2022年04月05日 (火) | Edit |
前回まで3回にわたって日本型雇用とジョブ型の接続の厄介さについて、いつもの繰り返しではあるのですが、主に日本型の「管理職」が置かれた状況が捻れに捻れている辺りを中心に書いてみたところです。ざっと振り返ってみますと、
  1. 異動を前提とした組織運営によって、必然的に多くの部署の管理職は「職能資格があるから組織内のことは分かるけど担当する分野は素人」として決定を行うことになる。
  2. 「知識や経験が生かせない管理職」は「何とかやっていける仕事」に従事し、組織全体が「何とかやっていける仕事」に特化していく
  3. 専門性がないことを是とする組織において回りまわって「何とかやっていける仕事」そのものができない構成員が増えていく
というような事態が進行し、組織全体の機能低下が深刻な状況となっているのではないかと考えております。

これだけでも十分に捻れているのですが、もう一つ重要な捻れがありまして、それが派閥による仕事のプロトコルです。「仕事のプロトコル」とは何のことかというと、「何とかやっていける仕事」というのは本来、担当者が変わってもアウトプットのレベルが落ちないようにその仕事の工程や手続きを標準化することを意味するはずなのですが、組織がそれに特化するようになると、その工程や手続きの精緻化が進んでいきます。その工程や手続きが代々伝わっていく過程では、その部署内にとどまらず関係する部署や取引先も同じく組み込まれていくことになり、その関係者内で共通の工程や手続きが「仕事のプロトコル」となるわけです。

この「仕事のプロトコル」が形成される過程で重要なキーワードが「巻き込み」です。日本のビジネス書ではデキるビジネスマンに必須の能力として「巻き込み力」が上げられることが多いのですが、それは日本の組織においては歴代の前任者が形成したプロトコルを早期に体得し、それがなければ上記のように自ら関係者を巻き込んで形成したプロトコルを駆使しなければ仕事ができないという実態を反映したものと思われます。

そのようなプロトコルが形成された組織において担当者が変わった際に重要視されるのは、前の担当者が磨き上げたプロトコルをいかに早期にかつ忠実に体得するかということになります。関係者まで巻き込んで形成されたプロトコルは担当者が変わったからといっておいそれと変更できないのはもちろんのこと、たまに異動して早々に「○○の工程は不要じゃないか」とか「△△の手続きは簡素化できるじゃないか」などとクリティカルな指摘をする天才が現れるかもしれませんが、大抵の場合、そのような疑問は既に何度も検証されて棄却されたものであって、そんなことをグダグダいっている暇があったら仕事を覚えろと言われるのがオチですね。

しかも厄介なことに、そのプロトコルは往々にして属人的である場合が多く、たとえば気難しくて有名な相手方から「前任者は同じ高校出身で話が盛り上がってしょっちゅう飲んでたけど、あなたはライバル校なんだってな」などと言われてしまい、前任者のプロトコルが通用しなくなることもままあります。そこまで露骨ではないとしても、異動した先が異様に団結の強い集団に牛耳られていてその仲間に入らないと仕事が進まないとかはよくある話で、そうなるといわゆる派閥が生まれて社内政治で物事が決まる度合いが高まっていきます。

もちろん派閥による社内政治で物事が決まるのは洋の東西を問わないでしょうし、それが一概に悪いということでもないのですが、異動を前提とした組織においてプロトコルが形成されて派閥が拡大すると、仕事をこなすためには前任者のコピーとなるのが手っ取り早いということになります。冒頭でまとめたような経路で機能低下が進む組織においてはその傾向が強まりますし、その中で「知識や経験が生かせない」仕事に従事する立場になればなおさら、派閥に属して前任者のコピーとなれば評価されやすくなります。これは知識や経験を生かせるコースを歩くエリートも同じでして、自分の次に続くエリートたちのためにプロトコルを形成して派閥を拡大していくことで、後継者がコピーとなってプロトコルをさらに磨き上げていく派閥がさらに拡大していくことになります。

でまあプロトコルを形成したこともありつつどちらかというと巻き込まれる側のほうが多かった私などからしても、プロトコルの形成そのものは必要なものだと考えています。異動を前提とした組織に限らず、工程や手続きが標準化されることで効率化が進みますし、構成員の学習コストを下げることにもつながるからです。ただし、そもそも「巻き込み」という言い方がインフォーマルなやり方を称揚しているようで気に食わないのですが、仕事のプロトコルである以上はそれをフォーマルなものとしてシステム化する必要があるはずです。ところが、異動を前提とするとシステム化することでブラックボックス化する可能性があるため、結局インフォーマルなプロトコルとして代々引き継がれていき、それが仕事の効率化を阻んで専門性が阻却されていくという現状をもたらしているのではないかと考えます。

