2021年07月25日 (日) | Edit |
前回エントリでは準備段階のゴタゴタから90年代サブカルについての雑感を書いてみましたが、半世紀に一度(くらいらしき)自国開催のオリンピック開会式の雑感も記録しておきます。といってもまあ開会式自体にそれほど思い入れがあるわけでもなく、ここに至る経過とその結果がどうなっていたかについての個人的な覚書です。

演出としての見所はいかにも小林賢太郎的なピクトグラムさんだけだったというのが個人的な印象なのですが、この不思議と一貫性がなくこぢんまりとしてメッセージが伝わりにくい内容を見ていると、運営側の皆さんのご苦労が忍ばれてなんともいわれない気持ちになりました。特に、劇団ひとり氏(と荒川静香氏)が各会場の照明をつけていくという演出なのに、なぜかいきなり会場でもない歌舞伎座の舞台にスポットが当たって市川海老蔵氏が登場し、上原ひろみ氏の演奏と特に絡むこともないという展開(中継に映らなかっただけで絡んでいたのかもしれませんが)はどうにも理解が難しいものでした。

準備段階のゴタゴタを巻き起こしたのは、90年代サブカルでアイデンティティを形成していった40〜50代の認識のズレによるのではないかというのが前回エントリで考えてみたことなのですが、2016年開催の誘致を始めた石原慎太郎東京都元知事やそれを引き継いで2020年開催を誘致した猪瀬直樹元知事をはじめとして、実際に開催するまでには当然のことながら40〜50代だけが関わっていたわけではありません。むしろ意思決定の現場にいる年代としては下っ端に位置していて、重要事項の決定権限はもっと上の世代が有していますね。

となると、重要事項を決定する上の年代から見れば、下の年代の中では自分の意に沿う仕事をする者が「優秀」なわけでして、結局そうした組織規範を内部化した者が権限を得ていく状況は、

そしてその職能資格とは、以前のエントリから引用すると、

もちろん「職能資格」が同一組織内でのみ獲得されるものであるため、少なくとも採用時のスタート時点ではすべての正規労働者に等しく与えられますが、それを「長期雇用による経験」によってどこまで積み重ねられるかは正規労働者個々の適性と成果に応じて決まるわけです。しかもその「長期雇用による経験」は強大な人事権として使用者の裁量に任されているわけですから、積み重なる「職能資格」がつまるところジョブローテーションによって獲得される以上、人事異動を含むジョブローテーションによってどれだけ組織の規範を内部化するかが重要になります。平たくいえば、「デキる社員は出世コースを異動する」ということですが、これはメンバーシップ型がトートロジーによって成り立っていることを見事に示した言葉でもあります。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))

という形で、組織の規範を内部化することによって積み重ねられるものであり、したがって、公務員にとっての「責任」が自分の「職務」とイコールである限りにおいて、公務員が責任を果たすということは組織内部の規範に則って職務を遂行することになるわけです。

「全体最適」なる合理主義(2020年02月27日 (木))

という話に繋がってしまうのですが、まあいかにも日本的な意思決定システムによって運営されている大会なのだなと感じます。

週刊文春に2021年3月に掲載された記事でその辺の経緯が書かれていたとのことで、


というtweetを拝見すると、私は課金して読んではいないのでこの方の要約が正確なのかそもそも記事自体に信憑性があるのかは判断がつかないのですが、さもありなんという印象は受けます。それは、former公務員時代に自治体予算でのイベント担当を経験した者として、特に役所が絡むとそれが常態だよなという思いもあるからです。

今回の東京オリパラでもだいぶあからさまになっていますが、どうして役所が絡んでイベントをやるかと言えば、それが地元住民=有権者の印象に残りやすく、選良である首長(たまに議員)にとって実績として認識されることになるからですね。さらにいえば、オリパラでも某広告代理店がやり玉にあがっているように、役所がイベントを実施するといっても有権者の印象に残るようにするために見栄えのいい会場設営とか宣伝が必要ですので、そのノウハウを有する広告代理店に委託するのが通常のパターンとなります。

もちろん、受託する側の広告代理店もその意図を十分に把握していますから、首長の実績となるよう様々な工夫を盛り込んだ提案をされます。下っ端で担当していた当時も、上司の指示で「こんなの誰が来るんだろうな」とか「誰が喜ぶんだろうな」と思うようなイベントを企画して委託先の広告代理店にそれを伝えると、見事に各方面の有力者が絡むような内容で提案されてきて、なるほどこうやって喜ぶ人がいるのかと思ったものです。東京オリパラに比べたら文字どおり桁違いの場末のイベントではあったのですが、構図としては基本的に同じなのだろうなと思います。

ただし今回の東京オリパラに関しては、COVID-19の影響を考慮しなければならないという事情がありますよね。この構図に加えて「政治VSクリエイター」と指摘されるような構図が生じたのは、開催が政治的な判断によって1年延期されたことによって、より政治が介入しやすくなったからだろうと思われます。つまり、政治的判断で延期したのだから、延期後の開催についても政治的判断が反映されるべきという理屈が通りやすくなるわけです。さらに付け加えれば、延期によって経費がかさ増しされるわけですから、経費削減の圧力もかかったでしょう。

とはいえ、ここで挙げた政治的判断や予算制約の問題は、それ自体としては至極まっとうな話です。政治の判断として感染拡大を抑え、経費を削減しつつ必要な措置を講じることは当然必要なのですが、問題は「政治が介入」したときに、そうした必要な措置を講じる方向に動くのではなく、政治家が有権者の印象に残ることを優先する方向で動いてしまうことにあります。感染拡大防止という大義名分で政治的な介入がしやすくなったのに、実際に政治が介入したのは有権者が喜ぶ(と政治家が考える)ことに集中し、その介入を受けた組織では、それぞれの意向に沿うような組織規範を有する者が決定権を持つ立場に就いていき、結局船頭多くして船山に上るような状況が生じてしまったのではないかと思います。

そんな各方面からの圧力の中で開会式を運営する事務方からすれば、広告代理店と関係の深いサブカル人脈に頼るしかなかったという事情があるかもしれません。ところがそのサブカル人脈には90年代の露悪的な過去があり、(少なくとも建前上は)普遍的価値を尊重するオリパラの場には相応しくなかったわけです。もちろんこれは、第一義的には運営する組織委の機能不全の問題ではありますが、頼る先が広告代理店しかないという役所のイベント実施体制の問題でもありますし、そもそも有権者の印象に残る(と政治家が考える)ことを優先してしまう現在の政治状況が大きな問題ではないかと思います。もちろん、広告代理店だって政治に翻弄されたともいえるでしょうし、政治と広告代理店と(役所の)組織がそれぞれに依存し合いながら、誰が決めたか分からないような状況で運営されたのが、今回の不思議な開会式だったのではないでしょうか。

なにはともあれ一応開会し、出演者や事務方のご苦労が忍ばれる点は心からご慰労申し上げる次第ですが、有権者が喜ぶと政治が判断したオリパラは開幕したばかりでして、その顛末はじっくり拝見したいと思います。
(付記)
そういえば、入場行進で使われたゲーム音楽メドレーはドラクエから始まっていましたが、さすがに演出上事前公表できないとはいえ、作曲者のすぎやまこういち氏も歌舞伎の演目を披露した市川海老蔵氏もその言動で批判されたことがあるはずでして、小山田圭吾氏や小林賢太郎氏のように事前に公表されていたら開会式が成り立たなかったかもしれませんね。

