追記ありがとうございます。
まあ、確かにこちらは悪いけれどもそちらはそうじゃない、みたいな議論は、変革期にはとりわけ、生ぬるいとか、中途半端だと罵倒されがちで、勇気がないとなかなか言えないものでしょう。
本件の場合、GHQという絶対権力者には絶対に逆らえないという特殊事情があったわけですが
投稿: hamachan | 2023年8月 4日 (金) 09時08分
特別法が一般法に優先するというのは法学部生なら常識ですが、特別法がどのように一般法に優先するのかは具体的な条文の内容によって決まるわけで、そこには繊細な微調整が求められるはずでありながら、「イデオロギー的に全面否定する枠組み」によって、特に絶対的権力を持つGHQがそれを唱道する中では著しく困難になるという事例ですね。民法の原則としては不味くないことを(例えば、労働法などで)規制するということが
「そもそも、どういうことなのか?」という認識が薄いのでしょうね
いや、最近の動向としては、労働法よりも、アレな方々の動向の方が問題なんだけれど
投稿: らく | 2023年8月 5日 (土) 07時17分
「十字軍的な強い意志」に支えられているという点では、日本的左派の皆さんが多く連なる「神聖なる憎税同盟」も同根の問題を抱えているように見受けます。その動機は「生活をよりよくしたい」という神聖なものであろうことは否定しませんが、例えば繊細な調整を要する政策過程を「反緊縮」なる大雑把な概念で否定する姿は、小泉元総理が声高に「構造改革」と叫んで支持率を集めようとした姿と重なります。
「リベラルサヨクは福祉国家がお嫌い(再掲)とその前説(2023年8月7日(月))」のエントリで引用されている弁護士の堀新さんが
とおっしゃるとおり、税金を極力減らした「小さな政府」において財政支出を拡充すべきと主張し、その差額を公債で賄うことを正当化する理論を求めてリフレだのMMTだのとさまよいながら、結局は(予算のみではなく現場での執行まで含めた)政策過程における繊細な調整がより困難となる「小さな政府」を支持する一大勢力となっているわけですから。⇒
— Shin Hori (@ShinHori1) August 2, 2023
戦後日本の左派言論の「社会福祉と文化施設だけやる小さな政府」を良しとする空気は、結局は「小さな政府」志向であることには違いがないから、結局は「政治家や公務員の無駄」の攻撃にとびつく。
朝日新聞が福祉軽視ではないのになぜか小さな政府志向で公共支出の無駄削減にうるさいのはその一例
もしかすると、税金を極力減らして公債を財源とすればそんなちまちました財政運営なんかしないで、必要なところに必要なだけ財政支出できるから問題ないという認識なのかもしれませんが、だからその「必要なところに必要なだけ」というのを誰がどうやって「正しく」判断するか、問題が起きたときにどうやって修正するかという政策過程の困難さがこの『家政婦の歴史』で示されている問題なのですけれど、まあそういう問題を認識できないから唯々諾々と「小さな政府」に加担してしまうのでしょう。
ということでリンクを張ろうと文藝春秋BOOKSのサイトを検索してみると、(紙の)新書と電子書籍でキャッチコピーが違うんですね。
こっちが紙の新書で、「家庭のなかの知られざる労働者」の知られざる歴史が浮かび上がる!
新書
家政婦の歴史
濱口桂一郎
1,100円(税込)
発売日2023年07月20日
家政婦の歴史をたどり直す比類なき社会ミステリーの誕生!
