2019年12月05日 (木) | Edit |
既に2か月前の記事ですが「ジョブ型公務員」という言葉が入った記事を見かけまして、拝読してみました。

私の問題意識はこちらの記事から大きく変わっていないので割愛しますが、地方公務員は「ゼネラリスト」として3~5年に1度くらいのペースで部署異動を繰り返していきます。配属部署の希望を出すことはできますが、「揺りかごから墓場まで」と言われるように事業領域が広範な自治体では当然部署・仕事の種類も膨大で、希望が叶う率は低いです。また、配属決定プロセスがブラックボックスで、「なぜ自分がこの部署に配属になったのか?」その理由・根拠もわからないので、何を、どれだけ努力または達成すれば自分の希望するキャリアを手にできるのかがわかりません。
(略)
もちろんゼネラリスト型のジョブローテーションにもメリットはあり、それを全て否定したい訳ではありません。ただ、今の人事のあり方は画一的過ぎないでしょうか?得意分野でプロフェッショナルな公務員として生きていく、主体的にキャリアをデザインしていく、そんな選択肢を増やすことで、公務員としての働きがいを高めることができるのではないかと思います。
(略)
その特徴は、ジョブ型の地方公務員制度であることです。ちなみに日本の多くの企業・公共団体が古くから採用している「年功序列」「終身雇用」を前提として一括採用する方式はメンバーシップ型雇用システムです。ジョブ型とメンバーシップ型の違いについてはこちらの記事で紹介されていますので気になる方はどうぞ。
ジョブ型公務員で、生きていく(蒲原大輔 / Daisuke Kambara 2019/10/03 01:31)


とうことで気になったのでそのリンク先の記事を拝読すると、

・メンバーシップ型雇用のデメリット
メンバーシップ型雇用の大きな課題として度々挙げられるのが、大前提となる「年功序列」や「終身雇用」の存在が揺らいでしまっている点にあります。

つまり、仮に会社から社員に対して、突然の転勤が命じられるような場合でも、「年齢と共に昇給していく」点や「自分から辞めることがなければ雇用は守られる」という分かりやすいメリットがあったため、社員もそれを甘んじて受け入れることができていたのです。

しかし、時代が変わりこれらの見返り見えにくくなった現在、デメリットの部分だけが強調され、時代にそぐわない雇用の形として、度々指摘を受けるようになっているのが現状です。
欧米のジョブ型雇用と日本のメンバーシップ型雇用の違いってなに?(Fledge 2017/12/08 written by たくみこうたろう)


???いやまあ、職能資格給制度に支えられたメンバーシップ型の世界そのものがトートロジカルなので、その解説がトートロジーに陥るのはある意味やむを得ないのですが、課題が「大前提となる「年功序列」や「終身雇用」の存在が揺らいでしまっている」であれば、その存在が揺らがなければやはり「メンバーシップ最&高!」と言いたいのだなあと、その堅牢さを思い知らされるところです。で、結局このライターの方が考えるメンバーシップ型のデメリットは何でしょうね。

「できる社員は出世コースを異動する」というトートロジカルな現象が発生するのは、昇進や昇給の対象となる者を厳選する必要があるからですが、結果的に組織運営自体が自らの組織に忠誠な社員によって占められるという状況に至ることになります。そうなった組織が主要な産業を主導し、その雇用慣行が社会規範化しているのがこの国の現状なのですが、「なぜ日本ではペイジとプリンやジョブズやザッカーバーグやベゾスが出てこないんだ」という声を聞くと、まあそうでしょうなという感想しかありませんね。

日本の労働者が理解した戦後民主主義(2019年09月29日 (日))


個人的にメンバーシップ型のデメリットは、上記のように「組織規範に忠実な社員」によって公的機関や主要な産業が組織されるというトートロジカルな雇用慣行が社会規範化することで、技術革新的なビジネスモデルが日の目を見ることなく、専門性に裏打ちされた政策が採用されることもない社会となっていることだと考えておりますが、まあこういう危機意識を持つと「組織規範に忠実ではない社員」としてオミットされていくわけです。

という記事を参照されている冒頭の元区役所職員の方の「ジョブ型公務員」の説明は、次のようになっています。

前項で記載したように、ジョブ型の雇用制度においては、あくまでも地方公務員みずからが仕事を選択していきます。

そのため、人事部門による部署異動の命令は基本的にありません。現在の仕事に満足していれば、その職で長く務めることも可能です。また、経験を積んで同一分野でより上級職の募集があればそこにエントリーしてステップアップを狙うこともできますし、他分野へチャレンジすることも可能です。

キャリアデザインの主体性という観点では、日本よりも選択の自由度が高いと言えるでしょう。

ジョブ型公務員で、生きていく(蒲原大輔 / Daisuke Kambara 2019/10/03 01:31)


この後に「フランスにおける地方公務員のキャリアデザイン」という図が挿入されているわけですが、うーむ、ジョブ型とは全く逆の説明となっていますねえ。。

ジョブ型の社会においては、使用者が職務記述書を作成し、それに記載された職務に従事する労働者と雇用契約を結ぶのが原則ですが、その職務に従事できる労働者であるということを示すのが学歴です。特にフランスにおいては、専門的な教育を受けた証としての学歴が基準となるという意味での「学歴社会」であって、職務に従事していたという「経験」が評価される仕組みはうまく機能していないとされます。

