2007年03月18日 (日) | Edit |
4年に一度地方自治体の選挙が集中する年があって、今年がその年になってますね。一番大きな東京都も知事選があるので世間の関心もそれなりに高いわけですが、ここ数年は「マニフェスト」選挙なるものが流行っているので、以前は公約といっていたものが突然進化したかのような印象を持たれている方もいるかもしれません。まあすぐに気が付くとは思いますが突然そんな変化が起こるわけもなく、実際には公約でスローガン的にいっていたものをそれらしく文言を修飾しているものがほとんどです。今回の都知事選の各候補のマニフェストを比較してそのことを確認してみましょう。

と、その前にそもそもマニフェストとは何なのかを確認しておきます。「Yahoo!みんなの政治」での「マニフェスト講座」では各方面の方が様々な視点からマニフェストを解説されているんですが、vol.3で「公約とマニフェストの違い」というテーマがあり、そのまとめでは「「公約」の作り方を政治主導・政党主導に転換させたのが「マニフェスト」の特徴」となっています。
ん?公約って政治家が作るから政治主導じゃなかったの?と思って本文をよくよく読んでみると

日本の各党でも、政調など幹部が中心となって「公約」が作られてきました。しかし、あらゆる方面・関係団体に配慮することが重視され、特に与党では、各省庁からの要望を踏まえて項目を盛り込んでいくことにより、200ページを超える「公約」が作られました。また、政党による「公約」の他に、候補者個人による「公約」が混在することがよくありました。こうした「公約」は、実現する見込みが薄く、「ウィッシュリスト(おねだり集)」と揶揄(やゆ)され、政治不信を助長する一因となっています。


とのこと。どうやら、政治家が個人的な選挙の思惑で地元への利益誘導を図ることが問題だから、政党の政策を基軸として公約を作りましょうということのようです。

あれ?結局公約だったんですね。でも、いまの地方選挙って無党派が流行っていて公認候補なんてほとんどいないし、せいぜい推薦とか支持どまりだと、政党の政策ってあんまり関係ないんじゃないかなと思いながらほかのテーマをみていると、vo.14で「地域社会の将来を決める『ローカル・マニフェスト』」というのがあります。こちらのまとめによると「選挙の際にマニフェストを作成するだけでなく、その後においての「マニフェスト・サイクル」を確立し、検証・評価などを行なうことが重要です。」とのこと。ローカル・マニフェストとかマニフェスト・サイクルとかいろんな言葉が出てきて混乱しますが、前者は

そして、自治体の経営の質を高めるためになくてはならないのが、明確な経営理念とその理念を実現していくための政策大綱です。私は、それが「ローカル・マニフェスト」だととらえています。


で、後者については、

このように、地域経営においてマニフェストの「作成」→「選挙」→「実行」→「評価」といった「マニフェスト・サイクル」を確立させていくことが、地方の政治・行政を大きく改革していく原動力になると考えています。


とのこと。これは中司枚方市長のお考えとのことでどこまでコンセンサスを得ているのかは判然としませんが、地方選挙におけるローカル・マニフェストは政党の政策を基軸とした「マニフェスト」とは違い、選挙後にその成果を検証することが重要とされているようです。
このように評価が重視されるというのは昨今の行政改革の常套手段になっているわけで、評価に必要な数値目標とか工程表とかがマニフェストと公約との一番の違いになるのではないかと個人的には考えます。

という勉強をしてから、まずは元祖改革派知事として名を馳せた浅野史郎氏ですが、そのマニフェスト(注:PDFファイルです)はボリューム・内容ともに今回の4候補の中でもっとも充実したものとなっております。その中でもマニフェストが定義されていて、

「マニフェスト」とは、「数値目標」、「期限」、「財源」、「工程表」を明示した選挙公約です。
「何を」、「いつまでに」、「いくらで」、「どのようにして」実現するのかを明らかにします。(p2)


とのこと。どんな数値目標をどういう工程表で実現していくんだろうとみてみると・・・あまり数値が入ってませんねえ。各項目を表形式にしてそれぞれ○年以内という期限を設定している点はわかりやすいんですが、数値目標にそれほど目立ったものはないですね。工程表は各項目の説明文で読み替えるとして、財源については「5 お願いから約束へ~ 「誰もが誇りを持てる東京へ」の検証」(p14)の政策6で、「「誰もが誇りを持てる東京へ」を実行するためには、2000億円必要です。その財源には、都政の見直しによって削減された分をあてます。」というのみで、どうやってその2000億円が算出されているのか、そもそもその2000億円は削減の目標なのか見込みなのかすらわかりません。でもまあ、ご本人が定義するような数値目標、期限、財源、工程表はそれぞれ書いてありますので、これは「(ローカル・)マニフェスト」なんでしょう。となると、「マニフェスト・サイクル」できちんと評価されなければならず、有権者はこの点を考慮して投票行動を決定することができます。

