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2006年09月20日 (水) | Edit |
この項目は予定を変更してとあるブログ主さんとの議論を掲載します。

その前にざっと経緯をまとめておくと、以前このブログでも取り上げたとあるブログの閉鎖問題についての見解の相違から派生したものです。その論点についての議論ははそのブログ主さんのブログをお借りするのが筋と考えて場所をお借りしてきましたが、今回からは論点が別になっているので、当方のブログで展開することにしました。トラックバックという性質上これまでの文体と若干変えてますが、まあご了承を。

#これまでの議論についてはこちら。
知識人の品性とは何だろうか~ある大学教師のブログ「閉鎖」を巡って
知の欠陥を悟れ!~人間を知らなすぎる‘知’の職人たち①~
「知の所有」という僥倖~人間を知らなすぎる‘知’の職人たち②~
「知」の反逆児たちよ!~人間を知らなすぎる‘知’の職人たち③~
「知」の逆鱗に触れる!~人間を知らなすぎる‘知’の職人たち④~
「知」の相対化を目指せ!~人間を知らなすぎる‘知’の職人たち⑤~(当方のコメントはここから)
12日エントリーのコメント欄に応答します
コメントに答える(2)

>shojisatoさん

再度コメント(コメントに答える(2)9月14日コメント)をいただき大変ありがたいのですが、
>私の伝え方の不足を深く省みなければならないかもしれません
とおっしゃるからには多少なりとも私の疑問に対してご説明を補足いただけるかと期待したものの、世の中それほど甘くはないのですね。仕方がないのでこの点は諦めるとして、ブログ閉鎖問題からだいぶ論点が移行しており、こちらから場外乱闘を仕掛ける形になってしまい大変恐縮ですが、政策の理論的裏付けについてのみ再論させていただきます。

まず前回の「人道的」という言葉は、あくまで当方の見解を整理するために「たとえば」という注釈つきで事例をお示ししたに過ぎませんので、今回の議論の文脈とはいったん切り離してお考えください。shojisatoさんからお示しいただいた畠山先生の著述については毎度不勉強ながら未読ではありますが、ネットでの書評などを漁る限り、マイケル・リプスキーの1980年の著作(日本語訳は田尾雅夫、北大路信郷訳『行政サービスのディレンマ―ストリート・レベル の官僚制』(木鐸社、1986年))によって「ストリートレベルの官僚」という言葉で定式化された問題を日本の官僚組織に沿って検証されたもののようですね。時間がとれず畠山先生の著述に当たることができないので間違っていたらご指摘いただきたいのですが、「ストリートレベルの官僚」について認識しているかとの問いであれば、行政学の標準的な教科書に載ってる言葉でもあり、何より私自身そうですので、そういった論点は一応意識しながら議論しております。

shojisatoさんの論調から推測するに「理論」という言葉のために「身体性を無視した」冷徹な政策を志向するような誤解を生じたようなので、これを当初使用した「正当性・妥当性の検証」という言葉に言い直すと私の立場をご理解いただけるのではないかと。つまり、「ストリートレベルの官僚」問題と政策の正当性・妥当性の検証(これが私のいう「理論」です)の関係については、こちらの論説(ここでは「政策形成の客観性」という言葉が使われてますが)にもあるように、それらは互いに牽制しあう弁護士と裁判官のような関係であり、現実の政策の根拠がどちらからに偏るべきではなく、そうならないような組織的・制度的インフラや人的資源の整備が必要です。このような両者がバランスを失していることを批判されるというのならおっしゃることも理解できるのですが、どうやらどちらも「人間を知らない」というような(疑問にお答えいただけないので私には未だその個別具体的な根拠が不明な)くくり方で批判されているようなので途方に暮れてしまいます。それぞれ短所長所がある以上、それらを組み合わせて次善の策を採ろうという政策担当者についてそのような一方的な評価をされるというのはあまり公平な態度ではないように思います。

