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2017年09月10日 (日) | Edit |
ということで、すっかり更新ペースが乱れ気味ですが海老原さん編集のHRmics vol.27が発行されていて、特集が「年金問題の根源は、日本人の心」とのことで、これは拙ブログとしては早速取り上げなければ!!…と思いつつ、すでに1か月ほど過ぎてしまうという体たらく。なんとか時間がとれましたのでじっくりと拝読しました。

といいつつ、1章から2章まではこれまで年金を巡る議論に対する丁寧な説明となっていて、そうした有象無象の議論に見飽きた方々には改めて再確認的な内容ですので各自で読み込んでいただく(必読ですよ!)として、3章の森戸先生の解説はちょっと意外な組み合わせでした。不勉強ながら森戸先生は専門委員会の委員長として企業年金の議論を進められた経験をお持ちで、その際の生々しい議論の説明が秀逸です。

 P18の「森戸の一頃③」にソフトパターナリズムの話が出てきたよね。
 選べる商品が多すぎると人って逆に選べなくなっちゃうって話。お菓子屋さんに並ぶキャンディーだと、100種類もあるより3〜5種類くらいの方が売れるんだってさ。
 そんな考え方が、2016年の確定拠出年金法(DC法)の改正にも盛り込まれたんだ。
 確定拠出年金でラインナップに並ぶ運用商品の数の上限が政令で決まることになったわけ。
 普段は初老の三流教授なんて自虐的プロフィールを語っている私だけど、実は、その時の厚労省の「社会保障審議会企業年金部会・確定拠出年金の運用に関する専門委員会」の委員長もつとめてたんだよね(舌噛みそう)。だから、このあたりの議論の経緯もよく知ってます。
 で、その時に、上限数の設定だけでなく、③で触れた「商品が多くて選べない場合、自動的にチョイスされるデフォルト商品」(指定運用商品)についても議論したよ。
 世間の金融情勢を反映できるよう、よりアクティブなものの設定を原則とするべきだ、と。ただ、そうすると、金融不況時などは年金資産の元本割れも起こると、侃々諤々に話し合いが続いて、さ。
 結局、時期尚早だと、その話は無しになりました。
 いろんな業界からヒアリングもしたんだけど、やっぱそれぞれの立場があるからね。リスクをとり人が増えるとメリットがある人たちは推進派、逆にそれが向かい風になる人は及び腰って感じで
 企業の担当者は、総じて後ろ向きだったかなぁ。運用が失敗して元本割れになった場合、会社が訴えられる可能性もあるからということで。ここは④の「セーフハーバー」を復習しといてね。
(略)
 国や企業では、もう面倒見切れないから、自分の老後は自分で私的年金を、という流れが、世界的にはあるかな。でもそうすると、お金に余裕のない人は老後が灰色になってしまうでしょ
 公的年金には、所得の再分配機能が入っていて、格差是正にも役立つので、やはり柱はこれであるべき、という意見もあります。
 あ、でも、公的年金の再分配機能が強くなりすぎると、金持ちはたくさん拠出しても年金が増えず、それじゃ現役時代の裕福な生活レベルを維持できないっていうパラドックスが起きる。そこで今度は、金持ち用にある程度、私的な年金が必要という声が生まれることになる。
 こんな感じで、あっちをたたけばこっちが飛び出すというのが、年金制度の宿命なんだよね
 そうしたことをトータルで見て、誰もが損をしないような仕組みを作ってかなきゃなんないんだ。難しいし、時間もかかると思う

森戸英幸「森戸の「スゲー年金解説」」HRmics vol.27 p.20
※ 以下、強調は引用者による。

議論の場にいらっしゃった森戸先生ならではの臨場感あふれる説明ですが、まあ話し合いというのはこうした立場の異なる者同士がそれぞれの利害をぶつけ合うのが本質ですから、理屈通りとかデータ通りにものごとが決まるわけではないのが常態であることがよくわかる説明ですね。

そして4章で、満を持して権丈先生のインタビューが掲載されているのですが、ここでも小泉進次郎議員の「こども保険」を評価する発言がありますね。

 将来、増税した分の相当部分を財政再建に回さざるを得ないのが給付先行型福祉国家です。だから、高負担で中福祉、中負担だと低福祉ということになりかねません。増税を先送りにすればするほど、増税分のうちから社会保障の取り分が減り財政再建に回さなければならない分が増えていくわけですから、増税は早ければ早いほど望ましい。
 世代間格差を大きな声で言う人たちは、もっとこちらに注意を向けた方が生産的だと思います。贅沢もしていない水準なのに、今の高齢者向け福祉を取り上げ、「ずるい」と言うのはやめにした方がいい。高齢者だ勤労者だ若者だとか、なんだかんだと言うのは、今時、あんまりかっこいい話ではないと思いますよ。みんな年をとって高齢者になるんだから、自分が年をとっても、悲しい余生とならなくてすむように、今の若い人たちと高齢者が話し合いながら折り合いをつけていった方がよいと思う。そんなことよりも、国民負担率がずっと低かったため、膨大な赤字が生まれ、今後その負担を後世に背負わせる。そちらの方が問題です。世代間で問題にすべきは、「給付の不公平」ではなく「負担の不公平」でしょう。
(略)
 そう、社会保障の財源を考える場合も、すべて税金にすれば無年金者や無保険者がいなくなり、制度の普遍性が高くなります。ただ、税金はなかなかあげることができず、所得税や法人税は増減するので、安定性は低くなります。一方、社会保険料は安定的に徴収できますし、その料率アップも比較的容易です。これだけ増税の実現が難しいお国柄では、次善の策としてしばらくの間、社会保険ベースで国民負担率を上げて、速やかにとりかかるべき重要施策を開始するしかない。そうした意味で、小泉進次郎議員たちが今提唱している「こども保険」が、財源を公的年金保険に求めるのは理にかなった案だといえるのではないでしょうか。僕は、年金の他に医療保険も介護保険も、そして雇用保険も子育て支援の仲間に入れてもらいたいと言っているんですけどね(笑)。

