2018年04月12日 (木) | Edit |
ということで、このクソ忙しい年度初めに立て続けにエントリをアップしてしまったわけですが、実は3月末くらいから一続きのエントリとして書きだしたものでして、途中でいろいろなトピックを取り入れているうちに分割せざるを得なくなった次第です。で、結局何がいいたかったかというと、日本型雇用慣行が大企業中心に浸透してから40年近くが経過(整理解雇の4要素のリーディングケースとなった東洋酸素事件の高裁判決から来年で40年ですね)し、前回エントリで取り上げたように、日本の主要な組織の意思決定がすでに修復不可能なまでに歪んでいるのではないかということでした。その一つの側面が、前回エントリで取り上げた「ディベートの達人」が潜在的パワハラクソ野郎となっていく過程ですが、具体的にそうした組織体制が組まれるのが年度ごとの人事異動なわけです。

という人事異動の時期に厭債害債さん(?)のエントリを拝見して、こうした思いを抱くのは決して自分一人ではなく、ということは日本の組織では普遍的な現象となっているのだなあという思いを強くしたところです。

頭の悪い人は普遍的に存在する。共通点は自分に自信を持ちすぎていることであり、そのことが知識不足や経験不足とミックスされるとよろしくない結果を起こす。さらにそういう人が広い意味での権力を握ると、これは最悪だ。自分の自信のなさや知識不足をその権力の行使によって補おうとするからであり、その結果組織は大混乱に陥る。
会社などでも、とっても偉い方々の好き嫌いで人事は決まることがあり、その結果として「頭の悪い人」があるラインのトップに来ることはままある。しかもあまり経験値がない世界のラインのトップとなることがある。
(略)

会社組織であれば、最初は「威勢がいい」「はっきり物事を言う」などと肯定的な評価を下していたトップも最後は手に負えなくなって、子会社や別組織に移してしまう。で移った先で同じことを繰り返し、挙句の果てそういう評判が一般化し、引き受けてがなくなってしまう。しかし本人はそのことが理解できず、ますますバカなのは自分以外だと信じて疑わなくなる。いわゆるバカの壁が構築される。悪いことに部外者はそういう威勢の良さなどを面白がって付き合ってくれるので、それを自分への仕事上の評価だと大きな勘違いをし、ますます間違った自信を深めてしまう

「頭の悪い人(2018/03/16 21:01)」(厭債害債(或は余は如何にして投機を愛したか))
※ 以下、強調は引用者による。

国家公務員ならば地方自治体とか独立行政法人とか出向先があるので民間に近いかもしれませんが、特に地方の役人の世界は子会社や別組織といえる組織がそれほど多くなく、しかも「とっても偉い方々」が直接選挙で選ばれる組織であるため、国家公務員や民間企業よりもはるかに「とっても偉い方々の好き嫌いで人事は決まる」傾向が強くなります。

例えば、全国知事会の「知事ファイル」というページに全都道府県知事の任期等が記載されておりまして、2018年度当初現在でその任期(知事ごとに当選回数から1を引いて4年をかけた年数に、現在の任期の年数を加えた年数)の平均を取ると9.98年となります。国会方面では一強体制で長期政権だからとか、内閣人事局だから役人が忖度するとか言われていますが、地方自治体はずっと前から首長が名実ともに任命権者として首長部局の職員の人事権を握っていて、その他の任命権者の任用する職員についても、(地方公営企業で独自に採用選考を実施している場合を除いて)実質的にその職員人事を差配しています。さらにいえば、各都道府県においては「大統領」にも比肩される権限を有する方々の平均の在任年数が約10年なんですけど何か?

まあそんな次第で、マスコミで大々的に取り上げられるキャリア官僚についてはかなり関心が高そうではありますが、特に任期が長くなっている首長さんがいる役所の地元の方は、その役所の人事がどういう流れになっていて忖度の程度はどのくらいになっているのか、中の人に聞いてみると面白いかもしれませんね。
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2018年04月07日 (土) | Edit |
相変わらず更新が滞りがちのまま新年度を迎えたところですが、例年通り役所というのは年度末と年度初めに仕事が集中するもので、3月中旬から5月のGW明けまでは連日の超勤と休日出勤に追われる日々が続くことになります。まあ役所といっても、いわゆる事業をもっている部署にその傾向が顕著でして、そういった仕事が比較的少ない部署や霞ヶ関のようなところはいつも通り年中忙しいわけですが。

という日々を送っている中で国会では公文書の管理が問題になっているようでして、ことの是非でいえばもちろん由々しき事態だろうと思います。とはいえ、個々の事案についての評価は別として、公文書というのは例えば課とか係という組織単位で作成して管理するものであるところ、人件費削減の声に押されたそうした組織に公文書管理の担当者を割り当てる余裕は当然ありません。さらにいえば経費削減のため天井が低く空調も後付けのような古式ゆかしい建物で仕事をしている者としては、意思決定資料であるところの公文書を定期的に破棄しなければ建物に入ることすらできなくなるような状況で、ではあるべき公文書管理とは一体何だろうなと思わないでもありません。

というよりむしろ、現場の感覚からいえば、公文書管理は余計な仕事とみなされていて、そのための人件費や施設建設の費用は「行政のムダ」として削減されてきたのではないかというのが正直な思いですね。その点は牧原先生がこちらの記事で指摘される通りだろうと思います。