 フランスでは学校教育において修了した課程の水準に沿って職業資格がレベル分けされ、その保有する資格が労働者のキャリア形成を決定づけることになる。すなわち、学校教育の修了年次によって取得できる学位や職業に関する職業資格のレベル分けが明確になっており、その水準に応じて就職(再就職)可能性を決定づけることになる(図表4-6参照)。
 学校教育を修了して取得できる資格は主に国家資格であるが、国家資格以外に産業別の職業資格も設けられている。労使での協議に基づいて資格が設定され、職業資格を管理する国家機関、職業資格国家登録機関(RNCP)に登録されることによって公認された資格となる。だが、体系化やレベル評価が十分にされているとは言えず、資格間の重複やレベルの相対的な評価ができない問題とともに、その結果として企業関係者に周知されておらず十分に活用されていないといった問題が指摘されている(第2節4.参照)。
 フランスでは国家資格が職業能力を測定する従業な指標となっており、資格の取得を推進する施策がとられている。教育機関における課程の修了することによる資格取得以外に、一定の職業経験に基づく資格認定があることも特徴の一つと言える。

資料シリーズ No.194 諸外国における教育訓練制度―アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス―第4章 フランス(PDF:1.7MB)


やはり、メンバーシップ型という雇用慣行が社会規範化した日本において、ジョブ型をイメージするのはなかなか難しいということなのでしょう。それはこの方に「フランスの公務員はジョブ型だ」と教えた総務省職員のせいなのかもしれませんが。

というように根本的なところで反対の方向を向いているように見受ける「ジョブ型公務員」ですが、具体的には、

だとするならば、民間の活動として実験的にスタートするのが良いのではないかと考えています。やりたいことは至ってシンプルで、地方公務員が登録できる審査制のプラットフォームを作ります。誰がどうやって審査するのか?など方法論の部分でクリアすべきポイントは色々出てきますが、目指す姿としてはプロフェッショナル志向の地方公務員かつ、既にスペシャルな実績・スキルを持っている方が登録されているイメージです。

ジョブ型公務員で、生きていく(蒲原大輔 / Daisuke Kambara 2019/10/03 01:31)


とのことでして、まあ仕組みとしてその辺りからスタートするしかないのではないかと思うのですが、ご本人も書かれている通り「誰がどうやって審査するのか?など方法論の部分でクリアすべきポイントは色々出て」くるわけでして、地方公務員の一担当として3年程度経験したくらいで「スペシャルな実績・スキルを持っている」とみなされるのかと考えると、少なくとも10年単位の従事経験が必要に思われるところ、300万人の地方公務員の1%に当たる3万人が該当するのはかなりハードルが高そうではあります。

というより、10年単位で従事経験がある地方公務員は既に職能資格給制度の中でも何らかの役職を得ているでしょうから、結局はある自治体の職能資格給制度の中で評価された地方公務員が、他の自治体の職能資格給制度の中で相当の職に処遇されることが想定されます。上記の記事の中では「既存の給与テーブルに乗せざるを得ない一般職ではなく、特別職公務員が良いのではないか」との考えも示されていますが、地方公務員の特別職は選挙で選ばれる首長や議員、議会の同意で選任される各種行政委員会の委員を除けば、いわゆる非正規公務員となってしまうのが現行制度ですので、それもまたハードルが高いと言わざるをえません(正規職員で高い給与水準となるのは、地方公共団体の一般職の任期付職員の採用に関する法律3項1項の特定任期付職員や同2項の一般任期付職員くらいですが、その名の通り有期雇用となりますので、おそらく目指しているものとは違いますね)。

とまあ否定的なことばかり書いてしまいましたが、私もこの方の問題意識にはある程度共感します。ただしそれは、専門性を評価できない日本型雇用慣行についての問題意識であって、地方公務員のキャリアデザインはそのコロラリーとして実現すべきものと考えていますので、やや手法の違いがありそうです。特に専門性の証としての学歴か、あるいは職業資格を国家的に認定する制度が社会的規範として定着しなければ、ジョブ型の労働市場は形成できません。日本ではこの点を補うべく、イギリスに倣って職業資格を公的に保障する日本版NVQを導入しようとした時期もありましたが、労働組合が支持する政党が政権下で立ち消えになってしまいました。まあそれはともかく、専門性の問題はまた拙ブログでも改めて取り上げたいと思いますが、こちらのジョブ型公務員の取組についてもどのような展開を辿るのか見ていきたいと思います。
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2019年12月01日 (日) | Edit |
増税を容認するとどこからともなく「緊縮派」だの「財政破綻論者」だのとレッテル貼る方々が現れては消えていくわけですが、増税を容認しても「緊縮」ではなく「財政破綻」でもないということがMMTerに問われ始めてきたようで、誠に喜ばしいですね。


どこかで見た風景だなと思ったら、拙ブログで3年ほど前に繰り広げられた風景ですね。

まあ望月夜さんは私の考えるところなど関心はないようですので、こちらから示していても詮無いことでしょうから、これ以上の説明は不要ですね。

> おそらく、マシナリさんは「政府が積極的な役割を講ずるには、その分の税収・増税が必要だ」という命題を前提にしているため、私のような「十分に大きな政府が望ましいが、少なくとも現時点において増税は望ましくない」という考え方の存在を、全く認めることができないということなのだと推測する。

