2007年12月22日 (土) | Edit |
NHKで年金の話をやってましたが、あいかわらず「団体職員」が幅を利かせているわけで、発言がいかにも共○党な66歳の女性はあらかじめそう表明していただいた方が、個人的には精神衛生上ありがたいです。俺の知っている範囲でいえば、団体職員と称するのは中小企業団体の職員だったり農協の職員だったりするんだけど、新聞の投書欄とかに出てくる団体職員ってのがプロ市民だったりするのはよく知られた話らしい。日本人の肩書きに対するこだわりについてはマッツァリーノ氏も指摘していることだけど、なんというか一般的に政策的指向と職業の関係が双方向に影響しあうものとしても、日本では後者が前者を規定する度合いがかなり高いというのがその理由なんだろうと個人的には考えます。まあ、政党職員の場合は両者が一体化しているわけですが。

それにしても年金の財源を税方式にする立場のコメンテーターばかりを集めているというのは、NHKの意図なのか世論がそういうものになっているのかよく分かりませんが、前回のテーマだった「程度問題」が思ったより深刻な状態なのかもしれないという危機感を抱かせるには十分なギャラリーでした。そういう自分だって知らない制度について問われれば同じ反応をするかもしれないけど、何か問題があれば「そんな制度があること自体がけしからん!抜本的に改革しなければならない!」というのは、あまりに早計といわざるを得ないでしょう。マクロの財政問題とミクロの社会保障制度の違いを認識できないというのは、やっぱりマクロを理解するためにはある程度のスキルを要する以上ある程度やむを得ないことなのかもしれないが、だからこそ番組に参加している有識者が議論をモデレートする意義があるというに、またも荻原博子ですかorz

中学のときそれまではガリ勉君たちの独壇場だった生徒会長に立候補したお調子者がいて、彼は「生徒会なんて何にも生徒の役に立っていない。俺が当選したら生徒全員にアイスをおごる」という非常にアホらしく、かつ生徒の心をつかむ公約を掲げて選挙活動を繰り広げ、見事に当選しました。結局彼は自腹で(というか親に金を出してもらって)アイスを配る羽目になり、何の統制もとれない生徒会によってその後の文化祭や運動会の運営がぐだぐだになってしまったのはいうまでもありません。

おかげで俺は齢14歳にして、お調子者を当選させるようなガバナンスのないところに自治はないということと、現状に問題があるからといってすべて否定しては元も子もなくなってしまうということを身をもって経験することができたわけで、そのお調子者にはいくら感謝しても足りないくらいですが、まあ、簡単にいえば、100点満点で80点の働きをするガリ勉君に任せるのが気にくわないからといって、それをあげつらいながら自分は30点くらいの働きしかできないアホに任せる道理はないということ。100点とれる天才に任せられればいうことはないとはいえ、現実の政治の世界でそんな奴はいませんし、「どの程度」で良しとするかが問題なわけです。

番組を眺めた感じでは、だいたい年金制度に批判的な意見の論拠というと、

1. 政府にはムダがあり、財源を捻出することはまだまだ可能である。
2. 年金の未納が増えていて、保険料を払っているのに制度として成り立たないのではないかという不安がある。
3. 社会保険庁をはじめ役所の仕事に問題があるのに、その責任を取らせないと気が収まらない。


という辺りに集約されるようでした。

いずれもやっぱり「程度問題」なんだよなあとしみじみ思うわけですが、たとえば、1については、公共事業費が名目ベースで平成2年度並みにまで削減されて財政の再分配機能が低下している中で、それを担う社会保障のもっとも確実な財源である保険料を拡充するのであって、税負担の増加はそれとのバランスで考えることだろうと。「税負担が増えるのはけしからん!保険料も少なくしてもっと社会保障を充実させろ!」というのでは議論が成り立ちません。

2は拠出が減る分給付が減るだけの話ではあるけど、アドバースセレクションによって世代内の再分配機能が低下するという話であって、世代間格差の問題ではないということは意識しつつ、どの問題を「どの程度」優先的に解決するのかを問うべきでしょう。

3はなあ・・・人身御供がなければ納得しないというのはあまり健全な社会ではないと思いつつ、問題の解決にはならないとはいえそういう気持ちは分からないではない。「どの程度」のクビを差し出せば国民のみなさんは納得されるのでしょうか。

