2021年05月03日 (月) | Edit |
世の中はゴールデンウィークに突入していまして、いやその前に首都圏や関西圏で3度目の緊急事態宣言が発令されてしまい、昨年に引き続き巣ごもり生活を満喫(?)しているところですが、気がつけば4月のエントリが飛んでしまいました。「飛んでしまった」というのは、前々回のエントリで取り上げていた海老原さんの連載を書籍化した『人事の組み立て』をご恵投いただきながら、その感想をなかなかまとめられないまま4月が過ぎてしまったという私の怠惰に自己嫌悪しているからです。それはそれとして、まずは場末のブログにもかかわらずご恵投いただいたことに感謝申し上げます。

人事の組み立て ~脱日本型雇用のトリセツ~
価格 1,870円(税込)
ISBN 978-4-296-10927-2
発行日 2021年4月5日
著者名 海老原 嗣生 著
発行元 日経BP
ページ数 260ページ
判型 A5


いつもながらの言い訳になりますが、4月中は通勤の際に常に『人事の組み立て』を持ち歩き、家で読み込んだ内容を職場で人事制度や賃金制度として組み立てるという作業を進めていたところでして、本書を教科書として隅々まで読み込ませていただきました。その上で感想をまとめられなかったというのは、私が組み立てている人事制度や賃金制度が現在の会社におけるアプリとOSの関係において適切に機能するのかというポイントでつまづいてしまったことに起因します。

あまり社内の事情を詳細に書くわけにはいかないのですが、一般論として日本型雇用慣行が大企業男性正社員の(家庭)生活保障を最優先するものとして構築された経緯からすると、99%を占める中小企業では生活保障できるだけの賃金水準を確保できないこともあって、「メンバーシップ型」の人事制度がそれほど浸透しているわけではありません。その結果、実際の多くの中小企業は正規労働者と非正規労働者の境目が曖昧であり、幹部に昇進するような正社員を除けば現状においても「ジョブ型」に近い雇用慣行となっています。という実態からすると、現在取り組んでいる人事制度や賃金制度の組み立てにおいては、実態に合わせて「ジョブ型」に移行していくのが自然な流れということで社内でもコンセンサスを得ていたものの、実際の制度にしてみると異論が噴出していまうという事態に陥ってしまいました。

もちろんその大きな要因としては、ちまたに溢れるエセ「ジョブ型」論のイメージが社内でも先行してしまってこちらの話を正確に理解してもらえない状況もありますが、詰まるところ会社の目指す方向がブレてしまっていることが最大の障壁となっています。本書では主に従業員内での給与水準の差を目安として企業のタイプがTypeAからTypeCの3つに大別されておりまして、地方の中小企業はほぼTypeCに該当すると思われるところ、そのTypeCに該当する「諸事情ある中小企業」でもさらに4つに分類されています。

里山としての中小企業

 さて、TypeCの最後は③の中小企業です。おさらいとなりますが中小企業がTypeCになる理由は①そもそも深い事業ノウハウがない、②ノウハウや事業の強みは社長に集中し、後続育成に手が回らない、③年齢・素性様々な人々が入社するので、階段を高く設計できない、④経営者の意向(権限の独占)で社員の成長を望まない、の④種別がありましたね。繰り返しになりますが④に該当する企業に対しては人事施策を示唆するつもりはありません。その逆で、社員の成長を望み、しかも②のように事業ノウハウもあるのに、育成が弱点となっている企業に対しては、キャリアの階段づくり(次節)を示唆して、TypeAもしくはTypeBへの移行を支援します。
 残った①と③の企業ですが、私はこうした企業は、そのままの形である一定数日本に存続し続けてほしいと思っています。(中略)こうした企業が、就職氷河期世代の未就業者や、大手をリストラされたミドル層、もしくは高齢者や女性など「弱者」の受け皿となってきました。日本型の問題を救ってきた存在です。街と山野の端境の里山が人心を癒やすのと同様に、社会にはこの手の企業が必要となります。
pp.204-205

