2016年08月04日 (木) | Edit |
既に1週間以上が経過しましたが、この度の津久井やまゆり園での凄惨な事件で命を落とした方に哀悼の意を表するとともに、怪我を負われた方の一日も早いご回復をお祈りします。障害者を家族に持つ者として、被害に遭われた方とそのご家族・支援者の心中を察するにあまりあります。直接の被害に遭われた方が心身ともに大きな傷を負ってしまったことはもちろん、今回の事件は全国の障害者とその家族・支援者にも大きな傷跡を残したといえます。その傷跡がその障害者を取り巻く社会によってさらに大きく深くえぐられるような事態は避けなければなりません。手をつなぐ育成会が発したメッセージが多くのメディアで取り上げられていましたが、そのメッセージにはこのような強い意志が込められていると思います。

 今後、事件対応に関わる皆様には、まずは被害者及び被害者の遺族・家族、同施設に入所されている方々のケアを十分に行ってくださるようお願いいたします。その上で、事件の背景・原因・内容を徹底して調査し、早期に対応することと中長期に対応することを分けて迅速に行いつつ、深く議論をして今後の教訓にしてください。加えて、本事件を風化させないように今後の対応や議論の経過を情報として開示してください。
 また、事件で傷ついた被害者やご遺族が少しでも穏やかに過ごせるよう、特に報道関係機関には特段の配慮をお願いします。

神奈川県立津久井やまゆり園での事件について 平成28年7月26日声明文(PDF)

常軌を逸した事件が発生し、それに対する配慮を求めることは当事者にとっては自然なものと思うのですが、社会の少なくない方はそれも許されないものとお考えのようです。

相模原殺傷 被害者の名前非公表に「逆に差別では」と障害者団体が疑問(2016年7月31日 13時10分 産経ニュース via livedoor NEWS)

被害者を記号化

 県警は26日の事件発生以降、被害者名を「A子さん19歳」「S男さん43歳」などと記号化して公表している。非公表の理由は「(現場が)障害者施設で障害者という条件のため。遺族による強い希望もあり、そのような判断をした」という。

 しかし、この対応には疑問の声が上がる。「幼いときに一緒の施設で過ごした人が被害に遭った可能性があるが、名前が出ていないので分からない」。自身も障害者で、27日に東京都立川市から事件現場を訪れた山田洋子さん(45)は困惑した様子で話した。

 神奈川県内で障害者支援を手がける10団体は29日、県に障害者に対する偏見の払拭を求める申入書を提出。その中で「一般的に公表される被害者の氏名が、この事件に関して公表されないことは大きな疑問を持たざるを得ない」と訴えた。扱いを分けることが、「(結果的に)差別となっている」という主張だ。

 立命館大学生存学研究センターの長瀬修特別招聘(しょうへい)教授(障害学)は「名前を公表せず、19人の人間を記号化してしまうことは、『障害者は人間ではない』という植松聖(さとし)容疑者の思想に重なる部分があるのではないか」と警鐘を鳴らす。

 さらに、「重要なのは被害者一人一人がどう生きてきたかを知って、社会が悲しみや怒りを共有することだ」と指摘する。

 産経新聞は29日付で、けがを負った被害者の家族を取材し、実名で報じている。

危うい「情報選別」

 被害者を「非公表」とするケースは、このところ後を絶たない。昨年9月、茨城県常総市で鬼怒川が決壊した水害で、市は「個人情報保護の観点から」氏名を伏せた上で「22人と連絡が取れない」と公表。5日後に「全員と連絡が取れた」としたが、その間、自衛隊や消防による救助作業が継続された。氏名が公表されていれば、「住民らの連携により素早い確認ができた」と指摘された。

 バングラデシュの首都ダッカで1日、日本人7人を含む20人が殺害された事件でも政府は当初、実名公表を控えた。その一方、報道機関の独自取材で判明した名前もあり、志を持って活動した犠牲者の姿などが世間に伝えられた。

 立教大学の服部孝章名誉教授(メディア法)は「実名の開示は、どんな人物だったのか、どんなことが起こったのかを検証するのに必要だ」と強調。「メディアが実名を報道するかどうかは、警察ではなくメディアが責任を持って判断することだ。当局による恣意(しい)的な情報選別は、都合の悪い情報の隠蔽(いんぺい)にもつながりかねない。『遺族感情』などを理由に、安易に匿名にすることは許されない」と批判している。

鬼怒川の水害やバングラデシュの事件と今回の事件を同列に扱うことに何の違和感も感じないようなマスメディアの方にとってみれば、「実名の開示は、どんな人物だったのか、どんなことが起こったのかを検証するのに必要だ」という服部氏の主張にも違和感を感じないのでしょうけれども、仮名でなぜ「どんな人物だったのか、どんなことが起こったのかを検証」できないのかよくわかりません。というより、ニュースやドキュメンタリーで仮名が使われることなど日常茶飯事でしょうし、その検証をすることそのものがマスメディアの使命だというならまだ理解できないではありませんが、それにしても野次馬根性と何が違うのかは依然としてよくわかりません。

障害者支援団体が「一般的に公表される被害者の氏名が、この事件に関して公表されないことは大きな疑問を持たざるを得ない」と主張すること自体は、障害者だけ違う扱いをすることが新たな差別を生むことを懸念したものであれば、その限りで意味があると思うのですが、それとマスメディアの「使命」なるものとは全く別問題であって、マスメディアの側が一方的に実名公表を主張する理由にはならないだろうと考えます。

匿名発表は「遺族の強い要望」 神奈川県警がコメント(2016年8月3日 22時15分 産経ニュース via livedoor NEWS)

