2018年04月15日 (日) | Edit |
前回までエントリまでで3月末からの書きかけは一通り書いたところですが、ついでに常々思っていたことを書いておきますと、この国の「陰謀論」好きはすでに見境がなくなっているんではないかと。

こちらのtweetそのものには特に異論はないのですが、私が見聞きしているこの国のエンタメも陰謀論ばかりではないかと思うところです。

といいつつ、私自身は定時で帰るなんて仕事上の飲み会のときぐらいの職場におりまして、平日にドラマを見ることもなく、録画しても土日に面白そうなものをかいつまんでみる程度ですし、小説もここ数年真面目に読んでないので、まあその程度の印象論です。さらに多分に自戒を込めておりまして、というのは、「「言うこととやることが正反対であっても、発話の内容のみに着目して議論するのが論理的に正しい」という主張は、感情を持った人間同士が議論するという現実を無視した机上の空論だろう」と考えておりますので、批判すべき議論について批判する際には、その議論そのものよりも発話者の普段の行動だったり発言を重視しておりますが、ここの加減を間違えると「○○の立場だから自分の都合のいい議論をしている」という陰謀論との境を超えてしまいかねないからです。

という自戒を込めつつ、この国の政治や行政をめぐる議論はもちろんのこと、特に刑事ものとか医療ものというドラマは、一部の権力者が私腹を肥やしたり野望を抱いて陰謀を張り巡らし、それに気づいた正義の下っ端が陰謀を暴くというプロットが多くて辟易することが多いんですが気のせいでしょうか。というより、そもそも政治や行政の意思決定の現場そのものをテーマにしたドラマというのはほぼ皆無で、刑事ものや医療ものでは政治家や役人が必ず出てくるものの、大抵は主人公の邪魔をするか、政治家や役人が主人公であっても上層部に巨悪がいてそれに楯突くような位置づけが多いんですよね。

一方で、海外ドラマもそれほど多く見ているわけではないのですが、アメリカでいえば「ザ・ホワイトハウス(原題:The West Wing)」では大統領とその側近たちが主人公のドラマで、人間くさい些事(浮気や見栄)に振り回されながら国の政治が動いていく様子が描かれています。イギリスでいえば、「官僚天国!〜今日もツジツマ合わせマス〜(原題:The Thick of It)」でかなりカリカチュアライズされてはいますが、何の見識もなく大臣になった政治家をこけにしながら振り回される官僚スタッフが主人公のドラマで、たとえば大臣となって引っ越した政治家が自分の子息を地元の学校に転校させる際に、周囲から便宜を図ったと言われないよう内密にしてほしいと学校に伝えたところ、その子息が登校していることがバレてしまい、結局「内密に転校したのは何か便宜を図ったからに違いない」と野党に追及され、その辻褄合わせに官僚スタッフが奔走するエビソードなどがあります。アメリカやイギリス本国での受け止め方はよくわかりませんが、どちらも長く続いたシリーズで放送終了後も人気があるようですので、そうした人間くさい些事に振り回される政治家や役人が意思決定の現場にいるということが視聴者にも違和感なく受け入れられているといえそうです。

飜ってこの国のエンタメを見てみると、正義の義憤に駆られた主人公が、悪に染まった権力者や腐りきった組織の上層部による陰謀を暴き、その首謀者を懲らしめるというプロットしかないというのは、それが実態を反映したものなのか、そうしたプロットしか視聴者が受け入れないということなのかはわかりませんが、これもまた日本型雇用慣行との差として認識しておいてもいいのかもしれません。
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2018年04月10日 (火) | Edit |
激しく周回遅れですが、

さて、本書をいただいたのは昨日3月20日でしたが、その日は夕刻、慶應義塾長を務められた清家篤先生退任記念懇親会が慶応義塾大学であり、用務を終えて駆け付けたところ、会場には玄田さんの髭面も待ち構えていて、早速本書のお礼を申し上げたところ、

「hamachanあれ読んだ?あれhamachanのことだよ」

と言われ、一瞬何のことだかわかりませんでした。

JIL雑誌今月号の巻頭言を玄田さんが書いておられて、

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2018/02-03/pdf/001.pdf

そこに出てくる「ある労働法学者」というのは、実は私のことなんだそうです、ええっ?


