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2009年04月30日 (木) | Edit |
奥村宏氏って○系の方かと思ってたんですが、所属されている経済理論学会(Japan Society of Political Economy)の山田鋭夫氏とかの会員を見ていると、いわゆるネオマルキシズムの流れでとらえるべきなんでしょうか。

実は奥村氏を知ったのは野村正實氏のホームページで絶賛されていたからなんですが、野村氏のホームページで第4章が公開されている
日本的雇用慣行―全体像構築の試み (MINERVA人文・社会科学叢書)日本的雇用慣行―全体像構築の試み (MINERVA人文・社会科学叢書)
(2007/08)
野村 正實

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も、電産型賃金体系についての中労委裁定とかそれに端を発するベアと定昇の混同とか興味深い話がてんこ盛りです。

ただまあ、野村氏の話は何かと生々しいので、たまたま通りかかった露店の古本市で見つけた奥村氏の
法人資本主義―「会社本位」の体系 (朝日文庫)法人資本主義―「会社本位」の体系 (朝日文庫)
(1991/05)
奥村 宏

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を読んだ感想など書いてみます。

この本は1983年に出版された新書の文庫版として1991年に出版されたものなので、話が1980年代と1990年代を行ったり来たりして読みにくいものの、当時話題になった日米構造協議で批判された「系列」について、三越事件(Wikipedia)などの事例を交えつつまとめられていて、当時の状況や株式の相互持合などを実体験として知らない者としては大変勉強になりました。ただ、冒頭で

体系的という意味は同時に日本の会社を総体として、トータルにとらえようとしているという意味でもある。これまでの「日本的経営」論は会社と従業員との関係だけを論じたものだが、会社は従業員との関係だけで成り立っているものではない。会社の多くが株式会社である以上、会社と株主の関係が重要だが、「日本的経営」論は全くこれを問題にしない。一方、これまでの株式会社論は会社と株主の関係を問題にするだけで、そこでは従業員不在である。このほか会社と経営者との関係、さらに会社と会社との関係も当然問題になるが、これらをトータルにとらえ、そしてそれをひとつの原理から明らかにしようとしたのがこの本である。
奥村『法人資本主義―「会社本位」の体系 (朝日文庫)』p.6
※ 強調は引用者による。


と書いてある割に、本書では、労働組合の幹部を経験したようなサラリーマン経営者といえども選ぶのは経営者だから従業員代表ではないというだけの話に終始してしまっている点はもの足りません。そんなの当たり前であって、だからこそ労働者による経営参加というのは昔も今も日本では難しい問題となっているわけです。個人的にはこの辺の話をもっと詳しく読みたかったんで、ちょっと期待はずれでした。

それにしても、奥村氏は「会社本位」の元凶として「系列法人同士の株式の持ち合い」を批判しているわけですが、その理由として、系列法人が支配目的で株式を保有することで個人投資家が排除される「安定化工作」や、それによってもたらされる「高株価経営」、またはその株式の相互持合によって代表取締役が系列の社長会によって相互監視され、その結果、自然人ではない「法人」に対する忠誠が強化されるからという説明はなかなかに説得力があります。

とはいえ、奥村氏が批判した持ち株会社が解禁される一方で、奥村氏が積極的に進めるべきとしたベンチャー企業の勃興やTOBなどによる株式買収が実現してしまっていて、現実の方が奥村氏の主張を超えてしまっているわけです。実際に、ベンチャー企業がニッポン放送などの放送局にTOBを仕掛け、その仕掛けたベンチャー企業経営者が有罪判決を受けるという事態を目の当たりにしてみると、まあそれだけが「会社本位」の理由じゃなかったんだろうな、というか本当に「会社本位」だったのかな、という疑問が残るところです。奥村氏は「近代経済学は企業間関係を分析していない」として批判していますが、この点については、
組織の経済学組織の経済学
(1997/11)
ポール・ミルグロムジョン・ロバーツ

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で指摘されるようなの新古典派経済学の立場からの実証的な考察の方が、奥村本とほぼ同じ時期に出版されている(原著は1992年発行)にもかかわらず、リスクシェアリング、所有と通じたインセンティブとか経営者報酬など現在でも十分に通用する道具立てを提供しているように思います。

その一方で、企業間では商社を中心とした相対(あいたい)取引が通常の姿となっていて、下請会社を通じた外部化によって企業の系列化を進め、銀行ぐるみでその系列の株式を保有し合っていくという奥村氏による日本経済の描写は、現在ではどの程度あてはまるのかというのも興味深いところ。

ただし、奥村氏は佐高信氏との共著もあるくらいですから、「社畜」くらいのイメージで書いているような感じがしますが、そんな「社畜」といわれた当時の経済成長がもたらした労働者の処遇と今の状況を比較したとき、どちらが労働者にとって生きやすい世界だったかというのは判然としませんね。