ということで、日本の組織の多くでは、冒頭の1〜3に加えて派閥による仕事のプロトコルの捻れが加わっているものと思われます。そこには日本特有ではない捻れもありますが、日本特有の事情による捻れが加わることでより複雑怪奇な組織となっている可能性があります。うーむ、考えれば考えるほど途方に暮れますが、その意味でも何も考えずに前任者のコピーとなるのが最強の戦略なのかもしれません。
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2022年04月04日 (月) | Edit |
前々回、前回に引き続き連投になってしまいましたが、これまでのエントリでみたような日本型雇用の組織の機能低下について、ジョージタウン大学のコンピュータサイエンスの准教授のカル・ニューポート氏が実はアメリカでも似たような現象が生じていると指摘されていて、日本型雇用という事情を取っ払ってみても世界共通の現象なのかもしれないなと。

著書『メールなき世界』では、数年間の調査を経てその質問に答えることができました。2つのことが起きていると思います。まず一つ目に、現在のオフィスワークは、先代のあらゆる経済セクターでおこなわれてきたオフィスワークとは異なるということです。

現在は、自分の仕事をいかに計画し実行するかを決定するうえで、人々に多くの自立性を与えています。そのせいで組織全体が無能になり、何かが必要なときは全従業員がいつも誰かに頼るという協力体制に依存させているのです。彼らはそのためにメールや、「スラック」などの代替策を使用し、結果として「ディープ・ワーク」は不可能となっています。

問題は、そうした罠から逃れる術は本人の手に委ねられていないということです。絶え間なく気が散るのを避けるため、どのように計画を再考するかを決めるのは、その会社であるべきです。

「自分の学習能力に集中せよ カル・ニューポート「絶えず気が散るせいで、脳の働きがどんどん悪くなっている」」(クーリエ・ジャポン 2022.4.1)

会員向け記事(無料会員になると月2本の記事が読めるとのことで、私も無料会員で読みました)ですが、私はカル・ニューポート氏の本は読んだことがなく、どのような問題意識で「組織全体が無能にな」ったと認識されているのかよくわからないところがあります。記事の内容からするとおそらくアメリカでも組織全体の機能低下が意識されていて、その原因をスマホとともに急成長したアテンション・エコノミーによって集中力が削がれていることに見いだしたということのようですが、ということはアメリカでの組織機能の低下はここ10年程度で問題と認識されるようになったのかもしれません。

という問題意識はそれとして、「現在は、自分の仕事をいかに計画し実行するかを決定するうえで、人々に多くの自立性を与えています。そのせいで組織全体が無能になり、何かが必要なときは全従業員がいつも誰かに頼るという協力体制に依存させている」という指摘はまさに日本にも当てはまるのではないかと思います。ただし日本におけるそれはアテンション・エコノミーが原因ではなく、前回までのエントリで指摘したような日本型雇用による組織が「何とかやっていける仕事」に特化した結果のように思われます。

その「何とかやっていける仕事」に特化した組織で意思決定を行うのが日本的「管理職」であって、前々回エントリでは「日本の「管理職」はマネジメントしない(できない)で何をやっているかというと「決定」をしている」と書いたところですが、その管理職が行う「決定」の内実をもう少し具体的にいえば、

日本型雇用慣行においては、管理職の主な仕事は「管理」そのものではなく、部下が管理した仕事が全体最適に適うように調整することです。しかし、部下が調整したり確認したりした仕事は、その部下が理解して処理できる範囲では適正かもしれませんが、より精密な処理が求められる場面で十分かどうかは全体最適だけでは判断できない場合も当然ありえます。

さらに、全体最適というのは要は「お前のリソースを組織のために使わせろ」ということを組織として命令することですので、関係部署に確認したり、場合によっては外部の専門家に確認したりしたところで、上司である管理職がその確認結果を認めるかどうかは結局、全体最適に適うかどうかという基準に戻りがちです。要すれば、「俺の望む全体最適に合致しない専門性は不要」という判断が往々にしてなされてしまうわけで、「○○(上司)がこうしろといっているんだからその通りにしろ」とか「組織のメンツが立たないからそれはできない」という全体最適が実現してしまうことになります。

「日本型雇用慣行における管理職(2021年03月22日 (月))

