2019年07月21日 (日) | Edit |
だいぶ放っておいてしまったところですが、午後8時から各局で選挙特番が始まっておりまして、まあ報道で見ていた事前の予想に概ね沿った結果となっているようです。で、6年前の参議院選挙の後にこんなことを書いておりましたが、

その林内閣はわずか4か月で退陣し、昭和12年4月に総選挙が行われることとなりますが、そのような生活を実感している中下層に支持を訴えた社会大衆党の選挙スローガンについて、坂野先生はこのように引用されます。

 山川菊栄の一文を念頭に置くと、社会大衆党が選挙運動中に公表した選挙スローガンの意味がよくわかってくる。それは次のようなものであった。

「選挙スローガン
一、まず国内改革の断行!
一、国民生活の安定!
一、広義国防か狭義国防か!
一、政民連合か社会大衆党か!
一、議会革新の一票は社会大衆党へ!
一、大衆増税絶対反対!
一、勤労議会政治の建設!
一、国民外交の確立!」(内務省警保局『社会運動の状況・昭和12年』)


 「選挙スローガン」などは単に美辞麗句を羅列したものにすぎないと思われがちであるが、政治が大きな岐路にさしかかっているときには、各陣営とも意外に率直に自ら信ずる方向を国民に訴えるものである。そういう岐路においては、今日流行の「マニフェスト」はおのずから明示されるのである。すでにたびたび指摘してきたように、この時の日本の岐路は、「反ファシズム」か「改革」かにあり、「反ファシズム」の側には社会の上層が(財界と二大既成政党支持者)、「改革」の側には社会の中下層が支持を与えていた
 そして、大規模な軍拡を目指す陸軍内部にも、それを社会上層の「反ファッショ勢力」と結んで実現するか、ようやく議会にも勢力を増大しようとしていた社会の中下層の「改革」勢力と組んで行おうとするかの、二つの勢力があった。この二つの方向を理解すれば、ここに紹介した社会大衆党の選挙スローガンが、後者の途を率直に提示していたことがわかるであろう。
 社大党にとって第一に重要なのは対外政策ではなく「国内改革」であり、「国民生活の安定」だった。そしてそれを実現するためには、「反ファッショ」と軍拡を結びつけた「狭義国防」ではなく、「改革」と軍拡を組み合わせた「広義国防」路線が必要であり、それを政党界で実現するのは、既成の二大政党が結びついた「政民連合」ではなく、「改革」をめざす社会大衆党だったのである
坂野『同』pp.159-160
昭和史の決定的瞬間 (ちくま新書)
(2004/02/06)
坂野 潤治
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いわゆる中下層の方の支持を得ようとする政党は、いつの時代も変わらず「増税反対」と「改革」を唱えるようですが、裏返していえば、中下層の方は自らの境遇に満足しない限り「増税反対」と「改革」に期待するものと考えるべきかもしれません。結局、社会大衆党は昭和12年4月の総選挙で議席数を20から36へと倍近く伸ばし、その躍進の要因について、特高警察が「国民の政策批判力の増進」を挙げたとのこと。「政策批判力」というのは今でいう「熟議」とかになりそうですが、まあ「熟議」の結末がどうなるかを示唆するものともいえそうです。

(略)

経済学の教義に忠実なあまり増税忌避という思考停止に陥ることは十分にあり得ることでしょう。そのとき「増税反対」と「改革」を主張する勢力が、「付加価値税が生み出す恩恵−−無料の診療、高等教育、公共交通費や住宅取得の補助など−−をもっとも受けるのは、それらを払えない貧しい人たち」の期待を取り込んでいく様子が見られるのかも知れません。

トッププライオリティの置き方(2013年08月15日 (木))


今回の参議院選挙では、ナイーブさに定評のある松尾匡先生をブレーンに据えた政治団体(今回の結果で政党要件を満たしそうですが)が議席を確保したとの由。

政権とったらすぐやります
今、日本に必要な緊急政策

れいわ新選組は、
ロスジェネを含む、
全ての人々の暮らしを底上げします!

消費税は廃止


物価の強制的な引上げ、消費税をゼロに。
初年度、物価が5%以上下がり、実質賃金は上昇、景気回復へ。
参議院調査情報担当室の試算では、消費税ゼロにした6年後には、
1人あたり賃金が44万円アップします。

れいわ新選組 政策

まあ、今回消費税率引き上げ反対を含めれば、与党以外はほぼ消費税を目の敵にしていたようですし、上記の政策を掲げた政治団体からは障害者が当選された(障害者が選良として議会の場に参加することそのものについてはまた別途)とのことで、6年前の予想も当たるものだなと自分を褒めてあげたいと思います。
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2019年05月05日 (日) | Edit |
ここ数か月、アメリカの民主党候補者が支持したとして脚光を浴びているらしいMMTにつきましては、拙ブログでは2年半ほど前にその信奉者の方々と議論をさせていただいておりまして、相変わらず私の疑問に回答を示してくれるような議論は寡聞にして見当たらないところですね。

ところで望月夜さんは、さらに政府支出を増額してその分を新規国債で賄えばよいという立場かと見受けますが、その新規国債で賄うべき政府支出の額はどのくらいになるとお考えなのかは不明です。「政府債務の償還は因習である」とまでおっしゃるのであれば、政府支出は青天井として問題なさそうですので、各省庁なり自治体で選良の皆様が要求する事業にはすべて財源を用意して実施するというのも一つの考え方かと思います。なんというか、インフルエンス活動の全面解禁につながりそうですが、「しかし、実務というのは批判されたからといってすぐには変えられない(インフルエンス活動による効用が低い)から実務なのであって、消費者の批判に応えるためだけの実務なんてものには政策実現性(フィージビリティ)がそもそも担保されてはいません」ので、望月夜さんがお考えの「具体的実務的形態」の謎は深まるばかりという印象です。