左翼陣営が会社を攻撃するあまり労働者にとっても生きにくい世界になるというのは、日本の労働運動の宿痾のようなものなんでしょうけども、だからこそ左翼陣営は経営と労働者、さらには制度と労働者の関係について真剣に悩まなければならないわけです。ところが当事者の方々には特に制度については真剣に悩んだ形跡はないんですよねえ。
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2009年04月29日 (水) | Edit |
anhedoniaさんのところの一連の林業関係のエントリを拝見して、林業という産業の危険さや処遇の割の合わなさを再確認しておりましたが、NHKの深夜枠でこんな番組があったので録画してみました。

山の声を聞け ~林業再生にかける80歳~
 大阪・千早赤阪村に、全国から注目されている山の達人がいる。林業を経営する大橋慶三郎さん、80歳だ。若手林業家に林業再生の切り札を伝授する大橋さんの活動を追った。
 大橋さんが考える林業再生の切り札とは、山の中に作る道だ。道さえあれば、簡単に山に登り、伐採した木を搬出することができる。コストはかからず利益が上がる。
 しかし、道は崩れやすい。そこで徹底的に観察し、危険な場所を避けて道を作るのが大橋流。「山は人間と同じ。異常があれば、必ず表に出る。」と言い、50年前に作った道も崩れはない。
 ダチョウ倶楽部の寺門ジモンさんが、道づくりの名人、大橋さんの「山」への思いに迫る。
かんさい特集 > 2月放送分」(NHK 大阪放送局


何か所か前の職場では担当の仕事の関係で山を切る現場に行く機会が多かったので、自分でも林業の現場はいろいろと見聞きしておりました。自分の知っている範囲ではありますが、anhedoniaさんのエントリ(「■[農]グリーン・ニューディールという愚策(2009-04-22)」)やそのトラバ先でも言われているように、林業のマーケットってのは建材と日用品がメインであって、その需要が落ち込んでいる中で副業的に木炭製造とか木質バイオマスなんかを細々とやっている程度で、しかも下刈りのような普段の作業は森林組合くらいしかやってませんでした。

伐採や搬出作業をするときに道が必要なのはそのとおりですが、山に道をつけるというのはとても難しいんですよね。自分が仕事で行く現場というのがそういう事故が起きたところばっかりだったからというのもあるんですが、役所の2WD車では通れないような道の先でユンボが傾きながら作業しているなんてのは日常茶飯事で、そこに行く道が崩れて保全区域が崩壊したとかはよくある話です。

もちろん、番組でやっていたように表土が動かないようなタナを見つけられればいいのかもしれませんが、地震があると突然水が出てきたり、いったん表土が動いてしまうといくら道をつけても後から崩れてしまいます。というか、なかなか安全な道が造れないから「道づくりの達人」と呼ばれるわけで、林業では伐採という作業そのものでさえ危険が伴うのに、その現場へ行く道ですら安全とはいえない状態で作業しなければならないわけですね。

ところが、相も変わらずマスコミは「効率優先のやり方には問題がある」というスタンス全開というのがいただけません。この番組でも、道づくりの達人から学んでいた若い林業家が、「自分の地元では、効率化を図るためにハーベスタと呼ばれる「伐倒,枝払い,玉切り,集積(伐倒木を集めて積んでおくこと)を1つの作業機で行える機械」を使ったり、「列状間伐」を導入していて、それに自分も合わせていいんだろうか?」と悩んでいる様子が映し出されます。実はこの悩んでいるご本人も、番組の紹介によれば「効率中心の仕事に疑問を感じて」脱サラして林業に就いた方だそうで、「効率」を悪者に仕立て上げなければ番組が成り立たないとでもいわんばかりの構成ですな。

この番組に出演していた寺門ジモンも「森林の仕事ガイダンス」とかで林業就業者を募集しているくらいなら、何のスキルも持たない就業者にとっても敷居が低くなるような効率化は積極的に進めるべきであって、それはなにより就業者の安全確保という最低限の労働環境整備はなずです。

いくらこの番組で「効率化」を批判したところで、危険な仕事に就きたがる人なんてそうそういないし、それで「林業再生」とか息巻かれても「所詮他人事なんだな」としか思えないんですよね。この点は上記のリンク先にも書いてあるので、改めて抜粋しておくと、

2 これからの間伐(効率的な間伐)

1 団地化
 一定森林区域の森林所有者が、共同で事業を実施することにより、路網の効率的な整備、機械による作業が実施しやすくなります。
2 高性能林業機械を活用した利用間伐
 プロセッサ、タワーヤーダ、スイングヤーダ、ハーベスタ、フォワーダといった高性能林業機械を活用した間伐を実施することにより、生産性をあげ、安全に作業することができます
3 間伐方法の工夫
 間伐材のコストを低減することにより、間伐を収益につなげる工夫をする必要があります。
 たとえば、一定間隔で列状に間伐する方法(列状間伐)では、作業の標準化が可能で、機械による低コストの間伐が期待できます


