2009年07月28日 (火) | Edit |
でまあ、前エントリではなくこっちのエントリが本題なんですが、前置きのつもりが長くなったのでエントリを別にしてみます。

政権交代が目前に迫っている中で、「官僚支配の打破」を掲げる野党第一党対策として霞ヶ関も対応に追われているようで、大規模な次官級の人事異動が行われているとの由。

「官僚制度どう動く、政権推移に固唾飲む霞が関」(2009年7月26日08時07分 読売新聞)

 衆院選での政権獲得が現実味を帯びてきた民主党は「官僚主導政治の打破」を表看板に掲げている。歴代の政権に対し「内閣が代わっても憲法解釈は変えられない」と説明してきた内閣法制局は、憲法9条について独自の解釈をする小沢民主党代表代行とたびたび衝突した。小沢氏が党首を務めた自由党は、内閣法制局廃止法案を提出したこともある。法制局幹部は「民主党にはうちは官僚主導の権化と映るのでしょうね」と語る
(略)
 官僚の政治任用は昭和の初期、政友会と民政党の2大政党が政権交代を繰り広げた時代に盛んに行われた。政権が代わるたび、当時は内務省から派遣されていた県知事や県庁幹部などの大規模な人事異動があり、政党色に染まった官僚は許認可権を党勢拡大のため露骨に行使した。道路や港、学校などを造ってもらおうと村民全員が時の政権党に入党する「全村入党」も各地で見られたという。

 戦後の国家公務員法が「公務員の中立性」を強調したのはこの時の反省によるものだ

※ 以下、強調は引用者による。


政権交代が目前に迫った段階でいまさらこんな冷静な議論をするというのも何かの冗談でしょうかね。政治主導というのはこういうことを容認することなんですけど、有権者の方々はもちろんそのことを承知の上で政権交代を選択されるのでしょう。

で、マスコミではあまり大きく取り上げられてませんけど、厚生労働省の江利川次官の最後の会見要旨がアップされています。長くなりますが、官僚のトップである次官という職を、内閣府と厚労省という攻守入れ替わった立場で経験された江利川氏のこの言葉は、「政治主導の構造改革路線」なるものを検証する上で大変重要だと思います。

(記者)
 これまでの総括ですが、今年の概算要求基準で社会保障費の自然増が認められるということになったのですが、そのことの評価と受け止め、それと内閣府の次官をされていた時代を含めて、2千2百億円を抑制させていくという小泉政権時代の方策が正しかったのかどうかの評価をお願いいたします。

(次官)
 1年で2千2百億円、5年間で1兆1千億を削減するのは、2011年度までに一般会計のプライマリーバランスを黒字化するという目標から来ています。国債費の返還ですとか、買い換え以外の部分、つまり行政経費はその歳の歳入でまかなおうという方針を立てて、2011年までにプライマリーバランスの黒字化を実現するという目標が立てられました。私はその方針自身は大変大事なことだと思っております。国と地方を会わせて8百兆円を超える借金があり、現在の人達の生活の豊かさを、まだ生まれてもいない人達につけを回すという財政状況ですから、そういう財政状況を改善していく努力をしていくというのは現在生きている人間の責務だと思っております。そういう責務に向けての第一歩だと思っており、プライマリーバランスを回復するというのは正しいと思っています。

 それをどうやって回復するかと言いますと、大きく言えば二つの方法があります。一つは行政経費の削減であり、もう一つは歳入増、つまり、増税です。その両方を咬み合わせなければ正しい方法ではないと思います。小泉内閣の最後に私は内閣府の事務次官をしておりましたが、当時の経済財政担当大臣は与謝野大臣でした。小泉改革を次の内閣にも継続してもらおうということで骨太方針2006がまとめられました。

 これをまとめるに当たりまして、議論は政府内でもありましたが、最終的にそのとりまとめは政府でまとめるのはなくて、党にまとめてもらうということで、当時の中川政調会長を中心に5年間の歳出削減がどのくらい可能か、歳入増をどう図るべきかということが議論されました。そういう中で、詳しいところは党に投げられていますから、私自身は分かりませんが、仄聞するところによると、厚生労働行政分野ではそれ以前の5年間におおむね1兆1千億円くらい削減している、その後の5年間も1兆1千億円くらいの削減が出来るのではないかということで、削減目標が決まったと聞いております。その判断の仕方が正しかったかどうかについては検証が出来ておりません。

 ただ、積み上げて決めていったわけではありません。前の5年間に確保出来ていたということですが、その確保出来た中には介護保険制度が新たに出来たことですとか、医療で言えば、本人の2割負担から3割負担の増ですとか、そういうものが入っておりまして、同じようにその次の5年間も削減を行うというのは、医療で4割負担にするとか、そういうことを行わないと出来ない目標が立てられたということです。そういう意味では、1兆1千億という目標の立て方について政治決断で決めたという話ですが、もっと精緻な検証がいるのではなかったかという感じがしております

 これが決められたことによる影響ですが、私は内閣府にいて、その後外に出て1年後に厚生労働省に戻って来たわけですが、マイナス2千2百億円というのは厚生労働行政、及び職員の士気に大変マイナスの影響を与えていると感じました。マイナス2千2百億円を実施するために無理な制度改正、必ずしも前向きと言えないような制度改正を行います。私の厚生労働省での最後の仕事は、介護保険制度を創設することでした。当時は審議官で、大変負担感のある仕事でしたが、「制度を創設して介護で苦しんでいる家族を助けていけるのではないか」というプラスの思いがあればいくら負担感のある仕事であってもやりがいと意欲もあるわけです。

 マイナス2千2百億円の削減を達成するために無理な制度改正をするというのは、どうしても職員の士気を下げるということになります。私は厚生労働省に呼ばれて事務次官に就任した時は、職員の士気のために、なんとか2千2百億円は撤廃したいと、社会保障制度の在り方をきちんと守って行こうと思いました。これは私が思っていたから出来るわけではありません。実際にマイナス2千2百億円のシーリングで行っていくという結果が、私が就任した直後に出産のたらい回しがありましたが、そういう事件につながり、様々な医療現場の問題ですとか、福祉分野の問題、高齢者医療につきましても制度が改正されたものの経過措置がかなり長くついているとか、様々な制度改正の趣旨から言えば趣旨の手直しが入っています

 こういう制度改正は職員の士気を下げるのではないかということで、2千2百億円の頸木から、我が組織を解き放したいということが就任した時の気持ちでした。幸いに、多くの与党の先生方もそういう思いであり、麻生総理自身もそういう思いが強く、この内閣で撤廃出来たということだと思います。私は社会保障のためにも、社会保障を一生懸命進める人間にとっても大変良かったのではないかと思っております。

平成21年7月23日付定例事務次官記者会見概要(注:pdfファイルです)

※ 適宜改行しました。


「職員の士気」にこだわった発言となっているのは、おそらく下手に社会のためなどと言おうものなら現野党からは政権与党の擁護と批判され、現政権与党からは政権批判とやり玉に挙げられることを避けるための苦肉の策ではないかと思います。次官として、というより霞ヶ関の官僚の中でも理不尽な批判にさらされ続けた厚労省の代表として、これが精一杯の反論だったのでしょう。

コーゾーカイカク路線のリーダーと目される中川秀直氏が政治決断で決めた社会保障費の抑制が、様々な問題を引き起こしたことの検証もないまま、それを上回る改革路線を打ち出している野党第一党が政権をとったとき、この国が本当の危機を迎えるのかもしれません。
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2009年07月28日 (火) | Edit |
先日hamachan先生経由で解雇規制撤廃の負の外部性について取り上げておりましたが、その元ネタとなった「解雇規制で会社にセイフティネットを押しつけるなという主張をする方」のブログを拝見していたら、ふと気になったエントリがありました。

