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2007年01月27日 (土) | Edit |
前回のエントリをろくに推敲もしないでアップしてしまったためもあって、だいぶ筆が滑ってますな。念のため書いておくと、みのもんたって「おもいっきり生電話」とか「珍プレー好プレー」みたいな与太話しているときにはおもしろいおっさんだなと思っていたのに、ことが政治とか行政の話になってくるとそこで許容されていたような無責任さが仇になっているように見受けられるわけで、思ったことを「ズバッ」というなんてのは若いもんなら許されるとしても、いい歳こいたオッサンのすることじゃないはず。有り体にいえば「時と場合がある」なんてことは中学生くらいになると周りの大人にたたき込まれることで、思ったことをベラベラしゃべるのは、特に政治とか人の命がかかっている問題を語るときにとるべき態度ではありません。そういう憤りを言葉にしようとしたのが前回のエントリで、まあその感情を抑えきれずに筆を滑らせた俺がいたわけです。

で、いろいろとブログ検索なるもので皆さんがあの番組をどう見ていたのかっていうのを眺めてみたんですが、そういうみのもんたの大人げない態度が普通に受け入れられているのでちょっと悲しくなってしまいました。地方自治体という身近な役所の問題を自分で考えるってことは確かに大事だけど、その考えが関係する人々のどこかに負担を押しつけてないかとか、社会全体で見たときに望ましい状態が実現されないんじゃないかということを考えることはそんなに簡単ではないし、それを確認する作業というのはとても労力を要するものです。誰かが困っているのを見て心を動かされることは当然のこととしても、そこから行動を起こすために慎重な判断が必要とされる場合も往々にしてあるものです。

こういう状況で思うのは、権丈善一さんがおっしゃる(注:pdfファイルです)ように、政策について考えることは大変な労力がいるためすべての国民がそれを考えるわけにはいかないのに、いざそのことが自分の生活に降りかかってくる(きそうになる)と一気に不安や不満が噴出してしまうことがよくあります。そうなると、普段は自分の生活を考えて生活していたのに突如として政策を考える必要が生じますが、その政策に関する情報の入手やそれを分析・解釈するコストと自分の普段の生活を比較すると、マスコミ報道などをソースに考えるというのが最も多いパターンでしょう。しかし、このブログで何度も指摘しているとおり、マスコミの報道は往々にして制度や理論、データを無視した感情論を流しますし、一部の利益となる(ならない)ことをそれをは示さずに報道する(しない)ことすらあります。そのような言説にとらわれずに制度などに基づいて政策を考えることで、日常生活を普通に送る人の労力を肩代わりするのが政治家や役人の重要な役割の一つなわけす。

別にハーベイロードの前提なんてこというまでもなく、そういう分業ってのは資本主義社会では通常行われることで、そうすることによって比較優位を持つ主体がそれぞれの得意な生産物を交換する(これを行う場が市場です)ことが可能になり、自分の生産できないものを手に入れることによって社会全体の厚生が向上することになります。この比較優位という考え方の説明としては、リカードゥのイギリスとポルトガル間のワインと毛織物の貿易が古典ですが、ものすごく説明をはしょれば、同じものを作るために諦めなきゃならないもののコスト(機会費用)が低い方が市場では交換をもちかけやすい、というになるということでしょうか。日本でいえば、漁師は魚を捕るのが得意(コストが低い)で農家は米を作るのが得意なら、それぞれ自分の得意な魚なり米を持ち寄って市場で交換することで、お互いに少ない労力で自分では捕れない(作れない)ものを食べることができて、みんなハッピーということです。

