2019年07月25日 (木) | Edit |
前回エントリで「障害者が選良として議会の場に参加することそのものについてはまた別途」と書いたところ、早速こんな増田がアップされていました。

社会が重度障害者を理解し、サポートできるようにするため、社会の代弁たる国会から変えていきたい。という希望論は理解できます。

ですが、船後氏のような重度ALS患者は喋れないので、特殊な機器や透明な文字盤を目で追うことで伝えるしか無く、1つ文章を作るだけでも数分かかってしまいます

さらにALSはどんどんと筋肉が低下していくので、文章を作る時間は伸びていき、やがて目や指さえも満足に動かすことができなくなり、意思疎通が大変困難になります。

質問も反論もすぐに出来ないのに、国会で十分な議論に参加出来るでしょうか?


それこそ、社会がサポートして代弁するべきです。


私の家族も、どんどんと意思疎通が出来なくなり、特殊な機器で打っていた文章にも誤字が多くなり、目の筋肉が低下して文字盤を追うことも出来ず、最後の半年には文章や文字盤での意思疎通が出来なくなりました。

十分な意思疎通が出来ず、涙を流していました。それを自分で拭くことも出来ませんでした。

そのようなことを、国会でやるのは、ALS患者やその家族遺族に希望を与えるというより、やるせないふがいない気持ちを与えることになると思います。


船後氏や山本氏は、そのようなことを分かっているのでしょうか?

現実的ではない希望論や、行き過ぎた正義を、振りかざしているだけではないでしょうか?

2019-07-22 ■ALS患者のれいわ・舩後氏の参議院選当確について
※ 以下、強調は引用者による。

私自身も重度障害者の家族として、ここに書かれたALS患者のその通りだろうと思われますし、遺族の方がその思いを吐露して疑問を呈することは正当な行為として認められるべきと考えます。その疑問に対してどのように応えていくのかについて、具体的な行動が社会に求められているわけですが、その「社会」にはもちろん、ALS患者を参議院議員候補として擁立した政治団体も含まれていますし、当選したこの方を受け入れることになる国会も含まれています。そしてその国会とは、「国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関」(日本国憲法第41条)であり、かつ、まさに今回の選挙で有権者によって選ばれた選良の方々によって運営されるものです。

その運営方法については、一部は日本国憲法によって定められた手続きがありますが、合議体としての国会が自らの運営そのものを合議によって決めているわけでして、具体的には議院運営委員会で決定された先例によって運営されています。その運営に現れる議会の役割を理解しなければ国会の機能とか議員の役割を議論することはできませんので、実務担当者による説明を参照してみましょう。

…つまり、会議というのは、純粋に構成員が自由に考え、発言して何かを作り上げていくというのではなく、リーダーの考えを公表し、それをオーソライズさせるためのものと言っていい。こう考えると、少数の人たちの合議の場合も、結局は一人の人が判断していく形に収斂していくと考えていいだろう。
 これは、統治の場面も同様で、統治者の数によって、「王政」、「貴族制」及び「民主制」に分けられたけれども、実際には、いずれの場合も実質的統治者(意志決定者)は一人に収斂していくのである。このことに気づくことは、政治学研究の上でももっとも大事なことである
p.11

 だが、われわれがもう一度よく考えなければならないことは、近代デモクラシーとは、つまるところ、国民の普通選挙であって、国民は自分の幸福を考えるから、彼らに自由に選択させると、その方向に向かっていくと結論づけるのは、あまりに短絡だということである。ヒットラーが登場したのも、実際、デモクラシーからであった。選挙は結果を保障するものではない。単に、自分たちもそれに参加したのだから、そこから生まれる果実は受け入れなければならないという「自己責任」なのである
p.27

 これまで述べてきたように、議会は、統治の主体ではなく、統治者たる政府の外にあって、統治者の判断や行動が間違わないように、あるいは間違った場合に、それを修正したりその責任を追及したりするための統治の最適化を職責とする政治的機関なのである。これは議会の歴史にも即したものである。
 そして、議会は、主に三つの権能によって、これを実行してきた。第一は、立法権であり、これは、政府が統治するにあたっての基準や根拠、方法等を定めるものであった。
 当たり前のことだが、もともとイングランド議会には立法権はなかった。議会は、騎士や商人等から臨時税を徴収するために招集され、これが課税承認権を持つようになり、さらに財政全般のみならず国政全般についての実質的な承認権を持つことになって、これでもって、国王の統治を制約・是正するようになった。これが具体的な形となったのが、共通請願を源とする立法権だったのである。
p.32

 そして、この三つの中では、当然、統治者を選ぶことがもっとも重要となってくる。その結果、立法権や国政調査権は、そのための手段と化していくのである。こうしたことは、議院内閣制の国ではごく自然に進んでいく現象だと筆者は考えている。
(略)
 そもそも、議会は国家意思の決定機関であって、議案提出権を唯一付与されている議員は常に大局に立って統治のあるべき姿を考えて行動しなければならないというのは、建前、あるいは理想的・楽観的な見方であって、彼ら(引用注:アメリカ議会)は、基本的には、自分や自分の支持者の関心のあるものについてのみ立法化を図るものだと認識しなければならない。だから、実体とすれば、アメリカの議会は昔の請願・陳情実現のスタイルを色濃く残した機関にすぎないわけで、政争になりそうなものは、行政(統治)の方が大統領令等を駆使して自己完結的に遂行するのである。こうした状況だからこそ、党議拘束の必要性もないし、与野党の衝突もほとんどなかったのである。
p.34−35

