2008年04月29日 (火) | Edit |
この点は前回のエントリで書き漏らしていたので、ちょっと補足。

すなふきんさんのところ経由でkechackさんが「~醜悪だった「朝生 新しい貧困特集」」というエントリを上げていらっしゃるのを知りましたが、確かにあの番組のセットでは現役の「貧困」世代と団塊世代というカテゴリで観客が配置されていたようで、はじめから世代間の対立を目立たせようという演出がミエミエでした。

ただ、前回この団塊の世代との対立を書き漏らしていたというか避けてしまったのは、俺が関心のあったのが渡邉氏の指摘についてだったからなので、該当部分を引用しておくと、

あとは、渡邉氏がデータを元にして、正社員の既得権益保護が労働者への配分を目減りさせ、非正規雇用を増加させている原因となっているとの指摘はもう少し掘り下げてよかったのにと残念。福井・大竹『脱格差社会と雇用法制―法と経済学で考える』(濱口先生がいうところの『脱力本』ですが)の大竹文雄・奥平寛子論文「解雇規制は雇用機会を減らし格差を拡大させる」には賛否あるし、番組中にも示された OECDの解雇規制ランキングも本当にそうか?とも思わないではありませんが、少なくとも企業内の原資を確保するためには考えなければならないはず。

そもそも、リストラが吹き荒れた時期には中高年のリストラも社会問題になってたし、田原総一郎も指摘したとおり日本の雇用慣行では定年間際にならないと元が取れない給与体系だったわけで、それをやめてしまえというのは難しいだろう。とはいっても、確かに今現在生産性に見合わない給料を得ている定年間際の給与を減らす以外に原資を確保する手段がないのであれば、積極的に議論してよかったのではないかと思う。でもまあ、それを実行したりすると裁判所が「若年期に生産性を下回る給与で働いた労働者の債権を不当に減額することは許されない」とかいうんだろうなあ。解釈論でしか考えない裁判所が経済活動を不当に制限することは許されるんだろうかね。
他力本願と数字


ということ。

この点で俺とkechackさんは問題意識が正反対を向いているようで、俺が違和感を感じるのはkechackさんの以下の指摘。

もう旧世代のリストラは90年代から行われており、給与のフラット化は相当進んでいて、まだそれが足りないとことさら騒ぎ立てるような問題ではない。しかも連合も同一労働同一賃金を主張して年功序列賃金が是等とは言っていない。世代間対立を煽って本質を見失わせるアジ以外の何者でもない。
~醜悪だった「朝生 新しい貧困特集」(Munchener Brucke


細かいところからいえば、ILOとか連合が主張しているのは「同一価値労働同一賃金」であって同一労働同一賃金ではないんだけどまあそれはおいといて、kechackさんのエントリのコメント欄でも議論があったように、ブルーカラーが年功を積んで生産性を上げて熟練工として高賃金になるのは全く構わない(し、現にそうなっている)としても、文系学部卒の大半を占めるホワイトカラーが年功で生産性に見合わない高賃金を得ていることが問題とされているんでは? そしてその解決を難しくしているのは、前回エントリに書いたとおり、そのホワイトカラーの高賃金が「得べかりし利益」となって債権化していることにあるんだろうと俺は考えます。

債権化したホワイトカラーの年功者の高賃金は、単にそれ自体が若年期の低賃金労働に対する報酬としての債権となっているだけではなくて、その債権を担保に住宅ローンやら子供の教育費が現実に支払われているわけで、俺が裁判所の判断を危惧するのもそれに対する「期待利得」を無碍にはできないだろうと考えるから。労基法上は本人の同意なしで行いうる賃金の減額は、懲戒のための減給ですら1/10を越えることができないし。

さらにいえば、就職氷河期に正規雇用されず未だに非正規雇用でワーキングプアとかいわれている団塊ジュニアは、その団塊の世代の「期待利得」によって教育を受けたり親の建てた住宅に住めた部分も大きいわけで、団塊の世代が「俺が食わせてやって学校にも行かせたのに、働かないなんてけしからん」といいたくなるのも無理はない(それが自己責任であるかはともかく)。まあ、団塊の世代のような自分の僥倖を顧みない自己責任論好きが有権者の多数派を占めるから「改革バカ」がのさばっていることには間違いないだろうけど。

というわけで、俺は朝まで生テレビが世代間の対立を演出したことはミスリーディングなだけであって、そっちに言及するより渡邉氏の指摘を議論した方が実のある話になったのではと思った次第です。団塊の世代が批判するべきは、自らが獲得した長期雇用プレミアムでもってせっかく手塩にかけて育てた子供の世代がまともな職に就けないような経済情勢であって、まずその責を負うべきなのは中央銀行とかなんじゃないでしょうかねえ。