だが、公文書を研究してきた行政研究者としては、こうした状況に強い違和感がある。忘れることができないのは、政府の研究会の一員としてフランスの公文書館へのヒアリングに行ったときのことである。「科学的な文書管理が重要だという主張だけでは、各省を説得することはできない。各省が説得されるとすれば、そうした文書管理こそ各省にとって利益になるという言い方だ」というプラグマティックな発言であった。

つまり、公文書における記録保存の正当性だけでなく、その利益を各省の側に了解されてこそ、公文書管理制度が成り立つというのである。しばしば、欧米では公文書は文化遺産とされているといった主張が日本でなされているが、それはあくまでも行政の現場の執務と折り合いがつくからこそ成立するものなのである。

「牧原 出:東京大学教授 「廃棄した」は通用しない 森友公文書改ざん問題 全面保存を前提とせよ(03/31号, 2018)」(週刊東洋経済Plus)

有料記事のため冒頭しか見られないんですが、公文書管理が適切に管理されてシステム化されていれば、当然その公文書を日常的に使用する行政の現場でこそ、必要な情報が必要なときに取り出すことができるというメリットがあるわけですから、公文書管理に反発する役人は多くはないでしょう。まあ誰がその担当になるかでは評価が分かれるかもしれませんが。


牧原先生が指摘されるフランスの担当者の発言を日本の役人が言おうものなら、「身内のお手盛りでラクをしようとしやがって」とか「公文書管理なんて普通の業務なんだからヒトもカネもかけずにやれ」という声がマスコミを中心に巻き起こるんでしょうねえ。

このような人員体制やシステムを度外視した職員任せの業務改善については、12年ほど前に岐阜県の不正資金問題に関連して書いたことともつながっていますね。

しかし、2は制度上の運用の問題なので少なくとも制度上の改正は可能だろうが、1を根絶することは制度上も実務上もそう簡単ではない。1の内訳については12ページ以降の「費消内容」にまとめてあるが、「(2)職員の費消」は問題外として、「(1)業務に関連した費消(通常の予算では支出しにくいもの)」は、その標題のとおり通常の手続きでは支出しにくいか、緊急を要するのに支出に時間がかかりすぎるパターンがいくつか列挙されている。たとえば、(1)の10、11、12、18といった施設の細かい修繕費や、紙が足りなくなったり会議で使う封筒が足りなくなったりしたときの補充、さらには研究機関で必要になる研究資材や参考文献のような、事前に予測できない経費を予算化することに根元的な困難さがあるのである。組織別にみたときこの傾向がはっきりするが、学校や農業試験研究所のような小規模な組織において、所管の施設を持ちつつ研究したり会議を開催するとなるとどうしても不確定要素が大きくなるにもかかわらず、予算規模は組織に比例して小さくなるので、十分なバッファを確保することができない。その予算上のバッファの代替機能を裏金に負わせることになるのである。

ところが、この報告書での「第9 再発防止に向けての提言」ではそういった制度面に踏み込んだ記述が一切ない。かろうじて「4 内部チェック機能の強化・充実」という項があるが、あくまで平成13年9月の「会計事務改革に関する基本的な方針」を前提とした審査・確認体制の強化、検査体制の強化といった会計事務のチェック機能と監査業務の充実という程度にとどまる。つまりここでいっているのは、制度の不備は職員個人の心がけや自助努力で防ぎなさいという責任転嫁である。すなわち、再び裏金問題が発生したときに組織としての責任が回避できるのである。困ったもんだな。

裏金問題とはいうものの(2006年09月09日 (土))


まあ拙ブログでは同じようなことばかり繰り返しているところですので、ネタには事欠かないところでして、こんなのもありますね。

前回エントリで取り上げたようなトランプ氏に対する支持は、「素人崇拝」が高じて、素人の意見を素人として発言する候補者に支持が集まったという面もあると思いますが、アメリカにはそれでも政策決定とその執行が円滑に進むような制度を作り上げてきたという自負があるのかもしれません。

翻って日本の政策決定過程を見ると、「猖獗を極めたカイカク病」を支えたのもまた「経済学的な正しさ」であって、そこにはチェックアンドバランスなどが機能する余地はないように思われます。「財政的な措置をしなくてすむように医療費を削減するための「経済学的に正しい」処方箋は、治療に高額の医療費を要するような疾病に罹患した患者には治療しないこと」というのは、こちらの本で指摘されている研究結果ですが、本書冒頭の青木昌彦先生の推薦文に続くこの序文がアツいんですよね。

 3つ目の提言は、日本の政策の形成・執行の各過程で評価を行うチェックアンドバランス機構を強化しなければ、改革は一度限りの打ち上げ花火で終わってしまうということです。日本での通説とは逆に、筆者の目には「米国の医療制度改革は非常に『慎重』であるのに対し、日本の改革は非常に『大胆』」と映ります。米国を含めた多くの先進諸国は、「政策は誤る可能性が高い」ことを前提に、制度改革には、「大失敗」を未然に予防するため幾重にもチェックアンドバランス機構を組み込んでいます。それに比べ、日本では欧米におけるようなチェックアンドバランス機構がきわめて貧弱です。(中略)このような政策上の失敗にブレーキを踏めるインフラを整備しない限り、3章で紹介する政策提言・評価のための経済学理論・実証分析手法も、日本では単なる絵に描いた餅に過ぎません。言い換えれば、政策の方向性・進捗状況すら判断できないままブレーキ・安全装置を外せば、とりあえず速度だけは上がることに嬉々とする類の大胆な改革が繰り返されるおそれがあります。

pp.006-008

「改革」のための医療経済学
ニューヨーク州ロチェスター大学助教授 兪炳匡 著
定価 : 2,052円(本体1,900円+税)
発行 : 2006年08月
在庫 : 在庫なし(申込不可)
サイズ : 四六判 264頁
ISBN-10 : 4-8404-1759-8
ISBN-13 : 978-4-8404-1759-4
商品コード : T560090



