2016年03月06日 (日) | Edit |
拙ブログでは政治学は話半分で聞いているため政治学の研究成果には疎いところでして、待鳥先生の『代議制民主主義』は、代議制民主主義を自由主義的要素と民主主義的要素の組合せという枠組みから歴史的経緯や課題など多角的に論じていて、大変勉強になります。特に待鳥先生のご専門となるアメリカの政治制度についての「マディソン的自由主義」は、日本の民主主義を巡る議論では参照しなければならない論点がてんこ盛りです。

 それは、多様な政治勢力の代表者であるエリートが自由な競争を行い、勝ったり負けたりを繰り返しながら、個々の判断には時として誤りや行きすぎがあっても、全体として妥当な政策決定がなされるという「多元主義」の理念をつくり出していった。多元主義に基づく政治の理解、すなわち多元的政治観は、合衆国憲法制定以後のアメリカにおいて、民主主義を抑止する役割を共和主義に代わって担うこととなった。有徳の人物が得られなくとも、政治に関与するエリート間の競争と相互抑制を制度的に確保できれば、民主主義的要素を持つ政府であったとしても、「多数者の専制」に陥らずに政策決定を行うことができるという考え方は、その後の代議制民主主義の基本的な理念となった。

p.33

『代議制民主主義「民意」と「政治家」を問い直す』待鳥聡史 著(中公新書)


※ 以下、強調は引用者による。

念のため解説しておきますと、民主主義的要素は「多数者の専制」を招くものという問題意識があって、それを制御するためには、「多元的政治観」に基づく自由主義的要素を制度的に確保する必要があると、合衆国憲法の父と呼ばれるマディソンは考えていたわけです。

とはいっても、多様な人間の意思を政策として決定する政治制度である以上そのとらえ方自体にも多様な見方があるわけでして、20世紀には共産主義とかファシズムの挑戦を受けることになります。

 代議制民主主義に対するこれらの挑戦は、共産主義とファシズムとしてそれぞれに括られる。その主たる主導者のイデオロギー的位置の違いから、最左派と最右派という二つの極端な立場からの挑戦だと理解されることが多いが、両者には共通点もある。それは、代議制民主主義の持つ自由主義的要素をとりわけ否定したことである。共産主義もファシズムも、それを「プロレタリアート」と呼ぶか「国民(臣民)」と呼ぶかという違いはあっても、自らが社会に存在する存在的な多数派の利益を代弁していること、自由主義を謳歌してきた19世紀以来のエリート、すなわち「彼ら、彼女ら」に対抗する大衆(マス)、すなわち「われわれ」を重視していることを強調した。
 社会における潜在的多数派あるいは大衆の利益が一元的に集約できるのであれば、マディソンがかつて重視した複数の政治勢力間の競争や相互抑制という多元的政治観は必要でなく、むしろ有害であるという考え方に至っても不思議ではない。このように、社会全体の利益を強調し、それが政治的競争ではなく実質的な独裁によって追求できるという考え方を全体主義という

待鳥『同』p.57

全体主義と代議制民主主義が対立するというのはわかりやすいですが、共産主義とファシズムに全体主義という共通点があるというのは、自由主義的要素と民主主義的要素で代議制民主主義を理解する枠組みを通すと、とてもわかりやすいですね。つまり、エリートがけしからんからといって民主主義を重視し過ぎると、上記のマディソン的自由主義が民主主義的要素と結びついたのとは違い、エリートによる「正しい」政策のための自由主義を否定する方向へ進みがちであって、それを突きつめると民意至上主義としての共産主義とかファシズムになってしまうわけです。

しかし一方で、この「正しい」政策への希求というのは経済学方面の方にも常々見え隠れするところでして、「経済学的に正しいのに政府も大半の有権者もそれを理解していないから云々」という議論は、大衆(マス)が「カイカク」などと叫ぶ煽動的政治家を選んでしまう民主主義的要素を批判する一方で、大衆(マス)が理解しないような(教科書的)理論こそが正しいという思い込みによって、(マディソン的な多元的政治観ではない)自由主義によるエリート専制に根拠を与えてしまいます。つまり、教科書的な経済学の理論を振りかざす議論というのは、「自分こそが「正しい」政策を理解している」という煽動的経済学者の跋扈をも許してしまうわけでして、新自由主義とも親和的と言えそうです。

ということで、本書の「自由主義的要素と民主主義的要素の組合せ」という代議制民主主義に関する枠組みは、現在の日本の政策論争を理解するのにも大変有用だと思うのですが、戦後日本の特に1980年代以降の政治状況についての記述にはちょっと引っかかるところがあります。

 しかし、凍結仮説が示されたのとまさに同じ頃から、現実の政党政治は変化を始めていた。資本化・経営者・ホワイトカラー(管理的職業)と労働者・農民が、代議制民主主義の枠内で異なった利害関心に基づいて競争するという構図が、凍結仮説や戦後和解体制の前提であった。ところが、戦後の先進諸国が軒並み高度成長や経済的繁栄を実現し、社会保障制度を拡充させることなどで経済的利害対立が弱まってくると、対立軸の変化が生じた。人々は経済的豊かさではなく精神的あるいは文化的な豊かさを求めるようになったのである。
待鳥『同』p.75

この部分は世界的な傾向を説明した部分ですので、日本の状況に当てはまると待鳥先生が考えているわけではないと思うのですが、こういう説明は政治学方面ではよく見られるところでして、(待鳥先生の議論そのものというより一般的な意味で)かなりミスリードな議論ではないかと思います。他の先進諸国はよくわかりませんが、少なくとも日本では経済的豊かさというのは常に最優先になっていて、だからこそ「可処分所得を死守する」という経済学的に「正しい」議論が現実の再分配を阻み続ける状況があるのではないでしょうか。

