2017年09月17日 (日) | Edit |
以前のエントリで10年前に取り上げた香西先生の『論より詭弁』の有用性を再確認したところですが、改めて読み返してみて名言のオンパレードでしたので今後のネタのためにメモしておきます。

 私はこの第一章に、「言葉で何かを表現することは詭弁である」という題を掲げた。が、こんな法螺が吹けるのは、詭弁と、そうでないまっとうな物言いを特別するのが、多くの場合、それほど簡単なことではないからである。すでに「順序」や「連結」の例で説明したように、ごく普通に言葉を使っているつもりのときでも、われわれはほとんど詭弁と違わないことをやっている。そして、今の例に見られるように、現実のモノ・コトと言葉とが本来的に一対一で対応しているのでない以上、それを表現するのに、自分にとって最も都合のいい言葉を選択して使用することもできる。つまり、われわれは、表現しようとする対象を、ある程度は自由に「名づけ」ることができる。そしてその程度が度を超したとき、われわれはそれを詭弁と罵るのである
p.44

論より詭弁
反論理的思考のすすめ
香西秀信/著
2007年2月16日発売
定価(本体700円+税)
ISBN 978-4-334-03390-3
光文社新書
判型:新書判ソフト

※ 以下、強調は引用者による。


権丈先生も「事実は価値判断とは独立に存在し得ない」と指摘されている通り、どんなに客観的に記述しようとも、それを記述するための言葉を選ぶこと自体に価値判断が織り込まれているわけです。

 つまり、事実と意見の区別を主張する人は、ある話題の表現がどのように選択されているかばかりを見ていて、そもそもその話題の選択がなぜなされたのかについてはまるで考えていない。例えば、Kが結婚適齢期にある、独身の大学教員だとしよう。ある人がKについて、「Kは次男だ」と発言した。もちろん、Kが次男であるかどうかは、事実として明確に検証可能である。だが、「次男」という事実を話題として選択肢、聞き手に伝えようとするその行為において、「Kは次男だ」は十分に意見としての性格をもっている。
 このあたりの事情は、テリー・イーグルトンが、序章で紹介した書物の中で的確に指摘している。

…このとき明らかになるのは、いま私が客観的な陳述のつもりで口にした言葉の背後にある、意識されざる価値判断の体系である。こういった価値判断は、「この聖堂はバロック建築の壮大なる典型である」といった判断と必ずしも同じではないが、にもかかわらず価値判断の一種である。つまりいかなる客観的な陳述も価値判断であることから逃れることはできないのだ。事実の陳述は、結局、事実でなく陳述である。事実の陳述もひと皮むけば、そこには数多くの価値判断がひそんでいる


香西『同』pp.53-54


事実の陳述に価値判断がひそんでいるのと同じように、定義付けもくせものでして、議論好きな方には次のような傾向がよく見られますね。

 何よりも、定義には、それを読む人に例外や矛盾を探させる衝動をもたらす妙な性質があるらしい。だから、私がうっかり詭弁を定義したりなどすると、全体の論旨などはそっちのけで、私の詭弁の用法とその定義とが合わぬ箇所を見つけ出し、鬼の首を取ったかのように凱歌を上げたりする。こういうのに付き合うのはうんざりなので、だから、ここでは詭弁の定義も虚偽の定義もしない。
 これはレトリックや論理(論理的思考)など、他の用語についても同様である。どちらの言葉もきわめて歴史が古く、さまざまな意味に用いられているので、通常、定義という操作で許容される形式と分量によって、そのすべての使われ方を統一するのは不可能なのである。自慢にもならないことだが、私があえてそれらを定義すれば必ず誤るだろう。
 だから質の悪い人は、相手に対する定義の要求を、論争での武器の一つとして使用することがある。論敵の発言から適当な言葉を拾い出し、「あなたは○○という言葉をどのような意味で用いられていますか」「あなたの使っている××という言葉を正確に定義してください」などと要求する。そして、相手が言葉に詰まったり、四苦八苦してずさんな定義を口走ったりなどすると、喜び勇んで襲いかかり、その揚げ足をとって勝ち誇るのである

香西『同』p.89


実はこうした「揚げ足をとって勝ち誇る」態度はけっして定義に限ったことではないわけですが、厄介なのはそうした議論を好む方の真意が外見上はわからない点にあります。

 言葉の定義や基準の明示を要求することは、それだけを見れば、十分に正当で、論理的な行為である。相手が使った言葉について、その意味や使い方がわからないと言い、それについて正確な説明を求める。この行為のどこにも、非難するところはない。問題は、こうした正当な定義の要求と、相手を引っ掛けるための定義の要求とが、外見上は全く区別がつかないことである。……論理的であろうとすることが、しばしば正直者が馬鹿を見る結果になる。相手の意図などわからないのだからと、定義の要求に馬鹿正直に応じ、その結果散々に論破されて立ち往生する。いつでも論理的に振る舞おうとするから、論理を悪用する口先だけの人間をのさばらせてしまうのだ。われわれが論理的であるのは、論理的でないことがわれわれにとって不利になるときだけでいい

香西『同』pp.92-93

香西先生も「論理的には邪道で、ルール違反と言われても仕方がない」としていますが、相手を貶めるためだけに論理的に振る舞う相手には、論理的である必要はないという割り切りも必要なのでしょう。とはいえ、現実問題として見てみれば、例えば仕事の場でそれが通用するかというと難しい現状があるからこそ、クレーマーがさまざまな社会問題を引き起こしているわけですが。

