2019年09月29日 (日) | Edit |
去年、海老原さんと荻野さんの『人事の成り立ち』
名著17冊の著者との往復書簡で読み解く 人事の成り立ち 新刊
「誰もが階段を上れる社会」の希望と葛藤
海老原 嗣生 著、荻野 進介 著
出版年月日 2018/10/26
ISBN 9784561227175
判型・ページ数 4-6・360ページ
定価 本体2,315円+税

で示された「ジャーナリスティックな労働史観」に触発されまして、
労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))
グラデーションを持った働き方(労働史観の私的推論 後編)(2018年11月11日 (日))
というエントリをアップしたことがありますが、そこで繰り広げた拙論について大変衝撃的な本が出版されていました。

いやもうhamachan先生の「これはいったい何という本だ!と叫んでしまいました」という一言にその衝撃度合いが凝縮されているのですが、

それであれば、それは本書の副題「雇用・教育・福祉の歴史社会学」にぴったりと符合します。しかし、本書の内容はそういうものにもなっていません。なぜなら、小熊さんによれば

・・・ところが、雇用慣行について調べているうちにこれが全体を規定していることが、次第に見えてきた


からです。そこで、

・・・最初に書いた草稿はすべて破棄し、雇用慣行の歴史に比重を置いて、全体を書き直すことになった。


「比重を置いて」、というよりも、これはもはや、日本型雇用システムの形成史に関する、現在の時点の知見の相当部分を包括的に取り入れたほとんど唯一の解説書になっています。小熊さん自身はそういうつもりはなかったようですが、社会政策とか労働研究といった分野の研究者が、細かなモノグラフは書くけれどもこういう骨太の本を書かないものだから、これから長い間、日本型雇用システムの関する定番の本になってしまう可能性が高いように思われます。

小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) 2019年7月13日 (土))


という次第で、昨年書いた拙論で繰り広げた私論について「答え合わせ」するための格好の素材となっていますので、おそらく現時点で一般に入手しうる中でもっとも網羅的な文献として対比させていただきながら、拙論を振り返ってみたいと思います。

1 軍隊組織への「忌避感」

ただし、その「忌避感」のややこしいところは、たとえば「上意下達で暴力がまかり通る軍隊組織はまっぴらごめんだ」と思う人もいれば、「入る時点で階級が分かれていて、昇進する位もあらかじめ決まっているような硬直した軍隊組織はまっぴらごめんだ」という方もいたと推察されるところで、軍隊組織のどこを否定するかという力点によって、新たに形成される制度も変わってきます。上記の例でいえば、前者の忌避感を持つ方より後者の忌避感を持つ方が多いと、「能力に応じて(能力が高まれば)制限なく昇進できる組織とするべきであり、能力を高めるためには上意下達で厳しく部下を指導し、そのために暴力的な指導もやむを得ない」という組織が形成されることになります。

軍隊組織のどこを否定するかということは、言い換えれば軍隊組織のどこを有用と認めるかということですので、特に軍隊組織の当事者であった世代にとって、自分が組織内で果たした役割を全て否定することは忍びなかったということもありそうです。お察しの通り、私はこれがメンバーシップ型雇用を支えるもうひとつの時代背景だろうと考えております。まあ特に当事者の多くが鬼籍に入った現時点においてはこれをアカデミズムの分野で実証しようにもなかなか骨の折れる作業でしょうから、あくまで素人の与太話程度ですが。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))


本書が「アカデミズム」の業績と評価されるかは素人の私にはよくわかりませんが、こういう部分をしっかりと描出しているのが本書のすごみでして、

 これまで述べてきたように、職能資格制度は、軍隊の制度と似ていた。そして、この報告書(引用注:1969年の日経連『能力主義管理—その理論と実践』)を書いた大企業の人事担当者たちも、それに自覚的だった。巻末付録の匿名座談会で、彼らは以下のように話し合っている。

C われわれの職能資格制度、私は旧陸・海軍の階級制というのはまさにそれじゃなかったかと思うんです。少尉、中尉、大尉という階級は職能的でしたよ。
(略)
 だが、彼らは、重要な点を見落としていた。彼らが軍隊にいた時期は、戦争で軍の組織が急膨張し、そのうえ将校や士官が大量に戦死していた。そのためポストの空きが多く、有能と認められた者は昇進が早かった。彼らが述べている「10年たってまだ中尉の人ももう少佐の人もいた」「同じ少尉でも中隊長もいるし、大隊長もいた」という事態は、戦時期の例外現象にすぎなかったのである。
pp.486−487

製品名 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学
著者名 著:小熊 英二
発売日 2019年07月17日
価格 定価 : 本体1,300円(税別)
ISBN 978-4-06-515429-8
通巻番号 2528
判型 新書
ページ数 608ページ
シリーズ 講談社現代新書


『能力主義管理』はいうまでもなく日本型雇用の1960年代の到達点ですが、その中において、軍隊組織との類似性が当事者によってはっきりと語られていたわけですね。そしてそれは、戦前の軍隊組織の例外的な時期と高度経済成長の終焉が間近に迫った1960年代後半という時期の時代的背景との類似性でもあったわけで、その後両者がたどった道も類似しているといえそうです。

お次は内部昇進についてですが、

2 青空とガラスの天井

ということで、さらに素人の与太話を逞しくしてみますと、終戦直後の高度成長期の前段階において、職工に分かれていた処遇を同一化し、「青空が見える」内部昇進を制度化したのは、それが深刻な身分差別と認識されていたからともいえそうです。つまり、戦後の労働運動の中では、労使ともに戦前の専制的な体制を忌避した結果として「青空が見える」組織が目指されたのではないかと。
(略)
そして高度成長期が終わって日本型雇用慣行が普及したころにはすでに、「青空は見えるが、ガラスの天井が低く、その穴も狭くなっている」状況が始まっていて、バブル崩壊後の『新時代の「日本型経営」』における雇用ボートフォリオはその理論武装であったともいえます。そして「ガラスの天井」が低くなり、かつその穴が狭くなったときに、その狭き門をすり抜けることが許されたのは、スキルに習熟した労働者(専門職型)ではなく、組織の規範を内部化したメンバーとしての男性労働者(高度人材)だったのが実情ですね。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))


本書では、戦後の日本において労働者が求めたのは「社員の平等」だったと指摘しておりまして、「青空の見える労務管理」という言葉に関連して、本書ではこう指摘されています。

 こうして「社員の平等」は、少なくとも形式的には完成した。最初に配属された職務が何であろうと、与えられた職務で経営の期待に応えた者は、選抜されて昇進する。いわば、経営の査定が無差別に適用される意味において、「社員」は平等になったのだ。
 日本鋼管の労務担当であり、のちに取締役になった折井日向は、これを「青空の見える労務管理」と形容した。この言葉は、当時の八幡製鉄のスローガンでもあった。義務教育卒の二等兵であっても、与えられた任務で「能力」を評価されれば、将校になれる制度だという意味である。
p.473

