2016年12月31日 (土) | Edit |
ケインズの「一般理論」はその晦渋な書きぶりでいろいろな読み方をされているところでして、ケインズの名を冠した学派はオールド・ケインジアンや新古典派統合を経たニュー・ケインジアンから、マルクス経済学と接近したポスト・ケインジアン等々諸説が乱立していますが、その中にはケインズのつまみ食いで「ケインズ」を名乗る場合も多いように思います。クルーグマンは特にその場その場で議論を使い分けるので「つまみ食い」の印象が強いのですが、望月夜さんのコメントで教えていただいた講演録はまさにその典型のようです。

この講演でやりたいことを簡潔に言えば,まずケインズの読み方について――というか,ぼくが好むケインズの読み方について――お話することです.
(略)
『一般理論』でカギとなるメッセージとすべくケインズが意図していたことは,いったいなんでしょうか? ぼくの答えはこうです――「そいつは伝記作家や思想史家の仕事ですな」.べつに,「どうでもいい」とまでは言いませんが,なによりも重要なことではないでしょう.古いネタにこんなのがあります.美術館の来訪者が,ジョージ・ワシントンの肖像画をじっくり鑑賞して,守衛に「ほんとにこんな外見だったの?」と尋ねます.守衛が答えて,「いまの外見はそこにあるとおりだよ」.ケインズについても,ぼくの感覚はこれとだいたい同じです.大事なのはケインズからなにを引き出すかであって,彼が「ほんとうに」言わんとしたことではありません
(略)
ともかく自分の見解を言えば,ぼくは基本的に第1巻さんです.そこに第13章と第14章の中身もかなり加えます.その話はこのあとすぐしましょう.第12章はすばらしい読み物ですし,「市場は賢明で合理的だ」と仮定してかかる経済学者にありがちな傾向を調べるのにすごくべんりではあります.でも,ぼくがいつも経済学に求めているのは「直観ポンプ」です――つまり,言葉あそびや偏見にはまらず経済状況を考える方法,いくらか深い洞察をもたらしてくれそうな方法を求めているんです.

「クルーグマン「ケインズ氏と現代人」(2013年12月5日)Paul Krugman, “Mr Keynes and the moderns,” VoxEU, June 21, 2011.」(経済学101)
※ 以下、強調は引用者による。

長いので引用は省きましたが、引用部より前の部分で「まさしくケインズが75年前に格闘していたのと同じ問題がかかわっています」といいながら、そのケインズが言わんとしたことはどうでもよくて自分の好きな読み方を披瀝するというのは、場合によっては歴史修正主義との誹りを免れないでしょうけれども、天下のノーベル記念スウェーデン銀行賞受賞者にはそうした批判はされないんですね。

でまあ、ケインズの理解についてはケインズの言わんとしたことをきちんと理解した上で、その洞察に学ぶことが重要ではないかと考えているところでして、

 新ケインズ派のモデルは今回の危機であらわれた事実にかなりよく一致しているように思える。たとえば、銀行が融資を行った相手には、返済がまったくできない借り手が入っていたといった事実である。そのモデルの欠陥は、ローンの借り手や保険の買い手など、誰かが完全な情報をもっていると想定していたことだ。ところが今回の危機では、不確実性という問題があり、導く側も導かれる側も将来を理解できていなかったことが明らかになった。
(略)
ドナルド・ラムズフェルドの忘れがたい言葉を使うなら、「未知の未知」こそが躓きになるのである。誰かひとりが完全な情報をもっていれば、経済全体が危機に陥ることはない。だが、完全な知識をもっているのは神だけであり、神が株式市場で投資を行うことはない。
pp.82-83

なにがケインズを復活させたのか?―ポスト市場原理主義の経済学―
ロバート・スキデルスキー 著/山岡洋一 訳
定価(本体2,000円 +税)
四六判 上製 320 ページ
978-4-532-35402-2
2010年1月発売

信用創造はその過程において「信用」が不可欠となるはずでして、まあ国家というのは栄枯衰勢あるものでして、その信用がどの程度なのかはそう簡単な判断ではないと思うのですが、完全情報とは言わないまでも国家の信用がどの程度かというのは明示的にはわかりにくいものではないかと思うところです。

ケインズの理解でいえば、権丈先生はケインズの思想に至るまでの社会的・歴史的背景を吟味しながら議論されているので、その点を「信用」して参考にさせていただいているところでして、ケインズが投資と消費の関係をどのように考えていたのかについての権丈先生のご指摘を引用させていただきます。

We established in chapter 8 that employment can only increase pari passu investment unless there is a change in the propensity to consume.
(間宮訳「第8章でわれわれは、消費性向に変化がないとしたら、雇用の増加はただ投資の増加にともなってのみ起こりうることを確認した」)

僕は、「これなんだよなぁ。ケインズが線型の消費関数なんか定義するから、消費は所得で決まってしまい、需給ギャップを調整するのは投資しかないという妙な理屈がまかり通るようになってしまったんだよなぁ・・・」
彼「なるほど、そういうわけかぁ・・・」
と、ふたりで、投資の限界効率表なんてのは、あれは期待の話で、消費量が変われば期待としての限界効率表も動くに決まっているじゃないか、などなどと、iPad そっちので、『一般理論』の話で盛り上がる。

Consumption――to repeat the obvious――is the sole end and object of all economic activity.
(間宮訳「消費は、わかり切ったことを繰り返すなら、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である」)

この消費こそが、いま不足しているのである。
ところが、世の中の多くのひとは、ケインズが投資の話に論点を集中するために仮定した世界にとらわれてしまい、需給ギャップは投資で埋めると考えるばかりで、他の箇所ではケインズも結構論じている消費性向を高めていく政策には考えが及ばない。だから、需要不足があるんだから投資を増やさなければとばかり考える彼らと、現下の需要不足は主に消費が不足しているからと診る僕の話はかみ合わない――と言うよりも、彼らは間違い続けているように見える。

「勿凝学問 313 足りないのは、投資か消費か? 誤解の源はケインズの言葉だろうな(2010年6月8日 慶應義塾大学 商学部 教授 権丈善一)」


このようなケインズの「消費は、わかり切ったことを繰り返すなら、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である」という言葉が目に入らないような方々が世の中に増えてしまった理由を考えてみると、冒頭のクルーグマンの講演録の中にそのヒントがありますね。

ぼくが日々の仕事に使ってる経済学のブランドは――いまでも,これまでに登場してきたアプローチのなかでいちばん理に適ってると考えてるブランドは――その大部分を1948年にポール・サミュエルソンが確立したものです.1948年とは,サミュエルソンが古典的な教科書の第1版を出版した年です.このアプローチは,ミクロ経済学の立派な伝統とケインジアン・マクロ経済学を結合させています.ミクロ経済学は見えざる手のはたらきで一般に望ましい結果がもたらされる仕組みを強調します.他方,ケインジアン・マクロ経済学は,ケインズが言う「マグネトの故障」を経済がときとしてどのように発展させてしまうのかを強調します.この経済の「マグネトの故障」には政策の介入が必要となります.このサミュエルソンの総合では,おおよその完全雇用を確かなものとするのに政府をあてにしなくてはなりません.それが当然のこととなってはじめて,自由市場のおなじみの美徳は威力を発揮するのです.

