル・ミニマムの確保という本来の意味から実態として離れたことが問題である。どのように地方交付税を縮小するかという具体論こそが必要な議論である。
(略)
 国税と地方税の割合は、3対2、ところが地方交付税や国庫支出金で財源再配分がされると割合は2対3に逆転する。したがって地方交付税などの財源移転の規模が大きすぎると批判される。
 その裏返しとして、自治体は平均すると必要な財源のうち地方税でまかなえる部分は3割しかないので、三割自治という言い方もある。しかし本当の問題は、自治体はなぜ税収の三倍もの仕事をしなければならないのかという三倍自治の方である。すなわち、国は自治体に仕事させすぎていることが問題であって、その後始末として地方交付税がふくらんでいるにすぎない。地方交付税だけを取り上げて縮小するという議論は、表層的なものといわざるを得ない。
 また、自治体のすべき仕事を据え置いて、地方交付税を地方税に振り替えるという議論は、自治体の財政力格差を無視した危ない議論である。

地方財政改革論―「健全化」実現へのシステム設計地方財政改革論―「健全化」実現へのシステム設計
(2002/09)
小西 砂千夫

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p.30


というように、2002年の時点ですでに地方に仕事をさせすぎていることが問題だと指摘されていたわけです。ところが、ご承知のとおり小泉内閣はそれとはまったく逆の方向で「三位一体の改革」と称してチホーブンケンを進め、その正当な後継者である鳩山内閣はチーキシュケンを掲げて地方の仕事を増やすことに躍起になっています。為政者が国を解体する政策を掲げるほどに支持を集めるという状況では、この方向が変わることはないのでしょうね。

まあ、建国記念日にNHKが「双方向解説・そこが知りたい!「“地域主権”の国をどう創(つく)る」」という番組を放送するのも、大変に興味深いものがありますしね。

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2010年02月11日 (木) | Edit |
相変わらず更新が停滞気味ですが、第2話から「エンゼルバンク」見てみましたよ。Narinari.comで「厳しい船出の「エンゼルバンク」、長谷川京子の復帰作PRも効果なく。」とかいわれてしまったとおり視聴率的にはかなり厳しい状況が続いているようですが、個人的にはドラマとしてみるよりちょっとした教養番組的な見方をした方がしっくりくるように思います。ちょうどNHKでやっていた「出社が楽しい経済学」のようなノリもありますしね。

で、先週2月4日の第4話は、コミックでは7~8巻くらいで前田人事部長が語る年功序列がテーマの一つでした。このあたりからドラマ独自の設定が生かされたストーリーとなっているようでしたが、

 そんなとき、真々子はリストラ勧告されたばかりの53歳エンジニア・江村良男(北見敏之)と面談することに。良男は30年間貢献してきた会社に裏切られたショックを引きずりながらも、転職先を探そうとしていた。ところが、良男は面談室にコーヒーを運んできた夏生を見て愕然となる。なんと、夏生と良男は親子だったのだ! しかも、2人の仲は険悪な様子…。どうやら夏生は仕事人間だった父親のことをよく思ってないらしい。
(略)
 さらに、海老沢は真々子に「年功序列制度の意味とは何か?」と問いかける。真々子は「年齢の順に出世していくこと」と答えるが、海老沢は「それは、よくない思い込みだ」と一蹴。海老沢が説く50代転職者の3パターン、そして年功序列制度の真の意味とは…!?

おさらい 第4話予告ストーリー」(テレビ朝日|エンゼルバンク~転職代理人


この辺は職能給と職務給の違いを理解していないとなかなか腑に落ちないところだと思います。コミックの方でも新卒一括採用との関係で年功序列が語られていましたし、年功序列を理解するためには、仕事の「入口と出口」に当たる採用から退職までのプロセスにおける人間形成という視点が不可欠だろうと思います。

仕事で人間形成なんて大げさなと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも自分自身の人生を考えたとき、社会的常識なんてあやふやなものではなく、人間がどういうときに感情を揺さぶられ、どういうときに決断を下し、どういうときに判断を誤るのかという切れば鮮血が流れるような現実への対処方法は、仕事を通じた人間関係の中で初めて体得できたものでした。もちろん、それらの行動は長年培われた慣行や法規範に基づく合理的かつ合目的的なものであって、相手の行動を理解するためにはそういった社会的規範に対する理解が必要不可欠だということも、仕事の現場で体得したと考えています。

