2012年05月14日 (月) | Edit |
日付がすぎてしまいましたが、先週金曜日で震災から1年と2か月が経過しました。先月はそんなことを考える余裕もなく、今月もGWも休めない状況でありながら無理矢理休みを取ってさらに追い込まれるという自業自得ぶりで、さらに余裕がない状態ではありますが、今週被災地の方々と意見交換する機会をいただきまして、いろいろと考えさせられることばかりです。

一口に被災地といっても、被災前の地形や社会資本の整備、産業の集積状況などによって被災の度合いがかなり違っていて、その結果として復旧・復興の度合いもかなり差が出てきています。意見を伺った方々は特に被害の大きな地域にお住まいで、具体的な土地利用の計画が進まないため会社の再建も仕事場の確保もままならないという切実な状況を訴えられていて、言葉の一つ一つが心に重く響きました。ある経営者の方からは「復興基金を創設して事業者が自由に資金調達できるようにすればいい」という発言があったりしたのですが、実は復興基金はすでに昨年10月に創設されているものの、各自治体に交付された後の具体的な利用方法がわからないという状態なのだろうと思います。

といいながら、私もよく知らない分野なのでもしかするとすでに活用されているのかもしれませんし、聞いたところでは二重ローン対策に充てているところもあるようです。永田町の方々とか旧自治省の方々からすれば、すばらしきチホーブンケンやらチーキシュケンの流れに乗って、被災した自治体に自主財源たる特別交付税を交付したつもりかもしれませんが、拙ブログで何度も愚痴っているように、ただでさえ減らされている人員の中で震災対応のエクストラな業務が激増している中で、財源さえ配れば地域でなんとかできるという状況ではないわけす。

ところがここで話がややこしくなるのが、政府のそうした対応に対する批判があれば、それ見たことかと「霞ヶ関は現場がわかっていない」とか言い出して、さらにチホーブンケンやらチーキシュケンを進めなければならないという主張をするのがチホーブンケン教の方々でして、うかつに批判することもできないのが厄介なところです。

たとえば、震災直後の岩手県庁の災害対策本部で医療班として対応に当たった医師の一週間を描いたノンフィクション『ナインデイズ』という本の中でも、震災2日後に活動期限を迎えたDMAT(災害派遣医療チーム)の帰還を巡ってこのような場面が描かれています。

阪神・淡路大震災を経て組織されたDMATは、災害時の生存者救命で核となる急性期の活動を目的としているからだ。
 それに基づいて、事務局は早くも帰還要請を出してきた。
(略)
 中央と現場はこんなにも乖離しているのかと呆れながら、僕は事務局に活動の継続を頼み込んだ
 −−が、意外にも、事務局の態度は手厳しかった。
「どうして、まだDMATが必要なんですか?」
 と、難色を示す。
 どうもこうもない。現場がこの参事にうめいている時に、どうして医療を引き揚げられるのか、こっちが訊きたいくらいだ。いら立ちをぐっとのみこんで電話の向こうに低頭しながら、僕はこの窮状を説明した。
(略)
 それでも、なかなかわかってもらえない。
「そう言っているのは、岩手だけですよ。宮城も福島も、DMATはもう帰還していいと言ってるんですから」
 この返答に、僕も耳を疑った。宮城も福島も、あの巨大津波の被害を受けているはずだ。なのに、なぜ…
「被災地の医療従事者は、命をかけて戦ってるんです」
 その理由はこの時点ではまだわからなかったが、ほかがどうであっても岩手には必要なんだと辛抱強く粘った。
pp.95-97