これは実に理に適ったアプローチです――ただ,知的に不安定なアプローチでもあります.というのも,これには,経済に関する考え方になんらかの戦略的な不一致が必要となるからです.ミクロをやっているときには,合理的個人と急速にごたごたをととのえてしまう市場を仮定します.他方で,マクロをやっているときには,摩擦やアドホックな行動上の仮定は必要不可欠です.

それで? 有用な手引きを得ようとする際に首尾一貫しないことがあるのは,なんの悪徳でもありません.車を運転するときなら道路地図があれば事足りますが,ハイキングのときには等高線が入ったやつが必要でしょう.

「クルーグマン「ケインズ氏と現代人」(2013年12月5日)Paul Krugman, “Mr Keynes and the moderns,” VoxEU, June 21, 2011.」(経済学101)


クルーグマンはサミュエルソンの「新古典派総合」がもっとも理に適っているというわけですが、当のサミュエルソンはどうだったかというと、

さて,ここまでケインズの論を引用するサムエルソンは,さぞかしケインズの考えをしっかりと継承し,ケインズに心酔しているのかと思われるところであるが,どうもそうではないようなのである。サムエルソンのケインズ理解,ゆえに,サムエルソンの教科書『経済学』を通じて世界中に広まったケインズ理解は,間違った理解であったと攻撃する者は,ケインズから直接教えを受けた者たちをはじめ,現在に至るまで数多くいる。その一人ポール・デヴィッドソンは次のように言う。

1936年に『一般理論』を読んだ後でさえ,サムエルソンは,その分析が「好みに合わず」理解できないものであることに気づいたと述べていることである。サムエルソンはコランダーとランドレスとのインタビューの中で「最後にわたくしが納得したやり方は,ただそのことについて 〔ケインズの分析を理解することについて〕くよくよ悩まないことでした。わたくしが 自分に問いかけたのは,なぜ 自分は1933年から1937年までの上向きのルーズヴェルト景気を理解するのを可能にしてくれる理論枠組みを拒否するのか,でした。……わたくしは,ワルラスに代わるケインズの分析を有効なものにするのに十分な程度の相対価格・賃金の硬直性があると想定することに満足しました」 と言っている。言い換えれば,サムエルソンは,自分がケインズの分析を理解していなかったことを認めている。それどころか,かれは,ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである。
Paul Davidson(2009)/小 山庄三・渡辺良夫訳 (2011)『 ケインズ・ソリュー ション』183頁


ここで,サムエルソンの経済学で学んだ多くの人たちは,なぜ,ポール・デヴィッドソンは,サムエルソンを「ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである」と批判しているのかと思うかもしれない。
その理由は,ケインズは,貨幣を保蔵 (hoarding)したいという欲求がある社会,すなわち流動性選好理論が成り立つ貨幣経済 (monetary economy)を 前提に置けば,伸縮的賃金であっても硬直的賃金であっても失業は起こりうると考えていたからである。このことは,ケインズの次の言葉が端的に示している。

喩えて言えば,失業が深刻になるのは人々が月を欲するからである。欲求の対象 (貨幣)が生産しえぬものであり,その需要が容易には尽きせぬものであるとき,人々が雇用の口をみつけるのは不可能である。
Keynes(1936)/間 宮陽介訳 (2008)『 一般理論』上巻331頁

これは,将来,すなわち歴史的な時間の流れの中での「不確実性」に備えて価値保蔵手段としての貨幣に対する選好,他にも諸々の理由により貨幣を保蔵したい という欲求すなわち「金銭欲」が尽きず「物欲」に優る場合には失業が起こると言っているのである。ケインズの論の中では,失業発生の原因として硬直的賃金という条件は重要ではない。
権丈善一「社会保障—— サムエルソンと係わる経済学の系譜序説の経済学系統図と彼のケインズ理解をめぐって——」(三田商学研究 第55巻 第5号 2012年12月)


ということで、ケインズの理論は「好みに合わない」として、その提示する理論を勝手に読み替えていたわけです。サミュエルソンの『経済学』の教科書で学んだ経済学徒(クルーグマンもその一人のようですが)には、そのようなサミュエルソンの理解だけではなく、勝手に読み替えるという作法まで伝わってしまったということでしょうか。

さて、ここまでが私が望月夜さんと議論を共有できないと考える一つ目の理由です。長々と引用しましたが、消費性向を高める政策が必要とされるときに、直接的に消費を増やす政府支出の財源として、安定的に税収を確保すべきと個人的に考えています。これに対して、望月夜さん(が信奉するMMTやそれに類似する学派?)は、消費とトレードオフの関係にある貯蓄を増やすために投資としての国債を増発するべきと指摘されていらっしゃると見受けます。マクロではそういえる面もあることは否定しませんが、具体的に誰の貯蓄が増えて誰の消費が増えるのか、その調整はどのように実施するのかが不明であるためお伺いしたものの回答はなく、その過程で政府支出によって賄われる利払いを含めると迂遠で高コストな財政支出ではないかという私の指摘にも特に回答はないため、議論を共有することが難しいと判断するに至ったという次第です。

これに加えて二つ目の理由は、実はクルーグマンの講演録でちらっと言及されていることですが、「有用な手引きを得ようとする際に首尾一貫しないことがあるのは,なんの悪徳でもありません」ということです。一見すると、サミュエルソンのように勝手に読み替えることとの違いはないように思いますが、そうはいっても現実の手続きやら実務やらというのは、一貫した理論的背景があるわけではなく、その都度プレイヤー同士の交渉や力関係で決まるものでして、その当事者同士の利害関係などがわからない部外者にとっては理不尽だったり整合性がないように見えたりするのが実態であってみれば、整合性のない理論を組み合わせて現実の実務を理解することも必要になります。

まあ、順番からいえば、先人達が歴史的経緯の中で築き上げてきた交渉や取り決めが制度化され、その制度化された世の中を主に行動の面から、時に数理的な手法を用いて分析するのが経済学という学問であることからすると、経済学が制度分析に理論を提供することはあっても、理論に基づいた制度設計が功を奏するのは、その理論がそれまでに築き上げてきた交渉や取り決めに匹敵するだけの利害調整機能を持っていることが必要条件となるはずです。つまり、いかにこれまでの制度が理不尽で整合性のないものであっても、その裏に営々と積み上げられてきた交渉や取り決めを取っ払うような制度改正は関係当事者の合意を取り付けることはできず、逆に制度として不都合であっても、当事者が合意している限りは制度として機能することになります。

