2021年06月04日 (金) | Edit |
5月14日の緊急事態宣言の発出に当たって、政府側から出された諮問案が分科会での専門家の意見により変更されたことが話題になりまして、5月31日に延長後は来月に開催が迫った東京オリパラがホットイシューになっていますね。拙ブログでも専門家が意志決定に関与することが必要であることは指摘しておりましたが、このような形で意志決定に関与することはあまり望ましい状態ではないように思います。というのも、専門家が意志決定に関与するのはその専門的な知見が課題の解決に必要であるからというのが大前提にあるはずであって、そもそもの諮問案に専門家の意見が反映されていないということ自体が、政府の意思決定において専門的な知見が重要視されていないことを示すものと考えられるからです。

報道を見ている限りですが、現在の政府における専門家の位置づけは政府が原案を策定した案にお墨付きを与えるという役割がメインとなっていて、原案の策定そのものには関与していないのではないかと思われます。このプロセスを理解するためには、牧原先生の『行政改革と調整のシステム』でも指摘されていた通り、戦時体制の強化に伴って「総合調整」が当時の中央官庁の主要な事務として規定され、戦後もその役割を活用する形で理論を制度に落とし込む仕組みが形成されたという歴史的経緯を踏まえる必要があります。詳しくは当時のエントリをご覧頂きたいのですが、大ざっぱに言えば、学術上の「理論」が諮問機関の「ドクトリン」を経て、実際の「制度」として形成されるという政策過程が戦後形成されていきました。

Covid-19対策も基本的にはその延長線上で進められているのですが、90年代の政権交代において「政治主導」が唱えられてからというもの大きく様変わりしています。この政策過程は、政策的な課題が複雑化して関係部署が増えるほどに手間がかかるようになりますし、そのように重層化した政策過程が当初の想定どおり機能しないことも当然ありうる話です。これをことさらにやり玉に挙げて「官邸主導」で「官僚支配を打破する」と意気込んだのが00年代の小泉改革であり旧民主党による政権交代だったわけで、2009年に発行された本書では次のように指摘されています。

 したがって、政治家には情報を掌握した上での判断こそが求められるのであり、「官邸主導」とは、その範囲での官邸の影響力の発揮なのである。政治的任命職は官僚のよきパートナーとして、この過程に参画し、政治家を補佐する。そこで必要なのは、まずは政策の専門知識と、これを一般の国民にわかりやすく解説する言語能力である。対して「調整」の技術とは、制度を知悉した官僚の執務知識にならざるを得ない。現代社会における「政治指導」とは、このような役割分担の中ではじめて機能するものなのである。
 ところが、政治学者からはしばしば、上意下達の「政治指導」が「調整」の障害を突破しうることが強調されてきた。特に、イギリスの議院内閣制を導入することによって、日本でも「総合調整」がより容易になるであろうという見通しが、1990年代の政治改革の中で繰り返し主張されてきた。これは、本書の結論とは、強調の力点が異なる上に、見方によっては正反対の主張に映るだろう。
(略)
 そして、本書のように「行政」の「ドクトリン」を抽出し、その歴史的形成過程を追跡することによって、「政治」の「ドクトリン」の限界が明らかになる。つまり、「政治指導」は、あくまでも「調整」を先取りしていなければ有効に作動しない。その限りで、上意下達の指導ではなく、下意上達すなわち官僚との協力関係が暗黙の内に含まれているのである。ところが、既存の「政治」の「ドクトリン」は、あたかも官僚の協力関係を否定するような身振りを示すことで、マスメディアの支持を得てきた。つまり、説得力を備えてきたのである。だが、その種の説得力は、今後の日本政治が政権交代のある政党システムへと変容する際には有効とは言い難い。長期的に見て、官僚との協力関係なしには、政権担当能力を説得的には示せないからである。官僚との協力がいかなる意味で「政治指導」と両立するのかを解き明かし、それを強靱な「ドクトリン」へと変換することによって、野党が選挙で勝利して政権入りするという政権交代の局面にふさわしい「政治」の「ドクトリン」を構築できる。そのときに、本書のような「行政」の「ドクトリン」への分析方向は、一助になるだろう。
pp.269-270

行政学叢書8 行政改革と調整のシステム
牧原 出 著
ISBN978-4-13-034238-4発売日:2009年09月15日判型:四六ページ数:344頁


※ 以下、強調は引用者による。


とはいえ、一口に「政策過程」といっても、飯尾潤先生が『日本の統治機構』でまとめられたような官僚内閣制だったり省庁代表制だったり政府・与党二元体制という実態を踏まえてみれば、専門家が意志決定を主導することは民主主義の建前からも政治的にも難しいわけで、だからこそどのような意志決定が行われるかという政策過程の議論は重要となります。

政府の諮問案の決定過程がどのようになっているのかは報道などで推測するしかないのですが、こちらの記事で分科会での議論の一部が報道されています。

北海道、岡山県、広島県への緊急事態宣言の発出を巡って、分科会の構成員から出た意見は、変異株の感染拡大への懸念、数値以上の医療の逼迫の厳しさ、国民の行動変容を促すための強いメッセージの必要性――という3つに整理できるという。緊急事態宣言とまん延防止等重点措置の対象は計19都道府県に上るが、全国的な緊急事態宣言の発出については、否定的な見解を示した。

 西村経済再生担当相は、日々専門家らと情報交換しつつ、対策を検討していると言いつつも、分科会で諮問案に異論が相次いだことなどに対し、会見では、「専門家の意見を最大限尊重する気が今の官邸にあるのか」との厳しい質問も飛んだ。「総理とも危機感は共有している。率直な意見をいただいて、やはり専門家の意見を尊重して対応しようということになった。そこに何らかの齟齬があるわけではない」と専門家の意見を軽んじているわけではないと強調。

 他方で、「強い措置については、どの範囲でやっていくかなど、いろいろなことを考えなければいけない。最優先は感染拡大を防止することだが、総合的に考えていくことは当然のこと」とも述べ、感染対策の専門家と政治家では、立場、視点の違いがあることにも触れ、対応の難しさも吐露した。