 実は、こうした弱者や敗者に対する配慮が、今でも政治の現場で行われているのである。国会で与野党が厳しく対立する法案を審議するとき、よく識者やマス・メディアが言うのは、与野党が、どちらも十分と言うくらい時間をとり、自由闊達に議論し、最後は強硬手段に訴えたり、議事妨害することなく、粛々と採決し、多数決で決めることがもっとも大事だということである。
 しかし、筆者は、こうしたことは形式的なことで、もっとはるかに大事なのは、結論を受け入れがたい少数者や弱者、あるいはそういう人たちを代表する少数党に、どれほどの配慮がなされ、彼らもどこまで甘受するかということだと思っている。議会で議論されるのは、学生の討論会の議題のようなものではない。法律は、人々の権利・義務を定めたり、何らかの便宜を与える一方で、何らかの負担を強いたりする。つまり、人によっては、自分の命や財産、生活がかかっていたり、自分の引けない感情にからむものだったりするのである。そうした場合に、十分な議論をして多数決で決めたことであれば、本当に誰もが納得し、受け入れるのだろうか。一般的に、人は、自分に犠牲を強いるようなものであれば、まず第一に廃案を望むだろうし、次善の策としては、修正を求めるだろう。それでだめなら、何らかの手当や償いを求めるに違いない。それも無理で、一方的に犠牲を払う側にいなければならないときに、果たして、善処をお願いしている議員が淡々と質疑を行い、採決のときにただ反対として自席に座っていることを容認できるだろうか。場合によっては、自分たちの怒りをその場で見せてほしい、身体を張って阻止してほしいと思うのが人情ではないだろうか。少数者も、自分たちの要求が認められない客観的事情は当然のごとくわかるわけで、それでも自分たちの思いをわかってくれた、それを国会の場で他の議員にわからせてくれたということでもって、その嫌な結果を受忍してくれるのである。それゆえ、筆者は、一定程度の議事の騒然さには寛容であっていいと思っている。
 ただ、先に述べたように、議会は権力闘争の舞台でもあり、こうした弱者配慮の手法が権力闘争に結びつくのも必然的と言わざるをえない。このことが、少なくない国民の反発を醸成し、結果的にいわゆる「政治」そのものに対するネガティブが評価につながっているわけで、その加減が難しいことは言わずもがなのことであろう。
pp.40-41

議会学
向大野新治(衆議院事務総長)著
ISBN:978-4-905497-63-9、280頁、本体価格:2,600円

後半に行くにつれて引用部が長くなってしまいましたが、これは、筆者の経験を通して得られた洞察と思いがこの引用部に向けてどんどん凝縮されていると感じたからです。ちなみに、筆者の向大野氏は、東大法卒後に衆議院事務局に採用され、本書が発行された2018年は現職の衆議院事務総長でしたが、今年6月に退任(本書p.265によると、事務総長は本会議における選挙で選ばれる政治的任命職のため、本人が適宜辞任を申し出て本会議で許可されると退任となるとのこと)されています。

国会でもっとも貴重な資源は時間です。現在日本で施行されている法律は約2000あって、国会では新規の法案に加えて既存の法律の改正案も頻繁に改正されていて、法案と同じ扱いの予算審議にも多くの時間が充てられているのが実態であり、一つ一つの審議に充てられる時間はほとんどありません。そこで、日本の国会では委員会主義をとって、各法案の審査を委員会に分かれて行い、本会議では基本的に討論と採決を行うのが例とされています。その中でも「人によっては、自分の命や財産、生活がかかっていたり、自分の引けない感情にからむものだったりする」ような案件があれば、それに対する反対の意を徹底して示すため、その案件を所管する各委員会や、総理大臣の出席を求めることができる予算委員会の場において、「弱者や敗者に対する配慮」を求めて質疑や討論を行い、支持者の「自分たちの怒りをその場で見せてほしい、身体を張って阻止してほしいと思う」人情に訴えるために、強行採決された体をとることが重要な役割となります。もちろん、委員会から本会議に報告されてからも、採決に先立つ討論や採決そのものを遅延させる行為(牛歩戦術など)によって貴重な時間という資源を巡って攻防を繰り広げるのもまた、国会議員の役割となります。

さて、ここで冒頭の話に戻しますと、私自身は、ハードとしての国会議事堂がバリアフリー化することは当然のことと考えますが、上記のような国会議員の役割を踏まえると、その任に重度障害者をもって充てることの必要性を感じません。むしろ、代議士が代議士たる所以は、その支持者が時間的・物理的・金銭的制約で表明できないことを、国会の場で主に言論を通じて、ときに行動によって体現するからであって、「身体を張」ることが命の危険に直結するような方がその任に相応しいとは到底思えません。「危険がないようなサポートをした上で国会議員として行動できるようになればいい」という方もいらっしゃるかもしれませんが、医療や福祉の現場を踏まえれば、「危険がないようなサポート」が本当に可能かどうかは誰にも断言できないでしょうし、仮に万が一の不測の事態が生じた際に、「国会がバリアフリーではないことがその原因であって、それを明らかにすることを目的として、本人の意志で人柱となり命を削っているのだ」などと他人事をこれ幸いとうそぶくような言説があれば、それは人として許されない態度と考えます。

