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2009年05月28日 (木) | Edit |
厚労省の分割がにわかに本格化しているわけですが、

NIKKEI NET:政治: 厚労省分割問題、政府・与党で足並みに乱れ(2009/05/27付け)
 政府・与党内で26日、厚生労働省の分割問題を巡る足並みの乱れが浮き彫りになった。麻生太郎首相の構想への慎重論が強く、29日の経済財政諮問会議では基本方針案だけを決める方向で調整している。

 河村建夫官房長官は26日の6閣僚協議で、「社会保障省」と「国民生活省」に2分割する首相構想は示さなかった。厚労省所管の保育園と文部科学省所管の幼稚園を一体にした再編を警戒する塩谷立文科相は「一緒にやればいいという問題ではない」と力説。舛添要一厚労相は「拙速な議論はよくない」と同調した。参院予算委員会では「分割するなら2つではなく3つ」と述べた。

 自民、公明両党が同日それぞれ開いた会合でも「議論が唐突」「なぜ国土交通省などを放置して厚労省だけを分割するのか」との反論が出た。(07:00)

※ 強調は引用者による。


まあ、政治家の皆さんにはそれぞれ思惑はあるんでしょうけど、これも結局のところおなじみの「自前の組織をいじっておいてカイカクしたアリバイを作っておく」というカイカクオリエンテッドな姿勢についてのリスクヘッジ効果を狙っているわけです。

霞ヶ関だとピンとこないという方でも、身近な地方自治体でコロコロ組織の名前が変わったりくっついたり離れたりするのはよく目にしているのではないかと。特に、「カイカク派」を掲げて当選した首長なんかだと、まず間違いなく「役人を変えなければいけない」とか「お役所仕事の一掃」とか言ってガラガラと変えてしまいます。

俺自身も、異動が早めなのもあるけど同じ名刺が3年と使えた試しがありません。「不断的な見直し」とかなんだで組織が変わるので、住民の方に「すみませんがまた組織が変わって担当も変わったんですよ」と毎年名刺を配る羽目になるわけで、「コロコロ変わりすぎてわけわかんねーな」といわれるたびに何が住民サービスかよくわからなくなりますね。

厚労省の話に戻って、そもそもの話からすれば、社会保障と労働というのが表裏一体の関係にある以上、社会保障を担う厚生省と労働政策を担う労働省をくっつけるのはそれなりの理由があると思うんで、「大臣が忙しいから」という属人的なリソースの問題を組織の編成問題に帰着させる必要はないんではないかと。

それより、個人的に気になったのは、ちょくちょく取り上げさせていただいている麻生総理の主席首相補佐官である岡本全勝氏こそが、現在にいたる省庁再編を担当していたということ*1

明治時代に内閣制度ができて以来、初めての本格的省庁改革でした。また、単に数を減らすだけでなく、政治主導、政策評価、独立行政法人など、行政システムの改革でもありました。戦後いくつかの行政改革がありましたが、もっとも成功した例でしょう
本書では、今回の改革の概要と、またなぜ改革が成功したかを解説してあります
省庁改革の現場から」(岡本全勝のページ
※ 強調は引用者による。


ううむ、今度はなぜ失敗したかを解説していただかなければならないんでしょうか。

もちろん、今回の話が岡本氏の発案によるものかは分かりませんし、もしかしたら忸怩たる思いで今回の話を聞いているのかもしれませんが、以前はあんなに自信満々だった主張を改めなければならないというのは辛いことに変わりありません。自戒を込めて心中お察しします。

それにしても中谷巌先生とか、西尾勝先生とか、時流に乗って改革の先頭に立っていた方が、この不景気にあたってその主張が間違っていたと懺悔したり、その実効性に迷ったりしているお姿というのは、不景気の威力をまざまざと見せつけられる思いです。いやまあ、いろいろ書いてはみましたが、労務屋さんのこの言葉がすべてを語っているわけですけどね。

いや別に「毛嫌い」しているわけではないんですけどね。繰り返し申し上げているように『大失業』の印象が悪すぎるというか、山田氏は1999年の『大失業-雇用崩壊の衝撃』の米国型から、2007年の『ワーク・フェア-雇用劣化・階層社会からの脱却』の欧州型へと華麗なる「大転換」を遂げられましたが、これについてなんのご説明もないなあ、と思っているわけです。ということは、また情勢が変わって、世間の関心や論調が変われば、またしても米国型に大転換されるのではないか、と思わざるを得ないわけで、一言で言えば信用できないわけですね
2009-05-27 hamachan先生」(吐息の日々~労働日誌~
※ 強調は引用者による。






*1 ついでに、江田けんじもかんでますね。
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2009年05月24日 (日) | Edit |
今朝のクルーグマンvs与謝野の対談見逃した~!最後のところをチラッと見ただけでしたが、与謝野大臣が「クルーグマンの著書と自分のやっていることが合っているか常にチェックしている」というような発言をしているのを見て、「インタゲを「悪魔の政策」と決めつけてたくせにウソつけ!」と思ってしまいましたが、いやまあ本気ならまことに喜ばしい限りです。



(追記:
新報道2001 与謝野大臣とクルーグマン教授の対談(2009-05-24)」(Kittens flewby me)に全文が掲載されているようです。吉川先生も同席してたんですか。それにしても、与謝野大臣の発言は本気とも何ともいえない微妙な感じですねえ。)



そんなクルーグマン問題(?)についても宮崎・若田部・飯田対談で取り上げている『Voice』の6月号ですが、いろいろな立場の論者が目白押しで、ブログでもよく取り上げられていますね。
Voice (ボイス) 2009年 06月号 [雑誌]Voice (ボイス) 2009年 06月号 [雑誌]
(2009/05/09)
不明

