2009年08月30日 (日) | Edit |
さて、政権交代祭のグランドフィナーレを迎えたところですが、まあ個人的には政権交代そのものはどうでもよくて、チホーコームインの身としては民意至上主義政権が進めるチホーブンケンがどうなるのかという辺りに興味があります。といっても、これまでにもチホーブンケン教のカルト具合についてはさんざん書いてきましたので、ここは古典として法実証主義を採用した「純粋法学」で有名なケルゼン(Wikipedia:ハンス・ケルゼン)による地方分権論を確認してみます。
デモクラシーの本質と価値 (岩波文庫)デモクラシーの本質と価値 (岩波文庫)
(1966/01)
ハンス ケルゼン

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一応補足しておくと、法実証主義(Wikipedia:法実証主義)というのは、あらゆる規範の上位に正しい内容を持つ自然法が存在するとする自然法論と対立する概念で、そういった形而上的だったり道徳的な規範ではなく、実定法の中にのみ規範を求める立場と説明されます。また、チェコのプラハ出身であるケルゼンの大陸法的法実証主義は、ベンサムらのコモンローを法源とする英米法型法実証主義よりもさらに経験的・科学的な実践的批判を重視する立場なので、「純粋法学」と呼ばれていました(この辺はうろ覚えなので間違いがあればご指摘ください)。

というわけで本書は、本来は法学者であるケルゼンがデモクラシーについて1929年に書いた論文で、論敵でありナチスの独裁体制に法理論的な根拠を与えたカール・シュミット(Wikipedia:カール・シュミット)に対する論駁でもあります。その後ケルゼンは1933年にナチスに追われて国外に逃亡するわけですが、それだけに独裁政治に対して議会制民主主義が自由を確保するためのものであることが強調されていて、独裁制にも似た単純な民意至上主義に凝り固まった方々にも是非ご一読いただきたいと思います。

訳文が古くて読みにくいので小分けにしながら引用していきますが、ケルゼンによる地方分権論は「第七章 行政」において展開されていて、まずは執行(行政)のデモクラシーについて一発かましてくれます。

 執行のデモクラシーは立法のデモクラシーの帰結にすぎない、そして意思形成の民主主義的形式が執行の過程をより広く把握すればするほど、民主主義思想に一層よく貢献するであろうということは、最初一見してそのようにみえるかもしれないが、その実は決してそうではない。立法のデモクラシーが前提とせられてても、執行の適法性が民主主義的形式によって最もよく保証せられるということは、決して確定した事実ではない。

ケルゼン『同』pp.99-100
※ 以下太字強調は原文、赤太字下線強調は引用者による。


→意訳「官僚政治の打破によって行政が民主主義的になるというわけではないんだよ。」
官僚支配やら官僚内閣制やらという批判が実態のない観念的なものだと釘を刺してくれました。

もちろん、最高執行機関が議会によって民主的に選挙せられる中に、そしてこの機関の議会に対する責任の中に、この機関の適法な活動に対して、すなわち国民の意思が遂行せられることに対して、たとい唯一可能な保障ではなくても、ある一定の保障が存するということは認められねばなるまい。しかし、すでに議会的責任が問題となる限りは、多分に独裁的な内閣制度の方が、すなわち単一機関による執行の方が、特殊に民主的な合議機関よりもより一層よく適しているということが判明する。この合議機関は各個人の責任感を減退せしめるのみならず、責任の主張をも弱めるものである。

ケルゼン『同』p.100


→意訳「ただ国民の意思を遂行するという目的だけなら独裁政治の方がマシということになるけど、もちろんそんなことはないわけで、議会制民主主義とは自らが決めた法規範にのみ従うという意味での合法性を保証するものなのだから、執行の段階でも国民の意志に従えばいいということではないよね。」
民意至上主義と独裁政治とは紙一重なんですね。

そして、合法の原理とデモクラシーの原理との不一致は、より大きい市町村の組織に際して社会技術的に拒絶することのできない地方分権に対する欲求、すなわち社会団体の空間的区分に対する要望が主張せられるのに比例して、ますます先鋭化する。

ケルゼン『同』p.100


→意訳「その合法性と民意の衝突が端的に生じるのが地方の自治行政なわけで。」
総論賛成各論反対というやつですね。チホーブンケンはそれを正当化する方便でもあります。

この方向においても、国家的意思形成の過程が自働進展する二つの段階の機能上の差異があらわれてくる。いわゆる執行の範囲に属する個々の国家行為の創造は、一般的意思形成の行為すなわちいわゆる立法よりも、非常に高い程度に地方分権が可能であり、またこれを必要とする。

ケルゼン『同』p.100


→意訳「そりゃまあ、たしかに地方であれば、「執行の範囲に属する個々の国家行為の創造」とでもいうような、地域の実情を反映した行政執行は有りうるし、必要ではあるけど・・・」

そして、地方分権によって形成せられた中級および下級官庁の急進的な民主政治化は、まさしく立法のデモクラシーを止揚する危険を意味する。国家の領域がより大きい行政区間である州に分れ、この州がさらにより小さな行政区画である県に分かれ、この区域の行政が――民主政治の理念に応じて――この地域の公民によって選挙せられた職員一同に任せられ、こうして中央政府の下に直接州代表体が、この下にさらに県代表体が存在するならば、このような自治行政団体は――その政治的構造やその多数関係が中央の立法団体のそれと異なるときはとくに――決して彼らの行為の適法性をその最高目標とみなすことなく、むしろ非常に容易に中央議会によって議決せられた法律と意識的に対立することとなろう、ということは真にありうることである。

ケルゼン『同』pp.100-101


→意訳「せっかく議会民主主義で合法性を保証したのに、地方の自治体は意識的にそれに従おうとしないでお構いなしなんだよねえ。そういう急進的な民主化は危険だよ。」
個人的に執行に裁量を認めることは有りうると思いますが、その結果として議会制民主主義の議決に反した場合どうするのかという難問が残るわけです。

全体の意思は――それが中央の立法部で発表される限りは――部分の意思によって――個々の自治行政団体で――麻痺せしめられるおそれがある。しかも多数決定による自治として変性した自由意思は、その本来は無政府的な、社会全体を個々の原資に分解しようとする傾向をなお幾分かは保持している。

