2018年02月11日 (日) | Edit |
実質的な今年最初のエントリで「明日から仕事始めということでヘタをするとまた数か月放っておきかねない」とか書いておきながら1月はパワハラクソ野郎関連でいくつかエントリをアップしつつ、その後やはり1か月ほど放置してしまいました。国会審議が滞っているものの、今回の労基法改正で(一定の条件で)月80時間を超える超勤には罰則が適用される見込みとなっておりまして、まあここ数か月は改正法適用後には罰則が適用されるような働き方をしていたところですので、早いとこ法改正して罰則を適用してほしいものだなあと思うところです。

という働き方をしている中で、これも繰り返しになりますが日本型雇用慣行での業務効率化の難しさを改めて実感したところでして、TLで流れてきた3年前の記事でゆうきまさみ先生がその本質を指摘されていましたのでメモしておきます。

ゆうき:そう。たぶん日本人が苦手なのは目標設定なんですよ。そりゃ、会社とかでも売上目標とかはありますよ。でも、それが本当に達成すべき目標なのか?取り敢えず10億って言っておけば、半分くらいは達成できるだろう、的なことになっていないか(笑)。その辺が曖昧なんじゃないですか?

2002年に「パンゲアの娘 KUNIE」が打ち切りになってしまって、することがなくて日本で開催されたサッカーのワールドカップをずっと見てたんです(笑)。その時、日本代表がどこまで行けるか?ということにみんな不安だったはずなんですよね。その前のW杯では一勝もできなかったんですから。当初、監督や協会はグループリーグ優勝までを目標として体制作りをしていました。で、グループリーグを突破して目標は達成したんです。

――そうでしたね。

ゆうき:本来であれば「よくやった!」と監督やチーム、関係者を褒めるべきだったのに、その後トルコに負けて、ベスト8まで行けなかったので、叩かれてしまったんですよね。あれはおかしいんですよ!

――たしかに。想定外のラッキーだったわけですからね。

ゆうき:目標を立てて達成したら、そこで一回リセットというか、そこからは違う世界、予定外なんだという見方をしないと、ああいう事が起こっちゃう。一番良くない事として、目標を達成して欲をかく、ということが起こりがちなんですよね

(略)

――後藤さんなんかもそうですよね。目標達成したらさっさと撤収みたいな(笑)

ゆうき:とりあえず、もうそれで「お疲れさん」なんですよ。まあ、W杯の場合はそれで終わりって訳には行かないとは思いますけどね。それにしたってね。大会前とグループリーグ突破後の世間の掌の返しっぷりといったらね・・・・・・。

――それも、目標が軽く扱われているというか、単なるお題目に普段からなっているからかも。後藤さんは実は何が重要で何がそうでないかを明確に見定めている

ゆうき:そうかもしれないですね。マンガの終盤で泉がシリーズ終盤の敵となったレイバー「グリフォン」に対して「逃がさなければ勝ちだ」と喝破するシーンを用意したんです。それは彼女が後藤イズムを体得したことの現われだったわけです。 

――なるほど!でもそういう後藤さんのもと、目標を達成し続けるチーム第2小隊は組織としては傍流に置かれ続けるというのは皮肉ですね。

「負けた人列伝」を僕は描きたい

ゆうき:目標をきちんと定めて共有する。所与の目標が達成されたら、そこでちゃんと1回評価しましょう、ということですね。もっと小さなレベルで言えば、「じゃじゃ馬グルーミンUP!」で主人公の駿平が「親父が褒めてくれたことがない」って言い放つじゃないですか。あれですよね。

――父親は「お前はもっとできるはずだ」という信念のもと、良い成績を取っても褒めてくれないんですよね。そんな駿平にとって、牧場は馬を育てあげるという目標がとても明確で心地良い場所だった・・・・・・。小さなレースに勝っても、その度に祝勝会を開く様子が繰り返し描かれてましたね。

ゆうき:そういう場での「よくやった」という一言が大事ですよね。そこで「次へ、次へ」と休み無くやっていると疲れちゃうし、組織としての「遊び」が無くなって行ってしまう。あの牧場の目標はダービー馬を出すことじゃなくて、もっともリアリティのある目標として、生産馬を競馬場に送り出すことなんですよ。

――そこから先は主に調教師の仕事ですしね。

ゆうき:そうなんですよ。

――少年マンガにありがちな敵を倒したらまた更なる強大な敵が、という展開をある意味僕たちは刷り込まれて、望んでしまっているのかもしれないですね。

ゆうき:もちろん、そういう局面とか野望、野心も大事なことではあるとは思うんですけどね。後藤隊長みたいな人が主人公だと少年マンガとして成り立ちませんから(笑)。「オラもっと強い奴と戦いたい」と言う風に、自分が定めた目標なら良いんですよ。でもそれを評価する側は違う視点をもたないといけない

――でも、現実に次から次へより大きな敵(目標)を求めちゃうと。

ゆうき:疲れ果てちゃう人の方が多いでしょうね。どんな社会でも勝つ人よりも負ける人の方が圧倒的に多いんですよ。だから、負けたときどうするか、というのを僕はずっと考えているのかもしれない。

「日本の会社には「遊び」がない–パトレイバー作者・ゆうきまさみ氏が語る組織論(2015年07月30日)」(HRナビ)
※以下、強調は引用者による。

いやもう、首肯しすぎて首が痛くなるかと思いながら拝読して長々引用してしまいましたが、第二小隊の隊員のモチベーションの高さとそれに由来するパフォーマンスは、具体的な個々の目標達成を的確に評価するという上司の存在が大きいのだろうなと改めて認識した次第です。組織のパフォーマンスを確保するためには、組織の目標を具体的な行動にまで落とし込み、それを構成員全員が的確に理解して実行できるように伝えるマネージャー(上司)の存在が決定的に重要です。第二小隊では、そのようなマネージャーを通じて、構成員が組織の目標把握の考え方(ゆうき先生がいう「後藤イズム」ですね)を体得し、それによってその組織が果たすべきパフォーマンスが確保され、その経験や課題を基にして次の具体的な行動につなげていく…という好循環が回っているわけです。『パトレイバー』という作品が、歩行式の作業機械を駆使する警察部隊という(企画された昭和の時代では)荒唐無稽な設定でありながら、警察という組織においてその構成員が仕事を遂行するという点でリアリティを獲得しているのは、こうした組織マネジメントの要諦が織り込まれているからなのかもしれません。