小熊『同』


この折井氏の言葉は、1973年の『労務管理二十年—日本鋼管(株)にみる戦後日本の労務管理』の中で述べられたとのことですので、当時はまだ「青空は見えるが、ガラスの天井が低く、その穴も狭くなっている」状態が深刻に受け止められていなかったのでしょうけれども、すでにその運用の限界は見えていたというべきでしょう。

次は「3 「職能資格」の純化」「4 長期雇用と「職務遂行能力」」「5 「職能資格」と規範の内部化」をまとめていきますが、

5 「職能資格」と規範の内部化

さらに注意が必要なのは、「職能資格」は採用時から連綿と積み重なるものであって、メンバーシップにおける管理職としての適性はその「職能資格」によって裏打ちされるという運用になっていることです。「運用」という言葉を使ったのは、結局「青空の見える労務管理」とは上層部にいたる道を通すだけで、その道を通る資格は労働者が自ら獲得するという建前は堅持しているからです。つまり、制度として道は通すが、そこを通るための「職能資格」を獲得するためには、労働者自らがメンバーとしての規範を身につけなければならないということです。

もちろん「職能資格」が同一組織内でのみ獲得されるものであるため、少なくとも採用時のスタート時点ではすべての正規労働者に等しく与えられますが、それを「長期雇用による経験」によってどこまで積み重ねられるかは正規労働者個々の適性と成果に応じて決まるわけです。しかもその「長期雇用による経験」は強大な人事権として使用者の裁量に任されているわけですから、積み重なる「職能資格」がつまるところジョブローテーションによって獲得される以上、人事異動を含むジョブローテーションによってどれだけ組織の規範を内部化するかが重要になります。平たくいえば、「デキる社員は出世コースを異動する」ということですが、これはメンバーシップ型がトートロジーによって成り立っていることを見事に示した言葉でもあります。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))


「できる社員は出世コースを異動する」というトートロジカルな現象が発生するのは、昇進や昇給の対象となる者を厳選する必要があるからですが、結果的に組織運営自体が自らの組織に忠誠な社員によって占められるという状況に至ることになります。そうなった組織が主要な産業を主導し、その雇用慣行が社会規範化しているのがこの国の現状なのですが、「なぜ日本ではペイジとプリンやジョブズやザッカーバーグやベゾスが出てこないんだ」という声を聞くと、まあそうでしょうなという感想しかありませんね。

6 組織のフラット化と「職能資格」の深化

…ということで、いま問題となっているのは、短期的な試行錯誤が続いて長期的には業務そのものの質が落ちているのに、なぜ正規労働者は「青空の見える労務管理」が可能なのかということです。裏返していえば、業務の質が落ちても「職務遂行能力」が高まっていると評価されるのは何故なのでしょうか。その一つの要因として、長期雇用で積み重なるとされている「職能資格」がそれとして純化している現状において、メンバーに求められるのは、仕事そのもの質を高めることではなく、組織の規範を内部化して、組織のためなら自分の生活を犠牲にして理不尽なことも厭わないという「職務遂行能力」を持つことであるということが挙げられます。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))

ここは組織のフラット化に絡めて考えていたのですが、そもそもの職能資格給制度が管理職養成を目的としたものではなく「社員の平等」を目的としたものであるなら、組織のフラット化は結果であって原因ではないということになります。「社員の平等」が目的であるからこそ、意思決定の迅速化の名目の基に、表向きは役職を減らしながら遅い昇進に報いるために職能資格は堅持し、その一方で実態として賃金カーブのフラット化と職能資格の純化が進められたというべきかもしれません。

 そして、急激な高学歴化によって起きた現象がもう一つあった。昇進の遅れである。
 アベグレンは1955年の大手製造企業に、この問題も見いだしていた。日本企業では、大卒職員の全員が幹部まで昇進することを前提に、頻繁な人事異動を行っていた。ところが大卒者が増えたうえ、戦時増産のために職員の採用を増やしていた。
 アベグレンは、「これらの要因によって、現在、日本の大企業のほとんどで、工員と事務員の人数に比較して、管理職とスタッフ部門の職員の数が不釣り合いに多くなっている」と指摘した。日本企業は「課長代理や課長補佐」といった不要なポストを大量に作っているが、そうまでしても、「企業の管理職の昇進が大幅に遅れて」いるというのだった。
p.461

小熊『同』

職能資格が経験年数に応じて上がる限りは賃金は上昇していくのが職能資格給制度ですから、課長とか部長という役職が足りないために昇進が遅くなったのなら、職能資格に見合う「役職」をつくり出して対応したわけですね。

そして小熊氏は、その社会をつくったのは、ほかでもない戦後日本の労働者であったことを指摘しています。

 労働氏の研究者たちは、日本で新卒一括採用や「終身雇用」が定着したのは1960年代だと位置づけることが多い。たしかにこうした慣習が、社会の多数派である現場労働者にまで広まったのは60年代になってからである。
 とはいえ日本の民衆は、新卒一括採用や年功賃金、終身雇用などを、戦前の官吏や職員が享受していることを知っていた。彼らは全員が高校に進学し、全員が「社員」となることで、こうした慣行の適用を大幅に拡大した。それが、「日本の労働者が理解した戦後民主主義」だったといえるかもしれない。
p.448

 こうしたルールは、歴史的経緯の蓄積で決まる。歴史的経緯とは、必然によって限定された、偶然の蓄積である。サッカーのルールは、人間の肉体を使ったゲームであるという必然の範囲内で、積み重ねられた偶然が決めている。それがどうしてラグビーのルールと違うのかは、歴史的経緯の創意という以外の説明はできない。
 こうしたルールは、合理的だから導入されたのではない。そもそも何が合理的で、何が効率的かは、ルールができたあとに決まる。ルールが変われば、何が合理的かも変わるのだ。
 それは出来上がった完成形としての「形」ではない。しかしサッカーで手を使えないのは不合理だといっても、歴史的過程を経て定着したルールは参加者の合意なしに変更することはできない。
(略)
 日本の経営者が、経営に都合のよい部分だけをつまみ食いしようとしても、必ず失敗に終わる。なぜなら、それでは労働者の合意を得られないからだ。逆もまたしかりで、労働者が都合のよい部分だけをつまみ食いしようとしても、経営者の合意を得られない。だからといって、長い歴史過程を経て合意に到達した他国の「しくみ」や世界のどこにも存在しない古典経済学の理想郷を、いきなり実現するのはほとんど不可能に近い。
pp.570-571