認知的不協和の行き着く先(2016年11月15日 (火))

役人の政策形成能力に対する疑念が深まっているのには、今回問題となっているような公文書管理の問題ももちろんあるとは思いますが、そもそもこの国の政策形成過程は、「政策の方向性・進捗状況すら判断できないままブレーキ・安全装置を外せば、とりあえず速度だけは上がることに嬉々とする類の大胆な改革が繰り返される」状況にあるわけでして、その背景には上記のような「制度の不備は職員個人の心がけや自助努力で防ぎなさいという責任転嫁」をよしとする組織の体質があると思われます。まあこれは、役人に限らず日本型雇用慣行で意思決定を行う日本の組織に特徴的なことなのかもしれませんが。

2016年03月06日 (日) | Edit |
拙ブログでは政治学は話半分で聞いているため政治学の研究成果には疎いところでして、待鳥先生の『代議制民主主義』は、代議制民主主義を自由主義的要素と民主主義的要素の組合せという枠組みから歴史的経緯や課題など多角的に論じていて、大変勉強になります。特に待鳥先生のご専門となるアメリカの政治制度についての「マディソン的自由主義」は、日本の民主主義を巡る議論では参照しなければならない論点がてんこ盛りです。

 それは、多様な政治勢力の代表者であるエリートが自由な競争を行い、勝ったり負けたりを繰り返しながら、個々の判断には時として誤りや行きすぎがあっても、全体として妥当な政策決定がなされるという「多元主義」の理念をつくり出していった。多元主義に基づく政治の理解、すなわち多元的政治観は、合衆国憲法制定以後のアメリカにおいて、民主主義を抑止する役割を共和主義に代わって担うこととなった。有徳の人物が得られなくとも、政治に関与するエリート間の競争と相互抑制を制度的に確保できれば、民主主義的要素を持つ政府であったとしても、「多数者の専制」に陥らずに政策決定を行うことができるという考え方は、その後の代議制民主主義の基本的な理念となった。

p.33

『代議制民主主義「民意」と「政治家」を問い直す』待鳥聡史 著(中公新書)


※ 以下、強調は引用者による。

念のため解説しておきますと、民主主義的要素は「多数者の専制」を招くものという問題意識があって、それを制御するためには、「多元的政治観」に基づく自由主義的要素を制度的に確保する必要があると、合衆国憲法の父と呼ばれるマディソンは考えていたわけです。

とはいっても、多様な人間の意思を政策として決定する政治制度である以上そのとらえ方自体にも多様な見方があるわけでして、20世紀には共産主義とかファシズムの挑戦を受けることになります。

 代議制民主主義に対するこれらの挑戦は、共産主義とファシズムとしてそれぞれに括られる。その主たる主導者のイデオロギー的位置の違いから、最左派と最右派という二つの極端な立場からの挑戦だと理解されることが多いが、両者には共通点もある。それは、代議制民主主義の持つ自由主義的要素をとりわけ否定したことである。共産主義もファシズムも、それを「プロレタリアート」と呼ぶか「国民(臣民)」と呼ぶかという違いはあっても、自らが社会に存在する存在的な多数派の利益を代弁していること、自由主義を謳歌してきた19世紀以来のエリート、すなわち「彼ら、彼女ら」に対抗する大衆(マス)、すなわち「われわれ」を重視していることを強調した。
 社会における潜在的多数派あるいは大衆の利益が一元的に集約できるのであれば、マディソンがかつて重視した複数の政治勢力間の競争や相互抑制という多元的政治観は必要でなく、むしろ有害であるという考え方に至っても不思議ではない。このように、社会全体の利益を強調し、それが政治的競争ではなく実質的な独裁によって追求できるという考え方を全体主義という

待鳥『同』p.57

全体主義と代議制民主主義が対立するというのはわかりやすいですが、共産主義とファシズムに全体主義という共通点があるというのは、自由主義的要素と民主主義的要素で代議制民主主義を理解する枠組みを通すと、とてもわかりやすいですね。つまり、エリートがけしからんからといって民主主義を重視し過ぎると、上記のマディソン的自由主義が民主主義的要素と結びついたのとは違い、エリートによる「正しい」政策のための自由主義を否定する方向へ進みがちであって、それを突きつめると民意至上主義としての共産主義とかファシズムになってしまうわけです。

しかし一方で、この「正しい」政策への希求というのは経済学方面の方にも常々見え隠れするところでして、「経済学的に正しいのに政府も大半の有権者もそれを理解していないから云々」という議論は、大衆(マス)が「カイカク」などと叫ぶ煽動的政治家を選んでしまう民主主義的要素を批判する一方で、大衆(マス)が理解しないような(教科書的)理論こそが正しいという思い込みによって、(マディソン的な多元的政治観ではない)自由主義によるエリート専制に根拠を与えてしまいます。つまり、教科書的な経済学の理論を振りかざす議論というのは、「自分こそが「正しい」政策を理解している」という煽動的経済学者の跋扈をも許してしまうわけでして、新自由主義とも親和的と言えそうです。

