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2011年02月27日 (日) | Edit |
だいぶ時間が経ってしまって恐縮ですが、何となく違和感がありながら放置していた前々回のエントリの誤りに気がつきましたので、訂正と補足です。

愛知県、名古屋市ともに今年度は交付団体(どちらも交付団体と不交付団体を行ったり来たりしていますが)となっていますから、ただでさえ借金して賄っている地方交付税を受け取りながら、自分のところの自主財源である地方税は減額しようとしているわけです。その地方分国負担分の債務を償還するのは愛知県民と名古屋市民だけではなく、将来世代を含む日本の全国民なんですけれども、まあ、それがチホーブンケン教によるチーキシュケン改革の実態なのでしょう。

体系の人(2011年02月07日 (月))


誤りというのは上記の引用部分の見え消し部分でして、実をいうと全くの誤りというわけではない(と思う)んですが、以下その理由を書いてみます。ただし、私自身もそれほど詳しくありませんし、さらなる誤りが含まれていないとも限りませんので、まあ参考程度と割り引いていただきたいと思います。

地方財政制度というのはとにかく複雑でややこしいんですが、国の財政と地方財政は、交付税及び譲与税配付金特別会計(交付税特会)を通じて交付される地方交付税を中心につながっています。国の政府予算原案を受けて策定される地方財政計画において、地方の基準財政需要額と基準財政収入額の差額として地方交付税が算定されるものの、ちょっと考えれば想像がつくとおり、交付税特会の入口(国税5税の一定割合)と出口(基準財政需要額と基準財政収入額の差額)がイコールになるはずがありません。以前はこの入口ベースと出口ベースの乖離を交付税特会の借入金で埋め合わせていましたが、平成13年度からはこの借入金をやめて、国と地方が折半することとなっています。

具体的には、国からは国税収入(一般会計歳入)→交付税繰り出し(一般会計歳出)→一般会計繰り入れ(交付税特会歳入)→地方交付税(交付税特会歳出)という流れを経てはじめて地方に対して交付されるわけですが、一般会計歳出の段階で、歳出額そのものを大きくする(特例加算)方法とそのための国債を発行する(臨時財政対策債発行)方法を組み合わせることによって、交付税特会の歳入を膨らませることになります。もちろん、これは国の財政上の歳出となりますので、その財源は将来世代を含む日本国民全体で負担することになるわけです。
国の予算と地方財政計画との関係(平成22年度)
国の予算と地方財政計画との関係(平成22年度当初)(PDF 59K)
一方、地方の側は、それぞれが地方債を発行することによって、原資の不足分を補っています。つまり、地方財政の不足分の半分は国民全体で負担しましょうということになっているわけで、上記で誤りを訂正したのはその点がむしろ逆の書き方になっていたということですね。大変失礼しました。

ただし、話はこれだけで終わらないのが地方財政のややこしいところで、交付税算定の一方の基礎となる基準財政収入額では、地方税の課税ベースの数量が算定基礎となる税目と課税実績が算定基礎となる税目が混在しています。したがって、たとえば愛知県や名古屋市が課税ベースの数量が算定基礎の税目を減税しても、基準財政収入額には響かないのですが、課税実績が算定基礎となる税目を減税すると、その分の基準財政収入額が減額されて、その留保財源分を除いた分の交付税が増えてしまうわけです。さらにいえば、基準財政需要額の中には公債費という地方債償還分の費用が算入されているので、地方債償還の原資の大部分も、国が繰り出す地方交付税=国の財政上の支出で賄われているわけで、自分のところの税収を減らしても交付税の配分を減らさず、地方債の償還も交付税で面倒を見てもらうということが理論上は可能ということになります。まあ、実務上それが可能かどうかは、実際にそうなってみないとわかりませんが。

スピルオーバーにフリーライドする、その名も「減税日本」の方々がどのような戦略をとってくるか不明ですが、チホーブンケンやらチーキシュケンを掲げて日本全国民にツケを回すというのは、この国のいびつなところと醒めた目で見るしかなさそうです。

