2018年11月23日 (金) | Edit |
年に何度目かのデスマーチで既に疲弊しきっているところですが、前回エントリに引き続き「労働史観の私的推論」がどのような働き方をもたらしているのかを考えさせられる案件がありましたので、いつものように周回遅れですが取り上げてみます。


このtweetに関連してトゥギャられているのですが、
京都市民「バス運転手ごときが年収800万!?税金の無駄だ!」行政「民間に委託するか…」→民間企業が撤退して市民の足が壊滅へ?(Togetter)
いやもちろん、「バスの運転手ごとき」などという物言いそのものに仕事に対する貴賤の意識がにじみ出ていていて不快ではありますが、日本型雇用慣行からいえばそういう評価は実は正当化されうる点に注意が必要です。前々回エントリから引用すれば、

4 長期雇用と「職務遂行能力」

ここで注意が必要なのは、組織の規範とは別に独立しているスキルに習熟した労働者が、積極的に「職能資格」の枠の外に置かれたということです。それは長期に固定化する人件費を抑制したいという使用者側の思惑に応えると同時に、テンポラリーな労働者と常用労働者との代替を防止するというメンバーシップ型労働者(とそれを維持したい日本的左派の方々)側の思惑にも応えるものでした。

しかしこれによって、もともとメンバーシップ型雇用ではその仕事に必要なスキルや技能が軽視されていた傾向が、一気に加速することになります。つまり、職務を遂行するために必要なスキルは、強大な人事権による定期的な人事異動をこなすことにより、その組織における規範を内部化しながら身につけるものであって、専門職が長期に従事することによってスキルそのものを高めても、それは少なくとも「職務遂行能力」としては評価されないということです。

言い換えると、メンバーとして長期雇用されて規範を内部化した「職能資格」が最優先されると、スキルそのものよりも「職能資格」の根拠となる「職務遂行能力」が優先されます。そして、長期雇用によって得られるとされる「職務遂行能力」が基準となると、長期雇用の入口段階での選抜(新卒一括採用)を通過した正規(男性)労働者とそれ以外との格差は雇用が長期化するほど広がっていきます。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))
※ 強調は引用時。

というように、バスの運転という組織内での経験などとは関係なく取得されるスキルは、「強大な人事権による定期的な人事異動をこなすことにより、その組織における規範を内部化しながら身につける」とされる「職務遂行能力」とみなされず、したがって、「職務遂行能力」によって基礎付けられる「職能資格」には反映されないということになります。だからこそ、「強大な人事権による定期的な人事異動をこなす」こともなく、「組織における規範を内部化」する必要もないバスの運転手などが、「職能資格」を得て昇給することなんてけしからんという論理が生まれることとなります。

そういった批判を丹念に整理してみると、実は公務員であることを問題としているのではなく、給与体系が年功序列的に上昇していくことを批判していることに気がつきます。ところがここに注意が必要なわけで、給与体系が年功序列だという点に批判が集中してしまうと、不特定多数が利用する交通機関や、育ち盛りの子供たちの昼食や、親が面倒をみられない幼児の世話という高度な注意義務が要求される業務であっても、それに携わる方々については、民間だろうと公務員だろうと年功序列で処遇することはもってのほかということになってしまいます。そして、これらの業務を民間委託するなどして、年功序列ではないより低賃金の労働者に担わせるべきだという「経営者目線」の論理に「民意」が根拠を与えてしまうのですね。その「民意」の後ろ盾さえ確保できれば、まずは「民意」が究極のボスとなる役所から、人件費の削減が拍手喝采を浴びて実行されるというのが現在の流れといえるでしょう。

渡る世間はブーメランばかり(2009年12月28日 (月))

では、バスの運転手の運転技能を「職務遂行能力」と位置づけるべきかということが次の問題となるわけですが、実は、バスの運転技能を「職務遂行能力」とした時点で、それは「職能資格給制度」ではなく「職務給制度」になってしまいます。つまり、広く日本型雇用が浸透しており、現行の地方公務員法においてそれが規定されている現状において、バスの運転技能を「職務遂行能力」と位置づけることは、前回エントリで指摘したような「従来通り「青空の見える労務管理」によって「階段を上る」の層を限定する仕組みと、長期的に専門性の高い仕事に従事することを前提として、賃金などの処遇はその業務の難易度等に応じて決定するものの「階段を上らない」層という二つの仕組みを用意しなければならない」ということになるわけです。

ところが厄介なのは、前々回エントリで書いた通り、専門的なスキルを有する労働者を職能資格給制度の外に追いやることは、「長期に固定化する人件費を抑制したいという使用者側の思惑に応えると同時に、テンポラリーな労働者と常用労働者との代替を防止するというメンバーシップ型労働者(とそれを維持したい日本的左派の方々)側の思惑にも応えるもの」です。つまり、大半の正規労働者からすると、同じ社員の中に「職能資格給制度」のほかに「職務給制度」という仕組みを用意することは、自分が強大な人事権に服して苦労して積み重ねた「職能資格給」とは違う原理で処遇され、場合によってはそれが正規労働者よりもよい待遇になる正規労働者の存在を認めるということを意味します。果たして使用者と正規労働者はそれに耐えることができるでしょうか?

Togetterで冒頭のtweetに賛同している方がそこまでの覚悟を持って発言されているかどうかはわかりませんが、「バス運転手ごときが年収800万円!?税金の無駄遣いだ!給料減らせ!」という批判に対して向き合うためには、このような「職能資格給制度の外側にいる労働者を職務に応じて処遇することに合意できるか」という問いにまず向き合わなければなりません。そしてその職務給の水準は、効率賃金仮説に基づき生産性に紐付けするのか、生活給を基本として年功的要素を盛り込むのか、あるいは賃金所得だけではなく再分配後所得により生活を保障するべく社会保障制度を拡充するのか、…という選択肢の中からどれを選ぶかによって決まります。それはすなわち、どのような所得政策を構築するのかという政策論とも一体で検討する必要があるということです。

さらにいえば、効率賃金仮説に基づく生産性といった場合の「生産性」とは、就業者のうちサービス業が占める割合が増えている現代においては「付加価値生産性」を意味することになるわけですから、その「付加価値労働生産性」は市場で調達するサービスや公的に供給されるサービスに対してどの程度の対価を支払うかという支払い意思によって決まります。つまり、不確実性が高まる中で流動性選好が強まると、所得からストックとしての資産を確保しようとするためフローとしてのサービスに対する支払い意思が低下し、結果として付加価値労働生産性が上昇せず、それに伴って職務給が低下することになります。

