2008年12月28日 (日) | Edit |
毎度のhamachan先生のところでこのあいだ久しぶりに語気の荒いエントリがあって、まさにおっしゃるとおりとしかいえません。

経済産業省が「未来の成長産業」などと無駄な予算を山のようにつけて煽ってきた産業で役に立ったものが一つでもあるか。愚劣な産業政策の後始末、尻ぬぐいを黙々とやってきたのがどこかわかっているのか。
ひどいのはお前だ!(2008年12月21日 (日))」(EU労働法政策雑記帳

旧労働省官僚であるhamachan先生からすれば、誰のせいで余計な仕事が増えると思ってるんだこの野郎というところですね。拙ブログでも、経産省の存在意義の危うさからくる日本解体指向ぶりの酷さを指摘したことがありますが、実は地方自治体の側からみると、これがまたややこしい構図になっていたりします。

というのも、都道府県、市町村ともに大抵は「商工」という文言を含む名前の部署があって、この部署では経産省と労働省の業務を一手に引き受けている*1からです。もちろん、地方自治体勤務のご経験もあるhamachan先生はご存じ*2だと思いますが、地方自治体の現場は、一方で新産業のインキュベートとかの雇用創出をやりつつ、もう一方で雇用の確保のために商工会議所などの団体に「従業員のクビを安易に切ってはいけない」とか「新卒を積極的に採用しなければいけない」とか要請してたりするわけです。

かといって、さすがに「無能な働き者」たるチホーコームインであってもこの矛盾に気がつかないわけではなく、既存の企業を延命させなければ雇用が守れないという「現場を理解して」*3、「せっかくの不況だからゾンビ企業を退出させよう」とはいいません。つまり、国全体が不況に突入して地元の経済や雇用情勢が深刻な状況に陥ってしまうと、地方自治体は経産省の尻馬に乗って経営者を優遇するのか、雇用確保のために経営者を規制しなければならないのかというジレンマに陥ってしまうことになります。

さて、地方自治体はこのようなジレンマに陥ったとき自らのアイディアで具体的な打開策を打ち出すことができるかといえば、まずそのような政策形成能力は期待できませんし、国全体が不況に陥っているという状況を考えると、ほぼ不可能と言っていい状況にあります。しかし、ここに手をさしのべる救世主が現れます。それが旧自治省と「改革派」と呼ばれる首長たちです。彼らは「地方分権さえすればすべての問題は解決する。なぜなら、現在のような「悪い状況」*4になったのは霞が関が勝手に決めたことが悪いから」という論理で、地方自治体職員や地元マスコミをその気にさせて、選挙では「地方分権」といわないと当選できない状況を作り出すことに成功しました。

彼らはなぜそんなことをいう必要があるのでしょうか。まず、選挙を戦わなければならない首長たちからすれば、特に「マニフェスト」とかシビアな公約を求められる昨今ではできるだけ有権者に訴求する公約を掲げて、しかもある程度の実現可能性がなければなりません。となると、具体的な政策を掲げる前に「地方分権」とかのスローガンを掲げておくことによって、個々の具体的な政策で成果が上がらなくても、最後の手段として行政組織をスリム化したり出先機関を統廃合するといった自前の組織をいじりさえすれば*5、「地方分権を積極的に推進した」ということが可能になります。つまり「地方分権」は、首長たちのリスクヘッジとして非常に使い勝手のいいスローガンとなってくれるわけです。

一方の旧自治省には、地方自治体の幹部としてそのような首長の意向*6を実現することが求められるわけで、それが霞が関内部においては「交付税差配権拡大主義」的だったり、他の省庁がいかにダメかということを強調するような行動として現れてくることになります。旧自治省のそのような行動を実効あるものにするためには、全国の共通認識として「霞が関・官僚による中央集権=悪」、「地方分権=善」*7という対立概念を浸透させるとともに、特に地方在住者に対しては「地方分権」というマジックワードを刷り込む必要があるんですね。

というわけで、すなふきんさんが

総務省のいったいだれがこんな素人目でみてもおかしなプランを考えるんだろうか?
■[これはひどい]国民をバカにするとはこういうことでは?(2008-12-27)」(すなふきんの雑感日記


という疑問を持たれるのはごく自然なことだと思いますが、上記のような旧自治省の事情からすると、「旧自治省だから」という答えにしかならないと思います。

同様に、hamachan先生が

それだけに、こういうことを言われると、世の中の仕組みはわかっているはずの人が、わざとこういうことを仰るのですか?と悲しくなります。
KYはどっちだ?(2008年12月27日 (土))」(EU労働法政策雑記帳