で、この夕張市問題について一番やっちゃいけないことは、国や北海道が夕張市に対して税金によって支援策を講じることなんですが、前回も指摘したとおり、総務省は金融支援する方向だし、北海道は支援策をとりまとめてしまいました。早期是正の意味の取り違えやモラルハザードについてはbewaadさんのところの議論でご確認いただければ追加することはないんですが、この支援策が実現すると国や都道府県の支援を頼って一気に財政破綻が吹き出す可能性があるということを、日本全体で認識する必要があります。たとえていうなら、マラソンでトップにものすごい差をつけられてリタイアした人が、どんなにトップとの差が開いて体力的にキツくても最後まで自分で走り抜く人よりも順位が上がるというようなことがあったら、最後まで走る人なんていなくなりますよね。つまり、(準用も含め)財政再建団体となった市町村に対する国や都道府県の支援によって、ギリギリ踏ん張っている市町村よりも行政水準が上がるようなことがあったら、ギリギリの市町村が踏ん張る理由がなくなってしまうわけで、逆にいうなら、夕張市は全国最低の行政水準を甘んじて受容しなければならないのです。

※もし支援策が実現するとしても、その支援策の財源はほかでもない我々国民の税金なのですから、テレビを見て「夕張市の住民がかわいそう」という方々は、その夕張市を支援するためにさらに課税されることを望むとでもおっしゃっていただけるのでしょうか。もし国民の皆さんがそういうお考えで増税に賛成してくれるなら、先日のみのもんたの番組によれば91%に上るという財政に苦しんでいる市町村が一斉に財政再建団体になることで、地方自治体の財政問題は一気に解決します。財政破綻したといってしまえば、国や都道府県が税金で財政支援してくれて、その上行政水準も上がるわけですから、これほどうまい話はありません(その代わり、行政の無駄が温存されたり大恐慌が発生してしまうかもしれませんけど)。

夕張市が全国最低水準の行政サービスに甘んじなければならないというと冷徹に感じられてしまうかもしれませんが、日本国憲法第25条で最低水準の生活は保障されています。これまでの行政サービスを基準にするならサービスの切り下げに違いありませんが、そもそもこの地方自治体の財政破綻問題は、国の責務であるナショナルミニマムに地方自治体が上乗せしてきた行政サービスの水準(シビルミニマム)が、地方自治体の財政難のために切り下げられるということであって、憲法違反の水準にまで行政サービスの水準を下げることを意味するものではないことをご確認ください。生活保護は国の事務ですし、介護保険だって市町村負担分は12.5%に過ぎず、それが不足した場合でも、国の事務である年金から天引きされる保険料の引き上げによって補うことが可能です。つまり、憲法で保障される生活水準なら現行の制度で確保されるのであり、前回のエントリで指摘したような、TBSの報道姿勢は「もう生活できない」というような危機感を煽るばかりで、結局は夕張市のイメージを必要以上に落として過疎を加速してしまう可能性すらあります。

行政水準じゃなくて雇用などの経済情勢についてなら別の話になりますが、ここがナショナルミニマムを考えるときに一番難しいのは事実です。所得水準までもナショナルミニマムだというのであれば、土建行政と呼ばれるような公共投資による雇用創出がもっとも効果的で手っ取り早いんですが、それをやると利権政治とか行政の無駄とかまた行政が叩かれてしまいます。ここで話を大きくしてしまって、経済政策は国の仕事だといってしまいたいのが地方自治体の立場なんですが、地元の方々にそんな話をしても納得はしてくれないわけで、といっても景気対策の効果を待つしかないんでしょうけど…難しいです。

あの番組で取り上げられていた病院が存続できないという問題にしても、「医療崩壊」の進行による僻地における医師不足の問題が根底にあります。自治体病院がなくなってもそこに需要があるなら民間病院が参入する機会が発生するはずですが、医師の側で僻地医療に携わりたくないと考えれば医療サービスは供給されなくなってしまうのです。年金だって、危機感を煽ったり社会保険庁を悪者にして増えてしまった未納が解決されればそれなりに機能するんだけど、そういう現政権の政策がうまくいくと都合の悪い民○党なんかがまた危機感を煽るんでしょうなあ。ちなみに医療も年金も地方自治体じゃなくて国の事務なので、それを事実上肩代わりしてきた地方自治体がもうできませんというなら、国が責任を持って面倒見るべきでしょう。

