2020年06月23日 (火) | Edit |
ジョブ型に対しては日本的なメンバーシップ型にずぶずぶ浸かりきった勘違いが散見されるところでして、かくいう私も

日本型雇用がややこしいのは、この「上司と部下」の関係がそのまま管理者と被管理者たる平社員とほぼ重なってしまうため、基幹的業務と補助的業務の分担が性別によって固定化されてしまうと、それがそのまま処遇を固定化してしまう点にあるということではないかと思います。この問題を解決するためにジョブ型の働き方が必要だと思うのですが、私がピンときていないのは、「ジョブごとに別れていながら処理の困難度に応じて上司と部下が分担して業務に当たる」というのが具体的にどのような働き方になるのか、日本型の働き方しか経験がないため想像できないということなのだろうと思います。

「基幹的業務と補助的業務」という区分(追記あり)(2016年01月11日 (月))

という次第できちんと理解できているかというとメンバーシップ型に引きずられてしまうことは多々ありますが、新聞などのマスコミにおいてはより一層、職種としての管理職と専門職の関係については理解が及ばないというのが現状なのでしょう。

で、hamachan先生がそうしたメンバーシップ型にどっぷりと浸かった日本的なジョブ型理解について丁寧に解説されているエントリで、佐藤博樹先生が病院の「ジョブ型」についてコメントされていました。

ご無沙汰です。
「ジョブ型」の議論が盛んですね。

看護師などの公的資格のある専門職が「ジョブ型」の典型例とする議論も多いです。
企業内専門職に限定すると,人事権のあり方が大事です。

例えば,日本の病院の看護師を取り上げると,外来と病棟,さらに外来や病棟の中のおける「専門科」の配置の権限がどこにあるかが大事です。
通常,この配置権限は,病院サイドにあることが一般的です。つまり,その点では,「メンバーシップ型」ともいえます
ご参考まで。

投稿: 佐藤博樹 | 2020年6月22日 (月) 14時28分

そうですね、日本社会全体の中でいえば、医療の世界は、医師は医師、看護師は看護師、なんとか技師はなんとか技師と、(法令に基づき)ジョブデマーケーションが明確に区切られているので、その限りではジョブ型の世界だといえますし、一般向けにはそう説明してますが、その区切られたジョブの世界の中は、こちらはむしろ日本的なメンバーシップ感覚が相当に濃厚に充満している世界でもあるようで、ひと筋縄では行かないなあ、と感じます。

投稿: hamachan | 2020年6月22日 (月) 15時19分

ありがとうございます。
折角なので,追加です。

 先ほどの病院の看護師の例ですが,通常は看護師の職域内での異動ですが,日本では,時々,看護師以外の職域への異動(例えば研修担当など)があることです。もちろん,本人の同意があるとは思いますが。この点でも厳密には職域が限定されていません。病院が,看護師に関しても職域外への異動に関する人事権を行使しています。

 最近,日本のいくつかの大企業が,「ジョブ型雇用」を導入すると言っていますが,その内実は,職域を限定した「メンバーシップ型雇用」で,必要があれば,企業が職域の変更をできるとするものがほとんどだと思います。
ご参考まで。

投稿: 佐藤博樹 | 2020年6月22日 (月) 19時40分

おっしゃる通りで、確か以前、看護師の異職種配転をめぐる裁判例を取り上げたことがあったと思います。
それにしても、医療の世界は同じ職場に複数の職種集団が併存していながら、おおむね職種内でのみ動くという意味で、それ以外の日本の世界とはだいぶ違うとは思います。

投稿: hamachan | 2020年6月22日 (月) 21時10分

 その通りです。
 
 企業内の専門職でも,とりわけ資格職業は,通常の社員に比べて,職種が限定されています。
 他方,専門職以外の社員も,通常,専門の「畑」があります。いわゆる「営業畑」,「人事畑」,「経理畑」などです。

 職種の範囲をどのように定義するかで,「ジョブ型雇用」のイメージが変わります

 次回,お会いしたときに議論できればと思います。

投稿: 佐藤博樹 | 2020年6月23日 (火) 00時03分

「ジョブ型」の典型は、アメリカ自動車産業のラインで働くブルーカラー労働者である(2020年6月20日 (土)
) - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

さすがの佐藤博樹先生のご指摘でして、私の某公立病院での実務経験からいっても「配置権限は,病院サイドにあることが一般的」でしたし、hamachan先生がおっしゃる通り「区切られたジョブの世界の中は、こちらはむしろ日本的なメンバーシップ感覚が相当に濃厚に充満している世界」というのも全くその通りですね。というのも、公務員の給与は条例で決定されなければならず、その給与は具体的に「給料表」として決定されるわけですが、いわゆる事務屋に適用される行政職給料表のほかに医療職給料表((一)が医師、(二)が薬剤師等の技師、(三)が看護師、助産師に適用されるのが一般的です)などが定められていて、その運用は事務屋と同じく職能資格給制度に則って行われるからです。

東京都人事委員会のサイトに給料表が掲載されていますが、同じサイトで「職務の級の決定」についても説明が掲載されていて、

職員の職務は、その複雑、困難及び責任の度に基づき分類するものとされており、以下の表のとおり分類の基準となる職務と、それぞれの級に必要な経験年数を定めています。

職務の級の決定(東京都人事委員会)

として、行政職給料表(一)等級別基準職務表で級が割り当てられる役職、行政職給料表(一)級別資格基準で職務の級ごとに定める在職年数を必要とすると定めています。まあこれこそが年功的に運用される職能資格給制度の実態であるわけでして、説明では行政職給料表(一)を例としていますが、医療職給料表も運用は全く同じですので、公立病院の人事制度は職能資格給制度によって運用されているということになります(ちなみに、国家公務員法にも地方公務員法にも「職務の級」という言葉はないのですが、人事院規則とか人事委員会規則で給与を決定する基準となるのが「職務の級」とされていまして、まあこれも徹底したジョブ型で規定されている国家・地方公務員法が職能資格給制度によって運用されるための運用の方便ということもできるでしょう)。