さらにいえば、国会でもっとも貴重な資源は時間であるということからすると、意思表示にこれまでよりも時間を要することになる以上、国会という機関で審議できる案件が減る影響が予想されます。有権者の代表が共有する貴重な資源としての審議時間を削りかねず、さらに本人の命の危険を冒してまで、重度障害者に国会議員の役割を負わせることには賛同できないというのが私の考えです。もちろん、そうして時間をかけることも重要だという意見はあり得るでしょうけれども、時間をかけることそのものにはあまり意味はないと考えます。霞ヶ関の長時間勤務の原因の大きな部分となっているのが国会対応であることが知れ渡り始めている現状において、霞ヶ関の官僚のマンパワーそのものが拡充される契機となるなら別ですが、重度障害者の方を擁する政治団体も官僚を増やすことには積極的ではないようです。国会をバリアフリー化するというのは、一部に負担をしわ寄せすることではなく、全体の負担を減らしつつ、それぞれ少しずつ負担し合って個々の負担を減らすことであるべきと考えますが、そこまで議論がすすむのかは極めて疑わしいと思われます。

まあそもそも、今回当選された方を擁する政治団体の代表は、他の政治家の失言を批判しながら「人を生産性で判断するのは間違っている」と主張する一方で、

れいわ 重度障害者2人国政へ(東京新聞 2019年7月22日 02時46分)

 今年四月に山本太郎さん(44)が代表となって立ち上げた政治団体「れいわ新選組」は、比例代表で二議席を獲得した。いずれも新人で、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の船後靖彦さん(61)と、重度の障害がある木村英子さん(54)。国会は議員活動を保障するため、幅広いバリアフリー化が求められる。
(略)
 二人に出馬を要請した山本さんは、船後さんを「体は動かなくても頭脳は明晰。国会に入り、本当の意味の合理的配慮が行われたら障害者施策を前進させることができる」。木村さんには「攻めの姿勢で理路整然と官僚とやり合う方。ぜひ一緒にやりたいと何年も前から思っていた」と話す。議場での質問や採決方法などで「国会が柔軟に対応していくこと」も求めた。

当選された方を障害者の中でも特に優れていると主張しているわけでして、どの口がそれを言うかという思いもあります。国会議員としての役割をどう考えているのか判然としませんが、頭脳が明晰でもなく、理路整然でもない障害者は結局、彼の眼中にはない、少なくとも「一緒にやりたい」と思う相手ではないのでしょう。

(参考)
お手軽社会保障論とかお手軽労働政策(2018年10月28日 (日))

制度設計の困難さと増税することの政治的困難さ(2017年07月04日 (火))

他人の人生に過剰な「感動ポルノ」を求める土壌(2016年08月28日 (日))

障害者の家族・支援者の思い(2016年08月04日 (木))

震災の記録(障害者編)(2015年05月04日 (月))

長期雇用されない障害者(2015年02月22日 (日))

役所の障害者雇用を阻むもの(2014年04月12日 (土))
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2019年07月21日 (日) | Edit |
だいぶ放っておいてしまったところですが、午後8時から各局で選挙特番が始まっておりまして、まあ報道で見ていた事前の予想に概ね沿った結果となっているようです。で、6年前の参議院選挙の後にこんなことを書いておりましたが、

その林内閣はわずか4か月で退陣し、昭和12年4月に総選挙が行われることとなりますが、そのような生活を実感している中下層に支持を訴えた社会大衆党の選挙スローガンについて、坂野先生はこのように引用されます。

 山川菊栄の一文を念頭に置くと、社会大衆党が選挙運動中に公表した選挙スローガンの意味がよくわかってくる。それは次のようなものであった。

「選挙スローガン
一、まず国内改革の断行!
一、国民生活の安定!
一、広義国防か狭義国防か!
一、政民連合か社会大衆党か!
一、議会革新の一票は社会大衆党へ!
一、大衆増税絶対反対!
一、勤労議会政治の建設!
一、国民外交の確立!」(内務省警保局『社会運動の状況・昭和12年』)


 「選挙スローガン」などは単に美辞麗句を羅列したものにすぎないと思われがちであるが、政治が大きな岐路にさしかかっているときには、各陣営とも意外に率直に自ら信ずる方向を国民に訴えるものである。そういう岐路においては、今日流行の「マニフェスト」はおのずから明示されるのである。すでにたびたび指摘してきたように、この時の日本の岐路は、「反ファシズム」か「改革」かにあり、「反ファシズム」の側には社会の上層が(財界と二大既成政党支持者)、「改革」の側には社会の中下層が支持を与えていた
 そして、大規模な軍拡を目指す陸軍内部にも、それを社会上層の「反ファッショ勢力」と結んで実現するか、ようやく議会にも勢力を増大しようとしていた社会の中下層の「改革」勢力と組んで行おうとするかの、二つの勢力があった。この二つの方向を理解すれば、ここに紹介した社会大衆党の選挙スローガンが、後者の途を率直に提示していたことがわかるであろう。
 社大党にとって第一に重要なのは対外政策ではなく「国内改革」であり、「国民生活の安定」だった。そしてそれを実現するためには、「反ファッショ」と軍拡を結びつけた「狭義国防」ではなく、「改革」と軍拡を組み合わせた「広義国防」路線が必要であり、それを政党界で実現するのは、既成の二大政党が結びついた「政民連合」ではなく、「改革」をめざす社会大衆党だったのである
坂野『同』pp.159-160
昭和史の決定的瞬間 (ちくま新書)
(2004/02/06)
坂野 潤治
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いわゆる中下層の方の支持を得ようとする政党は、いつの時代も変わらず「増税反対」と「改革」を唱えるようですが、裏返していえば、中下層の方は自らの境遇に満足しない限り「増税反対」と「改革」に期待するものと考えるべきかもしれません。結局、社会大衆党は昭和12年4月の総選挙で議席数を20から36へと倍近く伸ばし、その躍進の要因について、特高警察が「国民の政策批判力の増進」を挙げたとのこと。「政策批判力」というのは今でいう「熟議」とかになりそうですが、まあ「熟議」の結末がどうなるかを示唆するものともいえそうです。

(略)

経済学の教義に忠実なあまり増税忌避という思考停止に陥ることは十分にあり得ることでしょう。そのとき「増税反対」と「改革」を主張する勢力が、「付加価値税が生み出す恩恵−−無料の診療、高等教育、公共交通費や住宅取得の補助など−−をもっとも受けるのは、それらを払えない貧しい人たち」の期待を取り込んでいく様子が見られるのかも知れません。

トッププライオリティの置き方(2013年08月15日 (木))


今回の参議院選挙では、ナイーブさに定評のある松尾匡先生をブレーンに据えた政治団体(今回の結果で政党要件を満たしそうですが)が議席を確保したとの由。

政権とったらすぐやります
今、日本に必要な緊急政策

れいわ新選組は、
ロスジェネを含む、
全ての人々の暮らしを底上げします!