 神奈川県警は3日、「津久井やまゆり園」での殺傷事件の犠牲者の氏名や住所を非公表とした理由について、「知的障害者の支援施設であり、ご遺族のプライバシー保護の必要性が極めて高いと判断した。遺族からも報道対応に特段の配慮をしてほしいとの強い要望があった」とのコメントを発表した。

 県警担当者によると、事件が発生した7月26日に園内に集まった犠牲者19人のうち18人の遺族に確認したところ、いずれも実名での公表を希望しなかったという。残る1人の遺族についてもその後、弁護士を通じて実名公表を希望しないとの意向を確認した。

 また、県は3日、犠牲者19人が入居前に住んでいた自治体の内訳を発表。横浜市と相模原市が6人、いずれも神奈川県の大和市、座間市、綾瀬市、秦野市、愛川町が1人、県外が2人だった。

 県は匿名発表について、「県警と歩調を合わせたい」とし、施設を運営する社会福祉法人「かながわ共同会」に確認したところ、「19人全員の遺族が氏名公表に反対している」との回答があったという。

 ■神奈川県警のコメント(全文)

 今回お亡くなりになった方々が入所していた施設は知的障害者の支援施設であり、ご遺族のプライバシー保護等の必要性が極めて高いと判断しました。また、ご遺族からも警察が報道対応するにあたっては、その点については特段の配慮をしてほしいとの強い要望がありました。今回の対応はこうした事情を踏まえたものです。

 ■「問題究明するすべない」服部孝章・立教大名誉教授(メディア法)

 「知的障害者や精神障害者だけ匿名扱いするのは、さらなる差別を助長するという問題の答えになっていない。それに今回のような介護施設や精神科病院で火災や事件事故があったとき、誰がけがをしたのか、誰が犠牲になったのかを公的機関しか把握していないというのは、外部が本人や家族らと接触できず、事故原因や捜査の仕方などについて問題の有無を究明するすべがなくなってしまう。匿名発表は行政にとって都合が良い話だ。知的障害者や精神障害者の施設は今後も増えていくだろう。遺族からの要望があるとはいえ、こういう判断がされたことで、将来に禍根を残したともいえる」

「事件で傷ついた被害者やご遺族が少しでも穏やかに過ごせるよう、特に報道関係機関には特段の配慮をお願いします」という手をつなぐ育成会の声明に示された障害者の家族・支援者の思いと、服部氏の「外部が本人や家族らと接触できず、事故原因や捜査の仕方などについて問題の有無を究明するすべがなくなってしまう」という指摘を比較考量するべきなのかもしれませんが、当事者になったかもしれない者としては、服部氏の主張は勝手な外部の言い分をヘリクツで正当化しやがるのかというのが正直な感想です。

服部氏はあちこちで同じような指摘をされているようですが、

相模原事件 「被害者氏名非公表」に従った記者クラブの欺瞞 2016.08.03 16:00

 理由について神奈川県警は、「遺族が氏名などを出したくないという意見を持っている」と説明した。そのことを新聞各紙は説明しているものの、それに疑問を呈した報道は少ない。

 奇妙ではないか。たとえば同じく7月に起きたバングラデシュでのテロ事件では、「家族の了解を得ていない」として政府が被害者の実名公表を控えるなか、新聞・テレビは次々に実名を報じた。

 朝日新聞は特集を組み、ゼネラルエディターが「人格の象徴である氏名や人となりなどを知ることで、志半ばで理不尽なテロによって命を落とした7人の無念さを社会が共有し、再発防止策、安全対策を探ることができると考えます」と主張した。

 では、なぜ今回に限って沈黙しているのか。服部孝章・立教大学名誉教授(メディア・情報法)が指摘する。

「仮に警察が実名を公表した場合でも、たしかに遺族の意向を踏まえて実名報道を差し控えた可能性が高い。

 しかし一方で、その方が亡くなったことを記録に残すのが人間の尊厳を守るということです。匿名は、その尊厳を傷つける可能性がある。そうした議論をメディアがしなければいけない」

 評論家の呉智英氏は、端的に「差別だ」という。

「かつて、出生時または幼少時からの聾唖(ろうあ)者を守るための減刑を規定していた刑法第40条が、『罰せられる権利がないのは差別だ』として削除されたことがある。今回の問題は、『障害者を守る』という名目で匿名にしている点が、同じく差別なのです。

 世の中の人たちは障害者の権利が制限され、差別されているのに気づかない。あるいは、気づいているが見て見ぬふりをしている。それが、今回の被害者の匿名報道の本質なのです」

 新聞・テレビは気づかないのか、それとも見て見ぬふりをしているのか。

※週刊ポスト2016年8月12日号

呉智英氏のヘリクツも大概ですが、服部氏のヘリクツに従えば、きちんと戸籍なり操作関係資料なりに記録が残されていようとも、マスメディアに名前を残さなければ人間の尊厳は守られないのでしょうか。マスメディアに名前が載ることは死ぬまでないであろう私のような凡人にすれば、素晴らしき野次馬根性ですねと申し上げるほかありません。