とまあなかなか危機感を煽られる番組ではありましたが、個人的には、権丈先生のサイトを熟読していると思しき29歳の会社員(♀)と38歳の会社員(♂)の孤軍奮闘ぶりに涙しつつ、「うちのおじいちゃんはお金持ち」と言い切る32歳の会社員(♀)の相手をおそれぬ正論の吐きっぷりに感動しました。

しかし、そもそも物品税を知る世代が物品税を懐かしがるという構図には別の意味の「財政的幼児虐待」を感じてしまいます。明らかに行政コストは上がるし、経済学的にも社会的余剰は減少してしまうし、ひょっとして民主党の戦略が奏功しているのでしょうか?物品税の復活は怖いなあ。
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2007年12月21日 (金) | Edit |
前回のエントリはムダに長いですな。このぐらいのことなら半分の量で書けるよなあと我ながら文才のなさに凹みます。

さて、この話にクビを突っ込んでいいものかどうか大変悩ましいんですが、池○先生と以前このブログにもコメントいただいたことのあるhamachan先生が何度目かの論争(?)を繰り広げられています。この論争を拝見するに、最近目にしたkikulogでの「血液型と性格もあります)」のエントリにおけるABO FAN氏のコメントと、bewaad氏の「法律家≠政治家」のエントリを連想してしまいました。

kikulogにおける議論では、血液型と性格には関係があるという説を主張(といえるかどうかもわかりませんが)しているABO FAN氏を巡って、すでに1800にも及ぶコメントが寄せられているんですが、ブログ主のきくちさんが当初から指摘されているように、このABO FAN氏は「程度問題」が理解できないように思われます。ABO FAN氏は、心理学者によるデータを探してきて「血液型と性格には関係があり、それが生活上も役に立つ」というようなことを自身のサイトで主張されているらしい(とにかく議論がループするのでABO FAN氏の主張が明確ではない)ものの、統計学的に見る限りそのデータは「膨大なサンプルサイズでやっと有意に現れる程度の微少な差」でしかありません(記述があまりに膨大で面倒なのでリンクは張りませんが、詳しくはABO FAN氏のサイトでどうぞ)。きくちさんをはじめ、多くの方が「何がどの程度関係があって、血液型が性格と関連するのか」という問いを繰り返しても、「その程度を定義してもらわなければ議論できない」という論理で結局これまでABO FAN氏の主張は示されませんでした(し、これからも示されないでしょう)。

もちろん博士号までもっている池○先生とABO FAN氏を同列に論じるつもりはありませんが、以前山形浩生さんとの論争を拝見したときにも「どっちが正しい/間違いかというより、結局仮定をどうおくか、どの変数を重視するかという程度問題なんじゃないの?」というのが正直な感想で、今回のお話もそんな感じがするように思われるのです。というところでbewaad氏のエントリにつながっていくんですが、そこではもとのmedtoolz氏のエントリの記載を
1. 政治家は「国民はこうあるべき」という仕様書を作って、経済学者に渡す
2. 経済学者は仕様書をもとにして、それを実装するための構造を考え出す
3. 法律家は経済学者が考案した構造をコーディングする
4. 仕様書は政治家同士が、構造は経済学者同士が、コードは法律家同士がレヴューする
ことを基本とする

法律家≠政治家」(bewaad institute@kasumigaseki

と書き直されています。

下っ端の地方公務員としては、このbewaadさんの書き直しにさらに一点付け加えて、
1. 政治家は「国民はこうあるべき」という仕様書を作って、経済学者に渡す
2. 経済学者は仕様書をもとにして、それを実装するための構造を考え出す
3. 法律家は経済学者が考案した構造をコーディングする
4. 仕様書は政治家同士が、構造は経済学者同士が、コードは法律家同士がレヴューする
5. コーディングされたプログラムの動作を購入者(国民とその対面サービス提供者である現場の国家/地方公務員)がレヴューし、類似のプログラムと比較して購入を決定する
というのが、(実態が伴わなくて最近は誰もいわなくなりつつある)NPMって奴の考え方に近いのではないかと思われます。いわゆる「民意」なるもので選任された政治家による仕様書の意図に基づいて経済学者が考えた構造が、その意図のとおりに帰着するかどうかってのは、もちろんその経済学者の考えた構造の精度にもよりますが、コーディングの仕方と購入者の行動によっても大きく左右されます。つまり、いくら経済学者が構造を精緻に組み立てても、法律家がそれを何らかの原因(政治家のポークバレルとか業者のレントシーキングとか、単に立法上の技術的な問題など)により忠実にコーディングできない場合や、購入者が誤って動作させてしまった場合には予期せぬバグが生じることが十分考えられます。

