2017年04月24日 (月) | Edit |
前々回のエントリに追記した部分ですが、ちょっと広げてみたいと思いますので一部再掲します。

(2017/04/19追記)
(略)
まあそれはそれとして、入職した時点でそれなりのスキルを持った労働者が仕事をすれば、当然のようにはじめから仕事は効率的に進むでしょうけれども、日本型雇用慣行はそうした効率性ではなく、仕事を知らない新卒学生上がりが試行錯誤する中で経験を積むことに重きを置いているわけです。つまり、非効率な試行錯誤のために労働時間を費やし、その試行錯誤の経験が職務遂行能力として評価されて職能給が上がっていくというのが日本型雇用慣行である以上、試行錯誤する時間を有することこそが正規労働者としての資格を意味します。

そしてその試行錯誤の結果、運良く効率的な業務の進め方が構築されたならそれはそれでラッキーですが、場合によっては試行錯誤の結果が極めて非効率的なやり方になる可能性もあります。そしてその非効率なやり方が一度定着してしまうと、そこには制度の慣性の力が働いてしまい、次の担当者はそのやり方を改めるために新たな試行錯誤を繰り返し、さらに次の担当者がその試行錯誤を再現しつつそのやり方を身につけていく…という無限ループをこなして初めて、正規労働者として認められていくことになります。時間がいくらあっても足りないわけです。

(略)

さらに問題を難しくしているのは、そうした残業に対する認識が根強い状況においては、取引先から「こんなんじゃ使い物にならないからもっと勉強してくれよ」とエキストラな対応を求められても、「社会人として乗り越えなければならない貴重な成長の機会だ」などと美化されてしまうことになり、結局お互いがそれを押し付け合うことで際限のない残業が発生してしまうという状況です。制度というのはその趣旨を超えて都合のいいように活用されるのが常でして、誰かが抜け駆けすればそれがスタンダードになっていくわけですから、「働き方改革」によって日本型雇用慣行を改めるとしても漸進的に進めるしかないだろうと思います。その過程では悲喜こもごもありつつも、その方向性が示されただけでも大きな前進と捉えて、しゃかいじんとしてせいちょうしていきたいとおもいます(棒)

職務遂行能力の習得に必要な追加的労働時間(追記あり) (04/16)」に2017/04/19追記


というわけで、残業の多くは正規労働者が試行錯誤するための時間であるならば、試行錯誤が要らないような専門的・熟練的スキルをはじめから有する労働者を雇えばほぼ解決できます。では、「専門的・熟練的スキルをはじめから有する労働者」はどこから調達するかというのが次の問題になるわけですが、これもまた日本型雇用慣行はメンバーシップ型だからとか欧米ではジョブ型だからとか単純な切り分けはできないとしても、大雑把に言えば、その専門的・熟練的スキルを外部で身につけていることを前提として採用するのが欧米のジョブ型であり、内部で身につけさせるのがメンバーシップ型ということができるでしょう。

いやまあ、日本でも

だいぶ前のhamachan先生経由ですが、「その組織に必要な資質や技術、経験を持っている人間を外から採用する。本来ならばこれが正しい形です」というのは、拙ブログでも議論させていただいたことのあるラスカルさんが指摘されるように、

 こうした「際物ども」は別にしても、一見、自由な経済活動を行っているグローバル企業が、支払うべき「コスト」を支払っておらず、結果的に、社会から「補助金」を受け取る存在になっているのではないか、ということが、本書の問題提起となっている。ひとつに、地球環境に関わる外部不経済の問題があり、貿易における関税や補助金の問題があるが、こうした視点は、特に目新しいものではない。しかし、本書の範疇はこれらにとどまらず、社会の中の信頼や、インフラについても言及し、グローバル企業が、地域住民の「負担」によって利益を得ている、という視点を多面的にえぐり出している。*2

*2:以前、グローバル企業とはいえないまでも、ある中堅規模の経営者が、海外企業から原材料を買い付けるバイヤーを採用したいが応募がない、ということについて不満を漏らすのを聞いたことがある。不思議なことに、この経営者には、自社でそうしたバイヤーを育成したいとの意向がまったく感じられなかった。自社で育成せず、他社で経験を積んだバイヤーを採用するのであれば、育成のためのコストを支払わない分、それ相応の負担をする必要があるだろう。この経営者には、自社のために社会が支払う「負担」というものへの感度がないらしい──バイヤーは、どこで誰によって育成されるのであろうか?

「デイヴィッド・ボイル、アンドリュー・シムズ(田沢恭子訳)『ニュー・エコノミクス──GDPや貨幣に代わる持続可能な国民福祉を指標にする新しい経済学──』(2011-08-14)」(ラスカルの備忘録)


ここで取り上げられている経営者と同様、渡邉美樹氏も社会が支払う「負担」というものへの感度は持ち合わせていないようです。

「ブラック企業の作り方(2012年02月28日 (火))」


というようにアメリカ型のジョブ型雇用を夢想しているようですし、アメリカでも

グローバル経済を持ち出してチームプレーを根拠に休日出勤を指示するというのはアメリカに進出した日本企業にありそうなエピソードですが、休日出勤を指示したのがアメリカ企業の社員で、それを拒んだのがオランダ人労働者だったというのはちょっと意外でした。この本ではこのほかにも、アメリカ人の(エグゼンプションではない)普通の労働者が時間に追われていることが何度も指摘されています。その比較として北欧をはじめとするヨーロッパの労働時間やその規制がいかに有効かという例が挙げられるのですが、その中に日本が混じっているのが何とも違和感がありますね。