消費税は廃止


物価の強制的な引上げ、消費税をゼロに。
初年度、物価が5%以上下がり、実質賃金は上昇、景気回復へ。
参議院調査情報担当室の試算では、消費税ゼロにした6年後には、
1人あたり賃金が44万円アップします。

れいわ新選組 政策

まあ、今回消費税率引き上げ反対を含めれば、与党以外はほぼ消費税を目の敵にしていたようですし、上記の政策を掲げた政治団体からは障害者が当選された(障害者が選良として議会の場に参加することそのものについてはまた別途)とのことで、6年前の予想も当たるものだなと自分を褒めてあげたいと思います。

ついでに、3年ほど前には

権丈先生の新著から、この辺の整理をしておきますと、

 そう言えば,2015年の経済財政諮問会議(5月19日)「“経済財政一体改革”の実行に向けて(有識者議員提出資料)」の中に,「「経済・財政一体改革」個別改革の目標(1)社会保障(保険料)負担率(対国民所得比)の上昇に歯止めをかけ,実質可処分所得の目減りを抑制する」という言葉がありました.当初所得から税金・社会保険料を引いて現金給付を加えたものを「可処分所得」と呼び,可処分所得プラスの現物給付を『所得再分配調査』の中では『再分配所得』と呼んでいます.ですから,可処分所得という指標は,社会保障が行っている「医療,介護,保育などの現物給付」を無視した指標なんですね.そうした可処分所得の目減りを抑制するという話は,なんとなく聞こえはいいのですけれど,要は,ここでみた,社会保障の所得再分配機能を縮小するという話につながることです.
pp,102-103

ちょっと気になる社会保障 権丈 善一 著
ISBN 978-4-326-70089-9
2016年1月
A5判・240ページ
1,800円+税


※ 以下,強調は引用者による。


つまり可処分所得に現物給付を加えた「再分配所得」の拡充のためには、(言葉の厳密な意味での)再分配に必要な財源を一次分配の給与等の稼得所得から一旦政府に預けて、それにより必要原則に応じて分配するという恒久的な仕組みを構築する必要があります。その財源確保のために増税が必要だと申し上げているところでして、「可処分所得を減らして何が何でも財政均衡を達成しなければならない」というようなことは考えておりません。

いやもちろん、本書で権丈先生も指摘されているように社会保障というのは市場システムのサブシステムですので、一次配分の適正化が大前提ではあります(そのため集団的労使関係による人件費の配分交渉が重要になります)が、それに現物給付による再分配を加えて生活を保障するには、一旦政府に預けるという過程が必ず必要になります。ところが、日本的左派の皆さんには政府に対する徹底的な不信感がありますし、一般の方々にもそれはかなり深く浸透しているとは思いますので、「再分配」というなら政府を利用するのが効率的だというのはなかなか受け入れられる考えではないだろうとは思います。

可処分所得と再分配所得(2016年02月21日 (日))


というようなことも書いておりましたが、この点を政策の最初に持ってきた政党は苦戦したようです。

「家計第一」の経済政策


アベノミクスの最大の弱点は、家計消費が伸びないことです。企業収益は増えましたが、一部の経営者の富の増加にしかつながっていません。一方、国民の実質賃金は低下しています。年金だけでは満足な生活ができないことも政府は認めました。生活は悪化し、消費は低迷し、経済は停滞しています。さらに、大規模財政出動により、国の借金は増え続けています。

国民民主党は、「家計第一」。家計を支援し、消費を活性化させます。人への投資で、一人ひとりの能力が存分に生かせるようになれば、家計も企業も豊かになります。「地域活性化」により、地方が立ち直れば、都市も豊かになります。

消費税

約束した議員定数削減も果たされていません。高所得者が得をする軽減税率や、一部の人だけが得をするポイント還元を伴う、今回の消費税引き上げには反対します。『家計支援こそ成長力』。社会保障財源の確保は必要ですが、消費拡大による景気回復を十分に果たさなければ、消費税引き上げを行うべきではありません。引き上げの前に、先行して子育て支援拡充を行うため、「子ども国債」を発行します。

所得再分配機能の回復

一般の家庭が少しでも余裕を実感できるようにする一方、富裕層には応分の負担をしてもらい、そのお金を社会に還元します。NISA等の拡大により、家計の金融資産形成を応援します。同時に、高所得者層は金融所得の割合が高いことから、金融所得課税により所得再分配機能を強化します。

「所得控除」から「給付」(給付付き税額控除)へと税体系を大きく変えていきます。給付を社会保険料の支払いと相殺すること等により、実質的な可処分所得を底上げするとともに、無年金者、生活保護世帯を減らします。