電子書籍版
家政婦の歴史
濱口桂一郎
1,100円(税込)
発売日2023年07月20日
こっちが電子書籍です。よく見ると書影とか担当編集者のコメントがあったりなかったりとそれぞれ違いはあるようですが、hamachan先生が労務屋さんの書評を紹介されたエントリによると、
とのことで、私も拝読した感想としては電子書籍のキャッチコピーのほうが本書の「勢い」をよく示していると感じました。この「歴史ミステリー」という言葉は、まさに私と文春の編集者とが狙っていた線です。
労務屋さんが『家政婦の歴史』を書評(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))2023年8月 1日 (火)
いやまあ「勢い」と書いてしまって本書が雑な論旨で煽っているように誤解されてしまうのは申し訳ないのですが、労務屋さんが「実際ほぼ一気読みしてしまいました」とおっしゃるように、ニュービジネスとして颯爽と登場した派出婦会が、ヤクザな労務供給請負事業と一緒くたにされて、結局戦後は「家政婦」と呼ばれて労働基準法の適用除外とされ、労災の適用も任意とされてしまう流れは、裕福な家庭の主人公に様々な困難が降りかかるドラマを見せられているような気分になります。
つまり、ビジネスモデルとしては、後に詳しく見る親分がピンハネするような問題含みの労務供給請負業者と同じなのですが、その社会的位置づけが全然異なるのです。それは、派出婦会というビジネスモデルが日本で始まったそのきっかけの場が、中産階級の有閑主婦のアルバイト的就労であったということに由来します。
濱口『同』pp.33-34
ただしそれはドラマではなく現在にまで続く歴史的事実であり、しかもハッピーエンドではないという後味の悪いものではあるのですが。
このような優雅(?)な出自の派出婦会に対して、本書で引用されている矢次一夫の記述によると労務供給請負業はいわゆる人夫供給のブローカーであり、その描写からは、劣悪な環境で生活に困窮した男たちを薄給で酷使しながら自分は贅沢三昧を決め込むという五社英雄の映画に出てきそうな親分が頭に浮かびます。まあそもそも本書でも指摘されている通り、山口組は正に港湾労働での労務供給請負業がその起源ですのでイメージは間違っていないと思うのですが、それはともかく多重請負で末端の労働者が搾取されるという業態は現在にも通じるものがありますね。
そんな現在の多重請負からの連想もあって、特に日本的左派の方々からは21世紀の現在においても労働者派遣が劣悪な労働の代表例とされて(その役員に竹中平蔵氏がいるとはいえ)パソナのような大手派遣業が目の敵にされがちですが、労働者派遣業を営む企業が大規模なのはそれだけの需要があるからでして、その需要を適切に満たして円滑な経済活動を促すのが法規制の大きな役割です。実際に、労働者派遣法もリーマンショック時の「派遣村」騒動などを経て、労働者保護を一定程度強めて現在に至っています。特に労働法制のような人の経済社会活動に密着した法規制は、その円滑な活動を確保する視点を持たなければ正常に機能しなくなってしまいます。
しかし歴史的事実としては、戦後の占領下でGHQが法整備を進める中で、こうした視点を持たずに制定されたのが職業安定法であり、GHQの一担当官であるスターリング・コレットの個人的見解によって労働者供給事業が禁止されることとなります。このとき、hamachan先生の言葉を借りると「労働者供給事業撲滅への十字軍的な強い意志」によりコレットが声明文を作成するのですが、個人的にはこの声明文がいわば本書のクライマックスとして「勢い」を感じるポイントにもなっています。その「勢い」は是非お手にとって感じていただきたいところでして、「十字軍的な強い意志」と現実の制度が適切に機能するかは全くの別次元の問題だという教訓として銘記すべき事案ですね。
この職業安定法によって、戦前は合法的なニュービジネスだった派出婦会の労働者供給事業が非合法化されたものの、それが現実にある需要と乖離したものであったため派出婦会によって賄われていた家政婦や附添婦などの現場が混乱に陥ります。そして、労働組合による労働者供給事業はこのときの代替案だったわけですが、これも労働委員会によって労働組合の資格審査ではねのけられてしまい、職業安定所が派出婦会の機能を肩代わりするなど迷走します。hamachan先生はこの経過を「派出婦会という労働者供給事業の枠組みでしか円滑に作動させることができない代物を、そのビジネスモデルをイデオロギー的に全面否定する枠組みの中でなんとかもっともらしくでっち上げなければならないという究極の無理ゲーを強いられた(p.157)」と評されるのですが、former地方公務員としても読んでいるだけで陰鬱な気分になります。