というわけで、hamachan先生のこのエントリには釣られなければなりませんね。

かなり率直に事態を批判しているのでしょうが、敢えて言えば、「地方分権」というなら、いやむしろ「地域主権」というなら、「なぜ自分たちが稼いだものをよそへ回さなければならないのか」という考え方は必ずしも「いびつ」ではなく、むしろまっとうなのではないでしょうか。怠け者のギリシャ人に俺たちが稼いだものを・・・というドイツ人の感情は、「EU中央集権」に対するナショナルな「ドイツ主権」の感情であって、90年代以来の大前研一氏らの議論の底流を流れているグローバルに稼いでいると自認するトーキョー人たちの金食い虫の「かっぺ」に対する感情と実はパラレルなのではないでしょうか。それは、価値判断としては「いびつ」だと私も感じますが、論理的には「地域主権」からもたらされる自然な帰結のように思われます。もしそれが「いびつ」であるとしたら、それは「地域主権」自体が「いびつ」だからなのでしょう。

チホー分権の反省(2011年2月26日 (土))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
※ 強調は引用者による。


チホーブンケン教の方々は結構早い段階から馬脚を露わしていたと思うのですが、拙ブログでいえば(若干不穏当な書きぶりも混じっていますが)このエントリとか。

浅野史郎という方は厚生省で障害者福祉に携わっているうちに脳内が左派思想に染まってしまったらしく、弱者が救われればその他がどうなっても知ったこっちゃないということを正義のオブラートで包んで発言してしまう。この場合の弱者は地方で、弱者以外の強者は東京とかの大都市なんだけど、
「宮城県の住民が払った税金は宮城県のために使うというのが民主主義の基本であり、地方分権は民主主義の先進国家になるための絶対条件だ」
って本気ですか? 民主主義の基本とまでおっしゃるなら東京都の住民がそれを主張してもいいんですな。大都市の財源を地方に配分する仕組みである地方交付税の根幹を否定されるとはなかなか大胆なご提案です。

地方分権劇場(2008年04月20日 (日))


地方分権でより効果的な政策効果を実現できるような個別の分野とか事業があることは否定しませんが、地方分権そのものが目的化してしまうと、上記のように価値判断としてはいびつでありながら地方分権の帰結としてはまことに自然な状態がもたらされてしまいます。誰も反論できない地方分権という正論が、まさに地域に密着した議論ではその虚実を捉えきれない理由がここにあるわけで、合理的無知につけ込んだ政権交代選挙の際に錦の御旗とされたマニフェストが、その見直しもやむなしと政権与党内で議論されているにもかかわらず、チホーブンケンとかチーキシュケンだけは無傷でいられるのも、そうした理由によるものと思われます。しかも、タイミングの悪いことに、統一地方選がそのマジックワードにさらに力を与えてしまっているようにもみえるわけで、この状況は打開できそうにありませんねえ。。。

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2010年05月17日 (月) | Edit |
hamachan先生経由で「分権はむしろ福祉の敵です」というまっとうな発言を発見したので、発言の主は誰かと見てみると山井政務官でしたか。

「ガバナンス・国を動かす:第3部・中央と地方/2(その1) 省庁の抵抗「政治主導」(毎日新聞 2010年5月4日 東京朝刊)」

3月16日と18日、戦略会議の構成員である神野直彦東京大名誉教授(64)が10府省に対して実施したヒアリングで、厚生労働省の山井(やまのい)和則政務官(48)は、政府方針に反する回答をためらおうとはしなかった。