小熊『同』

日本型雇用の形成は、その現場へ人材を供給する教育や、生活に困窮した場合の社会保障も大いに役割を果たしているのですが、本書はあとがきに記載の通り「雇用慣行について調べているうちにこれが全体を規定している」という観点から記述されていますので、労働者と使用者の交渉の結果として「日本の労働者が理解した戦後民主主義」が実体化したものが日本型雇用ということができそうです。この国の現行制度とは、本書で言う「慣習の束」が具体化したものであって、「日本の労働者が理解した戦後民主主義」が日本型雇用を生み出した以上、日本型雇用が全体を規定するのは当然の帰結ではあります。

いやまあ、日本の構造改革(懐かしい?)とか経済財政をめぐる議論が、日本型雇用を理解しないような「存在しない古典経済学の理想郷」を前提に繰り広げられているのは、それがあまりに常識になってしまって、自らの社会を客観視できない状況を表しているのでしょうね。
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2019年09月23日 (月) | Edit |
前回と前々回で取り上げていたストライキの事案について、その後の続報がありましたがちょっと気になる記述がありました。

栃木県の労働局に斡旋を申し立て

 組合と会社側はこれまで幾度の労使交渉を重ねてきたが折り合わず、9月3日の弁護士間の下交渉も決裂に終わった。

「今の状況で言えるのは、平行線のまま1カ月が経過したということです。9月3日以来、交渉は一度も行われていない。私たちの要求は『安心・安全な職場に戻りたい』という、ただそれだけです。経営陣の退陣もおのずとその中に含まれます。私の解雇は撤回されていますが、戻るなと言われている状況です。

 会社側の主張は『あなたたちの行為はストライキとして認めていない』というもので、さらに『(ストライキによる)損害賠償を請求する』という。まったく折り合える内容ではない。先日、私は栃木県の労働局に斡旋の申し立てをしました。今後は公的機関が仲裁に入ってくれる予定です」(同前)

《ストライキはどうなった?》佐野SA”解雇部長“が悲壮告白「知らない人たちが働いている」騒動から1カ月(9/15(日) 20:12配信 文春オンライン)

あっせんを申し立てた先が栃木労働局ということは、個別労働関係紛争として処理しようとしているようでして、労働組合が主体となって行うストライキ事案でありながら、栃木県労働委員会に対する労働紛争の調整(あっせん、調定、仲裁のいずれか)の申請でもなく、不当労働行為の救済申立てでもないというのが、集団的労使関係の現状を物語っているというところでしょうか。

まあ10年ほど前にも取り上げたことではありますが、「労働委員会が個別労働関係紛争処理にうつつを抜かしているうちに、本来の使命である円滑な集団的労使関係構築支援の機能が崩壊してしまっているように思われる」としていたところ、ついに現状は、労働組合による集団的労使関係における紛争処理が、労働組合法により強制力を持った命令で救済することができる労働委員会ではなく、民法の特則としての労働契約法により労使双方の同意がなければあっせんの場の設定すら行われない個別労働関係の紛争処理機関である労働局に委ねられる段階に達したということですね。

まあもちろん、今回のストライキ事案は総務部長の解雇問題が直接の契機となっているようですので、ストライキではなく総務部長がみずからの解雇について個別労働紛争としてあっせん申請することは制度上まっとうな運用です。しかし、ストライキが長引いて集団的労使関係の紛争処理が喫緊の課題となっているこの段階においては、集団的労使関係の構築を通じた労使関係の正常化が求められているというべきであり、まさにそこが労働委員会に求められる役割だと思うのですが、そういう話が当事者からもほとんど聞こえてこないところが、事態の深刻さを表していると思われます。

かくいう拙ブログもことの推移を傍目から拝見している立場ではありますが、改めて労使紛争というのはコストがかかってリスクと隣り合わせであると認識されられます。だからこそ憲法で労働三権が保障され、労組法や労調法で具体的に保護されているにも関わらず、組織率が低下の一途を辿る中で、労働組合が集団的労使関係において自ら労働条件を向上することなく、官主導でしか働き方改革が進まないこの国の現状を如実に表しているのでしょう。

(追記)
本エントリをアップして数時間後ですが、総務部長のTwitterにストライキ終結宣言が掲載されました。

Facebookも拝見しましたが、詳細と言うほどの詳細は記載されていないようでして、

<佐野SA ストライキ終了宣言>
 
私たち佐野サービスエリア労働組合は、2019年9月22日午前6時、職場に復帰しました!
 
大変急な話だったので、口頭による合意のみによる復帰です。
 
両者の認識が合致しているかどうか、最終的な合意内容のすり合わせは、これからということになります。

https://www.facebook.com/kato24/posts/2477026842381068

既に昨日から職場に復帰しているものの、最終的な合意内容のすり合わせはこれからとのことですので、まだ予断は許さない状況のようです。団体交渉というのは「妥結」するものですから、100%労働組合側が要求を貫くものではなく、使用者側と一定の折り合いがついたものと思われますが、上記のFacebookの肩書きが「総務部長」ではなく労働組合の広報担当となっているところが気にかかるところです。争議行為を伴う労使交渉がどのような帰結を迎えるのか、これからどのような集団的労使関係が構築されるのか続報を待ちたいと思います。

(再追記)
急展開すぎて追いつけませんが、文春オンラインに詳細が掲載されていますね。

ストライキ終結の経緯について、加藤氏が説明する。

「ストライキ開始後、佐野SAの現場を取り仕切っていたのは、預託オーナー商法で社会問題となった企業の関係業者でした。その業者がサービスエリアのスタッフを募集していた。社会問題になった業者に、私たちの職場を“占拠”されたのです。彼らの豊富な資金力で持久戦に持ち込まれ、勝ち目はなくなりかけました。

 そこまで追い込まれましたが、最後まで訴え続けたのが、サービスエリアを監督するネクセリア東日本とケイセイ・フーズが取り交わした契約にある、『再委託禁止』という項目についてです。『今回の募集はこの項目に抵触する』と、私は訴えてきました。(※ネクセリア東日本は東北道を管理・運営するNEXCO東日本のグループ会社でケイセイ・フーズに対して店舗を貸与している)

 すると、関係者を通じて経営側から『岸社長ら現経営陣が退陣し、新たな社長となる。9月22日に戻ってきてほしい』という連絡を9月17日に受けました。にわかには信じられませんでしたが、実際に戻ることができた。これがおおよその経緯です」

【佐野SAスト終結!】39日目の逆転劇で全従業員が復帰、社長は退陣、”解雇部長”は……(9/23(月) 18:21配信 文春オンライン)


つまり、使用者側が「スト破り」で頼っていた企業が社会的に問題になった業者であり、しかも再委託禁止という契約に違反しているとのことで委託元であるネクセリア東日本が動いた結果、経営陣が交代して、労働組合員が職場復帰できたという経緯のようです。

