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2009年12月28日 (月) | Edit |
hamachan先生に取り上げていただきました。そもそも拙エントリが言葉足らずなもので恐縮なんですが、私のいわんとするところを「認識不全メカニズム」というタームで論理的に言語化していただき大変感謝しております。特にこの部分で指摘されているような、

ちょっと反省すればそれが自分をますます奴隷化する負のスパイラルであることはわかりそうなものですが、そうならせないための認識不全メカニズムとして活用されたのが、身分的な転換可能性がない(と感じられる)公共部門だったのでしょうね。コームインを叩いている限りは、自分が叩かれる側になったら・・・という反省が生ずる可能性はないので、安心して叩ける。しかし、社会システム全体としては、その「叩き」は公的サービスだけではなく、民間サービスすべてに及ぶわけですが。

(追記)
(略)
ただ、認識は不全であっても、このような言動が正義であるという社会意識は客観的には民間企業の労働者諸氏にも十分に反映されますので、たとえば阿久根市に所在する民間企業の社長さんが、

>コームインですらああなんだから、ましていわんやお前ら民間労働者は・・・

という風に行動することになり、その帰結が阿久根市の民間労働者のみなさんに影響することになったとしても、それはいうまでもなく阿久根市民のみなさんの民主主義のたまものであるわけです。

他人の職業や待遇について「経営者目線」で批判することは回り回って労働者であるご自身に跳ね返ってくるというカラクリ(2009年12月27日 (日))」(EU労働法政策雑記帳
※ 以下、強調は引用者による。


という、叩いている側と叩かれている側が実は相互に影響し合うという現実を認識できるかが非常に重要だと思います。

私のようなチホーコームインに身近な例でいえば、数年前になりますが、市営バスの運転手とか公立学校の給食のおばちゃんとか公立保育園の保母さんの年収が1,000万円近くになるのはけしからんというバッシングの嵐が吹き荒れたことがあります。私も直接電話でクレームを受けたことがありますが、批判する方曰く、「民間はもっと切り詰めてやっているのに、公務員だからといって年功序列で給料が上がるとは何様のつもりだ!そんな特権階級は首にしろ!」とのことでした。

そういった批判を丹念に整理してみると、実は公務員であることを問題としているのではなく、給与体系が年功序列的に上昇していくことを批判していることに気がつきます。ところがここに注意が必要なわけで、給与体系が年功序列だという点に批判が集中してしまうと、不特定多数が利用する交通機関や、育ち盛りの子供たちの昼食や、親が面倒をみられない幼児の世話という高度な注意義務が要求される業務であっても、それに携わる方々については、民間だろうと公務員だろうと年功序列で処遇することはもってのほかということになってしまいます。そして、これらの業務を民間委託するなどして、年功序列ではないより低賃金の労働者に担わせるべきだという「経営者目線」の論理に「民意」が根拠を与えてしまうのですね。その「民意」の後ろ盾さえ確保できれば、まずは「民意」が究極のボスとなる役所から、人件費の削減が拍手喝采を浴びて実行されるというのが現在の流れといえるでしょう。

暗愚な経営者からすればこんなに楽なことはありませんね。「民意」が低賃金の労働者を増やすことを要求しているわけですから、七面倒な労使交渉で賃金を決定するまでもなく、「アウトソーシングしてコストカットするぞ」とでも「正社員はコストが高すぎるから、おまえは明日からパートで働いてもらう。いやなら辞めていいんだぞ*1」とでもなんとでもいえてしまいます。もし「そんな横暴は許されません!」なんて空気を読まない労働者がいても、「○○知事をみろ。景気低迷の中でコームインを減らしたり公共工事を削減して財政再建に取り組んだことが評価されて、圧倒的多数で再選されているんだぞ。おまえのわがままなんか聞いてられるか!」と一喝することも可能です。または、役所から低価格で委託された事業のために低賃金の臨時雇用が増えてしまっても、そのために生活が苦しくなった労働者に対して「税金なんだから財政再建のために我慢しろ!」といえばオールオッケーです。

最近、現政権が野党時代に繰り広げていた与党攻撃のブーメランぶりが話題となっておりますが、財源の裏付けすらないマニフェストで「まず、政権交代」と主張したブーメラン野党を選んだ国民の側にもブーメランが帰ってきているわけで、そんなブーメラン政権の姿は、果たしてそれを笑うことができるのかと国民一人一人が自問するための手本なのかもしれません。それがせめてもの「政権交代の意義」だと思いたいところです。