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経済関連の記事についてはほかの経済系ブログにお任せするとして、拙ブログとしてはやはりチホーブンケン教の対談を取り上げるべきでしょう*1

国の直轄事業の地方負担金押し付けは許さない 霞が関の通達「開封は不要」
橋下徹〈対談〉江口克彦154p
http://www.php.co.jp/magazine/voice/(注:リンク先はトップページです)


もうほとんどカルトの域に達しているともいえるチホーブンケン教ですが、TV弁護士知事と道州制バ○によるこの対談もキレまくりですな。まずは大阪府知事が「無能な働き者」と「無能な怠け者」が呼応し合う場面*2を強調します。

橋下:
 ただ公務員とは不思議なもので、私が「支払わない」と方針を固めると、「これはやめましょう」と進言してくれる動きが出てきました。公務員自体は一組織の一担当者ですから、自分で大きな決断を下すことはできません。そこで私が知事として決断を下すと、あとはそれに向けていろいろアイデアを出してくれるのです。
 そもそも私には大物政治家との人脈もなければ、各界に対する政治力もありません。だから一般国民の感覚で不自然に感じたことは、どんどん問題提起してメディアに取り上げてもらうしかない。そうして国民が関心を持つもためのきっかけづくりをするのです。直轄事業の負担金にしても、今回のようにメディアで盛んに取り上げられるようになれば、あとは大先輩の知事さんが、どんどん中身のある議論をしてくださいます
『上記対談』p.155
※ 以下強調は引用者による。


前段については何も不思議なことはありませんよ。最強の人事権を持った知事が指示を出しているんですから、そりゃ権力関係で絶対的上位の方からの職務命令には従わざるを得ませんよね。一世代前の「改革派知事」がいた県庁の担当者と話したりすると「改革派知事」退任後の深刻な混乱ぶりが伝わってきますが、大阪府庁はその意味で90年代以降かなり痛めつけられているわけで、橋下知事が指摘するような動きはすでに処世術として確立しているのかもしれません。

後段については、まああからさまなポピュリズムであっても「一般国民の感覚」といえば許されてしまう政治状況を上手く利用していると評価すべきなんでしょう。

で、官僚がうぬぼれているとあげつらって優越感に浸る弁護士と企業戦士のお話が続きます。

橋下:
 私は行政の長を一年間努めるなかで、霞ヶ関が日本で突出して優秀な人々の集団とは、全く思いませんでした。民間や地方など、日本全国に散らばっている優秀な国民の叡智を結集させたほうが、よほどよいものができます。先に江口さんは「霞ヶ関官僚が地方を見下している」といわれましたが、霞ヶ関官僚は、そんな認識の誤りを認めるべきです。

江口:
 現役の霞ヶ関官僚は明らかに自惚れています。ただ官僚のOBのなかには、今の霞ヶ関を非常に冷めた目で見ている人もいる。ある官僚OBなど「今の霞ヶ関の若い官僚は、正直いって残りカスなんです」といっていました。かつてキャリアの応募には二万五〇〇〇人が集まりましたが、現在は一万五〇〇〇人ほどに減っている。東大でいえばトップクラスは外資系企業に行ったりして、キャリアに応募してくるのは二番目クラスの人たちだといいます。
 官僚の質が非常に落ちているにもかかわらず、自分たちこそが日本を動かす最も優秀な集団だと自惚れすぎている。そんな人々の価値観が、日本の閉塞感につながっているのです。
『上記対談』p.157


弁護士先生からすればキャリア官僚もチホーコームインも代わり映えのしない凡才揃いに見えるかもしれませんが、チホーの末端にいる身としてはbewaadさんやhamachan先生が自分のような下っ端チホーコームインと同じ凡才とは到底思えません。確かに「日本全国に散らばっている優秀な国民の叡智を結集」できればいいんですが、皆さん民間や地方でご自身のお仕事や家事に専念されているわけで、そんなことできますかね。こういう方々のいうチホーブンケンって、ボランティアでも何でも地域のために個人の時間を割けという趣旨のことをさらっと強制してしまうので、個人的には非常に怖いものを感じます。

後段の江口氏の発言は論旨が矛盾しまくりで何が言いたいのかよく分かりませんが、とりあえず、個人的に霞ヶ関と接している限りでは「明らかに自惚れています」なんてことはありませんよ。そりゃまあ、受け取り方にも接し方にも個人差はあるだろうし、個人的にいけ好かない奴だってもちろんいますけど、個人差があるということは「明かに自惚れている」ということにはなりませんよね。

そのあとの官僚の質が低下しているという指摘はそのとおりですが、少子化によって東大そのもののレベル低下が指摘されているわけで、そこを基準にするならとりわけキャリア官僚だけが劣化しているわけではないでしょう。一部のエリートに対する批判を加えている江口氏が、「トップクラスは外資系企業に行ったり」するとかいうのは何かの冗談でしょうか。

というより、入口ではそれなりに努力を要する試験を課しておきながら、民間では効果が疑問視されている成果主義によってキャリアの昇進システムを制限し、さらに出口でも天下りを規制しようとしているんだから、官僚の質が低下するのは当たり前ですな。

その前にそもそも、連邦国家ではない単一国家である日本では国がすべてを決めることになっているわけですから、「優秀」の意味を「実行力を持つ政策を立案する権能を持つ」という意味で解釈すれば、霞ヶ関の官僚組織が「日本を動かす最も優秀な集団」であることは厳然たる事実ですね。逆に政策形成を事実上担う官僚組織が「優秀」でないととても困ったことになるんですけど。どうやら大阪府知事は官僚組織にリソースを充てること自体がお嫌いのようですが、そのツケというのは広く国民に行き渡るわけで、確かに東京都や大阪府のような巨大な自治体なら霞ヶ関の機能をある程度代替できるかもしれませんが、うちのような弱小自治体にまでそれを強要されたら大変なことになります。それなんて「強者の論理」?

