2018年07月21日 (土) | Edit |
本来業務のデスマーチが一息ついたところで以前のエントリの関連ですが、

公文書というのは例えば課とか係という組織単位で作成して管理するものであるところ、人件費削減の声に押されたそうした組織に公文書管理の担当者を割り当てる余裕は当然ありません。さらにいえば経費削減のため天井が低く空調も後付けのような古式ゆかしい建物で仕事をしている者としては、意思決定資料であるところの公文書を定期的に破棄しなければ建物に入ることすらできなくなるような状況で、ではあるべき公文書管理とは一体何だろうなと思わないでもありません。

というよりむしろ、現場の感覚からいえば、公文書管理は余計な仕事とみなされていて、そのための人件費や施設建設の費用は「行政のムダ」として削減されてきたのではないかというのが正直な思いですね。

制度の不備は職員個人の心がけや自助努力で防ぎなさい(2018年04月07日 (土))

ということを書いていたところ、『市民を雇わない国家』で、日本では他の先進国に比べて格段に早い1960年代から、総定員法によって「小さい政府」に転換していたことを指摘されていた前田健太郎氏が、『現代思想』に論稿を寄せていらっしゃていたようです。

 一般に、先進諸国において「小さな政府」というスローガンが流行したのは、1980年代以降だとされている。公共部門が肥大化し、民間部門を圧迫している。政府の活動範囲を縮小し、経済の活力を取り戻すべきだ。こうしたメッセージに基づく行政改革に乗り出した指導者として、日本ではイギリスのマーガレット・サッチャー、アメリカのロナルド・レーガンなどの名前が挙がることが多い。
 それでは、「小さな政府」の流行にかもかかわらず、諸外国がそれなりの人員を公文書管理に割くことができているのはなぜなのか。その原因の一つは、公務員の数自体が日本よりも多いことになる。歴史的に見れば、どの国でも公務員数は資本主義の発展とともに増加する傾向にあった。1980年代に行政改革の時代が始まると、その傾向は頭打ちになったが、その後も大幅な人員削減は行われず、それ以降の公共部門の規模は概ね維持された。アメリカのように公文書の管理に携わる人員が多い国は、「小さな政府」の時代が始まる前の段階で既に多くの人員を公文書管理のために確保していたと考えられるのである。
 この視点から見た場合、日本は行政改革によって公務員数の増加に歯止めがかかるタイミングがきわめて早い国であった点に特徴がある。元々、日本は欧米諸国に遅れて資本主義の発展を開始した。それにもかかわらず、高度成長期の1969年には総定員法によって国家公務員数が固定され、その後も財政的な理由で定員削減が繰り返されてきた。その結果、日本における国家公務員を含めた公務員数は先進国で最低水準にある。
前田健太郎「「小さな政府」と公文書管理」p.63

 このような文書主義の弊害の多くの部分は、実は民主主義と表裏一体の関係にある。さまざまな政策課題に直面する行政職員は、可能であれば規則に縛られずに柔軟に対応したいと考える。だが、行政職員による最良の行使は、場合によっては権力の濫用として市民からの批判を受け、それによって新たな規則が作られる。だからこそ、行政職員たちは過剰なまでに文書を作り、それを頼りに自らの行動を正当化せざるを得ない。アメリカの行政学者ハーバード・カウフマンがかつて述べたように、民主国家における官僚制の繁文縟礼の根本的な原因は、我々自身なのである。従って、公文書管理を早くから進めてきたアメリカにおいて、官僚制の繁文縟礼に対する不満が著しく強まったことは、ある意味において民主主義の抱える矛盾を示していると言えよう。
前田健太郎「「小さな政府」と公文書管理」p.65

現代思想2018年6月号 特集=公文書とリアル


※ 以下、強調は引用者による。

資本主義が発展する過程では労働者の働きは集約化されるわけでして、労働者が家庭で過ごす時間が減って育児や介護などの家庭機能を維持することが難しくなると、家族機能の社会化が必要となります。というわけで「歴史的に見れば、どの国でも公務員数は資本主義の発展とともに増加する傾向にあった」のはその通りですね。

そして、「行政職員たちは過剰なまでに文書を作り、それを頼りに自らの行動を正当化せざるを得ない」というのは、拙ブログでも

そんな会計検査院とオンブズマンに対する現場の対応としては、規定された手続きに従わなければ違法・不適正とされるわけですから、厳正な手続きを踏んでこれ以上経費を削れませんでしたという根拠となる書類を何枚も用意しなければなりません。さらに、公会計には発生主義という考え方がなく買掛・売掛という処理ができないので、つじつまの合う日付に書類を作り直す作業も常時発生することになります。そうして削られた経費とその処理に要した手間(労働時間、書類作成の経費)の比較こそが、たとえば事業仕分けで判断される必要があるだろうと思うわけですが、実際の事業仕分けは「とにかく経費を削れば、そのために要する労力やら手続き上の資源の浪費は問わない」というスタンスで進められているのは周知のとおり。極端に言えば、1円の経費を削減するためには、時給数千円になる職員が日夜書類作りに追われても構わないということになるんですね(もちろん、定められた手続きをないがしろにしていいという趣旨ではありません。その程度は、あくまで要するコストと得られるベネフィットの比較で決められるべきだと考えます。為念)。

会計検査院とオンブズマンが作る世界(2010年02月22日 (月))

