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2009年01月30日 (金) | Edit |
前回エントリはちょっとマニアックな視点になってしまったためか、あまり一般的に興味のある話ではなかったようで、hamachan先生に飛ばしたトラバも反映されませんでしたので、何かと話題の日比谷公園ネタから。

「派遣村」騒動について、いくらか落ち着いた記事が載るようになってきていて、日経新聞で今日から始まった厚労省叩きの連載シリーズでもその舞台裏が取り上げられていました。ただ、この「派遣村」騒動を厚労省の労働行政がテーマの連載で取り上げるということは、まさに論点が「派遣村」騒動の生活保護獲得闘争に引きずられてしまっていて、マクロ経済政策にまで議論が進まないことになるんではないかと危惧するわけです。

 世界を覆う経済危機。今と未来がかすんできた。未曾有の危機モードに厚労行政は立ち向かえるか――。

異例の救済措置
 霞が関の厚生労働省講堂。新任の大臣は壇上から800平方メートルの道内を埋め尽くす職員を見下ろしたときに人員5万人、予算25兆円の巨大組織を実感する。年明け、その権力の舞台が「派遣村」に開放された。
 「なんで受け入れたかというと彼を信頼したから。そりゃ現場で活動しているんだから情報は正確だよ」。派遣村が野営した日比谷公園を見下ろす厚労省の副大臣室で大村秀章(48)は言う。
 今年の日比谷が注目を集めたのは「派遣村」という名称に負うところが大きい。だが大村が信頼した「彼」。湯浅誠(派遣村村長、39)は「実際に昨秋から派遣契約を切られた人は2割。その他は日雇い派遣で収入が減った人や野宿の人など」と言う
 生活保護を申請した200人を超す「村民」は直ちに認定を受けた。資産や収入の調査を簡略化し、十日以上かかる認定を人により一五分の面接で済ませた審査は「異例中の異例」(社会・援護局)。一方でハローワークが臨時窓口を設けて紹介した約4000件の寮つきの求人紹介に大きな成果はなかったという。
 「自立や就業の支援ではなく生活保護でよかったのか」。厚労省の幹部は生活保護の審査など現場を熟知した活動家の前に労働行政が屈したことを認める。生活保護は最後の安全網。働く環境づくりが労働行政の本業だ。そもそも派遣など非正規労働の問題を騒動の延長戦で議論し続けていいものか。
(略)
270人が寝泊まりした講堂は今、なにごともなかったかのように静まりかえる。事務次官の江利川毅(61)は「いろいろな事情を含めた中での一つの緊急対応だった」と位置づける。一方で間近にある新たな緊急事態。政府の見通しでは09年度の失業率は0.5ポイント上昇の4.7%。無味乾燥な数字の向こう側で「0.1ポイント」ごとに7万人が職を失う

「ザ厚労省 第3部 危機の渦中で(1)」(日経新聞2009年1月30日)
※ 強調は引用者による。


最後の部分では一応「失業率」というマクロ経済の話を始める気になったように見えますが、日経新聞のことですから、またぞろ明日の連載からは「政府のムダを削れ!」だの「天下りを禁止してコームインカイカクしろ!」だの「地方分権しろ!」って展開になるに1000点。

で、朝日新聞には記事そのものが矛盾しまくっている地方分権ネタが連載中でした。

 宇都宮市に住む荻野夏子さん(44)には、自治体との協働に失敗した苦い経験がある。
 ざっと振り返れば、こうだ。10年ほど前、栃木県内のある町にマイホームを建てた。子育てをしながら、積極的に「まちづくり」にかかわった。
 町の総合計画の策手に携わったとき、町職員から言われた。「これからの分権の時代は、政策作りに住民の参加が欠かせない。行政と住民の橋渡しをNPOに託したい」。これを機にNPO法人をつくった。01年春のことだ。行政から設立を促されてのスタートだった。
 いきなりIT講習会(500万円)とITネットワークづくり(500万円)を委託された。だが、日を追うごとに、町が用意した結論に誘導されている気がしてきた。「素人のくせに」といった態度の端々に、「委託の契約金でNPOを買った」という町の本音が見えた。
 これって、住民参加のアリバイづくりじゃないの――。そう思うと手も足も止まった。結局、ひとつの事業は中途で契約を解除し、02年にNPO法人を解散した。
 あれから考えた。町は、NPOを使えば「公益」を強調しやすい。民意の反映も装える。田舎町だけに、住民は役場に反論しにくい。こんな関係での委託は、町が政策を行う際に責任を回避する手段に見える。
 つくづく思う。委託の現場は「派遣切り」の構図に似ている。自治体の事業は、いつ予算が打ち切られるかわからない。予算が着られた途端、NPOが集めた職員は行き場を失う。「こんなはずじゃない」と思いながら働くNPOの、なんと多いことか。
 それでも、荻野さんはNPO活動をあきらめてはいない。新たに設けたNPO法人で、カード会社と連携して、失効するポイントを寄付できる制度などに取り組む。「NPOは無名の市民の意見を社会に伝える装置」と信じているからだ。

 「ここ10年、協働の現場で試行錯誤が続いている。そして『協働疲れ』が広がっている
 立教大の萩原なつ子教授(市民活動論)はこう指摘する。
 全国の自治体での件数など協働の全体像は不明だが、確実に広がりつつある。ただ、現場では、協働のなかでも委託に課題が多いといわれている。
 委託が増え始めたのは04年ごろだ。政府が分権と称して三位一体改革の旗を振りながら、自治体への支出を大幅に切り込んだ時期と重なる。一方で、荻野さんの挫折例のように「行政から設立を持ちかけられたNPO」ができてきた。行政(government)が主導するNPOだから「ゴンポ」(GONPO)と呼ばれる。こんな名前ができたこと自体、行政の下請けのようなNPOが増え続けている実情を物語る
 協働は、「下請け」の別名になっていくのか。行政と住民が手を携えて地域を自立に導く手段として進化していくのか。
 分かれ道は「住民が主権者である」という認識を、行政と住民が共有できるかどうかだ。主役は住民なのだから。

「公貧社会 支え合いを求めて 「自治」をめざして(7)」(朝日新聞2009年1月30日)
※ 強調は引用者による。



公共サービスというのは、その経費を誰かに負担させる仕組みのなかでやっと提供されるものであって、その仕組みこそが市民の方々が毛嫌いする「行政」なわけです。ということは、それを協働と呼ぼうと何と呼ぼうと、行政が公共サービスの提供をやめたときに誰がその経費を負担するかという新たな仕組みづくりが必要なわけで、それがNPOへの委託だったり指定管理者制度という制度の実態でもあります。それを「住民参加」という意志決定のシステムの面だけとらえてしまうと、NPOのほうでは荻野さんのような「やらされ感」に苛まれてしまうし、行政のほうも「経費削減できてよかった」というだけで終わってしまいます。

厳しい言い方になりますが、経費削減をしたい行政の側と、「住民参加」というクリームスキミングしか頭にないNPOの側と、それぞれの思惑が当初は一致していたからこそGONPOなるものができるわけで、経費負担の割り当てやその仲介という誰もがいやがる場面にNPOが直面して、やっと目が覚めたというだけのこと。そりゃ、「協働づかれ」もしますよ。荻野さんもその点に気がつかれて、「政策作り」なんて大仰な目的ではなく「NPOは無名の市民の意見を社会に伝える装置」だと考えを改めたのでしょうね。

結局はその利害調整なり経費負担の割り当てというドロドロしたところは職業コームインが担うしかなくなるわけでして、そんな汚れ役に対してはマスコミも市民の皆さんも「汚らしいわね~」と言わんばかりの仕打ちをなさいます。それが汚れ役の使命と言えばそうなんでしょうけど、汚れ役にもそれなりのスキルとリテラシーが必要とされるんで、あまりコームインのなり手がいなくなるような叩き方ばかりされていると、クオリティの低い汚れ役しかいなくなるんですが、そんなことはお構いなしですかそうですか。