このあとは「全国一律施策の不合理さ」という小見出しで、「熊しか通らない道路」とか批判のやり玉に挙げてますけど、こういう発言を聞いているとさすがにマスコミしか信用しない「一般国民の感覚」を体現されているのだなと、その点では一貫した姿勢を評価しておきます。

その次は「税金は「官僚のお金」ではない」という小見出しで財源問題に話が及んでいきますが、笑ったのはこの一節。

橋下:
しかしそもそも税金とは、住民が自分たちのお金の一部を一時的に公に預けているものではないでしょうか。それならば、そのお金はできるかぎり住民の近くに置いておいたほうがいい。たとえば私の家では、お年玉を母親に預けると、母親が全部使い切ってしまいました。だからお年玉は自分の枕元に置いておかないと、不安で仕方なかった(笑)。同じように税金も、なるべく住民の近く、つまり地方自治体に置いておくべきものなのです
『上記対談』p.161


小学生かよ!

橋下家のお年玉と公共サービスの原資を同等に論じるというのは、高校生でもしなさそうな論理展開ですが、一般国民の皆さんは、こういう小学生レベルの感覚を「一般国民の感覚」と言い張る政治家知事に対してもっと怒っていいと思います。

さらに、この発言の前後ではこういうこともおっしゃっていて、

橋下:
 通達に関してもう一ついうと、私が大阪府の予算をどんどん削っていたとき、厚生労働省から直接、知事である私宛てに「エイズ検査について予算面での配慮をするように」という文書が来たことがあります。小坂府の厳しい予算の現状では難しいので断ったら、「こんなことは大阪府政の歴史始まって以来だ」と担当部局は驚いていました。

(略)

 今回、大阪府の予算を組むにあたり、一時、商工会議所のある予算を削ったのですが、途中で修正して復活させることにしました。これに対し、商工会議所関係の方々がお礼に来られたのですが、私としては困りました。そもそも予算の原資には、各企業から大阪府に預けていただいていた税金が入っています。その一部を、議論を交わす過程で必要という判断に至り、復活しただけなのです。お礼をいわれる筋合いではありません。
 いままでのぎょうせいでは、担当者は予算を自分のお金と思っていたから、「お礼をいわれて当たり前」という感覚だったのでしょう。これではいけないのです。
『上記対談』pp.161-162


新型インフルエンザのときもそうでしたが、検査体制の不備などによるウィルスの蔓延といった典型的な「外部不経済の垂れ流し」と「負担と受益についての公共財の過小供給」には無頓着ぶりを発揮する一方で、お金を出した人にはその分だけサービスを提供して「所得再分配」を否定していることにも気がついていないご様子(5/25修正しました)。そういった「市場の失敗」を是正すべき政府部門が、むしろそれを助長するのがチホーブンケンなんですね、わかります。

この点については以前も引用した記事ですが、

 中央省庁の支配から逃れ、地方独自の裁量が広がる、これが「地方分権」改革の掛け声ではなかったか。しかし、現実に地方自治体が手にしたものは何であったか。ある自治体の財政担当者は「私たちが分権改革によって得たのは、教育や福祉への歳出を削るという”裁量”だった」と述べている。義務教育国庫負担金といったこれまでは削減できないとされてきた経費が、「地方分権」改革の結果「地方の裁量」で削減可能になったのである。
「談論風発 : 地方分権への懐疑 国の責任放棄見逃すな」(山陰中央新報'08/09/22)


「教育や福祉への歳出を削るという”裁量”」を振り回していい気になっている知事さんが日本中にあふれたら・・・と思うと冗談でなく寒気を感じていまいます。

最後はおなじみの道州制論議に話が移っていくわけですが、拙ブログではさんざん批判している(「道州制のどこがいいの?(2008/06/03(火))」とか)ので、面倒ですし繰り返しません。対談は江口氏のこの発言で締められます。

江口:
 幕末に岩瀬忠震という幕臣がいました。かれは、西洋列強に開国を迫られる状況において、向こうに押しきられるかたちで国を開くのではなく、日本を守るためにどうすべきかを考え抜いた。そして、アメリカの望む大坂開港を突っぱねて横浜港を押し通し、日米修好通商条約の締結に結びつけたのです。
 その幕臣の彼が、交渉に臨む姿勢をこんな言葉で残しています。「国が滅ぶことを避けられるなら、幕府は滅んでもかまわない」と。このような気概を、現在の政治家、霞ヶ関官僚にも抱いてほしいと思います
『上記対談』p.163


日米修好通商条約の締結が歴史的にどう評価されるのかよく分かりませんが、江口氏が岩瀬忠震の言葉を引用しているのを見ると思わず、

「地方が滅ぶことを避けられるなら、国は滅んでもかまわない」と。このような危害を、現在の政治家、知事をはじめとするチホーブンケン教は加えてほしくないと思います。

と言いたくなりますなあ。




*1 労働関係のエントリはあまりニーズがないようですし。それはそれで労働教育的な問題がありそうですが。
*2 リンク先のエントリは用語の使い方が混乱していましたので若干補足させていただくと、「無能な働き者」がトップに立つ組織では「無能な働き者」が重用される傾向があるために、上からは意味のない政策が指示される一方で、下では意味のない作業が進められるという、まことに「分権的」な状況が生み出されるということです。

2009年05月19日 (火) | Edit |
というわけで、前回エントリの続きですが、その前にkuma_assetさんにコメントいただきました。というか、要領を得ないトラバを送ってしまい恐縮です。