*1 こういった「down or out」的な解雇については、日本でも変更解約告知を認めた判例が一部にあります(スカンジナビア航空事件等)が、労使交渉が形骸化している現状では、ドイツなどで変更解約告知とセットとなっている解雇の留保の実効性を確保することは難しいでしょうから、整理解雇事案として扱うしかないと思われます。

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2009年12月26日 (土) | Edit |
今回も前回エントリは前振りでして、yellowbellさんのエントリを拝見して唸らされてしまったので自分の「労働」観と照らし合わせてみました。というか、この部分を読めただけでも大きな収穫です。

「育休取るって、お前の仕事は誰がやるんだよー」なんて上長もよく見かけますが、そのために管理職の権限を持っているのです。上司には早いとこ休暇中の業務体制を示してもらって、休みまでに誠実に引き継ぎができるようにしなくてはいけません。もし「休んでいいけど、お前の代わりは自分で見つけて引き継ぎしとけよ。俺は知らんぞ」という上司がいるなら、その上司が部下への指揮命令を怠ったことになり、自分の義務を果たしていないことになります。その場合は、ちゃんとそれを指摘して、それでもわからない場合はさらにその上長に相談をすべきです。「そんなことできっこないよー」という職場で、なおかつ組合がないようなら、それは慢性的に権利侵害が放置されている、いわゆるブラックな企業です。労働基準局あるいは労働基準監督署は、いかめしい名前と違って高圧的な空気もなくとても優しいですから、上司だけでなく企業そのものに取りつくシマがなければぜひ相談にいってください。案外おどろくほど、そういう会社の問題は把握されてたりしますから。

労働者の義務と職場のジレンマ(2009-12-14)」(背後からハミング
※ 以下、強調は引用者による。


ええと、われわれコームインはいくら国民の皆様のために働こうが、当の国民の皆様にとっては「税金で飯を食う公僕という名の奴隷」であって「こいつらの人件費のせいで財政が悪化した」元凶でしかありませんので、小泉内閣時代に閣議決定された「国の行政機関の定員の純減について」においては、

国の行政機関の定員(平成17年度末定員を基準とする。以下同じ。)332,034人に対して、平成18年度から22年度までの5年間で5%以上の純減を行う。

平成18年6月30日閣議決定:「国の行政機関の定員の純減について」」(行政改革推進本部事務局・国家公務員制度改革推進本部事務局


とされております。現下の景気低迷の折でハローワークの人員不足が深刻となっていますが、実はこの閣議決定において

①  ハローワーク・労働保険(労災)関係17,178人について、定員管理による純減のほか、次のとおり、業務見直しにより738人を純減する。
- 職業紹介関連業務について、市場化テストを含む民間委託により501人を純減
- 労働保険の適用・徴収関連業務について、民間委託や社会保険との滞納整理の一元化等により202人を純減
- 雇用保険三事業の助成金の審査・支給業務の効率化により35人を純減
②  以上のほか、次の見直しを行う。
- 職業紹介業務について、社会経済情勢の変化に応じて、民間参入の拡大や民間委託等を推進する。
- 雇用保険三事業の廃止を含めた徹底的な見直しについてできる限り早期に結論を得て、それに応じた定員の純減を行う。
- 社会保険・労働保険の適用・徴収業務について、整合的な情報システムを構築しつつ徴収事務の一元化等の取組を着実に進め、実施体制の効率化と利用者の利便性の向上を推進する。

平成18年6月30日閣議決定:「国の行政機関の定員の純減について」」(行政改革推進本部事務局・国家公務員制度改革推進本部事務局


とされていたのも遠因となっています。市場化テストの結果がどうなったかは周知のとおりではありますが、いずれにしても国民の皆様の代表である閣僚の方々が「人件費を増やすのは認めない。ダメ。ゼッタイ。」とおっしゃる限り、物件費でその賃金が計上される非常勤職員や臨時職員で対応するしかないわけで、それが官製ワーキングプアを多数生み出していたりもするんですが、むしろ「コームインどもが酷い目にあっていい気味だ」という反応が多いように思うのは気のせいでしょうか。

