2016年11月29日 (火) | Edit |
再びコメントをいただきながらこちらからのコメントが遅くなりまして申し訳ございません。こちらからのコメントが長くなりましたので、新しいエントリにしました。まずは、望月夜さんからいただいたコメントですが、

>「因習の打破」という趣旨が不明ではあるものの、管見では「政府が債務と思っているのは因習のせいだから、会計上整理をすれば国債費を償還する必要はない」というのが一つの理解としてありそうです。


別に各債券の償還は随時行えばいいと思うのだが、借換(差し引きで見れば借り増しでもある)を並行して行えばいいという趣旨。
これは私がとやかく言うまでもなく、実際の政府財政実務で起こっていることだ。

これに対し、「いつかはそうやって積み増された政府債務についても完済していかなければならない」、あるいは、譲歩した見解としては「名目GDP比で見てある値以下にならなければならない」というもの(これらがいわゆる「因習」)があるのだが、いずれも「そうであるべき根本的理由」というものが薄弱である、と言いたいわけである。

もしインフレが問題だとすれば、指標にすべきはインフレあるいはインフレ予想のみにするべきであって、政府債務の完済であるとか、GDP比で見た低位安定だとかは目標たりえないわけだ。


あと、このブログの記述を見る限り、私の連ツイの趣旨、すなわち、「主流派経済学が過剰政府債務の問題を論ずるとき、どういうロジックに依って議論しているか」について本当にご理解いただけたのか、著しく不安になった次第をお伝えしておきたい。

2016/11/21(月) 08:50:29 | URL | 望月夜 #-[ 編集]


まあ確かに「「主流派経済学が過剰政府債務の問題を論ずるとき、どういうロジックに依って議論しているか」について本当にご理解いただけたのか、著しく不安」なのは私も同じ感想でして、主流派経済学における「過剰」な政府債務とはどの時点からを指すのか、あるいはそのストックの債務の基となるフローの新規国債はどの程度が適正か(それは税収との差し引きなのですが)を望月夜さんがどうお考えなのかはよく理解できておりません。また同時に、望月夜さんの「借換(差し引きで見れば借り増しでもある)」が「実際の政府財政実務で起こっている」というご指摘を拝見するに、財政の実務の現場でどのような処理をしているのかご存じなのかは著しく不安ではあります。

まあそれはともかく、国債が資産であることそのものは事実ですが、個人が資産保有の手段として国債を保有し、政府はそれを国債の原資として財源確保するということになると、それは政府支出を拡大するために個人の資産をできるだけ拡大しなければならないことを意味するものと思います。となると、個人が資産を拡大することを前提とする点において、その資産形成における格差を容認することになりますから、(結果として)「r>g」が格差の主因であるとしたピケティを批判するお立場なのだろうと思います。その格差は、政府と個人の間での資産による債権債務関係を基礎とした「再分配」でもって是正すればよいということなのでしょう。

言い換えると、政府が民間のストックと政府のストックを引き換えに発生(accrue)させることにより、政府支出を増加させるという経路を想定されている(というか現状でそうなっていると認識されている)ように思いますので、そのような想定の前提として民間のストックが潤沢に存在しなければならず、その結果として生じる民間のストックの保有具合による格差は容認されるということになろうかと。ピケティはそのような格差の解決策として、直接的な資産課税によって再分配を行うべきとしているのに対して、望月夜さんはむしろ貯蓄や投資による資産形成を前提とされる点では、まさに正反対の方向を向いていらっしゃると考えます。

したがって、現状の再分配を拡充するためには、各個人の(定義により投資と同値の)貯蓄を拡大しなければならないはずですが、それはとりもなおさず流動性選好が強くなっている状態であり、すなわち再分配を拡充するためにはデフレであることが必要ということになります。つまり、Savingが定義によりInvstigationと同値であり、Saving=Income-Consumptionである経済学の世界では、Savingを拡大することによってしか国債を財源とする再分配が実現できなくなります。

まあ確かにwankonyankorickさんは、

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
MMTの、少なくと「第一世代」は、どうやら「デフレ派」とやらに該当するらしい。。。。。まあ、少なくともインフレは回避すべきといってるから、そうなのかな。。。。
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800339637424132097

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
土建についてだって、アメリカ(彼らの主たる舞台はアメリカだから)ではインフラの劣化がひどすぎるから、土建に肩入れしなきゃならない、そのための遊休労務者や遊休資源はある、という話で、それで景気を改善しようという話ではない。そんなんで景気を改善しようとしたら、完全雇用の前にインフレに
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800340595659022336

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
なっちゃって困る、と言ってんだから、まあ、分けるとすれば、デフレ派だわな。。。。
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800340595659022336

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
@wankonyankorick 個人的には、不況期の雇用確保のために土建予算がふやされることは全く抵抗ないが、それが景気刺激策といわれると、かなり抵抗ある。その意味で、「MMTはデフレ派」と決めつけられることは、「リフレ派」「日銀理論」「重税国家」「無税国家」
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800344908171091970

wankonyankoricky ‏@wankonyankorick 11月20日
@wankonyankorick 「買弁理論」「極左」と言った決めつけよりは、多少は居心地良い。
https://twitter.com/wankonyankorick/status/800345419687432193



とおっしゃっていますので、MMTのような立場からすればいかに民間部門の貯蓄やその定義として同値の投資を増やすかが財源問題の解決策であって、その貯蓄や投資を増やすためにデフレになっても財源さえ確保できればよいのかもしれません。貯蓄や投資が増えると流動性選好が高まり、その結果として消費が抑制され、消費が抑制されると経済が縮小し…というデフレ・スパイラルが生じても、政府債務は償還する必要がないという立場からは特に関知しないということであれば、なかなかに理解が及ばない世界だなあという印象です。いやもしかすると、政府支出の財源が民間の国債による資産形成に支えられているために、流動性選好が高まって貯蓄や投資などの資産を有する層の消費が抑制されるというその世界は、どこかで経験している現実の世界なのかもしれませんけど。