「経済学方面の通常運転(2016年11月20日 (日))」


MMTを信奉される方々からは「インフレを指標とするので政府支出は青天井ではない」とのご指摘がありそうですが、インフレを指標とするから青天井としないということは、いつかは政府支出を絞るか増税によって「貨幣を消滅」させることが必要となるのでしょうけれども、ではそれらの財政政策のうちどれが望ましくて、どれが避けるべきものかをどうやって判断するのかについてはほとんど関心がないようです。

この点は琉牛牛 (@ryuryukyu)さんがケルトンの議論からまとめられているように、



手続き(ロジ)は示されているものの、その中身(サブ)を決める政策過程がすっぽり抜け落ちている言説が堂々と披瀝されると、投資といわれるものに財政支出しさえすればオールオッケーという主張に見えてしまうのですが、まあ経済学方面にありがちな議論ではありますね。

拙ブログでのケインズの理解は権丈先生の説明を参考にさせていただいているところですが、権丈先生が「ケインズが線型の消費関数なんか定義するから、消費は所得で決まってしまい、需給ギャップを調整するのは投資しかないという妙な理屈がまかり通るようになってしまった」と指摘される理路については、度々引用させていただいる次などが参考になります。

ケインズの理解でいえば、権丈先生はケインズの思想に至るまでの社会的・歴史的背景を吟味しながら議論されているので、その点を「信用」して参考にさせていただいているところでして、ケインズが投資と消費の関係をどのように考えていたのかについての権丈先生のご指摘を引用させていただきます。

We established in chapter 8 that employment can only increase pari passu investment unless there is a change in the propensity to consume.
(間宮訳「第8章でわれわれは、消費性向に変化がないとしたら、雇用の増加はただ投資の増加にともなってのみ起こりうることを確認した」)


僕は、「これなんだよなぁ。ケインズが線型の消費関数なんか定義するから、消費は所得で決まってしまい、需給ギャップを調整するのは投資しかないという妙な理屈がまかり通るようになってしまったんだよなぁ・・・」
彼「なるほど、そういうわけかぁ・・・」
と、ふたりで、投資の限界効率表なんてのは、あれは期待の話で、消費量が変われば期待としての限界効率表も動くに決まっているじゃないか、などなどと、iPad そっちので、『一般理論』の話で盛り上がる。

Consumption――to repeat the obvious――is the sole end and object of all economic activity.
(間宮訳「消費は、わかり切ったことを繰り返すなら、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である」)


この消費こそが、いま不足しているのである。
ところが、世の中の多くのひとは、ケインズが投資の話に論点を集中するために仮定した世界にとらわれてしまい、需給ギャップは投資で埋めると考えるばかりで、他の箇所ではケインズも結構論じている消費性向を高めていく政策には考えが及ばない。だから、需要不足があるんだから投資を増やさなければとばかり考える彼らと、現下の需要不足は主に消費が不足しているからと診る僕の話はかみ合わない――と言うよりも、彼らは間違い続けているように見える。

「勿凝学問 313 足りないのは、投資か消費か? 誤解の源はケインズの言葉だろうな(2010年6月8日 慶應義塾大学 商学部 教授 権丈善一)」


(略)

ここで,サムエルソンの経済学で学んだ多くの人たちは,なぜ,ポール・デヴィッドソンは,サムエルソンを「ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである」と批判しているのかと思うかもしれない。
その理由は,ケインズは,貨幣を保蔵 (hoarding)したいという欲求がある社会,すなわち流動性選好理論が成り立つ貨幣経済 (monetary economy)を 前提に置けば,伸縮的賃金であっても硬直的賃金であっても失業は起こりうると考えていたからである。このことは,ケインズの次の言葉が端的に示している。

喩えて言えば,失業が深刻になるのは人々が月を欲するからである。欲求の対象 (貨幣)が生産しえぬものであり,その需要が容易には尽きせぬものであるとき,人々が雇用の口をみつけるのは不可能である。
Keynes(1936)/間 宮陽介訳 (2008)『 一般理論』上巻331頁


これは,将来,すなわち歴史的な時間の流れの中での「不確実性」に備えて価値保蔵手段としての貨幣に対する選好,他にも諸々の理由により貨幣を保蔵したい という欲求すなわち「金銭欲」が尽きず「物欲」に優る場合には失業が起こると言っているのである。ケインズの論の中では,失業発生の原因として硬直的賃金という条件は重要ではない。

権丈善一「社会保障—— サムエルソンと係わる経済学の系譜序説の経済学系統図と彼のケインズ理解をめぐって——」(三田商学研究 第55巻 第5号 2012年12月)



ということで、ケインズの理論は「好みに合わない」として、その提示する理論を勝手に読み替えていたわけです。サミュエルソンの『経済学』の教科書で学んだ経済学徒(クルーグマンもその一人のようですが)には、そのようなサミュエルソンの理解だけではなく、勝手に読み替えるという作法まで伝わってしまったということでしょうか。

さて、ここまでが私が望月夜さんと議論を共有できないと考える一つ目の理由です。長々と引用しましたが、消費性向を高める政策が必要とされるときに、直接的に消費を増やす政府支出の財源として、安定的に税収を確保すべきと個人的に考えています。これに対して、望月夜さん(が信奉するMMTやそれに類似する学派?)は、消費とトレードオフの関係にある貯蓄を増やすために投資としての国債を増発するべきと指摘されていらっしゃると見受けます。マクロではそういえる面もあることは否定しませんが、具体的に誰の貯蓄が増えて誰の消費が増えるのか、その調整はどのように実施するのかが不明であるためお伺いしたものの回答はなく、その過程で政府支出によって賄われる利払いを含めると迂遠で高コストな財政支出ではないかという私の指摘にも特に回答はないため、議論を共有することが難しいと判断するに至ったという次第です。
(略)