 ミルがここで言う、勢力がある/ないの区別は、必ずしも現実の権力の強弱を意味しない。かつて、政治勢力としてはまったく無力だったあるイデオロギーが、アカデミズムやジャーナリズムの世界では最も勢力のある側であった。その側の人間は、反対勢力に対して詭弁を弄し、罵詈雑言を尽くして口汚く罵ることが許され、反対側の意見は、それが彼に反対であるというだけで、無知、浅薄、愚問、狡猾、陰険、すり替え、揚げ足取り、などと評され、その意見を抱いた者はしばしば文壇や論壇から村八分にされたのである。
 もちろん、こうした現象は「かつて」に限ったことではない。次にわれわれは、格好の材料を例として、ミルの指摘した現象がわれわれの現実世界でどのような現れ方をするのかを見ていくことにしよう。すなわち、勢力のある側が勢力のない側に「法外の罵言を逞しくして」「反対意見を抱いている人々に防いで不道徳な人物という烙印を押」したりしたにもかかわらず、「誠実な熱意と正当な義憤をもっている人として賛辞を呈せされ」た例である。

チョムスキーの不満

 生成文法理論の創始者であるノーム・チョムスキーは、あるインタビューの中で、自分が新しい理論を提唱するたびに、すぐに「それをつぶしてしまおうとする」研究者が多いことを嘆き、言語学者のタイプを二つに分類している。

 知的興味を起こさせるような着想、間違っているかもしれないが、とにかく、知的興味をそそり、遠大で、大胆なアイディア、そういったものに言語学者が出会った時、その反応に応じて二つのタイプに分けることができます。まず第一のタイプは、そういう考え方を信じたくないので、とっさの直感的な反応として、まず反例を探そうとする。こういうタイプが言語学者の圧倒的大多数です


香西『同』pp.95-96

ここで例示されているチョムスキーは、他人事のように批判する第一のタイプにこそ当てはまると香西先生は指摘されているわけですが、その香西先生の批判の中には、学者や研究者に対する「論理的であるはずだ」という信用を利用している点でより悪質だという思いも込められているのでしょう。「現実の権力の強弱」ではなく議論に参加しているアクターが多数派であるかどうかに議論が左右され、それを学者とか研究者と呼ばれる立場の方が扇動するというのは、特にSNSを中心とするネット界隈でよく見る現象ですね。

そして、煙草を吸いながら「煙草は健康に悪いからやめろ」と他人に説教するような人は、その言説がいくら客観的に正しいとしても信用されないという議論に対しては、論理学の観点から、あるいは論理的であろうと振る舞う方々から「人に訴える議論」であると批判されることが多いのですが、その「論理的」な価値観に香西先生は正面から疑問を呈されます。

 しかし、開き直るようだが、論点をすり替えてなぜいけないのか。そもそも、「論点のすり替え」などというネガティブな言葉を使うから話がおかしくなるので、「論点の変更」あるいは「論点の移行」とでも言っておけば何の問題もない。要するに、発話内容という論点が、発話行為という論点に変更されただけの話である
 われわれの実社会でも、さまざまな事情を慮ることにより、議論の論点が本来のものから変更された例などいくらでもある。例えば、ある天才的な数学者が、電車内で女子高生に痴漢をして捕まったとする。そのとき、誰かが、痴漢をするようなやつの論文など信用がおけぬなどと言い出したとしたら、その人は、「人に訴える議論」(「悪罵」型)の虚偽を犯しているといえよう。数学者の痴漢という行為と、彼が証明した定理の正しさとは、それこそ何の関係もない。
(略)
…ここで、その数学者の論文が巻頭論文に選ばれた論点と、それが巻頭論文からはずされた論点とは、明らかに異なっている。つまり、論点の変更ないし移行が行われたのである。これに対し、尻の青い若手数学者が、たとえ痴漢をしようが殺人をしようが、彼の論文の価値は不変なのだから最初の予定通り巻頭に置くべきだと喚いたとしたら、その若手数学者は論理的かもしれないが、組織の中では彼の言葉は聞く耳を持たれない(偽悪的な−−悪を衒う−−文学者の組織なら、もしかすると別様の行動をとるかもしれないが)。社会では論理よりも常識が優先されるのである

香西『同』p.129

つまり、発話者に問題があったり、発話と発話者の行動に矛盾があったりすれば、発話そのものの真偽ではなく、発話者の行動との整合性に論点が移行するのが社会の常識であろうということです。個人的には「社会の常識」というのはやや言い過ぎの感がありますが、「言うこととやることが正反対であっても、発話の内容のみに着目して議論するのが論理的に正しい」という主張は、感情を持った人間同士が議論するという現実を無視した机上の空論だろうとは思います。

立証責任の移動

 先ほどの捕鯨の例を再び取り上げてみよう。もしそのアメリカ人が、本当に捕鯨は「悪」であると思い、それゆえに日本の捕鯨を批判するのであれば、彼には、なぜ自国の捕鯨は不問に付し、日本のそれだけを問題にするのかということについて説明する義務がある。すでに述べたように、伝統的な論理学では、「お前も同じ」型の議論は、「論点のすり替え」という詭弁(虚偽)に分類されていた。確かにこの場合も、論点は、日本の捕鯨は果たして是か非かということから、なぜ日本の捕鯨だけを問題にするのかということに「すり替え」られる。が、それは本来優先して検討すべき論点に「すり替え」られたのである。あくまでもこの問題を持ちだしてきたのはそのアメリカ人なのであるから、われわれが日本の捕鯨について弁明するよりも先に、彼が自らの首尾一貫していない態度について弁明する責任を果たさなくてはならない。これが正しい議論の順序である
 「お前も同じ」型の議論は、このように、立証責任を本来負うべき側に与えるという機能がある。

香西『同』p.133

最近は政治家に対して「自分の行動を棚に上げて他人を批判する行為」が問題とされているようですが、それは立証責任を負うべき発話者に当然の義務を課すものといえます。というか、自分の行為と発話が矛盾するということ自体は人間なら普通にあることであって、自身がその場面に遭遇したときにどういう行動をとる必要があるか、あるいはどのような立証責任を果たさなければならないかということは、「論理的」であろうとするなら常に考えていかなければならないのでしょう。
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2017年09月10日 (日) | Edit |
ということで、すっかり更新ペースが乱れ気味ですが海老原さん編集のHRmics vol.27が発行されていて、特集が「年金問題の根源は、日本人の心」とのことで、これは拙ブログとしては早速取り上げなければ!!…と思いつつ、すでに1か月ほど過ぎてしまうという体たらく。なんとか時間がとれましたのでじっくりと拝読しました。