※ 赤字下線は原文、太字下線は引用者による

ここで指摘されている「弱者」の受け皿としての中小企業は、10年以上前に『「若者はかわいそう」論のウソ』でも海老原さんが「若者」について指摘されていたこととも重なりますね。私の「人事の組み立て」がつまずいたポイントというのもここに関係していまして、②に該当する会社として進むべき方向は(アプリとOSの関係からすると)TypeBになるものの、経営陣のイメージは①、③の方向に落ち着いてしまいそうになりがちです。そこで何が起こっているかというと、TypeBに移行するために必要な人事制度などのハード面と、それを実際に運用(採用・育成)するためのソフト面の両面で、そこまで手を回すのが面倒だし、どうせ採用も育成もできないとして現状維持に戻るという堂々めぐりです。もっと卑近な言い方をすれば、「そこまで面倒なことをするくらいなら、いまのそこそこの売上で会社を維持するほうが手間がかからないし、経営陣も社内の権限を独占できて好都合」というわけです。

でまあ、上記の④分類で②に該当する企業がすべてTypeBに移行すべきかといえばもちろんそうではなく、現状を維持することも①、③の方向を目指すこともすべて、会社をどうするかという経営判断によるものですので、新たな人事の組み立てについてのプロ・コンの比較の結果として現状維持の判断に至ることも当然ありえます。ただし、現状維持は現状の人員態勢に基づくものですので、それが続くうちはその判断が有効であるとしても、採用と退職で従業員が入れ替わったり、経営陣の高齢化によって経営時が入れ替わったときの準備は必要となるわけでして、そうしたゴーイングコンサーンの観点からすると現状維持が得策であるかは微妙なところです。

とはいえ、本書がまさに海老原さんがこれまで取り組んでこられた若者論はもちろん、ワーク・ライフ・バランス(WLA)、ブラック問題、非正規問題、女性問題、ミドル/シニア問題の5つの問題を俎上に載せて論じているため、現場でそのすべてに目配せするのは、特に日本型雇用慣行のように精緻に作り込まれた人事制度もないような中小企業はなかなかに労力がかかるのも事実です。正直なところ、私も人事の組み立てを進めながらどこから具体的に手をつけようかと日々悩んでいるところですが、本書では217ページ以降で前回エントリで取り上げたリーダー育成論を含めて具体的な手順が記されていますので、こちらを参考にさらに社内でのロジを進めていこうと考えております。

 もちろん、お題目どおり、育成計画策定・人材選抜・育成計画の進捗管理は必要です。それ以上に、人事的にはこの仕組みがとても好都合だということを忘れないでください。
 この委員会に、経営のいうことを聞かない、事業部担当の厄介な役員を入れたとします。そして、この役員の評価は、事業部の業績で半分、残りの半分は「育成委員会での活動」で決まるとしたらどうでしょう?
 日本企業は強い人事権を持つと言われながら、その人事権は、現場の声に抗いきれないところがあります。
(略)
 この壁を破るのに最適なのが「育成委員会」に難敵を入れて、こちらの味方にしてしまうことなのです。GEなどはエグゼクティブの評価の軸足を育成委員会での活動実績に置くため、上位層がこぞって育成に力を貸します。
 こうした「蛇の道は蛇」というしたたかな考え方をぜひ学んでください。
 そして、形ばかりの欧米流からは脱却してほしいところです。

海老原『同』pp.236-238

ということで、海老原さんのHRmicsを含めたこれまでの執筆活動の集大成のような本書でありながら、自分の関心領域に引き付けた感想に終始してしまいましたが、コロナ禍での雇用・労働を巡る迷走を整理するためにも重要な指摘が満載ですので、(半ばを過ぎてしまったものの)ゴールデンウィークに読み込んでみることをオススメします。
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2021年03月28日 (日) | Edit |
前回エントリの最後で

「階段を降りるコース設計」は個々の労働者の働き方として目指すべきものとは思いますが、組織としての意思決定の健全性を確保するためには、こうした専門性を有する者が管理職と対等に対等に伍することができる仕組みも必要なのではないかと思うところです。そして、そうした専門的な見地からの指摘を最低限理解できる知性が管理職には求められるわけですが、特に大企業や役所のような組織においては「お前のリソースを組織のために使わせろ」というスキルだけに特化した管理職が多くなる傾向がありまして、そのような管理職は往々にしてパワハラクソ野郎であり、組織内のリソースを自分好みにアレンジする「ロジお化け」として組織を牛耳っていくんですよね。政府のコロナ対応も、専門性を軽視して全体最適を追求する「ロジお化け」たる経産省の跋扈ぶりの現れと考えればまあ納得がいくような行かないような。。