(2017.1.8追記)
年を越えて引っ張るのもなんですが、このエントリのきっかけとなったお二人のコメント(http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-711.html#comment)を拝見していると、公共政策についての議論の難しさを改めて認識いたします。公共政策は繊細な議論ですので危険ではありますが、あえて模式化してみると、再分配や雇用・労働の制度に関する問題をAとして、Aの制度にまつわる問題をどのように解決すべきかという議論をしているのが拙ブログのスタンスでして、そのための財源の制度に関する問題をBとすると、本エントリで書いたような制度の裏付け(交渉と取り決めによるフロー支出はフロー財源で賄うという原則)を踏まえつつ、Bについては増税の必要性があると考えています(その理由は本エントリや上記エントリの参照先をご笑覧ください)。

というところで、Bについて異論をお持ちの方から、Cという考え方があるとか不正確とかいろいろなコメントをいただきまして、ではそのCの考え方なり私の記述の不正確さを正すなりによって、Aの問題についてどのような制度的解決が構想されるかについてお考えをお伺いしたところ、「急に「公共政策はどうあるべきか」という全く別の議論を持ってきて」とか「私は広い視野など持ち合わせておりません」という回答しかいただけないのが現実ですね。

私はBの議論に特化してその是非を論じているわけではありませんので、Aの問題が解決なり改善するのであれば、Bに関して増税にこだわるものではありません。そもそも増税が景気後退させることまで否定していませんし(中里先生がおっしゃるナローパスが重要だと考えています)、増税と現物給付との差引においていかに安定的に社会全体の消費を確保するかという経路が制度によって担保されることが重要と考えています。つまり、現状において制度による裏付けが弱いAとBの紐付けをいかに強化するかという点が私の関心なのですが、世の中にはBさえ何とかなればAは自動的に改善するとお考えの方がいらっしゃって、もしかするとそっちの方が多数派だというのが実態なのでしょう。

現実の制度においては、「その他の要件が変わらないのであれば、政府支出の対GDP比は現状のままであるはずでして、教育の無償化だの待機児童の解消だの医療行為に対する診療報酬の引き上げによる医療体制の拡充だのという再分配政策の支出構造は変わらない」わけでして、そのために制度の裏側にある利害関係の当事者による交渉や取り決めを踏まえつつ、どのように政府の支出構造という制度を変えていくかを考える必要があります。その際に決定的に重要になるのは、生産物はストックできないということであって、「「共同体の構成メンバーは連帯して共通の規範を守るべきであり、メンバーの中に苦境に立たされる者がいれば協力して支えなければならない」というsocialな考え方を理解できるか、「効率的な現金給付」で事足りるとする経済学的な議論の問題点を理解できるかというのが、労働政策に裏付けされた現物給付による社会保障や再分配を議論する上で、問われている」のですが、こういう議論が共有される世の中というのはこれまでも、そしてこれからしばらくも期待できそうにありません。himaginaryさんがおっしゃるように「「労働政策や所得再配分政策に関する論争が前面に出てくる」状況を目撃することは贅沢なこと」なんですねえ。

「制度をどのように変えるべきなのか(追記あり)(2016年12月31日 (土))」


長々と再掲しましたが、再掲部分の最後の追記にあるように、財源はその支出先とセットで考える必要があり、そこが繋がっていないと、社会的な限界消費性向を高めることなく、消費にも景気にも好ましくない影響を与える可能性がある財政支出に費消される可能性が高くなります。MMTでも経済学的に正しい理論でも構いませんが、その点を説得的に説明したものを拝見したことがないところでして、冒頭のように嘆息せざるを得ないわけです。

既に1年以上経ちますが、「何回か取り上げていた都知事選が誰得な結果に終わり」まして、その後は都の中央卸売市場の豊洲移転問題で小池都知事が手腕を発揮されていますが、不思議なことに財政政策の重要性を主張される方々にはこれほどの財政政策が支持されていないようです。豊洲移転問題での小池都知事の判断は、まさに通常であればムダと叩かれるような穴を掘って埋めるがごとき財政支出を繰り返しているように見受けるところでして、財政政策の重要性を主張される方々が待ち望んでいた姿ではなかったんでしょうかね。

いやもちろん、私自身は小池都知事の手法が評価されるべきとはこれっぽっちも思っていませんが、財政支出が足りないだなんだと騒ぐ方々が、これだけ露骨に穴を掘って埋めるような施策が実施されているのに、むしろ批判される方が多そうな状況は興味深い現象だなあとは思います。

「税金の使途を取り決める基盤(2017年09月24日 (日))」


再掲部分で権丈先生が指摘されているように「この消費こそが、いま不足しているのである。ところが、世の中の多くのひとは、ケインズが投資の話に論点を集中するために仮定した世界にとらわれてしまい、需給ギャップは投資で埋めると考えるばかりで、他の箇所ではケインズも結構論じている消費性向を高めていく政策には考えが及ばない。」という視点が、財政政策なり再分配の支出拡大に不可欠な視点だろうと考えます。その消費性向を高める政策の実効性を確保し、制度としての運用を確実なものとするためには、給付の権利が貼り付いた保険料とか、ストック効果に見合う公債費とか、その支出に対する財源の性格を明確に位置づける必要があります。というか、それが政策的技術論なのですが、MMTの考え方を援用してインフレになるまでは財政支出を拡大すべきという場合にはその政策過程がすっぽり抜け落ちてしまいます。

>「貯蓄や投資が増えると流動性選好が高まり、その結果として消費が抑制され、消費が抑制されると経済が縮小し…というデフレ・スパイラルが生じても、政府債務は償還する必要がないという立場からは特に関知しない」

単純にこの文面の意味を理解できないのであるが、まず一行目の「貯蓄・投資の増加→流動性選好の高まり」からして、控えめに言って意味不明、率直に言えば支離滅裂である。
ケインジアンの枠組みで言うと、流動性選好とは、流動性に対する投機的所持需要の程度を指すのであり、流動性選好が高まれば金利(流動性を貸与する報酬)が上がり、弱まれば金利が下がるという構造を持っている。そうして決定する金利によって、投資量が決定するというのがケインジアンの枠組みであって、「貯蓄・投資が増えれば流動性選好が高まる」というのは、一体どういう考え方なのか全く理解することができない。

