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2019年05月03日 (金) | Edit |
元号が変わっておとといのメーデーと本日の憲法記念日ということで、毎年恒例の集団的労使関係論となりますが、前回エントリでご紹介した『HRmics vol.32』では、hamachan先生の連載「原典回帰」で藤林敬三著『労使関係と労使協議制』が取り上げられています。もちろん私のような浅学非才の徒は藤林敬三といわれてもピンとこないわけですが、本文によると「戦前から活躍した労働経済学者ですが、戦後は神奈川県地労委、そして長らく中労委の委員を務め、最後は中労委会長として1962年に亡くなり、その遺稿をまとめたのが本書です」とのこと。つまり、集団的労使関係の紛争処理機関である労働委員会で、労使紛争華やかなりし時代において調整や不当労働行為事件の審査に尽力された経歴の持ち主であり、集団的労使関係論を論ずるに相応しい人物といえるでしょう。

hamachan先生が紹介されているのは本書のエッセンスではありますが、その半世紀以上前の高度成長期まっただ中の論説と思えないほどに現在の労使関係を描出する内容となっていて、その慧眼に感服せざるを得ません。その藤林の基本的な視点は「労使関係は本来二元的関係である」というものでして、本書の記述から引用すると、

私のいう第一次関係というのは、いいかえれば経営対従業員関係を意味し、第二次関係というのは経営対組合関係を意味している。そしてこの第一次関係と第二次関係をさらに別の見方からすれば、第一次関係すなわち経営対従業員関係は、元来が労使の親和、友好、協力の関係である。これに対して第二次関係すなわち経営対組合関係は、もともと賃金ならびに労働諸条件、すなわち団体交渉の中心的な事項を対象としている。これらの労働諸条件の維持・改善を中心にして考えれば、労使は明らかにここで利害が対立している。したがって労使の利害対立、ときには労使が相争う関係がここで考えられなければならない。このように第一次関係、第二次関係を区別してみると、この二つの関係は性格上まったく相異なるものであるといわなければならない。(8頁)

藤林『労使関係と労使協議制』1963年(HRmics vol.32)p.32
※ 以下、強調は引用者による。

労使が親和的な第一次関係と利害が対立する第二次関係が労使関係の本来の姿であり、特に企業内組合が主体となった日本の職場はまったく異なるそれら二つの性格のうち、第一次関係に傾きがちというのが藤林の洞察であって、それが第二組合の発生を誘発するというメカニズムを解き明かします。このメカニズムはやや込み入っておりまして、経営対組合関係である第二次関係については、企業外部のナショナルセンターを頂点とする上部団体の指導(オルグ)によって強化されますが、そこでは第一次関係に傾いている企業内組合の姿勢が否定され、妥協を許さない教条的な姿勢に傾斜することとなります。その傾斜が強まった結果として、上部団体に導かれて第二次関係を志向する教条的・闘争的組合と、もともとの第一次関係を志向する(藤林は「里心」と表現しています)労使協調的組合に分裂することになるというわけです。

実は、拙ブログでは「第二組合が第一次関係を志向したために、企業内で組合が分裂してしまった」という書き方をしておりましたが、

というわけで、労働組合を保護するはずの労働組合法や労働委員会が、労働組合を分断化させてしまってその交渉力を弱体化させているというのが、日本の集団的労使関係の特徴となります。本来であれば、弱体化された労働組合の側からそのような制度を改正するよう求めるべきですが、労働組合側はそうしませんでした。なぜなら、そのような分断化された労働組合を認めなければ、現存している少数組合が存在できなくなるからです。そのような交渉力の弱体化と引き替えに、自らの組織を維持することを正当化する労働組合側の論理が、「交渉権の人権的把握」だったわけです。
(略)
というわけで、「交渉権の人権的把握」によって少数組合の存在を正当化したのは確かに労働組合であって、その意味では自業自得ではありますが、それを認めてきたのは労組法だったり労働委員会という行政委員会制度でした。そしてそれは、「少数組合を保護せよ!」という日本の左派陣営特有の主張によってもたらされた帰結でもあったわけで、労働組合だけの自業自得というよりは、戦後の日本の労働史観とでもいうものがあまりに労使対立路線と個別の組合保護に偏重していたことの結果だったように思います

自らの交渉力を低下させる労働組合(2009年06月14日 (日))
※強調は引用時。

この部分はむしろ、もともと第一次関係を志向する企業内組合が、ナショナルセンターや上部団体によるオルグによって先鋭化して第二次関係に傾いたものの、これに反発して第二組合が結成され、もともとの第一次関係が企業内組合の主流派となり、先鋭化した第二次関係を志向する組合が少数派となったというのが真相というところですね。もちろんこれは全体的な傾向をまとめたものであって、個々の企業や業界では逆に第二次関係が主流派となっているところもある(医療関係とか私学関係とか)ので、すべてがこれに当てはまるわけではありませんが、現在の日本の労使関係の描出として、藤林の指摘は首がもげるほど首肯するところです。

