2017年08月17日 (木) | Edit |
以前書きかけていたエントリの大蔵ざらえなのでややタイミングを外した感はありますが、せっかくなのでアップしておきます。日銀の金融緩和がどうやら奏功していないことが明らかになってきて、リフレ派と呼ばれる一部の方々に批判的な積極財政論者の声が大きくなりつつあるようでして、その方々が次なる財源として内生的貨幣供給論を持ちだしていらっしゃるのですが、その主張される内容が「制度の根幹を否定する」といういかにもな発想から出発しているなあと思っておりました。で、先日拙ブログでもご高説を賜った望月夜さんのこの指摘を拝見してやたらと既視感がありましたので、個人的なメモ(くれぐれも誰か特定の個人を批判する趣旨ではありませんのであしからず)。

しかしむしろ、通貨というのを何かの宝物のように扱う考え方の方が、通貨理解としては本質的に誤っているのである。

このことは、『通貨は財ではなく信用から生まれた-信用貨幣と計算貨幣-』の方でも解説したが、今一度簡潔に概説しよう。

まず、この世には何かしらの貸借関係があって、それを記述する手段として、石、金属、紙、場合によっては商品が用いられ、それが単位として統一されれば通貨になる。

問題は、通貨の実態は、単位として設定された石や金属ではなく、元々あった貸借関係である。「誰かへの貸し」(その誰かの借り)を使って売買を行うわけだ。

引用元: 「信用創造Wikipediaの混乱 前編(寄稿コラム)(批判的頭脳 2017-07-06 22:49:00)
※ 以下、強調は引用者による。

私が「経済学的に正しい」というのを批判しているのは、単に「経済的合理性やそれに基づくモデルのみに重きをおいて、現実の世界を理解しようとしない」ことではありません。制度と個人の行動が相互に影響し合うという社会を記述するに当たっては、社会を維持するために必要な取り決めとして考え出した制度に対して、その社会に属する各個人が個人の考えに沿って行動することが必要となります。そのような視点から言えば、「経済学的に正しい」議論の問題は、その行動の契機となる個人を「代表的個人」のようなマスな存在に霧散させ、社会の取り決めとしての制度に対する個人の考えや行動を無視して平準化(経済学の好きな言葉では簡単化)してしまう点にあると考えております。

特に私のような実務屋からすれば、上記のような「この世には何かしらの貸借関係があって」という点にどのような制度が想定されているのか大変気になります。その貸借関係は民法に規定される典型契約としての賃貸借でしょうから、ここで想定されているであろう金融機関への預金の預入は消費寄託(民法657条)であり、金融機関からの貸出は消費貸借のうち金銭消費貸借となりますので、これに付随する民法上の規定に則って契約が締結されているはずです。

この契約は当事者間の債権債務関係を規定したものですので、当事者による債務履行がなければ契約違反となります。言い換えれば債務履行を確保し、契約違反を防止し、契約違反があった場合の救済方法を規定するのが契約書とその拠り所となる民法典ですね。債務不履行についての救済方法の1つが不動産についての抵当権などの担保を設定することですが、こうした債務履行の能力がいわゆる「信用」と言われるものの実務的な内容となります。また、例えば賃貸借契約の解約などでは、判例により「「高度な信頼関係を基礎とする継続的契約において、一方の当事者の投下資本の回収の利益を保護するため、他方の当事者からの一方的な契約の解約を『当事者間の信頼関係が破壊された』場合にのみ認める」という「信頼関係破壊の法理」が確立していて、確かに手続き上は契約書一枚で債権債務関係は成立しますが、それを実効あらしめるためには、信用を調査したり信頼関係を十分に吟味したりという手間がかかるわけです。

というような手続きばかりしている実務屋からすると、「このようには何かしらの貸借関係があって、それを記述する手段として、石、金属、紙、場合によっては商品が用いられ、それが単位として統一されれば通貨になる」というのは、随分と簡略化された前提ですなあと感嘆することしきりです。いやもちろん、賃貸借と消費寄託の契約を金銭面のみに着目して記述するということであればこういう表現も可能でしょうけれども、その簡略化ぶりからは食べ物の入りと出だけに着目した「人間は「管」である」という考え方を思い起こします。

ところで、我々は「我考える、ゆえに我あり」などといい、人間存在の中心は「脳(意識)」であると思っている。しかし、生存にもっとも必要な食べ物の摂取の観点では、脳が意識するのは、せいぜい食べ物が腐っていないかを目や鼻や舌で感じるだけである。食べ物の良し悪しの判断の大半は腸に依っている。この意味でも人間は「管」であるといえる

(略)

確かに我々は「脳」のおかげで、便利な人工物に囲まれた清潔な場所で暮らすようになり寿命も延びた。しかし一方で我々の体の中心にある「管」は、環境の激変についていこうとして四苦八苦している。環境変化についていけず、ときには免疫システムがバランスをくずして、食物アレルギーを引き起こすケースが増えてきた。

生物が生きていくためには、環境と調和していくことが必須であり、人間もまた然りである。しかし、人間の「脳」は、環境に対して実に鈍感である。一方、環境に対してもっとも敏感なのは「管」の方である。今こそ「人間は「管」である」と考えるときかも知れない。 (記:五等星)

引用元: [コラム]人間は「管」である - 自然科学カフェ(2014/11/17 19:20)

「生存に必要な食べ物の摂取の観点」からこうした議論をすることは大いに理解できるものの、上記のような複雑な制度によって成り立つ社会における財政政策や金融政策を考える際に、その社会を構成する人間の行動を金銭面のみから記述することをもって「具体的実務的形態」であるぞという方がいらっしゃるのもまたこの世の習わしですね。

で、このような世の習わしを拝見して既視感を覚えたのは、ドラめもんさんの「利権陰謀論という結論を書きたくて」たまらない方へのツッコミを拝見していたからでした。

確かに金利の上げ下げを行えば事後的にはマネタリーベースやマネーサプライにも影響出てくる筈ですが、それは金利の上げ下げによって実体経済に変化が起き、その結果マネーの需給関係が変化するためであって、中央銀行が短期市場金利の上げ下げで金融政策を実施しているのであれば、マネタリーベースの増減と政策金利の上げ下げに関しては中長期的には兎も角短期的にリニアな関係がある訳ではありません。

『債券を売却した金融機関は、金利の付かないマネーを得る。金利の付かないマネーを持っていても仕方がないので、金融機関はそのお金を貸し出す。』

はい残念。貸出というのは別に日銀当座預金の増減とは関係なく増やしたり減らしたりできます。他の金融機関に貸し出せば自分の所の日銀当座預金は減りますのでもしかしたらそういう話をしているのかも知れませんね、と思って次を読みますと案の定、