ところが、相も変わらず地方分権教の方々はこういう「住民参加」のクリームスキミング的な幻想を振りまくことに余念がありません。同じ紙面でのこのコメントですが、

穂坂邦夫・NPO法人地方自立政策研究所理事長(前埼玉県志木市長)
 人口7万人のベッドタウンは右肩下がりの経済のもとで、少子高齢化が進んで独居老人が増え続けていた。税収は縮むのに、福祉などへの出費は一気に膨らむ。そんな成熟社会が加速する時代に、これまでの行政では対応できない
(略)
 協働によって行政サービスに住民が介在すればするほど、内容はきめ細かくなり、住民本位になる。その積み重ねが、中央集権型の全国一律の行政より優れているのは当然だろう。
 そんな住民参加を促すのが、政府の地方分権改革推進委員会の勧告だ。市町村への思い切った権限移譲や、自治体の仕事の基準を法律で定める「義務づけ・枠づけ」を廃止・縮小し、地域の実情に合った対応を可能にする方向性を示した。実現すれば、自治体や住民の工夫で協働の現場は大きく変わる。だから、自治の確立のために分権改革が欠かせない
 首長が代われば施策も変わる。私が市長を退いた後、市民委員会は形式が変わったし、公共事業関連の条例は廃止された。でも残念だとは思わない。既得権益を壊して自治の現場を根本から改革するのだから、曲折はあるでしょう。こういう難事業は、本当に資金が尽きなければ進まないもの

「公貧社会 支え合いを求めて 「自治」をめざして(7)」(朝日新聞2009年1月30日)
※ 強調は引用者による。


だーかーらー、「税収は縮むのに、福祉などへの出費は一気に膨らむ。そんな成熟社会が加速する時代に、これまでの行政では対応できない」って結局、経費削減のために委託しないと予算が足りなくなるってことでしょ? 荻野さんのような方をどれだけ再生産すれば気が済むというのでしょうか。まあ、地方分権教の方々は基本的に「こういう難事業は、本当に資金が尽きなければ進まないもの」というシバキ主義全開なわけで、「住民が参加すれば景気だって回復する」とか言いそうだし、「改革なくして景気回復なし」の亜種というだけのことなんでしょうけども。

そんな穂坂氏というお方は、wikipediaによると、

2001 年には、志木市市長選に無投票当選した。志木市長時代に全国で初めて公立小学校に25人程度学級(小学1・2年生限定、上限29人)やホームスタディ制度を導入し、さらに市の職員を20年かけて半減させ(2002年当時の619人から301人に)、業務量の削減で不足する分は市民のボランティアなどに任せるという計画を立てるなど、画期的ともいえる施策を次々打ち出したが、やがて議会の反発を招くようになった。2005年3月、市議会の議場で1期限りの勇退を表明し、6月に任期満了を迎えた。つまり、市長としては一度も市民の審判を仰がなかったことになる。職員半減計画は翌2006年に中止された。
穂坂邦夫 - Wikipedia
※ 強調は引用者による。


だそうで、ご自身の経歴のどの辺が住民参加なのか教えていただきたいところですな。
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2009年01月23日 (金) | Edit |
ここ数日のhamachan先生のエントリが立て続けに唸らされる内容でしたので、労働行政の軒を借りている地方のコームインとして、便乗させていただきながら個人的なまとめをさせていただきます。

病理学者である法学者にとっては、異常性の表れである一般解雇の規制がまず第一義的なもので、合理性の表れである整理解雇はその応用問題に過ぎないのですが、生理学者である経済学者にとっては全く逆なのでしょう。

ごちゃごちゃ書きましたが、要するに、経済学者が解雇権濫用法理と整理解雇法理をごっちゃにするのは必ずしも悪意からというよりは、そのディシプリンからくるところという面があるのではないかということです。
WEDGE大竹論文の問題点(2009年1月22日 (木))」(EU労働法政策雑記帳
※ 強調は引用者による。


普段経済学のことばっかり書いていたり政策法務の悪口なんか書いているので自分でも怪しいところはあるものの、俺も一応なんちゃって法学部卒公務員なので、少なくとも業務遂行上必要なリーガルマインドなるものは理解しているつもりです。そういった自分自身の経験を踏まえてみるに、hamachan先生のおっしゃる法学者と経済学者のディシプリンの違いについての指摘は実感として納得することしきり。

さらにいえば、これまで担当した業務において、

まさに、なぜこの世の中に解雇規制などというものが必要なのか、現実から思考を出発させない方々には見えるはずのものが見えないといういい例でしょう。
(略)
ちなみに、労働相談においては、労働者の言い分ばかり聞くのではなく、ちゃんと会社側の言い分も聞いた上で判断しなければならないのはいうまでもありません。世の中には事実無根のでっち上げで会社と喧嘩しては辞め、また次の会社で同じことをやらかし・・・という札付きの労働者もいないわけではないのです。このあたりは、現場の労働相談員の方々が一番よく理解しておられるところでしょう。
労働者を気分次第で簡単に解雇するような経営者はいる(2009年1月23日 (金))」(EU労働法政策雑記帳
※ 強調は引用者による。


というのも嫌というほど目の当たりにしてきました*1。下っ端のチホーコームインなんぞの狭い業務経験ではありますが、良くも悪くもこういうドロドロした人間関係が下地になっている労使関係の中で紛争が発生するからこそ、理屈ではない解決が求められるのだという現実を思い知らされたわけです。

そんな労使関係ではまず当事者同士が話し合いで解決を探ることからスタートしましょうというのが日本の労働法制の理屈であって、その意味で憲法28条とそれに基づく集団的労使関係法制は、労使関係の当事者が話し合う前提で紛争解決するという構造になっているのだと思います。たとえば、当事者の話し合いが行き詰まった場合であっても、まずは第三者を交えた話し合いでの解決(労調法)を試みる制度が設けられていて、その一方で、話し合いの場を確保するために労働組合を救済しなければならない段階に至っているならば、当事者の申立てによってそれをいかにして不当労働行為に当てはめるか*2という法律問題を審査する(労組法)こともできます。

ところが、労働組合の組織率低下が端的に示すように、「労使間での話し合いによる解決」という理屈が紛争の解決方法として指向されなくなっています。個人的にはむしろ、それを担う当事者(はっきりいえば労働組合)自身が「労使間での話し合いによる解決」という理屈の方を歪めてしまった*3という印象ですが、その結果、労使ともに個別労働関係にばかり関心が向いてしまい、公的部門もそれに引きずられる形で個別労働関係紛争処理制度のシェア争いをするという状況を生み、

ところが、労働問題は国際問題と異なり、その中心に位置すべき労使関係論が絶滅の危機に瀕している。空間的、時間的に何がどうなっているのかを知ろうというどぶ板の学問が押し入れの隅っこに押し込まれている。そして、本来理屈が必要になっておもむろに取り出すべき労働法学や労働経済学が、我こそはご主人であるぞというような顔をして、でんと居座っている。
どぶ板の学問としての労使関係論(2009年1月21日 (水))」(EU労働法政策雑記帳
※ 強調は引用者による。


という事態に至ったのではないでしょうか*4

しかし、現実はそれなりに動いているようで、解雇権濫用法理によって解雇が厳しく制限される現状における個別労働関係紛争の解決方法として最も一般的なのが、「和解金」などの名目による金銭的解決です。

(1) 整理解雇に対して、金銭的な補償を求めた事案(労働者からの申請)
 申請人は、勤務していた会社から業績悪化に伴う人員整理を理由に解雇の通知を受けた。この解雇により被った経済的な損失及び精神的な苦痛に対して金銭的な補償を求めてあっせんを申請したもの。
 あっせんの結果、会社が申請人に対して、就業規則に規定された退職金に和解金を加算して支払うことで双方が合意し解決した

(2) 普通解雇の理由に納得がいかず、解雇の撤回又は金銭的な補償を求めた事案(労働者からの申請)
 申請人は、勤務態度が悪いという理由で突然解雇されたが、解雇理由に納得がいかないので、その撤回または経済的な損失及び精神的な苦痛に対して金銭的な補償を求めてあっせんを申請したもの。
あっせんの結果、解雇撤回は困難なものの和解金を支払うことで双方が合意し解決した
(以下略)
個別労働紛争解決制度」(千葉労働局
※ 強調は引用者による。


この千葉労働局のサイトで解決事例として挙げられている事例のうち、解雇や退職といった労働契約の終了についての事案9件すべてにおいて、何らかの金銭支払いが解決の決め手になっています。解雇権濫用法理によって解雇が制限されている現状では、労働局のあっせん制度や裁判所の労働審判制度といった紛争処理システムが実質的に金銭的解決制度の肩代わりをしているというのが実態ではないかと思います。

こうしてみると、憲法で予定した集団的労使関係における「話し合い」が事実上機能しなくなっている中で、解雇規制の制限などの労働問題を克服するためには、労使とも紛争処理機関への係属というコストを負担せざるを得なくなっているようにも思います。もちろん、こういう点は専門家によってきちんと議論されているわけで、