この質問に対して、中川秀直氏は以下のように回答している(抜粋)。
(略)
<私はここ数年、正規雇用と非正規雇用の差をなくして、全員が職務給をもとに働くべきだと思っています。この制度への最大の抵抗は「自分は若いときに安月給で働いたのだから、仕事以上の給料をもらう権利が私にはある」と思っている中高年齢の男性正規社員の一部のみなさんです。しかし、それが青年たちの雇用を脅かし、日本社会全体を弱体化していることに思いを寄せていただきたいと思います。一家の家計は、家族全員で分かち合いをしていくべきではないでしょうか>。
(略)
『官僚国家の崩壊』を読むと、中川氏は「わかっている」人でありながら、その人柄から、これまで裏方にまわりがちだったらしいことがわかる。私もこれまで、中川氏の真価をわかっていなかったわけだが、この本を読んでみて、中川氏は「ポスト小泉」として構造改革路線のリーダーになれる人だろうと確信しつつある
(略)
小泉元首相は、決して国民を甘やかさず、むしろ「痛み」を受け入れることを求めたが、それでも人気があった。「国民を甘やかす」政治家ではなく、「国民を説得できる」政治家を、国民のほうもきっと求めている。国民は「説得されたい」のだ

中川秀直「非正規雇用の方を切り捨てて守ろうとしているのは、経営者の利益だけではなく、実は正規雇用の方の雇用であり賃金です」(2009.07.20)」(Zopeジャンキー日記
※ 以下、強調は引用者による。


こんな短い文章で中川氏が矛盾していることを言っているということが、コーゾーカイカクのリーダーを待望するこの方にはおわかりにならないようです。

実は似たようなことを以前拙ブログでも書いたことはありますが、結論はこの方と180度違っていますので、どうしてこういう結論になるのかは正直なところ理解できません。

債権化したホワイトカラーの年功者の高賃金は、単にそれ自体が若年期の低賃金労働に対する報酬としての債権となっているだけではなくて、その債権を担保に住宅ローンやら子供の教育費が現実に支払われているわけで、俺が裁判所の判断を危惧するのもそれに対する「期待利得」を無碍にはできないだろうと考えるから。労基法上は本人の同意なしで行いうる賃金の減額は、懲戒のための減給ですら1/10を越えることができないし。

さらにいえば、就職氷河期に正規雇用されず未だに非正規雇用でワーキングプアとかいわれている団塊ジュニアは、その団塊の世代の「期待利得」によって教育を受けたり親の建てた住宅に住めた部分も大きいわけで、団塊の世代が「俺が食わせてやって学校にも行かせたのに、働かないなんてけしからん」といいたくなるのも無理はない(それが自己責任であるかはともかく)。まあ、団塊の世代のような自分の僥倖を顧みない自己責任論好きが有権者の多数派を占めるから「改革バカ」がのさばっていることには間違いないだろうけど。

団塊の世代と団塊ジュニア(2008/04/29(火))


マクロで見れば「中高年齢の男性正規社員の一部のみなさん」が「青年たちの雇用を脅かしている」ように見えるかもしれませんが、ミクロに見れば、その青年たちは中高年齢の男性正規社員のご子息でもあるわけです。その中高年齢の男性社員の雇用を削減したりすれば、雇用を脅かされながらもなんとか親御さんの支援で生活している青年たちは、壊滅的な打撃を受けてしまうでしょう。

中高年齢の賃金構造は成果主義の導入という賃金削減策によってすでに大きく毀損されていて、それが子供の世代の階層の固定化とか教育の機会喪失という深刻な事態を生んでいるわけで、それをさらに進めることは、「日本全体を弱体化している」現状をさらに深化させることにしかならないんですよね。

それにしても、この方のコーゾーカイカクのリーダーを待望するメンタリティがよく現れているのが、引用部最後の「国民は「説得されたい」のだ」というところなわけで、僭越ながら前回エントリはいいところを突いたなと思う次第。

2009年07月25日 (土) | Edit |
経団連だの全国知事会だのがいろいろと国政に口を出すようになって久しいわけですが、今日はその両者で意気投合していたようです。

「橋下知事「道州制必要」で一致 御手洗経団連会長と対談」(2009/07/25 11:31【共同通信】)

 大阪府の橋下徹知事と日本経団連の御手洗冨士夫会長が25日、長野県軽井沢町で対談し、道州制の導入が必要との認識で一致した。

 橋下知事は「関西州ができれば、韓国に匹敵する国内総生産(GDP)となる。圏域としてまとまりが良い」と指摘。「観光は京都と奈良で、ホテルは大阪で持つ。役割分担をすればすごく魅力がある」と述べた。

 御手洗会長は「10ぐらいの道州に分けて、財源と権限を大幅に任せ、国家経営の感覚で道州経営をすることが必要。それぞれは欧州の中堅国家と同じぐらい実力がある」と語った。

 会談後、橋下知事は記者団の取材に、「(橋下知事らでつくる)首長連合と経団連とで何かできないか、お願いしようと思っている」と述べ、道州制推進のために両者が連携して政党などに働き掛けていきたい、との意向を示した

 2人は、日本経済の成長戦略を探る経団連の夏季フォーラムに出席し、軽井沢町を訪れていた。対談は、経団連機関誌の企画として実施された。

※ 以下、強調は引用者による。



拙ブログでは地方財政について一応経済学の言葉でまとめていたりもしてますけど、道州制に限らず、目的と帰着が一致するとは限らないどころか、かえって逆効果ということも往々にしてあるというのが制度設計の難しいところです。そして、どんな制度であっても、その目的と帰着の乖離ってのはストーリーとか三段論法のような言葉による論理では推測することはできません。

結局のところ、制度の帰結を正確に推測しようとするなら、これまでのデータを基に制度の効果を説明変数として被説明変数の変化を推定するというような計量経済学的な分析が不可欠であって、つまりは数量的にしか推測できないわけです。しかし、現在の政策決定の中枢はそういった数量的な素養のない方々が大多数を占めていて、民意至上主義的な風潮も相まって、数量的な把握より「物語」とか「ビジョン」とか「夢」みたいなものが重視されているといえるでしょう。

こういった「物語」重視の風潮というのは、だいぶ前になりますがryozo18さんが紹介されていたクロスビー『数量化革命』で描かれるヨーロッパ中世の時代とダブって見えてきます。
数量化革命数量化革命
(2003/10/29)
アルフレッド・W・クロスビー

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amazonでは表紙の上半分に配置されているブリューゲルの絵画「節制」だけが表示されていますが、この本は、この「節制」に描かれているような新たな測量技術によって、人間が世界の真の姿をとらえられるようになったという変化について書かれた歴史書です。そしてその変化は、時間、空間、音楽、絵画、簿記という一見関係のなさそうな分野でそれぞれ生じたという、まさに「革命」的な事件だったわけです。

「敬うべきモデル」は非常に長きにわたって、ヨーロッパ人のコモンセンスをほぼ独占的に支配していた。なぜなら、このモデルは古典古代文明のお墨付きを得ており、さらに重要なことに、人間が実際に経験することと総じて一致していたからだ。しかも、このモデルは、宇宙を明瞭かつ完全に、そして人々の心を麻痺させない程度に畏怖させるような形で叙述するという要求を満たしていた。たとえば、天空が巨大で純粋で地球とはまったく異なっていることは一目瞭然だが、このモデルは天空が地球のまわりをまわっているという宇宙像を提示し、地球は小さいとはいえ、あらゆるものの中心に位置していると説明したのである。
クロスビー『同』pp.38-39