ということになります。この部分を上記のカル・ニューポート氏の指摘と比較してみると、なんとも似通っているように私には思えてしまいます。

独自のメンバーシップ型で組織が運営されている日本とジョブ型で運営されているアメリカにおいてこれほど似通った現象が生じているということは、拙ブログで延々指摘してきたような日本型雇用による組織運営が日本における組織の意思決定を歪めてきたというストーリーは成り立たないのではないかと一瞬思ったのですが、(いやまあ見当違いのことを書いてしまったかなと一部は反省するところもありつつも)現象が似通っているからといってその原因まで同じでということもないだろうとも思います。むしろ、世界的に仕事でのネットワーク活用が進む中でカル・ニューポート氏が指摘されるような相互依存による組織の機能低下が進展するとなると、日本型雇用の問題を抱える日本はさらにハンデを負ってしまっているともいえるのではないかと思います。

ということを考えさせられた増田ではありますが、同じ道を辿りそうな現象はあちこちで現在進行形で進んでいるようです。

かつて日本型雇用が絶賛されていたとき、欧米はそのジョブができる人をそのジョブにつけるなどという不効率なことをやっているからだめなんだ、なにもわからない素人をいきなりぶちこんで、上司や先輩がびしばし鍛えてできるようにしていく我らがOJTこそが、もっとも効率的なやり方なんだ、という議論がはやっておりました。

が、そういうOJTサイクルがうまく回っておれば良いのですが、うまく回らないと、こういう事態も発生するようです。

いやいや、それ「イラっと」する程度の話じゃないような・・・。その「他課の上司」が素人では、誰がびしばし鍛えるの?

OJTサイクルが回らないと・・・(2020年7月31日 (金)) - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

元増田の方の現役時代の仕事ぶりはよくわかりませんが、もしかすると「(上司に言われたんで)よくわからないんだけどー」といいながら増田に書いたような仕事をして、そのことを退職した今になって後悔しているのだとしたら、世の役所や大企業の人事担当者はこの後悔の言葉を他山の石とすべきなのでしょう。まあ、かといって「なにもわからない素人をいきなりぶちこんで、上司や先輩がびしばし鍛えてできるようにしていく我らがOJTこそが、もっとも効率的なやり方なんだ」という信念はかなり強く感じられるところでして、役所や大企業ができることはあまりなさそうですが。

とある人事部長の後悔は他山の石となるか(2020年09月04日 (金))

日本型雇用で運営される組織がバブル崩壊後に「何とかやっていける仕事」に特化したことによって組織内で専門性が確保されなくなり、専門性がないことを是とする組織において回りまわって「何とかやっていける仕事」そのものができない構成員が増えていくという事態が進行しているように思います。あくまで私の観測範囲ですが「他課の上司が、自課の業務のことなのに『よくわからないんだけどー』」という光景はそう珍しくなくなっている中で、相互依存はより深まっていくことが予想されます。もちろんこちらのtweetで「イラッと」した方の気持ちは痛いほど分かるのですが、それは組織運営の結果であってその「他課の上司」の責任ではないかもしれません。何年か後の異動で担当したこともない業務の管理職になったときに同じ言葉を発することがないことを祈るばかりです。

そんな組織に「ジョブ型」などという専門性を前提としたような雇用慣行は相容れないだろうなと思うところでして、前回エントリの冒頭で書いた通り「この捻れは特に日本型雇用だけの問題ではないので、厄介かつ手の打ちようがない問題ではないか」ということで、まあ捻れ捻れて手のつけようがないですねえ。

2022年04月03日 (日) | Edit |
ということで前回エントリの続きですが、「何重にも捻れてしまっている」と書いておきながらひと捻りくらいしかしていないので、ここからさらにどう捻れているかを考えてみます。といいつつややネタバレ的に言えばこの捻れは特に日本型雇用だけの問題ではないので、厄介かつ手の打ちようがない問題ではないかと考えています。

まず昨年『人事の組み立て』を出版された海老原さんですが、その後の日経human capitalの連載を基に『人事の企み』を出版されるとのことで、その連載で次のような指摘がありました。

 なぜ、「日本人はグルグル回る」という誤解が根強く染みついているのか。その理由として、私は官公庁(とりわけエリート)と大学の職員が、まさに「グルグル」型のキャリア形成をしているからではないか、と考えています。官僚や大学教授といったオピニオンリーダーたちが、周囲を見回せば、そこにはグルグル型が広がっている。だから彼らが誤解し続け、そして、その誤解が言論界にまで及ぶ、ということです。