『8%の金利では貸出が増えないが、金利を下げれば貸出が増える。貸し出されたお金で人々は何かを購入する。』

って貸出が増えるという話をしていますし、人々は何かを購入するとか言ってるので、どこからどう見ても銀行融資が増えるという話をしているようですが、銀行融資というのは銀行の中での両建てが増えるだけの話で、日銀当座預金とは関係なく増えるものです。

しかも頭がクラクラしてくるのですが、「金利を下げれば貸出が増える。貸し出されたお金で人々は何かを購入する。」って言ってるんですが、金利を下げることによって投資の採算ポイントが改善するから投資が促進される、とかいう話ならまだしも「人々は何かを購入する」ってお前は何を言ってるんだとしか申し上げようがない

引用元: 「本日のドラめもん 2017/06/30」

とまあ、経済学に精通している(と目される)方が日本の中央銀行の要職に就いて、「貸し出されたお金で人々は何かを購入する」と能天気におっしゃるのもまた世の習わしと受け入れるしかないのでしょう。

明日からの仕事復帰に向けて大蔵ざらえでしたが、いやまあこんなエントリでは気分が優れませんなあ。。
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2017年07月04日 (火) | Edit |
相変わらず乗り遅れ気味ですが、一部では障害者のLCC利用の是非をめぐって議論が盛り上がっているとの由。公的セクターの中の人としてみてみると、経済合理性と普遍的社会サービスの両面を追求しなければならない公共(交通)機関のジレンマが集約された問題のように思います。公的セクターの所得再分配機能の貧弱さが問題であるとすれば、それはその財源が貧弱であることの裏返しであって、それは公的セクターに経済的合理性を求めるあまりに、その拠出である増税への忌避がもたらした社会を反映したものといえます。

これと同様に、LCCが経済的合理性を追求すれば、その名のとおりローコストキャリア(Low-cost carrier)として差別価格により低サービスを低料金で提供することにより、それを選好する顧客を取り込むというビジネスモデルが成り立つとしても、公共交通機関としては、「選別的」の対象語としての「普遍的」な意味で、社会サービスとして安全の確保や交通弱者に対する配慮が求められるわけです。その線引は結局、その社会がどの程度の安全や配慮を「普遍的」に求めるかによって決まることになり、明確に決めることはほぼ不可能だと思います。

今回の件で障害者の行動とLCCの対応それぞれを批判する立場では、その依って立つ社会のあり方自体が異なるため、水掛け論に終止してしまっているように見受けます。障害者の行動を批判する方が思い描く社会では、サービスしてほしければその受益者がそれ相応のコストを負担することが求められているのでしょうし、一方、LCCの対応を批判する方(障害者に対する批判を批判する立場もこれに含みます)が思い描く社会では、LCCが障害者が利用するにあたって必要なサービスを提供しないのは公共(交通)期間として不公正な対応とみなされ、そのコストを会社が負担することが求められていると思われます。

では、どちらの認識が現状を捉えているかというと、2006年に採択されて2008年に発効された障害者権利条約に合わせて、障害者差別解消法が施行され、障害者自立支援法が改正されて障害者総合支援法が施行されています。この現状においては、公共交通機関が「合理的配慮」をしないことは許されないと解するのが妥当でしょう。

とはいえ、その「合理的配慮」を実施するためにも、人件費やら設備費やらのコストがかかるわけでして、そのコストを賄う財源をどうやって調達するかまでは明確な規定があるわけではありません。そのコスト(障害者が事前連絡するというコストも含みます)の負担について、受益者である障害者当事者が負担すべきとする立場と、会社が負担すべきという立場がそれぞれのお好みの社会像を基に論争するのですから、水掛論に終止してしまうのもやむを得ないのではないかと。

つまり、ここで対立しているのは、障害者に対する合理的配慮の要否ではなく、障害者に対する合理的配慮は、経済合理性を追求することによりカットするべきコストなのかどうか、もしカットすべきではないと判断された場合に誰がそのサービスに要するコストを負担するのかという、コストの範囲とその負担の帰結に対する考え方ではないかと考えます。

こうした財源問題といえば所得再分配政策に行き着くわけですが、LCCで障害者が自由に搭乗できないのはけしからんとして、国が必要なコストを賄うべきだという議論もあるようです。とはいえ、LCCは経済合理性を追求して低価格に抑えることに存在意義があるはずでして、その利用者にとっての低価格を維持するために他の国民の富の一部を投入するというのはいかにも筋が通らない話ではありますが、まあそれを主張するのが左派と呼ばれる方々の流儀のようですから、それはそれとして主張自体はご自由にというところですね。

まあこれは公共交通機関とはいえあくまで私企業の話ですから、その財源は営業による収益で賄うべきでしょうけれども、所得再分配政策については、より繊細な議論が必要だろうと思います。

公共政策は繊細な議論ですので危険ではありますが、あえて模式化してみると、再分配や雇用・労働の制度に関する問題をAとして、Aの制度にまつわる問題をどのように解決すべきかという議論をしているのが拙ブログのスタンスでして、そのための財源の制度に関する問題をBとすると、本エントリで書いたような制度の裏付け(交渉と取り決めによるフロー支出はフロー財源で賄うという原則)を踏まえつつ、Bについては増税の必要性があると考えています(その理由は本エントリや上記エントリの参照先をご笑覧ください)。

(略)

私はBの議論に特化してその是非を論じているわけではありませんので、Aの問題が解決なり改善するのであれば、Bに関して増税にこだわるものではありません。そもそも増税が景気後退させることまで否定していませんし(中里先生がおっしゃるナローパスが重要だと考えています)、増税と現物給付との差引においていかに安定的に社会全体の消費を確保するかという経路が制度によって担保されることが重要と考えています。つまり、現状において制度による裏付けが弱いAとBの紐付けをいかに強化するかという点が私の関心なのですが、世の中にはBさえ何とかなればAは自動的に改善するとお考えの方がいらっしゃって、もしかするとそっちの方が多数派だというのが実態なのでしょう。