労働紛争が適切に解決されれば、紛争が悪化した場合に労働関係の当事者が負担することになる種々のコストを減少させるうえ、職場の雰囲気が改善されたり、組織の運営が円滑に運んだりすることにより生産性も向上し、その効果を社会全体としても享受できる。したがって、労働紛争の解決は、紛争当事者間にとどまらない社会的意義(外部効果)をもつということができる。このことは、事後的な紛争解決にとどまらず、紛争発生を未然に防止する場合についても、基本的に妥当すると思われる。
このような労働紛争処理の機能は、公的な紛争処理システムによっても実現しうることはもちろんであるが、企業内において当事者が自主的に紛争を解決ないし予防する場合についても、上で見たような外部効果は,公的紛争処理システムによる場合と同様に存在するものといえる。
加えて、企業内の紛争解決は、公的システムを運営するためのコストも削減でき、かつ、労働関係におけるルールの実現など、自主的なコンプライアンスの実現にも貢献しうるから、上記とは別の意味での外部効果も期待することが可能である。そうすると、企業内紛争処理システムの整備や、その運用に当たる人材の養成に関しては、何らかの公的支援を行うことが考えられる。
企業内紛争処理システムの整備支援に関する調査研究(平成20年7月28日)(注:pdfファイルです)」(独立行政法人労働政策研究・研修機構p.345
※ 強調は引用者による。


と、豊富な事例やアンケート、交渉術についての理論を踏まえて建設的な提言がされているわけです。

まあ、こういう提言は「解雇規制撤廃!」とか「企業の首切りは法律で禁止しろ!」という方々には届かない*5んでしょうけども、それがご自身(の支持母体)をより苦しい状況に追いやっていることを、そろそろ正面から認めなければならないのではないかと思う次第です。




*1 国と違って地方は集団的労使関係も扱うので、この手合いは労働者個人というよりも一部の労働組合が多いという印象です。
*2 その救済方法が人権的に過ぎたために、道幸先生がおっしゃる「団結権の人権的把握」によって労働組合自身が弱体化したわけですが。
*3 *4の「団結権の人権的把握」が労働組合のイデオロギー色を強めたりというような。
*4 hamachan先生がここでおっしゃる「労使関係」が、集団的労使関係を指しているのかちょっとよく分かりませんでしたが。
*5 だからこそ、左右問わずにギョーカクとやらのためにこの独法を廃止しようとしたりする(「労働政策研究・研修機構 4 事業の見直し」(Wikipedia))わけですしねえ。

2009年01月20日 (火) | Edit |
NATROMさん経由の半分ネタですが、前回エントリで、

で、いま叫ばれているのが「市民参加」とか「現場主義」というスローガンで、この三権分立の各分野にも「プロではない素人」の意見を反映させようという取組が進展しています。

立法の分野では「国民本位」という民意至上主義を掲げる政党が支持率を上げていたり、、行政の分野では行政手続法やパブリックコメントといった手続きの整備、サービス主体のNPOや指定管理者への移管や「国から地方へ」のかけ声でチホーブンケンを進めたり、司法の分野では「裁判員制度」が導入されようとしているのは周知のとおり。
市民参加の一つの姿(2009/01/17(土))
※ 強調は引用時。


と書いたら、早速「民意至上主義」の実例を発見しました。

といっても、単にブログのタイトルが「住民至上主義」というだけのことで、単なるト○デモさんというべきかもしれません。それにしても、このような主張をする方が現職市長だという現実をどう受け止めたらいいものか途方に暮れます。

こうした家畜小屋では、米軍が人間の子供と豚の遺伝子を

結合させ、遺伝子工学で「人間豚」を「生産」している


レストランの高級ステーキ用に人間豚の肉は味が良く、

非常に高値で「販売」される


これは食肉ではなくほぼ人間の肉だが、

高級レストランでは牛肉として出される。

時々テレビのグルメ番組で使う、

1枚数十万円の高級ステーキがそれだ。


ええと、現役の市長のブログだよね?阿久根市民は、竹原信一氏がこういう主張をしていると知っていて市長に選んだのかな?市議会は竹原市長と対立しているようだけど、「ネット投票は議会制民主主義の否定だ」などと批判する以前に、いくらでも隙があると思うのだが。辞めてもらいたい市長の投票でもしてみたら?
■[トンデモ]遺伝子工学で生産された人間豚の高級肉@阿久根市長ブログ(2009-01-15)」(NATROMの日記
※ 太字強調はNATROMさん、太字下線強調は引用者による。


おそらく阿久根市民は知っていて市長に選んだのだと思います。それこそが「住民至上主義」の証ですし、「地域のことは地域が決める」のですから、「辞めてもらいたい市長の投票」なんてことではビクともしないはずです。

 ブログ(日記形式のホームページ)を使って選挙運動をしたり、「アカンベー」をして取材を拒否したりするなどして物議を醸してきた鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(49)に対し、市議15人のうち少なくとも12人が「市長の資質に欠ける」として不信任決議案を提出することを決めた。決議案は可決される公算が大きい。

 市長は辞職せずに議会を解散して対抗する構えだが、出直し選後の議会の構成次第では辞職に追い込まれる。市民からは「市民そっちのけの不毛な争い」という冷めた声が上がっている。
(略)
 議会では2007年、複数の市議が領収書を偽造するなどして政務調査費を水増しして受け取っていた不祥事が発覚。当時、市議だった竹原市長は「議会の信頼を失墜させた」としてこの議員に対する辞職勧告決議案を議員提出したが、議会は否決した。竹原市長は昨年の市長選で議会の体質を批判し、定数の大幅削減などを掲げて当選したという経緯がある。
阿久根市長が不人気市議投票、議会反発 不信任可決へ」(2009年1月15日 読売新聞)


・・・記事を見ると信任されるかどうかは微妙なようですね。でもまあ、当選したときには議会の体質を批判した「改革派」として支持を集めたようですから、必殺の「住民至上主義」で窮地を切り抜けるのかもしれません。

そのほかのおもしろ珠玉のコメントをいくつかピックアップしておきます。

政治学者や経済学者には政治も経営も出来ない。学位や卒業証書は就職の道具にはなっているだろうが、これら学問の成果はほとんど世の中の役に立っていない。

そういった学問が社会の役に立つような代物であるならば日本が今のような状態であろう筈がない。
「■2009/01/17 (土) 政治学?、経済学?」

「トン○モさんは反知性主義」という典型ではないかと。

  浄化槽管理費軽減を目的に阿久根市で廃棄物運搬の許可を出した業者への、浄化槽管理業者としての県許可が遅れている。

 県職員から天下りした日高某が元部下の職員に影響力を行使して妨害工作を展開している事が原因だ。
「■2009/01/14 (水) 天下り県職員の影響力」

改革○カは「天下り」というレッテルが大好きで、「天下り」が大嫌いです。

○私たちが仕事をさせていただいているのは、国のためではなく社会を作るためにやっていると私は考えている。
「■2009/01/14 (水) 課長会議 1月13日 訓示」

地方分権教を突き詰めるとアナーキズムとか空想的社会主義になるのかもしれません。

そもそもカネ目的の報道に真実や良心的判断を求める方が間違っている。12名の妨害議員べったりを隠しもしない南日本新聞の報道姿勢のおかげで市民が報道の現実を知るかもしれない。

 南日本新聞阿久根支局長、トンデモ議員たちと一緒にもっと頑張れ。
「■2009/01/11 (日) 政治家の体質」

トンデ○さんの相対主義とは、「他の人こそがトンデモだ」と思うことのようです。

・・・1月の途中まででこの充実ぶりで、これ以上はピックアップだけではすまなさそうですし、地方分権教の皆様におかれましてはぜひ全編をご堪能ください。

チホーブンケンってとってもすばらしいものですね。

2009年01月17日 (土) | Edit |
HALTANさんにトラバ言及いただきましたが、自分自身の考えがまとまっておりませんので、HALTANさんへの返答というより自分のメモとしてつらつら書いてみます。