では、hamachan先生が「医療の世界は同じ職場に複数の職種集団が併存していながら、おおむね職種内でのみ動くという意味で、それ以外の日本の世界とはだいぶ違う」と指摘されるような異動(昇任)はどのようにして行われるかというと、例えば病棟勤務の看護師がいれば、手術室やICUなどの難易度の高い看護が必要とされる部署に異動させたり、逆に妊娠・出産・育児の期間に当たる看護師を、勤務時間がある程度計算できる外来に異動したりということが行われます。これは主に妊娠・出産・育児に当たる30代までで、30代後半から40代に入ると勤務年数も20年程度となるので、いわゆるヒラの看護師からシフト管理などを行う役付の看護師に昇任させる動きが始まります。つまり、看護師という職域が限定される職業であっても、経験年数によって職務遂行能力が高まるという前提による職能資格給制度の運用そのものが行われているわけでして、下位の役付の看護師からさらに上位の役付の看護師へと異動していき、最終的に師長や総師長といった管理職に昇任されていくのが公立病院の一般的な人事といえるのではないかと思います。

さらに、看護学校などの養成機関で専門的教育を受けてきたとはいえ、臨床の現場で習得しなければならない知識や技術も多く、実践経験がものをいう職業であることもまた事実です。このため、通常の業務に加えて委員会活動とか看護協会などが主催する研修会に参加したりして、勤務日以外も配置された現場の業務に関連した知識や技術の習得に専念されている看護師も多くいらっしゃいます。そうして看護師としての専門性を高めていく一方で、その過程では、佐藤博樹先生が指摘されるような看護学校の教員として出向したり、教育専従と呼ばれる研修担当の看護師として臨床の現場を離れることもありますし、最近では入退院支援加算を獲得するため入退院支援看護師を専従で配置する病院も増えています。

上記のような異動が行われる中では、職務遂行能力に見合った経験を積ませるという名目で畑違いの分野へ異動する(病棟から外来へ、内科から外科へ等)わけですが、私の個人的な観察範囲では特に20年程度の職歴がある場合はあまりうまくいかない印象があります。まあ医療という専門性が高い現場で、上記のようにその習得に専念してきた看護師にとってみれば当然の話で、それぞれの配置された臨床の現場で必要な知識や技術を磨いてきた専門職が「経験を積ませる」という職能資格給制度にどっぷり浸かった発想で違う分野の現場に回されれば、少なくともその分野の知識や技術を習得するまでの期間のパフォーマンスの低下は避けられませんし、苦労して知識や技術を習得してもまた違う仕事をさせられると分かっていれば、そこで習得される知識や技術のレベルは高が知れています。

かといって、管理職が内部養成される日本型雇用においては、メンバーシップ型で内部育成することによってしか管理職を調達できないというジレンマもあり、その管理職には複数の現場を経験することで獲得された「高い視座」なるものが求められるという職能資格給制度的な発想も理解できないではありません。結局は、管理職を調達する手段として職能資格給制度的な運用をせざるを得ず、その結果として専門性を高める看護師に居場所がなくなるわけでして、専門性を高めれば高めるほど、看護師としてのキャリアの先が閉ざされていくというのが、職能資格給制度によって運用される病院人事の現実ではないかと思われます。

となると、これも個人的な観測の範囲ですが、看護師の年齢構成を見るとキャリア官僚かと見紛うような綺麗なピラミッド状になっている公立病院が多く、つまり管理職になれない(なりたくない)看護師は公立病院を辞めて民間病院や訪問看護ステーションのような(機能を特化するという意味での)専門的な施設へ移っていくという流れがあるように思います。医療機関への人材供給という観点からは必ずしも悪い流れではないのかもしれませんが、看護師の働き方として専門性を高めると居場所がなくなる職場というのが望ましいものなのかは検証が必要ではないかと思うところです。
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2020年06月07日 (日) | Edit |
退職してから公務員ネタばかり増えてしまい、まあこれまでの人生の半分近くを過ごした公務員の話題がどうも気になるようですね。というところで元外務官僚の岡本行夫氏がCOVID-19により逝去され、その経歴が特集記事になっていました。

そんな岡本だったが、中東での日本の貢献策を実現すると、ほどなく外務省を辞めてしまった。彼の対談集には、次のように記されている。

官僚の仕事は課長時代が一番面白い。これから上のポストに行くと、仕事は部下がやるから自分が『切り込み隊』になることは少なくなる。どうしても『安全プレー』が大事になるし、そうしないと周りに迷惑をかけることになる。これは自分の生き様に向いているのか。自分は燃えないのではないか」

上司と衝突して辞めたんじゃないかという人もいますが、全く違います。(中略)僕自身は明らかにつまらない人間になりつつあった。それで、全く新しいことをしてみよう、食いつめてしまうかもしれない緊張感に身をさらして人生をもう1つやってみようと思い始め、その気持ちを抑えられなくなったのです」
(五百旗頭真/伊藤元重/薬師寺克行編『岡本行夫 現場主義を貫いた外交官』より)

岡本行夫という生き方(2020年6月3日特集記事 NHK政治マガジン)
※以下、強調は引用者による。

霞が関方面のキャリアは仄聞する程度なのですが、岡本氏は一橋大を卒業してから1968年に外務省に入省されたとのことですので、当時のいわゆる外交官試験(外交官領事官試験)採用のキャリアの中では、東大在学中に外交官試験に合格して中退して入省するようなエリートとはやや異なるコースを歩まれていたのではないかと思われます。という憶測が正しければ、岡本氏の「これから上のポストに行くと、仕事は部下がやるから自分が『切り込み隊』になることは少なくなる」という言葉は、必ずしもエリートコースではない自らの将来を外務省という組織から外部へ切り替えるための理由付けだったのかもしれません。

