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2009年11月27日 (金) | Edit |
前回エントリにいろいろとブコメをいただいておりましたので、若干の補足をいたします。
http://b.hatena.ne.jp/entry/sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-359.html

まず、財政当局の査定というのは昔から(少なくとも私が採用されてから)これまでの実績と今後の成果見込みを説明させることしかしていません。つまり、事業仕分けといったところで査定してつるし上げる主体が官から民へ移っただけ(さすが旧大蔵官僚による「構想日本」の発案だけありますね)ですから、「国民」の方々がつるし上げられることがない限りは、事業仕分けは省庁代表制をより強化する効果を持つように思います。

たとえば、仕分けられる事業の当事者が「われわれの事業がムダなのではなく、担当の省庁や天下り団体がムダなんだ」と主張することによって、仕分けの追求を省庁の人員削減などの論点にそらすことができるとすれば、当事者は省庁の影に隠れようとしますからね。

チホーブンケンについていえば、一昔前は「ナショナルミニマムはもういいからこれからはシビルミニマムだ」という論法で推進されていましたが、それはシビルミニマム拡充論に名を借りたナショナルミニマム削減論でしかありませんでした*1。政権交代にも関わらず、地方分権だけは「地域主権」なるものに意匠替えしたのみでほぼ無傷で健在ですから、ナショナルミニマム削減論の根強さを感じます。

現場主義の限界というのも根深い問題で、「現場」と「現実」は実は違うのかもしれないという想像力を持つだけで、だいぶ様相は変わってくると思います。個人的には、「現場」で人間の知覚できる範囲というのは現代の科学技術の発展とはほとんど無関係に昔のままだと考えています。つまり、「現場」の規模がでかくなるほどに、「現場」の外で「現実」を知る努力がより必要となるわけです。

したがって、広域自治体(都道府県)→基礎自治体(市町村)と規模が小さくなるにつれて、資源配分に関する「大きな裁量と小さな権限」を与えるのが望ましいのではないかと思います。拙ブログではおなじみ(?)の「三倍自治」も同じ理屈で、再分配などの業務を担うために自主財源が足りないわけですから、地方の仕事を1/3にすればあっという間に「自主財源100%」の完全自治体ができてしまうんですよね。そこまで極端ではありませんが、実際にフランスやイギリスなどは、基礎自治体の権限を限定する代わりに、その権限内で基礎自治体の裁量に任せるという体制となってますし。

ただし、「自主財源100%」になってしまうと、ピグー補助金の余地がなくなって正の外部性を確保できなくなってしまいます。たとえば一級河川や一桁国道、広く言えば教育まで含む公共投資の正の外部性という「現実」は、「現場」で理解できる「現実」とは乖離しているからこその外部性なわけです。そういった「現実」について、自主財源とか現場主義では解決できないのではないかという謙虚さが、チホーブンケン教の方々には欠けているように思えてなりません。

というわけで、

ColdFire 政治 チホーコームインに見識など期待してもしょうがないですよ。 2009/11/23


とのご指摘には素直に頷くほかありませんね。




*1 個人的にベーシック・インカム論に対して警戒感を感じてしまいますが、ベーシック・インカムも、ナショナルミニマムと同じようにどの水準が適切かというコンセンサスを得ることが難しいにもかかわらず、誰かが「これで十分だ」といえば押しきられてしまうのではないかという懸念がその理由です。
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2009年11月23日 (月) | Edit |
事業仕分けの第一部が終わってマスコミでも仕分け人当事者などによる感想戦が繰り広げられてますけど、特にチホーコームインの方々のブログでは事業仕分けにおおむね肯定的な評価が多いように思います。その理由としては、大きく分けて

○そのくらいの査定なんて地方自治体でも財政当局がやってるのに、それに満足に答えられない官僚は情けない
○霞ヶ関は実際の現場を知らないから事業の必要性を説明できない
○官僚の天下り先に事業費を流すからムダになるんであって、もっと地方に財源をよこせばいいのに
○各省が持っている特別会計にはまだまだ余裕があるんだから、財源はそっちから持ってくればいい


というようなところではないかと。

特にリンクはしませんが、こういう感想を見ていると、上達すれば見えるものが見えてない議論の典型だなと思わざるを得ません。たとえば、第1点目と第2点目についていえば、地方自治体レベルのミクロの事業と国家レベルの施策の違いについてほとんど意識したことのない方に特有の議論ですね。

地方自治体の役割で重要なのは、課税と公共財供給のバランスにより受益と負担を明確化してパレート最適を目指すという資源配分の効率化であって、受益と負担を意識的に乖離させて公平性を確保する所得再分配機能ではありません。端的にいえば、累進的な所得税と一国の中で平等に供給される生活保護を両立させうるのは、移動可能な地方の行政区単位ではなく全国単位となるわけで、そこはどうしても全国レベルでの再分配政策を実施する必要があります。再分配政策では受益と負担が意識的に乖離させられているわけですから、それぞれを各自治体がバラバラにやっていたら受益の高いところに貧困層が滞留し、負担の低いところに富裕層が移住してしまい、再分配政策そのものが成り立たなくなってしまいますからね。

地方に在住して地域主権とか言っているうちはこういうマクロな視点からの議論は期待できないでしょうけど、なぜか事業仕分け人には特定の自治体職員が入っているんですよね。彼/彼女らが事業仕分けにおいて果たすべき役割は、上記の資源配分・所得再分配についての国と地方の役割分担の観点からすれば、所得再分配的な公共財供給(現金給付と現物給付)は国がやるべきと積極的に発言することではないかと思います。

まあ、実際は「現場の声」とやらの代弁しかしないでしょうけど、実は、こういう「現場主義」というミクロな観点しか持ち得ない職員が増えているということは、だいぶ前になりますがkumakuma1967さんのエントリを題材に書いたことがあります。そのkumakuma1967さんのご指摘は、事業仕分けのある一面を的確に表現していると思うので再度引用させていただきます。

最近の発注者としての公共の動向として、能力の低下は著しい。

バブル後半にダメになって来ていたものが小泉改革でさらにダメになった感じ。

小泉改革以降はトップダウンが流行で、結論を政治家が出して、その論理の補強を官僚が出すと言うやり方

技術的な側面でも同じ。技術ってのはある意味冷酷で、間違った結論は出せなかったりする。当然技術屋は補強なんて出来ないわけで、政治家から見たら無能な抵抗勢力だ。だから、建設でもなんでも技術的な中身のない人ほど有能になる。*1