バブル崩壊後のこの国においては、「年功序列」「護送船団方式」が高コストであり経済停滞の元凶だと目の敵にされ、一方で「規制緩和」「価格破壊」がもてはやされ、消費者の支払い意思を低下させることが賞賛されました。そしてその流れは現在も続いています。という意味では、冒頭のtweetにいう「バス運転手ごときが年収800万円!?税金の無駄遣いだ!給料減らせ!」という市民様の頭の中では、上記のような職能資格給制度の外側に追いやられたスキル重視の業種が昇給することを認めないという日本型雇用慣行にどっぷり浸かった感覚のほかに、支払い意思が低下し(させられ)続けてきたこの国の消費者心理も強く影響していることも忘れてはなりません。

デフレ脱却のために賃上げしろとか、人手不足だから賃上げできるはずだとか声高に主張される方々は、もちろん私もその主張の内容そのものには賛同するところはあるものの、この国の消費者の支払い意思の低下が賃下げを導き、それを正当化する日本型雇用にご自身がどっぷり浸かっている状況にまで考えが至っているのかよくわかりませんねえ。
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2018年11月11日 (日) | Edit |
前回エントリで長々と日本型雇用の来し方を書いてみたところですが、ではその来し方を踏まえて行く末を考えてみたのが後半となります。とはいっても、私ごとき素人が制度設計を試みようなどと身の程知らずの野望を抱いているわけではなく、最近話題となっている問題が日本型雇用とどう関係していて、どのような変化が見込まれるかという程度のことですので、ハードルは低く設定願います。

まずは前回のエントリで、

4 長期雇用と「職務遂行能力」

ここで注意が必要なのは、組織の規範とは別に独立しているスキルに習熟した労働者が、積極的に「職能資格」の枠の外に置かれたということです。それは長期に固定化する人件費を抑制したいという使用者側の思惑に応えると同時に、テンポラリーな労働者と常用労働者との代替を防止するというメンバーシップ型労働者(とそれを維持したい日本的左派の方々)側の思惑にも応えるものでした。

しかしこれによって、もともとメンバーシップ型雇用ではその仕事に必要なスキルや技能が軽視されていた傾向が、一気に加速することになります。つまり、職務を遂行するために必要なスキルは、強大な人事権による定期的な人事異動をこなすことにより、その組織における規範を内部化しながら身につけるものであって、専門職が長期に従事することによってスキルそのものを高めても、それは少なくとも「職務遂行能力」としては評価されないということです。


と書いた点について、最近こんなニュースが話題となっていました。

日本「高度なスキル持つ人材確保 最も難しい国」に(2018年11月6日 17時11分 NHK NEWS WEB)

世界33の国と地域を対象にした人材のミスマッチに関する調査で、日本は、IT分野などの高度なスキルを持つ人材を確保するのが最も難しい国だと指摘されました。

この調査は、イギリスの大手人材コンサルティング会社「ヘイズ」が、33の国と地域の政府統計などをもとに、企業が求めているスキルと実際に仕事を求めている人のミスマッチの度合いを数値化したものです。

それによりますと、求人が過剰な状態を「10」、人手が過剰な状態を「0」、均衡がとれた状態を「5」とした場合、日本は去年より0.1ポイント上昇して最大の「10」となりました。

これは、スペインやルクセンブルクと並んでIT分野などの高度なスキルを持つ人材の確保が最も難しい国であることを示しています。

その理由として、労働人口の減少のほか急速な技術の進化に日本の人材が持つスキルが追いついていないことを挙げ、背景には、横並びの給与など従来型の評価制度や日本の教育内容に問題があるとしています

一方、今回の調査で人材の均衡がとれていたのは香港やインドで、外国から人材の受け入れを進めていることなどが背景にあるとしています。

記者会見したヘイズの日本法人のマーク・ブラジ代表は「日本がやるべきことは必要な人材を育成すること、必要な人材を受け入れること、人材を適応させていくことだ。もし人材の獲得競争に勝ちたいのであれば国際的な課題やルールを理解しなければならない」と指摘しています。

※ 以下、強調は引用者による。


最後の日本法人代表のコメントでは、人材育成や人材の受け入れと適応が指摘されていますが、その後の強調した部分で「国際的な課題やルールを理解しなければならない」という通り、それは日本型雇用のような内部育成によるのではなく、外部(主に公的機関)による職業能力開発の充実と、それを資格として評価して受け入れ、適正に処遇するという使用者側の対応が必要ということです。そこで「資格」として評価されるのはもちろん、日本型雇用慣行で長期雇用によって獲得される「職務遂行能力」に基づく「職能資格」ではなく、例えばイギリスのNational Vocational Qualifications (NVQ)で公的に付与された「Qualification」としての「資格」です。

ただし、国際的なルールとしてはその通りですが、「誰でも階段を上る」日本型雇用が広く浸透している現状において、そのルートに乗っている労働者を一気に廃止することは難しいわけですから、実務上は2本立てのルールを取り入れざるをえないでしょう。つまり、従来通り「青空の見える労務管理」によって「階段を上る」の層を限定する仕組みと、長期的に専門性の高い仕事に従事することを前提として、賃金などの処遇はその業務の難易度等に応じて決定するものの「階段を上らない」層という二つの仕組みを用意しなければならないということになります。

となると、事実上「誰でも階段を上る」仕組みの放棄することになるわけですから、それを労使ともに受け入れられるかがポイントとなります。海老原さんは以前、この2つの仕組みを「接ぎ木」する仕組みを提唱されていました。

と、ここまで考えると、欧米型移入については、日本型の良さを殺さないための配慮が十分に必要となる。それを考えてみよう。
・強大な人事権をある程度は残す。
・若年期には日本型雇用を残す。
これらを両立するための方策として、「ある年代までは日本型、そうして習熟を積んだあとは欧米型」という接ぎ木型が落としどころだと見えてくるはずだ。(人事権についても、若年期は強い人事権と雇用保障、習熟者は自律と流動性、となる)。
つまり、今までの議論は「いきなり欧米型」「フルモデルチェンジ」だったものを、「途中から欧米型」とする。それは日・欧米のいいとこ取りとなるだろう。
pp.38-39

「「RIETI Special Report 日本型雇用の綻びをエグゼンプションで補う試案」(海老原嗣生(株式会社リクルートキャリア・株式会社ニッチモ))」(注:pdfファイルです)