ということで、本書の「自由主義的要素と民主主義的要素の組合せ」という代議制民主主義に関する枠組みは、現在の日本の政策論争を理解するのにも大変有用だと思うのですが、戦後日本の特に1980年代以降の政治状況についての記述にはちょっと引っかかるところがあります。

 しかし、凍結仮説が示されたのとまさに同じ頃から、現実の政党政治は変化を始めていた。資本化・経営者・ホワイトカラー(管理的職業)と労働者・農民が、代議制民主主義の枠内で異なった利害関心に基づいて競争するという構図が、凍結仮説や戦後和解体制の前提であった。ところが、戦後の先進諸国が軒並み高度成長や経済的繁栄を実現し、社会保障制度を拡充させることなどで経済的利害対立が弱まってくると、対立軸の変化が生じた。人々は経済的豊かさではなく精神的あるいは文化的な豊かさを求めるようになったのである。
待鳥『同』p.75

この部分は世界的な傾向を説明した部分ですので、日本の状況に当てはまると待鳥先生が考えているわけではないと思うのですが、こういう説明は政治学方面ではよく見られるところでして、(待鳥先生の議論そのものというより一般的な意味で)かなりミスリードな議論ではないかと思います。他の先進諸国はよくわかりませんが、少なくとも日本では経済的豊かさというのは常に最優先になっていて、だからこそ「可処分所得を死守する」という経済学的に「正しい」議論が現実の再分配を阻み続ける状況があるのではないでしょうか。

1970年代の日本は、外部労働市場でのジョブ型雇用慣行の推進を諦めて、内部労働市場によるメンバーシップ型雇用慣行を制度として確立していく時期で、景気が減速しても生活給を保証する雇用慣行から漏れ落ちないように、雇用保険を財源とした雇用調整助成金で雇用を維持する制度を導入したのが1970年代後半です。つまり、メンバーシップ型雇用による(生活給として機能する)職能資格給が確立し、生活保障は政府ではなく大企業の仕事と位置づけられるようになったわけです。これにより、政治的には産業を保護して企業が生活給を払えるようにすることに力点が置かれ、社会保障や再分配はメインイシューとはならなくなったというのが実際のところだろうと思われます。

その意味では、本書で、

 もちろん、共産党、社会党という左派(革新)政党に対して、直接的な影響はより顕著であった。これらの政党は、いずれも代議制民主主義の枠内で当面活動することにしており、勢力拡大が直ちに政治体制の変革につながるというのは誇張であった。自由主義か共産主義かという体制選択は、1960年代後半には既に現実的な争点ではなかった。だが、左派政党は究極の目標として代議制民主主義の維持を必ずしも明確にしてはおらず、実際にも議会外の政治活動を重視する傾向を持ち続けていた。冷戦の終結は、日本政治における古びた左右対立や保革対立の終わりと、左派政党の衰退につながったといえよう
待鳥『同』pp.80-81

といういかにも政治学的な説明については、昨今の安保法制を巡る国会周辺での騒動などを見るにつけてその通りだろうとは思うのですが、一方で生活面での実態としては、正社員に職能資格給を支払うメンバーシップ型雇用慣行が確立したために、左派が主張すべき社会保障や再分配が政府のメインイシューになり得ないような状況になったことも大きく影響していると思われます。そのことに無自覚な(と書くと「自分こそが「正しい」政策を理解している」という主張と同じ穴の狢になってしまいますが)左派政党が、現在にいたるまで「企業は正社員による生活給の支給を維持すべき」と主張しているのには、歴史の皮肉を感じるところです。

でまあ、こう書くと日本的左派を批判しているように思われるかもしれませんが、経済学的な議論を信奉する方々は、経済成長とか景気動向を重視する企業が職能資格給(生活給)を払えるようにして、その可処分所得を死守することに力点を置くという点においては日本的左派の皆さんと共通しているようです。そういえば、共産党を含む野党連合では消費税率引き上げへの賛否がネックになっているとのことですが、上記のような状況を踏まえると、連合するなら共産党が主張する消費税率引き下げ(廃止)の一択でしょうね。

2015年10月26日 (月) | Edit |
一時期の繁忙期を過ぎたのでやっと積ん読をぼちぼち処理できるようになっていますが、何冊か読んだところでちょっと頭を抱えてしまったところです。というのも、拙ブログでは「増税忌避」という言葉を使っていますが、よりストレートに「租税抵抗」という言葉を使った本がありまして、すわ増税の必要性を指摘している拙ブログと同じ内容!?と思って拝読したところ、…うーむ、これは誰に向けて書いているのかよくわからないというのが正直な感想です。まあ、拙ブログではマルクス経済学の影響が大きい左派的な財政学には懐疑的な立場をとっているため、その直系の先生によって書かれた本書の記述に馴染めないというだけなのかもしれませんし、実際、本書で取り上げられている特に海外のエビデンスやデータは客観的な内容のものが多いと思います。特に、経済学を信奉する割に財政学とか公共経済学の議論をガン無視される方々は、特にこの部分などを熟読玩味されるのがよろしいかと思います。