 「社会福祉の中でも緊急的なものは中央集権的にやらないとだめです。分権だと迅速にできない。分権はむしろ福祉の敵です

 テーマは「ひも付き補助金」と呼ばれる地方向け国庫補助負担金の「一括交付金化」。民主党が地方の自由裁量を増やそうと政権公約の目玉にした。神野氏はその担当主査だ

※ 以下、強調は引用者による。


神野先生はいわずとしれた左派経済学者の大御所ですが、私が左派思想に抱く違和感をある意味で体現されている方でもありまして、特徴的なのが北欧のいいとこ取りをしているうちに自らの主張が矛盾してしまうところですね。たとえば、上記の引用記事の後半ではこういうこともおっしゃってします。

神野氏は3月31日の第3回戦略会議で「各府省の意見は、可能な限り廃止になるひも付き補助金の範囲を狭くするという印象を受けた」と控えめに聴取結果を報告した。

 首相は「地域主権からほど遠い発想をお持ちの方がかなりいる」と批判した。仙谷由人国家戦略担当相(64)は政府方針に従わない政務官について「クビにすればいい」と踏み込んだが、それ以降具体的な動きはない。

 民主党は子ども手当の創設や高校無償化、農家への戸別所得補償など「大きな政府」につながる政策を打ち出してきた。その体質と地域主権をどう整合させるのか。各論に入るほど基本設計の甘さが浮かび上がる。


神野先生がよく使う論法が、「北欧では福祉分野でも地方分権が進んでいる」とか「高福祉高負担でも経済成長は可能だ」というようなものですが、北欧と日本では初期状態が全く違う点を考慮しない主張はあまり誠実なものとは思えません。北欧で地方分権が可能であったのは、分権的な労使自治を支える労働組合の組織率が高く、それによる集団的労使関係が確立していることと、労使による政策決定が中央レベルでも浸透していることが大きな要因だろうと思います。それとは全く逆に、労使自治の基盤がほぼ崩壊しつつある現在の日本において、地方分権だけを先行させることがどれだけリスクをはらむものか、日産の労働現場から学者に転じた神野先生ならばよくおわかりのはずです。それなのに、「各府省の意見は、可能な限り廃止になるひも付き補助金の範囲を狭くするという印象を受けた」と相も変わらず霞ヶ関を悪者に仕立て上げるコメントをされる真意が理解できません。

正直こういうことをいう方の本を読む時間がもったいないので、山井政務官がTwitterで取り上げた神野先生の新著は立ち読みで済ませてしまいました。
「分かち合い」の経済学 (岩波新書)「分かち合い」の経済学 (岩波新書)
(2010/04/21)
神野 直彦

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実をいうと立ち読みしたときの目的は、『分かち合いの経済学』という所得再分配を題材にしたようなタイトルの本だったので、そういうからには地方分権のことをどう書いてあるのかと思ってパラパラとめくってみたんですが、少なくとも目次には「地方分権」も「地域主権」も出てきませんでした。まさかと思って関係しそうなところも開いてみたものの、しばらく探しても地方分権のことが書いてありません。神野先生はこれまで、財政再建を目的として地方分権を主張されることが多かったのですが、北欧流に「ワークフェアを目指すべき」といってしまったとき、前述のような北欧と日本の決定的な違いを看過することができなくなったのでしょうか。

まあ、神野先生は反経済学で地方分権な総務省(旧自治省)には受けがいいので、あまりこうした点は問題にされないのかもしれません。しかし、山井政務官が言う「緊急的なもの」とはみなされないであろう職業訓練については、田中萬年先生も疑問を呈していらっしゃいます。

 濱口氏の紹介とコメントに異論を挟む訳ではないが、山井政務官がつぶやいている「職業訓練」とはどのようなイメージなのかが心配である。枝野行革相の言っている職業訓練は民活化でやれる、とか、都道府県が引き受けなければ廃止いうことと同じでないことを期待したい。
(略)
昨年から始まった「基金訓練」の実態も大した差は無いであろう。このようなことが民活化の職業訓練の実態である。つまり、施設の空き時間を利用して、非常勤講師をかき集め、片手間の訓練を実施しているのである。就職率が低いのは当然である。
 かって、「教育訓練給付金」目当てに「授業料が戻ってきます」と宣伝し、大々的に教育訓練を展開して急激な拡大をしたが、給付金の削減で倒産した英語学校(学校法人ではなかった)があったが、民間の営利目的の餌食としての職業訓練費にならない対策を明らかにすべきである。次代の人材として必要な職業能力の形成が必要なのであり、少子化の対策として一部の教育産業の延命策に利用されないようにすべきである。それこそ無駄遣いであろう。枝野行革相は勘違いをしていないか、山井政務官は確認すべきである