「制度をどのように変えるべきなのか(追記あり)(2016年12月31日 (土))」
※ 以下、強調は引用時(者)。

というようなことを考えていたところ、権丈先生が「子育て支援連帯基金」なるものを提唱されていました。

 その時、財源はどう調達するのか。先にも述べたように、医療、介護、年金保険の将来の給付水準は、将来の労働力の量と質に依存する。ゆえに、これら三つの制度にとって、次世代育成、子育て支援施策が極めて重要になってくる。だから3者が連帯して応分の責任を引き受け、子育て支援連帯基金に拠出することにより支える──という考え方もあっていいようにも思える。
 それは今後、消費税を予定通り引き上げ、さらにはその後も引き続き財政が健全化するまで税の問題を直視していく姿勢と矛盾する話ではない。ただ、現下の政治状況では、子育て費用の社会化が税財源をもとに進むのを待っていては、その間に高齢期の社会保障への攻撃が強まるのみならず、子どもたちへの投資が過少であり続け、そして少子化も進みかねない

「年金・医療・介護で「子育て基金」 老後を左右するのは次世代」『週刊エコノミスト』2017年7月4日号


しかも、自民党の小泉進次郎議員が中心となって取りまとめた「こども保険」について、「財源調達のあり方を検討するというのはうなずける 」と一定の評価をしていらっしゃっていて、これは正直なところ驚きました。

hamchan先生も紹介されていましたが、東京新聞の記事ではもう少し権丈節が顔をのぞかせています。

 少子高齢化への対応策として、小泉進次郎氏ら自民党の若手が提案した「こども保険」構想が注目を集めています。これをサポートする形で、権丈善一慶応大商学部教授は同党特命委員会で公的年金、医療保険、介護保険の三つの制度から拠出する「子育て支援連帯基金」創設の話をしました。子育て支援策の財源確保はどうあるべきか考えました。

(略)

権丈 僕は説得力を高めるためにそう言ったのではなくて(笑)、単なる制度上の事実を言っただけ。構想自体は簡単な話で、公的年金保険、公的医療、公的介護という、主に人の生涯の高齢期の支出を社会保険の手段で賄っている制度から、自らの制度における持続可能性、将来の給付水準を高めるために子育て支援基金に拠出し、この基金がこども子育て制度を支えるという話です。
 よく、子育て支援は、本来、税でやるべきだという声もあるけど、「本来」とか「そもそも」に続く話で、世の中、役に立った話は聞いたことがない

「子育て支援の財源、誰が負担? 上坂修子論説委員が聞く」(東京新聞 TOKYO Web 2017年6月24日)


こうした提言に至る背景には「現下の政治状況では、…子どもたちへの投資が過少であり続け、そして少子化も進みかねない」という危機感があって、それは私も共感するところですが、「「本来」とか「そもそも」に続く話で、世の中、役に立った話は聞いたことがない」とまで言い切る権丈先生は、ここで勝負に出たのかもという印象です。私が上記で書いたような「筋が通った」話が通る政治状況ではなく、そのままである限り財源が調達されることはないという現状において、保険の紐付けを基金という形でいったん断ち切るというのは一つの方策だとは思います。

つまり、社会保険に財源を求めつつ、その保険料に貼り付いた給付の請求権をいったんチャラにしたうえで、その使途を子育て支援連帯基金として主に現物給付により制限するというのは、制度として成り立つ考え方だろうと思います。特に、保険料に貼り付いた請求権をいったんチャラにする点で、自民党の委員会が提唱した「こども保険」とか、拙ブログで諸賢のみなさんと議論させていただいたような年金を狙い撃ちにした保険に比べても、その弱点が幾分解消されるだろうとも思います。しかし、保険料から拠出した財源を基金化するというのは、保険財源の流用に当たるのではないかとか、保険請求が想定を超えた場合のリスクヘッジなり再保険制度の構築など、その実現に当たって制度上検討すべき課題はいろいろあると考えます。まあ最終的には、その検討に要する制度設計の困難さと増税することの政治的困難さを比較してどちらが実現可能性が高いかという判断によることになるのでしょうけれども、私にはなかなか先が見通せないイメージがあるというのが正直な感想です。

2016年12月31日 (土) | Edit |
ケインズの「一般理論」はその晦渋な書きぶりでいろいろな読み方をされているところでして、ケインズの名を冠した学派はオールド・ケインジアンや新古典派統合を経たニュー・ケインジアンから、マルクス経済学と接近したポスト・ケインジアン等々諸説が乱立していますが、その中にはケインズのつまみ食いで「ケインズ」を名乗る場合も多いように思います。クルーグマンは特にその場その場で議論を使い分けるので「つまみ食い」の印象が強いのですが、望月夜さんのコメントで教えていただいた講演録はまさにその典型のようです。

この講演でやりたいことを簡潔に言えば,まずケインズの読み方について――というか,ぼくが好むケインズの読み方について――お話することです.
(略)
『一般理論』でカギとなるメッセージとすべくケインズが意図していたことは,いったいなんでしょうか? ぼくの答えはこうです――「そいつは伝記作家や思想史家の仕事ですな」.べつに,「どうでもいい」とまでは言いませんが,なによりも重要なことではないでしょう.古いネタにこんなのがあります.美術館の来訪者が,ジョージ・ワシントンの肖像画をじっくり鑑賞して,守衛に「ほんとにこんな外見だったの?」と尋ねます.守衛が答えて,「いまの外見はそこにあるとおりだよ」.ケインズについても,ぼくの感覚はこれとだいたい同じです.大事なのはケインズからなにを引き出すかであって,彼が「ほんとうに」言わんとしたことではありません
(略)
ともかく自分の見解を言えば,ぼくは基本的に第1巻さんです.そこに第13章と第14章の中身もかなり加えます.その話はこのあとすぐしましょう.第12章はすばらしい読み物ですし,「市場は賢明で合理的だ」と仮定してかかる経済学者にありがちな傾向を調べるのにすごくべんりではあります.でも,ぼくがいつも経済学に求めているのは「直観ポンプ」です――つまり,言葉あそびや偏見にはまらず経済状況を考える方法,いくらか深い洞察をもたらしてくれそうな方法を求めているんです.

