2006年11月18日 (土) | Edit |
あいもかわらず地方自治体のスキャンダルは後を絶たないようで、今週も逮捕者がでてしまいました。この木村(前)知事という人は、改革派知事の一人として「緑の雇用事業」を全国に先駆けて導入したりと、いろいろと見所はあったと思ってたんだけど、大阪府出身で地元に地盤がないことが仇になって地元の有力者につけ込まれてしまったという側面もあるみたいです。それにしても公職選挙法の適用のある知事が「当選祝いとしてもらったが、中国の陶器『唐三彩』で返しをしており、問題はない」というあまりにお粗末な弁明しているところをみると、時計収集の趣味が高じて目がくらんだ可能性もあるようで、趣味って怖いですな。これで、梶原前岐阜県知事(は逮捕されてないけど)、(道州制反対で個人的に高評価の)佐藤前福島県知事に続いて「改革派知事」にみそが付いた格好になったわけで、何をもって「改革派」というのかよく分かりません。


そんなよく分からないことは後でゆっくり考えるとして、先週しつこいくらいに「教育」「教育」ってフジテレビがいっていたので、先週土曜日の「たけしの日本教育白書」を録画して倍速再生しながらチラ見してみました。肝心の教育の方はあまり収穫はなかったものの、それより一番ショックだったのは北野武の前時代性がこれほどひどかったのかと思い知らされたこと。何よりそれを際だたせていたのが、ビートたけし直系の芸風を独自に進化させた爆笑問題の太田光というのが、歴史の皮肉というもの。

もう消去してしまったので正確な発言内容は忘れてしまったけど、確か現役の(という言い方も変だけど)小学生とか中学生が討論していた内容が妙に達観している様子を見た後で、北野武が
「この子供たちは目に見える社会をそのまま受け入れていて自分で何も考えていない。そういう機械的な人間を次々に作り出して、国民が何も考えられなくなっている隙に、官僚が天下りしていって好き放題にやってしまう国になるんじゃないか」
といったんです。

実はこういう理屈は、北野武の看板番組の一つである「TVタックル」ではよくあることで、そこでの発言との整合性を考えての発言というなら、それはそれで公共の電波を使った発言主体として誠実な態度と評価できる。しかし、ハマコーとか三宅久之とかが実質的な議論を引っ張っている「TVタックル」との一番の違いは、「たけしの日本教育白書」では北野武が芸人の頂点に君臨する「キングオブ芸人」として出演していたこと。このことで、北野武という人物は巷間いわれるほどの理論家ではないことが露呈してしまったといえるんじゃないか。もともと「TVタックル」でもほとんど発言機会のない北野武がいうことといえば官僚批判がほとんど。目の間に政治家がいて、官僚批判ばかりする評論家連中の話をさんざん聞いていれば仕方のないことかもしれないが、それに無自覚であるとしたらそれはちょっとまずい。

芸人というのは人間観察のプロだと個人的に考えているけど、制度や組織というのは人間個人とその行動の複合体であるので、それを笑いにするためにはかなりの知識とそれを操るリテラシーを要する。要は、いじりにくいのである。それをやってしまったのが太田光のすごさであるが、そこにキングオブ芸人たる北野武が「TVタックル」仕込みの官僚批判を繰り広げてしまったもんだから、誰もつっこめず野ざらし状態となってしまい、まさに裸の王様である。

逆に言えばこの北野武のステレオタイプぶりこそが北野武の人気の理由でもあるわけで、太田光もそこでは一歩引いてしまっている感があった。しかし、それこそが太田光の同時代性と北野武の前時代性の違いなわけで、太田光は常に世の矛盾を笑い飛ばしながらもその当事者の「やるせなさ」とでもいうような悲哀は意識しているように見える。それに対して北野武は、所与の制度の矛盾点を笑い飛ばすことはしても、そこにある被害者の視線を意識することをやめない。つまり、北野武には巨大な国家に対する畏怖やそれ故の反抗心が根強く巣食っており、それを笑いや映画で表現しながら被害者としての自己の立場を安定化しているのではないかと考えられる。一方で太田光には、制度や組織が人間行動の集合体であることを見越した上で、そこには被害者だけではなく加害者の悲哀も見て取るのである。

ややこしい言い方になってしまったけど、簡単に言えば北野武が事件や制度の影にある被害者にのみ関心があるのに対して、太田光は加害者にも等しく焦点を当てて、その被害者と加害者の分岐点を自在に操ってみせるのである。誰もが被害者であり加害者であるという、誰もがわかっていながら認めたくない事実をおちょくって見せられてしまうと、太田光の発言を笑うしかなくなってしまう。いじみくも太田光は、
「たけしさんの時代までは、建前としてまじめにやっている青春映画があって、その本音を言ってしまうことにおもしろさの発見があったけど、今の世代はまじめな建前がなくていきなり本音から入ってしまう。建前が大事だということが忘れられている」
ということをいっていたが、俺なりにその発言の背景にある心情を推測すると、(本人が意識的にそうしようとしていうるかどうかわからないけど)建前を否定するのではなく建前と本音が紙一重だということを笑いにしてみせることで、太田光は「たけし越え」をしようとしているんじゃないかと思う。だからこそ太田光は、「憲法九条を世界遺産に」なんていいながら建前についてはまじめに語ろうとするのだろう。北野武がまじめなことについては照れくさそうに青臭い正論しか語らないのとは対照的である。

