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2009年09月27日 (日) | Edit |
鳩山由紀夫←鳩山威一郎←鳩山一郎←鳩山和夫
小沢一郎←小沢佐重喜(←竹下登、金丸信)
渡辺喜美←渡辺美智雄
河野太郎←河野洋平←河野一郎←河野治平
細川護煕←←近衛文麿←←・・・←細川忠利

というわけで、世襲が続くとカイカク度が増すような希ガス。

昨日最終回だった「再生の町」でもキーとなる主人公の役人*1と市長ともに二代目だったし、世襲であるが故の偏見を跳ね返すために「オヤジとは違う」ということを主張したがるのかもしれませんが、それがもし「オヤジが作った政治だから息子の俺が壊してやる」という理由なら、世襲議員による国政の私物化にほかなりませんね。

となると、次に要注意なのは
小泉進次郎←小泉純一郎←小泉純也←小泉又次郎
でしょうか。




*1 役人は厳密には世襲ではないですが、チホーに行くほどその傾向が強いですからね。
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2009年09月26日 (土) | Edit |
月末ということで今月の朝生を見てみたら、本間先生が出てましたね。前回出演したのを見たのは3年以上前で、その当時は経済財政諮問会議の民間議員としてご活躍中でして、拙ブログではかなり辛口のコメントをしてしまいましたが、その後いろいろなスキャンダルで表舞台から去っているので、その主張がどうなったかが興味深いところでした。

今回のメンツは以下のとおりです。ベストセラー作家の湯浅氏と香山氏も出演してたんですね。

朝まで生テレビ「激論!鳩山新政権の理想と現実

司会:田原 総一朗
進行:長野 智子・渡辺 宜嗣(テレビ朝日アナウンサー)
パネリスト:大塚耕平(民主党・参議院議員、内閣府副大臣)
福山哲郎(民主党・参議院議員、外務副大臣)
簗瀬進(民主党・参議院議員)
近藤正道(社民党・参議院議員)
下地幹郎(国民新党・衆議院議員)
茂木敏充(自民党・衆議院議員)
世耕弘成(自民党・参議院議員)

上杉隆(ジャーナリスト)
香山リカ(精神科医)
澤昭裕(21世紀政策研究所研究主幹)
村田晃嗣(同志社大学教授)
本間正明(近畿大学世界経済研究所所長)
湯浅誠(反貧困ネットワーク事務局長)


・・・あれ? 本間先生の入場のとき「経済財政諮問会議の民間議員」という紹介がありませんでしたけど? いまの肩書きは近畿大学世界経済研究所所長だそうですが、いやいや、このタイミングでこのテーマで呼ばれたのは「経済財政諮問会議の民間議員」だったからでしょうに。

妙に変だなーと思いながら見てましたが、番組が進んでも本間先生が全然発言しません。と思っていたら、番組も後半にさしかかろうとしたころで、温暖化ガスの削減の話題に突然「ゲームの初期状態をどう決めるかが大事だ」と割り込んできました。確かに経済学者らしい発言ではありますが、そのときやっと「税制調査会会長、経済財政諮問会議の民間議員」というテロップが出ただけで、当時の議論には話題が広がらないのが不思議なところ。この話題で本間先生が割り込むなら、田原総一朗氏も「経済財政諮問会議では奥田碩トヨタ会長(当時)に遠慮して暫定税率も環境税もまともな議論しなかったじゃないの?」と振るべきところなのに、それもしませんでしたね。

というか、民主党のカイカク派たちを前にしておきながら、コーゾーカイカクの牙城だった経済財政諮問会議で6年にわたって民間議員を務めた本間先生に対して、「カイカクの先輩としてどうなの?」と一度も振らないのはいかにも不自然ですな。政治家サイドからもその点についてのツッコミは皆無でしたし、テレ朝側との出演交渉に当たって「過去の経歴には触れないように」とか本間先生が箝口令を敷いたのかもしれません。

そんな微妙な空気の中で進行した話の内容については、政治家と活動家とジャーナリストの方々が議論を引っ張る展開で、途中からまたもや厚労省批判に終始する政治家の方々にうんざり。民主党からすれば年金でも雇用対策でも叩きやすい役所だし、自民党からすれば政権の座から引き下ろされる原因ともなった忌々しい役所ということで、与野党双方が「あそこは本当にダメだ!」とこき下ろし、最後には「公務員制度改革で成果主義の評価システムを導入しなければ役人は変わらない」と10年以上時代をさかのぼった結論に至る始末でした。自民党について言えば、社会保障削減を決めたあなた方の自業自得なんですがね。

ところがなんとここで、湯浅氏が「厚労省が悪いとは思わない」と厚労省を擁護するような発言をするではないですか! さすがに再分配政策を所管する厚労省を叩くのは筋違いだと気がついたのでしょうかね。とはいっても、このとき湯浅氏の発言の流れは、「ホームページを見ても雇用対策の情報にたどり着けないのは、利用者の立場に立っていないからだ」というもので、きちんと(?)役人批判はしておりました。この点については田原総一朗氏がしきりに「どうしてそうなるの?」と各パネラーに聞いていたように、どうしてそうなるのかという問題意識自体は至極まっとうなものでしょう。ところが政治家の方々の回答は、「官僚は現場を知らないから」というステレオタイプな、それこそ役所の現場を見ていないものでしかありませんでした。

役所の現場の話をさせていただけば、いまやどこの役所も公務員人件費削減とか定数削減の大合唱に晒されているわけで、その一方でこの景気低迷の補正予算などのために政策立案のサブロジやら制度策定やら通知の発送とかの事務処理やらに忙殺され、広報費も削減される中でチラシやパンフレットを作成する経費もなく、「ホームページなら経費がかからないんだから自前でやれ」とのお達しにより、業務の片手間にホームページを更新するのがやっとという状況なわけです。そこでもう一歩踏み込んで「支援が必要な方に必要な情報と支援を届けるための人員や経費をきちんと措置してくれ」と言わない湯浅氏には、やはり期待することはむずかしそうですねえ。

後半は八ツ場ダムの中止が話題になっていて、民主党議員から「利害調整をこれからしなければならない」というような趣旨の発言があったことは、さすがに政権の座についてようやくその重要性に気がついたというところでしょうか。最後まで利害調整を役人に丸投げしなければ、その点では自民党よりいくらかマシなのかもしれません。最後の各パネラーからの総括的な発言の中で、香山氏が「政策の先には人がいるということを忘れないでいただきたい」というのは、普段の氏の発言に同意することがないだけに意外にまっとな発言でビックリしました。政策の先に利害の異なった生身の人間がいて、その方々がすべて満足することはありえないという前提の下で地道に利害調整を続けるという、本来の政治の役割を現政権党の方々がどれだけ実行できるかが、今後の制度改革のポイントとなるように思います。まあその前に景気回復のためのマクロ政策をやれというのが大前提ですが。