 有能な公務員=無能な発注者という図式が完成しつつある。

で、政治家の書いた「この場所に○○をいくらで建設する」ってファンタジーに沿って着ぐるみを着て踊るのが公務員や建設コンサルやゼネコンという事になる。

 ある公共の建設計画のアセスメントの結果(このような工事をこう行い、外部条件がこうだから問題なし)があまりに変(外部条件が圧倒的におかしくて、地図上の面積とアセスの面積がケタレベルで合わないとか)なので追っかけて行ったら、知事のファンタジーな頭脳にあわせて書き換えたからこうなったという以上の根拠はなかったなんて事も普通にある

*1:たぶん学習指導要領でも法律でも

■[society][government]発注者の責任について(2008-03-30 ぐだぐだ)」(くまくまことkumakuma1967の出来損ない日記
※ 強調は引用者による。


「脱官僚の政治主導」というのは、政策エンジニアたる役人のいうことを無視して、というより「既得権益」とか「抵抗勢力」扱いして、こういうファンタジーを役所の現場に押しつけることでもあるんですが、事業仕分けはそのトップダウンを外部の第三者に委ねたものなのでしょう。彼/彼女らのファンタジーどおりに世の中が動くなら何も問題はありませんけど、そうならないことが判明したときの対処までお考えの事業仕分け人はどのくらいいるんでしょうね。

今日のサンプロに出演していた蓮舫氏がいみじくも

「世界二位ではダメなのかと聞いたのは、世界一位を目指すことが目的ではなく技術立国を確立することが目的だという答えを聞きたかったからなのに、そういう答えがなかったから」(大意)


なんて話をしていましたが、それって成果じゃなくて説明の巧拙が基準になっていると宣言したことにほかなりませんよね。経済学の言葉ではレントシーキングというわけですが、1時間という限られた時間で、ミクロにしか判断しない事業仕分け人にマクロの政策をミクロに説明できる事業だけが認められる、言い換えれば事業仕分け人の理解できるファンタジーのみが認められるという、見事な本末転倒っぷりに頭がくらくらします。

2009年11月21日 (土) | Edit |
あまり個人的なことは書かないようにしているつもりですが、アク解で見つけたリンク集稲葉先生とかまっつあんと並んで「社会学・政治学など」カテゴリに入れていただいたのを発見して、ちょっとドキッとしてしまいました。

というのも実は、学生時代には法学部にもかかわらず社会学の本ばかり読んでいたり、コームインになってからも社会学を生かした仕事の仕方ができないかなどと考えたりするような社会学の門前小僧だったからです。もちろん、単に社会学関係の本を読んでいただけでしたので何も実践的なことはできませんでしたし、そもそも社会学を生かした政策というのもいまだによくわかりませんが。

そんなことを考えながら役所の仕事の半分はパフォーマンスでできてるんだななどと諦観しかけていた折、ふとHot Wiredのサイトで拝見した稲葉先生のリフレ論議*1に触発されて経済学を勉強し直し、まっつあんの軽妙なデータマイニングに感化されてブログを始めた者としては、諸先輩方と同じカテゴリだというだけでテンションもあがろうというもの。

というわけで、稲葉先生の新著も発売直後に拝読しておりましたが、なんというかその当時の悶々とした思いがよみがえるようでブログでは取り上げておりませんでした。でもまあ、備忘録としてそういう思いを書いておこうかなと思います。
社会学入門―“多元化する時代”をどう捉えるか (NHKブックス)社会学入門―“多元化する時代”をどう捉えるか (NHKブックス)
(2009/06)
稲葉 振一郎

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「社会学入門」という名のとおり、前半の方法論的全体主義についての議論を読めただけでも有意義でしたが、個人的には後半以降の社会科学の歴史的系譜のまとめ方がツボでした。

特に第12講でのこの記述はこみ上げるものがありますね。

パーソンズの出した「答え」は結局受け入れられず、パーソンズ理論それ自体の直接的な継承発展はほとんど行われなかった。結局パーソンズ理論も個人的な名人芸の域を出られなかったけれども、パーソンズの立てた「問い」-「社会的に共有される形式と、その変容可能性についての一般理論を作りたいのだが、どうすればよいのか」-の方はそのまま残り続けていて、さまざまな理論家たちがそれぞれの仕方で取り組んでいる、といったところでしょうか。

稲葉『同』p,214-215
※ 以下強調は引用者による。


社会学を勉強したいと思った理由というのは、まさにこの「統一理論」的なパースペクティブ(この言葉を使ったのも久しぶりだな)を与える思考の枠組みとして、社会学が果たす役割が重要なのではないかと個人的に考えていたからですが、まあそんなものがあるとして自分のような落ちこぼれに理解できるはずもないよなあと門前で悶々としていたというわけです。

そしておそらく、Hot Wiredでの稲葉先生の議論でのメッセージは最終講のこの言葉に集約されているのではないかと思います。

たとえばわれわれは二〇〇九年現在、かつての一九三〇年代の世界不況以来の-ひょっとしたらそれ以上にたちが悪いかもしれない-世界的な大不況に翻弄されています。たしかに今日までの経済学的な知見を総合すると、この大不況は大変な問題で、適切な対応がなければ多くの人々を不幸にし、戦争の引き金さえ引いてしまいかねない大惨事ではあるのですが、ある意味ではまったく「危機」ではない。つまり、一〇〇年に一度や二度は起きても不思議のない、十分にありうる現象なのです。にもかかわらず一部では-その中には社会学者も混じっているのですが-「資本主義の危機」「時代の転換期」といって騒ぎ立てている人たちがいます。はっきり申し上げますが、そういう人たちはただ単に不勉強なだけ、経済学を知らず、歴史に学ばないだけの無知な輩です

稲葉『同』p.235


Hot Wiredでの連載もITバブル後の不況期(2003年ころ)でしたが、この問題意識は残念ながら数年程度のサイクルでは全く解消されないようです。

それはともかく、稲葉先生のこの問題意識に触れることを通じて、自分の中の社会学に対する「統一理論の枠組み」という思い込みを取り払うこととなり、心置きなく経済学やら法律の勉強に意識を集中することができるようになりました。社会学を主なフィールドワークとする稲葉先生の連載を読んで社会学への思いを断ち切ることになったというのは、ある意味で皮肉なものです。

まあ、断ち切るという言葉はあまり適切じゃないかもしれなくて、研究者でもなんでもない実務屋でしかない自分には、社会学的な思索よりも経済学や法律のスキルを身につけた方が当面の仕事上の実益になると観念したということです。社会学的な思索については、もう一歩引いたところで専門家の議論を聞いておけば十分だろうと考えております。