そして本書の目的は問題意識の共有であり、その解決策は読者が考えるよう問いかけるというのが本書でのhamachan先生のスタンスですが、その際の補助線として現存する法規制の「重さ」が指摘されています。
政治を論じる際には立場の如何を問わずこうした視点が不可欠だと思うところです。既存の仕組みを「イデオロギー的に全面否定する」ような威勢のいい言説はいつの世にも強い支持を得るものでしてまず、家政婦過労死裁判の原告弁護士が主張するように、労働基準法第116条第2項の家事使用人の適用除外条項は憲法違反だから無効だという主張が考えられます。あるいは、憲法に違反するような条項はさっさと削除するように法改正をすべきだという議論もありうるでしょう。
これはこれで一つの筋の通った議論ではありますが、労働基準法制定時にもその当否について審議会や帝国議会で議論があり、その結果としてこの規定が設けられ、適用されてきたという事実の重みは大きいものがあります。少なくとも、家庭に住み、家庭の一員として生活する女中については、問題点はあるけれど適用除外すべきだという政策判断が75年前に国政レベルでなされていることは確かなのです。それをひっくり返すのは理屈立てとしてなかなか難しいものがあります。
濱口『同』pp.238-239
(8/3追記)
hamachan先生に取り上げていただき、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-962070.html
本書の趣旨から外れた記載かなと思いましたので一部見え消ししました。「正義の刃」が不見識による一方的なものだから問題なのではなく、きちんと劣悪な実態を調べた上で行われながら、法的には同種でもそれまで適切に行われていた活動をも標的にしてしまい、なまじその「正義の刃」が大方において正しく効果的だったからこそ是正されることなく、現在はむしろ当然視されてしまうというねじれ現象の問題ですね。本書では次で引用する部分の直前で、
と述べられていて、ここから引用すればよかったなと。(追記ここまで)日本社会の民主化のために悪逆非道の人夫供給業者たちを懲らしめてやらねばならないという彼の信念自体には、今の時点から振り返ってみても責められるべき点は見当たりません。しかしながらその切れ味のはなはだ鈍い「正義の刃」は、生まれてから30年足らずの輝いていたニュービジネスを、伝統的な女中の世界に叩き込む鉄槌の役割を果たしたのです。
濱口『同』p.251
前述の通り人々の活動に大きく寄与する法規制には、したがって高度な法制執務が求められますが、本書はその法制執務に当たる役人についても苦言を呈しつつ締められています。
この言葉が広く届くことを私も切に願うところです。それから75年の月日が経ち、この経緯を憶えている者は誰もいなくなってしまいました。2年ごとに部署をころころと変わっていく役人たちは、1950年代においてすでにその健忘症を露呈しています。
(略)
「正義の刃」の犠牲者であった家政婦たちの真の歴史を描いた書物は今まで一冊もありませんでした。本書は長らく放置されてきた彼女たちの歴史を初めて明らかにしたものです。小さな本ですが、多くの人々に読まれて欲しいと、切に願っています。
pp.251-252
組織の生存戦略としての意思決定システム
引き継がれるシナリオ
内部昇進が制度化された組織では、その意思決定は昇進したポストで代々引き継がれてきたシナリオに沿うことが重視される。そのシナリオは、往々にしてその組織の生存戦略として淘汰されてきたものであるからである。だだし、組織の生存戦略は一般に、外部よりも内部への参照度合いを強めていく誘因を持っている。組織の構成員にとっては、外部の規範よりも内部のそれをよりどころとするほうが「生存戦略」として優れているからである。
外部との切断と内部規範の優位
このような一般的な傾向により、組織の生存戦略と構成員自身の生存戦略が(少なくとも構成員自身にとっては)次第に乖離していく。内部昇進が制度化された組織においては特に、自らの立場を優位にする「構成員自身の生存戦略」を優先する傾向が強まる。このようにして、生存戦略の目的が外部環境への対応ではなく内部の権力関係への対応へと変化していく。この変化は、外部より組織内部に適応した生存戦略が構成員に実益をもたらすと判断される状況で発生しやすい。そしてそのように考える構成員が多数を占めるほど、組織の生存戦略と構成員自身の生存戦略はより大きく乖離したものとなる。乖離が大きくなるほど組織の生存戦略においてもっとも重要なはずの外部環境と切断され、構成員自身の生存戦略に基づいた意思決定システムが構築されていく。脚注1
外部環境との切断に働く力
同調圧力