1970年代の日本は、外部労働市場でのジョブ型雇用慣行の推進を諦めて、内部労働市場によるメンバーシップ型雇用慣行を制度として確立していく時期で、景気が減速しても生活給を保証する雇用慣行から漏れ落ちないように、雇用保険を財源とした雇用調整助成金で雇用を維持する制度を導入したのが1970年代後半です。つまり、メンバーシップ型雇用による(生活給として機能する)職能資格給が確立し、生活保障は政府ではなく大企業の仕事と位置づけられるようになったわけです。これにより、政治的には産業を保護して企業が生活給を払えるようにすることに力点が置かれ、社会保障や再分配はメインイシューとはならなくなったというのが実際のところだろうと思われます。

その意味では、本書で、

 もちろん、共産党、社会党という左派(革新)政党に対して、直接的な影響はより顕著であった。これらの政党は、いずれも代議制民主主義の枠内で当面活動することにしており、勢力拡大が直ちに政治体制の変革につながるというのは誇張であった。自由主義か共産主義かという体制選択は、1960年代後半には既に現実的な争点ではなかった。だが、左派政党は究極の目標として代議制民主主義の維持を必ずしも明確にしてはおらず、実際にも議会外の政治活動を重視する傾向を持ち続けていた。冷戦の終結は、日本政治における古びた左右対立や保革対立の終わりと、左派政党の衰退につながったといえよう
待鳥『同』pp.80-81

といういかにも政治学的な説明については、昨今の安保法制を巡る国会周辺での騒動などを見るにつけてその通りだろうとは思うのですが、一方で生活面での実態としては、正社員に職能資格給を支払うメンバーシップ型雇用慣行が確立したために、左派が主張すべき社会保障や再分配が政府のメインイシューになり得ないような状況になったことも大きく影響していると思われます。そのことに無自覚な(と書くと「自分こそが「正しい」政策を理解している」という主張と同じ穴の狢になってしまいますが)左派政党が、現在にいたるまで「企業は正社員による生活給の支給を維持すべき」と主張しているのには、歴史の皮肉を感じるところです。

でまあ、こう書くと日本的左派を批判しているように思われるかもしれませんが、経済学的な議論を信奉する方々は、経済成長とか景気動向を重視する企業が職能資格給(生活給)を払えるようにして、その可処分所得を死守することに力点を置くという点においては日本的左派の皆さんと共通しているようです。そういえば、共産党を含む野党連合では消費税率引き上げへの賛否がネックになっているとのことですが、上記のような状況を踏まえると、連合するなら共産党が主張する消費税率引き下げ(廃止)の一択でしょうね。
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2015年10月26日 (月) | Edit |
一時期の繁忙期を過ぎたのでやっと積ん読をぼちぼち処理できるようになっていますが、何冊か読んだところでちょっと頭を抱えてしまったところです。というのも、拙ブログでは「増税忌避」という言葉を使っていますが、よりストレートに「租税抵抗」という言葉を使った本がありまして、すわ増税の必要性を指摘している拙ブログと同じ内容!?と思って拝読したところ、…うーむ、これは誰に向けて書いているのかよくわからないというのが正直な感想です。まあ、拙ブログではマルクス経済学の影響が大きい左派的な財政学には懐疑的な立場をとっているため、その直系の先生によって書かれた本書の記述に馴染めないというだけなのかもしれませんし、実際、本書で取り上げられている特に海外のエビデンスやデータは客観的な内容のものが多いと思います。特に、経済学を信奉する割に財政学とか公共経済学の議論をガン無視される方々は、特にこの部分などを熟読玩味されるのがよろしいかと思います。

 仮に国家が租税徴収の根拠として「公共性」を提示できない場合にいかなる事態が生じるのか。これが租税抵抗である。シュンペーターと同様、租税国家の生成について目を向けた社会学者のノルベルト・エリアスは、「公のこと」や「国家」という表現が、領主と王に対する抵抗の言葉でさえあったと指摘した(エリアス1978:317)。租税国家が成立して公共圏が形成されてから、国家権力の行為が不正に満ちていると感じられるのであれば、人民もまた同じように「公」の概念を持ち出すことで、国家に立ち向かい、抵抗するようになったのである。
 租税がかくも人民の抵抗を引き起こすのは、これがその本質として「強制性」を有しているからである。租税とは、「反対給付の請求を伴わぬ強制公課」のことであり、強制性とは無償制ないし一般報酬性を特徴としている(シュメルダース1967[1965]:414)。この点は、自発性と有償性ないし個別報償性とを特徴とする保険料や自己負担などの受益者負担といった財源調整手段とは明らかに異なる点である。自分の意思による支払いではないということ、自分に利益が帰着しないかもしれないということ、租税のこの特徴が国家嫌悪や租税抵抗を引き起こす原因となる
p.39

『租税抵抗の財政学―― 信頼と合意に基づく社会へ ――』佐藤 滋,古市 将人
※ 以下、強調は引用者による。

拙ブログでも、震災復興の財源問題について「社会保険料は拠出の義務に対して受給の権利が対応し、原則として国会の審議を経ずに個別の支給額が決まるため、もっとも「色」が濃い財源」と書いておりましたが、経済学ではない財政学ではきちんとその点は区別されて議論されているわけです。まあ、財源に色をつけるために行う「予算編成」という作業に携わっている役人にとってその困難さは自明であっても、特に経済学方面の方からすると、どんな財源でも予算は自由自在に組めると思われているようでして、本書の続きの部分も参考になりますね。

 実は、債務国家というのは、国家が公共的であろうとする努力をせず、租税抵抗を安易な形で回避しようとするところに生じるものである。リカードの等価原理は、租税と公債とが経済的に見て等価であることを説くが、施政者側の判断といても購買力を移転する側としても、この区別は実のところ極めて重要である。財政心理学という独自の領域を切り開き、租税抵抗問題を正面から取上げたシュメルダースは、「心理的にみると、租税と国債は対立物であって、火と水のようなものである」という(同:545-546)。
 それというのも、租税のもつ強制的性格によって、その不公正な賦課・割当が「あらゆる規模の租税抵抗を挑発する」が、一方、国家の保証が付随した資本証券たる国債は、人々の遊戯本能や名誉欲などを刺激し、自ら購買力を国家に移転するような積極的な反応を喚起することができるからである。「租税か公債か」を決定する基準は、「経済の領域よりも、むしろ政治的・心理的な領域に存在する」(同)。