2016/12/29(木) 19:30:08 | URL | 望月夜 #3DzPDrAs[ 編集]


>流動性選好

松尾先生の説明も、私の説明も、基本的にはケインズの金利に関する説明「金利とは、貨幣を貸し出すことに対する報酬である」から統一的に理解できる。

貨幣を差し出すことに対して報酬が発生するのは、流動性に選好があるからである。

『ある一定の流動性選好』があるとき、利子率が下がれば(差し出し報酬が下がったということなので)貨幣を投資に差し出す意欲は低下することになる。

また、『流動性選好が高まれば』ある通貨供給量に対する金利には上昇圧力がかかるだろう。(なぜならば、「金利は流動性を差し出すことによって発生する報酬」なのであり。「流動性選好が強まるほど、流動性提出において要求する報酬は大きくなる」からである)

「金利は、貨幣を差し出すことに対する報酬であり、その報酬の要求程度は、流動性選好の強さに依存する」

これが理解できれば、私の「流動性選好」の扱いが、松尾先生とも何も矛盾することはないことがわかるだろう。

2016/12/30(金) 13:49:08 | URL | 望月夜 #3DzPDrAs[ 編集]


まあ、MMTを信奉される方にはそもそも投資を増やせば消費が増えるとお考えの方もいらっしゃいますので、政策過程なんぞ議論する必要性も感じられないのでしょうけれども、個々の企業なり家計において何に対する投資が増えて誰の消費が増えるのかは未だ不明なわけでして、いやまあどう見ても思考実験です。本当にありがとうございました。

というような手続きばかりしている実務屋からすると、「このようには何かしらの貸借関係があって、それを記述する手段として、石、金属、紙、場合によっては商品が用いられ、それが単位として統一されれば通貨になる」というのは、随分と簡略化された前提ですなあと感嘆することしきりです。いやもちろん、賃貸借と消費寄託の契約を金銭面のみに着目して記述するということであればこういう表現も可能でしょうけれども、その簡略化ぶりからは食べ物の入りと出だけに着目した「人間は「管」である」という考え方を思い起こします。

ところで、我々は「我考える、ゆえに我あり」などといい、人間存在の中心は「脳(意識)」であると思っている。しかし、生存にもっとも必要な食べ物の摂取の観点では、脳が意識するのは、せいぜい食べ物が腐っていないかを目や鼻や舌で感じるだけである。食べ物の良し悪しの判断の大半は腸に依っている。この意味でも人間は「管」であるといえる

(略)

確かに我々は「脳」のおかげで、便利な人工物に囲まれた清潔な場所で暮らすようになり寿命も延びた。しかし一方で我々の体の中心にある「管」は、環境の激変についていこうとして四苦八苦している。環境変化についていけず、ときには免疫システムがバランスをくずして、食物アレルギーを引き起こすケースが増えてきた。

生物が生きていくためには、環境と調和していくことが必須であり、人間もまた然りである。しかし、人間の「脳」は、環境に対して実に鈍感である。一方、環境に対してもっとも敏感なのは「管」の方である。今こそ「人間は「管」である」と考えるときかも知れない。 (記:五等星)

引用元: [コラム]人間は「管」である - 自然科学カフェ(2014/11/17 19:20)


「生存に必要な食べ物の摂取の観点」からこうした議論をすることは大いに理解できるものの、上記のような複雑な制度によって成り立つ社会における財政政策や金融政策を考える際に、その社会を構成する人間の行動を金銭面のみから記述することをもって「具体的実務的形態」であるぞという方がいらっしゃるのもまたこの世の習わしですね。

「人々は何かを購入する(2017年08月17日 (木))」



(追記)
MMTの議論について何度か参考にさせていただいているwankonyankoricky (@wankonyankorick)さんは、きちんとこの問題を考えていらっしゃいますね。

まあ昨今のMMTの脚光の浴び方を見ていれば、こうおっしゃる気持ちもわからないではありません。

ただし、wankonyankorickyさんが推してる(というよりMMTで唯一の?)らしき財政政策はJGPのように見受けられるのですが、拙ブログでは失業対策事業の夢魔とか、CFWなど検索していただければ現場の課題はそれなりにまとめたつもりですので、JGPが政策として機能するための政策過程もすっぽり抜け落ちていると評価せざるを得ないわけでして、またまた本エントリの冒頭の嘆息に戻ってしまいますね。
CFWはその枠を越えるべきか(2011年10月12日 (水))
緊急雇用創出事業の出口とは(2011年12月20日 (火))
「ミスマッチ」って何のこと?(2012年08月13日 (月))
緊急雇用創出事業とCFW(2015年02月11日 (水))

2019年05月03日 (金) | Edit |
元号が変わっておとといのメーデーと本日の憲法記念日ということで、毎年恒例の集団的労使関係論となりますが、前回エントリでご紹介した『HRmics vol.32』では、hamachan先生の連載「原典回帰」で藤林敬三著『労使関係と労使協議制』が取り上げられています。もちろん私のような浅学非才の徒は藤林敬三といわれてもピンとこないわけですが、本文によると「戦前から活躍した労働経済学者ですが、戦後は神奈川県地労委、そして長らく中労委の委員を務め、最後は中労委会長として1962年に亡くなり、その遺稿をまとめたのが本書です」とのこと。つまり、集団的労使関係の紛争処理機関である労働委員会で、労使紛争華やかなりし時代において調整や不当労働行為事件の審査に尽力された経歴の持ち主であり、集団的労使関係論を論ずるに相応しい人物といえるでしょう。

hamachan先生が紹介されているのは本書のエッセンスではありますが、その半世紀以上前の高度成長期まっただ中の論説と思えないほどに現在の労使関係を描出する内容となっていて、その慧眼に感服せざるを得ません。その藤林の基本的な視点は「労使関係は本来二元的関係である」というものでして、本書の記述から引用すると、