飜って周りを見渡してみると、「目標が軽く扱われているというか、単なるお題目に普段からなっている」光景ばかりが目につくところでして、その象徴が年始以来拙ブログで取り上げているパワハラクソ野郎なわけです。ということを考えていたところで、ゆうきまさみ先生つながりで興味深い記事がありました。



(略)

勿論、ファンの声というのは創作者にとってエネルギーの源泉です。そして、悪評というものも、時には創作の糧になり得ます。それは間違いないんです。

ただ、ゆうき先生の発言に対して、冒頭まとめで時折みられる

「世に作品を出すなら叱咤激励を受けるのは仕方ない。」とか、

「(褒め言葉ばかりでは)いい漫画家が育たない。」

といった反応には、正直なところ「うーーん」と思うところがありまして。

というのは、世の中には、思った以上に「激励のつもりで罵倒しか出来ていない人」が多いんじゃないか、と私は感じているんですよ。

(略)

ただその時、「こういうのって嫌がらせみたいなものなんですかねー?」と言ってみたら、「いや、これで応援のつもりの人も結構いるんだよね…」という言葉が編集さんから返ってきて、それは結構私の頭の中に残っているんです。

つまり、それこそ「悪評が漫画家を育てる」的な信念の元、いわば愛の鞭のようなつもりで罵倒を投げてきている人もいるんだ、と。



そして、そういう人たちは、自分の罵倒が「創作の参考になる批評」だと考えているんだ、と。

はー、と思いまして。

例えばブラック企業では、パワハラ上司の言葉がしばしばやり玉にあがります。徹底的に新人を追い詰めて、辞めさせたり鬱にしてしまったり。ああいう話、結構みますよね。



ただ、ああいうパワハラ上司的な人達も、多くの場合「自分が単に罵倒をしていて、相手を精神的に追い詰めている」とは思っていないんですよね。少なくとも本人の主観的には、あれ、「叱咤激励」のつもりなんです。

自分の言葉を糧にして、相手が強く成長することを願っていたりする。で、言われた方が耐えかねて辞めちゃったら、「なんであれくらい耐えられないんだ」と首をひねったりするわけです。

「「激励のつもりで罵倒しか出来ていないファンの人」と「パワハラ上司」は同じ構図。(2018/2/10)」(BOOKS&APPS)

「世の中には、思った以上に「激励のつもりで罵倒しか出来ていない人」が多い」というのは、「パワーの行使がハラスメントとなる源泉は、実はパワーそのものではなく、OJTにおける試行錯誤にあるのが日本的雇用慣行の特徴だろう」と考える拙ブログの立場からしてもしっくりくるところです。ここ数回のエントリではサイコパス傾向とか一定の性向をもつ方に限定的なような書き方になっていましたが、日本型雇用慣行そのものが上司が職場で部下を指導するOJTを必須とするためにパワハラを誘発しやすい環境にあり、そうしたパワハラOJTで仕事を覚えてきた上司の多くはパワハラOJTでしか部下を指導できないことになってしまうわけですね。

上司-部下の関係における指導ではなく、組織のパフォーマンスを上げるためのマネジメントこそが組織にとって必要なことであって、だからこそ上司はマネージャーと呼ばれます。そのマネジメントに必要な理論をまとめたのが、海老原さんの『マネジメントの基礎理論』と『即効マネジメント』でして、こうしたマネジメントの理論を学んで指導とマネジメントの違いを改めて自問しなければならない方は多いのではないかと思います。まあ有り体にいえば、自分の部署の従業員が期待された成果を挙げていない場合には、その従業員のスキル不足やら姿勢やらを批判して罵倒するだけでは問題が解決しないということですが、さて日本型雇用慣行にどっぷり浸かった現在の上司の皆さんが自らそれに気が付くのはいつのことなのでしょうか。
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2018年01月14日 (日) | Edit |
年明けからこの話題ばかりというのも気が引けますが、昨年度末に自治体業界でちょっと話題になったこの件も前回までのエントリの流れで見るといろいろ考えさせられます。

静岡県職員の自殺者が、2009年から2016年の過去8年間で41人に上ることが分かった。川勝平太県知事が12月18日の定例記者会見で明らかにし、朝日新聞等が報じた。

41人の内訳は、知事部局が17人、教育委員会や県警本部が合わせて24人。知事部局とは企業局とがんセンターを除く県庁内の部局の総称で、特定の部局を指すものではない。川勝知事は会見で「鬱積したものがあれば言える環境、言える職場の空気を作っていきたい」とコメントしている

「職員数100人削減」の目標は取り下げたが、人手不足は依然解消せず

自治体職員1000人あたりの年間自殺者数(2015年)は、全国の都道府県・政令指定都市の平均値が0.18なのに比べ、静岡県は0.34と約2倍だ。

過去8年間は、現在知事を務める川勝知事の就任時期と重なる。就任前の8年間(2001年から2008年)の自殺者数が12人だったことを踏まえると、就任後の仕事の進め方や方針転換が影響している可能性もある

県の担当者は会見で、「自殺の原因は本人の健康状態、仕事、家庭など様々」と語っていたが、静岡県職員労組はキャリコネニュースの取材に対し、「人員不足が大きいのでは」との見方を示した。

労組の担当者によると、2015年時点で、年間360時間以上の時間外労働をした職員は1000人を超えていたという。元々予算あたりの職員数が少なかった静岡県だが、ここから更に人員削減を進めたため、職員一人にかかる業務負荷が大きくなっていたようだ。県は昨年12月、行政改革大綱の中にあった「職員数100人削減」の目標を取り下げたが、人手不足は依然解消していないという

残業削減指導するも「声かけが行き過ぎ、かえって時間外勤務を申請しない人も増えた」

(略)
最近では電通の過労死事件を受け、管理職から部下へ、時間外労働を減らすよう指導していたというが、「声かけが行き過ぎ、かえって時間外勤務を申請しない人も増えた」と言う。組合の担当者は

「静岡県の労働環境が他と比べて劣悪ということはありませんが、人員不足は課題。長時間労働の削減方法も、現場から提案するだけでは限界があります。県には、減らす手法を考え提示するよう今後も対応していきたいです」


と話していた。

静岡県職員、過去8年で41人自殺という異常な事態 職員労組は「人員不足が大きな原因」と分析(キャリコネニュース 2017.12.20)
※ 以下、強調は引用者による。

で、これに対する具体的な方策としては、こちらの記事にちょっとだけ記載があります。

知事部局職員、8年で17人自殺 静岡、全国平均の2倍(朝日新聞 大内悟史 2017年12月20日09時16分)