という岡本氏を評して、元外交官でキヤノングローバル戦略研究所の宮家邦彦研究主幹が次のようにコメントされているのですが、

岡本について語るとき、宮家氏が最も力説したのは、岡本が「政策を実行する人=政策マン」だったという点だ。
「実際に官僚を動かし、メディアに理解を深めさせ、政治家に働きかけて政策にしていく。そのためには、発想力と行動力と説得力が必要なんだけど、彼はそうした力を持っていた」
そして、こう締めくくった。
「彼の肩書は『外交評論家』となっている。でも、彼は評論家ではない。評論なんかする気はないんです。彼は死ぬまで『政策マン』だった。政策を作り、それを自分で実行する。もしくは、実行するための環境を作っていく。『彼は政治的に動く』と言う人もいるが、政策とは、そもそも政治的なもの。岡本さんだからできたんです」

岡本行夫という生き方(2020年6月3日特集記事 NHK政治マガジン)

「政策とは、そもそも政治的なもの」という言葉が非常に印象的です。複数の人数でなければ取り組むことができない課題に対しては、相手方との交渉を行いながら意思決定を行い、実施のための体制を構築し、その実施状況を適宜把握し、必要な軌道修正を行い…という組織内外の交渉が必要となります。その交渉の総体をもって「政治」というのであれば、この岡本氏を評した宮家氏の言葉は腑に落ちますね。しかし、上記の通り交渉には組織外と組織内がありまして、どちらも実施に当たっては必要ではありますが、組織内の交渉に要するコストを低くすることが組織を維持するために必要不可欠となります。組織の経済学の理論でいえば、交渉のコストを低いからこそ組織化するのであって、交渉のコストが高いプレーヤーをわざわざ組織内に取り込む必要がないからです。

とはいえ、組織内での仕事が組織内での政治に左右されるというのはおそらく洋の東西を問わず共通の課題でしょうし、その組織内で主流派でない構成員がそれを遂行する難易度は桁違いに高くなります。その組織内で仕事を遂行する能力が「職務遂行能力」ですから、職務遂行能力によって(組織内の)資格と給与水準が決定される職能資格給制度の下では、組織内の政治力こそが職務遂行能力といってもいいでしょう。問題は、その結果として実現された政策が望ましいものとは限らないということですね。私のような元地方公務員がいた組織と外務省では組織の構成が大違いですし、それに伴いサブもロジも大違いだとは思いますが、岡本氏が課長職を最後に外務省を退職して外部の「政治」の世界に身を投じたのは、組織内政治で実現できる成果に限界を感じ、外の世界の政治にその可能性を見いだしたとみることができるかもしれません。

・・・組織規範としての職務遂行能力を身につけ、組織内政治に長けて職能資格給制度を昇進していった上司は、「専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうという危険性を孕」んでいるわけでして、専門性を持ちながらジェネラリストよりも賃金水準が低い職員のいうことを素直に聞き入れるとは限りません。というより、そうした組織規範に則った意思決定が是とされる風潮が変わらなければ結局、役所という組織の公共サービスの質が向上することはないでしょう。

ジョブ型でサービスが回り始める(2020年05月05日 (火))

ということを考えていたところ、障害者枠で公務員として採用された方が的確に分析されていました。

しかし、公務員は、相手を説得によって動かす技術がなくてはならない。そこに金という大きな力が働かないのだ。

「金の払いで不義理をしないのが良いのが良い客であり成功するコツ」であるのが民間だとすると、公務員は「相手を動かして働くための筋を示した書類を作れるのが能力」であることになる

取引の際にも、契約の際にも、打ち合わせの際にも、

「品質、金額、納期、どう儲けるか」を抑えておけばよかったのだが、公務員になると、抑えるべきポイントが、「誰が、どういう筋で、何をやるか」が最重要ポイントになっている。

これは正直、アラビア語が堪能な人間が、英語圏に行ったようなものである。

ドラクエに例えると、全員がホイミを使えるのにホイミが使えない戦士から転職したLv1僧侶の悲哀、というのを感じている。

自分が今まで問題にもしていなかった能力が、実は最重要な才能として通用している世界だった。
(略)
そして、ものすごい人脈社会だ。民間以上に人格が重要な社会だ。飲み会だろうが勉強会だろうがとりあえず名刺交換して自分を売り込む必要がある。

理由は単純で、あまりにも専門領域が膨大過ぎて、とても一人の力では業務をフォローできない。誰かに助けてもらう必要が必ずある。

シン・ゴジラに一匹狼の官僚が出てきたが、ああいうタイプはしんどいだろうと思う。むしろ三枚目のお調子者のほうが仕事はやりやすい。

2020-06-06 ■障害者から公務員に転職したが、けっこうしんどい。

1年でここまで分析されているということは「組織内政治」の現場を存分に味わわれたのではないかと推察しますが、「ものすごい人脈社会」という点こそが、「組織規範としての職務遂行能力を身につけ、組織内政治に長けて職能資格給制度を昇進していった上司」が意思決定を行う決裁権者となる日本型雇用慣行を表していますね。

いやもちろん、上記の増田氏が指摘されるように民間企業のそれと役所のそれとで違いはあるのですが、それは組織外政治と組織内政治のどちらに比重が置かれるかという点の違いであって、特に役所組織の日本型雇用慣行においては、組織内政治に比重が置かれる傾向があると理解することができると考えます。役所が扱う領域においては利害関係者が複雑に輻輳することが多く、いちいちその利害調整をしていたらコストがかかりすぎるので、組織内での調整でそれに代えるのというのが飯尾先生が指摘した『日本の統治機構』ではあるのですが、「その結果として実現された政策が望ましいものとは限らない」のは上述の通りでして、ポエムばかり唱えている経産省がその余力でもってインフルエンス活動に勤しんで政府の要職を占めている現状において、その統治機構の限界も十分に見えているように思います。

(追記)
ドラめもんさんが役所のスジの通し方について怒りの土日更新されたとのことで、

法務省が責任おっかぶされそうになって梯子外しをする仁義なき戦いキタコレ。
https://mainichi.jp/articles/20200606/k00/00m/040/106000c
法務省「黒川氏の退職、捜査に支障ない」 定年で「重大な障害」だったのでは?
会員限定有料記事 毎日新聞2020年6月6日 18時21分(最終更新 6月7日 15時29分)