 仮に国家が租税徴収の根拠として「公共性」を提示できない場合にいかなる事態が生じるのか。これが租税抵抗である。シュンペーターと同様、租税国家の生成について目を向けた社会学者のノルベルト・エリアスは、「公のこと」や「国家」という表現が、領主と王に対する抵抗の言葉でさえあったと指摘した(エリアス1978:317)。租税国家が成立して公共圏が形成されてから、国家権力の行為が不正に満ちていると感じられるのであれば、人民もまた同じように「公」の概念を持ち出すことで、国家に立ち向かい、抵抗するようになったのである。
 租税がかくも人民の抵抗を引き起こすのは、これがその本質として「強制性」を有しているからである。租税とは、「反対給付の請求を伴わぬ強制公課」のことであり、強制性とは無償制ないし一般報酬性を特徴としている(シュメルダース1967[1965]:414)。この点は、自発性と有償性ないし個別報償性とを特徴とする保険料や自己負担などの受益者負担といった財源調整手段とは明らかに異なる点である。自分の意思による支払いではないということ、自分に利益が帰着しないかもしれないということ、租税のこの特徴が国家嫌悪や租税抵抗を引き起こす原因となる
p.39

『租税抵抗の財政学―― 信頼と合意に基づく社会へ ――』佐藤 滋,古市 将人
※ 以下、強調は引用者による。

拙ブログでも、震災復興の財源問題について「社会保険料は拠出の義務に対して受給の権利が対応し、原則として国会の審議を経ずに個別の支給額が決まるため、もっとも「色」が濃い財源」と書いておりましたが、経済学ではない財政学ではきちんとその点は区別されて議論されているわけです。まあ、財源に色をつけるために行う「予算編成」という作業に携わっている役人にとってその困難さは自明であっても、特に経済学方面の方からすると、どんな財源でも予算は自由自在に組めると思われているようでして、本書の続きの部分も参考になりますね。

 実は、債務国家というのは、国家が公共的であろうとする努力をせず、租税抵抗を安易な形で回避しようとするところに生じるものである。リカードの等価原理は、租税と公債とが経済的に見て等価であることを説くが、施政者側の判断といても購買力を移転する側としても、この区別は実のところ極めて重要である。財政心理学という独自の領域を切り開き、租税抵抗問題を正面から取上げたシュメルダースは、「心理的にみると、租税と国債は対立物であって、火と水のようなものである」という(同:545-546)。
 それというのも、租税のもつ強制的性格によって、その不公正な賦課・割当が「あらゆる規模の租税抵抗を挑発する」が、一方、国家の保証が付随した資本証券たる国債は、人々の遊戯本能や名誉欲などを刺激し、自ら購買力を国家に移転するような積極的な反応を喚起することができるからである。「租税か公債か」を決定する基準は、「経済の領域よりも、むしろ政治的・心理的な領域に存在する」(同)。

佐藤・古市『同』p.40

リフレーション政策の手法として国債の日銀引受とか通貨発行益による財政ファイナンスを主張する方々は、ご自身はあくまで経済学的な議論を展開されているつもりなのでしょうけれども、一般の方にすれば政治的・倫理的な領域の問題だというのは大変示唆的な指摘だと思います。いつもの繰り返しですが、私自身はリフレーション政策をゆるやかに支持する立場ではありますが、同時に役人として再分配政策の拡充の必要性も痛感しているところでして、再分配というフロー支出は税収というフロー財源によって賄われるべきと考えております。しかし、当然ながらそうした再分配の制度化や予算編成は政治プロセスを経なければなりませんので、その実現は政治的なものに大きく左右されるということも理解しているつもりです。

そして、政治的なるものは理論的正しさやモデルの美しさで決まるものではないわけでして、権丈先生の言葉をお借りすれば「政策は、所詮、力が作るのであって、正しさが作るのではない」ということに尽きるのですが、経済学的な理論のみで議論される方々にはなかなかそうした側面が意識されることはなさそうですね。まあ、経済学者の方々は理論的な正しさとかモデルの美しさに並々ならぬこだわりをもつことが仕事という面もあるでしょうから、それはそれとしてお仕事に邁進されればよろしいのですが、それを一般の方が真に受けてしまったり、さらにはそれに気をよくしてか知りませんが自らの理論的正しさを即座に現実に適用できると考える学者もいるわけでして、それが回りまわって現実の政治的な攪乱要因となってしまうという事態が生じるに至ると、学者先生のご託宣に付き合うのも考えものです。

という理路からすると、ではそうした政治的なものの攪乱要因をいかに調整するかという点に議論が進むかと思いきや、日本的左派らしく本書の矛先は政府に向いていきます。主に第2章で1960年代から70年代の財政制度審議会の議論を引用して「保険料と税との徹底的な入れ替え」が進められたというのですが、いやまあ大蔵省主計局の戦略としてはそうかもしれませんが、本書でも指摘しているように厚生省は公的扶助や社会福祉の拡充を求めていたわけでして、政府といっても一枚岩ではありませんね。そうした省庁間の対立は官僚内閣制とか官庁代表制と呼ばれる政策決定プロセスであって、それぞれの背後の利益団体がその意向を反映させようとしのぎを削っているんですが、そうした政治的プロセスについて本書はほとんど言及がないところでして、それが「誰に向けて書いているのかよくわからない」という感想の理由です。その違和感は、この部分によく表れています。

 これまでみてきたように、日本の社会保障制度は人々の「共同の困難」に対処したものではない。それはむしろ、制度の分立状況やサービスが過小供給であることを前提に、受益者と非受益者という形で人々を分断させ、リスクを〈私〉化し、受益者負担を導くものである。受益の範囲が狭いために、反対給付を伴わない租税による財源措置では合意を得られない、という理由からだ。受益者負担の導入には、租税抵抗の回避がその根底にある。日本型負担配分の論理とは、このようなものだ。