このような取り決めによって形成されたものとして典型的なのは日本型雇用慣行でして、確かに職務無限定で単身赴任を伴う転勤が強要できて年功的な職能資格給を核とする働き方は、長時間労働を抑制することができず少子化の一因にもなっているものの、長期的に雇用を安定させつつ学校教育では習得できない職業上のスキルを身につけるための人事異動を可能にするのもまた、日本型雇用慣行なわけです。これを例えば欧米型のジョブ型雇用に一気に転換せよといっても、実際に就職している労働者の大半は就職してから年金保険料を支払いながら年金を受給するまでに40年程度の職業人生を確保しなければならないわけで、現在の就職先でそれを確保するのが合理的である以上それを前提として職業人生が設計されているのが現実です。その実態を前にすれば、結局漸進的に少しずつ働き方を変えながら労働者側と使用者側の利害関係を調整しなければなりません。

私も現在の雇用慣行には大きな問題があって持続可能的ではないと考えていますが、それを変えていくのは労働者の人生を流れる時間との根気強い付き合いの中でしか可能ではないというのが現実でしょう。同じく政府支出や税制を含む財政政策や金融政策も今のやり方に問題があるからといって、その裏に積み上げられてきた交渉や取り決めをひっくるめて制度そのものを潰してしまうやり方は、禍根を残すばかりで機能はしない可能性が高いと考えます。まあそれでもやるというならそれも一つの政治的考えではあります。結局また権丈先生の言葉を引用してしまうのですが、

「政策は、所詮、力が作るのであって正しさが作るのではない。」
http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/kenjoh/


経済学における「正しさ」とは、各学派がそれぞれ「正しい」と信奉する何かであるに過ぎず、現実の世界では利害関係の当事者の交渉や取り決めで少しずつ築き上げた制度があるのみです。経済学の各学派がそれぞれ経済学的な「正しさ」を競い合うのは、まあそれぞれの思考実験として邁進されることは素晴らしいことかとは思いますが、拙ブログでは今後とも制度をどのように(内容のみではなくその過程を含めて)変えるべきなのか考えていきたいと思います。

(2017.1.8追記)
年を越えて引っ張るのもなんですが、このエントリのきっかけとなったお二人のコメント(http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-711.html#comment)を拝見していると、公共政策についての議論の難しさを改めて認識いたします。公共政策は繊細な議論ですので危険ではありますが、あえて模式化してみると、再分配や雇用・労働の制度に関する問題をAとして、Aの制度にまつわる問題をどのように解決すべきかという議論をしているのが拙ブログのスタンスでして、そのための財源の制度に関する問題をBとすると、本エントリで書いたような制度の裏付け(交渉と取り決めによるフロー支出はフロー財源で賄うという原則)を踏まえつつ、Bについては増税の必要性があると考えています(その理由は本エントリや上記エントリの参照先をご笑覧ください)。

というところで、Bについて異論をお持ちの方から、Cという考え方があるとか不正確とかいろいろなコメントをいただきまして、ではそのCの考え方なり私の記述の不正確さを正すなりによって、Aの問題についてどのような制度的解決が構想されるかについてお考えをお伺いしたところ、「急に「公共政策はどうあるべきか」という全く別の議論を持ってきて」とか「私は広い視野など持ち合わせておりません」という回答しかいただけないのが現実ですね。

私はBの議論に特化してその是非を論じているわけではありませんので、Aの問題が解決なり改善するのであれば、Bに関して増税にこだわるものではありません。そもそも増税が景気後退させることまで否定していませんし(中里先生がおっしゃるナローパスが重要だと考えています)、増税と現物給付との差引においていかに安定的に社会全体の消費を確保するかという経路が制度によって担保されることが重要と考えています。つまり、現状において制度による裏付けが弱いAとBの紐付けをいかに強化するかという点が私の関心なのですが、世の中にはBさえ何とかなればAは自動的に改善するとお考えの方がいらっしゃって、もしかするとそっちの方が多数派だというのが実態なのでしょう。

現実の制度においては、「その他の要件が変わらないのであれば、政府支出の対GDP比は現状のままであるはずでして、教育の無償化だの待機児童の解消だの医療行為に対する診療報酬の引き上げによる医療体制の拡充だのという再分配政策の支出構造は変わらない」わけでして、そのために制度の裏側にある利害関係の当事者による交渉や取り決めを踏まえつつ、どのように政府の支出構造という制度を変えていくかを考える必要があります。その際に決定的に重要になるのは、生産物はストックできないということであって、「「共同体の構成メンバーは連帯して共通の規範を守るべきであり、メンバーの中に苦境に立たされる者がいれば協力して支えなければならない」というsocialな考え方を理解できるか、「効率的な現金給付」で事足りるとする経済学的な議論の問題点を理解できるかというのが、労働政策に裏付けされた現物給付による社会保障や再分配を議論する上で、問われている」のですが、こういう議論が共有される世の中というのはこれまでも、そしてこれからしばらくも期待できそうにありません。himaginaryさんがおっしゃるように「「労働政策や所得再配分政策に関する論争が前面に出てくる」状況を目撃することは贅沢なこと」なんですねえ。
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2016年11月29日 (火) | Edit |
再びコメントをいただきながらこちらからのコメントが遅くなりまして申し訳ございません。こちらからのコメントが長くなりましたので、新しいエントリにしました。まずは、望月夜さんからいただいたコメントですが、

>「因習の打破」という趣旨が不明ではあるものの、管見では「政府が債務と思っているのは因習のせいだから、会計上整理をすれば国債費を償還する必要はない」というのが一つの理解としてありそうです。


別に各債券の償還は随時行えばいいと思うのだが、借換(差し引きで見れば借り増しでもある)を並行して行えばいいという趣旨。
これは私がとやかく言うまでもなく、実際の政府財政実務で起こっていることだ。

これに対し、「いつかはそうやって積み増された政府債務についても完済していかなければならない」、あるいは、譲歩した見解としては「名目GDP比で見てある値以下にならなければならない」というもの(これらがいわゆる「因習」)があるのだが、いずれも「そうであるべき根本的理由」というものが薄弱である、と言いたいわけである。

もしインフレが問題だとすれば、指標にすべきはインフレあるいはインフレ予想のみにするべきであって、政府債務の完済であるとか、GDP比で見た低位安定だとかは目標たりえないわけだ。


あと、このブログの記述を見る限り、私の連ツイの趣旨、すなわち、「主流派経済学が過剰政府債務の問題を論ずるとき、どういうロジックに依って議論しているか」について本当にご理解いただけたのか、著しく不安になった次第をお伝えしておきたい。

2016/11/21(月) 08:50:29 | URL | 望月夜 #-[ 編集]


