2009年02月26日 (木) | Edit |
支持率が低下したと騒いでは内閣改造だのという話まで出ているようですが、黒い猫でも白い猫でもネズミを捕るのがいい猫(by小平)なわけで、誰でもいいからはやいところマクロ経済政策をやってください。

というわけで、前回エントリに引き続きアリエリー『予想どおりに不合理』から、この点を指摘した第8章を引用させていただきます。
予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」
(2008/11/21)
ダン アリエリーDan Ariely

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この章は、冒頭で項羽が背水の陣を敷いて秦軍を壊滅させた正確には敵であった韓信の戦法をパクったんだそうですが)*1というエピソードからはじまって、選択肢があることがかえって判断を難しくするということを数々の実験結果から導き出します。そこで、選択肢を絞っていけばいいのではないかということも考えられますが、選択肢を二つだけにしたとしても結局は判断は難しいとのこと。

 たくさんの扉を閉じて、あとふたつだけ残っているとしよう。こうなれば選ぶのは簡単だと言いたいところだが、そうでない場合も多い。というより、同じくらい魅力のあるふたつの選択肢のどちらを選ぶか決めるのは、もっともむずかしい決断の部類に入る。これは、選択肢の扉を長い間開きっぱなしにしておくというだけでなく、最後に報いを受ける事態になるまで優柔不断でいるという状況だ。
p.207
※ 強調は引用者による。


ここで、腹を空かせたロバが納屋に行ったらまったく同じ大きさの干し草の山があって、どちらの山を選ぼうかと迷っているうちに飢え死にしたというたとえ話が挿入されます。政権交代が自己目的化して景気対策に反対しているどこぞの国の野党とダブって見えますね。アリエリーも皮肉たっぷりにこう続けます。

 もちろんこれは架空の話で、ロバの知性を不当に中傷している。もっといい例は連邦議会だろう。連邦議会はよく膠着する。法律の全体像――老朽化するハイウェーの修復、移民、絶滅危惧種保護対策など――にかかわるものばかりとはかぎらず、細かい部分の意見の相違が原因のこともある。こうした問題に対する両党の方針が、ふたつの干し草の山に相当するように見えることも少なくない。にもかかわらず、あるいは、だからこそ、議会はちょくちょくふたつの干し草の真ん中でとりのこされる。すばやく決めてくれるほうがだれにとってもいいと思うのだが、どうだろうか
pp.207-208
※ 強調は引用者による。


ここでさらに、同じような性能のデジカメを買うのに3か月迷ったという友人の話を紹介して、こう続けます。

 ふたつのものごとの類似点とわずかな相違点に注目していたとき、私の友人が(それに、ロバと議会も)忘れていたのは、「決断しないことによる影響」を考えに入れることだ。ロバは飢えることを考えていなかった。議会はハイウェー法について議論しているあいだに失われる人命のことを考えていなかった。私の友人は撮れずに終わったすばらしい写真のことを考えていなかった。家電量販店で費やした時間は言うまでもない。さらに重要なのは、三者とも、どちらかに決めることで生じるちがいがほんのわずかだという点を考えに入れていなかったことだ。
p.208
※ 強調は引用者による。


「決断しないことによる影響」を考えたとき、バブル崩壊後の日銀の引き締めに始まるデフレ不況についての「失われた○○年」という表現は、まさに言い得て妙というしかありません。金融引き締め以外何もしない日銀と、家計貯蓄を切り崩すために財投を通じた財政出動を繰り返した政府の対比という構図でとらえると、1990年代後半における日本のマクロ政策の無策ぶりによって失われたものが、より一層際だちます。

そしてアリエリーは、本書のタイトルでもある絶望的な言葉で8章を締めくくります。

 私の友人はどちらのカメラを選んでも同じように満足したことだろう。ロバはどちらの干し草を食べてもよかったはずだ。議会の議員たちは、法案のわずかなちがいには目をつぶって、自分たちの成果を勝ちほこって地元に帰れたはずだ。つまり、三者とも、これを簡単な決断だと考えればよかったのだ。
(略)
 たぶんあなたは、この本に書かれたわたしの知恵を買うために、なんらかのお金(読む時間と、そのあいだにできたかもしれないほかの活動については言うまでもなく)を投資してくれたのだろう。だから、わたしも結局はあのロバのように、ふたつの非常に似かよった干し草の山のちがいを見きわめようとしたことなどと、あっさり認めるべきではないかもしれない。だがそれが事実だ。
 決断をくだす過程のむずかしさはもともと知っているはずなのに、わたしもほかのみんなと同じように予想どおりに不合理な行動をしてしまったわけだ。
pp.209-.210
※ 強調は引用者による。


拙ブログでもさんざんマクロ経済政策をやれと書いてきてはいますが、所詮不合理なマクロ経済政策しか実行されないということであれば、思わず「反マクロ経済」とか言ってしまいそうになります。