佐藤・古市『同』p.72

…うーむ、この部分を読むと、政府の問題というより「租税抵抗」を示す国民が選別主義的な社会保障を志向しているという状況しか思い浮かばないのですが、本書は決して租税抵抗を示す国民を敵に回すことなく、その租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府を批判するんですよね。プリンシパル=エージェント的な意味で政府の行動を批判するならまだわかりますが、「民意」から遊離した政策決定を称揚するのでなければ、政府の行動はきちんと「民意」を反映したものという評価が妥当ではないかと思うところです。

なお、本書では日本型フレクシキュリティに一切言及がないので、日本型雇用慣行が公的な生活保障機能の貧弱さを肩代わりしていたことや、バブル崩壊後に日本型雇用慣行の維持が難しくなって会社が肩代わりをしていた生活保障が機能不全に陥っている状況が考慮されていないようでして、この点からも、日本型雇用慣行のコロラリーである終身雇用と年功序列に手をつけられない日本的左派の限界を感じるところです。とはいえ、財政学的な観点から日本の「租税抵抗」について考える際に、海外の研究を引用した部分については、本書を読むと一通りの議論を押さえることができるのではないかと思います。

2014年03月26日 (水) | Edit |
前回前々回の補足なのですが、こんなエントリを書くと「公務員批判を否定するのか」という反応をいただくところでして、かといってもちろん公務員を擁護しているわけでもありませんので、一方ではこういう反応もいただいています。

wxitizi
この人の地方公務員に対するイメージを悪くすることへの弛まぬ努力はすごいと思う。意図したものかそうでないかは別として。 2014/02/24
crcus
確かに"コームイン"とかの表記、自虐しているようでいて「俺たち公務員をバカにしている奴らってバカなんだよ」という意志が見えて、公務員に対する心象を悪くしているな。物言わぬ公務員は迷惑だろう。 2014/02/24

ちょっと趣旨が採りにくいところもありますが、「優秀じゃない公務員のことばかり書いていて、公務員が無能という印象を与えている」という趣旨であれば、拙ブログは「間接部門の軽視による組織運営の行き詰まりとか官製ワーキングプアの大量発生とかにつながっていて、「役立たずのコームインめ!」という感覚それ自体が「公務員バッシング」の典型」ということを繰り返し指摘しているところですので、ご指摘のとおりだと思います。「スーパー公務員でなければ公務員じゃない」という認識が広まれば、私のような下っ端で地味な内部事務に当たる普通の公務員はバッシングの対象から逃れる術がありません。私が拙ブログで想定している公務員は、決して華々しい成果をあげているスーパー公務員だけではなく、普通の組織運営を担っているような一般的な能力を有する公務員ですので、対外的には優秀じゃない公務員のことばかり書いているようにみえるのかもしれません。普通の公務員が間接部門や地道な分野で役所の仕事を回していることは、華々しい成果として評価されることがなくても、それは華々しい成果を支える組織内インフラとして必要不可欠のものであることをご理解いただけると幸いです。

あるいは、二つ目のコメントにあるように「公務員を自虐しているように見せかけて、それを理解できない相手を馬鹿にしていて、そんな姿勢が公務員に対する印象を悪くしている」という趣旨であれば、本望ではありません。私は地方自治体という組織全体のレベルの低さについては、自虐ではなく真剣に憂慮する事態になっていると考えています。それは、上記の内部事務に当たる公務員に限らず、華々しい成果を挙げる公務員にも当てはまります。その理由について、ヒントとなるエントリが黒川滋さんのところで掲載されていました。

2.要綱行政の改善と要綱の公開
(1)要綱行政の課題と問題
Q.地方自治法に明示されている条例、規則ではない要綱等が600もあって、内規にとどまっているうちはまだいいが、補助金や、人権を支えるための福祉の給付条件も要綱になっている。しかしその運用は役所が決めてしまっている。要綱とはそもそもどういうものか。
A(総務部長).自治体においては、判例では内規的なもの。これを背景に、個々の補助金等は双方同意の契約的なものとして位置づけられる。国の要綱はこれが行政処分になる
(2)要綱改定の手続きの確認
Q.そのような解釈であれば、人権である生存権、自由権、社会権を支える福祉分野の要綱を、役所が要綱をタテに給付を出したり切ったりすることは限界があるのではないか。少なくとも契約的なものであれば当事者集団との要綱の妥当性が評価されていなければならないと考えるし、それがなければ。今回の来年度予算案のように一方的に給付内容を削減して人権的に困る人がいたとすれば、元通りに給付せよと言って、市が臨機応変に変えることができる、ということになる。
そのような福祉国家における要綱の現実と、法解釈のずれを考えると、要綱改定にあたってはしかるべき当事者や有識者の意見や判断を求める必要があるてのばないか。
A(審議監).現在は庁内の手続きに留まっている。検討したい。
Q.市の総合振興計画などメインストリームのところでは市民参加が唱われているのに、人権に関わる行政施策のところで当事者との合意すらないというのは矛盾してしまう。
A.あるべき改定の仕組みについて検討したい。