藤林の論説の詳細はぜひリンク先の本文をご覧いただきたいのですが、藤林の半世紀前の見通しとhamachan先生の指摘は、この国の労働組合関係者が熟読玩味する必要があると思います。

…なにしろ、そのいうところの雰囲気闘争、ムード闘争に満ち満ちていたころとはうって変わって、現在の日本は争議行動を伴う争議件数が1年間で68件という世界的に見ても超争議レスな労働社会になってしまっているからです。
 ところがさにあらず。藤林が労働委員会で連日争議の斡旋・調停に汗をかいていたころと、争議がほぼ完全に姿を消した今日とは、同じ企業内組合と経営の関係が違う現れ方をしているという意味で、実はコインの表と裏の関係にあるのです。
(略)
「…およそこのような労使関係へのクレッグ的な見解を論理を十分に味わうことも知らないままで、労使協議制をいちだんを大きく植え付けようとすることは、企業内組合をさらにhome unionismにいっそう転落せしめ、組合を去勢してしまうことにほかならないのではないだろうか。したがって、労使協議制の確立が労使関係の近代化あるいは民主主義化の方向を拒否するのではなく、むしろこれを前提とするか、あるいは少なくともこれと並行して推し進められるべきものであるとするならば、われわれの場合に今日まず考慮すべきことは、労使協議制の確立ではなく、労使関係の近代化であり、民主主義化である。言葉をかえていえば、企業内労組の存在を企業の内深く押しこめるのではなく、反対にそれを企業の外に向けしめることである。」(210〜211頁)

濱口桂一郎「原典回帰 第11回 藤林敬三著『労使関係と労使協議制』」(HRmics vol.32)p.42

「クレッグ的な見解」は引用部のみでは示されていないので推測ですが、企業内組合が労使協議制に特化していくと労使関係の近代化や民主主義化と逆行するという指摘だろうと思います。「働き方改革」が政治イシューになるというのは、上記エントリを書いていた10年前にはなかなか想像しがたい事態ではありますが、いつまで経っても集団的労使関係が政治イシューとなることはないところでして、日本の労使関係が前近代的な状態に据え置かれたままで「働き方改革」が実効性あるものとなるのかは甚だ疑問ですね。

なお、細かい指摘で大変恐縮ですが、上記のhamachan先生の記事のp.43に用語解説がありまして、労働委員会の説明で「都道府県が設置する地方労働委員会」という記載になっているのですが、地方自治法の改正により2005年から「都道府県労働委員会」となっております。それ以前は「ちろうい」という呼び名で一括できたので「地方」と付けたくなるところですが、いまは「とろうい」とか「けんろうい」とか呼び分けなければならなくて面倒ではありますね。ついでに、p.44の海老原さんの指摘で第一次関係と第二次関係が入れ替わっているように思うのですが、イギリスとドイツの制度に関連させた説明ではそのような分類になるのでしょうか。
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2019年05月02日 (木) | Edit |
ここしばらくはほぼ月一の更新となっていて4月の更新も飛んでしまい、なかなかブログに手を付けられない状況でしたが、改元10連休の前半で積み残し案件がある程度目処がついたので、こちらも積み残しのネタを書いておきます。

ということで、GW直前に『HRmics vol.32』をご恵投いただきました。いつも場末のブログにお気遣いいただきありがとうございます。今回のテーマは「外国人就労問題、総点検」ということで、昨年改正された出入国管理及び難民認定法(入管法)の制度上の問題やこれまでの技能実習制度の実態が検証されています。本特集でも「けっこう厳しく管理されている技能実習制度」と示されているように、今次の改正以前にも数度の法改正を経て監理団体や企業に対する規制そのものは強化されておりまして、帰国予定の実習生、帰国後の実習生それぞれを対象とした調査において、95%以上が「役に立った」「とても役に立った」と回答していることからもそのことは伺えるだろうと思います。

ただし、法改正の過程で法務省が示した技能実習生が失踪した理由のデータで誤りが判明したように、その制度の中で問題を抱えた技能実習生がいたのも事実ですし、一部でもそのような問題があるならば制度そのものを廃止すべきとの議論も、(議論の仕方としては別ですが)まあそういう心情は理解できないではありません。

一方で、本特集では、女性や高齢者の就業参加がすでにある程度進んでいる現状を示し、これからの新規の就労参加は頭打ちになるので、人手不足解消のために外国人就労が増加せざるを得ないとしているのですが、これもやや一面的な分析ではないかと思うところです。というのは、人手不足はもちろん需要と供給の比較でもって需要が上回っている状態を指しているわけでして、需要そのものが減少していけば少ない供給でもバランスすることになります。人口減少そのものによって需要が減少することもあるでしょうし、劇的にではないにしろ、AIやらRPAやらで業務が効率化することによる需要の減少もあるでしょう。海老原さんご自身も「「AIに雇用が奪われる」といっても、人口が減少していく社会にあってはむしろそれが必要な面もある」という趣旨の指摘をされているところですし。