と考えたときに、いわゆる社会人というのは実社会の中で相互に干渉しあう中で形成されるものであって、8割以上が何らかの雇用関係にある現代の日本社会での人間形成の場は、とりもなおさずその労働者が属する職場となるはずです。このことを裏返せば、ちょうど社会的福祉政策を企業の福利厚生が肩代わりしていたように、学校教育が教養やら学問やらに傾倒している空白を補っていたのが企業における人材育成だったということもできます。そして、年功序列という雇用慣行は、そうした社会人としての育成プロセスへの積極的な参画を長期にわたって従業員に動機付ける仕組みとして、戦後日本において欧米よりも厳格な査定とともに高度に発達することになったのでしょう。

これについては、エンゼルバンクのモデルでもある海老原さんの近著では、多少引用が長くなりますがこう指摘されています。

 あなたは学生時代に、誰かに付きっ切りで、親身に手取り足取り教えたことがあるか?
 この両方の経験を持つのは、たとえばサークルで部長クラスだったとか、バイトでチーフを任されていた、といったほんの少数の人たちになるだろう。
 一生懸命競い合い、一生懸命誰かを教える。
 この苦しくも楽しい行為は、学生時代は一部特権階級の人にしか許されない。
 ところが、会社に入ると、両方ともほぼ全員が体感できることになる。
(略)
「社畜として尻を叩かれ続けるシステム」という言い方も正しいのかもしれない。
 が、そういう前に、平々凡々、表彰やレースとは無縁に生きてきた多くの学生にとって「やる気を刺激される仕組み」と前向きに受け止め、そして、誰でもかなりの確率で日が当たる人生の晴れ舞台、と考えてみてはどうだろう。
 日本型新卒一括採用を続ける多くの企業であれば、あなたが2年目になったときには、必ず後輩が自分の下に入ってくることになる。
 たった1年とはいえ、学生と社会人のレベル差は大きく、あなたはその後輩に対して、1年前の自分が苦しんだ姿を投影しながら、手取り足取り教えていく。
 20代前半の若年期から、日本型企業というのはこんな形で初歩のマネジメントを学び出す。
 こうした後輩教育・育成というものを、日常管理を通して行うスタイルを十数年続けて、多くの人は係長に昇進を果たす。
 その過程で、部下には怒りすぎると逆効果になる、とか、信頼と愛情があるなら下の人間は多少の無理も聞いてくれる、とか、私生活でも悩み事があれば相談に乗ることが組織衛生には必要なことだ、とか、教科書では教えてくれないマネジメントの主要素をいつの間にか体得していく。
「日本の企業」は、人間に不可欠な楽しみや張り合いや対人折衝力などをけっこう丁寧に教えてくれる。

学歴の耐えられない軽さ やばくないか、その大学、その会社、その常識学歴の耐えられない軽さ やばくないか、その大学、その会社、その常識
(2009/12/18)
海老原 嗣生

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pp.149-150


学校教育の尻ぬぐいといった面があるにせよ、かつての日本ではこうした「日本型雇用慣行」によって多くの国民に対してこのような人間形成の場が与えられ、それが経済成長を実現させる技術力やサービスの向上を可能にしたというのは、新卒一括採用、年功序列という雇用慣行を考えるときに忘れてはならないポイントだと思います。まあ、それは小池先生が示した「小池理論」にほかならないわけですが、いずれにしても、何の取り柄もない学生を新卒一括採用でいっぱしの社会人に鍛え上げる日本企業の懐の深さを認識するためには、海老原さんのこのご指摘をきちんと理解しておく必要があると思います。

もちろん、そのメリットのみを過大評価することも適切ではないでしょう(海老原さんが「けっこう丁寧に」と控えめに評価しているのもその辺を意識されているのかもしません)。このような雇用慣行が持続可能であったのは労働人口の増加と経済成長がその前提にあったからなわけで、バブル崩壊後は、長期的に人材育成に対する投資を回収するモデルが成果主義賃金体系などによって崩壊させられたのと軌を一にして、企業が担っていた人間形成の場としての機能を捨て去ろうとする流れが出てくることになります。

端的には、経営法曹会議会員でもある丸尾弁護士のこのご指摘がその流れを物語っているように思います。

 能力不足を理由とする解雇は難しいとされてきました。「能力」の定義は曖昧(あいまい)で、定義もできないものの「不足」を主張・立証することが困難なためです。日常の職場の中で特定の労働者の能力不足を上司や同僚が痛感しても、これを言語で表記することは容易ではありません。

