2008年05月24日 (土) | Edit |
『労働法律旬報』という日本労働弁護団の方々がよく利用されている雑誌があって、そのNo.1671(2008.5.10)で「丸亀市公平委員会採決取消請求事件の高松地裁判決が載ってました。以前のエントリで団塊の世代の期待利得となっている役付ホワイトカラーの高賃金を減額することは裁判所が認めないだろうということを書いたんですが、(入り口の時点の判断ではありますが)まさにそのとおりの判決となっていて、やっぱりなというかなんというか。

事案の概要として『労働法律旬報』のリード文を引用すると、

市町村合併に伴う意に反する降任処分に対し公平委員会に不服申し立てをしたところ、原告らは合併により新市の職員として採用されたもので旧市における身分との間には継続性がなく、地方公務員法49条1項、49条の2第1項に規定する不利益処分に該当しないとする裁決につき、合併特例法9条2項に定める合併市町村の身分の公平取扱いの趣旨及び地方公務員法上の身分保障の規定の趣旨からすると、新設合併の場合において、合併市町村の職員が合併に際し、意に反する降任等不利益処分を受けた場合には、地方公務員法49条の2に基づき、公平委員会の審査を受けることができると解するのが相当であるとして、本件裁決を取り消した事例。
『労働法律旬報No.1671-2008.5.10』p46


というもの。

もう少し補足しておくと、市町村合併にはもとあった市町村が廃止されて新しく設置される「新設合併」と、もとある市町村にほかの市町村が編入される「編入合併」があって、丸亀市の場合は前者の新設合併のパターン。このため、旧市から引き継いだ職員の新市での格付けが問題になって、課長補佐職から係長職へ「降任」されたとする原告二人が丸亀市の公平委員会という人事問題を審査する機関へ不服を申し立てたというのがことの発端になっています。

いろんな論点はあるけど、とりあえず冒頭で書いたような団塊の世代の期待利得を主張した原告の主張を抜粋すると、

上記からみられるのは、原告らの担当職制上、同一の職制である課長補佐級である副課長が存在するにもかかわらず、原告らをいずれもその下位である係長級の担当長として任用したことである。こうした不公正な降格がなされたのは、新丸亀市発足に当たり、人事当局が合併に伴う人事の承継を公正に行うべき立場から逸脱し、若手職員を登用するという別の目的を実践することを考慮して行うこととし、いわば団塊の世代を従来の職制上の地位からはがして劣位につけるという不公正な処遇をしたからであった。これは、合併における人事の公正要請に反する。
『労働法律旬報No.1671-2008.5.10』p52


だそうです。論旨がよく分からないところもありますが、要は団塊の世代を飛び越して若手を登用するなんてけしからんということですね。

結局、この事案についての裁判所の判断は簡潔で、原告らの11%の管理職手当が5%の職責手当になって減額されたことと、代決権がなくなったことを認定して、

そうすると、原告らが、本件各発令により、地方公務員法49条1項に定める不利益処分を受けたことは明らかというべきである。
『労働法律旬報No.1671-2008.5.10』p59


とあっさり不利益だと認めてしまいます。まあ、裁判所に求められているのは、公平委員会が審査しないとした裁決を取り消すことなんで、とりあえず形式上は不利益が生じているんだから、実態として不利益かどうかは公平委員会が審査しなさいといっているだけなんですが、もちろんそれが公平委員会の本来の業務ではありますが、裁判所が形式上とはいえ不利益としたものを公平委員会が不利益ではないとか相当だとかいうことは、かなり難しくなりそうです。

実はこの点について、上で補足した「新設合併」であることが影響しています。この判決で、

丸亀市の○○職員課長は、平成17年6月10日の定例会総務委員会で、「平成17年3月21日に一市二町がなくなって、同月22日に新丸亀市が誕生し、職員を採用したので空白はない。身分現給保障はしたが、新設合併なので、課長等の数に限りがある。課長職等は編入合併でなければ保障できない。間があく訳ではないので、宣誓は省略した」。
『労働法律旬報No.1671-2008.5.10』p55


と事実認定において引用しているように、そもそも管理職などの間接部門を減らして人件費をカットすることが市町村合併の主要な目的の一つであったと考えられます(気になるのは、判決では旧丸亀市と新丸亀市の管理職ポスト数を比較して増えているとしている点で、ほかの二町の管理職ポスト数を旧丸亀市と合計すれば減っているんじゃないでしょうかね)。

となれば、合併に伴って管理職ポストや管理職手当を削減したときに個々の職員の扱いに形式上の不利益が生じるのは当然の帰結です。この点については、判決でも上記の職員課長の発言に先立って、

丸亀市の××総務部長は、平成17年6月2日定例議会において、「適材適所の配置が大前提である。合併協議において、具体的な配置については、合併時より職員の交流を可能な限り実施し、職員間の一体感の情勢を促進し、団塊の世代後を考慮して、若手職員の登用を積極的に実施するとの協議原則に伴い人事配置を行った。」と答弁した。
『労働法律旬報No.1671-2008.5.10』p54