と書いた通りでして、一方では「公務員が多すぎるのは税金のムダづかいだ」という批判と「お役所仕事で融通が利かないから対応が遅い」という批判に挟まれて、公文書管理なんかやってる暇はないというのが役所の実態となっているところです。

というわけで、前田健太郎氏のこの論稿はその通りだなと思うものの、『市民を雇わない国家』については政治学的な分析に偏りすぎていて、公務員の人事労務管理という観点からの分析が希薄にすぎるのではという印象です。

 以上の検討に従えば,日本における公務員の人件費の特徴は,その財政的な統制の難しさにあった.公務員は,身分が保障されているだけではなく,給与も財政当局との交渉とは独立に決まる.それは,自民党政権の「利益配分体系」の外から働く支出拡大の圧力であり,景気と連動するものではあっても,必ずしも長期的に政府の財政規模を拡大させ続けるわけではない.しかし,公務員の給与が民間部門に合わせて設定されるということは,政府が人件費を有効にコントロールできないことを意味していた.こうした性質ゆえに,公務員の人件費は1967年9月に始まる財政硬直化打開運動の標的になったのである.
p.98

市民を雇わない国家
日本が公務員の少ない国へと至った道
前田 健太郎 著
ISBN978-4-13-030160-2発売日:2014年09月26日判型:A5ページ数:328頁

身分保障は雇用保障ではないと何度言えば…、というのはとりあえず措いといて、政治学的な描写としては指摘される通りでしょうけれども、この時期は高度経済成長に対応するため日本型雇用慣行が形成された時期でもありまして、民間では人材確保と給与原資の管理が問題となっていた時期でもあります。そして技術革新に応じた配置転換を円滑に進めるために、年功制を基本とした職能資格給が民間で採用され、民間準拠する人事院勧告を通じて公務員の賃金体系にも影響が現れたというのが実態と言えるでしょう。

特に日本の公務員制度の特徴として、給与制度についてはアメリカの人事委員会制度を参考にしてすべての政府職員を「公務員」としてアメリカ型の職階制を規定する一方で、その運用の理解においてはすべての公務員の雇用を大陸法(ドイツ法)と同じく任用とされるというねじれが生じています。

 公務部門で働く者はすべて公務員であるというのは、戦後アメリカの占領下で導入された考え方である。戦前は、公法上の勤務関係にある官吏と、私法上の雇傭契約関係にある雇員(事務)・傭人(肉体労務)に、身分そのものが分かれていた。これは、現在でもドイツが採用しているやり方である。そもそも、このように国の法制度を公法と私法に二大別し、就労関係も公法上のものと私法上のものにきれいに分けてしまうという発想自体が、明治時代にドイツの行政法に倣って導入されたものである。近年の行政法の教科書を見ればわかるように、このような公法私法二元論自体が、過去数十年にわたって批判の対象になってきた。しかし、こと就労関係については、古典的な二元論的発想がなお牢固として根強い。
 ところが、アメリカ由来の「公務部門で働く者は全員公務員」という発想は、公法と私法を区別しないアングロサクソン型の法システムを前提として産み出され、移植されたものである。公務員であれ民間企業労働者であれ、雇用契約であること自体には何ら変わりはないことを前提に、つまり身分の違いはないことを前提に、公務部門であることから一定の制約を課するというのが、その公務員法制なのである。終戦直後に、日本が占領下で新たに形成した法制度は、間違いなくそのようなアメリカ型の法制であった。それは戦前のドイツ型公法私法二元論に立脚した身分制システムとは断絶したはずであった。
 ところが、戦後制定された実定法が明確に公務員も労働契約で働く者であることを鮮明にしたにもかかわらず、行政法の伝統的な教科書の中に、そしてそれを学生時代に学んだ多くの官僚たちの頭の中に生き続けた公法私法二元論は、アメリカ型公務員概念をドイツ型官吏概念に引きつけて理解させていった。その結果、公務部門で働く者はすべて(ドイツ的、あるいは戦前日本的)官吏であるという世界中どこにもあり得ないような奇妙な事態が生み出されてしまった

濱口桂一郎「非正規公務員問題の原点」『地方公務員月報』2013年12月号


さらに、人事院勧告によって民間の給与体系に準じることとしたために、民間企業で1960年代に普及した日本型雇用慣行としての職能資格給制度が、法に規定された職階制(2016年に廃止されましたが)に代わって適用されることになりました。つまり、GHQはあくまでアメリカ型のジョブ型雇用を国家公務員法・地方公務員法に規定したものの、官公労の労働争議の激化に業を煮やしたマッカーサーが公務員のストを禁止して人事院勧告を導入させたところ、結局ジョブ型雇用によって給与が決まるのではなく、メンバーシップ型雇用によって年功的に給与が決まる仕組みが定着してしまいます。このため、公務員の任用という行政処分における賃金決定は、民間より厳格な年功制に基づくことになり、公務員の年齢構成が高齢化すると自動的に給与原資が増加する仕組みとなっていたわけです。