まあ確かに「「主流派経済学が過剰政府債務の問題を論ずるとき、どういうロジックに依って議論しているか」について本当にご理解いただけたのか、著しく不安」なのは私も同じ感想でして、主流派経済学における「過剰」な政府債務とはどの時点からを指すのか、あるいはそのストックの債務の基となるフローの新規国債はどの程度が適正か(それは税収との差し引きなのですが)を望月夜さんがどうお考えなのかはよく理解できておりません。また同時に、望月夜さんの「借換(差し引きで見れば借り増しでもある)」が「実際の政府財政実務で起こっている」というご指摘を拝見するに、財政の実務の現場でどのような処理をしているのかご存じなのかは著しく不安ではあります。

まあそれはともかく、国債が資産であることそのものは事実ですが、個人が資産保有の手段として国債を保有し、政府はそれを国債の原資として財源確保するということになると、それは政府支出を拡大するために個人の資産をできるだけ拡大しなければならないことを意味するものと思います。となると、個人が資産を拡大することを前提とする点において、その資産形成における格差を容認することになりますから、(結果として)「r>g」が格差の主因であるとしたピケティを批判するお立場なのだろうと思います。その格差は、政府と個人の間での資産による債権債務関係を基礎とした「再分配」でもって是正すればよいということなのでしょう。

言い換えると、政府が民間のストックと政府のストックを引き換えに発生(accrue)させることにより、政府支出を増加させるという経路を想定されている(というか現状でそうなっていると認識されている)ように思いますので、そのような想定の前提として民間のストックが潤沢に存在しなければならず、その結果として生じる民間のストックの保有具合による格差は容認されるということになろうかと。ピケティはそのような格差の解決策として、直接的な資産課税によって再分配を行うべきとしているのに対して、望月夜さんはむしろ貯蓄や投資による資産形成を前提とされる点では、まさに正反対の方向を向いていらっしゃると考えます。

したがって、現状の再分配を拡充するためには、各個人の(定義により投資と同値の)貯蓄を拡大しなければならないはずですが、それはとりもなおさず流動性選好が強くなっている状態であり、すなわち再分配を拡充するためにはデフレであることが必要ということになります。つまり、Savingが定義によりInvstigationと同値であり、Saving=Income-Consumptionである経済学の世界では、Savingを拡大することによってしか国債を財源とする再分配が実現できなくなります。

まあ確かにwankonyankorickさんは、

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
MMTの、少なくと「第一世代」は、どうやら「デフレ派」とやらに該当するらしい。。。。。まあ、少なくともインフレは回避すべきといってるから、そうなのかな。。。。
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800339637424132097

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
土建についてだって、アメリカ(彼らの主たる舞台はアメリカだから)ではインフラの劣化がひどすぎるから、土建に肩入れしなきゃならない、そのための遊休労務者や遊休資源はある、という話で、それで景気を改善しようという話ではない。そんなんで景気を改善しようとしたら、完全雇用の前にインフレに
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800340595659022336

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
なっちゃって困る、と言ってんだから、まあ、分けるとすれば、デフレ派だわな。。。。
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800340595659022336

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
@wankonyankorick 個人的には、不況期の雇用確保のために土建予算がふやされることは全く抵抗ないが、それが景気刺激策といわれると、かなり抵抗ある。その意味で、「MMTはデフレ派」と決めつけられることは、「リフレ派」「日銀理論」「重税国家」「無税国家」
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800344908171091970

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
@wankonyankorick 「買弁理論」「極左」と言った決めつけよりは、多少は居心地良い。
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800345419687432193



とおっしゃっていますので、MMTのような立場からすればいかに民間部門の貯蓄やその定義として同値の投資を増やすかが財源問題の解決策であって、その貯蓄や投資を増やすためにデフレになっても財源さえ確保できればよいのかもしれません。貯蓄や投資が増えると流動性選好が高まり、その結果として消費が抑制され、消費が抑制されると経済が縮小し…というデフレ・スパイラルが生じても、政府債務は償還する必要がないという立場からは特に関知しないということであれば、なかなかに理解が及ばない世界だなあという印象です。いやもしかすると、政府支出の財源が民間の国債による資産形成に支えられているために、流動性選好が高まって貯蓄や投資などの資産を有する層の消費が抑制されるというその世界は、どこかで経験している現実の世界なのかもしれませんけど。

まあ拙ブログでは、ストックを介するような迂遠な手法よりも、どちらかといえばピケティ寄りの考えに共感しますので、増税によって国民負担率を引き上げて、ストックを介さずにフローからフローへの再分配(その意味ではピケティのストックに対する資産課税はちょっと違和感がありますが)として現役世代の必要原則に応じた消費(医療、介護などの福祉や、保育や教育)を政府支出によって賄うことで拡充する方が効率的ではないかと考えていますが、まあ考え方の違いは如何ともし難いですね。

なお、ストックを介した財源調達では、国債という資産を有する層に対する(元本を除いたとしても)利払い費を政府支出で賄う必要がありますので、その分は再分配の目的である(資本保有具合による)格差の是正とは相容れないと思われます。ただし、その利払い費が再分配を実施するために資産を有する層に補償するためのコストであるとするなら、そのコストをかけなければ再分配の拡充が実現できないという民主主義の限界を示すものと理解しなければならないのかもしれません。つまり、再分配は民間の資産というストックを国債という政府のストックに置き換えて現金化しなければ実現されないものであり、その実施に当たっては、資産を保有する層がその資産から発生するゲインの支払いを政府に要求するために、再分配に要する財源だけではなく資産を保有する層への利払い費を政府支出で賄うという高コストな構造がこの国の現状なのでしょう。その高コストな構造を生み出しているのは、ほかでもない国民の政府不信なのですが、まあそれを選択するのも民主主義ですね。

財政の利払い費負担が増加することは,所得の再分配に関わる問題である。財政学における伝統的議論であるが,財政の利払い費は国債保有者に支払われ,一方利払い費増加により増税されるため,租税負担が増加する4)。この場合,租税負担の帰着により,所得の再分配が発生する。現在の日本で,国債保有者は民間銀行や日本銀行が中心であり,銀行が国債から金利収入を受け取っている。納税者から銀行への所得再分配の可能性が否定できない。

脚注
4) 1920年代のイギリスでは,国債保有者がレントナー(かの J.M. ケインズが金利生活者の利子安楽死として攻撃した)と呼ばれた個人富裕層であり,他方で増税が間接税であったため,社会的対立が生まれた。拙著,『現代イギリス財政論』,勁草書房,1999年,56ページ。

(PDF)代田純「超長期国債の借換発行増加と国債整理基金特別会計・日本銀行」(証券経済研究 第89号(2015 . 3))


まあこの代田論文の他の部分では、「しかも特別会計は,一般会計や財政投融資と異なり,国会で審議される必要もないため,一般に実像は見えにくい。」なんて書いていまして(詳しくは「特別会計のはなし」かこちらのPDFの5ページ目などを参照)制度への理解に一抹の不安がないではないですが、まあ政府支出としての国債の(元)利払いが支払われる先についても一考の余地はありそうです。