この号、本ブログでもちゃんと紹介しているんですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/201823-1680.html
論文の紹介に気が行っていて、そこまで気が回っていなかったようです。

・・・ある労働法学者は官僚時代,国会待機で時間を持て余した時,過去の審議会の議事録を読み返 し,政策決定プロセスの勘どころを学んできたという。氏は後に国際機関に出向,各国の法律や制度の理解を深める機会も得た。ゆえに今どんな新たな労働問題が出てきても,自身に定まった歴史軸と国際軸に位置づけることで,説得力のある議論を常に展開できるのだ。

説得力のある議論を常に展開しているかどうかは人様が評価することですが、まあ過去の歴史を読み込んでおいて損になることはないと思います。

周回遅れで後出しジャンケンを承知でいいますと、2月に玄田先生のこちらの巻頭言を拝読して「これはhamachan先生に違いない」と思っておりました(ちょうどやりとりさせていただいていた海老原さんにもその旨メールしたりしました)ので、このタネ明かしでやはりそうかとすっきりしたところです。hamachan先生が学んできた政策決定プロセスの勘どころの要諦は、『労働法政策』の「Ⅰ 労働法政策序説」の「第1章 労働の文明史」に記述されているものかと存じますが、そこで示されている「自身に定まった歴史軸と国際軸」こそが、「過去の歴史を読み込んでおいて損になることはない」という経験を裏打ちしているのだろうと思います。

さて、そうしたhamachan先生を引き合いに出すのも恐縮なのですが、玄田先生の賛辞の中でちょっと引っかかったのが「説得力のある議論を常に展開できる」という言葉です。いやもちろん私自身「説得力がある」という言葉を使うときは、その言説に十分な根拠があって、それが歴史的経緯や国際的な経路依存性に基づく各種制度への理解に裏打ちされているという趣旨で使っているつもりでして、その点からhamachan先生を評して「説得力のある議論を常に展開できる」と指摘されることには全く異論ありません。

しかしその一方で、特にディベートにおいて用いられる「説得力のある議論」という言葉には十分に注意しなければならないとも感じています。ということを考えていたときにふと書評を目にしたこちらの本を読んでみて、私の問題意識がかなり整理されました。

「歴史」をディベートの対象とするのはどのような知的な営為なのか。矢野善郎(日本ディベート協会元会長)によれば、ディベートとは、抗議には「①公に関わる・公共の(私的でない)問題について、②対立する複数の立場をまじえながら、③(例えば公開された場面などで)中立の第三者に対しても説得的であることを目的としておこなわれる議論」であり、かつコミュニケーションの様式だという。そのメリットは、「物事を相対化してみる経験」で、藤岡(引用注:信勝)のいずれの著作でもおおむねこのように捉えられている。
 この問いを検討する前に、なぜ対話や討論ではなく「ディベート」という形式にこだわったのか、考えておきたい。論点をやや先取りすることになるが、その理由は「ディベート」というコミュニケーションの様式にある。ディベートは複数の論点から話し合う対話や討論と違い、二項対立図式のコミュニケーションである。それが好まれる理由は、一方に歴史学の通説を設定し、他方に特殊な少数意見を扱うことによって、あたかもマイナーな説を二大通説の一つのように地位を底上げすることができ、同じレベルで議論することができるからだ。すなわち、ディベート論題は設定の時点で、すでに「俗説」「傍流」を格上げするイデオロギーを発揮していることになる。

(略)

 しかし、これまでに述べたように二項対立の形式をもつディベートは平等な議論を対置するのではない。さらに、本来「事実命題」とは「いまは朝である」の真偽を問うものであり、議論の対象ではないため、カテゴリー・ミステイクである。この点について教育者である今野日出晴が次のように批判している。

歴史ディベートが真理確定の方法として位置づけられていないことを確認したい。藤岡氏とともに、自由主義史観研究会の呼びかけ人の一人であった安藤豊氏は、「どっちが正しいか(真理性)を争うのではない。説得性を争うのであるディベートは真理性の決定に関与しない。各人の意思決定に関与しない」と明言している。そして、「今回のディベートは歴史研究に『マジ』になった方が負け」であり、「『真実は確定されない』ということをさわやかに言える」ことが企図されている。(傍点は引用者)


pp.100-101


歴史修正主義とサブカルチャー   90年代保守言説のメディア文化
倉橋 耕平(著)
四六判  240ページ 並製
定価 1600円+税
ISBN978-4-7872-3432-2 C0336