※ 太字強調は原文。
山井政務官のつぶやきと「職業訓練」(産業分野別の見方)(2010-05-12)」(職業訓練雑感 田中萬年の新ブログ


この点については、hamachan先生も

観念的な地方分権論は、成長戦略の重要な一環であるはずの職業訓練政策という現実に向き合う必要があるわけですが、この記事を書いた記者(たぶん政治部)も「滞る懸念が出てきた」などと、政策の各論はすっぽり抜けたまま「お題目政治」を続けるつもりのようです。
こういう問題については、実は朝日も毎日も読売も日経も産経も変わりはありません。右と左じゃなくて、総論人間と各論人間の違いなんですね。政策の各論が判らないどころか判る必要なんかないと思っている政局オンリーの政治部記者のセンスと、政治部記者が顧みないその政策の各論こそが何よりも大事だと思っている労働とか福祉とか教育といった分野の専門記者のセンスの違いが、この問題ほど浮き彫りになるものはないでしょう。

地方分権の職業訓練的帰結(2010年5月10日 (月) )」(EU労働法政策雑記帳


と指摘されています。個人的には、年金問題で攪乱要因となっている山井政務官が果たしてどこまで各論を理解しているか疑問なしとしませんが、少なくとも地方分権に対するスタンスは維持していただきたいところですね。

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2008年10月06日 (月) | Edit |
HALTANさんにTBいただきましたが、前回のエントリで「地方」といったのは、たとえば宮崎県のたけし軍団知事とかの「改革派」首長とか、それにオール与党で乗っかっている地方議員とか、そういう「民の声」を疑うことも知らない地方公務員とかを想定していました。ただ、学者がその尻馬に乗っているというのは機会費用を考えたときにあまりにお粗末なんで、HALTANさんが引用しておっしゃることにはおおむね賛同いたします。

いつも書いてますが、「分権」だの地域主義・市民主義を唱えて「俺様は地方の味方!」を気取っている方が、本当の意味でその地元に暮らす「市民」だったことなど一度もない。御自分は大学(人によっては「国立大学法人」!から)(そんなに高くもないかもしれないが)最低限の生活の糧(給料)をもらい、機会さえあれば上位の大学や中央の大学への栄転を夢み、大半はせいぜい県庁所在地にしか住んでおらず(首都圏に住んでおられる方も大多数)、「市民」運動を組織するといったスタンドプレーや名誉職だけは大好き・・・そんな類型しか浮かんできません。「明らかにカネや出世が目当てだな」という先生はともかく、たまに御人好しで学生の面倒見も良く本気で「市民」とか啓蒙とか信じておられるらしい方までいるのが何とも・・・。
■[床屋政談]Baatarismさんたちに含むところがあるわけじゃないのだけれど・・・。(2008-09-29)」(HALTANの日記

まあこれは地域によっても違うんでしょうけど、俺がいろいろな機会で接したことのある地方大学の教員でいえば、「御人好しで学生の面倒見も良く本気で「市民」とか啓蒙とか信じておられるらしい方」がむしろ大多数という印象です。

要は、地方大の教員は、官僚とか地方公務員の仕事を表面的にしか理解していないんですよね。東京にいて霞ヶ関の審議会とかコンサルとかとやりとりのある学者と、地方にいて文献で官僚の仕事を「想像」するしかない学者では、かなりの情報量の差が生じます。難関大学出身で霞ヶ関に同級生がいっぱいいるという学者の割合も、東京の有名大学にいる学者のほうが高い(※1)わけで、その意味での「東京と地方の格差」は厳然たるものがあります。それでいて、東京で地道に実証的な研究を続けて実績を上げている学者というのは、自分が現場を知らないことに謙虚な方が多くて、地方の学者より在京の学者のほうが話が通じると思うことは珍しくありません。