高性能林業機械による列状間伐」(福岡県森林林業技術センター
※ 強調は引用者による。


ということなわけで、そもそもいくら道をつけたってそこで働く人がいなければ林業再生どころではないんですから、anhedoniaさんがおっしゃるように、まずは労働環境の整備と十分な賃金を払えるだけの経営の効率化から進めるのが筋ではないかと。

最近、環境問題の関心から、林業が注目されるが、環境云々以前に、現に今、林業の現場で頑張っている労働者の待遇・労務の改善・安全衛生の向上が必要だと思う。
■[農]明日の環境より今日の命(2009-04-02)」(左思右想


おそらくそういうことを一番分かっているであろう道づくりの達人は、よく聞き取れなかったんですが、前述の方の悩みに対して、

「日本はそうやって叩き壊したらええんじゃ。情けない話や思うよ」

と応えてました。この発言の真意は測りかねるものの、「効率化を進めても就業者に対して十分な労働環境を与えられない林業に未来はない」とも聞こえた俺は、林業を悲観視しすぎているのでしょうかね。

2009年04月26日 (日) | Edit |
kumakuma1967さんのところで言及いただきまして、kumakuma1967さんのおっしゃる「フロンティアの消失」というのがいまいちピンとこなかったのですが、いただいたコメントをヒントに考えてみました。

たとえば、医療/介護は90年代くらいまではまだフロンティアと考えうる状態だったと考えています。
道路の建設は、フロンティアに向けて行われる限り、「現在の交通量」を問題にされる事はありません。交通容量予測なんぞ当たる方がおかしいですよ。投資ってのは半分以上が無駄でも一割の投資が10倍になれば許される類のハイリスクな話ですから。
中央道は長野山梨岐阜の山間地の0.5haの狭小農地が「裏作だけで」三世代世帯の生活に十分な現金収入をもたらしていたりします。(裏作が小麦から苺/花卉/生鮮野菜に変化できた)これは80年代のフロンティアで上がった成果だと思いますよ。
■[society]カイカク派と既得権益って対立してるの?コメント欄 kumakuma1967 2009/04/24 09:03」(くまくまことkumakuma1967の出来損ない日記


おそらくkumakuma1967さんの想定するフロンティアというのを、役所の「予算フロンティア」とでもいうものと読み違えてしまったのが行き違いの原因になってしまったように思います。現時点での理解ですが、kumakuma1967さんのエントリの趣旨は、既得権益を削らなければカイカクといえないという風潮を作ったのが土光臨調のギョーセーカイカクに端を発すると考えると、現在のカイカク派は、1990年代以降定着したそのプロットに従って行動しているに過ぎないということなのかなと。

その点で、kumakuma1967さんが指摘されるような中央道が中山間地にもたらした便益が、政府の政策が開拓したフロンティアだったという認識が当方にはあまりありませんでした。確かにそういう意味でのフロンティアというのは、特に世の中をコーゾーカイカクが席捲した1990年代後半以降はほとんどないように思いますね。既得権益の打破と行政のムダの排除によって景気回復を唱えたコーゾーカイカクがフロンティアを消失させたということであれば、なんとも皮肉なものです。

一応こちらが想定した「予算フロンティア」とでもいうものをご説明させていただくと、役所的な感覚ではやはり予算のシーリングがフロンティアとなってしまうので、こちらからのコメントで

「既得権益のない部門は将来にわたって何もできない」という制度が整っていた」というのはスクラップ&ビルドのようなゼロサム型予算のことかと思います
■[society]カイカク派と既得権益って対立してるの?コメント欄 マシナリ 2009/04/22 08:26」(くまくまことkumakuma1967の出来損ない日記

などと反射的に反応してしまいました。

というのも、役所の中でのスクラップ&ビルドというのはまさに土光臨調以来徹底されておりまして、新たな行政需要に応えるための組織なり事業予算を拡充するときには、そのためのスクラップ財源を確保する必要があります。有り体に言えば、身内から人身御供を差し出さない限り「予算フロンティア」を開拓することができません。

例えば、毎度のhamachan先生ネタですが、国土交通省が観光庁を設置するために船員労働委員会を廃止する方針を打ち出した(実際にそうなりましたが)ことについて、

>というわけで、濱口教授の 「もしかして、件数も少ないんだし中労委で一緒にやってよ、ということだとすると、その組織財源は中労委に持ってきていただくのが筋のような気がいたしますね。」 ( 船員労働委員会の廃止?(EU 労働法政策雑記帳(6/29付)))とのご懸念どおり、スクラップ財源に利用して事務はぶん投げるという方針の模様。まぁ、エクスキューズとして定員はなんぼか中労委事務局に振り替えるんでしょうか。ともあれ、また先生のぼやきが聞ける…とか不謹慎にもワクテカしてしまったり(笑)。

http://www.seri.sakura.ne.jp/~branch/diary0708.shtml

いや、今さらボヤきません。そういうことだろうなあとは思っていましたし。なんちゅうか、労働省設置当時に他省と権限を取りあった業務は、炭鉱といい、船員といい、歴史の流れの中で、当該他省の組織財源として移ろっていくものばっかりですなあ、とモソモソ呟いてみるばかりです。
今さらボヤきません(2007年8月14日 (火))」(EU労働法政策雑記帳
※ 強調は引用者による。