『賭けマージャンで辞職した黒川弘務・前東京高検検事長の定年延長問題を巡り、法務省の川原隆司刑事局長は4日の参院法務委で、黒川氏の退職により「捜査に特段の支障は生じない」と答弁した。「黒川氏の退職で捜査に重大な障害が生じる」(森雅子法相)として定年延長を決めた1月の閣議決定の根拠が大きく揺らいでいる。参院法務委のやり取りは以下の通り。【大場伸也】 』(上記URL先より)

民主政治ってプロセスが重要だから行政におかれましては筋を通した執行というのをして頂きたい、とまあ斯様に思う訳ですし、それが出来ないとなると有司専制になってしまうので、官僚の皆様におかれましては筋くらい通してよと思いますし、筋が通らないのを見るとアタクシのスイッチが点火して突然イカリポイントが妙なところでランボー怒りの土日更新とかをするのでありました。

朝のドラめもん(2020/06/08)

「官僚の皆様におかれましては筋くらい通してよと思います」とおっしゃることは正にその通りではあるのですが、その筋を通す範囲が組織内にとどまるのか、組織外まで及ぶのかによって筋の通し方は変わるわけでして、役所では組織内(霞が関では各省協議が表向きの調整の場で、組織外ではせいぜい各種団体に根回しを行うのが通例ですね)の筋を通すことまでがこれまでの仕事の範囲だったといえます。

では組織内で調整がつかず、組織外の調整が必要となったときはどうするのかというと、わたしが仄聞する限りでは、以前は霞が関内で各省協議が整わない案件があれば平場で政権党がゴリゴリと調整をしていくという流れがあり、その際に重要な役割を担うのが各省(の政策に関連する分野)の利害を代表する族議員だったわけです。バブル崩壊後に一気に進んだ政治改革において当時の自民党一党独裁の弊害を断つという名目で派閥の解消とか族議員の排除とかが進められ、「「官僚が勝手に自分の権益のためにやったんだ」とバッシングして批判をかわすのがこの国の政治家の作法となっています。官僚叩きで政権の座に就いた今度の政権党がその味を知ってしまった以上、わざわざ彼らが七面倒くさい利害調整に乗り出すはずもなく、結局は役人に丸投げする」という光景が当たり前になっていきました。

2009年の政権交代でその政治改革が完成したかのように見えたところですが、それは上記のような霞が関の組織外における調整の場を失うことを意味していました。政権党による利害調整が以前のように機能しなくなった状況において、さらに内閣人事局が設置されたことによって組織内調整は組織外調整を見越したものにならざるを得ず、それが「忖度」という言葉が政治のメインイシューとなる状況をもたらしたといえるのではないかと考えます。という経緯を踏まえて現状を見るにつけ、何のための政治改革だったのかと小一時間問い詰めたいところですね。

2020年05月24日 (日) | Edit |
世の中は公務員の定年延長が話題になっていますが、そもそも定年という仕組みがなぜジョブ型で規定されている国家公務員法に適用されなければならないのかという点の議論が必要と思われるところ、まあメンバーシップ型のいんちきネオリベしかいないこの国では、公務員の定年延長が恣意的だの何だのという観点からしか批判されないわけでして、内閣人事局を設置したときの議論を思い起こすと遠い目になってしまいますね。

 しかし、公務員改革の方向性をめぐる経産省と人事院の対立が激しくなっていくと、企画官は徐々に情熱を失っていく。省庁間の縄張り争いを「戦争」と表現し、最後には「私には公務員の相応しい人事制度とはどのようなものなのかついに分からなかった。しかし、もう時間が尽きてしまった」という言葉で回顧録を締めくくる。
 「これからどんなことが起こるのか、背筋が凍るような思いがした」。回顧録を読んだある民間職員は振り返った。
p.97

民党と公務員制度改革
(2013/07/17)
塙 和也


※ 以下、強調は引用者による。

(略)
世の中の利害当事者の立場を代弁するのが国家公務員ではあるのですが、その国家公務員自身が利害当事者となる公務員制度改革について、公務員なら当事者だから何でも言えるということではありません。業界なら業界団体が、消費者なら消費者団体が、民間の労働なら労働団体(労働組合)がそれぞれの立場を取りまとめるという過程が必要なのと同様に、国家公務員という労働者の利害をとりまとめるのは国家公務員の労働組合であるべきでしょう。そこに割って入ったのが、法律によって設置された事務局でもなく労働組合でもない一省庁の「裏部隊」であったら、その政策提案なるものが何を目指しているのか不審に思うのは当然のことだろうと思います。そういうことを平然とやってのける経産省の作法の悪さには辟易とするところですが、まあ集団的労使関係の再構築が課題とすらされないようなこの国の状況では、むしろ「民間感覚のカイカク!」を気取る経産省のやり方の方が好意を持って受け止められるのでしょう。引用部で事務局の対立を生んだとされる古賀氏が、一時メディアでもてはやされていた状況がそれを物語っていると思います。

でまあ、本書で記述されているような状況を踏まえると、真に必要な改革を阻んでいるのは人事院をはじめとする複雑怪奇に入り組んだ公務員の人事制度であることは言を俟たないと思うのですが、この点においても重要なのは、この国の集団的労使関係の再構築と並行して公務員の労働基本権を回復させることにあるはずです。人事院の言い分の不自然さは本書で指摘されているとおりであるとして、そうであればこそ、人事院の設置根拠となっている公務員の労働基本権の制約を取っ払うことが人事院の息の根を止めるクリティカルな方法です。そこには手をつけずに「カイカク」ばかり叫んでいるから実現すべきことも実現できないのではないかと思うところです。

一括採用の幻想(2014年02月23日 (日))