念のため、この問題はいろいろな利害が錯綜しているため、私自身もこれが結論というものまでは持ち合わせているわけでもなく、当事者になったかもしれない者としての心情を述べるにとどめたいと思います。それはそれとして、実名公表したときにマスメディアがどのような報道をするのか想像してみると、マスメディア側の主張のおそろしさが倍増する思いがします。よくある例では、卒業アルバムの寄せ書きや作文が掘り返され、SNSのリア充っぷりが悲惨な事件と対比して取り上げられ、職場や学校での写真を寄せ集められ、友人や近所の知り合いの評判がかき集められるのでしょうけれども、今回の事件ではマスメディアはどのような素材を集めようとしたのでしょうか。「新聞・テレビは気づかないのか、それとも見て見ぬふりをしているのか」とおっしゃる週刊ポストがどう報道したのかを想像するに、遺族側の意向を尊重した関係者のご判断に敬意を表する次第です。
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2012年11月25日 (日) | Edit |
小ネタですが、「復興アリーナ」のサイトに掲載される論説というのはいかにも「シノドス」的な雰囲気が感じられて個人的にはあまりなじめないのですが、そんな中でも陸前高田市や石巻市の仮説団地に暮らしている方々などの現地の方々のインタビュー記事には迫力を感じます。編集のうまさもあるのでしょうけれども、飾らずにありのままを語っている様子がうかがわれて、マスコミや意識の高い活動をされている方々の論説に比べると、生々しい空気のようなものを感じることができます。被災地から少し離れただけの当地でも震災の記憶が風化しているだけに、私もこうした声に触れる機会を大事にしたいと思います。

その「復興アリーナ」でも若干毛色の変わった現場からのインタビューが先日掲載されていまして、これがなかなか示唆に富んだ内容となっています。TBS社員から内閣広報室審議官に期限付きで就任した下村健一氏のインタビューでして、なぜ下村氏が?と思って読んでいくと、下村氏は菅前総理との学生時代からのつながりがあって、その縁で呼ばれたんだそうですが、下村氏の経歴を見ると、実は学生時代から政治活動に熱心だったんですね。そのような志向を持った方が大手マスコミに就職して、政府に対して執拗な批判を加えていたと考えると、まあマスコミの報道姿勢の一端がよく分かる気がします。

で、その下村氏の回想録ともいえるインタビューなのですが、正直そうした政治活動の延長のような高揚感に満ちあふれていてなんともお腹いっぱいな感じがしてしまいます。まあ、特に震災後の状況の中で高揚感を持たないわけにはいかないとは思いまし、私自身震災後のエントリを読み返すと気恥ずかしくなるようなことも書いているわけですが、その下村氏も政府内での利害調整に否応なく引き込まれていったようです。

難波 そこまでは良かったのかもしれません。でも、そのあと出てきた政府の結論である「革新的エネルギー環境戦略」に国民的議論はブリッジできたんですか。

下村 もちろん! 当然だけど、あらゆる文書には、実際にそれを作文した人がいるわけですよ。詳しくは明かせないけど、そのプロセスに、ぼくも少しだけ関わりを持ったので言えますが、あの“戦略”文、ものすごいせめぎ合いの中で、古川さんたちが「これだけは残そう」としたものは、残しきりました。“30年代に稼働ゼロを目指す”、とくにその中の“ゼロ”という二文字とか、“新増設を認めない”、“40年で廃炉”というのを残せたんです。

難波 原案はぜんぜん違うものだったんですか?

下村 そりゃ交渉事ですから、第1球は、もちろん高めの球を投げますよ。「原発残さないと日本経済がダメになる」と思っている人たちも、「これを機会に、ほんとに脱原発しなきゃ」と思ってる人たちも、どっちも真剣だもん。「うちの町の暮らし、どうしてくれるんだ」と思っている人たちも真剣だし、「海外との関係、どうするんだ」と心配している人たちも真剣。全部真剣なわけですよ

そのぶつかり合いの中で、ぎりぎりどこに、最終的な文言を落ち着けるかっていうのは、これはもう、最初から当然わかっていたものすごい勝負ですよ。誰もが、みんな自分の立ち位置から、“理想の最終文案”を頭の中に持っているわけですよね。「原発はいずれ基幹電源に戻す」と「ただちにすべてゼロにする」を両端にして、いろんな理想像を思い描いている人たちがいる中で、一本の文章にしなきゃいけない。みんな互いに譲れない一線がありました。

下村健一氏インタビュー【広報室審議官編】 震災、原発、首相交代 ―― 霞ヶ関広報の変化の芽を、過去形にしたくない 難波美帆(2012年11月20日)」(復興アリーナ
※ 以下、強調は引用者による。

政府内部での利害調整の厳しさについては、最近では同じく民間から内閣府参与となった湯浅誠氏が書かれていますが、

 しかし、居酒屋やブログで不満や批判をぶちまける人、デモや集会を行う人たちの中には、それが奏功しなかった場合の結果責任の自覚がない人(調整当事者としての自覚がない人、主権者としての自覚がない人)がいます。それらの行為がよりよい結果をもたらさなかったのは、聞き入れなかった政府が悪いからだ、で済ましてしまう人です。その人が忘れているのは、1億2千万人の人口の中には、自分と反対の意見を持っている人もいて、政府はその人の税金も使っている、という単純な事実です。相互に対立する意見の両方を100%聞き入れることは、政府でなくても、誰でもできません。しかしどちらも主権者である以上、結局どちらの意見をどれくらい容れるかは、両者の力関係で決まります。世の中には多様な意見がありますから、それは結局「政治的・社会的力関係総体」で決まることになります。だから、自分たちの意見をより政治的・社会的力関係総体に浸透させることに成功したほうが、同じ玉虫色の結論であっても、より自分たちの意見に近い結論を導き出すことができます。

(略)