ただし、新著では、『「育休世代」のジレンマ』の著者である中野円佳氏への問いかけの中でこれを修正する必要を指摘されています。


「育休世代」のジレンマ女性活用はなぜ失敗するのか?中野円佳/著
2014年9月17日発売
定価(本体880円+税)
ISBN 978-4-334-03816-8
光文社新書


●どうしても日本人は「誰もが上れる階段」が捨てられない

 私は一時期、35歳くらいまで日本型の「誰もが階段を上る」仕組みを残し、その時点で明らかにもう将来は見えるから、役員や社長に慣れる目がない人たちに、階段から下りてもらって、そこで昇進昇給を止める。その分、ワーク・ライフ・バランスも充実、というコース設計を推奨していました。
(略)
 こんな話を大手企業の人事や組合でよくしたものです。ただ、頷いてもらえることはありませんでした。
 結局、日本では企業も人も、「誰もが上れる階段」を望んでいて、その階段を壊すことは、労使ともに嫌なようです。
 でも、現実社会では、大卒比率がどんどん高まり、「誰もが上れる階段」に女性も多数入ってくる。共働き比率は高止まり、家事育児介護は誰がやるのか、という問題も否応なく迫ってきます。さあ一体、どうするのでしょう。

●階段を緩くして誰もが上る、という第三の道

 その答えが昨今、ようやく見えてきた気がします。
 世界に冠たる電機メーカーや輸送機器メーカーでまるで同じ言葉を聞くのです。
「日本企業は、年次管理が厳しすぎた。そこをもう少し緩くして、幅を持たせようと思っている」と。
 要は今までだと、「この年齢なら、このレベルの仕事、このクラスの職位」という一律感が強かった。中野さんの本に登場するマッチョ女性たちが焦るのも、そうした一律感に苛まれた結果でしょう。
 この同調圧力から少し解放して、途中で休んだり、ゆっくり働いたりしても、最終的には、きちんと階段を上れるようにしようと、大手企業がそんなことを言うのです。
pp.308-309

 さて、最後に中野さんにもう一度聞きます。
「短時間勤務でも、やりがいのある仕事が用意され、評価も平等で、キャリアにも遅れが出ない」ような、育児社員の希望を全てかなえたコースを、やはり会社は作るべきですか?
 それとも、「ライフイベントに即して、キャリアはストップするが、それでもコースアウトはせず、暴風雨の時期が過ぎたら、また上れる」コースを作るべきですか?
 ちなみに、私は断然後者ですね。エリート街道とは縁遠い人生でしたし、同調圧力とも距離を置いて生きてきましたから(笑)。


名著17冊の著者との往復書簡で読み解く 人事の成り立ち 新刊
「誰もが階段を上れる社会」の希望と葛藤
海老原 嗣生 著、荻野 進介 著
出版年月日 2018/10/26
ISBN 9784561227175
判型・ページ数 4-6・360ページ
定価 本体2,315円+税

これは海老原さんから中野さんへの問いかけでもありますが、世のすべての正規労働者への問いかけでもありますね。そしてそれは、正規労働者のみならず、非正規労働者に置き換えられた「階段を上らない」仕事に就いている労働者にも無関係ではありません。「階段を上る」のが正規労働者の要件でなくなれば、正規と非正規の区分はだいぶ曖昧になっていきます。もちろん、「階段を上る」割合が違ったり、その到達点が異なることはあるとしても、「青空の見える労務管理」で「階段を上」り続けるトップ層の正規労働者と、「階段を上る」ことなく専門性を高める労働者の間にグラデーションを持った働き方が可能になることも考えられます。

いや、「考えられます」という悠長なことは言ってられません。海老原さんが指摘されるように、「現実社会では、大卒比率がどんどん高まり、「誰もが上れる階段」に女性も多数入ってくる。共働き比率は高止まり、家事育児介護は誰がやるのか、という問題も否応なく迫ってきます。さあ一体、どうするのでしょう」という現状にあって、いつまで日本型雇用慣行を維持できるのかという問題に向き合わなければなりません。大きくは2本立ての人事労務管理とし、その両者の間にグラデーションを持った働き方を作っていけるのかがこれからの喫緊の課題となるものと考えます。

2018年11月10日 (土) | Edit |
前回エントリで海老原さんと荻野さんの著書で示されたジャーナリスティックな労働史観を参照するべきと申し上げたところではありますが、僭越ながら少し違った角度から批評させていただきます。今回はクソ長いエントリとなりましたので、結論だけを読みたい方は「8 ここまでのまとめ」をご覧下さい。

1 軍隊組織への「忌避感」


ジャーナリスティックな労働史観は戦前、戦後を通じて日本型雇用慣行が形成された事実的経緯としてはその通りだと思いますが、ではなぜそれが形成されたかというのは、さまざまな要因が考えられます。本書では、

 ではどうして多くの日本企業は、強い人事権を悪用せずに、「誰もが階段を上る」という方向へ昇華させられたのでしょうか。
 それはまず第一に、戦後動乱期に奇跡的な流れの中で、もう戦前のような身分社会に戻るのはこりごりだ、という労使の堅い契りが生まれたからだ、ということを第1章で書いています。
 続いて、この仕組みはなぜ社会に根付いたのか。まだ農林水産業・自営業(家族経営)主体の産業勃興期に、お手本となる伝統企業がそれを導入したこと。そしてそれがあたかも「日本標準」であるかのごとく、世界に喧伝されたことがあります。だから、追随する新参企業が右へ倣えで皆この仕組みを取り入れていくことになりました。
p.28

名著17冊の著者との往復書簡で読み解く 人事の成り立ち 新刊
「誰もが階段を上れる社会」の希望と葛藤
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出版年月日 2018/10/26
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定価 本体2,315円+税


などの要因が指摘されていますが、管見ではこれに加えて戦前の軍隊的組織への忌避感も強く影響しているのではないかと考えております。

私自身は戦後30年程度経ってから生まれた団塊ジュニアの世代ですので、自分の経験としてこの「忌避感」を有しているわけでないのですが、終戦当時に20代くらいで軍隊組織においても新しく制度を形成するにおいても当事者であった世代と、それを見て育った団塊の世代には、自身の経験として、軍隊組織(に限らず戦前の制度全般)に対する「忌避感」が強く根付いているように思います。日本型雇用を形成したのがこの世代である以上、その「忌避感」の影響を受けていると考えるのが自然ではないかと思うわけです。