そして、総定員法が制定された1969年は、民間企業が職能給に舵を切った時期でもありました。

④賃金制度の唱道
 賃金制度の面から見ると、1950年代から1960年代にかけての時期は、使用者側と政府側が同一労働同一賃金制度に基づく職務給を唱道し、これに対して労働側は原則自体は認めつつも、その実施には極めて消極的な姿勢を示していた時期です。
(略)
⑤職能給の確立
 ところが1960年代後半には、事態は全く逆の方向に進んでいきます。一言でいえば、仕事に着目する職務給からヒトに着目する職能給への思想転換です。これをリードしたのは,経営の現場サイドでした。その背景にあったのは、急速な技術革新に対応するための大規模な配置転換です。労働側は失業を回避するために配置転換を受け入れるとともに、それに伴って労働条件が維持されることを要求し、経営側はこれを受け入れていきました。
(略)
 この転換を明確に宣言したのが、1969年の報告書『能力主義—その理論と実践』です。ここでは、「われわれの先達の確立した年功制を高く評価する」と明言し、年功・学歴に基づく画一的人事管理という年功制の欠点は改めるが、企業集団に対する忠誠心、帰属心を培養するという長所は生かさなければならないとし、全従業員を職務遂行能力によって序列化した資格制度を設けて、これにより昇進管理や賃金管理も行っていくべきだと述べています。「能力」を体力、知識、経験、性格、意欲からなるものとして、極めて属人的に捉えている点において、明確にそれまでの職務中心主義を捨てたと見てよいでしょう。
p.111-113

日本の雇用と労働法
濱口桂一郎 著
定価:本体1,000円+税
発売日:2011年09月20日
ISBN:978-4-532-11248-6
並製/新書判/242ページ


それまでは、「国民所得倍増計画」において同一労働同一賃金制度によって生活に要する経費が賄えない分は社会化するという構想があったのですが、

 このほか住宅費用についても詳しく説明していますが、これらを裏返していえば、欧州諸国では公的な制度が支えている子供の養育費、教育費、住宅費などを、日本では賃金でまかなわなければならず、そのために生計費構造に対応した年功賃金制をやめられなくなっているということが窺われます。
 こうしたことは、実は1960年代には政労使ともにほぼ共通の認識でした。それゆえに、ジョブ型社会を目指した1960年代の政府の政策文書では、それにふさわしい社会保障政策が高らかに謳いあげられていたのです。
 例えば、1960年の国民所得倍増計画では、「年功序列型賃金制度の是正を促進し、これによって労働生産性を高めるためには、すべての世帯に一律に児童手当を支給する制度の確立を検討する要があろう」と書かれていますし、1963年の人的能力開発に関する経済審議会答申でも、「中高年齢者は家族をもっているのが通常であり、したがって扶養手当等の関係からその移動が妨げられるという事情もある。児童手当制度が設けられ賃金が児童の数に関係なく支払われるということになれば、この面から中高年齢者の移動が促進されるということにもなろう」とされていました。
p.230
日本の雇用と中高年
濱口 桂一郎 著
シリーズ:ちくま新書
定価:本体780円+税
Cコード:0236
整理番号:1071
刊行日: 2014/05/07
※発売日は地域・書店によって
前後する場合があります
判型:新書判
ページ数:240
ISBN:978-4-480-06773-9
JANコード:9784480067739

結局、生活を保障するのは(民間と公務員の別にかかわらず)使用者であって政府ではないという、世界に類のない小さな政府かつメンバーシップ社会が現出することとなったわけですね。という次第で、いまや「可処分所得を確保するために正社員を増やせ!経済成長のために増税なんてけしからん!」などと知った顔して声高に煽る方々が「経済左派」を自称される世の中になってしまったわけでして、市民を雇わない国家どころか、市民の生活を保障しない国家と人手不足でも職能資格がなければ賃上げをしない社会をつくり出したのは一体誰だったんだろうと考えてみるのもまた一興です。
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2018年04月12日 (木) | Edit |
ということで、このクソ忙しい年度初めに立て続けにエントリをアップしてしまったわけですが、実は3月末くらいから一続きのエントリとして書きだしたものでして、途中でいろいろなトピックを取り入れているうちに分割せざるを得なくなった次第です。で、結局何がいいたかったかというと、日本型雇用慣行が大企業中心に浸透してから40年近くが経過(整理解雇の4要素のリーディングケースとなった東洋酸素事件の高裁判決から来年で40年ですね)し、前回エントリで取り上げたように、日本の主要な組織の意思決定がすでに修復不可能なまでに歪んでいるのではないかということでした。その一つの側面が、前回エントリで取り上げた「ディベートの達人」が潜在的パワハラクソ野郎となっていく過程ですが、具体的にそうした組織体制が組まれるのが年度ごとの人事異動なわけです。

という人事異動の時期に厭債害債さん(?)のエントリを拝見して、こうした思いを抱くのは決して自分一人ではなく、ということは日本の組織では普遍的な現象となっているのだなあという思いを強くしたところです。

頭の悪い人は普遍的に存在する。共通点は自分に自信を持ちすぎていることであり、そのことが知識不足や経験不足とミックスされるとよろしくない結果を起こす。さらにそういう人が広い意味での権力を握ると、これは最悪だ。自分の自信のなさや知識不足をその権力の行使によって補おうとするからであり、その結果組織は大混乱に陥る。
会社などでも、とっても偉い方々の好き嫌いで人事は決まることがあり、その結果として「頭の悪い人」があるラインのトップに来ることはままある。しかもあまり経験値がない世界のラインのトップとなることがある。
(略)