と悲しまれるのも、釈迦に説法とは存じますが、同じく「旧自治省だから」ということに尽きるではないかと。特に、山田知事は「せんたく」などでもご活躍の旧自治省仕様のお手本のような方ですし。

個人的には、このような「地方分権」というマジックワードが深刻なモラルハザードをもたらして、結局は地方自治体そのものが苦しむことにつながっているいるんじゃないかと思うんですが、長くなったのでそれについてはまた今度にします。



*1 さらにほとんどの場合旧運輸省の観光行政も含みます。理由はよくわかりませんが、流通や広告が絡むものはまとめてしまおうということのようです。
*2 職業安定課ということは地方事務官として出向した形かもしれませんが。
*3 「「現場」と称するマスコミやら議員やら住民やらの突き上げが厳しくて」、という方が正確でしょうけど。
*4 彼らによると、貧弱なインフラを整備するために公共投資が行われて失業率も低い時代よりも、現在の方が「悪い」そうです。
*5 全国の官公労の皆さん、ここ反対するところですよ。
*6 旧自治省官僚ご自身が首長になるためにも。
*7 地方分権の主語は文脈によって「都道府県民による」だったり「市町村民による」だったり(これらをひとまとめにして「住民による」だったりしますが、いずれも「国民」と対立する概念として一人歩きしています)しますが、実態としては首長と議員と職員ですね。

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2008年12月22日 (月) | Edit |
今日はお休みをいただんでじっくり「文藝春秋」なぞ読んでいたら、俺は知らなかったんですが、「文藝春秋」には「赤坂太郎」なるペンネームによるコラムがあって、その執筆陣の一人がたとえば現在の「NEWS23」キャスターの後藤謙次氏だったんだそうですよ。

実は今日のさっきのエントリは、前回に引き続いて「文藝春秋2009年01月号」ネタから赤坂太郎のコラムを取り上げるための前振りだったんですが、このコラムのテーマはずばり
「麻生官邸を牛耳るソフト帽の怪人」
です。
この「ソフト帽の怪人」こそが、拙ブログで旧自治省官僚のサンプルとしてたびたび言及させていただいている岡本全勝氏なんですね。麻生-岡本の旧自治省ラインの危うさについては俺も危惧しておりましたが、悪い方で予想どおりな感じです。

交付税も郵政も総務省の所管。浮かび上がるのは「総務省官邸」の実態だ。麻生は財務、外務、経済産業、警察の四省庁体制が慣例の事務担当の秘書官を増員。総務省官房審議官(地方財政担当)だった岡本全勝(昭和53年自治省入省)を首席扱いで登用した。岡本は麻生の総務相時代に官房総務課長で仕え、信任を得た。麻生に張り付き、政策全般を仕切ろうと力む余り、河村や漆間らを遠ざけがちで、官邸内で不協和音を生む。
(中略)
まるで阿倍の政府秘書官だった井上義行を彷彿とさせる振る舞いに、陰では「キャリアの井上」と揶揄される。洒落者で髪の薄い岡本が愛用するソフト帽まで「目立ちすぎだ」と攻撃を受ける始末だ。
「道路財源から一兆円」は財源と権限を国土交通省から交付税を差配する総務省に移すことを意味する。麻生が農水省の地方農政局と国交省の地方整備局の「抜本的な統廃合」をぶち上げた際も、霞が関は岡本の振り付けを指弾した。
赤坂太郎「麻生官邸を牛耳るソフト帽の怪人」(文藝春秋2009年01月号)
※強調は引用者による。


基本的に旧自治省の考えていることは「交付税差配権拡大主義」から理解できます。その先にあるのは、地方分権による旧内務省の復活なのかしりませんが、そのおこぼれにあずかろうと経産省と農水省がマーケット獲得に動くという奇妙な三つどもえがなんとも香ばしい。

ちなみに、ここで引用されている井上義行氏は、「フールファイブ」の一員で、高卒でありながら首相秘書官にまで上り詰めたという経歴から再チャレンジのシンボル的な扱いを受けてましたね。今となってはそれが何を意味していたのか検証することすらはばかられますが・・・