率直に申し上げて、こういう制度面での話や課税負担による厚生損失、将来世代への負担先送りの効果や問題に対する解決策というのは、よっぽど法学や行政学、経済学、さらには行政の実務などに通じた方でない限り「ちょっと考えてみた」程度では政策としての内実を持つものにはならないと思われます。政治家や役人の仕事というのは、こういったはじめは思いつきにすぎないアイディアであっても、それを政策として内実のあるものに形成していくことでもあります。これを機会に、住民として地方自治体の政策や国の政策が持つ効果や制度の仕組みをぜひご理解いただき、余力があればそのような制度を裏付ける理論やデータを調べて、問題のある政策を指摘し、さらに有用な政策を実行する原動力となっていただきたいと切に願います。

そういえば、納豆問題で「ウロボロスの蛇」なんてこといわなくても、「タコが自分の足を食う」という方がネガティブなイメージに限定できるようで、いいたかったことというのは、マスコミ全体で一部のマスコミのミスをあげつらっただけだと、「ミイラ取りがミイラになる」んじゃないの?ということでした。えぇと、結局ことわざを並べただけで何の論証にもなってませんね。まあいいや。
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2007年01月24日 (水) | Edit |
納豆の問題がテレビ業界のみならずマスコミ全体で集中砲火を浴びておりますが、この状況に違和感を覚えるというのは、この情報過多の時代では重要なことと思います。データをねつ造したり言ってもいないことを言わせたりというのは確かにひどいことですが、そうやって問題になったのは、在京のキー局に限っても今回が初めてではありません。なのにマスコミ各社ともどうして鬼の首を取ったような報道ができるのかってのが、まず感じる違和感です。言論の相互チェックなんていう大仰なこと言わなくても、互いに批判し合うことで緊張関係が生まれて客観的な事実が放送されるならその意義も期待できますが、お互いに視聴率とか売り上げが上がるからというだけで、お互いにミスを食い合っている状況というのはウロボロスの蛇みたいなことにしかなりません。今回の問題がここまで大きくなったのは、納豆という食品の成分やその効果がある程度科学的に分析されているので、それを批判する側がかなりの確証をもって例の番組を叩くことができるからなんでしょう。

さて、みのもんたの視聴率稼ぎが夜にも進出しているわけですが、マスコミ各社さん、早くこれをねつ造で叩いてくださいな。夕張市に限らず国とか地方自治体の財政っていうのは制度の束が複雑に絡み合って成り立っています。そんなわけですから当然、地方自治体が破綻した原因というのはそんな簡単に一刀両断に特定できる代物ではありません。番組でも取り上げられているような国の景気対策の公共事業とか豪華な観光施設とかが一因だというのは真実でしょう。だからといって、その事業主体だからという理由だけで市役所が叩かれるのはお門違いも甚だしいわけで、事業主体とその事業を決定する主体が違うからこそ、国の景気対策として公共事業に付き合わされたという話にもなります。国の景気対策としての公共事業に責任があると認めるなら、その責任を市役所に負わせるという話は酷だよなあと思うわけです。納豆みたいに証拠を挙げづらいからってなんとなくそれらしいことを言えば批判になるというのが頭の痛いところですね。

これに追い打ちをかけるのが、市役所職員が半分近く辞めることについて「公僕に身を捧げたなら辞める前にやることがあるだろう」というみのもんたの言い分ですが、以前は「公務員が多すぎる」とか「給料が高すぎる」なんてことを言ってた舌の根も乾かないうちによく言えたもんです。しかも市長に直談判して言うことといえば「一人暮らしの老人を一軒一軒回れ」なんていう辺りは、公務員に勝るとも劣らないコスト感覚のなさです。

大変な仕事をやる人材というのは労働単価が高いわけで、医者とか弁護士の給料が高いのはあまり文句を言われないのに、銀行員とか公務員とかのサラリーマンってのはそんなことお構いなく、給料が低くても仕事できると考える人がこの国には多いんですね。商社やマスコミとかの給料が高いのには誰も文句を言わないのが不思議なところで、銀行員や公務員の給料の元手が預けた金だったり税金だったりするので敏感になるというなら、商社が扱う商品は商社の社員の給料分だけ値段が高くなっているわけだし、マスコミのスポンサーが払う広告料だけ商品の値段も高くなってるんだが。その給料の高さを考えれば、公務員の微々たる給料なんかよりもその効果は大きいかもしれない。商社の皆さんとかマスコミの皆さんが、「我々の給料を下げるから夕張市で販売する商品の値段を下げてください」とかいう話があれば、…なんてことあるわけないか。

