2019年12月01日 (日) | Edit |
増税を容認するとどこからともなく「緊縮派」だの「財政破綻論者」だのとレッテル貼る方々が現れては消えていくわけですが、増税を容認しても「緊縮」ではなく「財政破綻」でもないということがMMTerに問われ始めてきたようで、誠に喜ばしいですね。


どこかで見た風景だなと思ったら、拙ブログで3年ほど前に繰り広げられた風景ですね。

まあ望月夜さんは私の考えるところなど関心はないようですので、こちらから示していても詮無いことでしょうから、これ以上の説明は不要ですね。

> おそらく、マシナリさんは「政府が積極的な役割を講ずるには、その分の税収・増税が必要だ」という命題を前提にしているため、私のような「十分に大きな政府が望ましいが、少なくとも現時点において増税は望ましくない」という考え方の存在を、全く認めることができないということなのだと推測する。

私がこれまで論じてきたことを全くトレースできていない。
おっと、これは望月夜さんの言葉をパクってしまいましたね。申し訳ございません。

繰り返しで恐縮ですが、
> 望月夜さんに当初から「現代社会にあって従来の家族機能を社会化するために必要な公共政策の「具体的実務的形態」」についてのご見解を伺っているものの、それについてのご回答はいただいていない状態です。
> 2016/12/29(木) 09:51:13 | URL | マシナリ

望月夜さんは「俺の理論を理解しない奴には何度でも同じことを繰り返して説明してやる」というような傲慢な方ではないとお見受けして、なんとか議論を理解できればとそれなりに関連エントリなどを参照しながら、議論が共有できないと思いつつコメントしてまいりましたが、まあ私の見る目がなかったということなのでしょうから、改めて「望月夜さんの行為を容赦する必要性」は全く感じません。続きはご自身のブログやTwitterで存分に展開していただき、賛同者の増加に邁進されることをご祈念申し上げます。
2016/12/30(金) 03:25:13 | URL | マシナリ #-[ 編集]


ということで、「賛同者の増加に邁進されることをご祈念申し上げ」たところ、順調に賛同者を獲得されて「MMT四天王」の称号まで得られたようでそのご努力には敬意を表する次第ですが、やっていることはこれっぽっちも変わっていないわけですね。その一貫した姿勢には改めて敬意を表します(棒)。

そのご努力で獲得された賛同者の方々も当然、MMTerの方々のお作法を踏襲されるわけでして、


ご自身の議論で何が批判されているのかという点には思いが至らないように見受けます。拙ブログでは先ほどの3年前のコメントの翌日のエントリですが、

まあ、順番からいえば、先人達が歴史的経緯の中で築き上げてきた交渉や取り決めが制度化され、その制度化された世の中を主に行動の面から、時に数理的な手法を用いて分析するのが経済学という学問であることからすると、経済学が制度分析に理論を提供することはあっても、理論に基づいた制度設計が功を奏するのは、その理論がそれまでに築き上げてきた交渉や取り決めに匹敵するだけの利害調整機能を持っていることが必要条件となるはずです。つまり、いかにこれまでの制度が理不尽で整合性のないものであっても、その裏に営々と積み上げられてきた交渉や取り決めを取っ払うような制度改正は関係当事者の合意を取り付けることはできず、逆に制度として不都合であっても、当事者が合意している限りは制度として機能することになります。

制度をどのように変えるべきなのか(追記あり)(2016年12月31日 (土))

複式簿記にしても中央銀行制度にしても、人間が経済的活動を行う上で利害が衝突したり、当事者の利害は一致するものの社会への影響が芳しくない場合にそれを調整した結果が、営々と制度として積み重ねられたものであって、アプリオリに定まっていたわけではないのですが、「その社会を構成する人間の行動を金銭面のみから記述することをもって「具体的実務的形態」であるぞという方がいらっしゃるのもまたこの世の習わし」ではあります。


信用もないのに賛同者をいくらでも増やせるというわけではないことは、はしなくもMMT四天王と呼ばれる方々が実践されているようでして、私のような浅学非才な者にも貴重なサンプルを提供していただいるものと感謝すべきなのでしょう。
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2018年11月24日 (土) | Edit |
軽減税率をめぐる迷走が日々混迷を深めているわけですが、中田大悟先生が4回にわたってその弊害を主に経済学的な見地から指摘されていました。拙ブログは軽減税率に一貫して反対の立場ではありますが、こうしてまとめていただくと私自身の頭の整理にもなるので、ぜひ多くの方に読まれていただきたいと思います。