ついでに、同記事では、

 しかし、ケイセイ・フーズ側は、全従業員の復帰に、ある条件を提示していた。それは、加藤氏の辞職である。

 加藤氏は自身の処遇と今後の展望について、記者に胸の内を明かした。

「業務の引き継ぎや消費税対応などもあり、まずは従業員の皆さんと一緒に戻り、最低限営業ができる状態に戻したいと考えています。その先のことはわかりませんが、会社の財務状況に問題がないことを確認し、現在取引停止中の取引先の皆さんに再開をお願いしたい。できるだけはやく、営業を正常化させたいです。
(略)

「【佐野SAスト終結!】39日目の逆転劇で全従業員が復帰、社長は退陣、”解雇部長”は……(9/23(月) 18:21配信 文春オンライン)」


とのことでしたが、ご本人のTwitterで

とのことですので、私の懸念は杞憂に終わり、ほぼ労働組合の要求が通ったといえそうです。まずはご同慶の至りです。

2019年08月18日 (日) | Edit |
前回エントリの中で書いたところ、長くなったので別エントリとします。

ついでに、公益事業での勤務経験と経営経験をお持ちの方が、「正しいストライキのやり方について」を解説されているのですが、

サラリーマンが会社に対して自分たちの意見を言うためには、まずは労働組合があることが前提になるのです。

そして、通常、団体交渉に於いて自分たちの要求は「要求書」にまとめられていますが、その要求書を作るためには各職場で「職場集会」というものを何度か繰り返しながら、内容を練り上げていきます。

そして、最終的に要求書が出来上がると、その要求書に対して「スト権投票」を行います。

これはその組合の内部規定に基づき、例えば全組合員の3分の2以上の賛成等により可決されるもので、要求書に対してスト権投票が可決されることを「スト権の確立」と言います。

組合の代表者である委員長以下三役は、団体交渉で要求を提出するときに「スト権が確立している」旨を会社側に伝えます。この要求書の内容が認められなければ自分たちはストライキも辞さないという決意を団体交渉の席上で会社側に伝えるのです。

この要求書の提出により、会社側に従業員が考えていることが伝わります。そして、その内容が個人的な要求ではなく、労働者の総意であることも理解することになります。

「正しいストライキのやり方について」(鳥塚亮 | 元いすみ鉄道社長、NPO法人おいしいローカル線を作る会理事長 8/18(日) 9:45)

という部分は、日本の労働組合の手続きとして標準的なものだろうと思うのですが、

次に労働組合が行なうことは、その要求書と確立したスト権を届け出ることになります。

まず厚生労働省へ行き、スト権が確立している要求書を提出します。

これを「スト権ファイル」と言います。

スト権がファイルされると官報に掲載されます。

(略)

次に組合代表は労働委員会に赴きます。

労働委員会というのは国が所管する中央労働委員会〈中労委)と各都道府県の労働委員会というのがありますが、会社の規模によって、例えば事業所が2か所以上の都道府県に存在する場合は国が所管する中労委へ出向くことになります。

労働委員会では、組合代表は要求書の内容、要求書作成の経緯、会社の状況などを説明します。

そして、その説明と要求書の内容を見て、要求が妥当なものかを判断します。

「正しいストライキのやり方について」(鳥塚亮 | 元いすみ鉄道社長、NPO法人おいしいローカル線を作る会理事長 8/18(日) 9:45)

というのは、一部に大きな誤りが含まれてしますので、一応指摘しておきます。

まず、直前の引用部の前半で厚労省と中労委に届出を提出しているのは、労働関係調整法37条に定める争議行為の予告通知を指していますが、はてブでも指摘されている通り、これは同法8条1項に規定する公益事業にのみ適用されます。

争議行為の予告通知について
(1) 概要
 公益事業(*1)に係わる事業で関係当事者(*2)が争議行為(*3)を行うには、少なくとも10日前までに、労働委員会と厚生労働大臣又は都道府県知事に通知する必要があります。
 予告なしに争議行為を行った場合は、その争議行為の実行について責任のある者は処罰の対象となります。

(略)

(*1)  [公益事業]
 労働関係調整法が規定する公益事業は以下の事業です。
イ  運輸事業(*5)
ロ  郵便又は電気通信事業
ハ  水道、電気又はガス供給事業
ニ  医療又は公衆衛生事業

「争議行為の予告通知について」(中央労働委員会)

ということで、争議行為の予告通知を解説した部分は、ブリティッシュエアウエイズ旅客運航部長と労働組合書記長、元いすみ鉄道社長としての経歴を持つ鳥塚氏にとっては義務だったのでしょうけれども、本件はサービスエリアの飲食・小売業ですので、該当しません。

さらに、直前の引用部の最後の「労働委員会では、…、要求が妥当なものかを判断します」は明らかな間違いです。労組法、労調法とも、労使自治の原則に従い、他の法令に規定するものを除いて何を団体交渉事項とするかは自由としており、予告通知の内容をもって要求が妥当かどうかを労働委員会があらかじめ判断することはありえません。もしかすると、労働委員会の職員が届出に記載された交渉事項の確認をした際に、手続き的な観点で「これでストライキをやるのは無理ですよ。」とか、「この要求書の内容なら、社会の同意も得られますよ。」と雑談したのかもしれませんが、労使交渉に関与する趣旨であるなら労使自治への介入となり認められるべきではありません(すべての事業が対象となる争議行為発生届については追記をご覧ください)。

他の法令に違反する事項はその所管機関がその法令に基づいて処理することになるわけでして、

まあ、労働条件に関することを団体交渉事項とすることができますので、労使双方の合意があれば労基法違反の是正を団交事項とすることはできなくもありません。しかし、これに対して使用者側が交渉を拒否するなど労働基本権を侵害する行為を行ったとして労働委員会に不当労働行為の救済申し立てをする場合には、労基法違反の是正は救済を申し立てる内容からは除かれます。つまり、上記の法律に基づく紛争解決の腑分けによって、労基法違反は労基署で、法違反を除く民事上の紛争は不当労働行為の救済申し立ての内容として労働委員会で処理されることになるわけです。

Unfair Labor Practice(2014年08月31日 (日))


というわけで、この後も鳥塚氏の解説を僭越ながら採点してみますと、

ストライキというと通常は鉄道会社やバス会社、航空会社などの輸送機関が大きなニュースになります。それは社会に与える影響が大きいからですが、高速道路のサービスエリアもまったく同じで、社会に与える影響は大変大きなものがあります。

このように社会に公的なサービスを提供する会社というのはそれなりの使命があるわけで、そこで働く従業員というのはその使命をきちんと理解している必要があります。

は、前述の通り本件は公益事業に該当しないので誤り。

朝、職場に誰も出勤せず、営業を開始することができない状態を作り出すことを予告なく行うことで会社に対して実力行使に出たわけですから、労働争議の方法としては認められるべきことではありません。