いやもちろん、ここは細かい分析が必要なところでして、本特集で指摘されているように、賃上げしても求人を満たすことができない企業や、そもそも賃上げする余裕のない企業では外国人就労に頼らなければならない現実があって、それが外国人就労の主な需要者といえるでしょう。というと「そんな賃金しか払えない企業はさっさと廃業しろ」という「正論」が繰り出されるでしょうけれども、そういう企業は農林水産業とか小売・サービス業だったり建設業とか警備だったり、要は経済が成熟化したこの国ではそれほど付加価値を生まない(とみなされる)けれども、新興国では十分に付加価値がある業種であるならば、そのような国から就労者を受け入れて、技能実習を行うという大義名分は(実態はともかくとして)成立するということに留意が必要です。つまり、「一時的労働力としての技能実習」に対して、上記のように就労した外国人が「役に立った」と評価するというように需要と供給が一致するならば、制度そのものは成り立つわけですね。

でまあ入管法もその大義名分を強化する方向で改正されたわけですが、受け入れる日本企業は、「「職務遂行能力」なるものが企業内で機能しなければならないのは、入社する前の段階の教育で「職務」に必要な専門能力を身につけていないことの裏返しであって、それが変わらない限りは「職務遂行能力」に頼らざるを得ないというジレンマ」に陥っているわけでして、技能実習するといいながら、職務無限定であるためにパワハラOJTが主流となっている日本型雇用慣行では、肝心の「技能」のみではなく「職務無限定な働き方」をも身につけてしまうことになります。実際に、上記の技能実習生が失踪した理由の中で、「指導が厳しい」(5%を13%に修正)、「暴力を受けた」(3%を5%に修正)という理由はまさに、パワハラOJTが主流となっている日本企業の実態を示しているものと考えられます。

ということで、その実態は「技能を実習する」という目的に必ずしも合致しない日本型雇用慣行において、外国人技能実習生を受け入れるということは、本来なら日本型雇用慣行に親和的な日本の教育機関を卒業した新卒採用者や中途採用者を代替するということにほかなりません。つまり、改正入管法が「技能を実習する」という大義名分のために使用者側を厳しく規制しているにも関わらず、パワハラOJTでしか技能を実習できないために「指導が厳しい」「暴力を受けた」として失踪する技能実習生が一定程度発生してしまう理由にもなっています。これはちょうど、hamachan先生がワークライフバランスに関して、雇用慣行そのものにおける規制とそれに対する特例をそれぞれ第1次、第2次と分けた議論と重なるように思います。hamachan先生の「Web労政時報」の連載から引用しますと、

濱口桂一郎「第1次ワークライフバランスと第2次ワークライフバランス(2015年11月2日)」

 ものごとを論ずる際にはまず基本に返る必要があります。ある一定時間以上働かせてはならないという労働時間規制は、ワークライフバランスに対してどういう効果を持つでしょうか? いうまでもなく、職場の仕事以外にさまざまな役割を担わなければならない労働者にとっては、プラスの効果を持ちます。労働時間が規制されているがゆえに、例えば子供に朝食をつくってあげてから会社に向かうことができます。家に帰ってから子供に夕食をつくってあげることができます。労働時間の柔軟性(フレクシビリティ)ではなく硬直性(リジディティ)こそがワークライフバランスを保障するのです。これが出発点です。これを「第一次ワークライフバランス」と呼びましょう
(略)
 第二次ワークライフバランスは遜色がないくらい充実しているのに、育休世代が深刻なジレンマに投げ込まれるのはなぜなのか。それはその基盤となるはずの第一次ワークライフバランスが空洞化しているからですね。ヨーロッパでは、育児休業を取っている人や短時間勤務をしている人以外の労働者も、第一次ワークライフバランスは確保されているのが前提です。ところが、日本ではそうではありません。日本型雇用システムの下におけるワークライフ分業では、男性正社員は時間無制限の労働義務を負う代わりに女房子供を養う賃金を生涯にわたって保障されるという等価交換が成立していました。法律上は存在することになっている第一次ワークライフバランスを保障する労働時間規制など、会社にとってだけでなく、男性正社員にとっても大して意味のあるものではなかったのです。生活費に組み込まれた残業代の計算に使う以外には。


厳しい指導や、ときには暴力まで容認するパワハラOJTが主流の日本型雇用慣行において、技能実習生の95%以上が「役に立った」と回答するのは一見すると矛盾するように見えますが、裏返せばパワハラOJTにもそれなりの育成機能があるという証左ともいえます。まあだからこそ日本型雇用慣行においてパワハラOJTが主流となっているわけですが、それは同時に技能実習生にも日本型雇用慣行における問題がそのまま当てはまるということです。入管法でいくら大義名分に基づいて第2次の規制を強化しても、日本型雇用慣行の第1次の規制がそのままでは、外国人技能実習生の問題は日本人そのものと同様に解決されないわけでして、それでも外国人技能実習生が日本を選ぶのかは未知数と言えそうです。いやまあそもそも日本人の問題を解決することが先決でしょうけれども。