会社組織であれば、最初は「威勢がいい」「はっきり物事を言う」などと肯定的な評価を下していたトップも最後は手に負えなくなって、子会社や別組織に移してしまう。で移った先で同じことを繰り返し、挙句の果てそういう評判が一般化し、引き受けてがなくなってしまう。しかし本人はそのことが理解できず、ますますバカなのは自分以外だと信じて疑わなくなる。いわゆるバカの壁が構築される。悪いことに部外者はそういう威勢の良さなどを面白がって付き合ってくれるので、それを自分への仕事上の評価だと大きな勘違いをし、ますます間違った自信を深めてしまう

「頭の悪い人(2018/03/16 21:01)」(厭債害債(或は余は如何にして投機を愛したか))
※ 以下、強調は引用者による。

国家公務員ならば地方自治体とか独立行政法人とか出向先があるので民間に近いかもしれませんが、特に地方の役人の世界は子会社や別組織といえる組織がそれほど多くなく、しかも「とっても偉い方々」が直接選挙で選ばれる組織であるため、国家公務員や民間企業よりもはるかに「とっても偉い方々の好き嫌いで人事は決まる」傾向が強くなります。

例えば、全国知事会の「知事ファイル」というページに全都道府県知事の任期等が記載されておりまして、2018年度当初現在でその任期(知事ごとに当選回数から1を引いて4年をかけた年数に、現在の任期の年数を加えた年数)の平均を取ると9.98年となります。国会方面では一強体制で長期政権だからとか、内閣人事局だから役人が忖度するとか言われていますが、地方自治体はずっと前から首長が名実ともに任命権者として首長部局の職員の人事権を握っていて、その他の任命権者の任用する職員についても、(地方公営企業で独自に採用選考を実施している場合を除いて)実質的にその職員人事を差配しています。さらにいえば、各都道府県においては「大統領」にも比肩される権限を有する方々の平均の在任年数が約10年なんですけど何か?

まあそんな次第で、マスコミで大々的に取り上げられるキャリア官僚についてはかなり関心が高そうではありますが、特に任期が長くなっている首長さんがいる役所の地元の方は、その役所の人事がどういう流れになっていて忖度の程度はどのくらいになっているのか、中の人に聞いてみると面白いかもしれませんね。

2018年04月07日 (土) | Edit |
相変わらず更新が滞りがちのまま新年度を迎えたところですが、例年通り役所というのは年度末と年度初めに仕事が集中するもので、3月中旬から5月のGW明けまでは連日の超勤と休日出勤に追われる日々が続くことになります。まあ役所といっても、いわゆる事業をもっている部署にその傾向が顕著でして、そういった仕事が比較的少ない部署や霞ヶ関のようなところはいつも通り年中忙しいわけですが。

という日々を送っている中で国会では公文書の管理が問題になっているようでして、ことの是非でいえばもちろん由々しき事態だろうと思います。とはいえ、個々の事案についての評価は別として、公文書というのは例えば課とか係という組織単位で作成して管理するものであるところ、人件費削減の声に押されたそうした組織に公文書管理の担当者を割り当てる余裕は当然ありません。さらにいえば経費削減のため天井が低く空調も後付けのような古式ゆかしい建物で仕事をしている者としては、意思決定資料であるところの公文書を定期的に破棄しなければ建物に入ることすらできなくなるような状況で、ではあるべき公文書管理とは一体何だろうなと思わないでもありません。

というよりむしろ、現場の感覚からいえば、公文書管理は余計な仕事とみなされていて、そのための人件費や施設建設の費用は「行政のムダ」として削減されてきたのではないかというのが正直な思いですね。その点は牧原先生がこちらの記事で指摘される通りだろうと思います。

だが、公文書を研究してきた行政研究者としては、こうした状況に強い違和感がある。忘れることができないのは、政府の研究会の一員としてフランスの公文書館へのヒアリングに行ったときのことである。「科学的な文書管理が重要だという主張だけでは、各省を説得することはできない。各省が説得されるとすれば、そうした文書管理こそ各省にとって利益になるという言い方だ」というプラグマティックな発言であった。

つまり、公文書における記録保存の正当性だけでなく、その利益を各省の側に了解されてこそ、公文書管理制度が成り立つというのである。しばしば、欧米では公文書は文化遺産とされているといった主張が日本でなされているが、それはあくまでも行政の現場の執務と折り合いがつくからこそ成立するものなのである。

「牧原 出:東京大学教授 「廃棄した」は通用しない 森友公文書改ざん問題 全面保存を前提とせよ(03/31号, 2018)」(週刊東洋経済Plus)

有料記事のため冒頭しか見られないんですが、公文書管理が適切に管理されてシステム化されていれば、当然その公文書を日常的に使用する行政の現場でこそ、必要な情報が必要なときに取り出すことができるというメリットがあるわけですから、公文書管理に反発する役人は多くはないでしょう。まあ誰がその担当になるかでは評価が分かれるかもしれませんが。


牧原先生が指摘されるフランスの担当者の発言を日本の役人が言おうものなら、「身内のお手盛りでラクをしようとしやがって」とか「公文書管理なんて普通の業務なんだからヒトもカネもかけずにやれ」という声がマスコミを中心に巻き起こるんでしょうねえ。