はっ、そうか。もしかして「反貧困」の方々こそがマクロ経済政策に対する期待が大きすぎて、現状に絶望した反動で「反市場主義」とかおっしゃっているのかも・・・

んなこたぁない。




*1 項羽が反秦軍として鉅鹿包囲軍を壊滅させたときにこの戦法を使ったのが先で、韓信はその項羽を井陘の戦いで同様の戦法で破り、これが「背水の陣」の語源となったとのことでした。大変失礼しました。
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2009年02月24日 (火) | Edit |
とあるエントリで取り上げさせていただいたかた方から直接ご連絡いただきました。貴重なコメントありがとうございました。試行錯誤の中で現在の文化が育ってきたことはおっしゃるとおりだと思います。拙エントリは行政の側にはまだその意識が浸透していないのではという趣旨でしたが、こちらの記載にお気に障る部分があればお詫び申し上げます。

拙ブログでは巷間の建前とかキレイゴトを現場の目線で批判しようとしておりますが、いくら現場といっても所詮は役人の職業倫理に支配されているのかもしれないということを改めて自覚いたしました。仕事を離れれば一人の国民であり都道府県民であり市町村である身ではあっても、ひとたび仕事の話になれば、民間の方との間には一線が引かれてしまうのでしょう。そこを自由に行き来できるくらいの意思疎通ができるように精進したいと思う次第です。

さて、そんな役人の職業倫理と民間の間の一線について考えさせられたのが、前回エントリのコメントでちょっとパクってみた『予想どおりに不合理』です。
予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」
(2008/11/21)
ダン アリエリーDan Ariely

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行動経済学のさまざまな実験を通じて、人が不合理に行動することを前提に何をすべきかを具体的に考えようという一見無謀な試みが、この本では自然に展開されていきます。きわめておおざっぱに要約すれば、伝統的な経済学から導かれる結論が合理的であるとしても、それを基準にすれば人間は不合理な判断をするということであって、人間が不合理であることから出発して、それに対する合理的な対処法を考えればいいのではないかということが淡々とした筆致で述べられているといえるのではないかと。

個人的に大きくうなずいたのは4章の「社会規範のコスト」ですが、多少ネタバレになりつつ引用してみると、託児所への迎えに遅刻する親に対して罰金を科してもほとんど効果がないどころか、むしろ遅刻が増えてしまったという事例が紹介されています。

 しかし、ほんとうの話はここからはじまる。もっとも興味深いのは、数週間後に託児所が罰金制度を廃止してどうなったかだ。託児所は社会規範にもどった。だが、親たちも社会規範にもどっただろうか。はたして親たちの罪悪感は復活したのか。いやいや。罰金はなくなったのに、親たちの行動は変わらず、迎えの時間に遅れつづけた。むしろ、罰金がなくなってから、子供の迎えに遅刻する回数がわずかだが増えてしまった(社会規範も罰金もなくなったのだから無理もない)。
 この実験は悲しい事実を物語っている。社会規範が市場規範と衝突すると、社会規範が長いあいだどこかへ消えてしまうのだ。社会的な人間関係はそう簡単には修復できない。バラの花も一度ピークが過ぎてしまうともうもどせないように、社会規範は一度でも市場規範に負けると、まずもどってこない。
pp.116-117
※ 強調は引用者による。


ジェイン・ジェイコブス『市場の倫理 統治の倫理』に近い話ですが、ここからは話は企業と従業員の間の社会規範の役割へと展開していきます。
(参考)
市場の倫理 統治の倫理 (日経ビジネス人文庫)市場の倫理 統治の倫理 (日経ビジネス人文庫)
(2003/06)
ジェイン ジェイコブズ

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 従業員とのあいだに社会規範をつくりだして成功している企業もあるが、最近では短期利益や外部委託や厳しい経費削減に執着するあまり、すべてが崩壊の危機にさらされている。社会的交換においては、何かまずいことが起きても、相手方がそばにいて、自分を守り助けてくれると人々は信じている。契約書に明記されているわけではないが、必要なときにはお互いに面倒を見たり手を貸したりするのが一般的な義務だ。
 この場合も企業はふた股をかけることはできない。とくにわたしが心配しているのは、近年の福利厚生の削減――育児手当、年金、フレックスタイム制、トレーニング室、社員食堂、家族のための野外パーティーなどの縮小――によって社会的交換が犠牲になっている可能性が高く、従業員の生産性に影響が出るのではないかということだ。とくに、国民健康保険制度のないアメリカでは、医療給付の削減や変更によって、雇い主と従業員の社会的関係の大半が市場的関係に一変するのではないかと危惧している
pp.122-123
※ 強調は引用者による。


国民健康保険制度の話が出てこなければ日本の話かと思うほどに、実はアメリカの雇用関係が市場主義的になったのはここ最近のことのようです。そしてそのアメリカでも社会規範の有用性が説かれているわけで、同じような状況(アメリカは世界で唯一、原則解雇自由という特殊性はありますが)でさらなる雇用の流動化が称揚される日本の状況は相変わらず絶望的です。