ついでに、前々回エントリで予想した「再生の町」のラストシーンは見事にはずれました。結末の感想としては釈然としませんし難癖をつけようと思えばいくらでもできますが、住民の政治と行政に対する信頼の回復を描いたこのドラマのストーリーは評価したいと思います。政治家が役人を悪玉に仕立て上げ、行政に対する不信感を植え付けることによって政権を獲得するような状況では、どんな制度もうまくいくはずはありませんからね。


2009年09月23日 (水) | Edit |
すなふきんさんにTBいただきました。

トータルな財政予算のうち「ムダ遣い」と認定されるものがどのぐらいで、「本当に必要な公共サービス」の部分はどのぐらいで、ということが「客観的に」認識できればいいが、そもそも大きく異なる個々人の価値観が絡むのでこのような「客観的水準」などは存在しないと思う。

■[政治]あきらめの悪い人たち(2009-09-22)」(すなふきんの雑感日記


はてブにも同じようなコメントがありましたが、結局は「自分以外への資源配分はムダ」と考える住民同士の利害調整をどうするかに行き着くわけで、アメリカのようにロビイ活動がおおっぴらに行われたり、ヨーロッパ諸国のように労使団体が政策決定に関与する仕組みのない日本では、役所がその任を一手に引き受けざるを得ないんですよね。それを「官僚が自分の既得権益のために勝手にやってけしからん!」と批判してしまうと、ご自身の利害調整の代替機能を放棄することになりかねないんですが、なかなかそこは理解されないようです。

もちろん、本来はそういった利害調整は政治家の役割のはずですが、経済全体のパイが縮小してしまうバブル崩壊などによりそれがうまくいかなくなったときは、「官僚が勝手に自分の権益のためにやったんだ」とバッシングして批判をかわすのがこの国の政治家の作法となっています。官僚叩きで政権の座に就いた今度の政権党がその味を知ってしまった以上、わざわざ彼らが七面倒くさい利害調整に乗り出すはずもなく、結局は役人に丸投げするのは目に見えています。

「群馬・八ッ場ダム建設:建設推進の県議連盟が総会 民主系8人が欠席 /埼玉」(毎日新聞 2009年9月17日 地方版)

 民主が建設中止を掲げる八ッ場ダム(群馬県)の建設推進を求める県議連盟(65人)の総会が16日、県議会棟であった。民主系会派「民主・無所属の会」からは加盟している9人のうち、丸山真司県議だけが出席し、残りの8人は欠席した。

 民主県連幹部によると、5日の幹部会議で党本部との意見のずれを懸念した国会議員側から、総会の欠席を求める意見が上がり、8人はこれを受け入れたという。丸山県議は「私は党員ではなく民主の推薦ももらっていない無所属なので、自分の意思で参加した」と説明した。

 総会では県側が改めてダムの必要性を説明した。議連会長の佐久間実県議(自民)は「欠席した8人の代表からは、会長一任との連絡をもらっている。議連としては今後、建設推進を求める意見書の決議などを模索したい」と話した。【岸本悠】

※ 強調は引用者による。


もともと建設推進派だった地元の民主党県議の方々でさえ、現場で党の方針を実現するために利害調整に乗り出そうなんて気はなさそうです。ダムの必要性を県職員に説明させて「それは県職員と官僚の既得権益を守るためだろう!」と外野から叫んでおけば住民には受けがいいですしね。「官僚たちの夏」でも「再生の町」でも、ご覧になった方はこんな場面があったのを覚えている方もいるでしょう。
役人「おっしゃる趣旨は理解できますが、それでは○○の了解を得るのは難しそうです」
政治家「それを何とかするのがおまえの仕事だろう」
(実をいえばどちらもほとんど見てませんが、話の流れを見ればこんな感じだったんだろうと)

「脱官僚」とか「政治主導」なるものが結局は、政治家は一般受けのいい政策をばんばん打ち出し、それに伴う利害調整のような面倒なことは官僚がやれということになるのは小泉・竹中によるコーゾーカイカク祭りで経験済みではありますが、今度は「国家戦略局」だそうですね。戦略があったって実行できなければ意味はないですし、本来は裏方で執行部門を司る官僚が利害調整を一手に引き受けることは(それが必要な場面もなくはないですが)、国民にとっても望ましいことではないと思います。

カイカク病が蔓延する以前の日本では、霞ヶ関がそういった利害調整をある程度現場に委ねつつ所得再分配の網を広げ、地方の現場(≠地方自治体)ではその所得再分配で確保されたナショナルミニマムを前提として最小限の資源配分を行ってきたわけで、それはマスグレイブの財政3機能論(Wikipedia:リチャード・マスグレイブ)が論じる機能分担に沿った国家運営でもあるわけですが、獲得投票数最大化を目的とする政治家にはそれに従うインセンティブはありません。そんな政治家が主導する国家がどうなるものか、迷わず行けよ、行けばわかるさ。

2009年09月22日 (火) | Edit |
気がついたらこの秋はうちの業界的に気になるドラマが続いていたようで、「官僚たちの夏」は昨日が最終回でした。結局まともに見たのは初回と最終回だけで、第7話も途中から見ただけでしたが、うーむ、この政治過程をきちんと理解してご覧になった方ってどのくらいいたんでしょうね。

特に第7話は、法案成立が政治家の行動によって阻まれてしまうというプロットの話でしたが、これも「政治主導」の一つの形なんですね。

貿易自由化という戦後最大の試練を控えた昭和37年(1962年)、通産省企業局長の風越信吾(佐藤浩市)は外国企業の進出から国内産業を守るため、「国内産業保護法案」の成立を進めていた。その法案の中でも最も重視するのが、自動車業界を再編する「自動車三社構想」だった。過当競争を防ぐため普通自動車の量産メーカーを三社に絞るという構想は、関係各所への慎重な根回しが必要なため、極秘事項として検討されていた
(略)
ほどなく、古畑の調整はうまくいき、法案は昭和38年(1963年)春の通常国会に提出され、成立に向けて大きな一歩を踏み出した。しかし、古畑は風越への嫉妬から、法案の最も重要な部分である「自動車三社構想」を記者にしゃべってしまう。それを機に産業界は法案に反発、金融界も公取委も公然と批判を始めるようになり、風越ら産業派に逆風が吹き始める。そのとき、風越と古畑の亀裂が広がりに反撃のチャンスを見た池内は、新聞やデマ情報を使った法案潰しを画策する

TBS「官僚たちの夏」あらすじ第7話
※ 以下強調は引用者による。


あくまでドラマの中の話ではありますが、現実の政策決定過程の一面はとらえていると思います。「官僚主導」なんていったって、最終的には選良である議員の先生方が制度上保障された決定権を持っているわけで、官僚の抵抗が奏功するはずがないんですよね。