まあ拙ブログでは、ストックを介するような迂遠な手法よりも、どちらかといえばピケティ寄りの考えに共感しますので、増税によって国民負担率を引き上げて、ストックを介さずにフローからフローへの再分配(その意味ではピケティのストックに対する資産課税はちょっと違和感がありますが)として現役世代の必要原則に応じた消費(医療、介護などの福祉や、保育や教育)を政府支出によって賄うことで拡充する方が効率的ではないかと考えていますが、まあ考え方の違いは如何ともし難いですね。

なお、ストックを介した財源調達では、国債という資産を有する層に対する(元本を除いたとしても)利払い費を政府支出で賄う必要がありますので、その分は再分配の目的である(資本保有具合による)格差の是正とは相容れないと思われます。ただし、その利払い費が再分配を実施するために資産を有する層に補償するためのコストであるとするなら、そのコストをかけなければ再分配の拡充が実現できないという民主主義の限界を示すものと理解しなければならないのかもしれません。つまり、再分配は民間の資産というストックを国債という政府のストックに置き換えて現金化しなければ実現されないものであり、その実施に当たっては、資産を保有する層がその資産から発生するゲインの支払いを政府に要求するために、再分配に要する財源だけではなく資産を保有する層への利払い費を政府支出で賄うという高コストな構造がこの国の現状なのでしょう。その高コストな構造を生み出しているのは、ほかでもない国民の政府不信なのですが、まあそれを選択するのも民主主義ですね。

財政の利払い費負担が増加することは,所得の再分配に関わる問題である。財政学における伝統的議論であるが,財政の利払い費は国債保有者に支払われ,一方利払い費増加により増税されるため,租税負担が増加する4)。この場合,租税負担の帰着により,所得の再分配が発生する。現在の日本で,国債保有者は民間銀行や日本銀行が中心であり,銀行が国債から金利収入を受け取っている。納税者から銀行への所得再分配の可能性が否定できない。

脚注
4) 1920年代のイギリスでは,国債保有者がレントナー(かの J.M. ケインズが金利生活者の利子安楽死として攻撃した)と呼ばれた個人富裕層であり,他方で増税が間接税であったため,社会的対立が生まれた。拙著,『現代イギリス財政論』,勁草書房,1999年,56ページ。

(PDF)代田純「超長期国債の借換発行増加と国債整理基金特別会計・日本銀行」(証券経済研究 第89号(2015 . 3))


まあこの代田論文の他の部分では、「しかも特別会計は,一般会計や財政投融資と異なり,国会で審議される必要もないため,一般に実像は見えにくい。」なんて書いていまして(詳しくは「特別会計のはなし」かこちらのPDFの5ページ目などを参照)制度への理解に一抹の不安がないではないですが、まあ政府支出としての国債の(元)利払いが支払われる先についても一考の余地はありそうです。

ということで、asdさんのコメント(2016/11/21(月) 19:18:26 | URL | asd)については、拙ブログをご覧になった方にご判断をお任せしたいと思います。
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2016年11月20日 (日) | Edit |
「経済学的に正しい」方々から続けてコメントをいただきましたので、エントリでまとめてご紹介しておきます。まずは、望月夜さんからいただいたコメントです。

>税の規模と政府の規模が不可避的に一致する必要がないからこそ、税収以上の政府支出を数十年にわたって継続している現状があって、それが「過小な」政府支出しかもたらしていないのであれば、それはとりもなおさず税収が「過小」であることの証左ではないか


これは、すでに論じた事項ではあるのだが、繰り返しで反論させていただくと、税の過少が政府規模の過少を招くとすれば、それは税の過少それ自体に基礎づけられているというより、均衡財政の神話(いつかはPB黒字化に向かわなければならないという根拠なき信仰)による政治的な迷妄に基礎づけられているわけであって、その場合、目指すべきは、税収の確保ではなく、因習の打破なのではないか、と私は理解している。
2016/11/17(木) 08:52:51 | URL | 望月夜 #-[ 編集]


増税の話をすると「均衡財政の神話」という反論をいただくことが多いのですが、いついかなるときも均衡財政を維持している国はおそらく古今東西存在しないのではないかと思います。国民負担率が50%を超えるドイツ、スウェーデン、フランスの政府債務の対GDP比はいずれも50%を超えていて、フランスに至っては100%を超えていますので、先進諸国が日本よりも高い国民負担率を維持している理由が、「均衡財政の神話に基づいて」いるわけではないのではないかと。
 国民負担率
(社会保険負担率+租税負担率)
社会保障負担率租税負担率対GDP政府債務残高
ドイツ52.6%22.2%30.4%82%
スウェーデン55.7%5.7%49.9%57%
フランス67.6%26.9%40.7%111%
アメリカ32.5%8.3%24.2%125%
日本41.6%17.5%24.1%240%

出典:国民負担率(社会保障負担率と租税負担率)は「国民負担率(対国民所得比)の内訳の国際比較(日米英独仏瑞)(財務省)」、対GDP政府債務残高は「General government debt (OECD)」の2013年度

さて、望月夜さんのご主張は、

緊縮ではない財政 http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-705.html …

「将来の経済成長の果実を過去の債務償還に食い尽くされる」

とのことなのだが、この表現はあらゆる所で散見されるにも関わらず、その具体的実務的形態が論じられたことがほとんどない。

望月夜 ‏@motidukinoyoru 10月29日


というtweetから拝見しているところですが、このtweetでおっしゃる「その具体的実務的形態」というのは結局「税収の確保ではなく、因習の打破」ということなのかもしれませんね。「因習の打破」という趣旨が不明ではあるものの、管見では「政府が債務と思っているのは因習のせいだから、会計上整理をすれば国債費を償還する必要はない」というのが一つの理解としてありそうです。となると、各年度に計上されている公債費(債務遺体する元利償還金)は不要な支出ということになります。まあ公債費がゼロになっても、平成28年度の一般会計(当初)でいえば、たったの58兆円程度の税収でもって、73兆円の政府支出だけでなく23兆円を超える公債費を計上して、34兆円を超える新規国債を発行していますので、そのうち11兆円程度の新規国債発行がなくなる程度ですけど。

