トータルな財政予算のうち「ムダ遣い」と認定されるものがどのぐらいで、「本当に必要な公共サービス」の部分はどのぐらいで、ということが「客観的に」認識できればいいが、そもそも大きく異なる個々人の価値観が絡むのでこのような「客観的水準」などは存在しないと思う。
「■[政治]あきらめの悪い人たち(2009-09-22)」(すなふきんの雑感日記)
はてブにも同じようなコメントがありましたが、結局は「自分以外への資源配分はムダ」と考える住民同士の利害調整をどうするかに行き着くわけで、アメリカのようにロビイ活動がおおっぴらに行われたり、ヨーロッパ諸国のように労使団体が政策決定に関与する仕組みのない日本では、役所がその任を一手に引き受けざるを得ないんですよね。それを「官僚が自分の既得権益のために勝手にやってけしからん!」と批判してしまうと、ご自身の利害調整の代替機能を放棄することになりかねないんですが、なかなかそこは理解されないようです。
もちろん、本来はそういった利害調整は政治家の役割のはずですが、経済全体のパイが縮小してしまうバブル崩壊などによりそれがうまくいかなくなったときは、「官僚が勝手に自分の権益のためにやったんだ」とバッシングして批判をかわすのがこの国の政治家の作法となっています。官僚叩きで政権の座に就いた今度の政権党がその味を知ってしまった以上、わざわざ彼らが七面倒くさい利害調整に乗り出すはずもなく、結局は役人に丸投げするのは目に見えています。
「群馬・八ッ場ダム建設:建設推進の県議連盟が総会 民主系8人が欠席 /埼玉」(毎日新聞 2009年9月17日 地方版)
民主が建設中止を掲げる八ッ場ダム(群馬県)の建設推進を求める県議連盟(65人)の総会が16日、県議会棟であった。民主系会派「民主・無所属の会」からは加盟している9人のうち、丸山真司県議だけが出席し、残りの8人は欠席した。
民主県連幹部によると、5日の幹部会議で党本部との意見のずれを懸念した国会議員側から、総会の欠席を求める意見が上がり、8人はこれを受け入れたという。丸山県議は「私は党員ではなく民主の推薦ももらっていない無所属なので、自分の意思で参加した」と説明した。
総会では県側が改めてダムの必要性を説明した。議連会長の佐久間実県議(自民)は「欠席した8人の代表からは、会長一任との連絡をもらっている。議連としては今後、建設推進を求める意見書の決議などを模索したい」と話した。【岸本悠】
※ 強調は引用者による。
もともと建設推進派だった地元の民主党県議の方々でさえ、現場で党の方針を実現するために利害調整に乗り出そうなんて気はなさそうです。ダムの必要性を県職員に説明させて「それは県職員と官僚の既得権益を守るためだろう!」と外野から叫んでおけば住民には受けがいいですしね。「官僚たちの夏」でも「再生の町」でも、ご覧になった方はこんな場面があったのを覚えている方もいるでしょう。
役人「おっしゃる趣旨は理解できますが、それでは○○の了解を得るのは難しそうです」
政治家「それを何とかするのがおまえの仕事だろう」
(実をいえばどちらもほとんど見てませんが、話の流れを見ればこんな感じだったんだろうと)
「脱官僚」とか「政治主導」なるものが結局は、政治家は一般受けのいい政策をばんばん打ち出し、それに伴う利害調整のような面倒なことは官僚がやれということになるのは小泉・竹中によるコーゾーカイカク祭りで経験済みではありますが、今度は「国家戦略局」だそうですね。戦略があったって実行できなければ意味はないですし、本来は裏方で執行部門を司る官僚が利害調整を一手に引き受けることは(それが必要な場面もなくはないですが)、国民にとっても望ましいことではないと思います。
カイカク病が蔓延する以前の日本では、霞ヶ関がそういった利害調整ををある程度現場にゆだねつつ所得再分配の網を広げ、地方の現場(≠地方自治体)ではその所得再分配で確保されたナショナルミニマムを前提として最小限の資源配分を行ってきたわけで、それはマスグレイブの財政3機能論(Wikipedia:リチャード・マスグレイブ)が論じる機能分担に沿った国家運営でもあるわけですが、獲得投票数最大化を目的とする政治家にはそれに従うインセンティブはありません。そんな政治家が主導する国家がどうなるものか、迷わず行けよ、行けばわかるさ。