さらには海外への中継のためらしいですが開会式の開始時刻が夜8時からとなり、必然的に子どもたちによる合唱や聖火リレーが深夜に行われる(なお、聖火リレーに参加した小学生には4日前に依頼があったという報道がありましたが、事前公表できない事情から考えると取材のタイミングが4日前だったのではないかと思われます)など火種は尽きないところですが、まあ競技が始まってしまえばそんな批判も目立たないようですし、当面は安泰かもしれません。
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2021年07月23日 (金) | Edit |
拙ブログには「エンターテインメント」カテがありまして、このカテは真面目に取り上げるまでもないような政治経済ネタが多いのですが、東京オリパラの式典演出を巡るゴタゴタを見ていて、だいぶ昔に学生時代の後輩について

で、大学の後輩の話に戻るけど、彼女もそうやって自分の境遇を追い込んでいくことで自分のキャラを作って創作活動の肥やしにしようとしているんじゃないかと俺には思えるわけです。それは曲を作ってCD売ってライブしてっていう生産活動のために必要なことかもしれんが、逆に言えばそういう事情がなければそこまでする必要のないことでもある。創作活動ってのは自分の人生を切り売りすることだと言ってしまえばそういうことなんだとは思うんだけど、その切りうる人生までを、しかも無自覚に創作してしまっているんだったらかなりイタイ。

「連投することでもないんだが(2006年07月17日 (月))」

なんてことを書いていたことを思い出しました。団塊ジュニアのアラフィフとしては(このエントリを書いた当時はアラサーでしたが)上記の後輩らとバンド活動に明け暮れていた学生時代がまさに90年代で、当時「Quick Japan」も何度か読んでいました。その印象としては、サブカルと一口にいっても音楽からファッション、マンガ、映像(AV)など幅広いジャンルが包含された概念ですので、当時のサブカル系雑誌(「STUDIO VOICE」とか)と同様にそれらの要素がごった煮状態で、特に露悪的(あまり詳細に書きたくないので「露悪的」という言葉で統一します)な記事が多いなというものした。音楽以外にあまり興味がなかったので「Quick Japan」は友だちが読んでいたら借りて読む程度でして、小山田圭吾氏の件のインタビューもリアルタイムで読んだ記憶はありません。私があまり「Quick Japan」を熱心に読まなかったのは、その露悪的な記事に辟易していたからという理由もあります。上記のエントリを書いた2006年当時には小山田圭吾氏の件のインタビューをネットで読んでいたはずでして、そうした90年代サブカルの嫌な空気を改めて思い出しながらこのエントリを書いた記憶があります。

その90年代サブカルをリアルタイムで経験されたロマン優光氏の『90年代サブカルの呪い』は実は未読なのですが、レビュー記事を拝見すると私と同じように露悪的な記事には否定的なようで、同年代でも同じ思いを持っていた人がいたのだなと少し安心しました。

90年代はこのような振る舞いが「炎上」しない、不思議な時代との印象を受けます。なおロマンさんは「いや、当時だってあり得ない話だったのですが」と批判的です(No.1358)。こうしたロマンさんが示す良識のラインにより、読者は事態を解釈しやすくなっています。(あくまで参照枠ですが)

田中ラッコ「悪趣味/鬼畜系ブームとは何だったのか?  ロマン優光『90年代サブカルの呪い』(2021/07/06 21:20)

私の記憶によれば(違う雑誌かもしれませんが)「Quick Japan」では根本敬氏やバクシーシ山下氏とかがこんなひどいことをやる人がいるというマンガや記事を掲載していましたが、根本氏は幻の名盤解放同盟という物議を醸す名称で60〜70年代の露悪的なレコードを収集して発売したり、バクシーシ山下氏はそもそも露悪的なAVで話題になって普通のメディアでももてはやされていました。さらに、学生当時昼夜逆転の生活を送っていた私は「ウゴウゴルーガ」を見てから寝るというのが日課でして、建前上は子供向けの番組にボアダムスや暴力温泉芸者などのコアなバンドの名前が脈絡もなく出てきたり(とうじ魔とうじ氏がレギュラーコーナーを持つころにはだいぶマンネリ化していましたが)、一部のマニアのものだった(と認識されていた)サブカルが世の中に進出し始めたのが90年代ではなかったかという印象です。

という90年代サブカルをある程度関わりつつ冷めた目で見ていた私の感覚からすると、最近のゴタゴタは我々の年代がアラフィフになって社会である程度の決定権を持つようになり、「若い奴らは知らないかもしれないけどすごいことをやってきた俺たちが面白いものを見せてやるぜ」と意気込んで取り組んだ結果、その「面白いもの」の拠り所となっている90年代の空気が時代に合わないことが露呈してしまっているようにも見えます。たとえば、少し年代を遡って60〜70年代のサブカルの担い手の中から裸のラリーズに東京オリパラの音楽をを任せるかといえば、よど号ハイジャック事件を起こしたメンバーが在籍していたバンドの関与が認められるわけないでしょうし、寺山修司と乱闘事件を起こした唐十郎とか麿赤兒のような多士済々(?)が、サブカルだからといって東京オリパラの演出を担当することはおそらくないのではないかと想像します。

一方で、上述の通り90年代サブカルを先導したのは80年代後半から活動している当時30代〜40代の世代でして、小山田圭吾氏や小林賢太郎氏は一回り上の世代と張り合わなければならない立場でした。となると、根本氏やバクシーシ山下氏のような露悪的なインパクトに打ち勝つために、当時20代のサブカルの担い手も上の世代に負けないくらい露悪的に振る舞うことが求められていた風潮があったように思います。これはもちろん自戒を込めて書いているわけですが、私のような団塊ジュニア世代(のサブカル好き)にとって露悪的なインパクトを競い合うことがアイデンティティとなり、決定権を持つ年代となった現在、90年代サブカルがなまじっか世の中に進出してしまったばっかりに自分のアイデンティティとして否定することができなくなり、時代が変わっていることを認識できないでいるのではないかと思われます。

で、冒頭の後輩の話に絡めていえば、90年代に露悪的に先鋭化したサブカルと同時並行的に、90年代後半からは自分探しが強く意識されるようになり、露悪的な現象に対して自分がいかに厳しい境遇にいたかといういわば「被害者」側の独白がもてはやされるようになります。しかしそれは、露悪的なインパクトを競い合っていたメンタリティはそのままに、露悪的なもののカウンターとして「被害者」側であることを強調しただけではなかったかとも思います。その流れの一つが自分の境遇を憐れむようなブログだっために、90年代サブカルの記憶がまだ生々しい2006年当時の私には「自分の境遇を追い込んでいくことで自分のキャラを作って創作活動の肥やしにしようとしている」ように見えたんですね。世代とともに時代の空気が変わっていく中で、2020年代となった現在、90年代サブカルの空気が批判に晒されるのはやむを得ないのでしょうけれども、次に批判に晒されるのは00年代の自分探しが高じた人生の切り売りなのかもしれません。