しかも番組のクライマックスは、あの『平成三十年』ですよ!堺屋太一は経済企画庁長官だったし通産省官僚だったけど、彼の現状認識とか経済政策なんてのは上のリンク先でネタにされるようなものなわけで、これで危機感を煽ってしまうようなTBSは納豆問題のときの関西テレビみたいに謝罪会見を開くべきでは?この問題を取り上げ始めたころは、夕張市密着でお涙ちょうだいの壮大なプロジェクトにしようという魂胆がTBSとみのもんたにあるようにみえたんだけど、ことが市役所職員の退職とか財政援助とかシビアな話になってくると手のひらを返し始めましたな。さっきの番組で国の支援を求めた老人に面と向かって「それは違う!あなた達の問題だ!」なんて言い放つみのもんたが、昨日の朝の朝ズバでは、生出演した菅総務大臣をやり玉に挙げて「財政支援するという約束を取り付けましたよ!」と得意気に言ってたというのはどう理解したらいいのかね。あんまりべったりすると助けてくれと言われかねないから、「国が支援するっていってるから」なんて言いながらこれ以上は番組として深入りしないつもりなんだろうなあ。

2007年01月23日 (火) | Edit |
さまざまな感慨を巻き起こしている宮崎県の次期知事さんですが、やはり同業者としては宮崎県庁職員の皆さんに同情を禁じ得ません。別に次期知事さんの経歴を問題にするつもりはありませんし、直接お会いしたこともない方の人物評までする気も毛頭ありませんが、現時点では選挙戦に勝利した政治家としての力量のみが実績としてあるだけであって、数千人の職員と多岐にわたる業務を所管する組織を運営する手腕は全くの未知数であるというのは、下で働く者にとっては不安でしょうがないでしょう。

もちろん、いい方に転んでくれるなら万々歳ではありますが、悪い方に転ぶ可能性が否定できない以上は当面の業務は探り探りやるしかないでしょう。地方自治体の役所の仕事っていうのは良くも悪くもルーチンワークが大半なわけで、トップが変わったからといって業務が滞るほどセンシティブなものはあまりないとしても、トップが変わると意志決定のルートや手法が変わってしまうということは往々にしてあります。よくあるのが「こんな細かいことまでボスが見るのかよ」とか、逆に「前のボスだったらこういうの気にするんだけどほっといて大丈夫かな」というように、トップの判断を要する(とトップが考える)案件の軽重が変わってしまうこと。下々で働く身にとっては、ボスの手を煩わすことは組織全体のリソースを食うことになるし、そもそもこっちもいちいちボスのご機嫌を伺う手間をかけるわけにもいかず、重要な案件をいかに効率よくより上位のボスにあげていくかという勘所が重要になる。キャリアを積むっていうのはそういう組織内での立ち回りを覚えることが重要な要素になるっていうのは、ある程度の規模のある組織であれば民間でもそう変わらないんじゃないかと思うけど、そうやって積み上げてきたものがトップが変わることでガラッと変わるというのはなかなかに大変なことではあるわけです。

そういう目線で次期知事の発言なんかを聞いていると、そもそも芸人として弁の立つ方ではなかったことからするとそんなに意外でもないんだけど、組織のトップとして人を動かすには少々物足りない印象でした。殿が絶対的な立場にある軍団で長年芸人として活動してきたというのは、そういう組織に置き換えてみるとボスの立場ではなく中間管理職だったんだろう。しかもここ数年は、そういう軍団や芸人としての活動よりも学生生活が中心だったということからも、特に次期知事が組織の運営に卓越しているということはないと思われる。そうなると、次期知事による上記のような重要案件の軽重を判断する基軸が、県庁のような歴史の長い組織で培われたものと乖離する可能性は十分に考えられるところ。ここ数年の行政運営ではガバナンスとかコンプライアンスっていうのが重要視されているので、宮崎県庁内でも情報公開とか危機管理という面ではある程度整備が進んでいると思うんだけど、まあそもそも今回の選挙が前知事による官製談合が発端ということを考えると、次期知事はこの点から手を付けてくることも大いに予想されるので、宮崎県庁内はしばらく混乱が続くんではないかと思われます。手っ取り早くいえば、前長野県知事時代の長野県庁のように、知事と職員の意思疎通の混乱が予想されるということ。

