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2018年08月21日 (火) | Edit |
デスマーチの後遺症もありながらお盆は静養に努めましてすっかり更新が滞っておりましたが、『HRmics vol.30』をご恵投いただきました。いつもありがとうございます。
http://www.nitchmo.biz/hrmics_30/_SWF_Window.html
記念すべき30号でさらに10周年とのことで、裏表紙で告知されている「恩返しDay」も錚々たるメンバーで、海老原さんや荻野さんをはじめスタッフの皆さんが築き上げた人脈の広さと深さに感じ入ります。

という本号の特集は「戦略的人材育成なんて、要らない!」ということですが、拙ブログでは「日本型雇用における管理者養成機能の衰退」というエントリで、

ところが、以前は課ごとに分かれた大部屋の中で、課長から課長補佐、係長、主任などの序列の中に新卒を受け入れ、徐々に管理者としての能力開発と選別を行っていた日本型雇用慣行が、「年功序列で責任の所在が曖昧でスピードに欠ける」との批判にさらされてフラット化しました。その結果、即戦力としていきなり見よう見まねで仕事をこなさざるを得なくなったのが、ちょうど我々のような団塊ジュニア世代ではないかと思います。私自身も痛感するところなのですが、既にアラフォーからアラフィフが見えている団塊ジュニアの世代は、小池和男先生がおっしゃるところの「長期化するトーナメント方式」でつい最近まで部下もいないような平社員として現場に出ていて、残り10数年という段階でいきなり管理職としての役割を求められるようになっています。

もちろん、それまでに管理能力を身につけられる職員もいますが、あまりに現場が長くなってしまうとそのやり方が身についてしまって、自分なら簡単にできる仕事を十分にできない部下に対して高圧的に接してしまってパワハラしてしまう管理職や、目先の目標にばかりとらわれて長期的な次世代の育成まで配慮できない管理職も多くいます。人事担当部署もこれまで強力な人員削減圧力にさらされてきたので、退職者不補充と新卒採用抑制の手法のノウハウはありますが、その少なくなった職員体制でどのように業務を効率化するかという手法は未だに取得できていないのが実態ではないかと。

日本型雇用における管理者養成機能の衰退(2016年12月13日 (火))

と指摘していたところでして、自組織における(管理職を含めて)人材育成としては、以前の日本型雇用慣行においては、大部屋で細かく階層に分かれた職場に中間管理職が多数いて、上司の仕事を見ながら覚えるという仕組みの中で、いわゆる「OJT」に頼りながらそれなりに経営層を育成していたといえると思います。しかし、組織をフラット化して上司と部下の境界があやふやになるにつれて、分厚い中間管理職が消えてキャリアの大半をプレーヤーとして過ごすことになり、マネージャーとしてのスキルを身につけることなく管理職となった上司が多くなっているのではないかと考えております。

本号では、分厚い中間管理職が消えたことによる変化のほかに、日本企業での次世代経営候補としての早期選抜者の育成における「タフアサインメント」に着目して、

 さて、ではこうした早期選抜社に対して、特別な育成プログラムは設けているのか(図表⑦)。
 これについては、5〜10年目社員に対しては2社(33.3%)しか設けておらず、逆にこうした若年層には、一律型のチャレンジ制度を設けている会社が3社(50%)と多数になる。このあたりは日本的なボトムアップ重視といえそうだ。ただし、10〜15年目社員になると、優秀層への特別なOff-JTを施す企業が6社(100%)となる。とはいえ、それは大学教授や識者などによるOff-JTにとどまり、本社主導のタフアサインメントはわずかに1社しか行っていない

(略)

 計画的ではなかったが、結果的に優秀層は難関職にアサインされ続けたという意見が3社あり、計画的配置(本社主導1、事業部主導1)と合わせると、6社中5社(88.3%)が優秀層を難関職にアサインしているということになっている。この辺りの実情をインタビューベースで聞いたところ、優秀層が配置される難関職務とは「本社管理部門」「事業部の経営企画や統括部署」「業界・経営団体」などが多数を占めた。どちらかというとそれは、外形的には「花形部署」に見えるが、たとえば「海外赴任」「新規事業の立ち上げ」「不採算事業の整理」「子会社の役員」などの本当のタフアサインメントと比べれば、修羅場度が低いはずだ
p.07
HRmics vol.30

※ 以下、強調は引用者による。


と指摘されています。ヒアリング対象が大手日本企業で人事(部長以上)を担当していた6名とのことですので、大企業における「本部管理部門」や「事業部の経営企画」は、確かに扱う人員や金額の規模ではタフアサインメントといえましょう。しかし、一方で海老原さんが指摘されるように、それ以上の修羅場というのはもちろん他の職場にもあります。となると、「本部管理部門」などがタフアサインメントとなるのは、上層部からの厳しい注文にいかに応えるかという極めて組織内部的な事情によることになります。そしてそこに、パワハラを駆使するクラッシャー上司が生まれる余地があるのではないかと考えます。部下を恫喝してでも上層部の意向に沿った経営ができる者が「デキる上司」として出世していくというわけですね。

いやもちろん、海老原さんはそのような現状分析で終わらず、GEクロトンビルの牛島氏との対談で、リーダーを他分野出身の映画型とその分野出身のスポーツ型に分類して、業態に応じてそれぞれを育成するべきとの話を踏まえつつ、次世代経営候補の個性に合わせた育成を次のように推奨されます。

 リーダーの育成像など、詳細に作り込む必要はない。まず、どの企業でもあまねく必要なOS的要素を掲げる。次に、業界や企業のコアコンピタンスを乗せる。そして、大まかに時代が必要とする方向性でフェアゾーンを決める。あとは、そのフェアゾーン内で、候補者の個性に応じて育てていけばいい。結果、各人各流の個性が伸び、多様で層の厚いリーダー群が生まれる。その中で、時代に応じて、最適な人を選ぶ。だからこそ、往々にして、先代と時代で経営の方向が大きく変わる「振り子」運動が起き、経営が引き締まる。

『同』p.23


「多様で層の厚いリーダー群」こそは、かつての日本型雇用慣行が得意としていた人材育成ではないかと思います。ところが、層の厚いリーダー群を解体してフラット化したことによって、リーダーとしての役割よりもプレーヤーとしての役割が求められるようになり、層の薄いリーダー群から突如管理職が生みださなければならないという状況に陥っているのではないでしょうか。少数精鋭といえば聞こえはいいのですが、その少数というのは母数が大きいからこそ成り立つのであって、母数を小さくした上で少数精鋭に特化していくと、少数精鋭であるはずの少数者が、精鋭となるために十分なスキルを持っていない(持つことができない)という本末転倒なジレンマに陥るわけです。

いやまあそれにしても、経産省が作成したガイドブックについて、海老原さんが本特集の最後に「果たして経産省はこのガイドに沿って、事務次官育成に取り組んでいるのだろうか」と指摘されていますが、仕事が少なくなって領空侵犯ばかりしている経産省が暇を持て余して「詳細に作り込んでいる」と考えてみれば、さもありなんというところでしょうか。