奥付の初版発行年月 2018年02月
書店発売日 2018年02月28日
登録日 2018年02月03日


※ 以下、下線強調は原文(原文の強調は傍点)、太字下線強調は引用者による。注記は省略しています。

とはいいつつ、この本自体はかなり左派的思想に依っていると思われる記述が散見されまして、特に第5章の大手新聞に掲載された言葉の使用回数をめぐる議論については、私からすればあまり意義のある議論には思われません。なんとなれば、特に制度についての記事でマスメディアが不適当な報道をするのは日常茶飯事ですから。

端的に言えば、報道機関による不適当な報道でこうした誤解や思い込みが広がっていくのですが、我々が普段接する批判というのは、こうした誤解や誤報に基づくものがほとんどでして、結局報道機関のミスのつけは公務員に回ってくることになります。公務員というのは、そうした誤解や誤報に基づく批判を正面から受けなければならない一方で、その誤解や誤報を指摘すれば「言い訳がましい」とさらに批判を強められてしまう立場ですので、基本的には平身低頭して不快・不満な思いをさせてしまったことをお詫び申し上げるしかありません。

「絶対最強の公務員」なんているはずがない(追記あり)(2012年08月31日 (金))

そうした点はまあそれとして、本書で指摘されるディベートの問題点には思い当たる節が多々ありますね。

ディベートで特に問題と思われる点は、引用部の矢野氏による定義の中で「③(例えば公開された場面などで)中立の第三者に対しても説得的であることを目的としておこなわれる議論」という部分ではないかと思います。というのは、世の中で「中立の第三者」であることができるのは、特定の問題に関して利害関係を有しない限りにおいてのみであって、逆にいえば特定の問題で中立の第三者であっても他の問題では中立の第三者ではないのが通常となるはずです。にもかかわらず、その「中立の第三者」を所与のものとして「説得的であることを目的」としてしまえば、その自称「中立の第三者」は自己に都合のよい議論をより説得的だと考えているだけという可能性を排除できません。

というより、これだけ複雑に利害関係が絡み合って「公共」がカバーする領域が隅々まで行き渡った社会において、「①公に関わる・公共の(私的でない)問題について」適切に「中立の第三者」を想定すること自体が困難となっていると考えるべきでしょう。前回エントリで取り上げた調査報告書を例にするなら、レスリング協会が「レスリングについては,全くのズブの素人である」と自認する弁護士を第三者として選任する手続きがあってはじめて第三者委員会が成立するのであって、そうした手続きを経ないディベートがいくら自称「中立な第三者」に説得的であっても、その内実は眉に唾しなければならない代物である可能性が高いわけです。

本書では、読者参加型を掲げる雑誌が歴史修正主義を先導していった経緯が検証されていまして(雑誌「正論」が読者コーナーを拡大していって、そこから「論壇デビュー」して安倍晋三氏からスカウトされたのが稲田朋美元防衛相だというのは、リアルタイムでは知りませんでしたが有名な話なんですね)、大塚英志/上野俊哉の「サブカルおたくはなぜ保守と結びついたか」(インパクション1998)の定義を引用して「サブカルチャー」を「①ルーツや文脈を保持せず、②そのために、記事単体で消費できる「雑誌」的(ロラン・バルト)なものである」と(とりあえず)定義し、その「サブカルチャー」化した論壇における歴史修正主義の事例として、小林よしのり氏の『新・ゴー宣』を象徴的に取り上げています。

 読者投稿を連載のなかで取り上げる手法は、旧『ゴー宣』の初期(第18章)から採用されている、それは、一定の読者を「囲い込む」「保護する」手段だったと考えることができる。(中略)そして小林と読者の関係は、読者投稿をまとめた書籍『ゴーマニスト大パーティー』で「出会う」ことによって「熱烈なコミュニティー」となり、「大きな教団」を構成する。そのために「作者と読者の一種の共犯関係、もう少し穏健に言えば、“作者−読者共同体”が構築されていることが、〈商品〉としての『ゴー宣』にとって重要な要件」(引用注:瓜生吉則「〈マンガ〉のリミット−小林よしのり=『ゴーマニズム宣言』をめぐって」宮原/荻野編『マンガの社会学』2001からの引用)と指摘される。
 この「作者−読者共同体」は、「慰安婦」問題の際にどのように作用したのだろうか。これまでと同様に、先行研究では採られなかったメディア=言説の存在様式という視点から問い直してみる。
 まず、「慰安婦」問題の連載時でも、小林は「読者参加型でいく」と明言している。(第26章欄外小林コメント。傍点は引用者)。そして、同章の「オチ」で「さあ朝日新聞が正しいか?産経新聞が正しいか?/慰安婦がホントに“従軍”なのか?“性奴隷”なのか?(略)われわれで結論を出そう!」と宣言する(傍点は引用者)。ここからは、連載は最初から読者投稿を前提に開始されたことがうかがえる。この発言は、第24章で連載を始め、反響を受けたあとの発言であるため、おそらく読者の重要性を認識したうえでのものだろう。