というようなわけで、これからも拙ブログで社会学的なことに直接言及することはないでしょうけど、稲葉先生などの「無知な輩」ではない社会学者の方々の議論をフォローしていければと思います。




*1 のちに『経済学という教養』として発刊されていますね。
経済学という教養 (ちくま文庫)経済学という教養 (ちくま文庫)
(2008/07/09)
稲葉 振一郎

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2009年11月18日 (水) | Edit |
あれは、ちょうど1か月くらい前のちょっと肌寒い日の朝でした。私はいつもバスに乗って出勤するんですが、その日もいつものように近くのバス停まで、いつも通る少し幅の狭い歩道を歩いていたんです。

すると、向こうからなにやら歩いて来るのが見える。よーく見てみると、制服を着た男子高校生なんですね。「朝からどこに行くんだろうなぁ」なんて思いながらも、私はとりあえず関心のないふりをしてそのまま歩いていきました。

すると、その高校生はちょっとチャラい感じで気だるそうに歩いていたんですけど、不思議なことに私の歩いている正面にすーっと向かって来たんです。

私は気がつかないふりをしながらも、「あれぇ? どうしてこの高校生は私の正面目掛けて歩いて来るんだろう?」と思ったんです。だっておかしいじゃない。このままだと私とその高校生はface to faceでぶつかってしまう。

私はまだ気がつかないふりをして歩きながらも、「もしかして知り合いの高校生なのかもしれないなぁ」と思い直して、その高校生の顔を気づかれないようにそーっと見ながらいろいろ記憶をたぐってみたんだけど、やっぱり思い出せない。

妙に変だなぁ」なんて思いながら、「でもまあ仕方ない。知り合いでもないし、こっちは大人だというところを見せてやろう」と思って、比較的余裕のあった歩道の左側を空けようと、右側に寄ってみました。そうすれば、その高校生はこっちを避けようとして左側に寄るんじゃないかなと思ったんです。

・・・ところが、その高校生はさらに方向を変えて私に向かって歩いて来るんです! しかも、だんだん近づいてきたその高校生の顔をよく見ると、その眠そうな目は私じゃなくて私の後ろの方をじーっと見てる。

私は「やっぱり妙に変だなぁ」と思って、さらに右に寄ったんですが、その高校生もさらに右に寄ってくる。こうなったら私も意地です。「この高校生はマナーがなってないな!」とちょっとにらみつけながら、もう右には寄れないぞといわんばかりに歩く方向を変えないことにしました。

しかし、それでもやっぱりその高校生は、私とぶつかることをまったく気にもとめないような顔で、まっすぐこちらに向かって歩いて来る。「あれぇ? もしかしてこの高校生は私のことが見えてないのかな? いやむしろ、私だけがこの高校生が見えるのかも・・・」と思ったその瞬間でした。

さーーっと、私の左横を後ろから何かが通り抜けたんです!

私は「うわあ!」と思ってそれをよく見たら、年の頃は中学生くらいでしょうか、それはヘルメットをかぶった少年が乗った自転車でした。そしてその自転車が走り去った後、その高校生は私にぶつかることもなく、ちゃんと私の左側を歩いていったんです。

そのとき、私気づいちゃったんです。周りが見えてなかったのは私の方だって。
私、ちゃんと自転車を見てよけようとしていた高校生に向かって、「マナーがなってない」とか思ってたんですね。


行政刷新会議の事業仕分けを見ていて思い出した実話でした。

2009年11月16日 (月) | Edit |
性懲りもなく事業仕分けについてのエントリを連投してしまいます。

結局のところ、総額95兆円にも上った当初予算というのは一般会計予算のことなので、削減するとしたら特別会計に押しつけて一般会計を見かけ上減額するという手段しか残されていないということが判明しつつありますね。基金の返還も同じような文脈で行われているんでしょうから、事業仕分けの内実は一般会計の支出を別の会計に押しつけるか、支出済みの基金を寄せ集めることが大半となるのでしょう。

こういった事業仕分けの手法をどう評価するかについては、ブログ界隈でも否定的な意見が多いようで、特に科学技術開発費についての蓮舫氏の無双ぶりが話題となっているようです。もちろん、ずっと俺のターン!的な蓮舫氏の言動を支持する気は毛頭ありませんが、この競争的資金とか科研費というような予算は、とにかく文科省に提出する書類が煩雑だとか評価基準が論文数などの指標に偏っているという批判が絶えなかったもので、予算が多いか少ないかという以外の点にも多くの問題があったのではないかと思います。

ところが、評価コメント欄をみてみると、

●一旦総合科学技術会議なりに戻して、何を実現するために何が必要かを見直すべき。ハードの戦いではなく、ソフトの戦いをするべき。
●総合科学技術会議への差し戻し、再検討。科学技術の必要性、重要性は理解できるが、国民
の理解には至っていない。世界一の頂のみを目指す時代ではない。

(独)理化学研究所(1)(次世代スーパーコンピューティング技術の推進)評価コメント(注:pdfファイルです)」(第3会場評価結果


とやたら総合科学技術会議への差し戻しが強調されているようなんですが、これって査定の仕方をもっと厳しくしろといってるに過ぎないわけですよね。「競争的」資金を査定するということ自体が矛盾を抱えているように思いますが、特に財務省が示した論点によると、

○先端研究への助成を行う競争的資金制度が、他省庁を含めて多数創設されているが、互いに重複しており、以下のような問題があるのではないか。

 (注) 先端研究のための資金を含め、競争的資金は政府全体で8府省47制度。うち文科省で24制度もある。

・制度毎に審査委員会や担当者が存在し、申請書の様式も使用ルールもバラバラで、研究者にとって大きな負担となっている。
・制度の趣旨や仕組みに違いはあるものの、結局は大学等の研究者の支援に充てられている。この結果、一部の研究者に資金が集中し、一人の研究者で10種類以上も競争的資金を受けているケースも見られる。

 ※ 総合科学技術会議において、以下のような指摘もなされている。
 ・競争的資金制度の創設が進んだが、各府省や配分期間で制度が細切れ。
 ・研究費の不正使用の事案が後を絶たない。
午後の部(11)【PDF形式】」(行政刷新会議ワーキンググループ・配布資料(11月13日)


というものですが、正直ワケがわかりません。競争するという以上事業の数を増やす必要があるだろうし、評価に基づいた割り当てが行われるなら(あくまで制度上の評価でという意味ですが)一部の「優秀」な研究者に資金が集中するのも当然ではないかと思うわけで、もっと競争しろというのか、それじゃダメだから査定を厳しくしろといいたいのかのかはっきりしませんね。

