2016年12月12日 (月) | Edit |
これは釣られておかなければなりますまい。

「保育園落ちた日本死ね」という言葉が、今年のユーキャン新語・流行語大賞トップ10入りした。大賞の授賞式には、民進党の山尾志桜里議員が出てきて、この「保育園落ちた日本死ね」の受賞者としてスピーチしたという。ネットを中心にして、この「保育園落ちた日本死ね」、特に「日本死ね」の表現をめぐって受賞の賛否両論が湧き上がった。「日本死ね」はヘイトスピーチであると批判する人や、他方でそれは「日本の内部」への批判だから無問題だとする人など多様だ。筆者の私見では、この「日本死ね」という表現自体に賛成しかねる。この手の過剰な表現で注目を集め、世間を扇動するのは最悪の政治的手法だと思っている

「日本に「死亡フラグ」を立てるのは民進党さん、あなたたちですよ」( 田中秀臣の超経済学 2016/12/05 11:54)


いやまあ、個々の説明ではそれなりに説得性があるものの、全体で見ると整合性がこれっぽっちもなくなるというのが一部のリフレ派(またはりふれは)と呼ばれる方々に共通して見られる特徴ではあるのですが、こうした言行不一致なご様子を拝見する度にりふれはの皆様はご健在なのだなあと感心することしきりですね。

ここ最近のエントリでは、消費税率引き上げを巡る議論を取り上げる機会が多かったのですが、その一つの理由は、経済政策を巡る議論から人格やその個人の属する組織への攻撃という卑劣な行為に発展するかどうかを注視する必要があると考えるからです。そしてやはり、危惧していた事態に発展したようです。

正直なところ、そのブログへリンクするのも腹立たしいので、恐縮ですがjura03さんのエントリを引用させていただきます。

消費税上げをすすめる財務事務次官の写真を加工して、「指名手配書」をまわしているわけです、要するに。

いま、田中先生の Twitter を見るとこんなことを書いている。
https://twitter.com/hidetomitanaka/status/381448341621456897

繰り返すが、いまの日本で最も有効なのは木下康司財務省事務次官を批判すること。それが最も効果的。個人攻撃どんどんいこう! http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20130920#p1 … 「論」とかの批判もRTしまくるぞw

https://twitter.com/hidetomitanaka/status/381449130976899074

さて木下康司個人攻撃もバリバリやって、消費税増税がどんだけいまの不況下の日本に悪いかもいつもどおりにバリバリにやるぞw


なんで財務事務次官をネット経由で「個人攻撃」したら消費税上げが避けられるのか、ちゃんと説明してほしいんですが、多分そんな理屈はないでしょう。

扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part128 「狂気の集団」と化したリフレ派とこれに支持を与えてきた人たち(2013-09-22)」(今日の雑談


田中氏の言動によってネット上の言論活動が封じられたという事例が発生したのは、たったの3年前です。その当時、dojinさんの「本件について田中氏の言動に問題があると感じているブログやツイッターをやっている方々は、田中氏やbewaad氏の政策的立場への賛否に係らず、はっきりとその旨を表明することが、第二のbewaad氏を生まない最善の道だろう」という呼びかけに意を決して、遺憾の意を表しましたが、今回もそれに匹敵する暴挙だと考えます。改めて、田中氏の言動には遺憾の意を表します。
(略)
ちょっとググればすぐにわかることでも自分の都合の悪いことは見ないことにして、同じデータから自分に都合のいい結論を導き出すような議論があることは仕方がないでしょうし、まあ広いネットの世界にはそういうダメな議論もあるだろうぐらいであればまだいいかもしれません。しかしこの方は自ら「リフレ派」を名乗って自説に反対する方には容赦のない罵詈雑言を浴びせかけ、さらに個人攻撃を先導する方でもあるわけで、悪質と言わざるを得ません。百歩譲って、そんな方がいるのも玉石混淆のネット社会だろうと割り切ることもできるかも知れませんが、であればこそ、その悪質な言論にこれまで賛同してきた、あるいは田中氏の説そのものに賛同するわけではないとしても、「リフレ派」であることを理由に「リフレーション政策以外は何を言ってもよい」と傍観してきた方には、その作為と不作為に対する批判を正面から受け止めていただきたいものです。