ケルゼン『同』p.101


→意訳「国家としての意思決定を地方が否定するということは、結局のところ地方は無政府主義的な傾向を持つことになってしまうけど、それでいいの?」
チホーブンケンがアナーキズムと通底しているということは銘記すべきでしょうね。

このような危険を防止し、民主的に組織せられた部分である自治行政団体の違法的行為を止揚するためには、たしかに組織技術上の手段が存在する。しかしすべてのこの手段は、部分的行政区画の意思形成のデモクラシーの方向には存しないで、むしろその制限としてあらわれる。執行の適法性は――これは民主主義立法では国民意思、従ってデモクラシーそのものを意味する――中級や下級官庁では、自治行政団体によるよりも、中央政府によって指名せられ、これに対して責任を負う単独機関、すなわち国家意思形成のこの部分の独裁的組織による方が一層よく保護されることは、疑いがない。

ケルゼン『同』p.101


→意訳「そんな危険なチホーブンケンを統制して議会制民主主義による適法性を保護するためには、地方自治体による自治を制限して国の出先機関が執行する方が適しているんだけどねえ。」
これがたとえばオーツの分権化定理と矛盾しないことには注意が必要です。財政的な受益と負担の関係が住民の選好を反映すれば財政の効率性は達成できるので、その主体が地元の民主的手続を踏むことは必ずしも要求されません。ケルゼンは、全体の意思に基づく合法性を犠牲にしない点で国の機関をより信頼しているわけですね。

このことはさらに進んで、合法原理の結果として官僚政治的組織が根本的に民主的な国家の組織の中に進入せねばならないということを意味する。これはたとえばアメリカ合衆国のように民主政治の原理がすでにあらゆる党争の彼岸にたった原則となってしまっているような国家組織でも、国家の行政上の任務が、従って執行の機能が増加するのに比例して官僚政治化が増大する、という事実に対するより深い理由である。この現象の中に端的にデモクラシーの衰退とみるのは誤りであろう。何となれば、純粋に観念論的な、現実の事実に基かない観察にとってのみ、デモクラシーと官僚政治とは絶対に相容れないものと思われるにすぎない

ケルゼン『同』p.102


→意訳「もっといえば、合法性を保証する民主主義的な国家の組織は官僚政治的にならざるをえないものであって、官僚組織が増大したからといって民主主義の否定だとか大騒ぎするのは、事実を見てないってことになるね。」
さすが法実証主義の本領発揮ですね。観念的な「敬うべきモデル」をもてはやすことに終始して事実を見ていない議論は意味がないと一刀両断です。

官僚政治化は、むしろある前提の下においてはデモクラシーの保持を意味する。何となれば、民主主義の原理こそは、国家がたえず新しく生れ出る一過程の最上層のみを主として把握することができるが、それ自らを、すなわち一般的意思形成の範囲に対するその効力を問題にしないで、同一過程のさらに一層深い層に進入することはできないからである。

ケルゼン『同』p.102


→意訳「いくら民主主義で決めるといっても、それは法律を作るとかの全体的な意思形成の範囲でしか効力を持たないので、それを執行する行政の層までは立ち入ることはできないよ。」

この後ケルゼンは、国が任じる機関の独裁的要素*1と地方自治体の民主的要素を結合した組織によって、最上階での民主的国家意思形成を確保しつつ、行政裁判制度によって地方の民主的要素を統制しなければならないとします。これがのちにドイツを中心に取り入れられる抽象的違憲審査制(Wikipedia:違憲審査制)へとつながっていくわけですが、憲法裁判所をもたない付随的違憲審査制である日本においてはケルゼンの提言が実現することはないでしょうから、その意味でも地方分権が無政府的になることは避けられないということになります。日本における地方分権が慎重であるべき理由はここにもあるわけですね。

それにしても、ここで描かれる民主主義像が全く色あせていないことに驚愕します。それもようやく福祉国家が確立しつつある時期の20世紀初頭において、所得再分配政策に当てはまる議論が行われていた*2わけで、これはやはりケルゼンの慧眼というべきでしょうか。というより、1世紀を経て同じ議論を蒸し返してばかりいるこの国の現状をこそ嘆くべきかもしれません。

これらの議論を踏まえて、裁判と行政に対する政党の活動範囲についてケルゼンはこう指摘します。

 デモクラシーの原理が――その自己保存の利益において――主として立法手続と最高執行機関の任命とに制限せられねばならないとすれば、従って執行――裁判と行政――とよばれるあの国家意思形成の段階の前で止まらねばならないならば、これと同時に、政党の活動範囲が到達してよい境界線も引かれる。概念上必然的にあらゆる執行がその下に立つところの合法の原理は――裁判所や行政官庁の法律執行の上に及ぼすあらゆる政党政治の影響を排除する。これはデモクラシーの内部――いなすべての国家内部――の国家的機能の「政治化排斥」に対する要求のみがもちうる合法的意義である。この制限内においてのみ、デモクラシーは一般に意味深長となる。立法の政治化排斥はその自己止揚となるであろう。何となれば、法律の内容を定めるためには、唯一集群の独裁か、または多数の集群利益の間の妥結かのほかに途がないからである。ただ法律の決定によってある一定の政治的価値が現行法上有効と認められ、ある一定の――一方的ではあっても――政治的方向が合意的に定められるから、法律の執行に当たっては、相対立する政治的利益の間に闘争はもはや起こりえない。従って法律の執行の上に及ぼす政党政治の影響を排除するという、この制限せられた意味における政治化排斥への正当な要求は、政党の最も広範な承認と、その憲法上の錨止めと完全に結合することができるものである。いなまさにこれによって、政党の違法な活動に対して限界が引かれうるのである。政党の勢力範囲は立法部にあって、執行部にはない

ケルゼン『同』pp.104-105


新しい政権がどんな政策を実行に移すのか現段階ではわかりませんが、執行の側にいる人間としては、政権政党がこの限界を理解することに一縷の望みを託すしかないのでしょうね。
あ、そういえば、マニフェスト選挙の暁には小難しい理論とか法律論を振りかざす役人は無用の長物になるんでしたか・・・




