2017年10月08日 (日) | Edit |
内部留保への課税を掲げた自称保守政党が現れたとのことで、ネット経済学界隈では何やら盛り上がっているようですが、政策パンフレットなるものではあちこちに内部留保への課税が顔を出していまして、よほど政策のネタがない目玉としたいようですね。

政策集:私たちが目指す「希望への道」

2.経済に希望を ~ユリノミクスにより、経済成長と財政再建の両立を目指す~
•金融緩和と財政出動に過度に依存せず、民間の活力を引き出す「ユリノミクス」を断行する。
①消費税凍結と内部留保の社会還元
 消費税増税を凍結し消費の冷え込みを回避する一方、300兆円もの大企業の内部留保に課税することにより、配当機会を通じた株式市場の活性化、雇用創出、設備投資増加をもたらす
②家計の安心による消費拡大
 若者が正社員で働くことを支援し、家計における教育費と住宅費の負担を下げ、医療介護費の不安を解消する(総合合算制度)。
  ベーシックインカム導入により低所得層の可処分所得を増やす
4.家計に希望を ~成長の実感が伴わない中での消費税増税は凍結する~
  • 消費税法の現行規定には、消費税引き上げについて経済状況の好転を条件とする「景気条項」が存在していない。地方や中小企業などを中心に必ずしも成長の実感が伴わない中で消費税引き上げを強行すると景気が失速する可能性が高いため、2019年10月に予定されている 10% への消費税引上げは凍結する。
  • 消費税引き上げの前提として、議員定数・報酬の削減、一院制実現に道筋を付けるなど国会改革の実現、ワイズ・スペンディングの観点から不要不急のインフラ整備を徹底的に見直す
  • 消費税増税凍結の代替財源として、約300兆円もの大企業の内部留保の課税を検討する。これにより内部留保を雇用創出や設備投資に回すことを促し、税収増と経済成長の両立を目指す。
  • 家計における二大負担である住宅費と教育費負担を引下げ、実質的な可処分所得増、個人消費増を目指す。役所の持つ空き家関連情報の抜本的流通拡大等による中古住宅市場の活性化、リバースモーゲージの拡大、生前贈与の促進などにより高齢富裕層から若者への所得移転を促す。

「希望の党 政策パンフレット」


いやまあ、歴史は(何度目かはわかりませんが)喜劇として繰り返すのだなあということで、以前のエントリのお蔵出しなどしてみましょう。

1 株式配当と労働分配率

結局のところ、経営悪化時におけるリスク配分とは、最終的なリスクを負いながら経営にあたる経営者が、自らの企業が稼いだ利益剰余金を株主と労働組合という相対立するステイクホルダー間でどのように配分するかという問題に行き当たるのではないかと。

(略)

ここで注意すべきなのは、kumakuma1967さんが明言されているように「経営が弱すぎた」のは「株式投資をする立場」からの評価だということでしょう。本来の企業所有者(プリンシパル)である株主からすれば、エージェントである経営者が企業内部の配分を失敗したように見えるのでしょうけど、それは企業内の利益配分システムとしての集団的労使関係の領域において、株主に対抗するステイクホルダーである労働組合が本来の機能を果たしたに過ぎないともいえます。

特に経営悪化時においては、株主配当と労働者人件費はトレードオフの関係にある以上、どちらかが多ければ他方は少なくなるわけで、それを「投資家にとっては状況が改善するかどうかが問題」として考えたとき、労働者に対する配分が多いことがどう影響するかというのは一概には判断できないのではないかと。というか、株主はそれを含めて投資の判断をする必要があるんでしょうね。

と考えてみると、反共の牙城であるアメリカにおいて労働組合が本来の機能を果たす一方で、戦後長らくアカデミズムや論壇の左派思想が労働運動を支えていた日本において集団的労使関係が絶滅の危機に瀕しているというのは、なかなか理解し難い現象です。

ただまあ、株主配当が増えれば「大企業が弱者から搾取している」と騒いで、労組が配分を獲得すれば「労働貴族が暴利をむさぼっている」とか騒ぐようなマスコミしかないという現状を見れば、そんな日本の光景になんとなく納得してしまいますが。

「株主と経営者と労働者(2009年06月05日 (金))
※ 強調は引用時。


2 内部留保と労働分配率

ところが日本では、思想集団と化してしまった労働組合や左派政党が、そういった利益配分のための集団的労使関係の主体となることを放棄して久しい状態が続いています。そういった思想集団が利益配分やリスク負担といった生々しい議論をさけるのは当然かもしれませんが、それで労働者の利益が失われてしまうのであれば、なんのための労働組合なのか、なんのためのソーシャルなのかと問わざるを得なくなります。

端的にいえば、HR(Human Resource)ジャーナリストを自任される海老原氏の著書が指摘するこの点こそが、集団的労使関係の領域になるはずです。

 もし、配当や社内留保を極端に下げて人件費に回したら、株価は下がり、資金繰りにも困り、経営の安定性もなくなる。その結果、経営不振になったら、誰が助けてくれるのか。そのことを企業「儲けすぎ」論者に問いたい。また、株式持ち合い中心のかつての日本型に戻れ、という人には、その結果、経営の透明性が薄まり、不良資産の査定が困難となって、企業の経営状況に社会全体が疑心暗鬼になることは、果たしてよいことなのか、と問いたい。
 最後になるが、リーマンショック時の派遣切り騒動の時に、大企業はもう少しだけ先手を打つべきだったかもしれない。
 08年分の配当と内部留保をせめて5%程度減らすことはできなかったのか。多分、EPS方式で算定して株価は1割下がる程度で、このくらいならハゲタカからの防衛も可能だろう。その結果、約1兆5000億円の余資ができる。雇用調整助成金なども合わせれば、2兆円近くの原資が生まれたはずだ。2兆円といえば、年収250万円の非正規労働者の80万人分もの給与に当たる。こうした対策を早めに講じていれば、社会不和の緩和や、派遣法改正のダッチロールなど無用な視界不良が避けられた可能性は高い。
pp.161-162

雇用の常識 決着版 ─「本当に見えるウソ」
海老原 嗣生 著
シリーズ:ちくま文庫
定価:本体780円+税
Cコード:0136
整理番号:え-16-1
刊行日: 2012/08/08

※ 元のエントリでは『本当に見えるウソ』の新刊版から引用しましたが、2012年に発行された文庫版の記載に修正しております。

法人資本主義』で株主重視を主張したのが左派陣営だったことを思い起こせば何とも皮肉な事態ですが、ここで注意しなければいけないのは、「株主の目」に対抗するステークホルダーが不在だということです。付加価値(剰余金)の配分を巡って、より大きな配当を求める株主と対抗できるだけの労働組合が利益配分を要求しなければ、経営者が自らの裁量によって配当に偏重した利益配分を行うことは当然の帰結です。いくら「配当と内部留保をせめて1割程度減らすことはできなかったのか」と部外者が言ったところで、企業経営のリスクを負う経営者が業績不振の回避と資金源としての株主を重視するインセンティブに影響はないでしょう。

「集団的労使関係の放棄(2009年06月02日 (火)」


3 利益集団としての労働組合

 スウェーデンには、何万というフォレーニングがあります。国民のほぼ全員が最低一つのフォレーニングに参加しています。フォレーニングに入るということは、共通の興味をもった人々と一緒に活動する、他の人々の権利のために闘う、自分の趣味を伸ばすための良い方法です。また、人と出会い、楽しい時間をもつ方法の一つでもあります。フォレーニングは一般に三つの種類に分けられます。

  • 経済フォレーニング
  • 利益者フォレーニング
  • 非営利フォレーニング
(略)

2.利益者フォレーニング
 労働組合は、スウェーデンでは最大の、そしてもっとも重要な利益者団体です。労働組合は、同じ職業領域で働く賃金取得者の団体で、より高い賃金、より良い労働条件のための闘いに協力し合います。賃金取得者達は、協力関係を持つより(ママ)大きな団体を形成します。
 それらの主要なものは以下の通りです。
  • LO(スウェーデン労働組合全国連合、組合員230万人)
  • TCO(スウェーデン給与所得者中央組織、組合員110万人)
  • SACO(スウェーデン大学卒業者中央組織、組合員30万人。大学卒業資格をもつ事務職員によって構成)
  • SAF(スウェーデン雇用者連合会、加入会社4万社。民間企業経営者の最も重要な団体)


「労働組合は、スウェーデン最大の、そしてもっとも重要な利益者団体」と教科書で教えてくれる国と、極東の国での「対立する主張を持つ相手とであっても、話し合いを尽くすことによって自分の境遇を自らが変えることが可能であるという経験がなければ、自らが稼得した所得を他人へ配分するという公的な所得再分配政策についての合意を得て、その結果として各家計の所得が公的セクターを通じて消費や投資に回されて流動性供給が増加し、マクロの経済成長がもたらされるという事態にいたることはないだろうと考えます」という現状を対比させてみると、その隔絶具合に頭がクラクラしますね。