さらに公務員の給料にも話が広がっていきます。

 たとえば、給料だけでは命をかける動機にはならない。警察官、消防士、兵士は、給料に殉じるわけではない。命や体を張るのは、社会規範――職業への誇りや義務感――のためだ。マイアミにいるわたしの友人は、以前、近海パトロールにいく米国税関員に同行したそうだ。税関はアサルト・ライフルを携行していて、逃げようとする麻薬密輸船の船体にまちがいなく穴をあけられそうだ。だが、実際に穴をあけたことがあるかという問いに、税関員はまさかと答えた。いま政府からもらっている給料のために命を投げ出すつもりはないという。
(略)
どうすればこの状況を変えられるだろう。まず、税関員が命がけで働く気になるくらい、連邦の給料をよくするという手がある。しかし、それはいくらだろう。典型的な麻薬密輸業者がバハマからマイアミまで船を疾走させて手に入れるのと同額の報酬だろうか。べつの手は、社会規範を高めて、税関員の任務は基本給以上の価値があり、社会機構を安定させるだけでなく、子どもたちをあらゆる種類の危険から救う職業として人々に敬われている(警察官や消防士が敬われるように)と本人たちが感じられるようにすることだ。もちろん、これには人を鼓舞する指導者が必要だが、達成は可能だ。
pp.125-126
※ 強調は引用者による。


「人を鼓舞する指導者が必要だが、達成は可能だ」・・・与党も野党も「天下り撤廃」と叫び、公務員の人件費をカットすることが財政再建の条件だとする「民意」なるものが支配する日本では、達成不可能ということですねわかります。結局、賃上げによる内需拡大を主張する労働組合が支持母体となっている民主党が、公的部門の人件費カットを主張しているというねじれまくった状態では、公務員の人件費や生産性はおろか、外部委託だって財政健全化のための調整弁としてしか見なされないのです。

昨日の「サキヨミ」でも、かんぽの宿が民間に譲渡されてから経営が黒字化しているという話が出てましたが、よくよく見てみると「かんぽの宿時代には60人いた従業員を15人にカットしました」ということが「民間経営の効率性」と称して颯爽と紹介されていました。そのカットされた従業員が次の就職先を見つけられなければ失業するわけですし、もし正社員からパートに切り替えたというのであれば、それこそが湯浅氏などが批判する非正規雇用の増加や雇用の不安定化を促進しているということですよね? かんぽの宿は大抵都市部から離れたところにあるので、そういった地域の雇用情勢はさらに厳しくなるはずで、いったい「民意」というのはどちらを指向しているのやら、と最後にはまた嘆き節になってしまいました。

2009年02月19日 (木) | Edit |
先月のエントリの最後に書いた「こんなことをクドクド書いたのも、うちでもワケのわからない「雇用対策」をやってるのをみて脱力したからですが、マスコミを含む一般受けはいいようで、ますます「失業対策」が遠のいたように思われるのが気のせいならいいんですけど・・・」というのが、例えばこういうことだったりします。

「企業支援:17自治体「地元」購入 自動車、TVやOA機器」(毎日新聞 2009年2月16日 東京朝刊)

 世界的な不況の波を受け企業城下町の自治体を中心に、地元に事業所や工場がある企業の製品を購入したり、住民に購入を勧める動きが広がっている。毎日新聞が全国調査したところ、15日現在で少なくとも17自治体に上った。工場閉鎖や人員削減が、地域に波及するのを懸念して支援を決めた自治体が多く、自動車や家電の工場などがある自治体では積極購入キャンペーンを行うところも。一方で、こうした動きには「税金の無駄遣い」との批判的な声も出ている。【まとめ・井出晋平】

 マツダのおひざ元、広島では県が約2億7000万円、広島市が1億3296万円、呉市約3000万円でマツダ車を購入する。

 岩手県では、県立施設などで東芝製テレビを買うほか、達増拓也知事もポケットマネーで購入。東芝は不況のため県内で半導体工場の着工延期を発表しており、早期着工を促す狙いもあるようだ。

 購入を推奨する動きも広がる。日産自動車九州工場、トヨタ自動車九州の苅田(かんだ)・小倉工場が立地する福岡県苅田町は、吉広啓子町長が町職員に両社の車の購入を呼びかけ7人が購入した。

 しかし自治体の支援に、批判的な声も。パナソニックに買収される三洋電機の子会社を抱える鳥取市。買収で子会社の整理も懸念されており、電動自転車などの製品購入は「地元の熱い思いを伝える一つのメッセージ」(竹内功市長)。だが、平井伸治・鳥取県知事は「400万、500万円を使って買ったからといって、事業継続に直結しない」と市を批判。市民からも「特定の企業だけを支援するのはどうか」といった批判が寄せられているという。