というように、ギョーセーカイカクが目的になってしまうと新たな行政サービスに対する需要が発生すれば必ずどこかの行政サービスが削られることになるので、kumakuma1967さんのエントリを「予算フロンティア」と読み違えてしまいました。

というわけで、kumakuma1967さんは「問題は「フロンティアの消失」の方にあるかと。」とおっしゃるのに対して、役人的には「これでまた少数の方を対象にしたサービスが潰されていくんだなあ」という方が気になってしまうわけです。それを加速するのがチホーブンケンであったり規制緩和であって、だからこそ現在のカイカク派は表向き新自由主義を批判しながら、自らは新自由主義路線まっしぐらであることに気がつかないのかもしれないなあとも思ったり。
とりとめがなくてすみません。



話は変わりますが、kumakuma1967さんの最新エントリのこのフレーズは大変に射程の広いものですね。

酔って裸になったのは、実は君たちじゃないのか?
■[society]最低の行為とは(2009-04-26)」(くまくまことkumakuma1967の出来損ない日記


この国のマスコミは存在の当初から酔っぱらっていたようなものでしょうが、最近は酩酊状態だと理解すべきなんでしょうかねえ。

2009年04月21日 (火) | Edit |
すなふきんさんからいただいたトラバに拙エントリのコメントでこうお答えしておりましたが、

実は、すなふきんさんの一連のエントリにもトラバしようかと思っていたんですが、この点をちょっとまとめきれなかったので見送っておりました。


よく考えたら一介のチホーコームインがまとめきれるわけでもないので、現時点でこういうことかなと考えていることを書いてみます。

まあ、権丈先生経由で読んだこの本からインスパイアされたことなんですが、
「未納が増えると年金が破綻する」って誰が言った? ~世界一わかりやすい経済の本~ (扶桑社新書)「未納が増えると年金が破綻する」って誰が言った? ~世界一わかりやすい経済の本~ (扶桑社新書)
(2009/02/27)
細野 真宏

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著者の細野氏はさすがカリスマ講師だけあって、サブプライムローン問題とか年金の考え方が順序立ててわかりやすく説明されています。細野氏ご自身が「あの本が『遺作』となっていたとしても、後悔はありません」(p.206)とまで言い切る
細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!
(2008/09/01)
細野 真宏

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は未読ですが、『年金』本を読む限りでもその醍醐味は十分に伝わってきます。

簡単に言えばその「数学的思考」というのは、「論理的に考える」「仮説と検証を繰り返す」ということだそうで、確かにこれができる人が増えるならば、世の中の多くの問題は「正しく」理解されるだろうと思います。自分のような民意に懐疑的な立場であっても、その可能性までを否定するものではありません。

しかし、、『数学的思考』本も未読の段階でこういうのもなんですが、細野氏が予備校講師であることが影響しているかもしれませんけど、その「数学的思考」には重大な弱点があるように思います。それが端的に表れたのが、『年金』本の冒頭に出てくるこの一節。

豆知識
食糧自給率40%というのは6割も輸入品に頼っているということ。実は、国民全体が米を今よりも毎回一口多く食べるだけで、食糧自給率は1%上昇し、今より毎日一膳多く食べると食糧自給率は約8%も上昇が見込めます。
細野『「未納が増えると年金が破綻する」って誰が言った? ~世界一わかりやすい経済の本~』p.33
※ 強調は本文。


あらら、石破農水相のいうことを鵜呑みにされてしまいましたね(こっちも参照)。入試では与えられた問題文やデータを前提に解答することが求められるわけですが、この食糧自給率のように、与えられた二次データではなく、その算出方法や一次データの収集方法に問題がある場合に、データを疑うというステップを踏まない細野氏の「数学的思考」はほとんど無力となってしまいます。

経済学においても、モデルとか理論そのものよりも、そのモデルのあてはまり具合とか理論の整合性を検定する統計学的手法の方が重要といってもいいでしょう。経済政策を巡って立場が対立するのも、根本ではデータの解釈や計量モデル化の過程で対立していることがほとんどだと思います。