「日本型雇用慣行における管理職(2021年03月22日 (月))

というようなことを書いたのですが、「ロジお化け」という言葉は私が勝手にいいだしたものですのでその補足を兼ねて某所で読んだ管理職についての考察を取り上げてみたいと思います。

とはいえ、もちろんそんな大した話ではなく、まず「ロジお化け」というのは日本型雇用慣行において組織内規範を身につけ(たと認められ)て職能資格を積み上げてきた中堅〜上層に位置する従業員の傾向を示したものでして、まあつまりは「組織内での立ち振る舞いに長けて出世した従業員」のことです。業種によっては、特定の分野での専門的業績を評価されて出世した従業員もいるでしょうけれども、まあ業績と管理能力が直結するものではない以上、日本型雇用慣行における「管理職」とは長年組織内規範にそって職能資格を積み上げた従業員に対する「報酬」となります。そのような「管理職」自らの拠り所とするのは組織内規範であって、それがいわゆる「ロジ」ですので、日本型雇用慣行においては上層に行くほどその傾向が強くなることを「ロジお化け」と表現してみたものです。

そんなことを漠然と考えていたところ、「労政時報」で昨年末から「データから考える「理想の上司とは一体何なのか」」という連載が掲載されていまして、全5回の連載を読んでその考え方はまああいい線を行っていたのではないかと思った次第です。この連載はリクルートキャリアの高田悠矢氏によるものでして、日銀でマクロ経済・金曜ドメインにおける統計分析業務に従事し、2015年にリクルートキャリアへ転進した後は独立遊軍的にデータ起点の取組を行っているという経歴の持ち主で、人事領域における業務経験が全くなかったとされています。その高田氏が、居酒屋で繰り広げられる上司に対する愚痴を聞いてこのテーマを決められたとのことで、まあそれは上司に対する愚痴が酒の肴になるのは共通の話題として一番共感を得やすいからだろうとは思うのですが、仕事が終わってからも仕事(というか職場)の話で盛り上がるというのもいかにも日本的ではありますね。

内容については定期購読が基本の雑誌ですので詳細な引用は控えますが、その連載第1回では「平等主義が無能を招く」ことを喝破したピーターの法則を取り上げて「重要なのは昇進により必要となる能力を学習により獲得し続けること」であると問題提起し、連載第2回でリーダーシップ論が時代ともに変容していく様子を振り返っていきます。そのリーダーシップについての最新の研究では「リーダーシップにおける専門性の必要性」に関する議論が進んでいるとのことで、「深い専門技能をもっている上司の部下は、職場での幸福度が圧倒的に高い」という研究結果があるとのこと。連載第3回ではモデルを用いた分析を行い、マネージャーに対する満足度では、組織全体と売上目標を大きく上回った組織のみの比較では公社において「専門性」に関する項目の重要度が高いという傾向が確認されています。

そして連載第4回では上司と部下の満足度の因果の方向をデータで分析したものの、人材理解と動機づけの効果がはっきり示されないとして、第5回でリクルートキャリアで人事業務歴の長い管理職の1on1ミーティングに同席した結果から、内的動機を引き出す上司の重要性が示唆されて連載は終了するのですが、個人的な感想としては、この内的動機が専門性に強く関連しているのではないかと思います。一般的な傾向として、仕事として得意な分野とか何かのきっかけで興味を持った分野とかで感じるよりも、学生時代を含む人生の中で身につけた専門性や造詣の深い分野のスキルを活用した仕事ができることに強く満足感を感じるものと考えられます。だからこそ、その内的動機を理解し、その発揮を促す上司に対して満足度が高くなるのではないでしょうか。

もちろん、仕事上の得意な分野として「ロジ」に特化することも内的動機の要因となり得ますし、日本型雇用慣行ではそうした組織的規範を身につけることでモチベーションを上げるように仕向けているともいえそうです。部下が専門性を有していることが担保される組織ならば、そうした「ロジ」に特化した管理職がその部下の内的動機を活用することで適切な判断もできたかもしれません。しかし、組織全体がそうした「ロジ」に特化することを評価するようになれば、部下が専門性を有するインセンティブは低下します。こうして組織内規範が重視される組織においては専門性は相対的に重視されなくなり、さらに組織内規範が最優先されるというループが生じ、個人が持つ専門性や造詣の深い分野のスキルが活かされる余地が減っていくと、内的動機による満足度も低下していくことになります。それが現在の日本的な組織において「「全体最適」なる合理主義」を防ぐどころか促進する役割を担い、時代錯誤だったり組織内部だけを意識した意思決定に偏っていく要因となっているように感じます。

