2009年06月28日 (日) | Edit |
この週末は今読んでる本をまとめておこうと考えていたんですが、例のそのまんま東氏の件ですっかり予定が狂ってしまいました。積ん読がたまっていく・・・

というわけで、拙ブログで「経営者目線の改革」にはさんざん疑問を呈しているわけですが、その理由を明快に書いてくれているのがたとえばこの本。
虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ
(2004/01)
高橋 伸夫

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大御所にこき下ろされた行(pp.64-68)などは著者の私怨がかなり感じられますが、それも一貫性のない日本の経営学の一エピソードに過ぎないという点では、著者の言い分に軍配を上げるべきでしょう。

まずは、日本的経営が伝統とか文化なんかに基づくものではないとの指摘は重要ですね。例えば、アベグレンが『日本の経営』と『日本の経営から何を学ぶか』で日本的経営に対する評価を180度変えた経緯について、

 他方、アベグレンの2冊の著書『日本の経営』『日本の経営から何を学ぶか』の翻訳者でもある占部都美は『日本的経営を考える』(1978)において、終身雇用、年功昇進、年功賃金といった制度は、いずれも日本的経営の不変の要素というわけではなく、その根源に、経済合理的、適応的な側面があるのであって、低成長経済の下では、終身雇用には雇用調整、年功昇進には能力主義、年功賃金に対しては職務給という変化が現れてきているとした。
 もうお気づきだろうか、この時の日本的経営のブームの最中にあってさえ、1973~1974年のオイルショックで日本経営の高度成長期が完全に終焉を迎えると、その途端に、占部が指摘しているように、当の日本企業の間で、終身雇用には雇用調整、年功昇進には能力主義、年功賃金に対しては職務給という変化が出現してきていたのである。20世紀末の光景とダブって見える。まさに歴史は愚直なまでに繰り返しているのである。
高橋『前掲書』p.90
※以下 強調は引用者による。


正直なところ、年功序列には懐疑的な思いもあるにはありますが、それはそれとして、経営として考えたときに組織のパフォーマンスを最大限に引き出すインセンティブシステムとして、年功序列型賃金体系の有用性は否定できないでしょう。

と思って読み進めると、拙ブログと同じような論調が登場します。

なぜこれまでの科学的な蓄積を学ばずに、巷に成果主義がはびこるのか、私には(ママ)理解に苦しむ。経営学自身も、科学的手続や歴史的事実を無視する現状を打破しなければ、いずれは滅びてしまうという危機感を私はもっている。あえて強調したい。経営学はサイエンスなのだ。どんなに好きな学説でも仮説でも、データが否定しているものは間違いなのである。そうやって正しいことと間違っていることを整理して腑分けしておかないと、人類と学問の進歩はありえない
高橋『前掲書』p.119

この部分の「成果主義」を「地方分権」に置き換えれば、拙ブログでいつも書いてることとほぼ同じです。いやホントに、チホーブンケン教が手段を目的化している様は理解に苦しみますね。

このあと本書では、ブルームの「期待理論」について、行為を行うことによる「1次の効果」としての成果が確率的に決まり、その「1次の効果」に従って「2次の効果」である報酬が確率的に決まるという一般的な理解は実証されていないと指摘します。仕事を報酬で評価した途端にインセンティブが変わってしまうという話は、『予想どおりに不合理』での指摘とも整合しますね。

さらに、ハーズバーグの「動機づけ衛生理論」からデシの「内発的動機づけの理論」へと論を進め、経営者が未来への見通しを示すことが重要だとの主張が述べられます。つまり、その見通しを与えてきたものこそが日本的経営における年功序列型の賃金体系だったというわけです。アクセルロッドの繰り返しゲームで協調戦略が生き残るとか割引率が見通しを軽視する原因だとか、経済学的にも刺激的な指摘が続きますが、最後にこう締めくくられます。

 ところで、賢明な読者の方々はすでにお気づきのように、本書では「成果主義」とは何なのかを定義しないままで、ここまできてしまった。それには二つの理由がある。
(略)
 もう一つの理由はより重要である。成果主義がうまくいかないと会社側が悲鳴を上げると、「それは本当の成果主義ではない」と言い逃れをする輩が必ず登場するが、その言い訳を封じ込めたかったからである。ここまでお読みいただいた読者であれば、次の定義を的確に理解してもらえると信じている。すなわち、本書が批判している「成果主義」とは、(1)できるだけ客観的にこれまでの成果を測ろうと努め、(2)成果のようなものに連動した賃金体系で動機づけを図ろうとするすべての考え方、なのである。しかも(1)と(2)はandではない。orである。(1)と(2)の両方を満たせば成果主義なのではなく、どちらか一つでも満たせば、本書が批判している成果主義なのである。本書で繰り返し指摘してきたように、この成果主義の下では必ずやシステムに起因した弊害が発生する。それは学問的に予測可能なお話なのである
 これくらい広く定義すれば、巷で「成果主義的」と賞されるすべてのシステムが批判の対象となっていることはおわかりいただけるであろう。もはや「それは本当の成果主義ではない」などという言い逃れは通用しない。要するに「成果主義」はみなダメなのである。
高橋『前掲書』pp.230-231
※ 丸付き数字を括弧付き数字にしました。