ついでに、政府「債務」と呼ばれるのは、それが債権者にとっては債権として(保険会社や銀行などの投資機関の運用益等)の給付を受ける権利となっているからというのが一般的な理解と認識しているところでして、その債権債務関係を解消する「具体的実務的形態」についてすでに十分に議論し尽くされているとは思われませんが、まあその辺は残念ながら浅学非才な私には及び知らない世界があるのでしょう。

ところで望月夜さんは、さらに政府支出を増額してその分を新規国債で賄えばよいという立場かと見受けますが、その新規国債で賄うべき政府支出の額はどのくらいになるとお考えなのかは不明です。「政府債務の償還は因習である」とまでおっしゃるのであれば、政府支出は青天井として問題なさそうですので、各省庁なり自治体で選良の皆様が要求する事業にはすべて財源を用意して実施するというのも一つの考え方かと思います。なんというか、インフルエンス活動の全面解禁につながりそうですが、「しかし、実務というのは批判されたからといってすぐには変えられない(インフルエンス活動による効用が低い)から実務なのであって、消費者の批判に応えるためだけの実務なんてものには政策実現性(フィージビリティ)がそもそも担保されてはいません」ので、望月夜さんがお考えの「具体的実務的形態」の謎は深まるばかりという印象です。

次は初めてコメントをいただく方ですが、

初めまして。
「経済学的に正しい」こと(笑)を言わせて頂きますと、「経済学的に正しい」人達が目指しているのは無税国家ではなく、デフレギャップの解消ですよ。デフレギャップが解消され、インフレ圧力が問題になるときはむしろ緊縮財政せよと主張します。

あと、そういった面々(まあ私もそうですが)は最初から隠れ蓑など使わず一貫して増税派も浜田宏一岩田規久男リフレ派も批判してますので、認知的不協和は勿論発生しておらず、当然新たな理論なども全く待ち望まれてないですよ。
2016/11/20(日) 11:56:55 | URL | asd #-[ 編集]


「そういった面々(まあ私もそうですが)は最初から隠れ蓑など使わず一貫して増税派も浜田宏一岩田規久男リフレ派も批判してます」とのことで、asdさんのような方々にとっては私の懸念は杞憂に終わったようですので、誠にご同慶に存じます。

ということで、いただいた二つのコメントを拝見してみるに、ハジュン・チャン氏が指摘されるような様相を呈しているのは経済学方面の通常運転というべきでしょうか。

 大半のエコノミストの喧伝に反して、経済学には新古典学派の1種類しかないわけではない。本章では少なくとも9つの学派を紹介する。
 これら学派は不倶戴天の敵どうしというわけではない。むしろ互いの境はえてして漠然としている。経済学を概念化し説明する上ではさまざまな方法があること、いずれの学派も優位性を主張したり唯一の真理を自称できないことがわかればいいのだ。
チャン『同』p.102


いあまあ身も蓋もない指摘ですが、「経済学的な正しさ」というのは「ある考え方に基づいたときの推論」程度に考えるのが吉といえそうです。
(略)

 政府の失敗論は、経済あるいは市場の論理が政治に——そして芸術や学問など暮らしのその他の領域にも——優先すべきとするものだ。昨今ではとても広く受け入れられており、ほとんど当たり前になっている論だ。だがそこには深刻な瑕疵がある。
 第一に——エコノミスト以外にとっては当たり前だが多くのエコノミストにとっては受け入れ難いことに——そもそも市場の論理を暮らしの他の面に優先させるべき理由がない。人はパンのためにのみ生きているわけではないのだ。
 さらにこの議論は、何が市場に属し何が政治の領域に属するかをきっぱりと分つ「科学的」な方法があると暗に仮定して成り立っている。例えば、政府の失敗論者は、最低賃金規則や幼稚産業に対する関税保護などを、神聖冒さざる市場の論理に「政治的」論理を押し付けるものという。だがこれらの政策を正当化する経済理論は現に存在する。それなら彼らの実態は、他の経済理論に「政治的」とレッテルを貼って貶め、自分の主張が正当なのだ、これこそ経済理論だとばかりに言いつのっているにすぎない
チャン『同』p.364


折衷主義は、むしろ強み(2016年10月30日 (日))


なお、私が増税が必要だと指摘していることをもって「デフレ派」とか「反成長派」とか「反経済学派」に括られることも多いのですが、「結局のところ、拠出と給付の差し引きというネットの所得再分配機能の評価が重要になるわけです。まさに中里先生の資料の冒頭に出てくる「経済財政運営におけるナローパス」を慎重に求めることが必要」と考えていますので、できれば無用なレッテル貼りはご容赦いただけると幸いです。

2016年11月15日 (火) | Edit |
また浜田宏一先生の華麗な掌返しが炸裂していますね。

アベノミクス4年 減税含む財政拡大必要 内閣官房参与 浜田宏一氏(2016/11/15付)

 ――デフレ脱却に金融政策だけでは不十分だったということですか。

 「私がかつて『デフレは(通貨供給量の少なさに起因する)マネタリーな現象だ』と主張していたのは事実で、学者として以前言っていたことと考えが変わったことは認めなければならない」

 「(著名投資家の)ジョージ・ソロス氏の番頭格の人からクリストファー・シムズ米プリンストン大教授が8月のジャクソンホール会議で発表した論文を紹介され、目からウロコが落ちた。金利がゼロに近くては量的緩和は効かなくなるし、マイナス金利を深掘りすると金融機関のバランスシートを損ねる。今後は減税も含めた財政の拡大が必要だ。もちろん、ただ歳出を増やすのではなく何に使うかは考えないといけない」