この変化の過程で働く力は二つある。一つは内部昇進によって形作られた人脈による同調圧力である。同調圧力そのものはあらゆる組織や社会にみられる現象であるが、内部昇進を前提とした組織においては、すでに昇進した上司(特にエリートコースの構成員にとっては将来に連なる前任者)の顔をつぶさないという「人(のメンツ)」を基準とした圧力が生じやすい。これは上司の指示という形で明示的に行使されることもあれば、上層部の意向に反した場合に予想されるペナルティによって暗示的に行使されることもある。このような「メンツ」を基準とした同調圧力が優勢となった組織や社会は、容易に「人治主義」に転換する。これは採用を通じてメンバーシップを与え、内部昇進によってそれを強化していく日本型雇用慣行に一般的にみられる傾向であり、民間では幹部となることが約束されたコネ採用が典型的な例である。行政組織ももちろん同じ傾向を持つが、法律の留保によって「法治主義」がその行動の根幹をなすものであるにもかかわらず、日本では内部昇進を前提とする組織運営により「人治主義」に陥るリスクを常にはらんでいる。たとえば国家公務員についていえば、日本型雇用慣行が浸透して内部昇進が前提の組織運営であったところに、内閣人事局を設置して政治的任用(猟官システム)が強く意識される仕組みを導入したことで、「政治主導」の名のもとに「人治主義」がより深く浸透しているといえるかもしれない。脚注2
正当化圧力
構成員にとっての生存戦略が形成される際に働くもう一つの力は、組織の外部に存在する社会的規範と内部規範との乖離の正当化圧力である。これは上記の同調圧力とあいまって働く力であり、その同調圧力の根拠として社会的規範より内部規範を重視する姿勢と捉えることももできる。構成員にとって組織内部の生存戦略が外部のそれより優勢になれば、必然的にそれぞれの根拠である内部規範と外部の社会的規範の整合性は重視されなくなる。外部との接続の形骸化
もちろん、いかなる組織も外部環境からまったく切り離されて生存できるものはないので、外部環境との最低限の接続は維持される。だたし、その最低限の接続にはあくまで正当化の根拠としての機能しか認められない。行政でいえば国会や議会、会社でいえば株主総会がその参加資格の点において外部との接続を維持する回路としての機能を有するが、日本型の内部昇進を前提としたメンバーシップ型組織においてはその実質的な機能を極力小さく限定するのが是とされてきた。国会では議案についての討論を最小限とし、諸外国に例のない質疑応答中心の議事進行が基準とされる。また、株主総会はシャンシャンで終わるよう事前に準備される時代が長く続いている。これは外部との接続回路が社会的規範ではなく内部規範に基づいて運営され、内部規範にお墨付き与える役割に終始していることの帰結である。それ以上の役割を持たないよう外部との接続回路を形骸化することで、接続回路を通じた社会的規範との照合によって内部規範が修正されるリスクを低減させているのである。内部規範の正当化
正当化の弊害
上記の二つの力のうち、前者の同調圧力は前述のとおりあらゆる社会や組織で発生するものであり、それ自体が問題となるわけではない。組織を「外部環境に働きかける目的の範囲で人がグループ化した集まりの総称」とするなら、その目的の範囲における意思疎通や分担を円滑化、効率化するために独自の内部規範を構築し、同調圧力によりその実効性を高めることは自然の流れである。そうした自然な流れで構築された内部規範が、にもかかわらず問題となるのは二つ目の正当化圧力の側面においてである。組織の生存戦略の目的を逸脱するような事態が発生したときに、内部規範をよりどころにしてそれを正当化してしまうと、組織の生存戦略はその目的を果たすことができなくなってしまう。内部規範による正当化は組織の生存を脅かす程度には重大な問題であるが、内部規範が強固であればあるほどその重要性は意識されず、むしろその問題を指摘した構成員は冷遇されることとなる。内部規範の外部化
ここで、内部規範を司る組織の上層部立場に立ってみると、特に外部との接続回路が形骸化されればされるほど、内部規範の目的をいかようにでも設定できるという利点がある。「外部環境」や「社会的規範」が内部規範と乖離しているどうかは、形骸化した接続回路では精査できない(政治的な思惑が入り込むと各政治陣営の主張に応じた「外部環境」が乱立し、実態はより不鮮明になる)からである。このような状況では「外部環境」を都合よく想定し、内部規範がそれに合致していることにしてしまえば、社会的規範と内部規範は乖離していないと正当化することが可能になる。このように、存在しない「外部環境」や「社会的規範」を想定し、それと内部規範が合致していると正当化することを、便宜上「内部規範の外部化」と呼ぶことにする。この内部規範の外部化より、たとえば働き方改革のために長時間労働を是正することを目的とし、そのために残業代を時間通り支払うという政策は、日本型雇用慣行においては長時間労働が組織に対する貢献意思の現れとして評価されるという現実から乖離したものでありながら、その日本型雇用慣行にどっぷり浸かった方々にとっては現実の課題に対応した政策として受け入れられやすい。また、内部規範が優位となった組織の構成員である議員や役人にとっては、内部規範が現実の外部環境から乖離したものであろうと、内部規範の目的に沿って行動することが自らの生存戦略として最重要である。つまり内部規範の外部化は内部規範そのものでけではなく、その内部規範にしたがって行動することをも正当化してくれるのである。