ここまで断言されるとさすがにちょっと言い過ぎじゃないかという気もしますが、ここでも「成果主義」を「構造改革」とか「地方分権」に置き換えてみても見事にあてはまりますね。ここで注目すべきは、成果主義の要件として上げられている(1)と(2)を見てお分かりのとおり、誰も否定できない実に正しい命題だということです。ところが、それをシステムにした途端機能しなくなることもある、というか機能しないことの方が多いのですよ。

コームインに成果主義を導入すべし!」、「ムダをなくせ!」、「地域のことは地域で決めさせろ!」、「構造改革が足りない」・・・すべてそれ自体をとればみなそれなりに正しいわけですが、それを企図したシステムがその目的を達成するなんてことは奇跡に近いわけです。改革というのは漸進的にしか進まないのであって、「抜本的カイカク」とかいう輩のいうことには眉唾しなければなりません。

まあ、成果主義に限らずさまざまな間違いを犯してきているのが経営者の皆さんなわけで、「役所の論理」が信用ならないというのなら、「民間感覚」とか「経営者の視点」とかどこまで信用できるのか教えていただきたいものですね。

というわけで、いかに経営者の方がが間違った判断をしているかについては、
事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?
(2009/01)
ジェフリー フェファーロバート・I. サットン

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を並行して読んでいるところなので、そのうち取り上げたいと思います。
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2009年06月28日 (日) | Edit |
すなふきんさんからいただいたトラバでちょっと気になった点がありまして、

ところが基本理念としてそのような「強い」明治国家を理想とする右派の人たちまで地方分権を唱える昨今の状況というのはどうにも理解できないところが多い。国家としての統一性を確保するためにはある程度上からの「押し付け」が必要なのだが、それを否定してしまいかねない地方分権*1を右派思想の持ち主である両知事が喧伝する不思議さがある。
(略)
分権教の本家とも言えそうな左派リベラルの人たちと橋下氏のような保守派ではいずれ軋轢が生まれるのは火を見るより明らかではないだろうか。たとえ新たな政治集団を作ってそれが政党化するようなことになっても、自民党や民主党を寄り合い所帯などと批判できないような醜態をさらすことになりかねないんじゃないかと思う。はじめからねじれがあるんだから。

■[政治]同床異夢の改革派集団(2009-06-26)」(すなふきんの雑感日記
※ 以下強調は引用者による。


という部分ですが、以前ご教示いただいたhamachan先生のエントリによると、日本ではヨーロッパとは一回りか二回りねじれた現象が常態化していると捉える必要があるかもしれません。

ヨーロッパの文脈で言う限り、補完性原理をかざして地方分権を主張し、中央集権に否定的なのはキリスト教的保守勢力の側で、労働組合や社会民主党といった陣営はおおむね中央集権派です。地方なんかに任せたら地方のボスが勝手なことをするから、ちゃんと国がコントロールしなくちゃという発想。

補完性の原理についてごく簡単に(2008年5月20日 (火))」(EU労働法政策雑記帳


地方のボスに勝手なことをさせた方が、憲法なんかでがんじがらめになるよりももっと自由に権力を行使できると考えるのが、ヨーロッパ流の保守なんでしょう。そして、それに歯止めをかけなければとんでもないことになると考えているのが、言葉の定義からしてもソーシャルな方々ということになるのではないかと。

いや、実を言えば俺自身もhamachan先生にご教示いただくまでその辺が整理できてませんでしたが、団結による交渉上の地歩の向上が至上命題のはずの労働組合が、反霞ヶ関とか反永田町というだけで分権を主張する不自然さについては、言われてみてはじめて納得した次第です。その辺をまとめてみたのが「団結=中央集権(2009/06/08(月))」というエントリだったりします。

とはいっても、今の日本を見ていると何が保守で何が左派(革新?)か分かりませんし、ことチホーブンケンはあらゆる勢力がスローガンとして掲げているのに、その内実はほとんど整理されていないわけで、hamachan先生の言葉をお借りすれば「毎度毎度ではありますが、日本の政治の世界の文脈の狂いようはなかなか絶望的なところがありますね。」としか言いようがありません。

繰り返すこのポピュリズム(2009/04/09(木))」でも書きましたが、小泉内閣が誕生した時点ですでに1回転くらいねじれていたのに、民主党党首に小沢氏が就任してからさらにそのねじれが政局絡みで加速していって、ついには右も左も誰もがみんなカイカク派になってしまったという感じでしょうか。

それをメシの種にしているマスコミだって国民のニーズを満たしているだけという認識でしょうし、もちろんそれを望んだのは国民なんですよね。『スパイダーマン』があれだけ観客を動員しているなら、J・ジョナ・ジェイムソン(Wikipedia:J. Jonah Jameson)みたいなメディアの恣意的な思惑によって、いかに事実がねじ曲げられるか多くの人が見ているはずですが、それでも辛坊某とかみの某とか福沢某とか古舘某とか、テレビに出たことのあるそのまんま某とか橋下某のいうことの方が信用されるのも、日本という国の狂いようはなかなか絶望的なところがありますね。

2009年06月25日 (木) | Edit |
チホーブンケン教がいよいよ国政に乗り出すようです。

「支持政党表明へ新グループ 大阪知事、横浜市長ら首長数十人」(2009/06/25 01:19 【共同通信】)