といいつつ、1章から2章まではこれまで年金を巡る議論に対する丁寧な説明となっていて、そうした有象無象の議論に見飽きた方々には改めて再確認的な内容ですので各自で読み込んでいただく(必読ですよ!)として、3章の森戸先生の解説はちょっと意外な組み合わせでした。不勉強ながら森戸先生は専門委員会の委員長として企業年金の議論を進められた経験をお持ちで、その際の生々しい議論の説明が秀逸です。

 P18の「森戸の一頃③」にソフトパターナリズムの話が出てきたよね。
 選べる商品が多すぎると人って逆に選べなくなっちゃうって話。お菓子屋さんに並ぶキャンディーだと、100種類もあるより3〜5種類くらいの方が売れるんだってさ。
 そんな考え方が、2016年の確定拠出年金法(DC法)の改正にも盛り込まれたんだ。
 確定拠出年金でラインナップに並ぶ運用商品の数の上限が政令で決まることになったわけ。
 普段は初老の三流教授なんて自虐的プロフィールを語っている私だけど、実は、その時の厚労省の「社会保障審議会企業年金部会・確定拠出年金の運用に関する専門委員会」の委員長もつとめてたんだよね(舌噛みそう)。だから、このあたりの議論の経緯もよく知ってます。
 で、その時に、上限数の設定だけでなく、③で触れた「商品が多くて選べない場合、自動的にチョイスされるデフォルト商品」(指定運用商品)についても議論したよ。
 世間の金融情勢を反映できるよう、よりアクティブなものの設定を原則とするべきだ、と。ただ、そうすると、金融不況時などは年金資産の元本割れも起こると、侃々諤々に話し合いが続いて、さ。
 結局、時期尚早だと、その話は無しになりました。
 いろんな業界からヒアリングもしたんだけど、やっぱそれぞれの立場があるからね。リスクをとり人が増えるとメリットがある人たちは推進派、逆にそれが向かい風になる人は及び腰って感じで
 企業の担当者は、総じて後ろ向きだったかなぁ。運用が失敗して元本割れになった場合、会社が訴えられる可能性もあるからということで。ここは④の「セーフハーバー」を復習しといてね。
(略)
 国や企業では、もう面倒見切れないから、自分の老後は自分で私的年金を、という流れが、世界的にはあるかな。でもそうすると、お金に余裕のない人は老後が灰色になってしまうでしょ
 公的年金には、所得の再分配機能が入っていて、格差是正にも役立つので、やはり柱はこれであるべき、という意見もあります。
 あ、でも、公的年金の再分配機能が強くなりすぎると、金持ちはたくさん拠出しても年金が増えず、それじゃ現役時代の裕福な生活レベルを維持できないっていうパラドックスが起きる。そこで今度は、金持ち用にある程度、私的な年金が必要という声が生まれることになる。
 こんな感じで、あっちをたたけばこっちが飛び出すというのが、年金制度の宿命なんだよね
 そうしたことをトータルで見て、誰もが損をしないような仕組みを作ってかなきゃなんないんだ。難しいし、時間もかかると思う

森戸英幸「森戸の「スゲー年金解説」」HRmics vol.27 p.20
※ 以下、強調は引用者による。

議論の場にいらっしゃった森戸先生ならではの臨場感あふれる説明ですが、まあ話し合いというのはこうした立場の異なる者同士がそれぞれの利害をぶつけ合うのが本質ですから、理屈通りとかデータ通りにものごとが決まるわけではないのが常態であることがよくわかる説明ですね。

そして4章で、満を持して権丈先生のインタビューが掲載されているのですが、ここでも小泉進次郎議員の「こども保険」を評価する発言がありますね。

 将来、増税した分の相当部分を財政再建に回さざるを得ないのが給付先行型福祉国家です。だから、高負担で中福祉、中負担だと低福祉ということになりかねません。増税を先送りにすればするほど、増税分のうちから社会保障の取り分が減り財政再建に回さなければならない分が増えていくわけですから、増税は早ければ早いほど望ましい。
 世代間格差を大きな声で言う人たちは、もっとこちらに注意を向けた方が生産的だと思います。贅沢もしていない水準なのに、今の高齢者向け福祉を取り上げ、「ずるい」と言うのはやめにした方がいい。高齢者だ勤労者だ若者だとか、なんだかんだと言うのは、今時、あんまりかっこいい話ではないと思いますよ。みんな年をとって高齢者になるんだから、自分が年をとっても、悲しい余生とならなくてすむように、今の若い人たちと高齢者が話し合いながら折り合いをつけていった方がよいと思う。そんなことよりも、国民負担率がずっと低かったため、膨大な赤字が生まれ、今後その負担を後世に背負わせる。そちらの方が問題です。世代間で問題にすべきは、「給付の不公平」ではなく「負担の不公平」でしょう。
(略)
 そう、社会保障の財源を考える場合も、すべて税金にすれば無年金者や無保険者がいなくなり、制度の普遍性が高くなります。ただ、税金はなかなかあげることができず、所得税や法人税は増減するので、安定性は低くなります。一方、社会保険料は安定的に徴収できますし、その料率アップも比較的容易です。これだけ増税の実現が難しいお国柄では、次善の策としてしばらくの間、社会保険ベースで国民負担率を上げて、速やかにとりかかるべき重要施策を開始するしかない。そうした意味で、小泉進次郎議員たちが今提唱している「こども保険」が、財源を公的年金保険に求めるのは理にかなった案だといえるのではないでしょうか。僕は、年金の他に医療保険も介護保険も、そして雇用保険も子育て支援の仲間に入れてもらいたいと言っているんですけどね(笑)。

