2008年02月17日 (日) | Edit |
今日のサンプロは、現職総務大臣と地方分権改革推進委員会委員長とその委員が競演し、さらに大阪府知事も中継で参加という、サンプロならではのオールスターキャストが実現でした。

それにしても、この総務大臣の罪は大きいですなあ。何を聞かれても「地方分権」しか言わなくて、その先のことになんにも言及していない。というよりは、それ以外に真理はないのだからほかに言及する必要性もないのかも。それなんて地方分権教? 地上に功徳を積めばあの世で救済されるというのは古今東西人気のある思想なんだろうけど、それで「地上」によい変化が生まれるならまだしも、「現世は修行なんだ」なんて話になると「今何とかしてくれよ」というのが切実な問題なわけだし、一国の大臣の職にありながらいかにも無責任です。

そもそも「地方分権は自己決定だ」とか言っている時点でよくわからんのだけど、地方分権を進めることが目的なんじゃなくて、住民の厚生を高めることが目的なんでしょう?目的関数を社会厚生関数にしたとき政策変数の扱いってのは、確かに公共経済学でもいろいろと議論があるところではあるけど、だからといって「地方分権変数」なるものがあるわけでもなく、突然「地方分権しか道は残されてない」とかいわれてもねえ。

3 地方分権改革における基本姿勢の明確化
(1)地方分権改革の理念
(地方分権の新たなステージ)
社会構造の変化に伴う危機の形は、各地域によって様々な様相を呈している。共通しているのは、その深刻さである。対策を講じようとしても、一朝一夕にはいかない。国・地方を通じてこれまで累積してきた800 兆円を超える多額の債務が打つ手の選択肢を極端に狭めている。
この状況を打開するためには、地方分権改革を断行することによって、地方分権型の新たな未来社会を築くしか道は残されていない。分権型社会を創造することを通じてのみ、活力があり希望の持てる未来を私たちは手にすることができる。
「「中間的な取りまとめ」(案)」平成19年11月16日地方分権改革推進委員会p5(注:pdfファイルです)


(2)「地方が主役の国づくり」に向けた取組み
(完全自治体の実現)
地方政府の確立は、自治行政権、自治立法権、自治財政権を有する完全自治体を目指す取組みでもあり、その運営は「自由と責任、自立と連帯」、「受益と負担の明確化」の基本原則にもとづき展開されるべきである。
(「「中間的な取りまとめ」(案)」平成19年11月16日地方分権改革推進委員会p8(注:pdfファイルです))


ただ、今回の収穫らしきものといえば、並み居る地方分権教幹部を前にして、新大阪府知事が地方分権にかなり率直な疑問を呈していたことで、前回エントリの最後の一文はいったん保留にさせていただかなくてはなりませんな。というより、この新知事さんは職業柄、正論をかますことについてはそれなりのスキルを持っているので、地方分権についても筋の通ったことはおっしゃるのでしょう。ただし、いままで制度を所与のものとしていた側から制度を策定・運用する側に回ったことで、自分が言い放った正論を自分で制度化しなければならないというブーメランの直撃を受けることになるわけで、そうなったときにどれだけ正論を吐き続けられるかが見物ではあります。こういうの「ブーメランフラグが立った」とでもいうのかな。

まあ、とはいっても法律家らしく「地方分権されたときに、その責任を負うことのできる自治体は限られている」という責任論に終始していたところからして、たいして期待できそうにはないんだけどねえ。
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2008年02月11日 (月) | Edit |
この件はすっかりスルーしていましたが、まあ単に興味がわかなかっただけということです。宮崎県のときは、保守地盤の強い地方でタレントが知事になるということ自体がレアケースだったし、そのタレントもそもそも組織なんて動かしたことがないのに県庁なんてデカイ組織を動かせるんかいという興味がそそられたりもしたんだけど、大阪府はタレント候補については前科(?)があるし、一応国内第二の都市でもあり関西の中心ということで、特段取り上げることもないかなと。

ついでに、いろいろ物議を醸していることについても、この弁護士さんのタレントとしての芸風なわけだしねえ。知事になってもその芸風でやっていくおつもりのようなので、遠く離れた土地から大阪府民の方々には同情申し上げます。

ということをいうと、「知事を選んだのは大阪府民なんだから自業自得だ」という反論もあるんでしょうが、対立候補というか対立した民主党を見ればそっちに投票する気も失せるというもの。せいぜい自民党と公明党があのタレント候補を担いだことの是非という論点はあるかも、という程度でしょう。

俺自身は、地方自治体の首長が積極的にマスコミなどで対外活動することそのものは、それがきちんとコミットメントとして機能して、地方自治体の施策として結実し、日本という国全体の厚生を向上させるのであればという条件付きで、否定しない考えを持ってます。しかし、この点をしっかりと認識しているかどうかについては、首長はおろか、それに便乗して視聴率を稼ぐマスコミと、そのマスコミに視聴率を稼がせる視聴者(その大半を占める有権者)に共通して、きわめて危ういだろうとは思います。その上で結論としていえば、首長という貴重なリソースを使って単にマスコミとその視聴者に踊らされるだけになることが予想される以上、そうならない範囲でマスコミに出るにとどめるのが堅実な判断だろうと。