「人事の企み ~社長が頷き社員がハマる、組織づくりの妙手~日本型雇用の特徴「部門を超えたローテーション」は本当に悪なのか 第4章 組織開発と人材育成 社内に2つの階段を作れ(1)」(Human Capital Online 2022.02.10)

私などはエリートでも何でもないformer地方公務員ですが、地方公務員の人事制度は国家公務員のそれを実質的に追従することが慣例となっており、ご多分にもれず私もグルグル回るキャリアでした(その私が拙ブログで取り上げる人事制度の考え方もグルグル型キャリアから多分に影響を受けていると思われますので、まあその点は差し引いていただく必要があるとは思います)。

という組織にいた者として、グルグル型のキャリアを歩む役人が国の制度設計に携わっていることで、意思決定にそれなりのインパクトを与えているのではないかと考えています。拙ブログではhamachan先生に倣って労働法における公法私法二元論には懐疑的な立場ですが、公務員の労働問題も民間企業と同様に組織運営に由来する部分が大きく、その組織運営は同時にグルグル型キャリアに象徴的なメンバーシップ型の日本的雇用慣行に従っています。組織における意思決定はもちろんその構成員のキャリアに大きく影響されることになりますから、つまるところ役所の組織運営とグルグル型キャリアは相互に強く影響し合うことになるわけです。

そんな組織の仕事について、海老原さんは次のように指摘されます。

 ただ、案外、そうした専門性がなくとも、何とかやっていける仕事もけっこうある。しかも、そうした「何とかやっていける仕事」が、ヒラの雑用だけでなく、係長、課長、部長と各役職レベルごとに、内容や難易度こそ異なれ、やはり存在するのです。だから、どのランクの人が別職場からやってきたとしても、一端はこの「何とかやっていける仕事」を任せる形で引き受けが可能。こうした仕事をこなして、1~2年程度で元の「主」務に帰参するか、もしくはこうした仕事をしている間にその部署の専門知識や技術を身に付けてそのまま長居するか、というキャリアとなる。つまり、「何とかやっていける仕事」がキャリアのステップボードになっていると言えるでしょう。

「人事の企み ~社長が頷き社員がハマる、組織づくりの妙手~日本型雇用の特徴「部門を超えたローテーション」は本当に悪なのか 第4章 組織開発と人材育成 社内に2つの階段を作れ(1)」(Human Capital Online 2022.02.10)


個人的にこの指摘は大変重要だと考えておりまして、「何とかやっていける仕事」が各層にあるということはその組織が各層での異動を前提とした組織運営によって成り立っていることを意味しますから、逆にいえば「何とかやっていける仕事」がなくなると異動ができなくなるということになります。となると、組織運営はもちろんのこと、異動する労働者の側もいつまでも自分がその仕事をするわけではない以上、「自分しかできない仕事」ではなく「誰でもそれなりにできる仕事」をするようになり、意識的に専門化を避けるようになるわけです。

それは次のような海老原さんの指摘からも伺われます。 

 この「何とかやっていける仕事」を解明しておきたいのです。

 それこそ、実は「TypeC」の職務だと私は喝破します。TypeCのキャリア類型とは「そこそこのOSがあれば、誰でも遂行ができる」難易度であり、それはTypeAのような高度な積み上げではないけれど、「年功に応じて徐々に上がっていく」ものと規定しております。

(略)

TypeCのタスクに対して、外部労働市場から人材を調達するか、社内異動で充てるか。この選択が企業に迫られており、欧米なら社外、日本は社内となりますが、ともに一長一短があるのです。

 まず、日本型の充足法だと、以下のメリットがあります。

1.職務レベルごとに必要な「OS」があるが、それは「職能等級」で代用可能であり、係長レベルの難易度の「何とかやっていける仕事」であれば、係長等級者を、同様に課長レベルであれば課長等級者を、という適材が瞬時に任用できる(このレベルゲージとして職能等級は秀逸といえる)
2.会社の理念、人的コネクション、社内用語などの企業内特殊熟練をしっかり積んでいる
3.事業内容や業界に関しての知識が、外部労働市場の人材よりも厚い

 たとえば、トヨタ自動車であれば、社内補充した場合、トヨタウェイが染みついた人であり、自動車には相当詳しく、また、社内のどこに誰がいるか、などの知識もある。だから有利だと言えるのです。