私がこれまで論じてきたことを全くトレースできていない。
おっと、これは望月夜さんの言葉をパクってしまいましたね。申し訳ございません。

繰り返しで恐縮ですが、
> 望月夜さんに当初から「現代社会にあって従来の家族機能を社会化するために必要な公共政策の「具体的実務的形態」」についてのご見解を伺っているものの、それについてのご回答はいただいていない状態です。
> 2016/12/29(木) 09:51:13 | URL | マシナリ

望月夜さんは「俺の理論を理解しない奴には何度でも同じことを繰り返して説明してやる」というような傲慢な方ではないとお見受けして、なんとか議論を理解できればとそれなりに関連エントリなどを参照しながら、議論が共有できないと思いつつコメントしてまいりましたが、まあ私の見る目がなかったということなのでしょうから、改めて「望月夜さんの行為を容赦する必要性」は全く感じません。続きはご自身のブログやTwitterで存分に展開していただき、賛同者の増加に邁進されることをご祈念申し上げます。
2016/12/30(金) 03:25:13 | URL | マシナリ #-[ 編集]


ということで、「賛同者の増加に邁進されることをご祈念申し上げ」たところ、順調に賛同者を獲得されて「MMT四天王」の称号まで得られたようでそのご努力には敬意を表する次第ですが、やっていることはこれっぽっちも変わっていないわけですね。その一貫した姿勢には改めて敬意を表します(棒)。

そのご努力で獲得された賛同者の方々も当然、MMTerの方々のお作法を踏襲されるわけでして、


ご自身の議論で何が批判されているのかという点には思いが至らないように見受けます。拙ブログでは先ほどの3年前のコメントの翌日のエントリですが、

まあ、順番からいえば、先人達が歴史的経緯の中で築き上げてきた交渉や取り決めが制度化され、その制度化された世の中を主に行動の面から、時に数理的な手法を用いて分析するのが経済学という学問であることからすると、経済学が制度分析に理論を提供することはあっても、理論に基づいた制度設計が功を奏するのは、その理論がそれまでに築き上げてきた交渉や取り決めに匹敵するだけの利害調整機能を持っていることが必要条件となるはずです。つまり、いかにこれまでの制度が理不尽で整合性のないものであっても、その裏に営々と積み上げられてきた交渉や取り決めを取っ払うような制度改正は関係当事者の合意を取り付けることはできず、逆に制度として不都合であっても、当事者が合意している限りは制度として機能することになります。

制度をどのように変えるべきなのか(追記あり)(2016年12月31日 (土))

複式簿記にしても中央銀行制度にしても、人間が経済的活動を行う上で利害が衝突したり、当事者の利害は一致するものの社会への影響が芳しくない場合にそれを調整した結果が、営々と制度として積み重ねられたものであって、アプリオリに定まっていたわけではないのですが、「その社会を構成する人間の行動を金銭面のみから記述することをもって「具体的実務的形態」であるぞという方がいらっしゃるのもまたこの世の習わし」ではあります。


信用もないのに賛同者をいくらでも増やせるというわけではないことは、はしなくもMMT四天王と呼ばれる方々が実践されているようでして、私のような浅学非才な者にも貴重なサンプルを提供していただいるものと感謝すべきなのでしょう。

2019年12月01日 (日) | Edit |
9月の拙ブログでも取り上げておりました佐野SAの労働争議ですが、

あっせんを申し立てた先が栃木労働局ということは、個別労働関係紛争として処理しようとしているようでして、労働組合が主体となって行うストライキ事案でありながら、栃木県労働委員会に対する労働紛争の調整(あっせん、調定、仲裁のいずれか)の申請でもなく、不当労働行為の救済申立てでもないというのが、集団的労使関係の現状を物語っているというところでしょうか。
(略)
しかし、ストライキが長引いて集団的労使関係の紛争処理が喫緊の課題となっているこの段階においては、集団的労使関係の構築を通じた労使関係の正常化が求められているというべきであり、まさにそこが労働委員会に求められる役割だと思うのですが、そういう話が当事者からもほとんど聞こえてこないところが、事態の深刻さを表していると思われます。

「「個別労働関係紛争と集団的労使関係紛争」再論(追記あり)(2019年09月23日 (月))」


社長交代で一応の決着が見られたと思われていたものの、新体制となっても結局使用者側の態度は変わらず、いよいよ労働委員会に対して不当労働行為の救済申立が行われたようです。

 一昨日、佐野SA上り線の従業員の労働組合(以下、佐野SA労組)が、使用者である株式会社ケイセイ・フーズが「組合つぶし」(労組法上の「不当労働行為」)を行っているとして、栃木県労働委員会に不当労働行為救済申し立てを行った。

 佐野SAは今年の夏にストライキで大きな話題となったが、いまだに労使紛争が続いている。佐野SA労組によれば、その原因が会社側の違法な「組合つぶし」にあるというのだ。

 実は、労働組合法では使用者側から労働組合に介入し、例えば金銭を支払って脱退を迫るなどの行為を禁止している。会社の組合への介入が禁止されていることや、それがどの程度であるのかは、ほとんど知られていないだろう。

出勤停止や損害賠償請求…違法性は? 佐野SAで「組合つぶし」についての救済申し立て(11/30(土) 12:00 Yahoo! Japan ニュース)


労組法上の不当労働行為に関する規定については今野氏の説明のとおりだと思いますが、こちらの説明はややミスリーディングではないかと思われます。

 だが、不当労働行為を禁止する法制度や運用には、実効性に欠けるという課題もある。

 不当労働行為は、たしかに労働組合法によって明確に禁止されているが、罰則が設けられていないからだ。したがって、不当労働行為によって直ちに経営者に刑罰を科せられることはない。

