2020年05月24日 (日) | Edit |
世の中は公務員の定年延長が話題になっていますが、そもそも定年という仕組みがなぜジョブ型で規定されている国家公務員法に適用されなければならないのかという点の議論が必要と思われるところ、まあメンバーシップ型のいんちきネオリベしかいないこの国では、公務員の定年延長が恣意的だの何だのという観点からしか批判されないわけでして、内閣人事局を設置したときの議論を思い起こすと遠い目になってしまいますね。

 しかし、公務員改革の方向性をめぐる経産省と人事院の対立が激しくなっていくと、企画官は徐々に情熱を失っていく。省庁間の縄張り争いを「戦争」と表現し、最後には「私には公務員の相応しい人事制度とはどのようなものなのかついに分からなかった。しかし、もう時間が尽きてしまった」という言葉で回顧録を締めくくる。
 「これからどんなことが起こるのか、背筋が凍るような思いがした」。回顧録を読んだある民間職員は振り返った。
p.97

民党と公務員制度改革
(2013/07/17)
塙 和也


※ 以下、強調は引用者による。

(略)
世の中の利害当事者の立場を代弁するのが国家公務員ではあるのですが、その国家公務員自身が利害当事者となる公務員制度改革について、公務員なら当事者だから何でも言えるということではありません。業界なら業界団体が、消費者なら消費者団体が、民間の労働なら労働団体(労働組合)がそれぞれの立場を取りまとめるという過程が必要なのと同様に、国家公務員という労働者の利害をとりまとめるのは国家公務員の労働組合であるべきでしょう。そこに割って入ったのが、法律によって設置された事務局でもなく労働組合でもない一省庁の「裏部隊」であったら、その政策提案なるものが何を目指しているのか不審に思うのは当然のことだろうと思います。そういうことを平然とやってのける経産省の作法の悪さには辟易とするところですが、まあ集団的労使関係の再構築が課題とすらされないようなこの国の状況では、むしろ「民間感覚のカイカク!」を気取る経産省のやり方の方が好意を持って受け止められるのでしょう。引用部で事務局の対立を生んだとされる古賀氏が、一時メディアでもてはやされていた状況がそれを物語っていると思います。

でまあ、本書で記述されているような状況を踏まえると、真に必要な改革を阻んでいるのは人事院をはじめとする複雑怪奇に入り組んだ公務員の人事制度であることは言を俟たないと思うのですが、この点においても重要なのは、この国の集団的労使関係の再構築と並行して公務員の労働基本権を回復させることにあるはずです。人事院の言い分の不自然さは本書で指摘されているとおりであるとして、そうであればこそ、人事院の設置根拠となっている公務員の労働基本権の制約を取っ払うことが人事院の息の根を止めるクリティカルな方法です。そこには手をつけずに「カイカク」ばかり叫んでいるから実現すべきことも実現できないのではないかと思うところです。

一括採用の幻想(2014年02月23日 (日))

官僚の人事に政治家が関与すべきという風潮に乗った経済産業省の「裏部隊」によって、公務員の人事制度はどうあるべきかという議論を深めることもなく設置された内閣人事局が喝采をもって賞賛される一方で、職能資格給制度の終着点である定年という一点において政府の関与はけしからんという「民意」が政府を動かしているというのが、ずぶずぶのメンバーシップ型の日本型雇用慣行が広く浸透したこの国の現状ということなのでしょう。

前々回エントリでも、

一点目はジョブと定数を連動させることとし、単に前年度比いくら減ったと一喜一憂するような定数管理をやめるということですし、二点目はジョブに従事するための専門職型公務員の導入ということで、前回エントリの付記2で引用したhamachan先生のご指摘を具現化したものといえます。まあまっとうな考えができればそうなるわけですが、個人的にはもう一点付け加える必要があると考えています。

つまり、これまでの繰り返しになりますが、

日本の現場では長らく「全体最適」がマジックワードとなっていて、「それぞれが自分の担当に閉じこもってしまう部分最適ではダメだ。全体最適を目指すべきだ!」といえば、何か言った気になることができる風潮があります。おそらくそこには、専門的な見地は局所的な視点に陥りがちだから、全体を俯瞰して判断しなければならないという、それ自体は誠にもっともな理屈があるのでしょうけれども、その裏には「職能資格を積み重ねた上司の判断に従う」という日本型雇用への信頼があるものと思われます。しかしそれは、専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうという危険性を孕むものと思われます。

「全体最適」なる合理主義(2020年02月27日 (木))

というように、組織規範としての職務遂行能力を身につけ、組織内政治に長けて職能資格給制度を昇進していった上司は、「専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうという危険性を孕」んでいるわけでして、専門性を持ちながらジェネラリストよりも賃金水準が低い職員のいうことを素直に聞き入れるとは限りません。というより、そうした組織規範に則った意思決定が是とされる風潮が変わらなければ結局、役所という組織の公共サービスの質が向上することはないでしょう。

ジョブ型でサービスが回り始める(2020年05月05日 (火))