なぜ軽減税率は最悪の選択だったのか(1)- 資源配分のゆがみ(10/18(木) 15:01)
なぜ軽減税率は最悪の選択だったのか(2)- まやかしの逆進性対策(10/21(日) 1:22)
なぜ軽減税率は最悪の選択だったのか(3)- 膨れ上がる徴税コスト(10/30(火) 10:51)
なぜ軽減税率は最悪の選択だったのか(4終)- 軽減税率をめぐる誤解や錯誤(11/4(日) 17:27)

とはいえ、1回目から3回目までの経済学的な分析はおそらく実務的にはほとんど顧みられることはないだろうと思います。それはもちろん、現実の政策は必ずしも教科書的な説明の通りにはいかないという現実主義的な偏見によるところもあるかもしれませんが、「政策は、所詮、力が作るのであって正しさが作るのではない」という権丈先生の箴言の通り、リクツなんかで世の中は動かないという要素が大きいといえましょう。

私も3回目までの指摘だったら特に取り上げる必要もないと思ったんですが、4回目の議論は現実の政策過程を考える上で大変示唆に富む内容となっていると思います。

「欧米では一般的だ」

(略)
つぎに、欧米では長年にわたって軽減税率が定着している、という主張です。これは、特に欧州での軽減税率の導入の過程を無視した議論です。

歴史的に、付加価値税(消費税)が最初に導入されたのは、1960年代から70年代にかけての西欧諸国です。これらの国々は、経済統合を目指すために各国の財政状況を調整する必要がありました。そこで、付加価値税を導入して、売上税などの既存税制の整理が行われたのです。ですが、この時すでに、さまざまな個別消費税などが設定されており、それらを一足飛びに単一税率の付加価値税に統合することは政治的に不可能でした。これらの国々では、付加価値税が10%以上でスタートしています。この高税率に、ゼロ税率や非課税、低税率のもの全てを同時に統合するのは難しかったのです。

その結果として、西欧各国では、数多くの軽減税率が導入されることになります。つまり、欧州各国での軽減税率の殆どは、付加価値税導入のために政治的な事情で入れざるを得なかった税率、と解釈することができます。西欧諸国は、この後、軽減税率をなんとかして簡素化、廃止したいと悪戦苦闘しますが、政治的な圧力から、止めるに止められない税制として存続させざるを得ず、今日に至ります。

(略)

軽減税率のもうひとつの「メリット」

痛税感に関連して、軽減税率がもたらすもうひとつの「メリット」についても説明しましょう。

軽減税率は、それが消費者の認識バイアスや錯覚に起因するものとしても、消費者にとっては、納得しやすい税制です。これを利用すれば、軽減税率によってさらなる消費税増税が容易になります
(略)
この抵抗感の減少こそが、軽減税率の最大の「メリット」と言って良いでしょう。先に述べた、付加価値税を初期に導入した西欧諸国は、一般に非常に高率の標準税率を設定しています。なぜ、このような高率の税率(概ね20%以上)を設定できるのでしょうか。ここに軽減税率が寄与しています。軽減税率があるからこそ、その国の国民は、増税を受け入れやすくなるのです。

なぜ軽減税率は最悪の選択だったのか(4終)- 軽減税率をめぐる誤解や錯誤(11/4(日) 17:27)
※ 太字強調は原文、太字下線強調は引用者による。


ほかにも税制改正のオーソライズの所在の問題など興味深い論点がありますが、結局のところ軽減税率という「分かりやすい」対策が取られなければならないほど、この国における「痛税感」が強いということなのでしょう。

この点については、拙ブログでも

ということで、私のような下っ端地方公務員はことの成り行きを見つめるしかないわけですが、付加価値税率が高いヨーロッパ各国で軒並み軽減税率が導入されているのは、増税に対する抵抗をいくらかでもそらなければならないという政治的な事情が大きいのではないかと思います。そうした側面については、abz2010さんのご指摘が参考になります。