追記(2021.7.25)
順序が逆になりましたが、ロマン優光氏の『90年代サブカルの呪い』を拝読しました。ロマン優光氏は私と同年代で地方出身ですが、本書によると中高の時代からコリン・ウィルソンやらスプラッター映画やらニューアカやらパンク界隈の悪趣味表現に接しながら、90年代初頭に早稲田大学に入学して上京後、暴力温泉芸者こと中原昌也氏と本格的な音楽活動を開始したというまさに90年代サブカルのど真ん中にいた方です。という筆者による記述からは私が地方の大学で活字媒体を通じて感じていた空気が生々しく感じられ、自己嫌悪を含めた嫌な思い出が蘇ってくる思いでした。

その中で「第三章 メンヘラ誕生」では、私が2006年に後輩のブログを読んで感じたことが「メンヘラ」という形で既に90年代には顕在化していたことが指摘されていて、井島ちづる氏がメンヘラの先駆けとして紹介されていますが、当時の「ロフトプラスワン」界隈の人脈による陰惨な「弄ばれ」方には改めて虫唾が走ります。ロマン優光氏は当時のサブカル界隈がこうした「メンヘラ」を「面白がる」光景を指して、

 そういう男たちはどこにだっているわけで、サブカルっぽいコミュニティにも、バンドっぽいコミュニティにもいるんですよ。こういう出来事が、リベラルな価値観を打ち出している場所で起こることに、他の場所で起こるよりも不快さを個人的に感じてしまうのは、生きづらさゆえに違う価値観があるはずの「場」に逃げ込んできたような女性に対して、外の世界とまったく変わらない搾取が行われるというところでしょうね。本当に気持ち悪いのです。
位置№ 808/2009

コア新書 027
90年代サブカルの呪い
著/ロマン優光



と指摘されていまして、拙ブログでもしつこく指摘している「日本的リベラル」に感じるうさんくささを代弁してもらったように思います。というスタンスの本書では、小山田圭吾氏の「いじめ」を巡る問題についてこう指摘されています。

 両方(引用注:「ロッキング・オン・ジャパン」と「Quick Japan」の小山田氏関連記事)ともリアルタイムで読んだのですが、「なんでこんなの載せているの?」と思った記憶があります。だって、誰も得をしないじゃないですか。加害者は悪く思われる。事実だとするなら、被害者はこのインタビューの存在を知れば、さらに傷つく。それを掲載した雑誌は当然モラルを問われるし、バカだとも思われる。『クイック・ジャパン』の記事などは、被害者とされる人と直接コンタクトを取って小山田氏と対談をさせようとまでしていて、「この想像力のなさはなんなの?」と心底驚かされます。編集者がいじめを善悪ではなく俯瞰で考察するみたいな自分の企画に酔っているだけで、何も考えていないのです。
ロマン優光『同』位置№ 1290/2009

…変な話ですけど、ギリギリのところでモラルを守るというか、モラルを理解した上で(当時としては)ギリギリのところで遊ぶのが悪趣味/鬼畜系だったし、何度も書いてますが、実際に鬼畜行為に及ぶことを推奨していたわけでもないのです。それを鬼畜行為の当事者として、著名なミュージシャンが反省もなく面白おかしく語るというのは、頭おかしすぎなんですよ。当時としても、普通に考えてリスク高すぎです。誰も彼もが時代の空気に浮かれていたとしか思えないし、そもそも流行りに乗っかってみただけで、何もわかってなかったんだと思います。
ロマン優光『同』位置№ 1316/2009

本書は2020年11月の発行ですが、東京オリパラの開会式前1週間に音楽担当として小山田氏が公表されてから湧き上がった批判そのままでして、一連のゴタゴタはこういう批判を事前に管理できなかった組織委の機能不全を示すものといえましょう。その意味では、小山田氏ひとりの問題ではなく、90年代サブカルの中でアイデンティティを形成していった40〜50代の認識のあり方の問題と考えるべきではないかと思います。

ロマン優光氏が「誰の得にもならない」と批判した「Quick Japan」の記事については、当時の担当者の近くにいた編集者の北尾修一氏が、当時の記事のコピーを読み返した上で述懐されているのですが、

いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか
取材&文=北尾修一(百万年書房)2021年7月23日
2021年07月31日 夕方公開終了
※本原稿は、小山田圭吾氏が過去に行ったとされるいじめ暴力行為を擁護するものではありません。

今回みなさんに想像してただきたいのは、この「いじめ紀行 小山田圭吾の回」という記事が成立するまでの流れです。

常識的に考えて、「小山田圭吾さん、『ロッキング・オン・ジャパン』でいじめの話をしてましたよね。あのいじめ自慢話、もっと詳しく聞かせてもらえませんか?」というオファーをして、小山田さん本人、マネージャー、所属事務所がOKすると思いますか? いくら「90年代は悪趣味・鬼畜系ブーム」だったとしても、冷静に考えてそんなことありえないですよね。

このことについて、ここからは考えていきます。

(略)

妄想が暴走しすぎで「大丈夫か?」と思われているかもしれませんが、でも、これくらいのことが小山田さんとM氏の間で起きないと、普通に考えて実現性ゼロのこんな記事、この世に存在しえないと思うんです。
だって、小山田さんはこの記事のために、沢田君の年賀状だけでなく、子ども時代の写真までたくさん貸してくれているんです。自分はいじめっ子だった、という紹介のされ方をする記事に、子ども時代の写真を提供するって……。
これは小山田さんからの、M氏商業誌デビューへのお祝い。そうとでも考えないと、小山田さんがここまで協力的な理由が謎すぎるんです(繰り返しますが、当初は渋っていた企画です)。

また「おまえは小山田圭吾を擁護するのか!」と怒られそうな流れになってきたので、何度も強調しますが、ご自身が謝罪文で述べているとおり、小山田さんはいじめ加害者です。

小山田さんが「過去に行ったとされるいじめ暴力行為」を私は擁護しません。
ただ、この記事から読み取れる小山田さんの(悪ぶっていても)隠しきれない優しい側面については、私は全力で擁護します。

いやまさにロマン優光氏が「編集者がいじめを善悪ではなく俯瞰で考察するみたいな自分の企画に酔っているだけで、何も考えていない」というそのままの経緯に見えます。物事の判別が未熟な学生時代には、人に言えないようなことをしでかしたり、それが目の前で行われているのに傍観していたという経験は誰にでもあると思います(私も皆無とはいいません)。しかし、人の尊厳を傷つけるような行為をした過去を大人になってから赤裸々に語り、たかだか10年程度しか経っていない当事者同士に対談させようとするという企画を、いくらその編集者がいじめサバイバーであっても、加害者側に優しい気持ちがあっても、もう片方の当事者の思いを無視して活字にして公表することは許されるべきではありません。この点についてロマン優光氏は「第六章 根本敬の悪影響」でこう指摘されています。