倉橋『同』pp.171-172


「われわれで結論を出そう」という方々がネットで徒党を組んで発言できるようになった2000年代以降は、jura03さんの言葉をお借りすれば「ネット○○派」が隆盛を誇ることになりますが、特に一部のリフレ派と呼ばれる方など「経済学的に正しい」ことを信奉する方々に「「大きな教団」を構成する」傾向が顕著ではないかと思われるところでして、その発芽は1990年代の論壇にあったわけですね。

まあその後の経緯は拙ブログでも散々指摘しておりますので繰り返しませんが、個人的にミクロの観点でより問題だと思うのは、こうしたディベートの性質を悪用する術を身につけた「ディベートの達人」の組織内での振る舞いです。そうした方々は、大塚氏が指摘するように「ルーツや文脈を保持せず」にディベートをふっかけているだけなので、そのディベートなるものは「ルーツや文脈を保持する」側からすればヘリクツに過ぎません。であるにも関わらず、例えば意思決定権をもつ者が「ルーツや文脈を保持しない」場合や、あるいは「ディベートの達人」がそうした意志決定者の都合を忖度する場合は、それに応じて臨機応変に説得的な議論で説き伏せる術を持つ「ディベートの達人」が「ハイパフォーマー」として評価されてしまう状況が現出してしまいます。

でまあ、これって最近よく見る光景だなと思ってみると、

ここで冒頭のtweetに戻りますと、クラッシャー上司は論理的に見えても、上記のようなパワハラ的言動の使い分けを行うことが往々にしてあります。そして普段(自分の経歴に傷がつかないつくところで)論理的に振る舞うことで、パワハラ的な言動が非論理的であっても、「本人に対しては面と向かって本音が言えず、「しかたがない。逆らわずにいこう」と諦め」ざるをえないという状況が生まれます(付記:カッコ内を修正しました)。その結果、その上司の下での意思決定は非論理的なものとなっていくという悪循環が生じることとなりますが、私見ではこうした環境は伝統的な日本企業や官公庁に特徴的ではないかと思います。

パワハラを駆使するクラッシャー上司(2017年08月06日 (日))
注 引用部の論旨に誤りがありましたので、元記事とともに修正しました。


というわけで、そうしたアドホックな議論を駆使する「ディベートの達人」が潜在的パワハラクソ野郎になり、そうした「ハイパフォーマー」が組織の上層部に浸透していった組織においては、表面上は「説得的」であったとしても、「ルーツや文脈を保持する」側(通常の社会生活を行うなら誰でも保持している側となるはずですが)にとって非論理的な意思決定が常態化していくわけです。倉橋本でディベートが流行したと指摘される1990年代半ば以降に社会人として自己啓発した層は、今まさに不祥事が発生しているような政官民の組織で意志決定権を持っている層と重なるのではないかと思うところでして、ディベートの弊害が意思決定に与える影響をまざまざと見せつけられる思いがしますね。

2018年02月25日 (日) | Edit |
ただの雑感です。

前回エントリで、「「よくやった」という一言が大事ですよね。そこで「次へ、次へ」と休み無くやっていると疲れちゃうし、組織としての「遊び」が無くなって行ってしまう」というゆうきまさみ先生の言葉から関連して、「世の中には、思った以上に「激励のつもりで罵倒しか出来ていない人」が多いんじゃないか」という指摘を取り上げたところですが、奇しくも今日閉幕する平昌冬季オリンピックでは日本から出場した選手の獲得したメダル数が過去最高となり、たいそう盛り上がりを見せているようです。

私自身は、商業的に成功したと言われる1984年のロサンゼルス夏季オリンピックから記憶があるもので、こうしてメダル獲得に沸いている界隈が、オリンピックの興奮が冷めた途端にプライベートを詮索されてマスコミのバッシングを受けたり、国の強化策に対する批判(多くても少なくても批判されますね)等々が沸き起こることを経験的に知っています。寒いところに住んでいますので、トリノ冬季オリンピック以降、カーリングが(興味本位でおやつタイムとかかけ声が話題になって)ブームになっては下火になり、その都度選手たちが興味本位で翻弄され、活動場所を求めて奔走している姿を見ている者としては、男女を通じて初めてメダルを獲得したこの後の周囲の反応が気になるところです。