そして、ここから派生するもう一つのメリットは消費税率の上げ下げが比較的容易になることである。 もちろんどのような形であっても増税には常に逆風が吹くわけであるが、 生活必需品を軽減税率の対象とすることにより、「低所得者への負担増が・・・」、「逆進性が・・・」といった消費税増税の本質的な問題を(相対的にではあるが)軽減できる為、消費税増税(減税)をフレキシブルに実施することが可能になる。(念のために書いておくと、上記は軽減税率そのものが低所得者対策として有効という話ではなく、消費税増税による低所得者の負担増を相対的に軽減する事ができるという話である。尚、より直接的な低所得者対策が必要であれば消費増税で得た財源を元手に別途行なえばよい。)
(略)
そして欧米並みの税率となるまでの道程とそうなった場合の低所得者への配慮を考えるとこのあたりで軽減税率の議論を真剣に行うことは避けては通れないだろう。 もちろん軽減税率の代わりに低所得者用の還付金を採用する等、他の方策も十分検討の対象となりうるが、「生活必需品の税率は軽減される」という基本部分のわかりやすさ・納得感も考えると軽減税率も巷でやたらと批判されているほど悪いものでもないというのが筆者の考えである。

「軽減税率のメリットについて(カンタンな答 - 難しい問題には常に簡単な、しかし間違った答が存在する2014-11-25)」



個人的には、軽減税率を「批判されているほど悪いものではない」とまでいえるかはかなり疑問ではありますが、政治プロセスを考えると「議論を真剣に行うことは避けて通れない」というのはその通りだと思います。そして現在、軽減税率の導入のためにどの財政支出を削るかという真剣な議論が行われているところなわけでして、政治的プロセスの中で経済学的な正しさがどのような行方をたどるのか大変興味深いですね(なお、社会保障の財源を公債に頼ることは、スティグリッツの批判の通り軽減税率と同じくらい公共経済学的に無理筋だろうと思います)。

軽減税率のメモ(2015年11月03日 (火))

ということでabz2010さんのご指摘を参考としてメモしておいておりましたが、政治的なプロセスを考えると、軽減税率という「分かりやすい」政策でもって財政錯覚を起こさせて、消費税率引き上げという実を取る戦略と捉えることもできるかもしれません。

とはいえ、「世界一の高齢化率を誇る日本で高齢者向けの年金給付が社会的支出の半分を占めているといっても、まあまだ低い水準といってもよさそうなものです。いうまでもなく、現役世代向けの現金給付や医療などの公共サービスの水準が高いフランスやスウェーデンでは、その社会的支出を支える国民負担率が高いわけでして、その3分の2程度の国民負担率しかない日本では、現役世代向けの現金給付や公共サービスがクラウディングアウトされるのは当然の成り行きでありましょう」という現状において、これほど痛税感を強く感じる国民性がなぜ形成されたのかを考える必要もあるのではないかと感じるところです。

結局、生活を保障するのは(民間と公務員の別にかかわらず)使用者であって政府ではないという、世界に類のない小さな政府かつメンバーシップ社会が現出することとなったわけですね。という次第で、いまや「可処分所得を確保するために正社員を増やせ!経済成長のために増税なんてけしからん!」などと知った顔して声高に煽る方々が「経済左派」を自称される世の中になってしまったわけでして、市民を雇わない国家どころか、市民の生活を保障しない国家と人手不足でも職能資格がなければ賃上げをしない社会をつくり出したのは一体誰だったんだろうと考えてみるのもまた一興です。

市民の生活を保障しない国家(2018年07月21日 (土))



2018年10月28日 (日) | Edit |
定期的に発生するデスマーチで心身ともに疲弊しきっておりまして、この間ずっと権丈先生の『ちょっと気になる政策思想』を読み進めていたものの、一度Webで読んでいる内容が多いにもかかわらず1か月以上かかってしまうところに疲弊ぶりを痛感するところですが、何とか読み終えたので感想など。

まあ拙ブログではhamachan先生や権丈先生をはじめ、海老原さんなどその分野の専門家の言説をほぼそのままトレースしているだけなので、これらの諸賢の方々の著書の感想は拙ブログで書いていることを改めて確認するという作業になりがちなのですが、ご多分にもれず本書も改めて確認させていただいたという感想が正直なところです。ただし、これまでの(権丈先生が言うところの)へのへの本と大きく異なるのが、タイトルにもあるように「医療と介護」→「社会保障」という個別の分野から、最終的に「政策思想」という大枠の思想にまで拡大された点にあります。つまり、これまでの議論の大本となる「政策思想」そのものをテーマとしているだけに、個別の分野を考える際の思想的基盤を改めて確認できる点が大きなメリットといえるでしょう。

というわけで、本書を手に取って権丈節で畳みかけられる政策思想を熟読玩味するのが本書との向き合い方として望ましいと思うのですが、学校で先生が繰り返していうことは大事だと教わりましたので個人的な備忘録として。