「Interview データで語る、給付と負担の見たくない現実 権丈善一」HRmics vol.27 p.29

拙ブログでも「世代間対立を煽るということは、自分が歳を食ったときに自らが放ったブーメランで憤死することなのですよ。」なんて書いておりましたが、本特集でもデータが示されている通り、現状で貧弱な政府支出において高齢者向けの支出の占める割合が高いからといって「世代間格差ガー」と吹き上がる方々には、「いうまでもなく、現役世代向けの現金給付や医療などの公共サービスの水準が高いフランスやスウェーデンでは、その社会的支出を支える国民負担率が高いわけでして、その3分の2程度の国民負担率しかない日本では、現役世代向けの現金給付や公共サービスがクラウディングアウトされるのは当然の成り行きl」であるこことをぜひご理解いただきたいところです。

この文脈で考えたときに、権丈先生が提唱される「子育て支援連帯基金」について「「「本来」とか「そもそも」に続く話で、世の中、役に立った話は聞いたことがない」とまで言い切る権丈先生は、ここで勝負に出たのかもという印象」でしたが、改めてその趣旨を考えさせられました。端的には、現状の政治状況を考えれば、権丈先生が「これだけ増税の実現が難しいお国柄では、次善の策としてしばらくの間、社会保険ベースで国民負担率を上げて、速やかにとりかかるべき重要施策を開始するしかない」と指摘されるような現実を前にする限り、それに対処するならこうするしかないということなのでしょう。

以前取り上げた著書では、租税による普遍的な受益者負担と社会保険による選別的なそれを「租税抵抗」という言葉で対比して、

これまでみてきたように、日本の社会保障制度は人々の「共同の困難」に対処したものではない。それはむしろ、制度の分立状況やサービスが過小供給であることを前提に、受益者と非受益者という形で人々を分断させ、リスクを〈私〉化し、受益者負担を導くものである。受益の範囲が狭いために、反対給付を伴わない租税による財源措置では合意を得られない、という理由からだ。受益者負担の導入には、租税抵抗の回避がその根底にある。日本型負担配分の論理とは、このようなものだ。
p.72


『シリーズ 現代経済の展望 租税抵抗の財政学 信頼と合意に基づく社会へ』
著者 佐藤 滋 著 , 古市 将人 著
ジャンル 書籍 > 単行本 > 経済
シリーズ シリーズ 現代経済の展望
刊行日 2014/10/29
ISBN 9784000287364
Cコード 0333


…うーむ、この部分を読むと、政府の問題というより「租税抵抗」を示す国民が選別主義的な社会保障を志向しているという状況しか思い浮かばないのですが、本書は決して租税抵抗を示す国民を敵に回すことなく、その租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府を批判するんですよね。プリンシパル=エージェント的な意味で政府の行動を批判するならまだわかりますが、「民意」から遊離した政策決定を称揚するのでなければ、政府の行動はきちんと「民意」を反映したものという評価が妥当ではないかと思うところです。

「経済の領域よりも、むしろ政治的・心理的な領域(2015年10月26日 (月))」

という感想を持ったところでしたが、「租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府」が民意に従って行動しつつ、できるだけ普遍的な社会保障制度を構築しようとすると、「年金の他に医療保険も介護保険も、そして雇用保険も子育て支援の仲間に入れ」ることで普遍性を確保しながら、「社会保険に財源を求めつつ、その保険料に貼り付いた給付の請求権をいったんチャラにしたうえで、その使途を子育て支援連帯基金として主に現物給付により制限する」という制度につながっていくわけですね。

権丈先生のインタービューを受けて海老原さんは、少子高齢化の先の社会をこのように展望されます。

 ただ、そうは言っても、社会では現役世代が減り、彼らの負担のみがどんどん高まる。それは確かに不公平感が否めない。そこをどうするか。
 私はこの問題も、日本人の心がその出発点になっていると感じる。少子高齢化社会の悪いところしか見ていないからだ。
 今後は、高齢者が増え、現役世代は減るが、その分、現役世代は「雇用機会」が増え、待遇・給与の改善も進み、世帯収入は増えていく可能性がある。…(略)
 それでも人手は不足するから、今度は社会参加ができる高齢者が増える。そうした収入は生活の足しにもなるだろうし、それで年金を受給しはじめる年齢を自発的後ろ倒しにできれば、年金額自体も増やせる。何より、寂しい余生を送らなくてもすむ。
 そう、少子高齢化は悪いことばかりではない。問題は、それを前向きに受け止めるか否かだ。日本人はなんでも「ことの悪い側面」ばかりを強調する。それもついでにやめてしまおう。 
 次の社会を「世界で一番長寿を愉しめる環境のおかげで、女性も高齢者もスポイルされずに活躍できるようになった社会」と見るか、「長寿のせいで、女性も高齢者も働かなければならなくなった社会」と見るか、あなた次第ということだ。
 今の社会問題は、その一端が、私たちの「心」から発していると気づいておきたい。

「Conclusion 水と平和と福祉」HRmics vol.27 p.30

海老原さんはコラムのタイトルにある通り、この引用部の前段で「日本では水と平和はタダだという意識が強く、それに福祉も半ば加わっている」と指摘して、少子高齢化への対処も日本人の心の問題として、「悪いことばかりじゃない」社会を展望する必要性を提起されています。それは全く同意するところですが、ではなぜ日本人の「心」がそうなっているかといえば、それはとりもなおさず(特に男性労働者にとって)給与所得のみで生活するというメンバーシップ型雇用が強い規範として機能しているという、ある意味で循環的な隘路に陥っている状況が大きな理由として挙げられるでしょう。