 2009~16年度の8年間で、知事部局の静岡県職員の自殺者が17人いたことが分かった。川勝平太知事が18日の定例記者会見で記者団の質問に答えた。県によると、うち2人が公務災害に認定。県は職員向けの相談・通報窓口への連絡を呼びかけているほか、昨年度からストレス調査を導入するなど対策を講じている。

 県によると、職員数がおおむね6千人弱で推移する中、14年度は最多の5人、15年度は2人、昨年度は2人が亡くなった。15年度の県職員の千人当たりの自殺死亡率は0・34と、都道府県・政令指定都市職員の平均(0・18)の約2倍だった。知事部局が8年間で17人だったのに対し、教育委員会や県警本部などでも同時期に計24人が自殺した。

 今年度は11月末現在で2人が自殺したといい、18日の会見で藤原学・県職員局長は「亡くなった方の苦しい心の叫びを聞くこと、気づくことができなかった責任を感じる」と話した。

 県によると、公務災害に認定された2人は職責の重さや多忙が自殺した要因の一つとみられる。県は昨年度からストレス調査を導入し、ストレス度が高い職員に受診やカウンセリングを勧めているという

 川勝知事は「全国平均の2倍と聞いて驚いた。相談しやすい職場の空気を作っていきたい」と述べた。(大内悟史)

静岡県知事は「驚いた」とのことですから、ご自身にとってはこのくらい自殺するのが当たり前という認識だったのでしょうか。まあもしかすると、こちらの知事にとっては「俺は死ぬほど苦労して学位も取って経済学の分野で名をなしてきたのに、公務員程度の仕事で音を上げるなんてチョロいもんだな」ということかもしれませんが、そのような御仁には「日本型雇用慣行が「社会が要求するレベルの非現実的な高さ」の原因となっていることをもう少し丁寧に議論すべき」ということが理解されることはなさそうだなあと毎度ながら落胆させられます。

実は静岡県については、拙ブログでも8年前に取り上げておりまして、

 このSDOからは、伝票関係のマニュアルやQ&Aが参照できるので、ある程度の疑問は自席のパソコン上で自分で解決できる。もちろん、それで総務事務センターへの問い合わせがゼロになるわけではないが、総務事務の人員を削減する以上、職員が「自分のことは自分でやる」という環境を用意しておくことは、集中化の前提条件となる。さらに今後、電子決裁の範囲が広がれば、集中化のメリットはもっと出てくるはずだ(今のところ、総務事務センターの関連業務で電子決裁が導入されているのは旅費のみ)。
(略)
 総務事務の改革を行えば、これまでは身近にいた総務担当者にお願いすれば済んだことでも、必然的に自分でやるしかなくなる。これを「サービスの低下」と感じる職員もいるだろう。しかし、自治体財政が厳しい中で、“全体最適”を考えるなら「自分のことは自分でやる」という方向での業務改革は避けては通れない。

【静岡県】本庁の総務事務を集中化、アウトソーシング ルーチンワーク外注で県職員の生産性向上を目指す(4)[2002/12/27]」(ITpro


前段の引用部によると、この総務事務の外注化によって削減される人員は20名弱なわけですが、その人員を企画的な業務に就かせることによって生産性を上げる*2のが狙いとのことです。一方で、後段の引用部によると、総務担当にお願いすれば済んでいたことを自分でやるという「サービスの低下」の影響はすべての県庁職員に及びます。これを「トータルで見ての効果は十分上がっていると静岡県では考えている」とする静岡県は、どのような「現場」をご覧になっているのか大変興味深いところです。

「生産性」という言葉は時間当たりとか人当たりとか多義的に用いられるので、ここで静岡県が考えている生産性の定義は推測するしかありませんが、人を減らして生産性を上げるということであれば「生産性=業務/人員」のようなイメージでしょうか。分母の「人員」を減らすことによって生産性が向上するというシナリオですね。しかし、これまで各部署に置いていた総務担当者を削減してその事務を一か所に集中するとなれば、その分「現場」の担当者に事務が降りてくるのは前回エントリで指摘したとおりですし、議会や監査に提出する事務そのものが減少したのでなければ、それはトータルで分子の「業務」を増やすことにつながります。20名弱の人員削減の効果がそれによる業務の分散化に伴う業務増を補うかどうかは慎重な判断が求められるのではないでしょうか。

それよりも、そうした「ルーチンワーク」が総務担当者に集約されていたことが、どれだけ生産性向上に貢献していたかという効果が十分に検証されていたのかが気になります。むしろ、そうした「ルーチンワーク」を担当する職員を「外にも出ないで内勤ばかりしている使えないヤツ」と評価していたからこその外注化だった面があると思われるわけで、ノウハウを知る職員がいなくなるにつれて役所が回らなくなるのも時間の問題なのでしょうね。というか、この記事自体が8年前のものですから、もうそうなっているところもあると思いますが・・・

内部労働市場とキャリア形成(2010年05月16日 (日))
※ 引用部以外の強調は引用時

というエントリが既に8年前となっているということは、16年前から人員削減で生産性向上に取り組んでいる中で、さらに8年前からは現在の川勝知事が就任して「行政改革大綱の中にあった「職員数100人削減」の目標」を掲げていたということですね。まあ私自身は静岡県から遠く離れた自治体の下っ端公務員ですから静岡県庁の内実はよくわかりませんが、とはいえこの光景は公務員なら身近でよく見る光景ではないかと思うところですね。

(2018.1.15追記)
役所というか日本社会で静岡県のような考え方が何の違和感もなく受け入れられるのは、日本型雇用慣行(日本社会の雇用システム)でほぼ説明できることだというのが、ちょうどhamachan先生のところで取り上げられていますね。

会社とは社員と呼ばれる人間の束であり、その各人間に対して、採用当時はそもそもできない仕事を習い覚えてやれるようになっていくことを大前提に社員という身分を付与することが採用であり、労働者側からすれば(間違って「就職」と呼ばれている)入社である社会において、その入社当時には全然できない仕事をできるように努力することが正社員たるものの心得第一条であり、そういう心構えを教えるのが上司や先輩であるのもあまりにも当たり前の話なわけです。

どちらのシステムにもメリットとデメリットがあるということも、繰り返し論じてきたところ。

欧米型のデメリットは、そもそも新規学卒者という、仕事ができないことが大前提である人間は「できないことはできなと言え」という社会では、「ああ、仕事ができないんなら採用できませんね」で、なかなか就職できないということに尽きます。