釈迦に説法で恐縮なのですが、左派の先生・マスコミ人・運動家からも「内需」「中間層の復活」という話は沢山出ているのですが、ただ彼ら自身はその経路としては「大企業や国家から絞り上げれば何とでもなる」としか思っていないのですよ。これはこの湯浅とかいう人もそうだったはず。一方で定額給付金とか大規模マクロ政策とかそういうのはイヤみたいなんですね。その理由はよく分かりませんが、私見ではっきり言えば、拙ブログで書いているように彼らはオルグや運動やアジテーションの快楽を最優先にしているだけであって、真面目に弱者を救おうなどとは一度も考えたことがないためでしょう。だから「マクロ政策というオプションもありますよ」と言われても積極的に理解する気は初めからないのです。
[床屋政談]日本政府は、国家に無限の自由の容認と無限の権利要求が可能と信じている反貧困「アナーキスト」たちの脅迫に絶対に屈してはならない(笑)(2009-01-15)」(HALTANの日記


日本の現状をかなり乱暴に整理してみると、ある社会的な問題が存在して、それを公的な制度で対処しようとする場合、それを政策課題として取り上げ、制度を策定し、運用するという過程を経る必要があります。政策課題の取り上げと制度の策定は立法が、制度の運用は行政が行い、それによる損害が生じたときに責任の所在を判断して原状回復や賠償を命じるのが司法であり、日本は三権分立の体制をとっています。で、いま叫ばれているのが「市民参加」とか「現場主義」というスローガンで、この三権分立の各分野にも「プロではない素人」の意見を反映させようという取組が進展しています。

立法の分野では「国民本位」という民意至上主義を掲げる政党が支持率を上げていたり、、行政の分野では行政手続法やパブリックコメントといった手続きの整備、サービス主体のNPOや指定管理者への移管や「国から地方へ」のかけ声でチホーブンケンを進めたり、司法の分野では「裁判員制度」が導入されようとしているのは周知のとおり。

その中でも、制度を司る部門(立法と行政)に自ら参画しようとする人の「志向性」とでもいうものがある種の傾向を持つのは致し方のないところなんだろうと思います。例えば、国家百年の大計を論じたい人や、権力の中枢に近づいてあわよくばそれを自分の意のままにしようとする人や、逆に権力に絶対的な反感を持ってその中枢を破壊しようとする人は、おそらく政治家になるんでしょうし、キャリア官僚と呼ばれる国家公務員の中にも同じような傾向があるでしょう。

が、政治家が選挙によって選ばれるのに対して、キャリア官僚はあくまでメリットシステムによって任用されることから、任用されるためにはもちろん、その後の実務遂行においてもテクニカルなスキルが求められます。このため、単に権力への志向やら反感やらだけではその任務を果たすことができず、それなりの政策立案のスキルやリテラシーを身につけなければなりません。「常識的な感覚」をもった人なら、キャリア官僚になるための政策立案スキルやリテラシーを身につける過程でそれを認識するはずです。

ここで留意しなければならないのは、キャリア官僚とその他の公務員の役割の違いです。公務員はメリットシステムによって任用されるといっても、公的部門を担う組織に所属する労働者*1の職業に過ぎません。ある公的な制度が「所期の目的」に沿った結果をもたらすことがその組織の使命であるとして、その組織において、キャリア官僚であれば法のアルゴリズム開発とコーディングといった政策立案作業を行うのに対して、ノンキャリや地方などの下っ端公務員*2はそれを現場で執行するために存在します。つまり、公務員の大半は現場で粛々と法の執行を行う職業人なので、政治家が論じる国家百年の大計やキャリア官僚が担う政策立案のためのスキルやリテラシーを持つ必要は、業務上*3ほとんど必要ありません。

このような公的部門の組織特性を顧みることなく、「市民参加」だ「現場主義」だといってキャリアシステムやその人事を支えた公的部門版肩たたき(いわゆる天下り)が批判の対象となり、今まさに公務員制度改革の中でキャリアシステムの廃止が進められています。個人的には、その先にあるのは、「現場重視」と称した政策立案のスキルやリテラシーのないノンキャリ・チホーコームインによる、世間知や無軌道な感情論に支配された政策立案や制度執行が堂々とまかり通る世界であるようにしか思えません。

そして、その制度に「所期の目的」を与えるのが立法なわけで、そこに参加するためには建前上選挙に受かって代議士となる必要があるとはいえ、いまは「市民参加」「現場主義」で何のリテラシーもない「素人」でも容易に参加することができます。参加が容易になったこと自体は責められるものではありませんが、だからといって当然に「素人」やチホーコームインの意見が、政策立案のプロである官僚やその理論を提供する専門家の見解よりも重視されるということにはなりませんね。ただし現状は、すなふきさんがおっしゃる「倫理的というか宗教的とも言うべきある種の信念」をもった「素人」や、自分の地域のことしか考えないチホーコームイン(首長を含む)のいうことのほうが歓迎されやすい風潮になっていて、このままでは取り返しのつかないことになるように思います。

これも釈迦に説法ですが、日本の左派・「進歩的」ジャーナリズムにとって日銀は庶民の敵であるバブルやインフレをぶっ潰す正義の味方ではないですか。なんたって平成の鬼平がいたところなんだから! ・・・その結果、巡り巡って今や新聞社もTV局も出版社も赤字になってしまいましたが、「昔はそれが受けていた」「今でも平均的な日本人の大半はインフレが嫌いなので、それに逆らうのは怖い」以上、今さら意見は変えないんでしょうね。もっとも流れが変われば変わったでスタンピードで何が起こるかもよく分かりませんが。やはりジャーナリズムにはこのまま不況で衰えてもらうのが日本の将来のためにもいちばんいいのかもしれません(嘲笑) 運動圏の場合は不景気になればなるほど労働者・失業者が集まってきて労働運動高揚の夢よもう一度というわけで、景気の好転は自陣営のオルグのためにはかえって逆効果なんですよねえ。
[床屋政談]日本政府は、国家に無限の自由の容認と無限の権利要求が可能と信じている反貧困「アナーキスト」たちの脅迫に絶対に屈してはならない(笑)(2009-01-15)」(HALTANの日記


活動することが目的となっている方々にとってはそのような状況のほうが活動しやすいでしょうし、彼らが自らの立場を守るためにはその状況をできるだけ維持することが必要なんでしょうが、そういった方々に主導された無軌道な政策立案や制度運用については、立法府や行政府は毅然とした態度で批判するべきでしょう。

まあ、マスコミや市民を敵に回してそれをできる人が今のご時世にいるんでしょうかという話になるわけですが。




*1 公務員の任用は任用する機関による行政処分なので、使用者と労働契約を締結する労働者ではありませんが。
*2 もちろん自分もそうですよ。
*3 ここでこうやって吠えたりするのは自由ですが仕事では使う機会がありませんし。


2009年01月15日 (木) | Edit |
前回のエントリの自己レスなんですが、コメント欄では説明が足りなさそうなので再録しつつ補足させていただきます。

HALTANさんにトラバいただきました(お気遣いさせてしまったようですみません)。

> だからこそ拙ブログでも「(A)国家に真っ当なマクロ政策を要求→完全失業率低下→(B)社会保障などの組み直し」という二段階作戦を提唱しているのですが、残念ながらここを真面目に読んで頂けている形跡は余りない。

派遣村を主催した(らしい)派遣ユニオンこそが真っ先にこのことを要求するベストポジションにいたにもかかわらず、霞ヶ関叩き・クレクレ厨に自らの活動を矮小化させていたのが象徴的ですよね。

ただ、自らのキャパを顧みることなく人を集めておいて、面倒見切れないから役所が面倒見ろというやり方には釈然としないものの、hamachan先生がおっしゃるように、日比谷公園という厚労省の目の前で開催したのは戦略的に大当たりだったと思います(どこまで意図したものか怪しいところですが)。

もちろん、それはあくまで目の前の政治家や役人を動かすという戦略についての話であって、マクロ経済を改善する戦略としてはかえって逆効果だろうというのがこのエントリのテーマでもありますし、HALTANさんの憤りの原因だろうと思います。個人的には、日銀の前で「年越しリフレ村」とかいってあれをやったらちょっと見直してしまうかもしれませんけど。

それはさておき、そもそも、
「景気後退→経営悪化→人件費削減→非正規社員の雇い止め」
という因果関係は遡及不可能なものであって(だからこそ因果関係というんだし)、これをバックワードに反転して解いていったところで、
「非正規社員の雇い止め禁止→人件費増加→経営改善→景気回復」
なんてことにはならないとか、いちいち説明しないといけないところが絶望的です。