これはストライキではなく「職場放棄」「サボタージュ」と呼べるものです。

したがって、今回の行為は社会的に認められるものではないということになります。

は、労働組合が決議したものでない限りにおいて「労組法上の救済を得られない」というのであれば正しいのですが、労働組合が決議したものであるならこの指摘は当たりませんし、そもそも鳥塚氏が「社会的に認められるものではない」という場合の「社会」がどういうものか、ちょっと怪しいですね。

と思って読み進めると、

では、なぜ、こういう職場放棄が起きるのかという問題ですが、ひと言でいうと労働者が法律を知らないことが原因です。

ストライキを実施する場合の手順がわからないのです。

では、なぜ労働者が法律を知らないかというと、その理由は「世の中が豊かになったから」だと考えます。

(略)

このようにして労働組合は弱体化していきました。

折からバブル崩壊、湾岸戦争、リーマンショックなど不景気要素が続き、労働者が置かれている労働環境はどんどん厳しくなっていきました。

賃金が上がらないばかりではなく、過労死や自殺なども社会問題になってきました。

もし、会社の中で労働組合がきちんと機能していたら防げたかもしれないような事象がたくさん見られるようになりました。

でも、労働者は自分たちではどうして良いのかわからない。これが今の時代です。

この(略)とした部分の前後のつながりが、「世の中が豊かになったから」といいながら、「労働者が置かれている労働環境はどんどん厳しくなって」、「労働者は自分たちではどうして良いのかわからない」というのは、いかにも辻褄が合いませんね。拙ブログでも集団的労使関係の再構築は何度も取り上げていますので、参考までにリストアップしておきます。

自らの交渉力を低下させる労働組合(2009年06月14日 (日))
紛争になってからではもう遅い(2009年10月15日 (木))
個別労働関係紛争を狙う労働組合(2009年11月13日 (金))
集団的労使関係の未来とは(2011年10月10日 (月))
つまみ食いをすることは許されません(2016年06月19日 (日))
企業内組合の里心(2019年05月03日 (金))

(追記)
本件は争議行為の予告通知には該当しませんが、労調法9条の規定により、全ての事業において争議行為が発生したときは、その当事者は、直ちにその旨を労働委員会又は都道府県知事に届け出なければならないとされています。この場合においては10日前という制限がないので、スト権確立の時点ではなく実際に争議行為が発生した後(「直ちに」なので時間的即時性は強くなりますが)に経過等を届け出ることになります。なお、争議行為の予告通知は罰則がありますが、争議行為発生届は罰則はありません。
参考:争議行為発生届について(中央労働委員会)

2019年08月18日 (日) | Edit |
たしか労働法の先生のものと記憶しておりますが、「労働者でも使用者でもなく労使関係の味方」という言葉に賛同する者としては大変興味深い事案が発生していたようで、さすがのhamachan先生が早速取り上げられています。


https://news.livedoor.com/article/detail/16931924/

お盆真っ最中に大騒動だ! 帰省中のマイカーで混雑する東北自動車道。その上り線にある「佐野サービスエリア(SA)」(栃木県佐野市)のレストランなどが14日、運営会社の従業員たちによる“ストライキ”で営業休止となった。現場には「社長の経営方針にはついていけません」「解雇された部長と支配人の復職と、経営陣の退陣を求めます」との貼り紙が残されていた。佐野ラーメンを提供する人気SAで、この時期は一年でも特に人が訪れる書き入れ時のはず。いったい何が起きたというのか――。

この記事、タイトルは「お盆に!東北自動車道・佐野SAスト内情 運営会社社長の悪評」なんですが、記事中の「ストライキ」に引用符がつけられているように、厳密な意味での労働組合法及び労働関係調整法上の労働争議に当たるかどうかは疑問があります。というのも、この貼り紙には「ケイセイフーズ従業員一同」の名で、「従業員と取引先のみなさんの総意です」とあります。

・・・従業員らで片付け作業に入り、14日未明にSAを閉鎖。従業員らは「おなかが痛いので休む」という名目で14日の出勤を取りやめた。参加人数は40~50人。当面の目標は「部長の不当解雇撤回」だという。・・・


従業員による集団的行動であることは間違いないのですが、労働組合を結成しているわけではないし、「おなかが痛いので休む」のでは、争議団ですらない。

中身は立派な、というか昔はよく見られた集団的労働紛争そのものなのですが、それが労働争議という形をとらない、取りにくい、という点に今日の日本社会の姿が凝縮されているのかもしれませんね。

(略)

そういえば、朝の連続テレビ小説「なつぞら」でも、モデルの奥山玲子さんは東映動画労働組合で活躍していますが、テレビでは「労働組合じゃない、個人の総意」になっていました。現実には集団的性質の労働問題は山のようにあるのに、それを受け止める集団的労使関係システムが完全に動きがとれなくなり、個別労働関係の集合としてしか現れてこなくなっている現代に、かつての労働運動華やかなりし時代を描こうとすると、こういうずれが生じてしまうのでしょうか。

(追記)

普通のマスコミが報道してくれないので、スポーツ紙情報に頼らざるを得ず、どこまでが正しい情報なのかよくわからないのですが、上記記事では労働組合を結成して労働争議を行っているのではなさそうだという前提で書いたのですが、別ソースによると、ちゃんと労働組合を結成しているようでもあります。

https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201908160001131.html

運営会社の従業員のストライキにより、14日未明から営業がストップしていた、東北道・佐野サービスエリア(SA=栃木県佐野市)上り線のフードコートと売店が、スト発生から2日後の16日、営業を一部再開し、名物「佐野ラーメン」の提供が始まった。
ただ、店頭に立った人員は代替要員だといい、ストを起こした従業員たちは「我々の味ではない」と反発した。経営陣との直接対話も実現せず、団体交渉の可能性も探るなど、事態は長期化の様相を呈している。

・・・また、岸社長がストを起こした従業員と連絡が取れないと語ったことを伝え聞くと、首をかしげ「経営陣にはコンタクトを取っていますが、交渉は出来ていない」と断言。打開の糸口が見えないこと、7月に労働組合を結成したことを踏まえ(1)通常の職場環境の回復(2)ストの発端となった親会社の資金繰りの悪化について、今後の給与の支払いと商品の安定した仕入れに問題はないかを再確認するため、団体交渉を行う方向で弁護士と協議を始めた。また一部の労働団体にも相談を始めたという。


こちらの記事によれば、7月に労働組合を結成しているようです。ただ、団体交渉は要求せずに、いきなりストライキ?/おなかが痛いので休む?に出たようで、正確なところは不明確です。

いずれにしても、マスコミも含めて、集団的労使関係法制について常識が払底してしまっている現代を象徴する事態であることは確かなようではあります。

「「労働争議」ではない集団的労働紛争(2019年8月17日 (土))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