「Interview データで語る、給付と負担の見たくない現実 権丈善一」HRmics vol.27 p.29

拙ブログでも「世代間対立を煽るということは、自分が歳を食ったときに自らが放ったブーメランで憤死することなのですよ。」なんて書いておりましたが、本特集でもデータが示されている通り、現状で貧弱な政府支出において高齢者向けの支出の占める割合が高いからといって「世代間格差ガー」と吹き上がる方々には、「いうまでもなく、現役世代向けの現金給付や医療などの公共サービスの水準が高いフランスやスウェーデンでは、その社会的支出を支える国民負担率が高いわけでして、その3分の2程度の国民負担率しかない日本では、現役世代向けの現金給付や公共サービスがクラウディングアウトされるのは当然の成り行きl」であるこことをぜひご理解いただきたいところです。

この文脈で考えたときに、権丈先生が提唱される「子育て支援連帯基金」について「「「本来」とか「そもそも」に続く話で、世の中、役に立った話は聞いたことがない」とまで言い切る権丈先生は、ここで勝負に出たのかもという印象」でしたが、改めてその趣旨を考えさせられました。端的には、現状の政治状況を考えれば、権丈先生が「これだけ増税の実現が難しいお国柄では、次善の策としてしばらくの間、社会保険ベースで国民負担率を上げて、速やかにとりかかるべき重要施策を開始するしかない」と指摘されるような現実を前にする限り、それに対処するならこうするしかないということなのでしょう。

以前取り上げた著書では、租税による普遍的な受益者負担と社会保険による選別的なそれを「租税抵抗」という言葉で対比して、

これまでみてきたように、日本の社会保障制度は人々の「共同の困難」に対処したものではない。それはむしろ、制度の分立状況やサービスが過小供給であることを前提に、受益者と非受益者という形で人々を分断させ、リスクを〈私〉化し、受益者負担を導くものである。受益の範囲が狭いために、反対給付を伴わない租税による財源措置では合意を得られない、という理由からだ。受益者負担の導入には、租税抵抗の回避がその根底にある。日本型負担配分の論理とは、このようなものだ。
p.72


『シリーズ 現代経済の展望 租税抵抗の財政学 信頼と合意に基づく社会へ』
著者 佐藤 滋 著 , 古市 将人 著
ジャンル 書籍 > 単行本 > 経済
シリーズ シリーズ 現代経済の展望
刊行日 2014/10/29
ISBN 9784000287364
Cコード 0333


…うーむ、この部分を読むと、政府の問題というより「租税抵抗」を示す国民が選別主義的な社会保障を志向しているという状況しか思い浮かばないのですが、本書は決して租税抵抗を示す国民を敵に回すことなく、その租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府を批判するんですよね。プリンシパル=エージェント的な意味で政府の行動を批判するならまだわかりますが、「民意」から遊離した政策決定を称揚するのでなければ、政府の行動はきちんと「民意」を反映したものという評価が妥当ではないかと思うところです。

「経済の領域よりも、むしろ政治的・心理的な領域(2015年10月26日 (月))」

という感想を持ったところでしたが、「租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府」が民意に従って行動しつつ、できるだけ普遍的な社会保障制度を構築しようとすると、「年金の他に医療保険も介護保険も、そして雇用保険も子育て支援の仲間に入れ」ることで普遍性を確保しながら、「社会保険に財源を求めつつ、その保険料に貼り付いた給付の請求権をいったんチャラにしたうえで、その使途を子育て支援連帯基金として主に現物給付により制限する」という制度につながっていくわけですね。

権丈先生のインタービューを受けて海老原さんは、少子高齢化の先の社会をこのように展望されます。

 ただ、そうは言っても、社会では現役世代が減り、彼らの負担のみがどんどん高まる。それは確かに不公平感が否めない。そこをどうするか。
 私はこの問題も、日本人の心がその出発点になっていると感じる。少子高齢化社会の悪いところしか見ていないからだ。
 今後は、高齢者が増え、現役世代は減るが、その分、現役世代は「雇用機会」が増え、待遇・給与の改善も進み、世帯収入は増えていく可能性がある。…(略)
 それでも人手は不足するから、今度は社会参加ができる高齢者が増える。そうした収入は生活の足しにもなるだろうし、それで年金を受給しはじめる年齢を自発的後ろ倒しにできれば、年金額自体も増やせる。何より、寂しい余生を送らなくてもすむ。
 そう、少子高齢化は悪いことばかりではない。問題は、それを前向きに受け止めるか否かだ。日本人はなんでも「ことの悪い側面」ばかりを強調する。それもついでにやめてしまおう。 
 次の社会を「世界で一番長寿を愉しめる環境のおかげで、女性も高齢者もスポイルされずに活躍できるようになった社会」と見るか、「長寿のせいで、女性も高齢者も働かなければならなくなった社会」と見るか、あなた次第ということだ。
 今の社会問題は、その一端が、私たちの「心」から発していると気づいておきたい。

「Conclusion 水と平和と福祉」HRmics vol.27 p.30

海老原さんはコラムのタイトルにある通り、この引用部の前段で「日本では水と平和はタダだという意識が強く、それに福祉も半ば加わっている」と指摘して、少子高齢化への対処も日本人の心の問題として、「悪いことばかりじゃない」社会を展望する必要性を提起されています。それは全く同意するところですが、ではなぜ日本人の「心」がそうなっているかといえば、それはとりもなおさず(特に男性労働者にとって)給与所得のみで生活するというメンバーシップ型雇用が強い規範として機能しているという、ある意味で循環的な隘路に陥っている状況が大きな理由として挙げられるでしょう。