*1 もちろんこれは国の機関が議会制民主主義政府によって設置される範囲内でのことであって、「独裁的」というのはその地域に限っては民主主義とならないという意味です。大阪府知事が「地方支分部局は民意を反映しない」とか批判してる部分ですね。
*2 逆に言えば、ケルゼンのこの議論と同時期に厚生経済学(Wikipedia:厚生経済学)で議論されていたピグー(Wikipedia:アーサー・セシル・ピグー)らの外部性の議論とかパレート最適な資源配分についてはあまり意識されてないようですが。
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2009年08月26日 (水) | Edit |
すなふきんさんに言及いただきました。今回も拙エントリにコメント書こうと思ったんですが、思ったより長くなったのでエントリに昇格です。

おそらく世間的に危惧されているのは本来主導権を持つべき政治家が官僚にその主導権を奪われているように見えていることなのだろう。そして官僚の意のままに官僚の利益に沿った形で国政が運営されることへの危機感がその根底にあると思える。

■[政治]「政治家主導」とはこういうこと?(2009-08-25)」(すなふきんの雑感日記
※ 強調は引用者による。


すなふきんさんのように自覚的な方を除けば、「官僚の意のままに官僚の利益に沿った形」というのが実態として何なのかが曖昧なまま危機感だけが募っているというのが一般の方の現状だと思います。ただ、政治家にもマスコミにもそういったスケープゴートを設定することで自身の利益を得るインセンティブがありますから、実態として根拠がないのにも関わらずそういった危機感が政治家当人やそれに乗ったマスコミによってもたらされたものであれば、マッチポンプとして非難されるべきものでしょう。

ちょっと話は逸れますが、たしかに早期退職した官僚が外郭団体の幹部に再就職するのはある程度官僚の利益といえるとしても、その外郭団体が発注した業務を請け負う業者や購入した製品を製造する業者、そこに雇われている労働者もすべて「官僚の利益」なるものに一括りにできるのだろうかという素朴な疑問があります。

もちろん中には「ファミリー企業」と揶揄されるものもあるでしょうけど、外郭団体の取引先のすべてがファミリー企業に限られるわけでもありませんし、ファミリー企業であろうがなかろうが、そこで働く労働者の生活を「既得権益」として他の労働者が貶めるような風潮には薄ら寒いものを感じますね。

もしかして「ファミリー」って言葉を額面通りに官僚の親族と考えて、官僚が自分の一族を守っていることに危機感を募らせているんでしょうか。まあ、遠い親戚まで含めれば何かしらの業種についている方がいるでしょうから、「官僚の一族」を広く定義すればそう主張することも可能かもしれません。そういう意味では、うちの実家も元をたどれば農家だし、わたくしも農家の既得権益を守る「官僚の一族」の1人なのでしょう。それはそれで一族内での利害調整が大変そうですけどね。

そうなると、「官僚の一族」を広く定義したときに、その「官僚の一族」の網から逃れられる方がどれだけいらっしゃるのかという素朴な疑問もわいてくるところで、官僚批判しているその方自身が「官僚の一族」となれば、これまたおもしろいブーメラン現象ではあります。さらにいえば、官僚にチホーコームインまで含めれば「官僚の一族」の浸透度合いでは国レベルよりも地方レベルの方が深刻ではないかと思われるわけで、霞ヶ関をぶっ壊してチホーブンケンしろと主張する方が「官僚の一族」というのも大いにありそうですね。

「世の中の既得権益はすべて官僚の一族が握っているんだよ!」
「な、なんだってー!!」
(AA略)

2009年08月24日 (月) | Edit |
以前のエントリの延長なんですが、「説得されたい」というカイカク派のメンタリティがなんとなく理解できてきました。要は「説明責任」なんですよね。

アカウンタビリティって言葉が強調されるようになったのはいつからかよくわかりませんが、日本語では「説明責任」と言われるこの言葉が今の政治状況に与えた役割は大きいと思います。この言葉によって、「政府の説明が足りない」とさえ言えば政府側は無過失責任的に説明責任を負うことになってしまったのではないかと。政府にはそれだけの責任があるというのがその根拠なのでしょうが、ところが「納得のいく説明」なんてのは極めて主観的なものであって、特に建設的じゃない野党が「納得できない」と言い張れば、いつまででも政府に対して説明責任を求めることが可能になるわけです。

これがいかに異常な状態かを現行法規との対比で考えてみると、たとえば毎度の集団的労使関係法制で恐縮ですが、労働組合との団交に臨む使用者には、労組法第7条第2項によって誠実団交義務が課せられていて、財務諸表などを示して詳細な経営状態を説明したりしながら団交に当たることが求められています。

もし、使用者が誠実に団交していないと労働組合側が主張する場合には、労組法上の不当労働行為の審査を申し立てることにより、使用者側の説明の態様や姿勢について公益・労働者・使用者の三者構成の労働委員会がその当否を審査することになります。

というように、日本の労組法においては、団体交渉における使用者側の「説明責任」といったものが客観的に審査されるシステムがある一方で、労働組合による不当労働行為を規定していません。言い方を変えれば、使用者側に対して誠実団交についての「説明責任」を一方的に課している形になっているともいえます。つまりは、誠実かどうか、説明責任を果たしているかどうかを客観的に判断する仕組みを設定した上で、そういった使用者に対する一方的な挙証責任を規定しているわけです。

さて、熱戦が続く政権交代祭りで各党が金科玉条の如くよりどころにしているマニフェストですが、これも確か北川前三重県知事辺りのカイカク派知事がアカウンタビリティとセットで広めたものだったように記憶しています。で、そのマニフェストについての説明責任とやらは誰が判断するのでしょうね。

ここで、民主至上主義の方々は「選挙で国民が判断するのだ!」と息巻くのでしょうが、合理的無知というか、ご自身の仕事やら家庭やらで大忙しの国民の方々がその合間を縫って片手間で判断するべきだというのであれば、求められるアカウンタビリティのクオリティは必然的に低下せざるを得ませんよね。ということは、政策そのもののクオリティも低下せざるを得ないわけでして、まともなマニフェストが出されず、小難しい理論やら法律論を振りかざす役人どもは無用の長物でしかなくなるのも宜なるかな。