いやもう、ほぼ引用してしまって付け加えることは特にないのですが、労働組合法の規定について若干補足すると、労働組合というのは労働者が自由に結成することができ、この労働組合は内部の手続きを経て独自の判断でストライキ(同盟罷業)を開始することができます。この同盟罷業は団体交渉が行き詰まって交渉の妥結が難しい局面にあって、使用者側に譲歩を求めるために行われるものであるため、つまりは労使間の紛争が起こりそうな緊迫した場面で行われることが多いといえます。

このため、労働組合としては、使用者側の不当労働行為に備えて労働委員会への救済申立の準備をしておく必要があり、具体的には不当労働行為の審査を行う労働委員会に、(通常は救済申立と同時に)労働組合の資格審査を申請することとなります。その労働組合の資格は労組法2条と5条2項の各号に要件が定められていて、その中で労働組合の規約において「同盟罷業は、組合員又は組合員の直接無記名投票により選挙された代議員の直接無記名投票の過半数による決定を経なければ開始しないこと」を規定しておくことが求められます。

でもって、hamachan先生が「「おなかが痛いので休む」のでは、争議団ですらない」とおっしゃる「争議団」とは、上記のような労働組合の資格審査を受けない、あるいはそもそもその資格を満たさない労働者の集団も、争議団として団体交渉はできるものの争議権の行使までは認められずには労組法上の保護が与えられず(8.22訂正)、それに対する使用者からの不当労働行為類似の行為があっても、その救済を受けることができません。今回の「スト」が資格を満たす労働組合によらず、争議行為でもないのであれば、その争議団にすら該当しないということですね。

というのも、争議目的で年休を一斉取得すると労働争議とされて有給とはなりません(いわゆる年休の争議目的利用の判例としては林野庁白石営林署事件(最二小判昭48.3.2)などがあります)ので、あくまで年休であるなら争議団にも該当しないことになるからです。とはいえ、hamachan先生が追記で引用されているように、労働組合としての資格を満たして行われた同盟罷業であるならば、なぜわざわざ「おなかが痛いので休む」という名目で休んでいるのかよくわかりません。むしろ争議団にも該当しないなら年休として有給で処理されるかもしれませんが、労働組合でありながらそれを狙ったというのであれば、やや手続きが混乱しているように思われます。

と思いきや、解雇されたという総務部長さんが公開質問状を出したとのことで、もしかすると、この労働組合は資格を満たさないために苦肉の策として年休の一斉取得という手段を選んだのかもしれません。

佐野SAスト社員が公開質問状「融資凍結で経営危機」[2019年8月18日14時17分](日刊スポーツ)

今回、質問状を公開したのは、スト前日の13日午後、岸社長に経営危機について追及、糾弾し解雇された、総務部長の加藤正樹氏。加藤氏は、ケイセイ・フーズが栃木県佐野市に本社を置く片柳建設のグループだとした上で「ケイセイフーズは銀行から片柳建設グループとみなされています。メインバンクから、片柳建設グループ全体に対し、新規融資凍結処分が下されてそろそろ3カ月。借金の返済の滞納も3カ月目」として、ケイセイ・フーズのみならず、片柳建設と一連の関連会社が、借金の返済を滞納していると主張。「この問題が解消しないかぎり、我々従業員だけが戻っても、問題は解決しない可能性がきわめて高いのです」と、佐野SAの労使問題が解消しても、根本的な資金繰りに大きな問題があると指摘した。

この点について、周知の通り労組法2条1号では、

役員、雇入解雇昇進又は異動に関して直接の権限を持つ監督的地位にある労働者、使用者の労働関係についての計画と方針とに関する機密の事項に接し、そのためにその職務上の義務と責任とが当該労働組合の組合員としての誠意と責任とに直接にてヽ いヽ触する監督的地位にある労働者その他使用者の利益を代表する者の参加を許すもの

と規定しており、いわゆる管理職になると労働組合に入れないというのはこの規定が根拠となっているわけですが、総務部長というのは通常人事権を持っているでしょうし、経営にも一部は参画しているでしょうから、解雇された当事者である総務部長が労働組合に加盟すると、労働組合の資格を満たすことができません。となると、交渉権は認められるものの、争議権が認められないために対する不当労働行為への救済が与えられないため(8.22訂正)、年休の一斉取得という手段を執った可能性が考えられます。まあ真相がわからないまま憶測を重ねても詮無いことですので、続報を待ちたいと思います。

(8.22追記)
争議団の争議行為についての記述に誤りがありました。お詫びして訂正いたします(本エントリは見え消し修正済みです)。
本エントリで憶測しておりました総務部長と労働組合の関係について、本人へのインタビュー記事がアップされていました。

ただ、これもなぜ組合名義の声明でなかったのかは疑問が残るところだが、この点について加藤氏は「損害賠償等が発生した場合、私以外に行ってほしくない」ことや、「管理職なので、私が労組に入ると労組法上の労組ではなくなる恐れがあるため、私自身は組合員ではないから」といった理由を上げていた。

「東北道上り線佐野SA「スト」を報じるメディアに抱いた違和感 2/3(2019.08.22)」( ハーバー・ビジネス・オンライン)


ということで、総務部長ご本人は労働組合には加入していないので自主性不備組合ではなく、不当労働行為の救済を受けられる法適合組合のようですが、となるとなおさら「おなかが痛いので休む」というのはよくわかりませんね。

なお、続報となった記事については労弁の嶋﨑量氏が適切に解説されていますので、元記事にどれほどの信憑性があるかはある程度留保しておくほうがよさそうです。



事実を的確に指摘されているtweetのみを引用しましたが、私も一部不正確な書き方をしてしまったことは反省いたします。

なお、全体の主旨としては労働組合に対する意識が薄れていることに違和感を表明している記事に対して、使用者側が主に読むような媒体だからといって間違った部分をことさらにあげつらって攻撃的な批判を被せてくる辺りに労弁らしさを感じるところではありますがまあそれはそれとして、この記事の最後の部分には全面的に同意いたします。

 メディアであれば、営業再開を喜ぶ利用客の声を報じたとしても、その一方で、従業員がこのような行為に踏み切るに至った経緯を報じる必要があるし、この営業再開についても、違法行為ではないとしても、「スト破り」と呼ばれる行為である可能性が高い点などについても、同じくらい時間を割いて報じるべきではないだろうか。一方的に利用客が不便を訴える様子を映しているだけでは、「ストライキは労働者の権利」であることすら忘れ去られてしまう。

 折しも、NHKの朝ドラ『なつぞら』でも、主人公たちが会社と交渉を行う様でも頑なに「組合ではない」ことを強調するかのようなシナリオに、SNSでは疑問の声があがっていた。

 メディアがこうして組合活動をタブー視したり、世間からネガティブな視線を受けるようなものであるように報じる風潮は、結果として労働者の環境を悪くしていくことに繋がってはいないだろうか?