まあ、こう頻繁に掌返しをされる浜田宏一先生に対して心ある方々の呆れた感嘆の声が上げられていますが、私としても厭債害債さんとjura03さんのご指摘に付け加えることは特にありません。
浜田センせぇー・・・(厭債害債(或は余は如何にして投機を愛したか) 2016/11/15 08:46)
扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part152(今日の雑談 2016-11-15)

…というところで終わってしまうのもなんですので、himaginaryさんのところで取り上げられている指摘について考えてみます。

クリス・ディローが、トランプの人格が大統領職においてそれほど問題にならない可能性の理由として以下の3つを挙げている。

  • 人々はそもそも無知で偏見を持っているが、大統領は人々の代表であることが望ましい。
  • チェック・アンド・バランスというものが存在する。大統領ができることには憲法の制約があるのみならず、望むならば大統領は最高の助言が得られる。強力な支援ネットワークによって、人格の欠点の影響を和らげることが可能。
  • 人格よりは政策が問題。もしトランプがインフラに投資し、税体系を簡素化する一方で、保護主義や移民制限に関する公約を希薄化するならば、完全なカタストロフとはならないかもしれない。

大統領の人格が問題にならない時(himaginaryの日記 2016-11-11)
※ 以下、強調は引用者による。


前回エントリで取り上げたようなトランプ氏に対する支持は、「素人崇拝」が高じて、素人の意見を素人として発言する候補者に支持が集まったという面もあると思いますが、アメリカにはそれでも政策決定とその執行が円滑に進むような制度を作り上げてきたという自負があるのかもしれません。

翻って日本の政策決定過程を見ると、「猖獗を極めたカイカク病」を支えたのもまた「経済学的な正しさ」であって、そこにはチェックアンドバランスなどが機能する余地はないように思われます。「財政的な措置をしなくてすむように医療費を削減するための「経済学的に正しい」処方箋は、治療に高額の医療費を要するような疾病に罹患した患者には治療しないこと」というのは、こちらの本で指摘されている研究結果ですが、本書冒頭の青木昌彦先生の推薦文に続くこの序文がアツいんですよね。

 過去30年間、社会保障支出、医療支出の水準が一貫して主要先進諸国の中で最低レベルである日本の水準を、さらに公的部門の役割を縮小する「小さな政府」を目指すことで、先進国クラブと呼ばれる経済協力開発機構(OECD)加盟30カ国中最低レベルまで、ないし発展途上国レベルまで引き下げることを目指すと仮に日本社会が決めたとします。この場合、「どのようにして政府の財政負担を減らすか」という手段についても、「理念」抜きには語れません。政府の財政負担削減を至上の課題にすれば、多くの予防医療を「やめる」ことが有効な一案です。なぜなら、多くの予防医療を「やめる」ことで病気にかかり早死にすると、総医療費は節約できることを諸外国の厳密な医療経済研究が示唆しているためです(5章参照)。さらに、早死にした人々には年金を支給しなくてもよいので、財政負担を一層軽減できます。筆者は個人としての理念からこの案に反対ですが、読者の皆さんの賛否はいかがでしょうか。
 3つ目の提言は、日本の政策の形成・執行の各過程で評価を行うチェックアンドバランス機構を強化しなければ、改革は一度限りの打ち上げ花火で終わってしまうということです。日本での通説とは逆に、筆者の目には「米国の医療制度改革は非常に『慎重』であるのに対し、日本の改革は非常に『大胆』」と映ります。米国を含めた多くの先進諸国は、「政策は謝る可能性が高い」ことを前提に、制度改革には、「大失敗」を未然に予防するため幾重にもチェックアンドバランス機構を組み込んでいます。それに比べ、日本では欧米におけるようなチェックアンドバランス機構がきわめて貧弱です。(中略)このような政策上の失敗にブレーキを踏めるインフラを整備しない限り、3章で紹介する政策提言・評価のための経済学理論・実証分析手法も、日本では単なる絵に描いた餅に過ぎません。言い換えれば、政策の方向性・進捗状況すら判断できないままブレーキ・安全装置を外せば、とりあえず速度だけは上がることに嬉々とする類の大胆な改革が繰り返されるおそれがあります。
 4つ目の提言は、公的皆保険制度の役割を堅持した枠内で可能な改革案(5章参照)を実施することです。なぜなら、5章6節で詳解するように、ハーバード大学のシャオ教授によれば、すでに日本の現行制度は、コスト抑制にきわめて有効で、不変性の高い2つのタイプの政策を組み込んでいるからです。また、シャオ教授は、世界各地で失敗を繰り返した政策の例として、「患者の窓口負担増」「医療機関への診療報酬の一律引き下げ」「医療保険制度における民間企業の役割拡大」「医療機関への民間営利企業の参入」を挙げています
 根拠の曖昧な通説を、厳密なデータ分析の結果に基づいて覆すことは、筆者には知的興奮であり、ある種の快感でした。この体験を多くの人と共有したいという執筆の動機に、一人でも多くの読者が共感してくれることを願っています。
pp.006-008

「改革」のための医療経済学
ニューヨーク州ロチェスター大学助教授 兪 炳匡 著
定価 : 2,052円(本体1,900円+税)
発行 : 2006年08月
在庫 : 在庫なし(申込不可)
サイズ : 四六判 264頁
ISBN-10 : 4-8404-1759-8
ISBN-13 : 978-4-8404-1759-4
商品コード : T560090



上記のインタビュー記事で満面の笑みを浮かべる浜田宏一先生(いつの写真かわかりませんが)や、

で、この後は『(4)物価の基調的な動き』という小見出しがあるのですが、これは毎度おなじみ展望レポートで示されている盛大な屁理屈なのでどうでもよくて、しかしまあ2年で2%行かなかった場合の説明責任をこれで取ってるつもりなのかよというか、今にして思えばいわゆる岩田-翁論争の時にこの置物を叩き潰さないで妙な裁定をして有耶無耶にしやがった植田和男先生の責任も重いわとか思う訳で是非ご見解を賜りたいものであります。