ところで、次期政権党と目される民主党では

原則1 官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ

民主党の政権政策Manifesto2009(注:pdfファイルです)2ページ目
※ 以下、強調は引用者による。


とおっしゃりながら、

4.公務員制度の抜本改革の実施
【政策目的】
公務員に対する信頼を回復する。
○行政コストを適正化する。
○労働者としての公務員の権利を認め、優秀な人材を確保する

「同」9ページ目


だそうですが、役人が要るのか要らないのかはっきりしていただきたいところですね。

2009年08月19日 (水) | Edit |
政権交代祭りが幕開けしましたね。
スポニチアネックス「民主がCM第2弾「まず、政権交代」[ 2009年08月14日 18:22 ]」

 民主党は14日、衆院選公示の18日から全国で放映するテレビCMを発表した。真剣な表情の一般市民に続いて、鳩山由紀夫代表が登場し「まず、政権交代」とひと言だけ訴えるシンプルな内容。

 現在放映されている衆院選向けテレビCMの第2弾。「政治を変える」をテーマに、年金・医療編、税金の無駄遣い編、将来の不安編の3バージョンを流す。

※ 以下、強調は引用者による。


政権交代という手段がまずあって、そのためには年金・医療、税金の無駄遣い、将来の不安を煽るとのことで、それなんて霊感商法

それに便乗しようというこちらの党もなかなかおもしろいことをおっしゃっています。

2009年8月19日(水)「しんぶん赤旗」「「建設的野党」として現実政治を前に動かす NHK「ニュース7」 志位委員長が語る」

  ――「建設的野党」と「たしかな野党」との違いは。

 「建設的野党」というのは、民主党政権ができたもとで(という)、私たちが次の(政治的)局面でとる仕事として打ち出したもので、「たしかな野党」のように全体としての党の(政治的)規定をしたものではないんです。

 先ほど「良いこと(には協力する)」と言ったんですが、たとえば労働者派遣法の改正、後期高齢者医療制度を撤廃する、障害者自立支援法の「応益負担」をなくす、高校の学費を無償化する、生活保護の母子加算の復活、こういう点はわが党はかねてから主張してきた点ですけれども、民主党のマニフェスト(政権公約)にも同じ共通の方向が書いてありますから、これは協力して実行させたい

 同時に、(民主党のマニフェストにある)日米FTA(自由貿易協定)、これは日本の農業、コメをつぶしてしまいます。82%のコメがつぶれますから、これは絶対に許容できません。あるいは衆院の比例定数80削減。これは、いまの制度の中で一番民主的な部分がつぶされてしまいますから、国会の議席の95%を自民、民主で独占することになって、(国民の)多数の声が届かなくなりますから、こういう間違ったことは「防波堤」になって食い止める


いままでは「建設的じゃない野党」でした宣言ですね。潔い。自民党政権が続く限り「何でも反対」で通せてきたものが、民主党の左派の主張と共産党の内容が被ってしまってさあ大変というところでしょうか。

でもまあ、自民党の支持団体の医師会を敵に回した派手な空中戦やら看護師やコメディカルの闘争にばかりに集中して、勤務医の労働条件をほったらかしにしてきたのもまた共産党なわけで、彼らが「良いこと(には協力する)」といったところで何がどう改善されるのかはまったくわかりませんねえ。

というか、自民党だから反対という「建設的でない野党」ばかりだったからねじれ国会がまともに機能しなかったわけですし、それを棚に上げて「政権交代したら建設的野党になる」と言われても、彼らが野党のときにやったことが将来の野党によってしっぺ返しされるだけですね。いやしくも政治主導を唱える方々がそんな短期的な戦略にはまってナッシュ均衡に陥ってしまうのは、なんとも戦略的思考に欠けた方々だなあと。

自分の都合に合わせて建設的だったり建設的でなかったりするのは職場の人間関係とかではよくある話ではありますが、良識のある方ならそういった機会主義的な行動をする方に対して「批判するなら建設的に批判してください」とか釘を刺すんじゃないですかね。それを勝ち誇ったかのように改めて「建設的野党」を宣言するというのは、この国の政治レベルを如実に表しているのでしょう。

2009年08月14日 (金) | Edit |
金子さんに再度お答えいただき、こちらこそありがたく存じます。
成功する算段(2009年08月14日 (金) )
※ 前回の拙ブログのトラバが飛んでないようでしたので、トラバし直しておきました。また、本エントリは金子さんの上記エントリのコメント欄に投稿しようと思ったんですが、なぜかNGワードではじかれてしまったため、拙ブログのエントリとさせていただきました。

だんだん私の手には負えない領域に入り込んでいるような気もしますが、とりあえず補足としてコメントさせていただきます。
まず私の方も整理ができていなかったので、金子さんの場合分けに即してフェーズごとの対応を整理しておくと、

(1) 既存労組が機能している場合は、正規・非正規が同じ土俵で使用者と交渉する場を改めて設定し、既存組合のリーダーを中心に労使交渉を行う。
(2) 既存労組が機能していない場合は、まずは正規・非正規が同じ土俵で使用者と交渉する場を設定して、産別の上部組合のサポートにより企業ごとの労組のリーダーを育成する。
(3) 労組がない場合は、まずは正規・非正規が同じ土俵で使用者と交渉する枠組みを設定し、その枠組みに基づいて労使交渉の場を設定し、産別の上部組合のサポートにより企業ごとの労組のリーダーを育成する。

というのが一つの方向性だろうと考えております。いずれの場合においても、あらかじめ枠組み(労働者代表制度制度)と交渉の場(排他的団交義務)を設定しておく(=制度化する)ことにより、上部も単組も組織化を至上命題とせず労働条件についての交渉に専念できるだろうというのがポイントとなります。

これを踏まえて金子さんのご意見を拝読すると、個人的には金子さんと私とで望ましい労使関係について大きな意見の相違があるようには思われません。特に、

> 勉強している間に、新しくできた制度を利用して「団結権の人権的把握による弊害」を齎してきた連中にうまいようにやられてしまう危険がありますよ。そうなったら、もう救済できません、ということです。


というのは私も懸念しているところですし、相違があるとすれば、そのような事態が生じるのが「勉強している間に」おいてなのか、金子さんが重視される自発的組織が形成される過程においてなのか、という実態論についての認識の違いなのではないかと思います。