官僚の人事に政治家が関与すべきという風潮に乗った経済産業省の「裏部隊」によって、公務員の人事制度はどうあるべきかという議論を深めることもなく設置された内閣人事局が喝采をもって賞賛される一方で、職能資格給制度の終着点である定年という一点において政府の関与はけしからんという「民意」が政府を動かしているというのが、ずぶずぶのメンバーシップ型の日本型雇用慣行が広く浸透したこの国の現状ということなのでしょう。

前々回エントリでも、

一点目はジョブと定数を連動させることとし、単に前年度比いくら減ったと一喜一憂するような定数管理をやめるということですし、二点目はジョブに従事するための専門職型公務員の導入ということで、前回エントリの付記2で引用したhamachan先生のご指摘を具現化したものといえます。まあまっとうな考えができればそうなるわけですが、個人的にはもう一点付け加える必要があると考えています。

つまり、これまでの繰り返しになりますが、

日本の現場では長らく「全体最適」がマジックワードとなっていて、「それぞれが自分の担当に閉じこもってしまう部分最適ではダメだ。全体最適を目指すべきだ!」といえば、何か言った気になることができる風潮があります。おそらくそこには、専門的な見地は局所的な視点に陥りがちだから、全体を俯瞰して判断しなければならないという、それ自体は誠にもっともな理屈があるのでしょうけれども、その裏には「職能資格を積み重ねた上司の判断に従う」という日本型雇用への信頼があるものと思われます。しかしそれは、専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうという危険性を孕むものと思われます。

「全体最適」なる合理主義(2020年02月27日 (木))

というように、組織規範としての職務遂行能力を身につけ、組織内政治に長けて職能資格給制度を昇進していった上司は、「専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうという危険性を孕」んでいるわけでして、専門性を持ちながらジェネラリストよりも賃金水準が低い職員のいうことを素直に聞き入れるとは限りません。というより、そうした組織規範に則った意思決定が是とされる風潮が変わらなければ結局、役所という組織の公共サービスの質が向上することはないでしょう。

ジョブ型でサービスが回り始める(2020年05月05日 (火))

と指摘しておりましたが、公的サービス(検察庁人事は公的サービスの中でも高い専門性と刑法の適用という特殊性があるものの)の質をどのように確保して実効性のある行政を確保するかという観点からいえば、定年で有無を言わせず退職させることの是非を問うことが前提ではないかと考えます。そして、年功的に運用される職能資格給制度において組織を維持するためには、職務無限定で新卒を一括採用し、アサインするために上位の職を順番に空けて…、という玉突きにより、全職員を対象に人事異動する仕組みが必要であり、定年はその終着点となりますので、定年の是非はメンバーシップ型の職務無限定の新卒一括採用や人事異動の是非とも直結します。

もちろん、そうしたずぶずぶのメンバーシップ型の人事制度が当然とされる風潮が日本型雇用慣行の堅牢さを物語ってはいるのですが、日本の労働組合やその支持を受ける日本型リベラル政党が、ことあるごとに「戦時体制」を引き合いに出して政府を批判する一方で、戦時体制の賃金制度を継承している職能資格給制度を金科玉条の如く護持しようとするのはどのように理解したらよいのか、不思議に思いますね。

(1) 生活給思想と賃金統制

 明治期の流動的な労働市場では、勤続年数に応じた年功賃金制など存在しなかった。日露戦争や第一次大戦後、子飼い職工たちを中心とする雇用システムが確立するとともに、長期勤続を前提に一企業の中で未熟練の仕事から熟練の仕事に移行していくという仕組みが形成され、それに対応する形で定期昇給制が導入された。これが年功賃金制、年功序列制の出発点となる。しかし、これは大企業の基幹工にのみ適用された仕組みで、臨時工や請負業者が送り込む組夫はそこから排除されていたし、多くの中小企業も労働移動が頻繁な流動的な労働市場で、年功的ではなかった。
 1930年代には、政府の中から、賃金制度を合理化して、職務給に一本化すべきだという思想が出てきたが、日中戦争から太平洋戦争へと進む中で、賃金制度は全く逆の方向、すなわち全員画一的な年齢給の方向に向かった。
 生活給思想を最初にまとまった形で提唱したのは、呉海軍工廠の伍堂卓雄である。1922年に彼が発表した論文は、従来の賃金が労働力の需給関係によって決まり、生活費の要素が考慮されなかったことを、労働者の思想悪化(=共産主義化)の原因として批判し、年齢とともに賃金が上昇する仕組みが望ましいとしている。…この生活給思想が、戦時期に賃金統制の形で現実のものとなる。
pp.626-627

(2) 電産型賃金体系とその批判

 賃金制度は、戦時中の皇国勤労観に基づく政策方向が、戦後急進的な労働運動によってほとんどそのまま受け継がれていった典型的な領域である。
(略)
 このように、当時占領軍や国際労働運動の勧告は年功賃金制を痛烈に批判していたのだが、労働側は戦時中の賃金制度を捨てるどころか、むしろそれをより強化する方向で闘い、年功賃金制度が普及していった。これに対して、政府や経営側は「仕事の量および質を正確に反映した」職務給制度の導入を訴えていた。実際、1948年の国家公務員法では、この考え方に基づいて職階制が導入されているが、これは実際には骨抜きになった。
p.628

日本の労働法政策
定価: 3,889円+税
2018年10月30日刊行 A5判 1,074頁
濱口桂一郎[著]
ISBN978-4-538-41164-4

「戦前の日本軍が暴走したために戦争へ突き進んだ」というのはほぼ共通認識といっていいと思うのですが、その軍隊組織の人事制度を頑なに受け継いで、労働者の思想悪化(=共産主義化)を阻止する意図を持って提唱された生活給思想を護持しているのが日本的リベラルの方々なんですよね。

 これまで述べてきたように、職能資格制度は、軍隊の制度と似ていた。そして、この報告書(引用注:1969年の日経連『能力主義管理—その理論と実践』)を書いた大企業の人事担当者たちも、それに自覚的だった。巻末付録の匿名座談会で、彼らは以下のように話し合っている。