「クルーグマン「ケインズ氏と現代人」(2013年12月5日)Paul Krugman, “Mr Keynes and the moderns,” VoxEU, June 21, 2011.」(経済学101)
※ 以下、強調は引用者による。

長いので引用は省きましたが、引用部より前の部分で「まさしくケインズが75年前に格闘していたのと同じ問題がかかわっています」といいながら、そのケインズが言わんとしたことはどうでもよくて自分の好きな読み方を披瀝するというのは、場合によっては歴史修正主義との誹りを免れないでしょうけれども、天下のノーベル記念スウェーデン銀行賞受賞者にはそうした批判はされないんですね。

でまあ、ケインズの理解についてはケインズの言わんとしたことをきちんと理解した上で、その洞察に学ぶことが重要ではないかと考えているところでして、

 新ケインズ派のモデルは今回の危機であらわれた事実にかなりよく一致しているように思える。たとえば、銀行が融資を行った相手には、返済がまったくできない借り手が入っていたといった事実である。そのモデルの欠陥は、ローンの借り手や保険の買い手など、誰かが完全な情報をもっていると想定していたことだ。ところが今回の危機では、不確実性という問題があり、導く側も導かれる側も将来を理解できていなかったことが明らかになった。
(略)
ドナルド・ラムズフェルドの忘れがたい言葉を使うなら、「未知の未知」こそが躓きになるのである。誰かひとりが完全な情報をもっていれば、経済全体が危機に陥ることはない。だが、完全な知識をもっているのは神だけであり、神が株式市場で投資を行うことはない。
pp.82-83

なにがケインズを復活させたのか?―ポスト市場原理主義の経済学―
ロバート・スキデルスキー 著/山岡洋一 訳
定価(本体2,000円 +税)
四六判 上製 320 ページ
978-4-532-35402-2
2010年1月発売

信用創造はその過程において「信用」が不可欠となるはずでして、まあ国家というのは栄枯衰勢あるものでして、その信用がどの程度なのかはそう簡単な判断ではないと思うのですが、完全情報とは言わないまでも国家の信用がどの程度かというのは明示的にはわかりにくいものではないかと思うところです。

ケインズの理解でいえば、権丈先生はケインズの思想に至るまでの社会的・歴史的背景を吟味しながら議論されているので、その点を「信用」して参考にさせていただいているところでして、ケインズが投資と消費の関係をどのように考えていたのかについての権丈先生のご指摘を引用させていただきます。

We established in chapter 8 that employment can only increase pari passu investment unless there is a change in the propensity to consume.
(間宮訳「第8章でわれわれは、消費性向に変化がないとしたら、雇用の増加はただ投資の増加にともなってのみ起こりうることを確認した」)

僕は、「これなんだよなぁ。ケインズが線型の消費関数なんか定義するから、消費は所得で決まってしまい、需給ギャップを調整するのは投資しかないという妙な理屈がまかり通るようになってしまったんだよなぁ・・・」
彼「なるほど、そういうわけかぁ・・・」
と、ふたりで、投資の限界効率表なんてのは、あれは期待の話で、消費量が変われば期待としての限界効率表も動くに決まっているじゃないか、などなどと、iPad そっちので、『一般理論』の話で盛り上がる。

Consumption――to repeat the obvious――is the sole end and object of all economic activity.
(間宮訳「消費は、わかり切ったことを繰り返すなら、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である」)

この消費こそが、いま不足しているのである。
ところが、世の中の多くのひとは、ケインズが投資の話に論点を集中するために仮定した世界にとらわれてしまい、需給ギャップは投資で埋めると考えるばかりで、他の箇所ではケインズも結構論じている消費性向を高めていく政策には考えが及ばない。だから、需要不足があるんだから投資を増やさなければとばかり考える彼らと、現下の需要不足は主に消費が不足しているからと診る僕の話はかみ合わない――と言うよりも、彼らは間違い続けているように見える。

「勿凝学問 313 足りないのは、投資か消費か? 誤解の源はケインズの言葉だろうな(2010年6月8日 慶應義塾大学 商学部 教授 権丈善一)」


このようなケインズの「消費は、わかり切ったことを繰り返すなら、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である」という言葉が目に入らないような方々が世の中に増えてしまった理由を考えてみると、冒頭のクルーグマンの講演録の中にそのヒントがありますね。

ぼくが日々の仕事に使ってる経済学のブランドは――いまでも,これまでに登場してきたアプローチのなかでいちばん理に適ってると考えてるブランドは――その大部分を1948年にポール・サミュエルソンが確立したものです.1948年とは,サミュエルソンが古典的な教科書の第1版を出版した年です.このアプローチは,ミクロ経済学の立派な伝統とケインジアン・マクロ経済学を結合させています.ミクロ経済学は見えざる手のはたらきで一般に望ましい結果がもたらされる仕組みを強調します.他方,ケインジアン・マクロ経済学は,ケインズが言う「マグネトの故障」を経済がときとしてどのように発展させてしまうのかを強調します.この経済の「マグネトの故障」には政策の介入が必要となります.このサミュエルソンの総合では,おおよその完全雇用を確かなものとするのに政府をあてにしなくてはなりません.それが当然のこととなってはじめて,自由市場のおなじみの美徳は威力を発揮するのです.

これは実に理に適ったアプローチです――ただ,知的に不安定なアプローチでもあります.というのも,これには,経済に関する考え方になんらかの戦略的な不一致が必要となるからです.ミクロをやっているときには,合理的個人と急速にごたごたをととのえてしまう市場を仮定します.他方で,マクロをやっているときには,摩擦やアドホックな行動上の仮定は必要不可欠です.

それで? 有用な手引きを得ようとする際に首尾一貫しないことがあるのは,なんの悪徳でもありません.車を運転するときなら道路地図があれば事足りますが,ハイキングのときには等高線が入ったやつが必要でしょう.

「クルーグマン「ケインズ氏と現代人」(2013年12月5日)Paul Krugman, “Mr Keynes and the moderns,” VoxEU, June 21, 2011.」(経済学101)


クルーグマンはサミュエルソンの「新古典派総合」がもっとも理に適っているというわけですが、当のサミュエルソンはどうだったかというと、

さて,ここまでケインズの論を引用するサムエルソンは,さぞかしケインズの考えをしっかりと継承し,ケインズに心酔しているのかと思われるところであるが,どうもそうではないようなのである。サムエルソンのケインズ理解,ゆえに,サムエルソンの教科書『経済学』を通じて世界中に広まったケインズ理解は,間違った理解であったと攻撃する者は,ケインズから直接教えを受けた者たちをはじめ,現在に至るまで数多くいる。その一人ポール・デヴィッドソンは次のように言う。

1936年に『一般理論』を読んだ後でさえ,サムエルソンは,その分析が「好みに合わず」理解できないものであることに気づいたと述べていることである。サムエルソンはコランダーとランドレスとのインタビューの中で「最後にわたくしが納得したやり方は,ただそのことについて 〔ケインズの分析を理解することについて〕くよくよ悩まないことでした。わたくしが 自分に問いかけたのは,なぜ 自分は1933年から1937年までの上向きのルーズヴェルト景気を理解するのを可能にしてくれる理論枠組みを拒否するのか,でした。……わたくしは,ワルラスに代わるケインズの分析を有効なものにするのに十分な程度の相対価格・賃金の硬直性があると想定することに満足しました」 と言っている。言い換えれば,サムエルソンは,自分がケインズの分析を理解していなかったことを認めている。それどころか,かれは,ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである。
Paul Davidson(2009)/小 山庄三・渡辺良夫訳 (2011)『 ケインズ・ソリュー ション』183頁