これに対する処方箋は既に海老原さんが示されているように、組織内に「多様で層の厚いリーダー群」を形成するよう内的動機を重視した組織運営がなされる必要があるものと考えます。

大企業における「本部管理部門」や「事業部の経営企画」は、確かに扱う人員や金額の規模ではタフアサインメントといえましょう。しかし、一方で海老原さんが指摘されるように、それ以上の修羅場というのはもちろん他の職場にもあります。となると、「本部管理部門」などがタフアサインメントとなるのは、上層部からの厳しい注文にいかに応えるかという極めて組織内部的な事情によることになります。そしてそこに、パワハラを駆使するクラッシャー上司が生まれる余地があるのではないかと考えます。部下を恫喝してでも上層部の意向に沿った経営ができる者が「デキる上司」として出世していくというわけですね。

いやもちろん、海老原さんはそのような現状分析で終わらず、GEクロトンビルの牛島氏との対談で、リーダーを他分野出身の映画型とその分野出身のスポーツ型に分類して、業態に応じてそれぞれを育成するべきとの話を踏まえつつ、次世代経営候補の個性に合わせた育成を次のように推奨されます。

 リーダーの育成像など、詳細に作り込む必要はない。まず、どの企業でもあまねく必要なOS的要素を掲げる。次に、業界や企業のコアコンピタンスを乗せる。そして、大まかに時代が必要とする方向性でフェアゾーンを決める。あとは、そのフェアゾーン内で、候補者の個性に応じて育てていけばいい。結果、各人各流の個性が伸び、多様で層の厚いリーダー群が生まれる。その中で、時代に応じて、最適な人を選ぶ。だからこそ、往々にして、先代と時代で経営の方向が大きく変わる「振り子」運動が起き、経営が引き締まる。
HRmics vol.30』p.23

「多様で層の厚いリーダー群」こそは、かつての日本型雇用慣行が得意としていた人材育成ではないかと思います。ところが、層の厚いリーダー群を解体してフラット化したことによって、リーダーとしての役割よりもプレーヤーとしての役割が求められるようになり、層の薄いリーダー群から突如管理職が生みださなければならないという状況に陥っているのではないでしょうか。少数精鋭といえば聞こえはいいのですが、その少数というのは母数が大きいからこそ成り立つのであって、母数を小さくした上で少数精鋭に特化していくと、少数精鋭であるはずの少数者が、精鋭となるために十分なスキルを持っていない(持つことができない)という本末転倒なジレンマに陥るわけです。

多様で層の厚いリーダー群(2018年08月21日 (火))

まあ処方箋が示されてもおいそれと動きがとれないのが組織というものですし、以前は中間管理職としてそれなりに存在していた「多様で層の厚いリーダー群」を廃してフラット化し、組織的規範を身につけた従業員から優先してリーダーに昇進させてきたのが現在の日本型雇用慣行であることを考えると、日本の政策決定を含めた組織の意思決定はしばらく変わらなそうだなと遠い目をしてしまいますね。

2021年03月22日 (月) | Edit |
前回エントリでは海老原さんが提唱される働き方を取り上げましたが、その中でポイントになるのは管理職の位置づけではないかと考えております。hamachan先生が繰り返し強調されるように、戦後GHQの占領下で整備された現行の労働法令がそもそもジョブ型であり、その枠組みの中で現在もハローワークで運用されている職業分類においては、管理職も営業職や事務職と同じ個別の分類とされています。ということは、日本型雇用慣行が現行の労働法令と乖離しているように、日本型雇用慣行における「管理職」もジョブ型における「管理職」とはだいぶ異なるものと考えるべきではないかと。