「東北道上り線佐野SA「スト」を報じるメディアに抱いた違和感 3/3(2019.08.22)」( ハーバー・ビジネス・オンライン)



2019年07月25日 (木) | Edit |
前回エントリで「障害者が選良として議会の場に参加することそのものについてはまた別途」と書いたところ、早速こんな増田がアップされていました。

社会が重度障害者を理解し、サポートできるようにするため、社会の代弁たる国会から変えていきたい。という希望論は理解できます。

ですが、船後氏のような重度ALS患者は喋れないので、特殊な機器や透明な文字盤を目で追うことで伝えるしか無く、1つ文章を作るだけでも数分かかってしまいます

さらにALSはどんどんと筋肉が低下していくので、文章を作る時間は伸びていき、やがて目や指さえも満足に動かすことができなくなり、意思疎通が大変困難になります。

質問も反論もすぐに出来ないのに、国会で十分な議論に参加出来るでしょうか?


それこそ、社会がサポートして代弁するべきです。


私の家族も、どんどんと意思疎通が出来なくなり、特殊な機器で打っていた文章にも誤字が多くなり、目の筋肉が低下して文字盤を追うことも出来ず、最後の半年には文章や文字盤での意思疎通が出来なくなりました。

十分な意思疎通が出来ず、涙を流していました。それを自分で拭くことも出来ませんでした。

そのようなことを、国会でやるのは、ALS患者やその家族遺族に希望を与えるというより、やるせないふがいない気持ちを与えることになると思います。


船後氏や山本氏は、そのようなことを分かっているのでしょうか?

現実的ではない希望論や、行き過ぎた正義を、振りかざしているだけではないでしょうか?

2019-07-22 ■ALS患者のれいわ・舩後氏の参議院選当確について
※ 以下、強調は引用者による。

私自身も重度障害者の家族として、ここに書かれたALS患者のその通りだろうと思われますし、遺族の方がその思いを吐露して疑問を呈することは正当な行為として認められるべきと考えます。その疑問に対してどのように応えていくのかについて、具体的な行動が社会に求められているわけですが、その「社会」にはもちろん、ALS患者を参議院議員候補として擁立した政治団体も含まれていますし、当選したこの方を受け入れることになる国会も含まれています。そしてその国会とは、「国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関」(日本国憲法第41条)であり、かつ、まさに今回の選挙で有権者によって選ばれた選良の方々によって運営されるものです。

その運営方法については、一部は日本国憲法によって定められた手続きがありますが、合議体としての国会が自らの運営そのものを合議によって決めているわけでして、具体的には議院運営委員会で決定された先例によって運営されています。その運営に現れる議会の役割を理解しなければ国会の機能とか議員の役割を議論することはできませんので、実務担当者による説明を参照してみましょう。

…つまり、会議というのは、純粋に構成員が自由に考え、発言して何かを作り上げていくというのではなく、リーダーの考えを公表し、それをオーソライズさせるためのものと言っていい。こう考えると、少数の人たちの合議の場合も、結局は一人の人が判断していく形に収斂していくと考えていいだろう。
 これは、統治の場面も同様で、統治者の数によって、「王政」、「貴族制」及び「民主制」に分けられたけれども、実際には、いずれの場合も実質的統治者(意志決定者)は一人に収斂していくのである。このことに気づくことは、政治学研究の上でももっとも大事なことである
p.11

 だが、われわれがもう一度よく考えなければならないことは、近代デモクラシーとは、つまるところ、国民の普通選挙であって、国民は自分の幸福を考えるから、彼らに自由に選択させると、その方向に向かっていくと結論づけるのは、あまりに短絡だということである。ヒットラーが登場したのも、実際、デモクラシーからであった。選挙は結果を保障するものではない。単に、自分たちもそれに参加したのだから、そこから生まれる果実は受け入れなければならないという「自己責任」なのである
p.27

 これまで述べてきたように、議会は、統治の主体ではなく、統治者たる政府の外にあって、統治者の判断や行動が間違わないように、あるいは間違った場合に、それを修正したりその責任を追及したりするための統治の最適化を職責とする政治的機関なのである。これは議会の歴史にも即したものである。
 そして、議会は、主に三つの権能によって、これを実行してきた。第一は、立法権であり、これは、政府が統治するにあたっての基準や根拠、方法等を定めるものであった。
 当たり前のことだが、もともとイングランド議会には立法権はなかった。議会は、騎士や商人等から臨時税を徴収するために招集され、これが課税承認権を持つようになり、さらに財政全般のみならず国政全般についての実質的な承認権を持つことになって、これでもって、国王の統治を制約・是正するようになった。これが具体的な形となったのが、共通請願を源とする立法権だったのである。
p.32

 そして、この三つの中では、当然、統治者を選ぶことがもっとも重要となってくる。その結果、立法権や国政調査権は、そのための手段と化していくのである。こうしたことは、議院内閣制の国ではごく自然に進んでいく現象だと筆者は考えている。
(略)
 そもそも、議会は国家意思の決定機関であって、議案提出権を唯一付与されている議員は常に大局に立って統治のあるべき姿を考えて行動しなければならないというのは、建前、あるいは理想的・楽観的な見方であって、彼ら(引用注:アメリカ議会)は、基本的には、自分や自分の支持者の関心のあるものについてのみ立法化を図るものだと認識しなければならない。だから、実体とすれば、アメリカの議会は昔の請願・陳情実現のスタイルを色濃く残した機関にすぎないわけで、政争になりそうなものは、行政(統治)の方が大統領令等を駆使して自己完結的に遂行するのである。こうした状況だからこそ、党議拘束の必要性もないし、与野党の衝突もほとんどなかったのである。
p.34−35

 実は、こうした弱者や敗者に対する配慮が、今でも政治の現場で行われているのである。国会で与野党が厳しく対立する法案を審議するとき、よく識者やマス・メディアが言うのは、与野党が、どちらも十分と言うくらい時間をとり、自由闊達に議論し、最後は強硬手段に訴えたり、議事妨害することなく、粛々と採決し、多数決で決めることがもっとも大事だということである。
 しかし、筆者は、こうしたことは形式的なことで、もっとはるかに大事なのは、結論を受け入れがたい少数者や弱者、あるいはそういう人たちを代表する少数党に、どれほどの配慮がなされ、彼らもどこまで甘受するかということだと思っている。議会で議論されるのは、学生の討論会の議題のようなものではない。法律は、人々の権利・義務を定めたり、何らかの便宜を与える一方で、何らかの負担を強いたりする。つまり、人によっては、自分の命や財産、生活がかかっていたり、自分の引けない感情にからむものだったりするのである。そうした場合に、十分な議論をして多数決で決めたことであれば、本当に誰もが納得し、受け入れるのだろうか。一般的に、人は、自分に犠牲を強いるようなものであれば、まず第一に廃案を望むだろうし、次善の策としては、修正を求めるだろう。それでだめなら、何らかの手当や償いを求めるに違いない。それも無理で、一方的に犠牲を払う側にいなければならないときに、果たして、善処をお願いしている議員が淡々と質疑を行い、採決のときにただ反対として自席に座っていることを容認できるだろうか。場合によっては、自分たちの怒りをその場で見せてほしい、身体を張って阻止してほしいと思うのが人情ではないだろうか。少数者も、自分たちの要求が認められない客観的事情は当然のごとくわかるわけで、それでも自分たちの思いをわかってくれた、それを国会の場で他の議員にわからせてくれたということでもって、その嫌な結果を受忍してくれるのである。それゆえ、筆者は、一定程度の議事の騒然さには寛容であっていいと思っている。
 ただ、先に述べたように、議会は権力闘争の舞台でもあり、こうした弱者配慮の手法が権力闘争に結びつくのも必然的と言わざるをえない。このことが、少なくない国民の反発を醸成し、結果的にいわゆる「政治」そのものに対するネガティブが評価につながっているわけで、その加減が難しいことは言わずもがなのことであろう。
pp.40-41