…ここで今,左側の経済学の視点から見れば,市場による所得の分配が,過少消費に陥っていると判断される状況にあるとする.この時,左側の経済学の立場からは,雇用を生み,富の増加をもたらす政策は,高所得者から低所得者への所得の再分配や,安定した生活を送ることができる自立した雇用者,すなわち中間層の創出を促すための労働市場の補整ということになる.そして,所得分配のあり方については,比較的,社会全体の消費性向が大きくなるように,ある程度の平等な分配は望ましいというストーリーでまとまる.このストーリーは,「資本の成長は個人の貯蓄動機の強さに依存しており,しかもこの資本成長のかなりの部分について,われわれは富者の有り余る所得からの貯蓄に依存しているという信念155」,つまりはケインズが闘わなければならなかった右側の経済学の信念,そして今なお支配的な考え方とは真正面から対立している.
(略)
 学問の怖いところである——人が,手にする学問によって,政策解がまったく異なってくる.そういうことはまったく知らない人たち,特に社会的弱者は,経済学の中での思想の闘いの流れに翻弄されてしまうことになる.
(略)
 まさに,左側の経済学の観点に立てば,ケインズの言う,「消費性向を高めそうな方向での所得の再分配政策」を展開するのが,社会保障なのであり,「個人の創意工夫がうまく機能するための条件」として,資本主義経済の下では,所得再分配政策としての社会保障が確固たる地位を得ることになる.

完全雇用が達成されるまでは、資本成長は低い消費性向に依存するどころか,かえってそれによって阻害され,低い消費性向が資本成長に寄与するのは完全雇用状態の場合だけだ…….そのうえ経験の示すところによれば,現状では,諸機関の貯蓄および償還基金という形をとった貯蓄は適量を超えており,消費性向を高めそうな方向での所得の再分配政策が採られれば,資本成長に断然有利に作用することになろう157

消費性向と投資誘因とを相互調整するという仕事にともなう政府機能の拡大は,19世紀の政治評論家や現代のアメリカの金融家の目には,個人主義への恐るべき侵害だと映るかもしれないが,私はむしろそれを擁護する.現在の経済体制が全面的に崩壊するのを回避するために実際にとりうる手段はそれしかないからであり、同時にそれは個人の創意工夫がうまく機能するための条件でもあるからだ158


pp.152-155

155 ケインズ(1936)/間宮訳(2008)『一般理論』下巻、176−179頁.
157 ケインズ(1936)/間宮訳(2008)『一般理論』下巻、179頁.
158 ケインズ(1936)/間宮訳(2008)『一般理論』下巻、190頁.


ちょっと気になる政策思想 社会保障と関わる経済学の系譜
権丈 善一 著
ISBN 978-4-326-70106-3
出版年月 2018年8月
判型・ページ数 A5判・376ページ
定価 本体2,300円+税


「左側の経済学」「右側の経済学」については、権丈先生のホームページに公開されている資料では、拙ブログでも取り上げた「権丈善一「社会保障—— サムエルソンと係わる経済学の系譜序説の経済学系統図と彼のケインズ理解をめぐって——」(三田商学研究 第55巻 第5号 2012年12月)」の、ヘッダーの頁番号では75〜76頁あたりをご高覧いただきたいと思いますが、大きく分けると、需要によって決まると考えるのが「左側の経済学」、供給によって決まると考えるのが「右側の経済学」ということになります。

で、引用した部分には、本書で繰り返し出てくる「社会全体の消費性向の大きさ」「所得の平等な分配のための政府機能の拡大」「資本成長が所得からの貯蓄に依存しているという(右側の経済学の)信念」に対するケインズの疑念、「貯蓄は適量を超え」ることへのケインズの懸念が凝縮されています。政府の機能拡大に要する財源を求める際に、通貨発行や国債にそれを求めるのは「資本成長を所得からの貯蓄に依存」することに他ならないと思われるわけですが、それを唱道する方々が「我こそは需要を重視するケインズを継ぐ者であるぞ!」と声高らかに宣言されるのでややこしくなりますね。

ここで注意していただきたいのは、「左側」「右側」という言葉が出てきますが、世にいうような左派、右派という枠組みとか、資本主義が発達して崩壊すると共産主義に移行するするというような唯物史観とは一切関係ありません。マンデヴィル、マルサス、マムマリーの系譜に連なり、ケインズが理論化して現在に至るまでの社会科学を考察することによって、アダム・スミスを無邪気に引き継いだ古典派や新古典派の経済学が資本主義のサブシステムとしての社会保障をまともに扱うことができない現状を鮮やかに描き出すのが、「左側の経済学」「右側の経済学」というタームなのですね。