と事実認定において引用しているとおり、新丸亀市は合併で新体制に移行するのに合わせて適材適所な人事配置をしつつ人件費の削減を実施しようとしたけど、裁判所はそれは不利益だと認定したわけです。

この判決に至る流れをまとめると、
新設合併した

管理職が減った

合併前に管理職だった人が降任・減給した

「意に反した」として、合併前に管理職だった人が公平委員会に申し立てた

公平委員会は不利益じゃないとして申し立てを却下した

却下の取消を求める裁判を提起した

裁判所は、不利益なんだから審査しなさいと却下を取り消した ←今ここ
ということになります。

で、ここで注意が必要なのが、『労働法律旬報』に丸亀市職員組合のコメントも載っていてそこで言及されているように、この新丸亀市の市長さんというのは、ご多分に漏れず「改革」好きの地方分権教らしいこと。濱口先生にご教示いただいたのでブログにコメントさせていただきましたが、労働組合は社会的公平推進の立場から中央集権を志向してしかるべきなのに、日本では労働組合を支持母体とする政党がよりラジカルな地方分権を推進していて、組合はとっとと見切りをつけないと自分が大変な目に遭うんですが。

本市は、平成17年3月の新市移行前後に、国の三位一体改革による地方交付税の大幅な減額と競艇事業収入の皆減という未曾有の歳入不足に直面し、このままでは財政破綻は必至の状況となりました。このため本市では、市政の最重要課題を財政再建と位置づけ、人件費の削減など合併効果を最大限生かした行財政改革の断行に着手し、新たに平成20年度を財政再建の目標年次に、これまで市民の皆様のご理解とご協力に支えられながら、経常経費の計画的な圧縮に取り組んできたところであります。
特に、職員数の削減につきましては、3年前の合併当時の職員数1,253人に対し、本年4月1日の職員数は1,044人と、209人減員となっておりまして、人件費に換算すれば、14億円を上回る経費削減となっています。
そして、これを受け編成されました平成20年度一般会計予算につきましては、経常経費に対する財源不足を大幅に解消することができるなど、財政再建への明かりが見えてきたところであります。
賑わいに感謝!「丸亀お城まつり」・必ずや成し遂げます!「財政再建」 (H20.5.7~)」(香川県丸亀市


マクロ的にいえば、その地域に対する14億円の人件費に相当する政府支出が減ったわけだから、減った職員の賃金分だけ財・サービスの消費なり貯蓄が目減りすることになって地域経済には悪影響なわけですが、そんなことはお構いなしですかそうですか。

「無能な怠け者」だった団塊の世代の地方公務員が、「改革バカ」という「無能な働き者」の下で進められた合併で不利益取扱いをされたと騒ぎ、裁判所は形の上では不利益があるんだから公平委員会で審査しとけば?と言い放ち、事実上は不利益扱いを認めて自分で何とかしろという構図。大阪府でもこんなことが多発するんでしょうなあ。

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2008年05月18日 (日) | Edit |
HALTANさんから再びトラバいただきました。

ええと、前回エントリの冒頭の部分は地方分権に反対の立場であることは自分も同じ思いだということを強調するために書いた部分でしたが、ちょっと自意識過剰だったようでした。気を悪くするどころか、連続してコメントいただいて恐縮しております。

自分が念頭に置いていたのは、主に左派・市民系の政談系ブロガーの方々のことで、「なんであの人たちはカンリョーや自民党支配を批判するだけで、『じゃあ中央集権とやらを解体して本当に大丈夫なのか?』『民主党はそんなにまともな政党なのか?』を自省しないのだろう?」という点をとても憂慮しているんです。
[床屋政談]極めて啓蒙的・論壇的・運動的な「分権」主義者たち(2008-05-17)」(HALTANの日記

この点は本当に深刻ですね。霞ヶ関がインボーを巡らせていたり、制度疲労を起こしているから中央集権はもうダメで、じゃあ地方分権だよねくらいの簡単な二分法で国家を語るのが最新トレンドになってしまうと、改革バカが繁殖するには最適な状況になってしまいます。

あと、「改革バカ」に成り果ててドロップアウトしたキャリアというのは旧自治省に限ったつもりはありませんでしたので、まさに「浅野さんのハートに火をつける会」でまんまと担ぎ出されてしまう浅野史郎氏を含む現・元の「改革派知事」を念頭に置いております。民主党から出馬する元キャリアもほとんどこのパターンですし、そんな持ち駒しかない小沢氏が改革バカに成り下がるのも宜なるかな。

こういう改革バカの手合いが、国会を最高機関とする単一国家として日本国を規定した憲法をどこまで本気で変えるべきだと考えているのか判然としませんが、民主党はおろか自民党まで改憲論議の中で地方分権にやる気を見せてますし、HALTANさんの「国体にあれだけ固執する「保守」が国民国家を解体させてどうするというのか!」というご懸念が現実のものとなる可能性はかなり高いかもしれません。