つまりは、一般の人にとっての「物語」というのは、納得できる説明さえ与えてくれればいいわけであって、その説明が受け入れられるかどうかは説明を聞く人のキャパに依存することになります。中世の時代の人々が認識できる範囲でしか物語が語られなかったのは、中世の測量技術や計算技能でとらえられる世界という制約を考えると仕方がなかったのかもしれませんが、宇宙から地球を測量できる現代においても、一般の人が「心を麻痺させない程度に畏怖させるような形で叙述する」ようなモデルを信奉するというのは、なかなかに絶望的ではあります。

たしかに「中央集権はもはや時代遅れだ」とか「全国一律の基準では地域の実情にあわない」とか「日本の××地方はGDPでは○○国並だ」とか「チホーブンケンすれば無駄がなくなる」という「物語」は、普通の生活をしている日常感覚ではとても納得のできるものだとは思います。ただし、その日常感覚が世界が真の姿をとらえているかという点では、人間の進化はそれほど劇的には進んでいないというべきでしょう。上記のチホーブンケンのほかでは、「よいデフレ論」とか「公的債務が800兆円を超えて日本が破綻する」とか「賦課方式では年金が破綻してしまう」というスローガンが真顔で語られてしまうのも、そういった人間の生理的な理解力の限界によるのかもしれません。

それにしても、西ヨーロッパ人たちがそういった限界を克服しようと数量化・視覚化に尽力した歴史が顧みられることもなく、「庶民の目線」といった日常感覚を謳う政治家が喝采を浴び、そのスローガンが真顔で受け入れられてしまうというのは、単純にいえば中世の「敬うべきモデル」へ回帰していることになるわけで、まことに憂慮すべき事態ではないかと。

神学と哲学の役割は説明することだった。だが、古代の権威と中世盛期の精密な考証から得られた神学的・哲学的事実は、意図に反して人々の心に平安より混乱をもたらした
(略)
西ヨーロッパ人はきわめてゆっくりと、ためらいがちに、そしてたいていは無意識のうちに、過去から受け継いだ知識と彼らが現在体験している――しばしば商業に関連した――事実に基づいて、現実世界を新しい見方で見るようになり始めた。こうして形成された世界を「新しいモデル」と名づけよう。「新しいモデル」のきわだった特徴は、正確さと物理的現象の数量的把握、そして数学を、はるかに重視していたことである。
クロスビー『同』pp.80-82


数学的素養が政策決定者の資質として重視されない限りは、こういった数量的把握といっても表面的な「数値目標」ぐらいが関の山です。三位一体の改革で「3兆円規模の税源移譲」とかの数字が空回りしたのは記憶に新しいところ。またぞろ「10ぐらいの道州に分けて」とかいっても、何の根拠もありませんね。

まあ、このご時世では、いったんは行き着くところまでいって、そういった「物語」が現実を一貫して説明できないばかりか、時間の針を逆戻りさせるものであることを身にしみて理解するしかないんでしょう。そういった事態に至って、改めて数量化・視覚化のための理論が求められるのを待つしかないというのも改めて絶望的ではありますが。

一四世紀に幾何学的な遠近法が発展しなかった原因を、猖獗を極めた黒死病に帰す向きもあるだろう。だが、もっと強力な原因は、ジョットと彼の画派は芸術的本能だけに基づいて、手探りで進んでいたということだろう。彼らはたしかに数々の傑作を生み出した――だが、それらの作品は、空間を幾何学的に正確に描いていない。そして、幾何学的に正確に表現するためには、芸術的な天分を補足するもの、すなわち理論が必要だったのである。
クロスビー『同』pp.230-231


後世の歴史家は、こう書くのかもしれません。

二十一世紀に計量的な政策決定が発展しなかった原因を、猖獗を極めたカイカク病に帰す向きもあるだろう。だが、もっと強力な原因は、改革バカと彼の党派は政局的本能だけに基づいて、手探りで進んでいたということだろう。彼らはたしかに数々のスローガンを生み出した――だが、それらのスローガンは、経済や財政を計量的に正確に描いていない。そして、計量的に正確に表現するためには、政局的な天分を補足するもの、すなわち理論が必要だったのである。


中世より事態は悪化してるように思えるんだが・・・orz

2009年07月21日 (火) | Edit |
すなふきんさんからトラバいただきました。コメント書いているうちに長くなったので、エントリに昇格してしまいました。

すなふきんさんの問いである「地方」に霞ヶ関の肩代わりが可能か?に対しては、おそらくは「可能」という回答になると思います。ただしそれは、すなふきんさんが危惧されるように利害関係の当事者に強く影響された結果としての利害調整となるでしょう。データや理論に乏しい利害調整が行われるということは、利害関係の当事者の意向に沿った形での結果しかもたらされません。判決でいえば、条文や法理に基づく判断をすっ飛ばして、双方の主張に基づいた事実認定だけで判決を書くようなイメージでしょうか。

こういったいわゆる「当事者主義」とでもいうような考え方を行政に持ち込むことは、憲法第15条第2項「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」に違反するように思うわけですが、これに対しては、地域の選挙で選ばれたんだから地域のために利害調整して何が悪いんだという抗弁が予想されます。くだんの条文は、明治憲法下で天皇の臣下であった官吏を戦後の憲法で国民に奉仕させるための条文ではありますが、それを「地域のために奉仕する」と解釈するのは拡大解釈なんじゃないですかね。判例はよく知りませんけど。

そういう意味では、「地方にできることは地方に」でも「民間にできることは民間に」でも同じことですが、その「できること」のアウトプットが今よりもレベルダウンすることのリスクが適正に評価されないのもその例でしょう。日本という単一国家のために奉仕するべき公務員が各地域でバラバラに政策を実施した結果、制度の整合性が失われたり財政余剰上の格差が拡大したりすることは容易に想定されますが、そのリスクを適正に評価するリテラシーが顧みられなくなっているわけです。

カイカク派などは、カイカクした結果が以前より悪くなる可能性も認めつつ、「悪くなっても、地方は直接選挙で首長を選ぶから、リコールでもすれば次の選挙で落とされる」とかいいますが、次から次に「カイカク派」が当選して、そのたびに悪くされてしまったら選挙の意味はなくなってしまいます。そのカイカク派が主張するチホーブンケンが、リテラシーの低い「素人」のような組織に対する権限委譲を意味していることの問題性とその帰結の重大性は、もっと真剣に議論されなくてはならないのではないでしょうか。

しかし、これもチホーブンケンに限った話ではなく、既得権益の打破を標榜して政権交代を果たした細川内閣以降、実は日本全体にこの傾向が蔓延していると考えてみるとわかりやすいのではないかと思います。細川内閣後から村山内閣までの改革路線に対抗するため、保守であったはずの橋本内閣が行財政改革を旗印に政権を奪回し、小泉内閣の「構造改革」路線へと続いていったわけで、今日の解散はまた新たな「カイカク派」を生み出すのでしょう。

歴史が今まさに繰り返されようとしていますね。

2009年07月19日 (日) | Edit |
HALTANさんのメディア関連のエントリは深い洞察に支えられているので、その関連のエントリにはいつも勉強させていただいている立場なんですが、先日のエントリはチホーブンケンなどの流れと近い話ではないかなと思いました。