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2008年04月27日 (日) | Edit |
今月の朝まで生テレビはさほど見る気をそぐようなメンツではなかったので、週末の空いた時間でざっと見てみましたが、労働組合ってのはやっぱり左派思想ができないと務まらないものなんだろうか。俺自身は左派思想に全然シンパシーを持ってない普通の労働者なので、団結した途端に左派思想の片棒を担がされるというのに納得ができなくて組合には入っていない。少なくとも近代経済学と呼ばれる学問体系を疑うような大それた知能も(幸いにして?)持ち合わせてないし、実生活上も近代経済学の道具立てには大変お世話になっていると考える俺にとっては、労働組合が近代経済学に挑戦を挑み続ける姿は滑稽を通り越して感動的ですらある。なお、俺が左派思想に全然シンパシーを持ってないというのは、左派的な思想を否定はしないけど、左派の方法論は使い物にならないと考えているという意味。dojin氏の問題意識に近い。

ちょっと話が横にそれるが、私は資源分配に関しては徹底的に左派でありたいと思っている。(本当は「徹底的に左派である」といいたいのだが、資源分配に関して徹底的に左派で「あろう」とすることと、徹底的に左派で「ある」ことの間には、越えられない壁があると感じている。残念ながら、きっと私は徹底的な左派にはなれない。)
左派こそが、財政・税制をきちんと勉強しなければならない。(追記:政府税調最新情報)」(研究メモ


で、一応前回と同様にメンツをコピペしておくと、

世耕 弘成(自民党・参議院議員、参院 議院運営委員会筆頭理事)
山井 和則(民主党・衆議院議員、党ネクスト厚生労働副大臣)
雨宮 処凛(作家、非正規雇用を考えるアソシエーション会員)
奥谷 禮子(ザ・アール代表取締役社長、経済同友会幹事)
河添 誠(首都圏青年ユニオン書記長)
龍井 葉二(連合非正規労働者センター総合局長)
堀 紘一(ドリームインキュベータ会長)
松原 聡(東洋大学教授、経済政策学)
森永 卓郎(独協大学教授、経済アナリスト)
湯浅 誠(反貧困ネットワーク事務局長、NPO法人「もやい」事務局長)
渡邉 正裕(マイニュースジャパン代表、元日経新聞記者)
4月「激論!"新しい貧困"とニッポン」」(朝まで生テレビ


だそうです。
毎回思うけど、朝まで生テレビ芸人とでもいうべき学者ってのはだいたい固定しているようで、その界隈ではある程度役割分担があるんだろうか。今回も松原聡氏とモリタク氏の組み合わせだったわけですが、労働経済学とか労働法の分野からももう少し専門家が出てきていいんじゃなね?とは思います。もちろん、モリタク氏は労働経済もご専門ではあるけど、この方はポジショントークが過ぎる嫌いがあるので、もう少し学術的な方もいていいのではという程度ですが。

で、今回個人的に期待していたのは雨宮処凛がどれだけ貧困を救えと吠えるかという点だったんだけど、『プレカリアート』以上の発言はなかった感じ。むしろ意外なほど冷静に話していたので、もうマスメディアに話すことは話しきったからここで改めて話す必要もないというくらいの余裕さえ感じました。いろんな人と対談しているうちに丸くなったんでしょうか。

それに対して、湯浅誠さんはさすが東大で政治学を修めた方らしく「いつまで待てばいいんですか」とか「国が社会保障で救うべき」という他力本願全開でした。日本の文系学部が生み出すアカデミズムの悪い例の典型だと思いますが、数量的な程度の問題を認識しない(敢えてしようとしないようにすら見える)のは、湯浅氏がご自分が関わっている社会問題について提言しようというなら、恥ずべき態度といわざるを得ない。この点は松原氏も的確に突いてましたが、どの程度の人数の貧困者に対してどの程度の収入があれば、湯浅氏が問題と考える貧困が解消されるのか、そのために必要な財源を、経済全体の活動を阻害しない範囲でどのように徴収し、その配分をどのように決定するのかという点について提言がなければ、ただの「クレクレ厨」に過ぎないんであって、せっかく「もやい」でされている活動に対する理解を得ることはできないだろうに。

世耕議員も議論していたとおり、今以上の給付を行うための財源を税として徴収し、それを貧困層に配分するというのは、法人(企業)や現在貧困でない水準の収入を得ている労働者に対して、その収入の目減りを迫ることでしかない。経済活動に影響を与えないようにしながらそれを行うことは原理的に不可能なわけで、あとはその経済の停滞と貧困層への救済をどうやって比較衡量して優先させるかという問題になる。もちろん、生命の危機に瀕している貧困者があれば即時救済が必要ではあるけど、そのためにも財源が必要なことには変わりはない。湯浅氏は三位一体の改革で生活保護の国庫補助率が引き下げられたことを問題にしていたけど、保護認定率の違いは補助率というより地方自治体の運用とか不正受給率に関わるので、あまり有効な議論ではないはず。というより、湯浅氏が「国と地方の負担割合を変えるだけ」っていうのは、あまりに地方分権教の教えを盲信しすぎて財政を勉強しなさ過ぎな発言に思われるんだけど、そういうところもご自身の説の説得力を削いでいることに気をつけられた方がよいのでは? 具体的には前回書いたとおり。

奨励的補助金ではなく義務的補助金の補助率引き下げばっかりでけしからん!と息巻いていらっしゃるけど、もともと限られた財源を重要度の高いところへ優先して配分しようというのが補助金であって、その優先する場所を決めるのが補助金の申請と交付という手続きである以上、その手続きをやめろというのは薄く広く財源を配分しろということにほかならない。それを求めたのは地方自治体だったくせに、そういう当たり前の結果が気にくわないって批判するのは虫がいいというか、ただのアホじゃね? と軽くいなして終わる話です。
地方分権劇場