たとえば自民党政権下での手続をみても、法案成立のためにはその法律を所管する省庁が関係省庁に協議をする「各省協議」を行い、事務レベルで調整が整った法案について与党のカウンターパート(厚労省なら厚労部会など)に説明をする「与党根回し」を行うというロジを適切に踏まなければなりません。各省協議で調整した法案がそのまま通るなら官僚主導といわれても仕方ないかもしれませんが、この「与党根回し」で法案がガリガリと書き直されるなんてことは日常茶飯事なわけです。自民党でいえば、総務会と政調会で全会一致が見込まれるまで修正が加えられて、やっとの思いで国会に提出したのが「内閣提出議案」となります。

ところがもちろん話はこれで終わるわけではなく、国会の場では野党が修正とか付帯決議を求めてくるわけで、原案可決も多いとはいえ、これだけのプロセスを経た結果を「官僚主導」だという前に、まずは「与党も野党も含めて政治家は何をしてるんだ?」と小一時間ほど問い詰める方が先でしょうに。

でついに、ドラマの方は炭鉱爆発事故の対応で官僚が命を落とす展開に。

そんな中、炭鉱爆発事故の対応による激務の末、体調を崩し入院していた鮎川光太郎(高橋克実)企業局長を見舞った風越信吾(佐藤浩市)通産省事務次官は、鮎川の余命が半年もないことを知らされる。自分の病状を知らされていない鮎川は仕事に復帰し、輸出規制以来低迷が続いている繊維業界を立て直すつもりでいたが、風越は鮎川が務めていた企業局長を牧順三(杉本哲太)通商局長に代行させることを決める。鮎川は病床にあっても、日米安保のときに繊維が犠牲になったのを自分の責任と感じ、気にかけていたが、牧は領土返還でアメリカから見返りを求められたら応じるべきとの考えだった。

TBS「官僚たちの夏」あらすじ最終回


これもドラマを盛り上げるためとはいえ、現場で陣頭指揮を執ったり、霞ヶ関に押しかけてくるデモ隊と衝突したりと、現場に出て行くキャリア官僚がやたらと美化されていているように思いますが、それはキャリア官僚の描き方としてちょっと的外れではないかと(鮎川のモデルとなった川原英之氏(Wikipedia:川原英之)は、実際に炭鉱爆発事故を処理した後に亡くなっていますが)。

キャリア官僚が現場を見る必要がないとはいいませんが、キャリア官僚(のしかも幹部)にとっての現場というのはむしろ、業界団体との交渉だったり国会議員への根回しというような利害調整の場であって、現場の陣頭指揮は技官とかノンキャリの執行部門の現場となるはずですね。この辺は脚本の方も、政策立案に専念するテクノクラートたるキャリア官僚と、執行に専念するノンキャリ・出先職員・地方公務員の区別がついてないんだろうなと思います。

一方、NHKではそんな現場で執行する地方公務員の苦悩を描いたドラマが放映中です。

 倒れた間宮(岸部一徳)の代わりにチームのリーダーを志願した高岡駿馬(筒井道隆)は、「市民の積極的な参加による開かれた新しい行政」への転換を訴えるが、権藤(近藤正臣)はニュータウンこそがこの町の希望だと反論する。水元市長(吉田栄作)は、前市長である亡き父親の名誉を守るべきか、今困っている市民の生活を守るべきかで大いに悩む。そんななか、大勢の市民を集めて、ニュータウン計画の存廃を問う最後の公開部局折衝が開かれる。
 そこで市長はどのような決断を下すのか…?市民の反応は…?果たして、駿馬たちチームが作り上げた財政再建案は議会を通過させることができるのか…?

NHK「再生の町」次回予告


こっちも公務員が倒れてますなあ・・・

いやまあ、これを単に「放漫財政でムダ遣いばかりしてきた公務員の当然の報いだ!」と思われるならそれはそれで構いませんが、その「ムダ遣い」なるもので支えられていた公共サービスを削減するということは、これまでの公共サービスを享受してきた住民がもっともその影響を被るという点は認識していただきたいところ。このドラマでも、まさに自己責任で財政再建を強いられた地方自治体とその住民の苦悩を描いていて、これまた地方分権の一つの形なんですね。

公務員が苦しむ様は視聴率がとれるんでしょうけど、その苦しみというのは実は、その所管する分野なり地域の住民の方々のものでもあるわけです。「キャリア官僚を減らせ」、「天下り先への補助金を減らせ」、「無能なチホーコームインなんかクビにしろ」・・・なんとおっしゃっても結構ですが、その帰結には責任を持っていただきたいものです。

ついでに、「再生の町」はこれから最終回が放送されるので、「地方分権をより拡充して地域に財源を渡し、地域のことは地域が決められるようにすべきだ」と主人公が述懐してエンドロールに1000点。

2009年09月19日 (土) | Edit |
最近は古典と呼ばれるものを手に取ることが多くて、この本も今ではいろいろ味噌がついているようですが、日本人論(というより日本語論?)を考えるときには参考になると思います。著者の土居氏がこの7月に逝去されていたのは読了してから知ったんですが、これも何かの縁かもしれません。

「甘え」の構造 (1971年)「甘え」の構造 (1971年)
(1971)
土居 健郎

商品詳細を見る

手元にあるのが昭和63年発行(第2刷)の古本なのでamazonで表示される装丁と違いますね。

といっても、個人的には「甘え」の構造そのものはあまり関心はなくて、この本で描かれる1950年代末から1970年代にかけての日本社会の変貌ぶりを追ってみると、今の日本の政治状況に通底するものがあるように思います。

まずは、自由という概念が他人との連帯と独立ではない点について、

 というのは、現代の西洋人は、自由が空虚なスローガンにすぎなかったのではないかという反省に漸く悩みはじめているからである。資本主義社会機構が必然的に人間を疎外することを説いたマルクスの鋭い分析も、キリスト教が奴隷道徳であると宣言したニーチェも、また無意識による精神生活の支配を説いたフロイドの精神分析も、すべてこの点について現代西洋人の目を覚まさせるものであった。かくして彼らの自由についての信仰は今や無残に破られてしまった。もっともサルトルのごとく、すべての上部構造が崩壊しつつある現代社会において、人間の自由だけは唯一絶対のものとして、それにしがみつこうとする者がいないわけではない。しかしこのような自由は一体どこに人間を導くのであろうか。それは結局、個人的欲望の充足でなければ、参加による他人との連帯だけではないか。しかしこうなると、西洋人の自由についての観念も究極のところ日本人のそれとあまり変わりないものとなる。