私の拙い意見では認知的不協和を解消できないのでしたら、正当性・妥当性の検証の政策への適用問題について、「公務員の(ための?)社会学」というサイトの「「社会学」なんて使えるの?」という項(ここでは主に「社会科学」という言葉が使われておりますが、学問的知見による裏付けという意味で私の想定する「理論」と同義です)によくまとめられていると思いますので、ご承知かも知れませんが、ご参考にしていただけると幸いです。その項では法学・経済学以外の学問の政策を巡る現状について言及がありますし、別項では「ストリートレベルの官僚」問題も取り上げられていますのでご覧ください

※なお、いうまでもありませんが私もこのサイトの記述に全面的に同意するものではないので、このサイトの記述についての議論はご勘弁ください。とはいえ、「昇進試験」の項の記述の詳細さからするとこのサイトの作成者はかなり公務員の内情に詳しい=役人の立場に近い方のようですので、shojisatoさんからすればやはり異論はあるでしょうけれども。
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2006年09月11日 (月) | Edit |
 前回不謹慎にもおもしろいといってしまった岐阜県の裏金問題についての報告書だが、何がおもしろいかというのは後半にとっておいて、この週末に飲酒運転が続発した件について一言。

 今朝の目覚ましテレビによると、この週末に発生した飲酒運転が19件でそのうち8件が公務員(県職員、市町村職員、消防署員)とのこと。率直に申し上げて同業者として情けなく思う。俺自身は飲酒運転したことはないものの、飲酒した友達(民間企業勤務)の車に乗せられたことがある。地方都市は、特に夜になると交通手段がないこともあり、タクシーや運転代行だと1万円近くかかようなところに住んでいるその友達は、市街地で飲んだら飲酒運転で帰るのが当たり前になっているとのこと。逆に言えば、俺の実家がたまたま市街地に近くて歩いて帰れるところ(といっても歩けば小一時間かかるが、腹ごなしと酔い覚ましにちょうどよかったりする)だったので、飲酒運転する必要に迫られなかったのが幸いしていただけで、その友達と同じ境遇だったら飲酒運転しなかったとは言い切れない。そういう意味で地方で飲酒運転事故がなくならないのは本当に難しい問題ではある(俺だっていくら歩いて帰ったところで飲酒運転の車に吹っ飛ばされたらお手上げなわけで、なんとかならないかと痛切に思う)。

 しかし、今回の問題はなぜ公務員はそんなに飲酒運転するのかということ。俺の勤め先は何年か前に飲酒運転は有無をいわさず即懲戒免職という方針を打ち出したので、飲酒運転で捕まったという話は滅多に聞かないが、近隣の市町村職員の飲酒運転は結構な頻度でニュースになっている。よく言われるのが、市町村は地域密着の仕事がメインなので地元のつきあいが多く、しかも上記のように市街地から離れたところに住んでいる人は車で出勤しているから、どうしても車で帰らざるをえないという話。今週末にこれだけ飲酒運転が多かった理由としては、ちょうどいまが秋祭りシーズンだったという理由も挙げられるかもしれない。にしても、19件中8件が公務員関係というのはさすがにひどい。

 ま、俺も含めて公務員なんてそもそも就職先の一つに過ぎないわけで、たまたま試験に合格した公務員全員が聖人君子である必要はないしそれは無い物ねだりというもの。福岡市の悲惨な事件を引き起こすような、そしてそれが問題になっている最中に飲酒運転するような公務員が制度の運用を担当するのは、単に人材が不足しているだけという見方も可能でです。立派な公務員がほしければ、そう思ったあなた自身が役所に入って改革していただきたい。それが年齢的に無理ならあなたのご子息でもいいから聖人君子として立派に育て上げて役所に送り込んでいただきたい。これは皮肉でもなんでもなく、努力はしているものの自分を含めあまりに低付加価値な人材が多い(それだけ優秀な人材は中央に集中している)という現状を踏まえ、中の人として切に願うところです。