日本化するアメリカとアメリカ化する日本(2013年08月11日 (日))


というように日本型のチームプレーを根拠とした超過勤務を奨励する働き方も徐々に浸透しているようですので、それぞれがいいとこ取りしようとしていると見ることもできるとは思います。もちろん、そのいいとこ取りで今よりも改善されるのであれば望ましいのですが、逆にそれぞれの矛盾を抱え込んでしまい、却って状況が悪くなるのであれば本末転倒という批判もまたやむを得ないでしょう。

つまり、日本型のメンバーシップ型のいいとこ取りして、残業も厭わず仕事に打ち込むことで試行錯誤しながら経験を積むことこそが人材育成だという主張と、欧米のジョブ型のいいとこ取りして、人材を外部から調達することで育成コストを節減し、少ないインプットで多くのアウトプットを引き出すことで生産性(とかいう何か)の高い経営が実現できるという主張をする方々が、それぞれの立場で自分の信奉する雇用形態を推しながらお互いを批判し合うという状況で形式的に残業が規制されると、人材育成機能を誰が担うかという点が曖昧なまま会社内部の人材育成機能がスポイルされるのではないかという懸念が生じるわけです。

前出の小野氏が言う。

「'80年代は日本人の年間の労働時間が2100時間くらいあり、世界の平均は1800時間程度だったので、日本人は働きすぎだとバッシングを受けました。

そこで労働省(当時)が音頭を取って、半ば強制的に年間労働時間を1800時間に近づけました。ちょうど韓国のサムスンやLGが台頭し、日本の家電産業が衰退し始める時期と重なります。

さすがに高度経済成長期のがむしゃらな働き方が人を幸せにするとは言いませんが、現状の残業時間の規制には問題が多いのもたしかです。

人生に目標を持たず、仕事は生活のための手段に過ぎず、より福利厚生が充実していて楽なほうの仕事を選ぶ若者が増えている時代において、労働時間を規制してしまえば、これからの時代が求める人材を育てるのは容易ではないでしょう

労働者の賃金をカットし、働きたくない若者を増やす――政財官が結託して進める「働き方改革」は、まさに亡国の政策なのである。伊藤忠商事元会長で中国大使も務めた丹羽宇一郎氏は現状の日本人の働き方に対して、こう言い切る。

「もっと昔のように汗を出せ、知恵を出せ、もっと働けと言うしかない。それに尽きます」

かつての日本人たちが寝食を忘れて働いた末に今の日本の繁栄がある。それにあぐらをかいて、「これからは一生懸命働かないようにしよう」などと言っていれば、あっというまに三流国に転落する。

政府の言うことに踊らされて、やれプレミアムフライデーだ、ノー残業デーだなどと浮かれる前にやるべきことがある。

働かざる者食うべからず。

この言葉を忘れると、日本人の末路は本当に哀れなものになるだろう。

「日本人はすでに先進国イチの怠け者で、おまけに労働生産性も最低な件(4)」(「週刊現代」2017年4月29日号より)


まあさすがのゲンダイクオリティの記事ではありますし、既に炎上気味になっているようですが、上記のような観点から見ればここで示されている懸念にも一理はあると思います。

さて、このような懸念を示されている人材育成機能といえばアカデミズムの世界がその本務を担っているはずですが、この状況下であっても「学校は就職予備校ではない」とかいう念仏を唱え続けるのか、あるいは上記のような懸念を示す方々(引用したゲンダイクオリティの記事ではほとんどが経営者層ですが)が就職予備校ではないアカデミズムの世界からの新卒を人材育成するためにどのようにその「手腕」を発揮されるのか、はたまたメンバーシップ型におけるメンバーとしての青天井の出世のための努力を正規労働者全体に求め続けるのか、各方面の対応に注目したいと思います。もちろん、労働者(その予備軍としての学生)にとってもどのような能力開発や働き方が望ましいのかを考える貴重な機会ですし、その際に職場の労労対立を包摂しながら議論を集約していく労働組合の役割は重要性を増していくものと思います。
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2017年04月16日 (日) | Edit |
さて、再び1か月以上間が空いてしまい、過労死認定レベルの超過勤務ですっかりネタが貯まってしまっていたところではありますが、実はこの間に私淑している某先生にお会いする機会があるなどありつつも、この社畜ライフの中ででいろいろと考えたことがありましたので、忘れないうちにメモしておきます。

というのは、その過労死認定レベルの超過勤務が許容される日本型雇用慣行では、その大きな特徴としてOTJ挙げられるところでして、今更ではありますが、そのOJTが日本型雇用慣行における長時間労働の根源ではないかと思うわけです。もちろん、こうした指摘はこれまでにもhamachan先生や海老原嗣生さんをはじめ、日本型雇用慣行の実態を踏まえた議論をされている方々から散々されていたものではありますが、「働き方改革」をめぐる議論を見ていていると、その辺は華麗にスルーされているのだなあなどと思うところです。まあ簡単に言えば、現在の長時間労働を削減しなければならないとなったときに、どんな業務が真っ先に削減されるかと考えれば、自分以外の従業員に業務を教えたり指導したりする業務だろうと。

日本型雇用慣行はメンバーシップ型だからとか欧米ではジョブ型だからとか単純な切り分けはできないとしても、大雑把に言えば、「白地の石板」たる無垢な新卒採用による正規労働者が基幹業務を担うメンバーシップ型と、ある程度の職業能力を前提に入職するジョブ型を比較すれば、入職後にその職業能力を高めるための労力は前者の方が多く必要となるはずです。つまり、「白地の石板」が職務遂行能力を身につけていっぱしの業務を担える「メンバー」になるためには、通常の労働時間に加えてその職務遂行能力を身につけるための追加的な労働時間が必要となる場合が多くなるわけです。