チホーコームインの身ではありますが、実務上もモデルを使ってどうのこうのというより、実証的な分析がどれだけ政策の有効性などを説明できるかの方が重要だったりするわけで、「方向性」と「具体論」というのは、恐らくデータの扱いの軽重で線引きがされるのではないかと思われます。

その意味では、
その数学が戦略を決めるその数学が戦略を決める
(2007/11/29)
イアン・エアーズ

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で描かれる計量経済学の威力が、どれだけ政策関係者に理解されるかというのが一つのポイントになるのではないかと思います。というのも、政策決定にかかわる当事者がデータの扱い方を理解していなければ、その当事者自体が「非専門家」になってしまうわけですから。そう思って自分の回りのチホーコームインを見渡してみると(以下自重)

2009年04月14日 (火) | Edit |
HALTANさんのところで言及いただいておりました(大嶽先生の著書をベースにまとめておこうと思っているうちに別のエントリを先にアップしてしまうなど、亀レスになってました)。
日本型ポピュリズム―政治への期待と幻滅 (中公新書)日本型ポピュリズム―政治への期待と幻滅 (中公新書)
(2003/08)
大嶽 秀夫

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そのHALTANさんの上記エントリではご自身のブログを引用されていますが、

ついでなので以下に感想めいたことを書いておくとすれば、悪名高い『ニュースステーション』(1985~)を立ち上げたのがまさにTBS→テレビマンユニオン→オフィス・トゥー・ワンの高村裕氏だったように(2008-03-16■[床屋政談]1982年以降の日本で起こったことid:HALTAN:20080316:p2)、残念ながら、村木氏たちが模索したTVの中の「私」性が大衆的に卑俗に最悪の形でしか実現されなかったのが1980~90年代以降から現在に至る現実だったのではないでしょうか?
2008-03-16■[床屋政談]1982年以降の日本で起こったことid:HALTAN:20080316:p2

[無題]「ピカピカ、ピンク色の日本は戻らなくても」→(朝日語翻訳)もう右肩上がりは有り得ない・・・こういうことをあっさりと書かれても困るのですが・・・。(2009-04-11)」(HALTANの日記


という点については、大嶽先生はアメリカの報道番組がひな形になっているとの認識のようです。

 ところで、マロー(引用者注:1950年代のCBSのニュース番組のキャスター(アンカーマン)だそうです)の手法を一〇年後に再現した「シクスティ・ミニッツ」ではあったが、十数分という時間で一つの事件の顛末を表現するために、どうしても善玉・悪玉二元論を軸にする傾向をもった。一般に、複雑な問題を理解しやすくする最良の方法は、問題を倫理化し、道徳的な悲憤慷慨を浴びせることだからである。より正確には、傾向というより、ドラマ性を与えるためにその二元論的構図が、意図的に編集方針とされたのである。こうしたスタイルから、さらに、音楽を背景に流すなどして、(被害者に対して)感傷的な報道に偏することが一般化した。
大嶽『同上』p.234
※ 以下強調は引用者による。


洋の東西を問わず、善玉と悪玉を仕立て上げることが一番視聴者受けがいいとのことで、「ワイドショー的報道番組」については「出羽の上」の出る幕はなさそうです。というより、日本では新聞社とテレビ局が系列化してしまっていて、マスメディアが相互に牽制するという作用が働きにくい点にも大きな問題があるとのこと。

 ところが、日本では、テレビの人気を新聞が増幅する傾向をもつ。日本の新聞が、その系列下にテレビ局を置いていることも、テレビに対する新聞による批判姿勢が弱いことの一つの理由であろう。このため、特定政治家へのブームや政治的フィーバーが、オピニオン・リーダーをも巻き込んで、日本中を席巻する事態を生んでしまう。
大嶽『同上』p.236


6年前の新書で指摘されていることが、現在でもまったく風化していないというのは大いに嘆くべきことではないかと。

ただ、それよりも前々回エントリでも指摘したように、こと経済政策については大嶽先生ご自身が単純な二元論に絡め取られてしまっているように見えますし、本文のこういう記述にも「ホントに大丈夫かな」と思わずにはいられません。

 また、複雑な問題(とくに経済政策)についても理解を促す効果があったことも事実であろう。一九九六年総選挙において、橋本首相が消費税の引き上げを訴えたとき、財源がないのだから消費税の引き上げもやむを得ないと多くの有権者が納得し、増税をいっても選挙で勝てるという、それまでになかった事態を生んだのはその一例である。
大嶽『同上』p.226


経済政策を正しく理解するということと、有権者が納得して「選挙に勝てる」かどうかというのは全く別の問題ですよね。バブルが崩壊した直後であるにもかかわらず、日銀が金融を引き締め続けている中で、橋本内閣が敢行した消費税引き上げや財政再建といった超緊縮財政が1998年の経済危機を招いた一因であったことは、正しく理解されているんでしょうか? 「理解を促す効果」のように見えたものは、結局のところ「既得権益に凝り固まった政治家・官僚」を「カイカク」するためのスローガンに過ぎなかったというのが、実態ではないかと思います。