池○先生がおっしゃっているのは確かに経済学者としての正論だと思うんですが、それを現実の制度に落とし込む作業というのは、どうしても法律家の高度に専門的な知見を要するものになります。つまり、仕様書に示された意図を現実のものとして制度化できるかどうかは上記の1~5のすべてのプロセスを適切に運用できるかにかかっており、そのためにもそれぞれのプロセスのアクターが各々の役目をきちんと果たさなければなりません。今回の論争についても、制度の実効性(フィージビリティ)を考える際にこのような経済学や法学の知見の果たす役割をどの程度までウェイトをつけて評価するのかという問題ではないかと個人的には思われるので、やっぱり程度問題なのではないかと考えるわけです。あくまで野次馬的感想に過ぎませんが、池○先生の議論が上記でいえば2の部分だけを強調するあまりにほかのプロセスを過小評価してしまっており、そのような態度に対して、3と4及び(部分的に)5の責任を負っている(た?)hamachan先生が「をいをい」といいたくなるのではないでしょうか。

行政の末端にいてそれなりに住民の方と向き合う5に位置する身としては、ご自分の立場を2のプロセスに限定して、見ようによっては他のプロセスの役割を見下しているように見えてしまう池○先生よりは、歴史的な経緯や立法過程を踏まえて論じているhamachan先生の立法論のほうが現実的に見えます。まあこれも役人のひいきの引き倒しといわれてしまえばそのとおりかもしれませんが、少なくとも俺の住むところでは、雇用の流動性を高めれば資源配分が適切に行われるといえるほど市場が歪んでいないとは到底思えません。根元的に使用者と労働者に情報の非対称性がある以上完全競争市場にはなりえませんし、マクロ環境からいってもデフレ下で供給側の自己責任を追及することは縮小再生産にしかならないので、赤木さんのような「日本版」NEETに対する救済策は雇用の流動化ではないだろうと考える次第です。
(6/29一部記載を変更しました。)

(追記)

応報はまだ続いているようですが、私の読み違いがあったようなので一応補足。

このエントリで「程度問題」としたのは、hamachan先生が事実関係の誤りを指摘しているのに対して池○先生があまりにそういった事実の扱いを軽んじているという点を取り上げたつもりでしたが、hamachan先生はやはりそこを一番重視されていて、池○先生を一刀両断のもとに切り捨てていらっしゃいます。hamachan先生にとっては「程度問題」などではなかったということですね。

私自身はこのようなhamachan先生の態度に学問的な「真摯」さを感じて「現実的」と評したのでしたが、政策としてのfeasibilityはもちろん、学問としてのresponsibilityの意味でも池○先生の議論は「現実的」でない、と申しますか「真摯」ではないという点でhamachan先生の憤りもごもっとも。ABO FAN氏を引き合いに出したのもそういう意味だったんですが、この辺の機微を表現できないという文才のなさに(以下略)。

ただ、お二人の応報で使われる言説の「誠実さ」に関しては、お互いに売り言葉に買い言葉的な非生産性が十二分に感じられるので、私の基準からしてもどっちの「程度問題」かがぼやけてきているところが なおさら悩ましいところではあります。

2007年12月17日 (月) | Edit |
めちゃイケで抜き打ち期末テストの誤答をイジリ始めた辺りから「おバカ芸人」が一つのジャンルを確立するようになったわけですが、本来なら生活に何らかの支障を生じさせるかもしれない知識や考慮の足りなさが「芸」としてある一定の価値をもつようになったことってのはどう評価したらいいんだろうかと、島田紳助が司会をするクイズ番組を見ながら考えてしまいました。

まあ確かに知識を取得してそれに基づいて考慮するっていうことはそれなりにコストがかかるし、そもそもそういった能力に個人差がある中で、誰もが最高水準の知的能力を持つべきだという極論を言うつもりはないけど、それなりの水準ってのがあってもいいよねということです。そもそも「おバカ芸人」がその知識や考慮の足りなさを芸にするっていうのは、その知識や考慮の足りなさに起因するデメリット(日常生活上の不都合や仕事などのミッションを遂行する能力の不足)よりも、それによって得られるメリット(芸人としての評価を得ることによる収入や知名度の上昇)がそれを上回っているからわけで、直接的にいえばそれが市場の中で価値として評価されるからに他ならない。