佐藤・古市『同』p.40

リフレーション政策の手法として国債の日銀引受とか通貨発行益による財政ファイナンスを主張する方々は、ご自身はあくまで経済学的な議論を展開されているつもりなのでしょうけれども、一般の方にすれば政治的・倫理的な領域の問題だというのは大変示唆的な指摘だと思います。いつもの繰り返しですが、私自身はリフレーション政策をゆるやかに支持する立場ではありますが、同時に役人として再分配政策の拡充の必要性も痛感しているところでして、再分配というフロー支出は税収というフロー財源によって賄われるべきと考えております。しかし、当然ながらそうした再分配の制度化や予算編成は政治プロセスを経なければなりませんので、その実現は政治的なものに大きく左右されるということも理解しているつもりです。

そして、政治的なるものは理論的正しさやモデルの美しさで決まるものではないわけでして、権丈先生の言葉をお借りすれば「政策は、所詮、力が作るのであって、正しさが作るのではない」ということに尽きるのですが、経済学的な理論のみで議論される方々にはなかなかそうした側面が意識されることはなさそうですね。まあ、経済学者の方々は理論的な正しさとかモデルの美しさに並々ならぬこだわりをもつことが仕事という面もあるでしょうから、それはそれとしてお仕事に邁進されればよろしいのですが、それを一般の方が真に受けてしまったり、さらにはそれに気をよくしてか知りませんが自らの理論的正しさを即座に現実に適用できると考える学者もいるわけでして、それが回りまわって現実の政治的な攪乱要因となってしまうという事態が生じるに至ると、学者先生のご託宣に付き合うのも考えものです。

という理路からすると、ではそうした政治的なものの攪乱要因をいかに調整するかという点に議論が進むかと思いきや、日本的左派らしく本書の矛先は政府に向いていきます。主に第2章で1960年代から70年代の財政制度審議会の議論を引用して「保険料と税との徹底的な入れ替え」が進められたというのですが、いやまあ大蔵省主計局の戦略としてはそうかもしれませんが、本書でも指摘しているように厚生省は公的扶助や社会福祉の拡充を求めていたわけでして、政府といっても一枚岩ではありませんね。そうした省庁間の対立は官僚内閣制とか官庁代表制と呼ばれる政策決定プロセスであって、それぞれの背後の利益団体がその意向を反映させようとしのぎを削っているんですが、そうした政治的プロセスについて本書はほとんど言及がないところでして、それが「誰に向けて書いているのかよくわからない」という感想の理由です。その違和感は、この部分によく表れています。

 これまでみてきたように、日本の社会保障制度は人々の「共同の困難」に対処したものではない。それはむしろ、制度の分立状況やサービスが過小供給であることを前提に、受益者と非受益者という形で人々を分断させ、リスクを〈私〉化し、受益者負担を導くものである。受益の範囲が狭いために、反対給付を伴わない租税による財源措置では合意を得られない、という理由からだ。受益者負担の導入には、租税抵抗の回避がその根底にある。日本型負担配分の論理とは、このようなものだ。

佐藤・古市『同』p.72

…うーむ、この部分を読むと、政府の問題というより「租税抵抗」を示す国民が選別主義的な社会保障を志向しているという状況しか思い浮かばないのですが、本書は決して租税抵抗を示す国民を敵に回すことなく、その租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府を批判するんですよね。プリンシパル=エージェント的な意味で政府の行動を批判するならまだわかりますが、「民意」から遊離した政策決定を称揚するのでなければ、政府の行動はきちんと「民意」を反映したものという評価が妥当ではないかと思うところです。

なお、本書では日本型フレクシキュリティに一切言及がないので、日本型雇用慣行が公的な生活保障機能の貧弱さを肩代わりしていたことや、バブル崩壊後に日本型雇用慣行の維持が難しくなって会社が肩代わりをしていた生活保障が機能不全に陥っている状況が考慮されていないようでして、この点からも、日本型雇用慣行のコロラリーである終身雇用と年功序列に手をつけられない日本的左派の限界を感じるところです。とはいえ、財政学的な観点から日本の「租税抵抗」について考える際に、海外の研究を引用した部分については、本書を読むと一通りの議論を押さえることができるのではないかと思います。

2014年03月26日 (水) | Edit |
前回前々回の補足なのですが、こんなエントリを書くと「公務員批判を否定するのか」という反応をいただくところでして、かといってもちろん公務員を擁護しているわけでもありませんので、一方ではこういう反応もいただいています。

wxitizi
この人の地方公務員に対するイメージを悪くすることへの弛まぬ努力はすごいと思う。意図したものかそうでないかは別として。 2014/02/24
crcus
確かに"コームイン"とかの表記、自虐しているようでいて「俺たち公務員をバカにしている奴らってバカなんだよ」という意志が見えて、公務員に対する心象を悪くしているな。物言わぬ公務員は迷惑だろう。 2014/02/24

ちょっと趣旨が採りにくいところもありますが、「優秀じゃない公務員のことばかり書いていて、公務員が無能という印象を与えている」という趣旨であれば、拙ブログは「間接部門の軽視による組織運営の行き詰まりとか官製ワーキングプアの大量発生とかにつながっていて、「役立たずのコームインめ!」という感覚それ自体が「公務員バッシング」の典型」ということを繰り返し指摘しているところですので、ご指摘のとおりだと思います。「スーパー公務員でなければ公務員じゃない」という認識が広まれば、私のような下っ端で地味な内部事務に当たる普通の公務員はバッシングの対象から逃れる術がありません。私が拙ブログで想定している公務員は、決して華々しい成果をあげているスーパー公務員だけではなく、普通の組織運営を担っているような一般的な能力を有する公務員ですので、対外的には優秀じゃない公務員のことばかり書いているようにみえるのかもしれません。普通の公務員が間接部門や地道な分野で役所の仕事を回していることは、華々しい成果として評価されることがなくても、それは華々しい成果を支える組織内インフラとして必要不可欠のものであることをご理解いただけると幸いです。