ナインデイズ 岩手県災害対策本部の闘いナインデイズ 岩手県災害対策本部の闘い
(2012/02/24)
河原 れん

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※ 以下、強調は引用者による。


この「僕」というのは、岩手医大の秋富医師で、この方は2005年のJR西日本福知山線脱線事故で被害者救助に当たった経験があり、岩手医大に移ってからは岩手県の災害時の医療体制整備を推進してきた方とのことですが、この場面でも中央と現場の乖離が問題とされています。しかし、建物の倒壊による圧死が多かった阪神・淡路大震災と違って、津波被害が甚大だった東日本大震災では、実は急性期の傷病人はそれほど多くなかった(身も蓋もなくいえば、「助かったか」「助からないか」しかない)という状況で、むしろ病院やカルテが流されて慢性的な医療を必要とする患者が多かったとされています。私が震災4日目に被災地の避難所に入ったときも、すでにDMATよりも赤十字などの医療支援チームによる慢性的な医療の方が人手不足で、高血圧症など慢性的に処方する医薬品が不足しているという状況でした。

そうした状況を振り返ってからの結果論ではありますが、急性期の救命に特化したDMATの活動期間延長よりも、通常の病院の医療行為ができる医療支援チームの派遣の方が、現地では必要とされていたということもできそうです。DMAT事務局の真意まではよくわからないものの、ただでさえ医療従事者の少ない日本において、DMAT事務局がそうした状況判断のために確認を行ったのは、医療従事者を派遣している病院の体制に配慮する必要があったからといえるのかもしれません。

さらにいえば、こうした「中央」「現場」の関係というのは、東京と地方の関係だけではなくて、突き詰めていけばどこまでも入れ子状態に連鎖していきます。沿岸地域から100キロ近く離れている盛岡市からでは被災地の状況がわからないというのは、実は「中央」「現場」の関係が岩手県内でもあったことになるわけで、震災7日目に秋富医師はそのことに気がつきます。

 現地病院からは医薬品を求める連絡が入っていた。足りないというレベルではなく、ほとんどゼロになっているものもある。毎日、すがりつくような声で、切羽詰まった要求が寄せられる。
「申し訳ありません。頼んではいるんですが、全く届いてないんです。もう少し待っていただけないでしょうか」
 命に関わることなのに、待てと言うのも非情な話だ。わかってはいるけれど、それ以外答えようがない。
 ただ、これで気づいたことがあった。僕らが国の対応に業を煮やすのとおなじように、現地は県の動きにいら立っているのだ。それぞれに立場があり、言い分がある。焦りはミスを呼び、ミスは怒りになる。誰かを責めてもはじまらない。結局、どこもかしこも、まだパニックの中にあるのだ。
河原『同』p.202-203

国や県だけではなく、被災地に行けば、「病院の状況をわかっていない」「福祉施設の大変さをわかっていない」「企業の復興の難しさをわかっていない」「学校の状況をわかっていない」とそれぞれの立場から批判され、そうした立場を離れてからも「避難所(仮設住宅ができた後は仮設住宅)の支援者は在宅避難者の状況をわかっていない」とか「役場は被災者の意見を聞いていない」と言われるのがコームインという仕事です。もちろんそう言われる被災地のコームインだって、その立場を離れれば被災者の一人でもあるわけですが、その状況を訴える相手がいないというのが大きな負担になっているのも事実です。

そうしたコームインの状況についてはほとんど関心を持たれることはないのですが、なぜか毎日新聞は被災地の自治体の人員不足についての報道が多いようです。

東日本大震災:集団移転 国の同意得た地区8%にとどまる
毎日新聞 2012年05月11日 22時03分(最終更新 05月12日 02時33分)


 約1700世帯の移転を計画する仙台市は「国の復興予算や制度の枠組みが分からなかったので、事業の規模や費用を特定できず、住民への説明も遅れてしまった」と話す。市は移転事業費を含む復興交付金を盛り込んだ第3次補正予算の成立を待ち、昨年11月に復興計画を策定。5月7日時点でまだ3割の人が自宅再建の方法を決めかねているという。
 宮城県石巻市は63地区約6900世帯が移転を計画し、うち13地区321世帯で同意を得た。担当者は「意見集約が難航すると移転先の造成戸数を確定できず、国の同意を得られない。今後事業が本格化した際の職員不足も心配」と話す。国の要請もあり全国の自治体が被災地に職員を派遣しているが、「足りない。もっと応援してほしい」と訴える
 まだ地区数や世帯数を確定できない自治体もあり、最終的な移転戸数はさらに増えるとみられる。