ただ、こういう支離滅裂な査定を要求するような財務省の体質については、例の橋本行革において予算編成権を大蔵省から分離させ、経済財政諮問会議と総合科学技術会議へと移管したことが大きな影響を与えていると思います。これによって、経済運営も科学技術も(少なくとも形式の上では)財務省が査定すべき所管から離れてしまい、財務省にはただただ予算を削減するという使命しか与えられていないわけで、財務省が予算を切り込む事業仕分けを主導するのも政治主導の帰結といえます。

むしろ、細川内閣に端を発するカイカク競争の結果、橋本内閣が生み出し小泉内閣が最大限に活用した「政治主導型予算編成」システムの正当な後継者こそが鳩山内閣であって、だからこそ「脱官僚」と「政治主導」を掲げる鳩山内閣が予算削減を使命とする財務省と親和的になるのだろうと思います。今のところ、小泉内閣を支えた経済財政諮問会議に匹敵する組織が機能していないため、鳩山内閣の「政治主導」は財務省に依存しまくりではありますが、国家戦略局なるものが本格的に始動したとき、鳩山内閣がその破壊力を遺憾なく発揮することになるのしょう。

2009年11月15日 (日) | Edit |
というわけで、前回エントリで思いっきり読みを外してしまった「個別労働紛争対策の推進」についての事業仕分けが11月13日(金)の16時くらいから行われまして、仕事しながら流し聞きしておりました。ライブ中継を聞く前に、配付資料がアップされていた(こちらページの午後の部(7)から午後の部(8)にかけての資料)ので打ち出してみたら、財務省による「論点等説明シート」ではこう書いてあるではありませんか。

○「個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律」に基づいて、個別労働紛争に関して、学識経験を有するあっせん員からなる「紛争調整委員会」があっせんを行うもの。
○一般会計が負担しているが、労使間の紛争解決に要する経費は、事業主が負担するべきものではないか。

(参考1)都道府県労働局などに配置され、労働問題に関する相談や情報提供を行う「総合労働相談コーナー」に要する経費は、労働保険特別会計の労災勘定および雇用勘定から折半するかたちで支出。

(参考2)事業費の全体像

(単位:百万円) 
 

21年度
当初予算要求

22年度
概算要求額

 
一般会計183275 →「紛争調整委員会」
に要する経費

労働保険特別会計
(労災勘定)

653645 →「総合労働相談コーナー」
に要する経費
労働保険特別会計
(雇用勘定)
653645

午後の部(8)【PDF形式】」(行政刷新会議ワーキンググループ・配布資料(11月13日)


というわけで、財務省サイドとしては、「個別労関係紛争なんて労働問題やらで騒いでいる一部の労使の受益者のためのものなんだろ? たったら、一般会計じゃなく事業主負担の特会で面倒みやがれ!」という趣旨で事業仕分けの対象事業としたようです。事業仕分けってつくづく事業の中身なんかには興味ないんですねえ。

まあ、よく考えてみれば、ここ十数年間にわたって政労使が入り乱れて議論した個別労働関係紛争の担い手論などというマニアックな話に財務省が興味を示すわけありませんから、開けてビックリというより前回エントリが勝手に身構えてしまったというところですね。

ただし、議論の中で枝野議員が「弁護士の法律相談が高すぎるという欠陥があるので、特に労働問題で生活の糧を失った労働者に対して門戸を開くためには、行政が相談機能を提供することが必要」という論陣を張っていたのを聞いて、枝野氏も紛争処理の現場を知る弁護士としてハードルの高さを認識されているのだなと見直しました。特に、財務省の示した論点に対して「あなた方の論理では、民事裁判も受益者が限られているから一般会計から支援するべきではないということになる。そんな理屈は通らないのではないか」と、どちらが事業仕分けされているのかと思うほどに財務省に対して問い質していて、やはりご自身が直接関わっている問題だからこそ的確な批判ができるということを再認識させていただいた次第です。

まあ、そうはいっても最終的な評決結果は

とりまとめコメント
ワーキンググループとしての結論は見直しを行う。具体的には、紛争調整委員会の費用を特別会計に移管する。
なお、特に立場の弱い労働者(非正規雇用)への施策として広く一般財源を投入することが現段階では必要、との意見があったことを申し添える。
評価者のコメント 事業番号2-21 個別労働紛争対策の推進(注:pdfファイルです)」(第2会場評価結果(11月13日)


だそうで、辛うじてなお書きで立場の弱い労働者についての配慮が記載されたものの、直接労使紛争処理に関わらない財務省の思惑どおりの評決となったようです。事業仕分けの議論を聞いていても、全体的に枝野氏以外はほとんど興味がなさそうでしたし、はじめから趨勢が決まっていたという点では前回エントリもそれほど的外れだったわけではないのかもしれません。

そういえば、先月強化月間を実施したばかりの労働委員会の個別労働関係紛争処理が、厚労省の資料で歯牙にもかけられていないというのは、なかなか趣深いものがありますね。


追記:
念のため、個別労働関係紛争処理の経費を労働保険特別会計で負担することの是非はよくわかりませんが、さらに議論を進めて、労働局による個別労働関係紛争処理に係属した場合に限り、解決金の一部を労働保険特別会計で負担するというような話になれば、それはそれで興味深い論点のように思います。

2009年11月13日 (金) | Edit |
お詫び(11月14日記):本エントリでは連合の思惑を勝手に推測して書いてしまいましたが、11月13日に行われた事業仕分けで財務省から示された論点は、連合の思惑とは別のもの(一般会計と特別会計の負担割合)でした。ご覧になる場合はその点にご留意いただければと思います。当て推量で書いてしまい申し訳ございませんでした。「個別労使紛争の推進」の事業仕分けの内容については、別エントリで取り上げたいと思います。なお本エントリで示した地方分権についての論点は、事業仕分けとは別の論点として残したいと思いますので、本文は当面の間このまま掲載いたします(上記の別エントリアップ後に削除します)。

着々と進められている事業仕分けですが、明日はいよいよ15:45から「個別労働紛争対策の推進」が登場します。hamachan先生が、

個別労働紛争の解決のために国民の税金を使うなどというのは許し難いムダであるようです。

なるほど、「民主党革命」というのは、いきなりクビだと言われたり、パワハラを受けた労働者が思いあまって駆け込んでくる労働相談窓口はムダであると、いわんや経営者にあれこれ助言指導したりするのはムダであると、ましてや両者の間であっせんを試みて、少ない額でもなにがしかの金銭解決につなげていくことなど、言語道断のムダ遣いであると、こういうことを言わんとしているのでありましょうか。