2019年03月21日 (木) | Edit |
2019年は宇宙世紀0079の一年戦争を舞台にしたファーストガンダムの放映年から40年で、ガンヲタにとってのメモリアルイヤーですが、整理解雇の4要件の高裁判決が出されて40年の節目の年でもあります。

そもそもガンダムが放映された1979年というのは第二次オイルショックのまっただ中で、高度経済成長期末期から日本型雇用慣行が確立された時期でもあって、日本型雇用慣行と「春闘」方式が高インフレによるスタグフレーションの進行を抑え、1980年代の日本経済の一人勝ちを準備していた時期でした。またこの時期は、就業規則不利益変更法理とか解雇権乱用法理とか整理解雇の4要件(東洋酸素事件の東京高裁判決がちょうど1979年ですね)とかの判例法理が確立し、賃金体系では1969年の日経連「能力主義管理−その理論と実践」による職能資格給が広まっていった時期にも重なります。

「やる気のある主役」以外が大事(2012年11月22日 (木) )

「日本の正社員には厳格な解雇規制がある」とかいう一知半解の言説が途絶えることはありませんが、その誤解を招いているのがこの整理解雇の4要件説ですね。まあ、判例法理として確立したということは、すでにそうした権利関係が認められる状態にあったということなので、1979年から整理解雇が厳格化されたということではありません(東洋酸素事件のきっかけとなった解雇は1970年に行われています)が、実質的な規制として社会的に認識されたことは事実でしょう。

で、40年というと高卒で就職した労働者がそろそろ定年を迎え、大卒なら既に定年を過ぎて再雇用されたりするステージに入っているわけですが、それは日本型雇用慣行としてのメンバーシップ型雇用にお墨付きが与えられてから就職した方々でもあります。制度というのは、いったん成立するとその制度自体を維持することが目的化することは避けられないところでして、その中心的役割を果たしているのがパワハラの源泉としてのOJTだろうと考えます。

とはいえ、整理解雇の4要件説が判例法理として確立して40年間、パワハラOJTもそのまま変わっていないかというとそう単純な話ではありません。1年ほど前になりますが、北海道の自治体で(おそらく専門職として選考採用され)学芸員をされている石井淳平さんという方がnoteでその辺に対する違和感を指摘されていました。

公務員は能力を把握されているか

ところで、公務員は全員一定の能力をもつことが前提となっているようです。
建前上は「職階制」なので、職に応じた能力を持てばよいということになっていますが、現実には年齢によって職階が定まるので、ある年齢層にはある一定の能力が求められます。

こうした能力の管理方法が公務員のメンタルヘルスの問題と関係があるように思います。

全員が同じ能力を要求される辛さ

公務員はいわば、全員が100mを11秒で走り、ベンチプレスを90kg持ち上げることが要求されるラグビーチームのようなものです。
両方ともクリアできる選手はすばらしいと思いますが、個人の能力の向上は、本来組織としてコントロールできる性質のものではありません。

しかし、公務員の場合、基本的には同じ能力が求められ、異動した先の職場でも前任者と同じスペックで仕事を行うことが要求されます。

(略)

組織に人間が合わせた末に起こること

結局のところ、組織と個人の関係が、本来あるべき姿から離れていくほど、問題が増えていくのだと思います。
組織の意義は、容易には変えられない個人の能力差を集団でカバーして全方位的な危機対応をやっていこうね、というところにあるはずです。
選手が変われば戦略が変わるということが、組織の本質であるはずです。
しかし、公務職場では組織に人間があわせていく度合いが強く、「チームワーク」ということが、個人のスペックを均一にすることと同義になってしまっているように思います。
その結果、「地頭の良さ」のような単一的かつ改善困難な要素で職員の評価が定まってしまうということになります。

一種の過剰適応を要求されるところに、公務職場では仕事内容の割にメンタルの問題が多く発生する原因があるのではないかと感じています。

それほどつらい仕事とは思えないのに公務員が病んでしまう理由(石井淳平 Mar 2, 2018)

一応指摘させていただくと、地方公務員法の改正までいちいちフォローするような地方公務員もそうそういないと思いますが、地方公務員法における職階制は既に2014年改正で削除されていまして、さらにいえば、建前上は「職務給」であるのに実際の運用は「職能資格給制度」によって年功的に運用されているというのが労働法(ヲチャー)的な説明となりますね。

という意味では、「公務員の場合、基本的には同じ能力が求められ、異動した先の職場でも前任者と同じスペックで仕事を行うことが要求されます」という指摘も、(程度の違いこそあれ)公務員に限った話ではなく、職能資格給制度における職務遂行能力による格付けによる運用が行われている会社組織では、同様に見られる現象ではないかと思います。

さらにこのエントリから半年ほど経って、議会での答弁からメンタルヘルスに対する自治体幹部の考え方が取り上げられています。

役所の職員がメンタルヘルスを病んで退職するケースが増加しているとの認識のもと、町の対策について質問しています。

答弁(副町長)