C われわれの職能資格制度、私は旧陸・海軍の階級制というのはまさにそれじゃなかったかと思うんです。少尉、中尉、大尉という階級は職能的でしたよ。

(略)
 だが、彼らは、重要な点を見落としていた。彼らが軍隊にいた時期は、戦争で軍の組織が急膨張し、そのうえ将校や士官が大量に戦死していた。そのためポストの空きが多く、有能と認められた者は昇進が早かった。彼らが述べている「10年たってまだ中尉の人ももう少佐の人もいた」「同じ少尉でも中隊長もいるし、大隊長もいた」という事態は、戦時期の例外現象にすぎなかったのである。
pp.486−487

製品名 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学
著者名 著:小熊 英二
発売日 2019年07月17日
価格 定価 : 本体1,300円(税別)
ISBN 978-4-06-515429-8
通巻番号 2528
判型 新書
ページ数 608ページ
シリーズ 講談社現代新書

『能力主義管理』はいうまでもなく日本型雇用の1960年代の到達点ですが、その中において、軍隊組織との類似性が当事者によってはっきりと語られていたわけですね。そしてそれは、戦前の軍隊組織の例外的な時期と高度経済成長の終焉が間近に迫った1960年代後半という時期の時代的背景との類似性でもあったわけで、その後両者がたどった道も類似しているといえそうです。

日本の労働者が理解した戦後民主主義(2019年09月29日 (日))

戦時体制を批判する方々は「新しい生活様式」にも異を唱えているようなのですが、

 ぼくは以前から「日常」とか「生活」という全く政治的に見えないことばが一番、政治的に厄介だよという話をよくしてきた。それは近衛新体制の時代、これらのことばが「戦時下」用語として機能した歴史があるからだ。だからぼくは今も、コロナ騒動を「非戦時」や「戦争」という比喩で語ることの危うさについても、一人ぶつぶつと呟いているわけだが、それは「戦争」という比喩が「戦時下」のことばや思考が社会に侵入することに人を無神経にさせるからだ。例えばコロナへの医療対応を「コロナとの戦争」と比喩した瞬間、そこには「前線」と「銃後」のような構図が成立し、「#医療関係者にエールを」と呼びかけるのは正しいことなのかもしれないが、そこに「兵隊さんありがとう」に似た不穏な響きをぼくは感じてしまう。

 と、このように書き始めれば、何でも戦争に結びつけいかがなものかと言う、サヨクのいつもの手口だろうと反発する人々も少なからずいるだろう。しかし、このような「非常時」の「日常」、「銃後」の「生活」を政治が言い出すとき、碌なことにはならない。そのことはやはり歴史を振り返れば明らかなのだ。

大塚 英志「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち(2020年5月22日更新)」(webちくま)

現状において、「「非常時」の「日常」、「銃後」の「生活」」であった賃金統制が生活給思想を現実のものとし、戦後の労働運動がそれを保持し、労使の合意により職能資格給制度として「日常化」しているわけでして、それを批判するサヨクがいらっしゃるのであれば、それはそれで一貫した考え方だと思います。まあソーシャルに欠ける日本的リベラルとしてのサヨクの方々は、その存在そのものが一貫性を欠いているわけでして、それもまた日本型雇用慣行の堅牢さを支えているのでしょうけれども。

2020年05月12日 (火) | Edit |
hamachan先生が意味深なエントリをアップされていて、

政治家ってのはお互いに殴り合うのが商売だから大いにやればいい。それが民主主義。

でも、たまたまその時政敵の下に仕えているからといって、役人を同じくらい激しく殴ると、その恨みは残る。もっとも、君、君たらざるも臣、臣たるべしという吏道が身についた者であれば、いかに殴られた相手であろうが新たなご主人様に同じように真摯に仕えるかも知れない。スレイブ道。

でも、たまたまその時政敵に三顧の礼で迎えられたからといって、学識者まで同じくらい激しく殴ったりすると、そんな者から三顧どころか百顧の礼を尽くされても、うんとは言ってくれないでしょうね。

たぶん、自分が将来その学識者に三顧の礼でお願いに上がる立場になることなんか絶対にないと割り切っているからできるのかも知れませんが。

「殴る相手(2020年5月12日 (火))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

何のことかと思ったら、おそらくこれのことではないかと。

尾身副座長への国会質問に疑問続出 「#福山哲郎議員に抗議します」もトレンド1位に(J-CASTニュース 2020年05月12日20時16分)

政府の専門家会議の尾身茂副座長に対し、立憲民主党の福山哲郎幹事長が国会質問で答弁内容にクレームを付けたことについて、医療関係者らからツイッター上で批判も出ている。
(略)
感染者が10倍以上かどうかを、あくまで聞きたいという姿勢のようだ。そして、無症状や軽症の人たちまで捕捉しないと感染の全体像が見えないと強調していた。

このやり取りをテレビなどで見ていた医療関係者からは、福山氏の質問ぶりや野党からのヤジに対し、ツイッターで疑問の声が次々に出た。

ある内科医は、「話聞くために専門家を呼んだんじゃないのか?」と疑問を呈し、ヤジについては、「せめて文字化して記録に残してほしい。議事録に残さず、誰が言ったかも特定されず、好きなだけ悪口を叫べるのは、文化じゃない」と指摘した。

こちらの記事のある内科医がおっしゃったという言葉は、「議論」というものをその目的に沿って理解すれば当たり前のように思われそうですが、ところがどっこい、特に日本の国会(地方議会もそれを真似してますのでほぼ同じですが)ではそういうものの道理が通らない現状があります。

まあ国会というか日本の議会というのはかくも「不毛」な応酬が繰り広げられる場となっておりますが、そもそもなぜそうなったかという背景について、以前のエントリで取り上げた刊行当時現役の衆議院事務総長による解説を参照してみましょう。