と指摘しておりましたが、公的サービス(検察庁人事は公的サービスの中でも高い専門性と刑法の適用という特殊性があるものの)の質をどのように確保して実効性のある行政を確保するかという観点からいえば、定年で有無を言わせず退職させることの是非を問うことが前提ではないかと考えます。そして、年功的に運用される職能資格給制度において組織を維持するためには、職務無限定で新卒を一括採用し、アサインするために上位の職を順番に空けて…、という玉突きにより、全職員を対象に人事異動する仕組みが必要であり、定年はその終着点となりますので、定年の是非はメンバーシップ型の職務無限定の新卒一括採用や人事異動の是非とも直結します。

もちろん、そうしたずぶずぶのメンバーシップ型の人事制度が当然とされる風潮が日本型雇用慣行の堅牢さを物語ってはいるのですが、日本の労働組合やその支持を受ける日本型リベラル政党が、ことあるごとに「戦時体制」を引き合いに出して政府を批判する一方で、戦時体制の賃金制度を継承している職能資格給制度を金科玉条の如く護持しようとするのはどのように理解したらよいのか、不思議に思いますね。

(1) 生活給思想と賃金統制

 明治期の流動的な労働市場では、勤続年数に応じた年功賃金制など存在しなかった。日露戦争や第一次大戦後、子飼い職工たちを中心とする雇用システムが確立するとともに、長期勤続を前提に一企業の中で未熟練の仕事から熟練の仕事に移行していくという仕組みが形成され、それに対応する形で定期昇給制が導入された。これが年功賃金制、年功序列制の出発点となる。しかし、これは大企業の基幹工にのみ適用された仕組みで、臨時工や請負業者が送り込む組夫はそこから排除されていたし、多くの中小企業も労働移動が頻繁な流動的な労働市場で、年功的ではなかった。
 1930年代には、政府の中から、賃金制度を合理化して、職務給に一本化すべきだという思想が出てきたが、日中戦争から太平洋戦争へと進む中で、賃金制度は全く逆の方向、すなわち全員画一的な年齢給の方向に向かった。
 生活給思想を最初にまとまった形で提唱したのは、呉海軍工廠の伍堂卓雄である。1922年に彼が発表した論文は、従来の賃金が労働力の需給関係によって決まり、生活費の要素が考慮されなかったことを、労働者の思想悪化(=共産主義化)の原因として批判し、年齢とともに賃金が上昇する仕組みが望ましいとしている。…この生活給思想が、戦時期に賃金統制の形で現実のものとなる。
pp.626-627

(2) 電産型賃金体系とその批判

 賃金制度は、戦時中の皇国勤労観に基づく政策方向が、戦後急進的な労働運動によってほとんどそのまま受け継がれていった典型的な領域である。
(略)
 このように、当時占領軍や国際労働運動の勧告は年功賃金制を痛烈に批判していたのだが、労働側は戦時中の賃金制度を捨てるどころか、むしろそれをより強化する方向で闘い、年功賃金制度が普及していった。これに対して、政府や経営側は「仕事の量および質を正確に反映した」職務給制度の導入を訴えていた。実際、1948年の国家公務員法では、この考え方に基づいて職階制が導入されているが、これは実際には骨抜きになった。
p.628

日本の労働法政策
定価: 3,889円+税
2018年10月30日刊行 A5判 1,074頁
濱口桂一郎[著]
ISBN978-4-538-41164-4

「戦前の日本軍が暴走したために戦争へ突き進んだ」というのはほぼ共通認識といっていいと思うのですが、その軍隊組織の人事制度を頑なに受け継いで、労働者の思想悪化(=共産主義化)を阻止する意図を持って提唱された生活給思想を護持しているのが日本的リベラルの方々なんですよね。

 これまで述べてきたように、職能資格制度は、軍隊の制度と似ていた。そして、この報告書(引用注:1969年の日経連『能力主義管理—その理論と実践』)を書いた大企業の人事担当者たちも、それに自覚的だった。巻末付録の匿名座談会で、彼らは以下のように話し合っている。

C われわれの職能資格制度、私は旧陸・海軍の階級制というのはまさにそれじゃなかったかと思うんです。少尉、中尉、大尉という階級は職能的でしたよ。

(略)
 だが、彼らは、重要な点を見落としていた。彼らが軍隊にいた時期は、戦争で軍の組織が急膨張し、そのうえ将校や士官が大量に戦死していた。そのためポストの空きが多く、有能と認められた者は昇進が早かった。彼らが述べている「10年たってまだ中尉の人ももう少佐の人もいた」「同じ少尉でも中隊長もいるし、大隊長もいた」という事態は、戦時期の例外現象にすぎなかったのである。
pp.486−487

製品名 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学
著者名 著:小熊 英二
発売日 2019年07月17日
価格 定価 : 本体1,300円(税別)
ISBN 978-4-06-515429-8
通巻番号 2528
判型 新書
ページ数 608ページ
シリーズ 講談社現代新書

『能力主義管理』はいうまでもなく日本型雇用の1960年代の到達点ですが、その中において、軍隊組織との類似性が当事者によってはっきりと語られていたわけですね。そしてそれは、戦前の軍隊組織の例外的な時期と高度経済成長の終焉が間近に迫った1960年代後半という時期の時代的背景との類似性でもあったわけで、その後両者がたどった道も類似しているといえそうです。

日本の労働者が理解した戦後民主主義(2019年09月29日 (日))

