世界の快適音楽セレクション - NHK
番組をご存じない方のために番組冒頭でチチ松村さんが説明される決まり文句から引用すると、「ちょっと変わった切り口でいろんなタイプの曲がいっぱいかかる」という番組ですが、その切り口というかテーマは何でもありでして、先週3月4日(土)のテーマは「ジの音楽」でした。アーティスト名とか曲名とか歌詞とか作曲者名でもとにかく「ジ」が入っていればなんでもOKという緩さがこの番組の魅力です。そのトークの話に入る前に、ゴンチチの音楽と言えばテレビとか街中で流れるBGMによく使われるのでほとんどの方が(それとは知らず)聞いたことがあるのではないかと思われるのですが、ゴンチチのお二人はどちらもデビューからしばらくは会社勤めをしながらの「兼業ミュージシャン」だったそうです。
という経歴をお持ちのお二人がそれぞれ架空の人物になって曲をかけるミニコーナーがありまして、そのうちのチチ松村さんが銭湯の主人に扮する「亀松湯」のコーナーでは、ゴンザレス三上さんが若いころのご本人として登場されることになっています。普段は番組のテーマとは関係ない曲がかかるのですが、今回は「ジの音楽」にちなんだ曲はないかということで、1960年代のブラジルで活躍したギタリストGeraldo Vesparの"Dindi"という曲がかかりました。1950年代から活躍して1966年に交通事故で亡くなったブラジル人シンガーのSylvia TellesにAntonio Carlos Jobimが捧げた曲で、曲名は「ジンジ」と発音するとのこと。その発音からチチ松村さんが電電公社で勤務経験があるゴンザレス三上さんに「人事と聞いて思い出すことはあるか」と話を振ったところ、ゴンザレス三上さんは大変興味深いお話を展開されます。――ところで、デビュー前も後もお二人とも会社員として働きながら音楽をする「兼業ミュージシャン」だったのですよね?
松村 最初は音楽だけで食べていくのは無理やったからね。僕は画材や額縁を売る会社に勤めていました。配達とか集金とかしながら、人前で歌ったり演奏したりもして。「二つの顔を持つ男」みたいな気分で(笑)、結構楽しんでいました。
三上 僕は、のちのNTT、当時の電電公社勤めでした。音楽をやりたいと言ったら、公社に勤めていたおやじから「まずは普通に働いて、そこでちゃんとできなければ何をやってもダメだよ」と言われて。2年に一度ぐらい辞令が出るので、それが3枚ぐらいたまったら自由にしていい、と。最初は仕方なしにだったのですが、働き始めてみたらそれなりに楽しく、職場もあって音楽をやる場もあるというのが割といいなと思うように。さらに調子に乗って家のローンを組んでしまったので(笑)、結局15年ほど勤務しました。
ゴンチチ、結成40周年超えて語る「相棒との関係」(後編)ARTS & CULTURE 2019.03.07
日本型雇用慣行が浸透しているようなJTCたる大企業とか役所では、「人事部屋」とか「電車」とかいう言葉が飛び交うのが冬の風物詩ですが、そこではこういう作業が黙々と進められているわけですね。とはいえ、さすが電電公社というか30万人規模の人事異動というのは気が遠くなる作業でして、その数十分の一程度の作業(の一部)しかしたことのない身からしても相当な作業量だったのだろうと思うところです。3月にもなれば4月1日付けの新年度の人事異動もほぼ固まっている時期でして、ここに至るまでの世のJTCの人事担当者のご苦労には敬意を表する次第です。三上 そういう人事課というか、人事にとても近いところに職種があったんですけれども、やっぱり大きな会社でしたので、当時は30万人くらいいたんですね。まあ、全国にあるということです。で、その何がしんどいかといいますと、上の人が一人だけ動くだけで、一人ポコッとどっか行くとか上がったり下がったり、それはよくわからないですけど、そうするとその下にぼあーっとある20数万人の人が動かないとダメになるんですね。上が変わることによって下が二人変わったり、その下はまた四人、五人というように、どんどんどんどん下がまた増えていくわけなんですね。そうすると中途くらいにいる人が変わると、その下にいる人全部が影響を受けてくるんです。
松村 はああ。。
三上 当時はもうコンピューターとかそんなんありませんから、人手で、なんか部屋にこもって、それもずっとこもりっぱなしで、ものすごい大きな壁のところに、この人が動いたときにどの人が動くのかというトレインというか、電車みたいにしてあるんですね。
松村 ええ?