という点では、hamachan先生が職務無限定性、内部人材育成、使用者側に与えられた強大な人事権という日本型雇用慣行における行動原理を、欧米型の雇用慣行と対比させて「メンバーシップ型」「ジョブ型」というタームで説明して世のお手軽労働政策論をあぶり出しているように、社会科学を論じる経済学がどのような政策解を持っているのかを判別するツールとして、権丈先生の「左側の経済学」「右側の経済学」が活用されることを期待する次第です。とえはいえ「政策は、所詮、力が作るのであって正しさが作るのではない。」とおっしゃる権丈先生は、そんな期待はせずにこの状況を面白がっていらっしゃるのでしょうけれども。

2017年08月17日 (木) | Edit |
以前書きかけていたエントリの大蔵ざらえなのでややタイミングを外した感はありますが、せっかくなのでアップしておきます。日銀の金融緩和がどうやら奏功していないことが明らかになってきて、リフレ派と呼ばれる一部の方々に批判的な積極財政論者の声が大きくなりつつあるようでして、その方々が次なる財源として内生的貨幣供給論を持ちだしていらっしゃるのですが、その主張される内容が「制度の根幹を否定する」といういかにもな発想から出発しているなあと思っておりました。で、先日拙ブログでもご高説を賜った望月夜さんのこの指摘を拝見してやたらと既視感がありましたので、個人的なメモ(くれぐれも誰か特定の個人を批判する趣旨ではありませんのであしからず)。

しかしむしろ、通貨というのを何かの宝物のように扱う考え方の方が、通貨理解としては本質的に誤っているのである。

このことは、『通貨は財ではなく信用から生まれた-信用貨幣と計算貨幣-』の方でも解説したが、今一度簡潔に概説しよう。

まず、この世には何かしらの貸借関係があって、それを記述する手段として、石、金属、紙、場合によっては商品が用いられ、それが単位として統一されれば通貨になる。

問題は、通貨の実態は、単位として設定された石や金属ではなく、元々あった貸借関係である。「誰かへの貸し」(その誰かの借り)を使って売買を行うわけだ。

引用元: 「信用創造Wikipediaの混乱 前編(寄稿コラム)(批判的頭脳 2017-07-06 22:49:00)
※ 以下、強調は引用者による。

私が「経済学的に正しい」というのを批判しているのは、単に「経済的合理性やそれに基づくモデルのみに重きをおいて、現実の世界を理解しようとしない」ことではありません。制度と個人の行動が相互に影響し合うという社会を記述するに当たっては、社会を維持するために必要な取り決めとして考え出した制度に対して、その社会に属する各個人が個人の考えに沿って行動することが必要となります。そのような視点から言えば、「経済学的に正しい」議論の問題は、その行動の契機となる個人を「代表的個人」のようなマスな存在に霧散させ、社会の取り決めとしての制度に対する個人の考えや行動を無視して平準化(経済学の好きな言葉では簡単化)してしまう点にあると考えております。

特に私のような実務屋からすれば、上記のような「この世には何かしらの貸借関係があって」という点にどのような制度が想定されているのか大変気になります。その貸借関係は民法に規定される典型契約としての賃貸借でしょうから、ここで想定されているであろう金融機関への預金の預入は消費寄託(民法657条)であり、金融機関からの貸出は消費貸借のうち金銭消費貸借となりますので、これに付随する民法上の規定に則って契約が締結されているはずです。

この契約は当事者間の債権債務関係を規定したものですので、当事者による債務履行がなければ契約違反となります。言い換えれば債務履行を確保し、契約違反を防止し、契約違反があった場合の救済方法を規定するのが契約書とその拠り所となる民法典ですね。債務不履行についての救済方法の1つが不動産についての抵当権などの担保を設定することですが、こうした債務履行の能力がいわゆる「信用」と言われるものの実務的な内容となります。また、例えば賃貸借契約の解約などでは、判例により「「高度な信頼関係を基礎とする継続的契約において、一方の当事者の投下資本の回収の利益を保護するため、他方の当事者からの一方的な契約の解約を『当事者間の信頼関係が破壊された』場合にのみ認める」という「信頼関係破壊の法理」が確立していて、確かに手続き上は契約書一枚で債権債務関係は成立しますが、それを実効あらしめるためには、信用を調査したり信頼関係を十分に吟味したりという手間がかかるわけです。