遺憾(2013年09月24日 (火))


こんなのもありましたね。

利害関係者の発言に対する忌避感と公務員に対する敵意では、拙ブログにコメントいただいている方に勝るとも劣らない勢いtweetの数々に圧倒されます。

拙ブログでは、そうした所属する組織や職業、さらに人格を標的とした批判は慎んでいるつもりでして、3年ほど前にも「求めるべきは政策至上主義」などというエントリの中で、「その主張の個々の論点については是々非々で判断するべきであって、人格やその行為などで判断するのはフェアではない」と書いているところですので、こうした批判をしてしまわないよう改めて自戒しなければと思う次第です。

そうした思いを持つ者としては、6年前の「とある方」のこの言葉には激しく同意いたします。


さらに再三念のためにいうが、ある学説の主張とその主張者の人格や帰属先とを関連づけるような批判は批判ですらないのはここで何度も強調しておきたい。

■[経済] フランク・ナイトは本当にミルトン・フリードマンを破門したのか?(2006-11-22)」(Economics Lovers Live Z


実をいえば、拙ブログでも「ナイトのフリードマン・スティグラー破門事件」は何度か取り上げていたところですので、これからは慎重に取り扱うことにしたいと思います。

なお、「上記の二つの引用のコメント主は同じじゃないか」というツッコミは、「人格と帰属先とを関連づけるような批判」ではないのでアリだと思います。

批判ですらない批判(2012年08月28日 (火))


「知的」で「誠実」であろうとすれば「りふれは」ではありえないというのは今に始まったことではないので今更取り上げるのも飽き飽きするところですが、10年以上にわたって整合性の欠如のブレなさっぷりを拝見できるのはもはや伝統芸と敬意を表さざるを得ませんね!!!!!(棒)

なるほど、これになぞらえて言えば、

「知的」な「りふれは」は存在しうるが「誠実」ではあり得ない。

「誠実」な「りふれは」は存在しうるが「知的」ではあり得ない。

「知的」で「誠実」な者は存在しうるが「りふれは」ではあり得ない。

ということでしょうか。

「知的」で「誠実」な「りふれは」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) 2011年3月 6日 (日))



(追記)
hamachan先生に過去を思い出させてしまい恐縮です。
「知的」で「誠実」な「りふれは」再掲(2016年12月13日 (火))
本エントリは「エンターテインメント」カテに入れて面白がる程度にしたいと思っていたところですが、私もあまり思い出したくない思いもあるものの、りふれはの極めつけがありますので追記しておきたいと思います。

そして、この状況下でそのコールドリーディングの材料として巻き込まれる思いは、この方々には想像がつくのでしょうか。想像がつかないからこういうことを堂々と書いてしまうのでしょうが。。。

だからこそ私たちは「このままでは震災恐慌がくるぞ!」と、声を大にして訴えます。そのことで、結局恐慌が起こらなかったとしても、私たちはそれが誤った警告だとは思いません。なぜなら、私たちが警告を発しなければ、本当にまた日本は、大きな人災である、経済2次、3次被害を受けることになりかねないからです。

多くのマスコミがこの問題を一切報じない中、不幸にも、政府・日銀自体もこの危機に気づいていないかのような反応で、ほぼ平時と変わらない凡庸な政策を選択しつつあります。だとしたら私たちは、自分の身は自分で守らなければいけません。政府と日銀に、声を大にして正しい復興策を要求し続けなければいけません。

■日本に明るい未来が訪れることを願って 
震災でお亡くなりになられた方々に思いを馳せながら、「震災恐慌がくる!」――。
そう叫びながらも、日本に恐慌がこないことを、そのために、正しい経済復興策がとられることを、そして、日本中が負った震災による心の傷が癒えることを心から願って。
私たちは先人の知恵を借りながら、「震災恐慌がくる!」――そう、声を大にして叫びます。

                                            上武大学ビジネス情報学部 田中秀臣
                                    デフレ脱却国民会議事務局長・経済評論家 上念司

                         ――『震災恐慌! 経済無策で恐慌が来る!』(宝島社)「まえがき」より
このあと日本経済に何が起きるのか?誰も語らない、震災恐慌の怖さ 田中秀臣、上念司(2011/5/19 23:1)」(SYNODOS JOURNAL