まあ、そういう判断をする以前に、そうやってマスコミに便乗される価値すらない首長がほとんどな状態であればこんなこと杞憂に過ぎないんだけど、タレント知事のような首長が出てくると切実な問題になってしまうことはある。特に、何の変哲もない官僚出身の知事なんかが「知事はトップセールスマンなり」なんてことを言いだし始めると訳が分からなくなってくるわけで、彼らが自らの利用価値を高めるために「改革派」とか「地方分権」なんてことをいいだして、それを真に受けた地方住民が「地方分権こそが日本を救う」なんて思い込んでしまう悪循環。「せんたく」とかいうところに名を連ねる首長さんたちは、宮崎県の人を除いてこっちのタイプですな。

その元祖が総務大臣をやっている状況で語られる「地方分権」なんてものがどんな内容を持っているか(持っていないか)は推して知るべし。でも、大阪府知事はこの流れを加速させてしまうんだろうねえ。

2008年02月02日 (土) | Edit |
今さらこんな話してもということではあるんですが、最近やっと自分の頭の中で整理がついてきた気がするので、一応メモしておこうかと。まあ、このブログを書いている奴はこの程度の思考レベルなんだとご確認いただければ。

「自分探し」という言葉が言われ初めてもう10年以上経つんだろうと思う。その象徴として、浜崎あゆみが自ら書いたという歌詞が当時の不況まっただ中の世相で支持されたりしたけど、浜崎あゆみの歌詞を聴いて納得していた当時の若者の心情ってのは、「仕事や進路が決まらないのは、周りの人間がワタシの能力の可能性に気が付いていないからだ。いや、もしかしたら自分自身ですら分かっていないのかもしれない。そうだ、自分の可能性を探そう!」ってな空気を共有していたと思う。ほかでもない自分もそう思っていた節があるし。

で、ちょっと風呂敷を広げてみれば、詰め込み教育が学力偏重・学歴主義の元凶だとする批判に応える形で、「どんな子供にも可能性がある。どんな子供にも人には負けない能力が一つは備わっている」というような信念のもと、学校教育で個人を尊重するなんて風潮が蔓延していたこともその背景にあるんではないかと。まあ自分はリアルでその教育を受けた世代ではないので、そういう風潮があって教育の現場は大変だろうなと他人事でしかなかったわけだけど。

ただ、自分もそう思っていた節があるとはいえ、当時から「自分探し」という言葉には違和感を持っていた。それは現実から逃避するための口実だろうとか、自分の可能性とかいうものを過大評価してうぬぼれているだけじゃねーのとか、まあよくある反応でもあったわけだが、何年か前に日本代表でありながら突然引退を発表したサッカー選手がいましたね。あのとき、「ああこれが違和感の正体なのか」と思ったわけです。

「自分探し」というからには、上に書いたとおり自分の能力というものの存在が前提になっているわけなんだけど、成人するくらいの人生経験を積んで自分の能力がまだ発見されていないというなら、その能力の存在なんてとるに足らないもの、あるいはその能力があるとしても自らの人生がそれによって劇的に変わる可能性はかなり少ないと考えた方が無難だということをまず確認しておく。その上で、そのわずかな可能性のために、自分探しと称して、ある特定の職業について有効という視点からではなく、何らかの活動に有効だろうという視点から旅をするとか語学留学をするとかボランティア活動をするということは、なんと機会費用の高いことだろうかということなんです。

なかなかまとめにくいんですが、普通の場合は、能力に乏しい人が自らの隠された能力を見いだすというわずかな可能性にかけて「自分探し」をすることになるので、「自分探し」する暇があったら仕事して社会経験積んだ方が「社会で活躍する可能性」は身に付くだろうに、と腐してみることができます。しかし、「自分探し」のために世界を旅しているという元サッカー選手の場合は、すでに他の人にはまねのできない優れたサッカーの能力を持っているにもかかわらず、それを捨てて自らの隠された能力を探しているということになるわけで、結局はそれだけの機会費用をまかなえるだけの財産を有しているからこそできる、いわば金持ちの道楽なんですね。

もちろんイチローや松井が自分探しをするわけもなく、彼らはプロとして野球をすることによってもっとも機会費用を小さく、さらにそのことで本人も周囲も効用が増したり収入を大きくすることができるので、パレート最適な状況がもたらされているといえます。同じような状況にあって「いち抜けた~」と引退してしまうサッカー選手の心情が理解できなかったんですが、これで腑に落ちました。

というわけで、自分探しなんて機会費用の高い道楽は金持ちになってからやれよというのが、若くて資力もない人が「自分探し」をすることに対する違和感の正体だったんだろうと。もちろん、本人は若くて資力もないとしても親御さんがその機会費用を負担してくれるなら、やっぱり金持ちの道楽には違いないわけで、能力開発って結局は資力に帰着するってことです。だからこその所得再分配としての職業訓練が必要とされるんだろうと思います。

というのが頭の中で整理されてきたことなんだけど、こんなことを考えたのは「社会人基礎力」なるものを発見してしまったからなんですが、教育の職業的レリバンスを高めることには全く異論はないとしても、なぜ経済産業省なのかとまたもや頭がくらくらします。