俺も地方公務員の仕事なんかしている関係で、ある程度霞ヶ関の時間感覚とか仕事の密度とか感じることができますが、地方大で入院してそのまま地方大に就職した学者だったりすると、霞ヶ関のことも地方自治体の仕事もほとんど理解せずに教条的なことを主張するから手に負えません。そういう学者ほど「地元密着」とか言って机上の空論を振り回すわけで、ある意味で改革派首長と通じるものがあります。

というか、社会全般について想像力がついていっていないいわゆる「世間知らず」な学者ってのはどこにでもいるわけで、地方にいながら霞ヶ関はおろか地方自治体の仕事すら理解していない学者はそれ以上にごろごろいるというのは当然と言えば当然です。逆に、東京在住で実績のある学者は霞ヶ関と接する機会が多かったりするので、制度や霞ヶ関の仕事についての理解はそんじょそこらの地方公務員よりは遙かに上をいっていることも多々あります。そういう議論についていけない学者が地方でわあわあ騒いでいるパターンも往々にしてあるわけで、そう考えると、前回のエントリで引用させていただいた学者さんも、霞ヶ関を一方的に悪者にしている時点でその亜種である可能性は否定できません。

「地方分権で地域主権型の自治を実現するべきだ!」とかいう方々には、霞ヶ関とか東京の学者のほうがいろんな意味で物事を理解しているという実態がむしろ自然な姿だということすら、なかなか理解されないんでしょうねえ。


※1 HALTANさんが例示された学者も官僚がいっぱいいる大学出身ですけど、そういう同級生との関係は断絶してそうです。憶測ですが。

2008年07月25日 (金) | Edit |
koiti_yanoさんが夏休みの課題図書に指定されていたので、高橋洋一『霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」 (文春新書 635)』を購入してみました。ついでに、kumakuma1967さん経由稲葉振一郎『経済学という教養 増補 (ちくま文庫 い 66-1)』が文庫化されたのを知ったので、本屋で立ち読みしたら補章と小野善康先生の解説が追加されているのを確認して即購入。

率直な感想として、どちらもコストパフォーマンスがいまいちかなというのが正直なところ。高橋洋一さんの方は単に字が大きくて薄いからで、稲葉先生の方は旧版を持っているだけに補章と小野先生の解説を読むために840円はどうかなと、まあ買っておきながら勝手な言い分です。

高橋洋一さんの『さらば財務省!―官僚すべてを敵にした男の告白』は未読なんですが、この本と『財投改革の経済学』をちらっと読んだ限りでは、この方はマクロが専門であって、ミクロは教科書レベルのことしか議論できないのかなという印象。この本で言えば、第1章から第3章までの埋蔵金、道路特定財源、日銀を巡る議論のキレはさすがと思わせるものがありますが、第4章の公務員制度改革と第5章の地方分権はどうも与太話にしか読めません。

キャリアの方々が反論した方が説得力はあるんでしょうけど、とりあえず地方公務員の立場からも「官僚内閣制(p135)」はいくらなんでも・・と思います。官僚が政治家なり業界団体なりからの圧力に日々晒されていることをご存じないはずないのに、官僚が主体的に動いていると決めつけるのはどうなんでしょ? 特に国交省などは天下り先の確保がそのモチベーションとされているようですが、それって国家公務員のごく一部のキャリア官僚のさらに事業を管轄する部局における局所的な話でしょうから、局所的に対処しても解決は可能だろうし、それ以外の公務員まで巻き込む必要はないいんじゃないかと思われます。もちろん、キャリアの早期退職慣行とリンクしている以上再就職はするでしょうけど、役所が斡旋した再就職がすべて「天下り」でもないだろうということです。