利害調整やら意見集約という難儀な作業を担っているのが被災した自治体職員というブラックな状況が「がんばろう○○」とか「××は負けない」という美辞麗句に埋もれてしまうことのないよう、こうした報道は継続していただきたいものです。

2012年05月04日 (金) | Edit |
前回エントリで「ところが、そうしたあり得ない「民意」を駆り立てることができるのがデマゴギーといわれる方々でして、いつの世にもそうした輩は存在しますね」と指摘した点についてですが、もちろん、そうした輩は自らデマゴギーとして振る舞うことはしません。バブル崩壊後によく見られるのが、既存政党への政権交代熱を利用した「自民党ガー」(今だと「民主党ガー」でしょうか)とか、公共事業削減とか規制緩和がすべてを解決するといわんばかりの「既得権益ガー」とか、チーキシュケンが日本を救う的な「霞ヶ関ガー」とか、金融政策が諸悪の根源という「日銀ガー」とかさまざまな意匠をまとって立ち現れる姿です。最近では「教育ガー」が話題になっているようですが。

でまあ、そうした方々にも人気のあるのがクルーグマンとかスティグリッツといった(アメリカ的)リベラルの経済学者でして、本職の経済学では両者ともノーベル(記念スウェーデン銀行)賞を受賞しているので権威は抜群ですし、その発言はアメリカの共和党的な新自由主義に対する批判を多く含むので、日本では新古典派経済学から左派陣営まで広く引用されています。それがとりもなおさずhamachan先生がおっしゃるような「ネオリベとリベサヨの神聖同盟」でありながら「ネオリベとリベサヨの近親憎悪」という現象となって現れているわけですが(それにしても両エントリが5年以上も間隔が開いているとは思えない既視感ぶりですね)。

というわけで、ネオリベでもリベサヨでもない者としては、ポラニー『大転換』の序文にあるスティグリッツのネオリベに対する批判を引用したいと思います。

 ポラニーは、現代の経済学者たちが自己調整的市場の限界を明らかにする前に、『大転換』を執筆している。今日では、まともで知的な人々は誰一人として、市場はおのずから効率的な結果をもたらすとか、ましてや公正な結果をもたらすなどといった所説を支持していない。情報が完全に行き渡っていない場合とか、市場が不完全である場合はいつでも(つまり、実際には常時ということになるが)、政府による市場への介入が行われる。その場合、大体において、資源配分の効率性が改善される。われわれは、全般的に見て、より釣り合いのとれた立場へと移動したのである。そこでは、市場のもつ力と限界が認識され、経済において政府が大きな役割を果たす必要性も認識されている。ただし、その役割の限度については、議論の余地が残されている。たとえば、金融市場における政府規制の重要性については一般的合意がなされているが、規制の最善策については合意を見ていない。
p.vii

 新自由主義的なワシントン・コンセンサスの信奉者たちは、問題の根源は政府の介入にあることを強調し、転換を成功させる鍵は「物価をきちんとすること」であり、民営化と自由化によって、政府を経済から閉め出すことだとしている。この考え方では、発展は資本の蓄積と資源配分の効率の改善といった、まったく技術的な問題にほかならないことになる。こうした考え方は、転換の本質そのものを誤解している。それは、単なる経済の転換ではなくて、社会の転換であり、経済、それも彼らの単純な処方箋が提示するよりはるかに奥深い経済の転換なのである。ポラニーが適切に論じているように、彼らの見解は歴史の読み違えを象徴している
p.xvi