 とはいえ、不当労働行為救済申立制度(都道府県が実施主体)を設けられており、審査の結果として不当労働行為が認定されれば、救済命令が出ることになっている。

 だが、これも審査には約1年を要するという課題がある。命令が出る頃には、“時すでに遅し”ということになりかねないのだ。そのため、海外では不当労働行為に罰則を設けている国もあり、日本でも法規制を強めることを検討すべきという議論もある。

出勤停止や損害賠償請求…違法性は? 佐野SAで「組合つぶし」についての救済申し立て(11/30(土) 12:00 Yahoo! Japan ニュース)


不当労働行為に罰則がないのは、労働(雇傭)契約はあくまで民法の典型契約であって、民法における「契約自治の原則」の労使関係版として「労使自治の原則」に基づいて刑法上の刑事罰が適用されないからではないでしょうか。海外では罰則を設けているというのも、集団的労使関係紛争についての労働裁判制度があることが前提となるので、その審判を経ずに罰則が適用されることはないものと記憶しております。日本の裁判所では、労働契約法に基づいて個別労働紛争についての労働審判は行われていますが、集団的労使関係紛争に特化した労働裁判制度はありませんので、訴訟が提起されると通常の民事訴訟手続きによって裁判が行われることとなります。労働委員会の不当労働行為の審査も民事訴訟法に準じた手続きとなるため、不当労働行為の審査には、通常の裁判でも労働委員会の不当労働行為審査でも同じように1年程度かかってしまうわけです。

でまあ、そうした制度の限界はあるにせよ、労組法の規定によって労働組合は労使自治の原則に基づいて団体交渉を行い、不調に終われば労働争議を行う権利が認められていて、それに伴う不当労働行為と思われる事案があれば、労働委員会に救済を申し立てることもできますし、その損害について民事訴訟を提起することもできます。これに対して、争議行為によって使用者側に損害が発生しても、それが正当な行為である限りにおいて刑事罰が適用されませんし、使用者側が損害賠償請求することもできません。

という制度からすると、報道や今野氏の記事から読み取れる限りでは、労使ともに争点が混乱しているように見受けます。使用者側は争議行為(スト)による損害賠償を求めるとしていますが、労組法上の資格審査を経ない争議団に対するものであっても、その争議行為が正当である限りにおいて労働組合法違反であって、使用者側がそこで勝負するとなると、違法な損害賠償請求を適法であると使用者側が立証しなければならないので、わざわざ手がかかるやり方をしているなあという印象です。

労働者側も、使用者である株式会社ケイセイ・フーズが相手ではらちがあかないとして、「業務委託元であるネクスコグループのネクセリアに問題の解決に向けて動くように働きかけている」とのことですが、直接の雇用関係にある使用者に経営実態がないとか人事権がないというような場合は法人格否認の法理が適用される余地がありますが、使用者に経営実態がありながら上記のような無理筋の主張をして話が進まないのでその親会社とか委託元に働きかけるというのは、労働組合としては搦め手からの戦略にならざるを得ません。要は世論を味方に付けるという戦略なのですが、慎重に事を進めなければかえって労働組合に対する印象を悪化させかねない懸念もあります(今のところお客様アンケートは組合を応援する声が多いようですが)。

集団的労使関係の再構築の重要性を指摘している拙ブログとしては、こうした泥仕合を何とか終息させ、健全な労使関係構築に向けて、労使双方のみならず上部団体や労働委員会などのバックアップが望まれるのですが、労働組合の組織率の低下に徴表される集団的労使関係の衰退が衰退しているのは、そうしたバックアップ体制が衰退していることの表れでもあるわけでして、前途は多難と言わざるをえませんね。

2019年11月18日 (月) | Edit |
国会方面では相も変わらず与野党の攻防が繰り広げられているわけですが、こちらも相変わらず周回遅れながら質問通告をめぐって一悶着あったようですね。

「官僚ブラック労働」は置き去り 森裕子氏の質問通告問題(2019.10.25 20:19 産経新聞)

 国民民主党の森裕子参院議員が、15日の参院予算委員会に向け提出した質問通告が外部に「漏洩」したとして政府を追及している。野党は内閣府からの漏洩を疑うが、所管する北村誠吾地方創生担当相は流出を否定する。逆に、当初森氏が内容を聞き返さなければならないような簡潔な通告しか行わず、官僚が長時間の残業を強いられた問題は置き去りになりつつある。

 発端は台風19号の本州上陸を控えた11日夜。ネット上で「森氏の質問通告提出が遅れ、役所で深夜残業を強いられている」という趣旨の匿名投稿が相次いだ。

 実際には質問通告は期限内の11日夕に提出された。ただ、当初は「質問要旨」として「現下の経済情勢と消費税増税、金融政策について」などと簡潔な内容にとどまった。森氏はその後も断続的に質問詳細の「追加ペーパー」を役所側に渡し、省庁は深夜まで対応に追われた。

 国会対応で官僚が「ブラック労働」に追われる実態は、かねて問題視されてきた。森氏の対応がネットで炎上する中、旧民主党政権で官房副長官を務めた松井孝治氏が、ある資料をツイッターに投稿した。

 資料は政府内のシステムの画面を印刷したもので、15日の参院予算委に関し、省庁が質問内容を把握した日時などが読み取れる内容。松井氏は次のようなコメントを付していた。