なお、話はそれますが、宇佐見氏のキャリア官僚についての説明はさすが中の人と思いますが、農水省に根回しなしに農商工連携とか言い出すあたりに経産省特有のお行儀の悪さが全開で、だから経産省不要論が絶えないんだろうなと思うところです。以前経産省が地方交付税の研究会を開催しているのを見てなんのこっちゃと思ったら、地方交付税の仕組みが企業活動に影響を与えるから経産省としても何かいわなければならないとか(いう趣旨が)書いてあって、つくづく総定員法の弊害を感じたものです。権丈先生のこちらもご参照あれ。
不磨の大典”総定員法”の弊」『週刊東洋経済』2010年10月16日号

日本型雇用慣行=グローバル競争?(2013年05月08日 (水))


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2018年08月18日 (土) | Edit |
震災以後、お盆の時期には戦争と震災を結びつけて考えてしまうようになっておりまして、3年前のエントリを改めて思い起こすなどしてみたりしたところ、ちょっと違う感覚を感じました。

その裏返しとしていえば、戦争や大きな災害の体験を共有しない世代にその体験が伝わるというのは、その世代がこの世からいなくなるに連れて一般的な家庭の中では次第に行われなくなるのだろうと思います。というようなことを考えていたところ、すず黄(yellowbell)さんの直近のエントリに共感することしきり。

それよりも、と言うとこれもばちあたりですがそれよりも、戦争時代こどもだった、そして終戦いいえ敗戦時代に青年だった人間たちが胸に抱いてきた、けして口には出さない出せない強烈な挫折感と劣等感、それを知る者がいなくなるという絶望です。
久々に酌み交わしながら、ふとテレビが流す敗戦時のフィルムを見て、玉音放送に額づく人々を見て、もういいじゃないかこんなこと、と目を伏せてチャンネルを変える父親を見ながら、彼の胸中にある「こんなこと」の具体的な意味を聞くことはおそらくこの一生のうちにはないんだろうな、と空になった酒を注ぐのです。

負けたら、何が残るか。
それが忘れられた社会が語る敗戦の空虚さ
に、ちょっと想像をめぐらすおセンチなお盆中日でありました。

http://h.hatena.ne.jp/yellowbell/81820371205138799(※リンク切れ)


うちの親族には「もういいじゃないかこんなこと」というまでの挫折感はないのですが、ご多分に漏れず敗戦後の貧困を味わった劣等感は強烈に残っていると感じます。そこにはおそらく、あの敗戦を経験して60年安保闘争で盛り上がった当時の若者と、集団的自衛権をめぐって盛り上がっている現在の高齢者と同じく、その世代の共通体験があったのだろうと思います。その盛り上がりが自分のことと感じられる場合には、そこに新たな世代が加わっていくのかもしれませんが、そこには共通体験の欠如という大きな差異があります。

世代の共通体験(2015年08月16日 (日))


ここで書いたことそのものは今もってその通りだなと思うのですが、その一方で、「共通体験」がないまま「盛り上がり」だけを共有するという事態はとっくの昔に現実のものとなっていて、その共有された「盛り上がり」があちこちで歪みをもたらしてしまっているのではないかとも思います。

というのも、戦後は新しい憲法の基で新たな制度を作って新しい社会を作った、と少なくともその当事者であった戦後直後に20〜40代くらいの世代は考えていたでしょうけれども、その方々の行動は戦時中の教育や社会において培われたものであって、いくら考え方を変えて制度も変えたと言っても、行動までは容易に変わらなかっただろうと考えられるからです。戦前の日本において名実ともに頂点にあったと考えられる軍隊組織の行動様式は、現在の世の中にはしっかりと残っているわけで、例えば呉海軍工廠で導入された生活給の考え方は、戦後の労働争議での労働者側の要求で実現した電産型賃金体系を経て、職能資格給制度として現在も強く根付いているのは(労働界隈では)周知のところですね。

さらに遡れば、戦時体制の前から始まって毎年その開催の方法や時期について物議を醸す高校野球も、スポーツ医学の概念もなかったような時代に開催された方法が、ほぼそのまま伝統として引き継がれています。今となっては確かに古くさいやり方ですが、むしろ戦時体制で大会が開催できなかった当時の高校生(当時は旧制の中学生ですが)やその関係者にとっては、戦後の新しい社会において、悪しき戦時中の制約を振り払って中止前の開催方法を復活させることこそが、戦後の復興を象徴することだったのでしょう。

とはいえ、戦争という共通体験を失った現在においては、その「盛り上がり」だけが共有され、世間の耳目のもとで、心身ともに発達途上の高校生が選手生命を削るような日程で身体を酷使しながら試合をこなすことによって、自らが所属する組織への忠誠と自己犠牲を強いられ、さらにそれを応援する同級生たちも熱中症の危険性にさらされながら、その熱闘に花を添えるというイベントが、今年で100回目を迎えるまで開催されているわけです。

いやもちろん、野球というスポーツが持つエンタテインメント性があるからこそ、技術的には未熟な高校生の野球であっても人気があるのでしょうし、その中で生まれるファインプレーや超高校級のプレーを見て「感動を呼ぶ」のも心情としてはわからないではないのですが、もはや戦後の復興の象徴としての意義が薄れている中で、戦前と同じ形態で開催する必要性も同時に薄くなっているというべきではないかと思います。

私自身は当然、戦後の「盛り上がり」は知る由もありませんし、その「盛り上がり」が戦後の復興の象徴となって日々の生活に励まれた方がどれだけいたかもわかりませんが、新聞の発行部数やテレビの視聴率を稼げるコンテンツとなって久しい現時点において、その仕組みを変えることに多大な労力を要することは想像できます。開始当初はそれなりに意義のあったものが、その意義が薄れても形だけ残っていくとことによって、却って手をつけられなくなるということなのかもしれません。以前も伊集院光氏の24時間テレビに対する評価を取り上げたところですが、今まさにこうした事態が進行しているのでしょう。

「トンチンカンっていうか…もうね、24時間テレビは俺の中で奇祭って感じだから(笑)もう決まりだから、っていう(笑)なんのためにマラソンとかするんだってことに関しては、『そういうもんだ』っていう。こどもの日に、なんで柏餅食ってるんだ?その柏餅の葉っぱを股間につけて、アダムとイブってなんでやるんだ?って(笑)全員が全員、なんでやるって、それが端午の節句なんですってことじゃないですか」

「ハロウィンの日に、なんでかぼちゃをくり抜くの?って言われても、なんか由来はあるんでしょうけど、そんなもんって流すもんだと思うんですけどね。今年の奇祭ぶりがすごいなって思ったのは、テーマの中に、ハンディキャップはあるんだけど頑張ってます、みたいな人を凄く応援してるってテーマが絶対にあるじゃん」

それとともに、地震以降、自分はこのことで勇気づけられて頑張ってます、ってことあるじゃないですか。それと、節電っていうのがあるじゃないですか。その三拍子が奇祭っぽくなってるなって思ったのが、この三拍子が辻褄が合わなくなってるなって思うのが、まず節電っていって、深夜帯も平均17%程度とってることって喜んで良いの?って思うんですよね。だって、テーマが節電だったら、我々はチャリティーをやってますがいったん、テレビを消しましょうってことでしょ?野暮な話をするようですけど。そこが平均の数字を上がりましたよってことと、どういう風に両立するもんなの?って思うことがもう一個」