誰のための復興?(2011年05月22日 (日))


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2016年09月23日 (金) | Edit |
更新頻度が低いので相変わらず流れに乗れていませんが、シン・ゴジラが大きな話題となっていたのでお盆休みに観てきた感想など。既に1か月以上前のことなので記憶が曖昧になりつつあるのですが、エントリにするまで時間がかかったのは、「会議室映画」とも呼ばれる内容に微妙な印象があったからです。ということで以下ネタバレが含まれていますので、テレビ放映などをお待ちの方はご注意ください。

震災前のエントリで、「事件は会議室でも起きているんだ」というようなことを書いておりましたが、まさに現場で刻一刻と進行する事態に対応するための会議が、組織的な意思決定においていかに重要かということが描かれていたことにまずは安堵しました。震災後のエントリで生活保護という再分配の制度に関連して「現場のための中央」についても書いた通り、組織として活動する中で現場が適切に制度の目的を果たすためには、その意思決定の場である「会議室の現場」こそが適切に機能することが必要不可欠です。

ゴジラが現れた当初の「会議室の現場」では、「想定外」を連発する閣僚とその意を受けて無難な意見しか言わない官僚のにらみ合いのような状況が続いていましたが、上陸後に蒲田くん(第2形態)から品川くん(第3形態)へ変態する経過の中で甚大な被害が発生すると、「会議室の現場」が変わりはじめます。つまり、会議で重要な事項が決まらなければ現場は活動することができないため、刻一刻と事件が起きている「事件の現場」に「会議室の現場」が適切に対応して意思決定しなければならない状況に追い込まれていきます。

この点について、震災前の上記エントリでは、

大規模かつ中長期的に取り組んでいかなければならない政策分野では、「事件の現場」で起きる事件と同様に、「会議室の現場」で起きる事件についても、それ(引用注:「「現場主義の徹底」とか「現場の権限を強化する」とかいって地方分権して「事件の現場」ばかりを強化してしまうと、権限を奪われた「会議室の現場」が弱体化してしまって適切な状況把握も政策決定もできなくなり、結局は「事件の現場」までもが機能不全に陥ってしまう」という事態)を防ぐ手立てを講じなければなりませんし、万が一事件が起きてしまった場合は適切に対処しなければなりません。そのためにも、「会議室の現場」の体制は強化される必要があります。

もし「会議室の現場」が「事件の現場」と乖離してしまって、適切な政策が決定されない問題があるなら、「事件の現場」が適切に機能しているからこその乖離でしょうから、この場合まずは政策を決定する「会議室の現場」、すなわち霞ヶ関や地方自治体の本庁を強化することが先決です。その上で、個々の「事件の現場」は情報を的確に「会議室の現場」に伝え、「会議室の現場」ではそれらを過不足なく収集し、全体の「事件の現場」と整合性のある政策決定ができる体制を整備しなければなりません

「事件は会議室でも起きているんだ(2011年01月10日 (月))」
※ 以下、強調は引用者による。

としておりましたが、震災後は「大規模かつ中長期的に取り組んでいかなければならない政策分野」に限らず、大規模災害などの緊急・非常事態においても、このような「会議の現場」と「事件の現場」が適切に機能することが必要であることが明らかになったと思います。

序盤での「会議室の現場」のヤマ場は、二足歩行した品川くんに航空自衛隊機が攻撃しようとした際に、攻撃範囲内に徒歩で避難する市民を発見した自衛隊員から攻撃の可否の確認があり、瞬時に総理大臣まで確認が伝達されて攻撃中止の判断が下される場面だと思いますが、そこでは「会議室の現場」と「事件の現場」が整合的に意思決定する過程が描かれていました。

ただし、「会議室の現場」が仔細に描かれるのは中盤までで、その後は災害対応や復旧に向けた「会議室の現場」は、現役閣僚がほぼ壊滅した後半でははほとんど描かれず、一対一の交渉や少数の閣僚や要人による「打合せ」(まあほとんどの閣僚が死亡して「人手不足」だったという事情もあるでしょうけれども)がメインになっていきます。この辺が、ちょっと微妙な印象になった理由でして、最終的には既存の組織が(実態上も機能上も)壊滅状態になって、出世に無縁なはぐれ者などによる「巨災対」がそうした既存の組織のしがらみがなくなってやっと機能するというプロットは、結局「会議室の現場」と「事件の現場」が適切に機能するという状況を実現させることを諦めたように感じてしまいます。