外部環境の内部規範化を阻む壁
では、内部規範の外部化が是正されない現状において、逆に外部環境の社会的規範を内部化し、それによって上記のような問題を解決できるだろうか。組織が外部環境と適切を参照するためには外部との接続回路の適正化が必要だが、同時に外部環境をモニタリングするためのデータを過不足なく収集し、そのデータを適切に分析することが不可欠である。データ収集とその分析にはそのスキルを有する人手と、それを適切に扱うためのシステムが質と量の両面で必要である。この点においても日本型のメンバーシップ型組織は極めて脆弱である。特定の分野で専門性を有する人材の採用や育成は、内部昇進が前提となっている日本型雇用慣行では難しい。実際に、専門的にデータ収集と分析を行う人材やそれを擁する組織は、行政組織では小泉内閣における総人件費改革以降、最優先で削減されてきたし、民間を中心に活用が進むとされるビッグデータとか機械学習も、IT人材の争奪戦によってかろうじてキャッチアップしている企業の方が多いのではないか。
外部環境と内部規範との永続的な相互作用
上記ではあえて内部規範の問題を強調したが、そもそも組織運営において内部規範は必要不可欠であり、結局のところ外部環境への適切な対応と内部規範の同調圧力のバランスを取りつつ、内部規範の乖離の正当化を是正し続けることが重要である。つまり、外部環境を適切にモニタリングするためのデータ収集と分析を行いつつ、ガバナンスとしての内部規範をそれに沿って運用するという、ある意味で当たり前の組織運営ができるかどうかがカギとなる。外部環境と内部規範のどちらか片方が優勢となるのではなく、構成員が内部規範に汲々とせず外部環境をモニタリングし、その課題を内部規範に位置づけて解決に取り組む組織運営が必要になるのではないか。内部規範との衝突
心理的安全性、ティール組織の実行可能性
外部環境をモニタリングする中で内部規範と衝突するような対応が必要となったとき、組織の内部規範を否定するような言動をとることは、その構成員にとって内部昇進が不利になるという大きなコストを伴う。外部環境における組織の生存戦略のメリットは構成員に薄く広く共有されるとしても、内部規範を否定する言動の結果生じる自分の処遇悪化のデメリットは自分一人で受け入れるしかない。これに対する一つの解決策がGoogleによってその効果が喧伝された「心理的安全性」であろう。組織の課題を指摘することのコストを下げることがその大きなメリットとされるが、そのGoogleが大幅なレイオフを実施したことで「心理的安全性」の評価が揺らいでいる。また、数年前に話題になった「ティール組織」の考え方は、堅牢な内部規範ではなく各担当が役割に応じてつながる組織とすることで課題に対応しようとするものである。ティール組織の組織運営においては、内部規範の代わりに労働者個人のプロフィールのつながり(ホラクラシー)を重視するため、プロジェクトなど単発の業務には向いているかもしれない。ただし、内部規範が十分に機能しない状態ではむしろ、「ティール組織」は人脈による同調圧力を正当化する危険性さえあるのではないか。
不正を容認する内部規範
上記の通り、内部規範を優先することが生存戦略となっている組織では同調圧力による正当化が行われやすい。さらに内部規範の外部化が行われれば、社会規範に反するような不正行為であっても内部規範上は正当な行為とみなされる。数年前に日本のみならず欧米の有名企業で内部検査の不正が発覚した。報道などを見た限りではあるが、日本と欧米ではそのモチベーションに違いがあるように思われる。すなわち、欧米企業で内部検査の不正が行われたのは公的な規制強化が続く中でコスト増を回避するためであったのに対し、日本企業では公的な規制までは必要なく内部検査の基準で十分という意識が感じられる。日本企業で不正行為が行われる背景には、内部規範への過度な依存と内部規範からの逸脱への恐怖という二つの側面があったといえよう。内部規範と外部からの人材登用