正直、実際に昔、我々が入ったときには、上司がいて、同じ年代の人たちが課が違っているということで、上司との関係、縦との関係と横との関係でつながっていたわけでございますが、なかなか仕事もそれぞれパソコンが入ってくると、一人ひとりの仕事みたいなことになっておりまして、上司、部下という接点が、仕事で教えてもらうというよりも、個人的なというか、アドバイスはもらえるけれども、その仕事はあなたのこれよ、私のこれよみたいな感じにはなっているなという気はしております。(中略)

副町長さんの答弁は、職員のおかれた状況や過去の働き方との比較についてのべていますが、なかなか適切です。

業務の縦割り化が個人レベルまで進行している点を指摘していることは重要です。コンピューターの導入によってこうした状況が加速したとの認識も説得力があります。

(略)

議員さんは職員のメンタルヘルス対策について尋ねています。飲みニケーションで終わらず、組織的な対応を確認する良い質問です。

答弁(町長)

病んでいる職員がいるということで、病んでいるというのは、もう病気だということですから。私は、町の職員というものは、町民の最大のサービス産業であるこの役場が、町民に対してまともなサービスができないような職員はやめていただきたいと、こういうふうに思っております。(中略)

いきなりすごい答弁です。病気の職員は辞めてほしいと公言しています。いわゆる「ブラック企業」と言われる企業の経営者でも公式記録の残る場でここまで思い切った発言はできないでしょう。

自治体職員のメンタルヘルスと首長の本音(石井淳平 Aug 17, 2018)

ここで副町長答弁で指摘されているうち、「業務の縦割り化が個人レベルまで進行している」のは組織のフラット化による部分が大きく、そのことによってOJTが変容し、日本型雇用のあり方そのものにも影響しているのではないかと考えます。パソコンの導入というのはたまたまバブル崩壊後の組織のフラット化と同時並行で進んだものであって、組織のフラット化によって、副町長答弁にいう「仕事で教えてもらうというよりも、個人的なというか、アドバイスはもらえるけれども、その仕事はあなたのこれよ、私のこれよみたいな感じにはなっている」という状況が生じたと考えるべきでしょう。

管見では、ここに町長答弁のような勘違いが生じる余地があると考えます。つまり、1979年からの40年を、バブル崩壊後に初めて就職氷河期といわれた1997年で前半と後半に分けてみると、前半の整理解雇の4要件説によってメンバーである正社員の解雇規制が判例法理となってからの約20年は、厚い中間管理職層がそれぞれの業務についてそれぞれの部下へのOJTを担っていたわけでして、その当時に若手社員だった現在の幹部職員は、その「前半型OJT」で仕事を覚えたという経験を有します。そうした経験を有する正社員は、「正社員たるものどんな業務でもどんな状況でも正社員としての職責を果たすべきであり、そのために職場の人間関係を壊さないコミュニケーション能力が必要」という正社員像を共有することになります。そりゃまあ、ご自身がそうやって仕事をしてきたわけですから、仕事はそうやってするものだと考えるのもやむを得ないのでしょうけれども、それがずっと続くという保証はありません。

実際に、バブル崩壊後に正社員の範囲を限定するために中間管理職をプレイングマネージャーとして組織をフラット化した後半では、OJTを担っていた厚い中間管理職層が失われました。その結果、中間管理職が担っていた仕事は、関係者との調整から書類作成、チェック、発送に至るまでが個別のパッケージとなり、プレイングマネージャーを含む部員にそれぞれ割り振られることになります。そこでのOJTは、個別のパッケージを前任から後任へ受け継ぐという形になるため、スキルを身につけるというより、パッケージをこなす能力を身につけるための後半型OJTに変容していきます。

となると、中間管理職による前半型OJTを受けた層と、前任者からの受け継ぎである後半型OJTを受けた層では、正社員像とOJTで身につけるスキルの乖離が大きくなっているように思います。つまり、前半型OJTではまさに「白地の石板」(@hamachan先生)がスキルを身につけることが主眼となっていたものの、後半型OJTでは前任の人間関係におけるポジションにフィットして、その業務パッケージをそつなくこなすことが主眼となり、それが「公務職場では組織に人間があわせていく度合いが強く、「チームワーク」ということが、個人のスペックを均一にすることと同義になってしまっている」という状況を生み出しているといえましょう。

という私自身は後半に属しているわけでして、前半を過ごしたであろう上の世代と、同年代以下の世代とを見比べてみると、同年代以下の世代のスキルのバラツキの大きさを感じることがあります。まあ私の周囲の話なのでサンプルサイズも小さしですし、安易な世代論に落とし込むことは避けるべきとは思いますが、フラット化した組織でOJTを受ける層が組織の大半を占め、さらに若年者層が先細っていくと、業務に必要なスキルを身につけられないメンバーによって組織が運営されていくことも想定されます。まあ一部では既にそうなっているようですし、あと10年もすれば全体的な傾向となるでしょうけれども、職能資格給制度によって堅牢さを維持している日本型雇用慣行は、意外な形でその内部から変容を迫られるかもしれませんね。