 なんてことを書いておきながら、岐阜県の報告書がおもしろいのは中央官僚出身の前知事、前副知事とそれに連なる幹部連中がすべて悪いといわんばかりの論調となっていること。その背景にどれだけの相互不信があったのまでは知るところではないが、中央官僚出身という点では大差ない俺の勤め先はどうなんだろうと、我が身を振り返らずにいられないほどにその叩きぶりが鮮明になっていておもしろいのである。

何点かピックアップすると、まず、梶原前知事と森元前副知事(旧自治省、現参院議員)の姿勢について、引用が長いが、

なお,平成9年3月14日の定例会において,梶原前知事より平成8年2月に8所属,平成9年2月に14所属について旅費の抜き取り検査を実施したが不正な事例がなかった旨答弁しているが,各所属に不正経理に対する規制が働くようになっていた結果であり,過去の実態を精査したものではなかった。そのため,これまで不正経理がなされてきた事実や,これによって各所属にストックされている資金については,調査さえ行われることなく放置されることとなった。
このように,不正経理に対する岐阜県の姿勢は,慣行として行われていた不正経理の実態を解明するのではなく,これに蓋をした上で規制を強化することによって,不正経理を将来的になくす方針をとったのである。
ところで,平成8年度に三重県や愛知県などの近県で不正経理が次々と明るみに出て実体解明が進んでいたことから,梶原前知事も,岐阜県でも総点検すべきであると考えていた。ところが,平成8年3月に自治省から赴任してきた森元元副知事は,問題が表面化する前に知事がイニシアティブをとって総点検すれば,知事のために苦労してきた職員から批判が起きたり職員の動揺や相互不信などが生じて県庁全体が混乱すると考え,梶原前知事に対して,梶原前知事の出張旅費の一部に不正経理による資金が使われているとの一例を挙げて庁内事情を説明し,事態の推移を見守ることを進言した。その結果,梶原前知事もこれを了承し,暫く様子を見ることになった(梶原前知事は,森元元副知事との間で前記のようなやり取りはなかった旨述べているが,森元元副知事の供述は,極めて具体的かつ自然なものである上,梶原前知事が現にその頃に不正経理資金の存否について徹底的な調査をしなかったことも事実であって,同供述の信憑性は高いと考えられる)。
そうすると,森元元副知事の梶原前知事に対する上記進言がなければ,また,梶原前知事がこれを了承せずに徹底的な調査を行っていれば,今日の事態を招かなかった可能性が高く,当時の両氏の決断はきわめて重大な意味を持つと考えられる。
(「不正資金問題に関する報告書」平成18年9月1日プール資金問題検討委員会p15~16)


と容赦ない。ここでおもしろいのは、梶原前知事がそのやりとりを否定しているのに対して、森元前副知事が具体的かつ自然に供述とされていること。森元前副知事からすれば自分の発案であったとしてもそれを認めたのは梶原前知事とすることで責任を回避するねらいがあるだろうし、梶原前知事はそんな話は聞いていないと主張することで関与を否定しているわけで、お互いの魂胆が見え見えである。しかしそうであるならば、梶原前知事が調査しようとしたという抗弁は誰の主張によるのかは不明だが、梶原前知事にとっては結果として調査しなかった以上免罪符になり得ないので、調査しようとしたと主張する意図がちょっとわかりにくい。

この点について、

梶原前知事は,国及び自治体において不正経理による資金づくりが慣行として行われており,岐阜県知事になった平成元年当時もそうした資金が存在しているであろうと推察していたが,知事就任後,不正経理資金の元をなくすために官官接待の是正などの措置を講じてきたので岐阜県では正常化していると思っていた旨述べている。
(同p17)


という部分では、梶原前知事は、「岐阜県では正常化していると認識していながら不正経理調査しようと思った」と述べていることになり、理屈が合わない。そもそも官官接待を是正したからといって裏金がなくなるわけではないんだが。