「諮問案取り下げ・変更迫った、専門家の3つの意見」 | m3.com(レポート 2021年5月15日 (土) 橋本佳子(m3.com編集長))


西村氏の発言からすると、「最優先は感染拡大を防止すること」といいながら「総合的に考え」た結果が緊急事態宣言を発令しないことを提案したといっていることになるわけでして、つまりは「総合的には感染拡大の防止は最優先ではない」といっているに等しいんですよね。まあご本人はそういう意図では発言していないだろうと思われる点こそが、現在の政策過程の問題を端なくも示していると言えそうです。つまり、「最優先は感染拡大を防止すること」であるなら、その感染症対策の専門家である分科会の意見が最優先されるはずであるところ、「総合的」という言葉でもって実際の政策過程においては最優先されていないという実態を表しているものと思われます。

結局は、事実上は経済を優先するという政府の立場を確保するため、「最優先は感染拡大を防止すること」を専門家の議論に委ねた形にして、政策決定の過程において「専門家の指摘により(やむを得ず)緊急事態宣言を発出した」というアリバイを作ることにしたのでしょう。そこには、学術的な知見を政策に適切に反映させようという姿勢より、政策決定に責任を有する政治の場においてその政策の責任を取ろうとしない姿勢が現れているように思われます。

いやもちろん、「専門家の意見を取り入れて総理大臣が方針を変更したのだから政治の責任は果たされている」ということもできるでしょうけれども、そうであるなら東京オリパラの議論においては同じ轍を踏まないようにあらかじめ専門家の意見を取り入れるのかと思いきや、こんなニュースがありました。

田村厚労相 “尾身会長ら専門家の意見 参考になれば取り入れ”(NHKニュース2021年6月4日 11時16分)

田村厚生労働大臣は、閣議のあと記者団に対し「国内での感染リスクが高い行動は、オリンピックであろうとなかろうと、感染拡大につながるので、仮に緊急事態宣言が解除されたとしても自重をお願いするよう訴えたい」と述べました。

また、尾身会長が、東京大会の開催が感染状況に与える影響などを専門家で議論し、考えを伝えたいとしていることについて「専門家が自主的にいろいろ意見を述べることはあると思うので、その中に参考になるものがあれば、政府の中でも取り入れていくことは当然あるが、いずれにしても自主的な研究の成果の発表だと受け止めさせていただく」と述べました。


専門家による「ドクトリン」としての政策過程がすっ飛ばされるようになり、「最優先は感染拡大を防止すること」という建前をナチュラルに反故にするムーブに入ってきた感がありますね。
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2019年02月12日 (火) | Edit |
前回エントリで「最近働く現場での問題が相次いで明るみに出ている」と書いたのは、いわゆるバカッターとかバカバイトとか言われるSNS上の炎上も話題となっていますが、千葉県野田市での児童虐待死事件での教育委員会や児童相談所の対応も同じ側面を持っているのではないかと考えております。というのは、虐待していたとされる父親が学校に乗り込んでアンケートを開示するよう要求し、その要求が通らないからと市の教育委員会に乗り込んで、子供の同意書まで用意して開示させたという経緯を見ると、プロフェッショナリズムの欠如を感じてしまうからです。

「いじめ」回答、父に渡す 野田市教委、保護抗議受け 小4死亡「配慮欠いた」(日経新聞 2019/1/31 11:11 (2019/1/31 12:38更新))

千葉県野田市立小4年の栗原心愛(みあ)さん(10)が自宅浴室で死亡した事件で、心愛さんが2017年11月に「父からいじめを受けている」と回答した学校アンケートのコピーを、市教育委員会が父、勇一郎容疑者(41)=傷害容疑で逮捕=に渡していたことが31日、市教委への取材で分かった。虐待を調べていた県柏児童相談所には事前に相談していなかった。

野田市教委は取材に、心愛さんが児相に一時保護されたことに対し、容疑者から学校側に激しい抗議があり、それを抑えるために手渡したと説明。「配慮を著しく欠いていた」と陳謝した。

野田市教委などによると、心愛さんは当時通っていた別の市立小で実施されたいじめに関するアンケートの自由記述欄に「父からいじめを受けている」と記載。児相は17年11月7日、虐待の可能性が高いとして一時保護した。

容疑者は一時保護解除後の18年1月12日、心愛さんの母(31)と共に学校を訪れ、「暴力はしていない」「訴訟を起こす」などと抗議。学校側が回答内容を口頭で伝えると「実物を見せろ」と要求した。学校側から相談を受けた市教委が同月15日、コピーを容疑者に手渡した。

市教委は2月20日、市や柏児相、野田署などで構成する「市要保護児童対策地域協議会」で、回答を渡したことを事後報告した。柏児相は「事前に児相に相談すべきで、不適切だったと考えている」としている。

児相は17年12月27日、親族宅での生活を条件に保護を解除。18年1月18日、死亡時の学校に転校し3月に自宅へ戻った。〔共同〕


私がこれまで経験した職場でも、要求が通らないと大声を上げて職員を恫喝する方が定期的に訪れるところがありました。幸い(?)その要求内容は法令上応じる必要がないことが明らかなものだったので、ガス抜きと割り切って対応しておけばよかったのですが、中には一線を越えて職員に暴力を働く方もいて(私は直接の担当ではありませんでしたが)、そうした役所のセキュリティの低さにはいつも辟易しているところではあります。まあその問題はそれとして、今回の件のように明確に法令に抵触するかどうかが不明な場合に、恫喝に屈して要求に応じる可能性はゼロではないだろうとも思います。

というのも、親権を有する親がその子供の同意書を持って本人の個人情報開示を請求してきた場合に、それを拒否する権限が役所にあるかどうかは、思うほど明確ではないように思われるからです。