2019年02月10日 (日) | Edit |
一昨年から拙ブログでは日本型雇用慣行におけるパワハラOJTを継続的に取り上げてきたところですが、役所のパワハラ事案で山本一郎氏が典型的なダブスタを披瀝されていました。

 でもですね、全文読むと、市長の真意は「道の狭い角で交通事故があり、女性が亡くなったから、道路の拡幅をしなければならないのに、明石市役所の担当者が7年近く放置してきたので、市長がブチ切れている」のが分かります。ブチ切れて暴言を吐くのはいかんと思いつつ、その目線は「市民の安全のために、役人が働かないことに対する怒り」である以上、これってむしろ素晴らしい市長さんなんじゃないの? 市民の安全のために役所がしっかり動くよう激励してブチ切れてとにかく仕事を進めようという気魄さえ感じるわけですよ。

(略)

 その割には土下座する相手の物件を「きょう火付けてこい。燃やしてしまえ」とか言っているあたり市長の前のめり感もあるわけですが、これ、あくまで市民目線、市民の安全のためにこの拡幅工事が必要だ、用地買収を早く進めなければならないという責任感によって出た言葉だとするならば、むしろ人間臭く、明石市民のために働く市長と言えるんじゃないでしょうか

「明石市長・泉房穂氏の暴言をよく読むと、市民の命を守るための正論である件(1/29(火) 18:12)」
※ 以下、強調は引用者による。


用地交渉における事業の進捗度合いの問題というのは、傍目に見ると時間がかかるように見えるのですが、

そんな利他的な方ばっかりなら用地買収交渉担当が生活保護と徴税と並んで「三大異動したくない部署」になんかなりませんけど。もちろん、地元の方の多くは協力的ですが、新幹線というのは沿線住民にとっては振動やら騒音やら電磁波やらで典型的な迷惑施設なんですよね。さらにいえば、土地は分筆して相続されるものでして、地元に残った本家の人が持っているのは実は元あった土地の数十分の一で、ほかは進学とか就職とか結婚で地元を離れた子息たちの所有になっていたりするので、そういう方々にとってはできるだけ高く売りたい資産でもあります。その用地買収の補償交渉で難航するのは日常茶飯事だということは原田氏には想像できないのでしょう。しかも、日本が第二次世界大戦中に占領したタイとビルマの例を持ち出してもっと早くできるはずって、どこまで用地買収の現場を踏みに(ry

利権陰謀論という結論を書きたくて(2012年07月10日 (火))


という形で、用地交渉を行う対象の筆が細分化されて交渉に時間を要するのはもちろん、用地買収する予算そのものに制約があって複数年で進めざるを得ない場合が通常であるため、進捗を確実に進めるために容易なところから手を付けていって、買収に応じた方々の相場を実績として難しいところの交渉に当たるというような手法がとられることもあります。そうした事情がこの件にもあったかどうかは不明ですが、この前明石市長の発言がそのような事情を汲んだものかは大いに疑問ですね。

ところが、冒頭で引用した山本一郎氏のように、そうした事情を考慮した形成もなく発言そのものを評価するような声が多いんですね。と思いきや、その山本一郎氏がそうした事情を考慮しない方を批判していらっしゃいます。

 頑張っても、できないんだよ。ゴロを落としてしまう、変なところに投げてしまう。みんな、どうやったらちゃんとしたところにボールを投げられるの。コーチからはさんざん「頑張って真面目にやれば投げられるようになる」と言われたが、結局できなかった。どうすればできるようになるのかを教えてくれなかったから、できないまま、少年野球をやめて中学受験に走った私を、少年野球を続けているクラスメートが「あいつはできないから『逃げた』」と教室で煽り、激烈にムカついたので隙を見計らって廊下で後ろから全力ライダーキックして、学校の中で問題になって親と一緒に校長とその子の保護者に謝りに行った、悲しくも香ばしい、秘められた個人の思い出。

感情でも理性でも受け入れられない

 頑張ったつもりなのにできなかったというのは、ない才能と向き合う度量がなければ無理だと思うんですよ。子供のころは、私もできる他の子たちと自分を見比べて、ああ、スポーツの才能がないんだと自信を持てないでいました。いまでこそ、頑張ってもできないことがある、やり方を掴めなければ努力してもできないことは知っています。いろんな経験を積んで、客観的に自分を観られるようになり、やがて大人になって初めて「逆立ちしてもできないことはあるんだ」とか続けていても無理を悟る瞬間というのはあります。

少年野球の練習風景で思い出した「頑張れば、できる」という亡霊のような何か なんだろう、この胸の痛みは - 山本 一郎 2/2

私のような実務屋からすると、世の中に「頑張れば、できる」と言い切れるものがどれだけあるのだろうかと思うところですが、山本一郎氏もご自身の野球経験から「頑張っても、できないんだよ」という思いを強くされたようです。そして「頑張ったつもりなのにできなかったというのは、ない才能と向き合う度量がなければ無理だ」とおっしゃられるように、制度や予算や人員の制約の中で「頑張ったつもりなのにできなかった」ということは日常茶飯事ではないかと思うところ、ことそれが役所の仕事になると、同一人物から「市民の安全のために役所がしっかり動くよう激励してブチ切れてとにかく仕事を進めようという気魄さえ感じる」という言葉が発せられるわけですね。