 われわれは、発展途上諸国に対して民主主義の重要性を説くのだが、しかし途上諸国がもっとも関心を寄せ、彼らの生活に直接影響を及ぼす経済が問題になると、途上諸国は次のように告げられる。すなわち、経済の鉄の法則によって、途上諸国には、ほとんど、もしくは全く選択の余地がない。また、途上諸国は、(民主主義的な政治プロセスによって)事態を混乱させるおそれがあるので、重要な経済的決定、たとえばマクロ経済政策にかかわる決定の権限は、独立した中央銀行−−ほとんどいつでも金融界の代表によって支配されている−−に委譲しなければならない。そして途上諸国が金融界の利益にかなうような行動をとることを保障するために、雇用や成長などを気にせず、もっぱらインフレに注意を集中するにようにと告げられる。さらに、途上諸国がまさしくこうした指示を実行することを確保するために、中央銀行のルール、たとえば一定の割合で貨幣供給を増大するといったルールを課さねばならないといわれるのだ。そして、一つのルールが期待したほどうまく機能しない場合には、別のルールが持ち出される。インフレ・ターゲットがその一例である。要するに、われわれはかつての植民地の人々に、一方では民主主義を通じて見かけ上の権限を与えながら、他方でそれを取り上げているのだ。
p.xix

「序文(ジョセフ・スティグリッツ)」

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(2009/06/19)
カール・ポラニー

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以下、下線強調は原文、下線太字強調は引用者による。


もちろん、スティグリッツがここで問題としているのは発展途上諸国であって、日本のような先進国については違うという議論もあり得ると思うのですが、どうやらこの国は「決められないニッポン〜民主主義の限界?〜」という番組が話題になるような国でして、そこにはリフレ派と呼ばれる先生も出演されているわけで、「民主主義の重要性を説く」一方で「インフレに注意を集中するように」と「中央銀行の独立性」を主張されてしまうと、それなんてワシントン・コンセンサス?と聞いてしまいたくなりますね。

まあ、新古典派経済学者は規制緩和が大好きというのは、スミスやリカードなどその思想的源流となった古典派経済学の学説が形成される1800年代中期の時代背景によるものであって、そういう過渡的な思想を持つ経済学では現代社会を分析するツールとして不完全であるというポラニーの指摘(本書第10章)を踏まえてみれば、飯田先生のような現在の主流派である新古典派経済学者がワシントン・コンセンサスの信奉者となることはやむを得ないことなのかもしれません。

そのポラニーは、自己調整的市場システムによる自由主義を主張する勢力が見落としている点を指摘しています。

 論点を絞ろう。次の点については、すでに合意ができている。すなわち、市場システムの拡大に熱心な自由主義運動は、逆にその制限を目指すような保護主義的な対抗運動に遭遇したという点である。このような想定は、実際のところわれわれの主張する二重の運動という命題の基礎をなしている。われわれは、自己調整的市場システムという不条理な命題を実際に適用していたならば不可避適否社会を破壊していただろうと主張するものであるが、自由主義者は、まったく多種多様な要因によって偉大な創意が破壊されたと非難する。しかし自由主義者は、このような自由主義運動を挫折させようとする共同の企てなるものの証拠を示すことができず、密かなるたくらみという事実上論駁不可能な仮説にすがることになる。これが、反自由主義の陰謀という神話であり、この神話は1870年代および80年代のさまざまな出来事に関するすべての自由主義的な解釈に何らかのかたちで共通しているものである。それらに共通するのは、ナショナリズムの勃興および社会主義の台頭を場面の転換における主役に仕立て上げることであり、また製造業者の団体や独占企業、あるいは農業関係者や労働組合を舞台の悪役にすることである。
ポラニー『同』p.260


自由主義者が規制として糾弾するさまざまな保護政策というのは、そもそもそうした自己調整的市場システムでは保護されないとしても保護しなければならないものが現に存在し、それを保護することを目的としているものであって、誰が対象者であっても必要とされる規制なわけです。上記でポラニーが指摘しているのは、それが自己調整的市場システムによる経済的利益を阻害していることを主張しようして、結局その証拠を示すことができないときは陰謀論に頼らざるをえないしまうという陥穽ですが、スティグリッツが「ポラニーが適切に論じているように、彼らの見解は歴史の読み違えを象徴している」と指摘する点は、21世紀の現在においても傾聴すべきものと思います。