あるいは、二つ目のコメントにあるように「公務員を自虐しているように見せかけて、それを理解できない相手を馬鹿にしていて、そんな姿勢が公務員に対する印象を悪くしている」という趣旨であれば、本望ではありません。私は地方自治体という組織全体のレベルの低さについては、自虐ではなく真剣に憂慮する事態になっていると考えています。それは、上記の内部事務に当たる公務員に限らず、華々しい成果を挙げる公務員にも当てはまります。その理由について、ヒントとなるエントリが黒川滋さんのところで掲載されていました。

2.要綱行政の改善と要綱の公開
(1)要綱行政の課題と問題
Q.地方自治法に明示されている条例、規則ではない要綱等が600もあって、内規にとどまっているうちはまだいいが、補助金や、人権を支えるための福祉の給付条件も要綱になっている。しかしその運用は役所が決めてしまっている。要綱とはそもそもどういうものか。
A(総務部長).自治体においては、判例では内規的なもの。これを背景に、個々の補助金等は双方同意の契約的なものとして位置づけられる。国の要綱はこれが行政処分になる
(2)要綱改定の手続きの確認
Q.そのような解釈であれば、人権である生存権、自由権、社会権を支える福祉分野の要綱を、役所が要綱をタテに給付を出したり切ったりすることは限界があるのではないか。少なくとも契約的なものであれば当事者集団との要綱の妥当性が評価されていなければならないと考えるし、それがなければ。今回の来年度予算案のように一方的に給付内容を削減して人権的に困る人がいたとすれば、元通りに給付せよと言って、市が臨機応変に変えることができる、ということになる。
そのような福祉国家における要綱の現実と、法解釈のずれを考えると、要綱改定にあたってはしかるべき当事者や有識者の意見や判断を求める必要があるてのばないか。
A(審議監).現在は庁内の手続きに留まっている。検討したい。
Q.市の総合振興計画などメインストリームのところでは市民参加が唱われているのに、人権に関わる行政施策のところで当事者との合意すらないというのは矛盾してしまう。
A.あるべき改定の仕組みについて検討したい。

3/19 わくわく号の改革、ハローワークの移転、樹木の剪定など聞く~一般質問から~(2014.03.21 きょうも歩く)
※ 以下、太字下線強調は引用者による。

これは黒川さんが市議を務める朝霞市議会でのやりとりですが、役所が日々の事務処理を効率的に進めるために、細かい解釈や手続きを明文化した要綱(呼び方は細則、要領、事務取扱等いろいろですが、ここでは行政庁内部の事務処理を事務レベルで定めたものを要綱と統一します)が欠かせません。その多くは法律に委任条項があり、政省令に委任があるものは中央官庁が立法意思に基づいて制定されますので、法令として一体のものとして施行されます。ただし、自治体が事務を行う法令では、「自治体が条例で定める」とか「首長が規則で定める」という委任条項も多く、必ずしも立法意思に基づかない規定が置かれる可能性が否定できません。さらに上記のような事務レベルの実務についての要綱は、その立法意思から乖離した条例や規則に基づいて規定される可能性もあるわけで、そうなると何が正しいのか分からなくなってしまいます。

その典型的な例が奈良県立病院事件でして、hamachan先生のところから奈良県知事の発言を引用してみましょう。

毎日新聞によると、奈良県知事が疑問を呈したそうですが、それがあまりにも低水準。

http://mainichi.jp/area/nara/news/20090424ddlk29040513000c.html

>「条例で給与や地域手当と計算基礎が決められている。算定基礎は国も同じで、条例で決められたことをいかんと司法が判断できるのか」と疑問を呈した。控訴するかどうかは検討中としている。

いうまでもなく、公立病院の使用者である地方自治体が自ら策定する条例で決めていることは、私立病院の使用者である医療法人が自ら策定する就業規則で決めていることとまったく同じであって、知事の発言は、

>オレ様が就業規則で決めていることをいかんと司法が判断できるのか

と中小企業のオヤジが吠えているのと論理的にはまったく同じなのですが、どなたかそのへんをきちんと助言する法務担当の地方公務員はいなかったのでしょうか。政策法務とか流行を追うのも結構ですが、まずはコンプライアンスから。

医師の当直勤務は「時間外労働」(2009年4月23日 (木) hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

この事案は、奈良県が条例や人事委員会規則で定めた労働条件が労働基準法に違反として問われた裁判でして、結果的には最高裁まで争って奈良県が定めた労働条件が労働基準法違反であったことが確定しています。その地裁段階の知事の発言が上記のようなものだったわけで、地方公務員の法務リテラシーの程度がうかがわれる好事例と言えるでしょう。

また,被告は,奈良県人事委員会が医師の当直勤務を断続的な勤務ととらえることを許可しているのだから,労働基準法41条3号に反しないと主張する。しかし,労働条件の最低基準を定めるという同法の目的に照らせば,行政官庁の許可も同法37条,41条の趣旨を没却するようなものであってはならず,そのために上記通達等(甲13)が発せられ医師等の宿日直勤務の許可基準が定められているのである。そうすると,奈良県人事委員会の許可も上記許可基準と区別する理由はなく,上記許可基準を満たすものに対して行われなければならないと解されるから,被告の主張は採用できない。

実体的な中身については今まで本ブログでも繰り返し書いてきたことなので、今更繰り返しませんが、法学的見地からみて興味深いのはこれが公務員事案であって、奈良県立病院の医師の「当直」を同じ奈良県人事委員会が許可するという「お手盛り」の仕組みであったという点ですね。
これは、そもそも民間と同じ労働基準法が適用されていながら、その監督システムが違うことの正当性という議論にもつながる論点です。



コメント欄
人事委員会事務局は全員県からの出向ですし、そもそも労働基準監督署的な権限を持つとの認識は全くないですね。給与の勧告しか考えていないと思います。また財政難だから仕方がないと当局はおもっとるようです。
投稿: NSR初心者 | 2009年6月11日 (木) 06時48分