宇野氏の言説にはあまり共感することはないのですが、この指摘はなるほどと思います。

宇野さん:僕は今回の『シン・ゴジラ』はこの「平成ガメラ」シリーズの正当なアップデートだと思っています。

(略)

「平成ガメラ」シリーズの描写って現場の自衛官や技官に集中していて、特に権力もなく大組織も率いていない、もっといってしまえば政治的ではない現場の人々の物語なんですよ。僕はまあ、そこが好きだったりするんですが、彼らの「がんばり」を描くだけでは、ガメラが象徴する巨大な力、世界の問題にアクセスするのが難しかったんだと思う。公務員のおじさんはがんばっているんだぞ、的な自分の問題と、人類と地球環境はどうあるべきか、怪獣という巨大災害にどう対応するかという世界の問題がつながっていない。だから後者の、ガメラのほうが人間に歩み寄って心を開く、という展開が必要だったのだと思うんです。

「評論家・宇野常寛氏が語る『シン・ゴジラ』-この映画は99%の絶望と、1%の愛でできている(2016年08月11日(木))」(木曜日のシネマ)

このインタビューで宇野氏は、「事件は会議室で起きているんじゃない」という台詞を生み出した『踊る大捜査線』や『機動警察パトレイバー2』から『平成ガメラ』への流れの中で、現場の自衛官や技官などの公務員のおじさんのがんばりと巨大な力や世界とをつなげることが難しかった点を指摘し、シン・ゴジラはそれをアップデートしたというわけですね。

一方で、そのつながりをやはり「巨災対」のような既存の組織からちょっと距離を置いた組織に見いだしているのが、POSSE編集長の坂倉さんです。坂倉さんの「編集長の部屋」での熱弁(?)を拝見すると、宇野氏と同じように『平成ゴジラ』と『機動警察パトレイバー2』の延長線上にシン・ゴジラを位置づけていらっしゃいますが、

 だが、「真面目に働く人たち」であれば無条件に信用できるというわけではあるまい。「真面目に」働いた結果、国家の論理に取り込まれ、非人道的な軍事兵器の開発に取り組んだり、核兵器使用を決断したりする人だっているだろう。国家に取り込まれないための「可能性」は、どのように担保されるのだろうか。残念ながら、それは本作で明確にされているとは言い難く、危うさを孕んだままだ。

(略)

 このように、二重に強調される「出世との関係なさ」は、保身や組織優先の論理と対立する発想である。失敗や批判を恐れずに、自らの経験や能力、職業倫理に頼って思考し、仲間と議論し行動することができる自律的な職業人とその集団こそを、本作は「真面目に働く人」の核心として描いているのではないだろうか。このような職業倫理に基づく労働こそ、日本社会に広く求められるものであり、3.11の危機に対する本作の「回答」の根幹なのではないだろうか
pp.243-244
『シン・ゴジラ』評
「ゴジラ対日本人」の系譜
坂倉昇平(本誌編集長)
『POSSE vol.32 特集:絶望の国の不幸な奨学金』
A5判/256頁/本体1,200円+税/2016年9月15日発行

まあ、映画そのものがこうしたプロットで描かれていますから、その映画評が上記のような内容になるのはその通りだと思うのですが、「巨災対」のメンバーの大半は国家公務員であって、その職業倫理はまさに国家そのものによって養成されたものではないかと思うところでして、「巨災対」のメンバーが国家の論理に取り込まれたか否かはそれほど明確に割り切れる話ではないのだろうと思います。映画では、ヤシオリ作戦のために「巨災対」のメンバーが重機や化学工場プラントを有する企業に協力を依頼するという流れでしたが、出世に無縁なはぐれ者などによる「巨災対」のメンバーが個々にそうしたパイプを持っているというより、所属している組織の看板と、所属している組織が有するデータにアクセスできるというまさに政府の国家機関の「メンバーシップ」を最大限に活用したというのが実態(もちろんフィクションですが)というべきでしょう。