ここで,サムエルソンの経済学で学んだ多くの人たちは,なぜ,ポール・デヴィッドソンは,サムエルソンを「ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである」と批判しているのかと思うかもしれない。
その理由は,ケインズは,貨幣を保蔵 (hoarding)したいという欲求がある社会,すなわち流動性選好理論が成り立つ貨幣経済 (monetary economy)を 前提に置けば,伸縮的賃金であっても硬直的賃金であっても失業は起こりうると考えていたからである。このことは,ケインズの次の言葉が端的に示している。

喩えて言えば,失業が深刻になるのは人々が月を欲するからである。欲求の対象 (貨幣)が生産しえぬものであり,その需要が容易には尽きせぬものであるとき,人々が雇用の口をみつけるのは不可能である。
Keynes(1936)/間 宮陽介訳 (2008)『 一般理論』上巻331頁

これは,将来,すなわち歴史的な時間の流れの中での「不確実性」に備えて価値保蔵手段としての貨幣に対する選好,他にも諸々の理由により貨幣を保蔵したい という欲求すなわち「金銭欲」が尽きず「物欲」に優る場合には失業が起こると言っているのである。ケインズの論の中では,失業発生の原因として硬直的賃金という条件は重要ではない。
権丈善一「社会保障—— サムエルソンと係わる経済学の系譜序説の経済学系統図と彼のケインズ理解をめぐって——」(三田商学研究 第55巻 第5号 2012年12月)


ということで、ケインズの理論は「好みに合わない」として、その提示する理論を勝手に読み替えていたわけです。サミュエルソンの『経済学』の教科書で学んだ経済学徒(クルーグマンもその一人のようですが)には、そのようなサミュエルソンの理解だけではなく、勝手に読み替えるという作法まで伝わってしまったということでしょうか。

さて、ここまでが私が望月夜さんと議論を共有できないと考える一つ目の理由です。長々と引用しましたが、消費性向を高める政策が必要とされるときに、直接的に消費を増やす政府支出の財源として、安定的に税収を確保すべきと個人的に考えています。これに対して、望月夜さん(が信奉するMMTやそれに類似する学派?)は、消費とトレードオフの関係にある貯蓄を増やすために投資としての国債を増発するべきと指摘されていらっしゃると見受けます。マクロではそういえる面もあることは否定しませんが、具体的に誰の貯蓄が増えて誰の消費が増えるのか、その調整はどのように実施するのかが不明であるためお伺いしたものの回答はなく、その過程で政府支出によって賄われる利払いを含めると迂遠で高コストな財政支出ではないかという私の指摘にも特に回答はないため、議論を共有することが難しいと判断するに至ったという次第です。

これに加えて二つ目の理由は、実はクルーグマンの講演録でちらっと言及されていることですが、「有用な手引きを得ようとする際に首尾一貫しないことがあるのは,なんの悪徳でもありません」ということです。一見すると、サミュエルソンのように勝手に読み替えることとの違いはないように思いますが、そうはいっても現実の手続きやら実務やらというのは、一貫した理論的背景があるわけではなく、その都度プレイヤー同士の交渉や力関係で決まるものでして、その当事者同士の利害関係などがわからない部外者にとっては理不尽だったり整合性がないように見えたりするのが実態であってみれば、整合性のない理論を組み合わせて現実の実務を理解することも必要になります。

まあ、順番からいえば、先人達が歴史的経緯の中で築き上げてきた交渉や取り決めが制度化され、その制度化された世の中を主に行動の面から、時に数理的な手法を用いて分析するのが経済学という学問であることからすると、経済学が制度分析に理論を提供することはあっても、理論に基づいた制度設計が功を奏するのは、その理論がそれまでに築き上げてきた交渉や取り決めに匹敵するだけの利害調整機能を持っていることが必要条件となるはずです。つまり、いかにこれまでの制度が理不尽で整合性のないものであっても、その裏に営々と積み上げられてきた交渉や取り決めを取っ払うような制度改正は関係当事者の合意を取り付けることはできず、逆に制度として不都合であっても、当事者が合意している限りは制度として機能することになります。

このような取り決めによって形成されたものとして典型的なのは日本型雇用慣行でして、確かに職務無限定で単身赴任を伴う転勤が強要できて年功的な職能資格給を核とする働き方は、長時間労働を抑制することができず少子化の一因にもなっているものの、長期的に雇用を安定させつつ学校教育では習得できない職業上のスキルを身につけるための人事異動を可能にするのもまた、日本型雇用慣行なわけです。これを例えば欧米型のジョブ型雇用に一気に転換せよといっても、実際に就職している労働者の大半は就職してから年金保険料を支払いながら年金を受給するまでに40年程度の職業人生を確保しなければならないわけで、現在の就職先でそれを確保するのが合理的である以上それを前提として職業人生が設計されているのが現実です。その実態を前にすれば、結局漸進的に少しずつ働き方を変えながら労働者側と使用者側の利害関係を調整しなければなりません。

私も現在の雇用慣行には大きな問題があって持続可能的ではないと考えていますが、それを変えていくのは労働者の人生を流れる時間との根気強い付き合いの中でしか可能ではないというのが現実でしょう。同じく政府支出や税制を含む財政政策や金融政策も今のやり方に問題があるからといって、その裏に積み上げられてきた交渉や取り決めをひっくるめて制度そのものを潰してしまうやり方は、禍根を残すばかりで機能はしない可能性が高いと考えます。まあそれでもやるというならそれも一つの政治的考えではあります。結局また権丈先生の言葉を引用してしまうのですが、

「政策は、所詮、力が作るのであって正しさが作るのではない。」
http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/kenjoh/


経済学における「正しさ」とは、各学派がそれぞれ「正しい」と信奉する何かであるに過ぎず、現実の世界では利害関係の当事者の交渉や取り決めで少しずつ築き上げた制度があるのみです。経済学の各学派がそれぞれ経済学的な「正しさ」を競い合うのは、まあそれぞれの思考実験として邁進されることは素晴らしいことかとは思いますが、拙ブログでは今後とも制度をどのように(内容のみではなくその過程を含めて)変えるべきなのか考えていきたいと思います。