 これまで、能力開発はOJT(On the Job Training)によるとされてきました。このため、OJTの失敗は企業の仕事の与え方が悪かった、あるいは上司の付け方が悪かったことを意味するとされました。つまり企業の人事権が強すぎる反面、人事権行使の結果として能力不足の労働者が生じても、それは企業の責任であると考えられてきました。
(略)
 しかし、長期雇用が変容し中途採用が増加してくると、状況は変わってきます。また、技術革新に伴う能力の陳腐化が急激に生じる状況で、その「バージョン・アップ」や、全く異なる能力の教育までをも企業の全責任であるとは言えなくなってきます。そもそも、そのような外部環境の著しい変化を労働契約の締結時に予定していたかが、改めて検討されなければならないでしょう。

第82回「ミスマッチの解消と教育訓練」(2010/02/03)その1


いやもちろん、企業が人間形成にすべての責任を負うべきというつもりもありませんし、これまでの人間形成の経路が企業に負いすぎていた嫌いもあるだろうと思います。しかし、その機能を企業が担わなくなった(担う余裕がなくなった)とき、住宅などのセーフティネットが整備されていない日本の社会保障制度と同様、誰がそれを提供して誰がその費用を負担するのかという再分配問題がここでも顔を出すように思われるのです。

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2010年02月01日 (月) | Edit |
いやもう1月終わりですか。
何となくブログで書いておこうと思うことはあるんですが、土日にしか更新する暇がなくて、しかもその土日もつぶれ気味とあってはどうしようもありません。言い訳っぽいエントリで1月を締めるのもなんなので(といってもアップするころには月が変わっているでしょうけど)、積み残しのうち1月のうちに取り上げておこうと思ったのが、切込隊長こと山本一郎氏のこのエントリです。

 ただ、確かに労働組合が単純悪とは言えず、労働者に経営感覚や社会常識といった智恵があったら労働者であるはずもないので、彼らに知性を求めるのは酷であるし、徒党を組んだら文殊の智恵となる類のミツバチのような群生的な集合知など期待できようもありません。突き詰めれば、微妙な人が結社化して経営の合理化がなかなかできなかったという過去の経営が営々と積み重ねた赤字が問題だろうと思うので、労働組合としては真面目に問題に取り組んでるだけなんだろうなあと。知力が足りないだけで

JALの労組は、本当に真の勇者の集まりだな(2010.01.20 at 14:20)」(切込隊長BLOG(ブログ) Lead‐off man's Blog


という部分の記述は、しみじみと味わい深い経営者の言葉だなと思いました。ここで「経営者」という言葉を使っているのは、いろいろと物議を醸してしまった「経営者目線」とは違う意味です。これは皮肉でもなんでもなく、経営のリスクを負いながら卓越した経営手腕によって利益を上げている方から見れば、労働者というのはまさにこういうものなのだろうと実感したので、敬意を表する趣旨の表現として使っています。

実際に、リスクを負うだけの才能も器量も運もない労働者が大半を占める現実世界にあって、経営者として利益を上げている方々というのは、労働者にしかなれない私のような凡人にメシの種を提供してくれる貴重な存在であって、その点についてはきちんと社会的に敬意が払われてしかるべきだと思います。そして、その経営者の圧倒的優越性を前提とする限り、労働者が個別に太刀打ちできる相手ではなく、集団的にしかその経営者と対峙できないこともここで十分に理解される必要があります。

山本氏のこの指摘は、そういった集団的交渉によって「知性が足りない」労働組合に経営者が振り回されてしまったという趣旨かと思われますし、山本氏は投資家でもありますから、そうしたふがいない経営者のために株主配当が減ってしまったことも労働組合の横暴がその原因と映るのでしょう。

ただ、そうした「行き過ぎた労働組合」が皆無とはいいませんが、その労働組合が交渉して勝ち取った労働条件によって、パイロットやキャビンアテンダントの方々が安全で快適なフライトを提供することができたという前提が成り立つ限り、労使交渉の成果の是非だけを論じることはあまり公正な態度ではないように思います。もしかしたら、その快適なフライトの恩恵にあずかっていた利用者がその利益に見合わない低いコストしか負担しなかったために、そのために必要な労務費によってJALの経営が行き詰まってしまったということもできるかもしれません。

まあ、その辺の実態はよくわかりませんし、報道等を見る限りJALの労働組合が過大なフリンジ・ベネフィットを得ていたようには見えますが、労働者に報いることのできない形であってもいいから、とにかく公費の投入を極力抑えつつ企業を存続させるというのが、利用者の立場から見て本当に望ましことなのかは一概には言えないのではないかと思った次第です。

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