そして、そのような政府からの要請に対して、民間や地方自治体などの国家機関以外の組織が応え、やはりそのメンバーがヤシオリ作戦に従ってそれぞれの持ち場で職務を果たし、1回目の注入後には再び活動を再開したゴジラによって現場の作業員に多大な犠牲者を出してしまいながらも、ゴジラを凍結するという目標を達成することができたわけです。坂倉さんも指摘されるように、映画では避難を誘導する警察官や消防士、避難所で非難された方のケアに当たる保健師などの職業人のほか、「巨災対」の事務室で清掃などに従事する作業員(おそらく清掃は委託しているでしょうけれども)の姿も描かれています。それら一つひとつは取るに足りないような役目しかないかもしれませんが、その積み重ねがヤシオリ作戦の成就につながったわけです。

ヤシオリ作戦の実施を決定する場面での「会議室の現場」は、赤坂首相補佐官やカヨコ・アン・パターソン米国大統領特使などとの少数者による打合せや交渉がメインではありますが、矢口が窓口となって各要路にレクを入れながらサブとロジを同時にこなしているような流れでした。そして、そこで実施が決まったヤシオリ作戦を官民問わずに各組織が役割分担して実行していくという連携のチャンネルがあり、それが有事にも機能するということこそが、矢口の「この国はまだまだやれる」という言葉に込められた希望の中身ではないかと感じました。それはまた、私が東日本大震災の現場で「そしてそれらのシステムは、日本において各分野の専門機関や企業が存在しており、これら各者が持てるノウハウを存分に発揮するための環境を整備しなければなりません」と感じ、実際に震災からの復旧・復興にそれぞれが果たした役割を見て実感したことでもあります。もちろん受け取り方はそれぞれだと思いますが、いやまあ語りたくなる映画ですね。

2016年08月28日 (日) | Edit |
先日のエントリで、「障害者支援団体が「一般的に公表される被害者の氏名が、この事件に関して公表されないことは大きな疑問を持たざるを得ない」と主張すること自体は、障害者だけ違う扱いをすることが新たな差別を生むことを懸念したものであれば、その限りで意味がある」ということを書いたところでして、それがどのような意味を持つものかまではそのエントリで言及できませんでしたが、今日は年に一度障害者や難病と闘病されている方を大々的に取り上げる日ということで、楽しみにしていた「バリバラ」を拝見しましたよ。

【生放送】 検証!「障害者×感動」の方程式(NHK バリバラ - NHKオンライン)

放送日8月28日(日)夜7:00
再放送9月2日(金)0:00(木曜深夜)
出演者鈴木おさむ カンニング竹山 IVANほか

「感動するな!笑ってくれ!」というコンセプトで始まったバリバラ。しかし、いまだ障害者のイメージは「感動する・勇気をもらえる」というものがほとんど。「なぜ世の中には、感動・頑張る障害者像があふれるのか?」その謎を徹底検証!スタジオでは「障害者を描くのに感動は必須か?」「チャリティー以外の番組に障害者が出演する方法は?」などのテーマを大討論!Twitterで視聴者ともつながり、みんなで「障害者の描き方」を考える。


「バリバラ」に演されている障害者の皆さんは、この国の社会では「障害者だけ違う扱いをすることが新たな差別を生む」という状況を身にしみてご存じであるからこそ、こうしたテーマを正面から取り上げることができるのだろうと思います。個人的にこの番組で特筆すべきと思うのは、身体障害者や知的障害者だけではなく精神障害者も同じように取り上げているところでして、統合失調症と診断されて芸人活動を休業していたハウス加賀谷が主人公となり、食べれば障がいがなくなるが記憶もなくなるという果実を食べるかどうかで葛藤する「悪夢」というドラマまで作っています。健常者と障害者の境界はどこにあるのかとか、健常者であるか障害者であるかを問わずその生きてきた人生をどう考えるのかとか、短いドラマですが見応えがありますのでこのテーマに関心のある方にはおすすめです。