「税金の使途を取り決める基盤(2017年09月24日 (日))」


4 ベーシック・インカムと公共サービスの供給

この点について、飯田先生の著書では、現物給付と現金給付の「いいとこ取り」のためにバウチャー制度やベーシックインカム、あるいはその変種である給付付き税額控除が提言されています。しかし、それらで再分配した収入で、その再分配が必要であった方々が購入しなければらならない財やサービスがそもそも購入できるのか、あるいは適切に提供されるのかという点がほとんど考慮されていないように見受けます。再分配を受けなければならない立場にある方々というのは、その再分配された収入によって購入できる財やサービスを必要としているのであって、ただ単に現金収入を必要としているわけではありません。マスグレイブが「それらはまた、個々の受益者が見逃す外部性を生み出す。私的需要に応じて用意される供給は、最善とはならず、公的補完が必要となる。これは、私的購入に補助を与えるかあるいは公的供給によって提供されるように思われる」と指摘するように、再分配された収入で購入すべき財やサービスが、市場で適切に価格調整され、適切な水準や数量で提供されるとは限らないわけですから、市場で提供される財やサービスがそもそも粗悪であったり高額で希少だったりすれば、結局はそれらの方々の収入では適切な財やサービスを購入できず、再分配の目的が達成されない可能性があります(ただし、本書でマスグレイブは、賦課方式の年金を「ネズミ講」と呼んだサミュエルソンの影響からか積み立て方式の年金への移行を唱えていて、必ずしも現物支給される財やサービスを提供する側の確保を重視していないようでもありまして、この理由から飯田先生も同じ見解なのかもしれません。さらにいえば、財源の使途に制限のない税金と支払いに権利性がべったりと張り付いて財源調達力の強い社会保険料との違いについて「強制徴収される限り実質的には税金と同じことだと考えておいて良いでしょう」(『ゼロから』p.188)とおっしゃる飯田先生は、権利性の有無による税金の公的扶助の救貧機能と社会保険の防貧機能の違いについても混乱されているように見受けます)。

たとえば、医療の分野では、適切な価格で提供されるように診療報酬が公定されており、自由な価格設定ができる分野を限定するために混合診療も原則禁止されています。これらも「既得権益」として新古典派的な経済学者からは批判されるところですが、再分配を受けなければならない立場にある方を保護するためには、単にその収入を再分配するだけではなく、その収入によって購入されるべき財やサービスを適正な価格でかつ適正な水準で提供する側も同時に確保する必要があるわけです。したがって、現在の日本では、医療保険は国民健康保険によって国民皆保険として再分配されるべき患者を救うだけではなく、そのサービスを提供する従事者の所得や雇用を維持できる水準で運営しなければならず、必ずしも保険原則に従うわけではない医療従事者の雇用を維持するためにも一般財源からも財源負担されているものと、個人的には理解しております。

で、結局、飯田先生は再分配された方々がその収入で購入しなければならない財やサービスについて、どのようにすればその水準や量を確保できるとお考えなのかが、どの著書を拝見してもわかりませんでした。財やサービスを購入するために必要な収入を再分配すればいいということかとも思いましたが、『ゼロから』では給付付き税額控除による最低保証所得を7万5千円×12か月=90万円とされていまして、その財やサービスを提供するために必要な財源がこれでまかなえるのかは疑問が残るところです。もし、その論旨が「最低保証所得で購入できるくらいに、医療や介護や教育や保育の価格は下げなければならず、したがってその人件費はそれに見合う程度に下げなければならない」ということであれば、最低保証所得の方のために最低保証所得で働くワーキングプアの再生産になってしまわないか不安に思います。いやもちろん、これはデフレスパイラルそのものですので飯田先生がそう考えているとは思われませんが、こと公的サービスに要する人件費が絡むとこうした議論を展開するのが一部のリフレ派と呼ばれる方々でもありまして、油断のならないところです。

「「いままでやられたことのない政策」の分析(2012年07月30日 (月))」


5 選挙公約での増税反対の系譜

 山川菊栄の一文を念頭に置くと、社会大衆党が選挙運動中に公表した選挙スローガンの意味がよくわかってくる。それは次のようなものであった。

「選挙スローガン
一、まず国内改革の断行!
一、国民生活の安定!
一、広義国防か狭義国防か!
一、政民連合か社会大衆党か!
一、議会革新の一票は社会大衆党へ!
一、大衆増税絶対反対!
一、勤労議会政治の建設!
一、国民外交の確立!」(内務省警保局『社会運動の状況・昭和12年』)

「選挙スローガン」などは単に美辞麗句を羅列したものにすぎないと思われがちであるが、政治が大きな岐路にさしかかっているときには、各陣営とも意外に率直に自ら信ずる方向を国民に訴えるものである。そういう岐路においては、今日流行の「マニフェスト」はおのずから明示されるのである。すでにたびたび指摘してきたように、この時の日本の岐路は、「反ファシズム」か「改革」かにあり、「反ファシズム」の側には社会の上層が(財界と二大既成政党支持者)、「改革」の側には社会の中下層が支持を与えていた
 そして、大規模な軍拡を目指す陸軍内部にも、それを社会上層の「反ファッショ勢力」と結んで実現するか、ようやく議会にも勢力を増大しようとしていた社会の中下層の「改革」勢力と組んで行おうとするかの、二つの勢力があった。この二つの方向を理解すれば、ここに紹介した社会大衆党の選挙スローガンが、後者の途を率直に提示していたことがわかるであろう。
 社大党にとって第一に重要なのは対外政策ではなく「国内改革」であり、「国民生活の安定」だった。そしてそれを実現するためには、「反ファッショ」と軍拡を結びつけた「狭義国防」ではなく、「改革」と軍拡を組み合わせた「広義国防」路線が必要であり、それを政党界で実現するのは、既成の二大政党が結びついた「政民連合」ではなく、「改革」をめざす社会大衆党だったのである。
坂野『同』pp.159-160
『昭和史の決定的瞬間』坂野 潤治 著
シリーズ:ちくま新書
定価:本体760円+税
Cコード:0221
整理番号:457
刊行日: 2004/02/05


いわゆる中下層の方の支持を得ようとする政党は、いつの時代も変わらず「増税反対」と「改革」を唱えるようですが、裏返していえば、中下層の方は自らの境遇に満足しない限り「増税反対」と「改革」に期待するものと考えるべきかもしれません。結局、社会大衆党は昭和12年4月の総選挙で議席数を20から36へと倍近く伸ばし、その躍進の要因について、特高警察が「国民の政策批判力の増進」を挙げたとのこと。「政策批判力」というのは今でいう「熟議」とかになりそうですが、まあ「熟議」の結末がどうなるかを示唆するものともいえそうです。

ただし、坂野先生はこれを後知恵で解釈することにも留保をつけています。

 特高警察がここまで評価した社大党の躍進は、素直に考えれば、敗戦直後の日本社会党の躍進の歴史的基盤(日本における社会民主主義の伝統)として、もっと注目を浴びてもよいものだったと思われる。しかし、そのわずか2ヶ月後に日中戦争が勃発したために、同党の「広義国防論」は「総力戦思想」の一翼と理解され、同党の躍進は「社会民主主義勢力」の躍進としてではなく、「国家社会主義」すなわち「ファシズム」の勢力増大とみなされてきた
 しかし、歴史を「結果」から後知恵的に解釈すると、国民的支持をある程度得るのに成功した勢力は、すべて戦争協力者として糾弾されかねない。反対に、左翼的言動に陶酔して国民的支持の獲得に失敗し、逮捕され投獄された人々のみが英雄視されることとなる。4月30日の総選挙で40万近い東京市民の支持を得た鈴木文治ではなく、わずか2万票しか得られなかった鈴木茂三郎の方が、同年12月に「人民戦線事件」で逮捕されたがゆえに、高い歴史的評価を受けてきたのである。
坂野『同』p.173

本来ソーシャルであった革新勢力が、そのソーシャルな政策の実現手段を「広義国防論」に求め、そのときセットにされた政策が戦争への道を開いていったというのは、現在の日本から見ても重要な示唆を与えるものではないかを思われます。ある政策にトッププライオリティを置くことを左右問わずに求め続け、そのトッププライオリティさえ実現されればその政策とセットになっている政策は問わないという主張については、私もちょうど一年前のこの時期に「リフレーション政策の目的に応じて、それとセットとなるミクロの経済政策が決まってくるわけで、目的が違っても「リフレーション政策支持という方法論の一致をもって共闘できる」という主張が無内容である」と書いたところでして、そのような主張とセットになっている政策には十分に注意しなければならないと考えております。

(略)

経済学の教義に忠実なあまり増税忌避という思考停止に陥ることは十分にあり得ることでしょう。そのとき「増税反対」と「改革」を主張する勢力が、「付加価値税が生み出す恩恵−−無料の診療、高等教育、公共交通費や住宅取得の補助など−−をもっとも受けるのは、それらを払えない貧しい人たち」の期待を取り込んでいく様子が見られるのかも知れません。