バイ・アメリカン条項は「保護主義だ」と批判する一方で、こんな「地域保護主義」が堂々とまかり通る地方自治ってのは相変わらずワケがわかりません。というより「地産地消」とか「食糧自給率向上」だって立派な保護主義なんですけど。

ところが、さらにワケがわからなくなるのが上記記事と同じ新聞社の地方版でのこんな記事。

ショートメール:バイ・アメリカン /静岡」(毎日新聞 2009年2月18日 地方版)

 不況が深刻化して、改めて日本がこれほど米国頼みだったかと思い知らされた。米国の住宅ローンの焦げ付きが、世界を巡り巡ってトヨタとソニーをつまずかせ、「派遣切り」につながった。

 なら、回復のためには元を断つしかない。米国民にカネを渡し、彼らが住宅や自動車を再び買い始めれば、ビッグ3もトヨタも立ち直る。世界的に「バイ・アメリカン」運動をしても効果はあるだろう。
(略)
 公共工事は後世に残るインフラ整備ができるのならいいが、緊急のカネつなぎ目的なら効果は一瞬。定額給付金は納めた税金を「私たちの能力ではうまく使えません」と政治家が返してくれるわけで、もらっても「大丈夫?」と心配になる。

 しかもそれを審議する国会は、郵政民営化に反対だったとかいう首相とろれつの回らぬ元大臣、「かんぽの宿」で立ち往生気味。やっぱりバイ・アメリカンの方がすんなりいくんじゃないの、と思うのは私だけ?【小林理】


こういうことを脳天気に公共のメディアに書いてしまう署名子は、そういった無責任なまでに悲観的で自虐的な観測が、回り回って消費者のデフレ期待や消費性向の減退を招いてしまうことを全く自覚できていないようです。それがご自分の首をしめることすらも自覚していないのでしょう。

こういうのって、報道による個人への名誉毀損や人権侵害よりもマクロな影響力があるだけにさらに悪質だと思うんですが、これを取り締まる法律もなければ、保護されるべき権益すら立証できないというのが歯がゆいところですね。

2009年02月14日 (土) | Edit |
HALTANさんのところで「足による投票」という言葉が使われているんですが、この言葉は経済学で使う概念とは違う意味で使われることが多いようです。HALTANさんには恐縮ですが、HALTANさんのエントリを題材としてその辺の違いを書いてみようと思いますので、一応用語の使い方には正確を期すべきだろうということでご了承ください。

ただし「分権」がまずいのは三位一体の改革と都道府県・市区町村への権限移譲で急激な「足による投票」が行なわれてしまうこと(id:HALTAN:20090208:p1) この余波で市街地・大都市部の再開発も停滞し日本全体が経済成長できなくなる可能性は高い。国土計画は野放図な「足による投票」で行なうのではなく、あくまで責任を持って中央政府が統括的に行なうべき。都会人で「分権マンセー」「田舎者死ね」が本音の者もそろそろこの程度の現実には気づいてはどうか?
[床屋政談]「地方分権」よ・・・おまえはもう死んでいる!(2009-02-13)」(HALTANの日記


ここでHALTANさんが指摘されていることというのは、地方分権によって格差が生じることによって、移住できる人が自分の望むところへ移住するために、人口が偏在して二極化してしまうということだと思います。おっしゃる懸念は理解できますが、これを「足による投票」というジャーゴンで評してしまうのは、「足による投票」にとってもあまりに荷が重すぎるのではないかと。後述するように、「足による投票」は資源配分の効率性を高めるためには政府の数が多いほどいいというモデルを説明した純粋な経済学の用語なので、人口の偏在とか所得再分配の公平性までを論じることはできません。

結論から先にいえば、「足による投票」が描く資源配分が効率化された世界というのは、単一の意志決定プロセスではなく、細切れになった意志決定プロセスが存在し、その意志決定が、地域的に限定された公共財供給と負担のバランスとなって実現している世界です。したがって、資源配分の効率化のためには、住民の選好が細分化されているのに応じて意志決定プロセスが細分化されるべきということになりますので、地方政府は多い方がいいということになります。つまり、道州制だの市町村合併とは真逆の理論なんですね。

ところが、経済学者(後述する神野先生など)でも「足による投票」の言葉尻だけをとらえて、人が簡単に移動できるわけがないから「足による投票」なんて成り立たないといってみたり、「足による投票」のせいで自治体競争が激化してしまうとか、本来の概念とはかけ離れた批判をしてしまいます。特に後者に関していえば、政府間財政移転という概念によって実証的に分析されるものであって、一見便利な「足による投票」で説明するとかえって論点がずれてしまうのではないかと危惧してしまいます。

※ 参考までに「フィナンシャル・レビュー平成18年(2006年)第3号(通巻第82号)」の各論文で、公共経済学における地方財政の分析の一端がご覧いただけます。

まあ、経済学の中でも思想の違いによって錯綜してしまう状況があるわけで、一般の方々にとってみれば「まず経済学的にまとめろ」ということになるんでしょうけど、「足による投票」という言葉を使うときにはそういう理論だということを少し気にとめていただければ幸いです。