もちろんこれはハローワークなどの国家公務員に限った話ではなく、地方自治体も「今後の行政改革の方針(平成16年12月24日閣議決定)」において

(2)   地方行革の推進
ア   地方公共団体の行政改革については、これまでも平成9年の「地方自治・新時代に対応した地方公共団体の行政改革推進のための指針」(以下「平成9年地方行革推進指針」という。)等に基づき地方公共団体に積極的な推進を要請し、各地方公共団体において真摯に取組が行われてきているところであるが、社会経済情勢の変化を踏まえ更に積極的な取組を促進するため、以下の事項をはじめとする行政改革推進のための新たな指針を平成16年度末までに策定する。
(ア)   地方公務員全般にわたる定員管理及び給与の適正化の一層の推進等
  地方公務員の定員管理については、平成9年地方行革推進指針に基づき、各地方公共団体において数値目標を定めた行政改革大綱を策定するなどの取組が行われてきているところであるが、社会経済情勢等を踏まえ、更なる定員管理の適正化をより強力に進めるとともに、定員適正化計画の策定・見直しを推進する。
  地方公務員の給与については、なお一部に見られる不適正な給与制度・運用について、業務の性格や内容を踏まえ、その適正化を強力に推進する。特に特殊勤務手当等の諸手当について各地方公共団体自らが総点検を行うとともに、昇格・昇給の適切な運用について、重点的な取組を行うよう要請する。また、地域の民間給与の状況をより的確に反映し決定できるよう、人事委員会機能の強化をはじめとして、地方公務員の給与の在り方の見直しに向けた取組を推進する。
  さらに、地方公務員の定員・給与等の状況の公表内容の充実を図り、議会や住民への情報公開を徹底する。

● 今後の行政改革の方針(抜粋)」(地方公共団体における行政改革の取り組みについて(地方行革コーナー)


とされております。つまり、yellowbellさんがご指摘されるブラック企業の要件である「「そんなことできっこないよー」という職場」については、国の役所も地方の役所も余裕でクリアしているわけです。さらにいえば、ご承知のとおりコームインは団結権、交渉権、争議権の労働三権をフルには認められていませんので、もう一つの要件である「組合がない」も、民間企業を基準として考えればクリアしてますね。

以上から、コームインが働く役所は「ブラック企業」であるという結論が導かれました。うすうす感じてはおりましたが、こうはっきり認識してしまうとモチベーションが上がりませんなあ・・・というか、私が「経営者目線のカイカク」を執拗に批判する理由もここにあるわけでして、他人の職業や待遇について「経営者目線」で批判することは回り回って労働者であるご自身に跳ね返ってくるというカラクリについて、冒頭で引用したyellowbellさんのエントリでご確認いただければと思います。

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2009年12月26日 (土) | Edit |
前回エントリでの自己レスですが、

「労働」をよく知っていると自任される方と、「経済」をよく知っていると自任される方が他方を見下す傾向にあるのが興味深いところで、後者の例として一例を挙げれば、

http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51630684.html

などはその典型ですね。

この方の場合はあくまで「自任」しているだけで、「労働」も「経済」も両方とも認識する範囲が半径5メートルくらいで完結してそうなところもありがちな感じです。
2009/12/22(火) 08:17:01 | URL | マシナリ #-[ 編集]


この方の書評と「吐息の日々」でroumuyaさんが公開されている書評とを見比べてみると、拙ブログでたびたび批判している「経営者目線」と実務家の考え方の相違がよくわかるのではないかと思います。端的には、民間企業で人事労務の実務を担当されているroumuyaさんのこの指摘を、自身の「労働」観と照らし合わせて実感として感じ取れるかどうかが分かれ目になるのだろうと。

 いっぽう、本書は昨今の規制強化、労働市場改革のバックラッシュに対する警鐘という位置づけを意識されていることも容易に読み取れる。そのため、展開される議論や提案される政策が、その方向性は適切であるにしても、程度問題としてやや極論に走ったり行き過ぎたりする感があることは否定できない。典型的には、日本的雇用慣行の弊害が強調されすぎた結果、有効性が過小評価されて明らかに現状を逸脱しているし、そのほかにも、個別に細かくみれば行き過ぎと思われる提言も多々みられる。これは、現実にあまりに過度に日本的雇用を維持しようとする反動的政策が進みつつある現状に対する危機感ゆえに、あえてバランス感覚を犠牲にしたものと解したい。

 この手の本はともすれば極論部分のみが目立ってしまいがちであり、それのみを読み取ると不毛の議論に陥りがちであるが、極論の書であることを念頭において、バランス感覚に留意して読み進めれば極めて有益な内容を多く含んだ本である。特に現状分析はかなり的確であり、多くの人に広く参考となる本としておすすめしたい。