野田市個人情報保護条例(平成12年野田市条例第25号)
(本人開示請求権)
第15条 何人も、この条例の定めるところにより、実施機関に対し、当該実施機関の保有する自己に関する個人情報(指定管理者に公の施設の管理を行わせるときは、当該管理の業務に関するものを含む。)の開示を請求することができる
2 未成年者若しくは成年被後見人の法定代理人又は本人の委任による代理人(以下「代理人」という。)は、本人に代わって前項の規定による開示を請求することができる

(本人開示請求の手続)
第16条 前条の規定による開示の請求(以下「本人開示請求」という。)は、次に掲げる事項を記載した書面(以下「本人開示請求書」という。)を実施機関に提出してしなければならない。
(1) 本人開示請求をする者の氏名及び住所
(2) 本人開示請求に係る個人情報を特定するに足りる事項
(3) 前2号に掲げるもののほか、規則で定める事項
2 前項の規定により本人開示請求書を提出する際、本人開示請求をしようとする者は、実施機関に対し、自己が当該本人開示請求に係る個人情報の本人又はその代理人であることを証明するために必要な書類で規則で定めるものを提出し、又は提示しなければならない
3 実施機関は、本人開示請求書に形式上の不備があると認めるときは、本人開示請求をした者(以下「本人開示請求者」という。)に対し、相当の期間を定めて、その補正を求めることができる。この場合において、実施機関は、本人開示請求者に対し、補正の参考となる情報を提供するよう努めなければならない。

(開示しないことができる個人情報)
第17条 実施機関は、本人開示請求に係る個人情報が次の各号に掲げる事由(以下「不開示事由」という。)のいずれかに該当するときは、当該個人情報を開示しないことができる
(1) 法令等の定めるところ又は実施機関が法令上従う義務のある国等の機関の指示により、本人に開示することができないとき。
(2) 個人の評価、診断、判定、選考、指導、相談等に関する個人情報であって、開示することにより、事務の適正な遂行に著しい支障が生ずるおそれがあるとき。
(3) 監査、検査、取締り、争訟、交渉、契約、試験、調査、研究、人事管理、市が行う事業経営その他実施機関の事務又は事業に関する情報であって、開示することにより、当該事務又は事業の性質上、当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるとき。
(4) 第三者に関する情報を含む個人情報であって、開示することにより、当該第三者の正当な権利利益を侵害するおそれがあるとき。
(5) 未成年者の代理人により本人開示請求が行われた場合であって、開示することが当該未成年者の利益に反すると認めるとき。


野田市個人情報保護条例施行規則(平成13年野田市規則第3号)
(本人開示請求書)
第6条 条例第16条第1項第3号に規定する規則で定める事項は、次のとおりとする。
(1) 希望する開示の実施方法
(2) 代理人が開示を請求する場合にあっては、当該本人開示請求に係る本人の氏名及び住所
2 条例第16条第1項に規定する本人開示請求書は、個人情報本人開示請求書(別記第3号様式)とする。
3 条例第16条第2項(条例第27条第2項及び第30条第2項において準用する場合を含む。次項において同じ。)に規定する本人であることを証明するために必要な書類で規則で定めるものは、次のいずれかとする。
(1) 運転免許証
(2) 旅券
(3) 健康保険被保険者証
(4) 個人番号カード
(5) 前各号に掲げるもののほか、当該請求に係る本人であることを確認することができるもの
4 条例第16条第2項に規定する代理人であることを証明するために必要な書類で規則で定めるものは、当該代理人に係る前項各号に掲げる書類のいずれか及び次の各号に掲げる書類とする。
(1) 未成年者の法定代理人にあっては、戸籍謄本その他法定代理人であることを証明する書類
(2) 成年被後見人の法定代理人にあっては、当該成年後見に関する登記事項証明書その他代理人であることを証明する書類
(3) 本人の委任による代理人にあっては、委任状


おそらくどこの自治体でもほぼ変わらない標準的な規定だろうと思いますが、野田市の条例では未成年者を含む何人も、教育委員会を含む実施機関に対して、自己に関する個人情報を開示請求することができるとされています。その具体的な手続きは条例とその委任を受けた規則で定められておりまして、野田市の場合は条例15条で本人開示請求権が規定され、16条でその手続き、さらに17条でその請求権に対して開示しないことができる事由が規定されています。規則では、本人開示請求する場合に必要な書類等が規定されていまして、未成年者については、代理人の運転免許証等の本人確認できる書類と戸籍謄本があれば請求できるということになっています。

今回の事件では、親権者である父親は法定代理人となりますから、父親が運転免許証と戸籍謄本を持ってくれば、形式上はその子供の本人開示請求をすることが可能となります。報道によればおそらくこれらの書類は整っていたと思われますので、問題となるのは、条例17条5号の「未成年者の代理人により本人開示請求が行われた場合であって、開示することが当該未成年者の利益に反すると認めるとき」に該当するかの判断が適切だったかどうかということになります。

私自身は学校現場や児童相談所での勤務経験がないので以下は推測に過ぎませんが、公務員というのはこうした条文解釈が仕事ですので、おそらく学校の事務でも、その相談を受けた教育委員会事務局でもこうした形式が整っている請求への対応について検討が行われ、条例17条5号に該当するかどうかで判断が揺れていたのではないかと推測します。

日常的にこうした親権者とのトラブルに対応している学校現場と教育委員会事務局では、いったん要求に応じてその場を納めて、それから対応するという手法がとられることもあるのではないでしょうか。学校というのは問題が起きたときに一定の期間で子供と接するのではなく、長い年月をかけて子供と向き合う現場ですので、トラブルそのものを解決するというより長期的な解決を志向する傾向があるように思います。これに対して、児童相談所は問題を抱えた子供を一時的に保護する施設ですので、そうした緊急の場合には「開示することが当該未成年者の利益に反すると認めるとき」と判断されることが多くなると思われます。ここで学校(教育委員会事務局)と児童相談所の判断が(結果として)分かれてしまった可能性が考えられます。