さらに、偶然かどうかわかりませんが、この号では同じような指摘が他の記事にもあります。

発足後間もない麻生太郎首相の政権運営を迷走させていると言われているのが、首相官邸にいる「四人組」だ。
(中略)
そして、霞が関で最も忌み嫌われるのが、岡本全勝秘書官(昭和五十三年入省、旧自治省)。麻生首相が慣例を破ってまで総務省から起用した首席秘書官だが、とにかく各省庁の大臣、次官、局長を首相に会わせない。首席秘書官として総務大臣の面会日程を一手に握って嫌がらせするわりには、調整能力は乏しい。定額給付金や道路特定財源の見直し、郵政民営化株売却問題などが混乱するのは岡本氏の能力不足が大きい。「全勝ならぬ『全敗』秘書官」と、役所の見方は厳しい。
「霞が関コンフィデンシャル」(同上)


・・・日程調整がどこまで岡本氏の振り付けなのかわからない以上ここまでボロクソに言わなくてもと思いますし、現在同じ総務省だからといって、旧自治省出身の岡本氏に郵政問題まで責任を負わせるというのはどうかと思いますが、まあそのほかの点ではさもありなんと納得しますね。

まあいずれにせよ、岡本氏のお考えをまとめられたこの本を読んでも、岡本氏の問題意識とか求める姿がどうにも理解できなかったのですが、

今述べた三権は憲法の定めであり、憲法の考え方です。それは、立法権と分立している行政権です。そこでは、国会が法律を決め、内閣と地方公共団体がその法律を執行します。法律に争いがある場合は、裁判所が裁定します。これは、いわば法律学的思考です。
(中略)
これに対し、政治学的思考では、政治という要素が加わります。政府が行っているのは、統治としての政治と行政です。国民は様々な考え方や価値観を持っています。また、社会は多様な利害から成り立っています。政府は、それら多様な考え方、時には対立する考え方をまとめます。そして利害調整を行います。政治学からみた政府は、国民を統合し、ある方向に持って行くという積極的な政府です。
pp.272-273

新 地方自治入門―行政の現在と未来新 地方自治入門―行政の現在と未来
(2003/10)
岡本 全勝

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どうやら岡本氏は統治機構とかそういうところでしか政府を把握しておらず、「そういえば財政もあるけどね」くらいにしか経済的側面を理解してない嫌いがあります。この本でも「経済学的には」とかいう言葉がちょくちょく出てきますが、社会共通資本とか文化資本とか関係資本とか、宇沢弘文あたりの啓蒙書レベルしか理解していないように思われますし、そりゃ「食糧自給率が上がらないのはけしからん」とか騒ぐわけですな。

で、おそらく首席秘書官というのは、岡本氏が再三主張して「内閣人事局」構想で実現の一歩手前までいった「スーパーゼロ種官僚」を先取りしたポジションだと思いますが、その具体例を自ら示してみてくれたわけですね。さすが「隗より始めよ」です。
というわけで、麻生総理の政権運営はこの先も迷走しそうな悪寒。

ついでに、俺の知っている職員で今は役所を辞めてNPOやっている人がいて、その経歴を珍しがられて地元の新聞に寄稿してたりするんだけど、
「昨今の経済危機でグローバリズムの怖さを思い知った」
「食糧自給率が低い限りグローバリズムから逃れることはできない」
「自然豊かなこの地域こそ自給自足で資本主義からの決別を!」
とか典型的なリベサヨっぷりに、こんな役人が一人でも減ったことに少なからず安堵した次第です。

2008年12月22日 (月) | Edit |
前回エントリの続編。
俺自身は初めて「文藝春秋」なる雑誌を自分で購入したので、とりあえずおもしろそうなところはないかなとつらつら眺めていたら、例の食糧自給率についての記事がありました。

で、この記事で引用されている算定式とか数字とかの裏を取ってみようと思ったんですが、肝心の食糧自給率の計算式がネットでは発見できません。この時点で食糧自給率について何か語ろうとすることがはばかれるわけですが、ここでは一応記事の数字をたどっていくことにします。

ちなみにこの記事を書いた浅川芳裕氏のプロフィールは、

1991年
高校卒業後 カイロアメリカン大学(エジプト)
1992年
カイロ大学文学部東洋言語課セム語専課(エジプト)
1995年
日本とアラブ間の映像・ニュースコンテンツ版権ビジネスを行なうJ&Aメディアネットワーク設立
1997年
ソニーガルフ(アラブ首長国連邦ドバイ)、モロッコ(カサブランカ)支社で社長付きマーケッターとして勤務
2000年
株式会社農業技術通信社、現在に至る
OBOGインタビュー特集:パート3 」(World Career