というような手続きばかりしている実務屋からすると、「このようには何かしらの貸借関係があって、それを記述する手段として、石、金属、紙、場合によっては商品が用いられ、それが単位として統一されれば通貨になる」というのは、随分と簡略化された前提ですなあと感嘆することしきりです。いやもちろん、賃貸借と消費寄託の契約を金銭面のみに着目して記述するということであればこういう表現も可能でしょうけれども、その簡略化ぶりからは食べ物の入りと出だけに着目した「人間は「管」である」という考え方を思い起こします。

ところで、我々は「我考える、ゆえに我あり」などといい、人間存在の中心は「脳(意識)」であると思っている。しかし、生存にもっとも必要な食べ物の摂取の観点では、脳が意識するのは、せいぜい食べ物が腐っていないかを目や鼻や舌で感じるだけである。食べ物の良し悪しの判断の大半は腸に依っている。この意味でも人間は「管」であるといえる

(略)

確かに我々は「脳」のおかげで、便利な人工物に囲まれた清潔な場所で暮らすようになり寿命も延びた。しかし一方で我々の体の中心にある「管」は、環境の激変についていこうとして四苦八苦している。環境変化についていけず、ときには免疫システムがバランスをくずして、食物アレルギーを引き起こすケースが増えてきた。

生物が生きていくためには、環境と調和していくことが必須であり、人間もまた然りである。しかし、人間の「脳」は、環境に対して実に鈍感である。一方、環境に対してもっとも敏感なのは「管」の方である。今こそ「人間は「管」である」と考えるときかも知れない。 (記:五等星)

引用元: [コラム]人間は「管」である - 自然科学カフェ(2014/11/17 19:20)

「生存に必要な食べ物の摂取の観点」からこうした議論をすることは大いに理解できるものの、上記のような複雑な制度によって成り立つ社会における財政政策や金融政策を考える際に、その社会を構成する人間の行動を金銭面のみから記述することをもって「具体的実務的形態」であるぞという方がいらっしゃるのもまたこの世の習わしですね。

で、このような世の習わしを拝見して既視感を覚えたのは、ドラめもんさんの「利権陰謀論という結論を書きたくて」たまらない方へのツッコミを拝見していたからでした。

確かに金利の上げ下げを行えば事後的にはマネタリーベースやマネーサプライにも影響出てくる筈ですが、それは金利の上げ下げによって実体経済に変化が起き、その結果マネーの需給関係が変化するためであって、中央銀行が短期市場金利の上げ下げで金融政策を実施しているのであれば、マネタリーベースの増減と政策金利の上げ下げに関しては中長期的には兎も角短期的にリニアな関係がある訳ではありません。

『債券を売却した金融機関は、金利の付かないマネーを得る。金利の付かないマネーを持っていても仕方がないので、金融機関はそのお金を貸し出す。』

はい残念。貸出というのは別に日銀当座預金の増減とは関係なく増やしたり減らしたりできます。他の金融機関に貸し出せば自分の所の日銀当座預金は減りますのでもしかしたらそういう話をしているのかも知れませんね、と思って次を読みますと案の定、

『8%の金利では貸出が増えないが、金利を下げれば貸出が増える。貸し出されたお金で人々は何かを購入する。』

って貸出が増えるという話をしていますし、人々は何かを購入するとか言ってるので、どこからどう見ても銀行融資が増えるという話をしているようですが、銀行融資というのは銀行の中での両建てが増えるだけの話で、日銀当座預金とは関係なく増えるものです。

しかも頭がクラクラしてくるのですが、「金利を下げれば貸出が増える。貸し出されたお金で人々は何かを購入する。」って言ってるんですが、金利を下げることによって投資の採算ポイントが改善するから投資が促進される、とかいう話ならまだしも「人々は何かを購入する」ってお前は何を言ってるんだとしか申し上げようがない

引用元: 「本日のドラめもん 2017/06/30」

とまあ、経済学に精通している(と目される)方が日本の中央銀行の要職に就いて、「貸し出されたお金で人々は何かを購入する」と能天気におっしゃるのもまた世の習わしと受け入れるしかないのでしょう。