逆に言うと、何にも仕事ができないことがほぼ確実な若者が労働市場で「仕事ができないなんて言わずに頑張ります」でもって一番有利な立場に立てるような社会は日本以外にはまったく存在しないということでもあります。

だからそれが雇用システムの違い(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) 2018年1月14日 (日))

ことがスキルの話であれば、ここでhamachan先生が指摘されていることはまさに「当たり前の話」で済ますこともできるのですが、仕事の量とか分担が絡んでくると途端にきな臭くなります。というのも、このような思考回路しかもたない日本の労働者が仕事の分担を考えると、「これまでできないことはないと言ってやってきたんだから、どんな仕事でもどんな量でもできるはずだ」となりがちです。つまり、(正規)労働者が元々何もできない若者だったという前提がある限り、その(正規)労働者はどんな仕事でもどんな量でもこなすことができるはずだし、組織が新しい仕事に取り組むときも現存の(正規)労働者が超勤で試行錯誤しながら何とかしてくれるはずだということになり、結局(正規)労働者を増やすことなく仕事を増やすことができるという幻想が生まれることになるわけですね。仕事量が減らないのはこうした側面が大きいわけですが、さて静岡県はどのような対策を取られるのか生暖かく見守りたいところです。

(2018.1.20再追記)
こんなブコメをいただいたようで、

事情は理解した。しかし結論は「どのような対策を取られるのか生暖かく見守りたいところ」なのである。例えば「自治体の枠を超えて労働構造の変革を勝ち取ろう」などではない。人が死んでいるのにだよ。

morimori_68morimori_68のコメント2018/01/20 11:43

なるほど、本エントリだけをご覧になるとそのような感想になるのかと気づかされました。ご指摘ありがとうございます。

本エントリの冒頭にある通り、年明け以降のパワハラクソ野郎関連でアップしたエントリではありますが、拙ブログの主な関心分野である労働カテではそれなりにこれからの日本型雇用慣行が進むべき方向を考えてはおります。大雑把に言えば、日本型のなんでもできる正規労働者を前提とした慣行から、個々の労働者の制約に応じた職務限定型の労働と、自らが勤務形態(労働条件ではありません。為念)を決定する管理職型の労働を入口(新卒に限らず、全ての昇進は採用です。これも為念。)の段階で峻別する慣行へのシフト(というより、そもそも日本の労働法はこのような社会を想定しています)が必要であり、その実現のためには、労使間でそれを推進する原動力としての集団的労使関係の再構築と、個々の労働者の制約を社会的に保障する再分配政策の拡充が不可欠と考えております。とはいえ、現行の日本型雇用慣行を支える職能資格給制度により、特に企業内再分配の機能(端的に言えば生活給)が強くあまりに堅牢であるため、結論は上記の通り「生暖かく見守る」しかないのが現状だとの認識であることも事実です。われわれ公務員の雇用主(任命権者)は選挙で選ばれる政治家ですが、日本的左派の政党が公務員人件費削減を公約に掲げる現実がありますからね。
立憲民主党「公務員に労働基本権を認め人件費を削減する!!」に左右両方から非難

2018年01月08日 (月) | Edit |
前回エントリのようなことを考えていたところでタイミングを図ったかのような訃報に接し、故人の過去の言動を振り返って見るにつけ、この見方はそうそう間違っていないだろうと確信できます。


 指揮を執るなり、星野監督はロッテと「世紀の4対1トレード」で落合博満(60)=敬称略、以下同=を獲得するなど、斬新なチーム改革を断行して独自色を強く打ち出していったのだ。

「超大物・落合でもドン引きしたのが、星野監督による鉄拳制裁でした。もちろん落合自身がやられることはありませんでしたが、第1次政権では、蹴って殴ってと半端なかった」(元ドラ番記者)

 勝負に送り出した投手がマウンドで逃げるようなピッチングをしようものなら、容赦はなかった。

「今や現役最年長投手として別格視されている、山本昌(49)でさえ若手時代には洗礼を受けていました。ひどく打ち込まれて降板すると、ベンチ裏に下がった時を見計らって無言でスーッと星野監督が近づいてきて、パンパンッと左右連打の平手を浴びせかけるというんです。今中慎二(43)なども成長過程ではよくやられていたといいます」(球界関係者)

 とはいえ、投手に手を出す頻度はまだ低かったという。むしろ打たれて“鉄拳指導”の矛先が向けられたのは、リードをしていた当時の正捕手・中村武志(47)が断トツだった。

「独自の理論で、育てるという意味合いがあったのは確かでしょう。それにしても、中村は日々標的となっていた。顔面に付着した血が固まった状態で試合前の練習に出てきたことがありました。そればかりか、顔が変形するほど殴られ、翌日には顔が膨れ上がってしまって、普通にはかぶることもままならなくなったマスクの中に、無理して顔を押し込んだこともあったほどです」(球界関係者)

 こうした体で覚えさせる“闘将式育成法”は当然ながら波紋を呼んだ。時にはチームの編成にまで影響を及ぼすことも‥‥。

「90年、試合中にもかかわらず、星野監督が主砲の大豊泰昭(50)をベンチ裏でボコボコにブン殴ったんです。大豊は無抵抗のまま鼻血をダラダラと流していた。それを大物助っ人として好成績を残していたバンスロー(57)が目撃してしまったんです。彼は2年契約の1年目だったのですが、『こんなチーム、ダメだ』と退団を決意しました」(元ドラ番記者)
星野仙一 スポーツ紙が封印した「鉄拳流血事件」を一挙プレイバック!(1)鉄拳制裁にあの落合もドン引き(アサ芸プラス 2014年10月7日 09:57)

 昨年、野球界の体罰問題がクローズアップされた際、楽天番記者との日常的な「お茶会」で星野監督が口を開いたという。

『育てるという意味の中で、その中には愛情があるのだから殴るのを全部否定するのはいかがなものか』と持論をぶちまけたんです。『やられた相手が自殺なんかするまでやるのは絶対いかんけどな』と付け足してはいましたが、体罰が非難されていた時期だけに“予防線”を張っているようにも聞こえました」(スポーツ紙デスク)

 一方で、スポーツライターはこう解説する。

星野監督は母校・明治大学で師事した、故・島岡監督の熱血指導の流れで自然とやってきたのでしょう。それでも、拳を振るわれてきた選手が恨み言を漏らすようなことは少なかった。というのも、星野監督が手を上げるのは、見込みのある選手ばかりでしたからね。怒っても翌日にはその選手に『おっ、元気か?』と声をかけて、突き放さなかったから、やられたほうも愛情の裏返しだと好意的に捉えることが不文律となっていきました
星野仙一 スポーツ紙が封印した「鉄拳流血事件」を一挙プレイバック!(3)手を上げるのは見込みのある選手(アサ芸プラス 2014年10月9日 09:57)