 大阪府の橋下徹知事は24日夜、東京都内で横浜市の中田宏市長らと会談し、次期衆院選で支持政党を表明するため、自治体の首長で構成するグループを近く立ち上げる方針を決めた。グループは数十人規模になる見通しで、参加者で協議し、どの政党を支持するかを表明するという。
(略)
 会談には2人に加え、松山市の中村時広市長と、神奈川県開成町の露木順一町長の計4人が出席。橋下知事は24日午後の記者会見で、大阪府内の市町村長では3人が態度表明に賛同していることを明らかにしていた。

※ 以下強調は引用者による。


チホーブンケン教が政治グループを立ち上げるのと、幸福実現党とか真理党とかとどこがどう違うのかよく分からないんですが、まあさすがに一度は選挙で当選した首長さんたちだけに、「カイカク!」と叫んでおけば票が集まることはよく熟知されていますね。

あくまで地方分権というのは政策を実現するための手段や制度であって、それが目的ではないわけですが、その手段が目的になるということは結局のところ、現存の制度を破壊し尽くして既得権益を奪い取るという宣戦布告にほかならないのでしょう。どこまで好戦的なのやら。

で、既得権益というとなにやらダークなイメージで語られてしまいますが、およそすべての日本国民は現存する制度から有形無形の便益を得ているわけで、それを破壊し尽くしたときにいったい誰がその権益を獲得するのかという不毛な権益争いが始まることは火を見るより明らかですね。チホーブンケン教がやろうとしていることが制度の破壊(霞ヶ関の解体とか)であるならば、その後に必然的に生じる不毛な権益争いをどのように防ぐなり調整するのか、という点を明確にしなければ無責任極まりありません。

というより、地方分権という手段しかコンセンサスがないのに、その後の具体的な権益の分け前を巡る不毛な権益争いを防ぐことができるわけがありませんね。たとえば民主党では市町村数を300にするとかいっていたのに、大阪府知事の批判を受けて700~800に修正するそうで、バナナのたたき売りじゃないんですから。

まあ、改革派知事とかってのは、そうやって不毛な権益争いそのものを「地方間競争」といって正当化するような方々でもあるわけで、むしろそのような権益争いに勝てると踏んだ大阪府や横浜市といった大都市がチホーブンケン教の旗振り役をするのは自然なことなのかもしれません。となると、この会談に同席したという松山市長とか神奈川県開成町長は、チホーブンケン商法の単なる被害者というべきでしょうか。その意味では、「意思疎通ができてる」とか言い張る宮崎県知事も大都市の首長さん方とは同床異夢である可能性は高いですな。

というわけで、すなふきんさんからいただいたTBでこうおっしゃる点にこそ、まともな感覚を持った方々は危機感を抱かなければならないのではないかと。

そういえばこういうパターンは過去にもあったんじゃないだろうか。小泉フィーバーの郵政民営化騒動の時と何やら似ている。今度は地方分権を錦の御旗に掲げて世論を煽るというところか。そして相変わらず国民生活の本当のツボである景気問題はそっちのけで地方分権騒動で盛り上がることになるんだろう。だいたいなんでマクロ的な経済イシューを優先すべき時期に地方分権にうつつを抜かさねばならないのかさっぱりわからないのだが、所詮はそれがわが国の政治的限界なのかもしれない。
(略)
しかしどちらにせよ、「とにかく何かが変わったらいいことあるだろう」みたいな子供じみた希望的観測ばかりが蔓延してるとしたら、自民党がなめられてるとか他人事みたいに言ってる資格なんてないと思うんだけどなあ。本当になめられてるのは国民自身かもしれないじゃないか

■[政治]そのまんま東騒動~手の込んだ工作説について(2009-06-25)」(すなふきんの雑感日記


チホーブンケン商法というか、カイカク商法というか、それなんて霊感商法?
被害者の会でも結成すべきでしょうかねえ。

(追記)
そういえば、

日テレNEWS24「東国原知事「橋下知事と理念は同じ」<6/25 21:03> 」

東国原知事は「橋下さんからは一緒にやってほしいと依頼が来てますから、どういう形でやっていくか。地方分権・地方主権を勝ち取りたいんです。そのためにどうやっていくのか、考えていくのか。橋下さんだけでなく、全国の首長、国民の皆さんに問いたいです。今回の選挙をどう思っているか。これは地方分権選挙なんですよ。(Q前向きだと?)条件がそろえば、理念は一緒ですから、手法をどうするか、今後詰めないといけない。自民党内にも改革派はたくさんいると思うので、このままの自民党ではダメだと強く思っている人もいると思うので、ぜひ決起していただきたい」と述べ、地方分権を目指す方向は橋下知事と一致しているとした上で、地方分権をどのように実現していくかが重要だと強調した。


だそうで、拙エントリでの「地方分権という手段しかコンセンサスがないのに、その後の具体的な権益の分け前を巡る不毛な権益争いを防ぐことができるわけがありません」という指摘に、ご本人からお墨付きをいただきました。ありがとうございます。

GJ!
2009年06月24日 (水) | Edit |
なんだか大騒ぎになってるみたいですが、

asahi.com「「722分の1にならぬ」 東国原知事、気持ちは国政へ(1/2ページ)」(2009年6月24日5時22分)