「トッププライオリティの置き方(2013年08月15日 (木))」



いやまあしかし、このループものにはどんなエンディングがあるんでしょうねえ。。
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2017年09月24日 (日) | Edit |
既に1年以上経ちますが、「何回か取り上げていた都知事選が誰得な結果に終わり」まして、その後は都の中央卸売市場の豊洲移転問題で小池都知事が手腕を発揮されていますが、不思議なことに財政政策の重要性を主張される方々にはこれほどの財政政策が支持されていないようです。豊洲移転問題での小池都知事の判断は、まさに通常であればムダと叩かれるような穴を掘って埋めるがごとき財政支出を繰り返しているように見受けるところでして、財政政策の重要性を主張される方々が待ち望んでいた姿ではなかったんでしょうかね。

いやもちろん、私自身は小池都知事の手法が評価されるべきとはこれっぽっちも思っていませんが、財政支出が足りないだなんだと騒ぐ方々が、これだけ露骨に穴を掘って埋めるような施策が実施されているのに、むしろ批判される方が多そうな状況は興味深い現象だなあとは思います。

拙ブログでは、3年前にも「まあ、増税忌避という思考停止に陥っている方々に税金を誰からどのくらいとるかということと同じくらい、その税金を誰のためにどれだけ使うかということが重要なわけでして、税金を取られるという側面だけに着目した議論の問題点にまで議論が及ぶことを期待するのは、相変わらず無理そうではありますが」と思っていたところでしたが、気が付いたら衆院選が10月にも行われる流れになっているようでして、なんと税金の使い途が争点になりそうな模様。

消費増税分、教育無償化に=使途変更を争点化-安倍首相、衆院解散25日に表明(時事ドットコムニュース(2017/09/19-19:02))

 安倍晋三首相は2019年10月に予定される消費税率10%への引き上げに伴う増収分の使途を見直し、教育無償化などの財源に充当できるようにする方針を固めた。「10月10日公示-同22日投開票」の日程を軸に実施する衆院選で主要争点に据える考えだ。首相は今月25日に記者会見し、28日召集予定の臨時国会冒頭にも衆院解散に踏み切ることを表明する。複数の政府・自民党関係者が19日、明らかにした。
 首相は政権の看板政策として「人づくり革命」を掲げており、幼児・高等教育の無償化はその柱の一つ。高齢者への給付を手厚くする従来の社会保障から、若年層や子育て世帯への支援も重視する「全世代型」の社会保障への転換を目指す。 
 消費税増税の使途をめぐり、野田政権下の2012年に当時の旧民主、自民、公明3党は、2割を医療、介護など社会保障充実の財源とし、残りの8割を借金返済や基礎年金国庫負担の穴埋めなどに充てることで合意した。当時の税率5%から10%への引き上げで約14兆円の増収が見込まれているが、3党合意に基づけば、社会保障充実には3兆円弱しか使えない計算だ。
 首相は、社会保障充実への配分を拡大した上で、使途に教育無償化を追加することを目指す。幼児教育無償化には年間約7300億円(3~5歳対象の場合)が必要。大学、短大、専門学校の高等教育無償化の財源はさらに規模が大きく、年間約3兆7000億円に上る。増税分をこれらに充てることで、子育て世代の負担を軽減し、消費拡大にもつなげたい考えだ。
 ただ、使途見直しで借金返済への配分が圧縮されると、財政健全化が遠のくのは必至。20年度に基礎的財政収支(プライマリーバランス)を黒字化するとした目標の修正を迫られる可能性もある。麻生太郎副総理兼財務相は19日の記者会見で、「(財政健全化とのバランスを)保てるようにしないといけない」と指摘した。

◇消費税をめぐる主な動き
【2012年】
 6月15日  野田内閣下で民主、自民、公明3党実務者が政府の「社会保障と税の一体改革関連法案」の修正に合意
   26日  修正法案が衆院を通過。民主党内から多数の造反
 7月 2日  民主党議員が集団で離党届提出
 8月10日  修正法が成立
12月16日  第46回衆院選で自民党勝利
   26日  第2次安倍内閣発足
【13年】
 7月21日  第23回参院選で自民党勝利。衆参ねじれ解消
【14年】
 4月 1日  安倍内閣、消費税率8%に引き上げ
11月18日  安倍内閣、消費税率10%引き上げの1年半延期を発表
12月14日  第47回衆院選で自民党勝利
 【16年】
 6月 1日  安倍内閣、消費税率10%引き上げの2年半再延期を発表
 7月10日  第24回参院選で自民党勝利
【17年】
10月22日? 第48回衆院選
【19年】
10月 1日  消費税率10%に引き上げ予定
※ 以下、強調は引用者による。

せっかくなのでこれまでの経緯も含めて全文引用しましたが、まあ政治の場でも行政の場でも税金の徴収と財政の支出先の利害調整にはかなり気を遣う必要があるところ、経済学方面の議論では、いかに税金を取らないかの議論ばかりが先行して、国債の日銀引受でオールオッケーだとか財政政策の物価理論だとかMMTだとか、なかなか使い途の議論になりそうにはありません。ネット界隈の経済学クラスタの皆さんは、古くから何かと言えば「教科書嫁」が合い言葉になっているようではありますが、かといって経済学の教科書もこのていたらくです。

クルーグマンはサミュエルソンの「新古典派総合」がもっとも理に適っているというわけですが、当のサミュエルソンはどうだったかというと、

さて,ここまでケインズの論を引用するサムエルソンは,さぞかしケインズの考えをしっかりと継承し,ケインズに心酔しているのかと思われるところであるが,どうもそうではないようなのである。サムエルソンのケインズ理解,ゆえに,サムエルソンの教科書『経済学』を通じて世界中に広まったケインズ理解は,間違った理解であったと攻撃する者は,ケインズから直接教えを受けた者たちをはじめ,現在に至るまで数多くいる。その一人ポール・デヴィッドソンは次のように言う。

1936年に『一般理論』を読んだ後でさえ,サムエルソンは,その分析が「好みに合わず」理解できないものであることに気づいたと述べていることである。サムエルソンはコランダーとランドレスとのインタビューの中で「最後にわたくしが納得したやり方は,ただそのことについて 〔ケインズの分析を理解することについて〕くよくよ悩まないことでした。わたくしが 自分に問いかけたのは,なぜ 自分は1933年から1937年までの上向きのルーズヴェルト景気を理解するのを可能にしてくれる理論枠組みを拒否するのか,でした。……わたくしは,ワルラスに代わるケインズの分析を有効なものにするのに十分な程度の相対価格・賃金の硬直性があると想定することに満足しました」 と言っている。言い換えれば,サムエルソンは,自分がケインズの分析を理解していなかったことを認めている。それどころか,かれは,ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである。
Paul Davidson(2009)/小 山庄三・渡辺良夫訳 (2011)『 ケインズ・ソリュー ション』183頁

ここで,サムエルソンの経済学で学んだ多くの人たちは,なぜ,ポール・デヴィッドソンは,サムエルソンを「ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである」と批判しているのかと思うかもしれない。
その理由は,ケインズは,貨幣を保蔵 (hoarding)したいという欲求がある社会,すなわち流動性選好理論が成り立つ貨幣経済 (monetary economy)を 前提に置けば,伸縮的賃金であっても硬直的賃金であっても失業は起こりうると考えていたからである。このことは,ケインズの次の言葉が端的に示している。

喩えて言えば,失業が深刻になるのは人々が月を欲するからである。欲求の対象 (貨幣)が生産しえぬものであり,その需要が容易には尽きせぬものであるとき,人々が雇用の口をみつけるのは不可能である。
Keynes(1936)/間 宮陽介訳 (2008)『 一般理論』上巻331頁

これは,将来,すなわち歴史的な時間の流れの中での「不確実性」に備えて価値保蔵手段としての貨幣に対する選好,他にも諸々の理由により貨幣を保蔵したい という欲求すなわち「金銭欲」が尽きず「物欲」に優る場合には失業が起こると言っているのである。ケインズの論の中では,失業発生の原因として硬直的賃金という条件は重要ではない。
権丈善一「社会保障—— サムエルソンと係わる経済学の系譜序説の経済学系統図と彼のケインズ理解をめぐって——」(三田商学研究 第55巻 第5号 2012年12月)

ということで、ケインズの理論は「好みに合わない」として、その提示する理論を勝手に読み替えていたわけです。サミュエルソンの『経済学』の教科書で学んだ経済学徒(クルーグマンもその一人のようですが)には、そのようなサミュエルソンの理解だけではなく、勝手に読み替えるという作法まで伝わってしまったということでしょうか。