この点不利だと言われるのが、結婚前なら気を遣って時間になれば早く帰れと言われ、結婚して育児が始まると否応なく早く帰らなければならない女性労働者であったり、何らかの事情や疾病などの影響により、8時間を超えて(場合によっては8時間以内でも)就労することが難しい障害者や難病患者であって、そのために就労支援などが行われているのですが、hamachan先生の言葉をお借りすると、その就労支援はあくまで追加的な「第2次ワークライフバランス」でしかありません。日本型雇用慣行で必要とされる職務遂行能力そのものには全く手がつけられておらず、従ってその習得に必要な労働時間が組み込まれた正規労働者の「第1次ワークライフバランス」は相変わらず長時間労働を前提としたままとなっています。

結局のところ問題は、正規労働者の「第1次ワークライフバランス」が実現できない要因であるところの職務遂行能力の習得のための追加的な労働時間と、主に正規労働者とはみなされない「第2次ワークライフバランス」で支援されている追加的な労働時間短縮が対応していない、言い換えるなら、メンバーシップ型のメンバーとなるためには労働時間短縮による「第1次ワークライフバランス」なんかやれるはずがないという点にあります。そして、正規労働者の「第1次ワークライフバランス」が実現できないまま労働時間短縮が強制されたときに、肝心の職務遂行能力の習得に必要な追加的労働時間が削減される可能性が高く、そのことに危惧を抱くメンバーシップな正規労働者(その中にはなんとか正規労働者として認められたいと考える女性労働者や何らかの事情により長時間労働しなければキャッチアップできない労働者も含まれるでしょう)からは、労働時間削減に対する反対の声があがるという、何重にも倒錯した事態が生じることになるのでしょう。

このような現実を前にしてどのような実務的対応が可能なのかは、我々のような現場の下っ端労働者が考える羽目になるわけですが、現状に対する慣性の力というのは想像以上であることが多いわけでして、「働き方改革」の前途は多難と言わざるを得ませんね。

(2017/04/19追記)
このエントリをアップしたタイミングを計ったかのようなエントリを発見しましたので、こちらに貼っておきますね。

理由1: 一定の知識と技術がなければ、NZではプログラマになれない

まず、「プログラマ」という職業に求められる要素が、日本とNZでは大きく異なる。

日本では、学問的なバックグラウンドや経験の有無を問わず、誰でもプログラマになれる。文系出身で1行もコード書いたこと無いけどプログラマになりました、という人は珍しくない。また、人材派遣の世界では「簡単な研修を受けただけで経験1年のプログラマとして派遣された」なんて話もある。
(中略)
一方でNZでは、情報系の学部を卒業していなければプログラマになるのは難しい。また卒業しているだけでは不十分で、企業でのインターンを中心に、ある程度の経験を積む必要がある。採用の過程では、NZ国内の学生だけでなく、世界中からやってくる移民たちとの競争にも勝ち抜かねばならない。

(中略)

まとめ ー 技術を磨けば定時で帰れる! ー

NZのプログラマが毎日定時で帰れるのは、必要な知識と技術を身に着けており、かつ企業がそのスキルにじゅうぶんな給与を払っているからだ。NZの社会や文化に関係なく、残業せずに仕事が終わるのには、それなりの裏付けがあった。

これは、とても希望の持てる結論だと思う

日本に住んでいても、技術さえあれば毎日定時帰りの生活を手に入れることができるのだ。

残業がなかなか減らないのは、あなた自身の技術力が不足しているか、もしくは、技術に見合った職場で働いていない可能性が高い。

「ニュージーランドのプログラマが毎日定時で帰れる本当の理由(2017-04-17)」(NZ MoyaSystem

こちらのブログ主さんは「まとめ」の部分で「これは、とても希望の持てる結論だと思う」と指摘されていますが、「白地の石板」として新卒で入職してから日本型雇用慣行で働いている我々にとってみれば。むしろ希望どころではなく絶望しかないような気もします。

まあそれはそれとして、入職した時点でそれなりのスキルを持った労働者が仕事をすれば、当然のようにはじめから仕事は効率的に進むでしょうけれども、日本型雇用慣行はそうした効率性ではなく、仕事を知らない新卒学生上がりが試行錯誤する中で経験を積むことに重きを置いているわけです。つまり、非効率な試行錯誤のために労働時間を費やし、その試行錯誤の経験が職務遂行能力として評価されて職能給が上がっていくというのが日本型雇用慣行である以上、試行錯誤する時間を有することこそが正規労働者としての資格を意味します。

そしてその試行錯誤の結果、運良く効率的な業務の進め方が構築されたならそれはそれでラッキーですが、場合によっては試行錯誤の結果が極めて非効率的なやり方になる可能性もあります。そしてその非効率なやり方が一度定着してしまうと、そこには制度の慣性の力が働いてしまい、次の担当者はそのやり方を改めるために新たな試行錯誤を繰り返し、さらに次の担当者がその試行錯誤を再現しつつそのやり方を身につけていく…という無限ループをこなして初めて、正規労働者として認められていくことになります。時間がいくらあっても足りないわけです。