 窮余の策でタレント知事にすがる自民党、国政に躍り出たい東国原英夫・宮崎県知事。思惑が一致して実現したはずの会談で、知事側が自民党に突きつけた条件が「総裁候補にすること」。足元を見られた自民党内からは憤りを通り越し、「そこまでなめられたか」と嘆く声が漏れた。
(略)
 古賀氏の要請に、東国原氏は「党の体質を変えていただかないと、国民の支持は得られない」などと語り、受諾条件として「私が次期総裁候補として、自民党は次の選挙を戦うご覚悟があるか」。この問いかけに古賀氏は険しい表情を浮かべ返答しなかった。

※ 以下強調は引用者による。

asahi.com「「722分の1にならぬ」 東国原知事、気持ちは国政へ(1/2ページ)」(2009年6月24日5時22分)

 「宮崎だけじゃなく全国の地方に、軸足をおいた政治をやりたいと」「(衆参両院議員の)722分の1、1年生議員になろうとは思わない」

 東国原氏は会談後に出演した民放の番組でこう語った。気持ちは早くも国会議員、首相に向かっていた。
(略)
 東国原氏が国政に色気を見せてきたことについて、周辺では「本気で地方分権をやりたいからだ」との好意的な見方がある一方、「東京に戻りたいからではないか」との声も絶えない。実際、昨年度の県外出張は公務、政務合わせて計138日で、ほぼ3日に1日。テレビ出演や収録は週末恒例となっている。(岩尾真宏、石田一光)


そうそう、そのまんま東氏がおっしゃるように、チホーブンケン教の皆さんの言ってることって結局は国政問題なんですよね。地方に軸足をおこうがなんだろうが、「地方」というのはあくまで日本という単一国家の一部であって、チホーブンケン教が国政に出たがるというのは何も不思議なことはありません。

ところが、それに対して地元住民の反応はというと、今朝の「朝ズバ」なんかみてると「まだ地元でがんばってほしい」とか言ってる方もいて、「地域のことは地域で決める」とか刷り込まれてしまうと「知事には国政に出てほしくない」とかいう自家撞着に陥ってしまうのでしょう。

それよりも、今回のドタバタ劇の収穫は、国政経験もなく、地方自治体の長として2年程度の実務経験(あくまで「経営者目線」ではありますが)しかない方が、「私が次期総裁候補として、自民党は次の選挙を戦うご覚悟があるか」とまでいえるほどに、今の日本が狂乱状態にあることを示してくれたことでしょう。まともな感覚を持った方なら、こういうことを堂々と発言する人物がトップにいる地方自治体が増えている現状や、それに国政の側がすり寄っていく構図をこれだけまざまざと見せつけられたら何か気付くのではないかと。

という意味で、古賀誠選対委員長グッジョブ!

まあ、それでも一部の方しか気付かないからこその狂乱状態なのですけどね。

2009年06月14日 (日) | Edit |
Google リーダー使って自分のブログも登録してみたんですけど、労働ネタについて書くとイチオシに共産党や社民党の代議士さんのサイトが表示されるんですね。小島寛之先生によればGoogleはベイズ推定でサイトを関連づけるそうですが、「労働」というだけで党派性があるように判断されてしまうところが象徴的です。

改めて書くまでもなく拙ブログは左派思想には懐疑的な立場ですので、共産党や社民党、さらにそれらと共闘する民主党の政策に賛同するようなことはほとんど書いてないんですよね。かといって自民党に肩入れするようなことも書いてませんけど、「労働」という言葉が(特定の)党派制を帯びてしまうというのではおちおちエントリもアップできませんな。

そんなこともあってか拙ブログでも反応の薄い集団的労使関係ですが、党派性にとらわれずに考えてみようとするなら、端的に言えば「労働組合は誰の利益を代表しているんだろう?」と考えてみるとわかりやすいのではないかなと思います。そこから、例えば「いま派遣切りが問題となっている企業の労働組合や地域ユニオンなどを保護することによって、どんな労働者が救われるんだろうか?」と論を進めてみれば、日本の集団的労使関係が本来の機能を失っていることには異論がないでしょう。

そうすると次に、「集団的労使関係の担い手である労働組合の交渉力が低下しているのは、思想集団と化した労働組合の自業自得なんだろうか?」という問いが立てられると思います。この問いについて考えるためには、戦時体制で企業別に組織された産業報国会を活用する形で戦後占領下のGHQが労働組合結成を促した経緯(このため、日本の伝統的な労働組合は当時「ポツダム組合」と呼ばれました)や、労働組合法が昭和25年、27年と改正されたときにどのような不当労働行為法理が盛り込まれたかをきちんと押さえておく必要があります。

といいつつ細かい経緯は省略しますが、このとき、アメリカのワグナー・タフトハートレー法と同様に行政委員会(労働委員会)による不当労働行為審査や労働関係調整のシステムを導入しながら、その一方で、単一の組合にのみ交渉権を認める排他的交渉権や労働組合の不当労働行為(使用者との交渉を正当な理由なく拒否する等)は導入されませんでした。このため、日本の集団的労使関係においては単一の使用者に対して複数の労働組合が交渉権を有することとなり、その結果として、団結して交渉力を高めるはずの労働組合が少数組合に分断されてしまったわけです。

というわけで、労働組合を保護するはずの労働組合法や労働委員会が、労働組合を分断化させてしまってその交渉力を弱体化させているというのが、日本の集団的労使関係の特徴となります。本来であれば、弱体化された労働組合の側からそのような制度を改正するよう求めるべきですが、労働組合側はそうしませんでした。なぜなら、そのような分断化された労働組合を認めなければ、現存している少数組合が存在できなくなるからです。そのような交渉力の弱体化と引き替えに、自らの組織を維持することを正当化する労働組合側の論理が、「交渉権の人権的把握」だったわけです。