「人事の企み ~社長が頷き社員がハマる、組織づくりの妙手~日本型雇用の特徴「部門を超えたローテーション」は本当に悪なのか 第4章 組織開発と人材育成 社内に2つの階段を作れ(2)」(Human Capital Online 2022.02.10)

トヨタといえば日本を代表する大企業であって、もちろんメンバーシップ型の日本型雇用の典型でもあるのですが、ここで海老原さんがTypeCとカテゴライズしている仕事は、主に中小企業に見られる専門性の高くない仕事です。トヨタのような大企業に中小企業のようなTypeCの仕事があるのか?と一瞬疑問に思うところですが、ここに日本中のエリートが応募してその中から厳選して採用できる大企業だからこそ可能というカラクリがありますね。

つまり、学歴エリートのような優秀な人材を厳選して採用できる組織は構成員の平均的な「能力」が高いわけですから、その社員が「何とかやっていける仕事」のレベルも高くなります。「何とかやっていける仕事」のハードルを上げることができれば、グルグル型のキャリアでもそれなりのレベルの仕事を維持することができるわけです。こうして組織全体の仕事を「カイゼン」してレベルを高めていく日本型雇用は、「何とかやっていける仕事」のハードルを上げ、それを土台として専門的な仕事のレベルも上げていくという形で1980年代までは好循環を生み出したものと思われます。

ところが、バブル崩壊後に日本型雇用が正規雇用の範囲を絞って非正規雇用を拡大していく中で、グルグル型のキャリアは「何とかできる仕事」そのもののレベルアップに特化していきます。前回エントリで取り上げた「知識や経験が生かせない管理職」というのはおおむね40代を過ぎて「エリート社員」のコースから外れながらも職能資格を積み上げた大多数の正社員の処遇ポストであり、その「知識や経験が生かせない管理職」は「何とかやっていける仕事」に従事することになります。多くの管理職が「何とかやっていける仕事」に従事する組織で専門的な仕事のレベルアップが進むはずもなく、日経連が1995年に示した「雇用ポートフォリオ」では正規雇用を絞る代わりに「専門職」を創設することが展望されていたわけですが、結局現在にいたるまでこの「専門職」が定着することはありませんでした。日本の組織において専門的な仕事のレベルを上げていく機能が失われてしまったといえるのかもしれません。

とはいえ、前述の通りトヨタのような大企業なら学歴エリートの層が厚く専門的な職種もあるでしょうから、「何とかやっていける仕事」だけではなく専門的な仕事も高いレベルを維持できていると思います。しかし、中央省庁のキャリアが、専門的な知識が不要という意味で「何とかやっていける仕事」である国会対応に多くの労力と時間をとられ、肝心の法制執務や制度設計のレベルが低下するのであれば由々しき事態ではないかと思います。

ということでやっと冒頭で引用した部分に戻りますが、役所の組織において多くの構成員が国会対応などのロジのような「何とかやっていける仕事」に注力して特化していく現状は、専門的な仕事のレベル低下を招き、引いては制度設計や執行の不備に繋がる可能性があります。もちろん国権の最高機関たる国会対応が不要ということではなく、国会対応に至るまでの専門的な制度設計や執行の部分で機能低下しているのではないかと思われるところですが、もう既にそれは一部で現実化しているように思います。おそらく中央省庁に比べて「能力」の低い地方自治体ではさらにその傾向は強まっているでしょうし、トヨタとは逆に業績が低迷している企業でも見られる現象かもしれません。まあその話はこれまで散々書いてきましたので繰り返しませんが、さらに本エントリの初っぱなに書いた「日本型雇用だけの問題ではない」というひと捻りがまだ残っていますので、それはまた次回へ続きます。

2022年04月02日 (土) | Edit |
毎度ながらネタにするタイミングが遅いのですが、昨年8月に参加したウェビナーの詳報が(現時点で)前号となる『労政時報』第4031号に掲載されていまして、現在の職場で苦悩しながら聞いていた当時を思い出しながら拝読しました。その当時の拙ブログでは、

中小零細企業によくありがちな「疑似ジョブ型」ではありますが、経営陣を含めて社内でも「日本型雇用慣行」が規範化されている面がありまして、「情意考課」的な評価制度にこだわりがあるんですよね。曰く「全体の給料は低いけど、デキる奴はちゃんと評価してやりたい」という建前がありながらも、その内実は「俺の会社なんだからメンバーに相応しい奴以外はいらない」という本音だったりするわけです。
(中略)
という諸々を抱えつつ、私から「ジョブ型」で評価を行う際の視点や、そもそも職に値段がついている「ジョブ型」での評価の要否についての質問をしたところ、hamachan先生からは(あくまで私の理解ですが)「ジョブそのものに値段がついているのだから評価しないのが原則」「ジョブの内容に応じて評価軸は異なるので、評価の要否を含めてジョブに応じて考えることになる」旨のご回答をいただき、これはやはり「ジョブ」単位の職務構成の構築に本格的に取り組まなければという思いを新たにした次第です。