3/19 わくわく号の改革、ハローワークの移転、樹木の剪定など聞く~一般質問から~(2014.03.21 きょうも歩く)
※ 以下、太字下線強調は引用者による。

これは黒川さんが市議を務める朝霞市議会でのやりとりですが、役所が日々の事務処理を効率的に進めるために、細かい解釈や手続きを明文化した要綱(呼び方は細則、要領、事務取扱等いろいろですが、ここでは行政庁内部の事務処理を事務レベルで定めたものを要綱と統一します)が欠かせません。その多くは法律に委任条項があり、政省令に委任があるものは中央官庁が立法意思に基づいて制定されますので、法令として一体のものとして施行されます。ただし、自治体が事務を行う法令では、「自治体が条例で定める」とか「首長が規則で定める」という委任条項も多く、必ずしも立法意思に基づかない規定が置かれる可能性が否定できません。さらに上記のような事務レベルの実務についての要綱は、その立法意思から乖離した条例や規則に基づいて規定される可能性もあるわけで、そうなると何が正しいのか分からなくなってしまいます。

その典型的な例が奈良県立病院事件でして、hamachan先生のところから奈良県知事の発言を引用してみましょう。

毎日新聞によると、奈良県知事が疑問を呈したそうですが、それがあまりにも低水準。

http://mainichi.jp/area/nara/news/20090424ddlk29040513000c.html

>「条例で給与や地域手当と計算基礎が決められている。算定基礎は国も同じで、条例で決められたことをいかんと司法が判断できるのか」と疑問を呈した。控訴するかどうかは検討中としている。

いうまでもなく、公立病院の使用者である地方自治体が自ら策定する条例で決めていることは、私立病院の使用者である医療法人が自ら策定する就業規則で決めていることとまったく同じであって、知事の発言は、

>オレ様が就業規則で決めていることをいかんと司法が判断できるのか

と中小企業のオヤジが吠えているのと論理的にはまったく同じなのですが、どなたかそのへんをきちんと助言する法務担当の地方公務員はいなかったのでしょうか。政策法務とか流行を追うのも結構ですが、まずはコンプライアンスから。

医師の当直勤務は「時間外労働」(2009年4月23日 (木) hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

この事案は、奈良県が条例や人事委員会規則で定めた労働条件が労働基準法に違反として問われた裁判でして、結果的には最高裁まで争って奈良県が定めた労働条件が労働基準法違反であったことが確定しています。その地裁段階の知事の発言が上記のようなものだったわけで、地方公務員の法務リテラシーの程度がうかがわれる好事例と言えるでしょう。

また,被告は,奈良県人事委員会が医師の当直勤務を断続的な勤務ととらえることを許可しているのだから,労働基準法41条3号に反しないと主張する。しかし,労働条件の最低基準を定めるという同法の目的に照らせば,行政官庁の許可も同法37条,41条の趣旨を没却するようなものであってはならず,そのために上記通達等(甲13)が発せられ医師等の宿日直勤務の許可基準が定められているのである。そうすると,奈良県人事委員会の許可も上記許可基準と区別する理由はなく,上記許可基準を満たすものに対して行われなければならないと解されるから,被告の主張は採用できない。

実体的な中身については今まで本ブログでも繰り返し書いてきたことなので、今更繰り返しませんが、法学的見地からみて興味深いのはこれが公務員事案であって、奈良県立病院の医師の「当直」を同じ奈良県人事委員会が許可するという「お手盛り」の仕組みであったという点ですね。
これは、そもそも民間と同じ労働基準法が適用されていながら、その監督システムが違うことの正当性という議論にもつながる論点です。



コメント欄
人事委員会事務局は全員県からの出向ですし、そもそも労働基準監督署的な権限を持つとの認識は全くないですね。給与の勧告しか考えていないと思います。また財政難だから仕方がないと当局はおもっとるようです。
投稿: NSR初心者 | 2009年6月11日 (木) 06時48分

県知事・被告側は主張をとりさげず控訴検討中とのことでしたが、どうなったんでしょうかね…
>一般職の地方公務員であり
 
 この辺の認識が違う、>>法律・条令を変えてやろうという勢いでしょうか
投稿: T | 2009年6月11日 (木) 08時25分

地公法58条の話ですよね? 労基法別表第1第13号の事業では人事委員会の監督で済ませられないはずですが…?
原告側が(その形では)スルーした、ということでしょうか…。
投稿: 臆病者 | 2009年6月17日 (水) 05時45分

そのとおりです。
私自身の文章でもそう明記しておりましたのに、
http://homepage3.nifty.com/hamachan/komurodo.html
>労働基準法の適用関係については、フーバーの怒りにまかせて全面適用除外としてしまった国家公務員法に比べて、地方公務員法では少し冷静になって規定の仕分けがされています。まずそもそも第58条で、労働基準法は地方公務員にも原則として適用されることと明記されました。上述のように、これは日本政府の当初からの発想でした。ただし、地方公務員の種類によって適用される範囲が異なります。地方公営企業職員と単純労務者は全面適用です。教育・研究・調査以外の現業職員については、労使対等決定の原則(第2条)及び就業規則の規定(第89~93条)を除きすべて適用されます。公立病院などは、労使関係法制上は地公労法が適用されず非現業扱いですが、労働条件法制上は現業として労働基準法がほぼフルに適用され、労働基準監督機関の監督下におかれるということになります。
投稿: hamachan | 2009年6月17日 (水) 10時17分

行政指導なら人事委員会ですが、労働基準法違反の摘発であれば司法警察員たる労働基準監督官が出てくることになります。
そこには地方公務員が独自解釈で釈明できる余地はありません。
禁固以上の罪を得て失職するまで、違法状態を続けるつもりなら、その対象を奈良県に求めるまでのことです。
奈良が早いのか、東京が早いのか、埼玉が早いのか、京都?滋賀?
全国の自治体で、競争していただくことといたしませう
投稿: Med_Law | 2009年7月14日 (火) 23時27分