さらにいえば、上記エントリで

あるエンジニア情報サイトが実施した「残業に関するアンケート」では、「残業する主な要因」として最も多かった回答は「残業費をもらって生活費を増やしたいから」で、「非常に当てはまる」「やや当てはまる」の合計が34.6%だった。*1

という記述があり、その参照先を見ると確かに、

 エンジニア情報サイト「fabcross for エンジニア」は3月2日、会社員・公務員1万145人を対象にした「残業に関するアンケート」の調査結果を発表した。調査期間は2017年1月12~19日。

 調査によると、「残業する主な要因」として最も多かった回答は「残業費をもらって生活費を増やしたいから」で、「非常に当てはまる」「やや当てはまる」の合計が34.6%だった。次いで「担当業務でより多くの成果を出したいから」(29.2%)、「上司からの指示」(28.9%)、「自分の能力不足によるもの」(28.9%)という結果になった。

(中略)

 「日本は残業が多過ぎるか」という問いには77.9%が賛成する一方で、「社会人として成長するためには、残業が必要なときもある」という考えにも52.5%が賛成している。また、「自分の勤めている企業・団体で残業を減らすのは無理だと思う」という考えには賛成が45.9%、反対が20.5%と、長時間労働を認識しながらも、問題の解消は容易ではないという考えが多くを占めるようだ。

1万人に聞いた「残業する理由」、1位は「残業代がほしいから」[ITmedia]2017年03月02日 12時21分 更新

という記事が掲載されていました。残業代がほしいといういわゆる「生活残業」というのも、「賃金の上方硬直性」がある日本型雇用慣行ならではのものでしょうし、本エントリの趣旨を裏付けるように、「自分の能力不足のために残業せざるを得ないが、それは社会人として成長するために必要なものだ」という認識が根強いのも日本型雇用慣行のなせるワザなのでしょう。

さらに問題を難しくしているのは、そうした残業に対する認識が根強い状況においては、取引先から「こんなんじゃ使い物にならないからもっと勉強してくれよ」とエキストラな対応を求められても、「社会人として乗り越えなければならない貴重な成長の機会だ」などと美化されてしまうことになり、結局お互いがそれを押し付け合うことで際限のない残業が発生してしまうという状況です。制度というのはその趣旨を超えて都合のいいように活用されるのが常でして、誰かが抜け駆けすればそれがスタンダードになっていくわけですから、「働き方改革」によって日本型雇用慣行を改めるとしても漸進的に進めるしかないだろうと思います。その過程では悲喜こもごもありつつも、その方向性が示されただけでも大きな前進と捉えて、しゃかいじんとしてせいちょうしていきたいとおもいます(棒)

2016年12月13日 (火) | Edit |
海老原さんの新著が出ましたので早速拝読し、ちょうどそのタイミングで『HRmics vol.25』をご恵投いただきました。毎度のことながら場末のブログにご配慮いただきありがとうございます。その新著ですが、前回エントリで取り上げた「日本死ね」という例の言葉をもじったタイトルでして、実は本エントリの振りでもありました(本書の発行日は11月20日ですのでノミネート前にはタイトルが決まっていたと思われますが)。実は以前、海老原さんは「就活に関する本はもう書かない」と書いていらっしゃったので、就活にまつわる新著を出されるというのは何か心境の変化があったのだろうかと思って読み進めると、最後の部分にその理由が書かれていました。

 諸外国というとまずはアメリカだが、この国には21年前に初取材をして以来、都合6回、いずれも1回当たり10社以上に赴くという形で、長期取材を敢行している。合計すれば、100社に迫る企業訪問になるだろう。だから、そこそこ「働く」を見てきた。
 それが、3年前くらいの自分だ。そして、そのころ「働く」について、こんなことを考えていた。
「アメリカの『働く』は、出入り自由な分、生存競争も激しい。なかなか厳しいな。それよりは日本の方が楽でいいか。でも、欧州はきっと、両者にないもっと幸せな『働く』があるのだろう……」
 当時はまだ、欧州を取材していない。だから「横」を知らずに夢を描いていたのだ。
 そうして3年前から急繕いで欧州でのヒアリングを重ねていく。フランスとドイツの中間層を中心に30人程度取材をした。その度ごとに、ノックアウトされそうになってしまった。
「フランスに生まれなければよかった」
「私たちは籠の鳥だ」
「いや、箱の中のネズミだよ」
「おでこにラベルも貼られているしさ」
「残業しない理由? 感嘆だよ。外食する金がないから。夕飯は嫌でも家で食べないと」
「こんなホテル、入っただけで緊張して、足が震える(シェラトンでの取材時に)
 伝え聞いていたワークライフ充実社会は、こんなものだったのかとショックを受けた。
pp.253-254
文春新書
お祈りメール来た、日本死ね
「日本型新卒一括採用」を考える
海老原嗣生
定価:本体820円+税
発売日:2016年11月18日
ジャンル:ノンフィクション



この部分の後に、中間層の不平不満が極右政党への支持やイギリスのEU離脱につながる状況にも類似構造があり、「続きは次著にて」という予告もありますので、そちらも気になるところですが、海老原さんのような雇用を専門とする方にとっても、欧州で「働く」ということの実態は、実際に現地で話を聞くまでは具体的にイメージすることはできなかったとのこと。3年前というと、『HRmics』のvol.17の特集「近くで見た欧米企業」vol.20の特集「学校で仕事を教え、資格で能力を表せるか」で取材された内容が本書でまとめられたという位置づけになりそうですが、本書はより網羅的に日本の新卒一括採用と欧州の職業教育制度から連なる就職事情が比較されています。