「ジョブ型」と評価制度(2021年08月23日 (月))

と書いておりましたが、その質問も第3部 ジョブ型雇用に関する質疑応答(受講者から登壇者への質問)のQ6で掲載されています。まあ大企業の人事担当が購読するような媒体主催のウェビナーですので私の質問など恥ずかしくなるほど質問一つ一つが大変レベルが高く、全体を振り返ってみても改めてジョブ型と日本型雇用の接続はどうにも厄介な問題だなあと感じております。

といいますのも、上記の質疑応答の中ではQ3で管理職にジョブ型を導入すること、Q5でいわゆる「定年」後にジョブ型を導入することについての質問がありまして、それに対してhamachan先生はいずれも身も蓋もなく「ジョブ型」にはなり得ないだろうと指摘されていて、まあそうだよなと納得せざるを得ないんですよね。つまり、日本型雇用における管理職にジョブ型を導入すると言っても、そこで意味する「管理職」とはマネジメントを担う職種ではなく、新卒ヒラ社員から職能資格を積み重ねて「資格」を得た(有り体にいえばエラくなった)正社員に与えられた身分だという実態があります。そこに「ジョブ型」を導入することは、部下の労務管理程度はするとしても業務そのものはマネジメントしない(できない)ような管理職の「資格(とそれに対応する職能資格給)」を引き下げる方便でしかないのが現実です。

結局、新卒で「白地の石板」として採用されて異動しながら職能資格を積み上げてきた正社員の進化形が管理職である以上、職務を限定せずに異動させて「ジョブ」を規定していない組織において管理職になったから、あるいは定年に達したからといって「今日からジョブ型です」というわけにはいきません。たとえば定年後も「ジョブ型」とするためには、その前の段階で少なくとも5年〜10年のスパンで「ジョブ」に従事していたという実績があって、60歳という年齢にかかわらず同じ仕事ができる限りは同じ「ジョブ」に従事するからこその「ジョブ型」といえるのでしょう。つまり定年をきっかけに「ジョブ型」へ移行するのではなく、定年前から「ジョブ型」に移行している必要があって、その労働者が仕事の効率や精度を上げてきた実績に基づいて同じ仕事ができるうちは、年齢だけを理由として雇用条件を変更することはできないのが「ジョブ型」の世界なわけですね。

翻ってみるに、検察官の定年延長が話題になったのも既に世間的には記憶の彼方に薄れつつあるようですが、定年になった途端に一律で7割まで給与を低下させることができるような国家公務員法の改正が行われるメンバーシップ型の社会において、定年前から「ジョブ型」の仕事を用意してそれに従事させることは現実的ではありません。

この問題が厄介なのは、社会とか組織の側もさることながら、メンバーとして働いてきた労働者の側も納得しがたいという事情があります。メンバーシップ型雇用を支える職能資格給制度の基礎になる職能資格は異動や経験で積み重なるという運用がされますが、処遇される側の労働者にとってそれは上述の通り「エラくなる」という「格」を意味します。その日本の「管理職」はマネジメントしない(できない)で何をやっているかというと「決定」をしているんですよね。その決定に箔をつけるのが「格」であって、だからこそ管理職は職能資格という「格」が上がって与えられる身分となります。日本の組織においては「格」がなければ決定できなくなるわけですから、管理職にとって重要なことはエラくなること=「格」が上がることであって、マネジメントは二の次となるわけです。

実はここも何重にも捻れてしまっているところですが、決定するために必要な資質は何かと考えたとき、確かに組織運営上は部下に指示をする上で上司が格上であることが十分条件となり得ますが、決定の質を担保するためにはその決定に関する知識や経験が必要条件となるはずです。しかし異動を前提とした組織では全社員を均等に異動させる必要があるため、職能資格を積み上げる過程で得た知識や経験が生かせる管理職と、知識や経験が生かせない管理職が必然的に生じます。このうち前者は「「できる社員は出世コースを異動する」というトートロジカルな現象が発生するのは、昇進や昇給の対象となる者を厳選する必要があるから」という理由でいわゆるファストトラックをエリート社員が出世していくコースとなりますが、それはあくまで一部のエリートに限られます。その他大多数は後者の「知識や経験が生かせない管理職」となるわけですから、多くの部署の管理職は「職能資格があるから組織内のことは分かるけど担当する分野は素人」として決定を行うことになります。