その先に展望される高負担・高(中)福祉の社会が、雇用によって生活保障を確保するという社会に育った日本人に受け入れられるかも、極言すれば日本人の「心」の問題ではあります。つまり、メンバーシップ型雇用で生活給が完全に保障されるなら、わざわざ可処分所得を減らすような増税は「経済学的に正しくない」としてスポイルされてしまいますし、賃上げすれば再分配も必要なくなってしまいます。さらに労働受給が逼迫しても、現状のように集団的労使関係が労働者に見向きもされないままでは、賃上げの経路は閉ざされたままです。いやもちろん、集団的労使関係が見向きもされない原因の一端は戦後の労働組合の思想的闘争にあるとしても、憲法で保障された労働基本権を行使しない労働者が大多数であることがその直接の原因でしょう。日本人がタダだと思っているリストには、森戸先生や権丈先生が指摘される「話し合い」とか「(賃上げするための)労使交渉」も入れてあげた方がいいのかもしれませんね。
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2017年08月20日 (日) | Edit |
これはちょっと持ち越しになっていたエントリですが、海老原さんが春先に立て続けに出された著書を拝読してなかなかまとめきれておりませんでした。というのも、先に発行されたキャリア論がちょっと消化不良なイメージだったところ、次いで発行された経済論の微妙な人選にも困惑してしまったからです。

まず、最初のキャリア論についての『クランボルツに学ぶ夢のあきらめ方』ですが、書名に「クランボルツ」という聞きなれない単語が出てきて、これが何らかのジャーゴンなのかと思って読み始めると、冒頭の「はじめに」の中で「クランボルツの計画的偶発性理論(planned happenstance theory)」として紹介されいていますが、クランボルツがそもそもどういう学者なのかは本書では一切触れられず、「キャリア論について少しでも勉強した人ならまず必ず目にする、いわば基礎中の基礎(引用注:「バイブル」とルビがあります)と言える理論です」とそれを前提に話が進められていきます。さらに読み進めると、たけし、さんま、タモリに松本人志を加えたお笑いビッグ4の言葉とバスケットの神様と呼ばれるマイケル・ジョーダンの経歴が紹介されていて、私のようにキャリア論に通じていない読者にはちょっと面食らう展開ではないかと思います(まあ私がモノを知らないだけというのはその通りです)。

とはいえ、本書の論旨は明快で、いつもの海老原本の通り「読むと腑に落ちる」内容となっています。いつもの海老原論が全開になるのが§5でして、ここで2R2Wなどのマネジメント理論に基づくキャリア論が展開されていて、「そうかこれをいうためにクランボルツの計画的偶発性理論を下地にして有名人のキャリアを論じていたのか」と腑に落ちたというところです。つまり、『マネジメントの基礎理論』ではいわゆる上司としてのマネージャーがいかにマネジメントするかという観点からの指南書だとすると、本書はマネジメントの対象となるいわゆる部下がいかにキャリア形成するかという観点からの指南書といえるかもしれません。特にクランボルツが示した5条件(wikipedia:計画的偶発性理論を参照)を仕事をする中でどのように保つかについての的確な解説は、日本型雇用慣行について深い考察を続けてきた海老原さんだからこそ書けるのだろうと思います。

ではどこが消化不良かというと、ちょっと決めつけではないかと思ってしまう点が多いと感じたからです。本書そのものがページ数が少なく、主要なメッセージが見開きページに大きなフォントで記されているなど、メッセージ性を強く打ち出すような流れで書かれていて、それは本書のメッセージを伝えるのに重要な役割を果たしているとは思うのですが、その分検証が端折られてしまっているのが決めつけが多いと感じる理由ではないかと思います。直接響くようにするためにはある程度の勢いや決めつけも必要だろうとは思いますが、特に一部の若手芸人への評価はかなり厳し目ですので、ファンの方はその点をご留意されるのがよろしいかと。

本書をそのように位置付けたときに、いわゆる部下の立場にある者がキャリア形成を考えるモチベーションを与えることが本書の趣旨であり、その点は多くの若い世代(キャリア形成を考える中高年ももちろんですし、私なんぞは読みながら反省することしきりでしたが)に読まれるべきと思いますが、ちょっと気になる決めつけについて1点だけ指摘させていただくなら、本書の(中間的な)結論は、

 さて、「同じ土俵に立てたなら成功確率は2〜3割」という経験則をもとに、人材業界の人たちは、相談者にこんなアドバイスをしています。
 たとえば、今あなたが就いている仕事で、「そこその成功」できる確率は2〜3割、つまりだいぶ手の届くところまで来ています。なのになぜ、あなたは今、悩んでいるのか。その理由は、クランボルツの5条件のどこかが機能不全となっている場合が多い。だから、その点検をしましょう、と。

(略)

 あなたが、しっかりと仕事をやり切ったにもかかわらず、結果が出ないのであれば、次の仕事を見つけるべきでしょう。
 そして、次の仕事でも採用試験をくぐりぬけ、スタートラインに立てたのなら、やはり「そこそこの成功」を収める可能性は2〜3割あります。それは決して低いものではありません。とすると、人間はクランボルツの5条件を保って目の前の仕事を一生懸命頑張れば、そう遠くない時点で必ず「そこそこの成功」を手に入れることができる。
p.84


引用元: タイトル クランボルツに学ぶ夢のあきらめ方
著者 海老原嗣生 
ISBN 978-4-06-138614-3
発売日 2017年04月25日
定価 920円(税別)


というものでして、ここで示されている考え方は、特に転職を考える際の1つの目安としてその通りだとは思います。ただし「必ず「そこそこの成功」を手にすることができる」はちょっとそこまで言えるかなという印象です。厚労省が毎年公表している「転職者実態調査の概況」の最新版は27年のものですが、その中にはこういうデータがあります。

(3)転職者の労働条件(賃金・労働時間)の変化
 賃金が転職によりどのように変化したかをみると、賃金が「増加した」が40.4%、「減少した」が36.1%、「変わらない」が22.1%となっている。D.I.(「賃金が増加した転職者割合」-「賃金が減少した転職者割合」)をみると、44歳以下の年齢階級ではプラス、45歳以上の年齢階級でマイナスとなっており、おおむね、年齢階級が若いほどD.I.が高くなっている。(表13)

(略)