戦時体制を批判する方々は「新しい生活様式」にも異を唱えているようなのですが、

 ぼくは以前から「日常」とか「生活」という全く政治的に見えないことばが一番、政治的に厄介だよという話をよくしてきた。それは近衛新体制の時代、これらのことばが「戦時下」用語として機能した歴史があるからだ。だからぼくは今も、コロナ騒動を「非戦時」や「戦争」という比喩で語ることの危うさについても、一人ぶつぶつと呟いているわけだが、それは「戦争」という比喩が「戦時下」のことばや思考が社会に侵入することに人を無神経にさせるからだ。例えばコロナへの医療対応を「コロナとの戦争」と比喩した瞬間、そこには「前線」と「銃後」のような構図が成立し、「#医療関係者にエールを」と呼びかけるのは正しいことなのかもしれないが、そこに「兵隊さんありがとう」に似た不穏な響きをぼくは感じてしまう。

 と、このように書き始めれば、何でも戦争に結びつけいかがなものかと言う、サヨクのいつもの手口だろうと反発する人々も少なからずいるだろう。しかし、このような「非常時」の「日常」、「銃後」の「生活」を政治が言い出すとき、碌なことにはならない。そのことはやはり歴史を振り返れば明らかなのだ。

大塚 英志「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち(2020年5月22日更新)」(webちくま)

現状において、「「非常時」の「日常」、「銃後」の「生活」」であった賃金統制が生活給思想を現実のものとし、戦後の労働運動がそれを保持し、労使の合意により職能資格給制度として「日常化」しているわけでして、それを批判するサヨクがいらっしゃるのであれば、それはそれで一貫した考え方だと思います。まあソーシャルに欠ける日本的リベラルとしてのサヨクの方々は、その存在そのものが一貫性を欠いているわけでして、それもまた日本型雇用慣行の堅牢さを支えているのでしょうけれども。
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2020年05月05日 (火) | Edit |
ここ数か月アップできていなかったエントリをCOVID-19関連の話題にかこつけて一気にアップしたところですが、実は最初にアップしようとしていたのは『POSSE vol.44』の非正規公務員の記事でした。というのも、前回エントリの付記2でちらっと指摘した会計年度任用職員を含めて公務員の意思決定が歪んでいる実態がありまして、それについて記録しておくことでこの頃流行りの退職エントリとしておこうかという魂胆です。

その題材として『POSSE vol.44』の上林氏の記事に大変示唆的な記述がありまして、

現場を知らない正規と、決定権限のない非正規への二分化

 非正規化や民営化が進むことで、「正規公務員の仕事は公権力行使の仕事」というように発想が転換していきます。つまり、決定や処分をすること、生活保護なら支給を決定するとか廃止するのが公務員の仕事であって、支援対象となる住民と直接接触するのは公務員の仕事ではないとなっていきます。住民と直接かかわることは民間ないしは公権力行使に携わらない身分である非正規にやらせておけばよいとなるのです。新自由主義化と公権力行政化は同じトラックを走っています。
 一例を挙げると、生活保護の申請者の状況を一番知っているのは非正規ケースワーカーなのに、彼らはケース判定会議には参加させてもらえていないのです。それから婦人相談員の例でも、DVに遭って逃げてきた女性に面接をしてアセスメントしているのは直接接触している女性相談員なのですが、いざ一時保護の決定をするための会議には参加できない。
 このように、現場の業務と決定・処分が分離してくることによって、正規公務員が現場の様子を知らない、わからないという状況が広がっています。
(略)
 …ある児童相談所の課長からうかがった話によると、正規として公務員に入ってくる人で、児童相談所を希望する人はまずいない。あるいは、ケースワーカーとして福祉事務所に来るという人はまずいない。難しい公務員試験のために予備校にまで通って入ってくる人たちのなかには、「貧乏人を世話するのは自分たちの仕事じゃない」と本当に思っている人も多いのでしょう。
 だから、「三年経ったら必ず他に異動させるから」という約束がなければ人が入ってこない。そうすると、生活保護受給者や生活困窮者に対応するケースワーカーや、児童虐待に対応するソーシャルワーカーのようjな臨床経験を必要とするところは、業務経験が三年以下の正規公務員だけだと「素人」ばかりになってしまうので、資格があり長い経験を持つジョブ型雇用の非正規の人たちが重宝されるのですね。だから雇い止めもできない状態になっている。さりとて正規化もできない。
pp.31-33

上林陽治「公務員の非正規化がもたらす行政現場の歪み」

POSSE vol.44
発行:堀之内出版
A5判 168ページ 並製
価格 1,400円+税
ISBN978-4-906708-83-3CコードC0036
初版年月日2020年4月3日


役所というところは「理屈」がなければ動けないところですので、非正規を増やして仕事を割り当てるためには「正規公務員は公権力の行使という地方公務員法24条に規定する「職務と責任」を持ち、それによって職務給の原則の建前の下、職能資格給制度の適用を受ける必要があり、従って職務と責任に職務遂行能力を獲得するため異動する」という理屈によって、正規公務員と非正規公務員の処遇の差を説明してきました。これを突きつめていくと、役所の現場では上林氏が指摘するような事態が発生します。つまり、正規公務員は公権力を行使するための職務遂行能力を獲得せねばならず、その職務遂行能力は異動によって複数の部署を経験することによって獲得されるのだから、真に対象者と接する現場を知る必要なんかないわけです。メンバーシップ型がトートロジカルに運用されていることは以前も指摘しておりましたが、