私たちは、地方自治について、「道州制」を含めた新しい地方自治のあり方を模索しています。その場合、住民に身近な行政はできる限り市町村といった基礎自治体に分担させることとし、国は国としてどうしてもやらなければならない事務に専念するという「補完性の原則」の考え方と、その裏付けとなる自主財源を基礎自治体に保障していくという方針が決定的に重要になってきます。

 地方に自己決定権を与えるとともに自己責任を負わせることによって、地方の努力をうまく引き出せるようにするには、いまの都道府県より広範な単位、すなわち「道州」が適当であると考えます。

 各道州がそれぞれ努力していけば、全体としての国の力を最大化することができる、という「道州制」構想については、今後細部にわたって議論をしていく必要があり、新しい憲法には、こうした点を明示するべきでしょう。
5.緊張感をもって切磋琢磨する、統治機構のしくみ」(自由民主党Web「憲法改正のポイント」


「補完性の原則」なんてキリスト教の考え方(注:pdfファイルです)でしかなくて、マーストリヒト条約に取り入れられたのだってEUがキリスト教圏だからという理由に過ぎないのに、それを憲法にまで取り入れようとする仏教圏の保守ってのは、もはや保守とはいえないような気もします。まあ所詮地方分権教ですし何も考えてないんでしょうけど、キリスト教社会の倫理がいつの間にか地方自治の基本原理みたいな持ち上げられ方してるところに、地方分権教の浅薄さがにじみ出ているんですよねえ。

ついでにいえば、日本経団連が道州制に積極的なのはおそらくは関西圏を州としてひとまとめにすることによって、関東圏に対抗させようとする関西の経済人の意向が強いのではないかと個人的には考えております。民間団体でもっとも道州制に力を入れて具体的な研究をしたり提言をしているのも関西経済同友会ですし(直近では「緊急アピール「5年以内の道州制実現に党派超え取り組め それが日本成長の起爆剤となる(注:pdfファイルです)」なんてものも出してるし)。

確かに、近畿とか関西といわれる三重県、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県の7府県の面積(32,852.05km2)を足すと、関東といわれる茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の7都県とほぼ同じ面積(32,234.85km2)になりますし、東京対大阪では勝負にならないから周りを巻き込んで勝負しようという意気込みは分かります。その限りではEUと同じく「補完性の原則」ということもなじむかもしれませんが、だからといってその他の地方まで巻き込まれるいわれはないんです。例えば、上記の関西7府県と関東7都県の面積は青森県、岩手県、秋田県の3県の面積(35,631.52km2)よりも小さいわけで、人口はそれぞれ22,737千人、43,892千人、3,892千人、人口密度はそれぞれ690.4人/km2、1365.3/km2、108.3/km2となります(面積のデータはこちら、人口のデータはこちら)。特に青森県、岩手県、秋田県の3県の人口密度が低くなっているのは、それだけ山岳地帯に分断されていて居住可能地域が少ないという地理的な条件があるからであって、そんな地域を大括りにしたところで規模の経済なんてものは期待できるわけがない。というわけで、個人的には、地方分権なんてものは政策ごとに是々非々で判断するしかないと思っているので、自分のところを道州制にしたいばっかりにほかの地域まで巻き込もうとする関西はもちろん、それに唯々諾々と賛同してしまう過疎地域の対応にも脱力しております。

公共経済学については、前回エントリで「問題はこういう公共経済学者には一般向けの発言力がほとんどない」と書いたように、HALTANさんのような認識が一般的だということには異論はありません。

実のところ、そうした公共経済学の学界的位置づけというのはどうなっているのでしょう? というのも、経済学部ならともかく、「公共××」「××政策」といった類の学部・研究科・専門職の先生や非常勤の方々は、(少なくとも自分の知る限りでは)ほとんどが「政治学(行政学)」「社会学」「隠れマル系」「ジャーナリズム」「民間シンクタンク・金融」「中央官庁(旧自治省など)」「市民運動」「政界」といった辺りの専攻者・出身者・現役が主で、そうした公共経済学の人なんかほとんど見たことがないように思うのですが・・・。これは自分の勘違いでしょうか? 
[床屋政談]極めて啓蒙的・論壇的・運動的な「分権」主義者たち(2008-05-17)」(HALTANの日記


特に文部省が乱立させた地方の県立大に多い「公共××」とか「××政策」という類の学部では、HALTANさんのおっしゃるようにアカデミズムとは縁遠い教員が、「地方の人材を育成する」という名目で地方分権マンせーな講義を担当しているのは事実でしょう。結局は、まっとうな公共経済学の薫陶を受けた人材が地方に行き渡るほどには供給されていないため、本来なら公共経済学的な数理的アプローチで分析するべき問題(特に政府間財政移転や外部性が深刻な問題となる地方財政)が、「政治学(行政学)」「社会学」「隠れマル系」「ジャーナリズム」といった数字を一切使わない文系アカデミズムの草刈り場となってしまうのですね。しかも、地方自治体の首長も議員も職員も「反霞ヶ関」をキーワードにそういう言説をありがたがる傾向があるし。