※太字強調は原文、下線太字強調は引用者による。


わたしなんぞは「やられたほうも愛情の裏返しだと好意的に捉えることが不文律」となる組織は御免被りたいところですが、実際にその暴力の標的となった方々はこんなことをおっしゃっていますね。

星野仙一監督 鉄拳制裁の裏にあった選手への愛情(NEWS ポストセブン 2018.01.06 16:00)

「当時がそういう時代だったということもありますが、星野氏の中日監督時代といえば、“鉄拳制裁”が思い浮かびます。特に中村は何度となく鉄拳を食らっていたし、他の選手も文字通り痛い目に頻繁に遭っています。それなのに、星野監督の悪口を言う選手は聞いたことがない。それどころか、未だに慕っている選手ばかりなんです

 優勝した1988年のシーズン終盤、スクリューボールを武器にチームの救世主となった山本昌広は自著『133キロ快速球』でこう語っている。

〈星野監督は僕を怒って一人前にしてくれた。どれだけ怒っても、最後は使ってくれた(中略)野球選手にとって、これに勝るフォローは存在しないのだ〉

 1年目から起用され、1994年には本塁打王と打点王を獲得した大豊泰昭も自著『大豊』こう記している。

〈星野監督は言ったことを守る人だ。選手を叱っても必ずそのあとにチャンスをくれる〉

 高卒2年目の1990年にローテーション入りし、以降、中日のエースとして活躍した今中慎二も同じことを感じていた。自著の中でこう記している。

〈当時の若い選手が星野監督の厳しい指導についていけたのは、どんなに怒鳴られてもまた試合に出してもらえるという期待感があったから、といえます〉(『中日ドラゴンズ論』より)

 どんなに厳しくされても、愛情があったからこそ、選手はついてきた。数々の名選手を育てた闘将の死はあまりに早過ぎる。


DV被害者が暴力を受けることで自分の存在意義を確認するという話はよく聞くところですが、それは何も家庭内だけでのことではなく、複数の人数が属する組織ならばどこにでも生じうる現象と捉えるべきなのかもしれません。上記の記事の中では、引退後に「鉄拳制裁」による指導で名をはせている方はいないらしいことが一縷の望みではありますが、結局世代交代の中で社会の構成員が社会の変化に対応していくことに期待するしかなさそうです。

ただし、「鉄拳制裁」をフル活用していた故人の発言の中に、組織を変えるヒントが隠されていますね。

星野監督が「体罰問題」を語る(東スポWeb 2013年02月08日 11時00分)

 大阪・桜宮高バスケ部員自殺に端を発し、柔道日本女子代表監督の辞任騒動など、いま世間では体罰・いじめ問題が大きな論争を呼んでいる。こうした中、楽天・星野仙一監督(66)が一連の騒動以来初めて自身の考えを激白した。かつては「鉄拳制裁」がトレードマークでもあった闘将は今後、厳しい指導ができなくなるであろう状況に“事なかれ主義指導者”が増えることを危惧。いじめ問題についても「すべては幼児教育なんだ」と持論を展開した。

(略)

 春季キャンプのため沖縄・久米島で過ごす星野監督は順調な調整を進める選手たちに目を細める一方、今や社会問題となっている「体罰・いじめ」について自ら口を開くと急に顔をしかめた

 では、この問題をどう考えているのか――。「柔道界のこともよくわからんし、これはオレの考えだよ」と前置きした上で次のように続けた。

『体罰だ! いじめだ!』と言うけど、選手なんかは指導者から言われるうちが花やないか。それだけ親身になってくれているということ。このままじゃ指導者はどんどん“事なかれ主義”になっていくぞ。何かあっても『私は関係ありませ~ん』だよ。ただ、死んだら(選手が自殺を選ぶほど体罰をしたら、その指導者は)負けよ。それはアカン!」

 選手を自殺に追い込むほどの体罰は絶対に起こしてはならない。だがその半面、今回の騒動で指導する側の肩身が狭くなっていくことが予想されるため、問題が起きた場合でもそっぽを向く無責任な指導者が今後増えていくことを懸念しているという。

「鉄拳制裁」でも知られる星野監督だが、特に血気盛んだったと言われる中日時代を知る球界OBも「『おまえの顔の形、変えたろか!』と怒られるんだよ。実際にボコボコになった選手もいた。でも、それは期待されている選手だけだったし、理不尽ではなかった。その後のフォローもちゃんとあったしね」と打ち明ける。現代には“喝”の入れ方もわからない指導者が多いことに、日本一の熱血指導者は寂しい思いを巡らせているようだ。

 さらに話は、いじめ問題にも及んだ。「一番怖いのは、いじめがあったことを生徒にアンケート取って、生徒たちが『いじめを目撃した』と答えていることだよ。なんで止めないんだよ。止めたら、いじめの標的になるから? じゃあ、みんなで一緒に、大人数で止めたらええやないか

(略)

 仮にプロ野球選手になっていなかったら「教師の道を選んでいた」とも語る星野監督。これが「闘将の教育理論」だ。

おそらくこの故人は、パワハラ上司の多くがそうであるように、饒舌で社交的でありながら他者に対する共感が欠如し、きわめて(自分にとって)合理的な論理を駆使するサイコパス傾向が強い方だったのだろうと思いますが、野球の才能があったおかげで教育現場の平穏が保たれたのかもと思うと、プロ野球という職業があってよかったのかもとは思います。それはともかく、ご自身が「選手なんかは指導者から言われるうちが花やないか。それだけ親身になってくれているということ」というその口で、「止めたら、いじめの標的になるから? じゃあ、みんなで一緒に、大人数で止めたらええやないか」とおっしゃるなら、パワハラやら鉄拳制裁があれば、その場にいる大人数で止めたらいいんですよね。どうせパワハラする上司なんて一人でしょうし。