ただ、どんな職場であってもクレーム処理とかトラブル対応というのは通常業務に加えて多大な人的・時間的リソースが必要な業務でして、そうしたリソースに余裕のない組織が十分に対応できないというのは前回エントリでも指摘した通りですが、そこにはさらに、冒頭で指摘したプロフェッショナリズムの欠如もあると思います。学校(教育委員会事務局)と児童相談所で「開示することが当該未成年者の利益に反すると認めるとき」の判断に揺れがあったということは、それぞれのプロフェッショナリズムによる適切な判断が現場でできていなかったということを意味します。学校教育の面での問題、児童の保護の面での問題、行政対象暴力の面での問題には、それぞれ学校(教育委員会事務局)、児童相談所、警察がプロフェッショナルですが、個人情報保護条例に基づいて開示しないという判断は、学校ではなく児童相談所が行うべきところ、学校が学校のプロフェッショナリズムによって判断し、その判断そのものも行政対象暴力の恫喝により錯誤の状態にあったと言えるのではないでしょうか。

特に教育委員会事務局では、学校の先生が配属されているポストもありますが、いわゆる首長部局の一般的な公務員が占めているポストも多くあります。もしかすると、「開示することが当該未成年者の利益に反すると認めるとき」という判断ができないような一般的な公務員が、形式的に整った請求に対してその開示の判断を行い、その結果が今回の事件につながったのかもしれません。「プロフェッショナリズムの欠如」というのは、こうした専門的知識を持たないで判断をすることが常態化している組織の実態にも現れているのではないかと思います。。

さて、前回エントリで指摘した通り、統計部門の職員がこの10年程度で3分の1以下に削減されていて、今回の統計の不正処理が脈々と受け継がれた実態があります。2005年の報告書の「統計関係府省・部局間で一層活発にかつ継続的に人事交流を行うべき」という提言に基づいて頻繁に人事異動している職員は、プロフェッショナリズムを獲得する機会にも恵まれず、不正があってもそれはそういうものと認識することになります。学校(教育委員会事務局)では、児童虐待についてのプロフェッショナリズムがありませんから、その判断が結果として不適切なものとなる可能性も高まります。バイトが店の評判を落とすような行為をするのは、そのバイトが低賃金で雇われていていてプロフェッショナリズムとはかけ離れた立場にありながら、安全管理が必要な業務に就いてしまい、その行為のリスクを適正に評価できないからではないでしょうか。

つまり、プロフェッショナリズムというのは、その特定の業務におけるリスクやプロ・コンを適正に評価し、判断するために必須の「能力」といえます。この「能力」と「職能資格給制度」における「職務遂行能力」が一致していればいいのですが、こと公務員については、それが乖離する方向で法改正が進んでいまして、さらにそれを「職務給の原則」として「給与は職務と責任に応ずるもの、すなわち、地方公共団体に対する貢献度に応じて決定されなければならないとする原則」と解説しています。

地方公務員法の有権解釈として参照されている逐条解説において、「職務といい、責任といっても、実質的には同じことを指しているといってよいであろう」と断言されている地方公務員については、職務と責任はセットで考えられているわけでして、職務と責任によって給与を区別されている地方公務員が「同一労働同一賃金」で給与水準が等しくなるためには、職務と責任もセットで変わらなければなりません。とりわけ給与水準が上がるならば、その根拠となる職務と責任についても「難易と複雑さの程度」が上がらなければならないということになります。

職務と責任(2017年07月02日 (日))


プロフェッショナリズムに裏打ちされた「能力」もないまま、「職務遂行能力」で処遇されて判断する責任を負わされるのが公務員の組織であるならば、野田市のような事例はこれからも続いていくのかもしれませんね。

2019年02月11日 (月) | Edit |
最近働く現場での問題が相次いで明るみに出ているようでして、国会では政府の統計調査がやり玉にあがっていますが、経済財政諮問会議では政府の統計部門の職員を一貫して減らすべしとの論陣を張ってきたところでして、厚生労働省での不適切な取り扱いが始まったとされる2000年代初めには「内閣府経済社会統計整備推進委員会」というところで報告書がまとめられています。

はじめに
「統計の整備は、日本再建の基礎事業中の基礎事業である」
これは、終戦直後から我が国の統計の立て直しに尽力し、昭和 24 年に吉田茂内閣総理大臣の命を受けて統計委員会の初代委員長に就いた大内兵衞氏の揺るぎない信念であった。
以来約60年、国民挙げての努力によって戦後の焼け野原は遠い記憶となり、我が国の経済社会は目覚ましい発展を遂げた。この間、様々な分野で整備され た統計は、過去を振り返り、今を知り、未来を見通すための指標として、政府の政策決定はもとより、事業者や国民の意思決定に幅広く利用され、まさに社会の発展を支える基礎となってきた。

(略)

本報告は、「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2004」に掲げられた既存統計の抜本的見直しや統計制度の充実についての一つの具体案として提言するものである。時代の変化に対応した経済社会統計の整備に向けて、本報告の内容が近く策定される予定の「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2005」に反映され、内閣府、総務省その他の関係府省等による今後の取組の礎となることを期待したい。

内閣府経済社会統計整備推進委員会「政府統計の構造改革に向けて(平成17年6月10日)」(PDF)


大変に高邁な巻頭言ではありますが、ではどんなことが提言されているかというと、特に職員体制については、

ウ 統計に携わる人材の育成・確保等
<取組に当たっての考え方>
 中央において「司令塔」機能が強化され、地方において実査組織の整備が進んだとしても、その運用に当たる職員の資質や能力、絶対数が伴わなければ、我が国の統計が大きく改善されることは期待できない。実際に、主要国の統計組織における職員数や構成をみると、我が国とは行政や人事の制度が異なり単純な比較は難しいものの、経済規模や人口に比して統計関係職員が絶対数で多いだけなく、その内訳においても大学等で統計に関わる専門課程を履修したスタッフの占める割合が高いことが見てとれる
 現在、統計を作成する主な府省は、府省全体の広範なローテーションの中で、それぞれの職場でのOJTや統計研修所(総務省)を始めとする専門の研修機関の研修課程等を活用して人材の育成に努めているが、統計を主要なキャリアパスとする専門的な人材は極めて限られており、裾野が広く厚みのある専門スタッフを確保・育成するには至っていない。
 統計は、その企画立案、設計、実査、集計・加工、審査、分析といった個々のプロセスにおいて、理論的にも技術的にも、あるいは実務の面からも、他の行政分野に比して高度の専門性が求められる。国際社会では、統計を一層発展させるための様々な取組が行われており、それらの動きを的確に把握し 国内にその成果を反映させることはもとより、より積極的に我が国としてそうした取組に貢献していくためには、国際会議等を舞台にした専門的な議論に積極的に参画してそれら諸外国の統計専門家に伍して議論をたたかわせることのできる人材を確保・育成していくことが不可欠である。