海老原さんが提唱される働き方において「管理職」について言及されている部分を引用しますと、

階段を降りるコース設計

 まず管理職。厳しく言えば、係長クラスまで完全に職務(ポスト)主義に変え、ポストの数は定員制にする。お情けで新たなポストを作ったりせず、あくまでも業容にふさわしい定員を守る。スペシャリスト系の上位職を設けるのもよいが、それも組織にふさわしい定員にする。そして、定員が一杯なら、決して増やさない。すべて欧米流の基本だ。
 続いて、成長の終わった時点で、昇進しない限りは昇給もやめる。この点については、職能資格制度の生みの親である楠田丘さんさえも、20年も前から強く主張されていた。楠田さんは「38歳」をその年齢としていたが、会社や事業により、定昇上限は異なるだろう。

 そして、給与を上げないだけではなく、そこそこの業務量でさっさと帰る制度を作る。
『HRmics vol.37』p.26-27

という説明になっておりまして、管理職をポストとして位置づけて定員制とするという説明はその通りだと思うものの、おそらく日本型雇用慣行における管理職をポストとして位置づけることの困難さは、日本で職務(ポスト)主義が根付いていないということだけではないのではないかと考えられます。

というのも、日本型雇用慣行における管理職は実はほとんど「管理」をしていないんですよね。では誰が管理しているかといえば、管理職ですらない末端の社員が自らの業務のスケジュールを管理し、取引先や関係部署都との調整状況を管理し、経理の支払状況や関係法令に支障がないか確認しているわけです。もちろん、そのスケジュールの大枠を示したり、調整や確認の指示を出すのが「上司である管理職」でして、その指示によって部下が仕事をあらかた片付けた段階で「上司である管理職」の了承を得るというやり方が一般的ではないでしょうか。

ここで「上司である管理職」という書き方をしましたが、業務区分が曖昧な日本型雇用慣行における「管理職」の役割は、上司として指示を出してその成果をチェックするという点に重点がおかれることになります。そして、業務区分が曖昧であるが故に、「上司である管理職」はどんな指示もできるし、どんなチェックでもできてしまいます。「上司である管理職」が認めなければ仕事が終わらず、逆にそのお墨付きさえ得られれば仕事は終わってしまうことになるわけで、前者に偏った上司がいる職場はブラックになり、後者に偏った職場の場合は部下はその上司のご機嫌を損なわないような仕事をすることになり、結局どちらも上司の顔を見ながら仕事をすることになってしまうんですね。

日本の現場では長らく「全体最適」がマジックワードとなっていて、「それぞれが自分の担当に閉じこもってしまう部分最適ではダメだ。全体最適を目指すべきだ!」といえば、何か言った気になることができる風潮があります。おそらくそこには、専門的な見地は局所的な視点に陥りがちだから、全体を俯瞰して判断しなければならないという、それ自体は誠にもっともな理屈があるのでしょうけれども、その裏には「職能資格を積み重ねた上司の判断に従う」という日本型雇用への信頼があるものと思われます。しかしそれは、専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうという危険性を孕むものと思われます。

「全体最適」なる合理主義(2020年02月27日 (木))

日本型雇用慣行においては、管理職の主な仕事は「管理」そのものではなく、部下が管理した仕事が全体最適に適うように調整することです。しかし、部下が調整したり確認したりした仕事は、その部下が理解して処理できる範囲では適正かもしれませんが、より精密な処理が求められる場面で十分かどうかは全体最適だけでは判断できない場合も当然ありえます。

さらに、全体最適というのは要は「お前のリソースを組織のために使わせろ」ということを組織として命令することですので、関係部署に確認したり、場合によっては外部の専門家に確認したりしたところで、上司である管理職がその確認結果を認めるかどうかは結局、全体最適に適うかどうかという基準に戻りがちです。要すれば、「俺の望む全体最適に合致しない専門性は不要」という判断が往々にしてなされてしまうわけで、「○○(上司)がこうしろといっているんだからその通りにしろ」とか「組織のメンツが立たないからそれはできない」という全体最適が実現してしまうことになります。

いやもちろん、組織として仕事をする以上全体最適に適うことは重要なのですが、ことほどさように全体最適を旨とする組織運営ではいわゆる「集団浅慮」が生じやすいといえます。そうした日本型雇用慣行における「上司である管理職」の現在の役割を踏まえると、全体最適が全体主義体制に容易に通じてしまうという点についてはかなり無防備といわざるを得ません。これを防ぐためには、「お前のリソースを組織の為に使わせろ」といえるだけの豊富なリソースを組織として有する必要があります。つまり、管理職として判断する立場以外の組織内の者が必要な専門性を有し、それを組織の意思決定に反映させられるだけの権限を有することが重要になるものと思われます。