土居『同』p.107
※ 以下強調は引用者による。


と指摘します。あくまで個人的な印象ですが、「政治主導」とか「チホーブンケン」とかというスローガンを聞いていると、1990年代以降の景気低迷と並行して進められた政治改革なるものの中で、この「自由」というとらえどころのない概念が微妙に変化しているように感じます。明治以降西洋文化を取り込んできた日本人が、戦後の民主主義と葛藤する過程を通じて、この部分で土居氏が指摘したような西洋人の悩みを回り回って追体験しているのかもしれません。

そして、第五章で当時の社会現象を「甘え」の構造の中で考察していくわけですが、1970年前後の学生運動について、

 私は桃太郎の童話について考えれば考えるほど、現代の戦闘的青年が桃太郎に似ているように思われてならない。彼らにとって両親は桃太郎におけるじいさんばあさんのごときものである。彼らは両親から保護と愛情は受けていても、大人になることについてはなんら指導を受けていない。だいたい両親がどういう点で彼らとちがう大人であるのかもわからない。そこで彼らにもまた自分のエネルギーをぶつけるために鬼征伐が必要になる。この場合一昔前のように外敵が存在したならば、それが格好の対象となったであろう。そしてこの外敵をやっつけるということで、少なくとも親子は一致することができたであろう。しかし今日の世界は仮想敵国の存在すら容易に許そうとしない。これは日本にとってばかりでなく、米国にとっても、その他の先進国にとっても然りである。かくして鬼は外敵ではなく、自国内の勢力者たちとなった。青年はこの鬼を征伐せんとして、若き情熱をたぎらせているのである。

土居『同』pp.177-178


と指摘します。今となっては使い古されたロジックではありますが、いやしかし、猪瀬直樹氏やら丹羽宇一郎氏やらの全共闘経験者が「カイカク!」と叫ぶ姿が健在であって、鳩山内閣にもその勢力が入閣しているいうことは、事態は全然古びていないということですな。土居氏も引き続いてこう指摘します。

 以上現代青年が桃太郎のごとく鬼征伐に従事せねばならぬ心理的必然性について説いてきたが、ただ彼らは一点についてだけ桃太郎と異なっている。桃太郎なら鬼征伐をして親にも喜ばれ、それこそめでたしめでたしで話は終わったのであるが、現代青年の場合はそうはいかない。もっとも大人たちの間には、自分たちのやろうとしてやれなかったことを青年がやってくれるといって、ひそかに声援を送るものもいる。しかし事態はそんなロマンチックな夢を許すほど容易ではない。というのは鬼征伐に懸命になっている青年が自らも鬼に変わる危険が現に存するからである
 だいたい青年が自らの力を過信するに至れば、彼らが攻撃している勢力者たちともはや区別がつかなくなるではないか。彼らが真に必要とするものは、それによって自らの限界を知ることができる力試しである。しかし今日の社会で誰がその機会を青年に与えられるのであろうか。誰が彼らにとって父親となり、権威と秩序の意味を新たに説くことができるのであろうか。見渡したところ、大学教授にも、政治家にも、思想家にも、宗教家にもいない。この点で現代はまさに絶望的である。事実は一にぎりの青年たちだけがアナキーなのではなく、時代全体の精神がアナキーなのである。であるとすると現代の青年はいつ果てるともわからぬ力試しに、まだ当分は明け暮れせねばならぬのではなかろうか

土居『同』pp.178-179


・・・当分どころか、40年経った今でも彼らは力試ししてますよ。

そういった力試しの限界を教えられる存在が父親であって、それが不在となった社会で何が起きているかというと、土居氏はこう指摘します。

 それというのも価値観について子供を教育しようとする父親が昨今は極めて稀になっているためであろう。これら父親たちも内心では疎外感に悩み、現代文明の危機を肌で感じている。したがって子供を教育するどころではないのであろうが、しかしその彼らも社会の中ではその属する体制なり組織を防衛する立場におかれている。そこで現代社会の世代間葛藤はもっぱら公の場で、体制体反体制という形で、進行することになると考えられるのである。ところでここで一つ奇妙なことは、この現代の世代間葛藤ないし断絶が、先にのべたごとく主として価値観をめぐって起きていると考えられるにも拘らず、争われている価値観の相違が必ずしも明らかではないことである。まず古い世代が古い価値観を信じているとは限らない。むしろ彼らの多くは懐疑的である。かといって新しい世代が新しい価値観を提供しているのでもない。とすると今日の世代間葛藤は、価値観をめぐって起きているということはできても、価値観自体が争点になっているということはできなくなる。では何のために新しい世代は古い世代を攻撃するのかというと、そうすることによって古い世代に本音を吐かせようとしているのだと解される一面がある。結局新しい世代は、それによって自分たちが生きていくことができる価値観が欲しいのである。そしてそれが古い世代によって提供されていないことに苛立つのである。それはたしかに一種の甘えであるということができるであろう。しかし今日の新しい世代は甘えているといったところで、世代間断絶が解決するとは思われないのであるが。

土居『同』pp.186-187


まあそういうことでしょうね。価値観が提供されないと苛立っていた全共闘世代が事態をねじれにねじれさせ、今や一国を司る立場に就く年代になって、どんな価値観を提供するつもりなのかじっくりと見せていただきましょう。

ただし、現在発言力を増している鳩山内閣内の左派グループについては、こういう点も気がかりです。

 さてこのように社会全体が甘えていれば、少なくとも主観的には皆おめでたくてハッピーでありそうなものだがどうもそうではないらしいところが妙である。というのは、現代人は一方では浮き浮きしていながら、他方では何か漠然とした罪悪感に悩んでいるようにみえるからである。この感情を最もはっきりした形であらわしているのがニュー・レフトの活動家たちであろう。彼らは人間としての連帯感に強く訴える。彼らはヴェトナムとかピアフラなど、その他国の内外を問わず、およそ人間の悲惨が強く露呈される場合に、傍観者の立場に立つことは犯罪であると主張する。しかし実際にはなかなか人間の悲惨を救うことができないので、彼らの罪悪感は一層かきたてられる。それで彼らはこれらすべての悪の根源は巨大な社会機構の圧制にあるとして、それに果敢な戦を挑む。彼らと同じような連帯感に目覚め、彼らとともに戦わない者は彼らの敵である

土居『同』p.197


「地域主権」とか「官から民へ」とかって、「地域のことに無関心なことは罪である」とか「政治にもっと民間が関わるべきだ!」とかいう信念がその根拠にありそうなんだけど、そうやって住民の方々の安寧な生活を公的活動に動員しなければならないかどうかは一概には言えないだろうと思うんですがね。少なくともすべての国民に選挙権を保障する制度がある一方で、より積極的に政治の意思決定に食い込むべきだというのであれば、それはそうやって食い込むだけの暇と時間と余裕のある一部の層に発言権を与えるだけになることも十分に想定されるわけで、民意至上主義と独裁政治が紙一重というのもそういうことなんですが。

こういった総論では文句のつけようのない正論が往々にして制度として機能しないことについては、拙ブログでも何度も指摘しているところではありますが、土居氏は宗教的な面も踏まえてこう指摘します。