となると、じゃあ実態はどうなんだという話になればそれこそ千差万別でしょうから、制度設計に当たっては、想定される範囲で頑健な制度とする必要があると思います。このとき、できるだけ労働者代表組織の網を広くかけようとするか、自発的組織にゆだねる部分とそれ以外で対応する部分とに切り分けていくか、どちらの制度設計が頑健かという判断が求められるわけで、そこで考慮すべきなのがリスク配分の当事者をいかに包摂するかという点ではないかと。今回のやりとりの大本は、その包摂が成功する算段についての認識の違いかもしれません。

ただ、包摂するために強制が有効か自発が有効かというのはなかなか答えの出ない問題だろうと思います。だからこそ古くて新しい問題なのですし。

なお、組合活動が組織維持に傾斜していることの弊害と左派思想は直接には関係しないとは思いますので、その意味では私もこの問題を左か右かで論じるのは適切ではないと思います。そうはいっても、そう見えてしまうことが多いんですけれども・・・

2009年08月13日 (木) | Edit |
金子さんに詳しくお答えいただきました。
新産業民主主義への中長期の戦略(2009年08月11日 (火) )

私のような一介の実務屋の雑文におつきあいいただき大変恐縮です。専門の方をお相手にして相応しい議論となるか自信がありませんが、せっかくなので感想など書いてみたいと思います。

まず率直な感想を申し上げますと、金子さんが7月27日付エントリで「濱口先生と私の意見はある側面において両極端」とおっしゃる点が実のところしっくりきておりません。今回のエントリで金子さんご自身が労働組合が存在しない場合と組合があって機能している場合に場合分けされているように、制度による強制と自発的組織のどちらか有効かについては、それぞれのフェーズにおける現場の対応の違いとして考えた方がいいのではないかと思います。金子さんが「両方のメニューが必要なのです」と補足されているのも、この点を認識されているからではないでしょうか。

私が日々接していた集団的労使関係紛争の現場では、労働組合が存在しない状態で行われた解雇などに不服な労働者が、慌ててナショナルセンター(の産別支部など)のオルグで組織化したり地域ユニオンに加入したりして、そこから突然集団的労使関係があったものとして紛争処理が始まるという事例(いわゆる「駆け込み訴え」)が多くありました。そういった紛争という喫緊の場面にあっては、まさに既存の労組のリーダーであるナショナルセンターの産別のオルグや地域ユニオンが労組経験のない紛争当事者をサポートすることは、紛争解決のために有効な手段となり得ます。

一方で、私が見聞した限りの印象ではありますが、そのように組織化された労働組合が紛争処理後に良好な労使関係を築いて産業民主主義がもたらされるかと言えば、ほとんどなかったように思います。例外的に組織化がうまくいったところでは、そもそも職場のリーダーと呼べるような方がいらっしゃって、その方を中心に労働者の利益がうまく代表されていましたが、上部組織に頼りきりだったり地域ユニオンが厳しく使用者を追求するような労組(こっちが圧倒的多数です)では、いったん紛争が収まってもすぐに再発するような状態でした。

その違いは経営環境にも大きく依存するとしても、職場におけるリーダー的労働者の存在やその能力が何より重要で、その点を差し引いて考えると、実は産別のオルグや地域ユニオンの役割はそれほど重要ではなかったように思います。むしろ、組織化を至上命題としてしまっているようなオルグや地域ユニオンが絡む場合には、いたずらに紛争が泥沼化してしまうような傾向さえありました。

ちょっと横やりのような形になってしまいますが、現在進行している山形さんと松尾さんの応報の中で松尾さんが指摘されているような、

 組織の勢力拡大が自己目的化し、そのための活動と比べたら、現場の労働者の境遇を改善するための組合運動は一格落ちる。協同組合事業になるとさらに一格落ちる。政治権力を握ればすべてが解決されるので、個々の現場の労働運動も協同組合事業も学生運動もそのための手段とされて、現場の事情が簡単に犠牲にされる。組織の政治目的にとって邪魔になるものは、手段を選ばずツブされる。
 しかもこういうことを批判して現れた組織がまた同じことを繰り返す。「民主主義」と言っても、「人権」と言っても、市場原理を多少受け入れても、問題の本質が変わるわけではありません。
09年8月8日 山形浩生さんの『商人道』本評について」(松尾匡のページ


というのが集団的労使関係の現状なのだと思います。私が左派思想に懐疑的な立場をとるのも、まさに左派である松尾さんが自戒的に指摘されるこの点が日本の左派思想のねじれの現れではないかと考えるからです。そういった現状認識に立つ以上、既存の労組のリーダーが産業民主主義の担い手となるかについても懐疑的にならざるを得ません。この松尾さんの議論でも抜け落ちている部分ですが、交渉力を高めるための組織拡大なら労組にとっても交渉力の向上というメリットがあるとしても、労組が分立している状態での組織拡大は各労組の思想的な違いを強調しがちになってしまい、それによって対立した労組同士がお互いの交渉力を低下させてしまうということにもなりかねません。詳しくは道幸哲也先生の解説に譲りますが、既存労組のリーダーがそうった事態をもたらした団結権の人権的把握による弊害に対して意識的に対応しなければ、産業民主主義の確立は覚束ないのではないでしょうか。

そういった意味では、金子さんが

そうなると、私が提起したリーダーの育成(運用者の育成と言い換えた方が適切)の問題をどうするか、どこかで改めて考えなくてはならない。現実には、どこが負担するにせよ、教育を行う者をどこから調達するのかなどを含めた諸費用をどこからもってくるか、考える必要がある。おそらく、政策としては完全にそこまで手厚く制度設計するのは、人材面でも、費用面でも、厳しいだろう。そういう意味でも、自治路線は大事なのだ。
新産業民主主義への中長期の戦略(2009年08月11日 (火) )」(社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳


とおっしゃる点は、だいぶhamachan先生の側に歩み寄られたのかなとお見受けしますが、その上で「自治路線は大事なのだ」とおっしゃるのは、やはり組織化の網にかからない労働者は切り捨てても構わないとされているようにも思います。最後の「失敗したら?もちろん、そんな好条件下で成功できないようなものは法案自体をやめた方が良い。」という部分も、私には同じ文脈に読めてしまいます。公務員としての職業病かもしれませんが、エクスキューズやアリバイ作りに利用される可能性があるとしても、労組のない状態の労働者に対してせめて箱物だけでも用意しなければ、箱の使い方を適切に勉強していただくことすらできないのではないかと個人的には考える次第です。