ただし、その「忌避感」のややこしいところは、たとえば「上意下達で暴力がまかり通る軍隊組織はまっぴらごめんだ」と思う人もいれば、「入る時点で階級が分かれていて、昇進する位もあらかじめ決まっているような硬直した軍隊組織はまっぴらごめんだ」という方もいたと推察されるところで、軍隊組織のどこを否定するかという力点によって、新たに形成される制度も変わってきます。上記の例でいえば、前者の忌避感を持つ方より後者の忌避感を持つ方が多いと、「能力に応じて(能力が高まれば)制限なく昇進できる組織とするべきであり、能力を高めるためには上意下達で厳しく部下を指導し、そのために暴力的な指導もやむを得ない」という組織が形成されることになります。

軍隊組織のどこを否定するかということは、言い換えれば軍隊組織のどこを有用と認めるかということですので、特に軍隊組織の当事者であった世代にとって、自分が組織内で果たした役割を全て否定することは忍びなかったということもありそうです。お察しの通り、私はこれがメンバーシップ型雇用を支えるもうひとつの時代背景だろうと考えております。まあ特に当事者の多くが鬼籍に入った現時点においてはこれをアカデミズムの分野で実証しようにもなかなか骨の折れる作業でしょうから、あくまで素人の与太話程度ですが。

2 青空とガラスの天井


ということで、さらに素人の与太話を逞しくしてみますと、終戦直後の高度成長期の前段階において、職工に分かれていた処遇を同一化し、「青空が見える」内部昇進を制度化したのは、それが深刻な身分差別と認識されていたからともいえそうです。つまり、戦後の労働運動の中では、労使ともに戦前の専制的な体制を忌避した結果として「青空が見える」組織が目指されたのではないかと。

しかし実際は、「青空が見える」だけで、そこには「ガラスの天井」があったというのが実態でしょう。「ガラスの天井」というと、洋の東西を問わず女性労働者の職務が分離されていることを指すことが多いのですが、(役所という意味ではなくビューロクラシーとしての)官僚型組織が少数の上位層によって意思決定される以上、本書でも引用されている小池和男先生の言葉を借りれば、将棋の駒のように途中まではなだらかに狭まっていって、その先は極端に狭まるのが組織の常です。そこをくぐり抜けることができるのが男性に限られていれば、女性にとって「ガラスの天井」があることになりますし、さらに高学歴の正規労働者という条件が課されると、女性や低学歴の正規労働者と非正規労働者にとって「ガラスの天井」があるということになるわけです。

そして高度成長期が終わって日本型雇用慣行が普及したころにはすでに、「青空は見えるが、ガラスの天井が低く、その穴も狭くなっている」状況が始まっていて、バブル崩壊後の『新時代の「日本型経営」』における雇用ボートフォリオはその理論武装であったともいえます。そして「ガラスの天井」が低くなり、かつその穴が狭くなったときに、その狭き門をすり抜けることが許されたのは、スキルに習熟した労働者(専門職型)ではなく、組織の規範を内部化したメンバーとしての男性労働者(高度人材)だったのが実情ですね。

3 「職能資格」の純化


バブル崩壊後には、長期雇用を前提とする正規労働者の人件費抑制のため、その「ガラスの天井」をさらに低くし、かつさらにその穴を狭くせざるを得なくなります。そのとき、誰をその「ガラスの天井」をくぐり抜けさせるかという問題に対して、「職能資格」のみがその回答となりえたということになります。言い換えれば、戦後の職工同一のものとでの処遇の基準が電産型賃金体系から職能資格給制度へ移行した状況にあっては、労働者間の不平不満を抑えるためには、強大な人事権の下で長期勤続することで格付けされる「職能資格」を基準とせざるを得なかったわけですね。

ところが、そもそも職能資格給制度で「職能資格」が与えられるのは、長期勤続によりその規範を内部化できるメンバーに限られています。結局、そのメンバーのみが「ガラスの天井」をくぐり抜けて「青空の見える労務管理」の恩恵に与るというトートロジーな制度が形成され、「職能資格」がそれとして純化していくことになります。その結果、スキルや技能を磨く専門職や、長期勤続してもその規範を内部化しない(と位置づけられた)比較的単純な事務職がメンバーシップの蚊帳の外に追い出されることになりました。これが、『新時代の「日本型経営」』における雇用ボートフォリオのその後の経過であったといえるのではないかと思います。

4 長期雇用と「職務遂行能力」


ここで注意が必要なのは、組織の規範とは別に独立しているスキルに習熟した労働者が、積極的に「職能資格」の枠の外に置かれたということです。それは長期に固定化する人件費を抑制したいという使用者側の思惑に応えると同時に、テンポラリーな労働者と常用労働者との代替を防止するというメンバーシップ型労働者(とそれを維持したい日本的左派の方々)側の思惑にも応えるものでした。

しかしこれによって、もともとメンバーシップ型雇用ではその仕事に必要なスキルや技能が軽視されていた傾向が、一気に加速することになります。つまり、職務を遂行するために必要なスキルは、強大な人事権による定期的な人事異動をこなすことにより、その組織における規範を内部化しながら身につけるものであって、専門職が長期に従事することによってスキルそのものを高めても、それは少なくとも「職務遂行能力」としては評価されないということです。

言い換えると、メンバーとして長期雇用されて規範を内部化した「職能資格」が最優先されると、スキルそのものよりも「職能資格」の根拠となる「職務遂行能力」が優先されます。そして、長期雇用によって得られるとされる「職務遂行能力」が基準となると、長期雇用の入口段階での選抜(新卒一括採用)を通過した正規(男性)労働者とそれ以外との格差は雇用が長期化するほど広がっていきます。これが新卒一括採用に対する批判がやまない理由でもあります。しかし、だからといって新卒一括採用をやめて中途採用の門戸を広げたところで、「職務遂行能力」を基準とする限り、同じ年齢でも雇用歴の差で「職務遂行能力」に差があるとされ、原則として処遇が縮まることはありません。

5 「職能資格」と規範の内部化


さらに注意が必要なのは、「職能資格」は採用時から連綿と積み重なるものであって、メンバーシップにおける管理職としての適性はその「職能資格」によって裏打ちされるという運用になっていることです。「運用」という言葉を使ったのは、結局「青空の見える労務管理」とは上層部にいたる道を通すだけで、その道を通る資格は労働者が自ら獲得するという建前は堅持しているからです。つまり、制度として道は通すが、そこを通るための「職能資格」を獲得するためには、労働者自らがメンバーとしての規範を身につけなければならないということです。