そしてその大多数の「知識や経験が生かせない管理職」が定年を迎えるわけで、その時点で突然「ジョブ型」といわれても困ってしまいますし、管理職として「格」が上がったにも関わらず給与を7割に下げるために「格」を下げられることにも抵抗を感じるでしょう。「ジョブ型」の社会は教育段階から職業的レリバンスを身につけ、職業人生の入口段階でそのジョブに採用されることがスタートとなる社会ですが、メンバーシップ型社会では入口で「白地の石板」であることが求められつつ、さらに出口段階で職業的レリバンスの不足に加えて「格」の問題に対処しなければならないわけでして、つくづく厄介な問題だなと思うところです。というところでこの話はもう少し展開していきますので、次回エントリに続けたいと思います

2022年03月12日 (土) | Edit |
拙ブログが一時注目されるきっかけともなりました東日本大震災から11年が経過しました。これまでの月数では132か月です。拙ブログでは震災から経過した期間を月数でカウントしていましたが、さすがに10年を超えてくると月数のほうがピンとこないですね。という11年目の今年は政府主催の追悼式が開催されず、被災した地域でも市町村によっては追悼式ではなく献花台を設置するだけというところもあったようです。

東日本大震災 追悼式行わない東北沿岸の自治体も 献花台を設置(NHK2022年3月5日 7時34分)

東日本大震災の被害を受けた東北沿岸の自治体の多くは、毎年3月11日に追悼式を行ってきましたが、ことしは発生から10年が過ぎたことなどを理由に式典を行わず、献花台を設けるのみとする自治体が出始めています。

NHKは宮城県や福島県、岩手県の沿岸の自治体に、今月11日の追悼の行事について聞きました。

取材によりますと、去年まで追悼式を行ってきた31の市町村のうち、宮城県南三陸町や福島県楢葉町などの2つの県の12の市と町で式を行わず、献花台を設ける形式にするということです。

多くの自治体の担当者は、10年が過ぎたことや費用面の問題があること、去年まで東京で行われていた政府主催の追悼式もことし行われないことを挙げていました。

もちろん、被災された方々の心情としては区切りをつけられる方もいればそうではない方もいらっしゃるでしょうし、それに対して公的機関がどのように対応するかはそれぞれの地域で判断されることになりますが、だからといって追悼式を開催しない地域で復興が完了したということではないことは銘記されるべきだろうと思います。

ということを考えていたところ、顔出しNGで聞きづらいことを聞いてしまおうというねほりんぱほりんで「復興活動から離れた人」がお話しされていました。こちらのtogetterで概要がまとめられています。
【復興活動から離れた人】ボランティアの本音、メディアに取り上げられ使命感に圧し潰されゴールが見えず… #ねほりんぱほりん
他人の話を自分に引き付けて語ってしまうのは気が引けますが、私も被災された地域に隣接する地方公共団体でformer地方公務員として復興事業を担当し、現在は民間企業に転職している者としていろいろと思うところがある内容でして、特に番組の公式アカウントで取り上げられていたこのエピソードはわかりみが深いですね。
こう考えたマドカさんは若者の声を聞くイベントを開催したり、実際に国会議員にその声を要望書として伝えたりという活動をされたそうですが、投票率も上がらず「国」もあまり変わらなかったということで無力感を感じたようです。

この感覚に近いことを書いていたような気がして震災後のエントリをサルベージしてみたら、こんなことを書いておりました。

今回のような未曾有の災害においては、必要な財源を安定的に確保しながら法律に基づいて地方に再分配するため、現行の地方財政制度内、すなわち地方交付税(国税5税を含む)、国庫補助金、地方税(地方消費税を含む)、地方債の四位一体での早急な財源措置が必要です。そして、この災害に対する財源措置についての制度設計が達成できるかは、「税金がムダな公共事業や役人の天下りに使われている」というステロタイプな税に対する不信感を方向転換して、国民が負担増に合意形成するための試金石となるのではないかと個人的には考えております。もっと直截的にいえば、「被災地支援は国が負担すべき」とか「被災者の生活補償は国が面倒見るべき」という一方で、「増税なんてけしからん」という矛盾した物言いはもはや通用しないのです。

