2009年02月14日 (土) | Edit |
HALTANさんのところで「足による投票」という言葉が使われているんですが、この言葉は経済学で使う概念とは違う意味で使われることが多いようです。HALTANさんには恐縮ですが、HALTANさんのエントリを題材としてその辺の違いを書いてみようと思いますので、一応用語の使い方には正確を期すべきだろうということでご了承ください。

ただし「分権」がまずいのは三位一体の改革と都道府県・市区町村への権限移譲で急激な「足による投票」が行なわれてしまうこと(id:HALTAN:20090208:p1) この余波で市街地・大都市部の再開発も停滞し日本全体が経済成長できなくなる可能性は高い。国土計画は野放図な「足による投票」で行なうのではなく、あくまで責任を持って中央政府が統括的に行なうべき。都会人で「分権マンセー」「田舎者死ね」が本音の者もそろそろこの程度の現実には気づいてはどうか?
[床屋政談]「地方分権」よ・・・おまえはもう死んでいる!(2009-02-13)」(HALTANの日記


ここでHALTANさんが指摘されていることというのは、地方分権によって格差が生じることによって、移住できる人が自分の望むところへ移住するために、人口が偏在して二極化してしまうということだと思います。おっしゃる懸念は理解できますが、これを「足による投票」というジャーゴンで評してしまうのは、「足による投票」にとってもあまりに荷が重すぎるのではないかと。後述するように、「足による投票」は資源配分の効率性を高めるためには政府の数が多いほどいいというモデルを説明した純粋な経済学の用語なので、人口の偏在とか所得再分配の公平性までを論じることはできません。

結論から先にいえば、「足による投票」が描く資源配分が効率化された世界というのは、単一の意志決定プロセスではなく、細切れになった意志決定プロセスが存在し、その意志決定が、地域的に限定された公共財供給と負担のバランスとなって実現している世界です。したがって、資源配分の効率化のためには、住民の選好が細分化されているのに応じて意志決定プロセスが細分化されるべきということになりますので、地方政府は多い方がいいということになります。つまり、道州制だの市町村合併とは真逆の理論なんですね。

ところが、経済学者(後述する神野先生など)でも「足による投票」の言葉尻だけをとらえて、人が簡単に移動できるわけがないから「足による投票」なんて成り立たないといってみたり、「足による投票」のせいで自治体競争が激化してしまうとか、本来の概念とはかけ離れた批判をしてしまいます。特に後者に関していえば、政府間財政移転という概念によって実証的に分析されるものであって、一見便利な「足による投票」で説明するとかえって論点がずれてしまうのではないかと危惧してしまいます。

※ 参考までに「フィナンシャル・レビュー平成18年(2006年)第3号(通巻第82号)」の各論文で、公共経済学における地方財政の分析の一端がご覧いただけます。

まあ、経済学の中でも思想の違いによって錯綜してしまう状況があるわけで、一般の方々にとってみれば「まず経済学的にまとめろ」ということになるんでしょうけど、「足による投票」という言葉を使うときにはそういう理論だということを少し気にとめていただければ幸いです。




というわけで、俺なんぞでは力不足ではありますが、以下経済学の言葉を使ってまとめてみます。ネタ元は毎度お世話になっている中井『地方財政学』(2007、有斐閣)からの引用ですので、関心のある方はそちらをご確認ください。
地方財政学―公民連携の限界責任地方財政学―公民連携の限界責任
(2007/04/02)
中井 英雄

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厚生経済学では、サミュエルソンのフリーライダーについての悲観論によって、住民が選好顕示する負担は最適な公共財供給の水準に対して過小になることが指摘されています。これに対して、ティブーは、意志決定プロセス(=政府)が地域ごとに細かく分散して、公共財供給と負担のバランスが様々な水準で実現されている世界を想定しました。その世界では、選好の異なる住民が、その選好に見合った公共財を供給し、かつそれに見合った徴税をする「細切れ政府」の地域に移住するので、結果的に特定の「細切れ政府」の地域における公共財の供給と負担のバランスと、各住民の選好が一致し、パレート最適が達成されると主張したのです。