私のいう第一次関係というのは、いいかえれば経営対従業員関係を意味し、第二次関係というのは経営対組合関係を意味している。そしてこの第一次関係と第二次関係をさらに別の見方からすれば、第一次関係すなわち経営対従業員関係は、元来が労使の親和、友好、協力の関係である。これに対して第二次関係すなわち経営対組合関係は、もともと賃金ならびに労働諸条件、すなわち団体交渉の中心的な事項を対象としている。これらの労働諸条件の維持・改善を中心にして考えれば、労使は明らかにここで利害が対立している。したがって労使の利害対立、ときには労使が相争う関係がここで考えられなければならない。このように第一次関係、第二次関係を区別してみると、この二つの関係は性格上まったく相異なるものであるといわなければならない。(8頁)

藤林『労使関係と労使協議制』1963年(HRmics vol.32)p.32
※ 以下、強調は引用者による。

労使が親和的な第一次関係と利害が対立する第二次関係が労使関係の本来の姿であり、特に企業内組合が主体となった日本の職場はまったく異なるそれら二つの性格のうち、第一次関係に傾きがちというのが藤林の洞察であって、それが第二組合の発生を誘発するというメカニズムを解き明かします。このメカニズムはやや込み入っておりまして、経営対組合関係である第二次関係については、企業外部のナショナルセンターを頂点とする上部団体の指導(オルグ)によって強化されますが、そこでは第一次関係に傾いている企業内組合の姿勢が否定され、妥協を許さない教条的な姿勢に傾斜することとなります。その傾斜が強まった結果として、上部団体に導かれて第二次関係を志向する教条的・闘争的組合と、もともとの第一次関係を志向する(藤林は「里心」と表現しています)労使協調的組合に分裂することになるというわけです。

実は、拙ブログでは「第二組合が第一次関係を志向したために、企業内で組合が分裂してしまった」という書き方をしておりましたが、

というわけで、労働組合を保護するはずの労働組合法や労働委員会が、労働組合を分断化させてしまってその交渉力を弱体化させているというのが、日本の集団的労使関係の特徴となります。本来であれば、弱体化された労働組合の側からそのような制度を改正するよう求めるべきですが、労働組合側はそうしませんでした。なぜなら、そのような分断化された労働組合を認めなければ、現存している少数組合が存在できなくなるからです。そのような交渉力の弱体化と引き替えに、自らの組織を維持することを正当化する労働組合側の論理が、「交渉権の人権的把握」だったわけです。
(略)
というわけで、「交渉権の人権的把握」によって少数組合の存在を正当化したのは確かに労働組合であって、その意味では自業自得ではありますが、それを認めてきたのは労組法だったり労働委員会という行政委員会制度でした。そしてそれは、「少数組合を保護せよ!」という日本の左派陣営特有の主張によってもたらされた帰結でもあったわけで、労働組合だけの自業自得というよりは、戦後の日本の労働史観とでもいうものがあまりに労使対立路線と個別の組合保護に偏重していたことの結果だったように思います

自らの交渉力を低下させる労働組合(2009年06月14日 (日))
※強調は引用時。

この部分はむしろ、もともと第一次関係を志向する企業内組合が、ナショナルセンターや上部団体によるオルグによって先鋭化して第二次関係に傾いたものの、これに反発して第二組合が結成され、もともとの第一次関係が企業内組合の主流派となり、先鋭化した第二次関係を志向する組合が少数派となったというのが真相というところですね。もちろんこれは全体的な傾向をまとめたものであって、個々の企業や業界では逆に第二次関係が主流派となっているところもある(医療関係とか私学関係とか)ので、すべてがこれに当てはまるわけではありませんが、現在の日本の労使関係の描出として、藤林の指摘は首がもげるほど首肯するところです。

藤林の論説の詳細はぜひリンク先の本文をご覧いただきたいのですが、藤林の半世紀前の見通しとhamachan先生の指摘は、この国の労働組合関係者が熟読玩味する必要があると思います。

…なにしろ、そのいうところの雰囲気闘争、ムード闘争に満ち満ちていたころとはうって変わって、現在の日本は争議行動を伴う争議件数が1年間で68件という世界的に見ても超争議レスな労働社会になってしまっているからです。
 ところがさにあらず。藤林が労働委員会で連日争議の斡旋・調停に汗をかいていたころと、争議がほぼ完全に姿を消した今日とは、同じ企業内組合と経営の関係が違う現れ方をしているという意味で、実はコインの表と裏の関係にあるのです。
(略)
「…およそこのような労使関係へのクレッグ的な見解を論理を十分に味わうことも知らないままで、労使協議制をいちだんを大きく植え付けようとすることは、企業内組合をさらにhome unionismにいっそう転落せしめ、組合を去勢してしまうことにほかならないのではないだろうか。したがって、労使協議制の確立が労使関係の近代化あるいは民主主義化の方向を拒否するのではなく、むしろこれを前提とするか、あるいは少なくともこれと並行して推し進められるべきものであるとするならば、われわれの場合に今日まず考慮すべきことは、労使協議制の確立ではなく、労使関係の近代化であり、民主主義化である。言葉をかえていえば、企業内労組の存在を企業の内深く押しこめるのではなく、反対にそれを企業の外に向けしめることである。」(210〜211頁)

濱口桂一郎「原典回帰 第11回 藤林敬三著『労使関係と労使協議制』」(HRmics vol.32)p.42

「クレッグ的な見解」は引用部のみでは示されていないので推測ですが、企業内組合が労使協議制に特化していくと労使関係の近代化や民主主義化と逆行するという指摘だろうと思います。「働き方改革」が政治イシューになるというのは、上記エントリを書いていた10年前にはなかなか想像しがたい事態ではありますが、いつまで経っても集団的労使関係が政治イシューとなることはないところでして、日本の労使関係が前近代的な状態に据え置かれたままで「働き方改革」が実効性あるものとなるのかは甚だ疑問ですね。