「階段を降りるコース設計」は個々の労働者の働き方として目指すべきものとは思いますが、組織としての意思決定の健全性を確保するためには、こうした専門性を有する者が管理職と対等に対等に伍することができる仕組みも必要なのではないかと思うところです。そして、そうした専門的な見地からの指摘を最低限理解できる知性が管理職には求められるわけですが、特に大企業や役所のような組織においては「お前のリソースを組織のために使わせろ」というスキルだけに特化した管理職が多くなる傾向がありまして、そのような管理職は往々にしてパワハラクソ野郎であり、組織内のリソースを自分好みにアレンジする「ロジお化け」として組織を牛耳っていくんですよね。政府のコロナ対応も、専門性を軽視して全体最適を追求する「ロジお化け」たる経産省の跋扈ぶりの現れと考えればまあ納得がいくような行かないような。。

2021年03月19日 (金) | Edit |
去年7月に発行された『HRmics』vol.36で「次号で最終号となる」との発表があり衝撃を受けていたところですが、ついに最終号となるvol.37が発行されましたので拝読いたしました。最終号の特集は「少子化」で、海老原さんの編集後記に曰く「最終号はかねがね「女性系の特集で」と語ってきました。…私の雇用ジャーナリストとしての一丁目一番地は「女性問題」」とのことで、いつもにも増して力の入った海老原節が全開です。これまでは特集の内容と関係ない時事的な写真が表紙に掲載されていたのですが、最終号でついに表紙と特集がリンクしたのも迫力を増している一因となっていますね。

特集のテーマは確かに「少子化」なのですが、実は海老原さんが従来から提言されいた「接ぎ木を落とし所として海老原さんが提言されるのは、「途中まで日本肯定型」」に対する実現可能性を重視した再提言となっているように見受けました。

この「接ぎ木型」の提言についての労使の反応はかなり厳しかったとのことで、

●どうしても日本人は「誰もが上れる階段」が捨てられない

 私は一時期、35歳くらいまで日本型の「誰もが階段を上る」仕組みを残し、その時点で明らかにもう将来は見えるから、役員や社長になれる目がない人たちに、階段から下りてもらって、そこで昇進昇給を止める。その分、ワーク・ライフ・バランスも充実、というコース設計を推奨していました。
(略)
 こんな話を大手企業の人事や組合でよくしたものです。ただ、頷いてもらえることはありませんでした。
 結局、日本では企業も人も、「誰もが上れる階段」を望んでいて、その階段を壊すことは、労使ともに嫌なようです。
 でも、現実社会では、大卒比率がどんどん高まり、「誰もが上れる階段」に女性も多数入ってくる。共働き比率は高止まり、家事育児介護は誰がやるのか、という問題も否応なく迫ってきます。さあ一体、どうするのでしょう。
(略)
 さて、最後に中野さんにもう一度聞きます。
「短時間勤務でも、やりがいのある仕事が用意され、評価も平等で、キャリアにも遅れが出ない」ような、育児社員の希望を全てかなえたコースを、やはり会社は作るべきですか?
 それとも、「ライフイベントに即して、キャリアはストップするが、それでもコースアウトはせず、暴風雨の時期が過ぎたら、また上れる」コースを作るべきですか?
 ちなみに、私は断然後者ですね。エリート街道とは縁遠い人生でしたし、同調圧力とも距離を置いて生きてきましたから(笑)。
名著17冊の著者との往復書簡で読み解く 人事の成り立ち 新刊
「誰もが階段を上れる社会」の希望と葛藤
海老原 嗣生 著、荻野 進介 著
出版年月日 2018/10/26
ISBN 9784561227175
判型・ページ数 4-6・360ページ
定価 本体2,315円+税