 あたりまえのことしか言っていないと思うのですが、実際にはそのあたりまえが通用しない局面があります。現実的な工夫よりは、より原則的に、より非妥協的に、より威勢よく、より先鋭的に、より思い切った主張が、社会運動内部でも世間一般でも喝采を集めることがあります。そうなると、政治的・社会的力関係総体への地道な働きかけは、見えにくく、複雑でわかりにくいという理由から批判の対象とされます。見えにくく、複雑でわかりにくいのは、世の利害関係が多様で複雑だからなのであって、単純なものを複雑に見せているわけではなく、複雑だから複雑にしか処理できないにすぎないのですが、そのことに対する社会の想像力が低下していっているのではないかと感じます。
 テレビや新聞の断片的な情報と、それを受け取った際の印象で自分の判断を形成し、それがきわめて不十分な情報だけに依拠したとりあえずの判断でしかないという自覚がなく、各種の専門家の意見に謙虚に耳を傾けることもなく、自分と異なる意見に対して攻撃的に反応する。ツイッターでもブログでも、テレビのコメンテーターから中央・地方の政治家から、そして社会運動の中にも、このような態度が蔓延しており、信頼感と共感は社会化されず、不信感ばかりが急速に社会化される状態、他者をこきおろす者が、それが強ければ強いほど高く評価されるような状態、より過激なバッシングへの競争状態です。

【お知らせ】内閣府参与辞任について(19:30改訂、確定版)(2012年3月7日水曜日)」(湯浅誠からのお知らせ

「わかりにくいのは、世の利害関係が多様で複雑だから」であるにもかかわらず、テレビで断面的な報道をしてきた方(と一括りにするのは不適切かもしれませんが、下村氏は「みのもんたのサタデーずばッと」にも出演されていた方ですし)が、とにかく「わかりやすさ」ばかりを気にしているのが、まさにそれを象徴しているのでしょう。

難波 「期待された」というのは、誰かからそう言われたというより、自分の中で、こう期待されているんだろうと考えていたことですか。

下村 両方です。入るときにいろんな人から、「お前が政府のわかりにくさをなんとかして来い」と言われました。まず、いきなり去ることになって迷惑をかけた、「みのもんたのサタデーずばッと」(TBS テレビ系の報道番組:下村氏が一コーナーを担当)のスタッフたちから、「送り出してよかったと言える働きをしてくれよ」と送別会で言われました。“働き”とは何かと言えば、もちろん「政府の都合のいいようにメディアをコントロールすること」ではなく、「本当に政治が何を目指してやっているのかをわれわれ国民に届けること」と、「われわれの声を政府の中に届けること」、このふたつです。そのあと、この転身話がオープンになってからは、いろいろな人たちに同じ趣旨のことを言われました。

下村健一氏インタビュー【転身編】 メディアから官邸へ ―― 決断の本当の理由と、今だから話せる官邸の第一印象 難波美帆(2012年11月19日)」(復興アリーナ

で、その下村氏も関わったという「革新的エネルギー環境戦略」については、こう力説されます。

下村 みんな、最初の4ページ分の北風戦略のところだけを見て、経済界は、「国民にこんな寒い思いをさせるつもりか」と言い、反原発の人たちは、「この程度じゃ、旅人はコートを脱がないじゃないか」と言う。だけど、そのあとに11ページ分の太陽戦略があるから見てくれ。文字通り“太陽”光発電のこととかが書いてある。

ここを読めば、心配する経済界も「これならやっていける」と思い、反原発の人も「これならコートを脱げる」と思える。そういうものをぼくらは書いたつもりなんです。しかも、「政府だけではできません」と、正直に書いた。北風は政府だけで、できる。方針決めて貫けばいいんですから。しかし太陽の方は、国民みんなでやらなきゃできません。

難波 しかし、「30年にゼロ」っていうのが国民の過半数の意見だったというところから見ると、「30年代にゼロ」っていうのは、嘘があると感じるんじゃないですかね。30年代としたことで、骨抜きにされるんじゃないかという報道もありました

下村 嘘はないよ。徹底オープンで検証した国民的議論の結果は、「過半数の国民は、原発ゼロ」だけど「いつまでにゼロにするかは、意見が分かれている」でした。「30年にゼロが過半数」という結論じゃありません。

それから、「結局今回の戦略は15%シナリオじゃないか」って言う人もいますけど、15%シナリオというのは、2030年までに15%ぐらいにして、そこから先、さらに減らすか増やすかは、その時点で決めるというものでした。今回のは「ゼロを目指す」と言っているから、15%シナリオとは決定的に違います。もちろん、30年に0%じゃないから、ゼロシナリオとも違いますよ。いわばゼロと15%の間になったんですよ。そこがなかなか伝わってなくて

下村健一氏インタビュー【広報室審議官編】 震災、原発、首相交代 ―― 霞ヶ関広報の変化の芽を、過去形にしたくない 難波美帆(2012年11月20日)」(復興アリーナ

若干の苛立ちを感じるインタビューですが、まあ、ご自身がその立場になって初めて官庁文学の読み方を理解されたというところでしょうか。引用だらけで恐縮ですが、権丈先生の言葉を借りれば、

「両論併記が目立つ」とか「明確な結論が見あたらない」と書いている新聞もあるけど、それは、読解力の問題だ――いや、官僚のねらいどおりの解釈(笑)。複数のプリンシパルに仕えなければならず、それはそれなりに立場があって、最後の手柄は政治家に残していなければならない彼らがまとめる報告書の文章を、(責任のある立場にない)政治家や利益集団、そしておっちょこちょいの研究者集団が書く政策提言書と同じ読み方をしていては、ただの無能の評価を受けるだけ

勿凝学問222 民主主義における力・正しさ・情報の役割――「高齢者医療制度検討会」における「ポンコツな医療保険」発言以降考えていること(2009年3月21日)(注:pdfファイルです)」(http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/