おそらく世間的に危惧されているのは本来主導権を持つべき政治家が官僚にその主導権を奪われているように見えていることなのだろう。そして官僚の意のままに官僚の利益に沿った形で国政が運営されることへの危機感がその根底にあると思える。
「■[政治]「政治家主導」とはこういうこと?(2009-08-25)」(すなふきんの雑感日記)
※ 強調は引用者による。
すなふきんさんのように自覚的な方を除けば、「官僚の意のままに官僚の利益に沿った形」というのが実態として何なのかが曖昧なまま危機感だけが募っているというのが一般の方の現状だと思います。ただ、政治家にもマスコミにもそういったスケープゴートを設定することで自身の利益を得るインセンティブがありますから、実態として根拠がないのにも関わらずそういった危機感が政治家当人やそれに乗ったマスコミによってもたらされたものであれば、マッチポンプとして非難されるべきものでしょう。
ちょっと話は逸れますが、たしかに早期退職した官僚が外郭団体の幹部に再就職するのはある程度官僚の利益といえるとしても、その外郭団体が発注した業務を請け負う業者や購入した製品を製造する業者、そこに雇われている労働者もすべて「官僚の利益」なるものに一括りにできるのだろうかという素朴な疑問があります。
もちろん中には「ファミリー企業」と揶揄されるものもあるでしょうけど、外郭団体の取引先のすべてがファミリー企業に限られるわけでもありませんし、ファミリー企業であろうがなかろうが、そこで働く労働者の生活を「既得権益」として他の労働者が貶めるような風潮には薄ら寒いものを感じますね。
もしかして「ファミリー」って言葉を額面通りに官僚の親族と考えて、官僚が自分の一族を守っていることに危機感を募らせているんでしょうか。まあ、遠い親戚まで含めれば何かしらの業種についている方がいるでしょうから、「官僚の一族」を広く定義すればそう主張することも可能かもしれません。そういう意味では、うちの実家も元をたどれば農家だし、わたくしも農家の既得権益を守る「官僚の一族」の1人なのでしょう。それはそれで一族内での利害調整が大変そうですけどね。
そうなると、「官僚の一族」を広く定義したときに、その「官僚の一族」の網から逃れられる方がどれだけいらっしゃるのかという素朴な疑問もわいてくるところで、官僚批判しているその方自身が「官僚の一族」となれば、これまたおもしろいブーメラン現象ではあります。さらにいえば、官僚にチホーコームインまで含めれば「官僚の一族」の浸透度合いでは国レベルよりも地方レベルの方が深刻ではないかと思われるわけで、霞ヶ関をぶっ壊してチホーブンケンしろと主張する方が「官僚の一族」というのも大いにありそうですね。
「世の中の既得権益はすべて官僚の一族が握っているんだよ!」
「な、なんだってー!!」
(AA略)
加点項目では自民党も民主党も大差ないですね。公明党の評価が高いのは「(2)国と地方の税源配分5:5の実現、地方消費税の充実」と「地方交付税の復元・増額、共有財源の明確化」という項目のようですが、まあ知事会としてはカネをくれるのはいい政党ということなんでしょう。
自民党 公明党 民主党 加点項目 62.1 68.7 63.8 減点項目 ▲1.5 ▲2.4 ▲5.5 合計 60.6 66.2 58.3
「○ 地方分権政策に関する政権公約評価結果(2009年8月 8日、注:pdfファイルです)」(全国知事会)
さらに、民主党が大きく減点された「IV 地方財源の確保」ですが、評価基準によると「地方財源の確保に不安がある(▲10)」だそうで、とことんカネがほしいんですなあ。
どうして知事会がカネさえあれば何でもできるというまことに素朴な市場原理に則った評価にこだわるのかは判然としませんが、そのカネの出どこってのは東京をはじめとした大都市部なわけで、結局は水平的な財源調整をどうするかという問題に行き着きます。そして、ピグー補助金を否定するかのような補助金削減論がまかり通れば、負の外部性が内部化されることがなくなるわけで、相変わらず「政府の失敗」には手厳しい割に「市場の失敗」には寛容なのが知事会クオリティ。