 「官僚の相当数が連休中に働いていることがうかがわれる。きちんと正規の情報を開示した方が健全だ」

 騒動は16日に様相が一変した。森氏や野党幹部が記者会見し、森氏の質問通告が質疑前に外部へ「漏洩」したとして、調査チームを設けて追及すると表明したのだ。森氏はこう訴えた。

 「憲法に規定された国会議員の発言の自由、憲法そのものに対する挑戦だ」


一か月前の騒動なのですっかりほとぼりが冷めてしまっていますが、ネットで読める続報は同じ記者によるものしかなさそうです。

【野党ウオッチ】「通告漏洩」問題はフェードアウトなのか(2019.11.12 01:00 産経新聞)

 不発なら知らぬ間に撤退してもかまわないのかもしれない。しかし、役人に深夜労働を強いたと指摘されるや「逆ギレ」して粛清に走った、という悪印象だけはしっかり残る。

 「次に漏洩問題調査チームの会合をいつ開くのか」。チーム関係者の野党議員に尋ねたところ、時期は未定で、開催にも乗り気でない様子だった。理由を尋ねると「不毛だから」という答えが返ってきた。

(政治部 千葉倫之)


まあ国会というか日本の議会というのはかくも「不毛」な応酬が繰り広げられる場となっておりますが、そもそもなぜそうなったかという背景について、以前のエントリで取り上げた刊行当時現役の衆議院事務総長による解説を参照してみましょう。

 我が国国会が独特なところは、質疑というプロセスがあること、そして、それが審査の太宗を占めることである。他の国では、基本的に討論という形で審議が進められる。無論、我が国にも、議員間で議論を闘わせる討論のプロセスはあるが、各党の意見表明といったもので、議員間議論という要素は少なく、かつその時間も短く、採決の前に行われる一プロセスといった儀式的な性格を強く持ったものである。
(略)
 なぜ質疑が審議の中心になったのかというのは、帝国議会初期の政治状況が大きく影響したと言っていいだろう。我が国の統治のシステムは、天皇が統治権を総覧し、内閣は天皇を補佐するものであった。議会は天皇の立法権を協賛するものであり、それは具体的には、民の代表として、政府が進める政策に意見を述べることであった。
(略)
 しかし、政党、とりわけ野党的立場の政党からすれば、政府の政策を質し、その問題点、ひいては政府そのものを攻撃したいわけで、そうなると、大臣らを質疑の場に呼ぶしかなかった。
(略)
 だが、その後、内閣の方も議会の重要性を感じるようになる。(略)こうして内閣と野党双方の思惑が一致して、質疑の場が拡大し、審議の太宗を占めるようになったと考えられる。
pp.163-165


議会学
向大野新治(衆議院事務総長)著
ISBN:978-4-905497-63-9、280頁、本体価格:2,600円


私自身も諸外国の議員制度を実際に見聞きしたわけではなく、最近だとイギリスのBrexitとかアメリカのロシア疑惑とかのニュースで見る程度の知識しかありませんが、国会議員が与党の閣僚を通じて行政(の職員たる役人)をつるし上げる日本とはだいぶ異なる印象ですね。しかも、日本では政権交代があってもこの構図は変わりませんので、民主党政権時には自民党が同じようなことを繰り広げていたわけでして、まあこの国では役人が一方的に攻撃されるのが民意ということなのでしょう。

この点に関しては、本書では次のように指摘しています。

 なお、質疑中心の議案審査構造に関連して言及すると、かつてこれを「官僚主導」のシステムとみなし、「政治主導」に転換すべきだとの主張がなされたことがある。
(略)
 しかし、ここには、どこの国も議案審査の方法はほぼ同じという誤解があるようである。先ほど述べたように、質疑というステージは我が国独特のものであり、他の国は、内容に違いはあれ、討論という形をとっていることを理解しなければならない。実は、我が国にも討論はあり、それは構成員たる議員のみに発言が許されたものであり、極端に言えば、質疑というものを廃止して、討論だけにすれば、諸外国と同じように、議員だけの議論になるのである。それを転換せず、単なる質問に対して、大臣が答えたら政治主導、同じことを官僚が答えたら官僚主導というのは、合理的な解釈とは言えないと、筆者は考える。
向大野『同』pp.166-167


結局やっていることは、大臣が答えようが官僚が答えようが、行政(の職員である役人)をつるし上げることが目的であって、それを民意が望む以上、政治家同士が政策について討論するような国会は「見世物」として成り立たないわけで、質疑そのものを見直すという議論には進まなそうです。

霞ヶ関の国会対応で野党から非常識な時間に通告があるのは常識と化している(民主党政権で首相を経験した方の中には、代表質問が月曜日のときは日曜日の夕方に通告するという御仁もいらっしゃいましたね)ところでして、今回は台風という自然災害への対策が迫っている中だからこそ問題になったわけですが、いやまあ台風が迫ろうがなかろうが、深夜に答弁作成しなければならないような仕事がデフォであるような職場において日本の各種制度が決定されること自体が問題なのだろうと思います。

そして、諸外国では政策決定が主に討論で行われるのに対して、日本のように質疑が中心であれば、政策や制度の詳細について知らなくても(誤った解釈によっても)質問ならいくらでもできるし、政権批判につながりさえすれば政策以外のことも質問できます。合理的無知な有権者によって選ばれた国会議員にとって、政策や制度の詳細について知らなくても発言できる質疑中心の国会の方が都合がいいわけですね。