因果関係の帰着である「非正規社員の雇い止め」を反転させるためには、因果関係の連鎖の順序はそのままに各要因を反転させて
「景気回復→経営改善→人件費増加→非正規社員の雇い入れ」
とするしかないんですが、問題は、左派だけでなく野党をはじめとした政治家や労働に興味のない経産省あたりの官僚、地方自治体の中の人(首長、議員、職員)といった制度を司る部門が、これを正面から議論するだけの法律的・経済学的リテラシーに欠けるところなわけでして、どうにも話の順序が逆なんですよねえ。
2009/01/14(水) 00:31:45 | URL | マシナリ #- [ 編集 ]
内定取り消しとか雇用対策とか2009/01/09(金)コメント欄


この自己レスに再度HALTANさんのところで言及していただきました。

また、これもいつも書くように、新聞社・TV局・出版社は今の自業界の苦境がマクロ政策を真面目に語ってこなかった自分たちの自業自得であることにまだ気づいていないのかなあと・・・。こうした現状で派遣村ネタで盛り上がっているセンスというのはちょっと絶望的なものを覚えるんですけどね(まあこんなネタで遊んでいる暇にも新聞社・TV局もますます苦しくなるだけでしょうから別にいいんですが)
[床屋政談]「派遣村」余聞 珠ちゃんに「東大博士課程中退」のノンセクト活動家は理解可能か?(2009-01-14)」(HALTANの日記


マスコミが望む(煽る?)ことが「流動性の供給」なしに実現できるとは考えられない以上、叩く相手(制度)を間違っているとしかいえませんし、そもそも叩くだけではなくより有効な政策についての議論を喚起することこそがこのような非常事態における彼らの使命なはず。昨日のコメントでは書き漏らしてしまいましたが、その点も絶望的なんですよね。

念のため補足しておきますが、このコメントで

 非正規社員の雇い止め禁止
→人件費増加
→経営改善
→景気回復

とした点については、「人件費増加」が家計消費を押し上げて景気回復につながるということは考えられるので、それを考慮すれば、

 非正規社員の雇い止め禁止
→人件費増加
→『消費拡大
(→経営改善)
→景気回復

ということはいえないこともありません。連合も

1.要求と取り組みの考え方について
  (1) 取り組み全体の考え方について
   [1] 春季生活闘争の取り組み姿勢と機能強化
    ア)マクロ経済を内需型経済へ転換するため、賃金をはじめとする労働諸条件の改善と、格差の是正、底上げに向けた春季生活闘争を強力に展開する。
II.2009春季生活闘争の推進(第54回中央委員会/2008.12.2)」(日本労働組合総連合会(連合)ホームページ


と主張しているわけですが、もっとも重要なのは、「人件費増加」の前に「流動性の供給」が実現されなければ人件費の原資が確保できないということであって、それこそがマクロ経済政策によって手当しなければならないことだと思います。

つまり、

 非正規社員の雇い止め禁止+『流動性の供給
→人件費増加
→『消費拡大
→経営改善
→景気回復

という経路でなければ、連合が主張するような「内需型経済」なるものは実現できないというべきであって、いくら規制を強化しようが、「流動性の供給」という大事なキーポイントを欠いていては迂遠な方策によって限られた効果しか得られないわけです。さらにいえば、「非正規社員の雇い止め」を禁止して「人件費を増加」させることが「経営改善」につながるとは考えにくい以上、それが生産性を向上させて成長率を押し上げるかどうかも疑問が残るところで、連合などの労働組合や左派の方々は、それが本当に自分たちの望むものなのか真剣に検討する必要があるでしょう。というか素直に

 景気回復
→経営改善
→人件費増加
→非正規社員の雇い入れ

としたほうが効果的だろうという話です。

その意味で、彼らの主張も惜しいところは突いているのに、その先が「反新自由主義、反霞が関、反規制緩和」に矮小化してしまうのがもったいないと思うのです。

まず実行委員会からのアピールが、関根書記長から行われました。「この事態は国の政策のミスである。派遣労働者、期間工が次々に雇い止めにされ、わずか三か月の間に大量失業が発生する、などという現状は、以前ならばありえないことだった。規制緩和で働き方のルールをどんどん悪くされてしまった。まさに『雇用災害』であり、これは人災である。実際の施策は都や区によって行われることになるが、国の政策のミスの結果なのだから、国が救済すべきであり、国が調整窓口をつくるべきである。しかし国はこの間、何もしてこなかった。何もしないまま、なかまとボランティアで支え合ってなんとかつくってきた村を追い出されるなどということはできない。」
そして棗弁護士から5日以降の見通しとして、厚労省がある程度の食住を提供しそう、しかしまだ派遣村で夜を過ごす全員の食住の確保には至っていない、との解説がありました。
4日の村民集会(2009年1月 4日(日) 16:24 JST)」(日比谷で年末年始を生き抜く。-年越し派遣村-
※強調は引用者による。


「国」の責任をいうなら政府と日銀が含まれるはずで、「反本石町」も追加しておけばもっと実効性のある金融政策が実施されたかもしれないと思うのは思い過ごしでしょうか・・・

2009年01月09日 (金) | Edit |
昨年末のエントリで、内定取り消しについてちょっと知ったかぶって書いてみたわけですが、HALTANさんからの「民主党政権成立の暁には人気取り優先で実務的な詰めや実効性の検証を怠った政策の連発で国民生活がズタズタになりそうですねえ」というコメントに対して、

後段については、使用者側にも私的自治の原則に基づいて採用の自由が認められているので、内定取り消しを食らった学生の利益との権衡についてはプロの法曹によって慎重に判断されるわけで、それを行政庁が判断できるはずもないんですよね。
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-261.html#comment64


とか偉そうなことを書いてしまいました。

ところが、

 労働政策審議会(厚生労働相の諮問機関)の職業安定分科会は7日、新卒者の就職内定を取り消した企業名の公表基準を了承、舛添厚労相に答申した。

 〈1〉2年連続して内定を取り消した〈2〉同一年度に10人以上の内定を取り消した〈3〉事業活動の縮小を余儀なくされていると明らかに認められない〈4〉学生に取り消し理由を十分に説明していない〈5〉内定を取り消した学生の就職先確保の支援を行っていない――の5項目。

 対象は今春卒業予定者で、すでに内定取り消しを行った企業も該当する。公表は厚労省のホームページで行う方向だ。
内定取り消しの企業名公表基準、厚労相に正式答申」(2009年1月7日19時45分 読売新聞)


だそうで、労働の専門家からなる審議会(分科会)でお墨付きになった模様です。タイトルどおり間違ってしまったようで申し訳ございませんでした。

それにしても、この答申をしたのが職業安定分科会ということは、この五つの条件についての事実を認定して「悪質」だと判断するのはハローワークということになるんでしょうけど、「悪質」と認定された企業からの不服申し立てに耐えられるんだろうかと、いらぬ心配をしてしまいます。というか、〈5〉まで条件にされたらほとんどの企業が悪質になってしまって、それを避けるために「倒産覚悟で新卒採用しかない!」とかになって、結局新卒も会社も共倒れ・・・とかいうのは杞憂なんでしょうそうでしょう。



それと、その後のエントリで

個人的には、このような「地方分権」というマジックワードが深刻なモラルハザードをもたらして、結局は地方自治体そのものが苦しむことにつながっているいるんじゃないかと思うんですが、長くなったのでそれについてはまた今度にします。
「地方分権」のリスクヘッジ効果(2008/12/28(日))


と書いた件ですが、また同じ話の繰り返しになるのでめんどくさくなってほったらかしになってました。

というのも、これは生命行政について書いたのと同じように、「三倍自治」をより強化するだけにしかならないわけで、本来なら日本経済全体の問題として国が「失業対策」を講じなければならないのに、「雇用対策」という精神論みたいな政策に地方自治体を駆り立ててしまうからです。「雇用対策」ということを打ち出した自治体が一つでもあれば、あとはヤードスティック競争によってすべての自治体に「雇用対策」実施の圧力が生じます。

(3) ヤードスティック競争
 これに対して、自治体間の競争の効用を別の角度から説明しようとする考え方として、「ヤードスティック(尺度)競争」があげられる。そのポイントは、雇い主が代理人のモラルハザードを防ぐため、代理人の実績を他の代理人と比べて相対評価し、評価に応じた報酬をそれぞれの代理人に対して支払うことにある。地方分権の文脈に即して述べれば、住民が雇い主に、自治体の首長が代理人に当たる。同競争に直面した自治体の首長は、自治体運営に関わるコストを削減しその経営を効率化することを余儀なくされるであろう。他の自治体の首長がコスト削減に向けて努力しているにも関わらずそれを怠った首長は、選挙で住民から票を集められないため、政権の座にとどまること自体が難しくなるからである。
深澤映司「分権的財政システムの意義と地方財政改革(注:pdfファイルです)」3ページ目
※注記は省略しました。強調は引用者による。