県知事・被告側は主張をとりさげず控訴検討中とのことでしたが、どうなったんでしょうかね…
>一般職の地方公務員であり
 
 この辺の認識が違う、>>法律・条令を変えてやろうという勢いでしょうか
投稿: T | 2009年6月11日 (木) 08時25分

地公法58条の話ですよね? 労基法別表第1第13号の事業では人事委員会の監督で済ませられないはずですが…?
原告側が(その形では)スルーした、ということでしょうか…。
投稿: 臆病者 | 2009年6月17日 (水) 05時45分

そのとおりです。
私自身の文章でもそう明記しておりましたのに、
http://homepage3.nifty.com/hamachan/komurodo.html
>労働基準法の適用関係については、フーバーの怒りにまかせて全面適用除外としてしまった国家公務員法に比べて、地方公務員法では少し冷静になって規定の仕分けがされています。まずそもそも第58条で、労働基準法は地方公務員にも原則として適用されることと明記されました。上述のように、これは日本政府の当初からの発想でした。ただし、地方公務員の種類によって適用される範囲が異なります。地方公営企業職員と単純労務者は全面適用です。教育・研究・調査以外の現業職員については、労使対等決定の原則(第2条)及び就業規則の規定(第89~93条)を除きすべて適用されます。公立病院などは、労使関係法制上は地公労法が適用されず非現業扱いですが、労働条件法制上は現業として労働基準法がほぼフルに適用され、労働基準監督機関の監督下におかれるということになります。
投稿: hamachan | 2009年6月17日 (水) 10時17分

行政指導なら人事委員会ですが、労働基準法違反の摘発であれば司法警察員たる労働基準監督官が出てくることになります。
そこには地方公務員が独自解釈で釈明できる余地はありません。
禁固以上の罪を得て失職するまで、違法状態を続けるつもりなら、その対象を奈良県に求めるまでのことです。
奈良が早いのか、東京が早いのか、埼玉が早いのか、京都?滋賀?
全国の自治体で、競争していただくことといたしませう
投稿: Med_Law | 2009年7月14日 (火) 23時27分

奈良病院「当直」という名の時間外労働裁判の判決(2009年6月10日 (水) hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))
※ 太字強調は原文。

という状況で、奈良県人事委員会は、「我こそが県立病院医師に関する労働監督機関である」という認識なんですね。地方自治体の事務には条例や首長の規則に委任されているものが多いのですが、その最たるものが人事委員会や公平委員会の規則でして、地方自治法や地方公務員法は、「人事委員会が規則で定める」とか「人事委員会の承認を得て」とかやたらに人事委員会に委任しています。ところが、その人事委員会が定める規則の基準とか、人事委員会が承認する基準は、「地方の実情に合わせる」というマジックワードでもって丸投げされているのが実態でです。つまり、人事委員会がいったん法律の読み方を間違えてしまえば、その誤った解釈がその自治体の労働基準として機能してしまう事態に歯止めをかけるものがなくなってしまいます。また、自治体で法規事務を審査する立場の法務担当も、自分の任用が雇用契約ではなく任用という行政行為だと理解していますから、労働法そのものについての理解が乏しい傾向があって、人事委員会の法律解釈には特にチェックが甘くなる傾向がありそうです。

2)について「情報公開決定」と回答してくるということは、公開されるべき文書があるということですね。どうも当局側は、本件において「医師に関して有効な労働基準法41条3号に基づく宿直許可申請書および許可書」が存在していると本気で思っているようです。
判決文からは、そのような文書の存在はうかがい知れないのですが、いったい何を出してくるつもりなのでしょうか。まさか奈良県の勤務時間規則をそのまま出してくるつもりとか。
奈良県にまともな法務担当職員はいないのでしょうか

奈良県立病院の「医師に関して有効な労働基準法41条3号に基づく宿直許可申請書および許可書」(2009年7月14日 (火) hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

もちろん奈良県職員も地方上級試験を合格しているでしょうし、学生時代には法律の勉強もしているはずなのですが、いったん仕事についてしまうと事務レベルの要綱を見るのが精一杯で、法令まで確認するということはなかなかないのが現状だと思います。これは自戒を込めてなのですが、日々の事務作業に追われていると、つい根拠法令まで確認するという手間を省いてしまい、後からよく考えると辻褄が合わない事務処理が慣例化されているという例は、これまでにも何度かありました。まあ私の場合は違法というまで深刻なものがなかったのが幸いですが、一歩間違えば奈良県立病院事件のように最高裁で違法状態であることが確定してしまう可能性もあります。

その意味では、窓口での対応が違法である可能性もある以上、それに対して疑問を感じた場合は根拠法令を基に異議を申し立てることが必要です。その過程で法律が規定している権利関係や利害調整の過程が明確になれば、住民と行政の両当事者にとって望ましいはずです。生活保護の手続きが違法かどうかについては様々な制約の中で判断しなければなりませんが、法律による行政の原理からすれば、問題は、実務のうえでどれだけ実現できるかという点にあるわけです。つまり、法律の規定が現実離れしているのか、その立法意思が現状とかけ離れていないか、現状が法律通りでない場合の制約は何か、法律の解釈は間違っていないか、その運用は解釈に沿ったものとなっているのか…という諸々の側面から十分に検討し、それらを踏まえながら日々の実務をルーティン化することが重要となるわけです。もちろん、それと同時に、そのルーティン化された実務と、その元となる法律の規定の乖離をいかに少なくするかという日々の実務の運用も同じくらい重要です。

我々のような下っ端の地方公務員は、こういう手間のかかる作業をこなすのが仕事なのですが、一般の方々にはなかなか理解されないだろうと思いますし、中央の官僚の中にすらあまりこうした実務を意識しない方も多くいらっしゃいます。ここに地方分権の大きなジレンマがあるわけで、私もその地域の実情に応じて住民意思を反映させるべき分野であれば地方分権すべきだろうとは考えていますが、そうではなく、全国レベルで脱法的な裁定行為が可能な分野や、人権を侵害してしまう分野で地方分権が行われれば、法の趣旨を逸脱した行政によって深刻な問題が生じる可能性があります。その辺を一緒くたにして闇雲なチホーブンケンとかいって、専門性が高くなく法律の解釈が怪しい自治体職員に丸投げしたりすれば、上記のような問題が生じてしまうわけです。