で、今日の番組の冒頭ではまず、コメディアン兼ジャーナリストであった故ステラ・ヤングさんの講演が引用されていまして、その講演の全体はこちらで読めます。

これらはほんの一例に過ぎませんが、こういったイメージは世の中にあふれています。みなさんも、両手のない少女がペンを口にくわえて絵を描いている写真や、義足で走る子供の写真を見たことがあるのではないでしょうか。 こういう画像はたくさんあり、私はそれらを「感動ものポルノ」と呼んでいます。 (会場笑) 「ポルノ」という言葉をわざと使いました。なぜならこれらの写真は、ある特定のグループに属する人々を、他のグループの人々の利益のためにモノ扱いしているからです。障害者を、非障害者の利益のために消費の対象にしているわけです。

(略)

障害者の生活には、実際それなりに困難がつきまといます。乗り越えなければならないことはいろいろとあります。でも私たちが克服しなければならないことは、みなさんが考えるようなたぐいのものではありません。身体の障害は関係ないのです。 私は「障害者」という言葉を意図的に使って来ました。なぜなら、私たちの身体と病名よりも、私たちの生きる社会のほうがより強く「障害」になっていると感じているからです。

「障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される–難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは」(logmi)
※ 以下、強調は引用者による。

これも当時話題になったので「感動ポルノ」という言葉も一部では認知されていると思いますが、マスメディアであるNHKがこれを正面から取り上げたことには意義があるといえます。番組でも引用されたこの部分では「私たちの生きる社会のほうがより強く「障害」になっていると感じている」との指摘がありますが、日本よりもノーマライゼーションが進んでいるアメリカですらこのような指摘がされるのであれば、この国の社会での障害者の位置づけがどんなものかは推して知るべしというところでしょう。

そうした現状を踏まえれば、相模原市の津久井やまゆり園での凄惨な事件に際して、手をつなぐ育成会が「事件で傷ついた被害者やご遺族が少しでも穏やかに過ごせるよう、特に報道関係機関には特段の配慮をお願いします」という声明文を表明し、「遺族による強い希望もあり、そのような判断をした」という神奈川県警が被害者の実名を公表しなかった理由が見えてくると思います。

つまり、健常者の事件でさえ、被害者やその遺族は家族構成や素性など大々的に公表されてしまい、マスメディアによって感動ストーリーが作り上げられてしまうこの国において、今回の事件で被害に遭われた方々が障害者であるという特異性が強調され、さらに大々的な感動ストーリーに仕立て上げられることは十分に予想されます。そこでSNSによる「検証」が始まって「ネタ」が発見されれば、誰にも制御できない状態が生じることはこれまでにも散々繰り返されたことです。そのような事態が予想される中で、実名を公表しないというのはやむを得ない判断だったろうと思います。

今日の番組での解説によれば、80年代に入るまではNHKでも「障害を背負ったかわいそうな子どもたち」とアナウンスしていたのが、1981年の国際障害者年などを契機に「明るく社会参加する障害者」として取り上げられるようになり、それらが組み合わされて「不幸でかわいそう×けなげにがんばる=感動」という図式がマスメディアに浸透していったそうです。

今年で39年目を迎える某24時間(以上連続して放送される)番組が始まった1978年は、ちょうどこうした図式が形作られていく途上だったのでしょう。その当時に「不幸でかわいそう×けなげにがんばる=感動」という図式がそれなりに意義を有していたことは否定しませんが、ドミノがマラソンになったりとか番組の構成を少しずつ変えながらも、その根幹にある「感動」の図式を変えずに40年近く続いていることは、日本の社会の変わらない部分を如実に示しているものといえそうです。

番組で紹介されていたイギリスでは、そうした図式で放送されていたチャリティ番組に当事者である障害者から抗議運動が広がり、BBCでは1990年代に「障害者を“勇敢なヒーロー”や“哀れむべき犠牲者”として描くことは侮辱につながる」というガイドラインを策定するに至ったとのこと。20年前の話ですね。

まあ、マスメディアというもの自体が報道やジャーナリズムのほかにエンタテインメントとしての機能を有していて、そのエンタテインメントの重要な要素が「感動」であることからすれば、マスメディアが「感動の図式」を簡単に手放すわけにはいかない事情もあるだろうとは思います。イギリスでも同じような議論があったということがその普遍性を示しているといえそうですが、抗議活動からガイドラインの策定にまで至るようなことが日本でも生じるかどうかが、この国の変化を読み取る鍵になるのかもしれません。日本の社会のノーマライゼイションが進まない理由を考えたときに、けだし「日本人の苦しみの原因が社会が要求するレベルの非現実的な高さにある」というのは名言だなと思います。