欧州でも新卒(未経験者)の採用はあるのですが、その実態はというと、

職務別×未経験の欧州事例 ①超エリートの青田買い

 それでは、欧州には、未経験者の一括受け入れという仕組みはないのか。
 欧米企業でも、トレーニー採用とエントリーレベル採用という2つの入口を設けて未経験者を受け入れてはいる。この2つについて、説明していくことにしよう。
 トレーニー採用とは、希少人材に対する青田買いシステムと考えると分かりいやすい。この手法を取り入れるのは超大手企業がメインとなり、対象の学生には、エンジニア、財務や金融職などのスペシャリスト、MBA(経営学修士)取得などの経営管理層があげられる。
(略)
この採用では、はっきり決められたポストをあてがわれるのではなく、1〜2年程度、訓練生として社内のいろいろなポジションで仕事をすることになる。そうして、仕事を覚え、また、自分の人柄や能力を周囲に知ってもらう。この期間中に空きポストが出れば、自ら応募する。そこで任用されると正式な「入社」となる。
(略)

職務別×未経験の欧州事例 ②不人気・低待遇求人

 もう1つの未経験者受け入れであるエントリーレベル採用は、まったく様相が異なる。
 こちらは、組織の最末端の比較的簡単な職務ポジションの空きを埋めるための採用だ。欧米でも、人員の流出が多い企業や成長著しい企業、不人気職務などでは、組織末端に欠員が大量に発生することになるので、こうしたポジションを常時公募し続けることになる。
 ここには新卒だけでなく、社会人も応募可能だが、給与待遇レベル、職務内容などからそれほど熟達者は応募しない。結果、新卒や既卒未就業者の採用割合が高くなる。そう、大量に未経験者を受け入れ、既卒者もOK、なおかつ「職務別」と、これこそ日本型就職のよき部分をのこしたまま、欧米の「あるべき姿」をドッキングさせた理想の入職スタイルといえそうだ。
(略)
 要は、「欠員が埋まらない」不人気企業・不人気職務は洋の東西を問わずこの方式で常時未経験者を受け入れるだけの話だ。とすると、これが日本の就活全体の「あるべき姿」には直結しないだろう。

海老原『同』pp.114-117


ということで、欧米にも(日本のコース別採用というより)正規と非正規の組合せに近い採用区分の違いがあり、そのうち正規労働者は1〜2年という長期のトレーニー採用で「職務無限定」に働いて、空きポストがあればやっと正規に「入社」できるという日本型就活どころではない超難関の就職事情となるようです。そして一方のエントリーレベル採用は、どちらかというと日本の非正規と同じように新卒・既卒の区分なく常時募集があり、いわゆる「欧米では雇用が流動化している」という場合はこちらが想定されているように思いますが、その待遇は「不人気企業・不人気職務」に相応しいものとなります。そのような普通の労働者からは、冒頭で引用しているように海老原さんもショックを受けるような本音が聞かれることになるのでしょう。

本書は就活に焦点を当てているのであまり触れられていませんが、このような採用方法の違いは、就職後に会社で人材育成するか、就職までに(公的に)職業訓練を行うかという職業能力開発の在り方と密接に対応しているため、単に会社が横並びだとか怠慢だとか批判するだけでは的外れになるだけです。という職業能力開発の観点から見ると、日本型雇用慣行は広く「正規労働者という網」をかけて、その中から幹部候補生を育て上げていくという管理者養成機能こそが特徴とも言えそうです。

ところが、以前は課ごとに分かれた大部屋の中で、課長から課長補佐、係長、主任などの序列の中に新卒を受け入れ、徐々に管理者としての能力開発と選別を行っていた日本型雇用慣行が、「年功序列で責任の所在が曖昧でスピードに欠ける」との批判にさらされてフラット化しました。その結果、即戦力としていきなり見よう見まねで仕事をこなさざるを得なくなったのが、ちょうど我々のような団塊ジュニア世代ではないかと思います。私自身も痛感するところなのですが、既にアラフォーからアラフィフが見えている団塊ジュニアの世代は、小池和男先生がおっしゃるところの「長期化するトーナメント方式」でつい最近まで部下もいないような平社員として現場に出ていて、残り10数年という段階でいきなり管理職としての役割を求められるようになっています。

もちろん、それまでに管理能力を身につけられる職員もいますが、あまりに現場が長くなってしまうとそのやり方が身についてしまって、自分なら簡単にできる仕事を十分にできない部下に対して高圧的に接してしまってパワハラしてしまう管理職や、目先の目標にばかりとらわれて長期的な次世代の育成まで配慮できない管理職も多くいます。人事担当部署もこれまで強力な人員削減圧力にさらされてきたので、退職者不補充と新卒採用抑制の手法のノウハウはありますが、その少なくなった職員体制でどのように業務を効率化するかという手法は未だに取得できていないのが実態ではないかと。

管理職を養成できないような日本型雇用慣行はそのメリットを大きく損なっているのですが、退職者不補充と新卒採用抑制に明け暮れてやっとそれに気が付いた現状にあって、現場も人事担当部署も現有の管理職で乗り切るしかなく、結果としてさらに管理職養成が進まないという悪循環にある自治体(民間企業も?)は多いのではないかと思います(そんな状況ではありますが、本書では埼玉県や広島県安芸高田市で役所が中心になって進めている地域人材育成の取組も紹介されていて、同業者として自分の力不足を痛感するところではあります。いやまあ、私なりに拙ブログに書いていることは仕事で実践しているつもりなのですが、なかなか目に見える形にならないのがお恥ずかしい限りです)。