 ところでこのニュー・レフトの主張は、それだけを見ればまことに人間的であり、ほとんどキリスト教的な匂いさえするような気がする。
(略)
このように見るとニュー・レフトの活動は全く歓迎すべきことのように思われるが、しかしそこに問題がないわけではない。それというのはこの場合、連帯があまりに強調されるため、この独立した価値が見失われる恐れがあるからである。すなわち個は連帯によって初めて価値あるものとなるので、個は自らの救いのためにも連帯を求めざるを得なくなる。しかしこうなると、ニュー・レフトの活動家たちを駆り立て、また彼らが彼ら以外の人々にも、しばしば喚起する罪悪感なるものがどうやら底の浅いものではないかと思われてくる。なぜなら彼らの罪悪感は連帯によって容易に消失するか、もし完全に消失しないまでも著しく緩和されて、少なくとも当人にとっては問題ではなくなるように考えられるからである。
(略)
悪は責められるべきである。しかしもしこの際、それによって自己自身の罪悪感がふっとぶようならば問題である。このような罪悪感は甘えに発するもので、それこそ甘い。それは前項の終りにのべたような道徳の基礎となる罪悪感ではない。したがってまた、そのような動機を内に秘めてなされる悪の攻撃は決して効果的なものとはなり得ず、却って悪の蔓延を助けるだけだと考えられるのである。

土居『同』pp.197-201


大多数のサイレント・マジョリティの境遇を改善することなく「少数の弱者」と彼らが認定した方々だけを救おうとするのも、政権交代を果たした方々の自らの罪悪感の解消をもたらすような「浅い政策」しかマニフェストに盛り込まれない理由の一つなのかもしれませんね。

2009年09月17日 (木) | Edit |
 ▽総理 鳩山由紀夫(衆院)
1986自民党(田中派)→1993新党さきがけ→1996旧民主党・民主党(鳩山グループ)
1947年生まれ、当選回数:衆7回、大学助教授

 ▽副総理・国家戦略局担当相 菅直人(衆院)
1980社会民主連合→1994新党さきがけ→1996旧民主党・民主党(菅グループ)
1946年生まれ、当選回数:衆10回、活動家→菅・高橋特許法律事務所所長

 ▽総務相 原口一博(衆院)
1993自民党(宮沢派)→1994新生党・新進党→2000民主党(羽田グループ・野田グループ)
1959年生まれ、当選回数5回、松下政経塾→佐賀県議会議員

 ▽法相 千葉景子(参院)
1986日本社会党→1997旧民主党・民主党(横路グループ)
1948年生まれ、当選回数:参4回、弁護士

 ▽外相 岡田克也(衆院)
1988自民党(竹下派)→1993新生党→1994新進党→1998国民の声→1998民政党→1998旧民主党・民主党
1953年生まれ、当選回数:衆7回、通商産業省

 ▽財務相 藤井裕久(衆院)
1977自民党(田中派)→1993新生党→1994新進党→1998自由党→2003民主党(小沢グループ)
1932年生まれ、当選回数:衆7回・参2回、大蔵省

 ▽文部科学相 川端達夫(衆院)
1986民社党→1994新進党→1998新党友愛→1998旧民主党・民主党(川端グループ)
1945年生まれ、当選回数:衆8回、労働組合役員

 ▽厚生労働相 長妻昭(衆院)
1995平成維新の会→1995新党さきがけ→1996旧民主党・民主党
1960年生まれ、当選回数:衆4回、雑誌記者

 ▽農林水産相 赤松広隆(衆院)
日本社会党→1996旧民主党・民主党(横路グループ)
1948年生まれ、当選回数:衆7回、世襲

 ▽経済産業相 直嶋正行(参院)
1992民社党→1994新進党→1998新党友愛・民主党(川端グループ・鳩山グループ)
1945年生まれ、当選回数:参3回、労働組合役員

 ▽国土交通相 沖縄北方・防災・海洋担当 前原誠司(衆院)
1992日本新党→1993新党さきがけ→1996旧民主党・民主党(前原グループ)
1962年生まれ、当選回数:衆6回、松下政経塾→京都府議会議員

 ▽環境相 小沢鋭仁(衆院)
1992日本新党→1994グループ青雲・新党さきがけ→1996旧民主党・民主党(鳩山グループ)
1954年生まれ、当選回数:衆6回、自由社会フォーラム事務局長

 ▽防衛相 北沢俊美(参院)
1975自民党→1993新生党→1994新進党→1996太陽党→1998民政党→1998旧民主党・民主党(羽田グループ)
1938年生まれ、当選回数:参3回、長野県議会議員

 ▽官房長官 平野博文(衆院)
1996無所属→1998旧民主党・民主党(鳩山グループ)
1949年生まれ、当選回数:衆5回、労働組合役員

 ▽国家公安委員長 拉致問題担当 中井洽(衆院)
日本社会党→1975民社党→1994新進党→1997自由党→2003民主党(小沢グループ・川端グループ)
1942年生まれ、当選回数:衆11回、世襲

 ▽郵政・金融担当相 亀井静香(衆院・国民新党)
1979自民党→2005国民新党
1936年生まれ、当選回数:衆11回、警視正

 ▽消費者・少子化担当相 福島瑞穂(参院・社会民主党)
1998社会民主党
1955年生まれ、当選回数:参2回、弁護士

 ▽行政刷新会議担当相 仙谷由人(衆院)
1990日本社会党→四国市民ネットワーク→1998旧民主党・民主党(前原・枝野グループ)
1946年生まれ、当選回数:衆6回、弁護士

以上から初当選前後の党籍を見てみると、
自民党籍6人(鳩山、原口、岡田、藤井、北沢、亀井)
日本社会党籍4人(千葉、赤松、中井、仙谷)
民社党籍3人(川端、直嶋、平野)
日本新党2人(前原、小沢)
社会民主党籍1人(福島)
社会民主連合1人(菅)
平成維新の会1人(長妻)
となりますので、日本社会党と社会民主党を合わせて社会党とすれば、自民党6人、社会党5人で全閣僚18人中過半数の11人を占めます。というわけで、前回エントリの対立仮説は50%水準で有意に棄却されなかったということにしたいと思います。

それにしても、泡沫政党と思われた平成維新の会出身でありながら入閣を果たした長妻氏の奮闘ぶりは目を引きますね。民意至上主義がもてはやされる限り、長妻氏の成功談は「合理的無知を最大限に活かした戦法」としてこれからも受け継がれていくのでしょう。

※ データはすべてWikipediaから拾いました。

2009年09月12日 (土) | Edit |
[証明]
SDPJ = SDPJR + SDPJL
SDP = SDPJL
DPJ = O-DPJ + SDPJR + LP(a.k.a.NFP)
であるから,
Hatoyama's Coalition Government
= DPJ + SDP + PNP
= { O-DPJ + SDPJR + LP(a.k.a.NFP) } + SDPJL + PNP
= { SDPJR + SDPJL } + O-DPJ + LP(a.k.a.NFP) + PNP
= SDPJ + O-DPJ + LP(a.k.a.NFP) + PNP
ここで,
O-DPJ + LP(a.k.a.NFP) + PNP ≒ LDP"RE"
とすると,
Hatoyama's Coalition Government
≒ SDPJ + LDP"RE"

ただし,
LDP:自由民主党
SDPJ:日本社会党
O-DPJ:旧民主党
LP:自由党
NFP:新進党
SDP:社会民主党
DPJ:民主党
PNP:国民新党
添え字の RL"RE" はそれぞれ右派,左派,カイカク派を表す。
[Q.E.D.]