その現状でマスコミとして採りうる戦略は、七面倒くさい実務の現場の苦悩などではなく、一般の方が抱く疑問をいかにセンセーショナルに打ち出すかという点に集約されていきます。むしろ、そうした苦悩を解決するために「より一層の地方分権を!」とか言い出して、ますます自治体職員の怪しい法律解釈・運用が行われ、問題が発生していき…と、一部ではすでに悪循環に陥りつつあると思います。そうなると、さらに下っ端の公務員がこなしている地味なルーチンや運用の作業は理解されることがなくなっていきますが、それは同時に法律による行政の原理から逸脱した事務処理についてのチェック機能も低下させてしまいかねません。適正な法の運用のためには、行政がそれを解釈・運用するだけではなく、その運用について当事者の側から声をあげていくことが重要です。まあ、それが奈良県立病院事件では、労務管理を行う当局と、その労務管理に服する公務員と、その労務管理を監督する人事委員会が同じ県職員によって行われていたために、長年問題化しなかった原因ともいえそうです。

2014年03月22日 (土) | Edit |
一応これで書きかけのエントリはなくなることになりますが、年度の最後まで残してしまうほど難しいテーマだと思いますし、かなり長文になりましたので、小分けにしてアップします。

昨年末のエントリで、

大山さんの前著『生活保護vsワーキングプア』でも繰り返し指摘されていたとおり、生活保護法第4条第1項で「補足性の原理」が規定されておりまして、その法律通りの運用が一部で「水際作戦」として問題視され、日弁連が行政の対応を違法だと主張していた経緯があります。その法律通りの運用を課長通知で変えるということは、現場が法律ではない課長通知を基に実務を行うということを意味するわけで、どちらが違法なのかは単純な問題ではありません。

現場のための中央 2013年12月30日 (月)

ということを書いたところ、管理人あてということで、

「行政手続法の理屈からいくと、「申請意思のある者から申請を受けた上で、処分(保護開始の可否)を為すために、その審査の過程で保護法第4条第1項の適用について論じる」のが本筋で、「申請意思のある者から申請を受ける前に、第4条第1項の適用について論じるのは、順序が間違っている」という論は成り立ちそうに思います。」


というコメントをいただいておりました。ここで指摘いただいた行政手続法の理屈というのは、藤田先生の入門書から引用すると、

 それからまた、行政手続法は、申請が出された場合、それについての行政庁の審査業務は、その申請が役所(事務所)に到着した時点で発生する、ということを明らかにするとともに、形式的な要件をみたしていない申請(いわゆる「不適法な申請」)に対しては、すみやかに、相当の期間を定めて申請人に対しその申請の補正をすることを命じるか、あるいは申請によって求められた許認可を拒否するか、いずれかの措置をしなければならない、というように定めました(同法7条)。なぜこんな規定が必要かというと、たとえばある許可(たとえばゴミ処理上などいわゆる「迷惑施設」の建設の許可などを考えてください)の申請が出てきたときに、行政庁の立場として、法律の規定に従えば根拠かを与えないわけにはゆかないのだけれど、たとえば環境問題とか、周辺住民の気持ちなどを考えると、できれば許可をしたくない、といったことがでてきます。こうしたときに、行政庁が、申請をひとたび受け取ってしまうと許可をしなければならなくなってしまうので、いろいろなりくつをつけて、申請をまだ受け取ってはいない、ということにしてしまう、ということが、従来よくありました(いわゆる「預かり」とか「返戻」といった措置がこれです)。これに対して行政手続法は、今後こんなことは許されないので、ともかくも申請が行政庁(事務所)に(事実上)届いたならば、行政庁は、正式の審査をして、正式の結論を出さなければいけないのだ、ということを定めたのです。
pp.83-84

行政法入門 第6版行政法入門 第6版
(2013/11/11)
藤田 宙靖

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※ 手元にある2005年の第4版からの引用です。以下、強調は引用者による。

とされていることですが、その意味では、「水際作戦」が形式的な要件を満たしているにも関わらず受け付けられないというのであれば、ご指摘のとおり違法な処理となります。ただし、形式的な要件を満たしているかどうかというのは、書式が定められていて、その各欄に何らかの記載があれば満たされるという単純なものではないところが難しいところでして、その点で日弁連や支援団体と行政側の見解が分かれているものと思われます。

はっきりいえば、行政法の入門書に書かれているような理屈を理解していない公務員がそうそういるはずがない(後述するように皆無とは言えないところが歯がゆいところですが)わけで、その見解が分かれる理由については大山『生活保護vsワーキングプア』をじっくりと読んでいただきたいのですが、法令の規定を現実の制度として運用することの難しさは、たとえばこのようにして担当者と申請する方の前に立ちはだかります。