では講演テキストの引用の最後に就任記者会見からのお言葉でも入れておきましょう。

『先程申し上げた「中期的」とは、大体2 年ぐらいであり、2%は2 年ぐらいで達成しなければいけないということです。2 年経って、2%がまだ達成できない、2%近くになってもまだ達成できていない場合には、まず果たすべきは説明責任だと思います。ただ、その説明責任を自分で果たせないということ、単なる自分のミスジャッジだったということであれば、最高の責任の取り方は、やはり辞任だと思っています。まずは説明責任を果たせるかどうかが基本だと思います。』(2013年3月21日の就任記者会見より)

岩田規久男副総裁 2015/05/28「札幌金懇ではまさかの「2%に達しない理由」の言い訳が登場とか見苦しいにも程がある」


と華々しくデビューされてから早3年半が経過する岩田規久男副総裁の健在ぶりを拝見するに、日本の政策の形成・執行の各過程で評価を行うチェックアンドバランス機構の強化は急務だなと思わざるを得ませんね。

いやもちろん、制度としてチェックアンドバランス機構を強化することも重要なのですが、こうした事態に遭って、浜田宏一先生やら岩田規久男副総裁を熱烈に支持していた一部のリフレ派と呼ばれる方々や、リフレ派の隠れ蓑を取り払った増税忌避な方々にとっては、その認知的不協和を改善してくれる新たな理論が待ち望まれるところですね。それがMMTなのか内生的貨幣供給システム論なのかよくわかりませんが、その行き着く先が無税国家であることは間違いなさそうです。

2016年11月14日 (月) | Edit |
アメリカの次期大統領にトランプ氏が決定してから、アメリカ国内のみならず日本でも各方面で懸念やら希望やらが示されていまして、私も改めて民主主義の危うさを実感しているところですが、大統領選の決着がつく前に読もうと思っていた本をやっと読んでみて、このような結果につながる流れは随分前からあったのだろうと思います。

その本というのは、fujiponさんのブログで紹介されていた外務省官僚によるアメリカのリポートでして、

 お金が無尽蔵にあるのならば、彼らに十分な援助をしても、文句は出ないでしょう。
 しかしながら、元からアメリカに住んでいて、ギリギリの生活をしている人たちは、不法移民の存在が、自分たちへにまわってくるはずの社会保障費を減らしているのではないか、とか、そもそも、なんで他所から来た連中が「われわれの税金」で助けられるのか?と考えてしまうのです。
 彼らは、アメリカのために何かしてきたわけではないだろう、と。

 トランプ氏は、アメリカ国民が何を望んでいるかを知っている。大量の不法移民の流入とイスラム過激主義によるテロリズムは、アメリカ国民に経済的、そして治安上の、ぬぐい去ることのできない根本的な不安をもたらすものであり、単なる一過性の問題ではない。そして本章で筆者が述べたとおり、移民の問題は格差の問題と密接に絡んでいる、今世紀のアメリカ内政上の最大の問題である。
 この大問題に対する処方箋を何ら示すことなく、冷静になって慎重に判断すべきだと「政治的に正しい(politically correct)」正論を吐くだけの既存の政治家に安心できず、怒りさえ覚える国民がいる。 

 トランプ氏は、このような国民の真っ当な不安感、焦燥感そして怒りに率直に向き合っている。これまでワシントンの経験の長い政治家の「政治的正しさ」にがんじがらめにされた物言いに辟易して政治から離れていた人々が、トランプ氏に帰ってきているのである。それが彼の人気の原動力になっており、この点がトランプ現象の一つの本質である。


 日本でも「生活保護バッシング」をやっている人がいることを考えると、トランプ支持者は「政治的に正しくはない」のかもしれないけれど、自分の気持ちには正直だと言えるのかもしれません。
 そもそも、「政治的な正しさ」というのは、恵まれた人々に押しつけられたものではないのか?

「【読書感想】アメリカの大問題―百年に一度の転換点に立つ大国 ☆☆☆☆(琥珀色の戯言 2016-09-12)」
※ 以下、強調は引用者による。


という引用を拝見して「なるほど」と思って買っておきながら積ん読になっていました。でまあ、拙ブログでも

ついでにいえば、こうした極端な主張をする傾向はフェミニズムとかポリティカル・コレクトネスにも当てはまりそうなところもありますが、その行き過ぎたフェミやらポリコレに対する批判がさらに極端な主張になるところも「経済学的に正しい」ことへの絶対的信頼感のなせる技なのかもしれません。その意味では、行き過ぎたフェミやらポリコレへ極端な批判を繰り広げる方々というのは、「男性正社員が家計を支えているうちは社会保障なんぞ構う必要がないほど生活が保障されるというのが、日本型雇用慣行が有する世界的に特筆すべき優位性」のゆえにこそ存在しうるものといえそうですね。

「経済学的に正しい」ことへの絶対的信頼感(追記あり)(2016年07月09日 (土) )


という懸念を抱いていたところでして、その背景となるものは各国の諸事情に影響されるとしても、世界的な傾向として行きすぎたポリコレやらフェミとそれに対する極端な批判の応報が繰り広げられているのだなと暗澹たる気持ちになっていました。

で、実際に読んでみると、

 第一段階は、1930年代の大恐慌、その後の第二次世界大戦、ベトナム戦争、人種間の対立と、20世紀中盤に次々にと大問題がアメリカを襲ったのに対し、ルーズベルト、トルーマン、ケネディ、ジョンソンと、歴代の民主党の大統領が立ち向かっていった時代である。その中で、政府の役割は拡大し、必然的に「大きな政府」につながっていった。
 これらの民主党政権では、アメリカの超一流の知性(the best and brightest)を結集すればいかなる問題でも解決できるという、政府の役割に信頼を置く理想主義の雰囲気が底流にあり、多くのアメリカ人がそれを信じた。
 しかし、第二段階になると、第一段階の反動として、このような民主党主導の理想主義に疑念が膨らんできた。特に南部においては、人種間の平等を目指した公民権運動が、「あまりに急進的」と白人の反感を呼び、この保守的な地域を民主党の大票田から共和党の牙城に変えてしまうほどのインパクトをもたらした。これが南部の「政治的大事件」の端緒となる。
pp.97-98