『会社が法人(構築物)であることと「市場における均衡概念に基礎をおく経済学」の考え方は必ずしもシンクロしない』との指摘があります。この「シンクロ」の意味するところはよくわかりませんが、わたしのエントリーでは、あくまで比喩的としてこの注記を書いたのであり、頑健な論理性を持つ理論としての「・・・経済学」を、事業の定礎にある制度としての会社に対照させてみたまでです。『労使関係が生々しい』ものであることとは何ら関係はありませんし、それを否定する理由もありません。なお、比喩として不適切という指摘であれば、それに十分な理由がある限り、受け入れる余地はあります。
生きる理論と持続可能な理論(2009-05-14)追記」(ラスカルの備忘録


ご指摘のとおり「シンクロ」はちょっと不適切な言葉でした。kuma_assetさんがおっしゃる「生きる論理」というものに、「制度としての会社」と「・・・経済学」が並列して対置されていたように読んでしまいましたが、kuma_assetさんのエントリでは「制度としての会社」も「・・・経済学」と対照されていました。失礼しました。

私のエントリの趣旨は、私的契約である労使関係が原則的には当事者間の交渉によって規定されるものである以上、制度によって規制を受ける労使関係はごく一部であって、その本質的な部分は生々しい労使当事者のやりとりそのものだろうということです。複数の労働者が働く会社にあっては、一対多の集団的労使関係の成果である(労組法上の)労働協約がその最上位に位置しますが、そこまで行かなくても、日常の指揮命令に基づく一対一のやりとり自体が労使関係そのものであるという意味で「労使関係が生々しいもの」という言い方となったことをご理解いただければと思います。

また、拙ブログでは経済学的見地からの考察を重視しているつもりですので、「労働経済学が「主人のような顔をする」ことについて批判」する意図はありません。「労使関係や労働政策に携わる人間がそれを便利な道具として活用するようになったことが最初にあり、その結果として母屋を取られた、というのが実態」というのも大いに首肯するところです。

ただし、労働法についても同様なんですが、上記のような日常のやりとりから集団的労使関係までを含む労使関係については、ある特定の理論体系だけでは十分に説明しきれないように思います。その意味で、まずは労使関係そのものを対象とした理論体系によって分析し、それを補強する便利な道具として労働法や労働経済学を活用すればいいというのが、本来の労使関係論ではなかったかと思います。

この点を考えるときに示唆に富むのが整理解雇の4要件(Wikipedia:整理解雇)と呼ばれる判例法理なんですが、ちょうどhamachan先生のところで議論が進められています。

いわゆる先制的な「選択と集中」によるリストラを認めるか否かも、基本的にはそれで労使合意するのであれば、あえて否定する必要はないと考えています。ただ、経営状況がそれほど厳しくないのに、あえてそうするというのであれば、それで退職する労働者には相当額の補償がなされることになるでしょう。そういう集団的合意がないのに強行すれば、当然解雇に正当性はないということになるでしょう。
問題が発生するのは、集団的合意は成立して、大部分の労働者はそれで高額の補償金を受け取って辞めていって、一部の労働者がそれに反対して、不当解雇だと主張しているというケースです。実は、日本の紛争の多くはそういうパターンが多いんですね。
わたしは、整理解雇は集団的現象である以上、それ自体の合理性は集団的合意の有無で判断されるべきで、個別労働者がいやだといっていることを過度に取り上げるべきではないと考えています。

投稿: hamachan | 2009年5月16日 (土) 09時20分
3法則氏が、遂に解雇権濫用法理と整理解雇4要件の違いに目覚めた!(2009年5月15日 (金))コメント欄」(EU労働法政策雑記帳
※ 強調は引用者による。


ここで注意しなければいけないのは、整理解雇が集団的現象であるから集団的労使関係が重要なのではなく、集団的労使関係において十分に説明を尽くすことが整理解雇を正当なものとして認める要素となっているということです。

この点を整理解雇の4要件説のリーディングケースとなった東洋酸素事件(東京高裁昭和五十四年十月二十九日判決)の判決文で確認してみます。

 しかして、解雇が右就業規則にいう「やむを得ない事業の都合による」ものに該当するといえるか否かは、畢竟企業側及び労働者側の具体的実情を総合して解雇に至るのもやむをえない客観的、合理的理由が存するか否かに帰するものであり、この見地に立つて考察すると、特定の事業部門の閉鎖に伴い右事業部門に勤務する従業員を解雇するについて、それが「やむを得ない事業の都合」によるものと言い得るためには、第一に、右事業部門を閉鎖することが企業の合理的運営上やむをえない必要に基づくものと認められる場合であること、第二に、右事業部門に勤務する従業員を同一又は遠隔でない他の事業場における他の事業部門の同一又は類似職種に充当する余地がない場合、あるいは右配置転換を行つてもなお全企業的に見て剰員の発生が避けられない場合であつて、解雇が特定事業部門の閉鎖を理由に使用者の恣意によつてなされるものでないこと、第三に、具体的な解雇対象者の選定が客観的、合理的な基準に基づくものであること、以上の三個の要件を充足することを要し、特段の事情のない限り、それをもつて足りるものと解するのが相当である。
(略)
 なお、解雇につき労働協約又は就業規則上いわゆる人事同意約款又は協議約款が存在するにもかかわらず労働組合の同意を得ず又はこれと協議を尽くさなかつたとき、あるいは解雇がその手続上信義則に反し、解雇権の濫用にわたると認められるとき等においては、いずれも解雇の効力が否定されるべきであるけれども、これらは、解雇の効力の発生を妨げる事由であつて、その事由の有無は、就業規則所定の解雇事由の存在が肯定されたうえで検討されるべきものであり、解雇事由の有無の判断に当たり考慮すべき要素とはならないものというべきである。
昭和51(ネ)1028 東洋酸素整理解雇 昭和54年10月29日 東京高等裁判所(注:pdファイルです)」(判例検索システム
※ 強調は引用者による。