ところがことはそう簡単ではないのは、上記の記事で球界OBなる方が「それは期待されている選手だけだったし、理不尽ではなかった」とおっしゃるように、パワハラ上司の周囲には「期待しているからパワハラも鉄拳制裁も理不尽ではない」という取り巻きがいるために、パワハラやら鉄拳制裁に抗議の声をあげた方が「大人数」になるとは限らず、むしろパワハラに抗議する方が「理不尽だ」となってしまうことが往々にしてあるからですね。人格否定して罵倒するような暴言を吐いたり、身体に傷害を負わせるような暴力行為を行うことは、いかなる理由においてもそれ自体が理不尽であるはずであって、あくまで契約の範囲内で業務に従事する職場関係においてそうした行為を行う人物は、無条件に「パワハラクソ野郎」と呼ぶに相応しいクソ野郎なわけですが、それを反転させてしまう力が組織にはあるわけです。

となると、パワハラクソ野郎に対処するときに一番難しいのは、「期待しているからパワハラも鉄拳制裁も理不尽ではない」という取り巻き連中を「大人数」に取り込むことができるかということになります。そこには、パワハラクソ野郎がかなりの確率でハイパフォーマーとして評価されているために、組織としても切るに切れないという事情があって、「やられたほうも愛情の裏返しだと好意的に捉えることが不文律」となっていくわけです。パワハラクソ野郎が暴言を吐いたり鉄拳制裁するためにクソ野郎であるならば、こちらがその土俵にまんまと乗ることはあまり得策ではありませんが、時と場合によっては自分の身を守るための正当防衛類似の行為として、「大人数」で「やられたほうも愛情の裏返しだと好意的に捉えることが不文律」を放棄して「パワハラクソ野郎」と呼んであげるのも一つの手かもしれませんね。

2018年01月07日 (日) | Edit |
年始でちょっと余裕がありそうなので、最近何かと話題のこの件でアップしておきます。

貴乃花親方の理事解任を決議 相撲協会の評議員会で(1月4日 12時58分 NHK)

日本相撲協会は4日、臨時の評議員会を開き理事で巡業部長を務める貴乃花親方の理事解任を全会一致で決議しました。相撲協会の理事が解任されるのは初めてで、貴乃花親方は役員待遇の委員に降格しました。

臨時の評議員会は4日午前11時前から東京 両国の国技館で始まり、元文部科学副大臣で議長を務める池坊保子氏など5人の評議員が出席しました。

相撲協会は先月28日に臨時の理事会を開き、警察に被害届を出しながら巡業部長として相撲協会に事案を報告せず、その後も調査に協力してこなかった貴乃花親方について、理事や巡業部長としての責任は重いとして、理事解任の議案を、権限を持つ評議員会に提案していました。

まあ組織というのは上に立つものが支配するものでして、それに楯突くとこうなるぞという見事なお手本ですね。当然それぞれの言い分があるでしょうし、私のような部外者がそれをどうこういえるだけの見識もありませんが、報道される経緯を見ていると、組織を構成するメンバーが組織内でどうのように振る舞えばどのような反応を引き起こすのかの貴重なサンプルといえそうです。

今回の件を概観してみてみると、相撲協会という組織においては稼ぎ頭である現場のエリート(横綱)を守ることを優先するため、その現場を統括する理事会、さらにその上の評議員会ともに、現場のエリートが引き続きその組織で業務に従事できるよう取り計らったということになりそうです。その際、現場のエリートとそれを擁護する上層部に敵対的な行動を取った幹部については、現場のエリートを支える体制を維持するため上層部から排除する必要があると、理事会・評議員会ともに判断したのでしょう。一説には、貴乃花親方が目指す「ガチンコ相撲」だと身体がもたないとか、現行の年6場所制を維持するには貴乃花親方の考えは急進的すぎるということもありそうですが、まあいろいろな批判はありながら、興業によって収益を得ている相撲協会の判断としてはさもありなんという感はあります。

今回の顛末で私が興味深く思うのは、組織の決定の「二度手間」に対する忌避感は組織が古く、大きくなるほどに強くなるのだなあということです。現行の古く大きな体制を維持するために大変な労力を要する状況になれば、体制維持だけでマンパワーを割かれてしまい、瑣末な不祥事などにかかづらっている暇などなくなっていきます。体制維持にマンパワーが割かれるというのは、現在の意思決定に関する手続きを適切に運用することももちろんですが、そこからの逸脱に対する対処も含めてその積み重ねが規範化しているわけですから、その積み重ねとの整合性を図ることにも手間が取られることになります。つまり、組織の決定の「二度手間」とは、いったん体制を形成することによる手間を第1段階として、第2段階でその体制を維持するために現在の意思決定の手続きを厳格化するコストと、その運用の中で積み重なる前例踏襲のコストがかかるということであり、その「二度手間」は組織の大きさと古さに比例して必然的に増大していくこととなるわけです。

今回の件でも、相撲協会ではこれまでの意思決定の手続きに則って粛々と決議したように見受けるところでして、貴乃花親方が考える改革案はその意思決定の手続きまでを覆すことはできなかったということでしょう(まあまだ結論が出たわけではなく、これから貴乃花親方の考え方が浸透して組織が変わっていく可能性はあると思いますが、少なくとも現時点では組織の側に意思決定の手続きを変えようという様子はなさそうです)。

とはいえ、一方では今回の件の発端となった暴行事件については、刑事事件として略式起訴されて加害者が実刑を受ける可能性が高くなっているところでして、この件に関して言えば、組織の在り方が関係していると思われる刑事事件が発生したときに、組織の意思決定の手続きと、国民の安全を守るために制定された法令上の手続きとの整合性が問われているということなのではないかと思います。実は、2017年に明らかになった企業の不祥事でもこの構図が見られるところでして、組織内では問題ないとみなされていた手続きが実は法令違反だったり、むしろ法令違反を承知の上で組織内の手続きを優先した結果が、法令に照らしてみればやっぱり不祥事だったということなのでしょう。

そして、そのような組織内の手続きを優先するような組織の在り方自体が、

と書いてみると、現在の日本の組織の問題は、いったん形成された「社風」や「組織文化」に根差している部分が大きいのではないかと思いますし、やはり戦前の日本の主要な組織で非論理的な意思決定が常態化していたことが戦争につながったという評価には一定の説得力があるようにも思います。まあ、パワー(指揮命令権)の行使からハラスメントを分離できればいいのでしょうけれども、日本型雇用慣行におけるOJTがハラスメントの源泉であるならば、ことはそう簡単ではありませんね。日本型雇用慣行が堅牢であるうちは意思決定が非論理的に行われるものと諦めるか、日本型雇用慣行の見直しを進める中で少しずつ状況が改善するのを待つしかないのかもしれません。

非論理的な言動で意思決定を行うことが常態化してしまった組織(2017年08月17日 (木))