というわけで、俺なんぞでは力不足ではありますが、以下経済学の言葉を使ってまとめてみます。ネタ元は毎度お世話になっている中井『地方財政学』(2007、有斐閣)からの引用ですので、関心のある方はそちらをご確認ください。
地方財政学―公民連携の限界責任地方財政学―公民連携の限界責任
(2007/04/02)
中井 英雄

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厚生経済学では、サミュエルソンのフリーライダーについての悲観論によって、住民が選好顕示する負担は最適な公共財供給の水準に対して過小になることが指摘されています。これに対して、ティブーは、意志決定プロセス(=政府)が地域ごとに細かく分散して、公共財供給と負担のバランスが様々な水準で実現されている世界を想定しました。その世界では、選好の異なる住民が、その選好に見合った公共財を供給し、かつそれに見合った徴税をする「細切れ政府」の地域に移住するので、結果的に特定の「細切れ政府」の地域における公共財の供給と負担のバランスと、各住民の選好が一致し、パレート最適が達成されると主張したのです。

つまり、

地方公共財は便益の範囲が一定地域に限定されるので、個々の地方政府が、独自の支出と負担のパターンについて「アカウンタビリティ」(説明責任)を発揮すれば、住民は自分の行政ニーズにあった地域を選択できる。このように、足による投票は、住民の地域選択によって、公共財の真の需要を表明させようとしたのである。このため、足による投票の理論は、転入・転出を繰り返す大都市のような「移動社会」を前提とし、公共財の範囲も地方公共財に限定される。だが、公共財のパレート最適が、足による投票で達成できるのであれば、分権化の意義は大きい。
中井(2007)p.15
※ 強調は引用者による。

というわけで、サミュエルソンの主張が、住民は負担を低くしようとウソをつく以上それを原資とした公共財は過小になるということだったのに対して、ティブーは、「いいや、地方公共財供給と負担のバランスが地域ごとに細切れになっていれば、それぞれの好みの地域へ移住することによって住民は満足できるはずだ」と主張したわけです。

したがって、ティブーの「足による投票」はあくまで資源配分の受益と負担の効率化について、選好顕示によってパレート基準での最適化を図るための理論なのです。このため、ティブーの「足による投票」において住民の移動は前提となっているので、住民が移動した後の所得再分配の公平性や最適人口規模について保証するほどの射程はもっておりません。逆に言えば、そういう資源配分の効率性の基盤となるのが、所得再分配の公平性なわけで、これを担うことができるのは中央政府のみです。「自治と集権は、一方が強いことがもう一方が強いための条件である」ということですね。

今のところ、住民移動を考えるモデルとしてのティブーの「足による投票」と、住民移動を考えないオーツの「分権化定理」(住民の選好に応じて各地域の政府が公共財供給の水準を変えることによって、パレート最適を図る)を組み合わせることにによって地方分権のメリットが説明されています。つまり、「細切れの政府」が多数存在しているという前提で、各政府から各政府への移住が容易な場合、その移住が一通り終わった時点(ティブー均衡)であれば、移住してきた住民の選好に応じて「細切れの政府」が公共財供給と負担のバランスを決定すれば、パレート最適が達成されるということになります。

もしかするとそれは人口が偏在して所得再分配もうまくいっていない世界かもしれませんが、少なくとも資源配分の効率性は達成されているので、「足による投票」はきちんと成立していることになるのです。

さらに、ここで注意していただきたいのは、意志決定プロセスの分散とそれに基づく公共財の供給と負担の水準が多様化していることが必要なだけであって、その「意志決定プロセス」が必ずしも独自の権限をもった地方政府である必要はありません。極端な話、中央政府だけしか存在しなくても、その出先機関がその地域ごとに違った地方公共財を供給してそれに見合った税金を徴収してしまえば、ティブーの「足による投票」は達成されることになります。つまり、地方分権のメリットをティブーの「足による投票」説明しようとしても、同じ効果は地方支分部局でも十分達成可能なので、必ずしも地方自治体に権限を与える根拠にはなりません。

これまでの議論で明らかだと思いますが、ティブーの「足による投票」の理論はあくまで、単一の意志決定プロセスよりは複数の意志決定プロセスが存在する方が望ましいということを主張するだけのモデルなので、厳しい仮定を置かなければ成立しません。このため、現実の世界には適用できないとの批判に曝されてしまい、手元にないのでうろ覚えですが、神野センセイと金子センセイなんかは「仮定を置いた新古典派のモデルに過ぎない『足による投票』なんて非現実的だ」とか書いていたような気がします。
地方に税源を地方に税源を
(1998/05)
神野 直彦金子 勝