前半で第一から第三までしかないので、あれ?と思った方がいらっしゃるのではないでしょうか。実は東洋酸素事件で示された判断は、「4要件説」といわれながらも、実質的には「3要素+1要件」とでもいうべき枠組みとなっています。つまりこの判決によれば、合理的であること、解雇回避義務を尽くしていること、人選が合理的であることという三つの要素について、集団的労使関係における交渉によって協議を尽くさなければその解雇の効力が否定されてしまうのです。

このように、整理解雇の4要件説というのはある意味で集団的労使関係を前提とした不当労働行為的な解雇規制となっています。このような事情を踏まえてみると、hamachan先生のこのコメントは至極ごもっともなものであることが理解できるのではないかと。

実務家からみて「現実には整理解雇と普通解雇の区別は余り重要ではない」というのは、とりわけ中小企業における認識論としてはその通りだと思われますが、それなるがゆえに、情報を開示させ、協議をやらせるための手段として「使い勝手がいい」ということなのですから、まさに私が上のコメントで述べたように集団的労使関係上の武器として有効だということなのでしょう。

ただ、そういうどぶ板レベルの感覚とは別に、特に経済学者がこの問題を論じる際には、日本の解雇規制というと、整理解雇4要件、とりわけ中小零細企業ではあまりそんな余地は少ないけれど大企業ほど余地のある解雇回避努力義務というのが非常にクローズアップされて、解雇せずに雇用を維持できる余地が少しでもあるうちは解雇できないのが日本の法制だというふうに理解されてしまっている嫌いがあり、それが日本の実態という風に思われている傾向がありますので、そういう思いこみを解きほぐすためには、まずは一般則たる解雇権濫用法理と特則たる整理解雇法理の区別から始める必要があるのです。

投稿: hamachan | 2009年5月18日 (月) 07時48分
3法則氏が、遂に解雇権濫用法理と整理解雇4要件の違いに目覚めた!(2009年5月15日 (金))コメント欄」(EU労働法政策雑記帳
※ 強調は引用者による。


集団的労使関係によって分権的な市場原理を労使関係に持ち込むためにこそ、労使の当事者同士が協議を尽くす(できればそれによって合意に達する)ことが重要なのであって、一律に解雇を規制したり、逆に一律に解雇規制を撤廃すればいいというわけではないということは、そのような労使関係を踏まえない限り経済学的見地からは導かれないように思います。

しつこいようですが念のため、私は経済学的見地から労使関係を考えること自体は一切否定していませんし、むしろ積極的に活用すべきだと考えております。ただし、集団的労使関係を前提としたモデルによって分析は可能だとしても、その集団的労使関係が労働法規によってどのように規定されているのか、そして、そもそも労使関係が集団的側面と個別的側面を持つことは労使関係論によってはじめて明らかになることだろうということです。

2009年05月18日 (月) | Edit |
以前のエントリの延長になりますが、kuma_assetさんのエントリで

最近、労働問題のなかで労働経済学や労働法学が重視される風潮を批判し、労使関係論こそが中心だとする主張を見かけましたが、こうした主張もまた経済危機という渦中にあってこそ、より多くの注目を集めるものだといえます。*1

 このような「ものの見方」を一括りにして、ここでは「生きる理論」とよぶことにします。この生きる理論の問題点をあげるならば、アド・ホックなところであり、歴史の風雪に耐えきれるものとはなり得ないのではないか、という点が上げられます。*2

 経済危機のなかで、生きる理論に対する関心が高まり、既存の理論=「持続可能な理論」に対する批判が生じることは避けられないでしょうし、こうした向きに一理あることも否定し切れませんが、このような時代だからこそ、歴史の風雪に耐えられる「持続可能な理論」からの含意をもまた、くみ取っていく必要があるのではないか、と考えています。

*1:ただし、こうした主張には一理あると感じさせるものがあることも否定できません。例えば、日本の解雇規制に対する批判がありますが、こうした批判を行うのはたいがい経済学者(しかも、よく目立つのは労働経済学を専門とするひとではない)であって、実際に経営や労務の実務を行っている人々からは、解雇規制に対する強い批判はあまり聞かれません。この場合、解雇規制を批判する「ネクロ」な理論よりも、実務担当者が持つ生きた理論の方に有用性を感じてしまう、というのは、わたしだけではないでしょう

*2:比喩的に申せば、会社を動かすのはあくまで人ですが、歴史の風雪に耐えて残るのは、会社という法人=制度という「構築物」である。会社は人によっていかようにも生かされるが、その定礎となるような方針を定めているのはあくまで「構築物」なのではないか・・・


生きる理論と持続可能な理論(2009-05-14)」(ラスカルの備忘録
※ 強調は引用者による。


という記述がありましたが、おそらくその主張とはhamachan先生のこのエントリのことではないかと思われます(違っていたらスミマセン)。

ところが、労働問題は国際問題と異なり、その中心に位置すべき労使関係論が絶滅の危機に瀕している。空間的、時間的に何がどうなっているのかを知ろうというどぶ板の学問が押し入れの隅っこに押し込まれている。そして、本来理屈が必要になっておもむろに取り出すべき労働法学や労働経済学が、我こそはご主人であるぞというような顔をして、でんと居座っている。
どぶ板の学問としての労使関係論(2009年1月21日 (水))」(EU労働法政策雑記帳
※ 強調は引用者による。


これについては、冒頭で取り上げた拙ブログでも取り上げていましたが、読み返してみると集団的労使関係についての現状認識がないとかなり読みにくいエントリになっていることに気が付きました。

というわけで、まずは集団的労使関係の現状がどうなっているかについてのhamachan先生のエントリを引用させていただきます。

現代日本で集団的労使関係法の第一人者である道幸先生の言葉は重いと思いますよ。

このあといろんなトピックについて語っておられますが、最後のところ「抜本的な見直し」で云われていることが、実に重要です。こういう問題意識を持っている関係者がほとんどいないと云うことが実は最大の問題なんですが・・・。