・・・肝心要は「シロウトくさい」という点だ→ここが大事! 古い監督は「人情ものをやるなら徹底しなきゃ」と同じベタでもプロの技術で大マジメにやったり(往年のマキノ雅弘や加藤泰を見よ)、あるいは周到に伏線を練って・・・など面倒くさいことをついつい考えてしまう。もし森崎東や山田洋次が三丁目映画を撮れば作品としての完成度は数段上がっただろうが、しかしヒットはしなかっただろう。今の日本で三丁目映画を観るような観客はTVCMで想像可能な範囲内のものしか観たくないのであって、それ以上のマジメな映画や練りに練った人情劇など別に観たいとは思っていないからだ
(略)
こんな国で「技術」を持ってしまった監督たちの不幸をいつも考えてしまうんだよ。2009-07-16■[映画人消息]荒井晴彦や柏原寛司(シナリオ作家協会会長)がいよいよ食い詰めるような時代になれば! ・・・日本の脚本家の地位も少しは上がるのかもしれない。id:HALTAN:20090716:p1 に書いたこととも重なるが、なまじ「巧い」よりも「下手な」方が興行的(視聴率的)・批評的に評価されるなら(!?)誰も真っ当な「努力」なんかしないですよね。
■「情報(メモ)]「神」の最新作キターー(゚∀゚)ーーッ!!CommentsAdd Star(2009-07-18)」(HALTANの日記
※ 強調は引用者による。


長々と引用させていただきましたが、長年行政の現場で仕事をしてきた官僚やチホーコームインを「無駄遣いの元凶」、「既得権益の固まり」と批判して一切信用せず、現場の実務を知らないお笑い芸人やタレント弁護士が威勢のいいことを叫ぶ姿が一般の方の受けがいいというのも、もしかすると同じような現象ととらえることができるのかもしれません。

反霞ヶ関とかおっしゃる方にはピンとこないかもしれませんが、法律や経済学を勉強して制度設計に当たる官僚と、それを実地で執行する現場の公務員が、それぞれの役割分担の中で専門性を駆使しながら支えている制度というものは確実に存在します。

もちろん、そういったハードな制度だけではなく、市場原理やボランティアなどの利他的行為によって支えられるソフトな制度もありますが、それらはあくまで需給関係や利他的行為に対する選好の度合いに依存するものであって、必然的にもろい制度となってしまいます。特に社会保障や再分配政策が市場や民間によっては担われないのは、そういった制度がもろいのでは、うまくいかなくなったときの損害が大き過ぎるからですね。

逆に言えば、社会保障などの再分配政策さえしっかりしていれば、資源配分に関係する部分は市場や民間が担った方が効率的になる部分は多いかもしれません。しかし、それもあくまで再分配政策が適切な規模で適切に運営されているという前提を要するものであって、その再分配政策と資源配分の境界線は、「民間にできることは民間に、地方にできることは地方に」という単純な線引きで仕分けできるはずがないんですよね。

本来は資源配分政策であった公共事業を例にとってみれば、都市部の税収や貯蓄を原資としてインフラの乏しい地方のインフラ整備に充てたことによって、結果として都市部から地方への再分配政策的に機能していたことなどはその典型です。結局のところ、どこからが再分配でどこからが資源配分と簡単に仕分けることができない以上、それらは中央集権的な政策と地方分権的な政策の組み合わせでしか運営することはできないわけです。

ところが現状は、「二重行政の排除」とか「地域主権」とか「ニアイズベター」とかよくわからないスローガンで、「地域が地域のことを決めれば無駄はなくなる」という究極の自己責任論がもてはやされています。しかし、その無駄ってのが誰にとっての無駄で誰にとっての既得権益なのかということを突き詰めていけば、それは千差万別だという結論にしかならないでしょう。そのような結論を正面から認めた上で、その千差万別に錯綜した利害関係を「地域の住民」というようなしがらみでがんじがらめになっている方々が適正に調整できるとは、個人的には到底思われないんですよね。

「素人にはしがらみがない」とか「地域にはしがらみがない」という言葉を虚心坦懐にみてみれば、俺なんかは「ありえなくね?」と思うわけですが、なぜかしがらみとか既得権益を批判する方々には素人や地域のしがらみが見えなくなっていくというのが不思議なところです。政治がドロドロした利害調整を放棄し、その利害調整の現場を卓越したリテラシーによって支えてきた官僚組織(特に再分配政策を担う霞ヶ関)を破壊したとき、その任を負うだけの胆力を持った素人や地域の方々がどれだけいるのか、大いに疑問ではあります。

まあ、そういった政治状況を生み出したのも、そういう政治家を選んだのも地域の方々なわけですから、チホーコームインなんぞが心配することはないのでしょう。もちろん、ドロドロの利害調整が手に負えない状況に陥っても、「役所が何とかしろ」とは決していわない覚悟があってのことでしょうからね(はぁと)。

2009年07月14日 (火) | Edit |
こういう仕事をしていると、所定労働時間の1割くらいはクレーム対応でつぶされてしまうんですが、まあそれがコームインの仕事と割り切って丁寧に対応するほかはありません。ここで正論を吐いたところで、クレームされている方の心証をいたずらに硬化させるだけで、事態はさらに悪化してしまうからですね。

先日も広報誌に書いてある電話番号ががわかりにくいというお叱りのお電話をいただきましたが、その広報誌ってよその自治体が作成して発行しているんだよなと思いつつも、「住民が真っ先に見るのは広報誌なんだから、ほかの役所だからってそれを放っておくというのは住民のことを考えていないからだ!」と言われれば、「おっしゃるとおりですね」と答えないとその場が収まりません。

まあ、広報誌を全部回収して新しいレイアウトにして配り直せというのが民意だというならそれはそれで仰せのとおりにするまでですが、そのコストはいったい誰が負担するんでしょうね。ある住民がたまたま見た広報誌のレイアウトが見にくかったからという理由で、ほかの住民のために使わなければならない財源をそれに回すというのは、かなりの理由が必要になるはずです。

こんな愚痴をぐだぐだと書いたのは、毎度のhamachan先生経由で、

これは、どんなにセーフティネットを張り巡らせようが、それとは別の話です。ブラック会社自体がコストを払うメカニズムが必要です。これに対して、社会的セーフティネットは、ブラック会社とかホワイト会社とかといったミクロ社会的な問題ではなく、労働市場における需給のアンバランスをマクロ的に支えようという仕組みであって、そこを個別企業に押しつけすぎるとかえってマイナスになるという点は、最近指摘されているとおりです。しかし、そもそも中小零細になればなるほど解雇回避の余地など限りなく少なくなるわけで、整理解雇法理なるものがそれほど効果を発揮できるわけでもありません。
解雇規制とブラック会社の因果関係(2009年7月13日 (月) )」(EU労働法政策雑記帳


解雇規制で会社にセイフティネットを押しつけるなという主張をする方がいらっしゃったのを拝見して、解雇規制を撤廃したことによって生じるコストやそのセイフティネットを維持して運営していくコストは、いったい誰が負担すると想定しているんだろうなと不思議に思ったからです。

いやもちろん、セイフティネットの拡充は喫緊の課題ではありますが、しかしセイフティネットと呼ばれる制度を策定すればそれで万事オッケーということにはなりません。セイフティネットを実効性あるものにするための給付の財源はもちろんですが、その制度がモラルハザードを生じないようアクティベーションを促進しつつ運営するには、膨大なマンパワーが必要となります。具体的には、それらの負担割合を決めるのが政治であって、その負担による財源を調達し、かつ給付するマンパワーと権限を有するのが行政なわけです。

解雇規制とセイフティネットの話になぞらえていえば、会社の経営が思わしくなくなったときのリスク配分を決めるのが解雇規制であって、不幸にもそのリスクが実現した場合に、リスク負担に耐えきれなくなった方*1を救済するのがセイフティネットとなります。後者については、リスクの発生と負担は事前には一定に分布すると推測されることから、リスク中立な行政が雇用保険によって保険機能を提供しています。