 こうしてウォレスが掘り起こした南部の怒れる白人票の多くは、その後共和党に流れ、民主党に戻ることはなかった。これが南部の共和党科の始まりとなった。70年代には、カーター、90年代にはクリントンと南部出身の大統領が出たが、南部の共和党化の流れは止まらなかった。
 第三段階は、この怒れる南部の白人票に宗教右派が合体して、共和党の強固な支持母体となった1990年代である。
p.99

 以上述べた三段階を経て、「怒れる南部」において、「小さな政府」、白人主導、宗教右派という三つの要素が結合し、共和党内の強力な政治連合が成立した。20世紀後半に南部で繰り広げられた「政治的大事件」の完結である。この経済的利害追求を超え出現した政治的連合は、経済政策に明確な問題意識を有していなかった草の根の信心深い多くの有権者を、中絶、同性婚反対といった宗教上のテーマに引き付けることにより、共和党への投票を増やすことに成功した。
 このような共和党内の草の根の世論に着目して初めて、経済的には「大きな政府」の恩恵を受ける可能性が高い低所得者層の中に、なぜ「小さな政府」を支持する勢力がいるのかという、逆説的な政治行動の理由が明らかになる。宗教心に篤く保守的な心情を大切にする彼らにとって、民主党に投票するという選択はとりにくい。結果的に自らの個人的な経済的利益に反する可能性があっても、「小さな政府」を支持する行動に走るのである。
 なお、この共和党をめぐる「政治的大事件」に並行して、1990年代から民主党の支持勢力の変質も進行した。クリントン政権の中道的政策は、大企業の民主党に対する評価を高めることになる。特に、同政権の低金利政策とIT革命へのサポートに恩恵を受けた、金融界とIT関連企業の間にこの傾向は強かった。
 こうして、共和党が低所得者層に支持を広げていくのに並行して、民主党も企業経営者の支持を獲得していった。それぞれが伝統的支持基盤に加えて、競争相手の支持基盤に手を伸ばしていった構図である。
p.101

アメリカの大問題―百年に一度の転換点に立つ大国
著者 高岡望著 《前ヒューストン総領事》
2016年06月15日
新書判並製
978-4-569-82966-1



ここまでが1990年代の動きですから、既に20年以上にわたって民主党が掲げる「理想主義」的な政治思想への反感が高まっていたことが伺えます。最近話題の「ポリコレ棒」への反感は、アメリカでは既に大きな流れになっていたということかもしれません。その後のITバブルや金融工学の隆盛を経て、「金融界とIT関連企業」といえば、現代の富裕層の代名詞でもあるわけでして、これらの「先進的」な経営者がトランプ氏に対する反対を表明するのは自然な流れなのでしょう。

ドナルド・トランプ氏は、大統領選挙期間中、女性やLGBT、移民、有色人種といったマイノリティについて攻撃的な発言を繰り返していており、多様性を尊重するAppleの方針と合わないのは明らかです。

トランプ氏は、「iPhoneを全てアメリカ国内で製造させる」と語って物議をかもしたり、銃乱射犯が持っていたiPhoneのロック解除に関するFBIの要求をAppleが断固拒否したことに「何様のつもりだ」と批判し、Apple製品のボイコットを宣言するなど、Appleを標的にした発言も目立っていました。

ヒラリー・クリントン陣営の副大統領候補として名前も挙がっていたティム・クックCEOは、トランプ氏の当選阻止が目的とされる会合にも出席していました。

【全文訳】Appleティム・クックCEO、大統領選の結果を受け全従業員にメッセージ(2016年11月10日 19時23分)



しかし、こうした状況を見た低所得者層が、現代の富裕層に対する「怒り」をさらに増幅させるだろうことは想像に難くありません。しかも、そうした富裕層に反感を抱く層そのものが、"We are the 99%"をスローガンに掲げた"Occupy Wall Street"に参加するような(自分自身は必ずしも99%ではないにせよ)再分配支持の「エリート」と、「ティーパーティー」のような自称「良識的な保守派」とに分裂しているというのが、アメリカの現状のようです。

 ティーパーティーは、「小さな政府」という共和党の古くからのテーマの実現を目指す経済的保守主義に立脚した運動である。民主党のオバマ大統領の就任後、2009年から南部の白人を中心に急速に盛り上がった。
 オバマ政権が、初の黒人大統領選出の熱狂の中で「大きな政府」志向の政策、特に、リーマンショック後の大銀行救済策を打ち出したことが、共和党内の草の根勢力に怒りと反発を生み、大きなエネルギーを与える結果になった。なぜ、身の丈以上の借金をして家を買った人や、それを知っていて金を貸した金融機関を、汗水流して働いて国民が納めた税金を使って救済しなければならないのか。というわけである。
(略)
 ティーパーティーの人々は、自分たちがアメリカの良心を代表していると固く信じ、自信満々である。彼らによると、あらゆる世論調査で、アメリカ人の常に4割は、自分を「保守主義者」だと答えているそうだ。「リベラル」とする人は2割しかない。古き良きアメリカを守ろうとする多数派の願いを踏みにじるリベラル派、怒りと非難の対象に値するというわけだ。