個人的にスポーツに特段思い入れがあるわけでもなく、テレビで中継があればそれなりに盛り上がって観る程度ですが、もちろん世の中にはスポーツそのものに関心がなかったり、ましてやオリンピックなんて商業主義のイベントに対する反感を持つ方もいらっしゃるわけでして、それはそれとして尊重すべきとは思いますし、特に後者についてオリンピックが商業主義で歪められているという指摘はその通りだとも思います。ただし、そうした反感をスポーツという活動やオリンピックというイベントに向けるのみではなく、スポーツの世界で結果を残すために努力した方々、さらにその努力が実って結果を残した方々までに向けてしまって、一緒くたにして批判してしまうことは避けるべきと思います。



スポーツで結果を出した個々のプレーヤーやその支援者を称えることもせず、まして経済的な面で報いることができないこの国で、その中ですら結果を出した方々には私なりの最大の賛辞を送りたいと思います。その一方で、「世の中には、思った以上に「激励のつもりで罵倒しか出来ていない人」が多い」というこの国で声の大きい方々とその意を受けたマスコミは、容赦なく彼らに刃を向けていくことでしょう。歯がゆいのは、私の資力では個人的に称えることはできても報いることはほぼできませんので、政府支出として個々のプレーヤーの活動を支援することに期待したいところですが、これもまた上記のとおり批判の対象となります。

というようなこの国の状況を見ていると、オリンピック憲章の高邁な精神を改めて確認することはそれなりに意味のあることではないかと思います。

Fundamental Principles of Olympism


  1. Olympism is a philosophy of life, exalting and combining in a balanced whole the qualities of body, will and mind. Blending sport with culture and education, Olympism seeks to create a way of life based on the joy of effort, the educational value of good example, social responsibility and respect for universal fundamental ethical principles.
  2. The goal of Olympism is to place sport at the service of the harmonious development of humankind, with a view to promoting a peaceful society concerned with the preservation of human dignity.
  3. The Olympic Movement is the concerted, organised, universal and permanent action, carried out under the supreme authority of the IOC, of all individuals and entities who are inspired by the values of Olympism. It covers the five continents. It reaches its peak with the bringing together of the world’s athletes at the great sports festival, the Olympic Games. Its symbol is five interlaced rings.
  4. The practice of sport is a human right. Every individual must have the possibility of practising sport, without discrimination of any kind and in the Olympic spirit, which requires mutual understanding with a spirit of friendship, solidarity and fair play.
  5. Recognising that sport occurs within the framework of society, sports organisations within the Olympic Movement shall have the rights and obligations of autonomy, which include freely establishing and controlling the rules of sport, determining the structure and governance of their organisations, enjoying the right of elections free from any outside influence and the responsibility for ensuring that principles of good governance be applied.
  6. The enjoyment of the rights and freedoms set forth in this Olympic Charter shall be secured without discrimination of any kind, such as race, colour, sex, sexual orientation, language, religion, political or other opinion, national or social origin, property, birth or other status.
  7. Belonging to the Olympic Movement requires compliance with the Olympic Charter and recognition by the IOC.

オリンピズムの根本原則


  1. オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。
  2. オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。
  3. オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの価値に鼓舞された個人と団体による、協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進めるのは最高機関のIOCである。活動は5大陸にまたがり、偉大なスポーツの祭典、オリンピック競技大会に世界中の選手を集めるとき、頂点に達する。そのシンボルは5つの結び合う輪である。
  4. スポーツをすることは人権の1つである。すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。オリンピック精神においては友情、連帯、フェアプレーの精神とともに相互理解が求められる。
  5. スポーツ団体はオリンピック・ムーブメントにおいて、スポーツが社会の枠組みの中で営まれることを理解し、自律の権利と義務を持つ。自律には競技規則を自由に定め管理すること、自身の組織の構成とガバナンスについて決定すること、外部からのいかなる影響も受けずに選挙を実施する権利、および良好なガバナンスの原則を確実に適用する責任が含まれる。
  6. このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。
  7. オリンピック・ムーブメントの一員となるには、オリンピック憲章の遵守およびIOCによる承認が必要である。

「オリンピック憲章 Olympic Charter 2017年版・英和対訳 (2017年9月15日から有効)」
※ 強調は引用者による。


スポーツの政治利用やら商業主義とかその一環としてのマスコミによるバッシングは、いずれも人間の営みの中から生み出されるものである以上、こうしたFundamental Principles of Olympismの実現は困難だろうとは思いますが、だからこそ常に意識しなければならないものなのでしょう。