野球つながりというわけではありませんが、気概があればどんなに相手の人格を否定しようが暴力行為を働こうが問題ないという世界がこの国にはあるようでして、

ところがことはそう簡単ではないのは、上記の記事で球界OBなる方が「それは期待されている選手だけだったし、理不尽ではなかった」とおっしゃるように、パワハラ上司の周囲には「期待しているからパワハラも鉄拳制裁も理不尽ではない」という取り巻きがいるために、パワハラやら鉄拳制裁に抗議の声をあげた方が「大人数」になるとは限らず、むしろパワハラに抗議する方が「理不尽だ」となってしまうことが往々にしてあるからですね。人格否定して罵倒するような暴言を吐いたり、身体に傷害を負わせるような暴力行為を行うことは、いかなる理由においてもそれ自体が理不尽であるはずであって、あくまで契約の範囲内で業務に従事する職場関係においてそうした行為を行う人物は、無条件に「パワハラクソ野郎」と呼ぶに相応しいクソ野郎なわけですが、それを反転させてしまう力が組織にはあるわけです。

やられたほうも愛情の裏返しだと好意的に捉えることが不文律(2018年01月08日 (月))


特にパワハラOJTが職場の当たり前の風景になっている現状では、山本一郎氏のような発言のほうが支持を得やすいということなんでしょうね。

2019年02月10日 (日) | Edit |
すっかり更新が滞っておりましたが、こうしているうちにもいろいろなネタが転がっているもので、人の世は無常なものですなあなどと感慨深く見守っているとネタが貯まる一方です。ということで、前々回に引き続き倉重公太朗弁護士の対談シリーズにhamachan先生が登場されていまして、特に集団的労使関係についてのhamachan先生のご指摘に首がもげるほど首肯したところです。

濱口:ちょっと話は飛んでしまいますが、今回の同一労働同一賃金に限らず、前々から企業の意思決定の安全性、言い換えれば、何をどういうふうにしたら合理的だと認めてもらえる可能性が高くできるのかという問題意識は、もう10年以上前から論じられています。十数年前の労働契約法制研究会の時に出された過半数組合や労使委員会を使う案です。あのときは労働条件の不利益変更の問題でしたが、過半数組合や労使委員会がそれを認めた場合には、その不利益変更は合理的と推定しようという案でした。あれは結局実現しなかったのですが、少なくとも、一つの合理的な制度設計のありようだったと思うのです。ところが、あれをつぶしてしまったために、何をどうやっても、例えば多数組合とじっくり協議して納得させたけれども、一部に文句を言うやつが出てきて、裁判所に持って行ったら、文句を言ったほうが勝つという可能性は、常にあるのです。

倉重:そういうことですね。よく分かります。

濱口:私は一連の話だと思っているのです。私が同一労働同一賃金について、労使団体などいろいろなところでお話をさせていただく時に、必ず言っていることがあります。それは、何が合理的で、何が合理的でないかという判断基準は、やはり集団的な労使関係の枠組みで決めるべきだということです。まずはそこで働いている人たちの多数が合理的だと認めることが重要です

もちろん、それが最終的というわけにはいきません。司法が最終判断を下すわけですが、司法が判断するときに、労働者の多数が納得しているのだから、それは合理的だと認定することが望ましいのです。個人的には、十数年前に挫折したこの問題を、今回やる機会だったのではないかと思っていました。

【濱口桂一郎×倉重公太朗】「労働法の未来」第2回(「日本型」同一労働同一賃金の欺瞞(後編))(1/21(月) 6:00)
※ 以下、強調は引用者による。


この辺の感覚は労務の実務の現場を見ているかどうかで変わってくるかもしれませんが、最終的な裁判所の判断に委ねなければ賃金制度一つも使用者として安心して規定できないような法制度は、あまりに紛争リスクが大きすぎるわけでして、その紛争リスクを根源的に軽減するための方策が、労使の団体交渉による労働協約や過半数代表者との労使協定による合意形成です。民法における私的自治の原則は、労使関係においては憲法第28条に規定する労働三権とそれを具現化した労組法・労調法によって労使自治の原則が保障されているところでして、実際に労使の団体交渉による労働協約の効力は法令に準じ、個別の労働契約や就業規則にも優位するとされているわけです。

という日本における現行の法令に基づいて考えれば、労使の団体交渉(それがない場合の過半数代表者との労使協定)が労使自治を担うのは本来の役割なのですが、そこにはスポットが当たらず、「労働者が個々に経営者と交渉できるように労働者自身がスキルを身につけなければならない」という意識高い言説が支持を得るのが、日本型雇用慣行の隘路を端的に示しているように思います。職能資格給制度によって処遇される正規労働者にとっては、自分の処遇に反映されるのは年に1回程度の人事考課による職務遂行能力の査定であって、集団的労使関係で労働者側の取り分を増やしたところで他の誰かのメリットになるなら所詮他人事なんですよね。これが隘路たる所以は、次の回でhamachan先生が指摘されています。