 生きている人間を取り上げる対象にする場合、人間は作品ではない以上、相手には相手の意思があるし、守らなければならない権利もあります。これはドキュメンタリーとかノンフィクション全般が抱える問題でありますが、現代の視点から根本氏もこういった部分から問われるのは仕方がないことです。それ以上に、根本氏が見いだした「真実」は根本氏にとっての「真実」であって、対象となった人にとっての「真実」ではなく、その言動の意図する本当のことはわからないという部分が問題であるような気がします。根本氏の見いだす「真実」は魅力的でしたが、その意味を与えられた人にとっては、それがいいことだったのでしょうか?
ロマン優光『同』位置№ 1734-1735/2009

ロマン優光氏はあくまでサブカルの中の人としてその範囲で慎重に言葉を選んでいるので、上記の「根本敬」的なものへの指摘もサブカルの特徴として読む限りは当たり前のように思われるかもしれません。しかし、これをアイデンティティとして身につけた40-50代が、東京オリパラという(少なくとも建前上は)普遍的価値を尊重する場で適切にリスクをマネジメントできなかった現実を目の当たりにすると、決して90年代サブカルだけの問題とはいえないだろうと思います。私もまさにその当事者として認識をアップデートしていかなくてはなりませんね。

2021年06月20日 (日) | Edit |
前々回エントリで牧原出先生のフレームワークを引用して「専門家による「ドクトリン」としての政策過程がすっ飛ばされるようになり、「最優先は感染拡大を防止すること」という建前をナチュラルに反故にするムーブに入ってきた感がありますね」と書いたところですが、いよいよそのムーブが現実のものとなっているようです。

まずは6月18日にコロナ専門家有志の会が取りまとめた提言を確認してみますと、「1. はじめに」で

私たちは、2020年オリンピック・パラリンピック競技大会(以下、本大会)の開催の有無やそのあり方について、判断・決定する立場にありません

しかし、国内で既に存在している感染拡大・医療逼迫のリスクに加え、本大会が開催されれば、国内の医療にさらなる負荷がかかる可能性があります。このため、本大会に関連するリスクの評価及びそのリスクの最小化に向けた私たちの考えを述べることが責務だと考え、提言をとりまとめました。

コロナ専門家有志の会「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会開催に伴う新型コロナウイルス感染拡大リスクに関する提言」(2021/06/18 20:07)
※ 以下、強調は引用者による。

として、コロナ専門家有志の会としての立場を明言した上で、「5. 感染拡大リスクを軽減するための選択肢」として、大会前と開会中のそれぞれについて次のような提言がなされています。

(1)政府に対する提言:6月下旬から始めるべき感染拡大リスクの軽減策
③ 開催直前の対応
仮に、本大会の開催直前になって、医療が逼迫する可能性が高まり、緊急事態宣言を出す必要に迫られる状況になれば、予定通りに大会を開催することは極めて困難になってしまいます。そのような事態に至らないよう、感染拡大の予兆を察知したら、時機を逃さずに、また事態の切迫を待たずに、強い対策を躊躇なくとって下さい

④ 期間中の対応
仮に、本大会期間中になって、医療が逼迫する可能性が高まった場合には、時機を逃さずに、また事態の切迫を待たずに、強い対策を躊躇なくとって下さい

(2)大会主催者に対する提言:大会におけるリスク軽減策
① 大会規模の縮小について
既に大会組織委員会におかれては、報道関係者やスポンサー等の数を制限する取り組みを進めておられます。今後も可能な限り、規模が縮小されることが重要です。

② 観客の収容方針について
リスク分析の結果からみると、当然のことながら、無観客開催が最も感染拡大リスクが少ないので、望ましいと考えます。
ただし、観客を入れるのであれば、以下の点を考慮して頂きたいと考えます。

イ) 本大会は、規模や注目度において通常のスポーツイベントとは別格である。従って、観客数を限定するにあたって、現行の大規模イベントの開催基準を適用するのではなく、さらに厳しい基準に基づいて行うべきである

ロ) 都道府県を越える人々の人流を抑制するために、観客は、開催地の人に限る。さらに、観客は、移動経路を含めて感染対策ができるような人々に限ること(例えば、地元の自治体や保護者の同意を得た上で小学生を招くことも一つの選択肢として考えられる)

ハ) 感染拡大・医療逼迫の予兆が探知される場合には、事態が深刻化しないように時機を逸しないで無観客とする

コロナ専門家有志の会「同」

提言の内容としては、主催者であるIOCを始めとして政府に対して現実にとりうる手法のうちでリスクを低下させる選択肢をできるだけ示す形になっています。特に、「強い対策を躊躇なくとって下さい」という文言を繰り返し、「無観客開催が最も感染拡大リスクが少ないので、望ましい」と明記している点は専門家の皆さんの苦心の塊だなというのが個人的な感想です。ここで具体的な対策ではなく「強い対策」と抽象化したのは、開催後の中止の可能性をわずかに残そうという意図があるのではないかと思います。尾見先生は会見でもその点は否定していません。

【詳報】尾身会長が会見 五輪「開催中止」盛り込まず 菅首相が開催表明で「意味なさず」2ページ(東京新聞 2021年6月18日 20時40分)

 Q 五輪の中断という選択肢、勧告を行いうるのか。パラリンピックの選手を招いて、本当に安全にお帰りになっていただけるか。
 尾身氏 中断をすることがあるかと言うことですけど、私は、本当に、ないことを願っていますけど、つい最近までの大阪のような状況が生じた場合には、五輪を続けるのは難しくなると考えます。
 開催を中止するというよりは、そういうことになる前に、ある程度、予兆というのは分かるんです。いろんなデータを詳細に見ているので、悪くなるのか、改善するのか大きな傾向は分かる。途中で中断ということにならないように、深刻な状況が生まれる前に対策を打つ。躊躇なくやっていただきたいというのが提言の重要な点


もちろん、WHOで各国政府と「交渉」してきた経歴を持ち、政府の新型インフルエンザ等対策有識者会議で、新型インフルエンザ等対策有識者会議、基本的対処方針等諮問委員会それぞれの会長、新型コロナウイルス感染症対策分科会の分科会長を務められる尾見先生の知見が、この「提言」に強く反映されているものと考えます。

と、ここで「交渉」と「提言」を使い分けてみましたが、尾見先生がWHOにおいて各国政府と行ってきた「交渉」は、強制力を持つ法によって担保されたものではなかったわけでして、その中であくまで専門的見地からのお願いを聞き入れてもらうという行為だったはずです。今回の件についても、同じ国の内部とはいえ、政府の有識者会議が政府を法的な強制力をもってコントロールできないという点において同様といえるでしょう。したがって、今回の「提言」も政府と有識者会議の「交渉」のカードと位置づけることが可能ではないかと思います。といいながら、この「提言」は分科会からではなくコロナ専門家有志の会から出されているわけでして、その経緯についてはこのように説明されています。