鳩山内閣はある意味で自社連立政権ではあるけど、回り回って丸々政権入りした日本社会党が一番の勝者かもしれませんね。

誰か90年代初頭の党籍でそれぞれの議員数を数えていただけるとさらにおもしろいかも。

2009年09月07日 (月) | Edit |
前回エントリをアップしてから気がついた記事ですが、

東京新聞「夫人も宇宙人 『太陽ちぎって食べた』鳩山幸さん」(2009年9月5日 夕刊)

 【ワシントン=岩田仲弘】米メディアで日本の民主党による政権交代が話題となる中、近く「ファーストレディー」となる鳩山由紀夫代表の妻・幸さんの「奇人ぶり」にも関心が集まっている。

 CNNテレビは四日、幸さんが出演したトーク番組を引用しつつ、幸さんの「超常現象発言」を特集。幸さんが、人気俳優トム・クルーズさんを主役に起用したハリウッド映画を製作する夢を語った後、その理由として「彼は前世は日本人で、私は会ったことがある」と述べたことを紹介。同じ番組で、夫とともに太陽をちぎって食べていることを身ぶりを交えて説明している様子も放映した。

 また、幸さんが昨年出版した「私が出あった世にも不思議な出来事」(共著)がすでに売り切れ続発で入手困難な状況を説明。「眠っている間、私の魂が三角形のUFOに乗り、金星に行った。とても美しく、緑でいっぱいだった」といった趣旨の内容が書かれていると報じた。

※ 以下強調は引用者による。


前回のエントリで最初に引用した部分がありますが、そこで略した部分を引用します。

 第一は、ある特定の妄想に囚われてしまい、だがその妄想を除けば他の能力は温存され、したがって認知症とか統合失調症とは考えにくいタイプである(男性に多い)。脳のCTやMRIを撮っても、ことさら萎縮や梗塞などの所見はない。
 ではどんな妄想に囚われているかというと、オリンピックの年に宇宙人が空飛ぶ円盤で攻めてくるとか、眠っている間に自分の「こめかみ」にICチップを埋め込まれて思考を読み取られているとか、近頃の少年による凶悪犯罪はすべてCIAによるマインドコントロールの結果であり敵国を自滅させるための実験をしているのだとか、そういった荒唐無稽な内容では「ない」。もっとうんざりするような下世話な話――妻(60歳過ぎである)が巧妙に浮気を繰り返しているとか、町内会の某は私利私欲のために俺の悪口を言いふらしているとか、自分が会社に勤めていたときに部長になれずじまいだったのは信頼していたつもりの「あいつ」の裏切りが原因だったことに突如思い当たったとか、そういった邪推や逆恨みに近い話なのである。

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pp.44-45

 
・・・ああ、よかった。少なくとも日本のファーストレディが躁状態という事態は避けられそうです。

ただ、その後をさらに引用すると、

 ただし妻は夕食の買い物ついでに間男と「素早く」セックスをしたり暗号を使って密会の予定をやりとりしているとか、町内会ではグルになって盗聴器を仕掛けているとか、会社時代に俺を裏切った「あいつ」を自殺に追い込めるような秘密を握っているのでそれを自費出版の形で公にして破滅させてやるつもりだとか、いささか現実離れした話が混じっているために周囲は困惑せざるを得ない
 こうしたケースは精神疾患とは言い切れないし、抗幻覚妄想薬とか安定剤を服用させても改善は望めない。老化にともなう脳機能の脆弱化と、長年わだかまってきた不満、そして人生の黄昏における「取り返しのつかない気分」などが一体化したものであろうが、何だかひどく「大人げない」のである。アンチエイジングとか「若さこそが善」といった風潮が関係しているだけでなく、妙な具合に老人もまた幼稚化している印象を拭えない。

春日『同』pp.45-46


躁状態ではないとしても、あまり楽観できる状態ではないのかもしれませんね。

まあ、党首のご婦人に限らず、個人的に民主党に対して抱いている違和感というのが、躁状態のような場当たり感とか堪え性のなさだったりします。彼らの出自を見れば、自民党にいたのに既存派閥の跡目争いに敗れそうになって党を飛び出したり、既存政党の中で経験を積むより新しい政党で手っ取り早く自分の主張を実現させようとしたり、霞ヶ関のキャリア官僚でありながら既存の官僚組織を自らの手で変えることなく政界に進出して古巣を攻撃したり、世間との接点を一般の会社勤めのような地道な社会経験ではなく××政経塾とかNPOなどでの活動に求めたり、という方が多いように思います。それはおそらく、「既存」というエスタブリッシュなものに対する嫌悪感の発露なんでしょうけれども、世の中の大多数の人々は既存の組織の中で生活しているわけであって、そんな既存組織に生活する者の一員である俺としては、彼らこそが庶民目線とか市民感覚から最も遠い世界の住人のように思われてなりません。

もし、そうした「既存」のものへの嫌悪感があったとしても、多くの人間がそれに従って生きているという現実を直視しなければ現実的な政策が生まれてくるはずはありません。そうすることもなく、自らの嫌悪感に忠実に「既存」の世界を飛び出した彼らの心情は、多分に躁状態だったのではないかと思います。一時的な躁状態が世の中を変革する原動力となることは否定しませんが、中には恒常的な躁状態の方もいるように思われるわけで、そんな彼らはいつまでたっても「まずは政権交代」といって変革ばかりを追い求めていくのでしょう。

「既存」の世界に生きている方が多いのは、まさに幾多の歴史的経緯をくぐり抜けてきた制度が安定しているということの証左であって、「既存」であるということはそれだけ洗練されているということでもあります。その洗練された制度に欠陥が見つかったり時代の変化に合わない部分が出てきたというのであれば、その部分を中心にさらに洗練させることが先決です。場合によっては、その部分から制度全体に改革が波及することもあるでしょうが、それはあくまで順次進められるものであって、それが漸進的な改革の意味するところでもあるはずです。