実は、今回ご恵投いただいた『HRmics』のvol.25は「残業は、常識では減らせない。」という特集で、厚切りジェイソン氏、勝間和代氏からホリエモンとカルビーの松本社長との対談まで、豪華な人選でいろいろと議論されているのですが、管理職養成はあまり意識されていないように感じました。長時間労働を評価する管理職がいて、それで評価された部下が管理職になった時にも長時間労働を評価するという悪循環を断ち切る方策こそが、当面の現場で求められているのではないかと思うところですが、それはあくまで内部昇進で管理職を養成するという日本型雇用慣行を温存することを前提としたものであって、日本型雇用慣行のデメリットは解決しないことになります。どこから手をつけるかというのはなんとも難題ですねえ。。

2016年06月19日 (日) | Edit |
最近は人事ネタが続いていますが、先日のエントリで「日本型雇用慣行に関するこのような思い違いが前提となっているため、個々に見ればそれなりに有効そうな提言もあるものの、トータルではそんな虫のいい話はないよなあとしか思えない仕上がりになって」いる本を取り上げたところでして、では日本の人事は思い違いをしていないかというと、必ずしもそうとはいえないところが歯がゆいところです。いやもちろん、日本型雇用慣行の功罪をきちんと踏まえて実務に当たっている人事もいる、というか典型的な日本型雇用慣行となっている大企業では、その慣行を踏まえていかに日々の実務を円滑に進めるかに腐心しているのが実態です。そうした人事労務担当の皆さんが参考にしている、その名も「日本の人事部」というサイトで、拙ブログでも取り上げさせていただいた中澤二朗さんのインタビュー記事が掲載されていました。といいながら、「日本の人事部」は会員登録しなければ2ページ以降が読めませんが、読めるところだけでも十分に示唆的な言葉が並んでいまして、人事担当は中澤さんが目を見開かされたとおっしゃるこの言葉を肝に銘じるべきでしょう。

―― 著著の『働く。なぜ?』でも触れられていますが、中澤さんが“働くこと”に目覚められたきっかけは、「人生初めての上司」との出会いだったそうですね。

それに尽きます。大江暢博さんという方ですが、姫路で、しかも最初に彼と出会っていなかったら、私はまったく違う人生を歩んでいたように思います。いま振り返ると、よけいにその感を強くします。本にも書きましたが、あれは暮れなずむ仕事帰りのときでした。事務所を出たあとすぐ、夕もやに包まれた溶鉱炉の方角を見やりながら、大江さんは、こう私に問いかけました。「おい、中澤よ。みんな、あんなに頑張っているけれど、本当に幸せに近づいているのかなあ」と。“みんな”とは、他でもありません。4組3交代、昼夜兼行で働いている鉄鋼労働者のことです。あのひと言が、私の目を見開かせてくれました。?

あるべき未来像から「仕事」を考え、「働き方」を語る それが企業社会を支える人事パーソンの使命(前編)[ 1/3ページ ] 新日鉄住金ソリューションズ株式会社 人事部専門部長/高知大学 客員教授 中澤 二朗氏 2016/6/8(日本の人事部)
※ 以下、強調は引用者による。

「大企業は労働者を使い捨てしてけしからん」とか「非正規に置き換えて私腹を肥やしている」とか声高に主張される方の目には入らないでしょうけれども、大企業の人事労務担当は、ヒトの処遇という切れば血が出る現実と日々向き合いながら実務をこなしています

まあもちろん、中澤さんやその上司であった大江さんほどの覚悟と深い考察をもって実務に当たっている担当者ばかりではないでしょうけれども、特に日本型雇用慣行においては、少なくとも原理的には長期雇用を前提として全人格的に人事労務管理しなければなりません。よく言われるように「クビがかかっている」問題で軽率な判断や処遇をしてしまうと、直接的な訴訟リスクのみならず、社員のモチベーションの低下による業績の悪化という影響まで生じるリスクがあります。もちろん経営上は外部的なリスクも大きな影響がありますが、内部的には人事労務管理で対応を誤ると取り返しのつかない事態に陥るわけでして、人事担当にはそうしたリスクをマネジメントするためのノウハウが蓄積されており、その人事労務管理の実務の積み重ねが日本型雇用慣行を形作っているわけです。

その中澤さんも、日本型雇用慣行の例に漏れず人事労務担当以外の業務も経験しながらキャリアを積まれたとのことですが、その経験も踏まえて日本型雇用慣行についてこう指摘されます。

―― 若いうちに異動を重ね、失敗をも織り込みながら、多様な仕事経験を積ませることで知的成熟者を育成する。それを可能にしたのが、長期観察・長期育成・長期雇用の日本型雇用システムでした。しかし昨今、「日本型」への風当たりは強まるばかりです。

そうした風潮の一つに、「日本的雇用は年功序列で時代遅れ」という決めつけがあります。しかし、そうした主張は既に1970年代からありました。それ以降、この国が年功序列から脱皮しようと、過剰なほどに成果主義に傾斜していったことは、多くの方がご存じのはずです。

その歴史的分水嶺は、1969年に旧日経連から刊行された『能力主義管理-その理論と実践-』という本でした。その冒頭では高らかに、「日本はこのままではダメだ。年功主義から脱皮し能力主義に変わらなければ未来はない」とうたっています。その結果、いまや大企業の9割近くが職務遂行能力をベースにした「職能資格制度」を取り入れています。新卒一括採用を入口とし、定年を出口とした年次別選抜管理がそれです。すなわち、すべてが「査定」です。日本的雇用は、単なる年功序列ではありません。日本は、世界に先駆けてブルーカラーにも「査定」を導入した国。職場の実態を踏まえ、歴史の経緯をたずねれば、そうした論調がいかに的外れかは明らかでしょう。