4 長期雇用と「職務遂行能力」

ここで注意が必要なのは、組織の規範とは別に独立しているスキルに習熟した労働者が、積極的に「職能資格」の枠の外に置かれたということです。それは長期に固定化する人件費を抑制したいという使用者側の思惑に応えると同時に、テンポラリーな労働者と常用労働者との代替を防止するというメンバーシップ型労働者(とそれを維持したい日本的左派の方々)側の思惑にも応えるものでした。
(略)

5 「職能資格」と規範の内部化

さらに注意が必要なのは、「職能資格」は採用時から連綿と積み重なるものであって、メンバーシップにおける管理職としての適性はその「職能資格」によって裏打ちされるという運用になっていることです。「運用」という言葉を使ったのは、結局「青空の見える労務管理」とは上層部にいたる道を通すだけで、その道を通る資格は労働者が自ら獲得するという建前は堅持しているからです。つまり、制度として道は通すが、そこを通るための「職能資格」を獲得するためには、労働者自らがメンバーとしての規範を身につけなければならないということです。

もちろん「職能資格」が同一組織内でのみ獲得されるものであるため、少なくとも採用時のスタート時点ではすべての正規労働者に等しく与えられますが、それを「長期雇用による経験」によってどこまで積み重ねられるかは正規労働者個々の適性と成果に応じて決まるわけです。しかもその「長期雇用による経験」は強大な人事権として使用者の裁量に任されているわけですから、積み重なる「職能資格」がつまるところジョブローテーションによって獲得される以上、人事異動を含むジョブローテーションによってどれだけ組織の規範を内部化するかが重要になります。平たくいえば、「デキる社員は出世コースを異動する」ということですが、これはメンバーシップ型がトートロジーによって成り立っていることを見事に示した言葉でもあります。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))

トートロジーを通り越して本末転倒な運用がされているのが役所の実態といえそうです。もちろん、役所と同様にメンバーシップ型が高度に発達した大企業では多かれ少なかれ生じている現象だろうと思いますが、民間の労働法規が適用除外された非正規公務員が従事する業務にそのひずみが集約されているということかもしれません。

この状況に対して上林氏が示す処方箋は、

 正規公務員の皆さんから猛反発を受けることを覚悟で申し上げると、まず定数管理をやめてしまうということです。…新しい行政需要が生じたら、人件費の範囲内で正規として雇っていくというようにしないと、いつまでも新しい行政の仕事や新しい需要に対して対応できず、定数外の非正規公務員や低賃金の民間委託労働者に丸投げすることになる。
 もうひとつは、正規化するにも一工夫必要で、異動が前提のジェネラリスト型公務員をいくら増やしても公共サービスの質は上がりません。ジョブ型の正規公務員、つまり異動限定の専門職型公務員の採用類型を本気で考えるべきです。
(略)
 でも、これを本気でやろうとしたときに最も抵抗するのはおそらく正規公務員組合でしょうね。正規公務員という身分に賃金が支払われていた状態から、異動をせず一つの仕事に従事して、その分だけ賃金水準が低い人を使った方が公共サービスが回り始めるのですから。
p.36
上林陽治「公務員の非正規化がもたらす行政現場の歪み」POSSE vol.44

一点目はジョブと定数を連動させることとし、単に前年度比いくら減ったと一喜一憂するような定数管理をやめるということですし、二点目はジョブに従事するための専門職型公務員の導入ということで、前回エントリの付記2で引用したhamachan先生のご指摘を具現化したものといえます。まあまっとうな考えができればそうなるわけですが、個人的にはもう一点付け加える必要があると考えています。

つまり、これまでの繰り返しになりますが、

日本の現場では長らく「全体最適」がマジックワードとなっていて、「それぞれが自分の担当に閉じこもってしまう部分最適ではダメだ。全体最適を目指すべきだ!」といえば、何か言った気になることができる風潮があります。おそらくそこには、専門的な見地は局所的な視点に陥りがちだから、全体を俯瞰して判断しなければならないという、それ自体は誠にもっともな理屈があるのでしょうけれども、その裏には「職能資格を積み重ねた上司の判断に従う」という日本型雇用への信頼があるものと思われます。しかしそれは、専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうという危険性を孕むものと思われます。

「全体最適」なる合理主義(2020年02月27日 (木))

というように、組織規範としての職務遂行能力を身につけ、組織内政治に長けて職能資格給制度を昇進していった上司は、「専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうという危険性を孕」んでいるわけでして、専門性を持ちながらジェネラリストよりも賃金水準が低い職員のいうことを素直に聞き入れるとは限りません。というより、そうした組織規範に則った意思決定が是とされる風潮が変わらなければ結局、役所という組織の公共サービスの質が向上することはないでしょう。

ということで、私なりの退職エントリの結論は、日本型雇用慣行にどっぷり浸かった組織である限りにおいて役所のサービスの質が下がることはあっても向上することは望めないだろうという点にあります。現在の職場がモノカルチャーのサービスを提供していることもあって、まさにジョブ型雇用の世界となっておりまして、現状でも地場ではかなりサービスの質が高いほうだと認識しておりますが、これをさらに向上させることが私のMissionとなっています。メンバーシップ型にどっぷり浸かって仕事をしてきた身としては慣れない部分もあるのですが、このMissionを実践していきたいと考えています。