あと、公共経済学の側にもマクロよりミクロを優先するようなクセがあって、特にリフレ派的な財政膨張を容認する立場と反りが合わない傾向があるように思います。前回言及した石先生や本間教授のほか、井堀東大教授やその弟子の土居丈朗慶大准教授(今朝の『報道2001』に出てましたね)といった辺りが公共経済学では有名どころですが、財政再建第一主義的な主張をされることが多いので、リフレ派には受けが悪いですね。井堀先生は、田中・野口・若田部『エコノミストミシュラン』の「エコノミスト主張別マップ」(p26-27)でも「財政再建、主計局派」として構造改革派に分類されてますし。

公共経済学者の一般向けの発言力がないという意味では、ブログを公開されている岩本康志東大教授はかなりのレアケースですが、ブログのエントリを見るに岩本先生もどちらかというとマクロ寄りかもしれません。ほかにも八代尚宏国際基督教大学教授(経済財政諮問会議議員)とか、八田達夫政策研究大学院大学学長とかは規制改革派として有名だったり、地方財政論では林宜嗣関西学院大学教授とか林宏昭関西大学教授辺りが、公共経済学周辺では有名どころでしょうか。

もちろん、この中にも地方分権マンせーだったり道州制推進派だったりする立場が錯綜してますが、経済学ではモデルの数理的な検証や計量経済学による実証的な検証が可能なので、トンデモは数理的にあるいは実証的に見抜かれてしまいます。そういえば野口悠紀雄氏も公共経済学者としてまっとうな教科書を書かれてますが、『1940年体制』以降「超」のつく著書以外はトンデモ扱いされてます。まあ、だからといってそういう経済学の世界に自浄力があるわけではないようで、トンデモとされる御仁が大きな顔をできるところが経済学に対する信用を落としていることは否めませんね(『経済セミナー』2008年5月号の特集「日本経済は大丈夫か?」の半分は?な方々ですし)。それでも政治学とかよりはだいぶマシでしょうけど。

2008年05月16日 (金) | Edit |
HALTANさんにトラバいただいたので、感想など。

・・・さて実のところ、これも個人的には醒めつつある話題。理由は上記のように「なんで政談系ブロガーで『地方分権さえ行われればいい、中央集権さえ解体されればいいなんて、それは違うだろう』という人が余り出てこないのかなあ?」というところで、自分だけこういうネタを書くことに飽きてきた部分が大きいんですね。これからどうやって失敗していくのかなあ、とそこにだけ興味がある。前にも書きましたが、有権者はいずれどうせ飽きます。「地方分権なんかしても、『地方・地域社会の自己決定』と称して自己責任を押し付けられただけで別に何もいいことなかったじゃん」とさすがに分かる日が必ず来る。
[床屋政談・ニュース速報]地方分権、終わりの始まり(2008-05-14)」(HALTANの日記


まあ、俺もこの点については「闇雲な地方分権には反対」としか表明してないので「『地方分権さえ行われればいい、中央集権さえ解体されればいいなんて、それは違うだろう』という人」にカウントされてないのかもしれませんが、現状の地方分権が闇雲(増田氏は本当に日本を壊すおつもりらしいし)なので、結果的にはカウントしていただいてもいいのでは? と参加表明してみるテスト。

あと、この点はそういう見方もあるのかなと思った点。

・・・問題は(3)以降で、具体的にどうなるか結局はここでも良く分からないんです。「中央集権解体」「カンリョー死ね」だけでどこまで誤魔化せるものか? もっともその頃でもサヨクや「市民」は以下のような寝言を言い続けているんだろうなあ、ということだけは容易に想像できるのが辛い。

自分が知らんかっただけでこんなことはジョーシキなんでしょうが、日本のその類のエリートさんには、日本の近代化(国民国家化)が大政奉還により天皇制の権威を利用して成し遂げられたことに対するコンプレックスや贖罪意識があるんでしょうねえ。王政を戴くことで近代化を成し遂げた明治維新は真の「市民」革命ではなかったんじゃないか、というあたりに妙なルサンチマンがあるのではないかと思う。この贖罪意識は戦前の日本の帝国主義に対する自省とも結びついている。だとすれば、中央集権解体→地域主義(地方分権)→多文化共生→東アジア共同体→世界共和国 と一直線に繋がるのも当然ということになるわけです。
2008-03-09■[TV(ドラマ以外)]『時事放談』第一九三回 鶴見俊輔 筑紫哲也id:HALTAN:20080309:p5