あとは、モリタク氏の主張することも数字では確かにそういうデータが出ているとはいえ、それが搾取だというのはあまりに早計でしょう。これも以前書いたとおりですが、こういう議論の何が不毛だって、そうした批判が誰にも届かない(的外れなんだから当然)のに、それを聞いた貧困層の富裕層に対するルサンチマンを一方的に増幅させるということ。実際スタジオに来ていた生活保護を受けているという失業者の方は「いいスーツ着ている人が自分のお金を取られたくないといっているようにしか聞こえない」なんて発言していたし、モリタク氏は本当に暴動を起こす気なんだろうか?

一応補足しておくと、全体的な賃金が下がっているというなら、その原因はデフレによる不況です。株主への配当が増えているとか役員報酬が増えているという批判もありますが、だからそれも不況だからなんですってば。企業ってのは生産性を高めて利潤を最大化することを目的としているわけで、生産性を高める優秀な人材には高い報酬を与えて、そうでない人材にはそれなりに待遇することが費用最小化のためには当然のこと。企業が逃したくないと考える希少価値の高い人材から順番に並べて報酬が与えられていったときに、序列の末端に位置する人材に対する報酬が少なくなって、結果的に高所得者と低所得者の所得格差が大きくなってしまうのは、全体のパイが小さくなっているからです。

株主への配当を増やすのだって、護送船団方式による銀行の間接金融を規制緩和して直接金融に転換しろという方々の意向に添った結果として、不況の中で内部留保を高めて株主配当を増やさないと資金繰りが苦しくなるからですね。

これらの問題も、きちんとアジェンダ設定ができれば(1)タイプの問題として議論ができるわけですが、「経営者が私腹を肥やしている」とかの話になってしまうと(2)タイプの議論しかできなくなってしまうわけで、だから野党はしっかりしてくれといいたくなるわけです。
野党の存在意義



一方の堀紘一氏がいろいろ説明されたことは、まああの年代の経営者がいつも唱える呪文みたいなものなのでいちいち論評しませんが、ああいう現状認識だから日本の経営が行き詰まるんだろうなと。奥谷氏は労務屋さんもご指摘のとおり論外でした。

でまあ、やっぱり気になったことというのは、首都圏青年ユニオンの河添氏や連合の龍井氏のように、労働組合は左派的な主張しかできないのかということ。百歩譲って主張は左派的であっても、その処方箋に少なくとも近代経済学的な理論の裏付けがなければ、それこそ政権交代しようが政策が実現することはないだろう。自分が対処しなければならない社会というのは、自分が思っている理想に基づいて動くべきなのに動かないのではなく、自分の考えとはどうしても相容れない思想で行動する様々な人間によって構成されているという点に少しでも思いが至れば、それを研究対象とする経済学を否定したり嫌悪するのではなく、むしろ積極的に使っていくのがスマートなやり方であることは間違いない。その「スマートさ」すら嫌悪されるのかもしれないけど。

あとは、渡邉氏がデータを元にして、正社員の既得権益保護が労働者への配分を目減りさせ、非正規雇用を増加させている原因となっているとの指摘はもう少し掘り下げてよかったのにと残念。福井・大竹『脱格差社会と雇用法制―法と経済学で考える』(濱口先生がいうところの『脱力本』ですが)の大竹文雄・奥平寛子論文「解雇規制は雇用機会を減らし格差を拡大させる」には賛否あるし、番組中にも示されたOECDの解雇規制ランキングも本当にそうか?とも思わないではありませんが、少なくとも企業内の原資を確保するためには考えなければならないはず。

そもそも、リストラが吹き荒れた時期には中高年のリストラも社会問題になってたし、田原総一郎も指摘したとおり日本の雇用慣行では定年間際にならないと元が取れない給与体系だったわけで、それをやめてしまえというのは難しいだろう。とはいっても、確かに今現在生産性に見合わない給料を得ている定年間際の給与を減らす以外に原資を確保する手段がないのであれば、積極的に議論してよかったのではないかと思う。でもまあ、それを実行したりすると裁判所が「若年期に生産性を下回る給与で働いた労働者の債権を不当に減額することは許されない」とかいうんだろうなあ。解釈論でしか考えない裁判所が経済活動を不当に制限することは許されるんだろうかね。

2008年04月20日 (日) | Edit |
以前録画しておきながら見る気を失っていた『朝まで生テレビ』(3月28日深夜に放送)という地方分権教の番組ですが、HDDの空きもなくなってきたのでざっと流し見してみました。

相川 俊英(ジャーナリスト)
浅尾 慶一郎(民主党・参議院議員)
浅野 史郎(前宮城県知事、慶応大学教授)
猪瀬 直樹(東京都副知事、作家)
片山 さつき(自民党・衆議院議員)
片山 虎之助(前参議院自民党幹事長)
佐々木 恵美子(北海道議会議員)
神野 直彦(東京大学大学院教授)
根本 良一(前福島県矢祭町町長)
東国原 英夫(宮崎県知事、「せんたく」幹事)
松沢 成文(神奈川県知事、「せんたく」幹事)
▼ 3月「激論!地方分権が日本を救う?!」(朝まで生テレビ