三上 それが一個動くことによって全部ほかのところを動かさないとダメになるんですよ。その人だけ変わるということではなくて。だからもうね、いやもう人事というのは、それだけ大きな会社になりますと、僕は何で人を動かすだけでそんなになんのかなと思ったんですけど、やっぱり大変な作業なんですよね。
松村 いやしかし、自分が慕っている上の人が辞めたら自分もどっか行ってしまわなあかんから、ちょっとつらいなそれは。
三上 まあ、その中途のところはほかの人が入ってきますけれども、ほかの人が入ってきたところの元々の部下の人とか、みんな変わるわけですよね、そこで。何らかの状況で変わっていくわけで、すべてに影響してくるんですよね、上の人が変わると。
(聞き逃し配信では1時間8分ころ)
ゴンチチ,湯浅学「世界の快適音楽セレクション ジの音楽」
3月4日(土)午前9:00放送 2023年3月11日(土) 午前10:55配信終了
などと書くと、拙ブログを長くご覧になっている奇特な方(がいればですが)はもしかすると「いつも日本型雇用を批判しているクセになぜ日本型雇用の肩を持つのか」と思われる可能性も微レ存ですが、上記で書いたことはあくまで実務上の作業に対する労いであって、その是非は別に考える必要があります。私がこの作業で厄介だなと感じるのは、ゴンザレス三上さんのお話に出てくる「電車」と呼ばれるような人事の玉突きでして、その説明だけを見れば欧米で言うSuccession Planのような幹部登用の仕組みに見えますが、少なくとも私が見ていたところではそれほど強固なものではなかったと記憶しております。
むしろその「とき」の人事権を持つ幹部によっていかようにでも配置は変えられるもので、日本の人事の弊害として「個々の労働者のキャリアに責任を持つ人事担当者がいない」と指摘されるように、前任の人事担当者の「とき」に力を持つ幹部の意向によって配置された人事に後任の人事担当者は手の出しようがありません。それは更にその次の後任の担当者も同じなわけでして、こうしてその「とき」に応じて異動された大多数の労働者は、海老原嗣生さんが指摘されるような「クランボルツの計画的偶発性理論(planned happenstance theory)」によるキャリア形成をすることもなく、落ち穂拾い的な異動を繰り返していくことになります。その一方でその「とき」に乗って引き上げられる労働者は往々にしてその人事権を持つ幹部と昵懇であることが多く、こうして縁故主義的な調整能力に長けた幹部によって上層部が占められていきます。こうして日本型雇用慣行に特徴的な「管理職」が脈々と量産されていくわけですね。
日本型雇用慣行においては、管理職の主な仕事は「管理」そのものではなく、部下が管理した仕事が全体最適に適うように調整することです。しかし、部下が調整したり確認したりした仕事は、その部下が理解して処理できる範囲では適正かもしれませんが、より精密な処理が求められる場面で十分かどうかは全体最適だけでは判断できない場合も当然ありえます。
さらに、全体最適というのは要は「お前のリソースを組織のために使わせろ」ということを組織として命令することですので、関係部署に確認したり、場合によっては外部の専門家に確認したりしたところで、上司である管理職がその確認結果を認めるかどうかは結局、全体最適に適うかどうかという基準に戻りがちです。要すれば、「俺の望む全体最適に合致しない専門性は不要」という判断が往々にしてなされてしまうわけで、「○○(上司)がこうしろといっているんだからその通りにしろ」とか「組織のメンツが立たないからそれはできない」という全体最適が実現してしまうことになります。
日本型雇用慣行における管理職(2021年03月22日 (月))
さらにいえば、ゴンザレス三上さんは言及されていませんが「すべてに影響してくる」という「すべて」にはもちろん新入社員も含まれますので、年度末に一斉で行われる人事異動と新年度の新入社員一括採用はそもそも一体のものとして行われることになります。