その先に展望される高負担・高(中)福祉の社会が、雇用によって生活保障を確保するという社会に育った日本人に受け入れられるかも、極言すれば日本人の「心」の問題ではあります。つまり、メンバーシップ型雇用で生活給が完全に保障されるなら、わざわざ可処分所得を減らすような増税は「経済学的に正しくない」としてスポイルされてしまいますし、賃上げすれば再分配も必要なくなってしまいます。さらに労働受給が逼迫しても、現状のように集団的労使関係が労働者に見向きもされないままでは、賃上げの経路は閉ざされたままです。いやもちろん、集団的労使関係が見向きもされない原因の一端は戦後の労働組合の思想的闘争にあるとしても、憲法で保障された労働基本権を行使しない労働者が大多数であることがその直接の原因でしょう。日本人がタダだと思っているリストには、森戸先生や権丈先生が指摘される「話し合い」とか「(賃上げするための)労使交渉」も入れてあげた方がいいのかもしれませんね。

2017年08月20日 (日) | Edit |
これはちょっと持ち越しになっていたエントリですが、海老原さんが春先に立て続けに出された著書を拝読してなかなかまとめきれておりませんでした。というのも、先に発行されたキャリア論がちょっと消化不良なイメージだったところ、次いで発行された経済論の微妙な人選にも困惑してしまったからです。

まず、最初のキャリア論についての『クランボルツに学ぶ夢のあきらめ方』ですが、書名に「クランボルツ」という聞きなれない単語が出てきて、これが何らかのジャーゴンなのかと思って読み始めると、冒頭の「はじめに」の中で「クランボルツの計画的偶発性理論(planned happenstance theory)」として紹介されいていますが、クランボルツがそもそもどういう学者なのかは本書では一切触れられず、「キャリア論について少しでも勉強した人ならまず必ず目にする、いわば基礎中の基礎(引用注:「バイブル」とルビがあります)と言える理論です」とそれを前提に話が進められていきます。さらに読み進めると、たけし、さんま、タモリに松本人志を加えたお笑いビッグ4の言葉とバスケットの神様と呼ばれるマイケル・ジョーダンの経歴が紹介されていて、私のようにキャリア論に通じていない読者にはちょっと面食らう展開ではないかと思います(まあ私がモノを知らないだけというのはその通りです)。

とはいえ、本書の論旨は明快で、いつもの海老原本の通り「読むと腑に落ちる」内容となっています。いつもの海老原論が全開になるのが§5でして、ここで2R2Wなどのマネジメント理論に基づくキャリア論が展開されていて、「そうかこれをいうためにクランボルツの計画的偶発性理論を下地にして有名人のキャリアを論じていたのか」と腑に落ちたというところです。つまり、『マネジメントの基礎理論』ではいわゆる上司としてのマネージャーがいかにマネジメントするかという観点からの指南書だとすると、本書はマネジメントの対象となるいわゆる部下がいかにキャリア形成するかという観点からの指南書といえるかもしれません。特にクランボルツが示した5条件(wikipedia:計画的偶発性理論を参照)を仕事をする中でどのように保つかについての的確な解説は、日本型雇用慣行について深い考察を続けてきた海老原さんだからこそ書けるのだろうと思います。

ではどこが消化不良かというと、ちょっと決めつけではないかと思ってしまう点が多いと感じたからです。本書そのものがページ数が少なく、主要なメッセージが見開きページに大きなフォントで記されているなど、メッセージ性を強く打ち出すような流れで書かれていて、それは本書のメッセージを伝えるのに重要な役割を果たしているとは思うのですが、その分検証が端折られてしまっているのが決めつけが多いと感じる理由ではないかと思います。直接響くようにするためにはある程度の勢いや決めつけも必要だろうとは思いますが、特に一部の若手芸人への評価はかなり厳し目ですので、ファンの方はその点をご留意されるのがよろしいかと。

本書をそのように位置付けたときに、いわゆる部下の立場にある者がキャリア形成を考えるモチベーションを与えることが本書の趣旨であり、その点は多くの若い世代(キャリア形成を考える中高年ももちろんですし、私なんぞは読みながら反省することしきりでしたが)に読まれるべきと思いますが、ちょっと気になる決めつけについて1点だけ指摘させていただくなら、本書の(中間的な)結論は、

 さて、「同じ土俵に立てたなら成功確率は2〜3割」という経験則をもとに、人材業界の人たちは、相談者にこんなアドバイスをしています。
 たとえば、今あなたが就いている仕事で、「そこその成功」できる確率は2〜3割、つまりだいぶ手の届くところまで来ています。なのになぜ、あなたは今、悩んでいるのか。その理由は、クランボルツの5条件のどこかが機能不全となっている場合が多い。だから、その点検をしましょう、と。

(略)

 あなたが、しっかりと仕事をやり切ったにもかかわらず、結果が出ないのであれば、次の仕事を見つけるべきでしょう。
 そして、次の仕事でも採用試験をくぐりぬけ、スタートラインに立てたのなら、やはり「そこそこの成功」を収める可能性は2〜3割あります。それは決して低いものではありません。とすると、人間はクランボルツの5条件を保って目の前の仕事を一生懸命頑張れば、そう遠くない時点で必ず「そこそこの成功」を手に入れることができる。
p.84


引用元: タイトル クランボルツに学ぶ夢のあきらめ方
著者 海老原嗣生 
ISBN 978-4-06-138614-3
発売日 2017年04月25日
定価 920円(税別)


というものでして、ここで示されている考え方は、特に転職を考える際の1つの目安としてその通りだとは思います。ただし「必ず「そこそこの成功」を手にすることができる」はちょっとそこまで言えるかなという印象です。厚労省が毎年公表している「転職者実態調査の概況」の最新版は27年のものですが、その中にはこういうデータがあります。

(3)転職者の労働条件(賃金・労働時間)の変化
 賃金が転職によりどのように変化したかをみると、賃金が「増加した」が40.4%、「減少した」が36.1%、「変わらない」が22.1%となっている。D.I.(「賃金が増加した転職者割合」-「賃金が減少した転職者割合」)をみると、44歳以下の年齢階級ではプラス、45歳以上の年齢階級でマイナスとなっており、おおむね、年齢階級が若いほどD.I.が高くなっている。(表13)

(略)