まずは、いつものように冒頭のそもそも論から田原総一郎が突っ込んでいた中で、地方分権推進の国会決議が細川内閣時だったことに話が及んだんだけど、誰が言い出したか?と問い続ける田原総一郎に神野センセイはしどろもどろ。虎退治されたはずの片山元総務大臣が
「政府側じゃなかったよなあ・・・」
と助け船を出したにもかかわらず、神野センセイときたら、
「いや、あれは国民的な動きですね。これは結局何かというと、今までのように国が全部画一的な公共サービスを決めてというのでは、ゆとりと豊かさを実感できない」
だってさ。
すかさず、田原総一郎から
「地方じゃなくて国に任せた方がラクにできるんじゃないの?」
とナイスなツッコミ。これに対して、神野センセイは
「住民、国民にとってムダなサービスが出てくる。ムダというのは、地域の生活に合った公共サービスが出て行かないということ」
と、またも「ムダ=悪」論で反論されてましたが、だから、誰にとって「ムダ」が問題で、地方に権限を与えたらその「ムダ」とされる歳出を削減することが可能なのか、さらに削減したとしてその「ムダ」で禄を食んでいた人の生活をどうするかってのが問題なんでしょ? 「ムダ」とされた公共事業を削減したら地方への所得再分配が滞ったために、地方経済はますます停滞して、「ムダ」がなくなってラクになるはずの地方財政が税収不足でアップアップしてるのが、それを端的に示しているんですけど。

現場主義とかいうことをおっしゃる方々なんだから、地方自治の現場をもう少し虚心坦懐に見たら、地方議会も地方自治体もそんな状況じゃないことは明らかなわけで、国の規制がどーのこーのいう前に、知事とか市町村長とか地方議員とか地方自治体の職員がそういった「所得の再分配」(これは税と給付をひっくるめたもの)に関してまともな政策を作る方が先なはず。ただし、開放経済である地方自治体の財政で「所得の再分配」を行えば、「福祉の磁石」が働いて人口構成が歪んでしまうというジレンマがあるから、国の行う所得再分配に決定的に依存せざるを得ない。ここを理解しなければ地方分権なんて語ることはできないんだけど、地方分権教のみなさんにとってそれは邪教の教えなんだろうね。

とはいいながら、その直後に地方分権の論理的破綻を実演される地方分権教のみなさんはなかなかお茶目といえなくもない。

まず、「合併しない町」として有名になった根本前矢祭町長が、田原総一郎に「なぜ総務大臣に喧嘩を売って合併しないのか」と問われて、
「総務省が合併しなさいといったわけでもないし、合併に反対したわけでもなく、矢祭町は合併しないと決めたというだけで、いち町長が総務大臣に喧嘩を売れるわけがない」
といった回答をします。もちろん、そこで田原総一郎は「地方分権は国と喧嘩しないと意味がないんじゃないか」と正しいツッコミ。

根本前町長は、地方分権は地方に対する規制緩和といったおこぼれをもらうことじゃなくて、地方が自ら決めることが重要で、市町村合併をすると創意工夫ができなくなるとおっしゃりたかったようですが、ここでも田原総一郎から「(地方分権のための)市町村合併したら創意工夫ができないってどういうこと?」とさらに正しいツッコミ。

市町村合併については、片山元総務大臣が「経済財政諮問会議において、市町村が中心となった地方分権を進めるために、受け皿になる市町村を合併する必要があるとされたから」とうまく経済財政諮問会議に責任転嫁してフォローしたつもりが、浅野前宮城県知事が
「市町村合併でよくなったものと悪くなったものがある」
とあっさり認めてしまうという見事なオウンゴールを決めてくれました。
地方分権すると生活がよくなるっていってたのアンタじゃねーの!? と俺も突っ込んでおきます。浅野前知事は「国が補助金などのパターナリズムで余計なことをやったからおかしくなっている」なんていってたけど、おそらくその余計なことをやらなかったら外部性の内部化ができなくなって、もっとひどいことになる分野も出ていたはず。いやはや、地方分権教の教義には外部性とか共有地の悲劇とかの言葉はないんでしょうなあ。

その後は夕張問題をネタに観光とか人件費をやり玉に挙げているけど、まあそれは市職員の雇用問題に誰も手をつけなかったことによる補助金獲得行動の歪みでしょうから、それは夕張市役所の問題でもあるけど、地方公務員法の問題であったり補助金行政の問題でもあって、中央集権とか地方分権とは全く違う意味で、それは日本という国全体の法律執行に影響される部分が大きい。手っ取り早くいえば地方分権で片付く問題ではないということ。