[床屋政談・ニュース速報]地方分権、終わりの始まり(2008-05-14)」(HALTANの日記


個人的にはむしろ、前回エントリで書いた旧自治省のアイデンティティが、天下国家を動かすことを夢想して意気揚々と霞ヶ関キャリアになったものの、霞ヶ関の現実は国会議員と圧力団体のご機嫌をいかに(結果はともかく)理論的な矛盾なく調整するかという仕事がメインであることに気がついて激しい絶望感に襲われ、抜本的カイカクしかないと盲信する「改革バカ」に成り果ててドロップアウトしたキャリアのそれと、「反霞ヶ関」をキーワードに融合してしまうところに源泉があるんだろうと思いますが、まあ細かい話です。

基本的に旧自治省キャリアのアイデンティティは、「俺は国家公務員だけど地方の現場で専門性にこだわらずにいろんな仕事をしている」という自負があって、それに導かれる「国は縦割りで専門性が高いけど、俺たちは現場に密着した総合的な仕事をしている」というジェネラリスト志向と、逆にそれを負い目に感じて「旧自治省や地方自治体が総合的に判断して仕事をしているのにもかかわらず問題が起きるのは、専門性が高くて縦割りの霞ヶ関に問題があるからだ」という反霞ヶ関志向でしかないというのが、うちのところに来た旧自治省キャリアの幹部なんかと接した感触。
旧自治省仕様(2008/05/10(土))


あと気になったのは、HALTANさんに限らず経済学について語られるブロガーの方々は、マクロ経済学とミクロ経済学をあまり区別されないで語られることが多いように思わること。HALTANさんは学者でもないんだから当然と言えば当然ともいえますが、経済学者でもブログではマクロの話に偏りすぎな気がしますし。

都会人(主に六大都市圏在住者)が地方分権に賛成するのは分かる。彼らの大半は(ネットリフレ派も含め)「田舎者が吸い取ったから自分たちは損をしている」と思い込んでいるので、「分権と称してカッペが自滅すればいい気味だ」程度にしか思っていない(2008-04-13■[床屋政談]挑発(笑) 大都市部在住ケーザイガクオタクの都合のいい脳内想定と身勝手な言い分にあらためてガッカリid:HALTAN:20080413:p1 ※このエントリはリフレ派からは非難轟々かもしれません) 
[床屋政談・ニュース速報]地方分権、終わりの始まり(2008-05-14)」(HALTANの日記


この点については、濱口先生のところで飯田先生がおっしゃっているように、リフレ派という括り方が意味を持つのはおそらくマクロ経済政策についてのみであって、そこからミクロ経済政策に降りていったときの対処法は、リフレ派と言われる方々の間でもかなりの開きがあるんだろうと。

まず,リフレ政策……というか拡張的金融政策の支持をケインジアン的な政策だと考えている経済学者はほとんどいないと思います.安定的なインフレの必要性はフリードマン(70年代のケインジアン批判の中心人物です)も主張しています.といいますか,現代の経済学において「ケインジアン」「新古典派」というのは学派と言うよりモデルの設定部分の違いで,どちらが妥当であるかは実証上の問題だというのが一般的見解と思われます.

次にリフレ派についてですが,世にリフレ派と呼ばれる人の共通点は「安定的なインフレによる景況の維持が必要だ」のみで,ミクロ的な経済政策については人それぞれです.
構造改革ってなあに?(2006年9月17日 (日))」コメント欄 投稿 YS | 2006年9月18日 (月) 14時59分(EU労働法政策雑記帳
(注:ご本人が「投稿 Yasuyuki-Iida | 2006年9月18日 (月) 15時16分」で報告されているとおりYS氏は飯田泰之先生です)


地方分権というような政府の行動について研究する経済学の分野としては、ミクロ経済学の手法を用いた公共経済学(日本では財政学とも呼ばれますが)だったり、公共選択論だったり(マスグレイブとブキャナンの論争(『財政学と公共選択―国家の役割をめぐる大激論』)もあったりしますが、慈悲深い政府とリヴァイアサン政府の議論は示唆的です)、ゲーム理論を用いたメカニズムデザイン(ハーウィッツらが2007年のノーベル経済学賞を受賞しましたね)といった分野になるので、リフレ云々というようなマクロの議論とは必ずしもシンクロしない場合が多いと思います(というよりシンクロするものでもないでしょうし)。

この辺は生兵法なので詳細はググって詳しい方のサイトでもご覧いただければと思いますが、例えば公共経済学では、公共財の供給などはリンダール均衡に対するサミュエルソンの悲観論によって「市場の失敗」が必然的に生じるので、それに対する政府の介入としてピグー税(補助金)はどうあるべきかという辺りから、ティブーの「足による投票」とかオーツの「分権化定理」といった理論に基づいて地方財政論を展開しているし、マスグレイブの財政の3機能でいえば、開放経済である地方財政は資源配分機能しか担えないということになったりします。