余談ですが、以前、野中郁次郎先生(一橋大学名誉教授)から、こう言われたことがあります。「中澤さん、あなたの先輩たちはもっと仕事していましたよ」と。これは、こたえましたね。そう言われれば確かにそうです。周りには、そういう先輩がたくさんいて、まさに時代と戦っているようでした。前回ご紹介した大江さんも、もちろんその一人です。

(略)

日本型雇用が採用から退職までを丸ごと包含したパッケージであれば、つまみ食いをすることは許されません。修正をする際は、部分最適ではなく全体最適を行う必要があります。つまり、あそこがいい、ここが悪いという批判ではなく、どうしたらいいのか、全体を見渡した上での代案が必ずいるということです。あらためて言うと、まずはあるべき未来像を描く。その未来像に照らして良いものであれば続け、悪いものであれば捨てる。逆に、いま良くないものでも、未来にとっていいものであれば敢然と使う。

あるべき未来像から「仕事」を考え、「働き方」を語る それが企業社会を支える人事パーソンの使命(後編)[ 1/3ページ ] 新日鉄住金ソリューションズ株式会社 人事部専門部長/高知大学 客員教授 中澤 二朗氏 2016/6/15(日本の人事部)

日本型雇用慣行としてのメンバーシップ型を支えるのが職能資格給であることは拙ブログでも何度もしてきしておりますし、それが実態として年功的に運用されている面はあるものの、少なくとも制度上は「職務遂行能力」を査定した結果として運用されているのであって、それを中澤さんは「すなわち、すべてが「査定」」と指摘されています。これも実務の現場で積み上げてきた人事担当者としての矜持が表れた言葉ですね。

その意味で、野中郁次郎先生の「あなたの先輩たちはもっと仕事していましたよ」という言葉は、中澤さんにとって「今の人事担当は先達の作り上げた制度の運用に汲々としていているばかりではないのか? きちんと査定しているのか?」という戒めに感じられたのでしょう。野中先生ご自身も富士電機製造株式会社で人事労務管理を担当されたご経験があるからこそ、こうした言葉をかけることができたのでしょうし、そこには日本型雇用慣行への深い理解がありますね。

この次のページは会員登録しなければ読めないのですが、社会保障と雇用・労働が主な関心分野である拙ブログにはちょっと耳の痛い指摘があります。興味のある方は会員登録してご覧いただければと思うのですが、かいつまんでいえば、個々の企業の人事労務管理はアプリケーションなので企業が自由にカスタマイズして構わないが、文化や風習などによって規定される社会保障などの制度はハードウェアであり、この部分の議論は壮大になるため、その中間の「OSにあたる日本統一の雇用インフラをメンバーシップ型からジョブ型に変えるか」の議論が求められているとします。

拙ブログでは仕事上の問題意識もあってハードウェアの部分の議論をしがちなのですが、現実の職場では、いかにOSに当たる雇用インフラを時代にあったものとするかという問題に向き合わなければならないと思います。それは何も人事担当の専売特許ではなく、働く一人一人の労働者が我がこととして考える必要があります。そのための社会インフラが集団的労使関係のアクターである使用者団体と労働組合なのであって、職場で話し合う場が団体交渉であるはずなのですが、昨今の使用者団体や労働組合の言動を拝見すると、これもまた難しい問題ですね。

2016年06月05日 (日) | Edit |
前回取り上げた「そんじょそこらのマネジメント解説書」は、日米で人材コンサルタントとして活動する方の書でしたが、そこでは日米(というか日本とそれ以外の世界)の雇用慣行の違いについて根本的な思い違いが前提となっているという状況でした。では、本場アメリカではジョブ型雇用で問題がないのかといえばもちろん話はそう簡単ではないわけでして、「労働環境を見るとアメリカが日本の後追いをしているようにも見え」たりとか、アメリカで活躍するコンサルが「マネジメントや人材管理の分野で職務記述書によるジョブ型の働き方を徹底的に批判してい」たりとか、むしろ日本型雇用に対する「憧れ」のようなものも感じるところです。

で、Googleの人事制度を紹介した本をしばらく前に読んでいたんですが、あのGoogleですら、どちらかというとジョブ型を徹底するより日本型雇用慣行に近づけようとしているようです。

 研究者や上級幹部が、あなたや周囲の人々を成長させる環境を整えるには、まずその環境に対して責任をとる必要がある。職務記述書に記載されていようといまいと、許されていようといまいと、これは事実である。
p.55

ワーク・ルールズ!ワーク・ルールズ!
ラズロ・ボック著/鬼澤 忍訳/矢羽野 薫訳
ISBN:9784492533659
旧ISBN:4492533656
サイズ:四六判 上製 560頁 C3034
発行日:2015年07月31日


※ 以下、強調は引用者による。

Googleの人事トップが「労働者は経営者目線たれ」というところは、全員が幹部候補となるメンバーシップ型そのものともいえそうです。ただし、さすがにGoogleともなると、ただいいとこ取りをするのではなく、メンバーシップ型雇用らしく長期雇用にコミットメントするような人事制度をとっているとのこと。