ということで、この報告書では、

これらの状況からすると,梶原前知事は,不正経理資金が依然として存在する可能性があることは認識しつつも,対策を取ってきたから不正経理はないはずであり,あるかどうかは関知しないが,もしあれば厳しく処分するという態度を通してきたものと推測される。(同p19)


と梶原前知事の心情を認定している。
 しかしねえ。あるかどうかは関知しないといっている時点で裏金を黙認しているわけで、要は「やるなら隠れてやれよ」といっているのと同じである。スナックのマスターなら「ものわかりのいいオヤジだぜ」と不良から尊敬のまなざしで見られるかも知れないが、それとこれとは訳が違う。

と、ここまでは発案した森元前副知事が元締めであり、梶原前知事はその話を聞いていないという構図を描いておきながら、この報告書は森元前副知事以下幹部職員の行為をこと細かく事実認定したうえで、

当委員会が同人ら(管理者注:森元前副知事以下の県庁幹部及び組合幹部)にも増して重大な責任があるのと考えるのは,梶原前知事である。すなわち,梶原前知事は,不正経理資金を職員組合に集約することまでの報告は受けておらず,職員組合への集約の事実を知らなかったであろうと思われる。しかし,それ以前に近県で不正経理資金が明るみに出て問題になっていた頃に,梶原前知事が岐阜県においても不正経理資金について総点検すべきであると一旦は述べたけれども,森元元副知事から,問題が表面化してからならともかく,表面化する前に知事がイニシアティブをとって率先して総点検すれば,知事のためのホテル代等の捻出等に苦労してきた職員から批判を受けたり,職員の動揺や相互不信等が生じて県庁全体が混乱するため,暫く事態の推移を見守るべきであると進言され,結局は,これを了承したものである。
(同p38)


としている。この部分は判決文で言えばいわゆる判断の部分であり、上記までの引用は事実認定の部分である。つまり、事実認定ではどちらに責任があるのかは曖昧なままにしておきながら、判断では梶原前知事がもっとも責任重大であると断じているのである。

俺が違和感を感じるのは、ここに何らかの取引が存在したのではないかということ。梶原前知事に責任を収束させることで、森元前副知事以下の幹部への波及を防いでいるのではないかという気がするのである。つまり、この報告書をまとめるに当たってまさに当時の最高責任者である梶原前知事や実施した当事者である森元前副知事がその内容を知らないとは考えにくいわけで、落としどころとして梶原前知事に責任を収束することで事態の収拾を図ったんじゃないかと思われる。この後の部分で刑事告発の可能性についても検討されているが、時効の問題もあって刑事告発できるのは数人に限られるとのことで、そうなると誰かを人身御供にしなければならない。それがちょうど引退した梶原前知事だったのではないか。というより、この時期に裏金問題の調査が行われるということが梶原前知事の意向を踏まえたものだったのかも知れない。それはそれでひとつのけじめのつけかたかもしれないが、恐らく梶原前知事が思っていたよりも事態が深刻だったのが誤算だったというところか。

いずれにしても、中央官僚から県知事へ転身して「闘う」知事会長として名をはせただけに、地方自治体全体のイメージダウンには十分すぎる。これ以外にもいろいろ唸らされる記述が多いこの報告書、また取り上げてみたい。

2006年09月09日 (土) | Edit |
岐阜県の裏金問題が明るみになって、梶原前知事まで責任問題が広がってきました。これにはやっぱり同業者として突っ込んでおく必要があろうというもの。

まずはじめにお断りしておくが、俺の所属している組織ではこの問題は解決済みである。裏金問題は確かに存在していたが、俺が採用される前のいわゆる全国的な食料費問題のときに、俺の知っている限りはすでに精算されている。なので、なんで今更こんなことしてるんだろうというのが第一報を聞いたときの印象だった。