正直なところ、以上が私の能力的に書けるいっぱいいっぱいの内容なので、現段階ではさらに詰めて考えることは難しいと思います。改めてリプライをいただいた場合は、こちらから十分にお答えできないこともあるかと思いますのであらかじめご了承ください。念のため、ここに書いた見解はあくまで個人的なものであって、所属する組織とは一切関係ありません。

2009年08月09日 (日) | Edit |
全国知事会という直接選挙で選ばれた選良の方々の組織が、各党のマニフェストを評価したんだそうで、結果は次のとおり。

 自民党公明党民主党
加点項目62.168.763.8
減点項目▲1.5▲2.4▲5.5
合計60.666.258.3

○ 地方分権政策に関する政権公約評価結果(2009年8月 8日、注:pdfファイルです)」(全国知事会

加点項目では自民党も民主党も大差ないですね。公明党の評価が高いのは「(2)国と地方の税源配分5:5の実現、地方消費税の充実」と「地方交付税の復元・増額、共有財源の明確化」という項目のようですが、まあ知事会としてはカネをくれるのはいい政党ということなんでしょう。

さらに、民主党が大きく減点された「IV 地方財源の確保」ですが、評価基準によると「地方財源の確保に不安がある(▲10)」だそうで、とことんカネがほしいんですなあ。

どうして知事会がカネさえあれば何でもできるというまことに素朴な市場原理に則った評価にこだわるのかは判然としませんが、そのカネの出どこってのは東京をはじめとした大都市部なわけで、結局は水平的な財源調整をどうするかという問題に行き着きます。そして、ピグー補助金を否定するかのような補助金削減論がまかり通れば、負の外部性が内部化されることがなくなるわけで、相変わらず「政府の失敗」には手厳しい割に「市場の失敗」には寛容なのが知事会クオリティ。

このとき、知事会が求めている「国と地方の税源配分5:5」が適正なレベルなのかどうかという検証はまったく行われていません。せいぜいが「国と地方は対等なのだから税源配分も対等であるべき」というメンツの問題でしかないんであって、もし税源配分が5:5になったらば、今度は「地方重視のために国と地方を4:6にすべき」とか言い出すに決まっています。意地汚いですね。

ただし、国と地方の協議の場については、個人的には事前調整があってもいいだろうとは思います。プリンシパル-エージェント問題に関連して、国が制定した制度が意図した帰結をもたらさない可能性を低くするために、地方の側の執行体制について国と地方があらかじめ話し合うくらいはやってもいいかもしれません。

なお、それはあくまで、執行体制についての地方の裁量を尊重するというだけであって、制度の設計や目的までも地方に協議する必要はありません。というのも、日本は単一国家としての統治機構を規定した憲法を有する立憲主義国家ですので、国権の最高機関である国会の決議に協議が求められるはずがないからです。特に、ここでいう「国」は行政を意味するのでしょうから、行政は執行手段のみにしか裁量を持ち得ないんですよね、政治主導命の皆さん。まあ彼らはそもそも一切の裁量すら認めないのかもしれませんけど。

・・・というような次第で、この評価なるものを見れば見るほど意味が不明です。単に自分の好きなことを答えてくれた政党に対する好感度調査というレベルなので、評価したものがちになってます。それでもって評価される政党も災難ですね。そもそも「日本がめざすべき姿として、地方分権型国家が明確に提示」なんて日本語からして破綻していますが、そのおそらく言わんとするところの国家像が知事会によって実証的に提示されているわけでもなく、こうしてマニフェストなるものは「敬うべきモデル」へと昇華していくのでしょう。

それにしても、まともなマニフェストが一つもない・・・

2009年08月05日 (水) | Edit |
hamachan先生のブログで取り上げていただきました。

しかも、

マシナリさんとは”チホー分権のいかがわしさ”みたいな話題で意気投合(!)しているという印象をお持ちと思いますが、実は労働問題でも私の意のあるところをかなり的確に捉えて批評していただいております。

「労働」カテゴリに書かれたエントリをお読みいただくと、とりわけ、解雇規制と集団的労使関係についてのマシナリさんのエントリは、ややもすれば今風に「ウケる」議論に受け取られかねない私の議論の微妙なところを非常にうまく書かれていて、とてもありがたいと思っております。
machineryさんの書評(2009年8月 4日 (火))」(EU労働法政策雑記帳


なんて過分なお言葉までいただいてしまいましたが、拙ブログの議論自体がhamachan先生から多大なインスパイアをいただいておりこちらこそ大変感謝している次第です。というか、拙ブログがhamachan先生のブログの読者の方々が読むに堪えるか甚だ不安です・・・

実は、hamachan先生に取り上げていただいた拙エントリは途中段階のメモのようなものでして、第4章については、集団的労使関係紛争処理の実務経験者として若干の感想などをこの週末にでも書こうかと考えておりましたが、せっかくの機会なので手短に書いてみます。

hamachan先生の提案する「新たな労働者代表組織」については、自発的組織である労組を重視する金子良事さんの批判との対比で考えると論点がはっきりするかと思うんですが、拙ブログはhamachan先生に近い立場をとっています。というのも、チホーブンケンに対する批判とも似た話になりますが、民意に依存した自発的組織は容易に思想団体に転化してしまうだろうと考えるからです。金子さんはその点を、

デュアルシステムといわずに、もっとラディカルに今ある組合を強制的に解体させ、新たな代表者組織を作ることが出来ると仮定しても構いません。しかし、そのときでさえ、そのリーダーに現組合のリーダーが入らないことはあり得ないでしょう。法律的問題を全部、クリアして、それが実現したときに、どこから自主的活動を実現するリーダーを調達するのか。これが何よりの疑問です。私が問題にしているのは、現存の組合をどう位置づけるか、というより、どこからリーダーを調達してくるのかということです。

2009/07/28(Tue) 14:45 | URL | 金子良事 | 【編集】
『新しい労働社会』の提唱する新しい職場からの産業民主主義について(2009年07月27日 (月))