もちろん「職能資格」が同一組織内でのみ獲得されるものであるため、少なくとも採用時のスタート時点ではすべての正規労働者に等しく与えられますが、それを「長期雇用による経験」によってどこまで積み重ねられるかは正規労働者個々の適性と成果に応じて決まるわけです。しかもその「長期雇用による経験」は強大な人事権として使用者の裁量に任されているわけですから、積み重なる「職能資格」がつまるところジョブローテーションによって獲得される以上、人事異動を含むジョブローテーションによってどれだけ組織の規範を内部化するかが重要になります。平たくいえば、「デキる社員は出世コースを異動する」ということですが、これはメンバーシップ型がトートロジーによって成り立っていることを見事に示した言葉でもあります。

6 組織のフラット化と「職能資格」の深化


特に組織のフラット化が進められた以降の正規労働者は、定期的な人事異動だけではなく、さらに短期で同じ職場内で担当を交代するジョブローテーションで「経験を積ませる」ことが重視され、フラット化した組織内での「職務遂行能力」を高めることが求められています。このため、正規労働者はスキルそのものを習得するよりも、どう行動すれば上司の覚えがめでたくなるか、どう振る舞えばメンバーとして評価されるかという「職務遂行能力」の習得に傾注するようになりました。結果として短期的には試行錯誤ばかり続いてスキルの成熟はないがしろにされ、長期的には業務そのものの質が低下し、さらにそれを埋める手段としてOJTとしてのパワハラが横行しているわけですね。

ということで、いま問題となっているのは、短期的な試行錯誤が続いて長期的には業務そのものの質が落ちているのに、なぜ正規労働者は「青空の見える労務管理」が可能なのかということです。裏返していえば、業務の質が落ちても「職務遂行能力」が高まっていると評価されるのは何故なのでしょうか。その一つの要因として、長期雇用で積み重なるとされている「職能資格」がそれとして純化している現状において、メンバーに求められるのは、仕事そのもの質を高めることではなく、組織の規範を内部化して、組織のためなら自分の生活を犠牲にして理不尽なことも厭わないという「職務遂行能力」を持つことであるということが挙げられます。なおそれは、hamachan先生の言葉をお借りすれば「滅私奉公が報われる労務管理」があって、それが「青空の見える労務管理」と一体だったからこそ可能であったわけですが、これを反故にしながら滅私奉公だけを求めるのがいわゆる「ブラック企業」ということになります。

7 組織の論理を優先する組織


このようにトートロジカルな「職能資格」が深化して、それによって評価される現状においては、定期的な人事異動やジョブローテーションで担当者が入れ替わる度に試行錯誤を繰り返し、「俺の考えた最強のやり方」を担当がそれぞれ編み出して、それがいかに組織に尽くしたかで評価されて「職能資格」が積み重なり、新たな異動先でそれを繰り返す…というサイクルを効率的に回すことが正規労働者に求められています。

というわけで、4月の役所には「担当者が変わるとイチから説明しなければならない」とか「前の担当者がせっかく作った仕組みを新しい担当者がひっくり返してしまった」とかいう苦情がわんさかと寄せられるわけですが、人事異動が「職能資格」を積み重ねるための重要なツールとなっている以上、その仕組みをやめるわけにいきません。それは上記の通り、現在のメンバーシップ型雇用においては、仕事そのものの質よりも組織内部の「職能資格」を優先しているからですね。そもそもの人事評価の基準が組織の論理を優先しているわけですから、組織の外部で多少の問題が発生しようとそれにいちいち関知するわけにもいかず、メンバーシップ型な組織が仕事において自らの組織の論理を優先するのは当然の結果ともいえます。

さて、長々と引っ張りましたが、「仕事そのものの質よりも組織内部の「職能資格」を優先している」といって思い起こす組織はありませんか? そうです、「1 軍隊組織への「忌避感」」に書いた通り、「能力に応じて(能力が高まれば)制限なく昇進できる組織とするべきであり、能力を高めるためには上意下達で厳しく部下を指導し、そのために暴力的な指導もやむを得ない」という組織が形成される」という組織そのものではないでしょうか。

それは確かに、「入る時点で階級が分かれていて、昇進する位もあらかじめ決まっているような硬直した軍隊組織はまっぴらごめんだ」という軍隊組織への忌避感から形成されたものといえるでしょう。しかし、「誰でも階段を上」って「青空が見える労務管理」そのものは軍隊組織への反省に立っているとしても、そのやり方は戦前に叩き込まれた軍隊組織の方式を踏襲しているのではないでしょうか。そして、上意下達の組織内部の規範を維持するあまり、組織外部で問題が生じていても関知せず、事態が悪化していることがわかっていても有効な手が打たれないというのが、軍隊組織が牛耳っていた戦前を思い起こさせるというのは言い過ぎでしょうか。

8 ここまでのまとめ


メンバーシップ型の要諦は「誰でも階段を上る」ことであり、個々の労働者にその資格を付与する仕組みは事実上年功的処遇で運用されていますが、その階段の先がどこまで続いているかで、様相はかなり異なってきます。「青空が見える」けれども、上層部に達するのは首尾よく「職能資格」を積み重ねたごく一部の正規労働者であって、大半の正規労働者はそのスキル如何に関わらず中間層内で昇進が止まるのが現状です。そして、青空へ到達する要件は「職能資格」という規範の内部化であるため、上層部は組織の規範を内部化した正規労働者によって占められいます。

そしてそれは、確かに「青空が見える」という点において軍隊組織とはまったく異なる仕組みですが、組織の論理が優先され、メンバーにそれを叩き込むためには身体的・言語的暴力もやむを得ないという軍隊組織の方式を踏襲した組織となっているのではないかと考えます。やや脱線しますが、そうした軍隊的組織の行動様式は入社前の学生時代の部活動で養われていることが望ましく、だからこそ暴力やしごきがまかり通る「体育会系」が就活において有利とされるわけですね。

いやもちろん、現場の労働者と管理職のスキルは違うのだから、管理職たる上層部が現場のスキルを有する必要はありません。しかし、かといって「職能資格」を有しているからといって必ずしも管理職としてのスキルを身につけているわけでもありませんね。むしろ、メンバーシップ型の管理職とは、組織の論理を部下に叩き込む立場ということもできるかもしれません。つまり、メンバーシップ型の管理職に期待されることは、所管する部署の全ての労働者個々のスキルを伸ばして仕事の質を上げることではなく、正規労働者に組織の論理を叩き込んで将来の管理職候補を育成することであって、そのためには、多少の業務の滞りがあってもやむを得ないと考え、むしろそれを乗り越えた正規労働者の「職能資格」を高く評価するということになります。正規労働者の側も、「職能資格」を取得するためには使用者の強大な人事権に服し、長時間勤務や休日勤務による拘束や多少の身体的・言語的暴力には耐えなければならないと考え、それに同調しない・できない女性正規労働者や非正規労働者をメンバーとして認識しないようになります。