「あと、ちょうど今、パラリンピックが開催されるでしょ。ちょうどパラリンピック直前って時期に、そこは良いの?そこは行かないんだ?っていう感じ。さらには、北海道で地震があったでしょ?しかも震度5弱っていう、北海道からしたら結構大きな地震がくるんだけど、そこの情報も行かないんだ?って思うあたりが、かなり24時間テレビの奇祭ぶりっていうか、なんか分かんないけど、もはや元々のこととか関係ないっていう

「ただただ、巨大な男根を街道沿いでワッショイワッショイって運んでる状態(笑)元々は、そこの先に神社があって、田んぼのどまんなかだったから、その頃は田んぼに神様が種付けをすると豊作になるってことで男根だったんですけど、今はもうすでに街道沿いにマンションがいっぱい建ってますし、農業がほとんどないんです。だけど、男根はいきます。ただ、素材が軽くなったんですよ、みたいな。そこ?そこなの?みたいな。外国人が見て『Oh!クレイジー、クレイジー!ビッグペ○ス、ビッグペ○ス!ハッハッハ(笑)』みたいな」

「ここの部分だけクローズアップされると、反対派みたいになりますけど、それでも二億八千万って額が困った人に行き渡るってことに対して、まぁそこはそれなんじゃないの?って思って」

「伊集院光が語る「24時間テレビの奇祭っぷり」(2012.08.29 (Wed))」
※ 以下、強調は引用者による。

いやまさに、どうしてこの時期に2週間程度の日程で全都道府県の代表校が一堂に会して(硬式の)高校野球の日本一を決めなければならないのかという問題に、主催者はどのように答えるのでしょうね。もしかすると、戦時中の制約を取り払って全国の予選を勝ち抜いた高校生が甲子園という聖地に集結して優勝旗を競い合うことが、ある時期は復興の象徴だったのかもしれませんが、それは、発達途上の高校生に世間の耳目を集めさせ、自校や都道府県のプレッシャーの中で自分の身体を酷使することを強いるだけの正当性を有するものなのか、主催者はどのように説明するのでしょうね。

(付記)
このエントリをアップする際に気になっていながら書き漏らしたのですが、これは上記の高校野球とは逆のパターンで厄介ですね。

 ヤノベさんが、立像を制作したのは2011年。東日本大震災と原発事故が起きた年だ。ヤノベさんは制作意図について「人々を勇気づけるような作品を作りたいと思った」とホームページにつづっている。完成した立像は、12年の福島現代美術ビエンナーレで福島空港に展示されるなどして県民を励ました。7年余前に制作した作者の気持ちに一度、思いをはせてみてもいいのではないか

 一方で、防護服姿で線量計を身に付けている立像について風評被害を心配する意見があるのも分からないわけではない。市は立像について「希望の象徴」として展示したとしている。木幡浩市長は「原子力災害の真実を心に訴える力をもって語り継ぎ、発信するのは、福島にしかできない」とコメントしている

 市は、立像を設置した理由や作品の内容について詳しく丁寧に説明する必要がある。今回の反響は、福島市の復興が進む現状や放射線に対する正しい知識を、国内外の人たちに理解してもらうチャンスと捉えて、さらなる情報発信に努めてもらいたい

「【8月18日付社説】サン・チャイルド/賛否を福島の未来への糧に(福島民友 2018年08月18日 08時28分)」

震災直後の放射性物質への恐怖を煽った方々は今もその考えを改めていないようですが、その当時に「人々を勇気づけるような作品を作りたいと思った」という作者の気持ちに思いをはせてみれば、まあ放射性物質への恐怖ということなんでしょう。それが7年経った現在でも「人々を勇気づける」のかどうかは、現在の状況に思いをはせる方が重要なのではないでしょうか。それにしても情報発信がお仕事の新聞社が市に対して「情報発信に努めてもらいたい」とおっしゃるのは、それはまあ立像を設置するに至った経緯等の行政情報であればわからないではないですが、「復興が進む現状や放射線に対する正しい知識」であるなら、それはマスコミのお仕事でもあるのではないのかと一度、思いをはせてみてもいいのではないか。

(再付記)
私自身は福島県在住ではないので「7年余前に制作した作者の気持ちに一度、思いをはせてみ」ることはできませんが、当時を思い起こした福島市在住の方が、福島市長へのメールをアップされていましたので、参考までに引用させていただきます。

2011年の秋ですから、まだ混乱は続いていましたが、福島市民は東日本女子駅伝の成功を願い、当日沿道にはたくさんの市民が応援に駆けつけました。フルーツラインでは果樹園経営者が豚汁をふるまい雰囲気を盛り上げ、お年寄りからお子さんまで、選手たちに声援をおくりました。

ところが、開催日の数日前だったと思いますが、防護服を着てガイガーカウンターを持った人たちが現れ、市内の側溝の上などの線量を測り始めたのです。福島市民は防護服を着る必要などまったくない環境にありました。そこに、突然現れた防護服姿の人たち。そして、防護服を着て線量を測っている姿を写真に撮り「こんなに高い!」とネットにアップしたのです。側溝の真上にガイガーカウンターを置けば、ある程度の数値は出ます。でも、その数値は1時間そこにいたときの数値であり、1時間いても問題は無く、まして、通り過ぎる選手に影響はありません。

しかし、その防護服姿のひとたちの中には、東日本女子駅伝を「殺人駅伝」と言って攻撃するひともいました。私は、あのときの悔しさは忘れられませんし、心の中に深い傷となって残りました。防護服とガイガーカウンターにはそういう苦しい思い出が重なるのです。まったく福島市では着る必要の無い防護服を着て現れたひとたちは、そこに普通に暮らすひとたちの尊厳を深く傷つけたと思います。その後も、間違った知識で「福島には暮らせない」と言われたりしました。そういう中で、7年かけて少しずつ心の傷を修復してきました。

ところが、それから7年後、突然、防護服を着て線量計を身につけた巨大な物体が福島市に登場しました。そして、それは復興のシンボルだと言われました。私には2011年秋の防護服姿とガイガーカウンターの再来に思えました。見たくない!それが正直な感想でした。やっと修復されてきた傷がまた開きました。

やっとやっと普通にもどれたのに、いやなことを忘れて暮らせるようになったのに「思い出せーー!」と肩を揺さぶられたような衝撃でした。福島市に暮らす人たちはいろんな形で傷ついてきたと思います。どうか、その傷口をえぐるようなことはしないでください。

2018.08.18 Saturday福島市長 木幡浩様(Restart)



2018年08月06日 (月) | Edit |
医師養成校であるところの医学部の入試において、性別や受験回数によって点数を操作していた実態が明らかになったそうで、いやまあ日本の医療従事者の労働環境を考えればそれなりに合理性のある話ではありますが、「合理性があればいいじゃないの」というのは経済学徒ぐらいでしょうから、こうして問題が明らかになって批判が集まるのは改善に向けた第一歩といえるかもしれません。

東京医大、女子受験生を一律減点…合格者数抑制(読売新聞 2018年08月02日 06時00分)