という方だそうで、浅川氏が副編集長を務める「農業経営者」なる雑誌は、

月刊『農業経営者』は、「土を作る事業者」としての自負を持ち、顧客への責任において農業を経営する農業経営者と関連産業人のための雑誌である。同時に当社は農業と「食」に関わる産業の永続性ある発展のために働くものである。
(中略)
本誌はこう考える。

農業経営者はもとより、技術開発企業から流通・消費企業まで「食」に関わる物すべてが食べる者のために働く「食産業人」であると。そして私たち食産業人は、それぞれの責任と自負において多様な顧客ニーズの中で必要とされ選ばれていくものであると。
農業経営者とは」(農業経営者


だそうです。

まず、レベルの数字を確認してみましょうということで、

日米英独仏五カ国の農産物輸入額(二〇〇四年)を比べると、一位が米国の五九九億ドル、独五〇八億ドル、日本が四二五億ドルで三位同列、仏三四六億ドルという順になる。
実際の依存度をよく表す、国民一人あたり輸入額を試算すると、一位英国六九〇ドル、続いてドイツ六一七ドル、フランス五五八ドル。日本はそれらのほぼ半分の三二四ドルで、一番少ない米国二一四ドルとも大差はない。
対GDPの農産物輸入比率をみても全く同順で、日本は〇.九%と、国力に占める輸入食料負担はけして多くない
浅川芳裕(「農業経営者」副編集長)「農水省食糧自給率のインチキ」(文藝春秋2009年01月号)
※強調は引用者による。


というのは、飯田先生の議論と同じように、食料品が輸入品であふれかえっているかのような誤解を解くのに役に立ちますね。
さらに、カロリーベースの食糧自給率だとカロリーの低い野菜は過小評価される上に、カロリーの高い肉に至っては、

畜産酪農品の場合、農水相の自給率は、実際に国産品が供給するカロリーに、飼料自給率(家畜が食べる国産飼料カロリー割合)を乗じて計算される。彼(引用者注:養豚業者)は、千頭以上の豚を飼育しハムやソーセージなどを手掛ける、地元で有数の事業者だ。しかし飼料自給率がゼロだから、何十人も雇用し何億円売り上げても、彼が国民に供給したカロリーは、農水相の計算上ゼロ。自給率低下の犯人というわけだ。
(同上)
※強調は引用者による。


となるわけで、カロリーベースで自給率を算出することにどんな意味があるのかよくわからなくなります。その一方、日本の「生産額ベース総合食料自給率」は66%で、氏が独自に試算したところ、日本の生産額ベース自給率は米国、ロシア、タイ、イタリアを上回る(フランス、オーストラリアはマイナス)となるそうで、数値の真偽は確認できませんがさもありなんというところ。

で、石破農水相がおかしなことを言っているなあと思ったのにも理由があったようで、こういう計画があるんだそうな。

では、「食料・農業・農村基本計画」にある「二〇一五年度の自給率目標四五%」なる数字はどうやって実現するのか。その根拠は、要するにこうだ。「国民が食べる輸入肉や輸入小麦が大きく減り、代わりに国産大豆や野菜、乳製品をとる量が増え、食品廃棄ロスが一割ぐらい減る見込みである。ただし、国産小麦や国産飼料で育つ肉の消費量は変わらない。以上」つまり、十数年後の一億人レベルの消費者嗜好を、適当に想像して決めただけである。農業生産の増産とも、安全保障上の自給概念とも何ら関係ない。
実はほぼ同じ皮算用を一九九七年にも行ない、二〇一〇年には自給率四五%を達成しているはずだったが、向上政策を五年間続けても横ばいなので、達成時期を延ばした。当然の話だ。われわれが何を食べるか、箸の上げ下げまで農水相がコントロールできるわけがない
(同上)
※強調は引用者による。


前段の部分は「食料・農業・農村基本計画(注:pdfファイルです)」の15ページあたりに書いてあることのようですが、「要するにこうだ」といえるのかちょっと不明なところもありつつ、後段はそのとおりですね。大部分の国民にとっては、どの国で作ったかよりも、自分の嗜好と栄養摂取が予算制約の中でどの程度達成できるかが問題でしょう。