実は大嶽先生は、こういった問題そのものは認識されているというのが頭の痛いところ。学者であっても畑違いではとんちんかんなことはよくありますが、こと経済政策についてはそれで済まない問題があります。大嶽先生の言葉を借りれば、ちょっと引用が長くなりますが、

 政治に対する関心を高めたことに貢献したとしても、反面で、「劇場型」政治のもつ善悪二元論を強化し、新聞がかねてからもっていたポピュリズム的政治理解を一層促進したと言わざるを得ない。「小泉・眞紀子ブーム」のような日本政治のセンセーショナリズム化と、それが伴った(橋本派、「抵抗勢力」との)善悪二元論は、報道番組のもつ成熟度(そして「民度」の成熟)に依然大きな限界があったことを示している
 そもそも、ストーリー性と事件の意義付けによってはじめて、ポピュリズムを支えるドラマが成立する。ニュースには、「なまじまとめると偏向する。それよりあるがままの断片的事実を放映するほうが偏向しない」という説がある。むろん、何の編集も加えず「あるがままの事実」をそのまま放映することは理論的にも不可能ではあるが、ワイドショー的にニュースが、それ以前のニュースがもつ(あるいは新聞のニュースがもつ)断片化という批判に応えて、より編集に力を入れたことで、「偏向」の危険を大きくしたことは否定できない事実である。おもしろいニュースにすればするほど、その危険は大きい。従来の細切れ的なニュース番組では、ポピュリズムの危険もまた少なかったと考えると、皮肉な発展であったと言わざるを得ない。こうした危険を、関係者はどこまで自覚しているかが問題であるが、その自覚は少ないように思われる。

二つの二元論
 ただ、ここで注目したいのは、八〇年代までの新聞の善悪二元論は、とくに朝日、毎日といった(クオリティ・ペーパーとしての性格、あるいは少なくともその自覚をもった)大新聞においては、戦後政治の基本的対立軸を中心に置いており、「保守・反動」=戦前型政治の復活を画策するもの、「革新」=その動きを阻止する平和勢力という対立図式をもっていたことである。それに対し、テレビでは、政治家のパーソナリティを前面に出すことによって、腐敗した悪徳政治家・官僚と清潔な「改革」政治家という二元論に代わった。九〇年代初頭に冷戦が終焉し、再軍備・安保という戦後最大の左右対立を風化させていた事態を反映したということでもあろうが、テレビのもつ属性が風化を加速したことも見逃せない。
大嶽『同上』pp.226-227


とおっしゃるように、「保守」vs「革新」が「既得権益」vs「カイカク派」に変わっただけのことというのが関の山でしょう。ただ、それを「報道番組のもつ成熟度」とか「民度」の成熟の限界としてしまう背景には、もっと市民を啓蒙すれば成熟度が増してすばらしい「民意」がもたらされるという、多少楽観的に過ぎる希望が見え隠れしているようにも思います。

もっとぶっちゃけていえば、おそらく「民意」ってのは昔からもこれからもそんなものであって、それを前提に民意から隔離した部門が制度設計するほうが人々の生活は向上する場面が多いだろうとは思いますが、逆にそれでは政治に参加しているという「満足度」が得られなくなります。現在に至る日本の政治状況をみていると、生活が苦しくても政治に参加する満足度を選ぶという一風変わった選好があるように思われてなりませんね。

2009年04月14日 (火) | Edit |
官邸ホームページにすら載ってない「安心社会実現会議」が昨日開かれたそうですが、麻生首相もその出自からして当然の如く経営者目線の改革派だったことをすっかり忘れていました。

「『安心社会実現』へ議論 有識者会議、13日初会合」(東京新聞 2009年4月8日 朝刊)
 政府は七日、麻生太郎首相が掲げる「安心と活力ある社会」を実現するため、新たな国家ビジョンの確立を目指す有識者会議「安心社会実現会議」を設置した。十三日に初会合を開く。六月ごろまでに意見を取りまとめ、経済財政運営に関する二〇〇九年の「骨太の方針」に反映させる方針。

 首相は記者団に、会議の目的を「安心できる社会の道筋を有識者とともに議論する。日本が目指す安心社会の見取り図を示す」と説明。雇用や医療、年金、介護、子育て支援の政策目標や優先順位について議論する考えを示した。首相が明言している経済好転後の消費税率引き上げなど財政健全化についても議題に上る見通し。