(略)

<具体的な取組>
 統計に関わりの深い関係府省においては、もっぱら統計に携わる職員について、政策担当部局や事業実施部局において一定の経験を積ませつつ、その育成方針・研修計画を策定するなどして、一次統計作成部局、加工統計作成部局、調整・審査部局、調査実施部局それぞれにおいて高度の専門性を身につけることができるような任用を計画的に行うとともに、それらの統計関係府省・部局間で一層活発にかつ継続的に人事交流を行うべきである。

内閣府経済社会統計整備推進委員会「同」


という次第で、さすがに当時の小泉-竹中の構造改革路線において「公務員人件費削減」の象徴としての「郵政選挙」が繰り広げられた2005年の報告書らしく、職員を増やすなんてことはせず、人事交流で経験を積めば高度な人材が育成できるという日本型雇用にどっぷり浸かった提言となっていますね。いやもちろん、現状の国家公務員の雇用慣行がメンバーシップ型である以上それに従って人材育成するしかないのですが、職員を増やすことはまかりならんという制約の中でなんとかひねり出したというのが実情かも知れません。

というか、この委員会の本当の目的は、報告書の参考資料6ページ(全体では41ページ目)をご覧いただくとお察しの通り、農林水産省の地方支分部局の統計職員が4351人と突出して多すぎるから削減しろということだったわけでして、その後経済財政諮問会議には「より正確な景気判断のための経済統計の改善に関する研究会」が設置され、その資料でその後の状況を確認できます。

資料1 統計リソースの現状と統計調査の質の確保について(PDF形式:795KB)

その4ページ(全体で6ページ目)によると、先ほどの2005年の報告書では2004年4月1日時点で本省庁1755人、地方支分部局4517人で合計6272人いた職員数が、2016年4月1日時点で本省庁1402人、合計1886人ですので、全体で3分の1以下、地方支分部局に至っては484人と10分の1近くまで、12年間で削減されているわけです。2016年の地方支分部局の内訳は不明ですが、まあ増えるわけないので、農林水産省だけで4000人程度削減されたと考えるのが自然でしょう。そして本省庁でも農林水産省で94人削減されていますが、厚労省も同程度の93人削減されているわけでして、その結果はご存じの通りです。とはいえ、今回の騒動のきっかけとなった毎月勤労統計調査の不正とされる処理は2005年の報告書がまとめられる前から行われていたようですので、上記の資料に示される人員削減がどの程度影響していたかは不明ですが、とはいえ、この国の人員削減は高度成長期から行われていたわけでして、無関係ではないでしょう。

さらに、人事院勧告によって民間の給与体系に準じることとしたために、民間企業で1960年代に普及した日本型雇用慣行としての職能資格給制度が、法に規定された職階制(2016年に廃止されましたが)に代わって適用されることになりました。つまり、GHQはあくまでアメリカ型のジョブ型雇用を国家公務員法・地方公務員法に規定したものの、官公労の労働争議の激化に業を煮やしたマッカーサーが公務員のストを禁止して人事院勧告を導入させたところ、結局ジョブ型雇用によって給与が決まるのではなく、メンバーシップ型雇用によって年功的に給与が決まる仕組みが定着してしまいます。このため、公務員の任用という行政処分における賃金決定は、民間より厳格な年功制に基づくことになり、公務員の年齢構成が高齢化すると自動的に給与原資が増加する仕組みとなっていたわけです。

そして、総定員法が制定された1969年は、民間企業が職能給に舵を切った時期でもありました。

市民の生活を保障しない国家(2018年07月21日 (土))


という状況を踏まえてみれば、少ない職員数で統計にかかる手間をできるだけ簡素化しようというのも自然な流れですし、「公務員人件費が多すぎる!職員を削減しろ!」と声高に主張されていた方々は、統計的手法によって悉皆調査による結果に近づけようと抽出調査したことそのものは、2005年の報告書で「高度の専門性を身につけることができるような任用を計画的に行う」とした具体的な取組に沿ったものと賞賛されても良さそうなものですが、いざその統計手法が明るみに出ると「不正な手段による統計調査を行うなんてけしからん!」と批判されるわけでして、まあいつものこの国の光景だなあと遠い目をするしかなさそうです。

後期高齢者医療制度の是非は措きます。仮に後期高齢者医療制度が批判されるべきものであるとして、であるならばそれが向けられるべきは小泉元総理であり、竹中元経済財政担当大臣であり、経済財政諮問会議でしょう。厚生労働省に対しては批判よりもむしろ、「あなたたちの見通しが正しかった。あのときに抵抗勢力扱いして、あなたたちの声に耳を傾けなかった自分たちが間違っていた」といった謝罪があってしかるべきです(後期高齢者医療制度が批判されるべきならば、という前提に立っています。為念)。しかるに現実は反対で、小泉元総理や竹中元大臣には依然として改革の推進者として賛辞が寄せられ、批判の矢面に立つのは厚生労働省なのですから、やってられなくなるのも無理はありません。

「厚生労働官僚のモラールが崩壊しかかっている件(2008-06-25)」(BI@K accelerated: hatena annex, bewaad.com)※リンク切れ