(6)現在の勤め先における満足度
 転職者の現在の勤め先における満足度について、「満足」及び「やや満足」とする者の割合と「不満」及び「やや不満」とする者の割合の差であるD.I.(表22「満足①」-「不満足②」)をみると、「職業生活全体」で43.0ポイント、男が42.9ポイント、女が43.2ポイントとなっている。「職業生活全体」を事業所規模別にみると、事業所規模が大きいほどD.I.が高くなっている。
 満足度項目ごとにみると、全ての項目で「満足」が「不満足」を上回っているが、「仕事内容・職種」が61.2ポイントと最も高く、「賃金」が17.7ポイントと最も低くなっている。(表22)

引用元: 平成27年転職者実態調査の概況(pdf)


つまり、転職後の賃金が増加した割合と減少した割合との差では全体でプラスになるものの、満足度では「仕事内容・職種」が高く、「賃金」は最も低いという結果が出ていまして、「そこそこの成功」とは必ずしも賃金面からは捉えられないということには注意が必要ではないかと考えるところです。いやもちろん、「仕事内容・職種」の満足度が高いことをもって「そこそこの成功」ということも可能ですし、これをもっと高めてさらに賃金などの待遇面も向上させるためにクランボルツの計画的偶発性理論が重要というメッセージでもあると思いますが、読む方によってはイメージが異なる場合もあるでしょうから、この点にもご留意いただくとよろしいかと思います。

そしてなんとも評価しがたいのがこちらの著書です。本書の内容そのものは大変わかりやすく、特に利率と利回りの違いをここまで丁寧に解説した本は他にはあまりないと思いますので、仕事をするうえで経済の仕組みを理解するためには大変重宝する内容であることは間違いありません。ただ、最後の第5部で「それでもわからないことはプロに聞く」として出てくる「プロ」がおっちょこちょいな飯田先生なんですよね。。ということで、本書の評価はその解説に対する評価で左右されると思いますので、私からは保留とさせていただきます。
2017年05月22日(月)発売 / 税込価格:1,512 円
四六判/並製(184頁)
ISBN : 978-4833422314
[著]海老原嗣生
[解説]飯田泰之



とはいえ、HRmics最新号となるvol.27ではあの権丈先生を大々的にフューチャーしていらっしゃいますので、こちらについては改めてエントリを上げたいと思います。

(2017/09/18追記)
海老原さんから、厚労省の転職者実態調査の解釈についてご指摘をいただきましたので、こちらに追記いたします。実は私が引用した転職者実態調査はあくまで転職直後のデータであって、転職後の賃金の推移を見るためには賃金構造統計調査を確認する必要があるとのことです。で、実際に「平成28年賃金構造基本統計調査」から「年齢階級、勤続年数階級別所定内給与額及び年間賞与その他特別給与額http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&tclassID=000001062211&cycleCode=0&requestSender=estat」から勤続年数ごとの年収(所定内給与額×12か月+年間賞与その他特別給与額の計で算出)を確認してみましょう。

例えば、転職者実態調査で「D.I.(「賃金が増加した転職者割合」-「賃金が減少した転職者割合」)」がマイナスとなった45歳以上のうち50代前半についていえば、「正社員・正職員の雇用期間の定め無し」で見てみると、高卒では勤続年数0年で約235万円から3~4年後には約288万円へと50万円以上、大卒・大学院卒では勤続0年で約418万円から3~4年後には約487万円へと70万円まで上昇します。さらに、50代前半で5〜9年目、つまり40代後半に転職した場合まで拡大すると、高卒で約327万円へと100万円以上、大卒・大学院卒では約564万円へと130万円以上上昇していることになります。一方で、これを「正社員・正職員計」に当てはめてもほぼ同様の傾向が見られますが、「正社員・正職員以外計」では、50代前半の大卒・大学院卒で勤続年数5〜9年目が60万円程度上昇するほかは、目立った賃金上昇は見られません。このデータからも、転職で「スタートラインに立つ」ことが最低条件であって、そのためにも特にクランボルツが示した5条件を実践していくことが重要でありlptpが示されているのでしょう。

実は2年目以降に賃金が大きく上昇するのは、勤続0年ではボーナスが支給されない場合が多く、2年目以降にボーナスが上乗せされるというカラクリがあるためですが、その中でも3年目以降は「上位群」が引っ張り、中下位群は固定となり、これらを踏まえて本書では「スタートラインに立てたのなら、やはり「そこそこの成功」を収める可能性は2〜3割あります」と指摘されたとのことでした。ご指摘ありがとうございました。まあ、こうした細かい検証をダラダラ書いてしまうと「研究者・研究肌の人間は読みますが、一般人は読まない」というジレンマがあるため、「私の本は、勝手に「料理」して、食べられるようにして」いらっしゃるとのことで、その意味で本書はちょっとクセのある「おいしい」内容となっていますので、未読の方はぜひご一読をオススメします。

2017年08月17日 (木) | Edit |
お盆の時期は終戦記念日と重なることもあって、日本の意思決定に関していろ考える機会でもありますね。となれば、過去と現在を比較して戦前とどうたらという意見も多く見受けられるところですが、いつものことながら山口さんのこの指摘が本質的ではないかと。

とはいえ、今の社会と戦前の違いは明らかであり、文字通りの意味で「戦前」の状態に回帰するというのはあまり説得力のある主張ではないと思う。何かの政策や立法などについて、戦争や戦闘に巻き込まれるリスクが高まると言いたいならそのように言えばよいし、人権侵害のおそれが強まると言いたいならそのように言えばよい。戦前を持ち出すことでよけいな文脈が持ち込まれると、議論が無駄にややこしくなる。ましてや現首相をヒトラーにたとえるかのような極端な言説は冷静な議論を不可能にするという点で有害以外の何物でもない。

そうはいうものの、最近の情勢をあまり好ましいとも思っていない。この時期のことゆえつい関心が「戦争」に向かいがちなのでという要素もあるが、最近放映されたさまざまなテレビ番組を見ながら、戦争はいかんなあ、これは気をつけなきゃいかんなあ、という思いを新たにした。