復旧・復興に向けてのいくつかの論点(2011年03月27日 (日))

このエントリを書いたのは震災から2週間ちょっとの時点でして、ガソリンも手に入らず避難所の運営や瓦礫の撤去などが喫緊の課題だった当時でだいぶ筆が滑っている感もあり、11年経って改めて読み返してみると「そんなこたぁない」と苦笑いしてしまいます。実際に起こったことといえば、「「税金がムダな公共事業や役人の天下りに使われている」というステロタイプな税に対する不信感を方向転換」することは実現したように思いますが、その向かった先はフロー財源としての税源確保による再分配の拡充ではなく、「反緊縮」とかMMTとかの目新しい理論を拠り所とした増税忌避への揺り戻しでした。

いやもちろん私も震災直後でテンパって「国が変わらなければならない」とまで考えていたわけではなく、「国民が負担増に合意形成するための試金石となるのではないか」という程度で考えていましたので、その後の増税忌避が根強いままという状況はある程度予想はしていました。というわけで、私自身についていえば「国が変わらなければ」というほどの思いはなかったのですが、震災から半年後くらいには私もある意味のメンタルの崩壊を感じるようになります。

・・正直にいえば、私自身、震災後の被災地の状況やそれに対応するための業務の錯綜のため、心が折れそうになったことは何度もあります。あるいは、もうすでにある意味でのメンタルは崩壊しかかっているのかもしれません。もちろん、直接被災した地域ではない内陸部に住んでいて、自分を含む家族が直接の被害を受けていませんので、直接被害に遭われた方々に比べれば恵まれています。しかし、従来の通常業務に加えて被災地支援の業務を一部担当している中で、自分なりに手を尽くしても目に見えて被災地の復興が進むわけでもなく、したがって支援している方々に直接感謝されることも(たまにはありますが)ほとんどありません。むしろ、例年に比べて数倍に膨れあがったサー○ス残業を強いられながら、「役所なんかろくなこともしないでムダなことばかりしやがって」とか「くだらない決まり事ばかり気にして柔軟な対応もできない役立たずめ」という批判に日常的に晒されていれば、通常の精神状態でいられなくなるのもやむを得ないものと諦めております。

「絶対最強の公務員」なんているはずがない(追記あり)(2012年08月31日 (金))

まあ実際にはメンタルを病んで休むまでには至らなかったのですが、自分の中で何かの価値観が崩壊したような感覚は今も残っています。やや強引に言語化するなら、「自分なりに手を尽くしても目に見えて被災地の復興が進むわけでもな」い現実を目の前にして、自分の心を守るために「復興というのは国やら地元の自治体やらが策定した復興計画の数値目標を達成すること」と言い換えることで目の前の現実を仮想化し、自らのやるべきことを数値目標を達成するという仕事に限定してしまったわけです。

それまでにも同じような感覚は感じていましたが、それまでの感覚と震災のときに感じた感覚との違いの背景には、「どうなれば復興なのかなんて考えてもしょうがないなら、自分の心で直に感じるのではなく「仕事」と割り切ってやるしかない」と開き直るしかなかった状況があったのだろうと思います。これが自分で「ネジを外した」と感じるきっかけとなりました。日本型雇用慣行では新卒を一括採用した職場で職能資格を積み上げていくわけですが、新卒が「職能資格」を得るということは学生気分を脱して組織規範に沿うように「ネジを外す」行為を積み重ねていくことといえましょう。もちろんその「ネジを外す」行為には職務を遂行する上で必要不可欠なものもあるのですが、私は震災前までは自分で大事だと思うネジは極力外さずに微調整しながらなんとかやりくりしていたところ、震災で策定された復興計画などの無内容さに辟易としながらそのネジも外さざるを得ない状況まで追い込まれたといえるのかもしれません。

世の中には「ネジが外れた」ような言動を堂々と行う者が現れ、しかもその言動が一定の層に熱烈に支持されるという現象がままあります。おそらくそれは、同じネジを外した者同士が共鳴し合っているのではないかと思います。そしてそれが政治や経済の分野で発生すれば、ネジを外さないが故に他者とみなされた方々への差別的言動や公的機能を制限することを是とするようなポピュリズムへの道を開き、組織内で発生すれば、専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうのでしょう。震災時の連絡手段や情報収集手段として一気に普及したSNSの効果も相まって、こうした傾向がより鮮明になったのがこの11年だったのではないかと思うところです。