2020年05月04日 (月) | Edit |
さて、一律10万円給付については経済学的に正しい議論としてすんなり決まってしまい、この機に乗じて「すわ、ベーシックインカム待ったなし」と盛り上がっている方面もあるようですが、すっかりほとぼりは冷めてしまったものの、こんな発言もありましたね。

広島県知事 「県職員の10万円活用」を撤回 新型コロナ(2020年4月22日 16時09分 NHK NEWSWEB)

広島県の湯崎知事は、10万円の一律給付をめぐって、県職員が受け取った分を県の新型コロナウイルス対策の財源に活用したいとしたみずからの発言について、「適切なことばではなかった」と述べて、事実上、撤回しました。

現金10万円の一律給付をめぐって、広島県の湯崎知事は21日、県職員が受け取る分は寄付してもらい、県の新型コロナウイルス対策の財源に活用したいという意向を示し、「職員の財産に手を突っ込む行為だ」などと批判が高まっていました。

これについて湯崎知事は、22日午後、記者団に対し「国の給付金を強制的に提出させるかのように受け止められているが、それは誤解だ。給付金は、もともと職員が受け取るものだと思っている。撤回というか、適切なことばではなく、まさに私のことばが悪かった」と述べて、事実上発言を撤回しました。

そのうえで、湯崎知事は、発言の真意について「感染拡大の防止など、やらなければいけないことが山積し、さまざまな事業の見直しなどで財源を確保する必要があり、県職員にも協力をお願いすることも、選択肢の1つになるという趣旨だった」などと述べ、今後、給与削減も含めた広い意味で職員に協力を求める可能性に触れたものだったと釈明しました。

※ 以下、強調は引用者による。

撤回かと思いきや「今後、給与削減も含めた広い意味で職員に協力を求める可能性」とのことでより踏み込んでいますね。というわけで、ベーシックインカムといえばスピーナムランド制度の歴史について、権丈先生のご指摘を改めて熟読玩味する必要がありそうです。

週刊東洋経済2010年3月6日号

 1790年代,革命後のフランスとの戦争の最中,イギリスでは,凶作とインフレが農村の困窮と社会不安を高めていた.そこで1795年,バークシャー州の治安判事たちはスピーナムランドにあるペリカン・インという宿屋で総会を開き,貧困と低賃金をめぐる斬新な対策を全会一致で採択した.その対策とは,パンの価格と世帯の規模に反応するスライド規定を用意して,働いていても最低所得を下回る家庭には,教区(キリスト教会を通じた行政単位)が最低生活費の不足分を自動的に支給する制度であった.この制度は,人々の大きな期待を受けて翌年には各地に拡がっていく.
 ところが,この制度の現実の機能を見ると,善意と誠意に発した立案者たちの主観的意図から大きく外れ,いたずらに救貧地方税の負担を膨張させてしまった.さらに企業側からは単なる賃金補助と受け止められて低賃金が温存され,労使間にあった細々とした紐帯をも断ち切ってしまう.…
 さて,善意が裏切られたときの,納税者たちの反応はどうであったか.「補助金によって増大する人口」を攻撃したマルサスの「人口論」が初版(1798年)以来,広範囲に支持されていく.そしてスピーナムランド制度が誕生して39年後の1834年,この制度は廃止され新救貧法——保護される者は自立して生きる労働者の最下層の生活よりも劣るべきとする「劣等処遇原則」と,労役場の中だけでしか貧民に対処しないとする「院外非救済原則」を徹底させた制度——が誕生する.これはスピーナムランド制度以前の救貧法より貧困者に厳しいものであった.
p.308-9

ちょっと気になる政策思想
社会保障と関わる経済学の系譜

権丈 善一 著
ISBN 978-4-326-70106-3
出版年月 2018年8月
判型・ページ数 A5判・376ページ
定価 本体2,300円+税


スピーナムランド制度の行き詰まり後に実現した新救貧法は、「必要な人にだけ必要な分を支給すればよい」という選別志向が徹底され、スピーナムランド制度以前の救貧法よりもより厳しくなったわけですが、2世紀以上も前のこととは思えないほど同じような議論が聞こえてくるのは気のせいでしょうか。

とまあ、スピーナムランド制度当時の使用者と同じ発想をする方が県知事を務めるという現状において、緊急事態宣言に基づく具体的な措置は知事の権限とされているわけですが、さて彼ら(橋下氏の政治家としての活動は大阪府知事から始まっていますし、広島県知事はあの通産省出身ですね)が唱える「補完性の原理」に基づいてどのような結末がもたらされるか、注視する必要があるといえましょう。

一部で地方分権問題の関連でEUの補完性原理が取り沙汰されているようですが、

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-92.html

ヨーロッパの文脈で言う限り、補完性原理をかざして地方分権を主張し、中央集権に否定的なのはキリスト教的保守勢力の側で、労働組合や社会民主党といった陣営はおおむね中央集権派です。地方なんかに任せたら地方のボスが勝手なことをするから、ちゃんと国がコントロールしなくちゃという発想。