「交渉権の人権的把握」というと難しい言い方に思われるかもしれませんが、簡単に言えば、すべての労働組合(労働者)には団結する「人権」があるはずだとして、団結による交渉力をかえって低下させようがお構いなく少数組合を認めるべきだということですね。憲法第28条の労働三権の一つである交渉権は、その趣旨からすれば労働者の利益を代表しなければ意味がないのに、憲法第21条第1項の結社の自由とはき違えられてしまっているわけです。例えば、2008年2月に品川プリンスホテルでの日教組が大会開催を拒否されたとき、日教組側が「結社の自由」を根拠に抗議していたのが象徴的です。

結局のところ、日本の集団的労使関係における労働組合は、労使関係の一方の対に労働者の利益をまとめるのではなく特定の企業内の身分保障にその機能を特化してしまっているわけです。つまり、企業内の身分保障が正規雇用にのみ及ぶものである以上、必然的に労働組合は正規雇用の利益しか代表できなくなってしまうからです。そして、複数の労働組合に交渉権を認めた労組法と、労働委員会が一部の労働者の利益しか代表しない少数組合をも不当労働行為で保護することによって、そのような労働組合のあり方がお墨付きを与えられたということになります。

というわけで、「交渉権の人権的把握」によって少数組合の存在を正当化したのは確かに労働組合であって、その意味では自業自得ではありますが、それを認めてきたのは労組法だったり労働委員会という行政委員会制度でした。そしてそれは、「少数組合を保護せよ!」という日本の左派陣営特有の主張によってもたらされた帰結でもあったわけで、労働組合だけの自業自得というよりは、戦後の日本の労働史観とでもいうものがあまりに労使対立路線と個別の組合保護に偏重していたことの結果だったように思います。

このような現状認識からスタートすれば、現在の集団的労使関係における喫緊の問題というのは、少数組合が存在するために生じる交渉権の輻輳化や、複数組合間での労労対立だということがご理解できるのではないかと思います。株主と使用者と労働者という三者の関係において、労働者だけがその利害を統一することができないために自らの利益を守ることができずにいます。にもかかわらず、ここ数年来偽装請負だのワーキングプアだのという問題が叫ばれることはあっても、労働者の利益保護システムとしての集団的労使関係が華麗にスルーされるというのは、やはり党派性の問題が大きいんでしょうかね。

今回はイチオシにどの党の代議士さんが表示されるんだろうなぁ。

2009年06月08日 (月) | Edit |
kumakuma1967さんとのやりとりの中でこちらの考えがちょっとまとまってきたような気がしますので、とりあえずの今の考えについてメモ書きをしておきます。

というのも、普段は「チホーブンケン教が連帯だの家族だのいうのは胡散臭い」とか「民意至上主義はロクなことにならない」とか書いている割に、集団的労使関係の担い手である労働組合には過度に期待しているんじゃないかとか思われそうだし、自分自身も頭の整理のためにまとめておいたほうがいいように思ったもので。

まあ、ざっと結論から書いていけば、利益集団としての労働組合であれば連帯することも可能だよねということなわけですが、拙ブログでさんざん書いたとおり、労働組合が思想集団に化してしまった現在では、その意味での連帯は難しいだろうとは思います。しかも、民主的に運営されることが要求されるという労働組合の性格上、労働組合の思想集団化を阻止することは困難だと思います。

具体的には、労組法第5条第2項第3号で、

連合団体である労働組合以外の労働組合(以下「単位労働組合」という。)の組合員は、その労働組合のすべての問題に参与する権利及び均等の取扱を受ける権利を有すること。


と規定されているために、まさに「民意」なるものが直接に単位労働組合の意志決定を規定してしまうわけです。往々にして間違う「民意」によって運営される単位労働組合が、利益集団として自らの利益をきちんと把握できるとは到底考えられないわけで、いったん間違ってしまうとその軌道修正は恐ろしく難しいものとなり、それを糊塗するために思想的な理由付けに走ってしまうように思います。

そういった意味では、単位労働組合が企業が倒産しかねない程度に賃上げを要求したり、労働者保護のためには逆効果となるような要求をしてしまうことは不可避かもしれません。しかし、だからといってすぐに公権力が労使自治の現場に介入すべきとするのは早計です。単位組合では適切な要求水準に関する判断を行う人的リソースや情報に乏しいとしても、それが産業別、職業別に組織されていけばそのリソースを集積することが可能になります。

したがって、単位労働組合の暴走を防ぐ機能は第一義的に単位組合で構成されるナショナルセンターが有するべきだと考えます。今回のGMの経営破綻でも、労側の交渉当事者はUAW(Wikipedia:全米自動車労働組合)だったわけで、アメリカでは単位組合が闇雲な要求をするのを産業別組合が統制していたのではないかと思います。

ということで、kumakuma1967さんが、

労が勝てば際限なき資本の食いつぶしが起き、使が勝てば際限なきブラック企業化が進む、といった未来にはあまり夢がないですよね。
一方にバランスが崩れた時に、一層バランスが崩れる方にいっちゃいそうです。
2009/06/07(日) 20:38:07 | URL | kumakuma1967 #Zki5p3.2 [ 編集 ]
株主と経営者と労働者(2009/06/05(金))」コメント欄