国内の農家がより高い付加価値をつけて予算制約に余裕のある層の顧客を獲得するのは大変すばらしいビジネスモデルですが、農業による食糧供給が公共財の役割を果たす以上、特に現下の経済危機ではいかに安価な食料を調達するかのほうが喫緊の課題ではないかと思います。

浅川氏が「農業経営者」という雑誌で強調されているのも、この生産性と付加価値のいずれかを向上させたビジネスモデルとしての農業経営のようで、だからこそこんなこともいえるのだろうと。

結局は、すべての先進国が歩んできた産業構造変化の問題なのだ。中国をはじめ新興国ではまだ農民が人口の過半数を占め、他産業への転換が国家的課題となっている。対して先進国はその転換を乗り越え、わずか数%の農家人口でもさらに発展を遂げられるステージにある。
それでも日本は、就業人口の三三%、一千二百万人の農業者がいた一九六〇年のほうが、「自給率が七九%もあってよかった」というのだろうか
(同上)
※強調は引用者による。


農村から人がいなくなるのは農業の生産性向上の帰結として当然だと、当事者が決して認めないというのがより本質的な問題なのでしょう。

2008年12月18日 (木) | Edit |
HALTANさんのところでも取り上げられていたこれなんですが、
文藝春秋 2009年 01月号 [雑誌]文藝春秋 2009年 01月号 [雑誌]
(2008/12/10)
不明

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権丈先生が文藝春秋の宮崎哲弥編による特集に寄稿されて、

今回この仕事を引き受けたのは、彼が編者だったのは大きい。他のほとんどのテーマでも論じることができますので、機会があればどうぞ。なかには今回の担当者の論と真逆の「日本興国論」――今の論者から見れば「日本亡国論?」――になるのがあるでしょうけど。。。
仕事のページ(12月11日)」(Kenjoh Seminar  Home Page
※強調は引用者による。


とおっしゃるのでおそるおそる見てみました。
うーむ、「日本興国論」はむしろ一部で「日本亡国論」がほとんどという印象。というか、権丈先生が本田宏氏と並ぶことにも違和感ありまくりだし、竹中平蔵氏とか湯浅誠氏というラインナップは、宮崎哲弥氏よりも編集部の意向ではないかと勘ぐってしまいます。老婆心ながら、今回のメンツに並ぶと権丈先生の主張はかえって変な誤解を生むような気もしないではありません。

ざっとレビューしてしまいますが、冒頭の原田泰氏は、HALTANさんのところでもたびたび取り上げられている「地方の官民賃金格差」論をここでもご披露されています。

本気で財政赤字を減らすのであれば、景気を拡大させ、政府支出を削減するしかない。そのときに大事なのは、単に支出をカットすることではなく、税金のより有効な使い道は何か、と考えることだ。
(中略)
官民の賃金格差に関しては興味深いデータがある。民間に比べ公務員の賃金が高い都道府県ほど、都道府県民の平均所得が低い傾向がある。県民所得が最も低い沖縄では六〇%以上、ワースト三位の青森では七〇%近くも公務員の給料が高いのに対し、平均所得上位の大阪では二〇%弱、愛知はおよそ二五%。最も平均所得の高い東京では官民にほとんど差がない。
こうした現象は、これまで「所得の低い県には働き先が乏しく、公務員くらいしか仕事がない」と説明されてきたが、本当だろうか。私はむしろ逆だと考える。公務員の給料が高すぎるから、他のビジネスに人材が集まらず、経済発展が進まないのではないだろうか。
原田泰(大和総研チーフエコノミスト)「消費税アップは15年後でよい」(文藝春秋 2009年 01月号)


まあ上のリンク先と同じことの繰り返しですが、原田泰氏は経企庁に入庁して官庁エコノミストとしてご活躍後、現在は民間のエコノミストへ華麗に転身されているわけで、「公務員の給料が高すぎるから、他のビジネスに人材が集まらず」とおっしゃるなら、その官民給与格差のない東京のご出身でありながら、なぜ初めから民間に就職されなかったのか不思議なところですね。

二番手が権丈先生で、そのすぐ後の本田宏氏はいつものとおり

その一方で、道路建設を含めた公共事業には特別会計から五〇兆円もの巨費を投じている。不急の「道路」と緊急の「命」、どちらが大事かは言うまでもない。公共事業のムダを即刻見直して、その財源を医療費に回すのが、正しい国のあり方だろう。
本田宏(済生会栗橋病院副院長)「給付金より2兆円で医療再建を」(同上)