「GAFA」と呼ばれる巨大IT企業などがビジネスを展開し利益を上げている国でほとんど納税していない実態を踏まえ、国際社会と協調して課税を強化していきます。

国民民主党 政策index 2019

まあ、この分野の政策では「消費税廃止」のインパクトには敵わなかったというところでしょうか。

2019年05月05日 (日) | Edit |
ここ数か月、アメリカの民主党候補者が支持したとして脚光を浴びているらしいMMTにつきましては、拙ブログでは2年半ほど前にその信奉者の方々と議論をさせていただいておりまして、相変わらず私の疑問に回答を示してくれるような議論は寡聞にして見当たらないところですね。

ところで望月夜さんは、さらに政府支出を増額してその分を新規国債で賄えばよいという立場かと見受けますが、その新規国債で賄うべき政府支出の額はどのくらいになるとお考えなのかは不明です。「政府債務の償還は因習である」とまでおっしゃるのであれば、政府支出は青天井として問題なさそうですので、各省庁なり自治体で選良の皆様が要求する事業にはすべて財源を用意して実施するというのも一つの考え方かと思います。なんというか、インフルエンス活動の全面解禁につながりそうですが、「しかし、実務というのは批判されたからといってすぐには変えられない(インフルエンス活動による効用が低い)から実務なのであって、消費者の批判に応えるためだけの実務なんてものには政策実現性(フィージビリティ)がそもそも担保されてはいません」ので、望月夜さんがお考えの「具体的実務的形態」の謎は深まるばかりという印象です。

「経済学方面の通常運転(2016年11月20日 (日))」


MMTを信奉される方々からは「インフレを指標とするので政府支出は青天井ではない」とのご指摘がありそうですが、インフレを指標とするから青天井としないということは、いつかは政府支出を絞るか増税によって「貨幣を消滅」させることが必要となるのでしょうけれども、ではそれらの財政政策のうちどれが望ましくて、どれが避けるべきものかをどうやって判断するのかについてはほとんど関心がないようです。

この点は琉牛牛 (@ryuryukyu)さんがケルトンの議論からまとめられているように、



手続き(ロジ)は示されているものの、その中身(サブ)を決める政策過程がすっぽり抜け落ちている言説が堂々と披瀝されると、投資といわれるものに財政支出しさえすればオールオッケーという主張に見えてしまうのですが、まあ経済学方面にありがちな議論ではありますね。

拙ブログでのケインズの理解は権丈先生の説明を参考にさせていただいているところですが、権丈先生が「ケインズが線型の消費関数なんか定義するから、消費は所得で決まってしまい、需給ギャップを調整するのは投資しかないという妙な理屈がまかり通るようになってしまった」と指摘される理路については、度々引用させていただいる次などが参考になります。

ケインズの理解でいえば、権丈先生はケインズの思想に至るまでの社会的・歴史的背景を吟味しながら議論されているので、その点を「信用」して参考にさせていただいているところでして、ケインズが投資と消費の関係をどのように考えていたのかについての権丈先生のご指摘を引用させていただきます。

We established in chapter 8 that employment can only increase pari passu investment unless there is a change in the propensity to consume.
(間宮訳「第8章でわれわれは、消費性向に変化がないとしたら、雇用の増加はただ投資の増加にともなってのみ起こりうることを確認した」)


僕は、「これなんだよなぁ。ケインズが線型の消費関数なんか定義するから、消費は所得で決まってしまい、需給ギャップを調整するのは投資しかないという妙な理屈がまかり通るようになってしまったんだよなぁ・・・」
彼「なるほど、そういうわけかぁ・・・」
と、ふたりで、投資の限界効率表なんてのは、あれは期待の話で、消費量が変われば期待としての限界効率表も動くに決まっているじゃないか、などなどと、iPad そっちので、『一般理論』の話で盛り上がる。

Consumption――to repeat the obvious――is the sole end and object of all economic activity.
(間宮訳「消費は、わかり切ったことを繰り返すなら、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である」)


この消費こそが、いま不足しているのである。
ところが、世の中の多くのひとは、ケインズが投資の話に論点を集中するために仮定した世界にとらわれてしまい、需給ギャップは投資で埋めると考えるばかりで、他の箇所ではケインズも結構論じている消費性向を高めていく政策には考えが及ばない。だから、需要不足があるんだから投資を増やさなければとばかり考える彼らと、現下の需要不足は主に消費が不足しているからと診る僕の話はかみ合わない――と言うよりも、彼らは間違い続けているように見える。

「勿凝学問 313 足りないのは、投資か消費か? 誤解の源はケインズの言葉だろうな(2010年6月8日 慶應義塾大学 商学部 教授 権丈善一)」


(略)

ここで,サムエルソンの経済学で学んだ多くの人たちは,なぜ,ポール・デヴィッドソンは,サムエルソンを「ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである」と批判しているのかと思うかもしれない。
その理由は,ケインズは,貨幣を保蔵 (hoarding)したいという欲求がある社会,すなわち流動性選好理論が成り立つ貨幣経済 (monetary economy)を 前提に置けば,伸縮的賃金であっても硬直的賃金であっても失業は起こりうると考えていたからである。このことは,ケインズの次の言葉が端的に示している。

喩えて言えば,失業が深刻になるのは人々が月を欲するからである。欲求の対象 (貨幣)が生産しえぬものであり,その需要が容易には尽きせぬものであるとき,人々が雇用の口をみつけるのは不可能である。
Keynes(1936)/間 宮陽介訳 (2008)『 一般理論』上巻331頁


これは,将来,すなわち歴史的な時間の流れの中での「不確実性」に備えて価値保蔵手段としての貨幣に対する選好,他にも諸々の理由により貨幣を保蔵したい という欲求すなわち「金銭欲」が尽きず「物欲」に優る場合には失業が起こると言っているのである。ケインズの論の中では,失業発生の原因として硬直的賃金という条件は重要ではない。