Q 提言が分科会ではなく有志で提言した理由は。
 釜萢敏 公益社団法人日本医師会常任理事 この議論については、いろんなメンバーと話をしてきた。合意を形成して早く国民のみなさんや組織委、政府に対して見解を申し上げるという段になって、どのような形を協議する中で、今回はこのような形になった。名前が出ていないが、議論の取りまとめに尽力したかたもいる。
 尾身氏 なぜ分科会でやらなかったか。政府は分科会には諮らないと再三再四発表していた。今回は、経済活動と感染対策の両立ではなく、感染拡大を防ぐということに集中してやった。
 オリンピック自身は私たちが決めることではない。オリンピックをやれば地域への影響がある。政府への対策に助言してきた者として、言うことがプロフェッショナルとしての責務だと思った。

実は政府は既に「分科会には諮らない」として有識者会議との「交渉」は打ち切ってしまっている状況だったようです。それでもコロナ専門家有志の会として「提言」を行ったことの意義を十分に考える必要があるでしょう。

でもって、この「提言」の中に「中止」という選択肢がなかったことを批判する方々もいらっしゃるようですが、相手ができもしない又はやろうという意思のないことを求めるのは単なる要望であり、交渉ではありません。法的な後ろ盾のない交渉において、要望が意味を持つのは相手との交渉が継続可能である限りにおいてであって、相手ができもしない要望が行われればそれは交渉が継続不能になった、あるいは継続を放棄したことを意味します(逆にいえば憲法で保障されている団体交渉においては、労働組合は法外な要求を行って使用者側の譲歩を引き出すのが常套手段ですね)。

という観点から見れば、コロナ専門家有志の会はまだ政府との交渉を投げ出していないからこそ「現実にとりうる手法」として選択肢を示したのであって、だからこそもし政府や主催者側に「中止」の選択肢があるなら(あるいは専門家として政府との交渉を打ち切る(放棄する)つもりだったなら)「中止」を前面に打ち出した提言となっていたのでしょう。

【詳報】尾身会長が会見 五輪「開催中止」盛り込まず 菅首相が開催表明で「意味なさず」1ページ(東京新聞 2021年6月18日 20時40分)

 尾身氏は、当初の提言には、五輪の「開催の有無を含めて検討して下さい」といった文言が含まれていたと明かした。しかし、菅義偉首相がG7で国際的に五輪開催を表明したことで、「意味がなくなった」として、内容を削ったという。
(略)
 尾身氏は「単にステイホームと言っても、心に響かないというか、限界にきている。意識の面でも経済的な面でもそういうところがあると思う」との認識を示し、五輪・パラリンピックを観客を入れて開催することで、「一生懸命協力している市民に矛盾したメッセージとして伝わり、協力を得られなくなる。警戒心が自然と緩んでしまうリスクがある」と述べた。
(略)
Q 昨日の菅首相の会見で、有観客が既定の事実のように話した後のタイミングで提言したことの実効性は。政府の決定に与える影響は少なくなったのではないか。
 尾身氏 もう観客を入れるという方向で動いているから、無観客は遅いんじゃないかというご意見、分かります。
 リスクを評価するというのが、われわれの責任。われわれの評価をどう採用するかは政府、主催者の責任。責任と役割があきらかに違うと思う。
 無観客の方がリスクが少ないですよ、と言った。しかし、観客を入れるのであれば次善の策として、こうしたことを申し上げている。
 実行するというのは、われわれの仕事ではなくて、リスクを客観的に評価して提出する。決断は政府の役割だし、そういうことをやっていただけたら

尾見先生の発言からは、専門家としての役割と、政策実行や(方法を含む)開催の判断についての責任を政府と主催者側にあることを明確にした上で、政府と主催者側に「現実にとりうる手法」としての選択肢を示した経緯が丁寧に説明されていると思います。そしてその選択肢を示すという行為そのものは、交渉を打ち切る(放棄する)ことが事実上も倫理上も不可能である専門家にとっては、最大限「現実にとりうる手法」でもあったのでしょう。この粘り強い交渉姿勢には改めて敬服する次第です。

この提言についての評価はいろいろあるでしょうけれども、専門家にとって最大限「現実にとりうる手法」と私が感じたのは、会見でも発言のあった「矛盾したメッセージ」というキーワードが「5. 感染拡大リスクを軽減するための選択肢」ではなく、その直前の「4. 6月下旬以降の感染拡大と医療逼迫に関するリスク」の最後尾に記載されているからです。

② 市民が協力する感染対策にとって「矛盾したメッセージ」となるリスク
観客がいる中で深夜に及ぶ試合が行われていれば、営業時間短縮や夜間の外出自粛等を要請されている市民にとって、「矛盾したメッセージ」となります。

感染対策が不十分な状態の観客、応援イベントや路上等で飲食しながら盛り上がる人々など、人流・接触機会の増大を誘引するような映像がテレビ等を通じて流れると、感染対策に協力している市民にとって「矛盾したメッセージ」となります。

こうした「矛盾したメッセージ」が届くことは、人々の警戒心を自然と薄れさせるリスク、感染対策への協力を得られにくくするリスク、さらに人々の分断を深めるリスク等を内包し、その影響は大きいと考えています。

コロナ専門家有志の会「同」

この部分は「観客がいる中で深夜に及ぶ試合が行われていれば」という場面に限定した内容の記載となっていますが、要はオリパラが開催されればほぼ一日中「試合が行われる」わけですから、とどのつまり感染が収まっていない現状において国家を挙げての大イベントを開催することそのものが「矛盾したメッセージ」であり、それ自体がリスクと評価していると個人的には読めてしまいます。専門家が自らに「交渉を打ち切らない(放棄しない)」という制約を課す中で政府と主催者側の姿勢を最大限批判していると思うのですが、まあ政府と主催者側には伝わっていないというかガン無視を貫くようですね。

東京五輪の開会式 観客2万人を上限に検討(Yahoo!Japanニュース 日テレNEWS24 6/20(日) 0:40配信)

東京オリンピックの開会式の観客について、大会組織委員会などは、2万人を上限に検討していることがわかりました。

東京オリンピック・パラリンピックの観客の上限については、政府のイベント開催基準に従って、収容人数の50%以下であれば1万人まで認めることで検討していますが、開会式のみ2万人を上限とする方向で調整していることが関係者への取材で分かりました。

ということで、マスコミの皆さんはすでに開催を前提としてオリパラを盛り上げる方向に掌を返して切り替えているようなのですが、そのマスコミの皆さんに対しても専門家有志の会は容赦がありません。

日本新聞協会会長 丸山昌宏殿
日本民間放送連盟会長 大久保好男殿

オリンピックそしてパラリンピックは、一大「メディア・イベント」であり、平時であれば祝祭として挙行されてきました。

しかし現在、日本社会そして世界は、感染者を減らし一人でも多くの命を救うため、薄氷を踏む感染対策を行っている最中です。今回の東京オリンピック・パラリンピック(以下オリパラ)が実施されるならば、メディアは「祝祭を共有しつつも、同時に感染対策に寄与し人々の命を守る」という矛盾したメッセージ機能を実現する、大きな責任を負うと考えます。