これは海老原さんから中野さんへの問いかけでもありますが、世のすべての正規労働者への問いかけでもありますね。そしてそれは、正規労働者のみならず、非正規労働者に置き換えられた「階段を上らない」仕事に就いている労働者にも無関係ではありません。「階段を上る」のが正規労働者の要件でなくなれば、正規と非正規の区分はだいぶ曖昧になっていきます。もちろん、「階段を上る」割合が違ったり、その到達点が異なることはあるとしても、「青空の見える労務管理」で「階段を上」り続けるトップ層の正規労働者と、「階段を上る」ことなく専門性を高める労働者の間にグラデーションを持った働き方が可能になることも考えられます。

いや、「考えられます」という悠長なことは言ってられません。海老原さんが指摘されるように、「現実社会では、大卒比率がどんどん高まり、「誰もが上れる階段」に女性も多数入ってくる。共働き比率は高止まり、家事育児介護は誰がやるのか、という問題も否応なく迫ってきます。さあ一体、どうするのでしょう」という現状にあって、いつまで日本型雇用慣行を維持できるのかという問題に向き合わなければなりません。大きくは2本立ての人事労務管理とし、その両者の間にグラデーションを持った働き方を作っていけるのかがこれからの喫緊の課題となるものと考えます。

グラデーションを持った働き方(労働史観の私的推論 後編)(2018年11月11日 (日))


この問いに対する回答が、「むすび」に記載されている海老原さんの提言と思われます。なるほど「最終号はかねがね「女性系の特集で」」というのはこういうことだったのかと勝手に合点した次第です。私自身もこのエントリをアップしたときとは立場が変わってまさにその喫緊の課題に向き合っている最中なのですが、いやまあ前途多難だなと心が折れそうになるところ、今回の特集でまた新たに心強い応援をいただいた思いです。

海老原さんの編集後記ではまた、「軽薄な流行追随ではなく、大向こうをうならせる一擲を打つ。そんな思いは存分に叶えました」と書いていらっしゃるとおり、この最終号はもちろん、『HRmics』の特集はタイムリーな話題を取り上げていながら、そこに至る歴史的な経緯やその間に関わったさまざまな立場の利害関係をざくざくと掘り起こしていくある種の「爽快感」に満ちあふれていたと感じます。ときに過激に走りそうな海老原節を的確に形にしながら客観的視点を交えていく荻野さんの手腕も冴え渡っていました。

『HRmics』という形でお二人の言説に触れることができなくなることは淋しい限りですが、お二人とも編集後記に書かれているようにまたどこかでお目にかかれることを楽しみにしております。お二人をはじめスタッフの皆様13年間お疲れさまでした!

2021年03月15日 (月) | Edit |
この3月11日で東日本大震災の発生から10年が経過しました。拙ブログでは震災後しばらく月単位で経過時間を記載しておりましたので、それに従えば120か月が経過したことになります。個人的な感想としては、この120か月を長いと感じるか短いと感じるかというと、私のようなアラフィフともなれば早いものだなあというのが正直なところです。この10年で当時30代だったのが40代も終盤にさしかかり、地方公務員から民間企業に転職して大きく環境が変わったとはいえ、震災前と震災後に大きな断絶があって、記憶が「震災前/震災後」で区分されているという感覚です。

拙ブログでは2017年2018年に政府主催の追悼式での秋篠宮様のお言葉を引用しておりましたが、年号が変わって初めて天皇陛下が出席されたとのことで、そのお言葉の一部を引用いたします。

今後、困難な状況にある人々が、誰一人取り残されることなく、一日でも早く平穏な日常の暮らしを取り戻すことができるように、復興の歩みが着実に実を結んでいくよう、これからも私たち皆が心を合わせて、被災した地域の人々に末永く寄り添っていくことが大切であると思います。

(略)

我が国の歴史を振り返ると、巨大な自然災害は何度も発生しています。

過去の災害に遭遇した人々が、その都度、後世の私たちに残した貴重な記録も各地に残されています。

この度の大震災の大きな犠牲の下に学んだ教訓も、今後決して忘れることなく次の世代に語り継いでいくこと、そして災害の経験と教訓を忘れず、常に災害に備えておくことは極めて大切なことだと考えます。

【全文】天皇陛下のおことば 東日本大震災10年 犠牲者の追悼式(2021年3月11日 15時36分 NHK)