(6)現在の勤め先における満足度
 転職者の現在の勤め先における満足度について、「満足」及び「やや満足」とする者の割合と「不満」及び「やや不満」とする者の割合の差であるD.I.(表22「満足①」-「不満足②」)をみると、「職業生活全体」で43.0ポイント、男が42.9ポイント、女が43.2ポイントとなっている。「職業生活全体」を事業所規模別にみると、事業所規模が大きいほどD.I.が高くなっている。
 満足度項目ごとにみると、全ての項目で「満足」が「不満足」を上回っているが、「仕事内容・職種」が61.2ポイントと最も高く、「賃金」が17.7ポイントと最も低くなっている。(表22)

引用元: 平成27年転職者実態調査の概況(pdf)


つまり、転職後の賃金が増加した割合と減少した割合との差では全体でプラスになるものの、満足度では「仕事内容・職種」が高く、「賃金」は最も低いという結果が出ていまして、「そこそこの成功」とは必ずしも賃金面からは捉えられないということには注意が必要ではないかと考えるところです。いやもちろん、「仕事内容・職種」の満足度が高いことをもって「そこそこの成功」ということも可能ですし、これをもっと高めてさらに賃金などの待遇面も向上させるためにクランボルツの計画的偶発性理論が重要というメッセージでもあると思いますが、読む方によってはイメージが異なる場合もあるでしょうから、この点にもご留意いただくとよろしいかと思います。

そしてなんとも評価しがたいのがこちらの著書です。本書の内容そのものは大変わかりやすく、特に利率と利回りの違いをここまで丁寧に解説した本は他にはあまりないと思いますので、仕事をするうえで経済の仕組みを理解するためには大変重宝する内容であることは間違いありません。ただ、最後の第5部で「それでもわからないことはプロに聞く」として出てくる「プロ」がおっちょこちょいな飯田先生なんですよね。。ということで、本書の評価はその解説に対する評価で左右されると思いますので、私からは保留とさせていただきます。
2017年05月22日(月)発売 / 税込価格:1,512 円
四六判/並製(184頁)
ISBN : 978-4833422314
[著]海老原嗣生
[解説]飯田泰之



とはいえ、HRmics最新号となるvol.27ではあの権丈先生を大々的にフューチャーしていらっしゃいますので、こちらについては改めてエントリを上げたいと思います。

(2017/09/18追記)
海老原さんから、厚労省の転職者実態調査の解釈についてご指摘をいただきましたので、こちらに追記いたします。実は私が引用した転職者実態調査はあくまで転職直後のデータであって、転職後の賃金の推移を見るためには賃金構造統計調査を確認する必要があるとのことです。で、実際に「平成28年賃金構造基本統計調査」から「年齢階級、勤続年数階級別所定内給与額及び年間賞与その他特別給与額http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&tclassID=000001062211&cycleCode=0&requestSender=estat」から勤続年数ごとの年収(所定内給与額×12か月+年間賞与その他特別給与額の計で算出)を確認してみましょう。

例えば、転職者実態調査で「D.I.(「賃金が増加した転職者割合」-「賃金が減少した転職者割合」)」がマイナスとなった45歳以上のうち50代前半についていえば、「正社員・正職員の雇用期間の定め無し」で見てみると、高卒では勤続年数0年で約235万円から3~4年後には約288万円へと50万円以上、大卒・大学院卒では勤続0年で約418万円から3~4年後には約487万円へと70万円まで上昇します。さらに、50代前半で5〜9年目、つまり40代後半に転職した場合まで拡大すると、高卒で約327万円へと100万円以上、大卒・大学院卒では約564万円へと130万円以上上昇していることになります。一方で、これを「正社員・正職員計」に当てはめてもほぼ同様の傾向が見られますが、「正社員・正職員以外計」では、50代前半の大卒・大学院卒で勤続年数5〜9年目が60万円程度上昇するほかは、目立った賃金上昇は見られません。このデータからも、転職で「スタートラインに立つ」ことが最低条件であって、そのためにも特にクランボルツが示した5条件を実践していくことが重要でありlptpが示されているのでしょう。

実は2年目以降に賃金が大きく上昇するのは、勤続0年ではボーナスが支給されない場合が多く、2年目以降にボーナスが上乗せされるというカラクリがあるためですが、その中でも3年目以降は「上位群」が引っ張り、中下位群は固定となり、これらを踏まえて本書では「スタートラインに立てたのなら、やはり「そこそこの成功」を収める可能性は2〜3割あります」と指摘されたとのことでした。ご指摘ありがとうございました。まあ、こうした細かい検証をダラダラ書いてしまうと「研究者・研究肌の人間は読みますが、一般人は読まない」というジレンマがあるため、「私の本は、勝手に「料理」して、食べられるようにして」いらっしゃるとのことで、その意味で本書はちょっとクセのある「おいしい」内容となっていますので、未読の方はぜひご一読をオススメします。

2017年08月17日 (木) | Edit |
以前書きかけていたエントリの大蔵ざらえなのでややタイミングを外した感はありますが、せっかくなのでアップしておきます。日銀の金融緩和がどうやら奏功していないことが明らかになってきて、リフレ派と呼ばれる一部の方々に批判的な積極財政論者の声が大きくなりつつあるようでして、その方々が次なる財源として内生的貨幣供給論を持ちだしていらっしゃるのですが、その主張される内容が「制度の根幹を否定する」といういかにもな発想から出発しているなあと思っておりました。で、先日拙ブログでもご高説を賜った望月夜さんのこの指摘を拝見してやたらと既視感がありましたので、個人的なメモ(くれぐれも誰か特定の個人を批判する趣旨ではありませんのであしからず)。