問題は解雇規制の方で、労使の当事者にとって最適なリスク配分は、業種ごとの業界の事情や個別の企業の経営状態によって大きく異なります。このために、まずはリスク配分について企業内の労使が交渉することが必要になるわけですが、自主的な交渉に任せていては必ずしも最適なリスク配分が達成されるとは限りません。したがって、法によって最低限の解雇規制を規定することが必要になります。

解雇規制やセイフティネットだけを議論しても、このような「自主交渉-解雇規制-セイフティネット」という三層構造はとらえきれないだろうと思われます。特に、「自主交渉-解雇規制」という前の二段階が不十分だという認識がなければ、だからこそブラック会社が簡単に人を使い捨てできてしまうという帰結はなかなか理解できないのではないかと思います。

ここで冒頭の話に戻りますが、広報誌のレイアウトにクレームをつけてきた方はこの不景気が理由で長年勤めてきた会社をリストラされた方でした。その会社はブラック会社ではなかったかもしれませんが、この方が一見理不尽なクレームをつけてきたのもそういう切羽詰まった事情があったからで、憤懣やるかたない思いをどこかにぶつけずにはいられなかったのでしょう。もし、解雇規制と金銭解決がセットになってそれなりの金額を得ていたら、生活が幾分かは安定してスムーズに次の職探しに取りかかることができて、クレームの電話なんかする気も起きなかったかもしれません。

もっといえば、クレームをつけてきた方の本心はリストラした会社に対する恨み辛みだったのに、労働局のあっせんや労働審判で解決金を得ようとしてもかなりの時間と労力を要する上に、実入りも少ないので、手っ取り早く気の済む方法として、電話でのクレームで気を紛らわせたのかもしれません。その電話に対応するわれわれコームインの給料も税金でまかなわれているわけで、会社が解雇規制やセイフティネットの負担を拒否すれば、それだけこういった憤懣やるかたない思いをされる方が増えて役所の負担(クレーム対応だけではなく直接・間接の給付など)が大きくなり、その財源は結局のところ健全経営でそういった問題を起こさない会社や従業員が負担することになるわけです。

本当のブラック会社ってのはおそらくこういう構図をわかっていて、従業員を酷使して使い捨てしようと、その従業員は泣き寝入りするか役所のお世話になってしまうと踏んで、自分の懐は痛まないと高をくくっているような会社をいうのではないかと思います。しかし、そう思っていないホワイト会社(?)であっても中小零細企業では同じようなことが起きてしまいます。こっちはブラックだから金銭解決して、こっちはホワイトだから免除するというようなことが実行できるわけもなく、それよりも一律に解雇規制と金銭解決を適用する方が労使双方にとってメリットは大きいのではないかと思うんですが、こういう「中間をとる」的な発想は理解されにくいんでしょうかねえ。




*1 扶養されている主婦や学生であれば、職を失ったからといって必ずしもリスク負担ができないわけでないことに注意が必要です。

2009年07月13日 (月) | Edit |
都議選では民主党が第一党になったとかで大騒ぎですが、KYながらまたぞろ「官僚たちの夏」がドラマ化されていたので見た感想など。

といいつつ、すでに今週からは見てませんが、第一話を見た限りでは、官僚が変な方向に美化されてしまっているように思いました。まあ、いつの世も官僚叩きが喝采を浴びる一方で、官僚(というか政府)が自国の産業を保護して外貨を獲得するという重商主義もウケがいいということなんでしょうけども。

もちろんあくまで小説であって、ドラマのプロットを額面どおり受け取ってはいけないわけですが、こういうドラマはある程度の信憑性がないと成り立たないところが厄介です。特に、主人公の風越のモデルとなった佐橋滋(Wikipedia:佐橋滋)氏は、(池田○夫氏のところで議論があったみたいですが)国民車構想とも関係ないはずですし(Wikipedia:日本の「国民車構想」 )、むしろ愛弟子ともいわれ、一村一品運動の生みの親でもある平松守彦氏(Wikipedia:平松守彦)をはじめとして、日本に霞ヶ関不信を植え付けた勢力の中心人物ではなかったかと思います。

というのも、だいぶ昔に読んだ佐橋氏の自伝では、ほかならぬ佐橋氏自身が官僚不信をばらまいていたわけで、脱藩官僚の原型はここにあったというべきかもしれません。
異色官僚 (現代教養文庫―ベスト・ノンフィクション)異色官僚 (現代教養文庫―ベスト・ノンフィクション)
(1994/07)
佐橋 滋

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う~む、画像がないということは絶版ですな。

佐橋氏の経歴で個人的に気になったのは、名古屋の地方商工局と本省の労組の委員長に相次いで就任したというところです。

 全商工労組はもちろん当時すでに存在した全官公に加入しており、全般的問題については統一歩調をとった。全商工は全官公の中でも理性的な組合でとおっていた。今でも覚えているが、全官公がはじめて闘争宣言を発した時の宣言文はわれわれの手で書いたのである。闘争委員会に、僕は、赤沢副委員長を帯同して出席していた。
 闘争宣言の原文は、僕らにきわめて不満足で、格調といい、迫力といい、訂正すべき点が多々あったので、任せられて会議場の隣の別室で修文した。その後いろいろの労組が発する闘争宣言の定まり文句になっている。「よってもって生ずるいっさいの責任は政府にあることをここに宣言する」という末文の名文句は、われわれが考え出したものである。
佐橋『同』p.90
※ 以下強調は引用者による。


1947年の2・1ゼネスト(Wikipedia:二・一ゼネスト)の直前に委員長を辞めたようですので1946年当時のことだろうと思いますが、官公労が発した「いっさいの責任は政府にある」という言葉が一般の民間労組にも波及していったというのは、別に自慢することでもなんでもなく、日本の労組がはじめから敵を見誤っていたということの証左にしかならないと思われます。この佐橋氏の自伝全体を通じて、民間の労働条件に対する当事者意識がほとんど感じられないんですが、これが「ミスター通産省」たる所以なのでしょうか。

佐橋氏の労働観が端的に現れているこの部分でも、

 現在の労働組合と使用者側の問題は根本には相互の不信感が問題をむずかしくしている。話合いとか、交渉とかいうものはなんによらず相互の信頼感が基礎になければできるものではない(いまどきの経営者に昔流の搾取本位の人はいないと思うが)。経営者も労組恐怖病を脱却して従業員のために全力を尽くすべきである。しかし労組執行部も独走暴走は厳に戒めて、地についた交渉をしなければならないと思う。一升のますから三升の水を汲みとることはできない。終身雇用を前提とした考え方の強い日本の労働市場においては、労働の需給はかなり非弾力的であり、一方企業は激烈な生存競争を続けている事実を忘れてはならない。組合も英知を持って交渉にのぞむべきであろう。
佐橋『同』p.92


と書いていますが、この自伝が書かれたのが1960年代後半なので、アベグレンが終身コミットメントと指摘した日本の雇用慣行が「終身雇用」と誤訳されたのとちょうど同じ時期になります。誤訳を鵜呑みにする程度の認識だったということでしょう。