引用元: 「戦争の何がこわいか(August 16, 2017)」(H-Yamaguchi.net)
※ 以下、強調は引用者による。


まあ何かになぞらえて自分の主張を補強するというのはよくある手段ですから、そのこと自体は特に問題にすべきではないのかもしれませんが、かといって自分に気にくわないことがあれば、いわゆる失政や悪政になぞらえて危機感を煽るというのはまさに山口さんがおっしゃる通り「議論が無駄にややこしくなる」だけではないかと思います。

そうはいっても、結局共通点があるといえなくもないところが何周も回って結局それかよとは思いますが、前々回エントリに頂いたはてブを拝見して補足しておきたいと思います。

hahnela03 誤解を恐れずにいえば、中小企業の業務ではそれほど厳密な論理構成は求められない/それはそれで別のハラスメントの温床になっているという面。パワー(指揮命令権)を行使する(労組組合員)との鬩ぎ合いですね。

引用元: hahnela03のコメント 2017/08/08 11:16

これはハラスメントが発生する象徴的な問題かと思うところでして、前々回エントリではまとめきれませんでしたが、要すれば、論理的な場面と非論理的な場面を使い分ける権限を持つ者が最強だということに尽きるのだろうと思います。組織で仕事をしている労働者にとって、少なくとも仕事の場面において上司こそがその権限を一元的に有するわけですから、論理的に仕事を進めるか、理不尽なパワハラで仕事を進めるかは上司のさじ加減ひとつで決まります。

前々回エントリでは、クラッシャー上司は自らの経歴を守るときに論理的に振る舞い、自らの経歴に傷がつかなければ非論理的にパワハラをすると書きましたが、それを突きつめると自らの経歴を守る必要が無いクラッシャー上司はパワハラを躊躇する理由がないということになります。ごく一般論として、中小企業の業務では大企業と比べて出世のライバルが少ないことで自らの経歴を守る場面が少なくなり、パワハラに歯止めが利かなくなる傾向があるのかもしれません(これに加えて、hahnela03さんが指摘されるような労働組合も、守るべき経歴がないと考えている場合は同様のことがいえるでしょう)。

という中小企業の事情に比べれば、大企業や役所でパワハラを防ぐことは容易だろうかと考えるとさに非ず。上記の逆のパターンを考えてみればわかりますが、これも前々回エントリで指摘した通り、不幸にも「そうして形成された「社風」とか「組織文化」が、「厳しい上司だったけどそのお陰であの厳しい状況を乗り切れた」などの武勇伝とともに何らかの業績につながっていたりすると、その「社風」とか「組織文化」を修正することは著しく難しくな」っている場合は、パワハラすることこそが「社風」とか「組織文化」に沿った行動であり、パワハラする上司がそのパワハラでもって評価されることになります。

いやもちろん、パワハラでもって評価されるというのは極端な言い方で、もう少し実態に即していえば、論理的に仕事を進めるべき場面であろうがなかろうが非論理的な言動で意思決定を行うことが常態化してしまった組織においては、どんな手を使ってでも所期の目的を果たす意思決定をできる者が評価されるということですね。その意思決定を行うためであればいくら非論理的な言動を行っても不問に付されることがわかっているからこそ、パワハラを行って部下の反論を封じることが意思決定の場面で有効な手段となり、それを使いこなす者が評価されて出世するというわけです。

と書いてみると、現在の日本の組織の問題は、いったん形成された「社風」や「組織文化」に根差している部分が大きいのではないかと思いますし、やはり戦前の日本の主要な組織で非論理的な意思決定が常態化していたことが戦争につながったという評価には一定の説得力があるようにも思います。まあ、パワー(指揮命令権)の行使をハラスメントを分離できればいいのでしょうけれども、日本型雇用慣行におけるOJTがハラスメントの源泉であるならば、ことはそう簡単ではありませんね。日本型雇用慣行が堅牢であるうちは意思決定が非論理的に行われるものと諦めるか、日本型雇用慣行の見直しを進める中で少しずつ状況が改善するのを待つしかないのかもしれません。

2017年08月06日 (日) | Edit |
10年ほど前に拙ブログで取り上げた香西先生の著書についてのこちらのtweetを見てピンときましたのでメモ。


画像部分のテキストを起こしておくとこんな内容です。

…だが、議論に世の中を変える力などありはしない。もし本当に何かを変えたいのなら、議論などせずに、裏の根回しで数工作でもした方がよほど確実であろう。実際に、本物のリアリストは、皆そうしている。世の中は、結局は数の多い方が勝つのである。
 論理的思考力や議論の能力など、所詮は弱者の当てにならない護身術である。強者には、そんなものは要らない。いわゆる議論のルールなど、弱者の甘え以外の何ものでもない。他人の議論をルール違反だの詭弁だのと言って避難するのは、「後生だから、そんな手を使わんで下され」と弱者が悲鳴を上げているのだ。そして、そのような悲鳴にすぎないものを、偉そうに、勝ち誇って告げるのも、また弱者の特徴である。


香西秀信『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』 pp,8-9

私も実務屋の端くれを自認しておりますが、実務の世界の「論理」とはまさにここで指摘されるような世界ですね。「本物のリアリスト」というとちょっとカッコよくなりますが、実はそれこそが「力にものをいわせる」上司のやり方でもあって、香西先生がこの後の部分で「いかに「発生論的虚偽」と非難されようとも、こんな場合には、邪悪な動機とともにその忠告を葬り去って、それで何ら生き方を誤ることはない。…もし人が非論理的な判断をして、それで痛くも痒くもないというのであれば、そのときは論理的思考の方が何か大きな間違いを犯しているのである」(p.22)と指摘されるように、現実とは往々にして論理的ではないといえましょう。しかし、場合によってはそれがクラッシャー上司となって組織を壊死させることもよくある話でして、それがパワハラの弊害といえます。