というような仕組みで成り立っている日本型雇用慣行において、人事異動はゴンザレス三上さんが指摘されるような無数の「電車」のつながりを組み合わせる膨大な作業となります。その「電車」の末端に新規学卒者が当てはめられるからこそ、新卒一括採用が広く行われている(学校の卒業時期が一緒だから一括なのではなく、採用側の都合で一括になっているということです。為念)わけで、「雇用の流動化」とか「通年採用の導入」とか威勢よくおっしゃる方がこの作業のどこに流動性を取り入れようとされているのかご所見を伺いたいところではありますが、まあ実務に役立ちそうな答えは期待薄ですね。で、その人事異動について本書では、
というのもあまりに大雑把な批判ですね。「「異動」が会社内部の手続きとなるのは、定年退職とセットになった新卒一括採用のため、定年退職で空いたポストに順次「昇進」させながら、上から末端までの中間のポストに空きを作らなければならないという物理的な必然性があるから」であって、退職者と新採用の間に無数に発生する空きポストに玉突きで人事を割り振っていくのがすなわち「人事異動」です。日本型雇用慣行の運用の中では、大多数の「普通」の職員は空いたポストにある程度機械的に割り当てざるをえないわけでして、そうした「普通」の職員にとってはどこに飛ばされるかわからないという印象になるのもある程度やむを得ない面はあります。とはいっても、一定の「有望」な職員は上層部が意図を持って引き上げていくので、「全くのブラックボックス」というのは言い過ぎですね。人事部が社員に仕事を割り当てるプロセスは、全くのブラックボックスであると言ってよい。大抵の場合、割当の理由は不明瞭で、個人の興味、願望、才能、家庭の事情が考慮されることは殆どない。偶然興味がある仕事を割り当てられることもあるが、それは決して保証されているものではない。企業に命じられた仕事を、何であっても喜んで引き受ける態度が不可欠とされ、就職の時点でもそれが期待されている。
カップ『同』位置250/3383
日本企業の社員はエンゲージメントが低い?(2016年06月04日 (土) )
ということで昨年から愛宕神社のヴァーチャル参拝でおみくじを引いており、ことしも初詣しておみくじ引いてみました。
ヴァーチャル参拝 | 愛宕神社
愛宕神社で2回目のおみくじは吉となりまして、昨年の大吉よりはやや懸念材料もあるもののまあ幸先のよいスタートを切ることができました。ということで今年も無事これ名馬を心がけて参りたいと思います。吉
時が大切です。時とは時間であり、チャンスであり、正しい時期です。
あなたにとってどれがピンときますか。鏡の中の影は、本体の動きの通りにしか動きません。
あなたの日常のふるまいや思考が、あなたの運勢を創り出します。
心正しく、行いをすなおにしましょう。
特に異性問題を慎み、家庭を大切にしましょう。
【願い事】
かなうでしょう。
しかし、そこに色恋の影がある場合は妨害が起こり、かなわない場合もあります。
【待ち人】
期待できません
【失し物】
なかなか出てきません。
今日はあらきめましょう
【旅行】
連れの人に左右されます。
【ビジネス】
変化はありません
【学問】
日頃の努力が反映されます
【争い事】
口に注意。 言わぬが花。
【恋愛】
相手のことを冷静な目でみてみましょう。
他人にやさしく、正直で素直な人ならば吉
【縁談】
あなたの迷いに注意
他人の言動に迷わされず、自分で心を定めましょう
【転居】
いいでしょう
【病気】
安心してください
いやもちろん当時通っていた新興宗教にそのような仕組みがあったのは事実ですし、その「位」を高めるために本業の仕事そっちのけで寄付や布教などの活動にのめり込んでいく人(まあ私の親や(当時立派な2世信者であった)私自身を含みますが)がいたのも私が体験した事実です。おぼろげな記憶ながらその雑誌での指摘をもう少し具体的に思い起こしてみると、階級制があると指摘されていた団体は幸福の科学やオウム真理教などの比較的新しい団体で、その階級制の起源は戦後発展した新宗教だった…というような記載内容だったと記憶しています。私が当時通っていた新興宗教もその起源とされていた新宗教の一つでしたので、その記事には信憑性を感じた次第です。
が、そのほかの宗教団体も階級制を有していたことの真偽は私には検証が難しく、あくまで私が通っていた新興宗教内部の話としていうならば、hamachanブログのコメント欄でカトリック教会で洗礼を受けられたというbalthazarさんが「こんなシステムは考えられないです」と指摘された上で、