根本前町長はここで夕張市の自己責任論をぶちかましてくれますが、猪瀬直樹といい、戦中、全共闘世代は自己責任論がお好きなようで、自らの世代が経験した経済復興や石油ショックの克服が僥倖であった可能性などみじんもお考えではないらしい。バブル崩壊による景気の低迷も自己責任だし、その時期の景気対策も自己責任であって、それで財政が悪化したのは自己責任だと合併しない町長さんがおっしゃるということは、やっぱり自己責任を持たせる地方分権などではなんの解決にもならないことの証明だと思われますが、そんな解釈も自己責任ですかそうですか。

次は、東国原宮崎県知事を自称「選挙好き」の浅野前宮城県知事やら松沢神奈川県知事らがお手盛りでヨイショする展開にゲンナリ。松沢知事は多選禁止を自慢してたけど、この人材不足の日本でマトモな知事の多選まで一律で禁止したら、もっとマトモじゃない知事が増えてしまいそう。

神野センセイは相変わらず田原総一郎のツッコミにしどろもどろ。○系の神野センセイはもしかするとマトモな金融論を勉強されていない可能性もあるけど、だからといって田原総一郎に「学者生命にかけてがんばって!」といわれても新銀行東京について聞かれて答えられないというのは、本当に何も知らないか、東京都の税調で深く関わりすぎて何も言えないのか、いずれにしても学者生命が終わったと俺は見なしておく。というより、神野センセイとか金子勝センセイが「経済学者」を名乗って○系で地方財政の現場をかき乱すのはやめていただきたいと切に願っている俺としては、神野センセイが「経済学者」の看板を下ろすことに全面的に賛成します。新しい肩書きまではしらないけど。

お次は三位一体の改革についてまたも不毛な議論を繰り広げる地方分権教の方々。奨励的補助金ではなく義務的補助金の補助率引き下げばっかりでけしからん!と息巻いていらっしゃるけど、もともと限られた財源を重要度の高いところへ優先して配分しようというのが補助金であって、その優先する場所を決めるのが補助金の申請と交付という手続きである以上、その手続きをやめろというのは薄く広く財源を配分しろということにほかならない。それを求めたのは地方自治体だったくせに、そういう当たり前の結果が気にくわないって批判するのは虫がいいというか、ただのアホじゃね? と軽くいなして終わる話です。

あと、国と地方のどっちがプライマリーバランスで改善しているかという議論が不毛なのは、国の予算を決定する前段として、地方財政対策でもって国と地方の借金の負担割合を決めているからであって、現状として負担割合が国の方に偏っているから国と地方で比べたときに地方の方が改善しているに過ぎない。極端な話、国がもう国債発行で面倒見切れないよといって地方負担の割合を大きくしたら、あっという間に地方のプライマリーバランスは悪化する。実際問題として、地方自治体の信用力とか地方債の償還計画上その辺をいじりにくいという事情があって地方負担分が少なくなっているわけで、そこを逆手にとって「地方の方が豊かだよ」とかいう財務省の煽りにまんまと引っかかっている地方分権教の方々も哀れではあります。

浅野史郎という方は厚生省で障害者福祉に携わっているうちに脳内が左派思想に染まってしまったらしく、弱者が救われればその他がどうなっても知ったこっちゃないということを正義のオブラートで包んで発言してしまう。この場合の弱者は地方で、弱者以外の強者は東京とかの大都市なんだけど、
「宮城県の住民が払った税金は宮城県のために使うというのが民主主義の基本であり、地方分権は民主主義の先進国家になるための絶対条件だ」
って本気ですか? 民主主義の基本とまでおっしゃるなら東京都の住民がそれを主張してもいいんですな。大都市の財源を地方に配分する仕組みである地方交付税の根幹を否定されるとはなかなか大胆なご提案です。

税の話になったとき、片山さつき氏が「地方分権のためには、地方議会が歳出だけじゃなく歳入についても議論できなければダメだ」という非常にポイントを突いた発言をしたんだけど、松沢知事は「4年かけて議論して森林環境保全税を導入し、40億円の歳入を確保した」とまたも自慢話。金融政策をもたない地方自治体が税収を増やすというのは、住民から地方自治体への財政移転によって住民の予算制約を悪化させ、少なくとも課税による死加重を発生させるわけで、それ以上の便益がなければおいそれとやるわけにはいかない。その辺の算段もなくいきなり税金を導入しますってのは、政治上ももちろん難しいだろうし実効性の面でもかなり問題があると思われるんだが。

道路特定財源も話題になっていたけど、民主党の政争の具となっていて何の原理原則論もない状況では、地方分権教はなりふり構わず財源を獲得に行くのみです。あっぱれ。

道州制の議論もありましたが、神野センセイが「道州制にすることによって医療や雇用などの関心の高い問題が解決されるかを示すことが大事」と発言してからの地方分権教の方々のグダグダ具合は見物でした。田原総一郎もしびれを切らして「滋賀県に来た観光客はみんな京都に泊まるし、道州制にしたって地方は活性化しないだろう」ともっともなことを発言して、誰も政策的に反論できない有様。