ただし、裏金問題が発生する背景をきちんと整理しなければこの問題を論じることはできないということは、一般の方々にもご理解いただきたい。裏金というのは、要は表だって使えないことがあるからそのための原資として存在する。つまり、裏金に対する需要があるからこそ、裏金としてプールして供給する必要があるのである。

この点について、岐阜県の「プール資金問題検討委員会」による不正資金問題に関する報告書では、多少引用が長くなるが次のようにまとめている。

このような不正な経理による資金づくりが行われた背景には,その要因として,一方で,正規の予算には計上できないが,当時の県の各所属の業務を遂行していくために必要と考えられていた費用(たとえば官官接待費用,土産代,予算措置が講ぜられなかった備品等の購入費用等)を捻出する必要性があったこと(資金づくりはこのような費用に充てるための必要悪という意識があったと考えられる),他方で,いわゆる予算使い切り主義の予算執行が行われていたため,予算を年度内に使い切る必要があったこと(予算を全額使わず,これを余して返還することになれば,次年度の予算が減らされる可能性が高く,また,その担当者の予算見積もりの甘さを指摘される可能性もあったこと)等の事情により,いわば一石二鳥的な発想で,このような不正な経理による資金が作られてきたものと考えられる。


ここでは裏金(岐阜県の用語を使えば「不正資金問題」となるが)の需要として2点が指摘されている。つまり、

  1. 1.正規の予算には計上できないが,当時の県の各所属の業務を遂行していくために必要と考えられていた費用

  2. 2.予算使い切り主義の予算執行


である。しかし、2は制度上の運用の問題なので少なくとも制度上の改正は可能だろうが、1を根絶することは制度上も実務上もそう簡単ではない。1の内訳については12ページ以降の「費消内容」にまとめてあるが、「(2)職員の費消」は問題外として、「(1)業務に関連した費消(通常の予算では支出しにくいもの)」は、その標題のとおり通常の手続きでは支出しにくいか、緊急を要するのに支出に時間がかかりすぎるパターンがいくつか列挙されている。たとえば、(1)の10、11、12、18といった施設の細かい修繕費や、紙が足りなくなったり会議で使う封筒が足りなくなったりしたときの補充、さらには研究機関で必要になる研究資材や参考文献のような、事前に予測できない経費を予算化することに根元的な困難さがあるのである。組織別にみたときこの傾向がはっきりするが、学校や農業試験研究所のような小規模な組織において、所管の施設を持ちつつ研究したり会議を開催するとなるとどうしても不確定要素が大きくなるにもかかわらず、予算規模は組織に比例して小さくなるので、十分なバッファを確保することができない。その予算上のバッファの代替機能を裏金に負わせることになるのである。

もちろん、(1)の経費でも官官接待とか職員の残業時の弁当代なんてのはすぐになくすべきだし、上記の緊急の支出でも通常の手続きで対応できたものまで安易に支出したものもあるかもしれない。しかし、緊急の場合の支出手続きの不備のためやむを得ない支出までは、それが通常の制度上の不備に起因する以上その制度を前提とする限り解決できない。
ところが、この報告書での「第9 再発防止に向けての提言」ではそういった制度面に踏み込んだ記述が一切ない。かろうじて「4 内部チェック機能の強化・充実」という項があるが、あくまで平成13年9月の「会計事務改革に関する基本的な方針」を前提とした審査・確認体制の強化、検査体制の強化といった会計事務のチェック機能と監査業務の充実という程度にとどまる。つまりここでいっているのは、制度の不備は職員個人の心がけや自助努力で防ぎなさいという責任転嫁である。すなわち、再び裏金問題が発生したときに組織としての責任が回避できるのである。困ったもんだな。

以上が制度上とそれにまつわる運用の問題であるが、この問題は岐阜県特有の事情が見え隠れする。つーか、この報告書とにかくおもしろい!
こういう問題でおもしろいというのは不謹慎とは思うが、随所に前梶原知事に対するそこはかとない報復意識が漂っていていていろいろな葛藤が想像できるのだが、これは長くなるのでまた今度指摘してみたい。