もっと率直に言ってしまえば、大学で猛勉強したというのが売りという割には、マニフェストにしてもインタビューに答える言葉にしてもこなれてない感じがする。政治に関しては素人なのでしがらみがないことを強調する意図もあるのかもしれないけど、よく言えば学者風でもあり、悪くいえば学生のレポートっぽいんである。その辺は芸人としての力量が如実にでてしまってるんだろうかと考えると、冒頭で問題にしないといった経歴が今後いろんな意味で効いてくるんじゃないかと思われます。というのも、現職にある閣僚とか審議会の会長の適格性について、そのメルクマールとして肝心の政策よりスキャンダルを重視するマスコミとか世論とかが、叩けばいくらでも埃の出るであろう次期知事にいつ手のひらを返してもおかしくはないわけで、そうなった場合に素人としての立場を強調したことが仇にならないだろうかと考えてしまいます。そういった不確実性が高まるという意味では、宮崎県政の前途はなかなかに多難そうです。

2007年01月14日 (日) | Edit |
油断して「から騒ぎ」見ようとしたらジェネジャンやってるじゃないですか。このブログの初期でも取り上げているけど、これを討論なんて言っちゃだめですよ。あくまで意見を言い合うショーであって、何かを生み出す議論じゃないってことは肝に銘じていただきたいもの。まあ何も生まないならどうでもいいんだけど、この手の番組って負のカタルシスをまき散らして終わってしまうので、見るときには気をつけないといけませんな。

そうは言っても「体験談」としてはとても貴重なものが聞けることはあるので、こうやって文句は言いつつ見てしまうわけです。しかし、今回のテーマの性というのは、水谷修さんとかが直面する問題の深刻さとか根深さを見ても、たかが一時間やそこらの討論で解決策が見いだされるわけもなく、結局は冒頭の話にループバックしてしまいました。

そんな番組の裏では義家さんが香取慎吾の番組に出てました。この義家さんの主張による「いじめで出席停止」というのが教育再生会議の第一次中間報告に盛り込まれるそうな。以前取り上げたとおり、いじめ問題でまずその責任を問われるのは学校でも教育委員会でもなくいじめた張本人なのであり、その点を明確にしたことは大いに評価したい。ただし、義家さんも「乱用しないことを示せば、会議で最終的な合意を得られるだろう」と言っているとおり、出席停止がいじめた張本人の責任を問う以外の目的で運用されることがないよう細心の注意が必要。

というのも、いじめってのは隠れてされるものである以上、刑法で言えば名誉棄損と同じように親告罪として手続きが始まることになると考えられるものの、現場を押さえない限り状況証拠と自白以外に立証することができない。一歩間違えば、悪質ないじめっ子が「あいつにいじめられた」と主張しても、学校側はその真偽を判断する術がないという状況は大いに考えられるところ。これをさらに悪用して、いじめられた側に「あの子にいじめられた」と親告されたのに対抗して、いじめた側が「あんなことをいって、あいつが俺をいじめてるんだ」なんて言われたら学校側はどうするんだろうか? そういう双方の主張を整理して判断するために憲法で裁判という制度が規定されていたり刑事訴訟法とか民事訴訟法という手続き法が制定されているわけで、要は片方だけの主張では公権力による財産や身体に対する制限は加えられないことになっている。この原理に従うなら、いじめたと主張された側にも反論の機会が与えられることになるとは思うんだが、学校がそういう手続きに追われる場になるというのもどうなんだろうかと思ってしまう。