というところでして、官庁文学の作成に携わったおかげで下村氏も晴れて「無能」の評価を免れたようでして、何はともあれご同慶の至りです。

2012年03月04日 (日) | Edit |
拙ブログはパオロ・マッツァリーノさんの「スタンダード 反社会学講座」での軽妙な語り口を一つの目標として始めた経緯があるわけですが、その後『つっこみ力』とかちょっとアレな方向に進んでしまったように思えて、著作はしばらくフォローしていませんでした。ところが、最近出された著作が相変わらず軽妙な語り口の中に考えさせられる内容が盛り込まれていて、まっつぁん(と尊敬の念を込めて呼ばせていただきます)に対する認識を改めました。

実は、一つ前の『13歳からの反社会学』の後半部分を読んだときにいまいち消化不良気味だったのが、「第7章 芸能ニュースからだって、学べることはたくさんある」の結論部分でして、この問題提起は十分にかみしめる価値があると思います。

●批判は改善のチャンス

 羊水発言の件を倖田さん個人の無知と失言として処理してしまったことを、私はとても残念に思います。
 だれかを責めることばかりに目が向いてしまうと、ものごとの本質を見失ってしまうことがあるんです。この件だって、責任追及ばかりに血まなこになって、「なぜいけないのか」「なにが問題だったのか」をみんな考えようとしなかった。
(略)

●中身より形が大事な日本の謝罪

 日本人の大好物といえば、謝罪会見です。日本人は、有名人やエラい人が報道陣のカメラの前で誤る姿を見ると、とても嬉しくなるのです。
 事件、事故、不祥事が発覚すると、企業の経営陣や政治家、そして芸能人までが、カメラのフラッシュが炸裂する中で、深々と頭を下げます。その姿はテレビ画面に映し出され、全国に中継されます。有名人やお偉いさんが屈辱にまみれる姿を、みんなでウキウキウォッチンです。
(略)

●「だれが」より「なにが」を考えよう

 でも、なんでも謝罪で済ませる風潮は、私はよくないと思うんです。あらゆる問題を「世間を騒がせた」という、わけのわからない罪にすり替えてしまうのは、日本人の悪いクセですよ。
 今後、芸能人や有名人の謝罪会見をテレビで見たら、だれが悪いのかはひとまず脇においときましょう。そういう責任追求は、必要ならば警察や法律家がやってくれるんだから。
 そうじゃなくてわれわれは、なにが悪いのだろう、この騒ぎはなにが問題なんだろう、どうすればいい方向へ向かえるのだろう、と考えてみるべきです。
pp.214-216

13歳からの反社会学13歳からの反社会学
(2010/09/10)
パオロ・マッツァリーノ

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※ 以下、下線強調は原文(原文では傍点強調)、下線太字強調は引用者による。

私が消化不良に感じたのは、「どうすればいい方向へ向かえるのだろう、と考えるべき」とまでいうなら、「謝罪会見をテレビで見たら」という消極的な立場からではなく、「謝罪よりも重要な防止策や改善策といった今後の対応を国民全体で共有するのが会見という場だ」と積極的な立場から「謝罪会見」を否定してほしかったからです。

拙ブログでも何度か取り上げていますが、がれきの受け入れが進まなかったり、被災地というだけで風評被害を受けてしまう現状は、「東電が悪い」「政府が悪い」「東電と政府のせいで被災地は汚れてしまっているから自分のところにもってくるなんてもってのほかだ」という世論が作り出されたことに原因があるように思います。日本のマスコミは、「なにが悪いのだろう、この騒ぎはなにが問題なんだろう、どうすればいい方向へ向かえるのだろう」と考えることなく、東電の記者会見の場を、原因解明の場ではなく謝罪ばかりを求めるフリージャーナリストが跋扈する場に変えてしまい、確かな情報で冷静な対応を呼びかけることもなく、ヒステリックに「放射能」の恐怖をまき散らしてきました。まあ、マス「コミュニケーション」というのは送り手と受け手から成り立つものですから、東日本大震災という未曾有の災害が起きた後でも、「誰か悪いやつがいるから問題や事故が起きたのだから、そいつらに謝罪させなければならない」という思考法から、日本全体が抜け出すことはできなかったと考えるべきかもしれません。

で、まっつぁんの新著では、「第八章 つゆだくの誠意と土下座カジュアル」この謝罪会見についてデータを交えて考察されています。

 2001年以降、朝日も読売も、圧倒的に「謝罪会見」が多くなりました。大宅壮一文庫の雑誌記事見出し検索でも、「謝罪会見」の文字は2002年から急増しています
 これはべつに、新聞社や雑誌社が意図的にやったことではありません。マスコミの人たちだって一般市民のひとりだし、一般読者が求めるものや気分をつねに意識しています。ですから自然と一般読者が喜びそうな方向へと、言葉や記事内容は変化していくものなのです。
 世紀の変わり目を境に日本人は、他人の釈明を聞いて善悪をあれこれ深く考えるよりも、なにも考えずに悪と決めつけて謝罪させることのほうを、より強く求めるようになったようです。
p.175

 いやあ、欧米は釈明、日本は謝罪の文化、などと単純化してしまったのは、お恥ずかしいかぎりです。その理論には修正が必要なようです。もちろんむかしから、日本人が他人のミスや失敗にきびしくあたり、事態の解明よりも責任論に走りがちな傾向は見られました。けど、20世紀までは日本人もまだ、ヘタこいた人間の釈明を聞いてやるだけのふところの深さがあったのです。
 しかしここ10年ほどで、どういうわけか日本人は、ひどく不寛容になってしまったようです。他人のミスや失敗を糾弾し、釈明よりも謝罪を期待し(あるいは要求し)、頭を下げるさまを見て溜飲を下げる品格のないオトナが増えました
 だったら、謝罪すれば許すのかというと、それがそうでもない。今度は謝罪の内容や言葉、作法に誠意が見られない、と難癖をつけていつまでも許さないのだから、どうしたらいいものやら。日本では、一度でもミスや失敗を犯した人間は死ぬしかないってことですか。こんな不寛容な社会では、日本の自殺率が高いのも無理はないなと思えてきます
p.176