2006年09月04日 (月) | Edit |
ある界隈で有名なブログがプライベートモードに移行した件であちこちで火の手が上がっているんだけど、俺もこの件については黙っていられない事情がある。基本的には学者先生の議論(元公務員も含むが)なので、一介の地方公務員が言えることなんてタカが知れているのは十分承知の上で何を言わなければならないかというと、雇用問題は法制度とかの個別の政策で解決できるもんじゃないということ。

一応備忘録として閉鎖の経緯をたどっておくと、本田先生の「もじれの日々」というブログが炎上(ことの経緯としてはこの言葉はあまり適当ではないけど)してついに本田先生がブログを「閉鎖」(上記のとおり形上はプライベートモードへの移行)したというもの。その炎上の原因は、本田先生がとある会議で某大手企業の役員の「これからは世界の超エリートを採用しないと生き残っていけない」なんていう発言や、さらにその会社では「自分の息子はこの会社に到底入れない」とかウワサされていることを根拠に「これがむき出しの現実だ」と認識されたこと(さらにはご自身の提言される「専門教育」の重要性を改めて認識されているけど、この件では別の次元の問題なのでいったん割愛)を巡る応報です。
※なお、ここで議論に巻き込まれることは俺の能力を超えるので、姑息かもしれませんがこちらからはTBもコメントもリンクもつけません。

こう書いた時点で明白ではあるけど、俺のスタンスは閉鎖した本田先生側とははっきりと相容れないものである。上記の経緯だけでも(これだけだとバイアスがあるとしても)本田先生の認知の仕方に疑問を持つのはそれほどおかしな感覚ではないだろう。当然そのことを突っ込むコメントが濱口先生(この方が元厚労省官僚)とか稲葉先生とか飯田先生から送られることになるわけですが、これに対する本田先生の回答は「責任ある役員の発言だから信頼性がある」といった趣旨の回答しかなかったのが問題の発端。

あちこちで言われていることではあるけど、敢えて繰り返せば「どうしてそんなに簡単に鵜呑みにしちゃうの?」ってことである。そしてそんなに簡単に事実を認定してしまって即座に政策を提言しまうと、その政策は取り返しもつかないほどに歪んでしまうということをもっと重く受け止めていただきたいのである。

そもそもの話から始めると、たとえば俺くらいのぺーぺーの地方公務員なんかが、「今日の会議で企業の役員さんからこんな発言がありました! これは大変です! なんとか学歴のない人でも企業に採用されるような事業を考えましょう!」なんて言ったら「アホか」で終わってしまう。それは俺がぺーぺーだから・・かもしれないが、少なくともその企業の直近の採用傾向とか実績のデータを集めて、さらにその採用によって全体の雇用関係統計がどれだけ変化しているかを実証的に分析して、それに対する処方箋として役所が予算つけて対応する必要があるか(理論的なフィージビリティを含め)ってところまでは外堀を埋める必要があって、そこまでの材料を元に最終的に政策として実施するか判断するのがあるべき政策形成の手順だと思われる(かなり理想的ではあるけど)。

つまりここで俺が問題だと思うのは、単に事実認定が雑なだけじゃなくこういう政策形成の過程が一切省かれて結論が導き出されていることなんである。一昔前によく言われた「役所の政策は政策それ自体が目的となっていて無駄が多い」とか「管轄の政策ばかりみて(これを「縦割り」とかいうんだよね)現実に対応していない」なんていう批判はこういう「政策ありき」の予算とかを指していたんじゃなかった? 少なくとも学者の態度としてこういう過程を省くことは、決してほめられたことではないというのは常識的な感覚だろう。そして当然そこを指摘されたのに本田先生はきちんとこれに答えられなかった。そりゃ批判されてしかるべきである。