「制度をどのように変えるべきなのか(追記あり)(2016年12月31日 (土))」

そんな経済学の教科書になじんだ方にはなかなか受け入れ難いかもしれませんが、だいぶ前に話題になったドロシー・ロー・ノルトの「子ども」という詩が掲載されているスウェーデンの中学生向け教科書を確認してみましょう。

 本書は、13歳から年齢とともに増大する法律的権利と義務、消費者としての基礎知識、コミュ−ンの行政と住民の役割、社会保障制度とその内容が、豊富で生き生きとしたエピソ−ドを通して平明に解説されています。またそれだけでなく、いじめ、恋愛、セックス、結婚と離婚という人間関係についても取り上げています。そして、暴力と犯罪、アルコ−ルと麻薬、男女間の不平等、社会的弱者や経済的・社会的に恵まれない家庭の存在など、いわば社会の負の面も隠すことなく紹介しています。本書から私たち日本人は、子どもたちに「社会」の何を、どう教えるかについて、深く考える契機を与えられるでしょう。

『あなた自身の社会』
あなた自身の社会
スウェーデンの中学教科書
アーネ・リンドクウィスト&ヤン・ウェステル著
川上邦夫訳
1997年 6月 10日
ISBN4-7948-0291-9

という内容で、「第1章 法律と権利/第2章 あなたと他の人々/第3章 あなた自身の経済/第4章 コミューン/第5章 私たちの社会保障」という5章のうち、第3章が「あなた自身の経済」として割り当てられていて、税金についても記載があります。

何故税金を廃止しないか

 給料から税金が差し引かれているのを見るとき、多くの人々が「税金さえなければ……と考えます。しかし、税金をなくしたら、社会の大部分が機能しなくなるでしょう。税金で集められたお金は、国やコミューンが行っている事業に支払われます。税金の約半分が、さまざまな社会サービスに支払われます。学校、保育園、道路、裁判所、防衛、医療などです。残りの半分は児童手当て、修学補助金、住宅補助金、国民年金の形で直接国民に戻っていきます。これらの補助金のことを一括して「所得移転」と言います。高い所得のある者から低い所得の者へ、税金という形をとってお金が再分配されるのです。

課題
①2人の子どものいる三つの家族の経済を比較しましょう。
a. 差異が大きいのは何故かを討論しましょう。
b. あなたは、税金を多く払いすぎている人や、少ししか払っていない人がいると思いますか。
c. あなたは、ここに見た3家族にとって、児童手当ては同じ大きさだと思いますか。いずれかの家族は、何か他の補助金ももらうべきでしょうか。
d. 3家族の生活の仕方に違いがあれば、その例を挙げなさい。それぞれの家族は、「余剰」を何に使っていると思いますか。
②a. 休暇旅行、娯楽、クラブ会費、小遣いなどの支出は予算の中にはありません。アンデション家では、これらの支出をどこから捻出しているでしょう。
 b. アンデション家が、経済状況をよくするには何をすればいいでしょう。
③二人の子どものいる家族の経済状況を、子どものいない家族のそれと比較しましょう。それぞれについて、どんな点に差異が大きく見られますか。

pp.86-87

経済学クラスタの皆さんからすれば「すわ!ツッコミどころ満載!」と憤懣やるかたないのかもしれませんが、まあそうイキってしまう前に全体を見てみましょう。最終章である5章の最後の部分に重要なメッセージが込められています。

10.社会的安全のネット

 …私たちが学んできたように、私たちの安全ネットはすべての人々に公平と安全とを与えるもので、次のような内容をもっています。
  • 私たちがもつ権利を規定する法律。
  • 私たちに適当な経済水準、生活水準を保障する、社会保障およびその他の援助。
  • 私たちが必要とするときの保護、ケアー、サービス
 これらの社会福祉のために、税金を払っているのは私たち自身です。経済的に裕福な人々は多く払い、それによって生活条件の違いを均等化することに貢献しています。
 今日、この安全ネットは、適切な大きさと編み目の細かさをもっているでしょうか。改善されてきているでしょうか。それとは全く別の欠陥はないでしょうか−−たとえば、あまりにも簡単に援助が得られませんか。援助は濫用されてはいませんか。不公平を生んでいませんか。お金がかかりすぎませんか。社会(国、ランスティング、コミューン)が整えてくれたもので、私たちは過度に甘やかされていませんか。私たちが自分で、あるいは相互に協力してやるべきことを、社会が取り上げてしまった、ということはありませんか。
 私たちが何事かに遭遇して、安全ネットが必要になったとき、一番頼りになるのは、本当に家族、友人、近隣の人々でしょうか
 この章で学習してきたことから、あなたたちは、こうした問題へのあなた自身の意見の基礎をつくり上げたことでしょう。友だちと意見を交換してみましょう。私たちの将来の安全ネットがどういうものであるかを決めるのは、あなたおよびあなたたちなのです
(pp.183-184)

北欧などの高福祉国家で課題となっている「アクティベーション」の問題が被災地で発生」している等の指摘も以前はありましたが、そもそも一部の北欧・ヨーロッパ諸国が高負担高福祉であるが故に、それにただ乗りして給付のみを受ける者の「アクティベーション」が重要であり、そのためにこの教科書の最後の部分では安心ネットの「大きさ」と編み目の「細かさ」が課題とされています。しかし、OECDでトップクラスの低負担で最も高齢化が進んでいながら中福祉の日本においては、安心ネットの「小ささ」と編み目の「粗さ」を問題にしなければなりません。

いうまでもなく、税金の使途はそうした安全ネットのサイズと密度をどうするかというわれわれの取り決めのことに他なりません。いかに税金を取らないかの議論に明け暮れる経済学クラスタの方々には思いもよらない世界かもしれませんが、安全ネットのサイズと密度をどうするかというわれわれの取り決めには、その財源をいかに確保するかについての取り決めが含まなければ実効性はありません。いくら国債の日銀引受やら何やらで財政を拡大したところで、その使途が豊洲移転延期に伴う維持費に回されてもいいのかというのが、われわれの安全ネットを考える際の出発点となるのではないでしょうか。

そんな議論は中学生が教科書レベルでやってるだけじゃないかとか疑う向きもあるかもしれませんが、日本のような自由民主主義ではなく、スウェーデンは社会民主主義の国ですから、いろいろな意見はあるようです。

公共部門か民間部門か

 何故、映画館の方が水泳プールよりも料金が高いのでしょう。それは、映画館の料金は「市場原理」によって決まるからです。すなわち映画館は、観衆が払ってもよいと思う金額を料金としているのです。プールの料金は「補助料金」です。すなわち、実際の料金の大半をコミューンが支払っているのです。どうしてでしょう。それは多くのコミューンが、映画ではなくプールを住民サービスとして提供したいと考えているからです。
 一部の人々はこう言います。
「補助料金など全部辞めてしまえ。皆民間に任せればいい。もしそうなれば、コミューンにとっては安上がりとなり、プールの管理も良くなるはずだ。そして、われわれの頭越しにものを決める政治家の権力も小さくなるだろう」
 他の人々はこう言います。
「それは間違いだ。もし、何もかもが民間で運営されるようになれば、不公平が拡大し、住民の影響力は減少する」
(pp.133-134)

どこの国にも維新を信奉する方々は一定数いらっしゃるようで、それでも全体として社会民主主義、というよりネオ・コーポラティズムを維持しているスウェーデンの懐の深さを感じます。

 スウェーデンには、何万というフォレーニングがあります。国民のほぼ全員が最低一つのフォレーニングに参加しています。フォレーニングに入るということは、共通の興味をもった人々と一緒に活動する、他の人々の権利のために闘う、自分の趣味を伸ばすための良い方法です。また、人と出会い、楽しい時間をもつ方法の一つでもあります。フォレーニングは一般に三つの種類に分けられます。

  1. 経済フォレーニング
  2. 利益者フォレーニング
  3. 非営利フォレーニング

1.経済フォレーニング

 すべての経済フォレーニングは、レーン理事会に登録しなくてはなりません。そして「経済フォレーニング法」に定められた規定−−たとえば、会員に金銭的利益を与える目的を持って運営されてはならない−−を守らなければなりません。以下は、その種類のフォレーニングの一例です。
  • 消費者フォレーニング …(略)
  • 屠殺者フォレーニング …(略)
  • 共同住宅所有者フォレーニング …(略)

2.利益者フォレーニング

 労働組合は、スウェーデンでは最大の、そしてもっとも重要な利益者団体です。労働組合は、同じ職業領域で働く賃金取得者の団体で、より高い賃金、より良い労働条件のための闘いに協力し合います。賃金取得者達は、協力関係を持つより(ママ)大きな団体を形成します。
 それらの主要なものは以下の通りです。
  • LO(スウェーデン労働組合全国連合、組合員230万人)
  • TCO(スウェーデン給与所得者中央組織、組合員110万人)
  • SACO(スウェーデン大学卒業者中央組織、組合員30万人。大学卒業資格をもつ事務職員によって構成)
  • SAF(スウェーデン雇用者連合会、加入会社4万社。民間企業経営者の最も重要な団体)