このとき、知事会が求めている「国と地方の税源配分5:5」が適正なレベルなのかどうかという検証はまったく行われていません。せいぜいが「国と地方は対等なのだから税源配分も対等であるべき」というメンツの問題でしかないんであって、もし税源配分が5:5になったらば、今度は「地方重視のために国と地方を4:6にすべき」とか言い出すに決まっています。意地汚いですね。
ただし、国と地方の協議の場については、個人的には事前調整があってもいいだろうとは思います。プリンシパル−エージェント問題に関連して、国が制定した制度が意図した帰結をもたらさない可能性を低くするために、地方の側の執行体制について国と地方があらかじめ話し合うくらいはやってもいいかもしれません。
なお、それはあくまで、執行体制についての地方の裁量を尊重するというだけであって、制度の設計や目的までも地方に協議する必要はありません。というのも、日本は単一国家としての統治機構を規定した憲法を有する立憲主義国家ですので、国権の最高機関である国会の決議に協議が求められるはずがないからです。特に、ここでいう「国」は行政を意味するのでしょうから、行政は執行手段のみにしか裁量を持ち得ないんですよね、政治主導命の皆さん。まあ彼らはそもそも一切の裁量すら認めないのかもしれませんけど。
・・・というような次第で、この評価なるものを見れば見るほど意味が不明です。単に自分の好きなことを答えてくれた政党に対する好感度調査というレベルなので、評価したものがちになってます。それでもって評価される政党も災難ですね。そもそも「日本がめざすべき姿として、地方分権型国家が明確に提示」なんて日本語からして破綻していますが、そのおそらく言わんとするところの国家像が知事会によって実証的に提示されているわけでもなく、こうしてマニフェストなるものは「敬うべきモデル」へと昇華していくのでしょう。
それにしても、まともなマニフェストが一つもない・・・
みんな「地方公務員はバカ」と思ってるくせにその地方公務員に「権限」を渡そうとする錯乱した発想が理解できない。何考えてるんだよいったい。
「■[政治][ぼやき]痴呆分権騒動(2009-08-01)」(すなふきんの雑感日記)
というのは、特別職の首長や議員から、一般職のいわゆる役人とか公立学校の先生とか警察官の総体である「チホーコームイン」の実態を見ている方には当然の感想でしょうね。
そういう俺自身がチホーコームインなわけですが、一応はそういった対外的な批判に対処するためとか、自分自身の政策執行能力の向上のために積極的に理論を学んでいるつもりです。でもまあ、愚痴の繰り返しになりますが、そうやって実証的な理論や学術的な理論を実際の政策執行に適用しようとしても、残念ながらそれを理解する能力を持ったチホーコームインは皆無と言っても過言ではありません。せいぜいが駅弁レベルの大学出身で理論的な訓練も受けておらず、「現場重視」で日常感覚にズブズブのチホーコームインにとって、日常感覚が麻痺するような実証的な理論や学術的な理論などは、むしろ「そんな机上の理屈なんて」と唾棄される程度のものなのでしょう。
つまりは、人々の感覚を麻痺させない程度の「敬うべきモデル」を語るくらいの能力がなければ、チホーコームインとしては仕事ができるとはみなされないということになります。俺自身も実証的な理論を「敬うべきモデル」で覆い隠して語るくらいはやりますけど、細部に行けば行くほどそういった弥縫策は功を奏さないので、改めて他の選択肢を探すことになります。そして、そういった選択が必要な場面で人々が受け入れるのは、実証的な理論ではなく「敬うべきモデル」なわけです。
手近な例で言えば、すなふきんさんも「やや煽り系で陰謀論も入ってるのでコメント欄も含めて話半分に聞いておくぐらいでいいかもしれない」とおっしゃるとおり、引用されているブログでの、
この施設には市役所から役人さんが一人だけ出向しておりまして、あとは全員、パートですね。で、役人さんの給料と手当と年金負担とかの福利厚生費など、かかる費用を合計すると、年間1600万円になるわけだ。たった一人で、この数字です。指定管理者で民間に出せば、半分になるねw
「ネットゲリラ:痴呆分権(2009/07/05)」(ネットゲリラ)