というご指摘はそのとおりだなと思いますし、これに対する要するに欧米ではキリスト教のシステムがベースになって社会が出来ている。
日本社会は欧米の社会とは異なるタテ社会、あるいは「世間」が支配している。
だから会社はメンバーシップ雇用型社会、そして新興宗教も日本社会の構造をそのまま反映した構造になってしまうのだと思います。
投稿: balthazar | 2022年8月27日 (土) 13時46分
というhamachan先生のご指摘も重要なものだと思います。つまりは、雇用社会のあり方が一見それとは関係のない既存の宗教などの社会システム(宗教を社会システムといってよいかは議論がありそうですが)から影響を受けていて、それが回りまわって新興宗教に取り入れられていくというサイクルが循環しているように見えます。今の日本においていかに搾取的な新興宗教を規制するかが社会問題化している一方で、雇用社会では正社員として組織に滅私奉公することが求められているなら、新興宗教だけを規制するための理屈を考えるのはいろいろと困難がありそうだなと思わざるをえません。一方で、企業や官庁など近代社会のヒエラルキー的組織原理のもとはカトリックの教会組織だという議論もありますね。
教皇から司祭までの重層的なジョブの階級構造を構築する一方で、信者の側には「職能資格制」はないというあたりが、欧米社会の基本原理とつながっているのでしょうか。
投稿: hamachan | 2022年8月27日 (土) 13時57分
という点からすると、ほぺいろさんの
というご指摘はまさに日本企業あるあるでして、プレーヤーとして能力があると認められればマネージャーとしての「位」が与えられ、マネジメントに適任かどうかは二の次になる点もその通りなのですが、であればこそ、同じ理屈で新興宗教のみを批判することは難しいでしょう。なんとなれば、プレーヤーとして寄付や布教で実績を積んで幹部になった信者がその指導下にある信者に対して自分がしたのと同等のノルマを課していくという「組織の論理」は、同じ日本社会で新興宗教が存在意義を得るために日本型雇用慣行を模倣した結果構築されたものと考えるのが自然ではないかと。これを批判するならば、「組織の論理」でもって構成員に滅私奉公を求めて、その組織献身的な働きに対して組織内部の「出世」で報いるという仕組みへの批判に通じてしまうわけでして、それは特に日本社会において特に組織を司る立場にある方にとっては諸刃の剣となってしまいます。でも、そもそも
日本って1企業の中でも
「あいつよくやっている」という
お褒めが結果的に出世で
その出世がマネージャーになることなんで
上に立つということが
ご褒美という点もあるんだとは思いますけどね
投稿: ほぺいろ | 2022年8月29日 (月) 14時15分
「『うちの会社では組織の論理なんてものにとらわれず、構成員を含む社会に対する貢献を第一に考えているぞ』という者だけが石を投げなさい」なんてことを言えば「すわ反社会的団体を擁護するのか」などという批判を受けそうですが、被害者救済と信教の自由の兼ね合いという高尚な(?)レベルの問題とまでいわずとも、こうして普段当たり前に行動していることが当初の目的とは別に深刻な問題に通じうるという感覚が必要ではないかと思うところです。
ということを考えながら、hamachan先生がエントリ内で
と指摘される点について考えてみると、(「新興宗教の「職能資格制度」がぐらついて」いったのかどうかは、現在は宗教団体と縁切りしている私にはよくわからないところはあるものの)日本型雇用慣行における「職能資格制度」が1990年代のバブル崩壊後にその対象を「正規」労働者に絞る一方でその辺縁の「非正規」労働者を拡大していく過程が進行したことと、そのほぼ同時期にタレントが合同結婚式に参加したことで批判を受けていた新興宗教において、その後も「出世」した幹部による搾取的行為が脈々と継続していたこととは、同時代の日本社会の動きとして通じるものがあったのかもしれません。そこに共通するのは、例えば「正規」で「出世」できる立場にある者と「非正規」で「出世」できない立場にある者の断絶であり、例えばその「正規」で「出世」できる立場の者に求められるのはあくまで「組織の論理」であって、そこから断絶して「犠牲」になる者が「組織の論理」で救われる術はない、というところでしょうか。