(2017.1.8追記)
年を越えて引っ張るのもなんですが、このエントリのきっかけとなったお二人のコメント(http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-711.html#comment)を拝見していると、公共政策についての議論の難しさを改めて認識いたします。公共政策は繊細な議論ですので危険ではありますが、あえて模式化してみると、再分配や雇用・労働の制度に関する問題をAとして、Aの制度にまつわる問題をどのように解決すべきかという議論をしているのが拙ブログのスタンスでして、そのための財源の制度に関する問題をBとすると、本エントリで書いたような制度の裏付け(交渉と取り決めによるフロー支出はフロー財源で賄うという原則)を踏まえつつ、Bについては増税の必要性があると考えています(その理由は本エントリや上記エントリの参照先をご笑覧ください)。

というところで、Bについて異論をお持ちの方から、Cという考え方があるとか不正確とかいろいろなコメントをいただきまして、ではそのCの考え方なり私の記述の不正確さを正すなりによって、Aの問題についてどのような制度的解決が構想されるかについてお考えをお伺いしたところ、「急に「公共政策はどうあるべきか」という全く別の議論を持ってきて」とか「私は広い視野など持ち合わせておりません」という回答しかいただけないのが現実ですね。

私はBの議論に特化してその是非を論じているわけではありませんので、Aの問題が解決なり改善するのであれば、Bに関して増税にこだわるものではありません。そもそも増税が景気後退させることまで否定していませんし(中里先生がおっしゃるナローパスが重要だと考えています)、増税と現物給付との差引においていかに安定的に社会全体の消費を確保するかという経路が制度によって担保されることが重要と考えています。つまり、現状において制度による裏付けが弱いAとBの紐付けをいかに強化するかという点が私の関心なのですが、世の中にはBさえ何とかなればAは自動的に改善するとお考えの方がいらっしゃって、もしかするとそっちの方が多数派だというのが実態なのでしょう。

現実の制度においては、「その他の要件が変わらないのであれば、政府支出の対GDP比は現状のままであるはずでして、教育の無償化だの待機児童の解消だの医療行為に対する診療報酬の引き上げによる医療体制の拡充だのという再分配政策の支出構造は変わらない」わけでして、そのために制度の裏側にある利害関係の当事者による交渉や取り決めを踏まえつつ、どのように政府の支出構造という制度を変えていくかを考える必要があります。その際に決定的に重要になるのは、生産物はストックできないということであって、「「共同体の構成メンバーは連帯して共通の規範を守るべきであり、メンバーの中に苦境に立たされる者がいれば協力して支えなければならない」というsocialな考え方を理解できるか、「効率的な現金給付」で事足りるとする経済学的な議論の問題点を理解できるかというのが、労働政策に裏付けされた現物給付による社会保障や再分配を議論する上で、問われている」のですが、こういう議論が共有される世の中というのはこれまでも、そしてこれからしばらくも期待できそうにありません。himaginaryさんがおっしゃるように「「労働政策や所得再配分政策に関する論争が前面に出てくる」状況を目撃することは贅沢なこと」なんですねえ。

2016年11月29日 (火) | Edit |
再びコメントをいただきながらこちらからのコメントが遅くなりまして申し訳ございません。こちらからのコメントが長くなりましたので、新しいエントリにしました。まずは、望月夜さんからいただいたコメントですが、

>「因習の打破」という趣旨が不明ではあるものの、管見では「政府が債務と思っているのは因習のせいだから、会計上整理をすれば国債費を償還する必要はない」というのが一つの理解としてありそうです。


別に各債券の償還は随時行えばいいと思うのだが、借換(差し引きで見れば借り増しでもある)を並行して行えばいいという趣旨。
これは私がとやかく言うまでもなく、実際の政府財政実務で起こっていることだ。

これに対し、「いつかはそうやって積み増された政府債務についても完済していかなければならない」、あるいは、譲歩した見解としては「名目GDP比で見てある値以下にならなければならない」というもの(これらがいわゆる「因習」)があるのだが、いずれも「そうであるべき根本的理由」というものが薄弱である、と言いたいわけである。

もしインフレが問題だとすれば、指標にすべきはインフレあるいはインフレ予想のみにするべきであって、政府債務の完済であるとか、GDP比で見た低位安定だとかは目標たりえないわけだ。


あと、このブログの記述を見る限り、私の連ツイの趣旨、すなわち、「主流派経済学が過剰政府債務の問題を論ずるとき、どういうロジックに依って議論しているか」について本当にご理解いただけたのか、著しく不安になった次第をお伝えしておきたい。

2016/11/21(月) 08:50:29 | URL | 望月夜 #-[ 編集]


まあ確かに「「主流派経済学が過剰政府債務の問題を論ずるとき、どういうロジックに依って議論しているか」について本当にご理解いただけたのか、著しく不安」なのは私も同じ感想でして、主流派経済学における「過剰」な政府債務とはどの時点からを指すのか、あるいはそのストックの債務の基となるフローの新規国債はどの程度が適正か(それは税収との差し引きなのですが)を望月夜さんがどうお考えなのかはよく理解できておりません。また同時に、望月夜さんの「借換(差し引きで見れば借り増しでもある)」が「実際の政府財政実務で起こっている」というご指摘を拝見するに、財政の実務の現場でどのような処理をしているのかご存じなのかは著しく不安ではあります。

まあそれはともかく、国債が資産であることそのものは事実ですが、個人が資産保有の手段として国債を保有し、政府はそれを国債の原資として財源確保するということになると、それは政府支出を拡大するために個人の資産をできるだけ拡大しなければならないことを意味するものと思います。となると、個人が資産を拡大することを前提とする点において、その資産形成における格差を容認することになりますから、(結果として)「r>g」が格差の主因であるとしたピケティを批判するお立場なのだろうと思います。その格差は、政府と個人の間での資産による債権債務関係を基礎とした「再分配」でもって是正すればよいということなのでしょう。

言い換えると、政府が民間のストックと政府のストックを引き換えに発生(accrue)させることにより、政府支出を増加させるという経路を想定されている(というか現状でそうなっていると認識されている)ように思いますので、そのような想定の前提として民間のストックが潤沢に存在しなければならず、その結果として生じる民間のストックの保有具合による格差は容認されるということになろうかと。ピケティはそのような格差の解決策として、直接的な資産課税によって再分配を行うべきとしているのに対して、望月夜さんはむしろ貯蓄や投資による資産形成を前提とされる点では、まさに正反対の方向を向いていらっしゃると考えます。