形式的な話でいえば、実は日本の国会の本会議ではほとんど質疑は行われず、ニュースで報道される質疑はほとんどが予算委員会での質疑となりますが、これも質疑中心の議案審査構造が故のものといえるでしょう。だいぶ古いですが、国会の議事についての説明を参照すると、

 現在の本会議は審議時間が極端に短いため、ほとんどアリーナとしての機能を果たしていないが、予算委員会の総括質疑や一般質疑(後述するように、正式な用語では質問ではなく「質疑」という。なお、2000年の第147回国会から衆議院の総予算審査方式が変更され、総括質疑は「基本的質疑」、一般質疑は「質疑」と呼ぶことになった)はその機能の一部を代替してきたと考えられる。そこで、何も本会議にこだわらず予算委員会の質疑を充実させればよい、本会議の形骸化をとくに問題にすることはないという意見も出てくるだろう。しかし、本会議の機能を予算委員会に代替させている現状には、いくつかの難点がある。
 第一に、予算そのものを議題とする審議の重要性である。(略)現在の予算委員会では国政全般にわたる質疑が展開されるため、本来の任務であるはずの予算審議にあてる時間は限定されてしまう。
p.125
大山礼子 著  (品切)
2,200円 四六判 280頁 978-4-385-31398-6
1997年11月20日 初版 発行
2003年 3月15日 第2版 発行

引用注:上記引用部で「一般質疑は「質疑」と呼ぶことになった」とありますが、現在は「一般的質疑」と呼ばれます。


質疑中心の審査構造において、全閣僚が出席する予算委員会は本会議に代わって政府追及の場として活用(?)されるのが現状でして、予算委員会の開催をめぐる攻防もよくある風景であすが、まあ「不毛」な国会が変わることはなさそうですね。

2019年09月29日 (日) | Edit |
去年、海老原さんと荻野さんの『人事の成り立ち』
名著17冊の著者との往復書簡で読み解く 人事の成り立ち 新刊
「誰もが階段を上れる社会」の希望と葛藤
海老原 嗣生 著、荻野 進介 著
出版年月日 2018/10/26
ISBN 9784561227175
判型・ページ数 4-6・360ページ
定価 本体2,315円+税

で示された「ジャーナリスティックな労働史観」に触発されまして、
労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))
グラデーションを持った働き方(労働史観の私的推論 後編)(2018年11月11日 (日))
というエントリをアップしたことがありますが、そこで繰り広げた拙論について大変衝撃的な本が出版されていました。

いやもうhamachan先生の「これはいったい何という本だ!と叫んでしまいました」という一言にその衝撃度合いが凝縮されているのですが、

それであれば、それは本書の副題「雇用・教育・福祉の歴史社会学」にぴったりと符合します。しかし、本書の内容はそういうものにもなっていません。なぜなら、小熊さんによれば

・・・ところが、雇用慣行について調べているうちにこれが全体を規定していることが、次第に見えてきた


からです。そこで、

・・・最初に書いた草稿はすべて破棄し、雇用慣行の歴史に比重を置いて、全体を書き直すことになった。


「比重を置いて」、というよりも、これはもはや、日本型雇用システムの形成史に関する、現在の時点の知見の相当部分を包括的に取り入れたほとんど唯一の解説書になっています。小熊さん自身はそういうつもりはなかったようですが、社会政策とか労働研究といった分野の研究者が、細かなモノグラフは書くけれどもこういう骨太の本を書かないものだから、これから長い間、日本型雇用システムの関する定番の本になってしまう可能性が高いように思われます。

小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) 2019年7月13日 (土))


という次第で、昨年書いた拙論で繰り広げた私論について「答え合わせ」するための格好の素材となっていますので、おそらく現時点で一般に入手しうる中でもっとも網羅的な文献として対比させていただきながら、拙論を振り返ってみたいと思います。

1 軍隊組織への「忌避感」

ただし、その「忌避感」のややこしいところは、たとえば「上意下達で暴力がまかり通る軍隊組織はまっぴらごめんだ」と思う人もいれば、「入る時点で階級が分かれていて、昇進する位もあらかじめ決まっているような硬直した軍隊組織はまっぴらごめんだ」という方もいたと推察されるところで、軍隊組織のどこを否定するかという力点によって、新たに形成される制度も変わってきます。上記の例でいえば、前者の忌避感を持つ方より後者の忌避感を持つ方が多いと、「能力に応じて(能力が高まれば)制限なく昇進できる組織とするべきであり、能力を高めるためには上意下達で厳しく部下を指導し、そのために暴力的な指導もやむを得ない」という組織が形成されることになります。

軍隊組織のどこを否定するかということは、言い換えれば軍隊組織のどこを有用と認めるかということですので、特に軍隊組織の当事者であった世代にとって、自分が組織内で果たした役割を全て否定することは忍びなかったということもありそうです。お察しの通り、私はこれがメンバーシップ型雇用を支えるもうひとつの時代背景だろうと考えております。まあ特に当事者の多くが鬼籍に入った現時点においてはこれをアカデミズムの分野で実証しようにもなかなか骨の折れる作業でしょうから、あくまで素人の与太話程度ですが。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))