でまあ、パワハラを駆使するクラッシャー上司で、特に上層部まで昇進するような上司の多くはサイコパスであり高度に合理的であるのですが、だからといって常に論理的かというと必ずしもそうではありません。というより、出世するクラッシャー上司ほど論理的な場面とそうでない場面を使い分けるんですよね。松崎一葉『クラッシャー上司』でも紹介されているクラッシャー上司はこんな方だそうです。
基礎的な能力は高く、入社後から実績を上げ順調に昇進し、同期の中では最も早く管理職に登用された。しかし、仕事は確かにできるが、部下が業務上の失敗をすると、自室に呼び出し、2時間近くも「ネチネチ」と部下の失敗を遠回しに非難する。決して明らかなパワハラにならないように、初めは優しい口調で対応するが、部下が弁解をすると論理を構築して弁解の余地のないところまで心理的に追い詰める。部下が疲れ果てて「自分が全て悪かった、申し訳ありません」と平謝りするまで、非難は延々と続く。

しかし、部下に営業上の失敗があったとしても、最後は自分が直接に乗り出して、クライアントにうまく対応して商談をまとめる。本人は、気分の上がり下がりが激しく、時に、部下を引き連れて自分の好きな飲食店に連れて行き、ワインの蘊蓄を傾け大盤振る舞いをしたり、その一方で、原因もなく、何を言っても取り付く島のないほど不機嫌であったりする。そのため部下たちも、本人に対しては面と向かって本音が言えず、「しかたがない。逆らわずにいこう」と諦めていた。

引用元: 部下を潰して出世するクラッシャー上司は「人格の未成熟さ」を抱えた危険な存在 | 「会社のワガママちゃん」対処法 | ダイヤモンド・オンライン(2009.10.15)
※ 以下、強調は引用者による。
いやまあ身近にもよく似た行動をとる方がいて、特に本書37〜39ページに採録されたような決して答えが出ることがなく、上司が一方的に雪隠責めするやりとりはうちの職場では日常茶飯事でして、まあ働き方改革とか業務効率化なんてどこ吹く風ですかねえという思いを強くするところです。

とはいえ、そもそも上司はパワー(指揮命令権)を持っていますので、上司によるパワー(指揮命令権)の行使は通常の職務遂行にほかなりません。ただし、その行使の仕方がハラスメントになったときにはパワー・ハラスメントとなるわけです。そしてそのパワーの行使がハラスメントとなる源泉は、実はパワーそのものではなく、OJTにおける試行錯誤にあるのが日本的雇用慣行の特徴だろうと思います。

拙ブログでは、公務員の人事労務管理は民間のそれからはるかに遅れているという指摘をしてきているところでして、それはまあ私が総務省が所管する地方公務員法適用の地方公務員だからでして、つまり総務省の人事労務管理が稚拙であるという趣旨なのですが、国家公務員法を所管する人事院はさすがにそこまで稚拙ではなく、『平成28年度公務員白書』で日本型雇用慣行についても鋭い指摘をされています。

(3)OJTを取り巻く問題

 係員級職員や係長級職員を中心として、仕事のやりがいを高め、仕事を通じた能力開発や専門性習得を十分にフォローアップするためには、OJTの充実・強化が不可欠である。

(略)

 しかし、「OJTにおいては一般的に、部下に試行錯誤をさせて、その結果に対して上司が助言・指導を行うことから、その分、業務量が増加することは否めない」とされる。この点、「業務量の許容度」については肯定的な傾向が見られるものの、「業務量に応じた人員配置」については否定的な傾向が見られ、職員自身は何とか業務を処理できているが、これ以上の負担は許容できず、OJTを行う余力に乏しいという状況にあることが推測される。これは、平成27年度の年次報告書において指摘した国家公務員の年齢別人員構成の偏りによる若年層の能力開発不足と相談相手の不在等の問題の存在を示すものとなっている。したがって、業務量に見合った人員配置がなされない場合には、中長期的に見て、OJTによる職場における人材育成力を損なうおそれがあり、このことは、将来にわたる行政のパフォーマンスを維持する観点からも重要な問題である。

引用元: 平成28年度公務員白書(2017年6月9日)【第2部】魅力ある公務職場の実現を目指して(PDF形式:1,936KB)

つまり、OJTが試行錯誤をさせてその取組の中で職務遂行能力を向上させるものであることを目的とするものであることから、当然の帰結として、部下はかなりの割合で「錯誤」することになります。それに対して上司は、試行錯誤の「錯誤」の部分について助言・指導を行う必要があり、その際に、人格を否定して人権を侵害するような暴言を吐いたり、ときには暴力を振るったりしてその「錯誤」を攻め立てることがハラスメントになるわけです。

ところが、中には人格否定・人権侵害的な暴言・暴力で指導する方法しか知らない上司も存在するところでして、そうした上司の指導方法そのものが、さらにその上司から過去に受けたOJTによって獲得されていることが多く、それが「社風」とか「組織文化」となると負の連鎖が続くことになります。そうして形成された「社風」とか「組織文化」が、「厳しい上司だったけどそのお陰であの厳しい状況を乗り切れた」などの武勇伝とともに何らかの業績につながっていたりすると、その「社風」とか「組織文化」を修正することは著しく難しくなります。一度そうなってしまえば、かつての平社員であった新しい上司にも制御・介入はできず、パワハラが厄介な問題となっているのはそうした事情が背景となっているといえましょう。

まあここまでは、日本型雇用慣行におけるパワハラの発生過程やその対処方法が難しい要因の説明としてよくある話だと思いますが、問題はそれにとどまりません。そのOJTによる試行錯誤を上司が指導・助言するという日本型雇用慣行にいては、そのOJTにおける上司・部下の関係そのものが企業や官庁の意思決定にも影響しています。実務屋を自認する私からすると、人格否定・人権侵害的な暴言・暴力で指導する方法しか知らない上司によって、理論やデータではなく、その場の雰囲気で物事が決まるというのは前述の通り日常茶飯事だろうと思います。上記ダイヤモンドの記事にあるような「本人に対しては面と向かって本音が言えず、「しかたがない。逆らわずにいこう」と諦めていた。」という状況ですね。