しかしむしろ、通貨というのを何かの宝物のように扱う考え方の方が、通貨理解としては本質的に誤っているのである。

このことは、『通貨は財ではなく信用から生まれた-信用貨幣と計算貨幣-』の方でも解説したが、今一度簡潔に概説しよう。

まず、この世には何かしらの貸借関係があって、それを記述する手段として、石、金属、紙、場合によっては商品が用いられ、それが単位として統一されれば通貨になる。

問題は、通貨の実態は、単位として設定された石や金属ではなく、元々あった貸借関係である。「誰かへの貸し」(その誰かの借り)を使って売買を行うわけだ。

引用元: 「信用創造Wikipediaの混乱 前編(寄稿コラム)(批判的頭脳 2017-07-06 22:49:00)
※ 以下、強調は引用者による。

私が「経済学的に正しい」というのを批判しているのは、単に「経済的合理性やそれに基づくモデルのみに重きをおいて、現実の世界を理解しようとしない」ことではありません。制度と個人の行動が相互に影響し合うという社会を記述するに当たっては、社会を維持するために必要な取り決めとして考え出した制度に対して、その社会に属する各個人が個人の考えに沿って行動することが必要となります。そのような視点から言えば、「経済学的に正しい」議論の問題は、その行動の契機となる個人を「代表的個人」のようなマスな存在に霧散させ、社会の取り決めとしての制度に対する個人の考えや行動を無視して平準化(経済学の好きな言葉では簡単化)してしまう点にあると考えております。

特に私のような実務屋からすれば、上記のような「この世には何かしらの貸借関係があって」という点にどのような制度が想定されているのか大変気になります。その貸借関係は民法に規定される典型契約としての賃貸借でしょうから、ここで想定されているであろう金融機関への預金の預入は消費寄託(民法657条)であり、金融機関からの貸出は消費貸借のうち金銭消費貸借となりますので、これに付随する民法上の規定に則って契約が締結されているはずです。

この契約は当事者間の債権債務関係を規定したものですので、当事者による債務履行がなければ契約違反となります。言い換えれば債務履行を確保し、契約違反を防止し、契約違反があった場合の救済方法を規定するのが契約書とその拠り所となる民法典ですね。債務不履行についての救済方法の1つが不動産についての抵当権などの担保を設定することですが、こうした債務履行の能力がいわゆる「信用」と言われるものの実務的な内容となります。また、例えば賃貸借契約の解約などでは、判例により「「高度な信頼関係を基礎とする継続的契約において、一方の当事者の投下資本の回収の利益を保護するため、他方の当事者からの一方的な契約の解約を『当事者間の信頼関係が破壊された』場合にのみ認める」という「信頼関係破壊の法理」が確立していて、確かに手続き上は契約書一枚で債権債務関係は成立しますが、それを実効あらしめるためには、信用を調査したり信頼関係を十分に吟味したりという手間がかかるわけです。

というような手続きばかりしている実務屋からすると、「このようには何かしらの貸借関係があって、それを記述する手段として、石、金属、紙、場合によっては商品が用いられ、それが単位として統一されれば通貨になる」というのは、随分と簡略化された前提ですなあと感嘆することしきりです。いやもちろん、賃貸借と消費寄託の契約を金銭面のみに着目して記述するということであればこういう表現も可能でしょうけれども、その簡略化ぶりからは食べ物の入りと出だけに着目した「人間は「管」である」という考え方を思い起こします。

ところで、我々は「我考える、ゆえに我あり」などといい、人間存在の中心は「脳(意識)」であると思っている。しかし、生存にもっとも必要な食べ物の摂取の観点では、脳が意識するのは、せいぜい食べ物が腐っていないかを目や鼻や舌で感じるだけである。食べ物の良し悪しの判断の大半は腸に依っている。この意味でも人間は「管」であるといえる

(略)

確かに我々は「脳」のおかげで、便利な人工物に囲まれた清潔な場所で暮らすようになり寿命も延びた。しかし一方で我々の体の中心にある「管」は、環境の激変についていこうとして四苦八苦している。環境変化についていけず、ときには免疫システムがバランスをくずして、食物アレルギーを引き起こすケースが増えてきた。

生物が生きていくためには、環境と調和していくことが必須であり、人間もまた然りである。しかし、人間の「脳」は、環境に対して実に鈍感である。一方、環境に対してもっとも敏感なのは「管」の方である。今こそ「人間は「管」である」と考えるときかも知れない。 (記:五等星)

引用元: [コラム]人間は「管」である - 自然科学カフェ(2014/11/17 19:20)

「生存に必要な食べ物の摂取の観点」からこうした議論をすることは大いに理解できるものの、上記のような複雑な制度によって成り立つ社会における財政政策や金融政策を考える際に、その社会を構成する人間の行動を金銭面のみから記述することをもって「具体的実務的形態」であるぞという方がいらっしゃるのもまたこの世の習わしですね。

で、このような世の習わしを拝見して既視感を覚えたのは、ドラめもんさんの「利権陰謀論という結論を書きたくて」たまらない方へのツッコミを拝見していたからでした。

確かに金利の上げ下げを行えば事後的にはマネタリーベースやマネーサプライにも影響出てくる筈ですが、それは金利の上げ下げによって実体経済に変化が起き、その結果マネーの需給関係が変化するためであって、中央銀行が短期市場金利の上げ下げで金融政策を実施しているのであれば、マネタリーベースの増減と政策金利の上げ下げに関しては中長期的には兎も角短期的にリニアな関係がある訳ではありません。

『債券を売却した金融機関は、金利の付かないマネーを得る。金利の付かないマネーを持っていても仕方がないので、金融機関はそのお金を貸し出す。』

はい残念。貸出というのは別に日銀当座預金の増減とは関係なく増やしたり減らしたりできます。他の金融機関に貸し出せば自分の所の日銀当座預金は減りますのでもしかしたらそういう話をしているのかも知れませんね、と思って次を読みますと案の定、

『8%の金利では貸出が増えないが、金利を下げれば貸出が増える。貸し出されたお金で人々は何かを購入する。』

って貸出が増えるという話をしていますし、人々は何かを購入するとか言ってるので、どこからどう見ても銀行融資が増えるという話をしているようですが、銀行融資というのは銀行の中での両建てが増えるだけの話で、日銀当座預金とは関係なく増えるものです。