 東京医科大(東京)が今年2月に行った医学部医学科の一般入試で、女子受験者の得点を一律に減点し、合格者数を抑えていたことが関係者の話でわかった。女子だけに不利な操作は、受験者側に一切の説明がないまま2011年頃から続いていた。大学の一般入試で性別を対象とした恣意しい的な操作が明らかになるのは極めて異例で、議論を呼びそうだ。

 東京地検特捜部も、文部科学省の私大支援事業を巡る汚職事件の捜査の過程で、同大によるこうした操作を把握しており、同大は現在、内部調査で事実関係の確認を進めている。

 同大医学科の今年の一般入試は、数学・理科・英語のマークシート方式(数学の一部を除く)で1次試験(計400点満点)を実施。2次に進んだ受験者が小論文(100点満点)と面接を受け、1次の得点と合算して合否が決まった。


拙ブログでは、3年ほど前のエントリですが、

医療従事者はバブルがはじける前から深刻な人手不足を超人的、というより廃人的な長時間の勤務実態で医療サービスの現物給付需要をカバーしてい」るというのは、医療機関には官民問わず強力な労働組合が存在していまして(その労働組合は「医者とコメディカルのヒエラルキー」という労働者側の労労対立の産物でもあるわけですが)、その強力な組織力によってそれなりに高い賃金水準を確保しているという実態があります。その点で長時間・重労働の勤務実態があってもそれなりにサービスの供給体制は維持されているのですが、労働組合が見向きもされなくなった時期に就業者が拡大した介護労働では、低い賃金水準で長時間・重労働の勤務に従事しなければならないのですから、供給体制が維持できなくなるのもまた宜なるかな

カネを出さずに済ませようとする日本的ソリューション(2015年12月18日 (金))

※強調は引用時。

医療と福祉の現場ではどちらも人手不足が深刻な状況となっておりますが、前者はすでにそれなりの供給体制がある中で、特定の診療科や時間帯の従事者不足が課題となっているのに対し、後者ではそもそも介護需要に見合うだけの人手を確保できず、介護施設への入所が制限される状況となっているのは周知のところでしょう。

私自身は東京医科大学の操作を擁護する気はありませんが、東京医科大学が女性の入学を入試結果の通り認めた場合、介護施設と同じように、資格はとったけど仕事を続けられないという潜在資格者が増えてしまい、需要に応じた医療サービスを提供できないという事態が生じることは想像に難くありません。介護資格に比べれば医師資格の取得にかかるリソースは高価かつ貴重であるわけで、潜在資格者を増やすのではなく潜在資格者にならなそうな者を入学させようと考えるのは合理的な判断です。

介護サービスが制限されることはそれなりに社会問題化して久しいものの、未だに家庭が担うべきという風潮も強いため、需要者側が仕事を辞めて介護をすることで需要そのものを制限することとなり、結局その待遇改善の動きはだいぶ鈍くなっています。それに対して、医療サービスの場合は往々にして人命に関わることもあるため、医療サービスが制限されることに対する社会的忌避はかなり強いのが実態となっていて、供給体制があることが前提となって需要は制限されません。つまり、医療と介護の現場では、後者ではサービスが制限されても自己責任で何とかしろという風潮のために供給体制の整備が進まず、前者ではサービスが制限されることそのものへの忌避のために供給体制を越える需要が制限されることなく、結局いずれも需要と供給のバランスが崩れてしまう状況がそのまま放置されているわけですね。

もちろん、日本型雇用慣行は医療と介護の現場にも浸透していますので、需要と供給のバランスが崩れても超過勤務で対応して人員も増やさないし、職務遂行能力が低いとみなされる非正規労働者や社歴の短い労働者の待遇は改善させないという日本的ソリューションの影響も大きいといえます。

というわけで、需要と供給のバランスを調整するための需要側の選好の変更と、人員と待遇を縛っている日本型雇用慣行の修正という両面作戦が必要となるわけですが、今回の問題に対する反応は、両者をごっちゃにするか、片側のみをあげつらって批判するだけに終始しているものが多く、あいかわらず社会保障をめぐる議論は前途多難だなあと思うところですね。

参考までに、医療従事者の需給については、厚労省でその名も「医療従事者の需給に関する検討会」が開催されておりまして、今年5月に出された第3次中間報告では、

3 将来の医師需給推計(全国レベル)について
○ 平成32年度(2020年度)以降の医学部定員の方針については、医学部受験生への配慮の観点から、平成30年5月末までに結論を得る必要がある。このため、第1次中間取りまとめにおける推計方法を基本としつつ、医師の労働時間について幅を持った仮定をおく等、推計方法について一定の見直しを行うとともに、最新のデータを用いて需給推計を行った。

○ 具体的には、まず、供給推計について、第1次中間取りまとめにおける需給推計方法を基本としつつ、以下の点について推計方法の見直し等を行った。
・ 将来の医学部定員数を、平成30年度の9,419人として仮定
女性医師、高齢医師等の仕事量について、一律の数値を乗じて積算するのではなく、就業率や勤務時間についての性年齢階級別データを踏まえ、詳細に算定

○ また、需要推計についても、基礎医学系の大学教員等臨床以外に従事する医師を含め、第1次中間取りまとめにおける需給推計方法を基本としつつ、以下の点について推計方法の見直し等を行った。
・ 供給推計と同様に、性年齢階級別の詳細なデータを用いて仕事量を算定
・ 「医師の働き方改革に関する検討会」における「中間的な論点整理」で示される時間外労働規制に関係する意見等を踏まえ、労働時間の見込み方について、週55時間に制限する場合をケース1、週60時間に制限する場合をケース2、週80時間に制限する場合をケース3として、仮に上限規制が適用されたと仮定して推計
・ 労働時間短縮に向けた取組について、AI、IoT 等の ICT を活用した効率化や、医師から他の職種へのタスクシフティング(業務の移管)等が進むことにより2040年までに7%の業務削減を見込む場合をケース1、その達成が2.5年程度前倒しされる場合をケース2、同じく達成が5年程度前倒しされる場合をケース3として仮定をおいて推計

(略)

4 平成32年度(2020年度)以降の医師養成数の方針について
○ 今後、平成34年度(2022年度)以降の医師養成数の具体的な議論を進めていくに当たっては、全国レベルのマクロの医師需給推計だけでなく、ミクロの領域における医師偏在対策や、将来の都道府県毎の医師需給、診療科ごとの医師の必要数、長時間労働を行う医師の人数・割合の変化等についても適切に勘案した上で、人口構造の変化や医療技術の進展など医師を取り巻く環境がこれまでよりも短いスパンで変化していくことも踏まえ、定期的に検討をしていく必要がある。

○ また、その際には、大学の医学部定員について、地域医療の実情に応じた医師偏在対策等の側面を踏まえた配慮が必要である。特に、医師需給を踏まえ、臨時定員増分を削減する場合でも、地域間で医師偏在がある場合には、その偏在に応じた程度まで、地域枠のニーズは残ることになる。こうした医師偏在対策の効果が維持される方策についても配慮が必要である。