この一年あまり新型コロナ感染症対策に取り組んできた者として、私たちは以下の点について、報道各社がそれぞれに工夫していただくことを強く希望します。

1. 人流を抑制するための報道の工夫
「パブリック・ビューイングで熱狂する観衆」や、「地元出身の選手の活躍を皆で集まって応援する人々」、さらには「沿道でマラソンを応援する観衆」といった映像や記事は、現代ではオリパラの報道を構成する要素になっています。しかし、こうした慣習化した報道は、人々に感染症対策のうえで脆弱な行動を喚起しかねず、今回は避けられなければなりません
(略)
上記は、いずれも慣習化したオリパラの報道スタイルに大きな変更を強いることでしょう。競技の報道のなかに感染対策の情報を交えていくことには抵抗感もあるかもしれません。しかし皆さまにおかれましては、この1年以上のコロナ禍のなかでメディアの皆さんが培ってきた伝えかたの工夫や、これまでにないパンデミック下での報道スタイルの発明を通じ、祝祭の中での感染対策という矛盾に正面から向き合い、公器の役割を果たして頂きたく存じます

オリンピック・パラリンピックの際の感染対策を涵養する報道様式についての要望書(コロナ専門家有志の会 2021/06/18 20:05)

3月25日に予定通り(もちろん当初予定からは1年遅れですが)聖火リレーが始まり、6月20日時点で40道府県まで終了したところでして、当地を走った際にも、地元マスコミは聖火ランナーが走る様子を「「地元出身の選手の活躍を皆で集まって応援する人々」、さらには「沿道でマラソンを応援する観衆」といった映像や記事」で大々的に報道していました。

まあ政府も主催者も、そしてそのロジを担当する自治体も含めて大々的に報道せよという姿勢でしょうから、そのプレッシャーを受けたキー局や地元のマスコミだけの責任ではないのかもしれませんが、そもそもコロナ専門家有志の会によるマスコミ向けの「要望書」を取り上げた報道は私の見る限り寡聞にして見当たりません。結局のところコロナ専門家有志の会の皆さんからすれば、マスコミと交渉する立場にはないのであくまで「要望書」とせざるを得なかったのでしょうし、コロナの感染状況を深刻に伝えるニュースの直後に「五輪代表が決定しました!」とハイテンションで伝えるマスコミの皆さんが「祝祭の中での感染対策という矛盾に正面から向き合い、公器の役割を果た」すつもりもないのが分かりきっているのでしょうねえ。

2021年06月11日 (金) | Edit |
50年以上のスパンで回ってくるらしい夏季オリンピック(冬季の長野オリンピックも四半世紀前ですからねえ)の開幕予定がいよいよ1か月半後に迫ってきているこの時期に、未だに開催をめぐって激しく議論が交わされているところですが、まあ改めて伊集院光氏の「24時間テレビ」に対する指摘の的確さを思い起こします。

以下過去エントリの再掲なのであらかじめ補足しておきますと、終戦記念日が近づくとメディアがこぞって戦争体験の悲惨さを掘り起こすわけですが、同じ時期に開催される夏の全国高校野球選手権大会が終戦直後は復興の象徴として盛り上がったという事情は理解できるものの、それが現在にいたるまでほとんど開催方法を変えずに続いている現状をみると、「一時の盛り上がり」がすさまじすぎるとやめるにやめられなくなることが世の中にはよくあることなのだなと考えされられたというエントリです。

私自身は当然、戦後の「盛り上がり」は知る由もありませんし、その「盛り上がり」が戦後の復興の象徴となって日々の生活に励まれた方がどれだけいたかもわかりませんが、新聞の発行部数やテレビの視聴率を稼げるコンテンツとなって久しい現時点において、その仕組みを変えることに多大な労力を要することは想像できます。開始当初はそれなりに意義のあったものが、その意義が薄れても形だけ残っていくとことによって、却って手をつけられなくなるということなのかもしれません。以前も伊集院光氏の24時間テレビに対する評価を取り上げたところですが、今まさにこうした事態が進行しているのでしょう。

「トンチンカンっていうか…もうね、24時間テレビは俺の中で奇祭って感じだから(笑)もう決まりだから、っていう(笑)なんのためにマラソンとかするんだってことに関しては、『そういうもんだ』っていう。こどもの日に、なんで柏餅食ってるんだ?その柏餅の葉っぱを股間につけて、アダムとイブってなんでやるんだ?って(笑)全員が全員、なんでやるって、それが端午の節句なんですってことじゃないですか」

「ハロウィンの日に、なんでかぼちゃをくり抜くの?って言われても、なんか由来はあるんでしょうけど、そんなもんって流すもんだと思うんですけどね。今年の奇祭ぶりがすごいなって思ったのは、テーマの中に、ハンディキャップはあるんだけど頑張ってます、みたいな人を凄く応援してるってテーマが絶対にあるじゃん」

それとともに、地震以降、自分はこのことで勇気づけられて頑張ってます、ってことあるじゃないですか。それと、節電っていうのがあるじゃないですか。その三拍子が奇祭っぽくなってるなって思ったのが、この三拍子が辻褄が合わなくなってるなって思うのが、まず節電っていって、深夜帯も平均17%程度とってることって喜んで良いの?って思うんですよね。だって、テーマが節電だったら、我々はチャリティーをやってますがいったん、テレビを消しましょうってことでしょ?野暮な話をするようですけど。そこが平均の数字を上がりましたよってことと、どういう風に両立するもんなの?って思うことがもう一個」

「あと、ちょうど今、パラリンピックが開催されるでしょ。ちょうどパラリンピック直前って時期に、そこは良いの?そこは行かないんだ?っていう感じ。さらには、北海道で地震があったでしょ?しかも震度5弱っていう、北海道からしたら結構大きな地震がくるんだけど、そこの情報も行かないんだ?って思うあたりが、かなり24時間テレビの奇祭ぶりっていうか、なんか分かんないけど、もはや元々のこととか関係ないっていう

「ただただ、巨大な男根を街道沿いでワッショイワッショイって運んでる状態(笑)元々は、そこの先に神社があって、田んぼのどまんなかだったから、その頃は田んぼに神様が種付けをすると豊作になるってことで男根だったんですけど、今はもうすでに街道沿いにマンションがいっぱい建ってますし、農業がほとんどないんです。だけど、男根はいきます。ただ、素材が軽くなったんですよ、みたいな。そこ?そこなの?みたいな。外国人が見て『Oh!クレイジー、クレイジー!ビッグペ○ス、ビッグペ○ス!ハッハッハ(笑)』みたいな」

「ここの部分だけクローズアップされると、反対派みたいになりますけど、それでも二億八千万って額が困った人に行き渡るってことに対して、まぁそこはそれなんじゃないの?って思って」

伊集院光が語る「24時間テレビの奇祭っぷり」(2012.08.29 (Wed))
※ 以下、強調は引用者による。


いやまさに、どうしてこの時期に2週間程度の日程で全都道府県の代表校が一堂に会して(硬式の)高校野球の日本一を決めなければならないのかという問題に、主催者はどのように答えるのでしょうね。もしかすると、戦時中の制約を取り払って全国の予選を勝ち抜いた高校生が甲子園という聖地に集結して優勝旗を競い合うことが、ある時期は復興の象徴だったのかもしれませんが、それは、発達途上の高校生に世間の耳目を集めさせ、自校や都道府県のプレッシャーの中で自分の身体を酷使することを強いるだけの正当性を有するものなのか、主催者はどのように説明するのでしょうね。