 我が国国会が独特なところは、質疑というプロセスがあること、そして、それが審査の太宗を占めることである。他の国では、基本的に討論という形で審議が進められる。無論、我が国にも、議員間で議論を闘わせる討論のプロセスはあるが、各党の意見表明といったもので、議員間議論という要素は少なく、かつその時間も短く、採決の前に行われる一プロセスといった儀式的な性格を強く持ったものである。
(略)
 なぜ質疑が審議の中心になったのかというのは、帝国議会初期の政治状況が大きく影響したと言っていいだろう。我が国の統治のシステムは、天皇が統治権を総覧し、内閣は天皇を補佐するものであった。議会は天皇の立法権を協賛するものであり、それは具体的には、民の代表として、政府が進める政策に意見を述べることであった。
(略)
 しかし、政党、とりわけ野党的立場の政党からすれば、政府の政策を質し、その問題点、ひいては政府そのものを攻撃したいわけで、そうなると、大臣らを質疑の場に呼ぶしかなかった。
(略)
 だが、その後、内閣の方も議会の重要性を感じるようになる。(略)こうして内閣と野党双方の思惑が一致して、質疑の場が拡大し、審議の太宗を占めるようになったと考えられる。
pp.163-165

議会学
向大野新治(衆議院事務総長)著
ISBN:978-4-905497-63-9、280頁、本体価格:2,600円

私自身も諸外国の議員制度を実際に見聞きしたわけではなく、最近だとイギリスのBrexitとかアメリカのロシア疑惑とかのニュースで見る程度の知識しかありませんが、国会議員が与党の閣僚を通じて行政(の職員たる役人)をつるし上げる日本とはだいぶ異なる印象ですね。しかも、日本では政権交代があってもこの構図は変わりませんので、民主党政権時には自民党が同じようなことを繰り広げていたわけでして、まあこの国では役人が一方的に攻撃されるのが民意ということなのでしょう。
(略)
そして、諸外国では政策決定が主に討論で行われるのに対して、日本のように質疑が中心であれば、政策や制度の詳細について知らなくても(誤った解釈によっても)質問ならいくらでもできるし、政権批判につながりさえすれば政策以外のことも質問できます。合理的無知な有権者によって選ばれた国会議員にとって、政策や制度の詳細について知らなくても発言できる質疑中心の国会の方が都合がいいわけですね。

質疑中心の議案審査構造の「不毛」(2019年11月18日 (月))

いつもは「与党の閣僚を通じて行政(の職員たる役人)をつるし上げ」ている方々にとっては、「いつもどおりやって支持層にアピールすりゃいいんだろ」ということで、与党の閣僚を通じて世界的に顕著な実績を有する学識者をつるし上げただけなのでしょうけれども、そんなことをされる立場だということが周知されれば、普通の感覚をお持ちの学識者なら二度と関わりたくないと考えるのが道理でしょう。そしてそうした普通の感覚をお持ちで世界的に顕著な業績を有する学識者が政策に関与する道を閉ざすことが政治の目指すところならば、それは一体誰のための政治なのだろうと思わずにはいられません。

まあ、日本的選良の方々にとっては、誰がどうやっても答えられない質問とか政策以外の質問を投げつけて、それに答えない姿を衆目に晒すことが重要なアピールポイントでしょうし、「政策や制度の詳細について知らなくても(誤った解釈によっても)質問ならいくらでもできる」以上は、この構造は変わらないでしょうね。

2020年05月05日 (火) | Edit |
ここ数か月アップできていなかったエントリをCOVID-19関連の話題にかこつけて一気にアップしたところですが、実は最初にアップしようとしていたのは『POSSE vol.44』の非正規公務員の記事でした。というのも、前回エントリの付記2でちらっと指摘した会計年度任用職員を含めて公務員の意思決定が歪んでいる実態がありまして、それについて記録しておくことでこの頃流行りの退職エントリとしておこうかという魂胆です。

その題材として『POSSE vol.44』の上林氏の記事に大変示唆的な記述がありまして、

現場を知らない正規と、決定権限のない非正規への二分化

 非正規化や民営化が進むことで、「正規公務員の仕事は公権力行使の仕事」というように発想が転換していきます。つまり、決定や処分をすること、生活保護なら支給を決定するとか廃止するのが公務員の仕事であって、支援対象となる住民と直接接触するのは公務員の仕事ではないとなっていきます。住民と直接かかわることは民間ないしは公権力行使に携わらない身分である非正規にやらせておけばよいとなるのです。新自由主義化と公権力行政化は同じトラックを走っています。
 一例を挙げると、生活保護の申請者の状況を一番知っているのは非正規ケースワーカーなのに、彼らはケース判定会議には参加させてもらえていないのです。それから婦人相談員の例でも、DVに遭って逃げてきた女性に面接をしてアセスメントしているのは直接接触している女性相談員なのですが、いざ一時保護の決定をするための会議には参加できない。
 このように、現場の業務と決定・処分が分離してくることによって、正規公務員が現場の様子を知らない、わからないという状況が広がっています。
(略)
 …ある児童相談所の課長からうかがった話によると、正規として公務員に入ってくる人で、児童相談所を希望する人はまずいない。あるいは、ケースワーカーとして福祉事務所に来るという人はまずいない。難しい公務員試験のために予備校にまで通って入ってくる人たちのなかには、「貧乏人を世話するのは自分たちの仕事じゃない」と本当に思っている人も多いのでしょう。
 だから、「三年経ったら必ず他に異動させるから」という約束がなければ人が入ってこない。そうすると、生活保護受給者や生活困窮者に対応するケースワーカーや、児童虐待に対応するソーシャルワーカーのようjな臨床経験を必要とするところは、業務経験が三年以下の正規公務員だけだと「素人」ばかりになってしまうので、資格があり長い経験を持つジョブ型雇用の非正規の人たちが重宝されるのですね。だから雇い止めもできない状態になっている。さりとて正規化もできない。
pp.31-33

上林陽治「公務員の非正規化がもたらす行政現場の歪み」

POSSE vol.44
発行:堀之内出版
A5判 168ページ 並製
価格 1,400円+税
ISBN978-4-906708-83-3CコードC0036
初版年月日2020年4月3日