このような人員体制やシステムを度外視した職員任せの業務改善については、12年ほど前に岐阜県の不正資金問題に関連して書いたことともつながっていますね。

しかし、2は制度上の運用の問題なので少なくとも制度上の改正は可能だろうが、1を根絶することは制度上も実務上もそう簡単ではない。1の内訳については12ページ以降の「費消内容」にまとめてあるが、「(2)職員の費消」は問題外として、「(1)業務に関連した費消(通常の予算では支出しにくいもの)」は、その標題のとおり通常の手続きでは支出しにくいか、緊急を要するのに支出に時間がかかりすぎるパターンがいくつか列挙されている。たとえば、(1)の10、11、12、18といった施設の細かい修繕費や、紙が足りなくなったり会議で使う封筒が足りなくなったりしたときの補充、さらには研究機関で必要になる研究資材や参考文献のような、事前に予測できない経費を予算化することに根元的な困難さがあるのである。組織別にみたときこの傾向がはっきりするが、学校や農業試験研究所のような小規模な組織において、所管の施設を持ちつつ研究したり会議を開催するとなるとどうしても不確定要素が大きくなるにもかかわらず、予算規模は組織に比例して小さくなるので、十分なバッファを確保することができない。その予算上のバッファの代替機能を裏金に負わせることになるのである。

ところが、この報告書での「第9 再発防止に向けての提言」ではそういった制度面に踏み込んだ記述が一切ない。かろうじて「4 内部チェック機能の強化・充実」という項があるが、あくまで平成13年9月の「会計事務改革に関する基本的な方針」を前提とした審査・確認体制の強化、検査体制の強化といった会計事務のチェック機能と監査業務の充実という程度にとどまる。つまりここでいっているのは、制度の不備は職員個人の心がけや自助努力で防ぎなさいという責任転嫁である。すなわち、再び裏金問題が発生したときに組織としての責任が回避できるのである。困ったもんだな。

裏金問題とはいうものの(2006年09月09日 (土))


まあ拙ブログでは同じようなことばかり繰り返しているところですので、ネタには事欠かないところでして、こんなのもありますね。

前回エントリで取り上げたようなトランプ氏に対する支持は、「素人崇拝」が高じて、素人の意見を素人として発言する候補者に支持が集まったという面もあると思いますが、アメリカにはそれでも政策決定とその執行が円滑に進むような制度を作り上げてきたという自負があるのかもしれません。

翻って日本の政策決定過程を見ると、「猖獗を極めたカイカク病」を支えたのもまた「経済学的な正しさ」であって、そこにはチェックアンドバランスなどが機能する余地はないように思われます。「財政的な措置をしなくてすむように医療費を削減するための「経済学的に正しい」処方箋は、治療に高額の医療費を要するような疾病に罹患した患者には治療しないこと」というのは、こちらの本で指摘されている研究結果ですが、本書冒頭の青木昌彦先生の推薦文に続くこの序文がアツいんですよね。

 3つ目の提言は、日本の政策の形成・執行の各過程で評価を行うチェックアンドバランス機構を強化しなければ、改革は一度限りの打ち上げ花火で終わってしまうということです。日本での通説とは逆に、筆者の目には「米国の医療制度改革は非常に『慎重』であるのに対し、日本の改革は非常に『大胆』」と映ります。米国を含めた多くの先進諸国は、「政策は誤る可能性が高い」ことを前提に、制度改革には、「大失敗」を未然に予防するため幾重にもチェックアンドバランス機構を組み込んでいます。それに比べ、日本では欧米におけるようなチェックアンドバランス機構がきわめて貧弱です。(中略)このような政策上の失敗にブレーキを踏めるインフラを整備しない限り、3章で紹介する政策提言・評価のための経済学理論・実証分析手法も、日本では単なる絵に描いた餅に過ぎません。言い換えれば、政策の方向性・進捗状況すら判断できないままブレーキ・安全装置を外せば、とりあえず速度だけは上がることに嬉々とする類の大胆な改革が繰り返されるおそれがあります。

pp.006-008

「改革」のための医療経済学
ニューヨーク州ロチェスター大学助教授 兪炳匡 著
定価 : 2,052円(本体1,900円+税)
発行 : 2006年08月
在庫 : 在庫なし(申込不可)
サイズ : 四六判 264頁
ISBN-10 : 4-8404-1759-8
ISBN-13 : 978-4-8404-1759-4
商品コード : T560090



認知的不協和の行き着く先(2016年11月15日 (火))

役人の政策形成能力に対する疑念が深まっているのには、今回問題となっているような公文書管理の問題ももちろんあるとは思いますが、そもそもこの国の政策形成過程は、「政策の方向性・進捗状況すら判断できないままブレーキ・安全装置を外せば、とりあえず速度だけは上がることに嬉々とする類の大胆な改革が繰り返される」状況にあるわけでして、その背景には上記のような「制度の不備は職員個人の心がけや自助努力で防ぎなさいという責任転嫁」をよしとする組織の体質があると思われます。まあこれは、役人に限らず日本型雇用慣行で意思決定を行う日本の組織に特徴的なことなのかもしれませんが。

2016年03月06日 (日) | Edit |
拙ブログでは政治学は話半分で聞いているため政治学の研究成果には疎いところでして、待鳥先生の『代議制民主主義』は、代議制民主主義を自由主義的要素と民主主義的要素の組合せという枠組みから歴史的経緯や課題など多角的に論じていて、大変勉強になります。特に待鳥先生のご専門となるアメリカの政治制度についての「マディソン的自由主義」は、日本の民主主義を巡る議論では参照しなければならない論点がてんこ盛りです。