権丈善一「社会保障—— サムエルソンと係わる経済学の系譜序説の経済学系統図と彼のケインズ理解をめぐって——」(三田商学研究 第55巻 第5号 2012年12月)



ということで、ケインズの理論は「好みに合わない」として、その提示する理論を勝手に読み替えていたわけです。サミュエルソンの『経済学』の教科書で学んだ経済学徒(クルーグマンもその一人のようですが)には、そのようなサミュエルソンの理解だけではなく、勝手に読み替えるという作法まで伝わってしまったということでしょうか。

さて、ここまでが私が望月夜さんと議論を共有できないと考える一つ目の理由です。長々と引用しましたが、消費性向を高める政策が必要とされるときに、直接的に消費を増やす政府支出の財源として、安定的に税収を確保すべきと個人的に考えています。これに対して、望月夜さん(が信奉するMMTやそれに類似する学派?)は、消費とトレードオフの関係にある貯蓄を増やすために投資としての国債を増発するべきと指摘されていらっしゃると見受けます。マクロではそういえる面もあることは否定しませんが、具体的に誰の貯蓄が増えて誰の消費が増えるのか、その調整はどのように実施するのかが不明であるためお伺いしたものの回答はなく、その過程で政府支出によって賄われる利払いを含めると迂遠で高コストな財政支出ではないかという私の指摘にも特に回答はないため、議論を共有することが難しいと判断するに至ったという次第です。
(略)

(2017.1.8追記)
年を越えて引っ張るのもなんですが、このエントリのきっかけとなったお二人のコメント(http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-711.html#comment)を拝見していると、公共政策についての議論の難しさを改めて認識いたします。公共政策は繊細な議論ですので危険ではありますが、あえて模式化してみると、再分配や雇用・労働の制度に関する問題をAとして、Aの制度にまつわる問題をどのように解決すべきかという議論をしているのが拙ブログのスタンスでして、そのための財源の制度に関する問題をBとすると、本エントリで書いたような制度の裏付け(交渉と取り決めによるフロー支出はフロー財源で賄うという原則)を踏まえつつ、Bについては増税の必要性があると考えています(その理由は本エントリや上記エントリの参照先をご笑覧ください)。

というところで、Bについて異論をお持ちの方から、Cという考え方があるとか不正確とかいろいろなコメントをいただきまして、ではそのCの考え方なり私の記述の不正確さを正すなりによって、Aの問題についてどのような制度的解決が構想されるかについてお考えをお伺いしたところ、「急に「公共政策はどうあるべきか」という全く別の議論を持ってきて」とか「私は広い視野など持ち合わせておりません」という回答しかいただけないのが現実ですね。

私はBの議論に特化してその是非を論じているわけではありませんので、Aの問題が解決なり改善するのであれば、Bに関して増税にこだわるものではありません。そもそも増税が景気後退させることまで否定していませんし(中里先生がおっしゃるナローパスが重要だと考えています)、増税と現物給付との差引においていかに安定的に社会全体の消費を確保するかという経路が制度によって担保されることが重要と考えています。つまり、現状において制度による裏付けが弱いAとBの紐付けをいかに強化するかという点が私の関心なのですが、世の中にはBさえ何とかなればAは自動的に改善するとお考えの方がいらっしゃって、もしかするとそっちの方が多数派だというのが実態なのでしょう。

現実の制度においては、「その他の要件が変わらないのであれば、政府支出の対GDP比は現状のままであるはずでして、教育の無償化だの待機児童の解消だの医療行為に対する診療報酬の引き上げによる医療体制の拡充だのという再分配政策の支出構造は変わらない」わけでして、そのために制度の裏側にある利害関係の当事者による交渉や取り決めを踏まえつつ、どのように政府の支出構造という制度を変えていくかを考える必要があります。その際に決定的に重要になるのは、生産物はストックできないということであって、「「共同体の構成メンバーは連帯して共通の規範を守るべきであり、メンバーの中に苦境に立たされる者がいれば協力して支えなければならない」というsocialな考え方を理解できるか、「効率的な現金給付」で事足りるとする経済学的な議論の問題点を理解できるかというのが、労働政策に裏付けされた現物給付による社会保障や再分配を議論する上で、問われている」のですが、こういう議論が共有される世の中というのはこれまでも、そしてこれからしばらくも期待できそうにありません。himaginaryさんがおっしゃるように「「労働政策や所得再配分政策に関する論争が前面に出てくる」状況を目撃することは贅沢なこと」なんですねえ。

「制度をどのように変えるべきなのか(追記あり)(2016年12月31日 (土))」


長々と再掲しましたが、再掲部分の最後の追記にあるように、財源はその支出先とセットで考える必要があり、そこが繋がっていないと、社会的な限界消費性向を高めることなく、消費にも景気にも好ましくない影響を与える可能性がある財政支出に費消される可能性が高くなります。MMTでも経済学的に正しい理論でも構いませんが、その点を説得的に説明したものを拝見したことがないところでして、冒頭のように嘆息せざるを得ないわけです。

既に1年以上経ちますが、「何回か取り上げていた都知事選が誰得な結果に終わり」まして、その後は都の中央卸売市場の豊洲移転問題で小池都知事が手腕を発揮されていますが、不思議なことに財政政策の重要性を主張される方々にはこれほどの財政政策が支持されていないようです。豊洲移転問題での小池都知事の判断は、まさに通常であればムダと叩かれるような穴を掘って埋めるがごとき財政支出を繰り返しているように見受けるところでして、財政政策の重要性を主張される方々が待ち望んでいた姿ではなかったんでしょうかね。