ヤードスティック競争自体は、地域独占企業などのコスト構造を明らかにすることによって他の企業との比較を可能にし、効率化を促進するという効果があるとされますが、公平性が問題となる社会保障政策について同じことが生じてしまうという恐れもあります。この典型が岩手県沢内村が嚆矢となった「老人医療費無料化」なわけで、確かに一つの村だけがそれを実施することは国全体の再配分の仕方としてあり得ないわけではないとしても、それが各自治体に波及して最終的に全国で実施されてしまった結果、老人保健が成り立たなくなったのはそれほど昔の話ではありません。

で、同じ構造がこの「雇用対策」にも見られるわけで、県庁や市役所で失業者を直接雇用したり、雇用促進住宅や公営住宅への受け入れといった取組が全国に広がっています。しかし、今回の不況で職を失った方が多いとはいえ、それ以前から職を失っていた方を差し置いてそれらの方を優先するというのはどう説明されるのでしょうか。そもそも社会保障といった所得再分配政策は、全国一律の基準で行わなければ「福祉の磁石」が働いて受益と負担のバランスが崩壊してしまうわけで、実際に「年越し派遣村」が設置されたのは富裕層が多い東京都のど真ん中でした。

結局は、本来国が担うべきマクロ経済政策、所得再分配政策を地方自治体が代替してしまうため、効率的な資源配分が主な役割であるはずの地方自治体が所得再分配までをも実施せざるを得ない状況になっています。それはすなわち、現状ですら本来の機能よりも多くの役割を負わされてしまう「三倍自治」の状態が、より強化されることにほかなりません。地方分権教の方々はここを完全にスルーしてしまうので「地方に裁量がない」とかお嘆きになりますが、全国一律でなければならない所得再分配に裁量を認めるほうがおかしいわけで、そもそも地方が国の所得再分配政策を代替していることを疑問視しなければならないはずです。

地方が国のやるべき雇用対策を代替し続けている限り*1、国(政府と日銀)がマクロの金融政策や財政政策によって失業対策を講じるインセンティブを削いでしまいます。地方の歳出を国が事後的に保障するというソフトバジェットの問題では、国が地方に対して「サマリア人のジレンマ*2」に悩まされていると説明されますが、国の「失業対策」と地方の「雇用対策」では、むしろ地方が国に対して「サマリア人のジレンマ」に悩まされているのではないかと思います。

「善きサマリア人のジレンマ」と経済学で呼ばれる現象も同じものである。苦しむ人々に惜しみない同情と援助を与える人物のたとえ話として聖書に出てくるのが「善きサマリア人」である。このジレンマを親子関係で説明してみよう。親は自分の子供が失業したり、病気になったりして生活に困った時には、惜しみない援助を与えようと考えると同時に、子供にはまじめに働いて、きちんと貯蓄して、万一の場合にも生活に困らないようにしてもらいたいと考えているとする。ところが、子供のほうは、生活が苦しくなったら親が助けてくれるということを予想するので、自分のお金をすべて使い尽くして、自分にあった仕事を見つけるという理由で仕事もやめてしまう。そうすると、親は生活に困った子供を助けることになる。結局、皮肉なことに、親の子供への愛が、親が最も望まない生活態度を子供にとらせてしまうことになる。自分の子供を「どら息子」にしないためには、「自分のことは自分でせよ。どんなに生活に困っても援助をしない」と宣言しておくことだ。ただし、このような宣言を子供が信じてくれればの話だ。
p.44

経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書)経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書)
(2005/12)
大竹 文雄

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※強調は引用者による。


「失われた10+α年」の間、これだけ雇用情勢が厳しくなっていたにもかかわらず、日銀も政府も失業対策に本腰を入れようとしなかったのは、「民意」に従って「コーゾーカイカク」とか「規制緩和」に明け暮れた政治が大きな影響を与えていたのが大きな原因でしょうけど、「チホーブンケン」とか「地方の自立」というスローガンに飛びついて、「地方の時代なんだから雇用対策も自前で何とかする」という地方の側の思い上がりにも責任の一端があるように思います。

上記の大竹先生の説明に従えば、地方は「地方だけで雇用対策なんてできるわけがないんだから、ちゃんと政府と日銀が責任を持って失業対策をやれ!」と突っぱねて、「雇用対策」なんかしないほうがむしろ望ましい「失業対策」が実施されたかもしれません。極端な言い方をすれば、首長や地方議員の公約(今はマニフェストっていうんでしたっけ?)が日本の景気後退を促した側面を彼らが自覚してその公約を降ろさない限り、政府と日銀が本格的な「失業対策」としての経済政策を講じることはないということになります。

こんなことをクドクド書いたのも、うちでもワケのわからない「雇用対策」をやってるのをみて脱力したからですが、マスコミを含む一般受けはいいようで、ますます「失業対策」が遠のいたように思われるのが気のせいならいいんですけど・・・




*1 住民からすれば、国も地方も関係なく「雇用対策に取り組んでいます」という姿勢さえ見えれば、実効性があろうがなかろうが「雇用対策は地方が担うもの」と認識してしまうので、政府や日銀の責務が見えにくくなっているという状況というほうが正確かもしれません。
*2 正確には「サマリア人のジレンマ」は完全情報における動学的非整合性の問題なので、不完全情報におけるモラル・ハザードとは異なる問題です。
(畑農ほか『財政学をつかむ』p.297コラム17「モラル・ハザードとサマリア人のジレンマ」より)
財政学をつかむ (テキストブックス「つかむ」)財政学をつかむ (テキストブックス「つかむ」)
(2008/06/14)
畑農 鋭矢林 正義

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2009年01月06日 (火) | Edit |
だいぶ乗り遅れてしまいましたが、

ぼくは、「現実を見ていない」という批判に、「いや、ぼくも現実を見ている」などという反論をするつもりは全くないよ。「現実を見ていない」で結構。ぼくは、「現実を見ろ」という説教をする人を絶対信用しないことにしている。このことは、このブログを読んでいるとりわけ若い人たちに対して、老婆心ながら、人生の先輩としてアドバイスしておきたい。二言めには「現実を見ろ」という人には、多くの場合、裏腹がある。そんな手にはまっちゃいけない。実際ぼくは、子供の頃から、いつも「現実を見ろ」と説教されてきた。まず、父親に、次に教師に、そして、学校の先輩に、はたまた政治活動家に、さらには会社の上司に。でも、あとでわかったことは、そういう人たちのいう「現実」は、その人たちが色眼鏡をかけて見ている彼らに都合のいい「現実」であって、ちっとも本当じゃないってことだ。そういう人々は、人を理詰めで説得して自分の意のままに操縦することに失敗したとき、えてしてこのことば「現実を見ろ」を使う。ぼくは、そういう人々のいう「現実」よりも、むしろ、「数学」のほうを信じている。数学は、少なくともFirst orderの論理の上では矛盾をしていないし、かなりな精度で、惑星の運行や地上の多くの現象と整合的だからだ。
YUIとネットで傷ついている人たちに贈るスレッサーの小説(2008-12-26)」(hiroyukikojimaの日記
※強調は引用者による。

についての騒動がどうもよくわかりません。

一応流れを整理してみると、事の発端はおそらく、arnさんのところでの銅鑼衣紋氏のこの発言ではないかと思いますが、

銅鑼衣紋 2008/12/21 18:05
言っては悪いが、想像力が欠如してるのよ、こういう人は。事件は会議室で起こっているわけではないという名文句(笑)があるが、まさにそれで、数学的に美しい体系を弄るのが経済学だと思いこんでいるものだから、現実に起きている、あるいは起きる可能性のある現象に対する想像力が全く欠如している。数学は人が自らの内面を探求する科学の一種であり、経験とは無関係でありうるが、実証科学の一部である経済学は、とにかく「ここにある現実」から出発しなければならない。もちろん、凄い現象は個人が生きている間に何度も起こらないのだから、過去に起こった事例を歴史に学ばなければならない。だが、理論なしに断片化した事実の集積としての歴史をいくら眺めても何も分からない。つまり、事実と理論の間の無限の往復運動の中にのにみ科学は存在する。
■[経済] 天然素材(2008/12/21 (日))コメント欄A.R.N [日記]
※強調は引用者による。