ということで、asdさんのコメント(2016/11/21(月) 19:18:26 | URL | asd)については、拙ブログをご覧になった方にご判断をお任せしたいと思います。

2016年11月20日 (日) | Edit |
「経済学的に正しい」方々から続けてコメントをいただきましたので、エントリでまとめてご紹介しておきます。まずは、望月夜さんからいただいたコメントです。

>税の規模と政府の規模が不可避的に一致する必要がないからこそ、税収以上の政府支出を数十年にわたって継続している現状があって、それが「過小な」政府支出しかもたらしていないのであれば、それはとりもなおさず税収が「過小」であることの証左ではないか


これは、すでに論じた事項ではあるのだが、繰り返しで反論させていただくと、税の過少が政府規模の過少を招くとすれば、それは税の過少それ自体に基礎づけられているというより、均衡財政の神話(いつかはPB黒字化に向かわなければならないという根拠なき信仰)による政治的な迷妄に基礎づけられているわけであって、その場合、目指すべきは、税収の確保ではなく、因習の打破なのではないか、と私は理解している。
2016/11/17(木) 08:52:51 | URL | 望月夜 #-[ 編集]


増税の話をすると「均衡財政の神話」という反論をいただくことが多いのですが、いついかなるときも均衡財政を維持している国はおそらく古今東西存在しないのではないかと思います。国民負担率が50%を超えるドイツ、スウェーデン、フランスの政府債務の対GDP比はいずれも50%を超えていて、フランスに至っては100%を超えていますので、先進諸国が日本よりも高い国民負担率を維持している理由が、「均衡財政の神話に基づいて」いるわけではないのではないかと。
 国民負担率
(社会保険負担率+租税負担率)
社会保障負担率租税負担率対GDP政府債務残高
ドイツ52.6%22.2%30.4%82%
スウェーデン55.7%5.7%49.9%57%
フランス67.6%26.9%40.7%111%
アメリカ32.5%8.3%24.2%125%
日本41.6%17.5%24.1%240%

出典:国民負担率(社会保障負担率と租税負担率)は「国民負担率(対国民所得比)の内訳の国際比較(日米英独仏瑞)(財務省)」、対GDP政府債務残高は「General government debt (OECD)」の2013年度

さて、望月夜さんのご主張は、

緊縮ではない財政 http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-705.html …

「将来の経済成長の果実を過去の債務償還に食い尽くされる」

とのことなのだが、この表現はあらゆる所で散見されるにも関わらず、その具体的実務的形態が論じられたことがほとんどない。

望月夜 ‏@motidukinoyoru 10月29日


というtweetから拝見しているところですが、このtweetでおっしゃる「その具体的実務的形態」というのは結局「税収の確保ではなく、因習の打破」ということなのかもしれませんね。「因習の打破」という趣旨が不明ではあるものの、管見では「政府が債務と思っているのは因習のせいだから、会計上整理をすれば国債費を償還する必要はない」というのが一つの理解としてありそうです。となると、各年度に計上されている公債費(債務遺体する元利償還金)は不要な支出ということになります。まあ公債費がゼロになっても、平成28年度の一般会計(当初)でいえば、たったの58兆円程度の税収でもって、73兆円の政府支出だけでなく23兆円を超える公債費を計上して、34兆円を超える新規国債を発行していますので、そのうち11兆円程度の新規国債発行がなくなる程度ですけど。

ついでに、政府「債務」と呼ばれるのは、それが債権者にとっては債権として(保険会社や銀行などの投資機関の運用益等)の給付を受ける権利となっているからというのが一般的な理解と認識しているところでして、その債権債務関係を解消する「具体的実務的形態」についてすでに十分に議論し尽くされているとは思われませんが、まあその辺は残念ながら浅学非才な私には及び知らない世界があるのでしょう。

ところで望月夜さんは、さらに政府支出を増額してその分を新規国債で賄えばよいという立場かと見受けますが、その新規国債で賄うべき政府支出の額はどのくらいになるとお考えなのかは不明です。「政府債務の償還は因習である」とまでおっしゃるのであれば、政府支出は青天井として問題なさそうですので、各省庁なり自治体で選良の皆様が要求する事業にはすべて財源を用意して実施するというのも一つの考え方かと思います。なんというか、インフルエンス活動の全面解禁につながりそうですが、「しかし、実務というのは批判されたからといってすぐには変えられない(インフルエンス活動による効用が低い)から実務なのであって、消費者の批判に応えるためだけの実務なんてものには政策実現性(フィージビリティ)がそもそも担保されてはいません」ので、望月夜さんがお考えの「具体的実務的形態」の謎は深まるばかりという印象です。

次は初めてコメントをいただく方ですが、

初めまして。
「経済学的に正しい」こと(笑)を言わせて頂きますと、「経済学的に正しい」人達が目指しているのは無税国家ではなく、デフレギャップの解消ですよ。デフレギャップが解消され、インフレ圧力が問題になるときはむしろ緊縮財政せよと主張します。

あと、そういった面々(まあ私もそうですが)は最初から隠れ蓑など使わず一貫して増税派も浜田宏一岩田規久男リフレ派も批判してますので、認知的不協和は勿論発生しておらず、当然新たな理論なども全く待ち望まれてないですよ。
2016/11/20(日) 11:56:55 | URL | asd #-[ 編集]


「そういった面々(まあ私もそうですが)は最初から隠れ蓑など使わず一貫して増税派も浜田宏一岩田規久男リフレ派も批判してます」とのことで、asdさんのような方々にとっては私の懸念は杞憂に終わったようですので、誠にご同慶に存じます。

ということで、いただいた二つのコメントを拝見してみるに、ハジュン・チャン氏が指摘されるような様相を呈しているのは経済学方面の通常運転というべきでしょうか。

 大半のエコノミストの喧伝に反して、経済学には新古典学派の1種類しかないわけではない。本章では少なくとも9つの学派を紹介する。
 これら学派は不倶戴天の敵どうしというわけではない。むしろ互いの境はえてして漠然としている。経済学を概念化し説明する上ではさまざまな方法があること、いずれの学派も優位性を主張したり唯一の真理を自称できないことがわかればいいのだ。
チャン『同』p.102


いあまあ身も蓋もない指摘ですが、「経済学的な正しさ」というのは「ある考え方に基づいたときの推論」程度に考えるのが吉といえそうです。
(略)