とおっしゃる点については、個人的には、ナショナルセンターや産別組合が全体的な労働者を代表する立場から企業と交渉に当たることで、ある程度は回避できるように思います。確認は取れてませんが下記の藤原氏のレポートによれば、割引現在価値でマイナスにもなるような労働債権を設定した当時の経営者と交渉に当たっていたのは、GMの単位組合ではなかったかと思います。経営破綻が不可避という事態になって本格的にUAWが乗り込み、今回の破綻スキームをとりまとめたのでしょう。

 Leadership unions は、賃金、ベネフィット、労働条件等について、membership unions の利益を代表して企業経営側と団体交渉を行うが、賃金等について全社横並びを維持するだけの力はもはやない。たとえば、航空パイロットは、Airline Pilots Association International というleadershipunions を結成しているが、彼らの実際の賃金は、各航空会社毎の労使交渉で決まっていく。労使交渉の前面に立ち、プレゼンスを強調して社会に向かってアピールするのはAPAI ではあるが、交渉結果は、航空会社ごとに異なっているのである。
 このようにしてみると、産業横断的、職業横断的なleadership unions は、あくまでも緩い結合体であり、個別労組であるmembership unions を支援はするものの、それら個別労組の労使交渉の内容まで統一することはできない。むしろ、実質的には、それぞれのmembership unions の労使交渉を側面からサポートしているといった方が適切と思われる。
EBRI Fellow 藤原清明「アメリカの労働組合の現状(未定稿)(2002年12月12日、注:pdfファイルです)」p.12"Website管理人 EBRI Fellow 藤原清明"のページ


もちろん、ナショナルセンターや産別組合が必ずしも適正な利益配分やリスク負担を実現できる保障はありませんので、労使当事者の対立が深刻化したときには公権力が介入する必要があります。日本でいえば、労働関係調整法で規定するあっせん・調停・仲裁によって公権力が労使自治の現場に介入することが可能です。これらの手続きは原則として申請主義ですが、強制力のないあっせん・調停に関しては、当事者申請がなくても労働委員会の職権や総理大臣や知事の要請によって調整活動を開始することが可能となっています。強制力がないから介入できるというパラドクシカルな規定こそが、労使自治を尊重しているわけですね。

というわけで当エントリの当初の目的に戻ると、集団的労使関係において適切な利益配分を実現するためには、労使双方においてその判断が可能な人材と情報を集約することが必要であり、それは間違っても単位組合に分権することではないと思います。「集団的労使関係こそが公権力の介入を押しとどめて分権的な市場原理を労使関係にもちこむ基本原理となっている」わけですが、その担い手までもが分権される必要はありません。担い手が集権的であっても結果的に分権的な意志決定がもたらされることもあるというのは、オーツの分権化定理が示すことでもありますし、労働組合というのは団結することで交渉力を高めるものですから。

ただまあいつもの繰り返しになりますが、労働組合が支持する野党連中はおろか、当の労働組合までもが「チホーブンケン!」とか叫んでいて、頭を抱えてしまうんですよね。

2009年06月05日 (金) | Edit |
性懲りもなく集団的労使関係のエントリが続いてしまいますが、kumakuma1967さんのエントリで、

GMが「やっと」チャプター11を申請した。

一部新聞は「労組が強すぎた」からGMは力を失ったみたいな事を書いていたが、そうなんだろうか?GMの経営者が言ってるんじゃなくて、株式投資をする人がよく買う新聞が社の意見として出してるんだけど、なんかヘン

株式投資をする立場から見ると、それならば20年前にすでにGMは破綻してないといけなかったんじゃないのかな?

労組との交渉の結果、経営側が譲歩した。そういう事実はあるが、はるか昔の話だよね。そのために資本のほとんどが支払い予定の後払い賃金となってしまってたのは多分10年以上前でしょ。その時点で、払いきれないなら破綻だろうし、支援者を見つけて立ち直れるのなら増資だろうし。

(略)

「労組が強すぎた」というより、経営側が「自らの弱さを認められなかった」、だから、従業員/退職者から金を借りて操業維持するしかできなかった。あるいは別の言い方をすれば、「経営が弱すぎた」んじゃないかなぁ

「労組が強すぎるから」、なんて、経理も営業も製造も担当しないで人事総務畑だけ歩いてきて自社の良い所も悪い所も見えずに経営者になった人*2が「ぼくわるくないもん」のかわりに言いそうなセリフだよなぁ。*3

会社を経営するってすごく大変な事だと思うけど、「労組が強すぎる」とまとめちゃうと、「経営者は悪くない」みたいなヘンな甘やかしになるんじゃないだろうか。

*2:敗戦処理投手に見える

*3:逆境の会社の株買って、状況が好転すれば儲かるから投資家は金出すんでしょ。投資家にとっては状況が改善するかどうかが問題なんじゃないのかなぁ。投資先の経営者がそういう事言ったら損切り検討しなくちゃいかんのだけど。

■[society]労組が強かったのかなぁ(2009-06-03)」(くまくまことkumakuma1967の出来損ない日記
※ 以下強調は引用者による。


とおっしゃっていることは、前回エントリで指摘した「株主とそれに対抗する労働組合というステイクホルダー」に対峙する経営者という三者の関係について、株主の立場から指摘されているように思います。結局のところ、経営悪化時におけるリスク配分とは、最終的なリスクを負いながら経営にあたる経営者が、自らの企業が稼いだ利益剰余金を株主と労働組合という相対立するステイクホルダー間でどのように配分するかという問題に行き当たるのではないかと。