本書が「アカデミズム」の業績と評価されるかは素人の私にはよくわかりませんが、こういう部分をしっかりと描出しているのが本書のすごみでして、

 これまで述べてきたように、職能資格制度は、軍隊の制度と似ていた。そして、この報告書(引用注:1969年の日経連『能力主義管理—その理論と実践』)を書いた大企業の人事担当者たちも、それに自覚的だった。巻末付録の匿名座談会で、彼らは以下のように話し合っている。

C われわれの職能資格制度、私は旧陸・海軍の階級制というのはまさにそれじゃなかったかと思うんです。少尉、中尉、大尉という階級は職能的でしたよ。
(略)
 だが、彼らは、重要な点を見落としていた。彼らが軍隊にいた時期は、戦争で軍の組織が急膨張し、そのうえ将校や士官が大量に戦死していた。そのためポストの空きが多く、有能と認められた者は昇進が早かった。彼らが述べている「10年たってまだ中尉の人ももう少佐の人もいた」「同じ少尉でも中隊長もいるし、大隊長もいた」という事態は、戦時期の例外現象にすぎなかったのである。
pp.486−487

製品名 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学
著者名 著:小熊 英二
発売日 2019年07月17日
価格 定価 : 本体1,300円(税別)
ISBN 978-4-06-515429-8
通巻番号 2528
判型 新書
ページ数 608ページ
シリーズ 講談社現代新書


『能力主義管理』はいうまでもなく日本型雇用の1960年代の到達点ですが、その中において、軍隊組織との類似性が当事者によってはっきりと語られていたわけですね。そしてそれは、戦前の軍隊組織の例外的な時期と高度経済成長の終焉が間近に迫った1960年代後半という時期の時代的背景との類似性でもあったわけで、その後両者がたどった道も類似しているといえそうです。

お次は内部昇進についてですが、

2 青空とガラスの天井

ということで、さらに素人の与太話を逞しくしてみますと、終戦直後の高度成長期の前段階において、職工に分かれていた処遇を同一化し、「青空が見える」内部昇進を制度化したのは、それが深刻な身分差別と認識されていたからともいえそうです。つまり、戦後の労働運動の中では、労使ともに戦前の専制的な体制を忌避した結果として「青空が見える」組織が目指されたのではないかと。
(略)
そして高度成長期が終わって日本型雇用慣行が普及したころにはすでに、「青空は見えるが、ガラスの天井が低く、その穴も狭くなっている」状況が始まっていて、バブル崩壊後の『新時代の「日本型経営」』における雇用ボートフォリオはその理論武装であったともいえます。そして「ガラスの天井」が低くなり、かつその穴が狭くなったときに、その狭き門をすり抜けることが許されたのは、スキルに習熟した労働者(専門職型)ではなく、組織の規範を内部化したメンバーとしての男性労働者(高度人材)だったのが実情ですね。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))


本書では、戦後の日本において労働者が求めたのは「社員の平等」だったと指摘しておりまして、「青空の見える労務管理」という言葉に関連して、本書ではこう指摘されています。

 こうして「社員の平等」は、少なくとも形式的には完成した。最初に配属された職務が何であろうと、与えられた職務で経営の期待に応えた者は、選抜されて昇進する。いわば、経営の査定が無差別に適用される意味において、「社員」は平等になったのだ。
 日本鋼管の労務担当であり、のちに取締役になった折井日向は、これを「青空の見える労務管理」と形容した。この言葉は、当時の八幡製鉄のスローガンでもあった。義務教育卒の二等兵であっても、与えられた任務で「能力」を評価されれば、将校になれる制度だという意味である。
p.473

小熊『同』


この折井氏の言葉は、1973年の『労務管理二十年—日本鋼管(株)にみる戦後日本の労務管理』の中で述べられたとのことですので、当時はまだ「青空は見えるが、ガラスの天井が低く、その穴も狭くなっている」状態が深刻に受け止められていなかったのでしょうけれども、すでにその運用の限界は見えていたというべきでしょう。

次は「3 「職能資格」の純化」「4 長期雇用と「職務遂行能力」」「5 「職能資格」と規範の内部化」をまとめていきますが、

5 「職能資格」と規範の内部化

さらに注意が必要なのは、「職能資格」は採用時から連綿と積み重なるものであって、メンバーシップにおける管理職としての適性はその「職能資格」によって裏打ちされるという運用になっていることです。「運用」という言葉を使ったのは、結局「青空の見える労務管理」とは上層部にいたる道を通すだけで、その道を通る資格は労働者が自ら獲得するという建前は堅持しているからです。つまり、制度として道は通すが、そこを通るための「職能資格」を獲得するためには、労働者自らがメンバーとしての規範を身につけなければならないということです。

もちろん「職能資格」が同一組織内でのみ獲得されるものであるため、少なくとも採用時のスタート時点ではすべての正規労働者に等しく与えられますが、それを「長期雇用による経験」によってどこまで積み重ねられるかは正規労働者個々の適性と成果に応じて決まるわけです。しかもその「長期雇用による経験」は強大な人事権として使用者の裁量に任されているわけですから、積み重なる「職能資格」がつまるところジョブローテーションによって獲得される以上、人事異動を含むジョブローテーションによってどれだけ組織の規範を内部化するかが重要になります。平たくいえば、「デキる社員は出世コースを異動する」ということですが、これはメンバーシップ型がトートロジーによって成り立っていることを見事に示した言葉でもあります。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))