確かに東日本大震災はその規模や範囲において最大級の自然災害でしたが、この10年の間に熊本、北海道でも震度7の地震が発生し、各地で「数十年に一度」規模の大雨や台風の災害も発生し、今年の冬は記録的な大雪による被害も多発しました。天皇陛下のお言葉も、東日本大震災だけではなくあらゆる自然災害によって被災された方々を念頭に置いたもののように思われます。それはおそらく、東日本大震災の政府主催の追悼式は今年を最後とするため、全国民に向けたメッセージとしての役割もあったのでしょう。だからこそ、「誰一人取り残されることなく」として「過去の災害に遭遇した人々が、その都度、後世の私たちに残した貴重な記録」を教訓とすることを強調されたのではないかと思われます。

10年前も記録的な大雪の年でして、2010年から2011年の年末年始の大雪によって停電となり、紅白も年始の特番も見られなかった地域がかなりの広範囲に及んでいて、やっと3月になって暖かくなるかと思った矢先に震災が発生し、その日以降も気温が低く雪が降り続いていたことを思い出します。私の住む地域も震災から停電が続いていましたが、3日目の3月14日の午後8時ころ、近所の道路の街灯が点いたのが見えたと思ったら一気に家中の家電が動き出して、慌てて漏電などがないか確認して回り、久しぶりの入浴やら洗濯などを済ませて一段落してからアップしたのがこのエントリでした。

今回の大震災で甚大な被害に遭われた方々にお見舞い申し上げるとともに、お亡くなりになった方々に心より哀悼の意を表します。

私自身の周辺はかろうじて大きな被害はありません。当面は被災された方々への支援に全力で取り組んでおります。物資等を支援していただいている皆様に改めて御礼申し上げます。取り急ぎのご報告とお礼です。

ご報告とお礼(2011年03月14日 (月))

震災から3日間、家は停電していたものの役所は自家発電が生きていたので、仕事をしている間はずっとテレビ、具体的にはNHK総合をつけっぱなしにしており、被災地の状況はそれなりに知ることができました。NHKがその3日間の映像をまとめてアップしているのですが、ほぼすべての映像を見た記憶があり、当時の不安な気持ちが蘇ってきます。

地震発生から72時間(NHK 東日本大震災アーカイブス)

私はこの翌日から被災地の避難所支援のため現地に入ることになりました。といっても、普段書類づくりやら会議やらに追われている地方公務員にできることなど限られています。とにかく走り周りながら被災された方の話を聞いて打ちのめされ、すべてを失って茫然自失となりながらも避難所の運営に黙々と、ときには冗談を言い合い、本気で喧嘩しながら対処する姿に圧倒されるばかりでした。

避難所での支援活動の中で最も精神的に堪えたのが、NTTが被災地支援として設置した衛星電話を使って、1人1分の時間制限で安否確認の電話をしてもらうというものでした。沿岸地域は震災からずっと停電の復旧はおろか携帯電話も固定電話も通じず、テレビ電波の中継所も機能しなかったため、被災された方々は電話で離れた知人等と連絡を取ることもできず、テレビ中継を見ることもなく、自分が見た状況以外は知らない状態だったわけです。そこに衛星電話が設置され、被災された方々が行列を作って次々に安否確認しようと電話するのですが、皆さん同じ町内とか隣の町の家族や知人に電話しようとして「つながらないよ」とおっしゃります。その都度、我々が内陸で見たテレビ中継の様子をお話しして、沿岸部は青森県から関東の一部まで壊滅的な被害を受けているので電話はつながらないと説明しなければなりません。そして、家族や知人と電話できると期待して衛星電話に並んでやっと順番が来た皆さんが、その話を聞いて一気に落ち込むのを目の当たりにすることになります。東京など離れたところの家族や知人に電話する方も、そのお話が家族や家が津波に流されたという内容ばかりで、ご本人が一番辛いのはもちろんですが、整理に当たっている我々も厳しい現実を突きつけられて言葉がありませんでした。

そのときの感想を「被災地支援について(追記あり)(2011年03月18日 (金))」としてアップしたところ、多くの方にご覧いただいただき、拡散したり励ましのコメントしたりされる方々を拝見したことで私自身も一息つくことができたのですが、今考えるとそれは自分の無力感の埋め合わせだったのだろうと思います。その後も被災された地域への支援策についていろいろと考察してみたところですが、あのときの無力感は今も消えていません。仕事は変わっても一生抱え続けていくことになりそうです。