という日常感覚には注意が必要ですね。こういった政府支出を「無駄遣い」と断定する日常感覚が、とにかく財政を小さくすればいいという新自由主義的な発想と親和的になって、官製ワーキングプアとかボランティアプアを大量発生させ、結局地域の所得を減らしてしまうことは理論的にしか理解できません。つまりは、チホーブンケンを批判する方であっても、それが必ずしも正しく現状を認識して理論的に批判しているとは限らないわけです。
まあ、そういった日常感覚のカイカクを推し進めたのがカイカク派知事だったり、それに呼応した無能な働き者たるチホーコームインだったり、住民参加に目がくらんだNPOだったりするので、チホーコームインに限らずその理論を正しく理解できるような人材はいなさそうです。地方の本当の危機とは、事実に基づいた現状認識とそれに対する政策立案について、理論的な理解が深まることがほとんど期待できないということなのでしょう。
「橋下知事「道州制必要」で一致 御手洗経団連会長と対談」(2009/07/25 11:31【共同通信】)
大阪府の橋下徹知事と日本経団連の御手洗冨士夫会長が25日、長野県軽井沢町で対談し、道州制の導入が必要との認識で一致した。
橋下知事は「関西州ができれば、韓国に匹敵する国内総生産(GDP)となる。圏域としてまとまりが良い」と指摘。「観光は京都と奈良で、ホテルは大阪で持つ。役割分担をすればすごく魅力がある」と述べた。
御手洗会長は「10ぐらいの道州に分けて、財源と権限を大幅に任せ、国家経営の感覚で道州経営をすることが必要。それぞれは欧州の中堅国家と同じぐらい実力がある」と語った。
会談後、橋下知事は記者団の取材に、「(橋下知事らでつくる)首長連合と経団連とで何かできないか、お願いしようと思っている」と述べ、道州制推進のために両者が連携して政党などに働き掛けていきたい、との意向を示した。
2人は、日本経済の成長戦略を探る経団連の夏季フォーラムに出席し、軽井沢町を訪れていた。対談は、経団連機関誌の企画として実施された。
※ 以下、強調は引用者による。
拙ブログでは地方財政について一応経済学の言葉でまとめていたりもしてますけど、道州制に限らず、目的と帰着が一致するとは限らないどころか、かえって逆効果ということも往々にしてあるというのが制度設計の難しいところです。そして、どんな制度であっても、その目的と帰着の乖離ってのはストーリーとか三段論法のような言葉による論理では推測することはできません。
結局のところ、制度の帰結を正確に推測しようとするなら、これまでのデータを基に制度の効果を説明変数として被説明変数の変化を推定するというような計量経済学的な分析が不可欠であって、つまりは数量的にしか推測できないわけです。しかし、現在の政策決定の中枢はそういった数量的な素養のない方々が大多数を占めていて、民意至上主義的な風潮も相まって、数量的な把握より「物語」とか「ビジョン」とか「夢」みたいなものが重視されているといえるでしょう。
こういった「物語」重視の風潮というのは、だいぶ前になりますがryozo18さんが紹介されていたクロスビー『数量化革命』で描かれるヨーロッパ中世の時代とダブって見えてきます。
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amazonでは表紙の上半分に配置されているブリューゲルの絵画「節制」だけが表示されていますが、この本は、この「節制」に描かれているような新たな測量技術によって、人間が世界の真の姿をとらえられるようになったという変化について書かれた歴史書です。そしてその変化は、時間、空間、音楽、絵画、簿記という一見関係のなさそうな分野でそれぞれ生じたという、まさに「革命」的な事件だったわけです。
「敬うべきモデル」は非常に長きにわたって、ヨーロッパ人のコモンセンスをほぼ独占的に支配していた。なぜなら、このモデルは古典古代文明のお墨付きを得ており、さらに重要なことに、人間が実際に経験することと総じて一致していたからだ。しかも、このモデルは、宇宙を明瞭かつ完全に、そして人々の心を麻痺させない程度に畏怖させるような形で叙述するという要求を満たしていた。たとえば、天空が巨大で純粋で地球とはまったく異なっていることは一目瞭然だが、このモデルは天空が地球のまわりをまわっているという宇宙像を提示し、地球は小さいとはいえ、あらゆるものの中心に位置していると説明したのである。