内部規範が重視される日本のメンバーシップ型組織において「心理的安全性」や「ティール組織」の考え方を導入して定着させることは、より困難を伴うことは想像に難くない。数年おきに内部昇進するサイクルの中では特に、内部規範を守ることを優先せざるを得ないのが現実的な判断となる。さらに日本型雇用慣行の内部昇進によって形作られた人脈による同調圧力は、より正当化圧力に傾きやすい。これを防ぐ方策はいくつか考えられるが、特に日本の行政組織で手っ取り早い方策として採用されるのが経験者採用である。「多様なニーズに対応する」という名目で就業経験がある者を採用するものだが、これまでの考察でそれがほとんど効果がないことは明らかであろう。内部昇進を前提とする組織の構成員となった時点で、人脈による同調圧力と内部規範の外部化による正当化を行うことが求められるからである。このような「求められる行為」を実践できない者や実践を拒み異議を唱える者はメンバーシップを著しく制限されることとなり、結局は内部規範を維持する組織が温存されることとなる。
脚注1
芸能というのは人間が作るものである以上、人間同士のコミュニケーションが必須です。どんな業界・会社・組織でもそれは変わらないでしょう。人間同士の密な関係が構築できなければ、良い作品など生まれません。そうした数々の才能あるタレントさんを輩出したジャニーさんの功績に対する尊敬の念は、今も変わっていません。
私の人生にとって一番大切なことは”ご縁”と”ご恩”です。ジャニーさんの育てた数多くのタレントさんたちが戦後の日本でどれだけの人の心を温め、幸せにし、夢を与えてきたか。私にとっては素晴らしいタレントさんたちやミュージシャンたちとのご縁を頂いて、時代を超えて長く歌い継いでもらえる作品を作れたこと、そのような機会を与えて頂いたことに心から恩義を感じています。
「2023-07-09■山下達郎のサンデー・ソングブック 書き起こし」
脚注2
法治よりも人治?悪しき先例踏襲
官僚組織はその性質上先例を尊重します。組織の安定のためには有効なのかもしれませんが、批判的な自己改善を怠ると、たちまち硬直し、本末転倒な結果を招きます。これは学生舎における慣行に顕著です。
(略)
ごく最近になって開明的な考えのN訓練部長(海将補)が着任して、よいやく長年続けられていた乾布摩擦は廃止されました。しかし、ここで問題にすべきは、乾布摩擦の是非よりも、訓練部が学生からの申し立てを、たんなる先例踏襲で一蹴してきたことです。これは合理的な根拠に基づく、改善への自発的な意志を否定することで、学生たちの士気を削ぐ行為です。
N訓練部長のような人物が改革に着手してくれたことはありがたいのですが、乾布摩擦の廃止はあくまでの訓練部長という高級幹部のイニシアチブによるものです。N訓練部長が定期異動で去り、頑迷固陋でパワハラ的な人物が後釜に座れば、事態が逆戻りする可能性も否めません。このようなことは訓練部に限らず、教務の分野でも起こっています。学生や一般教官のイニシアチブが尊重されず、学内有力者の意向がことを大きく左右する点で、防大には「法治」ではなく「人治」という前近代的な体質が色濃く残っているのです。
等松春夫「危機に瀕する防衛大学校の教育.pdf - Google ドライブ」
世界の快適音楽セレクション - NHK
番組をご存じない方のために番組冒頭でチチ松村さんが説明される決まり文句から引用すると、「ちょっと変わった切り口でいろんなタイプの曲がいっぱいかかる」という番組ですが、その切り口というかテーマは何でもありでして、先週3月4日(土)のテーマは「ジの音楽」でした。アーティスト名とか曲名とか歌詞とか作曲者名でもとにかく「ジ」が入っていればなんでもOKという緩さがこの番組の魅力です。そのトークの話に入る前に、ゴンチチの音楽と言えばテレビとか街中で流れるBGMによく使われるのでほとんどの方が(それとは知らず)聞いたことがあるのではないかと思われるのですが、ゴンチチのお二人はどちらもデビューからしばらくは会社勤めをしながらの「兼業ミュージシャン」だったそうです。
という経歴をお持ちのお二人がそれぞれ架空の人物になって曲をかけるミニコーナーがありまして、そのうちのチチ松村さんが銭湯の主人に扮する「亀松湯」のコーナーでは、ゴンザレス三上さんが若いころのご本人として登場されることになっています。普段は番組のテーマとは関係ない曲がかかるのですが、今回は「ジの音楽」にちなんだ曲はないかということで、1960年代のブラジルで活躍したギタリストGeraldo Vesparの"Dindi"という曲がかかりました。1950年代から活躍して1966年に交通事故で亡くなったブラジル人シンガーのSylvia TellesにAntonio Carlos Jobimが捧げた曲で、曲名は「ジンジ」と発音するとのこと。その発音からチチ松村さんが電電公社で勤務経験があるゴンザレス三上さんに「人事と聞いて思い出すことはあるか」と話を振ったところ、ゴンザレス三上さんは大変興味深いお話を展開されます。――ところで、デビュー前も後もお二人とも会社員として働きながら音楽をする「兼業ミュージシャン」だったのですよね?