 政府の失敗論は、経済あるいは市場の論理が政治に——そして芸術や学問など暮らしのその他の領域にも——優先すべきとするものだ。昨今ではとても広く受け入れられており、ほとんど当たり前になっている論だ。だがそこには深刻な瑕疵がある。
 第一に——エコノミスト以外にとっては当たり前だが多くのエコノミストにとっては受け入れ難いことに——そもそも市場の論理を暮らしの他の面に優先させるべき理由がない。人はパンのためにのみ生きているわけではないのだ。
 さらにこの議論は、何が市場に属し何が政治の領域に属するかをきっぱりと分つ「科学的」な方法があると暗に仮定して成り立っている。例えば、政府の失敗論者は、最低賃金規則や幼稚産業に対する関税保護などを、神聖冒さざる市場の論理に「政治的」論理を押し付けるものという。だがこれらの政策を正当化する経済理論は現に存在する。それなら彼らの実態は、他の経済理論に「政治的」とレッテルを貼って貶め、自分の主張が正当なのだ、これこそ経済理論だとばかりに言いつのっているにすぎない
チャン『同』p.364


折衷主義は、むしろ強み(2016年10月30日 (日))


なお、私が増税が必要だと指摘していることをもって「デフレ派」とか「反成長派」とか「反経済学派」に括られることも多いのですが、「結局のところ、拠出と給付の差し引きというネットの所得再分配機能の評価が重要になるわけです。まさに中里先生の資料の冒頭に出てくる「経済財政運営におけるナローパス」を慎重に求めることが必要」と考えていますので、できれば無用なレッテル貼りはご容赦いただけると幸いです。

2016年11月15日 (火) | Edit |
また浜田宏一先生の華麗な掌返しが炸裂していますね。

アベノミクス4年 減税含む財政拡大必要 内閣官房参与 浜田宏一氏(2016/11/15付)

 ――デフレ脱却に金融政策だけでは不十分だったということですか。

 「私がかつて『デフレは(通貨供給量の少なさに起因する)マネタリーな現象だ』と主張していたのは事実で、学者として以前言っていたことと考えが変わったことは認めなければならない」

 「(著名投資家の)ジョージ・ソロス氏の番頭格の人からクリストファー・シムズ米プリンストン大教授が8月のジャクソンホール会議で発表した論文を紹介され、目からウロコが落ちた。金利がゼロに近くては量的緩和は効かなくなるし、マイナス金利を深掘りすると金融機関のバランスシートを損ねる。今後は減税も含めた財政の拡大が必要だ。もちろん、ただ歳出を増やすのではなく何に使うかは考えないといけない」


まあ、こう頻繁に掌返しをされる浜田宏一先生に対して心ある方々の呆れた感嘆の声が上げられていますが、私としても厭債害債さんとjura03さんのご指摘に付け加えることは特にありません。
浜田センせぇー・・・(厭債害債(或は余は如何にして投機を愛したか) 2016/11/15 08:46)
扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part152(今日の雑談 2016-11-15)

…というところで終わってしまうのもなんですので、himaginaryさんのところで取り上げられている指摘について考えてみます。

クリス・ディローが、トランプの人格が大統領職においてそれほど問題にならない可能性の理由として以下の3つを挙げている。

  • 人々はそもそも無知で偏見を持っているが、大統領は人々の代表であることが望ましい。
  • チェック・アンド・バランスというものが存在する。大統領ができることには憲法の制約があるのみならず、望むならば大統領は最高の助言が得られる。強力な支援ネットワークによって、人格の欠点の影響を和らげることが可能。
  • 人格よりは政策が問題。もしトランプがインフラに投資し、税体系を簡素化する一方で、保護主義や移民制限に関する公約を希薄化するならば、完全なカタストロフとはならないかもしれない。

大統領の人格が問題にならない時(himaginaryの日記 2016-11-11)
※ 以下、強調は引用者による。


前回エントリで取り上げたようなトランプ氏に対する支持は、「素人崇拝」が高じて、素人の意見を素人として発言する候補者に支持が集まったという面もあると思いますが、アメリカにはそれでも政策決定とその執行が円滑に進むような制度を作り上げてきたという自負があるのかもしれません。

翻って日本の政策決定過程を見ると、「猖獗を極めたカイカク病」を支えたのもまた「経済学的な正しさ」であって、そこにはチェックアンドバランスなどが機能する余地はないように思われます。「財政的な措置をしなくてすむように医療費を削減するための「経済学的に正しい」処方箋は、治療に高額の医療費を要するような疾病に罹患した患者には治療しないこと」というのは、こちらの本で指摘されている研究結果ですが、本書冒頭の青木昌彦先生の推薦文に続くこの序文がアツいんですよね。

 過去30年間、社会保障支出、医療支出の水準が一貫して主要先進諸国の中で最低レベルである日本の水準を、さらに公的部門の役割を縮小する「小さな政府」を目指すことで、先進国クラブと呼ばれる経済協力開発機構(OECD)加盟30カ国中最低レベルまで、ないし発展途上国レベルまで引き下げることを目指すと仮に日本社会が決めたとします。この場合、「どのようにして政府の財政負担を減らすか」という手段についても、「理念」抜きには語れません。政府の財政負担削減を至上の課題にすれば、多くの予防医療を「やめる」ことが有効な一案です。なぜなら、多くの予防医療を「やめる」ことで病気にかかり早死にすると、総医療費は節約できることを諸外国の厳密な医療経済研究が示唆しているためです(5章参照)。さらに、早死にした人々には年金を支給しなくてもよいので、財政負担を一層軽減できます。筆者は個人としての理念からこの案に反対ですが、読者の皆さんの賛否はいかがでしょうか。
 3つ目の提言は、日本の政策の形成・執行の各過程で評価を行うチェックアンドバランス機構を強化しなければ、改革は一度限りの打ち上げ花火で終わってしまうということです。日本での通説とは逆に、筆者の目には「米国の医療制度改革は非常に『慎重』であるのに対し、日本の改革は非常に『大胆』」と映ります。米国を含めた多くの先進諸国は、「政策は謝る可能性が高い」ことを前提に、制度改革には、「大失敗」を未然に予防するため幾重にもチェックアンドバランス機構を組み込んでいます。それに比べ、日本では欧米におけるようなチェックアンドバランス機構がきわめて貧弱です。(中略)このような政策上の失敗にブレーキを踏めるインフラを整備しない限り、3章で紹介する政策提言・評価のための経済学理論・実証分析手法も、日本では単なる絵に描いた餅に過ぎません。言い換えれば、政策の方向性・進捗状況すら判断できないままブレーキ・安全装置を外せば、とりあえず速度だけは上がることに嬉々とする類の大胆な改革が繰り返されるおそれがあります。
 4つ目の提言は、公的皆保険制度の役割を堅持した枠内で可能な改革案(5章参照)を実施することです。なぜなら、5章6節で詳解するように、ハーバード大学のシャオ教授によれば、すでに日本の現行制度は、コスト抑制にきわめて有効で、不変性の高い2つのタイプの政策を組み込んでいるからです。また、シャオ教授は、世界各地で失敗を繰り返した政策の例として、「患者の窓口負担増」「医療機関への診療報酬の一律引き下げ」「医療保険制度における民間企業の役割拡大」「医療機関への民間営利企業の参入」を挙げています
 根拠の曖昧な通説を、厳密なデータ分析の結果に基づいて覆すことは、筆者には知的興奮であり、ある種の快感でした。この体験を多くの人と共有したいという執筆の動機に、一人でも多くの読者が共感してくれることを願っています。
pp.006-008