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以上のとおり、ティブーの「足による投票」は政府が細切れになっている方が効率的ということだけを示す理論であって、地方自治体を小さくして数を増やすことは正当化されますが、道州制や市町村合併なんて論外です。さらに、オーツの「分権化定理」も含めて、地方政府の規模を小さくして資源配分の効率化の機能に特化させることが望ましいと示しているわけで、これらの理論を用いて導かれる地方分権とは、大きな中央政府によって所得再分配と経済安定化の機能が十分に担保されたうえで、各地域において資源配分の効率化が地方政府によって追及されるというものになります。

というわけで、「小さな中央政府と大きな地方政府」という議論は、少なくとも公共経済学を基礎とした地方財政論からは導かれませんので、そんな話をしている経済学者はトンデモ認定していいのではないかとすら思います。その中に暗黒卿も入っているというのが、個人的に「リフレ派」に与することができない理由なんですけどね。

2009年02月10日 (火) | Edit |
たいした話ではありませんが、コームインは使い物にならないヤツが多くて、アルバイトでももっとマシな仕事ができるんじゃないか、だったらコームインなんか全員クビにしてしまえ!という話がよくあります。昨今の経済情勢で雇用不安が拡大する中では、こういう主張がまたぞろ声高に叫ばれてしまうわけですが*1、そんな言われ方をしてしまうコームインの能力開発についてのカラクリをメモしておきます。なお、この議論は樋口『人事経済学』(生産性出版、2001)の第5章、第6章を基に勝手に解釈させていただいているので、関心のある方はそちらをご確認ください。
人事経済学人事経済学
(2001/07)
樋口 美雄

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一般企業で考えた場合、労働者の能力開発は投資の一種(人的投資)と考えられますが、労働者の能力といっても、ほかの企業でも通用する一般的な能力と、その企業でしか通用しない企業特殊的能力の二つがあります。まず一般的能力については、その企業に限らずどこでも通用するわけですから、労働者個人にとっては自分の生産性を向上させて給料を上げたり、あわよくば転職して待遇を改善させる可能性があるので、労働者個人には自らその能力開発をするインセンティブがあります。しかし、企業にとっては、その労働者が一般的能力を高めてしまうと、待遇のよいほかの企業に移ってしまうリスクがあるので、社内教育をしてまでその能力開発をするインセンティブはありません。

一方、企業特殊的能力については、労働者にとってみればその企業がつぶれてしまったりクビになってしまった場合はほとんど価値がなくなってしまうので、労働者個人が自ら能力開発する理由はありません。一方、企業にとっては、その能力がないとその企業が回らないわけですから、社内教育なりOJTによってその能力を開発する必要があり、さらに労働者にインセンティブを与えるため、その能力によって得られた収益を労働者に分配しなければなりません。したがって、企業特殊的能力は共同投資、共同回収の性格を持ちます。

というわけで、一般の企業においては、前者については労働者のインセンティブに従って就業前の学校教育や個人の自己啓発によって、後者については企業と労働者双方のインセンティブに従って社内教育によって能力開発されるというのが一般的な形態となるわけですが、これがコームインの場合は当てはまらないというのが問題なわけです。

まず、前者の一般的能力についていえば、入る前の学歴や成績は、特にキャリア官僚では一般の企業より高いですし、チホーコームインもそれなりの学歴だったりしますが、採用後は厳格な就職年次別の雇用管理のために、能力開発そのものに対するインセンティブが弱くなってしまいます。さらに、身分保障があることによって、少なくとも解雇に備えて一般的能力を高めようというインセンティブが削がれてしまいます*2

また、後者の企業特殊的能力についても、一般の企業であればその効果は業績に響くものの、行政体の場合はそれが直ちに税収などに反映されるわけではないため、人事当局がその能力開発の経費を負担するインセンティブはありません。さすがに仕事が回らなくなると困るので、その限りでの最低限のOJTは行われるでしょうけど。

ただし、企業特殊的能力について注意しなければならないのは、一般企業であれば倒産や解雇という将来の不確実性のために労働者の側のインセンティブが弱められるのに対し、身分保障のある行政体の場合はそれがありません。したがって、企業特殊的能力に対する労働者のインセンティブは一般企業に比べて行政体のほうが大きくなるため、役所に企業特殊的な能力に長けるコームインが量産されてしまうということになります。これを役所の外の人がご覧になれば「お役所仕事」と揶揄されてしまうわけですが。

確かにそう批判したくなる気持ちも分かりますし、俺自身もほかの役所に行けばそう思うこともあるんですが、忘れてはいけないのは、企業特殊的能力がなければその企業なり行政体はうまく回らないということです。逆に言えば、うまく回らせるための能力が企業特殊的能力なわけですから、それを全否定することは生産的な議論ではありません。企業特殊的能力を認めた上で、それが悪影響を及ぼしていないかをチェックすることが重要であって、さらにはその在り方に問題がある場合には、インセンティブを与える人事制度そのものから見直さなければ改善されないということは、上記の議論をご覧いただければ明らかでしょう。