いやもちろん、私自身は小池都知事の手法が評価されるべきとはこれっぽっちも思っていませんが、財政支出が足りないだなんだと騒ぐ方々が、これだけ露骨に穴を掘って埋めるような施策が実施されているのに、むしろ批判される方が多そうな状況は興味深い現象だなあとは思います。

「税金の使途を取り決める基盤(2017年09月24日 (日))」


再掲部分で権丈先生が指摘されているように「この消費こそが、いま不足しているのである。ところが、世の中の多くのひとは、ケインズが投資の話に論点を集中するために仮定した世界にとらわれてしまい、需給ギャップは投資で埋めると考えるばかりで、他の箇所ではケインズも結構論じている消費性向を高めていく政策には考えが及ばない。」という視点が、財政政策なり再分配の支出拡大に不可欠な視点だろうと考えます。その消費性向を高める政策の実効性を確保し、制度としての運用を確実なものとするためには、給付の権利が貼り付いた保険料とか、ストック効果に見合う公債費とか、その支出に対する財源の性格を明確に位置づける必要があります。というか、それが政策的技術論なのですが、MMTの考え方を援用してインフレになるまでは財政支出を拡大すべきという場合にはその政策過程がすっぽり抜け落ちてしまいます。

>「貯蓄や投資が増えると流動性選好が高まり、その結果として消費が抑制され、消費が抑制されると経済が縮小し…というデフレ・スパイラルが生じても、政府債務は償還する必要がないという立場からは特に関知しない」

単純にこの文面の意味を理解できないのであるが、まず一行目の「貯蓄・投資の増加→流動性選好の高まり」からして、控えめに言って意味不明、率直に言えば支離滅裂である。
ケインジアンの枠組みで言うと、流動性選好とは、流動性に対する投機的所持需要の程度を指すのであり、流動性選好が高まれば金利(流動性を貸与する報酬)が上がり、弱まれば金利が下がるという構造を持っている。そうして決定する金利によって、投資量が決定するというのがケインジアンの枠組みであって、「貯蓄・投資が増えれば流動性選好が高まる」というのは、一体どういう考え方なのか全く理解することができない。

2016/12/29(木) 19:30:08 | URL | 望月夜 #3DzPDrAs[ 編集]


>流動性選好

松尾先生の説明も、私の説明も、基本的にはケインズの金利に関する説明「金利とは、貨幣を貸し出すことに対する報酬である」から統一的に理解できる。

貨幣を差し出すことに対して報酬が発生するのは、流動性に選好があるからである。

『ある一定の流動性選好』があるとき、利子率が下がれば(差し出し報酬が下がったということなので)貨幣を投資に差し出す意欲は低下することになる。

また、『流動性選好が高まれば』ある通貨供給量に対する金利には上昇圧力がかかるだろう。(なぜならば、「金利は流動性を差し出すことによって発生する報酬」なのであり。「流動性選好が強まるほど、流動性提出において要求する報酬は大きくなる」からである)

「金利は、貨幣を差し出すことに対する報酬であり、その報酬の要求程度は、流動性選好の強さに依存する」

これが理解できれば、私の「流動性選好」の扱いが、松尾先生とも何も矛盾することはないことがわかるだろう。

2016/12/30(金) 13:49:08 | URL | 望月夜 #3DzPDrAs[ 編集]


まあ、MMTを信奉される方にはそもそも投資を増やせば消費が増えるとお考えの方もいらっしゃいますので、政策過程なんぞ議論する必要性も感じられないのでしょうけれども、個々の企業なり家計において何に対する投資が増えて誰の消費が増えるのかは未だ不明なわけでして、いやまあどう見ても思考実験です。本当にありがとうございました。

というような手続きばかりしている実務屋からすると、「このようには何かしらの貸借関係があって、それを記述する手段として、石、金属、紙、場合によっては商品が用いられ、それが単位として統一されれば通貨になる」というのは、随分と簡略化された前提ですなあと感嘆することしきりです。いやもちろん、賃貸借と消費寄託の契約を金銭面のみに着目して記述するということであればこういう表現も可能でしょうけれども、その簡略化ぶりからは食べ物の入りと出だけに着目した「人間は「管」である」という考え方を思い起こします。

ところで、我々は「我考える、ゆえに我あり」などといい、人間存在の中心は「脳(意識)」であると思っている。しかし、生存にもっとも必要な食べ物の摂取の観点では、脳が意識するのは、せいぜい食べ物が腐っていないかを目や鼻や舌で感じるだけである。食べ物の良し悪しの判断の大半は腸に依っている。この意味でも人間は「管」であるといえる

(略)

確かに我々は「脳」のおかげで、便利な人工物に囲まれた清潔な場所で暮らすようになり寿命も延びた。しかし一方で我々の体の中心にある「管」は、環境の激変についていこうとして四苦八苦している。環境変化についていけず、ときには免疫システムがバランスをくずして、食物アレルギーを引き起こすケースが増えてきた。

生物が生きていくためには、環境と調和していくことが必須であり、人間もまた然りである。しかし、人間の「脳」は、環境に対して実に鈍感である。一方、環境に対してもっとも敏感なのは「管」の方である。今こそ「人間は「管」である」と考えるときかも知れない。 (記:五等星)

引用元: [コラム]人間は「管」である - 自然科学カフェ(2014/11/17 19:20)


「生存に必要な食べ物の摂取の観点」からこうした議論をすることは大いに理解できるものの、上記のような複雑な制度によって成り立つ社会における財政政策や金融政策を考える際に、その社会を構成する人間の行動を金銭面のみから記述することをもって「具体的実務的形態」であるぞという方がいらっしゃるのもまたこの世の習わしですね。