「補完性の原理についてごく簡単に(2008年5月20日 (火))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

まあ、この国で地方分権やら地域主権やら地方創生を熱烈に支持するのは労働組合やそれに支持される日本的左派政党であるところからすると、地方のボスが勝手なことをするほうがウケがいいのかもしれませんね。

2020年04月20日 (月) | Edit |
海老原さん関連で引き続きとなりますが、ニッチモの『HRmics vol.35』をご恵投いただきました。いつもありがとうございます。hamachan先生ブログでもご紹介されていた通り、テーマが「あいまいな、日本の、労と使」ということで、いよいよ海老原さんも集団的労使関係に本格的に取り組み始められたのかと感慨深く拝読しました。

もちろんそこは海老原さんのことですから、拙ブログのような労働組合法が複数組合を認めているから交渉力が低下しているとかの細かい話ではなく、欧米で産業をまたいだ横の仕組みとして労働組合が形成され、企業内の立野仕組みとして「従業員代表制」や「経営協議制」が形成された歴史を踏まえ、現在の日本でそれらをどのように組み合わせるべきかを検討されており、集団的労使関係の再構築をお題目のように唱えている者としても蒙を啓かれる思いで拝読した次第です。

という本誌では、冒頭でhamachan先生のこれまでの連載を振り返り、労働組合と従業員代表制の関係という視点でドイツ、フランス、スウェーデンの集団的労使関係の制度と実態についての考察が続きます。この部分は、hamachan先生が「そこにいろいろと情報を注入しているのはJILPT軍団です」とご紹介されている通り、JILPTの研究成果が基になっているだけに、制度とその実態がいかにうまく機能し、いかに制度の趣旨と乖離しているかが丁寧に説明されています。その部分は本誌をご覧いただくとして、その各国の現状を踏まえた海老原さんの結論部分にはなるほどと唸らされました。

 従業員代表制がどういうものか、未だに理解ができない読者が多いのではないか。とりわけ、従業員代表と使用者とで「共同経営(意思決定)する」という言葉が気にかかるだろう。
 欧州の労働環境は日本と大きく異なり、こうした言葉が必要な社会的素地がある。…
(略)
 飜って日本においては、末端社員に至るまで経営のあれこれを進んで理解しようとし、社内に閉じる組合も協調路線で経営に寄り添っている。解雇なども組合が対応をする。就業規則の変更や労働基準行政、各種委員会開催も「過半数組合」があれば、それで何とかうまくいく。つまり欧州の従業員代表制の多くを労働組合が代行できている。
 この上さらに常設型の従業員代表委員会のようなものがなぜ必要なのか。機能論に走る前に、その根本を考えないといけないだろう。

HRmics vol.35』p.25

その根本について、海老原さんは日本の労働組合の問題を、加入率が低いことと賃上げが進まないことの2点に集約されます。一見単純化されすぎていてもっと深い問題があるのではないかと思ってしまいますが、その先を読み進めると、複数の組合が企業内で多層的に活動することによって組合間の競争を促し、加入率を高めることが一つの方策として示されます。つまり、複数の組合がそれぞれの分野で競争し合い、加入率を高めることで交渉力を上げて賃上げにつなげるという経路で、2点の問題が一本に繋がるわけですね。私などは、労働組合が複数組合に分裂することで交渉力が低下すると単純に考えてしまうのですが、そこに従業員代表制を組み込むことで、逆に交渉力を高める方向に展開させるという構想に唸らされた次第です。

とはいえ、この多層的な役割を果たせるだけの組合が現状でどの程度あるのか、特に当方のような地方ではナショナルセンターに名を連ねる単組のレベルに違いがありすぎて、うまくいくところとそうでないところの差が大きくなりそうな気もします。まあそれは私の個人的な印象ですし、本誌で示されている海老原さんの提言は生々しい現実を反映した内容となっていますので、私も参考にさせていただきたいと思います。

2020年02月29日 (土) | Edit |
前回エントリの最後で「新型コロナウイルスをめぐる昨今の政府対応などはとても参考になります」などと書いたところですが、混乱はいや増すばかりでして、こうなると冷静な議論が難しくなってしまいますね。いやまあ、そういう状況に陥ったこと自体が政府の手際の悪さだと言えばその通りなのでしょうけれども、こういうときこそ努めて冷静に議論するという心構えも必要だろうとは思います。

ただし、なぜそんな事態に陥るような拙速(と思われるよう)な判断が行われたかというのを邪推してみますと、霞ヶ関方面から


というtweetが流れてくるのを目にするにつけ、政府官邸に巣くう経産省のお行儀の悪さが容易に想像されますね。

なお、話はそれますが、宇佐見氏のキャリア官僚についての説明はさすが中の人と思いますが、農水省に根回しなしに農商工連携とか言い出すあたりに経産省特有のお行儀の悪さが全開で、だから経産省不要論が絶えないんだろうなと思うところです。以前経産省が地方交付税の研究会を開催しているのを見てなんのこっちゃと思ったら、地方交付税の仕組みが企業活動に影響を与えるから経産省としても何かいわなければならないとか(いう趣旨が)書いてあって、つくづく総定員法の弊害を感じたものです。権丈先生のこちらもご参照あれ。
「不磨の大典”総定員法”の弊」『週刊東洋経済』2010年10月16日号