 ひとたびわれわれが、社会全体の利害でなくただ党派的な利害だけが影響力を発揮しうるという強迫観念から自由となり、またこの強迫観念と対をなしている、人間集団の利害は金銭的な所得に限定されるものであるという偏見から解放されるならば、保護主義的運動がもつ広さと包括性は謎でも何でもなくなる。金銭的な利害は当然のことながらもっぱらそれにかかわる人々によって代表されるが、それ以外の利害はもっと広範な人々に関係する。たとえばそれは、隣人、専門家、消費者、歩行者、通勤者、スポーツ愛好家、旅行者、園芸愛好者、患者、母親、あるいは恋人としての個人に、さまざまな経路を通じて影響を与える。そしてそれらの人々の声は、たとえば教会、市町村、結社、クラブ、労働組合、そしてもっとも一般的には幅広い支持原理に基づく政党のような、ほとんどあらゆるタイプの地域的・機能的組織によって代表されることになる。利害という概念をあまりに狭く解釈すれば、社会史および政治史の姿を歪めることにならざるをえず、利害というものに純粋に金銭的な定義を与えるとすれば、人間にとって死活の重要性をもつ社会的保護の必要性の存在する余地がなくなってしまう。社会的保護は、一般に社会(コミュニティ)の全体的な利害を託された人々が担うことになる。近代の文脈においては、これは時の政府が担い手となることを意味する。市場によって脅かされたのは相異なる多様な住民階層の、経済的な利害ではなく、社会的な利害であったというまさしくこの理由から、さまざまな経済階層に属する人々が無意識のうちに、この危険に対処しようとする勢力に加わったのである。
ポラニー『同』p.280


こうした歴史的な考察を抜きにして、たかだかバブル崩壊後の十数年の経緯のみを取り上げて「財政政策は経済学的にはかえって逆効果だから金融政策をすべきだ」という主張がリフレ派と呼ばれる一部の方々の根幹にあるように思われるわけですが、ポラニーの上記の主張と読み比べてみるのもおもしろいかもしれません。ちなみに、以下の方がいう「弱者」には長期失業者も貧困者も障害者も高齢者も片親世帯も含まれていないこと、所得再分配が単純な産業政策論にしか還元されていない点には十分注意する必要があるでしょう。

 さらに問題だったのは、その膨大な財政支出の多くが、国民の大多数にとってみれば無駄という以外にはない形で用いられ続けてきたことである。それは、国民の多くが日常的に実感していることである。橋本政権以降、景気が少しよくなると必ず「財政再建」を求める声が強まり、それが有権者の一定の支持を集めるのは、財政支出の非効率性、不公平性に対する、この国民全体の強い苛立ちの現れとも考えられる。しかし、財政支出のあり方が国民各層の不満の対象になるのは、政府財政というもののいわば「宿命」でもある。

 財政支出の配分には、常に政治的なプロセスがつきまとう。それは、財政とは国民各層の利害の再配分にほかならないからである。再配分である以上、どのように民主的な手続きを経たとしても、過分な分け前を享受する層と、「搾り取られるだけ」の層が現れる。そして一般には、政治家に影響力を持つ利益集団、業界団体、および圧力団体や、予算配分の多くを事実上支配する官僚機構と強い結びつきを持つ特殊法人・公益法人およびそのファミリー企業が、その政府予算のゼロ・サム的奪いあいにおける「勝ち組」になる。政府支出が景気対策としての「公共事業」を中心として行われる場合、この政治力学的なバイアスはより一層顕著になる。

(略)

 こうした「利権」と直接に結びついた財政支出の弊害は明白であり、それが是正されるべきなのは当然である。しかしそれならば、「弱者」に対する財政支出、例えば零細企業保護、衰退産業保護、地域経済保護のための財政支援には問題がないのだろうか。というのは、「失われた一〇年」の中で最も大きく肥大化したのは、むしろこちらの方だからである。公共事業一つをとってみても、それが建設業界や族議員の「利権」の現れなのか、それとも不況の中で衰退する地域経済への支援なのかを明確に区分するのは、実際にはきわめて難しいのである。 九〇年代のように多くの産業や地域が経済的に疲弊する中では、政府がその「痛み」を緩和するために一定の財政支援を行うのは、少なくとも社会的な公正の確保という点では当然である。しかし、純経済学的には、それは必ずしも望ましい政策とはいえない。というのは、第1章の図1-1によって説明したように、衰退産業への政府による永続的な支援は、労働や資本の産業間移動のインセンティブを失わせ、社会的非効率性を固定化させることにつながるからである。その意味では、「政府財政への過度な依存が構造改革を遅らせてきた」という構造改革主義的な主張は、一面の真理を含んでいる。 しかし、それはたかだか、一面の真理でしかない。というのは、その主張は、「そもそも日本はなぜ九〇年代にかくも巨額の財政支出を強いられたのか」という、政府依存の根本原因に対する政治経済学的な考察をまったく欠いているからである。