そして日本型雇用の「組織の論理」で救われる術のない者は、新興宗教の「組織の論理」によって用意された「救い」に囚われてしまい、結果として搾取的な宗教活動から逃れることができなくなるという補完関係を見ることもできるかもしれません。…若い頃はサービス残業でもなんでもやって会社に対する債権を積み上げていった方が、職業人生の後半期になってから得をするんだぞ、目先の利害にとらわれて会社への貸方を惜しむんじゃないぞ、という昭和の時代にはまことにリアリティのあった人生の教訓が、平成の30年間にガラガラと音を立てて崩れていったのと、新興宗教の「職能資格制度」がぐらついていったのとは、根っこのところで何か共通するものがあったのかもしれませんね。
戦後型新興宗教の社内出世型メカニズム(2022年8月27日 (土))
まあ、とはいっても結局のところ日本社会の構造的な側面が雇用慣行として、あるいは宗教活動として具現化したものである以上は、構造的な側面を放置しながらその具現化した現象だけを批判しても詮ないところではあります。ということでbalthazarさんの「タテ社会」というキーワードから、hamachan先生が以前「最近改めてタテ社会の本を読みなおしてみて、ほとんど言っていることが同じであったことを改めてしみじみと感じました」とされていた中根千枝『タテ社会の人間関係』を読んでみました。さすがに50年以上前の本なので現在の感覚からすると違和感のある部分がないとはいえませんが、現在の日本にそのまま当てはまる部分が多いところは中根千枝氏の慧眼というべきか、日本社会の構造的な側面の盤石ぶりを示しているというべきか、いろいろと考えされられる内容でした。
日本人が慣れ親しんでいる社会の仕組みとして「教団組織そのものも「タテ」関係を貫いている」ことはごく自然なことでしょうし、その組織に属することが構成員に安心感を与えて忠誠心を植え付けていくのも自然な流れなのだと思いますが、そのような「タテ線」の関係は金銭面での搾取や心神への脅迫(パワハラとか体罰ですね)ともシームレスにつながっていくわけでして、それを許容する「組織の論理」をどう修正するのかが問われているのではないかと思います。戦後とみに盛んになった新興宗教集団が、魅力的なリーダーをもち、直接接触を媒介とするエモーショナルな「タテ」の線を集団組織の基幹としていることも注目に値する。創価学会の折伏による「タテ線」、立正佼成会の「親・子」関係は、その典型的なものである。これによって信者は、しっかりと組織網に入れられ、「私はもう一人ぼっちではないのだ」という安心感に浸ることができる。
また、古い歴史を持つ伝統的な教団といわれるものにも、これら新興宗教とは異なるが、基本的には「タテ」のつながりがみられる。たとえば、真宗の門徒は、真宗という教理の共通性自体を媒介として集団をつくっているというよりも、むしろ、実際には自分の父も、祖父も門徒であったからという「タテ」の線によって、現在の個人がささえられているといえよう。
信仰というような、一見抽象的なものを媒介として成立しているがごとき集団においても、それは驚くほど顕著にあらわれている。また、教団組織そのものも「タテ」関係を貫いていることは、天理教の本教会・支教会組織、真宗の本寺・末寺関係などによくあらわれていることもつけ足しておこう。
pp.168-169
タテ社会の人間関係
講談社現代新書
著:中根 千枝
※引用注:下線部は本文では傍点
統一教会56万人
— なるみ🐾山本太郎を伝える動画 (@nh3aibrS1cwuaks) July 19, 2022
創価学会827万世帯(2043万人)
幸福の科学1100万人
その他含めてとんでもない票田。
まさにカルト大国。 pic.twitter.com/tRyiUqDNU0
私の家族は祖母の代からこちらの図にあるうちの複数の新興宗教に関係していた(現在は完全に縁切りしています)ことがあり、私も物心つく前から親に連れられてその新興宗教の施設に通っていました。その当時の教義などまったく忘れてしまっていますが、施設内の食堂で食べたそばのニオイが独特で、今でもそばを食べるとその施設に通っていた当時を思い起こすことがあります。