 新聞の読者投稿欄を見ても、「政府には誠意ある対応を望む」「企業側は誠意ある態度を見せるべきだ」みたいな怒りの投書がごまんとあるんです。お怒りになっていることはわかるのですが、私はその投書者たちに逆に聞きたいのです。あたのいう誠意って、具体的には何かね? と。
 誠意ある対応とか誠意ある態度、謝罪とはどういうものなのか、具体的に提示しなければ相手は対処のしようがないから、永遠に相手を責め続けることができるのです。なんて陰湿な責めかたでしょう。相手から豚を贈られればとりあえず矛を収める人たちの方が、よっぽど紳士的です。
p.182

パオロ・マッツァリーノの日本史漫談パオロ・マッツァリーノの日本史漫談
(2011/09/26)
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震災後の東電に対する報道や「市民の声」というものを見ていると、まさに「誠意って何かね」と謝罪を求める立場の菅原文太が投げかけた言葉のやりきれなさを思い出します。被害を受けた側が謝罪を求める中で、その謝罪をする相手に「誠意」の考え方を聞くというのは、暗に「オレが納得するまでは許さない」という意思表明にも見えます。謝罪会見が急増しだしたここ10年くらいで一般に広まった言葉に「説明責任」というのもありますが、「「納得のいく説明」なんてのは極めて主観的なものであって、特に建設的じゃない野党が「納得できない」と言い張れば、いつまででも政府に対して説明責任を求めることが可能になる」のと同じように、際限のない謝罪を求めることができるようになってしまう危険性を感じてしまいますね。この著作では、2001年ころから謝罪会見が急増した理由までは述べられていませんが、個人的にはこの「説明責任」が際限のない謝罪を求める際の理論的な根拠を与えてしまったのではないかと考えるところです。

まっつぁんの新著でもう一点私が見直したのが「第十章 たとえ何度この世界が滅びようと、僕はきみを離しはしない」でして、「亡国論」の類いをあおり立てる論者の無責任ぶりを痛快にぶった切りされています。

 日頃から他人を辛らつに批判・嘲笑している識者ほど、えてして、ご自分が俎上に載せられると、笑う余裕もなく逆上するものです。来月あたり「パオロとかいうふざけた名前のやつが日本を滅ぼす」みたいな滅亡論が、東京都の定例会見で述べられたりするかもしれません。それとも、「わたしらは、世を憂えてまじめに警告を発してやっているのに茶化しやがって」とおかんむりになってます?
 よろしい。では、そろそろこちらも真面目にお答えしましょう。
 個々の問題に対するみなさんの主張やご意見には、正しいものもあれば間違ったものもあります。ただね、個々の問題の正誤と、国が滅びるかどうかのあいだには、なんの関連もないんです。特定対象への批判が、一足飛びに亡国までいってしまう論理の飛躍がみえみえなんです。だから、亡国だの滅びだのと、きちんとした論証もできてない戯れごとをいうのはおやめなさい、とご忠告申し上げているのです。
 ありていにいえば、亡国論や滅び論は、私憤を大義にすり替えるための装置にすぎないのです。自分が個人的に気にくわない相手がいたり、そいつらがやっていることが気にくわなかったとき、冷静にスジを通して批判するのでなく、そいつは国や世界にとっての敵だぞ、そいつが国を滅ぼすぞ、と感情的にわめき立てることで、お手軽に批判対象を公共の敵に仕立て上げようとする、せこいトリックなんです。
pp.268-269

 予想がハズれるだけなら、いいだしっぺの失点となるだけで済みます。でもちょっと待ってくださいよ。これまで「○○が日本を滅ぼす」と名指しで糾弾されてきた数百もの○○の名誉はどうなるんです?
 個々の問題について、○○が犯人であるかどうかはべつとして、結局日本は滅んでいないのだから、少なくとも亡国犯・滅亡犯としての告発に関しては、明らかに冤罪じゃないですか。だれかそのことで謝罪した識者がいましたか? 亡国論、滅び論は冤罪製造装置でもあるんです。だからまともな知性と倫理観を持つ者は、亡国論なんてのを気安く口にすべきではないんです。
 反論がきそうなので、先回りしていっちゃいましょう。「おれが亡国の警告を発したから、事態が改善され、亡国の危機をまぬがれたのだ」。
 残念でした。それは論理的な証明になっていません。「仮にあなたが警告を発しなかったとしたら、日本は滅びていた」ということを確実に証明できないかぎり、あなたが正しかったことにはならないのです。「あなたが警告を発しなくても、日本は滅びていなかった」可能性もあるのですから(わかんない? だったら論理学を基礎から勉強してください)。
pp279-280

パオロ・マッツァリーノ『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』

拙ブログでも飯田先生の『ダメな議論』から同趣旨の部分を引用して疑問を呈していましたが、「日頃から他人を辛らつに批判・嘲笑している識者ほど、えてして、ご自分が俎上に載せられると、笑う余裕もなく逆上するもの」というのはまさにその通りですね。まあ、この方とそのお仲間は相変わらず「お手軽に批判対象を公共の敵に仕立て上げようとする、せこいトリック」を駆使していらっしゃるようで「まともな知性と倫理観」は期待できなさそうでして、あの界隈の方々にも「誠意って何かね?」と聞いてみたくなりますね。