確か、民主党のマニフェスト(正確には「政策集INDEX」では、「個別の労使紛争に対する適正、簡便、迅速な紛争解決システムの整備促進を図ります」(32ページ)というのもあったはずで、一体どういう考え方に立ってものごとを進めようとしているのか、理解に苦しむところでもあります

「クビ代1万円」すら「ムダ」ですか?(2009年11月 4日 (水))」(EU労働法政策雑記帳
※ 以下強調は引用者による。


と、労働組合を支持母体としながら労使間の紛争処理を仕分けしようとする民主党の姿勢に疑問を呈されていますが、実は個人的にあまり不思議ではありませんでした。

というのも、hamachan先生も重々ご承知のことだと思いますが、民主党の強力な支持母体である連合にとっての長年の主張は、個別労働関係紛争処理を都道府県労働委員会が担当するべきだというものだからです。都道府県労働委員会の労働者委員は沖縄県などを除いてほとんどが連合系の労組幹部によって占められていて、正直なところ、連合は労働委員会を自組織の一機関と勘違いしている節さえ伺われますが、連合の思惑としては、その労働委員会の権限拡大を狙っていたようです。

ところが、その論理というのが、「自治事務である労働委員会の権限を明確にするために国が法律に明記することが必要」だというもので、チホーブンケン教に典型的な支離滅裂さを見事なまでに示しています。

○委員 いま先生方のお話で、労働委員会を明記する必要はないというお話なのでありますが、我々も全国の地方労働委員会に委員を送っていますから、いろいろ意見を聞きますし、また地方で地労委の会長をしておられる先生ともお話をすることが多いわけですが、そういうときには、やはり法律上の根拠があれば、いろんなことができる、あるいはしやすい、是非必要だという声のほうが圧倒的に多いわけであります。もちろん、先生方が言われるように、たしかに法律的な支障はないということは、我々は地方自治に関する関係省庁ともいろいろなパイプがありますが、そちらのほうに法律的な解釈を聞くと、地方自治の法律の中で、たしかに支障がないといえばないけれども、それはいろいろ検討した結果、この中でも読み取ってあげてもいいと、そのぐらいのことであります。
 支障がないということであれば、何もしなくてもいいということとは、私は全く別だと思うわけでありまして、地方自治の法律で読み込むことができなくもないということで、この非常に重要な100万件に達するといわれる個別労働関係紛争について、ここに書かなくていいという論拠には、とうていなり得ない。私はやはりこの中に地方労働委員会ということを明記すべきだということを強く申し上げたいと思います。

○委員 いまの話に重ねてですが、以前の検討会議等からも参加をし、議論をしてきているわけですが、なぜ我々が労働委員会ということにこだわって主張をするかというと、戦後の日本の労使紛争の調整機関として、労働委員会というのがそういう機能を果たしてきた。それが公・労・使の三者構成によって、その機能を果たしてきたという実績もあるわけですし、そういう法律の体系になってきたわけです。個別労使紛争も、これも基本的に労使紛争でありまして、そのことをやはり公・労・使の委員の下できちっと処理をしていくというのが本来の筋であって、私は行政が様々な相談機能をそれぞれ持
つことは否定はしないということで、この間の複線型ということを確認し合ってきたと思うのですが、その基本の労働委員会ということは、一地方自治体のそれぞれの自主性に任せるという分野の問題ではなくて、国がどうしていくのか、国の法律の中でどうしていくのかということをきちっと示さなければ、これは地方ごとに個別労使紛争の処理の仕方が違うとか、同一の企業でも様々な地方自治体にまたがった企業はあるわけでして、自治体ごとに違うということにも、なりかねないわけであります
 これは、やはり基本として、国の制度として、きちっと位置づけていくという方向が示されるべきだという意味で労働委員会ということにこだわらなければならないということをあえて、重ねて申し上げておきたいと思います。

第3回労働政策審議会個別的労使紛争処理対策部会(平成13年2月9日(金)9:00~11:00)」(厚生労働省審議会、研究会等


さすがの連合も、自治体ごとに違ったら困るから全国一律で規定しなければならないという事情は認めているようですが、そういってしまうと連合自身の息のかかった労働委員会の権限拡大ができなくなるので、「自治事務を国が規定しろと」いう自家撞着をものともしない主張をしてしまうのでしょう。というより、そもそも円滑な集団的労使関係の構築を支援する労働委員会が個別労働関係紛争処理に活路を見いだす現状をこそ問題にしなければいけないわけで、二重に倒錯していて気が遠くなります。

後に成立した「個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律」では結局、労働委員会の権限を明記することは叶いませんでした。その現状に忸怩たる思いだった連合が、事業仕分けの対象に「個別労使関係紛争対策の推進」を盛り込んで、国(都道府県労働局)が実施している個別労働関係紛争処理を地方に移管することを狙ったではないかと思います。新たな既得権益の奪い合いがすでに始まっているわけですね。

実績からみれば全都道府県労働委員会の個別労働関係紛争処理は年間300~400件前後であるのに対し、都道府県労働局のあっせん申請は平成20年度で約8,500件と、桁違いの件数を処理しています。個別労働関係紛争というのは、労働基準法等の労働法規についての権限が組織内に控えていることが相談から解決までトータルに扱うために大きな効果を持っていて、その点で何の権限も持たない労働委員会より労働局が処理件数が多くなるのも当然でしょう。さらにいえば、労働局の労働基準部は都道府県内に数カ所の労働基準監督署を有するのに対し、労働委員会は県庁内に一か所しか事務所を持っていないので、利便性でも労働局には遠く及びません。

というように、法規上の権限もなくアクセスも悪い労働委員会では、労働局の行う個別労働関係紛争処理機能に勝ち目はないと思うんですが、明日の事業仕分けは「地方に移管」でFAなんでしょうね。すでに答えが見えているところが民意のすばらしさです。さすが民主党クオリティ。

ついでに、

○留意点〈全WG共通〉
※1 直接的な利害関係者は、事業仕分け作業には加わらないものとする
※2 行政刷新会議の議員は、全てのWGに評価者として参加することができる。
※3 行政刷新会議事務局職員や他のワーキンググループの評価者が、コーディネーターとして加わ
る場合がある(評価は行わない)。