数多い北野武チルドレンの最高峰として進化を続けた太田光は、この点に限っていえばついに師を越えたといえるんじゃないか。その先どうなるかは凡人の俺には想像もつかないけど、お笑いの世界にとどまってほしい「逸材」ですなあ。
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2006年11月05日 (日) | Edit |
 前回取り上げた未履修問題とともにいじめ問題が大変なことになっております。未履修問題のときは学校側の立場で考えてみましたが、今回は教育委員会の立場で考えてみましょう。

 まず、文部科学省のサイト「教育委員会制度について」で教育委員会とは何かを確認しておくと、[教育委員会制度の意義]として(1)政治的中立性の確保、(2)継続性、安定性の確保、(3)地域住民の意向の反映が、[教育委員会制度の特性]として(1)首長からの独立性、(2)合議制、(3)住民による意思決定(レイマンコントロール)があげられているとおり、中央集権的といわれている教育委員会の制度が実は、(あくまで制度上は)独立性や中立性、地域性の確保などを主眼にしたものということになります。

 しかし、岐阜県の事件での教育委員会の対応は、地域の住民である生徒やその親の意見を反映していたとは到底言えない状況のようにみえます。となると、問題はその制度の意図と実態が乖離してしまっていることとなるわけですが、なぜそのような状態になってしまうのでしょうか。現在問題となっているいじめに関して考えてみると分かりやすいのですが、教育委員会の行動においては訴訟リスクが大きな要因となっていると考えられます。つまり、岐阜県の事件のようにいきなりいじめが原因だったと認めてしまうと、のちに訴えられたときに逃げようがなくなる可能性がのです。

 報道では「学校側」という言い方がされますが、訴訟が起きた場合の当事者は、学校ではなく「学校設置者」となります。つまり、訴訟においては、現場としての学校と都道府県や市町村の教育委員会が訴えられることとなり、したがって、学校側の責任が認められた場合に支払われる賠償金は税金が原資となります。税金の支出がそう簡単でないことは誰もが認めることでしょうけれども、賠償金を予算として計上する教育委員会が賠償責任を認めないよう慎重に対応することは当然のことです。したがって、簡単に責任を認めた校長に対して、教育委員会は「責任の所在は裁判で明らかにするのだから、発言を撤回してでも現時点では責任の所在を認めるな」と指示を出すことは想像に難くありません。

 今回の学校側の対応を批判する方々に一度よく考えていただきたいところですが、どんな凶悪犯であっても裁判が確定するまでその責任は確定しません。なおさら「自殺」ということであれば状況証拠からしかその原因を探ることはできず、責任の所在を特定することは通常の犯罪よりも困難になるはずです。つまり、いじめのような証拠の残りにくい問題を解決するためには、誰が責任を取るのかではなくどうやってそれを調べるかをまず考えなくてはなりません。

 学校側、この場合であれば賠償金を支払う可能性のある教育委員会が「事実を確認するまで責任を認めない」という方針をとったことは、上記のような訴訟における支出のリスクと事実確認の困難さを考えるなら合理的といえます。しかし、冒頭で確認した教育委員会の制度と合わせて考えると、教育委員会の現場では相当なジレンマがあったであろうことが想像されます。教育委員会として地域の住民である生徒や保護者の意向を尊重するか、地方財政の執行者として責任を認めてしまって損害賠償を支払う根拠を与えてしまうかという二律背反に苛まれていたのでしょう。それが、いじめに関する学校側(現場の学校と教育委員会を含む)の見解が二転三転した要因であったのだろうと考えられます。

 しかし、これを生徒の側から考えてみるならばまた違った様相を呈することになります。同級生が自殺したとき、正直に「私がいじめました」と名乗り出るような殊勝な生徒ならそもそもいじめなんて卑劣なことはしないと思われます。学校が調査すれば、いじめた生徒に対する制裁が与えられると予想される以上、いじめた生徒は沈黙を守ろうとするでしょうから、実態を明らかにすることはそう簡単なことではありません。そんな事実確認もできない状況で、学校側が自殺した生徒の遺書のみをもって「お子さんの自殺の原因はいじめです」と断定したならば、学校側はその原因を特定する、すなわちいじめた生徒とその行為を特定しなければなりません。ますます学校が犯人捜しに躍起になる中で、いじめた生徒がさらに沈黙する可能性も考えられます。

 以上を考え合わせると、真相を明らかにしようとするなら、対外的には「いじめはなかった」としながら生徒が自ら事情を話すよう促す必要があり、一方では上記のような訴訟リスクの不確実性および事実確認の困難性もそれを補強します。すなわち、教育委員会のとりうる望ましい対応として、「事実が確認されるまでいじめの事実を認めず、学校としての責任を認めない」となる場合も十分に考えられるのです。

 しかしよく考えてみると、自らは直接いじめに関わっていない学校側だけが責められるのはどうも腑に落ちません。もちろん、いじめが行われていた現場で注意しなかったとか、福岡県の事件のように先生が率先して暴言を吐いていたなどの学校側の作為・不作為が明白であれば別ですが、岐阜県の事件では、報道によればいじめていたのはバスケ部の同級生とのこと。自らの行為で一人の人間が命を失ったことを一番重く受け止めなければならないのは彼らいじめた生徒であることは疑いようがないのに、なぜ報道の矛先はその生徒や直接の保護者である両親に向かないのでしょうか。それが教育委員会としての、いじめた生徒とその保護者を含む地域住民に対する配慮の結果であるなら、教育委員会にとっては切ないものです。