さて、「マニフェスト」を掲げているのはほかに黒川紀章氏がいますが、そのマニフェストは・・・あれ?数値目標、期限、財源、工程表とかいうものの制限をまったく受けない公約ですね。都知事選のマニフェストに憲法改正凍結を入れ込むなんて自由過ぎですよ黒川師匠。財源については、「2) 財政再建を積極的に推進し、その内容を情報公開する。」のd.辺りをみるとオリンピックを中止すれば調達できると思っている節があるけど、ケインズ的な経済政策論からいえば政府支出が減るとGDPが減少して税収を落ち込ませる可能性があるし、そもそもどのくらいの額をどう確保するのかくらいははっきり言わないと青島幸男の二の舞になるでしょう。今朝の竹村健一が一言言う番組でも根拠の薄そうな「隠れ借金」なるものを主張してほかの候補にたしなめられていたけど、知事に立候補するくらいなら事前に経済学とか公会計とかの制度を勉強するのは最低限のマナーだろうに。「私は経営者だから」なんていったって、制度が違えば数字の意味も違うんだからそこは謙虚に勉強しなさい黒川師匠。

ここまでが「マニフェスト」という言葉を使っている候補ですが、吉田万三氏は「都政改革プラン」ということで明確にはマニフェストとして位置づけてはいません。まあそもそも共産党の綱領の縮小版でしょうから、実現して検証するまでの射程は持ち合わせていないのではないかと。

そしてこれらの候補を迎え撃つ現職の石原慎太郎氏ですが、こちらは「東京再起動。」と題して、サイト上でも「東京都知事選の公約」とマニフェストという言葉を頑なに拒否されています。男だね石原師匠。実績は強調するけど、その実績の延長線上で考えろということなのかこれからの政策については数値目標、期限、財源、工程表は明示してません。黙って俺についてこいとはこのことですか。

一応4候補の公約について入手できる範囲で確認してみましたが、マニフェストの要件(と思われるもの)を満たしているのは浅野氏のみという結果。マニフェストによる差別化こそが浅野氏の戦略ではありますが、少なくとも世間でいわれるほどに「マニフェスト選挙」といえる状況にはなさそうです。と思ったらついにあの候補が立候補を決めたとの由。岩手県が覆面選挙で世界の笑いものになる日が現実のものとなります。
スポンサーサイト

2007年03月02日 (金) | Edit |
前回お笑い部分について指摘した『つっこみ力』なんですが、毎度のことながらパオロさんのページで反論が掲載されております。こういう真摯な態度はさすがだなと思うのはもちろんですが、この反論で「ああそうか」と合点がいきました。実は『つっこみ力』の経済学批判の部分をちょいちょいと批判してみようと思っていた矢先だっただけに、下手なこと書かずに済んだなと。

大抵はトップページに最近の出来事的な感じで「御意見無用」というコーナーを月一ペースで書かかれることが多いんだけど、今回はなんとページを分けて丁寧に反論されています。それで明らかになったことというのは、やっぱりというのが残念なんだけど、「パオロさん、言ってることが破綻してるよ」ということ。こういうことを書くのは、あくまで俺がパオロさんの文才を評価していて、その方向性さえ間違わなければパオロさんの目指すものにも賛同しているからです。というわけでちょっと心苦しいのですが、改めて批判させていただきます。

まずは今回の経済学批判のメインイベント、インセンティブの悪口について、

でもね、私は、インセンティブ理論がそのあいまいさゆえに、なんにでも使える便利なレトリックに堕してしまった現状を指摘した上で、ムラムラ感と改名し、その使用をプラス面だけに限定すべきだ、という、とても建設的・現実的な提言をしてるんです。こんな前向きな悪口がありますか。しかもこれって、本来なら経済学者がやるべき仕事なのに、私がやってあげたんです。それすらわからないのなら、やはり経済学者は裸の王様です。


とおっしゃってはいますが、インセンティブ理論がなんにでも使える便利なレトリックに堕してしまっているのはおそらく経済学だけの責任ではなく、(俺も含め)経済学をちょっとかじった人がインセンティブという言葉を乱用したのが原因ではないかと思われます。これについてのパオロさんの著書の中での言い分は、

ところがここ5,6年に書かれた経済学の教科書や入門書は、判で押したように、インセンティブの重要性と有効性ばかりを強調します。これでは教科書ではなく、教典です。
インセンティブ理論がはたらいていない例を指摘されると、それはトレードオフだ、人は妥協することもあるのだ、と逃げをうち、インセンティブの有効性を守り抜こうとします。でも、これではいわゆるアドホック-その場しのぎの上塗り理論です。
p96