その後、炭労ストに当たっては、最初で最後となる労働関係調整法第35条の2に基づく緊急調整を要請します。

 僕の石炭に関係した時期は、それでもまだ朝鮮動乱のおかげもあり、石炭業界も最後の息をついているころで、今ほどみじめな時期ではなかった。むしろ最もいい時期であった。
 僕の最初の大仕事は、二十七年末に起きた炭労の大ストである。炭労が賃上げを要求して、スト態勢をしいた時である。僕は経営者に頼まれたわけでもなく、むしろ炭労のサイドに立って判断したうえの結論にもとづいて彼らと話し合ったのである。われわれの調査によれば、その時は異常貯炭を有していて、むしろ減産により市況を維持しなければならない事態であった。
(略)
 僕は、政府が最後のテを出すより事態は救いがたいと判断した。それは労働関係調整法による緊急調整である。この法律ができて、おそらく現在までその例を見ない最初にして最後である伝家の宝刀を抜くことにした。スト中止命令である。八十日間、政府は労使双方に対してストの中止を命令した。かくして六十七日目に史上空前といわれたストは外的圧力によって中止させれらた。ストとロックアウトの対立で労使双方とも疲れきっていた。外部からのきっかけだけがこの際の救いであった。この八十日の冷却期間後は再びストにつながらないという判断だった。
佐橋『同』pp.150-151


念のため、この時代背景を確認しておくと、1952年(昭和27年)というのは戦後の朝鮮特需(Wikipedia:朝鮮特需)にかげりが見えてきた時期だったので、「今ほどみじめな時期ではなかった。むしろ最もいい時期」ということになります。1956年(昭和31年)の経済白書での「もはや戦後ではない」という切羽詰まった宣言(Wikipedia:経済白書)へと続く景気の悪化が始まっていたわけですね。そして、自伝を読む限り佐橋氏ご本人はそういった自覚はないようなんですが、これが石炭エネルギーの時代の終焉ともなるわけです。

正直なところ、佐橋氏の自伝を読んでいると、この自覚のないフロンティア意識のようなものがあちらこちらで鼻につくわけで、典型的なのが役人人事に対するステロタイプなこの批判です。

 トコロテン主義の廃止、適材適所主義とはいってもなかなかむずかしい。人はそれなりにうぬぼれもあれば自信もある。うぬぼれとかさけのない人間はないとはよくいったものである。
 役所というところは会社と違って、ほんとうの意味の能力主義の作用しないことである。役人はよく無難にとか、大過なくということばを使う。無難とはなにか、大過なくとかいうことはいったいなんだ。それはなにもしないということだ。人の批判を受けたり、責任を取らされるようなことをしないということだ。人はたいていの場合、積極性は批判の対象にし、攻撃の的にする。しかしなにもしないのは批評の対象にならない。無難とか大過なくということは、この人情の機微を巧みに利用したものである。積極的に点数はとらないが、逆にマイナス点はかせがないということである。
 役人にはこのことがきわめて大事で、これが保身の術になっている。こうしてトコロテン方式が成立するのである。こういうことが許されてきたのにはそれだけの理由がある。つまり会社と違って役所はつぶれないからだ
佐橋『同』p.169


岡本全勝氏にも脈々と受け継がれる「役所はつぶれないからガラパゴスだ」という論理は、あまりに一面的に過ぎますね。成果主義は労働強化とか短期のインセンティブ強化で組織運営に支障を生じさせるということは古い研究でも明らかになっているわけで、あたかも自分がはじめてそのことを指摘したかのような言いぐさというのは「『新しいアイディアだ』と言うのは、『私は無知だ』と言うようなもの」にしか思われません。

ところがそれに拍手喝采を送る方もいるわけで、

 「どうしてもこの筋を通さなければならないと思えば、新聞にでも公表して国民に判断してもらう」という民意を背景にした抵抗の原理を、佐橋は課長のころからもっていたというが、現在の官僚たちにそれを望むのはムリなのか?
(略)
 私事になるが、拙著『日本官僚白書』(講談社文庫)の「あとがき」に、私は「私の頭の中には、政治のエゴに屈しなかった官僚の一つの理想像として、常に佐橋さんの姿があった」と書いた。
佐橋『同』解説(佐高信)pp.329-330


政治主導とかいっていたのはどこのどなたでしたっけ? というよりただの民意至上主義だったというだけなんでしょうけどね。

2009年07月08日 (水) | Edit |
このニュースは本当にショック・・・

創刊32年でスタジオボイス、ついに休刊!

Twitterでつぶやき情報が廻って来たので、編集部に確認の電話をしたところ、松村編集長が電話に出て、「そうなんです、次の8月6日売りで休刊となりました。編集会議はこれからなので最後の特集はまだ決めていません」とのこと。

インファス・パブリケーションズの経営的判断ということです。

次々と雑誌が休刊に追い込まれる2009年、メディアの大きな変わり目の渦潮の中に私たちはいるのだと実感。

いわゆるサブ・カルチャーをカタログ的に体系立てて新しい若い読者に伝えて来た老舗の雑誌が休刊することは本当に残念。

『STUDIO VOICE 8月6日発売号で休刊!!(2009-07-02 19:34)」(webDICE


定期購読しておりましたし、個人的にいろいろと縁のあった雑誌だっただけに残念としかいいようがありません。

ただ、そういった個人的な思い入れがなければ読みにくい雑誌になっているのは事実でしょう。レイアウトが見づらいのはデザイン上の仕様といってもいいかもしれませんが、記事のトーンが似非をおもしろがるだけじゃなくて、それを真に受けてしまっている感があるところに違和感を感じることが少なくありませんでした。

端的に言えば、三島由紀夫の装丁が印象的な2年前の
STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2007年 08月号 [雑誌]STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2007年 08月号 [雑誌]
(2007/07/06)
不明

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という特集が、STUDIO VOICE誌の「オルタナティブ」という立場に制約されて左派陣営(雨宮処凛、湯浅誠)と無政府論者(外山恒一)のような人しか登場しなかったことに、この政治経済情勢における雑誌の限界を感じた記憶が強いです。

たとえば、現状が厳しいからといって、じゃあ猪瀬直樹が「日本凡人伝」を書いてたころがよかったかといえば決してそういうわけではなく、そもそもカルチャー誌が政治を扱うということはそういう「世相を斬る」くらいのことにしかならないわけです。そして、ある程度の影響力を持ってそれらの言説が現実化してしまったときに、雑誌そのものが命運を絶たれてしまったという側面は否定できないのではないかと。

今年4月の
STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2009年 04月号 [雑誌]STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2009年 04月号 [雑誌]
(2009/03/06)
不明

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では往年のSTUDIO VOICE誌の懐の深さを感じるとともに、その懐の深さが玉石混淆を容認して自らを追い詰めていったような感慨を抱いてしまいました。復刊の話もチラホラあるようですし、何とかカルチャー誌としての存続を期待したいところです。

2009年07月04日 (土) | Edit |
というわけで、フェファー・サットン『事実に基づいた経営』から前回エントリの続きです。引用が長くなってしまいましたが、あくまで独断と偏見でのレビューですので、ぜひお手にとって内容をご確認ください。それだけの価値があると思います。
事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?
(2009/01)
ジェフリー フェファーロバート・I. サットン

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まずは「第6章 戦略がすべて?」から、

 この会長が言ったとおり、成功のカギで真似が難しいのは、何をするか(戦略の決定)ではなく、それを実行する能力なのだ。だからこそ、大変な成功を収めているウェルズ・ファーゴ銀行のCEO、リチャード・コバセヴィッチは戦略よりも効率的な運営(正しい実行)のできる企業文化と能力のほうが企業の成功には大切だと繰り返し説いているのである。何年も前に彼はこう言っている。「戦略の計画書を飛行機に忘れてきても、たいしたことはないだろう。誰もそれを実行できないからだ。われわれの成功の源は計画ではなく実行にあるのだ
フェファー・サットン『事実に基づいた経営』p.205
※ 以下強調は引用者による。