2009-12-21 八代尚宏『労働市場改革の経済学』」(吐息の日々~労働日誌
※ 以下、強調は引用者による。


率直に言えば、藤沢数希さんのブログとそこでコメントされている方々が「それのみを読み取ると不毛の議論に陥りがち」を体現されていることことは残念な感じですねえということです。多くの国民が自らの「労働」観に何の疑問も持たず経営者に都合のよい労働者を再生産し続ける限りは、労働者の利害を集約する労働組合がその存在意義を失うのは当然のことでしょうし、第二臨調に基づく四公社の民営化による官公労の解体は、その思惑どおりに日本の経営者にとって好都合だったということになります。言い換えるなら、現在の日本の姿は第二臨調を主導した土光敏夫氏による「経営者目線のカイカク」によってもたらされたものということもできるでしょう。

土光氏についてのWikipediaの記述を借りるなら、

昭和11年(1936年)、芝浦製作所と共同出資による石川島芝浦タービンが設立されると技術部長として出向し昭和21年(1946年)に社長に就任した。この頃その猛烈な働きぶりから「土光タービン」とあだ名される

昭和25年(1950年)、経営の危機にあった石川島重工業の社長に就任し再建に取り組む。敏夫は徹底した合理化で経営再建に成功する。昭和34年(1959年)に石川島ブラジル造船所を設立。さらに昭和35年(1960年)、播磨造船所と合併し石川島播磨重工業を設立した。この間、昭和34年(1959年)に造船疑獄に巻き込まれて拘置されるも処分保留で不起訴となる。

昭和40年(1965年)、やはり経営難に陥っていた東京芝浦電気(現在の東芝)の再建を依頼され社長に就任する。ここでも辣腕を振るい翌昭和41年(1966年)に再建に成功する。しかし、敏夫のいわば「モーレツ経営」(就任時の取締役会での挨拶は「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」というものである)は東芝の体質を変えるまでには至らず昭和47年(1972年)に会長に退いた。

土光敏夫 - Wikipedia


日本的雇用を否定される方々がもっとも嫌うであろう「労働」観を持つ土光氏が、企業による生活保障を前提とした「増税なき財政再建」を掲げて行財政改革を進めたことと、バブル崩壊後に「小さな政府」を目指す新自由主義的なカイカク病が蔓延したこととは表裏の関係であって、そのことに無自覚な新自由主義者の方々が「日本的雇用は崩壊したのだから、これからは雇用を流動化しなければならない。会社人間なんてくそ食らえ!」と叫ぶ姿は、この国の現状をよく表しているのだと思います。

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2009年12月20日 (日) | Edit |
景気の低迷期には否応なしに労働問題がクローズアップされるわけですが、その一方で「労働」という言葉に関しては、新自由主義であろうが左派思想であろうがネガティブなイメージを重ねて語られる方が多いように思います。私の知っている経済学者の方でも「労働経済学者は変わり者ばかりだ」と公言してはばからない方もいらっしゃいますし、特に(いわゆる近代)経済学でもない労使関係論とか労働法とかの研究者だというだけで、「今時マルクスかよ」とか「市場原理を否定する社会主義者だろう」とか偏見を持たれそうな気がします。

かくいう拙ブログでも、労働について書くとGoogleリーダーのおすすめに社○党とか共○党の議員さんのブログが表示されたりするので、「労働」という言葉が党派制を持っていることは事実だろうと思います。でまあ、そういう「労働」という言葉が背負ってしまったイメージと、「経済」という言葉が与えるイメージというのを考えると、意外に共通しているところがあるのではないかと最近思い始めました。

というのも、「労働」と「経済」はともに、どんな国民であっても直接・間接に関わっている行為を切り取った概念であるために、人それぞれに一家言を持てるのがその理由ではないかと個人的に考えています。まず「労働」についていえば、不労所得をもたらす資産がない限りは、貨幣経済において貨幣を得るために「主体的に」何らかの労働をしてその対価を得る必要があります。資産を有していたとしても、その資産を活用して企業活動を行ったことによる不労所得を得ているのであれば、大抵の場合その事業に従事する労働者を雇用して分業体制をとる必要が生じるでしょう。たとえ全くの家族経営による自営業であっても、資材の調達や財・サービスの取引の相手方の一定割合は労働者を雇用しているはずなので、その限りにおいて「労働」の成果を「主体的に」取引していることになります。一方「経済」については、同じく貨幣経済において日々「主体的に」消費するために貨幣(現ナマ)が必要となりますし、流動性選好や相続のための流動性の貯蓄はほぼすべての国民が「主体的に」行っているはずです。