倉重:多分大学だけではないでしょうね。中高ぐらいから、関係しているのかもしれないです。中高大学、今の日本の教育システムと、新卒採用の方式が、ガッチリかみ合ってしまっています

(中略)

濱口:鋭いといいますか、実は戦後日本の雇用問題の鍵になる言葉は「能力」なのです。先ほども同一労働同一賃金のところでお話しましたし、高齢者のところでも出てきました。つまり、全ては、「能力」という融通無碍(むげ)でいわく不可解な概念の中にあるのです。いろいろな人が「能力」という言葉の中に、いろいろな、自分が読み込みたいものを読み込むことができます。それはもちろんメリットもあって、何でも全部「能力」ということにできるから、物事がうまく回る面が間違いなくあったのは確かでしょう。ですけれども、逆に言うと、その「能力」という言葉に振り回されて、何をどうしたら「能力」があると認めてくれるのか分からないというのが、若者が置かれている状況です。もっと言うと、能力を見て採用を判断しているはずの企業側が、「あなた一体何を見て判断しているのですか」と言われても、思わず絶句してしまうわけです

【濱口桂一郎×倉重公太朗】「労働法の未来」第5回(若者の雇用と「能力」)(1/24(木) 6:00 )


いやまあ企業内の人事であれば「職務遂行能力」という融通無碍なタームに全てを放り込んで、それに基づいて給与を決めてしまえば「何でも全部「能力」ということにできるから、物事がうまく回る面が間違いなくあ」るということになるのですが、それはやはり高度経済成長期に組織が拡大し、労働力人口も増えている時期に「うまく回る」ものであって、総人口が減って役職で処遇することが難しくなっていくこれからの社会で、それが「うまく回る」可能性は今後さらに低くなっていくものと思われます。ところが、「職務遂行能力」なるものが企業内で機能しなければならないのは、入社する前の段階の教育で「職務」に必要な専門能力を身につけていないことの裏返しであって、それが変わらない限りは「職務遂行能力」に頼らざるを得ないというジレンマがあるわけですね。

ということで最終回につながるわけですが、最後にhamachan先生のご発言からトリビア的な話を取り上げたいと思います。

倉重:全くですね。よくこういうことを、例えば、解雇に関する解決金みたいな制度のこと、法制化のことを言うと、「じゃあ、そのお金はどうやって払われるんだ」みたいな議論も結構あるのです。この技術的な点は置くとして、例えば、「何ならもう労基署がいったん払いますよ。それから事業主に対して取り立てる、そういう仕組みにすれば誰でも簡単に受け取れるだろう」と思っているのです。あくまで技術的な問題は置いています。例えばの話です。

要するに取り立ての手間を本人に与えるなという話です。あとは、設計的には、雇用保険などから徴収してしまえばいいだろうというふうに個人的には思っております。そうなってくると、やはりわざわざ訴えて、また、今の制度であればなおさらです。仮に、例えば「何カ月分支給する」みたいな制度になったとしても、その履行を求めて提訴するみたいなことは、手間であることには変わりません。その手間を何とかしてあげないと意味がないでしょう。それが面倒くさいから、「もういいよ。さっさと転職する」、「泣き寝入りする」など、そういう人が一定数どころか、むしろ大多数います。それをなんとかできないかなと、個人的に常に考えています。国がそこを、支払いに関しては失業保険的に、労働者のためにやってあげようとできないかと思います

濱口:その発想は未払い賃金の立替払いみたいな話ですね。

倉重:正にそのイメージです。

濱口:今聞いていて、そのような感じがしました。

倉重:おっしゃるとおりです。それを拡大してできないかと思うんですよね。そうすると、労働者は何も手間なく、解雇の保証金的なものを受け取れます事業主に対する徴収もよいでしょう。もし回収できないで倒産してしまったところがあれば、それは税金負担になります。それは国として雇用社会を支えるのだということでいいのではないかと、個人的には思っているところです。

濱口:今初めて聴いたので、法技術的にどこがどういう権限でもって、何をどういうふうにやるのか、なかなか難しいかもしれないです。しかし面白い話です。

【濱口桂一郎×倉重公太朗】「労働法の未来」最終回(労働法は何を守るのか?)(1/25(金) 6:00)


hamachan先生は「初めて聴いた」とのことですが、実を言えば拙ブログではおよそ10年ほど前に

追記:
念のため、個別労働関係紛争処理の経費を労働保険特別会計で負担することの是非はよくわかりませんが、さらに議論を進めて、労働局による個別労働関係紛争処理に係属した場合に限り、解決金の一部を労働保険特別会計で負担するというような話になれば、それはそれで興味深い論点のように思います。

知らないもの勝ち(2009年11月15日 (日))

というようなことを書いておりまして、制度設計としてはだいぶ異なりますが、労働保険特別会計で解雇の金銭的解決に要する財源を確保しよう点では私も議論の進展に注目したいところです。

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