なお、細かい指摘で大変恐縮ですが、上記のhamachan先生の記事のp.43に用語解説がありまして、労働委員会の説明で「都道府県が設置する地方労働委員会」という記載になっているのですが、地方自治法の改正により2005年から「都道府県労働委員会」となっております。それ以前は「ちろうい」という呼び名で一括できたので「地方」と付けたくなるところですが、いまは「とろうい」とか「けんろうい」とか呼び分けなければならなくて面倒ではありますね。ついでに、p.44の海老原さんの指摘で第一次関係と第二次関係が入れ替わっているように思うのですが、イギリスとドイツの制度に関連させた説明ではそのような分類になるのでしょうか。

2019年05月02日 (木) | Edit |
ここしばらくはほぼ月一の更新となっていて4月の更新も飛んでしまい、なかなかブログに手を付けられない状況でしたが、改元10連休の前半で積み残し案件がある程度目処がついたので、こちらも積み残しのネタを書いておきます。

ということで、GW直前に『HRmics vol.32』をご恵投いただきました。いつも場末のブログにお気遣いいただきありがとうございます。今回のテーマは「外国人就労問題、総点検」ということで、昨年改正された出入国管理及び難民認定法(入管法)の制度上の問題やこれまでの技能実習制度の実態が検証されています。本特集でも「けっこう厳しく管理されている技能実習制度」と示されているように、今次の改正以前にも数度の法改正を経て監理団体や企業に対する規制そのものは強化されておりまして、帰国予定の実習生、帰国後の実習生それぞれを対象とした調査において、95%以上が「役に立った」「とても役に立った」と回答していることからもそのことは伺えるだろうと思います。

ただし、法改正の過程で法務省が示した技能実習生が失踪した理由のデータで誤りが判明したように、その制度の中で問題を抱えた技能実習生がいたのも事実ですし、一部でもそのような問題があるならば制度そのものを廃止すべきとの議論も、(議論の仕方としては別ですが)まあそういう心情は理解できないではありません。

一方で、本特集では、女性や高齢者の就業参加がすでにある程度進んでいる現状を示し、これからの新規の就労参加は頭打ちになるので、人手不足解消のために外国人就労が増加せざるを得ないとしているのですが、これもやや一面的な分析ではないかと思うところです。というのは、人手不足はもちろん需要と供給の比較でもって需要が上回っている状態を指しているわけでして、需要そのものが減少していけば少ない供給でもバランスすることになります。人口減少そのものによって需要が減少することもあるでしょうし、劇的にではないにしろ、AIやらRPAやらで業務が効率化することによる需要の減少もあるでしょう。海老原さんご自身も「「AIに雇用が奪われる」といっても、人口が減少していく社会にあってはむしろそれが必要な面もある」という趣旨の指摘をされているところですし。

いやもちろん、ここは細かい分析が必要なところでして、本特集で指摘されているように、賃上げしても求人を満たすことができない企業や、そもそも賃上げする余裕のない企業では外国人就労に頼らなければならない現実があって、それが外国人就労の主な需要者といえるでしょう。というと「そんな賃金しか払えない企業はさっさと廃業しろ」という「正論」が繰り出されるでしょうけれども、そういう企業は農林水産業とか小売・サービス業だったり建設業とか警備だったり、要は経済が成熟化したこの国ではそれほど付加価値を生まない(とみなされる)けれども、新興国では十分に付加価値がある業種であるならば、そのような国から就労者を受け入れて、技能実習を行うという大義名分は(実態はともかくとして)成立するということに留意が必要です。つまり、「一時的労働力としての技能実習」に対して、上記のように就労した外国人が「役に立った」と評価するというように需要と供給が一致するならば、制度そのものは成り立つわけですね。

でまあ入管法もその大義名分を強化する方向で改正されたわけですが、受け入れる日本企業は、「「職務遂行能力」なるものが企業内で機能しなければならないのは、入社する前の段階の教育で「職務」に必要な専門能力を身につけていないことの裏返しであって、それが変わらない限りは「職務遂行能力」に頼らざるを得ないというジレンマ」に陥っているわけでして、技能実習するといいながら、職務無限定であるためにパワハラOJTが主流となっている日本型雇用慣行では、肝心の「技能」のみではなく「職務無限定な働き方」をも身につけてしまうことになります。実際に、上記の技能実習生が失踪した理由の中で、「指導が厳しい」(5%を13%に修正)、「暴力を受けた」(3%を5%に修正)という理由はまさに、パワハラOJTが主流となっている日本企業の実態を示しているものと考えられます。

ということで、その実態は「技能を実習する」という目的に必ずしも合致しない日本型雇用慣行において、外国人技能実習生を受け入れるということは、本来なら日本型雇用慣行に親和的な日本の教育機関を卒業した新卒採用者や中途採用者を代替するということにほかなりません。つまり、改正入管法が「技能を実習する」という大義名分のために使用者側を厳しく規制しているにも関わらず、パワハラOJTでしか技能を実習できないために「指導が厳しい」「暴力を受けた」として失踪する技能実習生が一定程度発生してしまう理由にもなっています。これはちょうど、hamachan先生がワークライフバランスに関して、雇用慣行そのものにおける規制とそれに対する特例をそれぞれ第1次、第2次と分けた議論と重なるように思います。hamachan先生の「Web労政時報」の連載から引用しますと、