つまり、

地方公共財は便益の範囲が一定地域に限定されるので、個々の地方政府が、独自の支出と負担のパターンについて「アカウンタビリティ」(説明責任)を発揮すれば、住民は自分の行政ニーズにあった地域を選択できる。このように、足による投票は、住民の地域選択によって、公共財の真の需要を表明させようとしたのである。このため、足による投票の理論は、転入・転出を繰り返す大都市のような「移動社会」を前提とし、公共財の範囲も地方公共財に限定される。だが、公共財のパレート最適が、足による投票で達成できるのであれば、分権化の意義は大きい。
中井(2007)p.15
※ 強調は引用者による。

というわけで、サミュエルソンの主張が、住民は負担を低くしようとウソをつく以上それを原資とした公共財は過小になるということだったのに対して、ティブーは、「いいや、地方公共財供給と負担のバランスが地域ごとに細切れになっていれば、それぞれの好みの地域へ移住することによって住民は満足できるはずだ」と主張したわけです。

したがって、ティブーの「足による投票」はあくまで資源配分の受益と負担の効率化について、選好顕示によってパレート基準での最適化を図るための理論なのです。このため、ティブーの「足による投票」において住民の移動は前提となっているので、住民が移動した後の所得再分配の公平性や最適人口規模について保証するほどの射程はもっておりません。逆に言えば、そういう資源配分の効率性の基盤となるのが、所得再分配の公平性なわけで、これを担うことができるのは中央政府のみです。「自治と集権は、一方が強いことがもう一方が強いための条件である」ということですね。

今のところ、住民移動を考えるモデルとしてのティブーの「足による投票」と、住民移動を考えないオーツの「分権化定理」(住民の選好に応じて各地域の政府が公共財供給の水準を変えることによって、パレート最適を図る)を組み合わせることにによって地方分権のメリットが説明されています。つまり、「細切れの政府」が多数存在しているという前提で、各政府から各政府への移住が容易な場合、その移住が一通り終わった時点(ティブー均衡)であれば、移住してきた住民の選好に応じて「細切れの政府」が公共財供給と負担のバランスを決定すれば、パレート最適が達成されるということになります。

もしかするとそれは人口が偏在して所得再分配もうまくいっていない世界かもしれませんが、少なくとも資源配分の効率性は達成されているので、「足による投票」はきちんと成立していることになるのです。

さらに、ここで注意していただきたいのは、意志決定プロセスの分散とそれに基づく公共財の供給と負担の水準が多様化していることが必要なだけであって、その「意志決定プロセス」が必ずしも独自の権限をもった地方政府である必要はありません。極端な話、中央政府だけしか存在しなくても、その出先機関がその地域ごとに違った地方公共財を供給してそれに見合った税金を徴収してしまえば、ティブーの「足による投票」は達成されることになります。つまり、地方分権のメリットをティブーの「足による投票」説明しようとしても、同じ効果は地方支分部局でも十分達成可能なので、必ずしも地方自治体に権限を与える根拠にはなりません。

これまでの議論で明らかだと思いますが、ティブーの「足による投票」の理論はあくまで、単一の意志決定プロセスよりは複数の意志決定プロセスが存在する方が望ましいということを主張するだけのモデルなので、厳しい仮定を置かなければ成立しません。このため、現実の世界には適用できないとの批判に曝されてしまい、手元にないのでうろ覚えですが、神野センセイと金子センセイなんかは「仮定を置いた新古典派のモデルに過ぎない『足による投票』なんて非現実的だ」とか書いていたような気がします。
地方に税源を地方に税源を
(1998/05)
神野 直彦金子 勝

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以上のとおり、ティブーの「足による投票」は政府が細切れになっている方が効率的ということだけを示す理論であって、地方自治体を小さくして数を増やすことは正当化されますが、道州制や市町村合併なんて論外です。さらに、オーツの「分権化定理」も含めて、地方政府の規模を小さくして資源配分の効率化の機能に特化させることが望ましいと示しているわけで、これらの理論を用いて導かれる地方分権とは、大きな中央政府によって所得再分配と経済安定化の機能が十分に担保されたうえで、各地域において資源配分の効率化が地方政府によって追及されるというものになります。

というわけで、「小さな中央政府と大きな地方政府」という議論は、少なくとも公共経済学を基礎とした地方財政論からは導かれませんので、そんな話をしている経済学者はトンデモ認定していいのではないかとすら思います。その中に暗黒卿も入っているというのが、個人的に「リフレ派」に与することができない理由なんですけどね。
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