3.非営利フォレーニング

 上記の二つのフォレーニング以外のフォレーニングがこれです。これらはその活動形態や目的が非常に異なります。しかし、いずれも会員がもつ理想の上につくられているという共通点があります。また、メンバーの経済的利益を向上させることを課題としない点でも、上記のフォレーニングと異なっています。
 非営利フォレーニングには、それがどうあるべきかを定める特別の法律はありません。彼らは、法律と同様な内容をもつ「フォレーニングの実践」に従います。このことは、国やコミューンから経済的援助を受けようとするときに重要になります。ほとんどの非営利フォレーニングは、補助金をもらっています。非営利フォレーニングの例としては、スポーツ団体、移民者団体、写真家団体、禁酒団体などがあります。


(pp.76-78)

「労働組合は、スウェーデン最大の、そしてもっとも重要な利益者団体」と教科書で教えてくれる国と、極東の国での「対立する主張を持つ相手とであっても、話し合いを尽くすことによって自分の境遇を自らが変えることが可能であるという経験がなければ、自らが稼得した所得を他人へ配分するという公的な所得再分配政策についての合意を得て、その結果として各家計の所得が公的セクターを通じて消費や投資に回されて流動性供給が増加し、マクロの経済成長がもたらされるという事態にいたることはないだろうと考えます」という現状を対比させてみると、その隔絶具合に頭がクラクラしますね。

2017年09月17日 (日) | Edit |
以前のエントリで10年前に取り上げた香西先生の『論より詭弁』の有用性を再確認したところですが、改めて読み返してみて名言のオンパレードでしたので今後のネタのためにメモしておきます。

 私はこの第一章に、「言葉で何かを表現することは詭弁である」という題を掲げた。が、こんな法螺が吹けるのは、詭弁と、そうでないまっとうな物言いを特別するのが、多くの場合、それほど簡単なことではないからである。すでに「順序」や「連結」の例で説明したように、ごく普通に言葉を使っているつもりのときでも、われわれはほとんど詭弁と違わないことをやっている。そして、今の例に見られるように、現実のモノ・コトと言葉とが本来的に一対一で対応しているのでない以上、それを表現するのに、自分にとって最も都合のいい言葉を選択して使用することもできる。つまり、われわれは、表現しようとする対象を、ある程度は自由に「名づけ」ることができる。そしてその程度が度を超したとき、われわれはそれを詭弁と罵るのである
p.44

論より詭弁
反論理的思考のすすめ
香西秀信/著
2007年2月16日発売
定価(本体700円+税)
ISBN 978-4-334-03390-3
光文社新書
判型:新書判ソフト

※ 以下、強調は引用者による。


権丈先生も「事実は価値判断とは独立に存在し得ない」と指摘されている通り、どんなに客観的に記述しようとも、それを記述するための言葉を選ぶこと自体に価値判断が織り込まれているわけです。

 つまり、事実と意見の区別を主張する人は、ある話題の表現がどのように選択されているかばかりを見ていて、そもそもその話題の選択がなぜなされたのかについてはまるで考えていない。例えば、Kが結婚適齢期にある、独身の大学教員だとしよう。ある人がKについて、「Kは次男だ」と発言した。もちろん、Kが次男であるかどうかは、事実として明確に検証可能である。だが、「次男」という事実を話題として選択肢、聞き手に伝えようとするその行為において、「Kは次男だ」は十分に意見としての性格をもっている。
 このあたりの事情は、テリー・イーグルトンが、序章で紹介した書物の中で的確に指摘している。

…このとき明らかになるのは、いま私が客観的な陳述のつもりで口にした言葉の背後にある、意識されざる価値判断の体系である。こういった価値判断は、「この聖堂はバロック建築の壮大なる典型である」といった判断と必ずしも同じではないが、にもかかわらず価値判断の一種である。つまりいかなる客観的な陳述も価値判断であることから逃れることはできないのだ。事実の陳述は、結局、事実でなく陳述である。事実の陳述もひと皮むけば、そこには数多くの価値判断がひそんでいる


香西『同』pp.53-54


事実の陳述に価値判断がひそんでいるのと同じように、定義付けもくせものでして、議論好きな方には次のような傾向がよく見られますね。

 何よりも、定義には、それを読む人に例外や矛盾を探させる衝動をもたらす妙な性質があるらしい。だから、私がうっかり詭弁を定義したりなどすると、全体の論旨などはそっちのけで、私の詭弁の用法とその定義とが合わぬ箇所を見つけ出し、鬼の首を取ったかのように凱歌を上げたりする。こういうのに付き合うのはうんざりなので、だから、ここでは詭弁の定義も虚偽の定義もしない。
 これはレトリックや論理(論理的思考)など、他の用語についても同様である。どちらの言葉もきわめて歴史が古く、さまざまな意味に用いられているので、通常、定義という操作で許容される形式と分量によって、そのすべての使われ方を統一するのは不可能なのである。自慢にもならないことだが、私があえてそれらを定義すれば必ず誤るだろう。
 だから質の悪い人は、相手に対する定義の要求を、論争での武器の一つとして使用することがある。論敵の発言から適当な言葉を拾い出し、「あなたは○○という言葉をどのような意味で用いられていますか」「あなたの使っている××という言葉を正確に定義してください」などと要求する。そして、相手が言葉に詰まったり、四苦八苦してずさんな定義を口走ったりなどすると、喜び勇んで襲いかかり、その揚げ足をとって勝ち誇るのである

香西『同』p.89


実はこうした「揚げ足をとって勝ち誇る」態度はけっして定義に限ったことではないわけですが、厄介なのはそうした議論を好む方の真意が外見上はわからない点にあります。

 言葉の定義や基準の明示を要求することは、それだけを見れば、十分に正当で、論理的な行為である。相手が使った言葉について、その意味や使い方がわからないと言い、それについて正確な説明を求める。この行為のどこにも、非難するところはない。問題は、こうした正当な定義の要求と、相手を引っ掛けるための定義の要求とが、外見上は全く区別がつかないことである。……論理的であろうとすることが、しばしば正直者が馬鹿を見る結果になる。相手の意図などわからないのだからと、定義の要求に馬鹿正直に応じ、その結果散々に論破されて立ち往生する。いつでも論理的に振る舞おうとするから、論理を悪用する口先だけの人間をのさばらせてしまうのだ。われわれが論理的であるのは、論理的でないことがわれわれにとって不利になるときだけでいい

香西『同』pp.92-93

香西先生も「論理的には邪道で、ルール違反と言われても仕方がない」としていますが、相手を貶めるためだけに論理的に振る舞う相手には、論理的である必要はないという割り切りも必要なのでしょう。とはいえ、現実問題として見てみれば、例えば仕事の場でそれが通用するかというと難しい現状があるからこそ、クレーマーがさまざまな社会問題を引き起こしているわけですが。

 ミルがここで言う、勢力がある/ないの区別は、必ずしも現実の権力の強弱を意味しない。かつて、政治勢力としてはまったく無力だったあるイデオロギーが、アカデミズムやジャーナリズムの世界では最も勢力のある側であった。その側の人間は、反対勢力に対して詭弁を弄し、罵詈雑言を尽くして口汚く罵ることが許され、反対側の意見は、それが彼に反対であるというだけで、無知、浅薄、愚問、狡猾、陰険、すり替え、揚げ足取り、などと評され、その意見を抱いた者はしばしば文壇や論壇から村八分にされたのである。
 もちろん、こうした現象は「かつて」に限ったことではない。次にわれわれは、格好の材料を例として、ミルの指摘した現象がわれわれの現実世界でどのような現れ方をするのかを見ていくことにしよう。すなわち、勢力のある側が勢力のない側に「法外の罵言を逞しくして」「反対意見を抱いている人々に防いで不道徳な人物という烙印を押」したりしたにもかかわらず、「誠実な熱意と正当な義憤をもっている人として賛辞を呈せされ」た例である。

チョムスキーの不満

 生成文法理論の創始者であるノーム・チョムスキーは、あるインタビューの中で、自分が新しい理論を提唱するたびに、すぐに「それをつぶしてしまおうとする」研究者が多いことを嘆き、言語学者のタイプを二つに分類している。

 知的興味を起こさせるような着想、間違っているかもしれないが、とにかく、知的興味をそそり、遠大で、大胆なアイディア、そういったものに言語学者が出会った時、その反応に応じて二つのタイプに分けることができます。まず第一のタイプは、そういう考え方を信じたくないので、とっさの直感的な反応として、まず反例を探そうとする。こういうタイプが言語学者の圧倒的大多数です


香西『同』pp.95-96

ここで例示されているチョムスキーは、他人事のように批判する第一のタイプにこそ当てはまると香西先生は指摘されているわけですが、その香西先生の批判の中には、学者や研究者に対する「論理的であるはずだ」という信用を利用している点でより悪質だという思いも込められているのでしょう。「現実の権力の強弱」ではなく議論に参加しているアクターが多数派であるかどうかに議論が左右され、それを学者とか研究者と呼ばれる立場の方が扇動するというのは、特にSNSを中心とするネット界隈でよく見る現象ですね。