構造改革論の誤解構造改革論の誤解
(2001/12)
野口 旭、田中 秀臣 他

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■[経済]政府の財政政策を考えるキーポイント (2009-09-10)」(Economics Lovers Live Z


誰がなにを見落としているのかはよくわかりませんが、少なくとも「勝ち組」に対するルサンチマンを煽って「純経済学的」な議論をしておきながら「政治経済学的な考察をまったく欠いている」という結論に至る論理展開は、デマゴギーの一つのスタイルとして大変興味深いものだなあと思います。

2012年05月04日 (金) | Edit |
いやまあ、年度の切り替えということで23年度と24年度の事業で頭がこんがらがっているところなんですが、一応GWという奴に突入です。拙ブログでは何度も繰り返していますが、震災直後に政府が大々的に活用するよう各自治体に要請した緊急雇用創出事業というのは、自治体が臨時職員を任用する直接事業と自治体の事業を受託した民間事業者がその事業に従事する従業員を短期雇用する委託事業に大きく分類されるわけですが、委託事業については、その事業実施に必要な経費を一つ一つ精査していって、人件費についてもその出退勤の管理から手当の妥当性まで精査しなければなりません。震災前の22年度以前はそれでもなんとか対応できていましたが、23年度は金額では数倍、人数では数十倍の雇用創出を緊急雇用対策事業で賄ったため、その完了確認がいつになっても終わらないという状況です。

金額が数倍で人数が数十倍となっているのは、震災前は、同一人物が緊急雇用創出事業で雇用される期間は1年間に限られていましたが、震災後の被災地では何回でも更新できることとされ、たとえばがれきの処理とか漁港の清掃とか日雇い的に日々更新する緊急雇用創出事業も多々あったからです。被災地の自治体は復興関連の都市計画とか建設土木事業が膨大な事務量となっていて、さらに建設土木事業での求人も増えていたりするわけですが、だからといって被災地の方がすべて建設土木事業で働けるはずもなく、雇用の場の確保は依然として重要な行政課題とされています。そんな中で緊急雇用創出事業を減らすという方向性が出るはずももちろんないわけで、24年度も膨大な予算額で膨大な緊急雇用創出事業が実施されることとなっています。

まあ、実務の話でいえば役所には出納整理期間という前年度の会計処理を行う期間が設けられていまして、そのデッドラインが5月31日となります。この日までにすべての書類を整えなければならないわけですが、当然のことながら5月31日24時ぎりぎりまで作業するという意味ではなく(そうなってしまうデスマーチもたまに生じますが)、5月31日の終業時間までには作業をすべて終えた書類が大本の担当のところで整い、システム上の入力が終わっているようにしなければなりません。というわけで、実質的な勝負は来週いっぱいくらいとなりますので、GWといいながらフルで休める状況ではないということになります。

というような実務上の処理に追われるチホーコームインからすれば、「しごとプロジェクト」といって緊急雇用創出事業にばんばん予算をつけて、被災された方々だけではなく地方自治体の仕事を増やしてその成果を誇示する一方で、コームインの人件費削減を嬉嬉として喧伝する政治家の方々には、感謝とともに嘆息が漏れるところですね。そりゃまあ、緊急雇用創出事業で臨時職員を任用することもできますが、それなりのスキルを要する業務を1年かそれ以下のスパンで任期を更新しながら処理するのでは効率が下がったりミスが発生してしまう可能性が高くなります。というか、そうした恒常的ではなくてもある程度のスパンで発生する労働需要に対応するものが労働者派遣事業なんですが、現政権はその厳格な業務規制を叫んで政権交代していますし、26業務についての長妻プランでもって派遣労働者が事務作業できないような実態にしてしまった実績もあるところでして、業務の質を上げたいのか、質を下げてもいいからとにかく人件費を下げればいいのかよくわかりません。菅直人前総理が「1に雇用、2に雇用、3に雇用」とかいっていた割に役所の雇用の質なんてどうでもいいということなのでしょうけれども。