自民党もたしかにまともなマニフェストも出せませんでしたし、選挙戦の終盤には労働組合に政権を取らせるなキャンペーン(注:リンク先はpdfファイルです)を張ったりとロクでもない政党ではありますが、少なくとも麻生総理には社会保障国民会議の最終報告で社会保障の充実と財源確保の筋道をとりまとめ、安心社会実現会議で雇用を中心とした社会参加型の国家像をとりまとめるだけの胆力がありました。そういった地道な改革を進めるだけの胆力のある政治家を養成してきたという点では、自民党の組織運営に対してもう少し正当な評価が与えられてもいいのではないかと思います。

この点は政権運営をしたことのない民主党にとってはまさに未知数ではありますが、上記のような党結成の経緯や所属の政治家の出自を鑑みるに、躁状態特有の浮ついた議論しかできそうにないわけで、それだけの胆力のある政治家を養成できるとは到底思えないんですよねえ。

そういえば、飯田泰之先生が出演していた今朝の日曜討論でも、上ずった声で「天下りをなくすことがポイントだ」とか「それで失職する公務員のことなんか考える必要はない!」として、「民主党に期待する」と息巻いていた経済評論家がいましたが、あの人の口調もうちの職場の躁の人に似てるなあ。

2009年09月05日 (土) | Edit |
政権交代祭りを見ていると、以前の職場で一緒だった躁鬱状態を繰り返す職員を思い出します。彼は躁状態になると「世の中を変えてやる」みたいな威勢のいいことをいうんですが、その理由とか裏付けみたいなものが薄っぺらいんですよね。薄っぺらいというより自分の欲望や見栄で動いているだけなので、周囲を振り回しておきながら自分は何一つ気にしていないわけです。昔を知る方に聞けば、彼はもともと将来を嘱望された人材だったのが、苛烈な上司にいじめ抜かれて精神を病んでしまったとのこと。世の方々はチホーコームインの仕事なんぞお気楽なものだと思っているのでしょうけど、ご多分に漏れず結構な割合で精神を病んでいる職員がいるものなんですよ。

その職員はずっと沈み込んでしまっていて話しかけても一言も返してくれないかと思うと、突然多弁で活動的になって手がつけられなくなったりという典型的な躁鬱状態ではありますが、嘱望されていた時代の貯金なのか、いまでは順調に出世しております。現在は軽躁状態で固定してしまったらしく、いろいろなアイディアを思いついては部下を振り回しているようですが、こうなるとそこら辺にいる困った上司とは大差ないということで出世しているのでしょう。

で、そういう職員に対してもうまくやり過ごさなきゃなと思っていたところ、躁をテーマにした本を見つけたので読んでみました。
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・・・実はこの本を読んで書評を書くどころじゃなくて怖くなってしまったんですが、それはいったん措いといて、現在進行中のカイカク祭りによく当てはまる記述を引用してみます。

 では老年期はどうか。老年期の定義は、こと現代においてはなかなか難しいが、差し当たって65歳前後としておこうか。
 精神科医としての個人的な印象としては、老年期にさしかかった途端にいきなり異様な精神状態を呈してしまう人がいる。それはアルツハイマーがやや早めに出現したとか、定年になって生きる張り合いを失ったとか、夫唱婦随的な関係性が現代では失われてきた等の話とは異なる。ことさら知的能力が落ちたり多彩な幻覚妄想が渦巻くわけでもない。どうも二つのタイプが目立つ。
 第一は、ある特定の妄想に囚われてしまい、だがその妄想を除けば他の能力は温存され、したがって認知症とか統合失調症とは考えにくいタイプである(男性に多い)。
(略)
 で、第二は、躁状態である。これもなかなか微妙なところがあり、たとえば長年デザイナーとして活躍し、その世界においては功成り名を遂げているような人物が、些細なことに義憤を抱いて選挙に立候補してしまう。まあ義憤から選挙に立つのは結構であるが、その人が描いてきた人生の軌跡と立候補があまりにも「木に竹を接いだ」印象がある。おまけに本人はいやに調子がよく、演説会を精力的にこなすよりも、おかしな着ぐるみのマスコットを考案したり、ラメ入りの衣装で遊説したり、馬鹿げたパフォーマンスをしたりと、はしゃいでいるのだか真剣なのか判然としない。

春日『同』pp.44-47
※ 以下、太字下線強調は引用者による。


どこかで聞いた話ですが、その当時はそのデザイナー(建築家)の言動を正面からおかしいんじゃないかと指摘する声はあまりありませんでしたね。選挙戦中に立候補者の精神が病んでいると指摘するのはいろいろ問題があるのでしょうけど、そういった人がそれなりに得票してしまうのも選挙の怖さではあります。その選挙の怖さが小選挙区制と融合して、極論的な対立軸を主張する党同士による「二大政党制」が実現したときに、「政権交代という歴史を作った」とかはしゃいでいられる神経が理解できませんね。

まあ、選挙に限らずマスコミの躁状態というのも宿命的なものでしょうけど、

 老年期に差し掛かっていきなり精神がノイズを発してしまう人たちと(その理由はいまのところよく分からない。とりあえずそうした事実の指摘にとどめておく)、奇人とは、誇大妄想的な傾向を内包している点において共通している。ステレオタイプな価値観や発想のみに囚われ、ときには怒りに顔を歪め、ときには得意満面の表情を浮かべる

春日『同』p.52

 誇大妄想的とか内省を欠いたエネルギッシュさは、奇人の構成成分である。奇人は病人ではない。だが奇人たちには、少なからず躁病的なニュアンスが窺われる。溶け込んでいるというよりも、斑点とか水玉模様のように躁病的なものが浮き出ている印象がある。
 躁病的なものとは、俗っぽく自己愛的で、大げさかつ積極的、羞恥心やためらいを欠き、飽きっぽく安易、興奮しやすく普段でも浮ついている性向である。昔から、発揚情性型とか躁病性素因、多血気質、軽佻性などと証されたきたものと重なる。われわれは躁病的要素を濃厚に持った人や、慢性の軽躁状態みたいな人をときたま目にする。新興の実業家や投資家、(自称)芸術家、プロデューサーとかマスコミ周辺の人、興行師や芸能界周辺あたりに彼らは棲息しがちのようで、談合体質などにも結構近いものがあるのかもしれない。

春日『同』p.55


というのは、60歳を超えてから月金で昼帯と朝帯の情報番組を掛け持ちしていた(最近は朝のみらしいですが)みの某を思い起こさせます。銀座で遊んでからほとんど寝ないで番組に入るエネルギッシュさとか、怒りっぽくもありながらそのすぐ後には冗談を言い放ってみたり、談合体質についてもご自身の経営する会社には常に噂がつきまとっている(Wikipedia:談合事件の常習)ようですし、そう考えてみると彼の言動の支離滅裂さの由来が理解できそうです。とはいえ、彼が朝の顔として影響力を持つようになって、「霞ヶ関をぶっ壊せ!」、「消えた年金をどうにかしろ!」とかステレオタイプな価値観に囚われて「ほっとけない!!」と大騒ぎし、その「みのポリティクス」の結果としての政権交代であったなら、一般の方々も浮かれている場合ではないと思うんですけどねえ。