2018年07月21日 (土) | Edit |
本来業務のデスマーチが一息ついたところで以前のエントリの関連ですが、

公文書というのは例えば課とか係という組織単位で作成して管理するものであるところ、人件費削減の声に押されたそうした組織に公文書管理の担当者を割り当てる余裕は当然ありません。さらにいえば経費削減のため天井が低く空調も後付けのような古式ゆかしい建物で仕事をしている者としては、意思決定資料であるところの公文書を定期的に破棄しなければ建物に入ることすらできなくなるような状況で、ではあるべき公文書管理とは一体何だろうなと思わないでもありません。

というよりむしろ、現場の感覚からいえば、公文書管理は余計な仕事とみなされていて、そのための人件費や施設建設の費用は「行政のムダ」として削減されてきたのではないかというのが正直な思いですね。

制度の不備は職員個人の心がけや自助努力で防ぎなさい(2018年04月07日 (土))

ということを書いていたところ、『市民を雇わない国家』で、日本では他の先進国に比べて格段に早い1960年代から、総定員法によって「小さい政府」に転換していたことを指摘されていた前田健太郎氏が、『現代思想』に論稿を寄せていらっしゃていたようです。

 一般に、先進諸国において「小さな政府」というスローガンが流行したのは、1980年代以降だとされている。公共部門が肥大化し、民間部門を圧迫している。政府の活動範囲を縮小し、経済の活力を取り戻すべきだ。こうしたメッセージに基づく行政改革に乗り出した指導者として、日本ではイギリスのマーガレット・サッチャー、アメリカのロナルド・レーガンなどの名前が挙がることが多い。
 それでは、「小さな政府」の流行にかもかかわらず、諸外国がそれなりの人員を公文書管理に割くことができているのはなぜなのか。その原因の一つは、公務員の数自体が日本よりも多いことになる。歴史的に見れば、どの国でも公務員数は資本主義の発展とともに増加する傾向にあった。1980年代に行政改革の時代が始まると、その傾向は頭打ちになったが、その後も大幅な人員削減は行われず、それ以降の公共部門の規模は概ね維持された。アメリカのように公文書の管理に携わる人員が多い国は、「小さな政府」の時代が始まる前の段階で既に多くの人員を公文書管理のために確保していたと考えられるのである。
 この視点から見た場合、日本は行政改革によって公務員数の増加に歯止めがかかるタイミングがきわめて早い国であった点に特徴がある。元々、日本は欧米諸国に遅れて資本主義の発展を開始した。それにもかかわらず、高度成長期の1969年には総定員法によって国家公務員数が固定され、その後も財政的な理由で定員削減が繰り返されてきた。その結果、日本における国家公務員を含めた公務員数は先進国で最低水準にある。
前田健太郎「「小さな政府」と公文書管理」p.63

 このような文書主義の弊害の多くの部分は、実は民主主義と表裏一体の関係にある。さまざまな政策課題に直面する行政職員は、可能であれば規則に縛られずに柔軟に対応したいと考える。だが、行政職員による最良の行使は、場合によっては権力の濫用として市民からの批判を受け、それによって新たな規則が作られる。だからこそ、行政職員たちは過剰なまでに文書を作り、それを頼りに自らの行動を正当化せざるを得ない。アメリカの行政学者ハーバード・カウフマンがかつて述べたように、民主国家における官僚制の繁文縟礼の根本的な原因は、我々自身なのである。従って、公文書管理を早くから進めてきたアメリカにおいて、官僚制の繁文縟礼に対する不満が著しく強まったことは、ある意味において民主主義の抱える矛盾を示していると言えよう。
前田健太郎「「小さな政府」と公文書管理」p.65

現代思想2018年6月号 特集=公文書とリアル


※ 以下、強調は引用者による。

資本主義が発展する過程では労働者の働きは集約化されるわけでして、労働者が家庭で過ごす時間が減って育児や介護などの家庭機能を維持することが難しくなると、家族機能の社会化が必要となります。というわけで「歴史的に見れば、どの国でも公務員数は資本主義の発展とともに増加する傾向にあった」のはその通りですね。

そして、「行政職員たちは過剰なまでに文書を作り、それを頼りに自らの行動を正当化せざるを得ない」というのは、拙ブログでも

そんな会計検査院とオンブズマンに対する現場の対応としては、規定された手続きに従わなければ違法・不適正とされるわけですから、厳正な手続きを踏んでこれ以上経費を削れませんでしたという根拠となる書類を何枚も用意しなければなりません。さらに、公会計には発生主義という考え方がなく買掛・売掛という処理ができないので、つじつまの合う日付に書類を作り直す作業も常時発生することになります。そうして削られた経費とその処理に要した手間(労働時間、書類作成の経費)の比較こそが、たとえば事業仕分けで判断される必要があるだろうと思うわけですが、実際の事業仕分けは「とにかく経費を削れば、そのために要する労力やら手続き上の資源の浪費は問わない」というスタンスで進められているのは周知のとおり。極端に言えば、1円の経費を削減するためには、時給数千円になる職員が日夜書類作りに追われても構わないということになるんですね(もちろん、定められた手続きをないがしろにしていいという趣旨ではありません。その程度は、あくまで要するコストと得られるベネフィットの比較で決められるべきだと考えます。為念)。

会計検査院とオンブズマンが作る世界(2010年02月22日 (月))

と書いた通りでして、一方では「公務員が多すぎるのは税金のムダづかいだ」という批判と「お役所仕事で融通が利かないから対応が遅い」という批判に挟まれて、公文書管理なんかやってる暇はないというのが役所の実態となっているところです。

というわけで、前田健太郎氏のこの論稿はその通りだなと思うものの、『市民を雇わない国家』については政治学的な分析に偏りすぎていて、公務員の人事労務管理という観点からの分析が希薄にすぎるのではという印象です。