もしかすると、業務の質を下げてもいいから人件費を減らせというのが「民意」であればコームインなんぞにはもはや質を期待しないというのが正しい態度でしょうから、業務でミスっぽいことをしようが住民の方に不十分なサービスを提供しようが、「あの人件費であの人員ならそういうもんだよな」と納得するのが主権者たる日本国民のご判断だということなのかもしれません。

そうはいっても、憲法でいくら「日本国民」と規定したところで、その国民の内実はさまざまな利害関係に絡め取られているのが現実ですし、だれかが「それでいい」といってもほかの方が「それでは困る」というのが常態です。さらにいえば、事務手続の間隙を縫って不正とか虚偽の手続をしようとする輩も一定数存在しますので、それを調整したり規制するのが公的セクターの役割というところからすると、「あの人件費であの人員ならそういうもんだよな」という判断が「民意」となることはあり得ないように思います。ところが、そうしたあり得ない「民意」を駆り立てることができるのがデマゴギーといわれる方々でして、いつの世にもそうした輩は存在しますね。

まあもちろん、いくら「民意」があろうと会計検査院とかオンブズマンの方々はそうした処理を認めてくれるとは到底思われませんし、そもそも論からすれば、不正受給とか虚偽申請ってのはそういうことをした側がその責を問われるはずです。しかし、会計検査院とかオンブズマンの方々はそれを見逃したとか適切に処理しなかったとして役所の責任を追及されます。もちろん責任の割合はあくまで程度問題ではありますが、マスコミからすれば「○○県が不適切な処理をした」とか「△△省では×億円の無駄遣い」といった見出しが打てればそれで売上げが上がりますから、それをみた「民意」はさらに「ムダででたらめをやっているコームインの人件費を下げろ」と公的セクターへの攻撃を強めるという見事なサイクルが働くわけです。

一方では人件費を減らせという民意と、一方では「適切な」事務をしろという会計検査院とかオンブズマンの方々の板挟みになるという状況は、いつまでも変わらないんだろうなという諦観こそが一番重要なのかもしれません。

2012年04月12日 (木) | Edit |
日付が変わりましたが、昨日で震災から13か月となりました。実を言えば、そうした節目を意識する暇もなく年度の変わり目の業務に追われる日々です。年度の切り替えというのは旧年度の事業完了と新年度の事業開始にこぎ付けるのがやっとという状況で、いろいろな取組が途切れてしまう時期でして、逆に言えば、その年度の切り替えをしなければ新年度の事業が始まらないという時期でもあります。まずは旧年度の事業完了をさっさと済ませて新年度の事業に着手するため、しばらくは深夜帰宅が続きます。もちろん超勤など付くはずのないサービス○業です。

こうした切り替えがムダだというご批判はよくわかりますし、ほとんどのコームインは自分でもその思いを抱きながら仕事に追われているのですが、財政の単年度主義の原則やら会計検査院の実地検査やら財政民主主義というのはそういう手間のかかる制度なのですよねえ。

2012年04月09日 (月) | Edit |
前々回エントリではdojinさんと大変有意義な議論をさせていただきまして、本文も長いですがコメント欄もかなりの長さになりました。その中で「私はマシナリさんの言説や情報発信を(ニッポンのジレンマ的議論の何倍も)信頼しております」とのお言葉をいただいたからというわけではないのですが、第2弾となった「ニッポンのジレンマ」の録画を流し見してみました。