というリーダーによる統制で克服しようとしているように見えるんですが、そのリーダーが判断を誤ることも往々にしてあるわけで、私的自治としての労使交渉が労使双方に不利益な方向へ進むことを防止する解決策としては心許ないと思います。詳らかにはできませんが、当事者である組合員が望んでもいない法廷闘争で闘争資金を稼いだり、そのために幹部が中心となって新たな組合員をオルグするという本末転倒な労組も少なからず存在しますからね。

この点については、水町先生の議論の進め方が一つの解決策となるのではないかと個人的には考えております。

 多様な労働者の利益を調整し代表するシステムとして、各事業場において労働者代表を選出する制度(労働者代表制)を創設することが考えられる。
(a) 組  織
 労働者代表委員の選出方法としては、事業場の規模ごとに労働者代表委員の人数を定め、比例代表選挙によって多様な労働者が選出される制度とすることが考えられる。なお、企業全体に共通する問題など議論する事項によっては、各事業場で分散して議論するより企業レベルで統一して議論することが適当と考えられる場合もある。この場合には、事業場レベルで選出された労働者代表を基本としつつ、使用者と労働者代表の合意に基づいて、企業レベルで統一して協議等を行うことも可能とすることが考えられよう。
(略)
 この労働者代表を制度化するにあたり、さらに次の2点が重要な課題となる(第1章2(1)(d)・(2)(d)参照)。
 第1に、使用者と労働者代表との公正な話合いを促すために両当事者に一定の義務を設定することである。例えば、両者に情報提供義務、誠実協議・交渉義務を課すとともに、話合いの公正さをチェックできるよう話合いの内容(議事要旨)を公開する義務を課すことが考えられよう。
 第2に、労働組合のない事業場でも労働者代表制が実効的に機能するように、代表の選出・組織化および使用者との協議・交渉のために必要な情報を提供するインフラを整備することである。行政(労働局、都道府県等)、労使団体(地域の労働組合、商工会議所等)、NPO等のネットワークを生かしながら、当事者を情報面でサポートする制度的な基盤を作っていく必要がある。

本文:「イニシアチヴ2009―労働法改革のグランドデザイン」DP(注:pdfファイルです)」(「イニシアチヴ2009-労働法改革のグランドデザイン」-イニシアチヴ2009研究委員会・最終報告会-ディスカッション・ペーパー、2009年6月発行
※ 強調は引用者による。


おそらくこの点では、法による組織化に重点を置いたhamachan先生と代表制といった手続面を重視する水町先生では微妙に見解が分かれているところではないかと思いますが、いずれにしても正規労働者も非正規労働者も同じ労使交渉の土俵に強制的に乗せてしまうことがポイントだろうと思います。

正規労働者中心の既存労組には各方面で指摘されている問題がありますが、一方で非正規労働者中心のコミュニティユニオンにも、外部の組合であるために相手方の企業を経営悪化に追い込んでしまうほどの苛烈な要求や団体交渉をしてしまうなどの問題があります。結局は、両者のバランスをいかにとるかについては、慎重な制度設計が求められるだろうということくらいしかいえないわけですが。




それにしてもなんていうか、学校の外で落書きしていたところを美術の先生に見つかって怒られるかと思いきや、「・・・悪くないね」と言われたような気分です(って例えが合ってるかよくわかりませんが)。

所詮は落書きレベルですし、前回エントリのとおりのレベルのチホーコームインが書いた駄文ですので、その点にご留意のうえでご高覧いただき、事実誤認等があればご指摘いただけるとありがたく存じます。

2009年08月01日 (土) | Edit |
なんか他人事みたいな言い方で気が引けますが、

みんな「地方公務員はバカ」と思ってるくせにその地方公務員に「権限」を渡そうとする錯乱した発想が理解できない。何考えてるんだよいったい。
■[政治][ぼやき]痴呆分権騒動(2009-08-01)」(すなふきんの雑感日記


というのは、特別職の首長や議員から、一般職のいわゆる役人とか公立学校の先生とか警察官の総体である「チホーコームイン」の実態を見ている方には当然の感想でしょうね。

そういう俺自身がチホーコームインなわけですが、一応はそういった対外的な批判に対処するためとか、自分自身の政策執行能力の向上のために積極的に理論を学んでいるつもりです。でもまあ、愚痴の繰り返しになりますが、そうやって実証的な理論や学術的な理論を実際の政策執行に適用しようとしても、残念ながらそれを理解する能力を持ったチホーコームインは皆無と言っても過言ではありません。せいぜいが駅弁レベルの大学出身で理論的な訓練も受けておらず、「現場重視」で日常感覚にズブズブのチホーコームインにとって、日常感覚が麻痺するような実証的な理論や学術的な理論などは、むしろ「そんな机上の理屈なんて」と唾棄される程度のものなのでしょう。

つまりは、人々の感覚を麻痺させない程度の「敬うべきモデル」を語るくらいの能力がなければ、チホーコームインとしては仕事ができるとはみなされないということになります。俺自身も実証的な理論を「敬うべきモデル」で覆い隠して語るくらいはやりますけど、細部に行けば行くほどそういった弥縫策は功を奏さないので、改めて他の選択肢を探すことになります。そして、そういった選択が必要な場面で人々が受け入れるのは、実証的な理論ではなく「敬うべきモデル」なわけです。

手近な例で言えば、すなふきんさんも「やや煽り系で陰謀論も入ってるのでコメント欄も含めて話半分に聞いておくぐらいでいいかもしれない」とおっしゃるとおり、引用されているブログでの、

この施設には市役所から役人さんが一人だけ出向しておりまして、あとは全員、パートですね。で、役人さんの給料と手当と年金負担とかの福利厚生費など、かかる費用を合計すると、年間1600万円になるわけだ。たった一人で、この数字です。指定管理者で民間に出せば、半分になるねw
ネットゲリラ:痴呆分権(2009/07/05)」(ネットゲリラ


という日常感覚には注意が必要ですね。こういった政府支出を「無駄遣い」と断定する日常感覚が、とにかく財政を小さくすればいいという新自由主義的な発想と親和的になって、官製ワーキングプアとかボランティアプアを大量発生させ、結局地域の所得を減らしてしまうことは理論的にしか理解できません。つまりは、チホーブンケンを批判する方であっても、それが必ずしも正しく現状を認識して理論的に批判しているとは限らないわけです。