と、ここへ来て根本前町長が地方分権教に反旗を翻します。いわく、
「道州制は多民族国家の統治の仕組みであって、(アイヌは別との注釈付きで)単一民族の日本には合わない」
「道州制にして生活がよくなると思っている国民は一人もいない」
とのこと。自己責任論がここで地方分権教の矛盾をあぶり出した形になったわけですが、結局は道州制にしたって国と地方を合わせた国家の責任が何ら軽減されないのであれば、道州制で分散された責任をより身近に負う覚悟が必要になるんだよね。地方分権教はあたかもそれが民主主義の理想像のような言い方をするけど、それってだいぶ窮屈な生活でしょ。道州間で競争するなんてのも、企業誘致のための租税競争とか外部旅行者への租税輸出みたいな責任転嫁につながる可能性が高いし、それを防ぐための制度的なコストを考えれば道州制が安くて質のよい公共サービスを提供する蓋然性なんてものはない。

最後の雑談で猪瀬直樹が「霞ヶ関に任せてたら日本が沈没する」とかいってましたが、地方に任せればその速度は速まりそうな予感を感じさせられた3時間でした。



2008年04月15日 (火) | Edit |
久々の連投だけど、地方自治体の人事はおろか一般的な人事の考え方もヒドイもんだということで。

俺くらいの団塊ジュニアの年代というのは、組織のトップ連中を団塊の世代に占められてしまっていて、そのくせ自分の下には人がいないということで、どうしても上に対する目線は厳しくなる。今回の人事異動でうちの上司も替わったんだが、これが団塊の世代よりちょっと年下の「団塊フォロワー」とでもいうべき世代で、この世代に特有の「表向きは自己責任論に否定的だけど、自分だけは団塊の世代の下でしたたかに生き抜いてきたという自負」が人の形したような輩。

いわく、「(せいぜい俺より経験のない)お前なんかの能力じゃ自治体の職員しか勤まらないんだから、とにかく今の職場でがんばれ」とのことで、その理由は「俺なんかは上が(団塊の世代で詰まって)変な奴ばっかりいる中でも、組織の中でいろいろ汚いことをやらされて、それを耐えたからここまで来たんだ」からだそうな(カッコ内は筆者)。で、具体的には「お前も組織がうまく回るように飲み会に積極的に参加して、上司に気に入られろ」とのこと。

先日kumakuma1967さんの「優秀な公務員=無能な発注者」という表現を引用させてもらったけど、「いまの優秀な公務員」が無能な発注者であるとしたら、「昔の優秀な公務員」は組織犯罪者だったわけですな。そしてこの現象は、何も地方自治体に限ったことではなく、団塊の世代周辺の人口構成が組織構成に反映するくらいの規模の組織ではどこでもあっただろうと推測されます。この辺りの世代がいまテレビでキャスターなんかしているわけで、彼/彼女らがテレビで「道路特定財源でタクシー券」とかのネタを見つけてきては「けしからん!」とか怒っているのを見るにつけ、「人のことがいえた義理か?」と小一時間問い詰めてやりたくなります。

でまあ、そんなありがたいご託宣をいただいた俺にはおそらく二つの選択肢があるんだろう。一つは、そのご託宣どおり組織のために「優秀な公務員」として働いて、上司に気に入られるのをひたすら待つということで、もう一つは(すくなくともそのシステムから)退出するということ。どっちをとるべきかは明らかだろう。上司のキャリアを否定する気もなければ、橋本治の『上司は思いつきでものを言う』的な組織の綾もそれはそれで強固なものだと思うけど、だからといって改革バカに牛耳られている組織のために働くほど、俺も無責任ではないつもり。自分がやってきた「汚い仕事」(本当に汚い仕事かといえば、それほどたいしたこともやってないけど)をひたすら自慢する暇があったら、改革バカに登用された自分の仕事を見直すぐらいやったって罰は当たらないだろうに。

チホウ公務員ならそんなものかなと思っていたんだけど、日経ビジネスアソシエに牧野正幸という方の連載があって、「ゆとり教育世代を評価する理由」なるものを書いている。

学力が落ちているってのは本当でしょうな。しかし、学力がそのまま仕事になるというのは、高度成長期の考え方であって、バブル崩壊以降の日本では、すでにそのモデルは崩れていると私は思うのです。現在はイノベーションを起こし、前例のないビジネスに乗り出していかねばならぬ時期じゃないですか。
(中略)
すでに十分すぎるほど日本人の学力は高い。その高い知識レベルを維持したままクリエーティブシンキング能力も高めるというのは無理がある。そもそも知識を蓄えてそれを応用するロジカルシンキング型の教育は、自由な発想やオリジナリティーを多少押し殺すと思う(多少であってものすごくって意味ではない)。
日経ビジネスAssocie5月6日号「ゆとり教育世代を評価する理由」牧野正幸の反常識の成功学


ええと、少なくとも俺の周りでロジカルシンキング型のできない人間が使えた試しはないんですが気のせいですかそうですか。件の新しい上司が推奨するのも、違う意味でロジカルシンキングしないタイプだよねえ。牧野さんはクリエーティブシンキングとロジカルシンキングがトレードオフのようにおっしゃりますが、ロジカルシンキングのできないクリエーティブシンキングは、たとえばアーティストなら通用するかもしれないとしても、ビジネスの現場では使えないというのは、民間の方々のほうがご存じなのではないですかね。こんなことをいうと、もしかすると「公務員は何も分かってない」とか言われちゃうのかな。