上記で「複数の新興宗教」と書いた通り、私の親はその祖母の代から関係していたもの以外にも様々な新興宗教に関係していました。というといかにも妄信的な「毒親」に聞こえてしまう(実際そういう面があったことは否定できません)のですが、以前のエントリでも書いてある通り私の家族には重度の障害者がいまして、その障害がいくらかでも改善するならという藁にもすがる思いで渡り歩いていたという事情があります。この辺は昨今の旧統一教会をめぐる報道の中でも散々指摘されている通りでして、困難を抱えると「○○すれば救われる」という甘言にいとも簡単に引っかかってしまうのが人の性です。
という家庭に育った私もご多分に漏れず、今でいう「新興宗教2世」として親に連れられて高校生まで新興宗教に通っており、そのころになると自分なりに情報収集して宗教について考えたりもしました。といっても1980年代当時はネットもありませんし、マスコミでは幸福の科学やオウム真理教などの「新しい」新興宗教が一部のサブカル人脈の間でもてはやされつつあった程度でしたので、新興宗教全体については各種の雑誌が貴重な情報源でした。
いくつか読んだ雑誌の中で、1980年代中ごろに発行されたもので、私のその後の宗教との向き合い方に大きな影響を与えた雑誌がありました。雑誌のタイトルも出版社も忘れてしまったのですが、記憶に間違いがなければ『ムー』の別冊で、古代から現代に至る宗教の系譜を一冊でまとめた内容でした。反抗期も相まって宗教にのめり込む親の姿勢に強く疑問を持っていたので、大判サイズのオールカラーで金ピカにレイアウトされたその雑誌を当時の地元で一番大きな書店で見つけて、なけなしの小遣いで購入して何度も読み込んだ記憶があります。
その雑誌は宗教そのものを学術的に論じるものではもちろんなく、当時の「軽薄」なカルチャーを反映した冷笑的な筆致で書かれており、当時は立派な新興宗教2世だった私には、明治から大正期に設立された「古い」新興宗教と戦後に設立された「新しい」新興宗教の関係を読み解く記事が特に印象深いものでした。その記事で特に印象深かったのが、戦後に発展してきた新興宗教では、日本の戦後復興で取り残された都市部の貧困層や、高度成長の波が及ばなかった地方在住者に対して、その新興宗教の内部で新たな「地位」を与える手段が発達したという指摘です。
実際に検証した文献に当たったわけでもないので真偽のほどは不明ですが、言い方を変えると、新興宗教が推奨する行動をすることによって、宗教内での「位」が上がっていくという仕組みを構築したのが「新しい」新興宗教の特徴であり、それによって信者を獲得していったということになります。その推奨する行動には、寄付はもちろん、その新興宗教が実施する研修を受けることや、布教活動で信者を増やすことなどが含まれます。研修に参加するにも高額な費用がかかりますし、信者を増やすことは寄付したり研修を受ける人数を増やすことに他なりませんから、結局は集金の仕組みとしてそれらの行動が推奨され、その記事によればその仕組みが戦後発達した新興宗教では明示的に整備されていったわけですね。
私が当時通っていた新興宗教を例にすると、たとえば初級研修を受けると「初級会員」、中級研修を受けると「中級会員」・・・と「位」が上がっていき、初級研修は誰でも受けられますが、上に上がるにつれて○年間で○回の修行を実行し、○円の寄付金を支払い、さらに研修を受ける費用を支払う・・・等の条件が課されていきます。そして、初級→中級・・・と「位」が上がると自分自身や家族、引いては世の中が救われていくという理屈でもって、その行動が推奨されているわけです。
私はその雑誌を読んだ当時、親と一緒に誰でも受けられる研修を受け、布教活動のために知らない町に早朝連れていかれてビラ配りもし、子供のころから貯めていたお年玉の貯金をすべて寄付し、深夜バスで総本山のイベントにも参加して、次の研修を受けろと親に促されていた時期でした。その時期にこの雑誌を読んで、「この仕組みはほかの新興宗教でも同じ? ということなら、この宗教で「位」を上げることで自分や家族が救われるとは限らない? むしろそれぞれの新興宗教が自分のところに囲い込むだけのためにその仕組みを作っているのか?」という疑念をさらに強く持つことになりました。