 政府が今月末の提出を予定する過去最大規模の〇九年度補正予算案では、赤字国債の追加発行は避けられない。

 首相としては、会議を通じて社会保障や財政の中長期的な取り組みをアピールし、ばらまき批判を回避する思惑もありそうだ。

 会議の設置に伴い、増田寛也前総務相を七日付で内閣官房参与に任命し、会議事務局の事務局長に起用した。

 増田氏以外の会議メンバーは次の通り。

 伊藤元重東大教授▽小島順彦三菱商事社長▽高木剛連合会長▽但木敬一弁護士▽張富士夫トヨタ自動車会長▽成田豊電通最高顧問▽日枝久フジテレビ会長▽宮本太郎北大教授▽武藤敏郎大和総研理事長▽矢崎義雄国立病院機構理事長▽山内昌之東大大学院教授▽山口美智子薬害肝炎全国原告団代表▽吉川洋東大教授▽渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長


与謝野氏の経済財政諮問会議形骸化路線が本格化してきましたね。

結局のところ、小泉内閣でのコーゾーカイカクがいわば大衆の支持を背景にしながら、財界の意向に沿った形で進められていたとするなら、安倍内閣以降は(小泉内閣と比べると)大衆の支持を失ってしまったために、経営者目線の改革路線のみが残ってしまっているように思います。このメンツを見ても、連合会長と3名の学者と薬害肝炎患者の方(なんで?)を入れて格好をつけていますが、マスコミを含めて経営者が勢揃いといった風情ですし。

経営者目線というと違和感があるかもしれませんが、要は「民間感覚」のことですね。ネット系のベンチャー企業からステップアップして放送局を買収しようとした経営者は叩かれてしまいましたが、この不況下で業績を回復した会社経営者はさらにもてはやされるようになっています。一昔前に流行ったビジネスモデルはマネーゲームとかいわれてしまうので、最近の流行はグリーンニューディールとか農業法人とかなわけですが、「民間感覚」と称した経営者目線のカイカク路線は盤石なわけです。

しかも、事務局長には元「改革派知事」の増田氏を起用することで、地方分権にもきちんと目配りが聞いています。ただまあ、何度も書いていますけど、俺みたいな末端の下っ端チホーコームインからすれば知事とか大きい市町村の首長なんて、選挙で選ばれてきた現場の実務も何もしないトップなわけですよ。

民間の会社勤めの方なら、社長が「私は現場を重視しますからね」とかいいながら顧客と適当に話をしてきて、会社に戻って「こういう話されたからあとはよろしく」なんていわれたら、「アイツ現場分かってねえ!」といいたくなることもあるのではないかと。さらに、そういう理不尽な指示を何とか形にしたところで、社長に「こんなのではうちの会社の評判にそぐわない」とかダメ出しされたらやってられなくなりますよねえ。

いやもちろん、その顧客の話がまっとうなものなら何も問題はないのですが。

2009年04月09日 (木) | Edit |
特にこれといった理由もありませんが、「中央集権っていつの話?(2009/03/15(日))」で、
「それにしても、小泉劇場とかポピュリズムとかは新自由主義で日本を破壊したとかいって皆さんコリゴリなはずなんですけど、こうやって形を変えればまだまだポピュリズムもイケてるということなんでしょうか。」
と書いて自分で気になってしまったので、ポピュリズムの本を読んでみました。
日本型ポピュリズム―政治への期待と幻滅 (中公新書)日本型ポピュリズム―政治への期待と幻滅 (中公新書)
(2003/08)
大嶽 秀夫

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大嶽先生の本を選んだのは、個人的に信頼できると思う唯一の政治学者だからというのが理由なんですが、あとがきに書かれた改革派によるマクロ経済政策に対する批判がR・クー氏と植草一秀氏の主張に依拠したものというのは、今となっては痛々しい限り。そうはいっても、大嶽先生のアジェンダに対する政策アリーナ設定についての方法論は、社会科学を対象とした考察を行う上で欠かせないスキルだと思うので、ライブ感覚でその過程を綴った『政治過程』は現在でも必読だと思います。
政策過程 (現代政治叢書)政策過程 (現代政治叢書)
(1990/10)
大嶽 秀夫

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『日本型ポピュリズム』の話に戻ると、この本では、1980年代末に始まる「ワイドショー的報道番組」の変遷と合わせながら、1990年代の細川連立政権から「加藤の乱」を経て小泉政権が誕生するまでを、ナショナリスティックな傾向をもちやすい海外のポピュリズムに対比させた「日本型ポピュリズム」というタームで論じています。現在ではその「日本型ポピュリズム」という仕組みがさらに深化しているためか、2003年の新書ではありますが、今のねじれまくった政治状況に麻痺した頭で読み返してみると頭の整理をするのにちょうどいい感じです。

例えば、

ブレアに代表される(欧米で九〇年代末に広く提唱された)「第三の道」論は、一方で、経済のグローバル化を不可避の与件として受け入れ、市場競争原理と小さい政府論を主軸とした新自由主義に接近し、他方で、新自由主義を超える原理として、地方自治やNGOの重要性を積極的に評価し、マイノリティの文化的多様性を認める「市民社会論」(civil society)を提唱するものである。こうした社会理念の変容を経て、欧米の社会政党は復権を果たし、九〇年代末にはアメリカの民主党を加えれば、ほとんどすべての主要先進国で社会政党が政権を獲得した。
大嶽『同上』p.13
※ 以下、強調は引用者による。