まあ、あまり時間をかけて取り上げるべき内容だったかはよく分かりませんが、今回から参加された與那覇潤先生の歴史的な経緯を踏まえた指摘が議論の拡散を抑えていたようで、第1弾よりは出演者の底の浅さ・深さが浮き彫りになったように思います。

與那覇先生のさすが歴史学者だなと思う指摘をメモしておくと(今回は巻き戻していないのでうろ覚えですが)

  • 日本特有の民主主義の限界は江戸時代の限界そのままである。
  • 現代の政治家は貴族院の子孫ではなく一揆の子孫であって、国が間違ったことやろうとしたときにそれを止めることに特化している。
  • 現在の国会は拒否権を持つアクターが多すぎる。議員は地方に基盤を持っているので国政で何かを決めるということができないし、二院制で衆議院が優先するといいながら実際は参議院で野党に過半数を握られると決められなくなる。
  • (自分の一票が何かを決めるというのは、ある程度裕福でなければ感覚として理解できないという飯田先生の指摘に対して)ブルジョワ民主主義に対するプロレタリアート革命の必要性が語られたのが20世紀であって、21世紀の今になってそのことがまだ議論されていることに絶望を感じる。

といったところでして、まあそうだよなあというところですね。

とはいいながら、その與那覇先生ですら、「正社員という働き方や解雇規制をなくして雇用を流動化することが必要だ」(うろ覚えなので要旨はこんな感じだったと思いますが正確には違うかもしれません)という素人丸出しの労働観を披瀝されていたわけで、まあ建設的な議論が期待できないのは第1弾と変わりないのかなという印象です。

ただ、最後に各出演者に「これから民主主義を変えていくために必要なことは?」と一言ずつ求める場面があって、萱野稔人先生が「実務感覚」と答えられていたことが意外でした。まさか拙ブログをご覧いただいているとは思いませんが、「実務のない新世代」ばかりの出演者の中で、そのことを指摘したのが経済学者でも社会学者でもフリーランスのライターでも投資家でも紛争予防のスペシャリストでもなく、実務からもっともかけ離れている(と思われていそうな)哲学者だったというのが今回のオチでしょうか。

(追記)
オチには続きがあったようで、hamachan先生のところでほかの哲学者の方のツイートが取り上げられていました。

レベルの低い「民意」をすくい取られた大衆が、しかし自分の専門分野について「とはいえ、こいつはおかしいんじゃないか」と感じるその違和感をきちんと言語化するのが、言葉を商売道具にして生計を立てている連中の最低限の義務だろうに。
それすらも放棄するというのは、つまるところ、そういう専門分野、つまり「各論」を持たない哀れな哲学者という種族の末路と言うべきか。
ポピュリズムの反対はエリート主義ではない。大衆の中の「各論」を語れる専門家的部分をうまく組織して、俗情溢れる低劣な「総論」を抑えるようにすることこそが、今日の高度大衆社会に唯一可能な道筋のはずだ。

各論なき総論哲学者の末路(2012年4月 9日 (月))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)


なるほど、大衆と呼ばれる普通の人が持っている実務とか趣味の世界の専門性が「各論」を形成していて、むしろ専門家と呼ばれる人が持っている実務抜きの専門性が「総論」を形成していると考えると、私のようにわざわざ「実務知」とか「学術知」なんてカテゴライズすることなく議論ができますね。

そういえば、拙ブログでも「職業的なスキルを身につけたときには、誰でも「仕事について自分のスキルが上がって、仕事について一家言もてるようになった」ことに気がつくのではないかと思います。そのとき、他の職業人についても同じことが起きていていると想定するのが自然なはず。しかし、それは職業特殊なものであることが多いので、簡単には互いにそのスキルをわかち合えないどころか、そういう想定さえされないことになってしまいます」なんてことを書いていたのを思い出しました。

まあ、もしかすると、実務感覚で自分の専門となる「各論」の形成を呼びかけていた萱野先生はそうした経験を通じてその必要性を認識されているのかもしれませんが、「各論」を「各論」として考えることが利害調整の重要な要素でして、それを等閑視する専門家というのは決して哲学者に限らないような気もするところです。