つまりは、国民が日々直接・間接に関わっている行為の大部分は、「労働」と「経済」という概念で切り取ることができるのであって、しかもその関わり方は誰に強制されるでもなく「主体的に」行われているわけです。もちろん、そういった貨幣経済とか資本主義そのものがけしからんという立場の方もいらっしゃるでしょうけど、少なくとも日本という資本主義国家で生活する限りは、「労働」と「経済」に「主体的に」関わらなければ生きていくことができません*1。となると、それぞれ国民にとっての「労働」とか「経済」という言葉は、それぞれの国民が日々営んでいる活動によって定義されてしまうことになります。ここに、「労働」観とか「経済」観が乱立する素地が生まれるのではないでしょうか。

「俺は労働なんて古臭い言葉は使いたくないから、『仕事人』だと思っている」という労働観も、「うちの従業員は労働法規違反があっても変な労働運動もしないで、会社のために働いてくれる家族のような存在だ」という労働観も、「インフレになると給料の額面で買えるものが減ってしまうので困る」という経済観も、「財政が企業にたとえればとっくに倒産するような借金まみれになったのは、官僚とかそれと癒着した大企業が無駄遣いしているからだ」という経済観も、どんなにそれが間違っていたとしても、それぞれの国民の日々の活動の中で育まれた実直な物語であることに違いはありません。

そういった国民の実直な物語を是正することは、少なくとも「民意至上主義」においては誰もできるはずがありません。言い方を変えれば、「民意による政治主導」とは、間違っていようがいまいが「国民が信じる物語」のみを根拠とする意志決定システムです。最近政権党の「豪腕幹事長」が隠然と影響力を行使し始めていますが、「国民が信じる物語」を自らが体現しているとでもいわんばかりの彼の行動*2をみていると、民主的なワイマール憲法によって人類史上最大級の悲劇がもたらされた政治状況とはこういうものだったのだろうと思えてなりません。その反省がケルゼンの「違憲立法審査権」として実現したり、「法による支配」が西欧各国の基本理念として採用されることにつながったわけですが、それを再び反省し直さなければならない状況だけは何とか回避したいものです。

そのためにも、「労働」とか「経済」という言葉を、自らの日々の活動から帰納的に定義づけるのではなく、日本という単一国家の国民として、全体のシステムの中で演繹的に把握する努力が重要なのだと思います。その際、すべての国民がそんなことできるわけはないので、それを集約していく中間組織が必要不可欠となるはずです。それが労働組合であったり、経済政策を立案するテクノクラートを要する政府組織や研究者供給システムだったりするんですが、「民意至上主義」を標榜する歴代の政権党によって、これらの中間組織はことごとく目の敵にされてしまいました。

個人的には、これらの組織を立て直さない限りまともなシステムが機能することはないと思うんですが、「「労働組合」って一体なんなの?」と当の労働者が疑問を抱くような集団的労使関係法制の見直しがスルーされる一方で労働者派遣ばかりが悪者扱いされ、一部のリフレ派が社会保障の財源を確保すると不況になるから認めないと主張する一方で日銀はデフレを容認し続けるという事態はしばらく変わる気配がありません。まあ、国民がそのような変化を「主体的に」担う組織を否定しつづける限りは当然の帰着ではあるわけで、国民自らが望んだことだとあきらめるしかないのでしょうね。




*1 障害者など「主体的に」「労働」や「経済」に参画できない方については、別の仕組みが必要となるのはいうまでもありません。
*2 小選挙区制での彼の得票をみれば、国の一部において133,978票を得たに過ぎないんですが、政府や党を飛び越えつつある彼の支持基盤はそんなに日本という国の「民意」なるものを体現しているのかはなはだ疑問です。

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2009年12月10日 (木) | Edit |
経済学に造詣が深くなると保護貿易とかには即座に拒否反応を示す方が多いように思いますが、同じように経済学の立場から拒否反応を示されやすいのが最低賃金ですね。といっても、どちらかというと「どマクロ」の方にはミクロな政策を否定しがちな傾向があると理解すべきであって、それはマクロ経済学の生い立ちを踏まえてみれば当然のことなのかもしれません。というわけで、応用ミクロ経済学の一分野である労働経済学では最低賃金についてどのようなモデルを考えているのかを確認してみます。