という指摘があって、田中秀臣先生が「小島さんが「現実をみてない小島」の類の批判をされたら、100%の確率で小野先生の理論を持ち出すと予想したのですが、その通りでした 笑。」としたため、これに対して小島寛之先生が応答されたのが冒頭の引用部分という流れだと思います。

俺自身はこの論争の適否を判断できるだけの能力はないので、議論の中身についてとやかくいうことはできません。ただ、個人的にはこういうリフレ派の方々のやりとりを見ていると、どうにもダブルスタンダードに見えてしまうので、リフレ政策は支持するもののリフレ派(と呼ばれる)方々とはやはり与しがたいものを感じてしまうのです。

というのも、ちょっと古くなってしまいましたが、「日経ビジネス Associe」という雑誌で「暗黒卿」こと高橋洋一氏*1のインタビューが載っていて、小島先生とほぼ同じことを言っているからです。
日経ビジネス Associe (アソシエ) 2009年 1/6号 [雑誌]日経ビジネス Associe (アソシエ) 2009年 1/6号 [雑誌]
(2008/12/16)
不明

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たとえば、

ただ、そもそも官僚になりたいと思って財務省に入省したわけではありません。もともとは数学者になりたいと思っていました。大学卒業後は大学院への進学を考えていたので、官僚にはたまたまなってしまっただけ。数学科を出て財務省に入ろうとは思いませんよ。(略)
ある国会議員から「高橋は政策をすべて数式で語っているよな」と指摘されたことがあります。振り返ると確かにそうなんです。私の場合、「こういう条件の場合はこういう結果になります」と全部数字で検証し、議論の裏づけをすべて数字で考えてしまうのです。
「ロングインタビュー 高橋洋一」(日経ビジネス Associe (アソシエ) 2009年 1/6号 [雑誌]
※強調は引用者による。


というところなど、高橋洋一氏小島先生も同じ東京大学理学部数学科出身(1955生まれの高橋洋一氏が1958年生まれの小島先生の先輩に当たる)なわけで、とかなり似通った経歴をお持ちのように見えます。
もちろん、高橋洋一氏は官僚としてのキャリアを積まれていて、

私はテクノクラートなんです。政治家から「こういうことをしたいんだけど」と言われたら、要望を聞いてベストなプランを作り、法案まで書いてあげる。でも、そこまで。そこから先は政治家の仕事。政治決定にまで官僚が首を突っ込むべきではないというのが私の考えです。
政治家にしてみれば、したいことを言えば、ポッと政策が出てくるんだから便利だったと思います。おかげで「ドラえもん」と呼ばれることもありました。

※強調は引用者による。

というスタンスの方なので、高橋洋一氏は政治家からの要望とそれに対するプランの提示という「現実」に日々接してこられた方ですから、塾講師をされていた小島先生が接してこられた「現実」とは相容れないのかもしれません。

と思ったら、

そもそも他人が他人を評価すること自体、かなりの無理があるんですよ。評価というのは自分の枠内でしかできません。誰もが自分の世界を持っていて、その中からしか外を見ることができない。私のような人間が「変人」に見えるのもそれと同じ原理ですよ。数学科の人間から見たら、私だって普通の人ですよ

※強調は引用者による。


・・あれ? 数学科同士なら普通の人に見えるのなら、高橋洋一氏も小島先生もお互いに普通の人に見えるんですよね。まあとにかく、数学科でもない他人がとやかくいうべきことではないということなんでしょう。

そんな高橋洋一氏は、地方分権についてももちろん数字で考えるそうで、

年金はその性格上、皆年金という形で全国民が加入するため、どうしても国がやらざるを得ない。一方で、地方分権をするには15兆円の税源移譲が必要です。そして、その税源には消費税が一番ふさわしい。当然、消費税が地方税化されれば、それを年金に充てることはできなくなります。逆に、消費税を社会保障の目的税とするなら、地方税にすることはできなくなり、地方分権は頓挫します。

―「二兎を追う者は一兎をも得ず」ですか。
私は計算することで、長期的に必要な金額を把握できるから、年金に消費税を充てると地方分権ができなくなることが分かります。しかし、一部メディア*2は地方分権を主張しつつ年金の財源として消費税を活用しろなどと主張しています。これは矛盾した主張ですし、両立するものではありません。数字の論理としてどちらかを諦めないといけない。

―数字をもって説明されると反論の余地も少なくなりますね。
私の場合、年金の政策一つを取っても、大きな数字などのイメージが頭にすぐわくんです。私はこれを数字の感覚ということで「数覚(すうかく)」と呼んでいます。味覚や聴覚などの五感と同じで、第六感として私には備わっているようです。

※強調は引用者による。


とのことで、「数覚」と呼ぼうが何と呼ぼうがそれってただの計量経済学じゃね?というツッコミは野暮というものです。そんなモデル化された世界は俺が日々現場で見ている「現実」とはかなり違うようにも思いますが、数学科出身でもなく「数覚」も備わっていない俺なんぞが見ている「現実」なんてものは、高橋洋一氏にとっては「現実」ではないんでしょうね。

というわけで、リフレ派(と呼ばれる)の方々が高く評価される高橋洋一氏の「現実」と、田中秀臣先生に「小島寛之さんだっていま総叩きの刑wですが、実物はふつうのおっさんですよ。」と言われる小島先生の「現実」の違いってのがよく分かりません。

いやあ、「現実」っていったい何なんでしょうか?




*1 前回エントリで取り上げた『「空気」の研究』の著者にちなんだ山本七平賞を受賞されているのも何かの縁。
*2 「日本」とか「経済」という言葉が名前についている「新聞」ですね。

2009年01月04日 (日) | Edit |
給料が下がり続けてる中での長めのお正月はどこに行くにも予算制約がきつくて*1、結局積ん読の消化に励んでいたわけですが、何の脈絡もなくたまたま手に取ったのがこの3冊。というか、当初は他の積ん読本を読むのがメインの予定だったのに、もう一日しか残ってない・・・

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
(1983/01)
山本 七平

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2日で人生が変わる「箱」の法則2日で人生が変わる「箱」の法則
(2007/09/06)
アービンジャー・インスティチュート

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常識のウソ277 (文春文庫)常識のウソ277 (文春文庫)
(1998/08)
ヴァルター クレーマーゲッツ トレンクラー

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1冊目の著者の山本七平氏は毀誉褒貶の激しい方(山本七平(Wikipedia))だそうで、個人的にはイザヤ・ベンダサンの正体というイメージが強いんですが、KYとかいうときよりももっと強く日本的意志決定を規定する「空気」について、豊富な事例とともに論じられています。書かれた時期が1970年代後半なので引用されている事例がちょっと古くさいものの、それがかえって論理の普遍性を際だたせているように思われるところがすごい。

たとえば以下の部分って、今書かれた文章として読んでも何の違和感もない。

たとえば、一人の人を、「善悪という対立概念」で把握するということと、人間を善玉・悪玉に分け、ある人間には「自己のうちなる善という概念」を乗り移らせてこれを「善」と把握し、別の人間には「自己の内なる悪」という概念を乗り移らせてこれを「悪」と把握することは、一見似ているように見えるが、全く別の把握の仕方である。
(略)
前者はすなわち「善悪という対立概念」による対象把握は、自己の把握を絶対化し得ないから、対象に支配されること、すなわち空気に支配されることはない。後者は、一方への善という把握ともう一方へのその対極である悪という把握がともに絶対化されるから、両極への把握の絶対化によって逆に自己を二方向から規定され、それによって完全に支配されて、身動きができなくなるのである。言いかえれば、双方を「善悪という対立概念」で把握せずに、一方を善、一方を悪、と規定すれば、その規定によって自己が拘束され、身動きできなくなる。さらに、マスコミ等でこの規定を拡大して全員を拘束すれば、それは、支配と同じ結果になる
pp.50-52

多数決原理の基本は、人間それ自体を対立概念で把握し、各人のうちなる対立という「質」を、「数」という量にして表現するという決定方法にすぎない。日本には「多数が正しいとはいえない」などという言葉があるが、この言葉自体が、多数決原理への無知から来たものであろう。正否の明言できること、たとえば論証とか証明とかは、元来、多数決原理の対象ではなく、多数決は相対化された命題の決定にだけ使える方法だからである
p.77

だがしかし、ひとつの政治制度は現実には「絶対」ではあり得ない。またそれは一律平等無差別を保証する機構でもない。元来は仏像のごとくに臨在感的に把握できる対象ではなく、人間が運営すべき機構である。だが、だれもそれを自覚できなくなる。そのため政治への要求は宗教的にまで過大になり、その要求は結局、臨在感的把握の一方的充足を求めることになる。
pp.157-158