行政刷新会議(第2回)議事次第 資料1-3 評価者名簿(民間有識者)(案)【PDF形式】(平成21年11月9日(月))」(行政刷新会議ホームページ


だそうで、連合の幹部経験者(草野氏)が入っていながら当事者による話し合いを否定するという、これまた見事なネオリベ的リベサヨっぷりにも気が滅入るところですなあ。

2009年11月12日 (木) | Edit |
政治家やマスコミの方々が国民の支持やら視聴率やらを重視する中で、不要不急不当不正だとレッテルを貼られた事業が公開の場でフルボッコです。
魔女裁判とか公開処刑なんていう言葉を思い出してしまいましたが、それは「敬うべきモデル」の復権を遂げた民意至上主義の現政権に対して失礼ですね。

MSN産経ニュース【事業仕分け】さながら“公開裁判” 危うき事業見直し (1/2ページ)2009.11.11 20:22
 「国がやる意味がどこにあるのか」「一方的な議論はおかしい」-。鳩山政権が予算削減の切り札として期待する「事業仕分け」が始まった11日、会場となった体育館は“公開裁判”の趣となった。だが、仕分けがどこまで成果を上げるか不透明な部分も多い。事業の見直しが決まれば、制度改革や組織改廃に直結するが、所管省庁で行われている議論との整合性をどう取っていくのか明確なルールや権限が決まっていないためだ。閣僚らからは反発の声も聞かれ、早くも暗雲が垂れこめ始めている。(河合雅司)


こんなことを書くマスコミはけしからん!と国民の皆様がお考えになる限り、現政権は安泰です。

それにしても、不急というのは将来的に必要だという意味でしょうし、不要といっても誰にとっての不要かで判断は違うだろうとは思いますが、それをすべて飲み込んでしまうのが民意のすばらしいところですね。

2009年11月04日 (水) | Edit |
前回エントリの補足ですが、ハーシュマンの原著には実はアメリカ人に「発言」の効果を説こうとする意図があるようで、今の日本の政治状況で読む場合はその点を留意する必要があります。

ハーシュマンによると、アメリカ人の感覚では、中に残ってグズグズいうよりも外に出てしまえばいいんであって、自分が外に出たあとその組織がどうなったって構わないと考えるそうですが、そういった「離脱」を中心とした市場の機能だけでは改良はできませんよというのが、この時期にこの著書を書いた理由のようです。

アメリカ合衆国をまさに形づくり、成長させた要因は、発言よりも離脱を重視してきた数多くの意思決定である。
(中略)
フロンティアが閉じられたあとでも、この国が広大で、また異動が容易であることも手伝って、アメリカ人は他のどのような国民よりも「物理的逃避」による問題解決を考えることができる。他の国民なら、自分が「放り込まれた」ある特定の状況下、その場所で状況を甘んじて受け入れるか、あるいは改善のための努力をしたり、置かれた状況と闘う場合でも、物理的逃避を行うことが可能である。トクヴィル以来、いろいろな人々がアメリカ人の風変わりな順応性を観察してきたが、これも今述べた形で説明できるかもしれない。どのような状況であれ、もしも非常に気に入らないなら、いつでもそこから完全に逃げ出すことができる。そのような場合、なぜわざわざ反対の声を上げ、面倒なことに身を投じなくてはならないのか。[これが通常のアメリカ人の感覚なのである。]
ハーシュマン『同』pp.119-120
※ 以下強調は引用者による。


そんな「アメリカ合衆国をまさに形づくり、成長させた要因は、発言よりも離脱を重視してきた数多くの意思決定である。(p.118)」というアメリカにおいても、移民の国であるが故にその国が間違っていては困るので、

しかしここで考えてみよう。すでに述べたこの議論に沿っていえば、嫌気がさしたと人が公言する時期は先延ばしになると予想できる。これはまさに、幸せの強迫観念に支配されている局面である。しかしながら、状況がさらに進み、もはや嫌気を抑えきれなくなるかもしれない。そのときには、いくつもの反応がでてくる。
(1) すでにみたように、新たな離脱が試みられるかもしれない。だが今回の離脱先は、この国の(幸いにして広大な)領域内になるだろう。
(2) この国が間違っていないことなど明らかなのだから、不幸、嫌気、その他の責任は、そうしたことを感じるに至った本人の側にあると思い込む。そこで、さらなる「調整」が行われる。
(3) そして最後に、この国が間違っていることが結局のところ明らかになったとすれば、そうなって欲しいと人が切望する理想的な場所に、この国は作りかえられなければならないということになる。したがって、発言が並外れて強い力で姿を現す。人間の作る制度は完全にできるし、諸々の問題は解決できるのだというアメリカ人に典型的な確信によって、発言は活気づくだろう。幸せでなければならないという強迫観念は、この国をイメージどおりの国にするために発言を行使しなければならないという強迫観念に置き換わる。ちょうど離脱がこの国の起源に貢献したのと同じように、実際のところ、発言がこの国の成し遂げたいくつかの偉業に貢献している
ハーシュマン『同』pp.125-126


として、アメリカ人だって「発言」オプションを実際に行使しているし、それが効果を上げているじゃないかと主張します。原著は1970年の出版ですので、この当時アメリカでの最大の関心事はベトナム戦争に対する反戦運動とか黒人運動の高まりだったわけで、ドイツ出身のユダヤ人であるハーシュマンは、ナチスに追われて社会主義運動にいったん身を投じた原体験を持ちますが、戦後はマーシャルプランに参画してナイジェリアの開発に関わったりする中で、そういった「発言」が社会を動かす可能性を感じ取りっていたのかもしれません。

しかし、ここで問題になるのは、「発言」そのものは確かに発言者の希望や心情などの発露であるとしても、その内容自体が適正であるという保証はどこにもないということです。民法上の契約になぞらえていえば、当初の契約の態様に瑕疵や悪意があった場合に無効又は取消されうるのは前回エントリで書いたとおりですが、その契約の瑕疵や悪意について当事者から発言があったからといって、その発言自体が新たな瑕疵や悪意を含む可能性は排除されません。だからこそ、法律上の疑義については司法が両当事者の主張に基づいて判断することになっているわけで、そのような仕組みもないまま発言ばかりが力を持ってしまうと、また別の問題を引き起こしてしまう危険があります。

特に、直上の引用部の(1)から(3)の流れのうち、「不幸、嫌気、その他の責任は、そうしたことを感じるに至った本人の側にあると思い込」んで、「人間の作る制度は完全にできるし、諸々の問題は解決できる」と確信するというのは、アメリカに典型的なだけでなくどこぞの国の民意至上主義と大変似通っているように思われます。そういう確信を持って発言することとその発言が適切な解決策を提示しているかは慎重に峻別して判断すべきでしょう。