高岡『同』p.102-103


これからいろいろとデータに基づいた検証が進められるでしょうけれども、その検証を検証するためにも、こうした背景を踏まえておくことが必要なのだろうと思います。

(付記)
こうしたアメリカの現状を的確に指摘していたマイケル・ムーアのHuffington Postの記事が話題になっていますが、ここで挙げられている5つの理由も本書と同じような内容ですね。まあ、5つめの「5. ジェシー・ベンチュラ効果。」までは本書で指摘されていないのは、さすがマイケル・ムーアというところでしょうか。
「ドナルド・トランプが大統領になる5つの理由を教えよう(投稿日: 2016年07月29日 16時36分 JST 更新: 2016年07月30日 21時09分 JST)
もちろん、マイケル・ムーアはアメリカ人向けに書いているため日本人にはややわかりにくいのですが、本書は日本人向けに日本語で書かれているので、本書を読んでからこの記事を合わせて読んでみると、味わいが深まるのではないかと思います。

という状況を踏まえてみると、こちらもバズっている(らしい)ブログエントリですが、
アメリカのポップスターは、束になってもトランプに勝てなかった(日々の音色とことば 2016/11/10)
ミリオネアでセレブリティなポップスターが肩入れすればするほど逆効果だったのだろうと想像されます。日本でも同じようなことは繰り返されていますから、改めて驚くことでもない…とはいえ、やはり暗澹たる気持ちになることは変わりませんね。

2016年10月30日 (日) | Edit |
数か月前の「「経済学的に正しい」ことへの絶対的信頼感」というエントリで引用したtweet主から新たにtweetがあって、追記しましたのでお知らせします。ついでに、これも以前読んだ本からこのように様々な「経済学的な正しさ」が群雄割拠する現状についてメモしておきます。

 大半のエコノミストの喧伝に反して、経済学には新古典学派の1種類しかないわけではない。本章では少なくとも9つの学派を紹介する。
 これら学派は不倶戴天の敵どうしというわけではない。むしろ互いの境はえてして漠然としている。経済学を概念化し説明する上ではさまざまな方法があること、いずれの学派も優位性を主張したり唯一の真理を自称できないことがわかればいいのだ。


ケンブリッジ式 経済学ユーザーズガイド

ハジュン・チャン著/酒井 泰介訳
ISBN:9784492314609
旧ISBN:4492314601
サイズ:四六判 並製 472頁 C3033
発行日:2015年05月22日


※ 以下、太字下線強調は引用者による。文中の注釈は省略。


いあまあ身も蓋もない指摘ですが、「経済学的な正しさ」というのは「ある考え方に基づいたときの推論」程度に考えるのが吉といえそうです。

で、新古典主義派についてこれも身も蓋もない指摘がされています。

 新古典主義の自由放任主義的結論がさらに強化されたのは、20世紀前半に重要な理論的進歩がみられたことによる。それは社会改善を客観視できるようにする理論だった。ヴィルフレード・パレート(1948~1923年)は、すべての主観的個人を尊重し、他の人を不幸にすることなく一部の人をより幸福にできたときのみが社会改善といえると唱えた。「公益」の名のもとにいかなる個人も犠牲になるべきではないということである。これはパレート基準として知られる考えで、今日の新古典主義経済学における社会改善をめぐるあらゆる判断の基礎となるものである。残念ながら、現実の世の中では、誰かを不幸にしない変更などないに等しい。だからパレート基準現状維持、すなわち自由放任主義にしがみつくうえで格好のレシピとなった。この考えを採用することで、新古典主義学派は強く保守性を帯びた
チャン『同』p.115
※ 太字強調は原文。

 新古典主義派は現状維持に傾きすぎである。個人の選択を分析するうえで、底流となる社会構造——金や権力の配分——を所与のものとして受け入れている。そのためこの学派では、社会を根本から変革せずに行える選択だけを見ている。例えば「リベラル派」のポール・クルーグマンを含む多くの新古典主義エコノミストでさえ、貧酷の低賃金工場の職を否定すべきではない、その代わりはまったく職がないことかもしれないのだから、と主張する。そのとおりだが、それは底流となる社会経済学的構造を疑わないからだ。ひとたびそんな構造自体を変える気になれば、こうした低賃金職の代りはいくらでも考えられる。労働者の権利を強化する労働法、工場への安価な労働力の供給を減らす土地改革、熟練職を創出する産業政策などを導入すれば、労働者にとっての選択肢は低賃金職か失業かではなく、低賃金職か高賃金職かになるのだ。
 新古典主義派では交換と消費に注目するあまり、経済の大きな——そして他の多くの学派によれば最も重要な——部分を占める生産を無視してしまう。この欠点について、制度学派エコノミストのロナルド・コースは、1991年のノーベル経済学賞受賞講演で、新古典主義経済学は「森のはずれで木の実とイチゴを交換する孤独な個人たち」の分析のみに好適な理論と切り捨てている
チャン『同』p.119


私自身も「主流派経済学」と呼ばれる経済学のトレーニングを受けた経験がありますので、拙ブログでもパレート最適を基準とする政策について書いたりしているところでして、「保守」を自認するブログ主としてはなるほどというところです。パレート最適基準に縛られている限り、新古典主義経済学が「底流となる社会構造」を所与のものとして考えるのは避けられないのは、冒頭で追記をお知らせしたエントリでも書いたとおりですね。

これに対して、権丈先生が「かつて世界を東西の真っ二つに分けて、今につづく人類同士のいがみ合いの思想的基盤を与えた」と指摘されるもう一方の経済学であるマルクス経済学については、アダム・スミスらによる古典主義では固定的と考えられていた階級を、マルクス経済学では社会を変革する主体になりうるとした点を重視して、このように指摘されます。

 マルクスはまったくちがう考えを持っていた。彼にとって、労働者らは古典主義者が言うような無力な「烏合の衆」ではなく、社会変化に積極的に取り組むエージェントである。マルクスはそれを「資本主義の墓掘り人夫」と呼び、ますます規模と複雑さを増す工場で組織技術と規律を鍛えられているとした。
 だが、マルクスは、労働者が随意に革命を起こし、資本主義を打倒できるとは考えなかった。機が熟す必要があると考えたのだ。それには資本主義が十分に発達し、制度の技術的要件(生産力)と制度的背景(生産関係)の矛盾がつのらなければならない、と。
チャン『同』p.123