そして、煙草を吸いながら「煙草は健康に悪いからやめろ」と他人に説教するような人は、その言説がいくら客観的に正しいとしても信用されないという議論に対しては、論理学の観点から、あるいは論理的であろうと振る舞う方々から「人に訴える議論」であると批判されることが多いのですが、その「論理的」な価値観に香西先生は正面から疑問を呈されます。

 しかし、開き直るようだが、論点をすり替えてなぜいけないのか。そもそも、「論点のすり替え」などというネガティブな言葉を使うから話がおかしくなるので、「論点の変更」あるいは「論点の移行」とでも言っておけば何の問題もない。要するに、発話内容という論点が、発話行為という論点に変更されただけの話である
 われわれの実社会でも、さまざまな事情を慮ることにより、議論の論点が本来のものから変更された例などいくらでもある。例えば、ある天才的な数学者が、電車内で女子高生に痴漢をして捕まったとする。そのとき、誰かが、痴漢をするようなやつの論文など信用がおけぬなどと言い出したとしたら、その人は、「人に訴える議論」(「悪罵」型)の虚偽を犯しているといえよう。数学者の痴漢という行為と、彼が証明した定理の正しさとは、それこそ何の関係もない。
(略)
…ここで、その数学者の論文が巻頭論文に選ばれた論点と、それが巻頭論文からはずされた論点とは、明らかに異なっている。つまり、論点の変更ないし移行が行われたのである。これに対し、尻の青い若手数学者が、たとえ痴漢をしようが殺人をしようが、彼の論文の価値は不変なのだから最初の予定通り巻頭に置くべきだと喚いたとしたら、その若手数学者は論理的かもしれないが、組織の中では彼の言葉は聞く耳を持たれない(偽悪的な−−悪を衒う−−文学者の組織なら、もしかすると別様の行動をとるかもしれないが)。社会では論理よりも常識が優先されるのである

香西『同』p.129

つまり、発話者に問題があったり、発話と発話者の行動に矛盾があったりすれば、発話そのものの真偽ではなく、発話者の行動との整合性に論点が移行するのが社会の常識であろうということです。個人的には「社会の常識」というのはやや言い過ぎの感がありますが、「言うこととやることが正反対であっても、発話の内容のみに着目して議論するのが論理的に正しい」という主張は、感情を持った人間同士が議論するという現実を無視した机上の空論だろうとは思います。

立証責任の移動

 先ほどの捕鯨の例を再び取り上げてみよう。もしそのアメリカ人が、本当に捕鯨は「悪」であると思い、それゆえに日本の捕鯨を批判するのであれば、彼には、なぜ自国の捕鯨は不問に付し、日本のそれだけを問題にするのかということについて説明する義務がある。すでに述べたように、伝統的な論理学では、「お前も同じ」型の議論は、「論点のすり替え」という詭弁(虚偽)に分類されていた。確かにこの場合も、論点は、日本の捕鯨は果たして是か非かということから、なぜ日本の捕鯨だけを問題にするのかということに「すり替え」られる。が、それは本来優先して検討すべき論点に「すり替え」られたのである。あくまでもこの問題を持ちだしてきたのはそのアメリカ人なのであるから、われわれが日本の捕鯨について弁明するよりも先に、彼が自らの首尾一貫していない態度について弁明する責任を果たさなくてはならない。これが正しい議論の順序である
 「お前も同じ」型の議論は、このように、立証責任を本来負うべき側に与えるという機能がある。

香西『同』p.133

最近は政治家に対して「自分の行動を棚に上げて他人を批判する行為」が問題とされているようですが、それは立証責任を負うべき発話者に当然の義務を課すものといえます。というか、自分の行為と発話が矛盾するということ自体は人間なら普通にあることであって、自身がその場面に遭遇したときにどういう行動をとる必要があるか、あるいはどのような立証責任を果たさなければならないかということは、「論理的」であろうとするなら常に考えていかなければならないのでしょう。

2017年09月10日 (日) | Edit |
ということで、すっかり更新ペースが乱れ気味ですが海老原さん編集のHRmics vol.27が発行されていて、特集が「年金問題の根源は、日本人の心」とのことで、これは拙ブログとしては早速取り上げなければ!!…と思いつつ、すでに1か月ほど過ぎてしまうという体たらく。なんとか時間がとれましたのでじっくりと拝読しました。

といいつつ、1章から2章まではこれまで年金を巡る議論に対する丁寧な説明となっていて、そうした有象無象の議論に見飽きた方々には改めて再確認的な内容ですので各自で読み込んでいただく(必読ですよ!)として、3章の森戸先生の解説はちょっと意外な組み合わせでした。不勉強ながら森戸先生は専門委員会の委員長として企業年金の議論を進められた経験をお持ちで、その際の生々しい議論の説明が秀逸です。

 P18の「森戸の一頃③」にソフトパターナリズムの話が出てきたよね。
 選べる商品が多すぎると人って逆に選べなくなっちゃうって話。お菓子屋さんに並ぶキャンディーだと、100種類もあるより3〜5種類くらいの方が売れるんだってさ。
 そんな考え方が、2016年の確定拠出年金法(DC法)の改正にも盛り込まれたんだ。
 確定拠出年金でラインナップに並ぶ運用商品の数の上限が政令で決まることになったわけ。
 普段は初老の三流教授なんて自虐的プロフィールを語っている私だけど、実は、その時の厚労省の「社会保障審議会企業年金部会・確定拠出年金の運用に関する専門委員会」の委員長もつとめてたんだよね(舌噛みそう)。だから、このあたりの議論の経緯もよく知ってます。
 で、その時に、上限数の設定だけでなく、③で触れた「商品が多くて選べない場合、自動的にチョイスされるデフォルト商品」(指定運用商品)についても議論したよ。
 世間の金融情勢を反映できるよう、よりアクティブなものの設定を原則とするべきだ、と。ただ、そうすると、金融不況時などは年金資産の元本割れも起こると、侃々諤々に話し合いが続いて、さ。
 結局、時期尚早だと、その話は無しになりました。
 いろんな業界からヒアリングもしたんだけど、やっぱそれぞれの立場があるからね。リスクをとり人が増えるとメリットがある人たちは推進派、逆にそれが向かい風になる人は及び腰って感じで
 企業の担当者は、総じて後ろ向きだったかなぁ。運用が失敗して元本割れになった場合、会社が訴えられる可能性もあるからということで。ここは④の「セーフハーバー」を復習しといてね。
(略)
 国や企業では、もう面倒見切れないから、自分の老後は自分で私的年金を、という流れが、世界的にはあるかな。でもそうすると、お金に余裕のない人は老後が灰色になってしまうでしょ
 公的年金には、所得の再分配機能が入っていて、格差是正にも役立つので、やはり柱はこれであるべき、という意見もあります。
 あ、でも、公的年金の再分配機能が強くなりすぎると、金持ちはたくさん拠出しても年金が増えず、それじゃ現役時代の裕福な生活レベルを維持できないっていうパラドックスが起きる。そこで今度は、金持ち用にある程度、私的な年金が必要という声が生まれることになる。
 こんな感じで、あっちをたたけばこっちが飛び出すというのが、年金制度の宿命なんだよね
 そうしたことをトータルで見て、誰もが損をしないような仕組みを作ってかなきゃなんないんだ。難しいし、時間もかかると思う

森戸英幸「森戸の「スゲー年金解説」」HRmics vol.27 p.20
※ 以下、強調は引用者による。

議論の場にいらっしゃった森戸先生ならではの臨場感あふれる説明ですが、まあ話し合いというのはこうした立場の異なる者同士がそれぞれの利害をぶつけ合うのが本質ですから、理屈通りとかデータ通りにものごとが決まるわけではないのが常態であることがよくわかる説明ですね。