明日からの仕事復帰に向けて大蔵ざらえでしたが、いやまあこんなエントリでは気分が優れませんなあ。。

2017年07月04日 (火) | Edit |
相変わらず乗り遅れ気味ですが、一部では障害者のLCC利用の是非をめぐって議論が盛り上がっているとの由。公的セクターの中の人としてみてみると、経済合理性と普遍的社会サービスの両面を追求しなければならない公共(交通)機関のジレンマが集約された問題のように思います。公的セクターの所得再分配機能の貧弱さが問題であるとすれば、それはその財源が貧弱であることの裏返しであって、それは公的セクターに経済的合理性を求めるあまりに、その拠出である増税への忌避がもたらした社会を反映したものといえます。

これと同様に、LCCが経済的合理性を追求すれば、その名のとおりローコストキャリア(Low-cost carrier)として差別価格により低サービスを低料金で提供することにより、それを選好する顧客を取り込むというビジネスモデルが成り立つとしても、公共交通機関としては、「選別的」の対象語としての「普遍的」な意味で、社会サービスとして安全の確保や交通弱者に対する配慮が求められるわけです。その線引は結局、その社会がどの程度の安全や配慮を「普遍的」に求めるかによって決まることになり、明確に決めることはほぼ不可能だと思います。

今回の件で障害者の行動とLCCの対応それぞれを批判する立場では、その依って立つ社会のあり方自体が異なるため、水掛け論に終止してしまっているように見受けます。障害者の行動を批判する方が思い描く社会では、サービスしてほしければその受益者がそれ相応のコストを負担することが求められているのでしょうし、一方、LCCの対応を批判する方(障害者に対する批判を批判する立場もこれに含みます)が思い描く社会では、LCCが障害者が利用するにあたって必要なサービスを提供しないのは公共(交通)期間として不公正な対応とみなされ、そのコストを会社が負担することが求められていると思われます。

では、どちらの認識が現状を捉えているかというと、2006年に採択されて2008年に発効された障害者権利条約に合わせて、障害者差別解消法が施行され、障害者自立支援法が改正されて障害者総合支援法が施行されています。この現状においては、公共交通機関が「合理的配慮」をしないことは許されないと解するのが妥当でしょう。

とはいえ、その「合理的配慮」を実施するためにも、人件費やら設備費やらのコストがかかるわけでして、そのコストを賄う財源をどうやって調達するかまでは明確な規定があるわけではありません。そのコスト(障害者が事前連絡するというコストも含みます)の負担について、受益者である障害者当事者が負担すべきとする立場と、会社が負担すべきという立場がそれぞれのお好みの社会像を基に論争するのですから、水掛論に終止してしまうのもやむを得ないのではないかと。

つまり、ここで対立しているのは、障害者に対する合理的配慮の要否ではなく、障害者に対する合理的配慮は、経済合理性を追求することによりカットするべきコストなのかどうか、もしカットすべきではないと判断された場合に誰がそのサービスに要するコストを負担するのかという、コストの範囲とその負担の帰結に対する考え方ではないかと考えます。

こうした財源問題といえば所得再分配政策に行き着くわけですが、LCCで障害者が自由に搭乗できないのはけしからんとして、国が必要なコストを賄うべきだという議論もあるようです。とはいえ、LCCは経済合理性を追求して低価格に抑えることに存在意義があるはずでして、その利用者にとっての低価格を維持するために他の国民の富の一部を投入するというのはいかにも筋が通らない話ではありますが、まあそれを主張するのが左派と呼ばれる方々の流儀のようですから、それはそれとして主張自体はご自由にというところですね。

まあこれは公共交通機関とはいえあくまで私企業の話ですから、その財源は営業による収益で賄うべきでしょうけれども、所得再分配政策については、より繊細な議論が必要だろうと思います。

公共政策は繊細な議論ですので危険ではありますが、あえて模式化してみると、再分配や雇用・労働の制度に関する問題をAとして、Aの制度にまつわる問題をどのように解決すべきかという議論をしているのが拙ブログのスタンスでして、そのための財源の制度に関する問題をBとすると、本エントリで書いたような制度の裏付け(交渉と取り決めによるフロー支出はフロー財源で賄うという原則)を踏まえつつ、Bについては増税の必要性があると考えています(その理由は本エントリや上記エントリの参照先をご笑覧ください)。

(略)

私はBの議論に特化してその是非を論じているわけではありませんので、Aの問題が解決なり改善するのであれば、Bに関して増税にこだわるものではありません。そもそも増税が景気後退させることまで否定していませんし(中里先生がおっしゃるナローパスが重要だと考えています)、増税と現物給付との差引においていかに安定的に社会全体の消費を確保するかという経路が制度によって担保されることが重要と考えています。つまり、現状において制度による裏付けが弱いAとBの紐付けをいかに強化するかという点が私の関心なのですが、世の中にはBさえ何とかなればAは自動的に改善するとお考えの方がいらっしゃって、もしかするとそっちの方が多数派だというのが実態なのでしょう。