ところがである。本田先生はどうやらきちんと答えていないという認識を持つことができないらしいのである。いくら事実認定の根拠とか妥当性について尋ねられても上記の回答以上のものは示されず、それどころかその指摘自体を「人々を無力化する」なんて批判してしまう。ここまで認知的不協和が激しいと事実認定に関する指摘がいきおい言葉の過ぎたものになるのも、まあ宜なるかなである。そうなれば後は泥仕合になるしかないわけですが、困ったことにここではそれに加えてそういった言葉に過剰に反応する陣営がことを荒げてしまっている。それでは政策論争もできないし、そもそも議論すらできない。実際本田先生はブログを閉鎖し内藤先生は議論を拒否してしまった。

そういう立場ではあるが、そういう俺でも本田先生に共感する部分はある。「真剣中年しゃべり場」から続くリフレ派とサヨクの議論(ととりあえず括ってしまって)では、景気浮揚と制度改正のどちらが根本的かというところのお互いの認識の齟齬が通底しているように思えるんだけど、ここでも本田先生の認識は「マクロ政策は確かに大事かもしれないが、それ以上にミクロレベルで個々の労働者や企業の行動を変えていかないといけない」というところから一歩も動いていないように見える。地方公務員の立場からすると、まさにマクロ政策は国がやるから手が出せないけど目の前には失業者が溢れているというようなとき、デフレ脱却で景気回復することで失業は改善できるというシナリオは確かに迂遠ではある。さらに地元の住民からすれば、国だろうが地方自治体だろうが役所が何かしてくれないと不満なのであり、俺も地元の企業を回って「高卒の積極的な採用を」なんてお願いして回ったもんだ(その実効性に疑問を持って経済学を勉強し直すことになるんだけど)。

しかし、住民感情に敏感になることと理論を度外視することは一致しないだろう。むしろ、いかに理論を用いて現実を改善するかというせめぎ合いこそが政策形成の難しさであり、そこを回避してはどんなに住民に配慮した政策であっても見せかけのものでしかない。俺も地方公務員としてマクロ政策に手を出せない歯がゆさはあるとしても、だからといって地方自治体でできるミクロ政策だけで雇用問題が解決するとは考えていない。現場で問題意識を持つことは大事ではあるけど、だからといってそれがそのまま政策に結びつくほど世の中は単純ではないと思うからである。本田先生の議論は、理論的な部分の検証を後回しにすることでそういう難しさを回避してしまっている(ようにみえる)からこそ、そこに危機感を抱いた論客から手厳しい批判を受けるのではないか。

そういう住民感情に敏感になるか、景気の回復を最優先課題と考えるかによって地方公務員でも立場は変わる。俺はいうまでもなく後者でありたいと考えるので、住民感情はそれとして大事ではあっても、あくまで国のマクロ政策と連動した雇用対策でなければいくら雇用対策に予算を組んだり制度をつくったりしたところで「焼け石に水」としか思えない(その意味で俺は若者自立塾とかなんかよりはリフレ政策を支持するんである)。ところが、そういう「焼け石に水」感に対して使命感を持つ公務員もいるし、政治家もいるし、学者もいるし、市民運動家もいる。それぞれの使命感の質は違うんだろうけど、その使命感で一体になってしまうと上記の問題(はじめに「政策ありき」ということ)が先鋭化してしまうので厄介なんです(未読ですが『ニートって言うな!』はこういうことを書かれていたのでは?)。

議論があちこちに飛んでしまっているのでここらでまとめると、本田先生の現場感覚にはある程度共感するものの、その使命感には一切共感できないし、むしろ危険ではないかと思うということです。確かに指摘された方々の言葉には不適切なものもあったかもしれない。でも批判対象となった自らの言説によって救われるべき人が救われず、血税が無駄な事業に充てられ、それによって制度の歪みが助長されることが少しでも予想されるのであれば、それを防ぐためにいくら辛らつな言葉であってもその批判は受け止めて再検討するべきだし、そういった強靱な姿勢が単に学問という領域を超えて、政策形成に携わるものに要求されるんだろうと思う。