問題はこういう公共経済学者には一般向けの発言力がほとんどないというところでしょうか。前々政府税調会長の石弘光先生(『現代税制改革史―終戦からバブル崩壊まで』も読まなきゃなあ)なら名前くらい聞いたことがあるとか、前会長の本間正明先生ぐらいなら(別の意味で)少しは有名だと思いますが、神野センセイとか金子センセイといった○系から転向した反経済学組の露出には到底及びませんしねえ。地方分権については、公共経済学者という専門家が不在のまま議論が進むという異常な状態がデフォルトになっているのが、専門性を持たない旧自治省が主導する「地方分権」らしいといえなくもない。ただ、公共経済学者が露出を増やしたとしても数式とかグラフ使った時点で世の中の方は見向きもしなくなるでしょうし、難しいところではありますが。

2008年05月10日 (土) | Edit |
前回エントリのコメント欄で旧自治省は改革バカ率が異常に高いということを書きましたが、むしろ旧自治省ではそれがデフォルトと考えた方がいいのかもしれないと思い始めた。

知事を踏み台にして国政や大学教授へ順調にキャリアアップしていたり(増田前岩手県知事、浅野前宮城県知事、片山前鳥取県知事、田中前長野県知事、橋本前高知県知事、北川前三重県知事)、刑事罰を受けて淘汰されてしまったり(木村前和歌山県知事、佐藤前福島県知事、梶原前岐阜県知事)といろいろな末路をたどっている元「改革派知事」ですが、この流れをくんで「闘う知事会」を気取っているのは、いまでいうと古川佐賀県知事、山田京都府知事、飯泉徳島県知事、平井鳥取県知事、石川静岡県知事あたりなわけで、「『せんたく』名簿(注:pdfファイルです)」にも名を連ねているこの5人が旧自治省出身者といえば、その雰囲気を察していただけるのでは。というより、そのまんま東とか橋下弁護士あたりの新規参入組は、実はこういう人たちのエピゴーネンみたいなものといったほうがわかりやすいかも。

これに対して、上に挙げた元「改革派知事」の中では、増田、浅野、片山、木村、梶原が中央官僚出身者で、それぞれ建設省、厚生省、自治省、自治省、通産省(採用時)という顔触れであることを踏まえると、現在は都道府県知事の旧自治省への回帰がより進んでいるともいえそう。ある地域で改革バカがどれだけのさばっているのかは、旧自治省がどれだけ地方自治体に食い込んでいるかで測ることができるのかもしれません。

で、そういう点で興味深いサンプルが岡本全勝氏です。『月刊地方自治』5月号という旧自治省(の自治行政局)のプロパガンダみたいな雑誌に「不思議な公務員の世界―ガラパゴスゾウガメは生き残れるか」という不思議な文章を載せていらっしゃるのですが、ガラパゴスゾウガメといわれているらしいワタクシのような地方公務員には全く理解できないのです。個人的な感覚でいうと、『地方財政改革論議―地方交付税の将来像』までのテクニカルな解説には勉強させていただきましたが、『新 地方自治入門―行政の現在と未来』で語られる岡本氏の理想像を全く理解できなかったのと同じ印象です。

いろいろと不思議なところはあるんですが、特によく分からないのは「役所の生産性」について、次のようにおっしゃります。

例えば農水省や県の農林部が、残業をして頑張っています。でも、農家は減り、食糧自給率も下がっています。ここで問題にする「役所の生産性」とは、そういう意味です。私は、かなり低い職場があるのではないかと考えています。国民が求めるだけの成果を出していない、しかもムダな労力をかけていると思います。公務員一人ひとりは、優秀です。しかし、組織としての成果が低いということです。
岡本全勝「不思議な公務員の世界―ガラパゴスゾウガメは生き残れるか」『月刊地方自治』5月号p5


・・まあ、こういう方々が地方自治体の幹部として「無能な働き者」となるのですから、「無能な怠け者」とそれから突然変異した「無能な働き者」しかいない地方公務員が成果なぞ上げられなくて当然でしょうね。食糧自給率の向上についてはすなふきんさんのところで盛り上がったように、少なくとも経済学的に見ても議論の余地のある政策であって、もしかしたら農水省が頑張ったおかげで食糧自給率が今の水準に達しているかもしれないという可能性すら考慮せず、とにかく「食糧自給率をもっと上げなければ」を是として担当を断罪する時点でなにをか況んや。

実は岡本氏については当ブログでも一度取り上げたことがあるけど、あれが昨日審議入りした「内閣人事庁」構想にも影響を与えているように思われるのは気のせいだろうか。「国家公務員制度改革基本法案の概要(注:pdfファイルです)」でいう「総合職」って「スーパーゼロ種官僚」のことだよねえ。
これについてはbewaad氏の論評を引用させていただきます。

以上のような岡本課長の縦割りを弱めた後に彼が理想とする政策運営や、昨年の某主計官の騒動、最近の経済財政諮問会議の人間力の議論、官僚ではできることに限界があるとして政界に転身する人間の主張などを見るに、出身省庁にとらわれない国全体の見地というのは、単に確たる現実基盤を持たない空理空論に流れたものがその過半を占めているようにしかwebmasterには思えません。
■ [government]内閣強化への疑問」(archives of BI@K