「復興増税」亡国論 (宝島社新書)「復興増税」亡国論 (宝島社新書)
(2012/01/10)
田中秀臣(たなか・ひでとみ)、上念司(じょうねん・つかさ) 他

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2012年02月05日 (日) | Edit |
ついでなので、これも前にメモっておいたことをまとめておきます。

もう一つNHKの番組で、こちらは録画はせずに家族が見ているのをチラ見しただけなんですが、「シリーズ日本新生 生み出せ!“危機の時代”のリーダー」というのがありました。全部を見たわけではないので、番組の概要を引用しておくと、

番組内容
震災や円高、巨額の財政赤字など政治・経済の苦境からなかなか脱出できない日本。この難局を打開できるリーダーを生むには何が必要なのか。有識者と市民が徹底討論する。

詳細
震災や円高、巨額の財政赤字など政治・経済の苦境から、なかなか脱出できない日本。被災地では若いリーダーが誕生する一方、首相は次々と交代。大企業トップを巡る不祥事も相次ぎ、海外メディアからは「リーダーレス・ジャパン」と揶揄(やゆ)されている。「なぜ日本にはリーダーが育たないのか」「国際社会に通用し、スティーブ・ジョブズのような新時代を切り開くリーダーを育てるには」など、有識者と市民が徹底討論する。

出演者ほか
【ゲスト】多摩大学大学院教授…田坂広志, 【ゲスト】元内閣官房長官…野中広務, 【ゲスト】東京大学大学院教授…姜尚中, 【ゲスト】放送プロデューサー…デーブ・スペクター, 【ゲスト】元経済産業省官僚…古賀茂明, 【ゲスト】京都大学准教授…瀧本哲史, 【ゲスト】ナガオカ社長…三村等, 【ゲスト】弁護士…土井香苗, 【ゲスト】社会学者…古市憲寿, 【ゲスト】アレックスCEO…辻野晃一郎, 【ゲスト】台湾AUO技術者…松枝洋二郎, 【ゲスト】ノンフィクション作家…河添恵子, 【ゲスト】フィンランド語通訳・翻訳家…坂根シルック, 【ゲスト】ジャーナリスト…三神万里子, 【司会】三宅民夫, 守本奈実

NHKスペシャル シリーズ日本新生「生み出せ!“危機の時代”のリーダー」

・・・なんというか、「姜尚中」とか「デーブ・スペクター」とか「古賀茂明」とか「瀧本哲史」とか、リーダーにはほど遠い(少なくとも私の職場にいたら迷惑そうな)方々がリーダーについて語るというのは何かの冗談かと思ってしまいました。私が見たのは古賀茂明氏と三神万里子氏のプレゼンでしたが、古賀氏のプレゼンは、「官僚は年功序列で先輩のメンツをつぶせない」とか「事前調整しなければならないので思い切ったことができない」とか、組織で仕事をしたことのない新入社員のような主張で、しかもスタジオに呼ばれていた国交省の若手キャリアも同じようなことをいっていて、霞が関の劣化はかなり深刻なように思いました。組織の中で先輩がいないということはありませんし、複数の部署に分かれている組織の中で調整が要らない業務なんてほとんどないわけで、それが原因で仕事ができないというのであれば、それは単に「私は仕事ができません」と告白しているだけですね。組織の中で仕事をするというのは、関係部署や上司のメンツを保ちつつ、その中で必要な要素を忍び込ませて了解を取り付けるといった、肉を切らせて骨を切る手法をいかに駆使ししていくかにかかっています。一見迂遠なようですが、後々のトラブルを考えるなら、事前にできる限り調整を済ませておく必要があります。まあ、それをチホーコームインごときに指摘されるようでは霞が関ではやっていけないのも仕方のないことなのでしょう。

続く三神万里子氏のプレゼンは、「管理職もどきを現場にもどそう」というもので、指摘されている現象はそのとおりだろうとは思いますが、これもまた人事の変遷の現場をご存じない外野の意見だよなあという印象でした。少子化と90年代半ばから断続的に続く採用枠の限定によって会社組織内の年齢構成が変わってしまったわけで、その結果として権限のない管理職が増えたのはそのとおりとしても、だからといって現場に戻せば解決するというものではないというのが人事の難しいところです。むしろ「スピーディーな意思決定」とかいって組織をフラット化したことが権限のない管理職の大量発生の原因でもあったところですし、管理職を現場に戻したら現場の次世代のリーダーが育たないとか、一筋縄ではいきません。

まあ、感想としては、前回エントリと今回エントリを含めてテレビを見た時間を返してほしいと思ったのも珍しいです。おっとこれはさすがに「自己責任」ですね。
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2012年02月05日 (日) | Edit |
拙ブログを振り返ってみると、取り上げているテレビ番組がほとんどNHKとなっていて、おそらくは取り上げる内容が被災地の現状を伝えているものが多いので引用することが多くなっているのだろうと思います。まあ普段見るのはほとんど民放のバラエティ番組でして、しばらくこの年末年始に録りためていたNHKの番組をほったらかしにしておりましたが、ちまちまと流し見たところあまりにもあんまりでした。そりゃもちろんNHKだって日本のマスコミですから、NHKだけがまともな番組を作るわけでもなく、むしろ「時流を捉えた」番組を作ろうとすればするほど易きに流れていくのは世の習いというところでしょう。

あらかじめお断りしておけば、どの番組もやたらと長いので早送りでかいつまんで見たという程度でして、正確な発言趣旨を理解していないこともあります。まあ、あまりに「?」な発言は巻き戻して確認したりもしていますので、それほど見当違いの解釈にはなっていないとは思いますが。