そして個人が自由に発言し、個人として自由に行動すれば、日本の社会は、徐々にしかし非常に冷酷にこれを完全に排除して行った。ただし、本人が転向し、定められた「父と子」の関係に入りさえすれば、その集団はすぐに彼を受け入れてくれた。治安維持法のみで処刑された者が一人もいなくても、少しも不思議ではないし、また多くの人が、転向とともに有利な就職先まで世話してもらっても不思議ではない。改宗者はいずれの宗団でも逆に高く評価されるのだから―。
pp.160-161

われわれは確かに「世界の趨勢」を追っかけて来たし、これが「趨勢だ」ですべてがすんだ時代には「自由」は「不能率」の同義語として笑殺してよかったし、その方が問題が少なかった。ただ、この方法が通用しない位置に達したとき、その「何かの力」は方向を失い、新しい臨在感的把握の対象を求めて徒に右往左往し、衝突し、狂躁状態を現出して自らの「力」を破壊的にしか作用し得なくなって当然である
p.169
山本 七平 (著)『「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))』文芸春秋 (1983/01)
※強調は引用者による。


一つ目の引用は「霞が関・官僚=悪」とか「公共事業=ムダ=悪」に対して「地方分権=善」とか「民間・NPO=善」という構図でしか論じられない現状を見事に描写していますし、二つ目の引用は「民意」なるものの日本的解釈のおかしさ*2、三つ目の引用は左派陣営による闇雲な社会保障要求(リンク先の最後の部分)、四つ目の引用は脱藩官僚のもてはやされ方、最後は改革バカが繁殖する理由と、それぞれについての説明として全く説得力を失っていないと思います。

山本氏の日本人論というのが実は、敬虔なクリスチャンの視点から考察されたものであるため、日本的な「空気」が醸成される理由を汎神論に求めて、これと欧米や中東の一神教と対比させているところに特徴があります。この「対比」というところがポイントで、山本氏はあくまで日本的な汎神論と対比させるのみで、どちらかがよいとか悪いという断定は最後まで避けながら、「通常性」の中で日本人が消化するという前提を否定することはしません。したがって、本書はまさに「研究」であって、具体的なノウハウや処方箋を示すものではなく、日本人が克服できない課題として提示されているのみともいえます。

これに対して、『2日で人生が変わる「箱」の法則』では、その欧米や中東における個人相互の影響の与え方がどうあるべきか具体的に説明されています。これらの本の思想的な背景については、極東ブログでのfinalventさんによる書評([書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート)、[書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート) その2、その前に[書評]自分の小さな「箱」から脱出する方法(アービンジャー・インスティチュート))が詳しいのでそちらでご覧いただくとして、山本書との対比で興味深い点としてはこの部分。

人間関係を築いたり、相手のことを知ったり、教えたり、正したりしようとして行うどんな行為も、箱の内側か外側でするわけです。そこで、昨日『共謀の図式』で学んだとおり、箱の中から行動を起こすと、反発を招くことになる。(略)ピラミッドは、たえず、問題は自分にあるかもしれないことを思い出させ、どうやって解決に手を貸せばいいのかのヒントを与えてくれる。変化の土壌は、行動戦略だけでは決してつくり出せない。平和は―家庭であろうと、職場であろうと、民族間であろうと―理にかなった外面的戦略が、平和な内面的戦略と結びついて初めてもたらされるのです。
pp.288-289

私たちに大切にしている信仰があれば、他の人たちの信仰が彼らにとってどれほど大切かがわかります。そして、私たちが必要としているものがあれば、私たち自身の経験から、他者が必要としているものにも気がつくのです。
p.294
アービンジャー・インスティチュート (著), 門田 美鈴 (翻訳) 『2日で人生が変わる「箱」の法則』 祥伝社 (2007/9/6)
※強調は引用者による。


念のため、個人的にはこの本とその前の『自分の小さな「箱」から脱出する方法』で述べられている「箱」の法則には人生観を変えられるくらいの衝撃を受けているし、多くの人は得られるものが多いと思います。ただし、この本でもユダヤ教やキリスト教、イスラム教といった一神教が同じくエルサレムを聖地としていることによって内面的戦略が意味を持つということを指摘しているに過ぎず、「空気」と「水」による通常性が意志決定を支配する日本においてどこまで通用するのかというのが率直な疑問として残ってしまいました。
いやまあ、それがこの本で述べられている「自己正当化」だと言われてしまえばそれまでですが。

で、最後の『常識のウソ277』は、「ドイツの常識」について、ドイツ人の経済・社会統計学教授と統計学教授が1996年時点での最新理論を用いてそのウソを暴くというもので、自分自身がヨーロッパの歴史や社会に疎いところもあるので、山本書で引用されている古代や中世の歴史を確認するのにちょうどよかったという瓢箪から駒的な読み方もできました。

で、巻末の訳者あとがきによると、ドイツでは20万部を売り上げたベストセラーとなり、日本だけではなく、イタリア、ロシア、チェコ、ポーランド、オランダ、韓国でも翻訳が予定されているとのこと。ところがその項目を見ると、ドイツでも驚くほど日本と似通った「常識」があることがわかります。特に「経済発展は環境に悪影響を及ぼす?」、「経常収支が黒字なら経済は堅調?」、「国民総生産は国民の豊かさの指標?*3」、「国民総生産は国民の労働量の指標?」、「最低賃金制は非熟練労働者の収入を保障している?」など、経済学的にも重要なトピックが並んでいて、どこの国でも経済学的なトレーニングやリテラシーが普及しているわけではないことがわかる反面、この本がベストセラーになるドイツと、日本的な「空気」にマスコミを通じて支配されている日本との違いを痛感してしまいました。

結局のところ、山本書が指摘するように、対象の臨在感的把握による絶対化が様々な極に分散して身動きのとれない状態が日本の1970年代後半の状況であるとするなら、それから30年経った現在でもそれは克服されていないし、今年も克服されることはないんでしょう。山本書は最後にこういいます。

もしこの状態がこのまま進めば、おそらく日本は、その能力をもつ集団ともたない一般人の双方に分かれて行くであろう。
というのは、「空気」に基づく行動が、まわりまわっていつしか自分の首をしめて行き、その判断で動き回っているとどうにもならなくなることを、人は、否応なく実感せざるを得なくなってくるからである。戦争直後にこのことはいやというほど実感させられたわけだが、現代でも、公害問題が華やかだったとき、「経団連」をデモ隊で囲んで「日本の全工場を止めろ」といった発言に対して、ある経済記者が「一度やらせればいいのさ」と投げやりな態度で言った例にその実感がある。これは、臨在感的把握に基づく行為は、その自己の行為がまわりまわって未来に自分にどう響くかを判定できず、今の社会はその判定能力を失っているの意味であろう。彼の考え方を要約すれば、「ジュッと熱く感じない限り理解しない人たちだから、そんなことをすればどうなるかいかに論証したって耳は傾けない。だから一度やけどすればよい」といった一種の諦めの発言であり、これは戦争中にもある。
pp.218-219
山本 七平 (著)『「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))』文芸春秋 (1983/01)
※強調は引用者による。


諦めざるをえない情況に心が折れそうになったときは、内面的戦略としての心の平和ですよ。




*1 典型的な合成の誤謬です。
*2 いま気がつきましたが、「民意」がテーマだと拙ブログ内では適当なエントリが見つかりませんでした。
*3 山形-mojimoji論争が記憶に新しいところ。
# 数か所訂正しました。すみません。

2009年01月01日 (木) | Edit |
昨年中は多くの方々にTB、コメント、拍手、ぶくま等々いただきありがとうございました。
本年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。

というわけで初詣しておみくじ引いてみました。

【吉】 (No.15010) モナー神社
願事 : 他人の助けありて思いのほか早く調う
待人 : 来るが遅し
失物 : 物に隠れて出ず
旅立 : あまり急ぐは宜しからず
商売 : 気を付けてなせば吉
学問 : 困難 勉学せよ
争事 : 初めは危く後宜し
転居 : 宜しけれど急ぐは悪し
病気 : 重し 信心せよ
縁談 : 初めの縁は困難あり 後の方早く調う

去年には及びませんけどまあこんなものでしょうか。

去年のリアルでは世間的にも個人的にもかなり凹むことが多かったんですが、今年は少しでも事態が改善されることを祈るのみです。

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