振り返ってみると、この雑誌のおかげで、新興宗教の活動はほとんど自分の組織を拡大することに注力していて救済そのものは二の次だと理解することになり、それが現在にいたるまでの私の宗教に対するスタンスの基礎となっています。私が辻褄の合わない制度に異常な嫌悪感を持つようになったのも、そうしなければ自分の身を守ることができないという経験が基になっているように感じます。
といいながら実際にはその後特にドラマチックな展開があるわけでもなく、新興宗教あるあるで創始者の死去をきっかけに後継争いで各派に分裂していき、私(の親)が属していた新興宗教の地方組織も空中分解し、そのタイミングで親を含めて縁切りすることができて現在にいたっています。幸いなことにそれ以来私の家族は新興宗教とは一切関係していませんし、親族もそんなことはなかったかのように誰もその新興宗教には触れない状態が続いています。
と私の来歴を長々書いてしまいましたが、今考えてみるとこの仕組みはなんとまあ職能資格給制度と似通っていることかと思ってしまいます。という観点から邪推すると、戦後発達した新興宗教でこの仕組みが整備されていったのは、同時期に日本型雇用慣行として職能資格給制度が普及していったことと無関係ではないとも思われます。つまり、高学歴男性が正社員として職務遂行能力という経験値を積み上げて「職能資格」という「位」を上げていく仕組みが高度成長期を通じて社会規範化していく一方で、低学歴、女性などの属性を持つために「職能資格」という「位」を上げることができない層は、新興宗教の内部の「位」を上げる仕組みに引き寄せられていったという構図があったのではないでしょうか。
そして、(これも私の記憶が正しければですが)その雑誌では「位」が上がっていく仕組みについて「誰にでも上に上がるチャンスが開かれている」として好意的に紹介されていました。私も初めはフェアな仕組みだなとも思ったのですが、やはり複数の新興宗教が競ってその仕組みを構築したことを考えると、組織の維持拡大のための仕組みという印象は拭えませんでした。とはいえ、1980年代半ばといえば日米貿易摩擦が問題になるほどJapan as No.1という賞賛にあふれていた時代ですから、「メンバー」がその組織でしか通用しない「実績」を積み上げて上に上がっていく日本型雇用慣行類似の仕組みが理想とされ、無条件で礼賛される時代だったといえそうです。上に上がった先に何があるのかなんて突きつめて考えるまでもなく、「上に上がることがよいこと」だと認識されていた時代だからこそ通用したともいえるかもしれません。
もちろん、旧統一教会を含む新興宗教が法外な寄付を課し、そのために経済的破綻に追い込まれた信者が少なからずいたことは1970年代から問題になっていて、そのことは社会的に許容されるべきではないでしょう。家族が数百万円単位で寄付し、新興宗教2世になりかけた身としても法的な規制があったらよかったのにと思うことはあります。
その一方で、日本型雇用慣行にどっぷり浸かりつつ、その世界では「職能資格」という「位」が上がらない私の親が、「メンバー」としてその組織に囲い込むための「実績」を積み上げて「位」を上げる仕組みを唯々諾々と受け入れていったことからすると、その仕組みの是非に線引きすることは、少なくともこの日本においては相当な困難が伴うだろうとも思います。この仕組みを受け入れたのはもちろん私の家族に限った話ではなく、むしろ深く浸透しているからこそ、そこで確保される資金と人員が選挙という就職活動に四六時中追われる政治家にとって有力な支持基盤となるのでしょう。
拙ブログではつねづね職能資格給制度の持続可能性のなさを批判しているのですが、その背景にはこうした記憶が影響しているかななどと改めて考えてしまいました。
- 異動を前提とした組織運営によって、必然的に多くの部署の管理職は「職能資格があるから組織内のことは分かるけど担当する分野は素人」として決定を行うことになる。
- 「知識や経験が生かせない管理職」は「何とかやっていける仕事」に従事し、組織全体が「何とかやっていける仕事」に特化していく
- 専門性がないことを是とする組織において回りまわって「何とかやっていける仕事」そのものができない構成員が増えていく