そして4章で、満を持して権丈先生のインタビューが掲載されているのですが、ここでも小泉進次郎議員の「こども保険」を評価する発言がありますね。

 将来、増税した分の相当部分を財政再建に回さざるを得ないのが給付先行型福祉国家です。だから、高負担で中福祉、中負担だと低福祉ということになりかねません。増税を先送りにすればするほど、増税分のうちから社会保障の取り分が減り財政再建に回さなければならない分が増えていくわけですから、増税は早ければ早いほど望ましい。
 世代間格差を大きな声で言う人たちは、もっとこちらに注意を向けた方が生産的だと思います。贅沢もしていない水準なのに、今の高齢者向け福祉を取り上げ、「ずるい」と言うのはやめにした方がいい。高齢者だ勤労者だ若者だとか、なんだかんだと言うのは、今時、あんまりかっこいい話ではないと思いますよ。みんな年をとって高齢者になるんだから、自分が年をとっても、悲しい余生とならなくてすむように、今の若い人たちと高齢者が話し合いながら折り合いをつけていった方がよいと思う。そんなことよりも、国民負担率がずっと低かったため、膨大な赤字が生まれ、今後その負担を後世に背負わせる。そちらの方が問題です。世代間で問題にすべきは、「給付の不公平」ではなく「負担の不公平」でしょう。
(略)
 そう、社会保障の財源を考える場合も、すべて税金にすれば無年金者や無保険者がいなくなり、制度の普遍性が高くなります。ただ、税金はなかなかあげることができず、所得税や法人税は増減するので、安定性は低くなります。一方、社会保険料は安定的に徴収できますし、その料率アップも比較的容易です。これだけ増税の実現が難しいお国柄では、次善の策としてしばらくの間、社会保険ベースで国民負担率を上げて、速やかにとりかかるべき重要施策を開始するしかない。そうした意味で、小泉進次郎議員たちが今提唱している「こども保険」が、財源を公的年金保険に求めるのは理にかなった案だといえるのではないでしょうか。僕は、年金の他に医療保険も介護保険も、そして雇用保険も子育て支援の仲間に入れてもらいたいと言っているんですけどね(笑)。

「Interview データで語る、給付と負担の見たくない現実 権丈善一」HRmics vol.27 p.29

拙ブログでも「世代間対立を煽るということは、自分が歳を食ったときに自らが放ったブーメランで憤死することなのですよ。」なんて書いておりましたが、本特集でもデータが示されている通り、現状で貧弱な政府支出において高齢者向けの支出の占める割合が高いからといって「世代間格差ガー」と吹き上がる方々には、「いうまでもなく、現役世代向けの現金給付や医療などの公共サービスの水準が高いフランスやスウェーデンでは、その社会的支出を支える国民負担率が高いわけでして、その3分の2程度の国民負担率しかない日本では、現役世代向けの現金給付や公共サービスがクラウディングアウトされるのは当然の成り行きl」であるこことをぜひご理解いただきたいところです。

この文脈で考えたときに、権丈先生が提唱される「子育て支援連帯基金」について「「「本来」とか「そもそも」に続く話で、世の中、役に立った話は聞いたことがない」とまで言い切る権丈先生は、ここで勝負に出たのかもという印象」でしたが、改めてその趣旨を考えさせられました。端的には、現状の政治状況を考えれば、権丈先生が「これだけ増税の実現が難しいお国柄では、次善の策としてしばらくの間、社会保険ベースで国民負担率を上げて、速やかにとりかかるべき重要施策を開始するしかない」と指摘されるような現実を前にする限り、それに対処するならこうするしかないということなのでしょう。

以前取り上げた著書では、租税による普遍的な受益者負担と社会保険による選別的なそれを「租税抵抗」という言葉で対比して、

これまでみてきたように、日本の社会保障制度は人々の「共同の困難」に対処したものではない。それはむしろ、制度の分立状況やサービスが過小供給であることを前提に、受益者と非受益者という形で人々を分断させ、リスクを〈私〉化し、受益者負担を導くものである。受益の範囲が狭いために、反対給付を伴わない租税による財源措置では合意を得られない、という理由からだ。受益者負担の導入には、租税抵抗の回避がその根底にある。日本型負担配分の論理とは、このようなものだ。
p.72


『シリーズ 現代経済の展望 租税抵抗の財政学 信頼と合意に基づく社会へ』
著者 佐藤 滋 著 , 古市 将人 著
ジャンル 書籍 > 単行本 > 経済
シリーズ シリーズ 現代経済の展望
刊行日 2014/10/29
ISBN 9784000287364
Cコード 0333


…うーむ、この部分を読むと、政府の問題というより「租税抵抗」を示す国民が選別主義的な社会保障を志向しているという状況しか思い浮かばないのですが、本書は決して租税抵抗を示す国民を敵に回すことなく、その租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府を批判するんですよね。プリンシパル=エージェント的な意味で政府の行動を批判するならまだわかりますが、「民意」から遊離した政策決定を称揚するのでなければ、政府の行動はきちんと「民意」を反映したものという評価が妥当ではないかと思うところです。

「経済の領域よりも、むしろ政治的・心理的な領域(2015年10月26日 (月))」

という感想を持ったところでしたが、「租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府」が民意に従って行動しつつ、できるだけ普遍的な社会保障制度を構築しようとすると、「年金の他に医療保険も介護保険も、そして雇用保険も子育て支援の仲間に入れ」ることで普遍性を確保しながら、「社会保険に財源を求めつつ、その保険料に貼り付いた給付の請求権をいったんチャラにしたうえで、その使途を子育て支援連帯基金として主に現物給付により制限する」という制度につながっていくわけですね。

権丈先生のインタービューを受けて海老原さんは、少子高齢化の先の社会をこのように展望されます。

 ただ、そうは言っても、社会では現役世代が減り、彼らの負担のみがどんどん高まる。それは確かに不公平感が否めない。そこをどうするか。
 私はこの問題も、日本人の心がその出発点になっていると感じる。少子高齢化社会の悪いところしか見ていないからだ。
 今後は、高齢者が増え、現役世代は減るが、その分、現役世代は「雇用機会」が増え、待遇・給与の改善も進み、世帯収入は増えていく可能性がある。…(略)
 それでも人手は不足するから、今度は社会参加ができる高齢者が増える。そうした収入は生活の足しにもなるだろうし、それで年金を受給しはじめる年齢を自発的後ろ倒しにできれば、年金額自体も増やせる。何より、寂しい余生を送らなくてもすむ。
 そう、少子高齢化は悪いことばかりではない。問題は、それを前向きに受け止めるか否かだ。日本人はなんでも「ことの悪い側面」ばかりを強調する。それもついでにやめてしまおう。 
 次の社会を「世界で一番長寿を愉しめる環境のおかげで、女性も高齢者もスポイルされずに活躍できるようになった社会」と見るか、「長寿のせいで、女性も高齢者も働かなければならなくなった社会」と見るか、あなた次第ということだ。
 今の社会問題は、その一端が、私たちの「心」から発していると気づいておきたい。

「Conclusion 水と平和と福祉」HRmics vol.27 p.30

海老原さんはコラムのタイトルにある通り、この引用部の前段で「日本では水と平和はタダだという意識が強く、それに福祉も半ば加わっている」と指摘して、少子高齢化への対処も日本人の心の問題として、「悪いことばかりじゃない」社会を展望する必要性を提起されています。それは全く同意するところですが、ではなぜ日本人の「心」がそうなっているかといえば、それはとりもなおさず(特に男性労働者にとって)給与所得のみで生活するというメンバーシップ型雇用が強い規範として機能しているという、ある意味で循環的な隘路に陥っている状況が大きな理由として挙げられるでしょう。

その先に展望される高負担・高(中)福祉の社会が、雇用によって生活保障を確保するという社会に育った日本人に受け入れられるかも、極言すれば日本人の「心」の問題ではあります。つまり、メンバーシップ型雇用で生活給が完全に保障されるなら、わざわざ可処分所得を減らすような増税は「経済学的に正しくない」としてスポイルされてしまいますし、賃上げすれば再分配も必要なくなってしまいます。さらに労働受給が逼迫しても、現状のように集団的労使関係が労働者に見向きもされないままでは、賃上げの経路は閉ざされたままです。いやもちろん、集団的労使関係が見向きもされない原因の一端は戦後の労働組合の思想的闘争にあるとしても、憲法で保障された労働基本権を行使しない労働者が大多数であることがその直接の原因でしょう。日本人がタダだと思っているリストには、森戸先生や権丈先生が指摘される「話し合い」とか「(賃上げするための)労使交渉」も入れてあげた方がいいのかもしれませんね。

2017年08月20日 (日) | Edit |
これはちょっと持ち越しになっていたエントリですが、海老原さんが春先に立て続けに出された著書を拝読してなかなかまとめきれておりませんでした。というのも、先に発行されたキャリア論がちょっと消化不良なイメージだったところ、次いで発行された経済論の微妙な人選にも困惑してしまったからです。

まず、最初のキャリア論についての『クランボルツに学ぶ夢のあきらめ方』ですが、書名に「クランボルツ」という聞きなれない単語が出てきて、これが何らかのジャーゴンなのかと思って読み始めると、冒頭の「はじめに」の中で「クランボルツの計画的偶発性理論(planned happenstance theory)」として紹介されいていますが、クランボルツがそもそもどういう学者なのかは本書では一切触れられず、「キャリア論について少しでも勉強した人ならまず必ず目にする、いわば基礎中の基礎(引用注:「バイブル」とルビがあります)と言える理論です」とそれを前提に話が進められていきます。さらに読み進めると、たけし、さんま、タモリに松本人志を加えたお笑いビッグ4の言葉とバスケットの神様と呼ばれるマイケル・ジョーダンの経歴が紹介されていて、私のようにキャリア論に通じていない読者にはちょっと面食らう展開ではないかと思います(まあ私がモノを知らないだけというのはその通りです)。