「改革」のための医療経済学
ニューヨーク州ロチェスター大学助教授 兪 炳匡 著
定価 : 2,052円(本体1,900円+税)
発行 : 2006年08月
在庫 : 在庫なし(申込不可)
サイズ : 四六判 264頁
ISBN-10 : 4-8404-1759-8
ISBN-13 : 978-4-8404-1759-4
商品コード : T560090



上記のインタビュー記事で満面の笑みを浮かべる浜田宏一先生(いつの写真かわかりませんが)や、

で、この後は『(4)物価の基調的な動き』という小見出しがあるのですが、これは毎度おなじみ展望レポートで示されている盛大な屁理屈なのでどうでもよくて、しかしまあ2年で2%行かなかった場合の説明責任をこれで取ってるつもりなのかよというか、今にして思えばいわゆる岩田-翁論争の時にこの置物を叩き潰さないで妙な裁定をして有耶無耶にしやがった植田和男先生の責任も重いわとか思う訳で是非ご見解を賜りたいものであります。

では講演テキストの引用の最後に就任記者会見からのお言葉でも入れておきましょう。

『先程申し上げた「中期的」とは、大体2 年ぐらいであり、2%は2 年ぐらいで達成しなければいけないということです。2 年経って、2%がまだ達成できない、2%近くになってもまだ達成できていない場合には、まず果たすべきは説明責任だと思います。ただ、その説明責任を自分で果たせないということ、単なる自分のミスジャッジだったということであれば、最高の責任の取り方は、やはり辞任だと思っています。まずは説明責任を果たせるかどうかが基本だと思います。』(2013年3月21日の就任記者会見より)

岩田規久男副総裁 2015/05/28「札幌金懇ではまさかの「2%に達しない理由」の言い訳が登場とか見苦しいにも程がある」


と華々しくデビューされてから早3年半が経過する岩田規久男副総裁の健在ぶりを拝見するに、日本の政策の形成・執行の各過程で評価を行うチェックアンドバランス機構の強化は急務だなと思わざるを得ませんね。

いやもちろん、制度としてチェックアンドバランス機構を強化することも重要なのですが、こうした事態に遭って、浜田宏一先生やら岩田規久男副総裁を熱烈に支持していた一部のリフレ派と呼ばれる方々や、リフレ派の隠れ蓑を取り払った増税忌避な方々にとっては、その認知的不協和を改善してくれる新たな理論が待ち望まれるところですね。それがMMTなのか内生的貨幣供給システム論なのかよくわかりませんが、その行き着く先が無税国家であることは間違いなさそうです。

2016年10月30日 (日) | Edit |
数か月前の「「経済学的に正しい」ことへの絶対的信頼感」というエントリで引用したtweet主から新たにtweetがあって、追記しましたのでお知らせします。ついでに、これも以前読んだ本からこのように様々な「経済学的な正しさ」が群雄割拠する現状についてメモしておきます。

 大半のエコノミストの喧伝に反して、経済学には新古典学派の1種類しかないわけではない。本章では少なくとも9つの学派を紹介する。
 これら学派は不倶戴天の敵どうしというわけではない。むしろ互いの境はえてして漠然としている。経済学を概念化し説明する上ではさまざまな方法があること、いずれの学派も優位性を主張したり唯一の真理を自称できないことがわかればいいのだ。


ケンブリッジ式 経済学ユーザーズガイド

ハジュン・チャン著/酒井 泰介訳
ISBN:9784492314609
旧ISBN:4492314601
サイズ:四六判 並製 472頁 C3033
発行日:2015年05月22日


※ 以下、太字下線強調は引用者による。文中の注釈は省略。


いあまあ身も蓋もない指摘ですが、「経済学的な正しさ」というのは「ある考え方に基づいたときの推論」程度に考えるのが吉といえそうです。

で、新古典主義派についてこれも身も蓋もない指摘がされています。

 新古典主義の自由放任主義的結論がさらに強化されたのは、20世紀前半に重要な理論的進歩がみられたことによる。それは社会改善を客観視できるようにする理論だった。ヴィルフレード・パレート(1948~1923年)は、すべての主観的個人を尊重し、他の人を不幸にすることなく一部の人をより幸福にできたときのみが社会改善といえると唱えた。「公益」の名のもとにいかなる個人も犠牲になるべきではないということである。これはパレート基準として知られる考えで、今日の新古典主義経済学における社会改善をめぐるあらゆる判断の基礎となるものである。残念ながら、現実の世の中では、誰かを不幸にしない変更などないに等しい。だからパレート基準現状維持、すなわち自由放任主義にしがみつくうえで格好のレシピとなった。この考えを採用することで、新古典主義学派は強く保守性を帯びた
チャン『同』p.115
※ 太字強調は原文。

 新古典主義派は現状維持に傾きすぎである。個人の選択を分析するうえで、底流となる社会構造——金や権力の配分——を所与のものとして受け入れている。そのためこの学派では、社会を根本から変革せずに行える選択だけを見ている。例えば「リベラル派」のポール・クルーグマンを含む多くの新古典主義エコノミストでさえ、貧酷の低賃金工場の職を否定すべきではない、その代わりはまったく職がないことかもしれないのだから、と主張する。そのとおりだが、それは底流となる社会経済学的構造を疑わないからだ。ひとたびそんな構造自体を変える気になれば、こうした低賃金職の代りはいくらでも考えられる。労働者の権利を強化する労働法、工場への安価な労働力の供給を減らす土地改革、熟練職を創出する産業政策などを導入すれば、労働者にとっての選択肢は低賃金職か失業かではなく、低賃金職か高賃金職かになるのだ。
 新古典主義派では交換と消費に注目するあまり、経済の大きな——そして他の多くの学派によれば最も重要な——部分を占める生産を無視してしまう。この欠点について、制度学派エコノミストのロナルド・コースは、1991年のノーベル経済学賞受賞講演で、新古典主義経済学は「森のはずれで木の実とイチゴを交換する孤独な個人たち」の分析のみに好適な理論と切り捨てている
チャン『同』p.119


私自身も「主流派経済学」と呼ばれる経済学のトレーニングを受けた経験がありますので、拙ブログでもパレート最適を基準とする政策について書いたりしているところでして、「保守」を自認するブログ主としてはなるほどというところです。パレート最適基準に縛られている限り、新古典主義経済学が「底流となる社会構造」を所与のものとして考えるのは避けられないのは、冒頭で追記をお知らせしたエントリでも書いたとおりですね。