 最後に、しかし決して些事ではないことに、マルクスは資本主義の発展過程において技術革新が持つ重要性を真に理解した最初の主要エコノミストで、それを自らの理論の中心に据えていた。
チャン『同』p.125


引用した1点目については、厨先生の『不平等との闘い』ではむしろ「古典派・マルクス的想定」と「新古典派」が対比されていましたが、階級を固定的なものと見るかどうかでは古典派とマルクス経済学は共通ではあっても、その階級が社会を変革するかどうかについての見立てでは異なっていて、それが階級闘争という考えにつながっていくかどうかの分かれ目となるのでしょう。
文春新書
不平等との闘い
ルソーからピケティまで
稲葉振一郎
定価:本体800円+税
発売日:2016年05月20日
ジャンル:ノンフィクション


そして引用した2点目を発展的に引き継いだのがシュンペーターだったわけでして、現代のカイカク派が好んで使う「創造的破壊」の起源が、技術革新が可能にした階級闘争によって社会の変革を想定したマルクスにあるというのもなかなかに示唆的ですね。

という本書のこの流れからすると、新古典主義主義、マルクス経済学ときてシュンペーターが来るかと思いきや、次に「デベロップメンタリストの伝統」なるものが登場します。これは、17世紀の重商主義に典型的な「理論的ではないが実用的で折衷的な要素」を引き継いだ考え方であり、ハーシュマンに代表される開発経済学へとその系譜が続くものと位置づけられています。

 先に指摘したとおり、統制のとれた総合理論を欠くことがデベロップメンタリスト伝統の弱点である。万事を解析できるかのような理論に引き付けられるのは人情である以上、新古典主義派やマルクス主義派のようなより体系的で自信を漂わせている学派に比べて、デベロップメンタリスト伝統は大きく見くびられがちだ。
 この伝統は、政府の積極的な役割を唱える他の学派に比べて、政府の失敗をめぐる議論により脆弱である。また特に広範な政策群を推奨しがちで、ひいては行政能力を濫用しやすい。
 これらの弱みにもかかわらず、デベロップメンタリスト伝統はもっと注目されてよい。その重要な欠点すなわち折衷主義は、むしろ強みになれる。世界の複雑性を考えれば、より折衷的な理論の方がその説明に有用かもしれない。第3章で述べた自由市場政策と社会主義政策を独自に取り合わせたシンガポールでの成功は、その好例である。それ以上に、歴史上で生み出してきた実績は、これが空論ではないことを示している。
チャン『同』p.130



そのデベロップメンタリスト伝統が弱点とされる政府の失敗論についても、容赦のない指摘が繰り広げられています。

 政府の失敗論は、経済あるいは市場の論理が政治に——そして芸術や学問など暮らしのその他の領域にも——優先すべきとするものだ。昨今ではとても広く受け入れられており、ほとんど当たり前になっている論だ。だがそこには深刻な瑕疵がある。
 第一に——エコノミスト以外にとっては当たり前だが多くのエコノミストにとっては受け入れ難いことに——そもそも市場の論理を暮らしの他の面に優先させるべき理由がない。人はパンのためにのみ生きているわけではないのだ。
 さらにこの議論は、何が市場に属し何が政治の領域に属するかをきっぱりと分つ「科学的」な方法があると暗に仮定して成り立っている。例えば、政府の失敗論者は、最低賃金規則や幼稚産業に対する関税保護などを、神聖冒さざる市場の論理に「政治的」論理を押し付けるものという。だがこれらの政策を正当化する経済理論は現に存在する。それなら彼らの実態は、他の経済理論に「政治的」とレッテルを貼って貶め、自分の主張が正当なのだ、これこそ経済理論だとばかりに言いつのっているにすぎない
チャン『同』p.364


ここで指摘されているような「経済学者」の皆さんの生態は拙ブログでは何度も指摘しておりましたので、繰り返しになりますが次のエントリなどどうぞ。
おっちょこちょい(追記あり)(2016年06月25日 (土))
歴史の読み違え(2012年05月04日 (金))
マクロとミクロの溝(2009年12月10日 (木))

まあ田舎の下っ端地方公務員ごときが経済学者に楯突くなど畏れ多いとご指摘を受けることも多いのですが、本書の「おわりに」でチャン氏は心強い言葉を記しています。

 プロのエコノミスト(筆者自身も確かにその一人だ)にも反駁を試みるべきだ。経済学に限ったことではないが、真実は専門家の専売特許ではない。第一に、たいていの場合、彼ら自身が合意に達せられない。実にしばしば、彼らは視野が非常に狭く、特定の方向に捻じ曲がっている。専門家の常で、エコノミストもフランス語で言う「デフォルマシオン・プロフェッショナル」すなわち専門バカである。プロのエコノミストではなくても、基本的な経済学の知識と政治的、倫理的、そして経済学的な考えを応用して健全な判断を下せることはいくらでもある。時には、こうした人々の判断の方が、現実に根ざし、視野が広いので、プロのエコノミストに優ることさえある。経済のような重大事をプロに任せ切るわけにはいかない。
 あえて一歩踏み込んで言おう。プロのエコノミスト——そしてその他の専門家——に果敢に論争を挑むことは、民主主義の基本であるべきだ。考えてみてほしい。専門家を盲信すればいいのなら、いったい何のための民主主義か? 半可通ばかりの世の中などゴメンだと思うなら、誰もが経済学を学んで専門家に挑まなければならない。
チャン『同』pp.421-422


まあもちろん、最後の点に関しては民主主義の危うさにも十分配慮が必要だろうとは思うところですが、引用部の前半は諸手を挙げて賛同いたしますので、引き続き節度を持ちながら「プロのエコノミスト」におかしな点があれば指摘していきたいと思います。