奈良病院「当直」という名の時間外労働裁判の判決(2009年6月10日 (水) hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))
※ 太字強調は原文。

という状況で、奈良県人事委員会は、「我こそが県立病院医師に関する労働監督機関である」という認識なんですね。地方自治体の事務には条例や首長の規則に委任されているものが多いのですが、その最たるものが人事委員会や公平委員会の規則でして、地方自治法や地方公務員法は、「人事委員会が規則で定める」とか「人事委員会の承認を得て」とかやたらに人事委員会に委任しています。ところが、その人事委員会が定める規則の基準とか、人事委員会が承認する基準は、「地方の実情に合わせる」というマジックワードでもって丸投げされているのが実態でです。つまり、人事委員会がいったん法律の読み方を間違えてしまえば、その誤った解釈がその自治体の労働基準として機能してしまう事態に歯止めをかけるものがなくなってしまいます。また、自治体で法規事務を審査する立場の法務担当も、自分の任用が雇用契約ではなく任用という行政行為だと理解していますから、労働法そのものについての理解が乏しい傾向があって、人事委員会の法律解釈には特にチェックが甘くなる傾向がありそうです。

2)について「情報公開決定」と回答してくるということは、公開されるべき文書があるということですね。どうも当局側は、本件において「医師に関して有効な労働基準法41条3号に基づく宿直許可申請書および許可書」が存在していると本気で思っているようです。
判決文からは、そのような文書の存在はうかがい知れないのですが、いったい何を出してくるつもりなのでしょうか。まさか奈良県の勤務時間規則をそのまま出してくるつもりとか。
奈良県にまともな法務担当職員はいないのでしょうか

奈良県立病院の「医師に関して有効な労働基準法41条3号に基づく宿直許可申請書および許可書」(2009年7月14日 (火) hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

もちろん奈良県職員も地方上級試験を合格しているでしょうし、学生時代には法律の勉強もしているはずなのですが、いったん仕事についてしまうと事務レベルの要綱を見るのが精一杯で、法令まで確認するということはなかなかないのが現状だと思います。これは自戒を込めてなのですが、日々の事務作業に追われていると、つい根拠法令まで確認するという手間を省いてしまい、後からよく考えると辻褄が合わない事務処理が慣例化されているという例は、これまでにも何度かありました。まあ私の場合は違法というまで深刻なものがなかったのが幸いですが、一歩間違えば奈良県立病院事件のように最高裁で違法状態であることが確定してしまう可能性もあります。

その意味では、窓口での対応が違法である可能性もある以上、それに対して疑問を感じた場合は根拠法令を基に異議を申し立てることが必要です。その過程で法律が規定している権利関係や利害調整の過程が明確になれば、住民と行政の両当事者にとって望ましいはずです。生活保護の手続きが違法かどうかについては様々な制約の中で判断しなければなりませんが、法律による行政の原理からすれば、問題は、実務のうえでどれだけ実現できるかという点にあるわけです。つまり、法律の規定が現実離れしているのか、その立法意思が現状とかけ離れていないか、現状が法律通りでない場合の制約は何か、法律の解釈は間違っていないか、その運用は解釈に沿ったものとなっているのか…という諸々の側面から十分に検討し、それらを踏まえながら日々の実務をルーティン化することが重要となるわけです。もちろん、それと同時に、そのルーティン化された実務と、その元となる法律の規定の乖離をいかに少なくするかという日々の実務の運用も同じくらい重要です。

我々のような下っ端の地方公務員は、こういう手間のかかる作業をこなすのが仕事なのですが、一般の方々にはなかなか理解されないだろうと思いますし、中央の官僚の中にすらあまりこうした実務を意識しない方も多くいらっしゃいます。ここに地方分権の大きなジレンマがあるわけで、私もその地域の実情に応じて住民意思を反映させるべき分野であれば地方分権すべきだろうとは考えていますが、そうではなく、全国レベルで脱法的な裁定行為が可能な分野や、人権を侵害してしまう分野で地方分権が行われれば、法の趣旨を逸脱した行政によって深刻な問題が生じる可能性があります。その辺を一緒くたにして闇雲なチホーブンケンとかいって、専門性が高くなく法律の解釈が怪しい自治体職員に丸投げしたりすれば、上記のような問題が生じてしまうわけです。

その現状でマスコミとして採りうる戦略は、七面倒くさい実務の現場の苦悩などではなく、一般の方が抱く疑問をいかにセンセーショナルに打ち出すかという点に集約されていきます。むしろ、そうした苦悩を解決するために「より一層の地方分権を!」とか言い出して、ますます自治体職員の怪しい法律解釈・運用が行われ、問題が発生していき…と、一部ではすでに悪循環に陥りつつあると思います。そうなると、さらに下っ端の公務員がこなしている地味なルーチンや運用の作業は理解されることがなくなっていきますが、それは同時に法律による行政の原理から逸脱した事務処理についてのチェック機能も低下させてしまいかねません。適正な法の運用のためには、行政がそれを解釈・運用するだけではなく、その運用について当事者の側から声をあげていくことが重要です。まあ、それが奈良県立病院事件では、労務管理を行う当局と、その労務管理に服する公務員と、その労務管理を監督する人事委員会が同じ県職員によって行われていたために、長年問題化しなかった原因ともいえそうです。