しかし、それってたとえば事務所が「おバカ芸人」の日常生活をサポートすることによって、その「おバカ芸人」が実生活上で被るデメリットを軽減していることが、その芸人が安心して「おバカ」でいることを選択することを可能にしていると思われます。というか、芸能人は日常的な常識には欠けていてもそれを補ってあまりある芸能があるから芸能人なんであって、むしろそんな生活臭のないところが魅力だったりもするし、昔から芸能界っていうのはそういうところだったんだろうとは思う。しかし、いまの「おバカ芸人」は芸能界が培ってきた「常識に欠ける社会人」を養うスキルを商売道具にしているように見えるわけで、事務所が日常生活をサポートすることが「おバカ」であることの相対的なコストを下げることになり、「おバカ芸人」達が積極的に「おバカ」であることを選択するようにしているとみるべきなんではないかと思われるわけです。

芸能界があくまでビジネスの世界であることを考えれば、「おバカ」だろうとなんだろうとお金を稼げる以上それを売りにした芸人を養成したりスカウトすることもアリだけど、それを需要する側を考えてみると、そうとばかりもいってられない。たとえば俺の周りなんかの普通の生活だったり、特に政治の世界に持ち込まれてしまうと非常に迷惑だなあと。その端的な例が反知性主義だったりするんですが、小学校レベルまでは「勉強なんかより遊びの方が好き」ぐらいだったものが、中学校辺りから「勉強マジうぜえ」とか「勉強したって何の役にも立たなくね?」とか言い出して、高校ぐらいは卒業したとしても学校の勉強にはほとんど意義を見いださず、専門学校で直接仕事に結びつく(ように思える)勉強をするようになるのが、結構一般的なルートとなりつつあるところも「教養」とかいうものに対する信頼を体得できない原因になっているのかもしれない。あるいは、高校から大学に進学したとしても、大学では「純粋な学問」とやらを勉強したと割り切って、資格とかの実務に関する勉強はそれとは別にダブルスクールしたりするのも「教養」を信頼していない傍証になるんだろう。つまり、そこには学校で習うような歴史とか科学、もう少し専門的な法律や経済などについて知識や考慮が不足していることについて、それを自らの課題や欠点と自覚しなくてすむようなロジックが形成されていて、「おバカ」な芸能人がそのロジックにある種の免罪符を与えてしまっているように思われるんです。ある種の免罪符というのは、「おバカ」であることを積極的に評価することによって知識や考慮の必要性が相対的に低く評価される(必要性が低くなるというのは、上述の知識や考察の相対的なコストが高くなることで選択されなくなることも含みます)ようになってしまうだけじゃなく、知識を習得したりものごとについて考慮する努力を「悪い」ことのように評価することに根拠を与えてしまっているんではないかという意味です。

とはいっても、上に書いたとおり誰もが最高水準の知識を持つべきでもないし、そもそもそんなことは不可能なんで、結局はどのラインで線を引くかという問題に戻ってしまうんだけど、その線引きは画一的に決まるものではなく、人それぞれの立場やキャリアといったものが密接に関係するんだろうというのがこのエントリの趣旨です(相変わらず前置きがなくなってしまいましたが)。その線引きの基準となるのがいわゆる社会的責任ってやつなんだろうということをいいたかったわけですが、ここまで書いて「責任と義務は表裏一体なんだよ」「な、なんだってー!」なんて話に終わってしまう気もしますが、できるだけそっちにはいかないようにします。

知識や考慮の水準の線引きの問題として考えたとき、上で考えた「おバカ」であることが積極的に評価されるようになるということの効果は、最低限の水準を求められる層の下限ラインを引き下げ、一方で高い水準が求められる立場の上限ラインをも引き下げるものと理解することができる。日常の生活を支障なく送るために求められる知識や考慮の水準が引き下げられるというのは、字義のとおり考えれば世の中が簡単(?)になった場合に生じる事態なんだけど、これって実はそれなりの説得力があるんではないかと思う。いわゆる白物家電の性能の向上とかコンビニとかスーパーといった流通の集約化とかっていうのは、日常生活でそれなりの知識を必要としていた場面を大幅に減らしている(洗濯機があれば洗濯の仕方を覚える必要もないし、消費期限が記載してあれば食料品の鮮度を見分ける必要もない)わけで、知識の不足がそれほど深刻な事態をもたらさないようになっているとは言えるだろう。