さらには、世の活動家なる方々やチホーブンケン教を理解するのにはこういう例も興味深いところ。

  おしなべて軽躁的な人は、ステレオタイプな感覚に凝り固まっている。ステレオタイプという前提がなければ、それをネタにおどけたりはしゃいだりはできないのだから。
 H市のO市長(49歳、男性)は、知人によれば「冗談が服を着て歩いているような人」であった。ゲームが好きで「四人将棋」なるものを考案したり、職員に市長の勤務評定をさせてみたりと、「アイディア市長」としても知られていた(『週刊朝日』平成9年4月4日号)。
 そんな彼がセクハラ騒動を起こし週刊誌に書きたてられるようになってしまった契機は、年の暮に飲食店で外郭団体の職員と宴会を開いていたときであった。
(略)
 結局市議会でセクハラとして追及され、すると市長は1週間の自宅謹慎を宣言して蟄居、その後は議会に自らの給与8割カット6ヶ月を処分案として提出し、承認されたという。
 レベルが低いというよりも、幼稚というべきだろうか。男尊女卑的な田舎であったら、まあそんなものかもしれない。セクハラというよりは、市長の気の置けぬ人柄を強調するエピソードとして面白おかしく語り継がれるはずだったのだろうし、性的な関心といった意味ではセクハラに該当しないと当人は思っていたのかもしれない。だが今は平成の世の中なのである。おまけに賭けの話(引用者注:外郭団体の宴会で市長が女性職員のおしりを触れるかどうかで賭けをした)はその場の座興として交わしても、ご丁寧にも数日後に実行してしまうのはやはり異常である。彼の軽躁傾向がアイディア市長として名を馳せたり、おそらく気さくで親しみやすい政治家として人望を集めたりもしたのだろう。若い頃にはあえて「あいりん地区」で生活をしてみたといった武勇伝にも、躁のベクトルに突き動かされた「けれん味たっぷりの行動主義」といったものだったのだろう。
 軽躁的な資質は、おそらく政治家には必須である。ただしそれを上回る腹黒さや計算高さも備わっていなければ人の上に立つ人物の資格はなく、ただのお調子者でしかない。

春日『同』pp.103-133


自分のような行動力のない人間からすれば「若い頃にはあえて「あいりん地区」で生活をし」たような方は、たしかにすごい人だなとは思いますが、同時に変わった人だなとも思います。しかしそれは、「現場を知る」とか「しがらみに囚われない」という言葉でもって、容易に「アイディア市長」にも転化できるものなんですね。そしてそういった現象が、議院内閣制である国会よりも、直接選挙で当選できる地方自治体の首長の方に顕著に現れるのも自然な流れなのでしょう。

そうした躁病的な状態の活動家や政治家、マスコミがもてはやされる理由については、この部分がヒントになるように思います。

 さて躁状態といったものを考えるとき、わたしは当人があたかも群集心理によって突き動かされているように感じることがある。その無責任さ、無鉄砲で攻撃的、興味本位の優先と醜悪な欲望の解放、残酷さと不寛容、そういった性質が本来の「その人らしさ」を覆い尽くしてしまう。
(略)
もしかするとこのような状態は、もともと本人の心の中に潜在していたさまざまな側面、さまざまな人格が一斉にシンクロして群集心理を生み出し、無責任な暴徒と化していることなのではないだろうか。だからこそ、普段なら決して行わないであろう「とんでもないこと」すら、いとも簡単に実行してしまう。理性や羞恥心がブレーキとして働かなくなる。
 個人の頭の中で群集心理が働き始め、その不均衡なありようが違和感に満ちた人間を作り上げているのではないか。不可解な事件を起こす新老人たちも、彼らの頭の中では正義を標榜する暴徒たちの怒号が響き渡っているということではないだろうか。
 そして人々が暴徒と化す契機となるのが危機的状況や世間に広がる不安感、現状への強い不満であることもまた、「頭の中の暴徒たち」の存在を裏付ける証拠となるであろう。

春日『同』pp.156-157


彼らの頭の中の義憤というのは、実はかなり普遍的な要素を持っていて、それがそういった躁病的な傾向を持つトリックスターによって極端な形で発現してしまうと、一般の方々の頭の中の同じ義憤が覚醒されていくのかもしれません。そしてそれがトリックスター自身の義憤をさらに増幅させ、それに呼応するように一般の方も彼を熱狂的に支持し、大きな流れが作られていくと理解することができそうです。そうして作られた民意至上主義は、それがいかに浅はかなものであろうと国民自らをその「民意」なるもに縛り付けてしまうわけで、民主主義国家に生きる者は前回エントリでとりあげたケルゼンのこの言葉をかみしめるべきなのでしょう。

 しかし、多数とともに投票したものは、もはや彼自身の意思にのみ服従するのではない。このことは、彼が投票に際して表明した意思を変更する場合にすぐ経験することである。このような意思の変更について法律的な基準がないということは、他人の意思を、あるいは比喩なしにいうならば、彼が服従せねばならぬ秩序の客観的妥当性を余りにも明白に示すのみである、彼という個人が再び自由になるためには、その意思変更のために新たな多数を見いださねばならなかったであろう。変更しようとする国家意思の創造に必要な多数に条件がつけばつくほど、各個人の意思と、支配的国家意思との一致はますます困難となり、個人的自由に対する保障はいよいよ少なくなる。もし全員一致がそのために必要となるならば、このような国家意思の変更は排除せられたも同然といってよい、ここに政治的機構の最も注意すべき二様の意味があらわれる。かつては自由理念に全く従って行われた国家秩序の創設に際して、個人的自由の保護に役立ったものが、その秩序からもはや逃れることができなくなると、その後は自由の桎梏となってしまう

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※ 太字強調は原文。


次の選挙があるまでは、われわれ日本国民は自らの選択に縛られ続けることになります。自らを縛り付けているのがほかならぬ「民意」なのですから、民意至上主義の方々は自分に都合が悪いからといって努々それを否定してはいけませんよ。




蛇足ながら、春日本を読んで怖くなったことというのは、気分が乗っているとか落ち込んでいるとかという点では誰でも躁的、鬱的な気質は持ち合わせているわけですが、こうやってネットでブログなんて書いていたり、リアルで経済学の理論を説いてみたりしている俺ってのは、客観的に見れば躁的な気質が現れている状態なのかなと不安になったということです。著者の春日氏もあとがきで書かれていますが、普段の生活が躁につながっていくんじゃないかという漠とした不安感が頭を離れないんですよねえ。

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