 それは、多様な政治勢力の代表者であるエリートが自由な競争を行い、勝ったり負けたりを繰り返しながら、個々の判断には時として誤りや行きすぎがあっても、全体として妥当な政策決定がなされるという「多元主義」の理念をつくり出していった。多元主義に基づく政治の理解、すなわち多元的政治観は、合衆国憲法制定以後のアメリカにおいて、民主主義を抑止する役割を共和主義に代わって担うこととなった。有徳の人物が得られなくとも、政治に関与するエリート間の競争と相互抑制を制度的に確保できれば、民主主義的要素を持つ政府であったとしても、「多数者の専制」に陥らずに政策決定を行うことができるという考え方は、その後の代議制民主主義の基本的な理念となった。

p.33

『代議制民主主義「民意」と「政治家」を問い直す』待鳥聡史 著(中公新書)


※ 以下、強調は引用者による。

念のため解説しておきますと、民主主義的要素は「多数者の専制」を招くものという問題意識があって、それを制御するためには、「多元的政治観」に基づく自由主義的要素を制度的に確保する必要があると、合衆国憲法の父と呼ばれるマディソンは考えていたわけです。

とはいっても、多様な人間の意思を政策として決定する政治制度である以上そのとらえ方自体にも多様な見方があるわけでして、20世紀には共産主義とかファシズムの挑戦を受けることになります。

 代議制民主主義に対するこれらの挑戦は、共産主義とファシズムとしてそれぞれに括られる。その主たる主導者のイデオロギー的位置の違いから、最左派と最右派という二つの極端な立場からの挑戦だと理解されることが多いが、両者には共通点もある。それは、代議制民主主義の持つ自由主義的要素をとりわけ否定したことである。共産主義もファシズムも、それを「プロレタリアート」と呼ぶか「国民(臣民)」と呼ぶかという違いはあっても、自らが社会に存在する存在的な多数派の利益を代弁していること、自由主義を謳歌してきた19世紀以来のエリート、すなわち「彼ら、彼女ら」に対抗する大衆(マス)、すなわち「われわれ」を重視していることを強調した。
 社会における潜在的多数派あるいは大衆の利益が一元的に集約できるのであれば、マディソンがかつて重視した複数の政治勢力間の競争や相互抑制という多元的政治観は必要でなく、むしろ有害であるという考え方に至っても不思議ではない。このように、社会全体の利益を強調し、それが政治的競争ではなく実質的な独裁によって追求できるという考え方を全体主義という

待鳥『同』p.57

全体主義と代議制民主主義が対立するというのはわかりやすいですが、共産主義とファシズムに全体主義という共通点があるというのは、自由主義的要素と民主主義的要素で代議制民主主義を理解する枠組みを通すと、とてもわかりやすいですね。つまり、エリートがけしからんからといって民主主義を重視し過ぎると、上記のマディソン的自由主義が民主主義的要素と結びついたのとは違い、エリートによる「正しい」政策のための自由主義を否定する方向へ進みがちであって、それを突きつめると民意至上主義としての共産主義とかファシズムになってしまうわけです。

しかし一方で、この「正しい」政策への希求というのは経済学方面の方にも常々見え隠れするところでして、「経済学的に正しいのに政府も大半の有権者もそれを理解していないから云々」という議論は、大衆(マス)が「カイカク」などと叫ぶ煽動的政治家を選んでしまう民主主義的要素を批判する一方で、大衆(マス)が理解しないような(教科書的)理論こそが正しいという思い込みによって、(マディソン的な多元的政治観ではない)自由主義によるエリート専制に根拠を与えてしまいます。つまり、教科書的な経済学の理論を振りかざす議論というのは、「自分こそが「正しい」政策を理解している」という煽動的経済学者の跋扈をも許してしまうわけでして、新自由主義とも親和的と言えそうです。

ということで、本書の「自由主義的要素と民主主義的要素の組合せ」という代議制民主主義に関する枠組みは、現在の日本の政策論争を理解するのにも大変有用だと思うのですが、戦後日本の特に1980年代以降の政治状況についての記述にはちょっと引っかかるところがあります。

 しかし、凍結仮説が示されたのとまさに同じ頃から、現実の政党政治は変化を始めていた。資本化・経営者・ホワイトカラー(管理的職業)と労働者・農民が、代議制民主主義の枠内で異なった利害関心に基づいて競争するという構図が、凍結仮説や戦後和解体制の前提であった。ところが、戦後の先進諸国が軒並み高度成長や経済的繁栄を実現し、社会保障制度を拡充させることなどで経済的利害対立が弱まってくると、対立軸の変化が生じた。人々は経済的豊かさではなく精神的あるいは文化的な豊かさを求めるようになったのである。
待鳥『同』p.75

この部分は世界的な傾向を説明した部分ですので、日本の状況に当てはまると待鳥先生が考えているわけではないと思うのですが、こういう説明は政治学方面ではよく見られるところでして、(待鳥先生の議論そのものというより一般的な意味で)かなりミスリードな議論ではないかと思います。他の先進諸国はよくわかりませんが、少なくとも日本では経済的豊かさというのは常に最優先になっていて、だからこそ「可処分所得を死守する」という経済学的に「正しい」議論が現実の再分配を阻み続ける状況があるのではないでしょうか。