『新時代の「日本型経営」』における雇用ボートフォリオからすでに四半世紀が過ぎようとしている現在、そのようなメンバーが管理職として取り仕切っている組織が多数派となっているのではないかと思います。当然、その労務管理においては「職能資格」がそもそも与えられない非正規労働者は眼中にありません。固定費となる正規労働者の人件費を抑制しながら「誰もが階段を上る」業務以外に従事する正規(常用)労働者を非正規(のテンポラリーな)労働者に転換することで、組織の論理はより一層徹底されることになります。

ということで、ここまでがジャーナリスティックな労働史観について、それが形成されたと私が考える要因です。もう十分に長いのですが、ここから現在起きている問題への対処法を考えてみましたので、別エントリとしたいと思います。

2018年11月04日 (日) | Edit |
先日は某所の会合に参加させていただき、錚々たるご来歴と直接お話しする機会をいただいたところですが、その場で入手した海老原・荻野著『人事の成り立ち』を拝読いたしました。この10年間のHRmicsの歩みを象徴するような海老原さん、荻野さんの周到かつ思慮深い考察によって日本型雇用を論じた著作物を振り返る内容となっておりまして、7年前の『名著で読み解く 日本人はどのように仕事をしてきたか』に新録の4冊を加えたのが本書となります。その前著を取り上げた際のエントリから引用すると、

実を言えば、著者との往復書簡自体は、海老原さんが編集されている雑誌『HRmics』で「人事を変えたこの一冊」というコーナーで連載されていたものでしたので、私も一度は読んでいた(はず)と思います。ただし、この本の白眉は、戦後を6つの時代に分けてそれぞれの時代の生々しい状況の「振り返り」が各セクションの冒頭で解説されている点にあると思います。これによって、一度読んでいたはずの往復書簡についてもその時代性を理解することが可能となっています。正直なところ、連載を読んでいたときはピンとこなかった(というより単にその時代背景を理解していなかった)往復書簡についての理解も、この「振り返り」があることで「そういうことだったのか!」と目からウロコ状態でした。
(略)
というわけで、往復書簡についてはこれからの読書の指針とさせていただきたいと思いますが、私の目からウロコを落としてくれた時代背景については、各セクションの表題を並べてみるだけでよくわかります。

§1 戦中~戦後という奇跡的な時代環境が強調経営を形作った
§2 欧米型vs.日本型「人で給与が決まる」仕組みの正当化
§3 「Japan as No.1」の空騒ぎと、日本型の本質
§4 栄光の余韻と弥縫策への警鐘
§5 急場しのぎの欧米型シフトとその反動
§6 雇用は企業ではなく社会が変える


特に§3~5の「振り返り」は、当時の人事、労務政策を知るための一級の解説になっていると思います。繰り返しになりますが、一度往復書簡を読んでいた方でもこの部分を読むだけで本書を買う価値はあると思います。

名著は時代とともに 2011年11月17日 (木)


前著に対するこの評価はほぼそのまま本書にも当てはまりますが、新たに4つの書籍が追加された本書では、同時にこの振り返り部分が大幅に改訂されておりまして、前著を持っている方はこの振り返りを読むだけに本書を買っても十分に満足できると思います。特に序章では、日本型雇用慣行の来歴とその特徴が「職務無限定で誰でも階段を上る」構造を軸にあぶり出されていきます。

 ではどうして多くの日本企業は、強い人事権を悪用せずに、「誰もが階段を上る」という方向へ昇華させられたのでしょうか。
 それはまず第一に、戦後動乱期に奇跡的な流れの中で、もう戦前のような身分社会に戻るのはこりごりだ、という労使の堅い契りが生まれたからだ、ということを第1章で書いています。
 続いて、この仕組みはなぜ社会に根付いたのか。まだ農林水産業・自営業(家族経営)主体の産業勃興期に、お手本となる伝統企業がそれを導入したこと。そしてそれがあたかも「日本標準」であるかのごとく、世界に喧伝されたことがあります。だから、追随する新参企業が右へ倣えで皆この仕組みを取り入れていくことになりました。
(略)
 ところが2010年代になると、ブラック企業の登場や、女性や高齢者の社会進出により、この仕組みが、日本型の中枢に位置するホワイトカラー・総合職にも亀裂を生じさせます。ブラック企業は、「誰もが階段を上る」常識を逆手にとって若年労働者を使い捨てにします。一方、「誰でも階段を上る」仕組みは、自動的に長時間労働と転勤が必要となります。それは男性壮年期社員を前提にしたものであり、女性と高齢者は家にいる、という差別的な役割分担により成り立ちました。少子高齢化で、女性や高齢者を企業が積極的に受け入れ出すと、当然、ほころびが生じるのです。
 ここまでの流れがそのまま、本書の章立てとなっています。
 【黎明期】戦争と復興動乱が生んだ奇跡
 【完成期】欧米信奉の呪縛からの解放
 【順風期】安定成長が生んだ万能感
 【動揺期】ほころびと弥縫
 【転換期】純化=切り捨てと、そのしっぺ返し
 【不整合期】内部崩壊と新生の手がかり
pp.28-31

名著17冊の著者との往復書簡で読み解く 人事の成り立ち 新刊
「誰もが階段を上れる社会」の希望と葛藤
海老原 嗣生 著、荻野 進介 著
出版年月日 2018/10/26
ISBN 9784561227175
判型・ページ数 4-6・360ページ
定価 本体2,315円+税


念のため、前著のセクション立てと本書の章立ては、数は同じですが区切りが異なっています。前著の§1、2がそれぞれ第1章、第2章、前著の§3、4の一部が本書の第3章、前著の§4、§5のそれぞれの一部が本書の第4章、前著の§5の一部に八代他編『『新時代の「日本型経営」』オーラルヒストリー—雇用多様化論の起源』を追加したのが本書の第5章、3冊を新録して追加されたのが本書の6章となります。本書の章立てのタイトルをご覧いただいてお分かりの通り、新書とハードカバーの違いもあると思いますが、より系統立てて構成し直されていますね。