ついでに、障害者以外ではスポーツでこの「感動の図式」が典型的で、今年もオリンピックや高校野球の「感動の図式」に関していろいろと議論があったのは記憶に新しいところですね。スポーツのトップアスリートが全てをなげうって長時間練習する姿をドラマチックに取り上げ、金メダルを逃した選手がマスメディアを通じて謝ったり、野球留学してまで甲子園を目指した高校生が炎天下でけがを押して連投する姿が夏の風物詩となるような社会がその土壌となっているのであれば、イギリスのようなガイドラインの策定は望み薄ということなのでしょう。

欧米に比べて「感動」のハードルが高いというのが適切かよく分かりませんが、他人の人生に過剰な「感動ポルノ」を求める土壌がなんなのかを考えるのが、今日という日なのかもしれません。いやまあ、某24時間(以上連続して放送される)番組については、そもそも「はじめての○つかい」とか「○人間コンテスト」とか「感動の図式」を駆使する番組を擁し、今年のオリンピックでも箱根駅伝や巨人戦の中継で培った「ポエム実況」(レスリング吉田沙保里の銀メダルに水を差した日テレ河村亮アナの「ポエム実況」(Asagei Plus))でおなじみの放送局が製作していますし、かの放送局は視聴率も絶好調とのことで、震災2年目の2012年の放送の時点で伊集院光氏が「もはや日本の“奇祭”」と指摘されているのは、そうした現実を的確に表しているのでしょう。

2012年04月09日 (月) | Edit |
前々回エントリではdojinさんと大変有意義な議論をさせていただきまして、本文も長いですがコメント欄もかなりの長さになりました。その中で「私はマシナリさんの言説や情報発信を(ニッポンのジレンマ的議論の何倍も)信頼しております」とのお言葉をいただいたからというわけではないのですが、第2弾となった「ニッポンのジレンマ」の録画を流し見してみました。

まあ、あまり時間をかけて取り上げるべき内容だったかはよく分かりませんが、今回から参加された與那覇潤先生の歴史的な経緯を踏まえた指摘が議論の拡散を抑えていたようで、第1弾よりは出演者の底の浅さ・深さが浮き彫りになったように思います。

與那覇先生のさすが歴史学者だなと思う指摘をメモしておくと(今回は巻き戻していないのでうろ覚えですが)

  • 日本特有の民主主義の限界は江戸時代の限界そのままである。
  • 現代の政治家は貴族院の子孫ではなく一揆の子孫であって、国が間違ったことやろうとしたときにそれを止めることに特化している。
  • 現在の国会は拒否権を持つアクターが多すぎる。議員は地方に基盤を持っているので国政で何かを決めるということができないし、二院制で衆議院が優先するといいながら実際は参議院で野党に過半数を握られると決められなくなる。
  • (自分の一票が何かを決めるというのは、ある程度裕福でなければ感覚として理解できないという飯田先生の指摘に対して)ブルジョワ民主主義に対するプロレタリアート革命の必要性が語られたのが20世紀であって、21世紀の今になってそのことがまだ議論されていることに絶望を感じる。

といったところでして、まあそうだよなあというところですね。

とはいいながら、その與那覇先生ですら、「正社員という働き方や解雇規制をなくして雇用を流動化することが必要だ」(うろ覚えなので要旨はこんな感じだったと思いますが正確には違うかもしれません)という素人丸出しの労働観を披瀝されていたわけで、まあ建設的な議論が期待できないのは第1弾と変わりないのかなという印象です。

ただ、最後に各出演者に「これから民主主義を変えていくために必要なことは?」と一言ずつ求める場面があって、萱野稔人先生が「実務感覚」と答えられていたことが意外でした。まさか拙ブログをご覧いただいているとは思いませんが、「実務のない新世代」ばかりの出演者の中で、そのことを指摘したのが経済学者でも社会学者でもフリーランスのライターでも投資家でも紛争予防のスペシャリストでもなく、実務からもっともかけ離れている(と思われていそうな)哲学者だったというのが今回のオチでしょうか。