>従業員代表制がこれから問題になると思いますけど、それに関連して労働組合が職場代表機能をどのように果たすかが重要です。非組合員も含んだ代表制をどう考えるか、非組合も含んだ組合民主主義という視点です。

>それからもう一つ重要なのは、組合以外の個人の集団志向的な行為も不当労働行為の保護対象にするか。これはアメリカ法で今大きな問題になっています。例えば苦情処理です。個人の苦情でも背景に集団的な意味がある場合が多いですから、その苦情を理由に解雇しますと、集団的行為を理由とする解雇と見なされる。組合ではありませんけど、何らかの形で保護する発想も必要になる。

60年間変わっていない法律にしがみついていればいいという時代では疾うになくなっているのです。
組合弱体化の原因としての人権的把握(2008年12月 9日 (火))」(EU労働法政策雑記帳
※ 強調は引用者による。


(このエントリにはこちらからコメントさせていただいたんですが、さらにわかりにくい独り言になっていて恐縮至極でございます。)

で、何が言いたかったかというのを改めて補足させていただくと、例えばkuma_assetさんが「会社は人によっていかようにも生かされるが、その定礎となるような方針を定めているのはあくまで「構築物」なのではないか」とおっしゃることというのは、まさに「ネクロ経済学」に批判的な奥村宏氏が指摘するような、「法人資本主義」に対する不信感と通底するように思いますが、労使関係はもっと生々しいものです。会社が法人(構築物)であることと「市場における均衡概念に基礎をおく経済学」の考え方は必ずしもシンクロしませんし、それ(5/19訂正)に「生きる論理」なるものを対置してしまっては、なぜ労使関係論が中心になるのかは見えてこないでしょう(対置しているのはネグリかもしれませんが)。

抽象的な言葉を使ってしまうと難しくなると思いますが、シンプルに言えば会社というのは、使用者の立場に立つ人と労務を提供する人が契約を結んで、その提供された労務の対価として賃金を授受する場なのであって、法人や構築物といった抽象的なものではありません。だからこそ、交渉力の地歩に違いのある使用者と労務提供者間の交渉については、団結した労務提供者に対してその交渉権が憲法で保障されています。したがって、法人とか構築物といったイメージで語られるような制度に対する規制では、そのような当事者の交渉によって規定される労働問題(労使関係論としての集団的労使関係)に対処するには自ずと限界があるはずです。

ところが、その交渉権を保障するはずの憲法第28条が人権を保障していると誤解されてしまったというのが道幸先生の指摘なわけす。個人的には、それは戦後の左派思想の盛り上がりの副産物だろうと思いますが、その結果として、特定のイデオロギーが憲法第21条第1項の結社の自由とは似て非なる団結権のもとに団結してしまいました。こうして、集団的労使関係の担い手である労働組合は利害代表ではなく思想集団となり、集団的労使関係は共産主義国の衰退と軌を一にしながら、労使関係の表舞台から追いやられていったわけです。

この点を、hamachan先生は「中心に位置すべき労使関係論が絶滅の危機に瀕している」と指摘されたのではないかと思います。法律論から言えば労働契約はあくまで私的契約ですから、私的自治(労使自治)の原則により公権力が介入するのは例外的な部分に限られます。確かに労働基準法などの強行規定を有する労働法規が多いので、労働は規制でがんじがらめになっているという印象が強いのかもしれませんが、何を隠そう集団的労使関係こそが公権力の介入を押しとどめて分権的な市場原理を労使関係にもちこむ基本原理となっているのです。

こうしてみると、集団的労使関係の担い手である労働組合が支持するはずの左派政党が、集団的労使関係を隅に追いやりながら制度による規制強化を叫ぶ姿は、労働組合が思想集団に転化して労働者の利益代表ではなくなっていることを図らずも露呈しているようにも見えます。むしろ、そのことを取り繕うために集団的労使関係には敢えて触れないという方が正確かもしれません。日本の思想的ねじれはこういうところにも現れているのですね。

kuma_assetさんのエントリからこういうことを考えてしまったのは、整理解雇の4要件について思うところがあったからなんですが、長くなったのでまたの機会にまとめてみます。

2009年05月17日 (日) | Edit |
すなふきさん経由韓リフ先生のところのネタですが、

通りすがり 2009/05/16 03:44
横から失礼させていただきますが、このブログの意見が、参考になる気がしたので、リンク先を貼らせていただきます。
http://plaza.rakuten.co.jp/kingofartscentre/diary/200904010000/
http://plaza.rakuten.co.jp/kingofartscentre/diary/200904010001/


money-school 2009/05/16 18:18
田中先生の庭先で失礼します。通りすがりさん、ありがとうございます。参考になりました。少なくとも志の高い先生方が、あえて距離をおいているわけではないということが確認できてよかったです。ただ、「人事権」の問題だけではなく、「情報管理」の問題まで言及できないところを考えると、「改革」の道のりは通そうですね。このブログでも指摘されていた「年金改正」の流れも、改正の前提となる「情報」は厚生労働省の「官僚」しか持っていないわけですから、方向が示されると、「御用」でなくても従わざるをえないみたいなところもあるのでしょうね。当時、改正法案通してから、出生率発表みたいな荒業でしたから。


ここで参考にされているのがかみぽこ氏の一連のエントリなわけですが、イギリスで政策過程を研究されたかみぽこさんには「英国型議会制民主主義」はなじみがあるとしても、それとの対比として「日本型議会制民主主義」がおっしゃるような「官僚支配」であるかどうかの論証が、まずもって必要だろうと思います。

この点については、大田弘子先生が
経済財政諮問会議の戦い経済財政諮問会議の戦い
(2006/05)
大田 弘子

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で書いていることをベースとして、かみぽこ氏は次のように指摘します。