そして、この引用部分は本書のイントロではありますが、日本型雇用や労働の問題に関わる方々の共通認識ともなりうるイントロだと思います。労働法やら労働経済学(というより経済学全般)による雇用労働問題の分析は、前者は紛争解決のための利害調整システムとして、後者は制度に対する人間の行動の変容分析ツールとして、それぞれの場面で参照するべきものであって、その調整や分析の対象である労使関係や人事労務の実務からすれば、残念ながらそのままではほとんど使い物になりません。それを幾分かでも使えるようにするためには、上記のような歴史的経緯を共通認識とした上で問題を設定し、それぞれのアプローチにより対処方法を理論化し、それを利害調整しながら制度に落とし込むというプロセスが必要となるわけです。

抽象的な言葉を使ってしまうと難しくなると思いますが、シンプルに言えば会社というのは、使用者の立場に立つ人と労務を提供する人が契約を結んで、その提供された労務の対価として賃金を授受する場なのであって、法人や構築物といった抽象的なものではありません。だからこそ、交渉力の地歩に違いのある使用者と労務提供者間の交渉については、団結した労務提供者に対してその交渉権が憲法で保障されています。したがって、法人とか構築物といったイメージで語られるような制度に対する規制では、そのような当事者の交渉によって規定される労働問題(労使関係論としての集団的労使関係)に対処するには自ずと限界があるはずです。
集団的労使関係再論(2009年05月18日 (月))


既存のアカデミズムでは取り扱えないようなまさに「生々しい」現実を、アカデミズムの研究成果を交えた名著で辿るという海老原さん、荻野さんの業績は、当事者の交渉によって規定される労働問題がどのように生まれ、対処され、そしれ新たな問題が生まれていくかとう時代の変遷を的確に捉えていると思います。本書の「おわりに」で、海老原さんが「思いっきりジャーナリスティックな労働史観をぶち上げてみよう」とされる本書に込められた思いは、見事に結実していると言えましょう。

特に前著が発刊された2011年から7年が経過して新たに追加された第6章では、2010年代の振り返りが示されていますが、これは現在の雇用労働問題を考えるための共通認識とすべきものと考えます。

 2010年代に入ると日本型雇用システムに、それまでとは不連続な問題が頭をもたげだします。
(略)
 続く、第4章で描いた90年代と2000年代は、バブルが崩壊し、経済は安定成長からゼロ成長へとどん底に落ち込む時代でした。少子化の影響も相まって、その後の苦境の芽が全てそろってしまう時期と言えます。
 ここでは、「誰もが階段を上れる」仕組みを維持するために、二つの処方がなされました。一つは、仕組みを希薄化すること、誰もが管理職には必ずしもなれなくし、係長以下で定期昇給を続け、残業代も出る形で「昇給」を残す。だから「階段」は何とか温存できました。
 ただ、この程度のスリム化では、企業の経営は改善できません。そこで、二つ目の処方=第5章で書いた、ホワイトカラー以外をこの仕組みから排除する方向へと進んだのです。結果、製造・流通・サービス・建設で非正規雇用が強烈に増加し、2000年代に入るとそれが大きな問題となりました。
(略)
 そう、2010年代は最後まで守りぬいたホワイトカラー領域にまで、内部崩壊の芽が及んできました。改革は待ったなしの状態だという、その時代性を読み取っていただきたいところです。
 そもそも、みんなが階段を上るなんて無理だった。それができたのは、①経済成長、②女性と高齢者の切り捨て、③非ホワイトカラーの切り捨て、という条件があったから。そこに、少子化・高齢化で労働力不足が起きて、女性と高齢者がホワイトカラーで数を増すようになる。だから2010年代はそれまでと様相を異にするのです。
 そして、僭越ながら、ラストには拙著(海老原著)を置かせてもらいました。これからを考えるために、あえて「日本の良さ」と「欧米型のまずい点」を書いた本を締めに据えました。「日本型のまずさ」と「欧米型のメリット」は語り尽くされています。それに対してカウンターパンチを用意する形で、よりリアリティ溢れる改革を考えていきたい、という意図を込めました

海老原・荻野『同』pp.278-281

途中省略した部分を含めて、ここで示された経路を押さえておくだけでもお手軽労働政策論に陥らずに済むことができます。とはいえ、もちろんここで示された労働史観を批判してはならないということではなく、ここに至るまでに戦前から連綿と続く労使のせめぎ合いがあって、双方が妥協できるラインまでギリギリの攻防を繰り広げた結果として雇用システムが構築されてきたわけでして、それを理解するためには最低限この程度の時代背景は押さえておくべきという趣旨です。必要に応じて、この労働史観に対してアカデミズムから批判的検討や計量的な実証が加えられることもあるでしょうけれども、そうしたアカデミズムによる批判的検討が、現在にいたる労使関係のせめぎ合いの産物としての実務を否定するのは本末転倒ですし、アカデミズムによる批判的検討だけを根拠に実務をカイカクするのは禍根を残す恐れがあると考えます。

まあ、順番からいえば、先人達が歴史的経緯の中で築き上げてきた交渉や取り決めが制度化され、その制度化された世の中を主に行動の面から、時に数理的な手法を用いて分析するのが経済学という学問であることからすると、経済学が制度分析に理論を提供することはあっても、理論に基づいた制度設計が功を奏するのは、その理論がそれまでに築き上げてきた交渉や取り決めに匹敵するだけの利害調整機能を持っていることが必要条件となるはずです。つまり、いかにこれまでの制度が理不尽で整合性のないものであっても、その裏に営々と積み上げられてきた交渉や取り決めを取っ払うような制度改正は関係当事者の合意を取り付けることはできず、逆に制度として不都合であっても、当事者が合意している限りは制度として機能することになります。

このような取り決めによって形成されたものとして典型的なのは日本型雇用慣行でして、確かに職務無限定で単身赴任を伴う転勤が強要できて年功的な職能資格給を核とする働き方は、長時間労働を抑制することができず少子化の一因にもなっているものの、長期的に雇用を安定させつつ学校教育では習得できない職業上のスキルを身につけるための人事異動を可能にするのもまた、日本型雇用慣行なわけです。これを例えば欧米型のジョブ型雇用に一気に転換せよといっても、実際に就職している労働者の大半は就職してから年金保険料を支払いながら年金を受給するまでに40年程度の職業人生を確保しなければならないわけで、現在の就職先でそれを確保するのが合理的である以上それを前提として職業人生が設計されているのが現実です。その実態を前にすれば、結局漸進的に少しずつ働き方を変えながら労働者側と使用者側の利害関係を調整しなければなりません。