もちろん、建前上は株主総会で配当が決められるわけで経営者が配分についてのすべての権限を有しているわけではありませんが、企業内部に限れば、経営者と労働者の利益配分については経営者が「労働条件決定権」という権限を有していることになります。kumakuma1967さんがおっしゃるのは、その企業内部の配分についてはすでに10年以上前から経営者よりも労働者の方がより多くの配分を獲得していたのだから、実際は「労組が強い」のではなく「経営が弱すぎた」のではないかということかと思います。

ここで注意すべきなのは、kumakuma1967さんが明言されているように「経営が弱すぎた」のは「株式投資をする立場」からの評価だということでしょう。本来の企業所有者(プリンシパル)である株主からすれば、エージェントである経営者が企業内部の配分を失敗したように見えるのでしょうけど、それは企業内の利益配分システムとしての集団的労使関係の領域において、株主に対抗するステイクホルダーである労働組合が本来の機能を果たしたに過ぎないともいえます。

特に経営悪化時においては、株主配当と労働者人件費はトレードオフの関係にある以上、どちらかが多ければ他方は少なくなるわけで、それを「投資家にとっては状況が改善するかどうかが問題」として考えたとき、労働者に対する配分が多いことがどう影響するかというのは一概には判断できないのではないかと。というか、株主はそれを含めて投資の判断をする必要があるんでしょうね。

と考えてみると、反共の牙城であるアメリカにおいて労働組合が本来の機能を果たす一方で、戦後長らくアカデミズムや論壇の左派思想が労働運動を支えていた日本において集団的労使関係が絶滅の危機に瀕しているというのは、なかなか理解し難い現象です。

ただまあ、株主配当が増えれば「大企業が弱者から搾取している」と騒いで、労組が配分を獲得すれば「労働貴族が暴利をむさぼっている」とか騒ぐようなマスコミしかないという現状を見れば、そんな日本の光景になんとなく納得してしまいますが。

2009年06月02日 (火) | Edit |
というわけで、阿久根市長選の続報があったようで、さすが「住民至上主義」を掲げる現職市長が再選を果たしたとの由(拙ブログのこちらのエントリにもアクセスが急増してますね)。で、さっそく阿久根市では「住民至上主義」による信任を得て、不当労働行為なんですけど的な感じでお送りしてますみたいな!宣言がされています。

「阿久根市長:市職労の退去を近く要求」(毎日新聞 2009年6月1日 21時46分)

 鹿児島県阿久根市の出直し市長選で再選を果たした竹原信一市長(50)は1日、初登庁後の記者会見で市職員労働組合(落正志委員長、203人)に対し、市役所敷地からの事務所退去を近く要求する意向を示した。市長は市職労について、市、議会との癒着などが人件費高騰を招いたなどとかねて批判。事務所退去は選挙公約の一つだった。

 竹原市長は会見で、「(市職労加盟の)自治労は、市民の税金を不当に使うことばかりしている背任組織」と激しく非難。撤去要求の時期について「早くしたい」と述べた。市職労の落委員長は「職員全員を追い出すということか」と話している。【馬場茂】

※ 以下強調は引用者による。


集団的労使関係を真っ向から否定するとこういうことになるんですね。

ところが、地方自治体では地公法が適用される非現業職員(いわゆる普通の役人)と地公労法が適用される現業職員(水道業などの公営企業の職員や単純労務を担当する職員など)が混在しているため、地方公共団体の「労働組合」は地公法上の「職員団体」と労組法上の「労働組合」の二つの側面を有することになり、不当労働行為の審査ではいわゆる「混合組合」と呼ばれます。そしてその「混合組合」に対しては、基本的に労組法上の保護が及びません。

というのは、地方公共団体の「混合組合」については、そもそも労組法上の不当労働行為の救済申し立てを行う申立人適格が認められないため、不当労働行為の審査では門前払いされてしまうからです。実際の命令例を見ても、「混合組合」には申立人適格が認められないとした上で、救済利益についても、事務所の貸与拒否が労組法第7条第3号で禁止される支配介入には該当しないとする例が多くなっています(「門真市/門真市教育委員会事件(中労委 平成16年(不再)第61号)」など。リンク先の判定要旨が途中までになっています)。

このように集団的労使関係を真っ向から否定することが許されてしまう公務員を見ていたら、集団的労使関係によって保護されているのは人権や思想信条なんてものではなく、まさに生々しい労働者の利益だということが分かるのではないかと。そのために、公務員の労働条件決定システムとして人事院とか人事委員会という代替機関があるわけですが、それもあってか、どうもコームインの方々にとっては外部の機関が労働者の利益配分を保護することが当たり前だという感覚になってしまっている感があります。

というのも、誘致企業が撤退や合理化を発表して、従業員に対して希望退職とか配置転換を募るということがわかると、地元自治体は撤退や合理化の撤回を求めてその企業に「要請」なんかするんですよね。しかし、本来なら企業の撤退や合理化はそれぞれの企業の労使が適正な規模や態様を判断するしかないわけで、それを外部の、しかも会社経営もしたことのないコームイン風情がとやかくいう筋合いなんてありません。特に現下のような厳しい経済情勢では、個別の企業の労使がそれぞれの実情に応じて適正な利益配分やリスク負担を決定することが求められているのであって、それこそが集団的労使関係にほかならないわけです。