題材として樋口先生の『労働経済学』から引用すると、
労働経済学 (プログレッシブ経済学シリーズ)労働経済学 (プログレッシブ経済学シリーズ)
(1996/02)
樋口 美雄

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まずは経済学で通常想定される需給関係について、

市場の労働供給曲線と政府の政策

 以上の考察は、個人の労働供給曲線について行ってきたが、市場全体の労働供給曲線は、労働需要の場合と同様に、個人について導かれた供給曲線を集計することによって得られる。
 図2-7(省略)のように、集計された市場全体の供給曲線が右上がりであるならば、需要曲線が右下がりであるかぎり、市場の需給調整に任せることによって賃金が変動すれば、均衡賃金、均衡労働量が成立し、失業の存在しない状況を達成することができる。もし均衡賃金よりも市場賃金が高ければ、超過供給が発生し、労働者間に賃金引き下げ競争が起こって賃金が引き下げられて、均衡賃金が達成される。
 この場合の政府の役割は、調整を素早く達成できるような環境を整える施策をとることである。もし最低賃金が均衡賃金より高く設定されていて、需給調整を不可能にしているとすれば、失業(超過供給)を減らすためには、政府は最低賃金の引下げを検討しなければならない。あるいは失業給付が賃金調整を遅らせているならば、市場メカニズムが迅速に働くようにこれを阻害している要因を取り除く対策が必要である。この場合には、失業の存在は、均衡賃金を上回る市場賃金に原因があるからである。最低賃金制度を廃止したり、失業保険給付の適格条件を厳しくすべきだという世界的な最近の論調の背景には、こうした認識が働いているのである。

樋口『同』pp.61-62
※ 以下、下線太字強調は引用者による。


とします。手元にある版は2004年の第8刷ですが、1996年の初版から変更はないようですので、ちょうどバブル崩壊後の就職氷河期真っ只中に書かれた「世界的な最近の論調」という表現が味わい深い説明です。そして、樋口先生はその直後にこう続けます。

しかしこの場合でも、1章で述べたように、たとえ賃金の引下げにより一時的に超過供給がなくなったとしても、所得は低下してしまう。その結果、生産物需要を減少させ、労働需要曲線を左下方に押し下げて縮小均衡が発生しうることには十分留意しておく必要がある。

樋口『同』p.62


マクロよりの方が重視するデマンドサイドへの影響を考慮すれば、最低賃金を下げれば失業者が減ってみんなハッピーとはいかないこともあり得るわけです。

さらに重要なのは、労働市場においてはこのような標準的な経済学で想定される需給関係以外の状況が発生しうるということです。

 また供給曲線が右下がりである場合には、市場の需給調整に任せておけば問題は解決するといった議論は大きく変更せざるをえない。図2-8(引用注:省略)のように、たとえ需要曲線は右下がりであっても、もし供給曲線がこれよりも緩やかなマイナスの傾きを持っている場合には、市場メカニズムが働いたとしても、自動的に均衡点に到達できるわけではない。均衡賃金(w/p)*(引用注:右下がりの需要曲線とそれより緩やかな右下がりの供給曲線が交わる点における賃金)より高い市場賃金が成立しているときには、超過需要が発生し、企業が労働獲得競争を行うようになるため、市場賃金はますます上昇する。逆に何らかのショックによって均衡賃金を下回る市場賃金になったときには、労働者側が賃金引き下げ競争を行うようになるため、賃金はますます低下する。この場合には、賃金低下の歯止め対策として最低賃金制度が必要になったり、労働者が売り急ぎをしなくてすむような所得保障を目指した失業保険制度、あるいは政府による有効需要拡大政策が必要になる。
 このように労働供給曲線がどのような形状になっているかを実証的に確認することは、失業への対応策を講じるうえで、きわめて重要な課題といえよう。

樋口『同』p.63


と「実証的な確認」の重要性を強調されているように、労働市場がどうなっているのかを踏まえた議論が必要なわけです。

ここで、今さらながらデフレ宣言された日本経済で何が起こっているかを勝間氏のプレゼン資料から引用すると、


国家戦略室への提言「まず、デフレを止めよう~若年失業と財政再建の問題解決に向けて」(PDF資料)3ページ

 デフレインフレ
企業活動モノが売れないので、生産は縮小傾向
売上減少で倒産が増える
モノが売れるので、生産は拡大傾向
売上増加で倒産が減る
雇用生産が縮小傾向になるので、求人が
減る。賃下げ、リストラも行われる。
生産が拡大傾向になるので、求人が
増える。賃上げ、中途採用も活発化。
失業増える(特に若年雇用は消滅する