そしてさらに、そうした状況を活用してパワハラ的な言動を意識して行う上司がいるのも事実でしょう。つまり、自分の経歴に傷がつく場面ではパワハラ的言動を封じ、自分の経歴に傷がつかない場面でパワハラ的に振る舞うことによって、周囲に対して恐怖による支配を徹底しようとする場合です。なんでそういうことをしようとするかといえば、自分の経歴に傷がつかない場面でそのパワハラ的言動を示しておくことで、「あの人の逆鱗に触れたら大変なことになる」という見せしめとすることができ、結果としてパワハラ的言動の対象となっていない部下までを支配することができるからです。

ここで冒頭のtweetに戻りますと、クラッシャー上司は論理的に見えても、上記のようなパワハラ的言動の使い分けを行うことが往々にしてあります。そして普段(自分の経歴に傷がつかないところで)論理的に振る舞うことで、パワハラ的な言動が非論理的であっても、「本人に対しては面と向かって本音が言えず、「しかたがない。逆らわずにいこう」と諦め」ざるをえないという状況が生まれます。その結果、その上司の下での意思決定は非論理的なものとなっていくという悪循環が生じることとなりますが、私見ではこうした環境は伝統的な日本企業や官公庁に特徴的ではないかと思います。

誤解を恐れずにいえば、中小企業の業務ではそれほど厳密な論理構成は求められないとしても、大企業や官公庁では関係者が多方面に及ぶために厳密な論理構成による業務遂行が求められることが、その要因ではないかと思います。つまり、大規模な組織において「論理的」なるものは、実は誰にとっても都合よく読める程度には玉虫色のものにせざるを得ないわけでして、その玉虫色の決着を有利に形成する際には、「あるときは徹底的に論理的に、あるときは表向き論理的に」という使い分けが有効ということになります。

そしてこの状況で最も事を有利に進めることができるのが、まさに論理的と非論理的を使い分けてパワハラを駆使するクラッシャー上司であり、だからこそクラッシャー上司は高評価されて出世もするのですが、その結果として、一見論理的に見えてもその実上司が自分の思い込みで判断した結果にすぎないということが頻発し、その組織における「論理的」なるものが内実を失っていくのではないかと思います。というか、大企業病とか役人病というものの大半はこれで説明可能ではないかとも思うところでして、この国の意思決定をまともな方向へ進めたいと思う方々は、まずパワハラを駆使するクラッシャー上司という社会的害悪を何とかしないといけないのではないでしょうかね。

2017年07月02日 (日) | Edit |
テレビでは大都市選挙の狂騒ぶりが面白おかしく報道されていますが、その地方自治体職員にとっては前々回エントリで取り上げた地公法改正がけっこうなインパクトを持っているもののいまいち盛り上がりませんね。

というところで、先週の総理の働き方改革についての発言が一部で問題とされていたようで、上西先生の重厚な反論と提言を拝見しました。

 最後に1つ、提案をしたい。
 安倍首相は座談会の時から、このイケアの事例に強い関心を示している。強い関心を持っていたからこそ、講演でもこの事例を取り上げたのだろう。
 このイケアの事例は、上記【反論4】に記したように、有期労働契約から無期労働契約への変更を含んでいるという点が重要だ。
 なぜなら非正規労働者(その多くは有期労働契約)は、処遇が低いという問題だけでなく、雇用が不安定であるという問題を同時に抱えているからだ。
 また、その2つの問題は絡み合っている。処遇が低いことに不満があっても、「声をあげれば契約の更新がされないかもしれない」という恐れから、声をあげることが難しい状況に、非正規労働者は構造的に置かれている。
(略)
 さしあたり、研究会の設置も法改正も必要とせずにすぐに行えることがある。
 有期労働契約で同一の使用者との間で反復更新されて通算5年を超えた場合、有期契約労働者の申込みにより、期間の定めのない労働契約(無期労働契約)に転換されるという「無期転換ルール」による無期転換権が、改正労働契約法によって2018年4月1日から発生する。
 そのことを安倍首相には、率先してPRしていただきたい。使用者には不当な雇止めをすることがないように、また労働者には積極的に権利行使するように、呼びかけていただきたい。
 賃上げには強いメッセージを出してきた安倍首相なのだから、無期転換にも強いメッセージを出すことはできるはずだ。

上西充子「安倍首相の「非正規のときにはなかった責任感」発言を「批判する方がおかしい」とする菅官房長官への反論」(Yahoo!ニュース 6/30(金) 14:01)
※ 以下、強調は引用者による。


やたら長い記事(人のことはいえませんが)ですが、安倍総理と菅官房長官の発言に反論しつつ、労契法の無期雇用規定が2018年4月1日から適用されることをPRすべきという比較的穏当な提言に収まっていて賛同する点は多いものの、後述するとおり法律で職務と責任で任期や給与などの処遇に差を設けると規定している公務員の世界もあるわけでして、話はそう単純ではありません。

上西先生は上記の記事の中で

 ここでは「やる気」が「大きく変わりました」と語られている。しかし、従来の働き方では「やる気がなかった」とは語られていない。
 また、ここで言う「正社員と同じ待遇」とは、給与面だけでなく、上記(C)の発言に見られるように、「有期から無期の契約に変わった」という変化を含んでいたことも見過ごすことはできない。
 安倍首相が進めようとしている「同一労働同一賃金」政策では、有期から無期への転換(非正規労働者の正社員化)を進めることはねらいとして掲げられていないが、この女性の場合は、賃金などの処遇の改善と、有期労働契約から無期労働契約への転換が同時に行われた例外的な事例なのだ。この点については、後述の【反論4】で改めて触れる。
 まとめると、この女性の場合、確かに短時間正社員に変わったことにより、責任のとらえ方ややる気に変化は見られたようだが、従来のパートの時に責任感がなかったとか、やる気がなかったとかと語っているわけではない

上西充子「安倍首相の「非正規のときにはなかった責任感」発言を「批判する方がおかしい」とする菅官房長官への反論」(Yahoo!ニュース 6/30(金) 14:01)


とおっしゃるわけですが、それはあくまで労働契約により働く労働者としての意識の話であって、労働契約の一方の当事者である使用者からすれば、労働契約の内容を改善した以上、その対価としてより一層の「責任」を求めることも無理からぬことです。