「できる社員は出世コースを異動する」というトートロジカルな現象が発生するのは、昇進や昇給の対象となる者を厳選する必要があるからですが、結果的に組織運営自体が自らの組織に忠誠な社員によって占められるという状況に至ることになります。そうなった組織が主要な産業を主導し、その雇用慣行が社会規範化しているのがこの国の現状なのですが、「なぜ日本ではペイジとプリンやジョブズやザッカーバーグやベゾスが出てこないんだ」という声を聞くと、まあそうでしょうなという感想しかありませんね。

6 組織のフラット化と「職能資格」の深化

…ということで、いま問題となっているのは、短期的な試行錯誤が続いて長期的には業務そのものの質が落ちているのに、なぜ正規労働者は「青空の見える労務管理」が可能なのかということです。裏返していえば、業務の質が落ちても「職務遂行能力」が高まっていると評価されるのは何故なのでしょうか。その一つの要因として、長期雇用で積み重なるとされている「職能資格」がそれとして純化している現状において、メンバーに求められるのは、仕事そのもの質を高めることではなく、組織の規範を内部化して、組織のためなら自分の生活を犠牲にして理不尽なことも厭わないという「職務遂行能力」を持つことであるということが挙げられます。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))

ここは組織のフラット化に絡めて考えていたのですが、そもそもの職能資格給制度が管理職養成を目的としたものではなく「社員の平等」を目的としたものであるなら、組織のフラット化は結果であって原因ではないということになります。「社員の平等」が目的であるからこそ、意思決定の迅速化の名目の基に、表向きは役職を減らしながら遅い昇進に報いるために職能資格は堅持し、その一方で実態として賃金カーブのフラット化と職能資格の純化が進められたというべきかもしれません。

 そして、急激な高学歴化によって起きた現象がもう一つあった。昇進の遅れである。
 アベグレンは1955年の大手製造企業に、この問題も見いだしていた。日本企業では、大卒職員の全員が幹部まで昇進することを前提に、頻繁な人事異動を行っていた。ところが大卒者が増えたうえ、戦時増産のために職員の採用を増やしていた。
 アベグレンは、「これらの要因によって、現在、日本の大企業のほとんどで、工員と事務員の人数に比較して、管理職とスタッフ部門の職員の数が不釣り合いに多くなっている」と指摘した。日本企業は「課長代理や課長補佐」といった不要なポストを大量に作っているが、そうまでしても、「企業の管理職の昇進が大幅に遅れて」いるというのだった。
p.461

小熊『同』

職能資格が経験年数に応じて上がる限りは賃金は上昇していくのが職能資格給制度ですから、課長とか部長という役職が足りないために昇進が遅くなったのなら、職能資格に見合う「役職」をつくり出して対応したわけですね。

そして小熊氏は、その社会をつくったのは、ほかでもない戦後日本の労働者であったことを指摘しています。

 労働氏の研究者たちは、日本で新卒一括採用や「終身雇用」が定着したのは1960年代だと位置づけることが多い。たしかにこうした慣習が、社会の多数派である現場労働者にまで広まったのは60年代になってからである。
 とはいえ日本の民衆は、新卒一括採用や年功賃金、終身雇用などを、戦前の官吏や職員が享受していることを知っていた。彼らは全員が高校に進学し、全員が「社員」となることで、こうした慣行の適用を大幅に拡大した。それが、「日本の労働者が理解した戦後民主主義」だったといえるかもしれない。
p.448

 こうしたルールは、歴史的経緯の蓄積で決まる。歴史的経緯とは、必然によって限定された、偶然の蓄積である。サッカーのルールは、人間の肉体を使ったゲームであるという必然の範囲内で、積み重ねられた偶然が決めている。それがどうしてラグビーのルールと違うのかは、歴史的経緯の創意という以外の説明はできない。
 こうしたルールは、合理的だから導入されたのではない。そもそも何が合理的で、何が効率的かは、ルールができたあとに決まる。ルールが変われば、何が合理的かも変わるのだ。
 それは出来上がった完成形としての「形」ではない。しかしサッカーで手を使えないのは不合理だといっても、歴史的過程を経て定着したルールは参加者の合意なしに変更することはできない。
(略)
 日本の経営者が、経営に都合のよい部分だけをつまみ食いしようとしても、必ず失敗に終わる。なぜなら、それでは労働者の合意を得られないからだ。逆もまたしかりで、労働者が都合のよい部分だけをつまみ食いしようとしても、経営者の合意を得られない。だからといって、長い歴史過程を経て合意に到達した他国の「しくみ」や世界のどこにも存在しない古典経済学の理想郷を、いきなり実現するのはほとんど不可能に近い。
pp.570-571

小熊『同』

日本型雇用の形成は、その現場へ人材を供給する教育や、生活に困窮した場合の社会保障も大いに役割を果たしているのですが、本書はあとがきに記載の通り「雇用慣行について調べているうちにこれが全体を規定している」という観点から記述されていますので、労働者と使用者の交渉の結果として「日本の労働者が理解した戦後民主主義」が実体化したものが日本型雇用ということができそうです。この国の現行制度とは、本書で言う「慣習の束」が具体化したものであって、「日本の労働者が理解した戦後民主主義」が日本型雇用を生み出した以上、日本型雇用が全体を規定するのは当然の帰結ではあります。

いやまあ、日本の構造改革(懐かしい?)とか経済財政をめぐる議論が、日本型雇用を理解しないような「存在しない古典経済学の理想郷」を前提に繰り広げられているのは、それがあまりに常識になってしまって、自らの社会を客観視できない状況を表しているのでしょうね。