基本的に旧自治省キャリアのアイデンティティは、「俺は国家公務員だけど地方の現場で専門性にこだわらずにいろんな仕事をしている」という自負があって、それに導かれる「国は縦割りで専門性が高いけど、俺たちは現場に密着した総合的な仕事をしている」というジェネラリスト志向と、逆にそれを負い目に感じて「旧自治省や地方自治体が総合的に判断して仕事をしているのにもかかわらず問題が起きるのは、専門性が高くて縦割りの霞ヶ関に問題があるからだ」という反霞ヶ関志向でしかないというのが、うちのところに来た旧自治省キャリアの幹部なんかと接した感触。これを岡本氏流に言えば、

役所では、特に事務職は一年や二年で異動することが多いです。多くの職員が、一年から二年たつと異動を心待ちします。しかし、一年や二年で異動して、専門家になれるのでしょうか。ジェネラリストといえば聞こえは良いですが、何らかの専門分野を持たないと、何でもできるが何にもできない職員になります。
岡本全勝「不思議な公務員の世界―ガラパゴスゾウガメは生き残れるか」『月刊地方自治』5月号p11


ってことですが、だからそんな地方公務員に地方分権なんかしていいんですか? というか、そういう専門性の不足が問題になるのは旧自治省とか地方公務員だけであって、それ以外の省庁で訓練された専門性を持った官僚がきちんとした制度を作るべきだと考えるのは普通でしょうに。他省庁(といいうよりは特に財務とか経産あたりでしょうが)に対する単なるやっかみでしかないよなあ。

また、岡本氏はこれまでのそういった人事を「名簿型人事、閉鎖型」といかにも古色蒼然としたものとしてますが、いくら氏の提唱する「公募型人事、開放型」にしたところで、役所という民間とは違う原理で運営される組織でしか通用しないスキルがなくなるわけではない以上、それは組織運営の必要性に要請された制度として今後も存続するはずです。もちろん、それができるケースも皆無ではないでしょうが、逆を考えれば、民間でいくらスキルを積み上げたとしても政治や法令に縛られる官僚組織を運営できるとは限らないのと同じように、全職員をそういう処遇にする必要はないし、むしろそんなことしたら大変なことになるでしょうね。

というわけで、労働に関しては濱口先生にご登場いただきます。

 また不完備契約理論については、これも労働経済学では、転職すると企業内での教育投資の効果が発揮できなくなるような当該企業固有の投資、これを企業特殊的投資というんですが、これがあるから不完備契約になるという理論があるのですが、そんな投資は普遍的ではない。多くは、どの労働者にとっても共通の知識、技能であると言って、その根拠を否定します。また、企業が機会主義的行動をとるという前提に対しても、そんな蓋然性はあまりない、もしその企業が機会主義的な行動をとるのであれば、雇用契約を完備契約、つまり、起こり得ることをすべて書き込んだ契約に近づけるために詳細で客観的な契約条項を規定すればいいんだ、それが大事だという言い方をします。
学界展望における福井論文の紹介とコメント」(EU労働法政策雑記帳


これは福井・大竹『脱格差社会と雇用法制―法と経済学で考える』での福井論文「解雇規制が助長する格差社会」についてのコメントなわけですが、企業特殊的投資を一切否定する議論には論拠が乏しいという意味で、岡本氏もその陥穽にはまっているといえそうです。

ついでに、細かいことですが、

「公務員はストをしてはいけない」という発想も、変だと思います。役所の統計部門がストをしても、住民は直ちには困りません。しかし、電力会社の原子力発電所運転管理職員や、ガス漏れの際に駆けつけるガス会社職員などがストをすると、市民生活に大変なことが起こります。公務員だからではなく、従事している仕事が止まったら困るかどうかで、ストを禁止するなどの特例を定めることになるでしょう。
岡本全勝「不思議な公務員の世界―ガラパゴスゾウガメは生き残れるか」『月刊地方自治』5月号p10


というのもお役人の割には制度をご存じない。電力会社については、戦後頻発した電産ストによる混乱に対処するため、「電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律」第2条で「電気事業の事業主又は電気事業に従事する者は、争議行為として、電気の正常な供給を停止する行為その他電気の正常な供給に直接に障害を生ぜしめる行為をしてはならない。」と明確に禁止されてますし、ガス会社についても「労働関係調整法」第8条第1項第3号で公益事業に指定されていて、第37条では争議行為を行う十日までに予告通知を行うことが罰則を含めて定められているんですよね。公務員のスト権については、岡本氏が昭和53年採用とはいえ、その当時国鉄の「スト権スト」が官公労にも波及したり、その処分を巡って訴訟に発展したことをご存じないことはないと思うのですが、さて?