かといって、「内閣人事局」なるものがその思惑どおりに人事制度を改善できるかというのは甚だ疑問であります。もちろん、企業特殊的能力を必要とする役所の仕事がなんの能力開発もない労働者で回るはずがないことは言うまでもありませんのであしからず。




*1 リンク先は古いブックマークを整理してて発見したブツです。管理人さんには申し訳ありませんが、ブックマークした当時からまともな議論がなくてほとんど見てませんでした。今見ても相変わらず香ばしい方々しかいらっしゃらないようです。
*2 これ自体を批判される方もいらっしゃいますが、高い水準での一般的能力と企業特殊的能力が求められる場合は、お互いがトレードオフの関係にありますので、どちらかに重点を置かざるを得ません。この後で議論するように、行政体において企業特殊的能力が優先されるのは自然な選択でしょう。

2009年02月04日 (水) | Edit |
このエントリにはネタバレが含まれていますので、ご注意ください。
(2/5お詫び:あまりに乱文だったため、本文のほうを大幅に加筆修正しました。)

天下りと渡りを前倒しして禁止することが現下の経済危機でどんな意味があるんだろうかと考えはじめると夜も眠れませんが、まあいつものとおり、政権が手詰まり状態に至ったときに唯一自由にできるのが官僚の処遇とその組織をいじることであって、しかもそれが一般には「カイカク」ともてはやされるという現象なのだということにしておきます。それはそれで精神衛生上きわめて不健康ですが。

で、インターネットのヤホーでは実は動画を見ることができまして、とても興味深いアニメを発見してしまったんでお話しさせていただきたいんですけど、『十二国記』ってご存じですか。
※ 以下ネタバレです。



[READ MORE...]
2009年02月01日 (日) | Edit |
前回エントリの経費負担の割り当てというのがどれだけタフな議論を必要とするか、今話題の消費税率引き上げをネタにして書いてみます。といってもあくまで教科書レベルの話ですから、実際にはもっと複雑な要因を考えなければならないということに留意していただければ。

先週定額給付金を含む第二次補正予算案が成立したとのことで、次はその財源となる「埋蔵金」法案の審議に入るんだそうですが、これにも野党が反対するので給付金の給付が実現するのは早くて3月14日以降なんだそうです。

で、なかなか実現されない定額給付金以上に強く反発を食らっているのが、2011年以降の消費税率引き上げなわけでして、定額給付金には必ずしも反対ではない「リフレ派」の方々もこれには断固反対のようです。

いつも書いていることですが、個人的にはリフレ政策には賛同するとしても、「リフレ派」と呼ばれる方々はミクロの地方財政(税金徴収や給付の仕組み)といった制度面を軽視しているようにみえてしまいますし、税率の引き上げについても「どマクロ」の話しか出てこないので、やはりミクロの現場にいる者としては与しがたいといわざるを得ません。

直接的に「リフレ派」の主張というわけではありませんが、例えば、伝統的なIS-LMといったマクロ経済学のモデルを使った議論では、

 つまり、増税を財源に政府支出を拡大すると、IS曲線のシフトは政府支出の増加分X円に等しくなります。これを「均衡予算乗数(ΔY/ΔG+ΔY/ΔT)は1である」といいます。IS曲線のシフトが小さいため、名目利子率の上昇によるクラウディング・アウト効果を考慮すると、政府支出拡大の効果はその支出増大額を下回ってしまいます。
(略)
 より多くの資産を持つ人はより多く消費すると考えられます。すると、公債保有の増加による消費の拡大によって、政府支出によって右にシフトしたIS曲線(引用注:図は省略)はさらに右にシフトするでしょう(引用注:図は省略)。これを公債という資産保有の増加が消費を増やすという意味で「公債の消費に対する資産効果」(または「富効果」)といいます。  その一方で、より多くの資産を持った人たちは、より多くの貨幣を保有しようとするでしょう。これを、貨幣需要が公債という資産保有の増加に伴って増えるという意味で、公債の貨幣需要に対する資産効果といいます。この実質GDPや名目利子率の変化によらない(すなわち、資産保有の増加による)開閉需要の増大は、LM曲線を左にシフトさせます(引用注:図は省略)。
pp.268-269

ゼミナール 経済政策入門ゼミナール 経済政策入門
(2006/03)
岩田 規久男飯田 泰之

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というようなことになるわですが、ミクロ経済学で税率を引き上げた場合に問題となるのは代替効果によってもたらされる死加重(deadweight loss)の大きさであって、死加重の大きい、すなわち非効率な課税方法(代替を促す課税標準の偏りや累進的な税率)はマクロのクラウディング・アウト効果とともに財政支出乗数や減税乗数を歪めてしまうことになります。

ただし、これを逆に考えると、効率的な課税方法とは、課税標準をできるだけ拡大して累進的ではない税率を設定することによって、死加重を軽減するものということができます。これがいわゆるラムゼー税という考え方ですが、このラムゼー税は必需品への課税強化が効率的であるとして、逆進性を正当化するという難点があるため、スティグリッツもこう指摘します。