でも、その直後で牧野さん自身が反証を提示してくれているんですけど。

グーグルって会社は勤務時間の2割を完全に自分のやりたいことに使うことを許すという、ものすごいことをやっている。目の前の仕事の成果に直接関わることではなく、自由な発想で考える時間を与えることで、クリエーティブシンキング力を伸ばそうとしているのである。
日経ビジネスAssocie5月6日号「ゆとり教育世代を評価する理由」牧野正幸の反常識の成功学


アメリカのGoogle本社には博士号(Ph.D)持ってないと入社できない職種があって、「勤務時間の2割を完全に自分のやりたいことに使う」ことが許されているのってその職種に限られていたと記憶しております(ネットでソースを発見できませんでしたので記憶違いなら訂正しますが)。というか、そんな自由に時間が使えるのはかなりの生産性をもった社員の特権なわけで、それともなんですか、牧野さんの会社では「経理も営業職も仕事ばっかりやらないで、自分のやりたいことを2時間はやりなさい」とでも言ってくれるんでしょうか。

まあそれはともかく、Googleでは牧野さんがおっしゃる「高い知識レベルを維持したままクリエーティブシンキング能力も高める」方法を実践しているわけで、人事コンサルの方が最初からそれを諦めなければならないような日本では到底太刀打ちできないのでしょう。そんな人材が「自由な発想」をして仕事するもんだから、改革バカがのさばるのですよ。

2008年04月14日 (月) | Edit |
人事異動関係の小ネタが続きますが、俺もすでにお世辞にも若いとはいえない年になってしまっていて、それなりに後輩の仕事も見なきゃならなくなってくる。といっても、就職氷河期以降の採用抑制のせいで後輩といえる職員が俺の下に回ってくること自体がレアケースになっていて、ほかの同年代の職員の周辺にいる若い職員の仕事を端から見ることが多いので、まあ傍目八目ではあります。

なんの理論の裏付けもなく「若い人の自由な発想でやってくれ」といわれていた時期が俺にもあって、そこそこ無茶なこともさせてはいただいたけど、さすがに最近はそれが許されなくなっている。というのも、とりもなおさず俺が「若くない」からにほかならない。俺はまだその域に達してないけど、昔のオヤジどもはなにかにつけ「若い人の柔軟な発想でおもしろおかしく盛り上げてくれ」といいたがっていて、おそらくあれは「俺は若い人に理解がある」というアピールだったんだろう。

もちろん、そこで求められている「柔軟な発想」とやらはあくまでそのオヤジの想定の範囲内に限られるんであって、本当の意味で「自由に」発想することなんてできるわけはない。結局は、オヤジどもの要求の真意をくみ取って実行した職員が「自由な発想」をした職員として重用されていくだけである。俺自身はそれが後々俺の立場を危うくすると思っていたので、それ以後は自分のやったことにはできる限りの理論的な裏付けをつけるようにしているんだけど、俺の知る限りでそれをやっている若い職員はいない。

というより、上の職員を見てもそんな人はほとんどいないんだけど、「若い」といわれなくなった時点で唯一の武器である「自由な発想」を封じられてしまう若い職員こそ、そういった危機感を持っていいはず。それができないとこういうオヤジになるんだなと思うのが、異動してきたうちの上司である。

誰でも「自分はまだまだ若い」と思いたがるもんだし、「若い」といわれるフェーズを過ぎたときの対処を若いうちから考えるのは億劫なことではあるけど、それをしない職員がデフォルトになってしまうと、その中から「オヤジどもの要求の真意をくみ取って実行できる」職員が重用され、無能な発注者としての「優秀な公務員」が量産されていくことになる。その意味で、「若い」といわれていながら自分の次のステップを考えない職員は改革バカに取り込まれていく「優秀な公務員」予備軍であって、ざっとみっところではその割合が減ることはなさそうです。

2008年04月01日 (火) | Edit |
年度末ということでいろいろと身辺にも動きがあるわけですが、そんな中で考えさせられたことを書き留めておきます。

その前に、先週末に『朝まで生テレビ』で地方分権を取り上げていたわけですが、冒頭で渡辺アナウンサーが「今回は相当いいメンバー」というので期待して出演者を見たところ、

相川 俊英(ジャーナリスト)
浅尾 慶一郎(民主党・参議院議員)
浅野 史郎(前宮城県知事、慶応大学教授)
猪瀬 直樹(東京都副知事、作家)
片山 さつき(自民党・衆議院議員)
片山 虎之助(前参議院自民党幹事長)
佐々木 恵美子(北海道議会議員)
神野 直彦(東京大学大学院教授)
根本 良一(前福島県矢祭町町長)
東国原 英夫(宮崎県知事、「せんたく」幹事)
松沢 成文(神奈川県知事、「せんたく」幹事)

「▼ 3月「激論!地方分権が日本を救う?!」」朝まで生テレビ


・・・地方分権教の布教番組でしたかorz
とりあえず録画してたんだけど、このメンツだと結論がミエミエなので見る気が失せてしまいました。

政治主導という幻想の帰着については、ここ数日のエントリでkumakuma1967さんのところやすなふきんさんのところでも取り上げられているけど、地方分権も同じ改革バカがはまりやすい幻想に過ぎないことは、これまでも拙ブログで何度か指摘してきている。このことは、現場に近い民間の方の方が切実に感じているということのようです。