松村 最初は音楽だけで食べていくのは無理やったからね。僕は画材や額縁を売る会社に勤めていました。配達とか集金とかしながら、人前で歌ったり演奏したりもして。「二つの顔を持つ男」みたいな気分で(笑)、結構楽しんでいました。
三上 僕は、のちのNTT、当時の電電公社勤めでした。音楽をやりたいと言ったら、公社に勤めていたおやじから「まずは普通に働いて、そこでちゃんとできなければ何をやってもダメだよ」と言われて。2年に一度ぐらい辞令が出るので、それが3枚ぐらいたまったら自由にしていい、と。最初は仕方なしにだったのですが、働き始めてみたらそれなりに楽しく、職場もあって音楽をやる場もあるというのが割といいなと思うように。さらに調子に乗って家のローンを組んでしまったので(笑)、結局15年ほど勤務しました。
ゴンチチ、結成40周年超えて語る「相棒との関係」(後編)ARTS & CULTURE 2019.03.07
日本型雇用慣行が浸透しているようなJTCたる大企業とか役所では、「人事部屋」とか「電車」とかいう言葉が飛び交うのが冬の風物詩ですが、そこではこういう作業が黙々と進められているわけですね。とはいえ、さすが電電公社というか30万人規模の人事異動というのは気が遠くなる作業でして、その数十分の一程度の作業(の一部)しかしたことのない身からしても相当な作業量だったのだろうと思うところです。3月にもなれば4月1日付けの新年度の人事異動もほぼ固まっている時期でして、ここに至るまでの世のJTCの人事担当者のご苦労には敬意を表する次第です。三上 そういう人事課というか、人事にとても近いところに職種があったんですけれども、やっぱり大きな会社でしたので、当時は30万人くらいいたんですね。まあ、全国にあるということです。で、その何がしんどいかといいますと、上の人が一人だけ動くだけで、一人ポコッとどっか行くとか上がったり下がったり、それはよくわからないですけど、そうするとその下にぼあーっとある20数万人の人が動かないとダメになるんですね。上が変わることによって下が二人変わったり、その下はまた四人、五人というように、どんどんどんどん下がまた増えていくわけなんですね。そうすると中途くらいにいる人が変わると、その下にいる人全部が影響を受けてくるんです。
松村 はああ。。
三上 当時はもうコンピューターとかそんなんありませんから、人手で、なんか部屋にこもって、それもずっとこもりっぱなしで、ものすごい大きな壁のところに、この人が動いたときにどの人が動くのかというトレインというか、電車みたいにしてあるんですね。
松村 ええ?
三上 それが一個動くことによって全部ほかのところを動かさないとダメになるんですよ。その人だけ変わるということではなくて。だからもうね、いやもう人事というのは、それだけ大きな会社になりますと、僕は何で人を動かすだけでそんなになんのかなと思ったんですけど、やっぱり大変な作業なんですよね。
松村 いやしかし、自分が慕っている上の人が辞めたら自分もどっか行ってしまわなあかんから、ちょっとつらいなそれは。
三上 まあ、その中途のところはほかの人が入ってきますけれども、ほかの人が入ってきたところの元々の部下の人とか、みんな変わるわけですよね、そこで。何らかの状況で変わっていくわけで、すべてに影響してくるんですよね、上の人が変わると。
(聞き逃し配信では1時間8分ころ)
ゴンチチ,湯浅学「世界の快適音楽セレクション ジの音楽」
3月4日(土)午前9:00放送 2023年3月11日(土) 午前10:55配信終了
などと書くと、拙ブログを長くご覧になっている奇特な方(がいればですが)はもしかすると「いつも日本型雇用を批判しているクセになぜ日本型雇用の肩を持つのか」と思われる可能性も微レ存ですが、上記で書いたことはあくまで実務上の作業に対する労いであって、その是非は別に考える必要があります。私がこの作業で厄介だなと感じるのは、ゴンザレス三上さんのお話に出てくる「電車」と呼ばれるような人事の玉突きでして、その説明だけを見れば欧米で言うSuccession Planのような幹部登用の仕組みに見えますが、少なくとも私が見ていたところではそれほど強固なものではなかったと記憶しております。
むしろその「とき」の人事権を持つ幹部によっていかようにでも配置は変えられるもので、日本の人事の弊害として「個々の労働者のキャリアに責任を持つ人事担当者がいない」と指摘されるように、前任の人事担当者の「とき」に力を持つ幹部の意向によって配置された人事に後任の人事担当者は手の出しようがありません。それは更にその次の後任の担当者も同じなわけでして、こうしてその「とき」に応じて異動された大多数の労働者は、海老原嗣生さんが指摘されるような「クランボルツの計画的偶発性理論(planned happenstance theory)」によるキャリア形成をすることもなく、落ち穂拾い的な異動を繰り返していくことになります。その一方でその「とき」に乗って引き上げられる労働者は往々にしてその人事権を持つ幹部と昵懇であることが多く、こうして縁故主義的な調整能力に長けた幹部によって上層部が占められていきます。こうして日本型雇用慣行に特徴的な「管理職」が脈々と量産されていくわけですね。