 以上の検討に従えば,日本における公務員の人件費の特徴は,その財政的な統制の難しさにあった.公務員は,身分が保障されているだけではなく,給与も財政当局との交渉とは独立に決まる.それは,自民党政権の「利益配分体系」の外から働く支出拡大の圧力であり,景気と連動するものではあっても,必ずしも長期的に政府の財政規模を拡大させ続けるわけではない.しかし,公務員の給与が民間部門に合わせて設定されるということは,政府が人件費を有効にコントロールできないことを意味していた.こうした性質ゆえに,公務員の人件費は1967年9月に始まる財政硬直化打開運動の標的になったのである.
p.98

市民を雇わない国家
日本が公務員の少ない国へと至った道
前田 健太郎 著
ISBN978-4-13-030160-2発売日:2014年09月26日判型:A5ページ数:328頁

身分保障は雇用保障ではないと何度言えば…、というのはとりあえず措いといて、政治学的な描写としては指摘される通りでしょうけれども、この時期は高度経済成長に対応するため日本型雇用慣行が形成された時期でもありまして、民間では人材確保と給与原資の管理が問題となっていた時期でもあります。そして技術革新に応じた配置転換を円滑に進めるために、年功制を基本とした職能資格給が民間で採用され、民間準拠する人事院勧告を通じて公務員の賃金体系にも影響が現れたというのが実態と言えるでしょう。

特に日本の公務員制度の特徴として、給与制度についてはアメリカの人事委員会制度を参考にしてすべての政府職員を「公務員」としてアメリカ型の職階制を規定する一方で、その運用の理解においてはすべての公務員の雇用を大陸法(ドイツ法)と同じく任用とされるというねじれが生じています。

 公務部門で働く者はすべて公務員であるというのは、戦後アメリカの占領下で導入された考え方である。戦前は、公法上の勤務関係にある官吏と、私法上の雇傭契約関係にある雇員(事務)・傭人(肉体労務)に、身分そのものが分かれていた。これは、現在でもドイツが採用しているやり方である。そもそも、このように国の法制度を公法と私法に二大別し、就労関係も公法上のものと私法上のものにきれいに分けてしまうという発想自体が、明治時代にドイツの行政法に倣って導入されたものである。近年の行政法の教科書を見ればわかるように、このような公法私法二元論自体が、過去数十年にわたって批判の対象になってきた。しかし、こと就労関係については、古典的な二元論的発想がなお牢固として根強い。
 ところが、アメリカ由来の「公務部門で働く者は全員公務員」という発想は、公法と私法を区別しないアングロサクソン型の法システムを前提として産み出され、移植されたものである。公務員であれ民間企業労働者であれ、雇用契約であること自体には何ら変わりはないことを前提に、つまり身分の違いはないことを前提に、公務部門であることから一定の制約を課するというのが、その公務員法制なのである。終戦直後に、日本が占領下で新たに形成した法制度は、間違いなくそのようなアメリカ型の法制であった。それは戦前のドイツ型公法私法二元論に立脚した身分制システムとは断絶したはずであった。
 ところが、戦後制定された実定法が明確に公務員も労働契約で働く者であることを鮮明にしたにもかかわらず、行政法の伝統的な教科書の中に、そしてそれを学生時代に学んだ多くの官僚たちの頭の中に生き続けた公法私法二元論は、アメリカ型公務員概念をドイツ型官吏概念に引きつけて理解させていった。その結果、公務部門で働く者はすべて(ドイツ的、あるいは戦前日本的)官吏であるという世界中どこにもあり得ないような奇妙な事態が生み出されてしまった

濱口桂一郎「非正規公務員問題の原点」『地方公務員月報』2013年12月号


さらに、人事院勧告によって民間の給与体系に準じることとしたために、民間企業で1960年代に普及した日本型雇用慣行としての職能資格給制度が、法に規定された職階制(2016年に廃止されましたが)に代わって適用されることになりました。つまり、GHQはあくまでアメリカ型のジョブ型雇用を国家公務員法・地方公務員法に規定したものの、官公労の労働争議の激化に業を煮やしたマッカーサーが公務員のストを禁止して人事院勧告を導入させたところ、結局ジョブ型雇用によって給与が決まるのではなく、メンバーシップ型雇用によって年功的に給与が決まる仕組みが定着してしまいます。このため、公務員の任用という行政処分における賃金決定は、民間より厳格な年功制に基づくことになり、公務員の年齢構成が高齢化すると自動的に給与原資が増加する仕組みとなっていたわけです。

そして、総定員法が制定された1969年は、民間企業が職能給に舵を切った時期でもありました。

④賃金制度の唱道
 賃金制度の面から見ると、1950年代から1960年代にかけての時期は、使用者側と政府側が同一労働同一賃金制度に基づく職務給を唱道し、これに対して労働側は原則自体は認めつつも、その実施には極めて消極的な姿勢を示していた時期です。
(略)
⑤職能給の確立
 ところが1960年代後半には、事態は全く逆の方向に進んでいきます。一言でいえば、仕事に着目する職務給からヒトに着目する職能給への思想転換です。これをリードしたのは,経営の現場サイドでした。その背景にあったのは、急速な技術革新に対応するための大規模な配置転換です。労働側は失業を回避するために配置転換を受け入れるとともに、それに伴って労働条件が維持されることを要求し、経営側はこれを受け入れていきました。
(略)
 この転換を明確に宣言したのが、1969年の報告書『能力主義—その理論と実践』です。ここでは、「われわれの先達の確立した年功制を高く評価する」と明言し、年功・学歴に基づく画一的人事管理という年功制の欠点は改めるが、企業集団に対する忠誠心、帰属心を培養するという長所は生かさなければならないとし、全従業員を職務遂行能力によって序列化した資格制度を設けて、これにより昇進管理や賃金管理も行っていくべきだと述べています。「能力」を体力、知識、経験、性格、意欲からなるものとして、極めて属人的に捉えている点において、明確にそれまでの職務中心主義を捨てたと見てよいでしょう。
p.111-113

日本の雇用と労働法
濱口桂一郎 著
定価:本体1,000円+税
発売日:2011年09月20日
ISBN:978-4-532-11248-6
並製/新書判/242ページ