とはいえ、本書の論旨は明快で、いつもの海老原本の通り「読むと腑に落ちる」内容となっています。いつもの海老原論が全開になるのが§5でして、ここで2R2Wなどのマネジメント理論に基づくキャリア論が展開されていて、「そうかこれをいうためにクランボルツの計画的偶発性理論を下地にして有名人のキャリアを論じていたのか」と腑に落ちたというところです。つまり、『マネジメントの基礎理論』ではいわゆる上司としてのマネージャーがいかにマネジメントするかという観点からの指南書だとすると、本書はマネジメントの対象となるいわゆる部下がいかにキャリア形成するかという観点からの指南書といえるかもしれません。特にクランボルツが示した5条件(wikipedia:計画的偶発性理論を参照)を仕事をする中でどのように保つかについての的確な解説は、日本型雇用慣行について深い考察を続けてきた海老原さんだからこそ書けるのだろうと思います。

ではどこが消化不良かというと、ちょっと決めつけではないかと思ってしまう点が多いと感じたからです。本書そのものがページ数が少なく、主要なメッセージが見開きページに大きなフォントで記されているなど、メッセージ性を強く打ち出すような流れで書かれていて、それは本書のメッセージを伝えるのに重要な役割を果たしているとは思うのですが、その分検証が端折られてしまっているのが決めつけが多いと感じる理由ではないかと思います。直接響くようにするためにはある程度の勢いや決めつけも必要だろうとは思いますが、特に一部の若手芸人への評価はかなり厳し目ですので、ファンの方はその点をご留意されるのがよろしいかと。

本書をそのように位置付けたときに、いわゆる部下の立場にある者がキャリア形成を考えるモチベーションを与えることが本書の趣旨であり、その点は多くの若い世代(キャリア形成を考える中高年ももちろんですし、私なんぞは読みながら反省することしきりでしたが)に読まれるべきと思いますが、ちょっと気になる決めつけについて1点だけ指摘させていただくなら、本書の(中間的な)結論は、

 さて、「同じ土俵に立てたなら成功確率は2〜3割」という経験則をもとに、人材業界の人たちは、相談者にこんなアドバイスをしています。
 たとえば、今あなたが就いている仕事で、「そこその成功」できる確率は2〜3割、つまりだいぶ手の届くところまで来ています。なのになぜ、あなたは今、悩んでいるのか。その理由は、クランボルツの5条件のどこかが機能不全となっている場合が多い。だから、その点検をしましょう、と。

(略)

 あなたが、しっかりと仕事をやり切ったにもかかわらず、結果が出ないのであれば、次の仕事を見つけるべきでしょう。
 そして、次の仕事でも採用試験をくぐりぬけ、スタートラインに立てたのなら、やはり「そこそこの成功」を収める可能性は2〜3割あります。それは決して低いものではありません。とすると、人間はクランボルツの5条件を保って目の前の仕事を一生懸命頑張れば、そう遠くない時点で必ず「そこそこの成功」を手に入れることができる。
p.84


引用元: タイトル クランボルツに学ぶ夢のあきらめ方
著者 海老原嗣生 
ISBN 978-4-06-138614-3
発売日 2017年04月25日
定価 920円(税別)


というものでして、ここで示されている考え方は、特に転職を考える際の1つの目安としてその通りだとは思います。ただし「必ず「そこそこの成功」を手にすることができる」はちょっとそこまで言えるかなという印象です。厚労省が毎年公表している「転職者実態調査の概況」の最新版は27年のものですが、その中にはこういうデータがあります。

(3)転職者の労働条件(賃金・労働時間)の変化
 賃金が転職によりどのように変化したかをみると、賃金が「増加した」が40.4%、「減少した」が36.1%、「変わらない」が22.1%となっている。D.I.(「賃金が増加した転職者割合」-「賃金が減少した転職者割合」)をみると、44歳以下の年齢階級ではプラス、45歳以上の年齢階級でマイナスとなっており、おおむね、年齢階級が若いほどD.I.が高くなっている。(表13)

(略)

(6)現在の勤め先における満足度
 転職者の現在の勤め先における満足度について、「満足」及び「やや満足」とする者の割合と「不満」及び「やや不満」とする者の割合の差であるD.I.(表22「満足①」-「不満足②」)をみると、「職業生活全体」で43.0ポイント、男が42.9ポイント、女が43.2ポイントとなっている。「職業生活全体」を事業所規模別にみると、事業所規模が大きいほどD.I.が高くなっている。
 満足度項目ごとにみると、全ての項目で「満足」が「不満足」を上回っているが、「仕事内容・職種」が61.2ポイントと最も高く、「賃金」が17.7ポイントと最も低くなっている。(表22)

引用元: 平成27年転職者実態調査の概況(pdf)


つまり、転職後の賃金が増加した割合と減少した割合との差では全体でプラスになるものの、満足度では「仕事内容・職種」が高く、「賃金」は最も低いという結果が出ていまして、「そこそこの成功」とは必ずしも賃金面からは捉えられないということには注意が必要ではないかと考えるところです。いやもちろん、「仕事内容・職種」の満足度が高いことをもって「そこそこの成功」ということも可能ですし、これをもっと高めてさらに賃金などの待遇面も向上させるためにクランボルツの計画的偶発性理論が重要というメッセージでもあると思いますが、読む方によってはイメージが異なる場合もあるでしょうから、この点にもご留意いただくとよろしいかと思います。

そしてなんとも評価しがたいのがこちらの著書です。本書の内容そのものは大変わかりやすく、特に利率と利回りの違いをここまで丁寧に解説した本は他にはあまりないと思いますので、仕事をするうえで経済の仕組みを理解するためには大変重宝する内容であることは間違いありません。ただ、最後の第5部で「それでもわからないことはプロに聞く」として出てくる「プロ」がおっちょこちょいな飯田先生なんですよね。。ということで、本書の評価はその解説に対する評価で左右されると思いますので、私からは保留とさせていただきます。
2017年05月22日(月)発売 / 税込価格:1,512 円
四六判/並製(184頁)
ISBN : 978-4833422314
[著]海老原嗣生
[解説]飯田泰之



とはいえ、HRmics最新号となるvol.27ではあの権丈先生を大々的にフューチャーしていらっしゃいますので、こちらについては改めてエントリを上げたいと思います。

(2017/09/18追記)
海老原さんから、厚労省の転職者実態調査の解釈についてご指摘をいただきましたので、こちらに追記いたします。実は私が引用した転職者実態調査はあくまで転職直後のデータであって、転職後の賃金の推移を見るためには賃金構造統計調査を確認する必要があるとのことです。で、実際に「平成28年賃金構造基本統計調査」から「年齢階級、勤続年数階級別所定内給与額及び年間賞与その他特別給与額http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&tclassID=000001062211&cycleCode=0&requestSender=estat」から勤続年数ごとの年収(所定内給与額×12か月+年間賞与その他特別給与額の計で算出)を確認してみましょう。

例えば、転職者実態調査で「D.I.(「賃金が増加した転職者割合」-「賃金が減少した転職者割合」)」がマイナスとなった45歳以上のうち50代前半についていえば、「正社員・正職員の雇用期間の定め無し」で見てみると、高卒では勤続年数0年で約235万円から3~4年後には約288万円へと50万円以上、大卒・大学院卒では勤続0年で約418万円から3~4年後には約487万円へと70万円まで上昇します。さらに、50代前半で5〜9年目、つまり40代後半に転職した場合まで拡大すると、高卒で約327万円へと100万円以上、大卒・大学院卒では約564万円へと130万円以上上昇していることになります。一方で、これを「正社員・正職員計」に当てはめてもほぼ同様の傾向が見られますが、「正社員・正職員以外計」では、50代前半の大卒・大学院卒で勤続年数5〜9年目が60万円程度上昇するほかは、目立った賃金上昇は見られません。このデータからも、転職で「スタートラインに立つ」ことが最低条件であって、そのためにも特にクランボルツが示した5条件を実践していくことが重要でありlptpが示されているのでしょう。

実は2年目以降に賃金が大きく上昇するのは、勤続0年ではボーナスが支給されない場合が多く、2年目以降にボーナスが上乗せされるというカラクリがあるためですが、その中でも3年目以降は「上位群」が引っ張り、中下位群は固定となり、これらを踏まえて本書では「スタートラインに立てたのなら、やはり「そこそこの成功」を収める可能性は2〜3割あります」と指摘されたとのことでした。ご指摘ありがとうございました。まあ、こうした細かい検証をダラダラ書いてしまうと「研究者・研究肌の人間は読みますが、一般人は読まない」というジレンマがあるため、「私の本は、勝手に「料理」して、食べられるようにして」いらっしゃるとのことで、その意味で本書はちょっとクセのある「おいしい」内容となっていますので、未読の方はぜひご一読をオススメします。