したがって、現状の再分配を拡充するためには、各個人の(定義により投資と同値の)貯蓄を拡大しなければならないはずですが、それはとりもなおさず流動性選好が強くなっている状態であり、すなわち再分配を拡充するためにはデフレであることが必要ということになります。つまり、Savingが定義によりInvstigationと同値であり、Saving=Income-Consumptionである経済学の世界では、Savingを拡大することによってしか国債を財源とする再分配が実現できなくなります。

まあ確かにwankonyankorickさんは、

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
MMTの、少なくと「第一世代」は、どうやら「デフレ派」とやらに該当するらしい。。。。。まあ、少なくともインフレは回避すべきといってるから、そうなのかな。。。。
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800339637424132097

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
土建についてだって、アメリカ(彼らの主たる舞台はアメリカだから)ではインフラの劣化がひどすぎるから、土建に肩入れしなきゃならない、そのための遊休労務者や遊休資源はある、という話で、それで景気を改善しようという話ではない。そんなんで景気を改善しようとしたら、完全雇用の前にインフレに
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800340595659022336

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
なっちゃって困る、と言ってんだから、まあ、分けるとすれば、デフレ派だわな。。。。
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800340595659022336

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
@wankonyankorick 個人的には、不況期の雇用確保のために土建予算がふやされることは全く抵抗ないが、それが景気刺激策といわれると、かなり抵抗ある。その意味で、「MMTはデフレ派」と決めつけられることは、「リフレ派」「日銀理論」「重税国家」「無税国家」
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800344908171091970

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
@wankonyankorick 「買弁理論」「極左」と言った決めつけよりは、多少は居心地良い。
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800345419687432193



とおっしゃっていますので、MMTのような立場からすればいかに民間部門の貯蓄やその定義として同値の投資を増やすかが財源問題の解決策であって、その貯蓄や投資を増やすためにデフレになっても財源さえ確保できればよいのかもしれません。貯蓄や投資が増えると流動性選好が高まり、その結果として消費が抑制され、消費が抑制されると経済が縮小し…というデフレ・スパイラルが生じても、政府債務は償還する必要がないという立場からは特に関知しないということであれば、なかなかに理解が及ばない世界だなあという印象です。いやもしかすると、政府支出の財源が民間の国債による資産形成に支えられているために、流動性選好が高まって貯蓄や投資などの資産を有する層の消費が抑制されるというその世界は、どこかで経験している現実の世界なのかもしれませんけど。

まあ拙ブログでは、ストックを介するような迂遠な手法よりも、どちらかといえばピケティ寄りの考えに共感しますので、増税によって国民負担率を引き上げて、ストックを介さずにフローからフローへの再分配(その意味ではピケティのストックに対する資産課税はちょっと違和感がありますが)として現役世代の必要原則に応じた消費(医療、介護などの福祉や、保育や教育)を政府支出によって賄うことで拡充する方が効率的ではないかと考えていますが、まあ考え方の違いは如何ともし難いですね。

なお、ストックを介した財源調達では、国債という資産を有する層に対する(元本を除いたとしても)利払い費を政府支出で賄う必要がありますので、その分は再分配の目的である(資本保有具合による)格差の是正とは相容れないと思われます。ただし、その利払い費が再分配を実施するために資産を有する層に補償するためのコストであるとするなら、そのコストをかけなければ再分配の拡充が実現できないという民主主義の限界を示すものと理解しなければならないのかもしれません。つまり、再分配は民間の資産というストックを国債という政府のストックに置き換えて現金化しなければ実現されないものであり、その実施に当たっては、資産を保有する層がその資産から発生するゲインの支払いを政府に要求するために、再分配に要する財源だけではなく資産を保有する層への利払い費を政府支出で賄うという高コストな構造がこの国の現状なのでしょう。その高コストな構造を生み出しているのは、ほかでもない国民の政府不信なのですが、まあそれを選択するのも民主主義ですね。

財政の利払い費負担が増加することは,所得の再分配に関わる問題である。財政学における伝統的議論であるが,財政の利払い費は国債保有者に支払われ,一方利払い費増加により増税されるため,租税負担が増加する4)。この場合,租税負担の帰着により,所得の再分配が発生する。現在の日本で,国債保有者は民間銀行や日本銀行が中心であり,銀行が国債から金利収入を受け取っている。納税者から銀行への所得再分配の可能性が否定できない。

脚注
4) 1920年代のイギリスでは,国債保有者がレントナー(かの J.M. ケインズが金利生活者の利子安楽死として攻撃した)と呼ばれた個人富裕層であり,他方で増税が間接税であったため,社会的対立が生まれた。拙著,『現代イギリス財政論』,勁草書房,1999年,56ページ。

(PDF)代田純「超長期国債の借換発行増加と国債整理基金特別会計・日本銀行」(証券経済研究 第89号(2015 . 3))


まあこの代田論文の他の部分では、「しかも特別会計は,一般会計や財政投融資と異なり,国会で審議される必要もないため,一般に実像は見えにくい。」なんて書いていまして(詳しくは「特別会計のはなし」かこちらのPDFの5ページ目などを参照)制度への理解に一抹の不安がないではないですが、まあ政府支出としての国債の(元)利払いが支払われる先についても一考の余地はありそうです。

ということで、asdさんのコメント(2016/11/21(月) 19:18:26 | URL | asd)については、拙ブログをご覧になった方にご判断をお任せしたいと思います。

2016年11月20日 (日) | Edit |
「経済学的に正しい」方々から続けてコメントをいただきましたので、エントリでまとめてご紹介しておきます。まずは、望月夜さんからいただいたコメントです。

>税の規模と政府の規模が不可避的に一致する必要がないからこそ、税収以上の政府支出を数十年にわたって継続している現状があって、それが「過小な」政府支出しかもたらしていないのであれば、それはとりもなおさず税収が「過小」であることの証左ではないか


これは、すでに論じた事項ではあるのだが、繰り返しで反論させていただくと、税の過少が政府規模の過少を招くとすれば、それは税の過少それ自体に基礎づけられているというより、均衡財政の神話(いつかはPB黒字化に向かわなければならないという根拠なき信仰)による政治的な迷妄に基礎づけられているわけであって、その場合、目指すべきは、税収の確保ではなく、因習の打破なのではないか、と私は理解している。
2016/11/17(木) 08:52:51 | URL | 望月夜 #-[ 編集]