○ 平成34年度(2022年度)以降の医師養成数については、以上に示した医師の働き方改革や労働実態、医師偏在対策や医師偏在の状況等を勘案し、定期的に医師需給推計を行ったうえで、将来的な医学部定員の減員に向けて、医師養成数の方針等について見直していくべきである。

「医療従事者の需給に関する検討会 医師需給分科会 第3次中間取りまとめ(平成30年5月31日 医療従事者の需給に関する検討会 医師需給分科会)」※pdfファイル

本報告では医師の養成数を供給推計、医療行為に要する勤務時間を需要推計と呼んでいますが、供給推計において女性医師と高齢医師等の仕事量は1人分とカウントしないで計算していますし、需要推計では外来や入院患者数は一定として、他の医療従事者(看護師や技師等)へのタスクシフティングによる労働時間短縮を見込んで推計しているわけです。

いやもちろん、これは推計であって、実際に女性や高齢の医師の仕事量を時間帯に応じて分担する(タスクシェアリング)とか、電子カルテの入力といった事務作業をタスクシフティングするため医師事務作業補助者を増員するとか、一部の医療行為ができる特定行為看護師を増やして医師の負担を軽減するとかいう取組は、個々の現場に頼らざるを得ないので、それが実現できるかどうかは、その現場の取組をどのように財源的裏付けによって進めるかということに帰着します。

さらにいえば、看護師は女性が多くても何とかなっているから医師も女性が増えて問題ないとかおっしゃる方もいらっしゃいますが、看護師の人数が増えれば負担が減るだろうということで、2006年の診療報酬改定で患者と看護師の割合を最高で7対1まで増員すると病院の収入が増えるという仕組みにした経緯があります。ところがそれで何が起こったかというと、7対1体制とするために各病院が看護師を囲い込んで看護師不足が加速されてしまいました。国は囲い込んだ病院が看護師を減らすよう誘導するため、7対1として算定する基準として看護必要度や重症度を厳格化したり、時間管理を厳格化したりしましたが、収入を確保したい病院側は、7対1を満たすギリギリの人員に抑えて、その中で重症な患者を一定数入院させ、厳密に時間管理するという対応を取ります。その結果、7対1体制の病棟では恒常的に仕事に対して人員が少なくなり、特に重症度の患者が多い病棟では夜勤の負担が増大する状況となっています(この7対1は看護必要度や重症度が高い病棟ですので、大病院では急性期病床が過剰に増えてしまい、回復期病床が不足しているため、病床機能を急性期から回復期へシフトするというのが地域医療構想の肝でもあります)。

ということで、看護師については10年以上前から増員は進められていますが、それは診療報酬による誘導であったため、実態に合わない病床を増やしてしまっています。ただし、夜勤の負担が増えた一方で、夜勤の負担を軽減するための取組として、看護協会では夜勤専従者(日勤しないで夜勤のみ勤務する)の導入も挙げています。
夜勤専従者の「過重負担」を防ぎましょう※pdfファイル
看護協会によると、夜勤専従者は月144時間までの勤務となりますので、8時間の夜勤なら月18日、16時間勤務なら月9日の勤務となり、夜間保育などを活用すると自由な時間が増えるというメリットもあるとされます(実際に「自由」かどうかは別として)。

とはいえ、子育てで短時間勤務する場合は、朝と夕方に1〜2時間程度勤務しない方が多いわけでして、大病院に夕方行ってみると外来が閑散としていることが多いんですが、これは病棟で短時間勤務するのは難しいために外来に短時間勤務者が集中していることの結果だったりします。増員して頭数が多くなっても、育児や介護による短時間勤務者の割合によっては手薄になる時間帯があって、特に夜勤ではそれが深刻な問題となっているわけです。医療従事者の労働環境改善を議論するなら、これくらいの事実は抑えていただきたいところですね。

(付記)タイポが複数ありましたので、一部加筆修正しました。ご指摘いただいた方ありがとうございました。

2018年07月21日 (土) | Edit |
本来業務のデスマーチが一息ついたところで以前のエントリの関連ですが、

公文書というのは例えば課とか係という組織単位で作成して管理するものであるところ、人件費削減の声に押されたそうした組織に公文書管理の担当者を割り当てる余裕は当然ありません。さらにいえば経費削減のため天井が低く空調も後付けのような古式ゆかしい建物で仕事をしている者としては、意思決定資料であるところの公文書を定期的に破棄しなければ建物に入ることすらできなくなるような状況で、ではあるべき公文書管理とは一体何だろうなと思わないでもありません。

というよりむしろ、現場の感覚からいえば、公文書管理は余計な仕事とみなされていて、そのための人件費や施設建設の費用は「行政のムダ」として削減されてきたのではないかというのが正直な思いですね。

制度の不備は職員個人の心がけや自助努力で防ぎなさい(2018年04月07日 (土))

ということを書いていたところ、『市民を雇わない国家』で、日本では他の先進国に比べて格段に早い1960年代から、総定員法によって「小さい政府」に転換していたことを指摘されていた前田健太郎氏が、『現代思想』に論稿を寄せていらっしゃていたようです。

 一般に、先進諸国において「小さな政府」というスローガンが流行したのは、1980年代以降だとされている。公共部門が肥大化し、民間部門を圧迫している。政府の活動範囲を縮小し、経済の活力を取り戻すべきだ。こうしたメッセージに基づく行政改革に乗り出した指導者として、日本ではイギリスのマーガレット・サッチャー、アメリカのロナルド・レーガンなどの名前が挙がることが多い。
 それでは、「小さな政府」の流行にかもかかわらず、諸外国がそれなりの人員を公文書管理に割くことができているのはなぜなのか。その原因の一つは、公務員の数自体が日本よりも多いことになる。歴史的に見れば、どの国でも公務員数は資本主義の発展とともに増加する傾向にあった。1980年代に行政改革の時代が始まると、その傾向は頭打ちになったが、その後も大幅な人員削減は行われず、それ以降の公共部門の規模は概ね維持された。アメリカのように公文書の管理に携わる人員が多い国は、「小さな政府」の時代が始まる前の段階で既に多くの人員を公文書管理のために確保していたと考えられるのである。
 この視点から見た場合、日本は行政改革によって公務員数の増加に歯止めがかかるタイミングがきわめて早い国であった点に特徴がある。元々、日本は欧米諸国に遅れて資本主義の発展を開始した。それにもかかわらず、高度成長期の1969年には総定員法によって国家公務員数が固定され、その後も財政的な理由で定員削減が繰り返されてきた。その結果、日本における国家公務員を含めた公務員数は先進国で最低水準にある。
前田健太郎「「小さな政府」と公文書管理」p.63

 このような文書主義の弊害の多くの部分は、実は民主主義と表裏一体の関係にある。さまざまな政策課題に直面する行政職員は、可能であれば規則に縛られずに柔軟に対応したいと考える。だが、行政職員による最良の行使は、場合によっては権力の濫用として市民からの批判を受け、それによって新たな規則が作られる。だからこそ、行政職員たちは過剰なまでに文書を作り、それを頼りに自らの行動を正当化せざるを得ない。アメリカの行政学者ハーバード・カウフマンがかつて述べたように、民主国家における官僚制の繁文縟礼の根本的な原因は、我々自身なのである。従って、公文書管理を早くから進めてきたアメリカにおいて、官僚制の繁文縟礼に対する不満が著しく強まったことは、ある意味において民主主義の抱える矛盾を示していると言えよう。
前田健太郎「「小さな政府」と公文書管理」p.65