(付記)
言わずもがなですが、カーリング女子に出場したロコ・ソラーレ北見が使う「そだねー」が流行しつつあるそうですが、組織の意思決定を考える上でもとても参考になります。外科医であるハーバード大のアトゥール・ガワンデ氏が「チェックリスト」の有用性をこう指摘しています。

 多くの外科医は怒鳴ることで物事を解決しようとする。当初はテールマン医師もご多分にもれず、関係者全員に気合いを入れなおすように怒鳴った。だが、結果は改善されなかった。そこで彼は同僚と協力し、別の方法を試みることにした。チェックリストを作ったのだ
 彼らはあえて権限の弱いレスキュー隊と電話オペレーターにチェックリストを与え、手順を一つ一つ丁寧に説明した。レスキュー隊はできるだけ早く、たとえ事故現場にまだ到着していなくても、病院に人工心肺の手配と患者を温める用意をするように連絡すること。連絡を受けた電話オペレーターはチェックリストに書いてある順番通りにスタッフに電話し、機器などを準備して待機しているように伝えること。
 その結果、ついに初の蘇生に成功した。それがあの少女だった。直後にテールマン医師はウィーンの病院に移ってしまったが、クラーゲンフルトのチームはその後も二人の命を救った。
pp.55-56

(略)

 新しいプロジェクトを始めるときは、まずチェックリストが作られるそうだ。16の業種の代表者が話し合い、各業種の仕事をまとめた大きなチェックリストを作るのだ。今回のプロジェクトでは、サルビア氏の会社からも代表者が一人参加し、構造設計に関連した手順をチェックリストに加えた。そうしてできあがったチェックリストは下請け業者と各分野の専門家に送られ再度確認される。
 完成品は見事だ。数百人から数千人の知識をそれぞれ適切な場面で、適切なタイミングで、適切に活用する、詳細なチェックリストができるのだ。
pp.73-74

(略)

 「じゃあ、いったいどうするんですか?」と私は聞いた。するとオサリバン氏は会議室の左側の壁に張ってある(ママ)、大きな紙を見せてくれた。右側の壁の工事スケジュールと一見そっくりなのだが、これは「提起スケジュール」と呼ばれるものだ。これもチェックリストなのだが、工事の予定ではなく、コミュニケーションの予定が書かれている。「○月×日までに関連分野の専門家が集まり、△という工程について話し合うこと」といった具合にだ。専門家たちに確実にコミュニケーションを取らせることで、不測の事態に対応しているのだ。各専門家はもちろんさまざまな決断を下すのだが、個人として決断するのではない。お互いの懸念を考慮し、問題について話し合い、すすむべき方向性に合意したチームの一員として判断を下す。起こりうる全ての問題を事前に予測するのは不可能だが、問題が発生しやすそうな工程や時期は予想できる。だから事前にコミュニケーションの予定を入れておくことで、問題が発生しても対応できる。提起スケジュールには、いつまでに誰と誰が何について話し合うのか、次の工程にすすむ前にどの情報を「提起」しなければいけないのかが記されている。
p.77


『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』
定価: [本体1600円]+税
発売日: 2011.06.18
ISBN: 978-4-86391-280-9

本書では、医療の現場は未だに「ご多分にもれず、関係者全員に気合いを入れなおすように怒鳴った」というような状況にあり、テールマン医師はそれをチェックリストによって解決したことをヒントとして、チェックリストの有用性を探っていきます。その中で著者のガワンデ氏は、建築業界で「お互いの懸念を考慮し、問題について話し合い、すすむべき方向性に合意したチームの一員として判断を下す」ことがよい結果を導くことを経験し、業界全体でそれをシステム化していることを知り、有用なチェックリストの作成、運用を追求しているわけです。

カーリングでも、刻一刻と変化するストーンの位置を把握し、氷の状況を読むアイス・リーディングを磨いて状況を判断し、相手が打ってくる手を想定しながら、自ら複数のパターンを想定するという判断を制限時間内に行う必要があります。一人では判断が難しくても、役割分担をした4人が話し合うことでより多くの問題について確認し、チームとして意思決定を行うことができるようになります。おそらくストーンの位置や氷の状況についてチェックリストがあり、それを各選手が確認しているからこそ、それぞれが現状とこれからの問題を話し合うというやり方が定着しているのだろうと思われます。その観点で見ると、ブームに終わらないカーリングの面白さが認識されるのかもしれませんね。