もしかして、天下り先を規制された役所と規制されない役所の不公平があると、応募するキャリアの裁定行動を可能にして均質なキャリアを採用できないから全省庁一律に禁止するとかいうのかもしれませんけど、他の就職先との裁定行動を考えたら全省庁が一律で地盤沈下することにもなりかねないわけですし、今の日本では公務員組織が自滅するのが美しいとされるんでしょうねえ。

あと、地方分権については、当ブログではいつも言っているとおり、「補完性の原理(p159)」ってそんなに大事なの?ってことに尽きます。この辺の論理の流れを引用してみると、

「道州」でもできないものとなって、はじめて「国」の話になるんだけれど、それは国防、外交、社会保障の公平性といったところになるんだよね。
(中略)
厚生労働省も、年金みたいに、国の制度として全国民にある程度公平にする仕事というのは国に残るかもしれないけれど、介護とか福祉なんかは、もうほとんど地方の機関になっちゃう。
高橋洋一『霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」 (文春新書 635)』(p161)


だそうで、介護「保険」とか福祉サービスといった所得再分配が社会的な保険機能をもつから「社会保障」というんですよね。「国の社会保障の公平性」と「介護とか福祉なんかはほとんど地方」というのをどうやって両立されるおつもりでしょうか。「補完性の原理」で地方ができることは確かにあるでしょうけど、今の日本の基礎自治体(市町村)は欧米の基礎自治体に比べて所得再分配機能(介護保険、国民保険、保育、福祉)を大きく担いすぎているといっても過言ではない状態です。言ってみれば、小西砂千夫関西学院大教授が『地方財政改革論―「健全化」実現へのシステム設計』で指摘しているように「三割自治じゃなくて三倍自治」というべき状態なわけですから、社会保障である所得再分配機能を国に引き上げた上で、地方自治体には資源配分的なインフラ整備とか産業振興とかに特化させた方が、高橋洋一氏のおっしゃる国と地方の役割分担としてはスッキリするんじゃないでしょうか。

この点、久しぶりに読み返した稲葉先生のこの指摘が、当時抱いていた地方分権への懐疑が確信に変わるきっかけになったのを思い起こしました。

しかも第二に、普通の地方公共団体は、まさにこの財政赤字という危険と背中合わせの財政政策(公共事業)以外に、マクロ的な政策手段を十分には持っていない。現代の管理通貨制の下では、通貨の発行主体は普通一国レベルの中央銀行であり、地方自治体には本格的な金融政策の手段がないのだ。
(中略)
つまり、かりに地域レベルでマクロ的な総需要の喚起に成功したところで、その効果は全国、さらには輸入を介して海外に拡散するため、地域の効用に対してさほどのインパクトを及ぼすとは思えない。しかし広く全国、そして海外に市場を持つ地域の主力産業の競争力を高めれば、地域の雇用に対する直接的なインパクトはきわめて高い。地方自治体独自の経済政策が、多くは地場産業振興政策の形を取る理由はこうしたものであると考えられる。
稲葉振一郎『経済学という教養 増補 (ちくま文庫 い 66-1)』(pp.314-315)


地域の経済規模が大きくなったってこの構造には変わりがないだろうし、そもそも行政体を大きくすることと経済圏を大きくすることは必ずしも一致するわけじゃない。この地方分権についての疑問に明確な回答を与えてくれる経済学の理論なんてものは寡聞にして知らないし、むしろ、欧米で提唱された「足による投票」も「分権化定理」も、より小さな規模の自治体が効率性をもたらすとしているんですよね。それなのに、市町村合併だとか道州制だとか、中央政府さえ小さくなれば地方政府が大きくなっても構わないって、それなんて朝三暮四?