今回の地公法改正でも、常勤を要する職とそれ以外の職を区分する基準は職務と責任とされていまして、その具体的な基準は、期間と(1日当たりの)業務量であるとされています。したがって、地公法で想定している常勤と非常勤の区分は、職務と責任によって期間と業務量が決定されるという理路を前提としているわけで、その具体的な内容としてはこの報告書を踏襲することになります。

Ⅱ 基本的な考え方
④ 職員の任用については基本的には各地方公共団体において判断されるべきものであるが、その際には、就けようとする職の職務の内容、勤務形態等に応じ、「任期の定めのない常勤職員」、「任期付職員」、「臨時・非常勤職員」のいずれが適当かについての判断が必要となる。特に、今回提案する一般職非常勤職員制度の新たな仕組みにおいては、その職務の内容や責任の程度は、 任期の定めのない常勤職員と異なる設定とすべきである。

「地方公務員の臨時・非常勤職員及び任期付職員の任用等の在り方に関する研究会報告書(平成28年12月27日)」(PDF)


ふむふむなるほど、新設される一般職非常勤職員である会計年度任用職員は、職務と責任は任期の定めのない常勤職員と一緒にしていけないとおっしゃるわけですね。ところが、地公法で職務と関連して責任を定義しているのは第24条の給与原則のみでして、その帰結として、地方公務員に関しては常勤と非常勤の職員との「同一労働同一賃金」は現行の法律上は不可能ということになります。

ということで24条に関する逐条解説を確認してみますと、

…ここで「職務に……応ずる」とは職務内容の難易あるいは複雑さの程度に応じて差をつけることであり、「責任に応ずる」責任の軽重によって差を設けることである。職務といい、責任といっても、実質的には同じことを指しているといってよいであろう。この職務給の原則の趣旨は、できるだけすみやかに達成されなければならないものとされている(本条2)。この規定は地方公務員法が昭和25年に制定され、その当時は我が国の経済は未だ安定せず、生活給の考え方が支配的であった事情を反映しているものである。経済が安定し、国民全体の生活水準が著しく向上した今日では、この本条第2項の使命は、既に達成され、職務給の原則をいっそう強く貫徹すべき時代となっていると考えられる
 職務給の原則は、具体的には各給料表における級の区分によって実現されている。たとえば、9級は部長、6級は課長、4級は課長補佐というように(第25条の〔解釈〕3(1)参照)、職に応じて給料の級を異にすることによって職務給の原則を具体化しているのである。各級内の号給の区別は、生活給の要素を考慮したものであると同時に、同一職務における能率の向上に対応するものであるから、ここにも職務給の原則が一部反映されているといってよいであろう。(略)このように、現行制度の下では、職務給の原則が主であり、生活給の要素は従たる地位を占めている

橋本勇『新版 逐条地方公務員法 第3次改訂版』pp.357-358


ということで、「職務と責任」は実質的には同じという抱き合わせ販売をしているわけです。

余談ですが、この部分で「国民全体の生活水準が著しく向上した今日では、この本条第2項の使命は、既に達成され、職務給の原則をいっそう強く貫徹すべき時代となっている」としているのは、職能資格給が普及する前の1960年代ころであれば、政府や使用者側が推進していた職務給についての説明として妥当でしょうけれども、実際にはその後職能資格給が広く普及し、それが日本型雇用慣行として労働法全体の規範になって現在に至っていることからすると、いかにもお為ごかしな説明ではありますね。

余談ついでに、この職務給の原則の趣旨を説明した部分では、

  給与は職務と責任に応ずるもの、すなわち、地方公共団体に対する貢献度に応じて決定されなければならないとする原則である。これに対立する考え方として生活給の原則(給与は勤労者の生活の維持に必要な額を決定すべきであるとする原則)がある。給与は、勤労の正当な対価であることおよび労働力の継続性を維持するためのものであることを考えると、給与が生活の資として労働力の再生産を賄うに足るものでなければならないとする考え方も説得力のある見解であろう。我が国の場合も、戦後の経済の混乱期には民間の資金はもとより、公務員の給与も生活給の色彩が濃厚であった。その後、経済の発展と賃金水準の上昇につれて職務給、職能給の考え方が強まり、公務員についていえば、昭和32年の給与制度の大改正によって、それ以前の通し号俸的な給与体系が等級別の給与制度に改められたことに伴い、職務給の基礎が確立され、法律が要請する原則に適合する制度となって今日に至っているということができる。

橋本『同』p.352


とのことで、電産型給与体系からの転換を図るための職務給の原則だったものの、昭和32年の改正後に結局実現したのは職能資格給だったということでしょうか。

閑話休題。今年5月に成立した改正地公法では、第24条の規定の改正はありませんでしたので、この職務給の原則は文言上変わっていません。したがって、その内容は前々回エントリで指摘したような「会計年度任用職員の新設による常用代替防止の強化」ですので、冒頭で指摘した基準によって常勤を非常勤を区分することとされています。

地方公務員法の有権解釈として参照されている逐条解説において、「職務といい、責任といっても、実質的には同じことを指しているといってよいであろう」と断言されている地方公務員については、職務と責任はセットで考えられているわけでして、職務と責任によって給与を区別されている地方公務員が「同一労働同一賃金」で給与水準が等しくなるためには、職務と責任もセットで変わらなければなりません。とりわけ給与水準が上がるならば、その根拠となる職務と責任についても「難易と複雑さの程度」が上がらなければならないということになります。

という次第ですので、もしかすると今回の総理の発言は、普段ご自身の周辺で業務に当たる国家公務員を見ているために、こうした職務と責任をセットとした「任用」の理屈に感化されたのかもしれませんが、まあそんなこたぁない。むしろそれは、上西先生が指摘されるように公務員の世界が民間に先駆けて職務分離を率先していることの現れでして、それに違和感を感じることそのものはまっとうだろうとは思いますが、法律に規定されているものは運用ではいかんともし難いところです。公務員の世界が率先する職務分離が浸透するのか、民間の後を公務員が追うのか、興味深いところではあります。

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