という「公共事業=ムダ=悪」論でご自身の主張する所得再分配を自己否定しています。
その次の小宮一義氏は、

無闇な投資に向かわせるうえ損をもたらしかねない低金利政策ではなく、貯蓄へのモチベーションを上げる政策が待たれる。
(中略)
アメリカ発の金融危機はカネがカネを生むシステムの崩壊を世界に晒したが、日本はこれを奇貨とすべきだ。コツコツ働きコツコツ貯める、この現実的かつ理に適った日本人の経済感覚こそ見直されるべきだ。「まず貯蓄ありき」。そして「守るお金」を確保した上で、自分で見極めを持って投資する。これが、激動の時代において、よりよい老後を送るための確実な方法だし、日本経済の安定的な発展につながる。
小宮一義(小宮コンサルタンツ代表)「「投資より貯蓄」が老後を救う」(同上)

という「持てる者の論理」全開で、資産を持っている世代にカネを使うなと指南する始末。「文藝春秋」の読者のような世代からすれば、自分が退職までしのげれば失業者がいくら増えたって関係ないとはいえ、あからさまですなあ。

「霞ヶ関がメシの種」でおなじみの竹中氏はといえば、霞ヶ関・官僚叩きをしないと気が済まないので、

官僚の権限拡大は何としても防がねばならない。では、なぜ官僚制度が悪いのか。その根本的な原因は、官僚の身体に染み込んだ「利害性」と「無謬性」という点にある。
(中略)
企業にとって利益最大化が目的であるならば、官僚にとっては影響力最大化が目的である。規制緩和に反対するのは、まさに官僚の本能なのだ。
竹中平蔵(慶應義塾大学教授)「霞ヶ関の権益を排せば成長する」(同上)

だそうで、何のヒネリもなくて飽きてきました。
お次は経営学者の伊丹氏ですが、

その一例が労働分配率である。労働分配率とは、人件費を企業の生む付加価値で割ったもので、この数値が高いほど人件費の負担が大きいことを示している。日本の株価が史上最高値をつけた八九年、労働分配率は六七.六%だった。ところが、それがバブル崩壊後も上昇し続け、九九年には七五.五%に達して、経営を大きく圧迫した。現在、労働分配率の低下が雇用条件の悪化として問題視されているが、〇六年は六九.三%、〇七年には六九.四%。これはバブル期の水準より高い。バブル以降が高すぎたのだ。
伊丹敬之(東京理科大学教授)「「ヒト重視」日本型経営が勝つ」(同上)

って、労働経済学の教科書を開いてみていただければ、不況期に付加価値が圧縮される場合は賃金の下方硬直性によって労働分配率が高くなって、好況期には逆になるというのは実証された理論なんですが、経営学ではそれとはまた違う理論があるのでしょうか。少なくとも経済学による実証分析によれば、不況まっただ中の1999年に労働分配率が高くなって、その後2007年までの景気の拡大期に労働分配率が低下したことに何も不思議なことはありませんので、それに対する批判は因果関係を取り違えているんではないかと。

なんてことばっかり書いてあるのでそろそろこの特集にうんざりしてきたところで、バーナンキ現FRB議長をして「中原氏以外はジャンク」と言わしめた中原伸之氏がトリ前で登場。

「利下げは負け、利上げは勝ち」という部外者には理解しがたい価値観に、日銀は支配されている。したがって、バブル崩壊時も今回の危機でも、利上げは常に「トゥー・リトル、トゥー・レイト(too little, too late)」。一方で利上げは敏速だ。
(中略)
日銀内の金融引き締め派は「タカ派」と言われている。経済の悪化に対してタカをくくる人たちだ。私が審議委員を務めていた時は、日銀生え抜きの副総裁だった山口泰氏が、その筆頭だった。白川方明現総裁は、その山口氏の懐刀だったから、本質はタカ派中のタカ派であろう。
(中略)
白川総裁には、〇.二%の利下げ、当座預金〇.一%の付利といった小手先の手段ではなく、ただちにゼロ金利、量的緩和の復活、さらには大幅な国債の買い増しなど、出来ることはすべてやる覚悟が求められる。
中原伸之(元日本銀行審議委員 元東亜燃料工業社長)「白川総裁よ、金利をゼロにせよ」(同上)