議会学
向大野新治(衆議院事務総長)著
ISBN:978-4-905497-63-9、280頁、本体価格:2,600円

後半に行くにつれて引用部が長くなってしまいましたが、これは、筆者の経験を通して得られた洞察と思いがこの引用部に向けてどんどん凝縮されていると感じたからです。ちなみに、筆者の向大野氏は、東大法卒後に衆議院事務局に採用され、本書が発行された2018年は現職の衆議院事務総長でしたが、今年6月に退任(本書p.265によると、事務総長は本会議における選挙で選ばれる政治的任命職のため、本人が適宜辞任を申し出て本会議で許可されると退任となるとのこと)されています。

国会でもっとも貴重な資源は時間です。現在日本で施行されている法律は約2000あって、国会では新規の法案に加えて既存の法律の改正案も頻繁に改正されていて、法案と同じ扱いの予算審議にも多くの時間が充てられているのが実態であり、一つ一つの審議に充てられる時間はほとんどありません。そこで、日本の国会では委員会主義をとって、各法案の審査を委員会に分かれて行い、本会議では基本的に討論と採決を行うのが例とされています。その中でも「人によっては、自分の命や財産、生活がかかっていたり、自分の引けない感情にからむものだったりする」ような案件があれば、それに対する反対の意を徹底して示すため、その案件を所管する各委員会や、総理大臣の出席を求めることができる予算委員会の場において、「弱者や敗者に対する配慮」を求めて質疑や討論を行い、支持者の「自分たちの怒りをその場で見せてほしい、身体を張って阻止してほしいと思う」人情に訴えるために、強行採決された体をとることが重要な役割となります。もちろん、委員会から本会議に報告されてからも、採決に先立つ討論や採決そのものを遅延させる行為(牛歩戦術など)によって貴重な時間という資源を巡って攻防を繰り広げるのもまた、国会議員の役割となります。

さて、ここで冒頭の話に戻しますと、私自身は、ハードとしての国会議事堂がバリアフリー化することは当然のことと考えますが、上記のような国会議員の役割を踏まえると、その任に重度障害者をもって充てることの必要性を感じません。むしろ、代議士が代議士たる所以は、その支持者が時間的・物理的・金銭的制約で表明できないことを、国会の場で主に言論を通じて、ときに行動によって体現するからであって、「身体を張」ることが命の危険に直結するような方がその任に相応しいとは到底思えません。「危険がないようなサポートをした上で国会議員として行動できるようになればいい」という方もいらっしゃるかもしれませんが、医療や福祉の現場を踏まえれば、「危険がないようなサポート」が本当に可能かどうかは誰にも断言できないでしょうし、仮に万が一の不測の事態が生じた際に、「国会がバリアフリーではないことがその原因であって、それを明らかにすることを目的として、本人の意志で人柱となり命を削っているのだ」などと他人事をこれ幸いとうそぶくような言説があれば、それは人として許されない態度と考えます。

さらにいえば、国会でもっとも貴重な資源は時間であるということからすると、意思表示にこれまでよりも時間を要することになる以上、国会という機関で審議できる案件が減る影響が予想されます。有権者の代表が共有する貴重な資源としての審議時間を削りかねず、さらに本人の命の危険を冒してまで、重度障害者に国会議員の役割を負わせることには賛同できないというのが私の考えです。もちろん、そうして時間をかけることも重要だという意見はあり得るでしょうけれども、時間をかけることそのものにはあまり意味はないと考えます。霞ヶ関の長時間勤務の原因の大きな部分となっているのが国会対応であることが知れ渡り始めている現状において、霞ヶ関の官僚のマンパワーそのものが拡充される契機となるなら別ですが、重度障害者の方を擁する政治団体も官僚を増やすことには積極的ではないようです。国会をバリアフリー化するというのは、一部に負担をしわ寄せすることではなく、全体の負担を減らしつつ、それぞれ少しずつ負担し合って個々の負担を減らすことであるべきと考えますが、そこまで議論がすすむのかは極めて疑わしいと思われます。

まあそもそも、今回当選された方を擁する政治団体の代表は、他の政治家の失言を批判しながら「人を生産性で判断するのは間違っている」と主張する一方で、

れいわ 重度障害者2人国政へ(東京新聞 2019年7月22日 02時46分)

 今年四月に山本太郎さん(44)が代表となって立ち上げた政治団体「れいわ新選組」は、比例代表で二議席を獲得した。いずれも新人で、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の船後靖彦さん(61)と、重度の障害がある木村英子さん(54)。国会は議員活動を保障するため、幅広いバリアフリー化が求められる。
(略)
 二人に出馬を要請した山本さんは、船後さんを「体は動かなくても頭脳は明晰。国会に入り、本当の意味の合理的配慮が行われたら障害者施策を前進させることができる」。木村さんには「攻めの姿勢で理路整然と官僚とやり合う方。ぜひ一緒にやりたいと何年も前から思っていた」と話す。議場での質問や採決方法などで「国会が柔軟に対応していくこと」も求めた。

当選された方を障害者の中でも特に優れていると主張しているわけでして、どの口がそれを言うかという思いもあります。国会議員としての役割をどう考えているのか判然としませんが、頭脳が明晰でもなく、理路整然でもない障害者は結局、彼の眼中にはない、少なくとも「一緒にやりたい」と思う相手ではないのでしょう。

(参考)
お手軽社会保障論とかお手軽労働政策(2018年10月28日 (日))

制度設計の困難さと増税することの政治的困難さ(2017年07月04日 (火))

他人の人生に過剰な「感動ポルノ」を求める土壌(2016年08月28日 (日))

障害者の家族・支援者の思い(2016年08月04日 (木))

震災の記録(障害者編)(2015年05月04日 (月))

長期雇用されない障害者(2015年02月22日 (日))

役所の障害者雇用を阻むもの(2014年04月12日 (土))