「盛り上がり」だけが残る(2018年08月18日 (土))


1984年のロサンジェルスオリンピックが「商業的に大成功」したころから、夏季オリンピックはアメリカのメジャースポーツが最も盛り上がらない8月開催が定例化しているようでして、それに引き続き開催されるパラリンピックはちょうど24時間テレビが放送される8月末の時期と重なりますが、この当時の24時間テレビはパラリンピックをものの見事にスルーしていたんですね。さすがに開催国となる今回は何らかのタイアップ企画などが予定されているでしょうから、なおさら24時間テレビをやめることも、そもそものオリパラを中止するなんてことも検討すらされないのではないかと思われます。

開催が目的化していく過程は、第1次世界大戦中に発生したスペイン風邪のパンデミックの直後に開催されたアントワープオリンピックを契機として始まったようです。

 アントワープは「平和の祭典」「成功したオリンピック」と今も称される。ただ、それはIOC側の視点。前回、1916年の第6回ベルリン大会が第1次大戦によって中止され、この大会も開催できなければオリンピック活動は足場を失い、霧散しかねない。是が非でも開催するとの強い意思はクーベルタンにあった。しかし、ベルギーは再建途上。財政に事欠き、人々の暮らしもままならない。1年あまりの期間では準備もままならなかった。未完成の競技会場が多く、スペイン風邪流行直後にも関わらず衛生面の配慮も足りず、選手たちの不評をかった。何より、資金難による宣伝不足は市民、国民の関心を呼ばず、空席ばかりが目立つ大会ではあった。
(略)
 ともあれ、このアントワープ大会によってオリンピックは隆盛に向かう足元を固め、日本はオリンピック初メダルによって国際舞台での飛躍につなげていく。やはり継続することの重要さを確認する大会であったことは疑うべくもない

 いまだ新型コロナウイルスの脅威から解放されたわけではない。まだまだ開催に光の見えない状況が続く。それでも「スポーツが国際舞台に返り咲く素晴らしい祝祭」(バッハ会長)とするための準備は続いている。

25. スペイン風邪と第一次世界大戦からの復興~1920年第7回アントワープの光と影【オリンピックの歴史を知る】(笹川スポーツ財団 2020.10.15 佐野 慎輔)


昨年10月の記事ですが、新型コロナウイルス感染症よりも大規模なパンデミックを引き起こした「スペイン風邪」の直後にも、クーベルタン伯爵の「熱意」によりオリンピックは開催され、それが現在まで「何としてでもオリンピックを開催する」というIOCの行動原理となっている様子がうかがわれます。

ただし、「商業的に大成功」したからといって「IOCの利権が」とか「放映権の利権が」という批判はやや単純に過ぎるだろうと思います。というのも、オリンピックの収益の一部はマイナースポーツに分配され、オリンピックで好成績を収めるという直接的な効果もさることながら、競技振興の資金源となっているとのこと。

オリンピックはマイナースポーツのためにあると、私は思っている。正直に言えば、サッカー、テニス、ゴルフにオリンピックは必須ではない。テニスなら全仏オープンやウィンブルドンがあり、そこで優勝するほうがよっぽど価値があるし、サッカーだってワールドカップがある。

でも、馬術やウエイトリフティングなど普段はそれほど注目されないスポーツにとって、五輪は多くの人に見てもらい、全ての選手がスターになれる4年に一度のチャンスになる。それなのに、オリンピックなんてもういいよ、となったら? 多くのマイナースポーツが大きなダメージを受けると思う

山口香JOC理事「今回の五輪は危険でアンフェア(不公平)なものになる(4)」(ニューズウィーク日本語版 2021年6月8日(火)06時40分 西村カリン(仏リベラシオン紙東京特派員))


JOC理事として発言しづらい状況の中で「正論」を述べている山口理事らしく、オリンピックという盛り上がりがスポーツ振興に与える影響を的確に指摘されていると思います。社説でオリンピックの中止を提言(とはいえオリンピックと同時期に主催する夏の全国高校野球選手権大会は中止しないようですが)した朝日新聞の報道とも合致します。

五輪開催に突き進むIOCの本音は 放映権料に分配金…(朝日新聞デジタル 野村周平、斉藤佑介2021年5月10日 17時20分)

 IOCは支出の約9割を、アスリート育成や世界各国の五輪委員会や競技団体への分配に使っているとしている。仮に大会が中止になり、放映権料を払い戻すことになれば、特にマイナー競技の団体は分配金が減って資金難に陥る可能性がある。


という次第でして、オリンピックを中止するという判断をしようにも、オリンピックを当てにしているマイナースポーツへの影響を含めて、あまりに巨大になりすぎて中止することが難しくなっているものと思われます。典型的なToo big to failですね。という事情を踏まえてみると、前回エントリで見たような「感染症対策の専門家である分科会の意見が最優先されるはずであるところ、「総合的」という言葉でもって実際の政策過程においては最優先されていないという実態」があるのも理解できなくはありません。

というか、オリパラをめぐって中止の判断を示さない政府や東京都、そしてIOCを批判するためには、我々の身近で「一時の盛り上がりで続けてしまってやめどころがわからなくなっている行事」とか「Too big to failで止めようがなくなっている案件」をどうやって止めるのか、という具体的な手法を考えるところから始めなければならないのかもしれません。「いや、うちはどんなに盛り上がった行事があっても目的を果たしたらすぐにやめている」とか「関係者が膨大になってしまった案件を各方面が納得する形で廃止したぞ」という経験をお持ちの組織があれば、ぜひその知見を政府や東京都、IOCに示してはいかがでしょうか(残念ながら私の身近にある「全体最適」なる合理主義が浸透した組織には見当たりませんが)。

2021年06月04日 (金) | Edit |
5月14日の緊急事態宣言の発出に当たって、政府側から出された諮問案が分科会での専門家の意見により変更されたことが話題になりまして、5月31日に延長後は来月に開催が迫った東京オリパラがホットイシューになっていますね。拙ブログでも専門家が意志決定に関与することが必要であることは指摘しておりましたが、このような形で意志決定に関与することはあまり望ましい状態ではないように思います。というのも、専門家が意志決定に関与するのはその専門的な知見が課題の解決に必要であるからというのが大前提にあるはずであって、そもそもの諮問案に専門家の意見が反映されていないということ自体が、政府の意思決定において専門的な知見が重要視されていないことを示すものと考えられるからです。

報道を見ている限りですが、現在の政府における専門家の位置づけは政府が原案を策定した案にお墨付きを与えるという役割がメインとなっていて、原案の策定そのものには関与していないのではないかと思われます。このプロセスを理解するためには、牧原先生の『行政改革と調整のシステム』でも指摘されていた通り、戦時体制の強化に伴って「総合調整」が当時の中央官庁の主要な事務として規定され、戦後もその役割を活用する形で理論を制度に落とし込む仕組みが形成されたという歴史的経緯を踏まえる必要があります。詳しくは当時のエントリをご覧頂きたいのですが、大ざっぱに言えば、学術上の「理論」が諮問機関の「ドクトリン」を経て、実際の「制度」として形成されるという政策過程が戦後形成されていきました。