1970年代の日本は、外部労働市場でのジョブ型雇用慣行の推進を諦めて、内部労働市場によるメンバーシップ型雇用慣行を制度として確立していく時期で、景気が減速しても生活給を保証する雇用慣行から漏れ落ちないように、雇用保険を財源とした雇用調整助成金で雇用を維持する制度を導入したのが1970年代後半です。つまり、メンバーシップ型雇用による(生活給として機能する)職能資格給が確立し、生活保障は政府ではなく大企業の仕事と位置づけられるようになったわけです。これにより、政治的には産業を保護して企業が生活給を払えるようにすることに力点が置かれ、社会保障や再分配はメインイシューとはならなくなったというのが実際のところだろうと思われます。

その意味では、本書で、

 もちろん、共産党、社会党という左派(革新)政党に対して、直接的な影響はより顕著であった。これらの政党は、いずれも代議制民主主義の枠内で当面活動することにしており、勢力拡大が直ちに政治体制の変革につながるというのは誇張であった。自由主義か共産主義かという体制選択は、1960年代後半には既に現実的な争点ではなかった。だが、左派政党は究極の目標として代議制民主主義の維持を必ずしも明確にしてはおらず、実際にも議会外の政治活動を重視する傾向を持ち続けていた。冷戦の終結は、日本政治における古びた左右対立や保革対立の終わりと、左派政党の衰退につながったといえよう
待鳥『同』pp.80-81

といういかにも政治学的な説明については、昨今の安保法制を巡る国会周辺での騒動などを見るにつけてその通りだろうとは思うのですが、一方で生活面での実態としては、正社員に職能資格給を支払うメンバーシップ型雇用慣行が確立したために、左派が主張すべき社会保障や再分配が政府のメインイシューになり得ないような状況になったことも大きく影響していると思われます。そのことに無自覚な(と書くと「自分こそが「正しい」政策を理解している」という主張と同じ穴の狢になってしまいますが)左派政党が、現在にいたるまで「企業は正社員による生活給の支給を維持すべき」と主張しているのには、歴史の皮肉を感じるところです。

でまあ、こう書くと日本的左派を批判しているように思われるかもしれませんが、経済学的な議論を信奉する方々は、経済成長とか景気動向を重視する企業が職能資格給(生活給)を払えるようにして、その可処分所得を死守することに力点を置くという点においては日本的左派の皆さんと共通しているようです。そういえば、共産党を含む野党連合では消費税率引き上げへの賛否がネックになっているとのことですが、上記のような状況を踏まえると、連合するなら共産党が主張する消費税率引き下げ(廃止)の一択でしょうね。

2015年10月26日 (月) | Edit |
一時期の繁忙期を過ぎたのでやっと積ん読をぼちぼち処理できるようになっていますが、何冊か読んだところでちょっと頭を抱えてしまったところです。というのも、拙ブログでは「増税忌避」という言葉を使っていますが、よりストレートに「租税抵抗」という言葉を使った本がありまして、すわ増税の必要性を指摘している拙ブログと同じ内容!?と思って拝読したところ、…うーむ、これは誰に向けて書いているのかよくわからないというのが正直な感想です。まあ、拙ブログではマルクス経済学の影響が大きい左派的な財政学には懐疑的な立場をとっているため、その直系の先生によって書かれた本書の記述に馴染めないというだけなのかもしれませんし、実際、本書で取り上げられている特に海外のエビデンスやデータは客観的な内容のものが多いと思います。特に、経済学を信奉する割に財政学とか公共経済学の議論をガン無視される方々は、特にこの部分などを熟読玩味されるのがよろしいかと思います。

 仮に国家が租税徴収の根拠として「公共性」を提示できない場合にいかなる事態が生じるのか。これが租税抵抗である。シュンペーターと同様、租税国家の生成について目を向けた社会学者のノルベルト・エリアスは、「公のこと」や「国家」という表現が、領主と王に対する抵抗の言葉でさえあったと指摘した(エリアス1978:317)。租税国家が成立して公共圏が形成されてから、国家権力の行為が不正に満ちていると感じられるのであれば、人民もまた同じように「公」の概念を持ち出すことで、国家に立ち向かい、抵抗するようになったのである。
 租税がかくも人民の抵抗を引き起こすのは、これがその本質として「強制性」を有しているからである。租税とは、「反対給付の請求を伴わぬ強制公課」のことであり、強制性とは無償制ないし一般報酬性を特徴としている(シュメルダース1967[1965]:414)。この点は、自発性と有償性ないし個別報償性とを特徴とする保険料や自己負担などの受益者負担といった財源調整手段とは明らかに異なる点である。自分の意思による支払いではないということ、自分に利益が帰着しないかもしれないということ、租税のこの特徴が国家嫌悪や租税抵抗を引き起こす原因となる
p.39

『租税抵抗の財政学―― 信頼と合意に基づく社会へ ――』佐藤 滋,古市 将人
※ 以下、強調は引用者による。

拙ブログでも、震災復興の財源問題について「社会保険料は拠出の義務に対して受給の権利が対応し、原則として国会の審議を経ずに個別の支給額が決まるため、もっとも「色」が濃い財源」と書いておりましたが、経済学ではない財政学ではきちんとその点は区別されて議論されているわけです。まあ、財源に色をつけるために行う「予算編成」という作業に携わっている役人にとってその困難さは自明であっても、特に経済学方面の方からすると、どんな財源でも予算は自由自在に組めると思われているようでして、本書の続きの部分も参考になりますね。