さすがですねえ。
が、上記の小宮氏のような「とにかく貯めてまくってカネを守れ」とかの指南を真に受けているだろうおっさん方にこの言葉が届くとは到底思えない・・・

というわけで、最後は大佛次郎論壇賞を受賞された湯浅誠氏が大トリ。レビューもここでやめてもいいんだけど・・・と思ってみたら、

ところがあらゆる社会保障が削られてきた結果、日本はこうした費用を個人の収入に大きく依存する超コスト高社会になってしまった。賃下げ圧力によって賃金上昇が抑えつけられてしまうと、正規雇用で働くホワイトカラーはこうした支出の増加に対応できない。将来への不安が増大するなかで余ったお金は貯蓄に回され、内需の拡大、景気回復など到底無理だろう。
となると、なすべき対策は明らかである。社会保障の拡充こそ、最大の景気対策なのだ。
湯浅誠(自立生活サポートセンターもやい事務局長)「最大の景気対策は貧困退治だ」(同上)

うおぉ!「景気対策」とかすごくまともなことおっしゃってますけど。
湯浅氏ご自身がやっていることの評価はよくわかりませんが、こういうことをおっしゃるなら、明日の日銀政策決定会合でゼロ金利とか国債の買いオペとかが採択されるべきだというような主張もしていただくと、マスコミの注目も集まって大変助かりますね。

2008年12月17日 (水) | Edit |
HALTANさん経由で、大学の法学部のセンセイに基本的なことを指摘するのは心苦しいのですけれども、

この秋以降の急速な景気の悪化によって、雇用情勢も厳しくなっている。特に気になるのは、大学生に対する就職内定の取り消しが相次いでいることである。内定は正式の雇用契約ではないので、取り消しても企業の側には罰則はない。景気の停滞が続く可能性が高まれば、企業の側は遠慮会釈もなしに内定を取り消せるという感覚なのだろう。
雇用の危機(2008.12.02 Tuesday)」(YamaguchiJiro.com
※強調は引用者による。


ええと、雇用契約ってのは民法に規定のある典型契約であって、あくまで私的自治において締結されるものでして、その特別法である労働基準法は契約内容たる労働条件についての最低基準を定めて、それに違反した使用者に対する罰則を設けています。つまり、雇用契約の成立に関しては強行法規による規制は及ばないので、雇用契約が実現されない場合は契約不履行による損害賠償が認められるのみです。今年3月の労働契約法の施行によってこの点はさらに明確に法定されることになりました。

ただし、内定については大日本印刷事件(昭和54年 最高裁第二小法廷判決)において「解約権留保付労働契約」とする判断が示されております。この判例では、内定とは始期の到来するまでの間は使用者側に解約権が留保されている労働契約であるとされ、現在ではこれが通説となっております。つまり、内定は正式な労働契約であって、その取り消しは解雇と同様に「合理的な理由」がなければ解約権の濫用とされ、民法709条の不法行為に基づく民事上の賠償責任が生じる可能性があります。

というわけで、労働者の味方であるはずの左派陣営から使用者の賠償責任を免責する(*1)ような見解が示されるとは、世の中も変わったものです。もちろん、大学の法学部のセンセイが断言されているわけですから、俺の記憶違いとか解釈の間違いがあれば上記の説明を訂正するにやぶさかではありません。

でもまあ、このセンセイが支持されている民主党からして、

 民主党は五日、「内定取り消し規制法案」など緊急雇用対策の原案をまとめた。来週の「次の内閣」で正式決定し、今国会に提出する。政府・与党に先行して具体策を講じる姿勢を見せることで、政権担当能力をアピールする。野党各党に共同提出を呼び掛ける。

 法案は、企業が学生らに内定を通知した時点で労働契約が成立することを明確化するのが目的で(1)内定取り消しは社会通念上相当と認められる場合以外は無効(2)取り消し理由は書面で明示(3)内定者が取り消し理由の証明書を請求した場合は、七日以内に交付-と規定。悪質なケースは企業名の公表を政府に求める。

東京新聞「内定取り消しを規制 雇用対策 民主、今国会に法案提出(2008年12月6日 朝刊)」


とか言っているわけで、「悪質なケース」ってのがたとえば「合理的な理由を欠く解約権の濫用」を想定しているのかもしれないけど、賠償責任って当事者の挙証に基づいて裁判所が判断するものであって、実務上誰がどうやって判断するんでしょうかねえ。