つまり、抜本的改革が
実現しなかったのは、
それを望まない厚労省
たたき台に載せなかったので、
諮問会議で議論のしようが
なかったからである。
(略)
このように小泉構造改革では、
「道路公団改革」などでも
そうなのだが、
官僚が都合の悪い改革案を
官邸に上げない
ために、
改革を進めようとしても
議論すらできなかったことが
多かったのだ。
官僚支配をなくすには(前編):「官邸主導」と「政治任用制」 (2009年04月01日)」(かみぽこちゃんの日記
※ 強調は引用者による。


官僚が作ったんだから官僚の思うがままだったと断じていらっしゃるようですが、ちょっと乱暴な議論のように思いますね。特に、「それを望まない厚労省」とか「官僚が都合の悪い改革案」っていうのは具体的に官僚にとってどう都合が悪いから望まないのかがよく分かりません。

例えば、マスコミや論壇で持ち出されるリクツですが、抜本的改革をすると厚労省の仕事がなくなって失業してしまうから? とはいっても、厚労省は残業時間が霞が関で最も多い(bewaadさんのエントリ参照)ので、仕事が減って喜ぶ官僚はいるでしょうが、少なくとも当面は仕事が減って困ることはないんではないかと。

あるいは、2004年に導入された物価スライド方式では天下り先が温存されてしまうから? これはまあテキトーに見繕ったリクツなので、あからさまにこういうワケのわからないことは言わないと思いますが、何かと言えば「天下り」に結びつけて官僚を叩いておこうというのも芸のない話ではあります。

私は、政策立案過程の
「官僚支配」を排するには、
政治家がこの議題設定の権限を
審議会のところで
抑えることが重要だと思う。
(略)
しかし、現実的には
政治家は官僚バッシングを
いろいろやっているけど
なぜかここには
全く手をつけようとしない

同上
※ 強調は引用者による。


ご本人も「なぜかここには全く手をつけようとしない」とおっしゃるその点こそが「官僚支配」なるものが実態のあるものかどうかを分ける問題であって、それを措いといていくら「官僚支配」なるものを批判されても説得力があるようには思いませんね。

課題設定の権限を持っているといっても、そりゃもちろん形式上は審議会なりを設置して報告書をとりまとめるのは官僚ですが、その審議会を作らせたり議論させようとする圧力は普通は政治家からかけられるものですよ。さらにいえば、かみぽこ氏が批判される「官邸主導」によって、安倍内閣時には「教育再生会議」だの「地方分権改革推進委員会」だのが林立したわけで、形式だけに注目して「官僚支配だ」といっても実態を捉えていないのではないかと。

もともと、政治家や圧力団体が自ら表立って圧力をかける文化が日本にはありませんので、必然的にそのような動きは政府の公式な活動を通じてしか現れません。ということは、目に見える圧力を批判しようとすれば、必然的に政府の公式な活動を批判するしかなくなってしまいます。当事者である官僚も政治家もその点は熟知しているわけで、むしろ、そのようなシステムを利用して政治家が自らの潔白や正義を強調するために、官僚はその批判を甘んじて受けざるを得なかったというのが実態でしょう*1

そして、なぜそような一方的な政治家の優位性が実現するかというと、まさに「政治主導」だからです。「官僚支配」とかいって批判している方は恐らく、戦中戦後の混乱期に軍部に支配されたり、財閥解体やレッドパージなどによって政治家の人材不足が深刻だった時期が念頭にあるのではないかと思いますが、そのような時期であればある程度通用した概念だからといって、現在もそのままあてはまるわけではないと思います。この点は牧原先生のサントリー学芸賞受賞作が参考になるかと。
内閣政治と「大蔵省支配」―政治主導の条件 (中公叢書)内閣政治と「大蔵省支配」―政治主導の条件 (中公叢書)
(2003/07)
牧原 出

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というより、政治学ってのはそういう権力関係を研究するものだと思っておりましたが、その点を「なぜかそうじゃないんだよねえ」といってスルーするということは、この点を政治学の研究に求めるのはお門違いということになるんでしょうか。う~ん、それでは政治学の存在意義ってなんなの?という新たな疑問も生まれてくるところですが、まあ実益のある議論になりそうもないのでこちらもスルーします。

それはそうとして、かみぽこ氏の事実誤認かよく分かりませんが、

具体的には、官僚の設定する「議題」に
「お墨付き」を与える役割を果たしている

「御用学者」

を審議会から一掃することだ。

そして、政治学・経済学などの
最先端の研究に携わる、
海外の大学での
PhD(博士号)取得者などを
審議会に送り込む
ことである。
同上
※ 強調は引用者による。

とかいいながら、

民主党は、既に昨年の
日銀正副総裁人事において、
小泉改革にかかわった
「御用学者」の
副総裁への起用案に
不同意している

同上
※ 強調は引用者による。

だそうですが、民主党が不同意した伊藤隆敏先生はハーバード大でPh.Dを取得されていますよ(Wikipedia:伊藤隆敏)。それとも、一回でも政府の審議会などに参加してしまったら「御用学者」と呼ばれるというのであれば、定義により審議会には「御用学者」しかいなくなってしまいますけどね(5/18追記:ついでに、伊藤先生は小泉内閣での諮問会議議員ではなく安倍内閣になってから任命されたので、「小泉改革にかかわった」というのも厳密には間違いですね)。

まあかみぽこ氏ご自身がPh.Dを取得されているからこそのご発言であるように思いますが、そのような「圧力」は「政治主導」の下では肯定されるのでしょうかねえ。




*1 だいぶ前に似たようなことを書きましたが、今読むと論理構成が妙に浮ついていて読むに耐えません。

2009年05月04日 (月) | Edit |
非常に個人的な感想なんですが、hamachan先生がこうおっしゃるのをみてすごく納得。

正直いうと、経営法曹の皆さんの議論がいちばん肌になじむというか、労働問題の現場の感覚をもちながら、会社を経営する側の感覚をきちんと論理化していこうとするその姿勢が、私には好ましく思えます。
ワークシェアリングの光と闇(2009年5月 2日 (土))」(EU労働法政策雑記帳