 実は、債務国家というのは、国家が公共的であろうとする努力をせず、租税抵抗を安易な形で回避しようとするところに生じるものである。リカードの等価原理は、租税と公債とが経済的に見て等価であることを説くが、施政者側の判断といても購買力を移転する側としても、この区別は実のところ極めて重要である。財政心理学という独自の領域を切り開き、租税抵抗問題を正面から取上げたシュメルダースは、「心理的にみると、租税と国債は対立物であって、火と水のようなものである」という(同:545-546)。
 それというのも、租税のもつ強制的性格によって、その不公正な賦課・割当が「あらゆる規模の租税抵抗を挑発する」が、一方、国家の保証が付随した資本証券たる国債は、人々の遊戯本能や名誉欲などを刺激し、自ら購買力を国家に移転するような積極的な反応を喚起することができるからである。「租税か公債か」を決定する基準は、「経済の領域よりも、むしろ政治的・心理的な領域に存在する」(同)。

佐藤・古市『同』p.40

リフレーション政策の手法として国債の日銀引受とか通貨発行益による財政ファイナンスを主張する方々は、ご自身はあくまで経済学的な議論を展開されているつもりなのでしょうけれども、一般の方にすれば政治的・倫理的な領域の問題だというのは大変示唆的な指摘だと思います。いつもの繰り返しですが、私自身はリフレーション政策をゆるやかに支持する立場ではありますが、同時に役人として再分配政策の拡充の必要性も痛感しているところでして、再分配というフロー支出は税収というフロー財源によって賄われるべきと考えております。しかし、当然ながらそうした再分配の制度化や予算編成は政治プロセスを経なければなりませんので、その実現は政治的なものに大きく左右されるということも理解しているつもりです。

そして、政治的なるものは理論的正しさやモデルの美しさで決まるものではないわけでして、権丈先生の言葉をお借りすれば「政策は、所詮、力が作るのであって、正しさが作るのではない」ということに尽きるのですが、経済学的な理論のみで議論される方々にはなかなかそうした側面が意識されることはなさそうですね。まあ、経済学者の方々は理論的な正しさとかモデルの美しさに並々ならぬこだわりをもつことが仕事という面もあるでしょうから、それはそれとしてお仕事に邁進されればよろしいのですが、それを一般の方が真に受けてしまったり、さらにはそれに気をよくしてか知りませんが自らの理論的正しさを即座に現実に適用できると考える学者もいるわけでして、それが回りまわって現実の政治的な攪乱要因となってしまうという事態が生じるに至ると、学者先生のご託宣に付き合うのも考えものです。

という理路からすると、ではそうした政治的なものの攪乱要因をいかに調整するかという点に議論が進むかと思いきや、日本的左派らしく本書の矛先は政府に向いていきます。主に第2章で1960年代から70年代の財政制度審議会の議論を引用して「保険料と税との徹底的な入れ替え」が進められたというのですが、いやまあ大蔵省主計局の戦略としてはそうかもしれませんが、本書でも指摘しているように厚生省は公的扶助や社会福祉の拡充を求めていたわけでして、政府といっても一枚岩ではありませんね。そうした省庁間の対立は官僚内閣制とか官庁代表制と呼ばれる政策決定プロセスであって、それぞれの背後の利益団体がその意向を反映させようとしのぎを削っているんですが、そうした政治的プロセスについて本書はほとんど言及がないところでして、それが「誰に向けて書いているのかよくわからない」という感想の理由です。その違和感は、この部分によく表れています。

 これまでみてきたように、日本の社会保障制度は人々の「共同の困難」に対処したものではない。それはむしろ、制度の分立状況やサービスが過小供給であることを前提に、受益者と非受益者という形で人々を分断させ、リスクを〈私〉化し、受益者負担を導くものである。受益の範囲が狭いために、反対給付を伴わない租税による財源措置では合意を得られない、という理由からだ。受益者負担の導入には、租税抵抗の回避がその根底にある。日本型負担配分の論理とは、このようなものだ。

佐藤・古市『同』p.72

…うーむ、この部分を読むと、政府の問題というより「租税抵抗」を示す国民が選別主義的な社会保障を志向しているという状況しか思い浮かばないのですが、本書は決して租税抵抗を示す国民を敵に回すことなく、その租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府を批判するんですよね。プリンシパル=エージェント的な意味で政府の行動を批判するならまだわかりますが、「民意」から遊離した政策決定を称揚するのでなければ、政府の行動はきちんと「民意」を反映したものという評価が妥当ではないかと思うところです。

なお、本書では日本型フレクシキュリティに一切言及がないので、日本型雇用慣行が公的な生活保障機能の貧弱さを肩代わりしていたことや、バブル崩壊後に日本型雇用慣行の維持が難しくなって会社が肩代わりをしていた生活保障が機能不全に陥っている状況が考慮されていないようでして、この点からも、日本型雇用慣行のコロラリーである終身雇用と年功序列に手をつけられない日本的左派の限界を感じるところです。とはいえ、財政学的な観点から日本の「租税抵抗」について考える際に、海外の研究を引用した部分については、本書を読むと一通りの議論を押さえることができるのではないかと思います。