クロスビー『同』pp.38-39
つまりは、一般の人にとっての「物語」というのは、納得できる説明さえ与えてくれればいいわけであって、その説明が受け入れられるかどうかは説明を聞く人のキャパに依存することになります。中世の時代の人々が認識できる範囲でしか物語が語られなかったのは、中世の測量技術や計算技能でとらえられる世界という制約を考えると仕方がなかったのかもしれませんが、宇宙から地球を測量できる現代においても、一般の人が「心を麻痺させない程度に畏怖させるような形で叙述する」ようなモデルを信奉するというのは、なかなかに絶望的ではあります。
たしかに「中央集権はもはや時代遅れだ」とか「全国一律の基準では地域の実情にあわない」とか「日本の××地方はGDPでは○○国並だ」とか「チホーブンケンすれば無駄がなくなる」という「物語」は、普通の生活をしている日常感覚ではとても納得のできるものだとは思います。ただし、その日常感覚が世界が真の姿をとらえているかという点では、人間の進化はそれほど劇的には進んでいないというべきでしょう。上記のチホーブンケンのほかでは、「よいデフレ論」とか「公的債務が800兆円を超えて日本が破綻する」とか「賦課方式では年金が破綻してしまう」というスローガンが真顔で語られてしまうのも、そういった人間の生理的な理解力の限界によるのかもしれません。
それにしても、西ヨーロッパ人たちがそういった限界を克服しようと数量化・視覚化に尽力した歴史が顧みられることもなく、「庶民の目線」といった日常感覚を謳う政治家が喝采を浴び、そのスローガンが真顔で受け入れられてしまうというのは、単純にいえば中世の「敬うべきモデル」へ回帰していることになるわけで、まことに憂慮すべき事態ではないかと。
神学と哲学の役割は説明することだった。だが、古代の権威と中世盛期の精密な考証から得られた神学的・哲学的事実は、意図に反して人々の心に平安より混乱をもたらした。
(略)
西ヨーロッパ人はきわめてゆっくりと、ためらいがちに、そしてたいていは無意識のうちに、過去から受け継いだ知識と彼らが現在体験している――しばしば商業に関連した――事実に基づいて、現実世界を新しい見方で見るようになり始めた。こうして形成された世界を「新しいモデル」と名づけよう。「新しいモデル」のきわだった特徴は、正確さと物理的現象の数量的把握、そして数学を、はるかに重視していたことである。
クロスビー『同』pp.80-82
数学的素養が政策決定者の資質として重視されない限りは、こういった数量的把握といっても表面的な「数値目標」ぐらいが関の山です。三位一体の改革で「3兆円規模の税源移譲」とかの数字が空回りしたのは記憶に新しいところ。またぞろ「10ぐらいの道州に分けて」とかいっても、何の根拠もありませんね。
まあ、このご時世では、いったんは行き着くところまでいって、そういった「物語」が現実を一貫して説明できないばかりか、時間の針を逆戻りさせるものであることを身にしみて理解するしかないんでしょう。そういった事態に至って、改めて数量化・視覚化のための理論が求められるのを待つしかないというのも改めて絶望的ではありますが。
一四世紀に幾何学的な遠近法が発展しなかった原因を、猖獗を極めた黒死病に帰す向きもあるだろう。だが、もっと強力な原因は、ジョットと彼の画派は芸術的本能だけに基づいて、手探りで進んでいたということだろう。彼らはたしかに数々の傑作を生み出した――だが、それらの作品は、空間を幾何学的に正確に描いていない。そして、幾何学的に正確に表現するためには、芸術的な天分を補足するもの、すなわち理論が必要だったのである。
クロスビー『同』pp.230-231
後世の歴史家は、こう書くのかもしれません。
二十一世紀に計量的な政策決定が発展しなかった原因を、猖獗を極めたカイカク病に帰す向きもあるだろう。だが、もっと強力な原因は、改革バカと彼の党派は政局的本能だけに基づいて、手探りで進んでいたということだろう。彼らはたしかに数々のスローガンを生み出した――だが、それらのスローガンは、経済や財政を計量的に正確に描いていない。そして、計量的に正確に表現するためには、政局的な天分を補足するもの、すなわち理論が必要だったのである。
中世より事態は悪化してるように思えるんだが・・・orz