俺なんぞが言うのもおこがましいが、上記のような事態にも思いを馳せていただけると批判の趣旨をいくらかでも追体験できるのではないかと愚考する次第です。

稲葉先生はご本人も認めるようにどこか壊れていて失敗を認められてるので言うべきことはありませんが、もう一方の内藤先生には言うべき言葉が見つかりません。「戦争反対」が普遍的かつ理念的な正当性を持っているにも関わらずそれだけでは発展的な議論はできないように、いくら「いじめ」そのものが問題であっても、この問題をそれで括ってしまっては本質的な議論が停止してしまうように思われるのですが。

2006年09月02日 (土) | Edit |
小泉政権も残すところわずかとなり、大本命といわれる安部晋三が総裁選出馬表明をしたとの由。自民党総裁としての政策表明という側面もあるのでちらほらみてみたんだけど、これが大本命というのはどうも理解できんのです。

外交面がよく取り上げられるんだけど、要は対中韓の強硬的な姿勢が麻生・谷垣より鮮明だという程度であって、小泉現総理のようなアジェンダメイキングな強さというよりパフォーマンス的な側面が強いように思われる。ところが、官房長官として強硬姿勢を示すことは小泉総理というトップの下でこそ有効な手段であって、トップとなったときにパフォーマンスすることは国内には有効かも知れないが、対外的にどこまで有効かはかなり微妙になる。対中韓に限っていっても、中韓が反日政策で自国内の引き締めを続ける限り、お互いに対決姿勢を打ち出すことは対立感情をあおることはあっても、譲歩を引き出すとか国際的な支持を得ることは難しくなるんじゃないか。中韓に対しては、その人権抑制政策についての国際的な批判を背景にして日本の利益を追求するのが得策じゃないかと個人的には考えるので、そういう意味で強硬姿勢を打ち出せばいいという単純な政策では心許ないわけですな。

外交はあまり詳しくないのでこの程度にしといて、特に気になるのが、現在でも官房長官として再チャレンジとか地方分権に対して並々ならぬ意気込みを示してるんだけど、それを総裁選でも前面に打ち出していること。再チャレンジとか地域活性化とか地方分権って、昨今の格差社会ブームを捉えた政策のつもりなんだろうが、政策としての体をなしてないとしか思えない。再チャレンジする仕組みとしていまのところ事務局を設置しただけだし、そういうんならデフレ脱却による確実な景気回復が先決だろう。再チャレンジができないってことはとりあえずとりあえず景気が悪いってことだし。

地方活性化については、麻生・谷垣も同じような感じだけど道州制とか地方分権とかいったところで実効性はないので、まあスローガンに過ぎませんな。地方活性化といおうが地方分権といおうが、生活基盤整備としての失業対策がなければお話にならないわけで、失業対策ってのは「雇用対策」とか「雇用創出」なんて地方自治体が担当するものじゃなくて、国の経済政策によって景気回復で総需要を喚起することが必要。

どっかの地域が景気よくて他の地域が景気悪いってのは、単に国全体の景気が悪くて全体に行き渡ってないということわなけで、企業誘致なんてそのあおりを食う典型の政策です。つまり、あっちの土地に工場を造るくらいならうちに造ってくれという企業誘致によっては、結局工場が造られたところ以外ではその恩恵にあずかることができない。つまり、どっかが得すれば他が損するというゼロサムにしかなっていないので、国全体としては何も変わらないのである。「地域間格差」ってこのことでしょ。

道州制とか三位一体とかという地方分権だって、この「地域間格差」を解消することが究極目的なはずだんだけど、行革とか財政再建ばっかりいってても上記の問題が放置されててはどうしようもない。この程度で大本命というのも寂しい限りです。


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