「地域経営戦略」でググると2,540,000件ほどヒットしますが、まあ運営をどうするかをほったらかしにしておいて戦略とか立てたって、何の実効性もないわけですね。拙ブログではチホーブンケン教を揶揄していますが、決して地方分権そのものを否定するつもりはありません。どう分権するか、というより分権した後にどう運営するかが問題なのに、「地方分権選挙」とかのワンフレーズで得体の知れない地方分権を叫ぶ方々が支持を集める状況を危惧しているのです。

 私たちのMBAの学生(そしてエクゼクティブプログラムの学生)がしたのと同じことを多くの企業でも行っている。戦略そのものが悪いわけではなく、実行が悪いのに、その戦略を駄目だと決めつけているのだ。戦略の問題と戦略実行の問題を混同するのは、小売、ホテル、レストラン、交通といったサービス業界で特に多いように思われる。大変優れたサービスを提供しようとし、うまくいかず、やはり戦略はコスト削減しかないと思ってしまうようなケースである。しかし、コストにせよ、価格にせよ、商品品質にせよ、イノベーションにせよ、競争のためにはきちんと実行がなされなくてはならない。
(略)
 私たちの簡単な提案は、実行の失敗をビジネスモデルの問題とか戦略そのものの問題だというような間違った見方をして、必要のない戦略変更をしないということだ。戦略の問題と言う前に、本当に現在のビジネスモデルがきちんと実行されているかどうかをよく見てみる必要があるのだ。
『同』pp.215-216


ここは読み方を注意しなければいけないところで、例えば「構造改革がうまくいかないからといって構造改革が悪いのではなく、その実行が悪いのだ」と解釈してしまってはメッセージを読み誤ることになると思います。構造改革とか地方分権は手段であって戦略ではありませんからね。

この部分のメッセージは、後述する部分にも関係しますが、「古いやり方が悪いから新しいやり方じゃなければダメだ」というとらえ方は間違うことが多いと解釈するべきでしょう。今流行の言い方では、「明治以来の中央集権は破綻したからこれからは地方分権だ」とか「既得権益に凝り固まった政権党ではなく、しがらみのない政党に政権交代すべきだ」とかというのがこれに該当します。本当に中央集権が破綻したのか、政権党に問題があったのかという点を実証的に検証するでもなく、戦略もはっきりさせないままに新しい政体こそがすべての問題を解決するという主張は、通常の感覚を持った方なら眉唾物であることは理解できるのではないかと。

 人々はコストを過小に見積もるだけではない。経営手法にしても、技術にしても、戦略にしても、他社がやっているというだけで、きっと良いものに違いないと思い込んでしまう。「隣の芝生は青い」症候群である。第三者として他社のやっていることを見ると、往々にして良い結果ばかりが目につき、その背景にある大変な努力、問題、ミス、失敗といったところに目が行かない。結果として、自社のノウハウやアイディアを無視してまで、他社のやっていることに飛びつくことになる。
『同』p.236


連邦制国家がどういった問題に苦しんでいるのかも検証せずに道州制とかいう方は、「隣の芝生は青い」症候群というべきですね。

 二つ目の関連したリーダーシップに関する神話は、優秀なリーダーは業界や会社にかかわらずうまくできるというものだ。こうした考えが、必要以上に後継者を外部から招いたり、その結果、その会社が置かれている状況をよく理解できず、問題が起きるという事態を招いたりしている。優秀な経営者になるには、その業界、会社、社員、仕事の中身に関する豊富な知識が欠かせない。多くの会社は救世主となるCEOを外部に求めるが、そこそこ成功している会社は内部からCEOを昇進させたほうがよいのだ。外部からCEOを招いたほうがよいのは、会社が大変な問題に陥っているか、経営層が盗みを働いたり、株主にうそをついたりして、会社が新しいスキルや価値観を必要としており、古い、駄目な奴らはいなくなって新しい優秀な経営陣が登場したというメッセージが必要なときだけである。
『同』p.299


ここも読み方が難しいところですが、例えばわれわれチホーコームインの組織のトップというのは、直接選挙によって選ばれた方が就くこととなっています。ところが、その直接選挙は往々にして人気投票に堕するもので、誹謗中傷合戦に勝ち残った方が勝者となることも少なくありません。誹謗中傷合戦の勝者は、「古い、駄目な奴らはいなくなって新しい優秀な経営陣が登場したというメッセージが必要」と主張して支持を得ているわけですから、支持した方にとっては外部の方がトップに就くのが当たり前となってしまいます。

とはいっても、それで「その会社が置かれている状況をよく理解できず、問題が起きるという事態を招いたり」する危険性が減じられるわけではないことに注意が必要です。本書のこの部分は、そういった危険性を犯してでも「新しい経営陣というメッセージ」が必要な場合があると解釈すべきであって、そのメッセージが必要かどうかの判断は慎重であるべきだろうと思います。少なくとも、役所の組織のトップに外部の方が就いて「民間感覚」とか「庶民の目線」とかいったところで、その運営がうまくいく保障はないということは銘記すべきでしょう。

 新しく来たCEOは、会社に自分の足跡を残そうとする。過去の最良の戦略を学び、それをさらに発展させていくのではなく、新しい経営者は、自分の違いを目立たせ、独自の足跡を残すために、たとえ効果があるアイディアや手法であっても過去を完全に否定する。さらにCEOは、だいたい自分の過去の経験や自分の信念などから生まれたお気に入りのセオリーがある。したがって、どういう理由でCEOに就いたかは全く関係なく、新しいCEOは自信と権力を持ち、自分を際立たせることに取りつかれており、古いやり方のほうが事実にかなっているときも、古いやり方を捨てて新しいやり方を取り入れるのだ
『同』p.317


古い「中央集権」や「年功序列」はすべて否定して、新しい「地方分権」や「成果主義」を主張する総理大臣や首長が後を絶たないのもこういう心理が働くからなんでしょうね。というより、拙ブログでは何度か取り上げているとおり「地方分権」も「成果主義」も全然新しくないどころか、歴史的には「中央集権」とか「年功序列」のほうが洗練された新しい手法なんですけども。

一企業の経営者であれば間違いを犯したところで市場の中で淘汰されていくのでしょうけど、これが公的機関で起きると悲惨なことになります。

 何年か前、サットンは二つの大きな学区のトップと話すことがあった。二人とも、社会的進級を廃止しようとしているさなかであった(両学区とも、過去に同じようなことを行って失敗している)。サットンは、自分たちが行おうとしていることが間違っている、という多くの証拠があることを知っているかを尋ねてみた。二人の答えはほぼ同じ「イエス」であった。彼らは過去の研究のことをよく知っており、政治家にも直談判した。しかし、あまりにも多くの有権者が賛成していることで、社会的進級廃止を変えさせることはできなかった。二人ともやるしかないところまで追い込まれた。しかし、彼らはできる限りゆっくりと、また部分的に実行を始めた。実際、彼らは半分自己弁護的、半分怒りの混じったトーンで、政治的圧力のない完璧な世界ならば、こんなことはしなくてもよいのだが、ダメージを最小化するには、こうするしかないのだと説明した。彼らのメッセージは、彼らがこうしなかったら、解雇されて、廃止論者がやってきてもっと大きなダメージを与えるだろうということだった。つまり、抵抗や遅れはいつもマイナスとは限らない。時には、事実に基づいた命令拒否が個人にとっても、組織にとっても良いときはある。
『同』p.326


官僚叩きに精を出している方々が、実は自分の首をしめていると気がつくことはないでしょうから、この点は絶望的ではあります。業務に精通しデータを重視する霞ヶ関ではいまのところ官僚の方々が奮闘されていますが、無能な働き者であるチホーコームインはむしろ嬉々として改革バカに荷担してしまっていますしねえ・・・orz