*1 厳密に言えば、強行法規による規制がない以上「罰則がない」というのは間違いではありませんが、せめて賠償責任くらいは言及していただきたいところ。

2008年12月17日 (水) | Edit |
これすごい。

まさに90年代以来の市場原理主義のイデオローグの中心的存在であったのが中谷巌氏であってみれば、その当人が、

>新自由主義に基づく単純な「構造改革」路線で我々が幸せになれるなどというのは妄想に過ぎないということを痛感させられる。

>新自由主義の思想は、私たちが暮らす社会を個人単位に細分化し、その「アトム」化された一人一人の自由を最大限尊重するという思想だから、安心・安全、信頼、平等、連帯などの共同体価値には何の重きもおかない。つまりは人間同士の社会的つながりなど、利益追求という大義の前には解体されてもしょうがないという「危険思想」なのである。

とまで断言するに至っているというのは、知識社会学的観点からも大変興味深いものがあるといえましょう。

中谷巌氏の転向と回心(2008年12月15日 (月))」(EU労働法政策雑記帳


後出しジャンケンみたいでなんだけど、俺自身は定番と言われる『中谷マクロ』があまり好きではなくて主に『マンキューマクロ』にお世話になったので、今になって考えてみると中谷氏に何か違和感を感じていたんだろうと思う。いわれてみれば確かに「転向」組のニオイは若干していたような気もするけど、そういう出自だったとは・・・

まあ、60~70年代に学生時代を過ごした人の大半は多かれ少なかれマルクス経済学の洗礼を受けているんだろうし、特に驚くほどのことでもないかもしれないが、組合活動について論文を書いていたというのはかなり意外。そういえば、実務家から学者に転身して、それほど顕著な学術的な業績があるわけでもなく、政府の重要な諮問機関で積極的に政策提言を行っていたというのは、ご自身も認めているように後の竹中平蔵氏のさきがけだったわけですね。二人とも一橋大学経済学部卒だし。

となると、両者の決定的な差異というのが労働組合に対する思い入れなのかもしれません。

ただ、その前に、中谷巌氏個人のやや特殊な思想環境に言及しておく必要があるように思われます。彼は、1965年に一橋大学経済学部を卒業して、日産自動車に入社し、4年勤めたあと、ハーバード大学に留学しています。この時期の日産は、塩路一郎氏が絶大な権勢を誇っていた時代です。塩路天皇とまでいわれたその権勢は、ある種の企業別組合との労使協調体制に対する違和感を若き中谷氏に刻印した可能性があるように思われます。

「仕事場における民主主義」という言葉に彼が塩路体制下の日産への批判を込めていたかどうかはもちろん知るよしもありませんが、どこかの時点で、そういうミクロに陣地を構築する方向に向かう社会民主主義的な志向こそが結局塩路体制を作り上げたのではないか、いっそそんなものはことごとく投げ捨て、きれいさっぱり市場原理で行く方がいいのじゃないか、という「回心」が訪れたとしても不思議ではないように思います。

同上



hamachan先生の推測にはある程度蓋然性があると思われるので、仮にこのような中谷氏の心情を前提にするなら、当時の労働組合活動に対する違和感があったからこそ新自由主義への転向につながったといえそうです。そしてそれはhamachan先生が指摘されるように、中谷氏の同世代には共通体験として共有される心情だったんだろうと。一周回って元に戻るというのもかなり共有されていそうだし。

それに対して、8年後輩で日本開発銀行(当時)に入行した竹中氏は労働組合活動そのものをどこかで突き放して考えていたのかもしれません。そんな竹中氏からすれば、先輩に当たる中谷氏が新自由主義的な主張するのを見ても特に違和感を覚えるでもなく、「それ見たことか」くらいに思ってむしろご自身の新自由主義への傾倒を強めたというところでしょうか。さらにこれも、竹中氏以降の世代にとっては共通認識となっていたように思われます。

中谷氏と竹中氏だけを取り上げてみればミクロな事例ではありますが、お二方の心情が広く一般に共有されていたからこそのコーゾーカイカクに対する熱狂的な支持と考えると、彼らだけを責めるのは酷でしょう。

世代的にはお二人のちょうど中間に位置して中谷氏と同じく日産の社員から学者に転身した神野直彦氏を含めて、これら3人のその後の思想的変遷を眺めてみると、見事なほどに世代や属する組織の影響を受けているように見えるわけで、なんというか、結局経済学なんてその人が属する世代の中での「空気」に逆らうことはできないのかもしれません。

まあ俺自身はただの実務家ですが、自戒の意味も込めて一般の方の経済学者に対する不信感がよくわかるような気もしますねえ。