「人々は何かを購入する(2017年08月17日 (木))」



(追記)
MMTの議論について何度か参考にさせていただいているwankonyankoricky (@wankonyankorick)さんは、きちんとこの問題を考えていらっしゃいますね。

まあ昨今のMMTの脚光の浴び方を見ていれば、こうおっしゃる気持ちもわからないではありません。

ただし、wankonyankorickyさんが推してる(というよりMMTで唯一の?)らしき財政政策はJGPのように見受けられるのですが、拙ブログでは失業対策事業の夢魔とか、CFWなど検索していただければ現場の課題はそれなりにまとめたつもりですので、JGPが政策として機能するための政策過程もすっぽり抜け落ちていると評価せざるを得ないわけでして、またまた本エントリの冒頭の嘆息に戻ってしまいますね。
CFWはその枠を越えるべきか(2011年10月12日 (水))
緊急雇用創出事業の出口とは(2011年12月20日 (火))
「ミスマッチ」って何のこと?(2012年08月13日 (月))
緊急雇用創出事業とCFW(2015年02月11日 (水))

2019年01月03日 (木) | Edit |
昨年中は多くの方々にコメント、拍手、ぶくま、tweet等々いただきありがとうございました。
本年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。

というわけで初詣しておみくじ引いてみました。

【吉】 (No.65402) モナー神社
願事 : 遅かれど思う通りになるべし
待人 : 思う日までに来るべし
失物 : 高き処にあり
旅立 : さわりなし
商売 : 物の価下がる買うは悪し
学問 : 困難 勉学せよ
争事 : 勝てど難有り
転居 : 急がず行えばよし
病気 : 少々悪し 信心せよ
縁談 : 人に頼めば早く調う ひそかにして宜し

昨年までの戦績が大吉→吉→吉→吉→大吉→大吉→大吉→大吉→末吉→大吉→吉でしたので、2年連続の吉で通算戦績は大吉6回、吉5回、末吉1回となりました。flash廃止の2020年末までですのでモナー神社詣でもあと1回を残すのみとなりまして、大吉5割超えは来年に持ち越しのようです。

ということで、今年も無事これ名馬を心がけて参りたいと思います。

2018年04月15日 (日) | Edit |
前回までエントリまでで3月末からの書きかけは一通り書いたところですが、ついでに常々思っていたことを書いておきますと、この国の「陰謀論」好きはすでに見境がなくなっているんではないかと。

こちらのtweetそのものには特に異論はないのですが、私が見聞きしているこの国のエンタメも陰謀論ばかりではないかと思うところです。

といいつつ、私自身は定時で帰るなんて仕事上の飲み会のときぐらいの職場におりまして、平日にドラマを見ることもなく、録画しても土日に面白そうなものをかいつまんでみる程度ですし、小説もここ数年真面目に読んでないので、まあその程度の印象論です。さらに多分に自戒を込めておりまして、というのは、「「言うこととやることが正反対であっても、発話の内容のみに着目して議論するのが論理的に正しい」という主張は、感情を持った人間同士が議論するという現実を無視した机上の空論だろう」と考えておりますので、批判すべき議論について批判する際には、その議論そのものよりも発話者の普段の行動だったり発言を重視しておりますが、ここの加減を間違えると「○○の立場だから自分の都合のいい議論をしている」という陰謀論との境を超えてしまいかねないからです。

という自戒を込めつつ、この国の政治や行政をめぐる議論はもちろんのこと、特に刑事ものとか医療ものというドラマは、一部の権力者が私腹を肥やしたり野望を抱いて陰謀を張り巡らし、それに気づいた正義の下っ端が陰謀を暴くというプロットが多くて辟易することが多いんですが気のせいでしょうか。というより、そもそも政治や行政の意思決定の現場そのものをテーマにしたドラマというのはほぼ皆無で、刑事ものや医療ものでは政治家や役人が必ず出てくるものの、大抵は主人公の邪魔をするか、政治家や役人が主人公であっても上層部に巨悪がいてそれに楯突くような位置づけが多いんですよね。

一方で、海外ドラマもそれほど多く見ているわけではないのですが、アメリカでいえば「ザ・ホワイトハウス(原題:The West Wing)」では大統領とその側近たちが主人公のドラマで、人間くさい些事(浮気や見栄)に振り回されながら国の政治が動いていく様子が描かれています。イギリスでいえば、「官僚天国!〜今日もツジツマ合わせマス〜(原題:The Thick of It)」でかなりカリカチュアライズされてはいますが、何の見識もなく大臣になった政治家をこけにしながら振り回される官僚スタッフが主人公のドラマで、たとえば大臣となって引っ越した政治家が自分の子息を地元の学校に転校させる際に、周囲から便宜を図ったと言われないよう内密にしてほしいと学校に伝えたところ、その子息が登校していることがバレてしまい、結局「内密に転校したのは何か便宜を図ったからに違いない」と野党に追及され、その辻褄合わせに官僚スタッフが奔走するエビソードなどがあります。アメリカやイギリス本国での受け止め方はよくわかりませんが、どちらも長く続いたシリーズで放送終了後も人気があるようですので、そうした人間くさい些事に振り回される政治家や役人が意思決定の現場にいるということが視聴者にも違和感なく受け入れられているといえそうです。

飜ってこの国のエンタメを見てみると、正義の義憤に駆られた主人公が、悪に染まった権力者や腐りきった組織の上層部による陰謀を暴き、その首謀者を懲らしめるというプロットしかないというのは、それが実態を反映したものなのか、そうしたプロットしか視聴者が受け入れないということなのかはわかりませんが、これもまた日本型雇用慣行との差として認識しておいてもいいのかもしれません。