申請へのハードルは高くなるばかり

 このように、福祉事務所の側に立てば、面接相談は「制度をよく説明し、理解をしてもらったうえで、申請を行ってもらうために必要なプロセス」であり、生活保護の適正な実施を行うために不可欠なものであることがご理解いただけるでしょう。これが、私やベテランケースワーカーが、「それほどひどくはないじゃないか」と考えた理由です。
 生活保護は最後の砦であり、安易に利用するものでは無い。できる努力をせずに、すぐに生活保護に頼ろうとする人には、厳しい対応をせざるをえない。市民の血税を扱い、全体の奉仕者である公務員という立場上、多くのケースワーカーはこのように考えています
 しかし、このような運用の姿勢を「法的に正しいかどうか」という視点で検討すれば、新たな意味合いが出てきます。先ほど事例としてあげた相談者が、「それでも私は生活保護を申請します」と言い、調査が行われたらどのような結果になるでしょうか。おそらく、ほとんどの方が、生活保護の利用を認められることになるでしょう。ここに、生活保護に関わる支援者や法律家から「二重基準である」と言われる生活保護行政の矛盾があります。
 第一章で取り上げた元風俗嬢の相談例を思い出してください。
 彼女と彼は二人で暮らしていました。この場合、相談窓口では「内縁の夫」とされ、二人世帯での生活保護の適否を判断されます。相談内容を見る限り、彼もワーキングプアで二人の生活を支えるだけの収入はなさそうです。彼女は働けないので、世帯収入は最低生活費以下であることは間違いないでしょう。すでに述べたように、日本弁護士連合会の基準からすれば、「十分に生活保護の対象になる世帯だ」といえるでしょう。そして、仮に生活保護の申請をすれば、彼と彼女は生活保護の利用ができる可能性は高いのです。法律上の条文解釈のみで考えれば、こちらがより制度の理念の沿った運用であるといえます。
 しかし、生活保護の現場では補足性の原理が強調され、「できることはやってもらう」という姿勢が非常に強くなっています。面接相談では「仕事ができるか」「親族から援助してもらえないか」が厳しく聞きとられることになるでしょう。そして、私には、一般社会のなかでもそうすることが「当然だ」という風潮があるように見えます。
 現行の運用では、生活保護を申請しようとする彼女、あるいは彼は、「現状ではこれ以上の収入を得ることは難しく、家族からの援助も求めることができない」という状況を説明し、担当者を納得させる必要があります。さらに、「若いからなんとかなるだろう」「生活保護は高齢者や障害者が利用するもの」という一般に広く認知されている常識や、「生活保護を受けている若者は怠け者だ」「不正受給をしているのは、若い人間が多い」という生活保護にまつわる漠然とした負のイメージは、彼女や彼の心理的抵抗感をさらに強め、申請へのハードルを高くしていきます
 彼女が生活保護の申請までこぎつけるのは、「実際には極めて難しい」といえるでしょう。
pp.104-106

生活保護VSワーキングプア (PHP新書)生活保護VSワーキングプア (PHP新書)
(2008/01/16)
大山 典宏

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この部分を読んで理解できる方がいらっしゃるか甚だ心許ないのですが、法の執行の現場というのは、事ほど左様に法律どおりに進まないのが現実です。というのも、日本国憲法に由来しながらも独特の解釈がされている公務員の「全体の奉仕者」という使命、徹底した財政民主主義と、その実定法として制定された生活保護法に規定される補足性の原理の解釈と運用は、そのいずれも法的には「正しく」「遵守すべき」ものではありながら、実務の現場では相対立する原理原則として立ち現れるからです。

こんなことを書いても「なんのこっちゃ?」という方が大部分だと思いますが、法の執行を担う行政の実務の現場に生活に窮した方が当事者として存在し、それらの相対立する原理原則の狭間で憲法と実定法、それに基づく各種細則の解釈と運用が日々行われているわけで、法的に正しいから申請が行われるという単純な話にはなりません。しかし、行政の実務がどうであれ、生活に窮した方がいるという現実は変わりませんし、それを支援する弁護士や支援団体からすれば、その方を救うのは法律しか拠り所がないわけです。かくして、実務の現場で苦悩する行政職員と、現実に生活に窮している方と、それを法律論で支援しようとする弁護士の思いが交わることはなく、お互いに不信感だけを募らせていくことになるのではないかと思います。

そして、その背景には、大山さんが「「若いからなんとかなるだろう」「生活保護は高齢者や障害者が利用するもの」という一般に広く認知されている常識や、「生活保護を受けている若者は怠け者だ」「不正受給をしているのは、若い人間が多い」という生活保護にまつわる漠然とした負のイメージ」と指摘されるように、福祉を許容しない日本社会の現状があります。人権モデルと適正化モデルは行政や役人が独自に作り上げたものではなく、日本社会が政治の場やマスコミ、教育など、普通の人が生活の中で醸成してきた日本社会の内部に存在する対立の一つの現れに過ぎません。だからこそ、「必要な予算を確保するためには、財務省が納得するような説明ができないといけない。財務省が求めるのは「その事業が、ほんとうに税金をかける価値があるのか」という点だ。説得力のある説明をするためには、費用対効果のような数字がいる」という言葉が、厚労省の官僚によって切実に語られるわけです。

これに対して、今野『生活保護』が、人権モデルの立場から「違法行政」だとして上記のような対応を糾弾されています。結論を先取りすると、今野本の主張は方向性として賛同できるものの、その事実認識にかなりのバイアスを感じるところでして、次のエントリに続きます。

2013年12月31日 (火) | Edit |
前回エントリでは、dojinさんと障害者制度の改正議論について議論させていただいた経緯も引用しておりましたが、そのエントリでは、「普段各方面からのあれやこれやの原則論とか思い入れとか横やりに晒されて、それに対応することを仕事をしている身からすると、「「(政治家フォローの有無含めた)厚生労働省マンパワー不足仮説」の妥当性がどの程度あるか、その一点」に問題が集約されてしまうことには少なからず違和感がある」というコメントもさせていただいておりました。その違和感というのは、これも何度も引用させていただいている権丈先生の言葉ですが、

平等・格差は問題だ、貧困問題は深刻だと言うくらいで、世の中動くもんじゃない。18 世紀の半ばに産業革命が起こってすぐから、深刻な貧困問題を訴える社会運動家は、ずっといた。だけどな、格差問題、貧困問題を解決するためには、所得の再分配が必要なわけで、その再分配政策が大規模に動きはじめるのは、高所得者から低所得者に所得を再分配するその事実が、成長や雇用の確保を保障するということを経済理論が説明することに成功したときからだ。現状の所得分配に対する固執はいつでもどこでもとてもおそろしく強く、格差は問題だ、貧困問題は深刻だと言うくらいで、所得分配のあり方が大きく動くほど、世の中は甘くないんだよ」

勿凝学問189 「乏しきを憂えず等しからざるを憂う」ようなできた人間じゃないよ、僕は 日本財政学会シンポジウムでのワンシーン(2008年10月29日)(注:pdfファイルです)」(Kenjoh Seminar Home Page
※以下、強調は引用者による。


ということして、政策実現のための合意形成というのは、何かが問題であると認識されることだけでは不十分で、その問題がどのように社会的に、あるいはその合意形成が必要な相手方にどのようなメリットがあるかを示さなければなりません。交渉ごとというのはだいたいそういうものだろうと思うわけで(政策形成が経済学上の理論だけで決まるわけではないという歴史的経緯は、「現実味に欠ける仮定をおいた経済理論がなぜ政策に反映されていくのか、それが現実の世界で慣行として形成されて法理を形成して…、という制度が響き合う機微」を感得できる金子先生の業績でご覧ください)、大山『生活保護vs子どもの貧困』でもそのような場面が描かれています。