減る



・(P2、3、4)デフレスパイラルが発生すると、もっとも困るのは弱者の雇用。特に、若年層や女性。なぜなら、特に正社員賃金には下方硬直性があるため、売上高や利益の減少に伴い、雇用主は賃金の切り下げだけでは追いつかない部分を、非正規雇用を増やしたり、雇用を控える、ということで対応する。フィリップス曲線は古い理論だが、皮膚感覚として正しい。

国家戦略室への提言「まず、デフレを止めよう~若年失業と財政再建の問題解決に向けて」(November 06, 2009)」(勝間和代公式ブログ: 私的なことがらを記録しよう!!
※ 強調は原文。


というわけで、まさにデフレの不況の現在こそ、特に非正規雇用しか働き口のない方々の労働供給曲線は右下がりの状況にあるように思われます。このとき、賃金の下方硬直性を持つ正社員が「最低賃金なんて失業者対策にならない」という主張をするのは、どうも身勝手な主張に聞こえるんですが気のせいでしょうか。

もっとも、勝間氏にリフレをしつけたと噂される飯田先生の共著でも

 このようにして、最低賃金規制はそれ自体が直接生み出す非効率以外にも、さまざまな非効率を間接的に生み出す可能性があります。
 以上から、最低賃金規制は「マンデルの定理」からみて誤った政策で、労働者の賃金を引き上げる政策としては、効率性基準からみて落第です。それにもかかわらず、多くの国で最低賃金法が存在しています。これは、家賃規制と同じように、政策当局が経済学の分析を無視することによって、社会に不必要な負担をもたらしている例です。

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と、最低賃金規制を効率性基準で落第とするだけならまだわかりますが、「政策当局が経済学の分析を無視」しているとまでこきおろしているわけで、マクロとミクロの溝は思ったよりも深そうです。

実は、マクロ経済と労働市場の関係については、稲葉先生が『経済学という教養』の第8章でドーア氏の労働組合による「賃金上げを介したリフレ」論と絡めて論じられています。そこでのこの一節に、このようなミクロの労働経済学的な分析に対してマクロの方々が懐疑的な立場をとる理由が集約されているように思います。

 あえて深読みするなら、樋口や玄田といった第一線の労働経済学者が、今日マクロ経済政策と労働組合についてあまり語らない理由も、このあたりにあるのではないか。つまりマクロ経済政策は「労働」畑の-労働組合運動家や企業の人事労務担当者は言うに及ばず、アカデミックな労働研究者、政府の労働政策担当者まで含めた「労働」関係者の-守備範囲ではなくなってしまった、というあきらめのようなものがそこには透けて見える。そしてこの「あきらめ」を支えているのが、広い意味での実物的ケインジアン的枠組み-労働市場とそれをとりまく労働組合、企業組織等々の仕組みは、資本主義市場経済にとっての「死加重」である-のではないか。

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p.328-329


当の労働経済学者がマクロを語らなくなってしまったのでは、どうしようもありませんね・・・

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2009年12月01日 (火) | Edit |
金曜日の朝生は「激論!官僚が本当に悪いのか?!」とのことで、録画してみてみました。パネリストは以下のとおり。

司会: 田原 総一朗
進行: 長野 智子・渡辺 宜嗣(テレビ朝日アナウンサー)
パネリスト:
大塚耕平(民主党・参議院議員、内閣府副大臣)
細野豪志(民主党・衆議院議員、党副幹事長)
山本一太(自民党・参議院議員、元外務副大臣)
小池晃(日本共産党・参議院議員、党政策委員長)

石川和男(元通商産業省、東京財団上席研究員)
猪瀬直樹(作家・東京都副知事)
木村盛世(厚生労働省医系技官、「厚生労働省崩壊」著者)
高橋洋一(元財務省、元内閣参事官、「さらば財務省!」著者)
中野雅至(元厚生労働省、兵庫県立大学大学院准教授、「公務員大崩落」著者)
長谷川幸洋(東京新聞・中日新聞論説委員、「日本国の正体」著者)
山田厚史(朝日新聞シニアライター)
若林亜紀(ジャーナリスト、元特殊法人勤務)

「「激論!官僚が本当に悪いのか?!」」


朝生ってたいていはテーマに賛成の立場と反対の立場が向かい合って討論するというパターンになるはずなんですが、このテーマにこの人選では「官僚が悪くはない」なんていう方は一人もおりませんでした。なんという欠席裁判。唯一、中野雅至氏がイギリスの官僚制を引き合いに出して民主党のご都合主義を批判されてましたが、かといって官僚を擁護することはありませんでしたし。