「日本型雇用慣行=グローバル競争?(2013年05月08日 (水))」

という、やることがなくてド素人の分際で専門家の分野に入り込んでドヤ顔で勝手なことを始めるいかにも経産省マインドの持ち主であるわけでして、総定員法の弊害というのはこういうことです。

 結果、行政需要が増えゆく府省の人員は余裕を失っていく一方、行政需要が減少する府省では人員が余り、仕事を求めて活発に動き始める。そうした力学が強く働いていることを感じるのは、この6月に医療ツーリズムをはじめとする医療の営利事業を提案した経済産業省『医療産業研究会報告書』を眺めたり、かつて同省、その前身の省が年金の民営化や基礎年金の租税方式化を唱えていたことを思い出す時である。

権丈善一「不磨の大典”総定員法”の弊」『週刊東洋経済』2010年10月16日号

こういう余計なことをしている省庁には、なぜ厚労省がオーバーワークになっているかなんて想像もつかないのでしょうけど、その根底には日本型のメンバーシップ的な雇用慣行も影響していそうです。

「厚労省の仕事がオーバーワークではないか」野田聖子氏(2014年5月23日20時46分 朝日新聞)

少子化・超高齢化社会になると、どうしても政策の主要な課題は社会保障に集中している。私が内閣府特命担当大臣の時に、厚生労働大臣が信じられないぐらいの想定問答集を持ってきた。予算委員会では財務相よりむしろ厚労相に質問が多かった。今も変わっていないし、むしろ増えた。厚労省の仕事がオーバーワークではないか。少しパターンを変えた方がいいのかなと言う気がする。国民の懸案事項は経済の次は社会保障、年金と続く。役所の仕事もかなり多くなっているし、議員立法も厚労省関係の福祉とか医療とか社会保障関係は多い。相当、仕事を増やしている。厚労省を批判したところでミスは減らない。(厚生労働省のミスで国会審議が滞ったことについて、記者会見で)

(略)
問題は、それなら仕事の少なくなった役所の人員を減らして、仕事がやたらに増えたところを増やせばいいではないか、というごく当たり前の理屈がなかなか通らないことでしょう。

それこそ、仕事に人をつけるジョブ型じゃなくて、人に仕事を割り当てる日本的システムの弊害が露呈しているところかもしれません。

昔のように業界振興が天下国家の至上命題だった時代の省庁人員配置をそのままに、社会労働関係の増えた政策需要に対応しようとすると、一方にオーバーワーク、一方にアンダーワークという状態が生じてしまいます。

正確に言うと、仕事が減ったからといってもおとなしくしている役所もあれば、仕事がないと不安なのか、自分のところのジョブディスクリプション(○○省設置法)なんか無視して、よその役所の課題にばかり口を挟みたがる熱心な役所もあったりしますが、でも、それが当該課題をジョブディスクリプション上で所管する役所のオーバーワークの解消に繋がるかというと、逆にますます余計な仕事を増やすだけになったりするので、なかなか大変ですね。

単なる雑感です。

「雑感(2014年5月24日 (土))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))


「メンバーシップな経産省」(2014年05月29日 (木))

経産省的な意思決定が跋扈する政府〜霞ヶ関方面の現状を見ると、現在の日本型雇用のあり方がよりはっきりと見えてくるように思います。

昨年末のエントリで、

個人的にメンバーシップ型のデメリットは、上記のように「組織規範に忠実な社員」によって公的機関や主要な産業が組織されるというトートロジカルな雇用慣行が社会規範化することで、技術革新的なビジネスモデルが日の目を見ることなく、専門性に裏打ちされた政策が採用されることもない社会となっていることだと考えております・・・

ジョブ型公務員と職業資格(2019年12月05日 (木))


と指摘したことに関連しますが、日本型雇用慣行において意思決定を行うのは、職能資格給制度を核とする日本型雇用において職務遂行能力を積み重ねたベテランであって、その職務遂行能力は「組織規範に忠実な社員であること」とほぼ同義です。つまり、日本の組織における意思決定は「組織規範に忠実な社員」、具体的にはそれを評価されて偉くなった「管理職」によって「組織規範」を最優先の基準として行われるため、専門性の優先順位はそれほど高くありません。専門性に基づく意思決定が行われない(か、それほど重視されない)わけですから、専門性を有する職員はディシジョンメーカーにはなり得ず、だからこそ職務遂行能力があるとは認められず、その多くは職能資格給制度によって処遇されない非正規労働者になっていくわけです。

「博士」生かせぬ日本企業 取得者10年で16%減 世界競争、出遅れも(日本経済新聞 2019/12/8付)

世界は新たな「学歴社会」に突入している。経営の第一線やデジタル分野では高度な知識や技能の証明が求められ、修士・博士号(総合2面きょうのことば)の取得が加速する。主な国では過去10年で博士号の取得者が急増したのと対照的に、日本は1割以上減った。専門性よりも人柄を重視する雇用慣行を維持したままでは、世界の人材獲得競争に取り残されかねない
(略)
経団連は毎年、加盟各社が「選考時に重視した点」を調べている。上位を占めるのは「専門性」ではなく、「コミュニケーション能力」など人柄に関する項目ばかりだ。