(追記)
オチには続きがあったようで、hamachan先生のところでほかの哲学者の方のツイートが取り上げられていました。

レベルの低い「民意」をすくい取られた大衆が、しかし自分の専門分野について「とはいえ、こいつはおかしいんじゃないか」と感じるその違和感をきちんと言語化するのが、言葉を商売道具にして生計を立てている連中の最低限の義務だろうに。
それすらも放棄するというのは、つまるところ、そういう専門分野、つまり「各論」を持たない哀れな哲学者という種族の末路と言うべきか。
ポピュリズムの反対はエリート主義ではない。大衆の中の「各論」を語れる専門家的部分をうまく組織して、俗情溢れる低劣な「総論」を抑えるようにすることこそが、今日の高度大衆社会に唯一可能な道筋のはずだ。

各論なき総論哲学者の末路(2012年4月 9日 (月))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)


なるほど、大衆と呼ばれる普通の人が持っている実務とか趣味の世界の専門性が「各論」を形成していて、むしろ専門家と呼ばれる人が持っている実務抜きの専門性が「総論」を形成していると考えると、私のようにわざわざ「実務知」とか「学術知」なんてカテゴライズすることなく議論ができますね。

そういえば、拙ブログでも「職業的なスキルを身につけたときには、誰でも「仕事について自分のスキルが上がって、仕事について一家言もてるようになった」ことに気がつくのではないかと思います。そのとき、他の職業人についても同じことが起きていていると想定するのが自然なはず。しかし、それは職業特殊なものであることが多いので、簡単には互いにそのスキルをわかち合えないどころか、そういう想定さえされないことになってしまいます」なんてことを書いていたのを思い出しました。

まあ、もしかすると、実務感覚で自分の専門となる「各論」の形成を呼びかけていた萱野先生はそうした経験を通じてその必要性を認識されているのかもしれませんが、「各論」を「各論」として考えることが利害調整の重要な要素でして、それを等閑視する専門家というのは決して哲学者に限らないような気もするところです。

2010年12月22日 (水) | Edit |
カイカク派の手にかかると、手段であるリフレーション政策とか地方分権とかが目的化していくっていうのは、多分「レンジでチン」的な感覚なんだろうと思ったのでメモ。

  1. 電子レンジって便利だよね。
  2. 昔ながらの鍋料理とかは手間がかかるし、手料理をする人の手間暇が非効率だから、「レンジでチン」すればオールオッケーだよな。
  3. 手料理に縛られて他のことができなくなってしまうなんてライフハックじゃないよね。
  4. 今どき「レンジでチン」できない料理なんて「時代の流れ」に取り残されているんだよ。手料理から人を解放してもっと生産的なことができるようにすることがライフハックだよな。
  5. 俺、料理のことよくわからないんだけど、料理はみんな「レンジでチン」でできるんじゃね? つーか、キャベツの千切りを手でやったら非効率だけど、キャベツを「レンジでチン」したら効率的にできるはずだお!
  6. できるかどうかやってみないとわからないお! とくにかくキャベツでも何でもいいから「レンジでチン」してよ!
  7. 何でもかんでも「レンジでチン」したって料理ができるはずがないだと? それは電子レンジの能力を信用していない手料理人の偏見だお! 手料理人は電子レンジを見下しているお! 「電子レンジ」感覚がわかってないお!
  8. ははーん、さてはお前も手料理人の仲間だな? 手料理人の作る料理を食べたいからって手料理人の屁理屈に取り込まれたアフォめ。お前も同じ既得権益だお!手料理人は電子レンジを見下しているお! 「電子レンジ」感覚がわかってないお!
  9. 「レンジでチン」を批判するヤツはみーんな手料理人の既得権益を守りたいだけだお!
  10. 手料理人とそいつらの仲間をぶっつぶせ!


※ 6と7と8を修正しました。(12/22)


なんとなく途中から「やる夫」口調になってしまいましたが、ポイントは「電子レンジは便利だよね」というスタートの命題は全くの正論なのに、それが素人考えで自己目的化されてしまうと、最後にはとんでもない命題が導かれてしまうというところでしょうか。「電子レンジ」って万能感ありますからね。

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