濱口桂一郎「第1次ワークライフバランスと第2次ワークライフバランス(2015年11月2日)」

 ものごとを論ずる際にはまず基本に返る必要があります。ある一定時間以上働かせてはならないという労働時間規制は、ワークライフバランスに対してどういう効果を持つでしょうか? いうまでもなく、職場の仕事以外にさまざまな役割を担わなければならない労働者にとっては、プラスの効果を持ちます。労働時間が規制されているがゆえに、例えば子供に朝食をつくってあげてから会社に向かうことができます。家に帰ってから子供に夕食をつくってあげることができます。労働時間の柔軟性(フレクシビリティ)ではなく硬直性(リジディティ)こそがワークライフバランスを保障するのです。これが出発点です。これを「第一次ワークライフバランス」と呼びましょう
(略)
 第二次ワークライフバランスは遜色がないくらい充実しているのに、育休世代が深刻なジレンマに投げ込まれるのはなぜなのか。それはその基盤となるはずの第一次ワークライフバランスが空洞化しているからですね。ヨーロッパでは、育児休業を取っている人や短時間勤務をしている人以外の労働者も、第一次ワークライフバランスは確保されているのが前提です。ところが、日本ではそうではありません。日本型雇用システムの下におけるワークライフ分業では、男性正社員は時間無制限の労働義務を負う代わりに女房子供を養う賃金を生涯にわたって保障されるという等価交換が成立していました。法律上は存在することになっている第一次ワークライフバランスを保障する労働時間規制など、会社にとってだけでなく、男性正社員にとっても大して意味のあるものではなかったのです。生活費に組み込まれた残業代の計算に使う以外には。


厳しい指導や、ときには暴力まで容認するパワハラOJTが主流の日本型雇用慣行において、技能実習生の95%以上が「役に立った」と回答するのは一見すると矛盾するように見えますが、裏返せばパワハラOJTにもそれなりの育成機能があるという証左ともいえます。まあだからこそ日本型雇用慣行においてパワハラOJTが主流となっているわけですが、それは同時に技能実習生にも日本型雇用慣行における問題がそのまま当てはまるということです。入管法でいくら大義名分に基づいて第2次の規制を強化しても、日本型雇用慣行の第1次の規制がそのままでは、外国人技能実習生の問題は日本人そのものと同様に解決されないわけでして、それでも外国人技能実習生が日本を選ぶのかは未知数と言えそうです。いやまあそもそも日本人の問題を解決することが先決でしょうけれども。

2019年03月21日 (木) | Edit |
2019年は宇宙世紀0079の一年戦争を舞台にしたファーストガンダムの放映年から40年で、ガンヲタにとってのメモリアルイヤーですが、整理解雇の4要件の高裁判決が出されて40年の節目の年でもあります。

そもそもガンダムが放映された1979年というのは第二次オイルショックのまっただ中で、高度経済成長期末期から日本型雇用慣行が確立された時期でもあって、日本型雇用慣行と「春闘」方式が高インフレによるスタグフレーションの進行を抑え、1980年代の日本経済の一人勝ちを準備していた時期でした。またこの時期は、就業規則不利益変更法理とか解雇権乱用法理とか整理解雇の4要件(東洋酸素事件の東京高裁判決がちょうど1979年ですね)とかの判例法理が確立し、賃金体系では1969年の日経連「能力主義管理−その理論と実践」による職能資格給が広まっていった時期にも重なります。

「やる気のある主役」以外が大事(2012年11月22日 (木) )

「日本の正社員には厳格な解雇規制がある」とかいう一知半解の言説が途絶えることはありませんが、その誤解を招いているのがこの整理解雇の4要件説ですね。まあ、判例法理として確立したということは、すでにそうした権利関係が認められる状態にあったということなので、1979年から整理解雇が厳格化されたということではありません(東洋酸素事件のきっかけとなった解雇は1970年に行われています)が、実質的な規制として社会的に認識されたことは事実でしょう。

で、40年というと高卒で就職した労働者がそろそろ定年を迎え、大卒なら既に定年を過ぎて再雇用されたりするステージに入っているわけですが、それは日本型雇用慣行としてのメンバーシップ型雇用にお墨付きが与えられてから就職した方々でもあります。制度というのは、いったん成立するとその制度自体を維持することが目的化することは避けられないところでして、その中心的役割を果たしているのがパワハラの源泉としてのOJTだろうと考えます。

とはいえ、整理解雇の4要件説が判例法理として確立して40年間、パワハラOJTもそのまま変わっていないかというとそう単純な話ではありません。1年ほど前になりますが、北海道の自治体で(おそらく専門職として選考採用され)学芸員をされている石井淳平さんという方がnoteでその辺に対する違和感を指摘されていました。

公務員は能力を把握されているか

ところで、公務員は全員一定の能力をもつことが前提となっているようです。
建前上は「職階制」なので、職に応じた能力を持てばよいということになっていますが、現実には年齢によって職階が定まるので、ある年齢層にはある一定の能力が求められます。

こうした能力の管理方法が公務員のメンタルヘルスの問題と関係があるように思います。

全員が同じ能力を要求される辛さ

公務員はいわば、全員が100mを11秒で走り、ベンチプレスを90kg持ち上げることが要求されるラグビーチームのようなものです。
両方ともクリアできる選手はすばらしいと思いますが、個人の能力の向上は、本来組織としてコントロールできる性質のものではありません。

しかし、公務員の場合、基本的には同じ能力が求められ、異動した先の職場でも前任者と同じスペックで仕事を行うことが要求されます。

(略)

組織に人間が合わせた末に起こること

結局のところ、組織と個人の関係が、本来あるべき姿から離れていくほど、問題が増えていくのだと思います。
組織の意義は、容易には変えられない個人の能力差を集団でカバーして全方位的な危機対応をやっていこうね、というところにあるはずです。
選手が変われば戦略が変わるということが、組織の本質であるはずです。
しかし、公務職場では組織に人間があわせていく度合いが強く、「チームワーク」ということが、個人のスペックを均一にすることと同義になってしまっているように思います。
その結果、「地頭の良さ」のような単一的かつ改善困難な要素で職員の評価が定まってしまうということになります。

一種の過剰適応を要求されるところに、公務職場では仕事内容の割にメンタルの問題が多く発生する原因があるのではないかと感じています。

それほどつらい仕事とは思えないのに公務員が病んでしまう理由(石井淳平 Mar 2, 2018)