Covid-19対策も基本的にはその延長線上で進められているのですが、90年代の政権交代において「政治主導」が唱えられてからというもの大きく様変わりしています。この政策過程は、政策的な課題が複雑化して関係部署が増えるほどに手間がかかるようになりますし、そのように重層化した政策過程が当初の想定どおり機能しないことも当然ありうる話です。これをことさらにやり玉に挙げて「官邸主導」で「官僚支配を打破する」と意気込んだのが00年代の小泉改革であり旧民主党による政権交代だったわけで、2009年に発行された本書では次のように指摘されています。

 したがって、政治家には情報を掌握した上での判断こそが求められるのであり、「官邸主導」とは、その範囲での官邸の影響力の発揮なのである。政治的任命職は官僚のよきパートナーとして、この過程に参画し、政治家を補佐する。そこで必要なのは、まずは政策の専門知識と、これを一般の国民にわかりやすく解説する言語能力である。対して「調整」の技術とは、制度を知悉した官僚の執務知識にならざるを得ない。現代社会における「政治指導」とは、このような役割分担の中ではじめて機能するものなのである。
 ところが、政治学者からはしばしば、上意下達の「政治指導」が「調整」の障害を突破しうることが強調されてきた。特に、イギリスの議院内閣制を導入することによって、日本でも「総合調整」がより容易になるであろうという見通しが、1990年代の政治改革の中で繰り返し主張されてきた。これは、本書の結論とは、強調の力点が異なる上に、見方によっては正反対の主張に映るだろう。
(略)
 そして、本書のように「行政」の「ドクトリン」を抽出し、その歴史的形成過程を追跡することによって、「政治」の「ドクトリン」の限界が明らかになる。つまり、「政治指導」は、あくまでも「調整」を先取りしていなければ有効に作動しない。その限りで、上意下達の指導ではなく、下意上達すなわち官僚との協力関係が暗黙の内に含まれているのである。ところが、既存の「政治」の「ドクトリン」は、あたかも官僚の協力関係を否定するような身振りを示すことで、マスメディアの支持を得てきた。つまり、説得力を備えてきたのである。だが、その種の説得力は、今後の日本政治が政権交代のある政党システムへと変容する際には有効とは言い難い。長期的に見て、官僚との協力関係なしには、政権担当能力を説得的には示せないからである。官僚との協力がいかなる意味で「政治指導」と両立するのかを解き明かし、それを強靱な「ドクトリン」へと変換することによって、野党が選挙で勝利して政権入りするという政権交代の局面にふさわしい「政治」の「ドクトリン」を構築できる。そのときに、本書のような「行政」の「ドクトリン」への分析方向は、一助になるだろう。
pp.269-270

行政学叢書8 行政改革と調整のシステム
牧原 出 著
ISBN978-4-13-034238-4発売日:2009年09月15日判型:四六ページ数:344頁


※ 以下、強調は引用者による。


とはいえ、一口に「政策過程」といっても、飯尾潤先生が『日本の統治機構』でまとめられたような官僚内閣制だったり省庁代表制だったり政府・与党二元体制という実態を踏まえてみれば、専門家が意志決定を主導することは民主主義の建前からも政治的にも難しいわけで、だからこそどのような意志決定が行われるかという政策過程の議論は重要となります。

政府の諮問案の決定過程がどのようになっているのかは報道などで推測するしかないのですが、こちらの記事で分科会での議論の一部が報道されています。

北海道、岡山県、広島県への緊急事態宣言の発出を巡って、分科会の構成員から出た意見は、変異株の感染拡大への懸念、数値以上の医療の逼迫の厳しさ、国民の行動変容を促すための強いメッセージの必要性――という3つに整理できるという。緊急事態宣言とまん延防止等重点措置の対象は計19都道府県に上るが、全国的な緊急事態宣言の発出については、否定的な見解を示した。

 西村経済再生担当相は、日々専門家らと情報交換しつつ、対策を検討していると言いつつも、分科会で諮問案に異論が相次いだことなどに対し、会見では、「専門家の意見を最大限尊重する気が今の官邸にあるのか」との厳しい質問も飛んだ。「総理とも危機感は共有している。率直な意見をいただいて、やはり専門家の意見を尊重して対応しようということになった。そこに何らかの齟齬があるわけではない」と専門家の意見を軽んじているわけではないと強調。

 他方で、「強い措置については、どの範囲でやっていくかなど、いろいろなことを考えなければいけない。最優先は感染拡大を防止することだが、総合的に考えていくことは当然のこと」とも述べ、感染対策の専門家と政治家では、立場、視点の違いがあることにも触れ、対応の難しさも吐露した。

「諮問案取り下げ・変更迫った、専門家の3つの意見」 | m3.com(レポート 2021年5月15日 (土) 橋本佳子(m3.com編集長))


西村氏の発言からすると、「最優先は感染拡大を防止すること」といいながら「総合的に考え」た結果が緊急事態宣言を発令しないことを提案したといっていることになるわけでして、つまりは「総合的には感染拡大の防止は最優先ではない」といっているに等しいんですよね。まあご本人はそういう意図では発言していないだろうと思われる点こそが、現在の政策過程の問題を端なくも示していると言えそうです。つまり、「最優先は感染拡大を防止すること」であるなら、その感染症対策の専門家である分科会の意見が最優先されるはずであるところ、「総合的」という言葉でもって実際の政策過程においては最優先されていないという実態を表しているものと思われます。

結局は、事実上は経済を優先するという政府の立場を確保するため、「最優先は感染拡大を防止すること」を専門家の議論に委ねた形にして、政策決定の過程において「専門家の指摘により(やむを得ず)緊急事態宣言を発出した」というアリバイを作ることにしたのでしょう。そこには、学術的な知見を政策に適切に反映させようという姿勢より、政策決定に責任を有する政治の場においてその政策の責任を取ろうとしない姿勢が現れているように思われます。

いやもちろん、「専門家の意見を取り入れて総理大臣が方針を変更したのだから政治の責任は果たされている」ということもできるでしょうけれども、そうであるなら東京オリパラの議論においては同じ轍を踏まないようにあらかじめ専門家の意見を取り入れるのかと思いきや、こんなニュースがありました。

田村厚労相 “尾身会長ら専門家の意見 参考になれば取り入れ”(NHKニュース2021年6月4日 11時16分)

田村厚生労働大臣は、閣議のあと記者団に対し「国内での感染リスクが高い行動は、オリンピックであろうとなかろうと、感染拡大につながるので、仮に緊急事態宣言が解除されたとしても自重をお願いするよう訴えたい」と述べました。

また、尾身会長が、東京大会の開催が感染状況に与える影響などを専門家で議論し、考えを伝えたいとしていることについて「専門家が自主的にいろいろ意見を述べることはあると思うので、その中に参考になるものがあれば、政府の中でも取り入れていくことは当然あるが、いずれにしても自主的な研究の成果の発表だと受け止めさせていただく」と述べました。


専門家による「ドクトリン」としての政策過程がすっ飛ばされるようになり、「最優先は感染拡大を防止すること」という建前をナチュラルに反故にするムーブに入ってきた感がありますね。