2009年11月27日 (金) | Edit |
前回エントリにいろいろとブコメをいただいておりましたので、若干の補足をいたします。
http://b.hatena.ne.jp/entry/sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-359.html

まず、財政当局の査定というのは昔から(少なくとも私が採用されてから)これまでの実績と今後の成果見込みを説明させることしかしていません。つまり、事業仕分けといったところで査定してつるし上げる主体が官から民へ移っただけ(さすが旧大蔵官僚による「構想日本」の発案だけありますね)ですから、「国民」の方々がつるし上げられることがない限りは、事業仕分けは省庁代表制をより強化する効果を持つように思います。

たとえば、仕分けられる事業の当事者が「われわれの事業がムダなのではなく、担当の省庁や天下り団体がムダなんだ」と主張することによって、仕分けの追求を省庁の人員削減などの論点にそらすことができるとすれば、当事者は省庁の影に隠れようとしますからね。

チホーブンケンについていえば、一昔前は「ナショナルミニマムはもういいからこれからはシビルミニマムだ」という論法で推進されていましたが、それはシビルミニマム拡充論に名を借りたナショナルミニマム削減論でしかありませんでした*1。政権交代にも関わらず、地方分権だけは「地域主権」なるものに意匠替えしたのみでほぼ無傷で健在ですから、ナショナルミニマム削減論の根強さを感じます。

現場主義の限界というのも根深い問題で、「現場」と「現実」は実は違うのかもしれないという想像力を持つだけで、だいぶ様相は変わってくると思います。個人的には、「現場」で人間の知覚できる範囲というのは現代の科学技術の発展とはほとんど無関係に昔のままだと考えています。つまり、「現場」の規模がでかくなるほどに、「現場」の外で「現実」を知る努力がより必要となるわけです。

したがって、広域自治体(都道府県)→基礎自治体(市町村)と規模が小さくなるにつれて、資源配分に関する「大きな裁量と小さな権限」を与えるのが望ましいのではないかと思います。拙ブログではおなじみ(?)の「三倍自治」も同じ理屈で、再分配などの業務を担うために自主財源が足りないわけですから、地方の仕事を1/3にすればあっという間に「自主財源100%」の完全自治体ができてしまうんですよね。そこまで極端ではありませんが、実際にフランスやイギリスなどは、基礎自治体の権限を限定する代わりに、その権限内で基礎自治体の裁量に任せるという体制となってますし。

ただし、「自主財源100%」になってしまうと、ピグー補助金の余地がなくなって正の外部性を確保できなくなってしまいます。たとえば一級河川や一桁国道、広く言えば教育まで含む公共投資の正の外部性という「現実」は、「現場」で理解できる「現実」とは乖離しているからこその外部性なわけです。そういった「現実」について、自主財源とか現場主義では解決できないのではないかという謙虚さが、チホーブンケン教の方々には欠けているように思えてなりません。

というわけで、

ColdFire 政治 チホーコームインに見識など期待してもしょうがないですよ。 2009/11/23


とのご指摘には素直に頷くほかありませんね。




*1 個人的にベーシック・インカム論に対して警戒感を感じてしまいますが、ベーシック・インカムも、ナショナルミニマムと同じようにどの水準が適切かというコンセンサスを得ることが難しいにもかかわらず、誰かが「これで十分だ」といえば押しきられてしまうのではないかという懸念がその理由です。
スポンサーサイト