しかし、その一方で現代の日本国憲法に規定された日本ってのは複雑に制度が絡み合った法治国家であり、市場における取引を通じた価値の配分を基本原理とする資本主義国家なわけで、市場の失敗を軽減すべく政府の介入が行われる社会にあっては、それ以前の社会と比べれば制度に対する理解の重要性は格段に増しているはず。つまり、日常生活における知識の相対的な重要性の低下とは逆に、何らかの制度に規定されている行動をとろうとするなら知っておくべき法律や経済の知識は増えていっているし、それに対する考慮もより高いレベルで求められることになる。ということは、主に家庭と学校でしか生活しない小学生が「勉強よりも遊びが好き」といっているレベルでは必要とされなかった知識が、次第に社会との接点が増えていくにつれ、その社会の制度(法定の硬性のものや慣行などの軟性のものを含む)やその背後にある思想や歴史、理論といったものを理解することが、その社会における自由度を獲得するためには必要になるということ。まあ、これも突き詰めていけば「怠けてきた負け組が悪い」とかいう話になってしまうので注意が必要なんだけど、原理的には間違いはないだろう。

となると、身の回りの日常生活を基準とした知識水準が下がっているにもかかわらず、社会的な接点が大きい行動をとる際に必要とされる知識水準が上がっているわけで、このギャップが結構深刻な問題をはらんでいると思われます。たとえば「プロ市民」といわれる市民団体が批判的なとらえ方をされているのも、反知性主義の文脈でとらえるなら「脊髄反射的に理想に燃える前に、制度とか法律とか経済をもっと勉強しろアフォ」という意識があるんだろう。そのことによるいわれのない差別には十分注意しなければならないとしても、その批判が間違っているとも言い切れない面はあると思う。もちろん、「市民の目線」とか「現場の感覚」というものを否定するつもりは毛頭ない。しかし、その「市民の目線」を実効性のあるものとするためには何らかの制度を構築する必要があるわけで、制度にコーディングするためには単なる技術論としての立法論だけではなく、法律や経済、歴史に関する知識を総動員してその実効性をチェックすることが不可欠だということです。

ここまで極端な例ではなくても、たとえば経営者が労働法規を無視した偽装請負で雇用したり、整理解雇の4原則に外れる解雇を行ったりすることは枚挙にいとまがないし、もう少し話を大きくすれば、地方財政制度を理解することなく地方分権を金科玉条のごとく主張したり、中央銀行がデフレ下にもかかわらず利上げを匂わしたりとか、朝からテレビに出ずっぱりで夜は銀座で飲んでいるキャスターが感情だけでズバッというのを見ていると、反知性主義は明らかに有害であると思わざるを得ない。反知性主義は小学生くらいの生活範囲でなら許されることもあるかもしれないが、少なくとも社会的に影響のある/を及ぼそうとする立場の人間が依るべき理念では決してない。自らの立場を自覚したなら、せめて謙虚に勉強していただきたいものです。

なんてことを考えたのも、この年齢になると同級生が会社でそれなりの地位についてたり、あわよくば政治家になろうとしたりするのが出てくるんだけど、そういう奴って「俺は勉強しなかったけど仕事とかボランティア活動で経験があるから、俺の考えは間違ってない」なんていうことが多いんだよねえ。それなりに成功体験があってその地位にいるわけだからこっちも反論しづらいとはいえ、そういう奴の部下がかわいそうです。あと、仕事柄大学の先生とか弁護士の先生なんかと話をすることもあるんだけど、法曹の世界って意外に制度に関して無頓着な印象を受けます。端的に言えば「俺は理論とかはよく分からないけど、この制度は問題だ」というなら法曹の現場の感覚からの問題提起として傾聴に値するとしても、「俺は制度は分からないけど」といった時点でアウトですな。特に大学の先生がこんなことをいうのを聞くと、権丈先生の苦悩(勿凝学問118 年金の国民的議論というのは有識者さんたちに制度を教えることなんだろう、この国では――それとバスタブに沈みゆく連合の年金改革案(注:PDFファイルです))を実感できます。