ところが日本では、思想集団と化してしまった労働組合や左派政党が、そういった利益配分のための集団的労使関係の主体となることを放棄して久しい状態が続いています。そういった思想集団が利益配分やリスク負担といった生々しい議論をさけるのは当然かもしれませんが、それで労働者の利益が失われてしまうのであれば、なんのための労働組合なのか、なんのためのソーシャルなのかと問わざるを得なくなります。

端的にいえば、HR(Human Resource)ジャーナリストを自任される海老原氏の著書が指摘するこの点こそが、集団的労使関係の領域になるはずです。

 もし、配当や社内留保を極端に下げて人件費に回したら、株価は下がり、資金繰りにも困り、経営の安定性もなくなる。その結果、経営不振になったら、誰が助けてくれるのか。そのことを企業「儲けすぎ」論者に問いたい。また、株式持ち合い中心のかつての日本型に戻れ、という人には、その結果、経営の透明性が薄まり、不良資産の査定が困難となって、企業の経営状況に社会全体が疑心暗鬼になることは、果たしてよいことなのか、と問いたい。
 最後になるが、株主の目と業績不振を必要以上に恐れる企業経営者へ。07年の配当と内部留保をせめて1割程度減らすことはできなかったのか。多分、EPS方式で算定した株価は1割下がる程度で、このくらいならハゲタカからの防衛も可能だろう。その結果、約2兆5000億円の余資ができる。これは、年収250万円の非正規労働者100万人分の給料にあたる
p.98

雇用の常識「本当に見えるウソ」雇用の常識「本当に見えるウソ」
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法人資本主義』で株主重視を主張したのが左派陣営だったことを思い起こせば何とも皮肉な事態ですが、ここで注意しなければいけないのは、「株主の目」に対抗するステークホルダーが不在だということです。付加価値(剰余金)の配分を巡って、より大きな配当を求める株主と対抗できるだけの労働組合が利益配分を要求しなければ、経営者が自らの裁量によって配当に偏重した利益配分を行うことは当然の帰結です。いくら「配当と内部留保をせめて1割程度減らすことはできなかったのか」と部外者が言ったところで、企業経営のリスクを負う経営者が業績不振の回避と資金源としての株主を重視するインセンティブに影響はないでしょう。

まあ、それを「社会的責任」と定義して企業の評判を上げる社会的な同調圧力にしてしまう「CSR」という政策もあるわけで、その意味では政府が声を上げることに効果がないとは言い切れないかもしれません。

 さあ、どうでしょう。愛される企業、コンプライアンスといった言い回しはCSRを適切に表現しえているでしょうか。ここに書いてあることがいかにビジネスの常識にとって挑戦的であるか。だって、要すれば技能の低い者を採用せよって言っているんですよ。長期失業の若者の問題を解決するためには、この「非常識」な対応が求められたのです。明らかに企業の短期的利益と衝突します。アメリカ企業は「ベストアンドブライテスト」の人材を集め、利益を極大化し、そしてその一部を社会貢献にまわします。でも、ヨーロッパのCSRはちがうのです。社会的排除の問題を軽減するために利益を犠牲にして能力の劣る人間を雇おうという、そういう運動だったのです。CSRとはそれほど革新的な形で登場した概念なのです

「企業の公共政策」としてのCSR(2007年12月24日)」(藤井敏彦の「CSRの本質」


ならば、だからこそヨーロッパ並みの集団的労使関係の構築が重要だという結論になるように思うわけです。

※ 6/4文言修正しました。

2009年06月02日 (火) | Edit |
先週に引き続き、フジテレビ「報道2001」では個人的に信頼度が高い権丈先生が登場されていましたが、トイメンの岡田幹事長でしたっけ、民主党の代表経験者の会話を成り立たせない原理主義に薄ら寒くなってしまいました。

それより遙かに悪質だったのは、「要するに一言で言えば?」とか執拗に聞いてくる黒岩アナ。権丈先生が「一言で言えないところに年金問題の難しさがある」というような答えでかわそうとしても、「それじゃダメだ! 一言で今の制度は変えなくていいんですか? ダメなんですか?」って、芸能レポーターよりタチが悪いですな。田原総一朗の向こうを張っているつもりかもしれないけど、劣化しまくりのエピゴーネンで終わっているところが痛々しい。

まあ、菊池誠先生がいみじくも「まん延するニセ科学」について指摘されているように、

しかし、仮に、科学者に、『マイナスのイオンは身体にいいのですか』とたずねてみても、そのような単純な二分法では答えてくれないはずです。

『マイナスのイオンといってもいろいろあるので、中には身体にいいものも悪いものもあるでしょうし、身体にいいといっても取りすぎればなにか悪いことも起きるでしょうし、ぶつぶつ……』と、まあ、歯切れの悪い答えしか返ってこないでしょう。

それが科学的な誠実さだからしょうがないのです。

視点・論点「まん延するニセ科学」(2006-12-21 (木))」(うしとみ!
※ 以下強調は引用者による。


というわけで、権丈先生の誠実な社会科学者としての回答に対してマジギレしているようでは、黒岩アナが自らの無能ぶりを晒すことにしかならないわけで、まあ知ったこっちゃありませんけど。