というわけで、このまま改革バカが支持を集めていったとき、

 実際に、組織は常に変革を進めている。リーダーたちが、「変革への抵抗」を話すとき、部下(あるいは取締役会のメンバー、株主、メディアということもある)が自分の求めたことをしないということだ。本章で見たように、そうした抵抗は、きちんとした理由があったり意味があったりして、実際には会社が馬鹿なことをするのを防ぐ役割を果たすこともある。良いと思われる変革であっても、変化には必ずゴタゴタや不確定なことが伴うので、大きなリスクがある。よくいわれる「変革するか死ぬか(change or die)」というのは、事実に基づけば「変革して死ぬ(change and die)」といったほうが正しい
『同』p.259


という事実に世の方々が気付くことがあるんだろうかと遠い目になってしまいますね。

2009年07月03日 (金) | Edit |
なんとか今年前半で読んでおこうということで、前回予告した
事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?
(2009/01)
ジェフリー フェファーロバート・I. サットン

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をなんとか先月で読了。が、気がついてみたら腐るほど付箋つけてしまってどうまとめたらいいか分かりません。

なので、だらだらと引用しながら、拙ブログを対比してみます。

確かに古いアイディアはつまらないものとしても、悪い経営手法を拒否し、よい手法をさらに良くしようとするなら、古いアイディアの価値をよく認識(場合によっては激賞)しなくてはならないはずだ。結局、古くてつまらなくても成功するほうが、刺激的で、新しく失敗するよりはるかによいからだ。
(略)
社員は新しいアイディアを出せば、上司に褒めてもらえる。コンサルタントは新しいサービスを顧客企業に売ることができる。グルは次の新しいことを匂わすことで、魅力的な出版契約や講演料を得ることができる。ジャーナリストだって、最新のスクープで新聞や雑誌を売ったりする。
 こうした結果が、奇妙な集団健忘症を引き起こす。同じことが何度も何度も新しい名前で登場する。時間と労力の無駄だ
フェファー・サットン『前掲書』pp.61-62

有名な組織研究者の一人であるスタンフォード大学のジェームス・マーチはこんなことをいっている。「『新しいアイディアだ』と言うのは、『私は無知だ』と言うようなものだし、『これまでにないような効果がある』と言うのは、『私は思い上がっている』と言っているようなものだ
『同』p.63
※ 以下、強調は引用者による。


拙ブログがほこりを被ったような集団的労使関係を再三取り上げているのも、「労働組合とか集団的労使関係なんて時代遅れだ。いまや時代は個別的労働関係なんだから」という風潮に疑問があるからです。古くても正しい問題認識は必要だと思います。ついでに、「これからは地方の時代だ」とかいって、「地方分権すればこれまでになく日本がよくなる」という方がいれば「私は思い上がっている」と言っているようなものなんですね。

グロイスバーグは、スターがトップパフォーマーであり続けても、あるいは元に戻っても、移った先の会社への長い目で見た貢献はほとんどないという。「なぜなら、ライバルからとんでもない額で引き抜いたのに、そうしたスターは長くはその組織にいないからだ」
 こうした事実は、W,エドワーズ・デミングや品質管理で、もう何年も指摘されていることと同じで、システムの重要さを示している。それなのに、なぜ多くの会社は優れた人材を採用することばかりに力を入れ、優れたシステムを作ることを軽視しているのだろうか? 一つの大きな理由は、アメリカのような西洋諸国では個人主義が崇拝に近く強調され、本質を見誤っていることだろう。歴史、組織のゴール、報酬、体制といったものが個人にも組織にも大きな影響を与えるということを忘れている。うまくいったときには個人的なヒーローを褒め称え、駄目だったときは個人的なスケープゴートを責めるということをやりすぎている。こうした誤った見方が、「才能過剰重視」の見方を生み、ビジネス誌、社史、グルやコンサルタントのアドバイスなどで、繰り返し取り上げられるのである。
『同』pp.138-139

しかし、誤解しないでほしい。腐ったリンゴは再教育されるか、異動されるか、それでも駄目なら解雇されなくてはならない。しかし「駄目な人間の法則」は、「半分だけ正しい」にすぎない。その代わりに「駄目なシステムの法則」を提案したい。駄目なシステムは駄目な人間よりはるかに危険で、おまけに優秀な人も駄目にしてしまう。「あいつは駄目だ」という前に、システムや仕事内容を再検討してみたらどうだろう。優れているはずの人を採用し続けているのに、使えないとすれば、個人ではなくシステムの問題を考えることで、頭空っぽから抜け出せるのだ。
『同』p.144


グロイスバーグの指摘は
いかに「問題社員」を管理するか (HBRアンソロジーシリーズ)いかに「問題社員」を管理するか (HBRアンソロジーシリーズ)
(2005/01)
DIAMONDハーバードビジネスレビュー編集部

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にも掲載されていますが、特に前段は、日本のマスコミがやっていることは結局人気者と悪役の対比だけだということと通底するものがあります。

 人は、職場の人間関係が大切なのだ。報酬に格差をつければ、職場の仲間がばらばらになったり、「勝ち組」「まあまあ」「負け組」に分かれてしまうということにもなる。結果として嫉妬やいさかいが起き、職場の人間関係は壊れ、信頼や連帯感もなくなってしまう。実際には、インセンティブシステムによって、金銭的にすごいと言えるほどの報酬を出しているところはほとんどない。ならば、なぜ会社はわざわざ人間関係を壊し、社員は報酬の少しの差でいがみあい、管理職は部下のランキングに膨大な時間を使わなくてはならないのだろうか? 報酬コンサルタントや人事のお偉いさんはそうは言わないが、こんな大変な副作用はこりごりで、もし選べるのなら、同じ給料でもよいと思っている人は多いのではないだろうか。
『同』pp.180-181


実力主義といわれるアメリカで書かれた本書が高橋『虚妄の成果主義』と同じことを言っているわけで、それでも未だに成果主義とか言っている方が多いというのが頭の痛いところですね。

この点で忘れてはならないのは、
女工哀史 (岩波文庫 青 135-1)女工哀史 (岩波文庫 青 135-1)
(1980/01)
細井 和喜蔵

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の「第五 労働条件」や「第六 工場に於ける女工の虐使」で描写される賃金体系がものの見事な「成果給」となっていたことでしょう。目標に届かなかった場合は罰金的に給与を差し引き、それ以上の場合は非連続な歩合制に従って給料が増給されるほか、皆勤した場合の手当を大きくして病気でも休まないようにし*1、こういう光景を生み出したわけです。

 彼女達の中には必ずや二十パーセントくらひ、脚気でだぶだぶに膨れた、板一枚の接ぎ目にも躓くやうな足をひつさげて、はつはつと喘ぎ乍ら泣きの涙で働いてゐる者がある。そして遂には堪へきれずして機械の間へ、どたと病馬の如く気絶して卒倒する痛ましさは見る人をして顔を背けしめる。
細井『女工哀史』p.137


現在までにはもちろん、このような賃金体系は、1911年(明治44年)に施工された工場法を前身とする労働基準法によって禁止されているわけですし、ホワイトカラーの比率が大きくなっている現在でこのようなことが起きることはあまり考えられませんが、しかし成果主義というのはこういう光景を生むものだということは歴史上の事実として記憶しておかなければなりません。

全然まとめきれず長くなりましたので、そのうちまた続編を。



*1 ある工場では、宝くじのように夏場に皆勤した労働者に抽選で一等500円、二等300円、三等100円、四等50円それぞれ1人、五等30円を30人、六等10円を100人と極端に傾斜した皆勤手当を支給したそうです。単純な期待値では21円26銭ですが、合計で134人に対してしか支給されませんので、実際の期待値はもっと低いでしょう。