 ラムゼーの分析には、非常に困惑させる特徴が一つある。政府が一括税ではなくてゆがみをもたらす税を用いることの主たる理由は、政府にはそうしなければ達成できない再分配面の目的があるということである。しかしながら、初期の最適課税の議論では、すべての人は同じであると仮定していた(その場合には自然な仮定として、政府が均一の一括税を採用するということになる)。
(略)
 所得税がうまく設計されているならば、差別的物品税を追加することは、たとえ所得再分配能力を強めるとしても、その力はほとんどなさそうである。課税目的は所得再分配か、または担税力の最も大きい人に租税負担を課すことであり、また結局のところ、この目的を達成する最善の方法は、われわれが本当に関心を持っているもの、すなわち所得への課税に焦点を当てることであることが明らかになる。
pp.723-725

スティグリッツ 公共経済学〈下〉租税・地方財政・マクロ財政政策スティグリッツ 公共経済学〈下〉租税・地方財政・マクロ財政政策
(2004/01)
ジョセフ・E. スティグリッツ

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つまり、税率引き上げは経済成長に増税乗数として影響を与えるとともに、どの税目にするかによって所得再分配にも大きな影響を与えるのであって、特に後者については、その課税方法が重要だということになります。確かに全体のパイを大きくすることは最優先ではありますが、ミクロの段階でどのような人からどのような人にどのくらい再分配するかというのもそれと同じくらいに重要ではないかと、下っ端のチホーコームインとしては思わざるを得ないわけです。

具体的には、誰にどのような税を課すのか、その税が経済主体にとってどのようなインセンティブを与えるかという点から議論する必要があります。スティグリッツというと世銀批判とかインフレターゲット政策などマクロ経済政策のほうが注目されがちですが、公共経済学の教科書を書くくらいですからそういったミクロ経済政策もきちんと取り上げるべきではないかと。

そのスティグリッツがいう節税のための2大原理が、

租税の延期(貨幣の時間的価値を利用すること)
租税裁定(租税構造や税率の相違を利用すること)
スティグリッツ『同上』p.877


ということなわけですから、節税行動を通じた代替効果が発生することによって死加重が拡大すれば、それが再分配に影響を及ぼすことになります。その節税行動を防ぐという観点からいうと、長期的には生涯所得税と生涯消費税は等価である(スティグリッツ『同上』p.651)ことから、クロヨンと呼ばれる所得の捕捉問題が深刻な所得税より、付加価値税(消費税を含む)の引き上げは検討に値すると思います。

したがって、政府と日銀には全体のパイを拡大するためのマクロ経済政策をどんどん進めていただきながら、こういった税制や社会保障といった再分配政策も財務省*1や厚労省にはきちんと議論していただきたいと思います。現場ではそれに従って、できるだけ多くの方が安心して暮らせるよう実務をこなすだけです。

その意味で、再分配面を正面から議論しようとする麻生首相の消費税引き上げ策は、その心意気はよしとしましょう。ただし、上記の岩田・飯田本にもあるように、問題はどの程度の支出と増税のバランスとするかであって、3年後に消費税率を5%引き上げて10%にするというなら、たった2兆円の定額給付金では全然割に合いませんな。

一方で、租税回避が限界税率によって発生するという点に着目すれば、支出に対する租税構造を極限にまで単純化したいわゆるフラット・タックス*2を課せば、課税最低限を設けることによって限界税率を一定にしつつ平均税率を累進的にすることは可能だったりします。

言葉だけだとイメージしにくいかもしれませんが、縦軸に税額、横軸に所得額をとった二次元の座標上で、横軸切片(課税最低限)を通る右肩上がりの直線(=限界税率一定)を引けば、第一象限では課税が、第四象限では負の所得税が表現され、第一象限の直線上の点に対する原点からの角度(=平均税率)は所得が上がるにつれて上がっていくことになります*3。支出に対するフラット・タックスでは、この所得を支出に置き換えることによって、代替効果による租税回避や租税裁定がもたらす死加重を押さえようというわけです。

野党の方々も抜本的な税制改革とかおっしゃるんだったら、このくらいのことは議論してもらわないと「政権交代で国民第一」なんて眉唾だろうとしか思えないんですよねえ。




*1 こういったミクロの租税構造が税制改革の基本となるため、税制に関しては財務省のキャリアではなく国税庁のノンキャリが法案作成をしているはず。
*2 ただし、上記スティグリッツ本では、「それは誰が租税負担をするかに大きな変化をもたらし、富裕層は著しく負担が軽減されるのに対して、中間所得層は負担が増大することになる(p.712)」として、定率税(フラット・タックス)は政治的な思惑で論じられていると切り捨ててますが。
*3 岩田・飯田本のp.368にも、フリードマンの負の所得税の説明として同様の図がありますが、平均税率より限界税率の方が低く設定されており、45度線による分析となっており、主に労働のインセンティブの説明となっています。