で、続編が決まったとのことで暗澹たる気持ちになるところですが「新世代が解く!ニッポンのジレンマ」では、「新世代」といわれている1970年代生まれの現状認識の浅はかさがあんまりでした。かく言う私も1970年代生まれではありますが、彼らの当事者意識が浮遊している議論を聞いていると、幾分かは実務経験を積んだ甲斐があったのかなと思いました。番組の流れは、ポイントで宇野常寛氏が発言してそれに対する異論や賛同の意見が連鎖していくというパターンが多かったのですが、宇野氏の発言の中でも「正社員でなければ生活できないような日本のOSを書き換えて、非正規でも生きていける社会にしなければならない」という主張が後々まで議論を拘束していたようでした。

でまあ、拙ブログの関心領域でもある「労働」カテゴリってのは、そういうことばっかりを議論してきたつもりでして、30~40代にさしかかっている出演者というのは、会社なら課長クラスまで昇進しているだろう年代なわけで、その人事労務政策に対する認識や実務感覚の貧困さには憤りを通り越して哀れさを感じます。最後のまとめで象徴的だったのが、水無田気流氏の「テレビを見ている皆さんも、ネットでも何でもつながろう」と呼びかけていて、それを番組の主要テーマである雇用の場で確保するものこそが憲法第28条で規定される労働基本権なわけです。いつもの繰り言になりますが、拙ブログがしつこく集団的労使関係の再構築の重要性を強調するのも、立場の異なる相手と交渉し、その中でお互いが自らの利害を主張しながら、時には実力行使を交えつつ調整を図っていくというプロセスを、普通に働く場で自らの問題として経験することが身の回りの社会を改善していく確実な方策だろうと考えるからです。

実際に、現行の日本型雇用慣行は、時には流血の事態を引き起こしながらそうした集団的労使関係の中で構築されたものでして(この辺の歴史的経緯はhamachan先生の新著をお読みください)、「OSを書き換える」ような簡単な話ではありません。少しずつ方向転換をしながら、その中で様々な立場にある労使の当事者、特に労労対立の中で対話により利害調整を図りつつ、一つの雇用形態や片務的な雇用慣行に縛られない雇用慣行を形成するしかないわけです。バブル崩壊後の日本では、決定的にその経験が不足しているため、「統治機構を入れ替える」というどこぞの「カイカク派」に容易く取り込まれてしまうのだろうと思います。

ところが、「人事コンサルタント」の肩書きで「ワカモノマニフェスト」とかいう世代間対立を煽ることしか頭にないアラフォーが出演していて、その発言を聞くたびに頭が痛くなりますね。40も過ぎれば次の世代に「ワカモノマニフェスト」を突きつけられる番になるわけですが、彼らがどこまでそれを自覚しているのか怪しいものです。まあ、彼らの年代がお好きな「成果主義」が、その目的や副作用を十分に検討されることもなく導入された結果として、「内部事務や利害調整という行政の重要な機能が、成果主義、組織のフラット化、現場主義の名の下に衰退していくわけで、これが数年以上経った段階でその弊害が無視できなくなったころにやっと見直しの機運が出てくるという形で、無限ループが繰り返されている」のですが、そろそろ私もその批判の矢面に立たされる準備をしなければならないのでしょう。世代間対立を煽るということは、自分が歳を食ったときに自らが放ったブーメランで憤死することなのですよ。

まあ、ブーメランを好むという点では飯田先生の実務感覚のなさぶりも際立っていました。飯田先生はしつこく「事前規制から事後規制へ」という主張をくり返されていたんですが、小沢元民主党代表の発言を引くまでもなく、「グランドキャニオンには柵がない」というのは、濫訴大国であるアメリカで成り立つ議論です。事後的に「自己責任」で国なり州を相手取って訴訟を起こせば勝てるかも知れない(もちろん、そこまでの資力がなければ提訴すらできないことはいうまでもありません)のですが、日本で訴訟を起こすということはアメリカよりもさらに時間的・資金的ハードルが高いわけで、それでどうやって「自己責任で」事後規制にして安全を確保するのかという視点が、飯田先生はもちろん小沢元代表には欠けています。事後規制で自己責任というのは、訴訟で負けないように自分の行動を規制するコミットメントの効果によって安全を確保しようというのがその目的であって、いうまでもなく勝手に落ちて死んでしまえというのが目的ではありません。同じように、日本が事前規制によって安全を確保しようとするのは、事後的に救済されうるとしてもそこにたどり着くコストが高ければ、実質的に落ちて死んだ人もその家族も救われないからでしょう。

それでも、事後規制によって安全を確保できれば行政コストが削減できるとおっしゃるのかもしれませんが、現状は、事前規制がなくて死んでしまったり健康被害が発生すれば、「国の規制が甘かった」とか「役所がきちんと実態を把握していなかった」とかいわれるわけで、とても現実の実務に落とし込める代物ではありません。現状で事後規制に方向転換しても、結局は事後規制で国とか地方自治体が訴訟で負けまくって、その賠償金の原資は増税という形で国民が負担することもありえますから、事前規制に要する人員以上に高コストになる可能性も十分にあります。マクロ経済学者が「キセーカンワ」の類のことを主張されると、いかに飯田先生でもトンデモな議論になってしまうという実例というところでしょうか。

なんというか、しばらく前には「世間知」と「専門知」という対立で描かれる時期があったように思うのですが、それは本質的な対立ではなく、お互いに「俺の方が詳しい」と言い張る「学術知」と「実務知」が不毛に対立しているというのが実態のような気もするところです。ケインズが「知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかのトンデモ経済学者の奴隷です」と「実務知」と「学術知」を対比して取り上げていたのには、こうした洞察があったのかもしれません。
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