日本型雇用慣行においては、管理職の主な仕事は「管理」そのものではなく、部下が管理した仕事が全体最適に適うように調整することです。しかし、部下が調整したり確認したりした仕事は、その部下が理解して処理できる範囲では適正かもしれませんが、より精密な処理が求められる場面で十分かどうかは全体最適だけでは判断できない場合も当然ありえます。
さらに、全体最適というのは要は「お前のリソースを組織のために使わせろ」ということを組織として命令することですので、関係部署に確認したり、場合によっては外部の専門家に確認したりしたところで、上司である管理職がその確認結果を認めるかどうかは結局、全体最適に適うかどうかという基準に戻りがちです。要すれば、「俺の望む全体最適に合致しない専門性は不要」という判断が往々にしてなされてしまうわけで、「○○(上司)がこうしろといっているんだからその通りにしろ」とか「組織のメンツが立たないからそれはできない」という全体最適が実現してしまうことになります。
日本型雇用慣行における管理職(2021年03月22日 (月))
さらにいえば、ゴンザレス三上さんは言及されていませんが「すべてに影響してくる」という「すべて」にはもちろん新入社員も含まれますので、年度末に一斉で行われる人事異動と新年度の新入社員一括採用はそもそも一体のものとして行われることになります。
というような仕組みで成り立っている日本型雇用慣行において、人事異動はゴンザレス三上さんが指摘されるような無数の「電車」のつながりを組み合わせる膨大な作業となります。その「電車」の末端に新規学卒者が当てはめられるからこそ、新卒一括採用が広く行われている(学校の卒業時期が一緒だから一括なのではなく、採用側の都合で一括になっているということです。為念)わけで、「雇用の流動化」とか「通年採用の導入」とか威勢よくおっしゃる方がこの作業のどこに流動性を取り入れようとされているのかご所見を伺いたいところではありますが、まあ実務に役立ちそうな答えは期待薄ですね。で、その人事異動について本書では、
というのもあまりに大雑把な批判ですね。「「異動」が会社内部の手続きとなるのは、定年退職とセットになった新卒一括採用のため、定年退職で空いたポストに順次「昇進」させながら、上から末端までの中間のポストに空きを作らなければならないという物理的な必然性があるから」であって、退職者と新採用の間に無数に発生する空きポストに玉突きで人事を割り振っていくのがすなわち「人事異動」です。日本型雇用慣行の運用の中では、大多数の「普通」の職員は空いたポストにある程度機械的に割り当てざるをえないわけでして、そうした「普通」の職員にとってはどこに飛ばされるかわからないという印象になるのもある程度やむを得ない面はあります。とはいっても、一定の「有望」な職員は上層部が意図を持って引き上げていくので、「全くのブラックボックス」というのは言い過ぎですね。人事部が社員に仕事を割り当てるプロセスは、全くのブラックボックスであると言ってよい。大抵の場合、割当の理由は不明瞭で、個人の興味、願望、才能、家庭の事情が考慮されることは殆どない。偶然興味がある仕事を割り当てられることもあるが、それは決して保証されているものではない。企業に命じられた仕事を、何であっても喜んで引き受ける態度が不可欠とされ、就職の時点でもそれが期待されている。
カップ『同』位置250/3383
日本企業の社員はエンゲージメントが低い?(2016年06月04日 (土) )
ということで昨年から愛宕神社のヴァーチャル参拝でおみくじを引いており、ことしも初詣しておみくじ引いてみました。
ヴァーチャル参拝 | 愛宕神社
愛宕神社で2回目のおみくじは吉となりまして、昨年の大吉よりはやや懸念材料もあるもののまあ幸先のよいスタートを切ることができました。ということで今年も無事これ名馬を心がけて参りたいと思います。吉
時が大切です。時とは時間であり、チャンスであり、正しい時期です。
あなたにとってどれがピンときますか。鏡の中の影は、本体の動きの通りにしか動きません。
あなたの日常のふるまいや思考が、あなたの運勢を創り出します。
心正しく、行いをすなおにしましょう。
特に異性問題を慎み、家庭を大切にしましょう。
【願い事】
かなうでしょう。
しかし、そこに色恋の影がある場合は妨害が起こり、かなわない場合もあります。
【待ち人】
期待できません
【失し物】
なかなか出てきません。
今日はあらきめましょう
【旅行】
連れの人に左右されます。
【ビジネス】
変化はありません
【学問】
日頃の努力が反映されます
【争い事】
口に注意。 言わぬが花。
【恋愛】
相手のことを冷静な目でみてみましょう。
他人にやさしく、正直で素直な人ならば吉
【縁談】
あなたの迷いに注意
他人の言動に迷わされず、自分で心を定めましょう
【転居】
いいでしょう
【病気】
安心してください