2007年05月13日 (日) | Edit |
特待生をめぐる高野連の迷走ぶりは一貫性のかけらもなくてもう笑うしかないんですけど、当の高校生にとっては笑い事ではないわけで、こんな事態を招いておいて「教育云々」を語る高野連の体質ってのはどこからくるんでしょう? さらに、表向きは高野連の対応を批判しつつ「高校野球の教育的機能」に何の疑問も呈しない朝日・毎日の各新聞社の姿勢も、教育的観点から見たら相当な問題ではないかと思わずにいられません。

この点の見解では俺は玉木正之氏にほぼ全面的に賛同するんだけど、スポーツというのはパトロネージュがなければ成り立たない文化活動であり、その興業によって成り立つ経済活動であると正面から認めなければ、この問題の本質を捉えることはできない。もしかすると、いまの団塊の世代の頭にこびりついているマルクス経済学が、投下労働価値説に立脚するが故にスポーツ選手の年俸を説明できないということも関係しているのかもしれないけど、高野連の見るからに頭の固そうなお偉いさん方にはそういう概念を率直に認めることに違和感があるんでしょうな。

大体にして「課外活動」であるはずのクラブ活動についてまで学校の責任を問うこと自体が、本来の教育機関としての機能を十分に逸脱しているはずなんだけど、戦前戦後を通じて特に中学校以上のスポーツが学校に独占されていたことが事態をややこしくしていると思われます。課外活動なんだから学校はとやかく言わず勝手に活動させればいいというのが筋論なんだけど、戦前は戦争に耐えられるだけの体力を付けるための「体育」がスポーツと同義に扱われたのを引きずって、「体力を付けることは教育の一環」とかいう信念が教育関係者に浸透してしまったというボタンの掛け違いがまずあります。一方で、戦後の教育環境の悪化による風紀の乱れに対し、生徒の自由な時間と校外で暴れる体力を奪うために、「しごき」と呼ばれる厳しい課外活動を半義務化することが教育の現場で暗黙の了解になっていたという話を聞いたことがあります。まあ、軍隊の訓練の厳しさを学校という教育機関を通じて行っていた戦前の因習がそのまま残っているのが課外活動というところなんでしょう。

もちろん、俺自身もそういうまさに体育会系のクラブに所属して絶対的な上下関係のもとで徹底的にしごかれて、そのときに体験した厳しさや人間関係が自分を成長させてくれたことには感謝しております。しかし、今考えれば、朝の6時半に集合して朝練やったり、夜は毎日9時まで練習したり、土日も休みなく練習するというのに付き合わされていた学校の先生というのは、いわば年中無休の残業続きだったことになるので、やっているこっち以上に大変だったんだろうなと思うし、そこで事故が起きたり不祥事があっただけで有無をいわせず責任を取らされるというのも過酷な話ではあります。当時はそんなことも思ってみなかったけど、ちょうど同級生が先生になってクラブの顧問をやっている話を聞くと、ふつうの会社勤めとは拘束時間も緊張感も違うなあとしみじみ思ってみたりするわけです。

で、高校野球の特待生問題についても、そんな身を削ってまでいわれのない課外活動をやっている学校とか生徒が一方的に罰せられる理不尽さはもちろんのこと、そもそもそんな課外活動は止めてしまえばあらゆる理不尽さは解消されます。念のため、そういう学校が責任をもたなければならない課外活動という位置づけを止めてしまうということであって、課外活動そのものを止めてしまうのではありません。あくまで学校の教科の一環としての文化活動は認めるとしても、スポーツを含め興業に結びつく文化活動は学校の外に専門のクラブチームなり団体を結成して、そこで指導体制の充実や資金集めをすることが一番スッキリする解決法ではないかと考えます。問題は誰がその団体を作るかということですけど。そうすることにより、学校が選手や指導者を集めることもないし、地元の子供たちが地元のクラブに所属して学校の先生が片手間で教えるような指導とは違う一流の指導を受けることもできるので、これまでプロ野球に人材を供給してきた一部の私立高校や有名公立学校に独占されていた人材獲得・育成のシステムを代替することは十分に考えられるでしょう。