最近の発注者としての公共の動向として、能力の低下は著しい。

バブル後半にダメになって来ていたものが小泉改革でさらにダメになった感じ。

小泉改革以降はトップダウンが流行で、結論を政治家が出して、その論理の補強を官僚が出すと言うやり方。

技術的な側面でも同じ。技術ってのはある意味冷酷で、間違った結論は出せなかったりする。当然技術屋は補強なんて出来ないわけで、政治家から見たら無能な抵抗勢力だ。だから、建設でもなんでも技術的な中身のない人ほど有能になる。*1

 有能な公務員=無能な発注者という図式が完成しつつある。
発注者の責任について」(くまくまことkumakuma1967の出来損ない日記


政治家やそれを支持する国民の「ファンタジー」に則って社会が運営され、そこには合理的な裏づけが乏しく、専門的見地からでも口出ししようものなら抵抗勢力と叩かれる。バブル崩壊をその端緒として、小泉改革フィーバーを経て、日本社会にある程度備わっていたある種安全装置のようなものが取っ払われてしまった、そんな感じがするのだ。大衆が諸手を上げてマンセーする「政治家主導」「リーダーシップ」という代物の実態がこういうものだとしたら、これほどバカバカしく恐ろしい話もないだろう。もちろんそのツケを払うのは当の大衆自身なのだが、果たしてその自覚はあるのだろうか。こういうのを真の無責任体制と呼ぶのかもしれない。
ファンタジーとしての「トップダウン」政治」(すなふきんの雑感日記



結局、こういう改革バカのトップダウンが何を招くかといえば、まさに「現場感覚のない」アイディアリスティックなファンタジーなわけで、しかもそのファンタジーは「住民との対話」とか「無派閥主義」とか「しがらみのない」なんて言葉でもって「現場の庶民感覚を重視した」ものと定義されてしまうという壮大な自己撞着を引き起こしている。
地方公務員に限らず組織で働くサラリーマンなんてのは、企画する政策の理論的な裏打ちなんかより、組織内での立ち居振る舞いのうまさが出世(ここでいう出世は職階の昇進や権限のある立場へ登用されるという意味)に一番影響するとは俺も思っているけど、その出世を決めるトップが改革バカになったとき、その組織は機能しなくなる。何しろ、政策がファンタジーなんだから。

で、ここからが年度末に思ったことになるけど、人事異動というのが地方公務員の年度末の風物詩なわけで、うちのところのトップもご多分に漏れずの改革バカである以上、人事のワケわからなさは年々ひどくなる一方。無能な発注者としてトップダウンのファンタジーを実現できそう(少なくともしようとしているよう)に見える「有能な公務員」がどんどん昇進していく一方で、「それはおかしいんじゃない?」と疑問を呈する職員は閑職に追い込まれていく。

先週、「いわゆる観光客を誘致するツアーの造成なんていう時代遅れの観光振興はもういらない」というエキサイティングな主張で有名な方の講演を聴く機会があって、もちろん講演自体は興味深く拝聴したんだけど、そのお話の中で印象的だったのが、
「ある町の観光課長が代理店と組んで観光客入れ込み数を倍にするツアーを造成したところ、実績も倍になって助役に抜擢された。一方、その課長に対して『観光客入れ込み数を増やしても客単価が増えなければ効果はないんじゃないか』と疑問を呈した職員は閑職に飛ばされた。結果、今その町は人口減少に苦しんでいる」
という実話。

その話の前後の文脈として、「団体旅行しか知らない還暦を超えた世代が未だに意思決定の中枢にいる日本の現状で、そんな年代が考える観光振興に縛られている自治体には未来はない」という中でのエピソードだっただけに、上記の話とダブって聞こえました。「改革バカがもてはやされる中で当選した首長が意思決定の中枢にいる現状で、そんな改革バカが考える改革に縛られている自治体には未来はない」と。

まあ、俺がこういうことを書くというのは、自分が「有能な公務員」ではないと自覚しているからにほかならないんであって、愚痴といえば愚痴に過ぎない。ただ、閑職に追い込まれている職員(自分が今閑職にいるから周りにゴロゴロいるんだな、これが)をみていると、そういう理論を説いて疎まれるパターンもあるとはいえ、大部分はそもそも仕事のできない職員だというのは厳然たる事実。となると実は、少なくともトップから見る限りにおいて、「ケーザイガクとかの小難しい理論を説く訳の分からない奴」というのと「仕事ができない奴」というのは区別がつかないということになる。トップからすれば、理論がどうだろうが仕事ができればいいわけで、理論を説きつつもその理論の枠の中でトップの要求するレベルのアウトプットを実現するのがクレバーな職員ということなんだろう。そういう意味で言えば、純粋な理論だけでもって改革バカにまっとうな理論を与えてしまったところに、高橋洋一さんのすごさがある。

ま、そうはいっても、改革バカとして当選して次もその路線を突っ走らなければならないトップからすれば、「中途半端な仕事しやがって」となるだけなんだろう。