という経緯で変えられないのが実情だろうと思うところでして、いやまあ絶望的な結論ではあります。特に、セクハラが雇用機会均等法により明確に法令違反と規定された一方で、パワハラは未だに「必要なOJTの一環」と位置づけられているうちは、パワハラをする上司の側が「ハイパフォーマー」として評価を上げ、パワハラに対して抗議の声をあげた方が「ローパフォーマー」として評価を下げる現状は変わらないでしょうね。

2017年09月10日 (日) | Edit |
ということで、すっかり更新ペースが乱れ気味ですが海老原さん編集のHRmics vol.27が発行されていて、特集が「年金問題の根源は、日本人の心」とのことで、これは拙ブログとしては早速取り上げなければ!!…と思いつつ、すでに1か月ほど過ぎてしまうという体たらく。なんとか時間がとれましたのでじっくりと拝読しました。

といいつつ、1章から2章まではこれまで年金を巡る議論に対する丁寧な説明となっていて、そうした有象無象の議論に見飽きた方々には改めて再確認的な内容ですので各自で読み込んでいただく(必読ですよ!)として、3章の森戸先生の解説はちょっと意外な組み合わせでした。不勉強ながら森戸先生は専門委員会の委員長として企業年金の議論を進められた経験をお持ちで、その際の生々しい議論の説明が秀逸です。

 P18の「森戸の一頃③」にソフトパターナリズムの話が出てきたよね。
 選べる商品が多すぎると人って逆に選べなくなっちゃうって話。お菓子屋さんに並ぶキャンディーだと、100種類もあるより3〜5種類くらいの方が売れるんだってさ。
 そんな考え方が、2016年の確定拠出年金法(DC法)の改正にも盛り込まれたんだ。
 確定拠出年金でラインナップに並ぶ運用商品の数の上限が政令で決まることになったわけ。
 普段は初老の三流教授なんて自虐的プロフィールを語っている私だけど、実は、その時の厚労省の「社会保障審議会企業年金部会・確定拠出年金の運用に関する専門委員会」の委員長もつとめてたんだよね(舌噛みそう)。だから、このあたりの議論の経緯もよく知ってます。
 で、その時に、上限数の設定だけでなく、③で触れた「商品が多くて選べない場合、自動的にチョイスされるデフォルト商品」(指定運用商品)についても議論したよ。
 世間の金融情勢を反映できるよう、よりアクティブなものの設定を原則とするべきだ、と。ただ、そうすると、金融不況時などは年金資産の元本割れも起こると、侃々諤々に話し合いが続いて、さ。
 結局、時期尚早だと、その話は無しになりました。
 いろんな業界からヒアリングもしたんだけど、やっぱそれぞれの立場があるからね。リスクをとり人が増えるとメリットがある人たちは推進派、逆にそれが向かい風になる人は及び腰って感じで
 企業の担当者は、総じて後ろ向きだったかなぁ。運用が失敗して元本割れになった場合、会社が訴えられる可能性もあるからということで。ここは④の「セーフハーバー」を復習しといてね。
(略)
 国や企業では、もう面倒見切れないから、自分の老後は自分で私的年金を、という流れが、世界的にはあるかな。でもそうすると、お金に余裕のない人は老後が灰色になってしまうでしょ
 公的年金には、所得の再分配機能が入っていて、格差是正にも役立つので、やはり柱はこれであるべき、という意見もあります。
 あ、でも、公的年金の再分配機能が強くなりすぎると、金持ちはたくさん拠出しても年金が増えず、それじゃ現役時代の裕福な生活レベルを維持できないっていうパラドックスが起きる。そこで今度は、金持ち用にある程度、私的な年金が必要という声が生まれることになる。
 こんな感じで、あっちをたたけばこっちが飛び出すというのが、年金制度の宿命なんだよね
 そうしたことをトータルで見て、誰もが損をしないような仕組みを作ってかなきゃなんないんだ。難しいし、時間もかかると思う

森戸英幸「森戸の「スゲー年金解説」」HRmics vol.27 p.20
※ 以下、強調は引用者による。

議論の場にいらっしゃった森戸先生ならではの臨場感あふれる説明ですが、まあ話し合いというのはこうした立場の異なる者同士がそれぞれの利害をぶつけ合うのが本質ですから、理屈通りとかデータ通りにものごとが決まるわけではないのが常態であることがよくわかる説明ですね。

そして4章で、満を持して権丈先生のインタビューが掲載されているのですが、ここでも小泉進次郎議員の「こども保険」を評価する発言がありますね。

 将来、増税した分の相当部分を財政再建に回さざるを得ないのが給付先行型福祉国家です。だから、高負担で中福祉、中負担だと低福祉ということになりかねません。増税を先送りにすればするほど、増税分のうちから社会保障の取り分が減り財政再建に回さなければならない分が増えていくわけですから、増税は早ければ早いほど望ましい。
 世代間格差を大きな声で言う人たちは、もっとこちらに注意を向けた方が生産的だと思います。贅沢もしていない水準なのに、今の高齢者向け福祉を取り上げ、「ずるい」と言うのはやめにした方がいい。高齢者だ勤労者だ若者だとか、なんだかんだと言うのは、今時、あんまりかっこいい話ではないと思いますよ。みんな年をとって高齢者になるんだから、自分が年をとっても、悲しい余生とならなくてすむように、今の若い人たちと高齢者が話し合いながら折り合いをつけていった方がよいと思う。そんなことよりも、国民負担率がずっと低かったため、膨大な赤字が生まれ、今後その負担を後世に背負わせる。そちらの方が問題です。世代間で問題にすべきは、「給付の不公平」ではなく「負担の不公平」でしょう。
(略)
 そう、社会保障の財源を考える場合も、すべて税金にすれば無年金者や無保険者がいなくなり、制度の普遍性が高くなります。ただ、税金はなかなかあげることができず、所得税や法人税は増減するので、安定性は低くなります。一方、社会保険料は安定的に徴収できますし、その料率アップも比較的容易です。これだけ増税の実現が難しいお国柄では、次善の策としてしばらくの間、社会保険ベースで国民負担率を上げて、速やかにとりかかるべき重要施策を開始するしかない。そうした意味で、小泉進次郎議員たちが今提唱している「こども保険」が、財源を公的年金保険に求めるのは理にかなった案だといえるのではないでしょうか。僕は、年金の他に医療保険も介護保険も、そして雇用保険も子育て支援の仲間に入れてもらいたいと言っているんですけどね(笑)。