まあ、そういった日常感覚のカイカクを推し進めたのがカイカク派知事だったり、それに呼応した無能な働き者たるチホーコームインだったり、住民参加に目がくらんだNPOだったりするので、チホーコームインに限らずその理論を正しく理解できるような人材はいなさそうです。地方の本当の危機とは、事実に基づいた現状認識とそれに対する政策立案について、理論的な理解が深まることがほとんど期待できないということなのでしょう。

2009年08月01日 (土) | Edit |
世の中はマニフェスト祭りで大盛り上がりですが、とりあえずは見識のあるブロガーの皆様のエントリを拝見しているところです。拙ブログでもそのうちチホーブンケンくらいについては書いてみるかもしれません。

ということで、いま小池先生の『仕事の経済学』とhamachan先生の『新しい労働社会』を並行して読んでいるわけですが、
仕事の経済学仕事の経済学
(2005/02)
小池 和男

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新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)
(2009/07)
濱口 桂一郎

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で以前のエントリでの事実誤認を発見してしまいました。

ブルーカラーが年功を積んで生産性を上げて熟練工として高賃金になるのは全く構わない(し、現にそうなっている)としても、文系学部卒の大半を占めるホワイトカラーが年功で生産性に見合わない高賃金を得ていることが問題とされているんでは? そしてその解決を難しくしているのは、前回エントリに書いたとおり、そのホワイトカラーの高賃金が「得べかりし利益」となって債権化していることにあるんだろうと俺は考えます。
団塊の世代と団塊ジュニア(2008/04/29(火))


という部分で、この引用部でいう「前回エントリ」とは、

そもそも、リストラが吹き荒れた時期には中高年のリストラも社会問題になってたし、田原総一郎も指摘したとおり日本の雇用慣行では定年間際にならないと元が取れない給与体系だったわけで、それをやめてしまえというのは難しいだろう。とはいっても、確かに今現在生産性に見合わない給料を得ている定年間際の給与を減らす以外に原資を確保する手段がないのであれば、積極的に議論してよかったのではないかと思う。でもまあ、それを実行したりすると裁判所が「若年期に生産性を下回る給与で働いた労働者の債権を不当に減額することは許されない」とかいうんだろうなあ。解釈論でしか考えない裁判所が経済活動を不当に制限することは許されるんだろうかね。
他力本願と数字(2008/04/27(日))
※ いずれも強調は引用時。


とうなります。これらのエントリでは、「ブルーカラーでは技能の熟練に応じて年功で賃金が上がっていくことは当然だ」ということを書いてしまいましたが、それは日本以外では全く当然ではなかったというのが正しいそうです。小池先生とhamachan先生の言葉を組み合わせて言えば、「決め方と上がり方によって処遇が決まる日本型賃金体系が、ブルーカラーにも適用されていて、結局ホワイトカラーと同様の出世競争にブルーカラーも巻き込まれてしまっている」ということになるわけですね。

言い訳になってしまいますが、そもそも「ブルーカラーこそが年功賃金だ」というのは、とある人事コンサルの講演会で聞いた話でした。その人事コンサルの方の講演の趣旨は、

「今まで成果主義賃金がうまくいかなかったのは職務を明確にしなかったことに原因があるので、職務明細書を作成して賃金バンドごとに職務を割り当てる『職務給』を取り入れればよい」


というもので、実は講演を聴いた当時から、「職務給とかって、過去に日本型雇用慣行に合わない制度だと判明したものを今さら何で持ち出してきたんだろ?」という印象ではありましたが、それ以外にも地雷があったとは・・・。

そのコンサルの方によると、職務給を実際に取り入れる際の具体的な手法として、職務明細書によって事務系と技能系で明確に職務を分けることになるので、その職務明細書によって自ずと技能の蓄積が明確になる技能系のブルーカラーは年功型になるとのこと。一方で、職務明細書によっても職務に幅のある事務系のホワイトカラーは、年功型ではなく厳密な査定による成果主義が相応しいとおっしゃっていました。それを基に書いたのが冒頭のエントリだったというわけです。

やっぱり人事コンサルの話は話半分で聞く必要がありそうですね。

歴史を素直な目で顧みれば、細井『女工哀史』で描かれるように、ブルーカラーの現場に成果主義を持ち込むことは悲惨な労働環境をもたらしてしまうわけですが、それは同時に、明治期を通じて高度に発達した経営管理における労務管理の頂点でもありました。労働に関する政策を考えるのであれば、そういった経営原理に従った労務管理に対する反省や、戦時統制下における動員体制といった歴史的な事実の中で、現在の労働法制や雇用慣行が形成された経緯について、最低限検証する必要があります。

そして、hamachan先生が指摘されるように、そういった経験を通じた日本では年功序列型の賃金制度が大企業を中心に普及しましたが、それはあくまでも、査定に基づく昇進や配転が行われるある種の成果主義(職能資格給)です。それが正社員に対する過酷な労働条件と雇用の保障を可能にする一方で、非正規労働者は不安定でスキルの蓄積されない境遇に据え置かれているわけで、人事コンサルや政治家のような方々がそれに直感的に反応した政策(製造業への派遣禁止、日雇い派遣の禁止、公務員に対する成果主義なる評価制度の導入、職務給の導入など)を唱えてみても有効な処方箋は示されるはずがありません。

いずれにせよ日本的雇用慣行というのは、そういった歴史を踏まえて形成された諸制度に対して合理的に対応したものにほかなりません。そういった歴史的事実に対応しなければならないという事情そのものは(その事情の中身はそれぞれであるとしても)各国に共通なものであって、その結果だけを見て日本が特殊だと断定することは議論として浅すぎるということです。

北欧とかアメリカとは違うという理由だけで、「勤勉で家族主義的な日本の特殊性だ」とかいっても何の意味もないことは、小池先生もhamachan先生も強調されているところですね。ところが、そういった雇用慣行に理解のない人ほど「日本はガラパゴスだ」とか「役所はつぶれないからトコロテン主義だ」とかいいたがって、マニフェストでもその方が受けがいいのが現実ではありますが。