これに似たことがめちゃイケの演出に対する高野連の批判にも通じるわけで、真夏の過酷な状況下で将来を嘱望される逸材に連投させて肩を壊すような大会を主催しておきながら、「教育の一環」なんて強弁を張ってたかがバラエティ番組に抗議文を送る神経がどうにも理解できません。まだ発育途中で健康であれば何億もの報酬を得られるかもしれない体を酷使する日程を組む高野連と、宿舎に行っておもしろいことをするのとどっちが高校生を「いじめている」ことになるのでしょうかねえ。この記事では「私たちは子供たちを守る立場ですから」という殊勝なことも言っているようだし、早々に春と夏の高校野球の日程を改善していただきたいものです。

2007年01月05日 (金) | Edit |
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。このような片端のブログではありますが誰ともなくご挨拶申し上げます。

年末年始のシーズンというのは、一年を振り返ったり一年を展望したりと、割合と大きな話をしがちなシチュエーションが多いもので、テレビなんかを見ていてもおなじみの田原総一郎の討論番組とか、いいたいことをいう番組がたくさん流れておりました。その中で気になったことというのが今日のお題。

まず年末特番では、スピリチュアルな方々が戦後日本の問題点をいろいろと指摘されていた番組がありました。毎度正確な発言内容までは覚えてないんですが、曰く、
「戦後の日本はあまりに貧しくて、食べることばかりを優先して文化をすべて破壊してしまった」
というようなことをおっしゃっていたかと思うと、
「経済成長のために生活がどんどん便利になってしまって、感性が麻痺してしまっている」
ということもおっしゃっていたわけです。

う~んと、貧しいときには文化が破壊され、経済的に豊かなときには感性が麻痺するというのであれば、どのような経済状態ならば人間は「豊かな」生活が送れるのでしょうか?
といっても言い掛かりをつけようというのでは全然なくて、ある個人の状態に注目するなら、貧すれば鈍するよりは豊かであれば感性を磨くという選択肢が与えられるわけだから、経済成長の方が望ましいと思うんだが、スピリチュアルな世界ではそんなことはないんだろうかという素朴な疑問を持ったということ。

社会の発展の仕方が国それぞれで違うということは、それぞれの発展の仕方がこの世に存在する必要があるってことなんだろうか? お隣の独裁国家やちょうど年末に執行があった独裁者などもその存在には理由があるんだろうか? そもそも経済学的には経済成長がなければ豊かな生活を享受できないということは自明なことになっているのに、それすらスピリチュアルな世界では否定されてしまうというのでしょうか?
まあ、あくまで和服の男性が「便利さの代償」という文脈で話していたので経済成長そのものを否定する趣旨ではないと思うんだが、天草四郎の生まれ変わりの方があまりに経済成長を悪玉にするのでちょっと気になったということでした。

気になったことはもう一つあって、青色発光ダイオードで有名な中村さんが、教育改革は個性の尊重が重要なので大学入試を廃止すべきと主張されていました。大学入試にいろいろな問題があることは確かにおっしゃるとおりだけど、その大学の後に控えるのが就職なわけで、そっちを変えないとその趣旨は貫徹しないことになる。ところが、就職において学歴を重視するのは情報の非対称性に起因するシグナリングの機能を学歴が果たしているからであって、制度がどうのこうのというより、世の中はそういうもんだと割り切ることが現実的な気もします。さっきのテレビでの中村さんの主張は、「社会人になっても大学で勉強できるように、ウルトラクイズみたいな大学入試がなくても大学に入学できるようにすべき」ということと理解したけど、少子化の進展で生き残りをかける大学はだいぶ前から社会人の取り込みに必死なわけで、その点だけでいうならある程度は実現してるし。
といっても、中村さんはもっと大局的に成果が評価される社会というのを志向されているんでしょうから、結果的にそうなるなら手段は問わないという立場なんでしょう。

科学的に偉大な発明をされた方であっても教育問題とか経済に精通しているとは限らないはずですが、こうやって年の初めに断言されてしまうとなんとなくそういう気になってしまうものですなあ。気をつけよっと。

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