特待生問題に絡んで高野連が批判している野球留学なんてのは、確かに地域代表を謳う高校野球の趣旨からすると本末転倒なわけですが、そもそもそういう教育機関でスポーツ興業を行うという本末転倒から始まっているので、上記のとおりまずはそこから見直すことが必要。しかし、別の見方をすれば、この野球留学が問題とされるのは地域代表によるトーナメントという考え方がそれほど正統なものかという点でもあるわけで、じゃあ「ふるさと」とかってのは何なんだというところも詰めて考えなければなりません。

俺なんかは大学以外は地元で生まれ育っているので単純なんだけど、それでもいまの仕事に就いたのは大学卒の条件があったから大学でお世話になった土地に納税しなければならないだろうかとか考えてしまうし、転勤族の子息でほぼ均等の期間にあちこちの土地に住んでいた人とか、いじめとか環境問題とかいろいろな事情で生まれた土地に住むことができなくなった人にとっての「ふるさと」ってのは一体どこになるんだろうと考えはじめたら、きりがありません。高校野球とかのスポーツイベントが地域代表制をとっているのも、せいぜいが指導者や交流戦とかの人的環境や、気候とか施設という物的な環境を共有しているという当たりが「郷土愛」なんていわれて、それを根拠にしていると思うんだけど、そもそものスポーツとしての公平性からいえば競技人口が充実していてスポーツに適した気候がある地域とそうでない地域ではかなり問題があるはず。それをスポーツで競うときの単位とすることについても、ある考え方によるなら当然見直さなければなりません。

というわけでとっても長い前置きでしたが、この「ある考え方」というのが地方分権です。つまり、スポーツで地域代表が公平に競うのであれば、競技人口や指導者や施設、気候にいたるまでを全国で統一した上でなければ不公平になります。同じように、地方分権をするのであれば、その行政基盤を一定のレベルでイコールフッティングすることが大前提になるわけで、財政面に関していえば財源保障機能と財政調整機能によってその格差を是正することが必要になります。ところが、いま地方分権を語ることが政治とか行政の中で流行っているので、この辺の議論を詰めないまま思いつきで「ふるさと納税」なんてものが導入されようとしているわけですが、ところで「ふるさと」ってなに?

ここでさんざん批判しているみのもんたという人はこういうときに便利なんですけど、ふるさと納税のニュースがあったときに、「出身地じゃないとだめなの? 好きなところでいいの? じゃあ箱根とかいいねえ」なんてコメントしていたとおり、こういう「ふるさと」の定義を厳密にしない限り、このふるさと納税って結局は人気投票になってしまいますよ。しかもその定義を厳密にしたところでその認定はどうやってやるんでしょうかねえ。戸籍を提出するのかな? 住んでいたところの住民票をさかのぼって交付してもらうのかな? 学校の卒業証明書を提出するのかな? お父さんの社員証を会社からもらって提出するのかな?・・ そんなことをやる人がいるとは到底思えませんけど税金だから強制するってことでしょうか。ホントにできるの?

そうやって厳密に定義した「ふるさと」を膨大な手続を経て認定しても、最終的に納税者の希望によって選ぶんだったら、その手続の意味はないですね。しかも、競争する基盤が揃っているなら納税者を獲得するために各自治体が競争することで効率的な行政運営ができるとかいいそうだけど、そもそもその競争する基盤を整えるための財源保障なり財政調整なわけで、そっちを整備する方が先決でしょ。「ふるさと納税」によって人気のある地方の税収が増えても、そもそも人気もなく出身者も少ない地方では税収増は見込めないので、格差は広がるばかりですけど、それでいいんですかね、自民党さん。

※そういう主観的ではなくて客観的な指標に基づいて配分するのが地方交付税制度なはずで、この配分に政府の恣意的な裁量が働いているのが問題じゃないかという当たりの方が現実的かつ喫緊の課題だと思いますよ。

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