それまでは、「国民所得倍増計画」において同一労働同一賃金制度によって生活に要する経費が賄えない分は社会化するという構想があったのですが、

 このほか住宅費用についても詳しく説明していますが、これらを裏返していえば、欧州諸国では公的な制度が支えている子供の養育費、教育費、住宅費などを、日本では賃金でまかなわなければならず、そのために生計費構造に対応した年功賃金制をやめられなくなっているということが窺われます。
 こうしたことは、実は1960年代には政労使ともにほぼ共通の認識でした。それゆえに、ジョブ型社会を目指した1960年代の政府の政策文書では、それにふさわしい社会保障政策が高らかに謳いあげられていたのです。
 例えば、1960年の国民所得倍増計画では、「年功序列型賃金制度の是正を促進し、これによって労働生産性を高めるためには、すべての世帯に一律に児童手当を支給する制度の確立を検討する要があろう」と書かれていますし、1963年の人的能力開発に関する経済審議会答申でも、「中高年齢者は家族をもっているのが通常であり、したがって扶養手当等の関係からその移動が妨げられるという事情もある。児童手当制度が設けられ賃金が児童の数に関係なく支払われるということになれば、この面から中高年齢者の移動が促進されるということにもなろう」とされていました。
p.230
日本の雇用と中高年
濱口 桂一郎 著
シリーズ:ちくま新書
定価:本体780円+税
Cコード:0236
整理番号:1071
刊行日: 2014/05/07
※発売日は地域・書店によって
前後する場合があります
判型:新書判
ページ数:240
ISBN:978-4-480-06773-9
JANコード:9784480067739

結局、生活を保障するのは(民間と公務員の別にかかわらず)使用者であって政府ではないという、世界に類のない小さな政府かつメンバーシップ社会が現出することとなったわけですね。という次第で、いまや「可処分所得を確保するために正社員を増やせ!経済成長のために増税なんてけしからん!」などと知った顔して声高に煽る方々が「経済左派」を自称される世の中になってしまったわけでして、市民を雇わない国家どころか、市民の生活を保障しない国家と人手不足でも職能資格がなければ賃上げをしない社会をつくり出したのは一体誰だったんだろうと考えてみるのもまた一興です。

2018年04月12日 (木) | Edit |
ということで、このクソ忙しい年度初めに立て続けにエントリをアップしてしまったわけですが、実は3月末くらいから一続きのエントリとして書きだしたものでして、途中でいろいろなトピックを取り入れているうちに分割せざるを得なくなった次第です。で、結局何がいいたかったかというと、日本型雇用慣行が大企業中心に浸透してから40年近くが経過(整理解雇の4要素のリーディングケースとなった東洋酸素事件の高裁判決から来年で40年ですね)し、前回エントリで取り上げたように、日本の主要な組織の意思決定がすでに修復不可能なまでに歪んでいるのではないかということでした。その一つの側面が、前回エントリで取り上げた「ディベートの達人」が潜在的パワハラクソ野郎となっていく過程ですが、具体的にそうした組織体制が組まれるのが年度ごとの人事異動なわけです。

という人事異動の時期に厭債害債さん(?)のエントリを拝見して、こうした思いを抱くのは決して自分一人ではなく、ということは日本の組織では普遍的な現象となっているのだなあという思いを強くしたところです。

頭の悪い人は普遍的に存在する。共通点は自分に自信を持ちすぎていることであり、そのことが知識不足や経験不足とミックスされるとよろしくない結果を起こす。さらにそういう人が広い意味での権力を握ると、これは最悪だ。自分の自信のなさや知識不足をその権力の行使によって補おうとするからであり、その結果組織は大混乱に陥る。
会社などでも、とっても偉い方々の好き嫌いで人事は決まることがあり、その結果として「頭の悪い人」があるラインのトップに来ることはままある。しかもあまり経験値がない世界のラインのトップとなることがある。
(略)

会社組織であれば、最初は「威勢がいい」「はっきり物事を言う」などと肯定的な評価を下していたトップも最後は手に負えなくなって、子会社や別組織に移してしまう。で移った先で同じことを繰り返し、挙句の果てそういう評判が一般化し、引き受けてがなくなってしまう。しかし本人はそのことが理解できず、ますますバカなのは自分以外だと信じて疑わなくなる。いわゆるバカの壁が構築される。悪いことに部外者はそういう威勢の良さなどを面白がって付き合ってくれるので、それを自分への仕事上の評価だと大きな勘違いをし、ますます間違った自信を深めてしまう

「頭の悪い人(2018/03/16 21:01)」(厭債害債(或は余は如何にして投機を愛したか))
※ 以下、強調は引用者による。

国家公務員ならば地方自治体とか独立行政法人とか出向先があるので民間に近いかもしれませんが、特に地方の役人の世界は子会社や別組織といえる組織がそれほど多くなく、しかも「とっても偉い方々」が直接選挙で選ばれる組織であるため、国家公務員や民間企業よりもはるかに「とっても偉い方々の好き嫌いで人事は決まる」傾向が強くなります。

例えば、全国知事会の「知事ファイル」というページに全都道府県知事の任期等が記載されておりまして、2018年度当初現在でその任期(知事ごとに当選回数から1を引いて4年をかけた年数に、現在の任期の年数を加えた年数)の平均を取ると9.98年となります。国会方面では一強体制で長期政権だからとか、内閣人事局だから役人が忖度するとか言われていますが、地方自治体はずっと前から首長が名実ともに任命権者として首長部局の職員の人事権を握っていて、その他の任命権者の任用する職員についても、(地方公営企業で独自に採用選考を実施している場合を除いて)実質的にその職員人事を差配しています。さらにいえば、各都道府県においては「大統領」にも比肩される権限を有する方々の平均の在任年数が約10年なんですけど何か?

まあそんな次第で、マスコミで大々的に取り上げられるキャリア官僚についてはかなり関心が高そうではありますが、特に任期が長くなっている首長さんがいる役所の地元の方は、その役所の人事がどういう流れになっていて忖度の程度はどのくらいになっているのか、中の人に聞いてみると面白いかもしれませんね。