私も現在の雇用慣行には大きな問題があって持続可能的ではないと考えていますが、それを変えていくのは労働者の人生を流れる時間との根気強い付き合いの中でしか可能ではないというのが現実でしょう。

制度をどのように変えるべきなのか(追記あり)(2016年12月31日 (土))

私も「改革は待ったなしの状態だという、その時代性」を認識する者として、実務としての労働政策が「リアリティ溢れる改革」によって方向転換していくためのマイルストーンとして、海老原さんと荻野さんの業績が参照されながらこれからの議論が深まればこれほど喜ばしいことはありませんね。

2018年10月28日 (日) | Edit |
さて、気がついたら9月の更新が落ちてすでに10月も終わろうとしておりまして、定期的に発生するデスマーチの対応で精一杯になっている自分に歳を感じるところではあります。という中でいくつか書きかけのエントリがいくつかありまして、これもすっかり時期を逃した感がありますが拙ブログでは継続的に取り上げているテーマでもありますのでなんとか片付けてしまいます。

まず一つ目は、障害者雇用について国の府省庁や地方自治体で「水増しがあった」という問題を受けて各方面からこれ幸いとご自身の意見が表明されたところで、いやまあいつもながらここに至った経路依存的な状況を認識できない方がしたり顔で発言される光景が繰り広げられていましたね。








法律の多くは原則を定めてそれによりがたい場合の例外を慎重に規定するのが作法となっておりまして、最低賃金の適用は労働者性の根拠となる使用者の賃金の支払い義務があることを第一段階の要件とし、第二段階の例外としてその「最低賃金において定める最低賃金額から当該最低賃金額に労働能力その他の事情を考慮して厚生労働省令で定める率を乗じて得た額を減額した額」を適用することができるとしているのが最賃法第7条です。その中に「精神又は身体の障害により著しく労働能力の低い者」が規定されているところでして、これを高齢者にも拡張する意図をもって玉木氏は「最低賃金以下でも働けるような労働法制の特例も必要」とされているわけですね。さらにそれに対してツッコミが入るとベーシックインカムを提唱するというお手軽社会保障論が持ちだされるところでして、まあカイカク好きの皆さんの最新流行は社会保障論に行き詰まったら「とりあえずBI」というところでしょうか。

で、とりあえず上記の通り最賃法が適用されるための第一段階の要件は労働者性を有する労働者に対して使用者に賃金の支払い義務があることなわけですが、それに該当しないために最賃法が適用されないのが請負です。これを高齢者の就労機会確保のために制度化したのが高齢者雇用安定法(高年齢者等の雇用の安定等に関する法律)に規定するシルバー人材センターなんですね。

なお、余談ではありますが、臨時的かつ短期的に低い賃金で就労する場は震災前からすでにあります。それがシルバー人材センターでして、請負により会員に支払われる配分金は賃金に該当しませんので、最低賃金の縛りを受けません。まあ、シルバー人材センターのそもそもの出自が国に対して団交申し入れまで行われた失業対策事業であったことを考えれば、失業対策事業ではないというCFWがシルバー人材センターの就労形態と類似するのは必然なのかも知れません(現全国シルバー人材センター事業協会の初代会長が大河内一男先生で、2代目が氏原正治郎先生ですし)。

CFWはその枠を越えるべきか(2011年10月12日 (水))」


引用元のエントリでは「賃金で就労する」と書いてしまいましたが、正確にはシルバー人材センターからは会員に対して成果に応じた「配分金」が支給され、これは請負に対する報酬であるため「賃金」には該当しません。まあ、お手軽社会保障論を持ちだすような方にはお手軽労働政策を展開する傾向が強くあるようでして、最賃法の適用を除外して就労機会を確保する仕組みとしてシルバー人材センターが昭和の時代に法律に規定されたものの、その存在を無視しながらドヤ顔で「高齢者の最賃法の適用をなくして雇用拡大を!」とか叫ぶのがカイカクであるならば、この国でお手軽社会保障論とかお手軽労働政策が大手を振って繰り広げられるのもやむを得ないのでしょうね。

今回高齢者雇用のとばっちりを受けた形の障害雇用については以前書いた通りですが、障害者を雇用するためには障害に応じて可能な従事が可能な範囲での業務の切り出しが必要となるものの、それを阻むのが日本型雇用における「職務無限定性」です。

障害者雇用というととかく特別な美談として語られがちですが、もっと汎用性の高い問題でして、海老原さんが指摘されるように、育児・介護など、自分自身に障害がなくても仕事をするうえで制約がある方はいくらでもいるはずですし、むしろすべての労働者に個人の生活がある以上、そこには制約がなければなりません。それを無限定に広範な人事権を認めてきたのが日本型雇用慣行のもう一つの側面ですので、障害者雇用を考えることは、そうした日本型雇用慣行が等閑視してきた制約を意識的に考えることにつながると考えます。

(略)

上記の通り、日本型雇用慣行では個人の事情に配慮することは特別なことですので、逆にいえば採用されてしまえば同じスタートラインに立つことが要求されてしまいます。移動や事務作業に「障害」がない健常者ですら、課外活動や保護者の対応、業績評価など本務の教育業務以外の業務で忙殺されるわけでして、障害を持ちながらそれらの業務をこなすことは極めて困難になります。

役所の障害者雇用を阻むもの(2014年04月12日 (土))


さらにそこに「公務員の人件費を増やすことは無駄遣いでありまかりならん!」という民意が加わると、切り出された業務に障害者が従事するのではなく、外部の安価な人件費でまかなえる民間にアウトソーシングすべきということになります。その結果として、

冒頭の障害者雇用の話に戻りますと、障害者雇用は公的機関が率先すべきとの考え方により法定雇用率が民間よりも高く設定されていますが、上記のようなアウトソーシングと指定管理者制度によって定型的な業務を行う部署が大きく削減されてしまい、障害のある方を職員として配置できる部署が少なくなっていることが大きな壁として立ちはだかっています。公的機関が率先すべきというのは趣旨は理解できるものの、特に法律上はジョブ型の雇用を前提としている地方公務員の採用に当たって、業務がなければ雇用できないのは当然の成り行きでして、障害があっても業務遂行できる職務内容や職場環境を外部化してしまった役所には、そもそも障害者を雇用する余地がなくなってしまっているわけです。



長期雇用されない障害者2015年02月22日 (日)

こうして素晴らしく少人数の公務員によって運営される政府が現出している状況において、障害者をどのように雇用するべきとカイカクを叫ぶ方々はお考えなのか興味深いところですね。