入社後も専門性は評価されにくい。30歳前後の平均年収を比べると、日本の学部卒人材が418万円なのに対し、修士・博士の大学院卒は524万円。その差は1.25倍だ。米国の修士の平均年収は763万円で、学部卒の1.4倍を稼ぐ。博士では915万円と1.68倍まで開く。

高学歴者に高収入で報いるのは、世界の常識だ。社会学者の小熊英二・慶応義塾大学教授は「グローバルの人材評価基準から日本市場は隔絶されている」と指摘する。倍以上の年収で外資に転じる博士が後を絶たないのは、国内企業の待遇の悪さの裏返しだ。

「社会」に出ても稼げないため、日本では博士号を保持する研究者の75%が大学などに所属する。日本では1990年代に政府主導で博士を増やしたが、雇用が不安定なポスドク問題を生み出した。科学技術振興機構の永野博研究主幹は「企業に採用される人材を、大学側が育ててこなかった面もある」と話す。

※強調は引用者による。


「大学が企業に採用される人材を育ててこなかった」という話も紹介されていますが、「組織規範」に忠実な「コミュニケーション能力」に長けた人材育成は日本の大学の得意とするところでして、「組織規範」では評価されない専門性を持った人材が日本型雇用に浸かりきった日本企業を見限っているというべきでしょう。

おそらく普通の日本型雇用に浸かりきった方にとって、「組織規範」とは組織として責任のある行動の基準となるものと認識されていると思われます。日本型雇用慣における正規労働者は、採用されたばかりの新人のころから「社会人としての責任を果たせ」としつこく教育されることになりますが、そこで(組織規範を内部化した)上司から叩き込まれるのが「組織規範」ですね。とはいえ実際のところ、とりわけゲゼルシャフトたる会社組織における規範に従ったところで社会人としての責任が果たされるとは限らないはずですが、だからこそ「組織としての責任のある行動の基準」をフィクションとして設定する必要が生じます。そのフィクションが現実を飲み込んでしまっている様が、現在の政府〜霞ヶ関方面を見ているとよくわかります。もちろんそれは、日本型雇用にどっぷり浸かりきった我々にも切実な問題なのですが、そのような意識を持っている方があまり見当たらないところが本当の問題なのかもしれません。

(追記)
本エントリは2月29日(土)の総理会見の数時間前にアップしたものでしたが、総理会見もまさに「専門性を徹底的に排除した」内容となっていましたね。

そして、現状においては、感染の拡大のスピードを抑制することは可能である。これが、今週発表された専門家の皆さんの見解であります。そのためには、これから1、2週間が、急速な拡大に進むか、終息できるかの瀬戸際となる。こうした専門家の皆さんの意見を踏まえれば、今からの2週間程度、国内の感染拡大を防止するため、あらゆる手を尽くすべきである。そのように判断いたしました。
(略)
そして、全国すべての小学校、中学校、高等学校、特別支援学校について、来週月曜日から春休みに入るまで、臨時休業を行うよう要請いたしました。・・・それでもなお、何よりも子供たちの健康、安全を第一に、多くの子供たちや教職員が日常的に長時間集まる、そして、同じ空間を共にすることによる感染リスクに備えなければならない。どうか御理解をいただきますようにお願いいたします。

「安倍内閣総理大臣記者会見」(令和2年2月29日)

確かに「専門家の見解」を基に判断しているようには見えますが、ではなぜその専門家の見解を踏まえると「全国の主中学校で臨時休業」が必要となるのかについては一切説明されず、「御理解」だけをお願いするという、この国でよく見る風景が繰り広げられているといえましょう。確かに専門家の高度な説明では一般に理解されにくいとしても、総理会見は、今回の措置の趣旨を理解して現場で実践し、患者や生徒でその説明が求められる立場にある医療従事者も学校関係者も聞いているわけでして、現場の彼らの作業を説明できるくらいの内容は必要だったと思われます。この程度の説明では結局、現場の医療従事者や学校関係者が総理の説明の不足分を現場で補わなければならず、現場の説明は往々にして理解されないという負のスパイラルを生んでしまうわけですが、まあ経産省的には「所管官庁で説明しとけ」ってなもんでしょう。

牧原先生も秘書官グループの経産・警察色の強い布陣を危惧されていましたが、

 辞任した谷内国家安全保障局長の後任が、外務省から選ばれず、警察庁出身で首相との会合回数が多い北村内閣情報官が抜擢(ばってき)された結果、今井・杉田・谷内というある種の多様性とバランスのとれた構成が、今井・杉田・北村という経産・警察色の強い構成となった。今井秘書官についてしばしば言われる、首相の威を借りる乱暴な指示、無理筋な政策形成といった性格が色濃くなりそうな布陣である。

終末期に入った安倍政権を揺さぶる分断と対立 首相の親衛隊チームと一般行政官僚チームとの間で高まる緊張関係
牧原出 東京大学先端科学技術研究センター教授(政治学・行政学)(2019年12月06日)

機能の会見についての「当事者感覚のなさ」を指摘されていますね。
牧原先生の慧眼ではありますが、この布陣となった時点で想定された事態でもあるのかもしれません。