2018年01月03日 (水) | Edit |
新年のご挨拶エントリをアップするまで3か月近く放っておいた拙ブログですが、この間主に仕事方面で精神的にかなり追い詰められていた上に、休日もそれなりに仕事/活動していてブログに手が回りませんでした。でまあ、小ネタのエントリでもアップできないほど疲弊した/忙しかったわけでもないのですが、去年最後のエントリとなった「ループもの」に書いた内容が実はもうそれなりに拙ブログで長年書いていることの集大成的なものになっていて、これ以降エントリを書いても同じ内容の繰り返しだなあという感覚もあって疎遠になっていた面もあります。とはいえ、拙ブログは元々ストレス解消として始めたものでもありますので、まあその程度の内容でぼちぼち続けられればいいかなというところです。

ということで、明日から仕事始めということでヘタをするとまた数か月放っておきかねないので、ホントにどうでもいい内容をダラダラ書いておきますが、今日は『君の名は。』の地上波初放送だそうでして、以下ネタバレが含まれますのでまだ見ないという方はそのつもりでご笑覧いただければと。

私自身は去年1年遅れでネット配信で観たところでして、いやまあ国内興行成績5位という前評判(というのは私が未見だからですが)に違わず美しい画と音楽とテンポのよさに引き込まれて魅入ってしまいました。とはいえ、見終わった直後は、こちらでまとめられているのとほぼ同じ違和感に苛まれてしまうわけですが。
映画「君の名は。」に違和感を感じる人たち(ネタバレあり) - Togetter

で、その違和感はいろいろありながら、一番引っかかった点をもう少し具体的に言えば、こちらでSF・文芸評論家の藤田直哉氏が指摘されているようなところがどうにも飲み込めないんですよね。

藤田 あの隕石が落ちる事故の悲劇をそもそもなくしてしまうわけですからね。潜在的に、それは、過去に戻って震災をなくしてしまいたいという幻想に近い。…
「新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している 4(2016年9月3日 10時05分)」

……しかし、それなら、東京や地方を、あんなに美しく描いてはいけない。不穏な、現実の、事故の記憶を想起させ、そして美しい「物語」と「映像」と埋め尽くして、記憶を摩り替えてしまうような効果を出してしまっては、ダメなのではないか。最後にもっと残酷な結末があれば、映像などの「美しさ」は許せる範囲になったと思うのですが…… ぼくも、会えない、救えないほうがいいと思ったんですよね。でも、まぁ、「会わないで終わるんじゃないか?」っていう可能性を示唆するシーンを何回も繰り返してた上なので、逡巡というかな、そっちの可能性に行きかけては行かない、っていう構成にしてはあったと思いますが。うーん。やっぱり、「切断」が足りない気が。

飯田 僕は「ハッピーエンドだからダメ」じゃなくて「それやっちゃったらあなたの今までの作品なんだったんすかってことになりませんか、作家として」というところが引っかかっているので、その点は藤田くんとは評価軸が違いますが、言わんとすることはわかります。

藤田 炎上狙い的な言い方をすれば、「ニュータイプの歴史修正主義」の映画(笑) 神社が出てくるし、「国家神道」のPRをするオカルトアニメじゃないの、っていう意地悪な批判もできなくはない。
 あまりに美しく、理想的に物事を描きすぎていると思うのですよ。それ自体は悪いことではないですが、現実に起きた震災という、汚れていたり不愉快だったり残酷だったり理不尽だったりする悲惨な事態を、こういうエンターテイメントの材料として扱っているわけですから、その手つきの是非は問われなければならない。…
「新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している 5(2016年9月3日 10時05分)」

 その手つきについて、三分の二までは、何か必然性を感じて胸に来るところがあった。さっきも言いましたが、新海さんが編集もやられているようだし、構造や描写などに、必然性と言うか、言うべきこと、探りたいもの、自分でも解決したい何かに接近しようとする「本気」を強く感じた。でも、結末に向かう部分は、その必然性がなくなっていたように見えた。
 それまでは、観客に対して、裏切ったり、伏線や象徴のレベルなどで丁寧に驚きを与えてくれていたのに、最後は「それは誰でも思いつくことでしょ」って驚きのないままに時間が過ぎていった。「唐突さ」や「驚き」こそが〈リアリティ〉なんですよ。想定していないこと、想像していないことが「起きる」というのが震災後のリアルだとしたら、後半はその〈リアル〉の手触りを失っていた
「新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している 6(2016年9月3日 10時05分)」