一応指摘させていただくと、地方公務員法の改正までいちいちフォローするような地方公務員もそうそういないと思いますが、地方公務員法における職階制は既に2014年改正で削除されていまして、さらにいえば、建前上は「職務給」であるのに実際の運用は「職能資格給制度」によって年功的に運用されているというのが労働法(ヲチャー)的な説明となりますね。

という意味では、「公務員の場合、基本的には同じ能力が求められ、異動した先の職場でも前任者と同じスペックで仕事を行うことが要求されます」という指摘も、(程度の違いこそあれ)公務員に限った話ではなく、職能資格給制度における職務遂行能力による格付けによる運用が行われている会社組織では、同様に見られる現象ではないかと思います。

さらにこのエントリから半年ほど経って、議会での答弁からメンタルヘルスに対する自治体幹部の考え方が取り上げられています。

役所の職員がメンタルヘルスを病んで退職するケースが増加しているとの認識のもと、町の対策について質問しています。

答弁(副町長)

正直、実際に昔、我々が入ったときには、上司がいて、同じ年代の人たちが課が違っているということで、上司との関係、縦との関係と横との関係でつながっていたわけでございますが、なかなか仕事もそれぞれパソコンが入ってくると、一人ひとりの仕事みたいなことになっておりまして、上司、部下という接点が、仕事で教えてもらうというよりも、個人的なというか、アドバイスはもらえるけれども、その仕事はあなたのこれよ、私のこれよみたいな感じにはなっているなという気はしております。(中略)

副町長さんの答弁は、職員のおかれた状況や過去の働き方との比較についてのべていますが、なかなか適切です。

業務の縦割り化が個人レベルまで進行している点を指摘していることは重要です。コンピューターの導入によってこうした状況が加速したとの認識も説得力があります。

(略)

議員さんは職員のメンタルヘルス対策について尋ねています。飲みニケーションで終わらず、組織的な対応を確認する良い質問です。

答弁(町長)

病んでいる職員がいるということで、病んでいるというのは、もう病気だということですから。私は、町の職員というものは、町民の最大のサービス産業であるこの役場が、町民に対してまともなサービスができないような職員はやめていただきたいと、こういうふうに思っております。(中略)

いきなりすごい答弁です。病気の職員は辞めてほしいと公言しています。いわゆる「ブラック企業」と言われる企業の経営者でも公式記録の残る場でここまで思い切った発言はできないでしょう。

自治体職員のメンタルヘルスと首長の本音(石井淳平 Aug 17, 2018)

ここで副町長答弁で指摘されているうち、「業務の縦割り化が個人レベルまで進行している」のは組織のフラット化による部分が大きく、そのことによってOJTが変容し、日本型雇用のあり方そのものにも影響しているのではないかと考えます。パソコンの導入というのはたまたまバブル崩壊後の組織のフラット化と同時並行で進んだものであって、組織のフラット化によって、副町長答弁にいう「仕事で教えてもらうというよりも、個人的なというか、アドバイスはもらえるけれども、その仕事はあなたのこれよ、私のこれよみたいな感じにはなっている」という状況が生じたと考えるべきでしょう。

管見では、ここに町長答弁のような勘違いが生じる余地があると考えます。つまり、1979年からの40年を、バブル崩壊後に初めて就職氷河期といわれた1997年で前半と後半に分けてみると、前半の整理解雇の4要件説によってメンバーである正社員の解雇規制が判例法理となってからの約20年は、厚い中間管理職層がそれぞれの業務についてそれぞれの部下へのOJTを担っていたわけでして、その当時に若手社員だった現在の幹部職員は、その「前半型OJT」で仕事を覚えたという経験を有します。そうした経験を有する正社員は、「正社員たるものどんな業務でもどんな状況でも正社員としての職責を果たすべきであり、そのために職場の人間関係を壊さないコミュニケーション能力が必要」という正社員像を共有することになります。そりゃまあ、ご自身がそうやって仕事をしてきたわけですから、仕事はそうやってするものだと考えるのもやむを得ないのでしょうけれども、それがずっと続くという保証はありません。

実際に、バブル崩壊後に正社員の範囲を限定するために中間管理職をプレイングマネージャーとして組織をフラット化した後半では、OJTを担っていた厚い中間管理職層が失われました。その結果、中間管理職が担っていた仕事は、関係者との調整から書類作成、チェック、発送に至るまでが個別のパッケージとなり、プレイングマネージャーを含む部員にそれぞれ割り振られることになります。そこでのOJTは、個別のパッケージを前任から後任へ受け継ぐという形になるため、スキルを身につけるというより、パッケージをこなす能力を身につけるための後半型OJTに変容していきます。

となると、中間管理職による前半型OJTを受けた層と、前任者からの受け継ぎである後半型OJTを受けた層では、正社員像とOJTで身につけるスキルの乖離が大きくなっているように思います。つまり、前半型OJTではまさに「白地の石板」(@hamachan先生)がスキルを身につけることが主眼となっていたものの、後半型OJTでは前任の人間関係におけるポジションにフィットして、その業務パッケージをそつなくこなすことが主眼となり、それが「公務職場では組織に人間があわせていく度合いが強く、「チームワーク」ということが、個人のスペックを均一にすることと同義になってしまっている」という状況を生み出しているといえましょう。

という私自身は後半に属しているわけでして、前半を過ごしたであろう上の世代と、同年代以下の世代とを見比べてみると、同年代以下の世代のスキルのバラツキの大きさを感じることがあります。まあ私の周囲の話なのでサンプルサイズも小さしですし、安易な世代論に落とし込むことは避けるべきとは思いますが、フラット化した組織でOJTを受ける層が組織の大半を占め、さらに若年者層が先細っていくと、業務に必要なスキルを身につけられないメンバーによって組織が運営されていくことも想定されます。まあ一部では既にそうなっているようですし、あと10年もすれば全体的な傾向となるでしょうけれども、職能資格給制度によって堅牢さを維持している日本型雇用慣行は、意外な形でその内部から変容を迫られるかもしれませんね。