というわけで、議論の流れもいつの間にか財源問題とか普天間基地問題に移っていって、民主党の政策はフィージビリティに欠けるよねというところでFAでした。その中でもやっぱりチホーブンケンだけは誰も疑念を挟まないようで、個人的におもしろかったのは、山本一太自民党議員が細野豪志民主党議員に対して、

自民党では、部会を通じて関係団体や地元の現場の意見を吸い上げる仕組みがあったが、民主党にはそれがないんじゃないか。(大意)

と批判して、これに対して細野議員が

民主党はこれからも地方と関係団体をきちんと見て回りますよ。(大意)

と答えていたところ。

・・・あれ? 勘違いしてたかなぁ。
小泉改革以降の政権党が、霞ヶ関の無駄をなくすとか国から地方へとかいって「地域主権」なんて唱えているのは、国は外交とか防衛に専念して国内のことは地方に任せるということじゃなかったんですかね。なのに、地方とか国内の関係団体を見て回る必要があるんですか?

もちろん、個人的には国内の情勢も知らない政府なんぞに国の外交も防衛もできるわけがないと考えているので、そんなお題目に意味があるとは思ってませんけど、少なくともそれを「マニフェスト」とかいう選挙公約に書いて政権交代した以上、「我々は国内の問題なんかにかかずらう余裕はありませんよ」とおっしゃるのが筋というものでしょう。ただし、少なくとも現首相は「マニフェストは一番大事な契約」とおっしゃってますし、パネラーの中では、東京都副知事で元地方分権改革推進委員会委員の猪瀬直樹氏だけが、最後まで「だからハローワークを地方に移せっていってるんだよ!」と筋を通されてましたが、ぶっちゃけそんな筋はこれっぽっちも要りません。

まあ、こんな現政権の支離滅裂ぶりは今に始まったわけではないので特に驚きはしませんでしたが、ちょっと意外だったのは高橋洋一氏はさすがに制度をよく知っているなということ。拙ブログのスタンスとして、リフレ政策を主張するからといってほかの主張まで無条件で評価することはしませんので、カイカクばかに親和的な高橋洋一氏の言動には常々警戒感を持っていますが、そんな目で見てもパネラーの中ではかなりまともなことを発言されていたように思います(といっても、財政制度について詳しいということなので、ほかの制度についての発言は相変わらずカイカクばかに受けの良さそうなものが多く、あまり信頼度が上がったわけではありません。要すれば、それ以外のメンツの発言がひどすぎたということです)。

特に、事業仕分けについて、高橋洋一氏が

地方の事業はいわゆる「事業系」のものが多いので、一つ一つの事業を個別に取り出して現場の感覚で評価するということが可能だが、国の事業はいわゆる「制度系」のものが多く、それだけを取り出しても最終的には他の制度等との関係を調整しなければならないので、事業仕分けというやり方はそぐわない。(大意)


とおっしゃっていたのは、さすがに事業仕分けを提唱している「構想日本」を立ち上げた大蔵官僚の同僚だけに、査定の「現場」についてご理解があるのだなあと。つまり、事業仕分けというのは、財政当局自らが行っていた査定作業に「民意」という後ろ盾を直接持ち込むやり方ですから、査定の「現場」の役人にとっては精神的にも肉体的にも大きな負担軽減となります。査定をしながらその結論に批判ばかり受けている査定担当者が「こんなに批判されるなら民間に査定やらせてみたらいいんじゃね?」と思うのも不思議ではないわけです。かといって、そんな「民意」の後ろ盾があったとしても、複雑に利害の絡んだ制度設計そのものをテクニカルに査定できるわけではなく、高橋洋一氏はその点をきちんと理解されているんですね。

ただし、高橋洋一氏は口を開けば「埋蔵金」とか金融政策ばかりいっていて、ミクロの資源配分や所得再分配とか、保険(特別会計の多くは保険としての収支を独立させるためのものです)の拠出と給付の権利性にはほとんど興味がなさそうでしたし、どちらかというと総体的には信頼度の低さを確信したというところです。

ついでに、未だに若林亜紀氏をパネラーに呼ぶテレ朝の感覚の麻痺ぶりには改めて幻滅しますし、彼女を事業仕分けの裏方に起用した行政刷新会議の見識をいまさらながら疑っておきます。

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