これだけでも十分に捻れているのですが、もう一つ重要な捻れがありまして、それが派閥による仕事のプロトコルです。「仕事のプロトコル」とは何のことかというと、「何とかやっていける仕事」というのは本来、担当者が変わってもアウトプットのレベルが落ちないようにその仕事の工程や手続きを標準化することを意味するはずなのですが、組織がそれに特化するようになると、その工程や手続きの精緻化が進んでいきます。その工程や手続きが代々伝わっていく過程では、その部署内にとどまらず関係する部署や取引先も同じく組み込まれていくことになり、その関係者内で共通の工程や手続きが「仕事のプロトコル」となるわけです。
この「仕事のプロトコル」が形成される過程で重要なキーワードが「巻き込み」です。日本のビジネス書ではデキるビジネスマンに必須の能力として「巻き込み力」が上げられることが多いのですが、それは日本の組織においては歴代の前任者が形成したプロトコルを早期に体得し、それがなければ上記のように自ら関係者を巻き込んで形成したプロトコルを駆使しなければ仕事ができないという実態を反映したものと思われます。
そのようなプロトコルが形成された組織において担当者が変わった際に重要視されるのは、前の担当者が磨き上げたプロトコルをいかに早期にかつ忠実に体得するかということになります。関係者まで巻き込んで形成されたプロトコルは担当者が変わったからといっておいそれと変更できないのはもちろんのこと、たまに異動して早々に「○○の工程は不要じゃないか」とか「△△の手続きは簡素化できるじゃないか」などとクリティカルな指摘をする天才が現れるかもしれませんが、大抵の場合、そのような疑問は既に何度も検証されて棄却されたものであって、そんなことをグダグダいっている暇があったら仕事を覚えろと言われるのがオチですね。
しかも厄介なことに、そのプロトコルは往々にして属人的である場合が多く、たとえば気難しくて有名な相手方から「前任者は同じ高校出身で話が盛り上がってしょっちゅう飲んでたけど、あなたはライバル校なんだってな」などと言われてしまい、前任者のプロトコルが通用しなくなることもままあります。そこまで露骨ではないとしても、異動した先が異様に団結の強い集団に牛耳られていてその仲間に入らないと仕事が進まないとかはよくある話で、そうなるといわゆる派閥が生まれて社内政治で物事が決まる度合いが高まっていきます。
もちろん派閥による社内政治で物事が決まるのは洋の東西を問わないでしょうし、それが一概に悪いということでもないのですが、異動を前提とした組織においてプロトコルが形成されて派閥が拡大すると、仕事をこなすためには前任者のコピーとなるのが手っ取り早いということになります。冒頭でまとめたような経路で機能低下が進む組織においてはその傾向が強まりますし、その中で「知識や経験が生かせない」仕事に従事する立場になればなおさら、派閥に属して前任者のコピーとなれば評価されやすくなります。これは知識や経験を生かせるコースを歩くエリートも同じでして、自分の次に続くエリートたちのためにプロトコルを形成して派閥を拡大していくことで、後継者がコピーとなってプロトコルをさらに磨き上げていく派閥がさらに拡大していくことになります。
でまあプロトコルを形成したこともありつつどちらかというと巻き込まれる側のほうが多かった私などからしても、プロトコルの形成そのものは必要なものだと考えています。異動を前提とした組織に限らず、工程や手続きが標準化されることで効率化が進みますし、構成員の学習コストを下げることにもつながるからです。ただし、そもそも「巻き込み」という言い方がインフォーマルなやり方を称揚しているようで気に食わないのですが、仕事のプロトコルである以上はそれをフォーマルなものとしてシステム化する必要があるはずです。ところが、異動を前提とするとシステム化することでブラックボックス化する可能性があるため、結局インフォーマルなプロトコルとして代々引き継がれていき、それが仕事の効率化を阻んで専門性が阻却されていくという現状をもたらしているのではないかと考えます。
ということで、日本の組織の多くでは、冒頭の1〜3に加えて派閥による仕事のプロトコルの捻れが加わっているものと思われます。そこには日本特有ではない捻れもありますが、日本特有の事情による捻れが加わることでより複雑怪奇な組織となっている可能性があります。うーむ、考えれば考えるほど途方に暮れますが、その意味でも何も考えずに前任者のコピーとなるのが最強の戦略なのかもしれません。