現代思想2018年6月号 特集=公文書とリアル


※ 以下、強調は引用者による。

資本主義が発展する過程では労働者の働きは集約化されるわけでして、労働者が家庭で過ごす時間が減って育児や介護などの家庭機能を維持することが難しくなると、家族機能の社会化が必要となります。というわけで「歴史的に見れば、どの国でも公務員数は資本主義の発展とともに増加する傾向にあった」のはその通りですね。

そして、「行政職員たちは過剰なまでに文書を作り、それを頼りに自らの行動を正当化せざるを得ない」というのは、拙ブログでも

そんな会計検査院とオンブズマンに対する現場の対応としては、規定された手続きに従わなければ違法・不適正とされるわけですから、厳正な手続きを踏んでこれ以上経費を削れませんでしたという根拠となる書類を何枚も用意しなければなりません。さらに、公会計には発生主義という考え方がなく買掛・売掛という処理ができないので、つじつまの合う日付に書類を作り直す作業も常時発生することになります。そうして削られた経費とその処理に要した手間(労働時間、書類作成の経費)の比較こそが、たとえば事業仕分けで判断される必要があるだろうと思うわけですが、実際の事業仕分けは「とにかく経費を削れば、そのために要する労力やら手続き上の資源の浪費は問わない」というスタンスで進められているのは周知のとおり。極端に言えば、1円の経費を削減するためには、時給数千円になる職員が日夜書類作りに追われても構わないということになるんですね(もちろん、定められた手続きをないがしろにしていいという趣旨ではありません。その程度は、あくまで要するコストと得られるベネフィットの比較で決められるべきだと考えます。為念)。

会計検査院とオンブズマンが作る世界(2010年02月22日 (月))

と書いた通りでして、一方では「公務員が多すぎるのは税金のムダづかいだ」という批判と「お役所仕事で融通が利かないから対応が遅い」という批判に挟まれて、公文書管理なんかやってる暇はないというのが役所の実態となっているところです。

というわけで、前田健太郎氏のこの論稿はその通りだなと思うものの、『市民を雇わない国家』については政治学的な分析に偏りすぎていて、公務員の人事労務管理という観点からの分析が希薄にすぎるのではという印象です。

 以上の検討に従えば,日本における公務員の人件費の特徴は,その財政的な統制の難しさにあった.公務員は,身分が保障されているだけではなく,給与も財政当局との交渉とは独立に決まる.それは,自民党政権の「利益配分体系」の外から働く支出拡大の圧力であり,景気と連動するものではあっても,必ずしも長期的に政府の財政規模を拡大させ続けるわけではない.しかし,公務員の給与が民間部門に合わせて設定されるということは,政府が人件費を有効にコントロールできないことを意味していた.こうした性質ゆえに,公務員の人件費は1967年9月に始まる財政硬直化打開運動の標的になったのである.
p.98

市民を雇わない国家
日本が公務員の少ない国へと至った道
前田 健太郎 著
ISBN978-4-13-030160-2発売日:2014年09月26日判型:A5ページ数:328頁

身分保障は雇用保障ではないと何度言えば…、というのはとりあえず措いといて、政治学的な描写としては指摘される通りでしょうけれども、この時期は高度経済成長に対応するため日本型雇用慣行が形成された時期でもありまして、民間では人材確保と給与原資の管理が問題となっていた時期でもあります。そして技術革新に応じた配置転換を円滑に進めるために、年功制を基本とした職能資格給が民間で採用され、民間準拠する人事院勧告を通じて公務員の賃金体系にも影響が現れたというのが実態と言えるでしょう。

特に日本の公務員制度の特徴として、給与制度についてはアメリカの人事委員会制度を参考にしてすべての政府職員を「公務員」としてアメリカ型の職階制を規定する一方で、その運用の理解においてはすべての公務員の雇用を大陸法(ドイツ法)と同じく任用とされるというねじれが生じています。

 公務部門で働く者はすべて公務員であるというのは、戦後アメリカの占領下で導入された考え方である。戦前は、公法上の勤務関係にある官吏と、私法上の雇傭契約関係にある雇員(事務)・傭人(肉体労務)に、身分そのものが分かれていた。これは、現在でもドイツが採用しているやり方である。そもそも、このように国の法制度を公法と私法に二大別し、就労関係も公法上のものと私法上のものにきれいに分けてしまうという発想自体が、明治時代にドイツの行政法に倣って導入されたものである。近年の行政法の教科書を見ればわかるように、このような公法私法二元論自体が、過去数十年にわたって批判の対象になってきた。しかし、こと就労関係については、古典的な二元論的発想がなお牢固として根強い。
 ところが、アメリカ由来の「公務部門で働く者は全員公務員」という発想は、公法と私法を区別しないアングロサクソン型の法システムを前提として産み出され、移植されたものである。公務員であれ民間企業労働者であれ、雇用契約であること自体には何ら変わりはないことを前提に、つまり身分の違いはないことを前提に、公務部門であることから一定の制約を課するというのが、その公務員法制なのである。終戦直後に、日本が占領下で新たに形成した法制度は、間違いなくそのようなアメリカ型の法制であった。それは戦前のドイツ型公法私法二元論に立脚した身分制システムとは断絶したはずであった。
 ところが、戦後制定された実定法が明確に公務員も労働契約で働く者であることを鮮明にしたにもかかわらず、行政法の伝統的な教科書の中に、そしてそれを学生時代に学んだ多くの官僚たちの頭の中に生き続けた公法私法二元論は、アメリカ型公務員概念をドイツ型官吏概念に引きつけて理解させていった。その結果、公務部門で働く者はすべて(ドイツ的、あるいは戦前日本的)官吏であるという世界中どこにもあり得ないような奇妙な事態が生み出されてしまった

濱口桂一郎「非正規公務員問題の原点」『地方公務員月報』2013年12月号


さらに、人事院勧告によって民間の給与体系に準じることとしたために、民間企業で1960年代に普及した日本型雇用慣行としての職能資格給制度が、法に規定された職階制(2016年に廃止されましたが)に代わって適用されることになりました。つまり、GHQはあくまでアメリカ型のジョブ型雇用を国家公務員法・地方公務員法に規定したものの、官公労の労働争議の激化に業を煮やしたマッカーサーが公務員のストを禁止して人事院勧告を導入させたところ、結局ジョブ型雇用によって給与が決まるのではなく、メンバーシップ型雇用によって年功的に給与が決まる仕組みが定着してしまいます。このため、公務員の任用という行政処分における賃金決定は、民間より厳格な年功制に基づくことになり、公務員の年齢構成が高齢化すると自動的に給与原資が増加する仕組みとなっていたわけです。