役所というところは「理屈」がなければ動けないところですので、非正規を増やして仕事を割り当てるためには「正規公務員は公権力の行使という地方公務員法24条に規定する「職務と責任」を持ち、それによって職務給の原則の建前の下、職能資格給制度の適用を受ける必要があり、従って職務と責任に職務遂行能力を獲得するため異動する」という理屈によって、正規公務員と非正規公務員の処遇の差を説明してきました。これを突きつめていくと、役所の現場では上林氏が指摘するような事態が発生します。つまり、正規公務員は公権力を行使するための職務遂行能力を獲得せねばならず、その職務遂行能力は異動によって複数の部署を経験することによって獲得されるのだから、真に対象者と接する現場を知る必要なんかないわけです。メンバーシップ型がトートロジカルに運用されていることは以前も指摘しておりましたが、

4 長期雇用と「職務遂行能力」

ここで注意が必要なのは、組織の規範とは別に独立しているスキルに習熟した労働者が、積極的に「職能資格」の枠の外に置かれたということです。それは長期に固定化する人件費を抑制したいという使用者側の思惑に応えると同時に、テンポラリーな労働者と常用労働者との代替を防止するというメンバーシップ型労働者(とそれを維持したい日本的左派の方々)側の思惑にも応えるものでした。
(略)

5 「職能資格」と規範の内部化

さらに注意が必要なのは、「職能資格」は採用時から連綿と積み重なるものであって、メンバーシップにおける管理職としての適性はその「職能資格」によって裏打ちされるという運用になっていることです。「運用」という言葉を使ったのは、結局「青空の見える労務管理」とは上層部にいたる道を通すだけで、その道を通る資格は労働者が自ら獲得するという建前は堅持しているからです。つまり、制度として道は通すが、そこを通るための「職能資格」を獲得するためには、労働者自らがメンバーとしての規範を身につけなければならないということです。

もちろん「職能資格」が同一組織内でのみ獲得されるものであるため、少なくとも採用時のスタート時点ではすべての正規労働者に等しく与えられますが、それを「長期雇用による経験」によってどこまで積み重ねられるかは正規労働者個々の適性と成果に応じて決まるわけです。しかもその「長期雇用による経験」は強大な人事権として使用者の裁量に任されているわけですから、積み重なる「職能資格」がつまるところジョブローテーションによって獲得される以上、人事異動を含むジョブローテーションによってどれだけ組織の規範を内部化するかが重要になります。平たくいえば、「デキる社員は出世コースを異動する」ということですが、これはメンバーシップ型がトートロジーによって成り立っていることを見事に示した言葉でもあります。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))

トートロジーを通り越して本末転倒な運用がされているのが役所の実態といえそうです。もちろん、役所と同様にメンバーシップ型が高度に発達した大企業では多かれ少なかれ生じている現象だろうと思いますが、民間の労働法規が適用除外された非正規公務員が従事する業務にそのひずみが集約されているということかもしれません。

この状況に対して上林氏が示す処方箋は、

 正規公務員の皆さんから猛反発を受けることを覚悟で申し上げると、まず定数管理をやめてしまうということです。…新しい行政需要が生じたら、人件費の範囲内で正規として雇っていくというようにしないと、いつまでも新しい行政の仕事や新しい需要に対して対応できず、定数外の非正規公務員や低賃金の民間委託労働者に丸投げすることになる。
 もうひとつは、正規化するにも一工夫必要で、異動が前提のジェネラリスト型公務員をいくら増やしても公共サービスの質は上がりません。ジョブ型の正規公務員、つまり異動限定の専門職型公務員の採用類型を本気で考えるべきです。
(略)
 でも、これを本気でやろうとしたときに最も抵抗するのはおそらく正規公務員組合でしょうね。正規公務員という身分に賃金が支払われていた状態から、異動をせず一つの仕事に従事して、その分だけ賃金水準が低い人を使った方が公共サービスが回り始めるのですから。
p.36
上林陽治「公務員の非正規化がもたらす行政現場の歪み」POSSE vol.44

一点目はジョブと定数を連動させることとし、単に前年度比いくら減ったと一喜一憂するような定数管理をやめるということですし、二点目はジョブに従事するための専門職型公務員の導入ということで、前回エントリの付記2で引用したhamachan先生のご指摘を具現化したものといえます。まあまっとうな考えができればそうなるわけですが、個人的にはもう一点付け加える必要があると考えています。

つまり、これまでの繰り返しになりますが、

日本の現場では長らく「全体最適」がマジックワードとなっていて、「それぞれが自分の担当に閉じこもってしまう部分最適ではダメだ。全体最適を目指すべきだ!」といえば、何か言った気になることができる風潮があります。おそらくそこには、専門的な見地は局所的な視点に陥りがちだから、全体を俯瞰して判断しなければならないという、それ自体は誠にもっともな理屈があるのでしょうけれども、その裏には「職能資格を積み重ねた上司の判断に従う」という日本型雇用への信頼があるものと思われます。しかしそれは、専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうという危険性を孕むものと思われます。

「全体最適」なる合理主義(2020年02月27日 (木))

というように、組織規範としての職務遂行能力を身につけ、組織内政治に長けて職能資格給制度を昇進していった上司は、「専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうという危険性を孕」んでいるわけでして、専門性を持ちながらジェネラリストよりも賃金水準が低い職員のいうことを素直に聞き入れるとは限りません。というより、そうした組織規範に則った意思決定が是とされる風潮が変わらなければ結局、役所という組織の公共サービスの質が向上することはないでしょう。

ということで、私なりの退職エントリの結論は、日本型雇用慣行にどっぷり浸かった組織である限りにおいて役所のサービスの質が下がることはあっても向上することは望めないだろうという点にあります。現在の職場がモノカルチャーのサービスを提供していることもあって、まさにジョブ型雇用の世界となっておりまして、現状でも地場ではかなりサービスの質が高いほうだと認識しておりますが、これをさらに向上させることが私のMissionとなっています。メンバーシップ型にどっぷり浸かって仕事をしてきた身としては慣れない部分もあるのですが、このMissionを実践していきたいと考えています。