たとえばこんなプレカリアート的なタイトルの番組がありまして、第3回は「どにかして!働く場」というテーマで落合恵子氏と湯浅内閣府参事参与がご出演でした。

今年度からスタートした新番組「そりゃあんまりだ!」。皆さんの身の回りにある“あんまりだ!”の声をもとに、第1回「お金がないと学べない?」(4月24日放送)、第2回「介護の負担 もう限界!」(7月24日放送)と、これまで放送してきました。このホームページに寄せていただいたみなさまからの声も、すでに200件以上に上ります。ありがとうございました。
第3回の放送は10月23日(金)総合テレビ 午後8時から(※地域によって放送時間が変更になる場合があります)。今回は、働く場をめぐる“あんまりだ”の声に耳を傾けます
年内に失業率が6%台に乗るといわれる中、雇用をめぐる状況は悪化の一途を辿っています。高校生の求人数は、去年に比べてほぼ半減。過去最大の減少率を記録しています。特に地方の高校生たちは、厳しい状況に置かれています。また、雇い止めにあった非正規労働者も、新たな仕事を容易に見つけることができないでいます。正社員とて、安泰ではありません。
日々の生活を支えるはずの働く場をめぐって、今様々な不安が渦巻いています。雇用に関して「そりゃあんまりだ!」と感じていることや ご意見がございましたら、ぜひこちらにお寄せください。お待ちしております。
NHK「そりゃ あんまりだ!」


そういう「声」を個別の企業の経営実務や労務管理を通じて労働条件に反映させるのが産業民主主義なわけでして、「民意」とかいう得体の知れないポピュリズムより前にそういった現場に根付いた「発言」オプションを有効に機能させることが先決だろうと思います。そうした現場での「発言」であれば、その結果は直接に発言者の労働条件や企業の経営状態に反映されるので、労使双方が常に「発言」をし続けることによって、企業内の経営や労働条件を不断に修正することが可能になる点が重要なわけです。

これに対して、民意という漠とした主体による間接民主制では、いったん選挙で示された民意は次回選挙まで修正することができません。拙ブログで中間団体たる労働組合が主体となる集団的労使関係の意義を強調しつつ民意至上主義を揶揄するのは、両者の規模や主体同士の利害関係のレベルが桁違いであるため、制度上の「利害代表性」とでもいうものがこの両者では全く違うと考えるからです。今進められているカイカク祭りが実効性のあるモノかどうかは、誰が誰の利害を代表しているのか、その利害を誰がどう調整するのかという難問に政権党が正面から向き合うかどうかにかかっているのでしょう。

その点からいえば、上記の番組の最後での「貧困を救うためには景気回復と企業頼みではなく社会の責任で!」という発言を聞くにつけ、湯浅内閣府参事参与は貧困の代表だとは思いますが、貧困までいかずとも景気低迷によって生活が苦しくなっている大多数の国民の代表として発言する気はなさそうですね。霞ヶ関の官僚には一方的に要求を突きつける割に、番組で取り上げられていたハローワークの官製ワーキングプアには同情的でしたし。

まあそもそも、政治家やマスコミにはそういう視点で利害を代表する立場の方が見当たらないというのが、「失われた××年」を長引かせている要因となっているように思います。少なくとも、我々コームインの利害代表が有権者の皆様の支持を得ることは当面の間ないんでしょうし・・orz

※ 湯浅氏の役職名を修正しました。

2009年11月01日 (日) | Edit |
民意とマニフェストがこの世で一番大事な契約だとご認識の首相がいらっしゃるようですが、日本の民法でいえば契約内容に瑕疵とか悪意があればその契約は無効となるか又は取り消されうるわけで、理系の政治家が増えるのも考えものだなあと。

つまりは契約したらそれで終わりということではなく、契約したあともその内容について発言していくことがさらに重要だろうと思うわけで、ハーシュマン『離脱・発言・忠誠』を読んでみました。
離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)
(2005/05)
A.O. ハーシュマン

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この本の白眉は、実は巻末の訳者補説でのハーシュマン半生記を通じて20世紀経済学史を概観できることにあると思うんですが、ハーシュマン自身のコンパクトな叙述の行間からも彼の問題意識を垣間見ることができます。

 通常、個々の経済主体、したがってまたその経済全体は、可能だと思われているほどうまく機能しない。こうしたことに気づいた人がこの衝撃的発見に対し起こすと思われる反応は、大きく二つに分かれる。すぐさま生じる、もっともはっきりした反応は、スラックを吸い上げ、緊張経済という理想状態を取り戻すための方法・手段を何としても探し出そうとするものである。競争圧力が足りないと思われる場合は、逆境の圧力にさらすことが選ばれるだろう
(略)
そして最後に、社会革命を唱える人たちが、この種の思想系譜に貢献してきたことを挙げておこう。満ち溢れていながら今は休眠し、あるいは抑圧され、阻害されている人々のエネルギーを呼び起こし解放するのは、革命的変革だけであるというのが、彼らのもっとも魅惑的な議論の一つであった。

ハーシュマン『同』pp.12-13
※ 以下、下線太字強調は引用者による。注記は省略しました。


現在の日本において、左右問わず「政府のムダをなくせ」、「企業は内部留保を取り崩せ」という主張がもっとも受け入れられやすいのは、こういったスラックに対する拒否反応の現れなのですね。この点において、市場原理主義と左派思想はお互いがお互いを批判しながらも分かちがたくメンタリティを共有し、1990年代以降のカイカク病を蔓延させているものと思われます。

このスラックに対するもう一つの反応として一定レベルのスラックに合理性があるとする主張を挙げつつ、ハーシュマンはスラックそのものの重要性を「衰退の過程そのものが一定の拮抗力を活性化する可能性(p.14)」にあるとして、離脱(exit)・発言(voice)・忠誠(loyalty)が果たす役割を論じていきます。

まずは、市場などを通じた競争が必ずしも「改良」につながらない理由として、

 これまでの議論は、競合するさまざまな企業が生み出す製品に満足のいかない特徴があれば、それらは、いろいろな圧力を通じ、またそれを契機に解決策が模索されることによって、取り除けるということを前提としてきた。だが、この前提に立たなくても、競争を通じた解決策は、やはり、単一の企業が唯一の生産者であるような状況における解決策よりも劣るであろう。というのも、この場合、数多くの企業が存在していることが、「隣の芝生はいつも青い」という永遠に続く錯覚、つまり、競争相手の製品を買えば欠陥製品から逃れられるという錯覚を抱かせてしまうからである。独占の場合には、消費者は逃れようのない欠陥と共存する術を学ぶであろうし、ありもしない「改良」製品を闇雲に追い求めるのとは別のところに幸せを探し求めるだろう。