拙ブログでは経営者目線のカイカク派についてはさんざん批判してきたところなんですが、経営法曹会議の方々というのは、その経営者目線の労務管理といった実務をきちんと法律論に落とし込むのが仕事なわけです。それが訴訟まで持ち込まれた問題であればそれに対して裁判所の判断が示されるので、経営法曹としては実務の面で妥協することはできないわけですね。

拙ブログで批判しているのは実務面を無視した経営者目線であって、実務での裏付けがあれば経営者目線であろうとなかろうと問題はありません。特に労働問題については、当事者である労働組合や日本労働弁護団といった左派陣営が会社に対して無理筋なことばかり主張するので、それがかえって労働者自身をも苦しめているという前回エントリの状況からすると、経営法曹の主張の方が妥当に見えるのも当然なんでしょう。

経営のリスクを負うのは経営者なわけで、だからこそ一番本気で経営と労働者のことを考えているのも経営者ではありますが、それに対抗するというだけの理由で労働者の味方を自認する方々がそのことを考えていないというのは、むしろ重大な背任だろうと思うわけです。

拙ブログが経済学を中心に考えているのは、そういう実務に裏づけされた経営者の責務を理解するために必須の道具立てだと考えるからです。ちょっと長くなりますが、経済学の教師と英文学の教師の恋を描いた物語から、この点を説明した部分を引用してみます。

ここは、英文学の教師(ローラ)が見ていたドラマでの経営者の横暴(工場の海外移転による街の衰退、新薬開発の結果の改ざんなど)の描かれ方が偏見にとらわれているということを、経済学の教師(サム)が説明している部分です。

「一〇〇年前の話だけど」とサムは続けた。「アメリカの労働力の四〇%以上が農業に従事していた。それが今や三%以下だ。子供たちは、世紀の変わり目に農業の生産性を改善するテクノロジーのせいで農場から追い出された。そんなお涙頂戴のドラマが想像できるかい? 当時の子供たちや、さらにその子孫は、僕たちがそういう状況が起きるままにしておいたことを喜んでいるんじゃないだろうか。『同情』ゆえに、農業の改革をストップさせるという決断を下していたら、僕たちの生活はどんなに貧しくなっていただろう。同じことが、この五〇年間、製造業界の雇用についても起きている。製造業の雇用は削られ、そのかわりに、コンピューターや情報テクノロジー、電気通信、その他アメリカが得意とするたくさんの産業で、新たな機会が生まれている。一九五〇年代以降、製造部門のすべての雇用を守ることにこだわって、工場の閉鎖を認めなかったとしたら、僕たちはどれだけ貧しくなっていただろう。今の子供たちに、雇用機会のほとんどは工場での仕事だよといったら、彼らはどう感じるだろう。もし現状を維持するような法律を作っていたら、製造業以外の分野で誕生した雇用やチャンスは、全く実現しなかっただろうね。

「でも、進歩の名のもとに、マタロン(引用者注:ドラマで工場が撤退した街)のような街を崩壊させるだけの意味があるのかしら?」

「進歩の名のもとに、じゃないよ。次世代の子供たちに、彼らのスキルを最大限生かすチャンスを与えるためだ。彼らを豊かにすることが目的だというわけでもない。実際には豊かになるだろうけどね。そうではなく、子供たちが、自分自身の選択によって、どのような種類の人生でも創りあげていけるようなチャンスを与えるのが目的なんだ。マタロンとか、それ以外の小さな街が崩壊するというのは、物語の酷い部分しか語っていない。こういう街が貧しくなっていく理由の一つは、解雇された労働者の子供たちが、もっと別の、より良い機会を求めて街を出て行くからだ。工場閉鎖が街にどんな影響を与えたのか、完全に評価したいと思ったら、こういう子供たちを全員集めて、彼らが開拓しようと思った新しい機会に満ちた世界で、彼らがどれくらい幸福になっているかを調べないといけないだろう。
(略)
「ただ僕は、勝ち組・負け組っていう二分法を認めていないだけなんだ。世界は平等な場所ではない。才能に恵まれている人もいれば、そうでない人もいる。もしかしたら僕は、才能に恵まれた人に資本主義が反映のチャンスを与えるってことをロマンチックに考えすぎているのかもしれない。でも、才能のある連中だって、あまり才能のない人を犠牲にして成功しているわけではない。資本主義は、才能に恵まれた人が、その才能を他の人たちとわかち合うように仕向けるんだ。
pp.227-228

インビジブルハート―恋におちた経済学者インビジブルハート―恋におちた経済学者
(2003/04)
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※ 強調は引用者による。



まあ、解雇自由の国での議論ですからその点は割り引いて考える必要がありますが、一つの企業や一つの産業に固執することのリスクやコストへの対処は経営者の胸先三寸で変わってくるわけで、そういった経営のリスクを最終的に負っているのは経営者ですから、経営者にはこういうことを真剣に考える責務があります。

もちろん、真剣に考えない経営者がいる場合がありますが、そのような経営者は淘汰されなければなりません。そのような経営者から債権者を守るために会社法や労働法規が存在するのであって、その関係を逆に考えてしまうから現在の左派陣営はあさっての方向の議論しかできなくなるのではないかと思います。

結局のところ、貧困、非正規労働者、地方などの弱者とされる方に対して「我こそが味方だ」という陣営にとっては、自分たちが「搾取している!」と糾弾している陣営もその方々のことを真剣に考えているということを認めたくないんでしょうね。

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