「制度をどのように変えるべきなのか(追記あり)(2016年12月31日 (土))」
※ 以下、強調は引用時(者)。

というようなことを考えていたところ、権丈先生が「子育て支援連帯基金」なるものを提唱されていました。

 その時、財源はどう調達するのか。先にも述べたように、医療、介護、年金保険の将来の給付水準は、将来の労働力の量と質に依存する。ゆえに、これら三つの制度にとって、次世代育成、子育て支援施策が極めて重要になってくる。だから3者が連帯して応分の責任を引き受け、子育て支援連帯基金に拠出することにより支える──という考え方もあっていいようにも思える。
 それは今後、消費税を予定通り引き上げ、さらにはその後も引き続き財政が健全化するまで税の問題を直視していく姿勢と矛盾する話ではない。ただ、現下の政治状況では、子育て費用の社会化が税財源をもとに進むのを待っていては、その間に高齢期の社会保障への攻撃が強まるのみならず、子どもたちへの投資が過少であり続け、そして少子化も進みかねない

「年金・医療・介護で「子育て基金」 老後を左右するのは次世代」『週刊エコノミスト』2017年7月4日号


しかも、自民党の小泉進次郎議員が中心となって取りまとめた「こども保険」について、「財源調達のあり方を検討するというのはうなずける 」と一定の評価をしていらっしゃっていて、これは正直なところ驚きました。

hamchan先生も紹介されていましたが、東京新聞の記事ではもう少し権丈節が顔をのぞかせています。

 少子高齢化への対応策として、小泉進次郎氏ら自民党の若手が提案した「こども保険」構想が注目を集めています。これをサポートする形で、権丈善一慶応大商学部教授は同党特命委員会で公的年金、医療保険、介護保険の三つの制度から拠出する「子育て支援連帯基金」創設の話をしました。子育て支援策の財源確保はどうあるべきか考えました。

(略)

権丈 僕は説得力を高めるためにそう言ったのではなくて(笑)、単なる制度上の事実を言っただけ。構想自体は簡単な話で、公的年金保険、公的医療、公的介護という、主に人の生涯の高齢期の支出を社会保険の手段で賄っている制度から、自らの制度における持続可能性、将来の給付水準を高めるために子育て支援基金に拠出し、この基金がこども子育て制度を支えるという話です。
 よく、子育て支援は、本来、税でやるべきだという声もあるけど、「本来」とか「そもそも」に続く話で、世の中、役に立った話は聞いたことがない

「子育て支援の財源、誰が負担? 上坂修子論説委員が聞く」(東京新聞 TOKYO Web 2017年6月24日)


こうした提言に至る背景には「現下の政治状況では、…子どもたちへの投資が過少であり続け、そして少子化も進みかねない」という危機感があって、それは私も共感するところですが、「「本来」とか「そもそも」に続く話で、世の中、役に立った話は聞いたことがない」とまで言い切る権丈先生は、ここで勝負に出たのかもという印象です。私が上記で書いたような「筋が通った」話が通る政治状況ではなく、そのままである限り財源が調達されることはないという現状において、保険の紐付けを基金という形でいったん断ち切るというのは一つの方策だとは思います。

つまり、社会保険に財源を求めつつ、その保険料に貼り付いた給付の請求権をいったんチャラにしたうえで、その使途を子育て支援連帯基金として主に現物給付により制限するというのは、制度として成り立つ考え方だろうと思います。特に、保険料に貼り付いた請求権をいったんチャラにする点で、自民党の委員会が提唱した「こども保険」とか、拙ブログで諸賢のみなさんと議論させていただいたような年金を狙い撃ちにした保険に比べても、その弱点が幾分解消されるだろうとも思います。しかし、保険料から拠出した財源を基金化するというのは、保険財源の流用に当たるのではないかとか、保険請求が想定を超えた場合のリスクヘッジなり再保険制度の構築など、その実現に当たって制度上検討すべき課題はいろいろあると考えます。まあ最終的には、その検討に要する制度設計の困難さと増税することの政治的困難さを比較してどちらが実現可能性が高いかという判断によることになるのでしょうけれども、私にはなかなか先が見通せないイメージがあるというのが正直な感想です。