という欧米の政治状況との対比において、90年代末の日本はどうだったかというと、

日本の文脈でいえば、社会勢力は、小沢路線のもつ新自由主義的要素を取り込み、さきがけ・日本新党の市民政治論を受け入れて、再生する必要があった。この課題は困難なものではあったが、その可能性がなかったわけではない。
大嶽『同上』p.13


だそうで、「小沢路線のもつ新自由主義的要素」って今の民主党支持者はどう思うんでしょうね。もちろん、大嶽先生はこれに続けて、

民主党が結成以来、行政改革を掲げてきたように、一定程度、新自由主義的政策に共鳴を示しているのも、欧米の「第三の道」の流れに強調していることを示している。
大嶽『同上』p.14


としているわけですが、その民主党が小沢党首となった途端に、国民新党のみならず、社民党や共産党と「反新自由主義」で共闘している様というのは大変趣があります。
なんというか、この1990年代末の状況が一回りねじれているとしたら、現在の状況は二回りも三回りもねじれているわけで、こうして過去の経緯をたどってみるとやっと現状が理解できるという感じです。

あとは、橋本内閣において財政再建を徹底して進めていた加藤紘一氏が、「加藤の乱」で政治の表舞台から退場したことは、もしかすると今の日本にとってすらラッキーだったのかもと思いました。

ここで、加藤の政策的立場の全体像を、当時出版された加藤の著書『いま政治は何をすべきか』をもとに一瞥しておこう。加藤は、自民党の派閥の領袖として村山内閣時代に政調会長、次いで橋本内閣時代には幹事長として自社さ政権の政策調整の要の地位にあった。

(略)

「小さい政府」志向が、加藤が橋本内閣における消費税二%アップ実現に尽力し、次いで(金融危機に直面した)橋本首相による積極財政への路線転換に抵抗し、財政再建路線に最後まで固執した理由であり、さらに小渕内閣による大規模な減税政策への批判につながっていた。
「不景気とはいっても、それは〔中略〕企業の話で、国民生活を見れば世界でも有数の高消費が続いている。海外旅行も依然として盛んだ」、したがって、ここで財政再建を中断して改革を中止しては企業の側に「再び政府に頼る風潮が頭をもたげ」てしまうというのが、加藤の主張であった。そしてまた、加藤には「国民は痛みを伴う改革の必要性を理解してくれているという判断もあった。その立場から橋下改革、なかんずく財政再建の再スタートを主張したのである。
大嶽『同上』pp.39-40


・・・ガクブルもんです。
そして、この「加藤の乱」を、当時の森政権を支えた森派から徹底的に潰しにかかったのが小泉純一郎氏だったわけで、その小泉氏が加藤氏譲りの徹底的な財政再建である「構造改革」を掲げて圧倒的な支持を得たのは、歴史の綾というものですな。

ただまあ、小泉政権2年目に書かれた本書の制約上、

ところが実は、ポピュリズムが機能する上で、日米のあいだにはさらに重大な制度上の違いが存在する。それは、任期が一定期間保証されている大統領、知事などと違って、日本の首相は、絶えず「引きずり降ろされる」脅威にさらされ、また、国民の支持だけで再選を得られるわけでもなく、権力の維持のためには、国会議員の支持が遙かに重大な意味をもつという点である。

(略)

この不安定性から、議員の抵抗を排して、思い切った改革を行うには限界がある。大統領以上に、任期、再選を確保する必要が優先されがちとなるのである。小泉の提起した改革実現のためには、長く首相をやる必要があるからなおさらである。二年目に入ってから小泉改革が失速しているのは、ここに最大の原因があるといえよう
大嶽『同上』p.129


となっているわけですが、小泉内閣2年目の2002年というと社会保障と税制の一体的改革(「あるべき税制」とか)の議論をしているころで、片山総務大臣(当時)が「三位一体の改革」と言い出したのはちょうどこの本が出版された2003年4月あたりですね。つまりは、本書で指摘されている「日本型ポピュリズム」は、同じく本書で詳細に述べられている田中真紀子外相の更迭問題を乗り越えて、小泉内閣に対する国民の絶対的支持を維持する結果となり、ここから小泉改革は郵政民営化に向けて一気に動いていくわけです。

まあそういった制約はあるにせよ、現在の政治状況を生んだ潮流や、規制緩和などに代表される新自由主義というのは、決して小泉内閣に始まったものではなく、細川連立政権やその前のワイドショー的報道番組の誕生によって準備されたものであったことを改めて確認するために、本書は便利な一冊だと思います。


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