 私たちは人材斡旋会社と契約した。だが、そうした企業がこちらの求めるものを理解するのは難しかった。というのも、私たちが雇いたかったのはエキスパートではなく「聡明なジェネラリスト」だったからだ。自分が携わっている仕事を熟知している人より、賢明で好奇心旺盛な人を雇いたがっていることに、人材斡旋会社は当惑した。彼らの混乱がフラストレーションへと移行したのは、私たちがこう主張したときのことだ。殆どの顧客企業がしているように顧問料を支払うのではなく、採用が成立した場合にのみ料金を支払うと。それだけではない。私たちは数十回の面接を要求し、求職者の99%を不採用とし、たいていの場合、求職者が現に手にしている金額よりも低い報酬を提示した。
p.124

 私の知る限り、業績評価や昇進審査にグーグルほど時間をかけている組織は、大学のほかはパートナーシップ的に経営される企業しかない。両者とも、昇進は結局のところ、就寝教授や共同経営者として家族の永続的メンバーになることを意味する。長期的な約束をするのだから、細心の注意が払われるのだ。
p.283

 そんなわけで、「業績不振」の社員を解雇するという従来のやり方とは違う手段をとることにした。私たちの目標は、底辺の5%に該当する全社員に、その事実を伝えることだ。だが、そのときにこんなメッセージを伝えれば多少やりやすくなる。「あなたの成績はグーグル全体でしたから5%です。そう聞いて気分がよくないことはわかります。わざわざ私がそれを伝えるのは、あなたに成長し、向上してもらいたいからです。
(略)
 実のところ、グーグルは採用時に役割に関係した知識をあまり重視しないため、こうした問題には弱い面がある。仕事の進め方を知らない人を雇いたいからだ。ほぼ全員がいずれはそれを理解するはずだし、その過程で「経験済み」の人間よりも斬新な解決策を編み出す可能性が高いと信じているのである。
p.296-297

ボック『同』

最後の引用部は、いわゆるPIP(Performance Improvement Program)に類似した内容だろうと思いますし、PIPそのものの実態は自主退職を促すという面もあるわけで、解雇回避努力義務というまでのものではないかもしれませんが、そうはいっても、本書で引用されているようなジャック・ウェルチ流の「Up or Out」(「down or out」ともいいますね)とは明らかに違う方向を指向しているものといえましょう。

つまり、ゼネラリストを採用して長期雇用しようとすれば、内部で人材を育成しながら昇進させる必要があり、その一方でローパー社員をいちいちクビにしていたら採用コストばかりかかって内部での人材育成の効率も悪くなるため、その育成に資源を投入する必要も生じます。Googleでは外部労働市場のみではなく内部労働市場も重視しているということになり、金子先生が指摘されるような「ジョブ型もまた、クラフトタイプの内部労働市場」ということの現れなのかもしれません。

実は、復興関連で読んだ中で、アメリカでキャリアを積んだ方が被災地支援に当たられた方の本でも、日本型の長期雇用を前提とした異動のメリットが強調されています。

 国連というのは、いわば「人類の議会」です。国際社会の課題を解決し、よりよい世界を築いていくうえで非常に重要な役割を担っています。そのためにも、そこで働く一人ひとりが最優秀でなければなりませんし、よりよい世界を作っていくのだという強い意志を伴っていなければなりません。
p.61-62

 もちろんUNHCRスタッフにもさまざまな国の人がいますが、やはりそういった過酷な現場で生活しながら働くというのは苦しい。豊かな国の人であれば、そのストレスは大変なものです。赴任が長期化すれば精神的にも危機が生じます。
 これを回避するために、一つには公正で適切な配置換えが必要です。もう一つは専門家による精神的なカウンセリングです。これらの人事制度システムを整えなければなりませんが、簡単な話ではありませんでした。
(略)
 ジュネーブやニューヨークのような“良い場所”と、紛争地帯のような過酷な場所では、当然ですが「任期」も変える必要があります。前者が5年なら後者は1年とか2年にしてあげないと負荷が大きすぎます。公正さを保つため、昇格・昇任するためには、厳しい環境での勤務を一定年数やらなければいけないというようなルールも考えました。
 人事の公正なシステムがないと、別の悪い問題も生まれます。地域の人事を決めるレップたちが、能力ではなく情実や縁故で採用をし、自分が選抜した人間を子飼いにして不適切な利害関係が生じかねないのです。上の人間が別の地域に移動すれば、いつのまにか仲間も一緒について回るというようなことも珍しくありませんでした。
p.76-77


陸前高田から世界を変えていく
元国連職員が伝える3.11
■ 著者名: 村上清
■ カテゴリ名:書籍/単行本
■ 発刊日:2016年03月05日
■ 判型:四六判
■ ページ数:224
■ 税込価格:1,620 円(本体 1,500 円)
■ ISBNコード:9784267020476
■ Cコード:0095

著者の村上さんは高校まで岩手県陸前高田市で過ごし、アメリカの大学を卒業して、ジョブ型雇用のアメリカでキャリアを積んだ方なのですが、そのような方であっても公正な人事制度として構想するのは「コンピテンシー」を取り入れた日本型の長期雇用だったわけですね(なお、本書は出版社が気になるところでしたが、少なくとも本書からはあまりそうした雰囲気は感じませんでした)。

まあ、こうした人事制度は法制度もさることながら、組織の業種とか組織形態によって決まる面も大きいわけでして、日本型雇用慣行としてのメンバーシップ型が長期雇用維持するために特化した雇用形態であるならば、長期雇用によるメリットがある企業においては、日本型雇用への接近が見られることになるのでしょう。