「Interview データで語る、給付と負担の見たくない現実 権丈善一」HRmics vol.27 p.29

拙ブログでも「世代間対立を煽るということは、自分が歳を食ったときに自らが放ったブーメランで憤死することなのですよ。」なんて書いておりましたが、本特集でもデータが示されている通り、現状で貧弱な政府支出において高齢者向けの支出の占める割合が高いからといって「世代間格差ガー」と吹き上がる方々には、「いうまでもなく、現役世代向けの現金給付や医療などの公共サービスの水準が高いフランスやスウェーデンでは、その社会的支出を支える国民負担率が高いわけでして、その3分の2程度の国民負担率しかない日本では、現役世代向けの現金給付や公共サービスがクラウディングアウトされるのは当然の成り行きl」であるこことをぜひご理解いただきたいところです。

この文脈で考えたときに、権丈先生が提唱される「子育て支援連帯基金」について「「「本来」とか「そもそも」に続く話で、世の中、役に立った話は聞いたことがない」とまで言い切る権丈先生は、ここで勝負に出たのかもという印象」でしたが、改めてその趣旨を考えさせられました。端的には、現状の政治状況を考えれば、権丈先生が「これだけ増税の実現が難しいお国柄では、次善の策としてしばらくの間、社会保険ベースで国民負担率を上げて、速やかにとりかかるべき重要施策を開始するしかない」と指摘されるような現実を前にする限り、それに対処するならこうするしかないということなのでしょう。

以前取り上げた著書では、租税による普遍的な受益者負担と社会保険による選別的なそれを「租税抵抗」という言葉で対比して、

これまでみてきたように、日本の社会保障制度は人々の「共同の困難」に対処したものではない。それはむしろ、制度の分立状況やサービスが過小供給であることを前提に、受益者と非受益者という形で人々を分断させ、リスクを〈私〉化し、受益者負担を導くものである。受益の範囲が狭いために、反対給付を伴わない租税による財源措置では合意を得られない、という理由からだ。受益者負担の導入には、租税抵抗の回避がその根底にある。日本型負担配分の論理とは、このようなものだ。
p.72


『シリーズ 現代経済の展望 租税抵抗の財政学 信頼と合意に基づく社会へ』
著者 佐藤 滋 著 , 古市 将人 著
ジャンル 書籍 > 単行本 > 経済
シリーズ シリーズ 現代経済の展望
刊行日 2014/10/29
ISBN 9784000287364
Cコード 0333


…うーむ、この部分を読むと、政府の問題というより「租税抵抗」を示す国民が選別主義的な社会保障を志向しているという状況しか思い浮かばないのですが、本書は決して租税抵抗を示す国民を敵に回すことなく、その租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府を批判するんですよね。プリンシパル=エージェント的な意味で政府の行動を批判するならまだわかりますが、「民意」から遊離した政策決定を称揚するのでなければ、政府の行動はきちんと「民意」を反映したものという評価が妥当ではないかと思うところです。

「経済の領域よりも、むしろ政治的・心理的な領域(2015年10月26日 (月))」

という感想を持ったところでしたが、「租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府」が民意に従って行動しつつ、できるだけ普遍的な社会保障制度を構築しようとすると、「年金の他に医療保険も介護保険も、そして雇用保険も子育て支援の仲間に入れ」ることで普遍性を確保しながら、「社会保険に財源を求めつつ、その保険料に貼り付いた給付の請求権をいったんチャラにしたうえで、その使途を子育て支援連帯基金として主に現物給付により制限する」という制度につながっていくわけですね。

権丈先生のインタービューを受けて海老原さんは、少子高齢化の先の社会をこのように展望されます。

 ただ、そうは言っても、社会では現役世代が減り、彼らの負担のみがどんどん高まる。それは確かに不公平感が否めない。そこをどうするか。
 私はこの問題も、日本人の心がその出発点になっていると感じる。少子高齢化社会の悪いところしか見ていないからだ。
 今後は、高齢者が増え、現役世代は減るが、その分、現役世代は「雇用機会」が増え、待遇・給与の改善も進み、世帯収入は増えていく可能性がある。…(略)
 それでも人手は不足するから、今度は社会参加ができる高齢者が増える。そうした収入は生活の足しにもなるだろうし、それで年金を受給しはじめる年齢を自発的後ろ倒しにできれば、年金額自体も増やせる。何より、寂しい余生を送らなくてもすむ。
 そう、少子高齢化は悪いことばかりではない。問題は、それを前向きに受け止めるか否かだ。日本人はなんでも「ことの悪い側面」ばかりを強調する。それもついでにやめてしまおう。 
 次の社会を「世界で一番長寿を愉しめる環境のおかげで、女性も高齢者もスポイルされずに活躍できるようになった社会」と見るか、「長寿のせいで、女性も高齢者も働かなければならなくなった社会」と見るか、あなた次第ということだ。
 今の社会問題は、その一端が、私たちの「心」から発していると気づいておきたい。

「Conclusion 水と平和と福祉」HRmics vol.27 p.30

海老原さんはコラムのタイトルにある通り、この引用部の前段で「日本では水と平和はタダだという意識が強く、それに福祉も半ば加わっている」と指摘して、少子高齢化への対処も日本人の心の問題として、「悪いことばかりじゃない」社会を展望する必要性を提起されています。それは全く同意するところですが、ではなぜ日本人の「心」がそうなっているかといえば、それはとりもなおさず(特に男性労働者にとって)給与所得のみで生活するというメンバーシップ型雇用が強い規範として機能しているという、ある意味で循環的な隘路に陥っている状況が大きな理由として挙げられるでしょう。

その先に展望される高負担・高(中)福祉の社会が、雇用によって生活保障を確保するという社会に育った日本人に受け入れられるかも、極言すれば日本人の「心」の問題ではあります。つまり、メンバーシップ型雇用で生活給が完全に保障されるなら、わざわざ可処分所得を減らすような増税は「経済学的に正しくない」としてスポイルされてしまいますし、賃上げすれば再分配も必要なくなってしまいます。さらに労働受給が逼迫しても、現状のように集団的労使関係が労働者に見向きもされないままでは、賃上げの経路は閉ざされたままです。いやもちろん、集団的労使関係が見向きもされない原因の一端は戦後の労働組合の思想的闘争にあるとしても、憲法で保障された労働基本権を行使しない労働者が大多数であることがその直接の原因でしょう。日本人がタダだと思っているリストには、森戸先生や権丈先生が指摘される「話し合い」とか「(賃上げするための)労使交渉」も入れてあげた方がいいのかもしれませんね。