そして、総定員法が制定された1969年は、民間企業が職能給に舵を切った時期でもありました。

④賃金制度の唱道
 賃金制度の面から見ると、1950年代から1960年代にかけての時期は、使用者側と政府側が同一労働同一賃金制度に基づく職務給を唱道し、これに対して労働側は原則自体は認めつつも、その実施には極めて消極的な姿勢を示していた時期です。
(略)
⑤職能給の確立
 ところが1960年代後半には、事態は全く逆の方向に進んでいきます。一言でいえば、仕事に着目する職務給からヒトに着目する職能給への思想転換です。これをリードしたのは,経営の現場サイドでした。その背景にあったのは、急速な技術革新に対応するための大規模な配置転換です。労働側は失業を回避するために配置転換を受け入れるとともに、それに伴って労働条件が維持されることを要求し、経営側はこれを受け入れていきました。
(略)
 この転換を明確に宣言したのが、1969年の報告書『能力主義—その理論と実践』です。ここでは、「われわれの先達の確立した年功制を高く評価する」と明言し、年功・学歴に基づく画一的人事管理という年功制の欠点は改めるが、企業集団に対する忠誠心、帰属心を培養するという長所は生かさなければならないとし、全従業員を職務遂行能力によって序列化した資格制度を設けて、これにより昇進管理や賃金管理も行っていくべきだと述べています。「能力」を体力、知識、経験、性格、意欲からなるものとして、極めて属人的に捉えている点において、明確にそれまでの職務中心主義を捨てたと見てよいでしょう。
p.111-113

日本の雇用と労働法
濱口桂一郎 著
定価:本体1,000円+税
発売日:2011年09月20日
ISBN:978-4-532-11248-6
並製/新書判/242ページ


それまでは、「国民所得倍増計画」において同一労働同一賃金制度によって生活に要する経費が賄えない分は社会化するという構想があったのですが、

 このほか住宅費用についても詳しく説明していますが、これらを裏返していえば、欧州諸国では公的な制度が支えている子供の養育費、教育費、住宅費などを、日本では賃金でまかなわなければならず、そのために生計費構造に対応した年功賃金制をやめられなくなっているということが窺われます。
 こうしたことは、実は1960年代には政労使ともにほぼ共通の認識でした。それゆえに、ジョブ型社会を目指した1960年代の政府の政策文書では、それにふさわしい社会保障政策が高らかに謳いあげられていたのです。
 例えば、1960年の国民所得倍増計画では、「年功序列型賃金制度の是正を促進し、これによって労働生産性を高めるためには、すべての世帯に一律に児童手当を支給する制度の確立を検討する要があろう」と書かれていますし、1963年の人的能力開発に関する経済審議会答申でも、「中高年齢者は家族をもっているのが通常であり、したがって扶養手当等の関係からその移動が妨げられるという事情もある。児童手当制度が設けられ賃金が児童の数に関係なく支払われるということになれば、この面から中高年齢者の移動が促進されるということにもなろう」とされていました。
p.230
日本の雇用と中高年
濱口 桂一郎 著
シリーズ:ちくま新書
定価:本体780円+税
Cコード:0236
整理番号:1071
刊行日: 2014/05/07
※発売日は地域・書店によって
前後する場合があります
判型:新書判
ページ数:240
ISBN:978-4-480-06773-9
JANコード:9784480067739

結局、生活を保障するのは(民間と公務員の別にかかわらず)使用者であって政府ではないという、世界に類のない小さな政府かつメンバーシップ社会が現出することとなったわけですね。という次第で、いまや「可処分所得を確保するために正社員を増やせ!経済成長のために増税なんてけしからん!」などと知った顔して声高に煽る方々が「経済左派」を自称される世の中になってしまったわけでして、市民を雇わない国家どころか、市民の生活を保障しない国家と人手不足でも職能資格がなければ賃上げをしない社会をつくり出したのは一体誰だったんだろうと考えてみるのもまた一興です。

2018年07月01日 (日) | Edit |
既に各方面で論評されているところですので多くは語りませんがhamachan先生の咆哮が炸裂していたところでして、これまで労働時間規制の重要性をことあるごとに指摘し、やっと法制化が実現使用しようとするそのときに残業代規制のオプトアウトのみを取り上げて法案成立阻止を声高に主張する方々に対する憤懣やる方なさが際立ちます。干支も一回りしてしまった12年前のエントリで指摘されるように、

改めて確認するまでもないのですが、

アメリカ:労働時間規制は全くなし、40時間を超えると賃金が5割増、この賃金の5割増規定に適用除外(ホワエグ)あり。

イギリス:労働時間規制あり(週48時間)、個人ベースで労働時間規制の適用除外(オプトアウト)あり、ただし1日11時間の休息期間あり。割増賃金については一切規制なし。

日本:労働時間規制あり(週40時間)、職場ベースで労働時間規制の適用除外(36協定)あり、ただし上限なし。40時間を超えると賃金が25%増、この賃金の25%増規定に適用除外なし

イギリスのオプトアウトに見合うのは日本の36協定であり、どっちも残業が組み込まれている。彼我の違いは休息期間の有無なんですね。一方、アメリカには日英のような意味での「時間外労働」という概念はない。割増を払うべき時間があるだけ。

問題は、この最後の緑色のところなんです。なんで高給サラリーマンにまで高い残業手当を払わなければいけないのか、というのが、ホワエグの本質なのであって、その意味ではまさに残業代ゼロ労働なのですが、そういう問題意識はイギリスには全くない。だって、残業代をどうするかなんて、法律は一切介入していないのですから

そもそも法律が介入するのは労働時間なのであって、(最低賃金以外は)賃金に介入しないイギリスにおいて、「残業代ゼロ労働」という概念自体存在しないでしょう。

「残業代ゼロ労働って言うな!(2006年12月12日 (火))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))
※ 以下、色文字強調は本文、太字下線強調は引用者による。

労基法上の労働者について労働時間規制に事実上の上限がなく、その代わり超過勤務手当については適用除外がないというこの国の労働法制においては、残業代さえ払えばいくらでも残業させられる状況が長く続いていたところ、今回の法改正によってついに労働時間に罰則付きで物理的な上限規制が法定されたわけでして、まさに歴史的法改正といえます。

その一方で、超過勤務手当のオプトアウトを新たに設けたのがいわゆる高プロであり、これまでもみなし労働時間制のさらに特則として規定されていた裁量労働制の適用対象職種業務の拡大も併せて盛り込まれていたわけですが、その説明が「柔軟な働き方で労働時間短縮」などというおためごかしであれば、そりゃまあ紛糾するのは火を見るより明らかでしょう。特にデータをねつ造してそのおためごかしを押し通そうとした裁量労働制は法改正から削除される事態となったところしでして、その点では政府与党の議論の進め方が全くもって適切ではなかったというべきです。

ここに至る経緯は労政審などの丁寧な議論がきちんと参照されるべきですが、ごく乱暴にまとめてしまえば、これまで事実上の労働時間規制が、実態としては賃金規制でしかない超過勤務手当以外になかったこの国の労働基準法において、初めて物理的な上限規制を罰則付きで設けるに当たって、「日本型雇用慣行で正規労働者の多くが日給月給であって、特に高給な労働者に対しては、その高額な日給月給を基礎とする高額の時間外手当を支払うことの合理性も問われていた」ところ、そのような労働者を超過勤務手当規制の適用除外とするという取引を行ったともいえます。