というものですが、そりゃインセンティブ理論には限界があるだろうし、そもそも経済学に限らず社会科学っていうのは一定の前提をおいた上で理論を構築するので、その前提が成り立たなければ理論が成り立つ余地はほとんどありません。そういった前提がない場合に成り立たないということを、殊更インセンティブに限っては「有効性を守り抜こう」としているとして、それが悪のように言うのは見せしめにしてもあまり筋のいいものではないと思われます。一応申し訳程度に、その直前で「じつは経済学者のなかにも、まともな感性を持ってる人はいます」と書いてますが、逆に「インセンティブマンセー!」なんていう経済学者もそれほどいない(参考文献にある清水・堀内『インセンティブの経済学』が主流ではないはず)のでは? 教科書や入門書というのは近年発展してきた理論を紹介しなければならないのでインセンティブ理論を取り扱うでしょうが、たとえばスティグリッツ『ミクロ経済学第3版』では、「五つの重要な考え方」としてトレードオフ、交換、情報、分配と並んで、

経済学でいうインセンティブとは、特定の選択を行うことが意志決定者にとって望ましくなるような便益(費用の減少を含む)のことを指す。
p7


と定義されています。つまり、その程度です。インセンティブだけですべてが説明されるとは書いてませんし、インセンティブの説明のほとんどは便益と費用の差である余剰とかの概念で言い換えできるような内容ではありませんでしたか? いずれにしろ、最近の経済学者がインセンティブばかりを強調しているというのはパオロさんの読み誤りの可能性が高く、それを明示しないまま経済学のツールの一つに過ぎないインセンティブ理論の限界をことさら強調して、経済学全体の悪口を言うというのはいかにもお行儀が悪いのではないかと。

と思っていたところ、

社会学や経済学を批判するにしても、私はつねに、大衆に理解できるように書いています。ところが残念なことに、学者からの私への反論は、いつも専門用語と学者文法にまみれたものばかりなんです。説明でなく、知識とお約束の押し売りばかりでウンザリです。

 おまえは経済学のイロハも知らないから、理解できないんだ、とおっしゃるかもしれませんが、世間には、その私より経済学を知らない人がたくさんいるんですよ。逆にいえば、この私すら説得できないような説明で、世間の人たちに納得してもらうことなど不可能です。


とおっしゃるではありませんか。大衆に理解できるように書くからには、その言説に接するであろう大衆がどのように理解するのかについて責任を持たなければなりません。その責任の持ち方とは、少なくとも理論を正しく理解し正しく伝えるということではないでしょうか。上記のとおり特定の理論ばかりやり玉に挙げて、あたかもほとんどの経済学者がその点を考慮していないかのような書き方をするパオロさんはこの部分をないがしろにしているようにしか見えないのです。

このほか、後半でデータとのつきあい方として、自殺率と景気の関係は見せかけであってほかに要因があるということをいうために、

さて、こういう場合、社会科学系の学者がどう判定するかというと、データをパソコンにぶっこんで、どちらのデータがより関係が深いかを計算するのです。でも、それによって求められるのは、どこまでいっても、データの関係性が深いか浅いか、それだけです。大人の人口伸び率のほうが関連が深いことが証明されたとしても、それで因果関係が証明されたわけでもないし、タバコと高度成長の関連を否定したことにもなりません。
p164


とおっしゃりますが、そういったことは統計学や計量経済学では十分に注意が払われている部分なわけで、単に数字が相関しているからといってそこに相関関係があるのか、因果関係があるのかというのを即座に断定する経済学者はいないでしょう。そんな論文があったらまっさきに経済学者が批判するはずです。「見せかけの相関」なんてのは統計学の初歩的な概念だし、計量ソフトだって線形代数で解いているだけだから、いくらデータを計算したところできちんとした制度的な裏付けや理論による説明がなければそんな計算結果には意味はありません。その意味で、パオロさんの後半の自殺増加についての指摘はとてもよくできた統計学あるいは計量経済学の論文です。おそらくパオロさんの批判する学者連中が期待するのはこういうパオロさんのデータを扱う力量に対してであって、わかりやすさを評価してほしいパオロさんはそれが不満なのではないでしょうか。

そんな中で、パオロさんの次の指摘は大変重要です。

おもしろくあるためには、わかりやすさも絶対必要です。文章のわかりやすさのひとつの目安は、高校3年生にもわかるかどうかです。なぜなら、彼らは来年、大学1年生になる人たちです。将来、世間を担う人たちです。だから彼らにわかるよう、専門用語や学者文法を排除した普通の日本語で説明できなければ、学問は世間に伝わりません。また、それができない人は、大学教授や講師をやる資格がありません。


わからせることができなければ、教育者として失格であることはおっしゃるとおりです。ただし、わからせるためには相手がわかりたいと欲し、自らわかるための努力をその相手がきちんと果たすことが要求されます。特に内容が高度になればこの傾向は顕著です。だからこそ大学などの高等教育機関があるのであって、何も努力せずに難しいことがわかるのならそもそもそんな教育など必要ないことになってしまいます。その努力を引き出すためのおもしろさなら有用でしょうが、その努力をサボる口実につっこみ力が堕してしまったとき、インセンティブと同じく「使えねえなあ、つっこみ力」といわれるかもしれません。