これに対して、権丈先生が「かつて世界を東西の真っ二つに分けて、今につづく人類同士のいがみ合いの思想的基盤を与えた」と指摘されるもう一方の経済学であるマルクス経済学については、アダム・スミスらによる古典主義では固定的と考えられていた階級を、マルクス経済学では社会を変革する主体になりうるとした点を重視して、このように指摘されます。

 マルクスはまったくちがう考えを持っていた。彼にとって、労働者らは古典主義者が言うような無力な「烏合の衆」ではなく、社会変化に積極的に取り組むエージェントである。マルクスはそれを「資本主義の墓掘り人夫」と呼び、ますます規模と複雑さを増す工場で組織技術と規律を鍛えられているとした。
 だが、マルクスは、労働者が随意に革命を起こし、資本主義を打倒できるとは考えなかった。機が熟す必要があると考えたのだ。それには資本主義が十分に発達し、制度の技術的要件(生産力)と制度的背景(生産関係)の矛盾がつのらなければならない、と。
チャン『同』p.123

 最後に、しかし決して些事ではないことに、マルクスは資本主義の発展過程において技術革新が持つ重要性を真に理解した最初の主要エコノミストで、それを自らの理論の中心に据えていた。
チャン『同』p.125


引用した1点目については、厨先生の『不平等との闘い』ではむしろ「古典派・マルクス的想定」と「新古典派」が対比されていましたが、階級を固定的なものと見るかどうかでは古典派とマルクス経済学は共通ではあっても、その階級が社会を変革するかどうかについての見立てでは異なっていて、それが階級闘争という考えにつながっていくかどうかの分かれ目となるのでしょう。
文春新書
不平等との闘い
ルソーからピケティまで
稲葉振一郎
定価:本体800円+税
発売日:2016年05月20日
ジャンル:ノンフィクション


そして引用した2点目を発展的に引き継いだのがシュンペーターだったわけでして、現代のカイカク派が好んで使う「創造的破壊」の起源が、技術革新が可能にした階級闘争によって社会の変革を想定したマルクスにあるというのもなかなかに示唆的ですね。

という本書のこの流れからすると、新古典主義主義、マルクス経済学ときてシュンペーターが来るかと思いきや、次に「デベロップメンタリストの伝統」なるものが登場します。これは、17世紀の重商主義に典型的な「理論的ではないが実用的で折衷的な要素」を引き継いだ考え方であり、ハーシュマンに代表される開発経済学へとその系譜が続くものと位置づけられています。

 先に指摘したとおり、統制のとれた総合理論を欠くことがデベロップメンタリスト伝統の弱点である。万事を解析できるかのような理論に引き付けられるのは人情である以上、新古典主義派やマルクス主義派のようなより体系的で自信を漂わせている学派に比べて、デベロップメンタリスト伝統は大きく見くびられがちだ。
 この伝統は、政府の積極的な役割を唱える他の学派に比べて、政府の失敗をめぐる議論により脆弱である。また特に広範な政策群を推奨しがちで、ひいては行政能力を濫用しやすい。
 これらの弱みにもかかわらず、デベロップメンタリスト伝統はもっと注目されてよい。その重要な欠点すなわち折衷主義は、むしろ強みになれる。世界の複雑性を考えれば、より折衷的な理論の方がその説明に有用かもしれない。第3章で述べた自由市場政策と社会主義政策を独自に取り合わせたシンガポールでの成功は、その好例である。それ以上に、歴史上で生み出してきた実績は、これが空論ではないことを示している。
チャン『同』p.130



そのデベロップメンタリスト伝統が弱点とされる政府の失敗論についても、容赦のない指摘が繰り広げられています。

 政府の失敗論は、経済あるいは市場の論理が政治に——そして芸術や学問など暮らしのその他の領域にも——優先すべきとするものだ。昨今ではとても広く受け入れられており、ほとんど当たり前になっている論だ。だがそこには深刻な瑕疵がある。
 第一に——エコノミスト以外にとっては当たり前だが多くのエコノミストにとっては受け入れ難いことに——そもそも市場の論理を暮らしの他の面に優先させるべき理由がない。人はパンのためにのみ生きているわけではないのだ。
 さらにこの議論は、何が市場に属し何が政治の領域に属するかをきっぱりと分つ「科学的」な方法があると暗に仮定して成り立っている。例えば、政府の失敗論者は、最低賃金規則や幼稚産業に対する関税保護などを、神聖冒さざる市場の論理に「政治的」論理を押し付けるものという。だがこれらの政策を正当化する経済理論は現に存在する。それなら彼らの実態は、他の経済理論に「政治的」とレッテルを貼って貶め、自分の主張が正当なのだ、これこそ経済理論だとばかりに言いつのっているにすぎない
チャン『同』p.364


ここで指摘されているような「経済学者」の皆さんの生態は拙ブログでは何度も指摘しておりましたので、繰り返しになりますが次のエントリなどどうぞ。
おっちょこちょい(追記あり)(2016年06月25日 (土))
歴史の読み違え(2012年05月04日 (金))
マクロとミクロの溝(2009年12月10日 (木))

まあ田舎の下っ端地方公務員ごときが経済学者に楯突くなど畏れ多いとご指摘を受けることも多いのですが、本書の「おわりに」でチャン氏は心強い言葉を記しています。

 プロのエコノミスト(筆者自身も確かにその一人だ)にも反駁を試みるべきだ。経済学に限ったことではないが、真実は専門家の専売特許ではない。第一に、たいていの場合、彼ら自身が合意に達せられない。実にしばしば、彼らは視野が非常に狭く、特定の方向に捻じ曲がっている。専門家の常で、エコノミストもフランス語で言う「デフォルマシオン・プロフェッショナル」すなわち専門バカである。プロのエコノミストではなくても、基本的な経済学の知識と政治的、倫理的、そして経済学的な考えを応用して健全な判断を下せることはいくらでもある。時には、こうした人々の判断の方が、現実に根ざし、視野が広いので、プロのエコノミストに優ることさえある。経済のような重大事をプロに任せ切るわけにはいかない。
 あえて一歩踏み込んで言おう。プロのエコノミスト——そしてその他の専門家——に果敢に論争を挑むことは、民主主義の基本であるべきだ。考えてみてほしい。専門家を盲信すればいいのなら、いったい何のための民主主義か? 半可通ばかりの世の中などゴメンだと思うなら、誰もが経済学を学んで専門家に挑まなければならない。
チャン『同』pp.421-422


まあもちろん、最後の点に関しては民主主義の危うさにも十分配慮が必要だろうとは思うところですが、引用部の前半は諸手を挙げて賛同いたしますので、引き続き節度を持ちながら「プロのエコノミスト」におかしな点があれば指摘していきたいと思います。