いやこれは乱暴にもほどがあるまとめ方でして、hamachan先生の最新エントリから引用すると、

濱口:バーター論と言っても、こちら側の合理性である長時間労働規制を何としてでも手に入れるためにしぶしぶ経営側の合理性である残業代規制の緩和を認めざるをえない、という捉え方は少し誤解があります。先ほども申したように、経営側は、天守閣がないなかで成果に基づいて報酬を支払いたいというロジックなので、一定の合理性があるわけです。そこに、現在長時間労働を間接的に防いでいる櫓を壊すのであれば、その代わりに新しい天守閣を作らなければいけないというこれまた合理性のあるロジックを持ち出すことになるので、このバーター論ではそれらの合理性を前提にした、話し合いの余地が十分にあります

濱口:まともな労働法学者が評釈したら疑う余地もなく判旨反対となりますが、一般の意見としてはそんなの当たり前だろうと捉えられてしまう。世の中の大半の人がこれ以外の結論はないと思うことが違法になってしまうような仕組みはおかしいわけです。この例の場合は年収3000万円ですが、これが1000万や800万に引き下げられた場合はどうなのか。そのあたりになると世間の常識がせめぎ合うようになるわけです。高給取りであれば残業代規制に守られていなくても仕方がないという常識による攻撃に櫓がさらされたとき、単に判旨反対では守れません。そこで生きてくるのがバーター論です。物理的な労働時間以外の領域における線引きをどのように釣り合わせていくかという政治的な判断の領域においてはそのような議論が必要になってくると思います



「濱口桂一郎×渡辺輝人「労働時間改革をめぐる実務家と政策論者の視点」@『POSSE』第24号(2014年)(2018年7月 1日 (日))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

天守閣として物理的な労働時間の上限規制を罰則付きで設ける一方で、櫓であるところの賃金規制である超過勤務手当規制にオプトアウト規定を設けることによって、政治的な判断の領域において線引きを釣り合わせるということで労使双方が妥結し、結実したものが今回の法改正であったということもできるのですね。

まあ、交渉による妥結などという言葉を聞くと、原理主義者な「正しさ」のみにプライオリティを置くような方々にとっては唾棄すべきものに思われるのかもしれませんが、現行の法律というのはそうした交渉の結果として得られる利害調整を明文化したものであって、いきなりお上が定めてそれに逆らうとお上に捕まえられて市中引き回しの上打ち首なんて世界の律令ではありません。高プロで過労死が増えるなどとして国会で延々と審議拒否を続けてきた方々は、その高プロに適用される労働時間の物理的な上限規制すら現行では存在しない一般の労働者が、今回の法改正が見送られることによって引き続き過労死のリスクにさらされ続ける事態をわかっていながら、政局に持ち込むことしか興味がなかったように見受けます。そして、したり顔で今回の法改正によって「経営者だけが喜んでいる」とか「政府与党がネオリベ路線で労働者を搾取しようとしている」などと騒いでいる方々は、上記のような現行の労働法における労働時間規制の現状には全く興味がないように見受けます。

いやまあもしかすると、「himaginaryさんがおっしゃるように「「労働政策や所得再配分政策に関する論争が前面に出てくる」状況を目撃することは贅沢なこと」なんですねえ」と思っていたところ、実際にそれっぽい世の中にはなってきているような気がするものの、そういう論争そのものがトンチンカンな議論に終始しているのであれば、あまり贅沢ではないのかもしれませんねえ。

(追記)
本業の方がデスマーチを迎えてすっかり放置してしまい恐縮ですが、本エントリも勢いで書いて細かいところが言葉足らずでしたので、見え消し修正(本文の下線部は加筆または置き換え)しました。hamachan先生にも早速捕捉されておりまして、

…今回の件については論点はことごとく10年以上前に出尽くしていて、それに対していかに論じるべきであり、いかに論じるべきではないかも、10年以上前に全て私が論じ尽くしているにもかかわらず、そういうのをことごとくスルーして、
「たった今までの日本こそが、高度でもプロフェッショナルでもないごく普通の新入社員が無制限の時間外・休日労働にさらされる国であり、それゆえに99年前のILO第1号条約すら批准できない情けない国であり、今回の法改正でようやく、そういう状況から(なお相当に不十分とはいえ)それなりにまっとうな状態に脱却できたのであるということ」
を無視した議論が横行する今の日本の知的世界の退廃ぶりに、正直「憤懣やる方なさが際立」っている所です、ほんとに。

まっとうな、法規制そのもののあり方、法制度そのもののあり方を正面から論ずることが軽薄なマスコミの表面から追いやられ、あたかも今現在の日本で何百人も過労死している人々に適用されている一般労働時間規制が、過労死するはずのないご立派な法制度であるかの如き議論が平然と横行することに、危機感をかけらも感じて居なさそうな専門家と称する人々にも失望しています。


投稿: hamachan | 2018年7月 2日 (月) 10時18分


「『新しい労働社会』岩波新書(2009年)(2018年7月 1日 (日))」コメント欄(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))


マスコミが軽薄な議論に終始するのはまあいつも見ている景色ではありまして、それをデフォルトとしなければならない現状には暗澹たる気持ちにならざるをえないものの、今回の法改正では、裁量労働制の対象業務拡大が外された一方で罰則付きの物理的な労働時間規制が設けられたことは多としなければならないのでしょう。そのような中で、法曹たる弁護士の中に現行法の問題点を等閑視して今回の法改正であたかも労働時間規制が緩和されるかのような議論を煽った方々が一定数いらっしゃったのは、大いに幻滅させられました。紛争を飯の種にする弁護士の方々の就職活動なのだろうかと皮肉も言いたくなるようなひどい状況だったとして、そう明示した上で、現行法規で過労死の危険にさらされ続ける労働者とこそ利害調整していただくとともに、それを煽る一部の労働研究者には、弁護士の職業的なバイアスを指摘していただきたかったと申し上げておきます。

(再追記)
hamachan先生にご指摘をいたただきましたので、追記の一部を見え消し修正いたしました。

(略)…どちらも労働者にとっての正義である中で、民事弁護士にとってより重要性の高い正義(残業代規制)の縮小に異議を唱え、民事弁護士にとってより重要性の乏しい正義(物理的時間規制)の拡大に対して軽視するような態度をとること自体は、それがあたかもアカデミックな労働法学全般にわたる絶対的正義であるかのような言い方をするのでない限り、職業的正義の表出として、私は必ずしも否定的に見ているわけではないのです。それはあって当たり前のバイアスであり、そのこと自体を道徳的に批判すべきものではない。

むしろ、そういう職業的利害によるバイアスを是正すべき立場にある研究者たちの行動にこそ、「正直絶望的な感覚を抱かざるを得ません」というのが本当のところです。

投稿: hamachan | 2018年7月30日 (月) 10時22分

ご指摘の点に賛同いたしますので、民事弁護士の職業的正義の表出を揶揄する表現を修正し、労働者にとっての正義を実現するために、民事弁護士の職業的正義とどちらを優先すべきか利害調整が行われることを望む次第です。

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