 これは、生活保護だけでなく、値金や医療などの社会保障全般に関わる問題でもあります。少子高齢化で高齢者は増える一方、働き手は減っている。働き手のなかでも安定した仕事に就いている人の割合はどんどん減り、20代では二人に一人は非正規の仕事。自分の食べるぶんもカツカツという人が少なくないのが現状です。そうしたなかで、なぜ生活保護だけが優遇されるのだ。オレたち、私たちの生活はどうなるのだという声が出てきました。
 こうした声は、もっぱら感情的なものではあるのです。しかし、私は感情というのはとても大切なものだと考えています。残念ながら、人権モデルはこうした感情をもつ人に対して、説得力のある言葉をもちえませんでした
 人権モデルの立場でよく使われるものに、「私たちの声を聞いてください」という言葉があります。官邸前でデモをしたり、シンポジウムを聞いたりして、私たちはこれだけ困っているとアピールする。たしかに、貧困問題が再発見される段階では、当事者に意見をいってもらうことは効果がありました。苦しい生活や、日々感じる差別や偏見への気持ちを話していただくことは、辛く、勇気のいることです。私も何度か集会に参加したことがありますが、それぞれの思いを聞き、心が動いたことは一度や二度ではありません。
 しかし、「困っている人はたくさんいる」ということが社会で共有されているなかで、それ続けているとどうなるでしょうか。
 現在の日本は、同情疲れともいうべき状態になっています。悲惨な話が多すぎて、無感覚になりつつあるのです。
 ある新聞社のインタビューを受けているときに、記者が「ああいうことをする元気があるなら、働けよと思うんです」とボソリといっていました。こういった声に人権モデルはどれだけ耳を傾けているのだろう、と思うのです。
pp.127-129

生活保護 VS 子どもの貧困 (PHP新書)生活保護 VS 子どもの貧困 (PHP新書)
(2013/11/16)
大山典宏

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障害者支援制度の改革の議論でも、こうした「人権モデル」に近い立場から障害者支援制度の拡充を求める声は多数表明されたのですが、ではそれが大山さんが指摘される「感情」に対して説得力を持っていたかという点は十分に吟味されるべきでしょう。私は当時の議論でも指摘しておりますが、そのような説得力を持たない言葉でもって厚労省の怠慢を追求する立場には疑問を持っておりまして、なんとかそれに説得力を持たせようとした厚労省をdisる方々にも疑問を呈したつもりです。

説得力を持たない言葉でもって厚労省の怠慢を追求する立場の方の発言として、本書で象徴的な場面が引用されています。

 2010年に、厚生労働省は「生活保護受給者の社会的な居場所づくりと新しい公共に関する研究会」という会合をつくりました。(略)その席上で、厚生労働省の保護課長(生活保護の元締めのような人です)から委員に対してこんな投げかけがありました。
 就職を希望するが結びつかない人、就労意欲を失って孤立する人に対して、一般就労だけでなく、社会とのつながりを結び直す支援が求められている。そのことは、皆さんの話を聞いていてよくわかる。ただ、必要な予算を確保するためには、財務省が納得するような説明ができないといけない。財務省が求めるのは「その事業が、ほんとうに税金をかける価値があるのか」という点だ。説得力のある説明をするためには、費用対効果のような数字がいる。しかし、現場を知らない私たちはどうすればいいかがわからない。皆さんからの意見を聞きたい――そう、真剣に訴えかけていました。
 私は、ちょっとだけ感動してしまいました。自分たちには足りないものがあることを認め、素直に助けを求めることは、なかなかできることではありません。偉くなればなおさらです。皆さんの意見を聞いて、しっかりといいものをつくっていきたい。保護課長の言葉からは、そうした熱い思いを感じ取ることができました。
 問いかけに対して、あるNPOの代表者が口を開きました。
それは、私たちの立場と違いますから
 語り口は柔らかかったものの、私は、切って捨てるような印象をもちました。相容れない立場の人の気持ちに寄り添い、その人の立場で考え、どうしたらいいのかを考える。それは、NPOが何度も行政に対して求めていることではないのか。それを、「私たちと一緒に考えてください」といわれたとたんに、「私たちは、それを考える立場ではない」という。
 自分たちの声(意見)は聞いてほしいけれど、相手の声(意見)は聞きたくない。これでは、コミュニケーションは成立しません。自分と同じ意見の人たちとだけ付き合い、異なる意見の人を「あの人の考え方はおかしい」「自分とは違う」と排除していては、共感は広がらない。私は、そう思うのです。

大山『同』pp.130-131


その政策分野の課題に関心を持つ方々は往々にして、自分たちの主張する政策が「正しいから」「必要だから」という理由だけで実現すると考える傾向があると思います。実際に取り組んでいる方ですら上記のような認識であれば、ニュースを見てああだこうだいっているような一般の方にすれば、「正しい政策なんだから調整なんて必要ない」とか「困っている人がいるんだから政策を実施して当然だ」という認識が普通なのでしょう。

しかし、下っ端公務員の狭い経験からしても、調整が必要でない政策分野なんてものはおそらくこの世に存在しないだろうと思います。特に社会保障の分野では、社会的弱者の救済を叫ぶ主張に混じって、「公務員が身を切る」べきという主張を声高に叫ぶ方も多いわけでして、私が日本的左派思想に懐疑的なのもその辺に理由があります。一方では、経済政策の分野では社会保障やその財源調達としての税金を目の敵にして「リフレ派」に名を借りた増税忌避の立場を崩さない方も多くいらっしゃいますね。「自分と同じ意見の人たちとだけ付き合い、異なる意見の人を「あの人の考え方はおかしい」「自分とは違う」と排除」する風景が特にネット界隈では当たり前のこの国で、調整に当たる公務員の任が増えることはあっても人員が増えることはないというのは、まあ当然の帰結なのでしょう。