増税の話をすると「均衡財政の神話」という反論をいただくことが多いのですが、いついかなるときも均衡財政を維持している国はおそらく古今東西存在しないのではないかと思います。国民負担率が50%を超えるドイツ、スウェーデン、フランスの政府債務の対GDP比はいずれも50%を超えていて、フランスに至っては100%を超えていますので、先進諸国が日本よりも高い国民負担率を維持している理由が、「均衡財政の神話に基づいて」いるわけではないのではないかと。
 国民負担率
(社会保険負担率+租税負担率)
社会保障負担率租税負担率対GDP政府債務残高
ドイツ52.6%22.2%30.4%82%
スウェーデン55.7%5.7%49.9%57%
フランス67.6%26.9%40.7%111%
アメリカ32.5%8.3%24.2%125%
日本41.6%17.5%24.1%240%

出典:国民負担率(社会保障負担率と租税負担率)は「国民負担率(対国民所得比)の内訳の国際比較(日米英独仏瑞)(財務省)」、対GDP政府債務残高は「General government debt (OECD)」の2013年度

さて、望月夜さんのご主張は、

緊縮ではない財政 http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-705.html …

「将来の経済成長の果実を過去の債務償還に食い尽くされる」

とのことなのだが、この表現はあらゆる所で散見されるにも関わらず、その具体的実務的形態が論じられたことがほとんどない。

望月夜 ‏@motidukinoyoru 10月29日


というtweetから拝見しているところですが、このtweetでおっしゃる「その具体的実務的形態」というのは結局「税収の確保ではなく、因習の打破」ということなのかもしれませんね。「因習の打破」という趣旨が不明ではあるものの、管見では「政府が債務と思っているのは因習のせいだから、会計上整理をすれば国債費を償還する必要はない」というのが一つの理解としてありそうです。となると、各年度に計上されている公債費(債務遺体する元利償還金)は不要な支出ということになります。まあ公債費がゼロになっても、平成28年度の一般会計(当初)でいえば、たったの58兆円程度の税収でもって、73兆円の政府支出だけでなく23兆円を超える公債費を計上して、34兆円を超える新規国債を発行していますので、そのうち11兆円程度の新規国債発行がなくなる程度ですけど。

ついでに、政府「債務」と呼ばれるのは、それが債権者にとっては債権として(保険会社や銀行などの投資機関の運用益等)の給付を受ける権利となっているからというのが一般的な理解と認識しているところでして、その債権債務関係を解消する「具体的実務的形態」についてすでに十分に議論し尽くされているとは思われませんが、まあその辺は残念ながら浅学非才な私には及び知らない世界があるのでしょう。

ところで望月夜さんは、さらに政府支出を増額してその分を新規国債で賄えばよいという立場かと見受けますが、その新規国債で賄うべき政府支出の額はどのくらいになるとお考えなのかは不明です。「政府債務の償還は因習である」とまでおっしゃるのであれば、政府支出は青天井として問題なさそうですので、各省庁なり自治体で選良の皆様が要求する事業にはすべて財源を用意して実施するというのも一つの考え方かと思います。なんというか、インフルエンス活動の全面解禁につながりそうですが、「しかし、実務というのは批判されたからといってすぐには変えられない(インフルエンス活動による効用が低い)から実務なのであって、消費者の批判に応えるためだけの実務なんてものには政策実現性(フィージビリティ)がそもそも担保されてはいません」ので、望月夜さんがお考えの「具体的実務的形態」の謎は深まるばかりという印象です。

次は初めてコメントをいただく方ですが、

初めまして。
「経済学的に正しい」こと(笑)を言わせて頂きますと、「経済学的に正しい」人達が目指しているのは無税国家ではなく、デフレギャップの解消ですよ。デフレギャップが解消され、インフレ圧力が問題になるときはむしろ緊縮財政せよと主張します。

あと、そういった面々(まあ私もそうですが)は最初から隠れ蓑など使わず一貫して増税派も浜田宏一岩田規久男リフレ派も批判してますので、認知的不協和は勿論発生しておらず、当然新たな理論なども全く待ち望まれてないですよ。
2016/11/20(日) 11:56:55 | URL | asd #-[ 編集]


「そういった面々(まあ私もそうですが)は最初から隠れ蓑など使わず一貫して増税派も浜田宏一岩田規久男リフレ派も批判してます」とのことで、asdさんのような方々にとっては私の懸念は杞憂に終わったようですので、誠にご同慶に存じます。

ということで、いただいた二つのコメントを拝見してみるに、ハジュン・チャン氏が指摘されるような様相を呈しているのは経済学方面の通常運転というべきでしょうか。

 大半のエコノミストの喧伝に反して、経済学には新古典学派の1種類しかないわけではない。本章では少なくとも9つの学派を紹介する。
 これら学派は不倶戴天の敵どうしというわけではない。むしろ互いの境はえてして漠然としている。経済学を概念化し説明する上ではさまざまな方法があること、いずれの学派も優位性を主張したり唯一の真理を自称できないことがわかればいいのだ。
チャン『同』p.102


いあまあ身も蓋もない指摘ですが、「経済学的な正しさ」というのは「ある考え方に基づいたときの推論」程度に考えるのが吉といえそうです。
(略)

 政府の失敗論は、経済あるいは市場の論理が政治に——そして芸術や学問など暮らしのその他の領域にも——優先すべきとするものだ。昨今ではとても広く受け入れられており、ほとんど当たり前になっている論だ。だがそこには深刻な瑕疵がある。
 第一に——エコノミスト以外にとっては当たり前だが多くのエコノミストにとっては受け入れ難いことに——そもそも市場の論理を暮らしの他の面に優先させるべき理由がない。人はパンのためにのみ生きているわけではないのだ。
 さらにこの議論は、何が市場に属し何が政治の領域に属するかをきっぱりと分つ「科学的」な方法があると暗に仮定して成り立っている。例えば、政府の失敗論者は、最低賃金規則や幼稚産業に対する関税保護などを、神聖冒さざる市場の論理に「政治的」論理を押し付けるものという。だがこれらの政策を正当化する経済理論は現に存在する。それなら彼らの実態は、他の経済理論に「政治的」とレッテルを貼って貶め、自分の主張が正当なのだ、これこそ経済理論だとばかりに言いつのっているにすぎない
チャン『同』p.364


折衷主義は、むしろ強み(2016年10月30日 (日))


なお、私が増税が必要だと指摘していることをもって「デフレ派」とか「反成長派」とか「反経済学派」に括られることも多いのですが、「結局のところ、拠出と給付の差し引きというネットの所得再分配機能の評価が重要になるわけです。まさに中里先生の資料の冒頭に出てくる「経済財政運営におけるナローパス」を慎重に求めることが必要」と考えていますので、できれば無用なレッテル貼りはご容赦いただけると幸いです。