ハーシュマン『同』p.28


という点が指摘されます。つまり、通常の経済学が想定する価格が上昇した場合ではなく、価格がそのままで品質が下がった場合を想定すると、価格限界的な消費者(需要曲線の均衡に近い)ではなく消費者余剰が高い消費者(需要曲線の切片に近い)から離脱することになります。この理由についてハーシュマンは、消費者余剰が高い消費者は通常その製品の品質に厳しく、他の製品の乗り換えることが比較的容易だからと説明します。となると、離脱オプションが行使されたとしても品質を厳しく評価する消費者がいなくなるため、競争によってその製品が改良されるのではなく、むしろ他の製品に乗り換えることができない価格限界的な消費者によって、品質が下がったまま需要が維持されることになるわけです。

ハーシュマンはこのような考え方を自らが開発に関わったナイジェリアの国有鉄道の衰退から着想したそうですが、ほかに代替する財がないからこそ声を上げて改良する可能性が高まるというのは、離脱を通じた需給市場の機能を信奉する新自由主義に対するアンチテーゼとなっているともいえます。

さらにハーシュマンは、ホテリング-ダウンズの二大政党制モデルの結論とは違って、現実の政党が必ずしも得票極大化行動をとらない理由について、

 今述べた状況が現実に近いとすれば、そこからは、政治運動がより過激になっていく理由が明らかになる。政治運動が掲げる当面の政策は、特に政権についていない場合には、現在の活動的な党員によって影響される傾向が強い。そんなことをすればすべての党員・有権者の支持を失いかねないという懸念は考慮されにくい。したがって、はまっていて身動きがとれないが、だからこそ活動的な党員の反発を買う中道路線への移行は、過激な路線への移行よりも強い抵抗を受けることになるだろう。

ハーシュマン『同』p.80


とします。この「はまっていて身動きがとれないが、だからこそ活動的な党員」は、自分がいくら声を上げてもその支持する政党がほかの党員の支持を失わないよう中道路線をとるのであれば、活動的であるが故に党を割って新党を結成することになります。古くは小沢氏一派、最近では渡辺喜美氏とかの行動が当てはまりますね。彼らのような「カイカク病罹患者」は決して中道的な政策を支持することがないでしょうから、小沢一派のように、これからも所属政党が中道路線を取り始めたりすれば再び党を割る可能性が高いのかもしれません。

こうして党を割ってでもカイカクしたい方々は、しかし、

 よく知られ、また歴史的検証にもよく耐えてきた格言、すなわち「サターン(Saturn)のように、革命はそれ自身の成果をも食い尽くす」というものを取り上げてみよう。なぜこのようなことがいわれるのか、今では容易に理解できる。「革命を起こす」にあたり、革命家たちは、個人として多大な犠牲を払っている。自ら危険を負担し、自己犠牲的行為をもろともせず、一心不乱に革命に関わるからである。ところが、革命が実際に成就すると、期待された事態と現実のとの間にギャップが生じる可能性が非常に高い。新たな現実を引き起こすのに大きな犠牲を払った人は、このギャップを埋めるため、その現実を何とかもう一度変えようとする。この過程で彼らは、今や権力の座に着いた同士たちに闘いを挑む。こうして革命後も続く闘争のなか、数多くの革命家たちは、このどちらの側についていようと、失墜する。

ハーシュマン『同』p.102
※ 太字強調は原文による。


という事態に陥りがちでもあります。訳注によれば、このサターンとはギリシアのクロノスと同一視される神で、父から支配権を奪ったクロノスは、自分の子によって支配権を奪われるであろうと予言されたため、自らの子供を次々と呑み込んだという神話からの格言とのこと。現政権のように、政権交代してみたら自らの主張と違う事態に直面した場合であっても、主張ではなく現実を変えようとするのがカイカク病の症状なのでしょう。

というように、現在進行形の「契約」問題を考える上で、本書は一読も何読もされる価値はあると思います。

ちょっと話は逸れますが、訳者補説から一点だけ興味深いエピソードを引用しておくと、

 フリードマンの「実践」に関しては、宇沢弘文がいくつかのエピソードを紹介している。
 シカゴ大学にいた宇沢は、一九六五年六月のある日、いつもどおり教授たちと昼食をとろうとしていた。そこにフリードマンが現われ、遅れて食事の席について興奮しながらまくしたてたという。
(略)
フリードマンは、資本主義においては儲かるときに儲けるのがジェントルマンなのだと怒り心頭の様子だったという。シカゴ学派の重鎮であるフランク・ナイトは、この話を聞き、独占のすばらしさを歌い上げる冊子を書いたジョージ・スティグラーともども破門にした。フリードマンとスティグラーの二人については、今後自分のところで博士論文を書いたと公言することを禁ずると。シカゴ学派の創始者ナイトが自由主義をA・マーシャルの道徳哲学によって裏づけようとしていた流れを、フリードマン、スティグラーとも継承しなかったのである。

矢野「「可能性追求」と「越境」の日々」『同』p.176


という部分は、ちょうど権丈先生がアップされたばかりの「太田総理」観戦録と併せて読むと、いろいろと考えさせられるものがあります。

要するに、フリードマンは、制度を知らないままに、主にイデオロギーというか好き嫌いの感情論を展開しているだけなんだけど、そういう論の展開の仕方は決まっていて、コラムにも書いてあるように、

それはひとえに官不信という思想性の問題である。同書では「専門家の先生方や政府の管理が当たり前の環境で仕事をしていて政府事業の拡大に抵抗がない」「年金業務があまりに専門的で、運営も専門家にほぼ一任されているため、政府がきちんと監督するのはまずもって不可能。かくて社会保障制度に取り込まれる人びとは増える一方」などの記述が目立つ。


というように、制度本体の評価、政策評価とは関係のない批判をひたすら展開する

勿凝学問260 フリードマン的批判とは?――制度への理解に自信のない者とエセ研究者がよく使うお手軽な手段(2009年10月31日 注:pdfファイルです)」(権丈善一webサイト「仕事のページ」


新自由主義を批判して政権交代を果たした陣営が、前政権よりもはるかに新自由主義であるという現状もまた、「革命はそれ自身の成果をも食い尽く」しているということなのでしょうね。


ついでに、タイトルはエハラマサヒロとの確執でおなじみのニート芸人ガリガリガリクソンのネタをお借りしました。為念。

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