2008年05月04日 (日) | Edit |
最近すなふきんさんと問題意識がかぶりまくりなようで、またもすなふきんさんのところ経由で本石町日記で改革バカの仕業が取り上げられているのを拝見しました。

 さて、金融庁の「金融士」構想である。この案、恐らくは金融庁の官僚がオリジナルで考え出したものではないだろうと思う。なぜなら、官僚は金融最前線の現場は知らないかもしれないが、状況を理解・把握する能力は高く、それなりに問題点は把握しているもの(日銀もそう)。従って、唐突に見当違いの案を出すことはしない。それに官僚なるもの、関係者から「キャハハ」と哄笑されて赤っ恥をかく失態は最大の屈辱と受け止める存在(日銀もそう)であり、みなさんがすかさずブーイング&キャハハ攻撃をした「金融士」構想は金融庁オリジナルとは思いにくいわけだ。
 ちょっとネット検索してみたら、こんなニュースがあった。一部引用すると「渡辺喜美金融担当相はかねてから、金融法務や財務会計の専門家の「金融サービス士」の資格創設を提唱していた」という。やっぱり、である。どなたかも指摘されていたように、トップダウンのプロジェクトであったわけですね。
本石町日記~ゼークト理論で「金融士」構想を考えたみた=「無能な働き者」に仕える「有能な働き者」の構想ですね」(本石町日記

これって、以前から本石町日記で言及されていることと同じことだろうと思われます。

・やっぱり無能なる味方は有能なる敵よりも害が大きい。
正副総裁人事、これで決まるかと思いきや…=何だかもう疲れましたね」(本石町日記

「コーゾーカイカク」だの、その亜種としての「ギョーカク」とか「テッテーしたムダの排除」とか「チホーブンケン」とか叫んでいる人たちの大部分はまあそういうことなんだろうと思うけど、俺がここでさらに暗澹たる気持ちになるのは、チホー公務員には官僚(日銀)ほどの矜持を持った人間がほとんど皆無といっていいほどいないから。つまり、「無能な働き者」たる「改革バカ」がトップになってしまうと、ゼークトの組織論でいう「無能な怠け者」と「無能な働き者」しかいないというのが、地方自治体の現場では往々にしてある。

いまさらと思われるかもしれないが、特に現憲法下で国家公務員法と地方公務員法が分かれるまで官吏(国の役人)だった都道府県では、当時の地方の出先機関(=都道府県)にいる下級役人は現地採用の下働きだったこともあって、自ら政策を考えるやり方を知らない。ゼークトの組織論に沿っていえば、地方の出先機関の公吏(地方の役人)は「無能な怠け者」であることが求められたわけで、地方自治体が自ら幹部職員を採用し始める昭和30年代後半までの間に、特に都道府県ではそういった出自の地方公務員が組織の文化を形成してしまっていて、それは現在に至るまで脈々と受け継がれているのですよ。

(追記)
もちろん「自ら政策を考えるやり方を知らない」には下っ端の地方公務員である私も含みます。HNも予め設計されたことしかできないという自虐ネタですし(mercenaryを充てようかとも迷ったんですが、意図するところは同じです)。

それを象徴するのが「人事交流」という名による中央官僚の地方自治体への出向なわけで、

日経産業地域研究所が実施した2007年度「都道府県・政令市の人事交流調査」で、中央省庁から都道府県・政令市への出向者数の減少傾向に歯止めがかかったことが分かった。
自治体の人事交流」(日経グローカル

「減少傾向に歯止めがかかる」ということから明らかなとおり、田中知事時代の長野県のような極端なところ以外は、ほとんど充て職で中央の若手官僚を幹部に迎えているのが実態なんである(詳細は以前bewaadさんに送りつけてしまった長文メールのとおり)。地方自治体の政策を作る中枢にいるのは中央官僚だし、都道府県知事の半分以上は中央官僚出身者で占められているし、少なくとも政策形成のアクターなり指揮命令系統を見る限り「地方分権」とはいえたもんじゃない。

ところが、そんな中央官僚出身の知事に限って「せんたく」なんてものに名を連ねて「地方分権」とかいうから手に負えません。そういう「改革バカ」がトップにいると、「無能な怠け者」である地方公務員は「改革バカ」に言われたとおりにしか動きませんし、政策のポイントを中央官僚に握られたまま「自由な発想」とやらでミクロな事務事業を乱立させて負の外部性を垂れ流してしまい、それを弥縫するための「連帯と共生」とか言い出す「無能な働き者」が「優秀な公務員」になっていくんですね。ここは実はHALTANさんとも問題意識がかぶってしまっているなあ。

で、話は飛んでしまうけど、いまや改革バカの旗手となってしまった小沢一郎と増田寛也を選挙で圧勝させ続けている(た)岩○県民はちょっとは反省しないといけませんな。彼らが利権を持ってくる時代は終わってて支持したって得しないんだし、日本全体から見れば負の外部性を垂れ流しているだけなんだから。