私自身も、入れ替わりの時間差が明らかになってからの展開を固唾を呑んで見守っていたわけですが、そこからの予定調和的な大団円へ進む過程があまりにもあまりな設定で違和感を感じざるを得ませんでした。その上で、私の本作に対する評価としては、掛け値なしに「上質なエンタテイメント」を見せてもらって感動していたりもするわけです。これはどういうことか。

結論から言えば、美しい画と音楽とテンポのよさに魅入るということに感動した自分の気持ちを壊したくないんですよね。もちろん「ハッピーエンドがダメ」ではもちろんないですし、災害を題材にしたからといって悲劇的な結末である必要もないとは思いますが、上記のような違和感に加えてあまりに辻褄が合わない(一番困るのは、タイムトラベルで複数の世界線が発生しているのに、それぞれが微妙に交わってしまっていて最後に出てくるのがどの二人なのか判然としない)ために、いくらフィクションだとしてもそのストーリーを飲み込めないのも事実です。で、せっかくこれだけの美しい映画を見たという感動をなんとか壊さないようにしようとすると、ますますその違和感に苛まれるというまあしちめんどくさい状態になったわけです。

ということで、なんでわざわざ新年最初のエントリでこの映画を取り上げたかというと、美しい画とか音楽というのはそれそのものが魅力を持っているために、それをまとってしまえば荒唐無稽なストーリーであっても感動できてしまうし、その荒唐無稽さに気が付いてもせっかく盛り上がった気持ちがもったいないから感動するというねじくれた状況が起きてしまうということを、身をもって体験したことが衝撃だったからです。以前から拙ブログをご笑覧いただいている方には薄々感づかれていそうですが、まあこれこそが「経済学的に正しい」主張が多くの人の心をつかんでしまう理由なのだなあと思ったところでして、この映画を「キレイな理屈には重々気をつけなければならない」という他山の石として、今年の抱負としたいと思います。

(付記)
ついでに、この年末年始はEテレ率が高かったところでして、大晦日の『香川照之の昆虫すごいぜ!』から深夜の『ねほりんぱほりん』を挟んで元旦の朝は『昆虫すごいぜ!』特別編と夜は『大人のピタゴラスイッチ』まで(ほぼ録画ですが)満喫いたしました。どれも好奇心を刺激するという点ではさすがEテレだなあという番組だと思いますが、中でも『大人のピタゴラスイッチ』は、ある意味で一番深い内容だったのではないかと思います。

内容についてはこちらのtweetが要を得ていますが、


ピタゴラスイッチは番組の性質上物理的な作用についての解説が中心になるとはいえ、いずれも現実の社会における制度の作用を考える際に不可欠な視点ですね。ある制度が副作用を含めてどのような効果をもたらすかを考える際には、入口と出口だけを考えるのではなく「途中を丁寧に考える」ことが重要であり、当初想定した効果などの「枠組みにとらわれない」ように副作用を含めて十分にモニタリングするのと同時並行で、制度の周知や運用に当たっては「わかりやすい想像をさせることで扱いやすくなる」ように工夫しなければなりません。そしてこれらの視点は、ある特定の利益集団や学問分野からの考察だけによっては確保できず、社会や制度に関する「想像力」を総動員する必要があるわけです。とはいえ、現実の社会のみならず、学問の世界も唯我独尊的な考え方が蔓延していることについても「想像力」を働かさなければならないのが現実でして、いやこれは深いテーマですね。

2018年01月03日 (水) | Edit |
昨年中は多くの方々にコメント、拍手、ぶくま、tweet等々いただきありがとうございました。
本年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。

というわけで初詣しておみくじ引いてみました。

【吉】 (№47759) モナー神社
願事:遅かれど思う通りになるべし
待人:待つことあれど必ず来る
失物:少し遅れるがやがて出る
旅立:道近ければ吉
商売:気を付けてなせば吉
学問:労多いが成果有り
争事:新は危なく後宜し
転居:ゆっくりして吉
病気:遅いが治る 養生せよ
縁談:今は進まなくとも後には叶う

2008年から始めたモナー神社詣でですが、昨年までの戦績が大吉→吉→吉→吉→大吉→大吉→大吉→大吉→末吉→大吉ときて、記念すべき10周年は吉ということで、通算戦績は大吉6回、吉4回、末吉1回となりました。flashの廃止が2020年末に迫る中、あと2回くらいはモナー神社詣でができそうですが、なんとか大吉5割を死守したいところ。

ということで、今年も無事これ名馬を心がけて参りたいと思います。