しかも頭がクラクラしてくるのですが、「金利を下げれば貸出が増える。貸し出されたお金で人々は何かを購入する。」って言ってるんですが、金利を下げることによって投資の採算ポイントが改善するから投資が促進される、とかいう話ならまだしも「人々は何かを購入する」ってお前は何を言ってるんだとしか申し上げようがない

引用元: 「本日のドラめもん 2017/06/30」

とまあ、経済学に精通している(と目される)方が日本の中央銀行の要職に就いて、「貸し出されたお金で人々は何かを購入する」と能天気におっしゃるのもまた世の習わしと受け入れるしかないのでしょう。

明日からの仕事復帰に向けて大蔵ざらえでしたが、いやまあこんなエントリでは気分が優れませんなあ。。

2017年08月17日 (木) | Edit |
お盆の時期は終戦記念日と重なることもあって、日本の意思決定に関していろ考える機会でもありますね。となれば、過去と現在を比較して戦前とどうたらという意見も多く見受けられるところですが、いつものことながら山口さんのこの指摘が本質的ではないかと。

とはいえ、今の社会と戦前の違いは明らかであり、文字通りの意味で「戦前」の状態に回帰するというのはあまり説得力のある主張ではないと思う。何かの政策や立法などについて、戦争や戦闘に巻き込まれるリスクが高まると言いたいならそのように言えばよいし、人権侵害のおそれが強まると言いたいならそのように言えばよい。戦前を持ち出すことでよけいな文脈が持ち込まれると、議論が無駄にややこしくなる。ましてや現首相をヒトラーにたとえるかのような極端な言説は冷静な議論を不可能にするという点で有害以外の何物でもない。

そうはいうものの、最近の情勢をあまり好ましいとも思っていない。この時期のことゆえつい関心が「戦争」に向かいがちなのでという要素もあるが、最近放映されたさまざまなテレビ番組を見ながら、戦争はいかんなあ、これは気をつけなきゃいかんなあ、という思いを新たにした。

引用元: 「戦争の何がこわいか(August 16, 2017)」(H-Yamaguchi.net)
※ 以下、強調は引用者による。


まあ何かになぞらえて自分の主張を補強するというのはよくある手段ですから、そのこと自体は特に問題にすべきではないのかもしれませんが、かといって自分に気にくわないことがあれば、いわゆる失政や悪政になぞらえて危機感を煽るというのはまさに山口さんがおっしゃる通り「議論が無駄にややこしくなる」だけではないかと思います。

そうはいっても、結局共通点があるといえなくもないところが何周も回って結局それかよとは思いますが、前々回エントリに頂いたはてブを拝見して補足しておきたいと思います。

hahnela03 誤解を恐れずにいえば、中小企業の業務ではそれほど厳密な論理構成は求められない/それはそれで別のハラスメントの温床になっているという面。パワー(指揮命令権)を行使する(労組組合員)との鬩ぎ合いですね。

引用元: hahnela03のコメント 2017/08/08 11:16

これはハラスメントが発生する象徴的な問題かと思うところでして、前々回エントリではまとめきれませんでしたが、要すれば、論理的な場面と非論理的な場面を使い分ける権限を持つ者が最強だということに尽きるのだろうと思います。組織で仕事をしている労働者にとって、少なくとも仕事の場面において上司こそがその権限を一元的に有するわけですから、論理的に仕事を進めるか、理不尽なパワハラで仕事を進めるかは上司のさじ加減ひとつで決まります。

前々回エントリでは、クラッシャー上司は自らの経歴を守るときに論理的に振る舞い、自らの経歴に傷がつかなければ非論理的にパワハラをすると書きましたが、それを突きつめると自らの経歴を守る必要が無いクラッシャー上司はパワハラを躊躇する理由がないということになります。ごく一般論として、中小企業の業務では大企業と比べて出世のライバルが少ないことで自らの経歴を守る場面が少なくなり、パワハラに歯止めが利かなくなる傾向があるのかもしれません(これに加えて、hahnela03さんが指摘されるような労働組合も、守るべき経歴がないと考えている場合は同様のことがいえるでしょう)。

という中小企業の事情に比べれば、大企業や役所でパワハラを防ぐことは容易だろうかと考えるとさに非ず。上記の逆のパターンを考えてみればわかりますが、これも前々回エントリで指摘した通り、不幸にも「そうして形成された「社風」とか「組織文化」が、「厳しい上司だったけどそのお陰であの厳しい状況を乗り切れた」などの武勇伝とともに何らかの業績につながっていたりすると、その「社風」とか「組織文化」を修正することは著しく難しくな」っている場合は、パワハラすることこそが「社風」とか「組織文化」に沿った行動であり、パワハラする上司がそのパワハラでもって評価されることになります。

いやもちろん、パワハラでもって評価されるというのは極端な言い方で、もう少し実態に即していえば、論理的に仕事を進めるべき場面であろうがなかろうが非論理的な言動で意思決定を行うことが常態化してしまった組織においては、どんな手を使ってでも所期の目的を果たす意思決定をできる者が評価されるということですね。その意思決定を行うためであればいくら非論理的な言動を行っても不問に付されることがわかっているからこそ、パワハラを行って部下の反論を封じることが意思決定の場面で有効な手段となり、それを使いこなす者が評価されて出世するというわけです。

と書いてみると、現在の日本の組織の問題は、いったん形成された「社風」や「組織文化」に根差している部分が大きいのではないかと思いますし、やはり戦前の日本の主要な組織で非論理的な意思決定が常態化していたことが戦争につながったという評価には一定の説得力があるようにも思います。まあ、パワー(指揮命令権)の行使をハラスメントを分離できればいいのでしょうけれども、日本型雇用慣行におけるOJTがハラスメントの源泉であるならば、ことはそう簡単ではありませんね。日本型雇用慣行が堅牢であるうちは意思決定が非論理的に行われるものと諦めるか、日本型雇用慣行の見直しを進める中で少しずつ状況が改善するのを待つしかないのかもしれません。